2015/08/30

河口湖カチカチ山

  2015年8月7日(金)に、朝から、バイクで出かけて、山梨県の、河口湖のすぐ横にある、「天上山公園 カチカチ山」へ行って来ました。 もう、随分、前ですが、≪勝手に観光協会≫というテレビ番組で紹介されたのを見て、以来、行ってみたいと思っていたのです。 「カチカチ山」というのは、ウサギがタヌキをやっつける、あの昔話ですが、場所が決まっていたとは知らなかった。



  6月頃には、7月に入ったら、すぐに行くつもりでいたんですが、7月になった途端、雨続きで出られず、ようやく、梅雨が明けたと思ったら、シュンが死んでしまって、それどころではなくなり、そちらが落ち着いたと思ったら、金魚が死んで、池の解体が始まり、また、それどころではなくなりました。 それが終わったら、今度は、父が暑さで参って、エアコンを付ける事になり、また、延期。 で、ようやく、何もかも終わって、行ける事になったという次第です。

  私の家からは、大した距離ではなく、事前に、ネットの「自動車ルート検索 NAVITIME」で調べたら、片道61キロで、1時間50分くらいで着くとの事。 ガソリンを満タンにしてあるから、無給油で往復できるはずです。 走る道の番号と、曲がる交差点の名前を書き出した、ルート・メモを、上着のポケットに入れて行きます。 夏は、近場なら、半袖シャツで出るのですが、今回は少し遠いので、通勤に使っていた春物のジャンパーを着て行きました。


  朝8時に、家を出発。 国道246号線を、長泉、裾野、御殿場と北上しました。 元通勤コースで、裾野市の北端まで行ったのですが、元勤め先の横を通ったら、驚いた事に、工場建屋が増設されていました。 リストラ同然に、300人も東北の工場に異動させておきながら、まさか、新入社員を入れて、人を増やしているんじゃないでしょうね? いや、やりかねませんな。 まあ、引退してしまった私には、もう関係ない事ですが。 今から、戻れると言われても、御免被ります。 だけど、退職に追い込まれて、他の会社に悪い条件で再就職した人は、これを見たら、憤懣やる方ないでしょうねえ。

  御殿場市に入ります。 毎日、裾野市の北端まで通勤していたので、休日に同じ道を走る気にならず、御殿場には、滅多に来た事がありません。 それでも、10回くらいは、来ていると思いますが、だだっ広いせいか、何度、来ても、風景を覚えられません。 「ぐみ沢」という交差点で曲がる予定だったのが、先に、「山中湖・富士吉田」の案内標識を見つけて、後から、交差点名を確認しました。 国道138号線に入ります。

  須走へ向かいましたが、曲がる予定の、「須走IC」交差点が見つけられず、「富士学校入口」交差点あたりで、うろうろした挙句に、須走の街の方へ行ってしまいました。 かなり、大回りして、富士吉田へ向かう道の案内標識を発見。 どうやら、有料道路を少し走らないと、「須走IC」交差点には着かないようです。 まあ、道が分かったから、良しとしましょう。

  籠坂峠へ。 ここを越えるのは、4度目でしょうか。 最近は、山梨へ行くというと、富士川沿いを通ってしまうので、こちらを通った回数は、少ないのです。 はっきり、覚えていませんが、中型二輪免許を取って間もない頃、原付のDT50で、富士山一周した時と、一台目のセローで、奥多摩湖方面へ行った時、それから、最初に、甲府の「遊亀公園動物園」に行った時の、3回だけではないかと思います。 ちなみに、もっと昔の、車を持っていた頃には、山登りに向かない、非力な軽だった事もあって、こちらの方へは、一度も来ませんでした。

  県境の籠坂峠を越え、山梨県に入ります。 籠坂峠は、須走から上がるにしても、山中湖へ下るにしても、全く大した距離ではなくて、時間的にも、すぐに着いてしまいます。 空いていれば、15分くらいでしょうか。 須走や山中湖自体が、標高が高いので、そこからだと、そんなに上がりはしないんですな。 その点、どんなに空いていても、一時間以上かかる箱根越えとは、スケールが、まるで違っています。

  山中湖畔に出ました。 ここで、9時40分。 1時間40分も走り詰めだったので、湖畔に出てすぐの所で、無料駐車場に停め、休憩しました。 散策路を、ぶらぶら歩きます。 山中湖畔というと、貸しボート屋が犇いていて、声をかけて来るので、乗る気がない場合、波打ち際に近づく事もできないイメージが強かったのですが、この散策路は、前から、あったんでしょうか? 私が知らなかっただけ? 小型犬3匹を散歩させている人とすれ違いました。 白いムクムクした毛の犬に手を振ったら、その後も、ちょこちょこ、こちらを見ていました。 10分くらいで出発。

1 籠坂峠
2 山中湖畔


  山中湖の西の端で、富士吉田へ向かう道に入ります。 この辺りは、ほとんど、道なり。 道路の北側に、「忍野八海」に入る道が三ヵ所もありましたが、この日は、寄る予定がありません。 富士吉田に入ると、ルート・メモの通り、道の北側にあった、マクドナルドと幸楽苑の間の道に曲がりました。 ガードを潜り、「富士吉田警察署前」の交差点を左折して、西に向かいます。 道の南側に、ブック・オフを見つけましたが、寄る気はありません。 遠くに、ジェット・コースターが幾つも見えます。 富士急ハイランドでしょう。

  そのまま進み、富士河口湖町に入ります。 富士吉田市も、富士河口湖町も、頭に、「富士」が付いていますが、富士吉田市の方は、よその吉田と区別する為、そうしているもの。 一方、富士河口湖町の方は、富士山の近くである事を強調する為で、付けられた理由が違います。 平成の大合併以前は、中心部は、ただの、「河口湖町」でした。 

  やがて、「船津三叉路」という交差点に出ました。 ランド・マーク風の、ちょっと、特徴がある交差点です。 そこを右に曲がり、北上すると、すぐに、「河口湖通り」に入りました。 湖に沿った道ですが、商店街になっていて、妙に派手。 派手という言い方が悪ければ、妙に賑々しい雰囲気があります。 左手の湖畔には、無料駐車場が見えました。

  無料駐車場を少し過ぎた所で、山側に、「カチカチ山ロープ・ウェイ」の乗り場が見えました。 凄い急坂の上にあります。 しかし、予め、ネットで調べて、ハイキング・コースもある事を知っていたので、ケチな私は、そちらを選びました。 その前に、念の為、湖畔の無料駐車場も確認したのですが、バイク置き場はないようでした。 空いた所に停める事もできそうですが、すごい人出なので、こんな所にバイクを何時間も置いておくのは、気が進みません。 できれば、ハイキング・コースの登り口に近い所に停めたいものです。

  ネットで調べた現地の地図を、うろ覚えしていて、ロープ・ウェイの南側に、もう一本、ハイキング・コースの入口に至る道があるはずだと思い、それらしい路地に入って行くと、こちらも、凄い急坂。 その後、山腹を横に進む道路になり、やがて、地図で見た覚えがある、護国神社の前に出ました。 ここら辺に、ハイキング・コースの登り口があるはずなのです。

  道路脇にスペースがあったので、その隅に、バイクを停めました。 道路そのものではないから、駐車違反になる心配はありません。 車でも、どうせ、一台分しか停められないから、それだけのゆとりを残しておけば、問題ないでしょう。 ここで、10時半。 自動車ルート検索では、1時間50分という事でしたが、2時間半もかかりました。 このズレは、渋滞と、ロストと、休憩のせいでしょう。 家からの距離は、66キロ。 ルート検索では、61キロでしたから、5キロも多いです。 距離のズレは、原因不明。 まあ、いいか。 上着を脱いで、ナップ・ザックに入れ、登山の準備を整えます。


  まずは、護国神社へ。 敷地が狭過ぎて、普通の神社のようではありません。 社殿は、鉄筋コンクリートで、展望台も兼ねている造り。 引き戸を開けないと入れないようだったので、とりあえず、そこはパス。 手水舎の水の出口が、龍の形になっていましたが、こういうのは、蛇口ではなく、龍口というのでしょうか。

  ここの境内からも、河口湖が見下ろせて、結構、いい眺めなのですが、後から考えると、まだまだ、序の口でした。 ベンチが、3基置いてあり、全て鎖で繋がれていました。 なんだか、囚人か奴隷のような趣きです。 いくら脚があっても、ベンチが自分で逃げる事はないわけですが、こんな山の中にある神社から、ベンチを盗んで行く奴がいるんですかね? いや、理由もなしに、無粋な鎖なんか付けないだろうから、実際に、盗難事件があったのかも知れませんな。

1 護国神社の石段と鳥居
2 社殿(左)/手水舎の龍口(右)
3 鎖で繋がれたベンチ


  護国神社のすぐ横にある、ハイキング・コースの方に向かいます。 登り始めてみると、ハイキング・コースとは言いつつも、結構な山道でして、心臓がやばくなるところでした。 「アジサイ散策路」と名づけられている通り、8月だというのに、まだ、アジサイが咲いていて、「標高が高いのだなあ」と思いましたっけ。

  途中、「ナカバ平展望広場」という所に、太宰治の石碑があり、読んでみたら、太宰の小説「御伽草子」の中に、カチカチ山のパロディーがあって、その作品が、この付近の山を舞台にしていた関係で、カチカチ山になったのだと書いてありました。 なんだ、伝承があったわけじゃないのか。 まあ、いいですけど。

1 もろ、山道
2 8月の紫陽花
3 太宰治の石碑


  11時頃、ロープ・ウェイの終点にある、「カチカチ山展望台」に、裏側から、到着。 平日なのに、人出が多いと思ったら、ほとんどが、外国人観光客でした。 中国語と英語が、半々くらい。 こんな、日本人でも知らないような観光地を、どういう経緯で知ったんでしょう? 富士山観光のパンフにでも、載っているんでしょうか? 河口湖は、富士五湖ですけど、富士山そのものとは違うような気がするんですがねえ。

  「カチカチ山展望台」には、展望台を兼ねた建物が建っていて、飲食店などが入っています。 展望台に上がると、西に河口湖が見えます。 標高、1075メートルですが、河口湖畔でも、865メートルありますから、湖畔からだと、200メートルくらいの高さです。 それにしては、ちょっと驚くくらいの、ダイナミックな景色。 南には、富士吉田の街が見えます。 富士山も、ドーンと見えるはずなのですが、この日は、雲がかかっていて、上半分は見えませんでした。

1 カチカチ山展望台
2 河口湖方面
3 富士吉田方面と、見えない富士山


  しかし、私は別に、富士山を見に来たわけではないから、問題なし。 展望台には、≪勝手に観光協会≫に出て来た、ウサギとタヌキの、カラフル&コミカルなオブジェがあり、それを見れたので、満足です。 このオブジェ、誰が造形したのか分かりませんが、大変、よく出来ていて、子供でなくても、楽しい気分になります。 ここだけに置くのでは、勿体ないくらい。

1 タヌキを懲らしめる方法を思案するウサギ
2 タヌキに背負わせた薪に火を点けるウサギ
3 タヌキの火傷に辛子を塗り込むウサギ


  この山の正式名称は、「天上山(てんじょうやま)」で、展望台の、ちょっと奥に、頂上がありますが、森の中なので、眺望は、そんなに、よくありません。 更に、奥に行くと、「三ツ峠」という山に至るらしいですが、そちらへ向かう道に行ってみたら、誰もいませんでした。 11時半まで、進んでみて、そこで、引き返しました。 路傍に転がっていた丸太に座り、家から持ってきた、おにぎりで、昼食。 家から遠く離れ、他に誰もいない山の中で、おにぎりを食べていると、解放感と惨めさが入り混じったような、奇妙な気分になります。

  飲み物は、家から、水を持って行きました。 昔は、ツーリングに出たら、行った先で、缶入りの炭酸飲料を買って飲むと決めていて、それが、ケチな私の、精一杯の散財だったのですが、歳を取ったら、ますます、ケチになり、もはや、水で充分と思うようになりました。 500ccのペット・ボトル、二本分。 一本には、口を着け、もう一本は、入れ替え専用。 帰ってから、容器を洗う手間を少なくする為です。 とことん、しみったれている。

  昼飯を食べた時に、一本目を飲みきって、水を入れ替えました。 この日は、無理をせず、カチカチ山だけ見て、真っ直ぐ帰るつもりでしたから、水をケチる必要はありません。 尿意あり。 森が深くて、直射日光を浴びていないせいか、汗は、それほど掻いておらず、その分、尿になっているのかも知れません。 ただ、心臓には、少し負担がかかっているようで、僅かですが、圧迫感があります。

1 三ツ石峠へ向かう道の入口
2 天上山山頂より奥の道
3 しょぼい弁当


  来た道を引き返し、カチカチ山展望台へ戻ります。 ロープ・ウェイの発着場を、横から見ていたら、その内、ゴンドラが上がって来ました。 ゴンドラの上に、うさぎのオブジェがあり、二羽で小判を積んだ籠を担いでいます。 カチカチ山と、どういう関連があるのか分かりませんが、おめでたいと言えば、おめでたい感じ。 どっと、人が下りて来て、私がいる方へやって来たので、少なからず、うろたえました。 私は、下りた客が展望台に上がる通り道に立っていたんですな。 知らなかった。 下りて来たのは、ほとんど、外国人でした。 この時は、欧米系が半数以上。

  後は、アジサイ散策路を引き返しました。 下りだから、体は楽です。 後ろから、速いテンポの足音が迫り、疲れていて、引き離す気にもならなかったので、脇にどいて、道を譲ったところ、抜いて行ったのは若い女性でした。 服装は普通で、単独でしたが、山ガールなのかも知れません。 山ガールの運動能力は侮れず、体重が軽い割に、スタミナがあるので、険しい山道でも、ぐんぐん進んで行きます。 その人は、ナカバ平で休憩したので、こちらが、また先に行く事になりました。 「また抜かれたら、嫌だな」と思っていましたが、護国神社までは、追いついて来ませんでした。 向こうも、二回抜くのは、嫌だったのかも知れません。

  護国神社で、トイレを使おうと思っていたのですが、扉がドア・ノブ式だったので、入りませんでした。 だから、公衆トイレで、ドア・ノブ式は、駄目だって。 手を洗った後に、ノブに触ったら、また、汚れてしまうではありませんか。 引き戸の方が、まだ、対応策があります。

  トイレは諦め、社殿の展望台に上がってみましたが、やはり、山の上の方と比べると、大した高さではありませんでした。 しかし、近所に住んでいる人が、散歩に来る分には、いい所だと言えます。 上に上がって初めて、外側にも階段が付いている事に気づき、そちらから下りました。 これなら、建物の扉が閉まっていても、展望台には上がれるわけだ。

  12時45分頃に、バイクに戻りました。 2時間15分、留守にしていたわけですが、バイクは、無事でした。 これが、車なら、車まで戻って来れば、「ああ、これで、後は、座って帰れる」と、ほっとするものですが、バイクでは、帰りも、心身ともに、緊張が続くので、楽とは言いかねます。 だけど、もし、車だったら、そもそも、沼津から、ここまで来ないと思います。 ガソリン代が勿体なくて・・・。


  バイクに乗って、下って行くと、さっきの、山ガールが歩いていました。 私が出発準備をしている間に抜かれたようです。 また、抜き返します。 こちらは、バイクですから、もう二度と、抜かれる事はありません。 虚しい勝利ですが・・・。 途中で、ロープ・ウェイ始点の、発着場が見えましたが、搭乗待ち客が、ぎっしり詰まっていました。 昼過ぎとはいえ、まだ、時間が早いから、別に不思議ではないのですが、平日ですから、たぶん、みんな、外国人なのでしょう。

1 ゴンドラとウサギのオブジェ
2 ロープ・ウェイ始点
3 河口湖通りから見上げたロープ・ウェイ乗り場


  後は、元来た道を、素直に戻りました。 「富士吉田警察署前」の交差点で、うっかり行き過ぎてしまい、歩道に入って、向きを変え、交差点へ戻りました。 展開禁止の道路でも、一度、歩道なり、店の敷地なりに入って出て来れば、合法的に方向転換が可能です。 ガードを潜り、マグドナルドと幸楽苑の間で、左折。 山中湖へ。 山中湖では、巨大なアヒル形の船が疾走しているのを見ました。 路肩に停車して、撮影します。 すぐに、アヒルではなく、白鳥だと気づいたものの。 顔つきは、妙に愛嬌があって、アヒルっぽかったです。

  籠坂峠を越え、静岡県に戻ります。 1時半頃、「道の駅 すばしり」に寄りました。 ここで、ようやく、トイレにありつきます。 道の駅のトイレは、どこもそうですが、広くて、快適。 バイクの所へ戻ると、駐輪場近くにあるトンネルから、犬を連れた人が出て来ました。 どうやら、ドッグ・ランがあるようです。 行って見ましたが、誰もいませんでした。 広さは、大したものではなく、小型・中型犬用だとの事。 糞尿の始末をするようにと、注意書きに書いてありました。

1 山中湖の白鳥船(アヒル船?)
2 道の駅 すばしり
3 道の駅の駐輪場


  空は、曇って来て、雷が鳴っていました。 雨を恐れたものの、まあ、貴重品をビニールに入れるのは、降り出してからでもいいでしょう。 1時45分頃、出発。 道の駅の駐車所にあった、「御殿場方面」と書かれた案内矢印に従って走ったら、有料道路の上に出てしまって、ビックリ! ヒヤヒヤしながら進んだところ、料金所はないまま、一般道へ下りて、ほっとしました。 まあ、当たり前ですが。 道の駅に寄っただけ、料金を取られたのでは敵いません。

  標識に従って、138号へ入りました。 その後も、標識を頼りに、246号へ戻ります。 246号は、昼下がりなのに、かなり、混んでいました。 裾野まで来てしまえば、後は、通勤に使っていた道と同じなので、緊張感が、ぐっと薄くなります。 3時頃、家に到着。 帰りは、2時間15分くらい、かかった事になります。 走行距離は、往復で、130キロでした。 帰りだけだと、65キロで、行きと、ほぼ同じ。

  すぐに、風呂に入りましたが、頭がぼーっとしてしまい、どうも、熱中症にかかったようです。 やはり、この時期のツーリングは、暑さ的に厳しいのか・・・。 いや、登山の方がこたえたのかも知れません。 向こうに着くまでは、何でもなくて、帰り道の途中から、調子が悪くなって来ましたから。 その日は、早く眠り、翌朝は、9時くらいまで目覚めませんでした。



  バイクで、100キロを超える距離を走ったのは、去年の6月に、岩手から、撤退して来た時以来です。 片道、2時間程度のツーリングなら、まだ何とか、こなせる事が証明できたものの、疲れを感じたのも確か。 やはり、引退生活に入ると、体が衰えて、働いていた頃のようには、活発に行動できなくなるもののようです。

  今回のツーリングは、バイクの任意保険を、あと一年、更新するかどうかのテストも兼ねていたのですが、最大の敵は、暑さであって、ツーリング自体には、問題がない事が分かったので、更新する事にしました。 次は、8月の終わり頃に、どこかへ行く予定です。 一ヵ月に一度くらいのツーリングなら、ガソリン代も、大した金額にはならないですから。


  それはそれとして、撮って来た写真を見返していると、なまじ、寄り道をしなかっただけに、シンプルな旅行になり、少し、物寂しい感じもします。 寄り道を、「しなかった」のではなく、体力的・精神的に、「できなかった」のかも知れません。 たまには、遠くへ足を延ばすのも悪くないですが、やはり、若い頃と同じようには行きません。 「いつか、また来るかも知れない」とは思えなくなり、「もう、二度と来れないだろう」とばかり、感じるのです。 人生の後半とは、こういうものだったんですな。

2015/08/23

父の部屋にエアコン

  クソ暑い・・・。 汚い言葉で恐縮至極ですが、それが分っていて、尚、「クソ暑い・・・」と言いたくなるから、どれだけ暑いか、分かっていただけようというもの。 夏は、元々、暑いものですが、生命の維持に関わるほど暑くなったのは、ここ5・6年の事です。 私の記憶では、確か、2010年から、猛烈な暑さになったような気がします。

  ほんのちょっと前までは、夏と言ったら、若者の季節で、「今年の夏こそ、素敵な出逢いと、めくるめく恋を・・・」などと、気合いを入れて、水着や下着を買い直す人も多かったわけですが、こうと暑くなっては、発情どころではありますまい。 もっと前だと、「夏だ! サザンだ! チューブだ!」なんて、萌え上がっていたわけですが、今では、隔世の感あり。 夏で、はしゃぐ神経が信じられません。 「この暑いのに、何を喜んでるんだ? アホちゃうか?」と思ってしまいます。

  そういや、「世界でいちばん熱い夏」なんて歌もありましたが、ありゃ、命に関わる暑さというのが、どういうものなのか分からなかったからこそ、作れた歌なんでしょうなあ。 ここ5・6年のように、熱中症で倒れ、お陀仏する人が増えてしまっては、あの曲をかける事自体が憚られるようになりました。 

  わざわざ、浴衣を着て、花火を見に行く奴らも、気が知れない。 夜になったって、気温なんて、なんぼも下がらないんだから、浴衣なんか着たら、暑さを増幅するだけです。 浴衣というのは、一見、涼しそうに見えますが、その実、そう見えるだけでして、首から足首まで、すっぽり覆ってしまうから、風が通りませんし、前側は、布が合わさって、二重になるから、ますます熱が籠ります。 何も、理由もなしに、着物を着る人がいなくなったわけじゃないんだよ。 今の服というのは、それだけ、合理的に出来ているわけだ。

  暑いのに、花火というのが、また分からん。 だって、「火」だよ。 ますます、暑いわ。 大体、花火大会なんてーのは、子供の頃に一回見にいけば、それで充分で、何度も行くような面白いもんじゃないですよ。 私なんか、尺玉以外は、何を見ても感動しなくなって久しく、いつ上がるか分からない尺玉を待ってられないので、端から行かなくなってしまいました。 スター・マインなんて、何が面白いのか、全く分からん。 型物に至っては、子供騙しとしか思えない始末。

  人混みも、嫌ですねえ。 一人でいても、暑くて仕方ないのに、他人と肩を擦り合わせて歩くなんて、ぞーっとします。 祭りの露店に興奮している諸兄よ、少しは大人になりなさい。 あれは、子供向けの店だ。 見りゃ、分かるだろうに。 いい歳こいて、チョコバナナなんて買って、喜んでんじゃないよ。 ついでに、露店の売り上げの一部が、暴力団の資金源になっている事も、大人だったら、知っていてしかるべきでしょう。 私は、高校時代に、そういうシステムになっている事を知って以来、露店に全く近づかなくなりました。 なんで、一般市民が、ヤクザを儲けさせねばならんのよ?

  なんだか、書いている当人ですら見過ごせないくらい、著しく脱線していますな。 つまりその、「昨今の夏は、耐え切れないほど、暑い」という事が言いたかったのです。 この暑さで、マジで、5年後に、オリンピック、やるんですかね? 想像もつきません。 選手、スタッフ、観客を問わず、熱中症患者が、続々と救急車で運ばれる様子だけは、いとも容易に想像できます。 医療関係者は、トリアージの訓練が必要ですな。 どちらか一人しか助けられないという場合、やっぱ、選手が優先になるんですかね?




  以上は、話の枕。 ここから、本題に入ります。 7月11日にシュンが死に、家の中に死の気配が濃厚に漂っていた頃、高齢の父が、暑さで参ってしまうのが心配になり、「そろそろ、父の部屋にエアコンを付けた方が良いだろう」と思ったところから、話が始まります。

  例年、父は、夏になると、昼間の暑い時間帯は、二階の自室から下りて来て、一階の旧居間で、昼寝をして過ごしていたのですが、今年は、7月半ばになっても、その姿が見られず、「高齢者は、暑さを感じ難くなる」という、テレビ番組で聞いた話が念頭に浮かんで、心配していたのです。

  ちなみに、2年前の事ですが、旧居間で昼寝する父の為に、私が探して来て、冷風扇を置いたのですが、これは、全く期待外れの製品で、扇風機よりも、涼しくなりませんでした。 同じ年に、クール・スカーフも用意しましたが、父が着けていたのは、ほんの僅かの期間で、何が気に入らないのか、すぐにやめてしまいました。 アイスノンを枕にして眠れば、だいぶ違うんですが、タオルで包んでも尚、かなり、ゴツゴツするので、誰にでも薦められる方法ではないです。

  つまりその、私は、今までにも、エアコン嫌いの父が、無事に夏を乗り切れるように、いろいろと、心を砕いて来たわけです。 その事は、分かっていただきたい。 「エアコンを付けろ」も、もう、十年以上前から、毎年のように言って来たのですよ。 全然、聞き入れてもらえなかっただけで・・・。 以下、日記から、エアコンに関する部分だけ移植して、加筆修正したもの。



≪2015年7月16日(木)≫
  夕飯は、やきそばでしたが、父は、半分くらい残しました。 だいぶ、弱っているようです。 エアコンを買ってやりたいのですが、筋金入りのエアコン嫌いだから、使わないかも知れませんなあ。


≪2015年7月17日(金)≫
  ネットで、窓用エアコンを調べました。 大体、3万円くらい。 自分で設置できる点はいいのですが、独特の騒音があるらしいです。 これがもし、私の部屋に付けるのであれば、暑ささえ凌げるのなら、多少の騒音は我慢するところですが、父の部屋となると、そうも行きません。 「うるさい」という理由で、スイッチを切られてしまっては、元も子もありませんから。


≪2015年7月18日(土)≫
  朝起きるとすぐに、ベランダに出ました。 メジャーを持って行って、父の部屋の、東側の窓の縦幅を計ったら、70センチしかありませんでした。 窓用エアコンの、最小縦幅は、77センチくらいですから、これでは、付けられない事になります。

  となると、普通のエアコンという事になります。 父の部屋の外に、室外機を置く場所があるか調べました。 隣の母の部屋は、エアコンが設置済みで、その室外機が父の部屋との境にある関係で、ベランダの上には、他に場所がありません。 父の部屋の東側に、改築して付けた、広さ四畳ほどの物干し台があるのですが、それ自体、一階の屋根の上に乗せてあるだけの不安定な物なので、その上に室外機を置くのは、危ない感じがします。

  室外機を、金属製の棚を使って、二階建てにしている家を、たまに見るので、母の部屋の室外機の上に、載せてしまうという手が使えるかもしれません。 棚の代金は、別にかかると思いますが、他に置ける場所がないから、致し方ありませんな。 一応、その線を当てにしておきます。

  週末の事とて、ごっそり入って来た、新聞の折り込み広告を見ます。 とある家電量販店で、冷房専用機が、工事費・税込みで、42984円で出ていました。 それより、安い品はないようです。 早速、その機種を、ネットで調べてみたところ、冷房専用機は、夏しか使わないせいで、壊れ易いとの事。 レビューの意見ですから、鵜呑みにはできませんが、エアコンは壊れると、処分が厄介なので、慎重にならざるを得ません。

  夕方、父に、エアコンの事を話しに行きました。 お金は、私が出すと言ったのですが、電気代がどうの、関節が痛くなるからこうのと、頑強な抵抗に遭い、最終的には、付けないという事になりました。 うーむ、手強い。 それでも、無理やり、付けてしまった方がいいかも知れません。 父は、「今まで、それでやって来たんだから」と言っていましたが、だーから、昨今の夏は、昔とは暑さが違うんだって。


≪2015年8月3日(月)≫
  朝、8時頃ですが、母が私の部屋に来て、父が朝から、旧居間で寝ていると言うので、慌てて、下りて行ったら、父が、畳の上に横になり、冷風扇に吹かれて、ぐったりしていました。 ここ数日、昼も夜も、殺人的な暑さでしたから、もう、熱中症以外に考えられません。 意識は、はっきりしていて、会話は可能。 頭がクラクラするような事はないが、体がだるいと言います。 とにかく、冷やさなければなりません

  幸い、旧居間は、床の間と続きで、人寄せ用の部屋として作られたので、家を建てた時に、エアコンを付けてありました。 このエアコン、年に一度、お盆に、お寺の住職がお経を上げに来る時だけ使われて来たのですが、なぜか、37・8年も、故障知らず。 今日も、スイッチを入れたら、ちゃんと、動きました。 父が、「寒い」というので、温度を調節し、最終的に、29℃くらいで、安定しました。 29℃というと、ほとんど、涼しさを感じませんが、部屋の外は、33℃以上あるわけで、体への負担は、かなり違います。

  旧居間にある、年代物のエアコン、「National 1000DX」。 家具調の木目柄になっています。 本体に主電源スイッチがあり、それを入れてから、リモコンの方の電源を入れるのですが、リモコンと言っても、太いコードで本体と繋がっています。 そういえば、これは、冷房専用機ですな。 


  ちなみに、二階にある父の部屋は、昼間は、35℃を超え、夜でも、30℃以下にはなりません。 私の部屋は、西側なので、若干、気温が低いですが、まあ、大差ありません。 母の部屋だけは、エアコンが付けてあり、母は、昼は居間でエアコンを使い、夜は自室でエアコンを使い、少なくとも、寛いでいる時には、暑い思いをしていない事になります。

  とりあえず、父を涼しい部屋で寝かせておいて、万一の場合を考えて、兄の家に電話をしました。 兄嫁が出て、兄は仕事中で、午後2時か3時に帰って来るとの事。 兄と直截話す必要もないので、父の調子が悪いから、なるべく早く、会いに来てくれるようにと、伝言を頼みました。 ちなみに、兄は現在、ルート配送の仕事をしていて、休みの日とか、勤務時間とかは、こちらには、全く分かりません。

  私は、何度も、父の部屋にエアコンを付けるように主張して来たのですが、「エアコンは、体に悪い」と信じ込んでいる父を説得できず、毎回、失敗して来ました。 しかし、今日のような事態になっては、もう、父の許可など待っていられないので、私が自腹を切って、エアコンを付けてしまう事にしました。

  言うまでもなく、エアコンが、どんなに体に悪かろうが、それを使わずに、暑さで死ぬよりは、一億倍、体にいいです。 馬鹿馬鹿しい。 「石田光成の柿」ではありませんか。 いやね、石田光成には、関が原の戦いで負けた後、捕らえられて、刑場に引かれて行く道すがら、「喉が渇いただろう」と、柿を勧められたのに、「柿は体に悪い」と言って、断った逸話があるのです。 これから死ぬというのに、健康を心配していて、どうする?

  近所の電気屋さんに電話したところ、夕方には部屋を見に来ました。 水曜日には、工事ができるとの事。 私もそうしたかったし、向こうにも薦められたので、一番安いタイプにしました。 高いタイプというのは、自動掃除機能が付いている奴で、うちにも、居間にあるのが、それなのですが、掃除時間が異様に長く、どう考えても、年に一度、手動でフィルターを洗った方が、得だと思わせてくれます。 そんなの、いらんいらん。 ちなみに、そのメーカーには、冷房専用機はなくて、迷う必要もなく、冷暖房機になりました。

  しかし、一番安いタイプであっても、総費用は、10万円だとの事。 室外機を、母の部屋のと二階建てにする関係で、その棚の代金も加算されているのですが、それにしても高い。 冷暖房機であっても、家電量販店なら、工事費込みで、6万円くらいなんですがねえ。 だけど、家電量販店に頼むと、どんな人が工事に来るか分からないから、不安なのです。 その点、近所の電気屋さんなら、私が生まれる前から、私の家を知っているわけで、中に入られても、抵抗感がありません。

  なーに、それで、父の寿命が何年か延びると思えば、10万円くらい安いものです。 今日の一件で、父も、エアコンは使い方次第で、大変な利器になる事が分かったのではないでしょうか。 命を救ってくれるのですから、電気代には代えられません。 水曜に、エアコン工事が終わるまで、父には、旧居間で寝起きしてもらう事になりました。 その間、旧居間のエアコンは、設定温度29℃で、点けっ放しになります。


  ところで、結局、今日、兄は来ませんでした。 母が、何を勘違いしたのか、兄夫婦が客として訪ねて来ると思い込んで、遅くまで、居間で粘っていました。 「来るとしても、兄貴だけで、嫁さんは来ない」と言ったら、拍子抜けしたような顔をしていました。 危篤ならいざ知らず、ただ体調が悪いくらいで、嫁さんが来ても、仕方ありますまい。 兄は、息子だから、話は別ですが。 それにしても、母は、変な人です。 父の命より、兄夫婦をもてなす事の方が、重大事だと思っているのは、呆れた話。 父が死んだら、どれだけ面倒な事になるか、想像した事もないのでしょう。


≪2015年8月4日(火)≫
  父の様子ですが、昨日よりは、幾分、元気になりました。 朝方、兄本人から電話があり、私が事情を説明したところ、それほど、切迫した容態ではないという事で、家に来るのは、お盆という事になりました。 兄は、今日、休みだとの事。 そんなに遠くに住んでいるわけではないのですから、顔を見に来るくらいできると思うのですがね。 しかし、私としては、一応、連絡の責任は果たしたから、否やはありません。


≪2015年8月5日(水)≫
  朝、早く起きて、父の部屋で、ベッドを移動し、エアコン工事のスペースを確保しました。 父も立ち会って、少し、手伝ってくれましたが、やはり、力強さはありません。 長い事、掃除していなかったようで、ベッドの下は埃だらけ。 掃除機で吸い取りながら、ベッド下の大きな引き出しを外し、ベッドの位置をずらしました。 六畳間だから、ずらしても、出来る空間は知れているのですが・・・。

  8時から、電気屋さんが来て、工事開始。 私が子供の頃、すでに大人だった年配の人ですが、今でも現役で、ピンピンしている感じ。 働いている人は、生気が違うようです。 奥さんも来て、二人で協力して、働いていました。 頻繁に、作業手順について会話して、大変、息が合っています。 こういう夫婦を見ると、結婚している人が羨ましいと感じます。

  8時には、すでに、猛暑で、ベランダなんか、灼熱地獄の様相。 父の部屋にあった扇風機を全開にしておきましたが、焼け石に水だったでしょうなあ。 家人が見ていると、作業がやり難いですし、私自身、暑くて仕方がないので、母がエアコンを点けている居間で、待っていました。 父は、旧居間で、年代物のエアコンを点けて、寝ていました。

  途中、母が、冷蔵庫で冷やしてあったアクエリアスのペット・ボトルを渡しに行きましたが、あの暑さですから、500ccくらいでは、とても足りないのではないかと思いました。 「電気屋のおじさんが暑さで倒れてしまったら、とりあえず、どの部屋に寝かせよう?」などと、余計な心配をしていましたが、何と言っても、相手はプロでして、そんな事にはなりませんでした。

  11時半頃には、工事終了。 リモコンの使い方を教わり、10万円支払って、エアコン設置計画は、無事、完了しました。 電気屋さんが言うには、28℃か、29℃といった、高い温度で、点けっ放しにしておいた方が、健康上も、冷房効率上も良いとの事。 タイマーが付いているものの、夜中に消えたりすると、そこから、気温が上がって、朝までに、熱中症になってしまうのだそうです。

  ここ最近の夏場は、夜も昼も、気温が下がる時がないのであって、一日中、エアコンを点けているしかないのかも知れません。 消してもいいのは、せいぜい、朝4時から、7時くらいの間でしょうか。 人間の為というより、エアコンを休ませる為ですが。

  とりあえず、これで、父が、暑さで死ぬ危険性は低くなったのですが、それでも尚、ここ半年ばかりの急激な老け込み方を見ると、まだまだ、安心できないと思うのです。 つい、こないだ、シュンで経験したように、生き物は、無限に生きられるわけではないですから。


≪上≫ 父の部屋に取り付けられた新品のエアコン、「Panasonic CS-225CF」。
≪下左≫ 二階建ての室外機。 上が、新しい方。
≪下右≫ リモコン。 エアコンは、室温管理や運転の都合で、マイコン制御されている部分が多く、説明書に従って操作しても、その通りの動作をしてくれない事があります。 高齢者がエアコンを嫌うのには、そういう事情もあるのではないかと思います。


≪2015年8月6日(木)≫
  今日は、これと言って、事もなし。 父は、エアコンを最高温度の30℃にして使っていたのですが、まだ、寒いというので、除湿にして、風量を、一番小さくしてみました。 それでも寒いのなら、切ったり点けたりしてもらうしかありません。


≪2015年8月8日(土)≫
  父は、エアコンを使っている様子。 点けたり消したりでもいいから、暑いと感じた時だけでも使ってくれれば、全然、違うと思うのです。 そのつど、私が行って、点けろと指図していられませんから。 ちなみに、父がエアコンを使っているかどうかは、ベランダで、水が出ているかどうかを見れば分かります。

  一方、私は、扇風機、クール・スカーフ、アイスノンが頼りです。 夜も昼もなく、一日中、暑いというのが、困りもの。 昼間は、「夜になれば、涼しくなる」と期待し、夜は、「朝になれば、涼しくなる」と期待しているのですが、朝になっても、少し気温が下がる程度で、涼しくはなりません。

  家にいる時は、暑さを凌ぐアイテムがあるわけですが、外までは持って行けないので、天気がいいのに、出かけられないのが、悔しいです。 せっかく、毎日が日曜日だというのに。


≪2015年8月18日(火)≫
  父が暑さで体調を崩し、私が、兄の家へ電話したのは、8月3日でしたが、それから、二週間と一日経って、ようやく、今日、兄夫婦がやって来ました。 父の姿を見て、「割と元気で、良かった」と言っていましたが、兄が家に来たのは、一年ぶりくらいで、一年前の父と、今の父では、様変わりしているのに、そんな感想が出るとは、意外でした。 私が初めて電話などしたので、「死ぬ寸前」くらいに思い込んでいて、それにしては、自力で歩いているから、「割と元気」だと思ったのかも知れません。

  しかし、「死ぬ寸前」だと思っていたら、半月も遅れて来ないような気がせんでもなし。 私が電話した日の翌日は、兄は休日だったわけで、来ようと思えば、その日に、2時間くらい割けば、家まで往復できたはずなんですがね。 今日の、兄の話を聞いていた限りでは、どうも、当事者意識に欠けているようで、他人事のような喋り方でした。 実の息子であっても、離れて暮らしていると、肉親の情は薄くなるのかも知れませんな。 いや、そもそも、父と兄が親しく話をしている姿なんて、過去に一度も見た事がありませんが。



  以上が、父の部屋にエアコンを取り付けた顛末です。 父は、エアコンを使うようになってから、目に見えて、元気を回復しました。 言葉がはっきりして来ましたし、昼食や夕食に、居眠りして遅れる事も減りました。 暑さというのは、限度を超えると、本当に、健康に悪いんですなあ。 今、うちの中で、最も、暑さに参っているのは、この私です。

  とはいえ、父が、一年前あたりと比べて、衰えた事は、否定のしようがありません。 エアコンで、今年の夏は乗り切れたとしても、来年の夏までもつかどうか、怪しいところです。 8月11日には、お寺の施餓鬼に行き、私もついて行ったのですが、父を見た親戚のおばさん達が、父に対して、介護ヘルパーのような気の使い方をしていたのが、印象深かったです。

  他にも、父の話では、近所の人に、「どなたでしたっけ?」と訊かれる事が続いているのだとか。 昔からの知り合いなのに、父が痩せ細ってしまったせいで、顔が分からなくなっているんですな。 父が変わっていないと思っているのは、母と兄だけ、という事になります。 二人とも、現実から、目を背けようとしているのだと思うのですが・・・。 私としては、いつ何が起こってもいいように、覚悟をしておくしかありません。

2015/08/16

灼熱の解体

  悪い事というのは、固まってやって来るものらしく、7月11日に、犬が死んだと思ったら、20日には、庭の池に、たった一匹残っていた、金魚が死んでしまいました。 まるで、犬が死ぬのを待っていたかのようです。 密かに、対抗していて、「石に齧りついてでも、犬より先には死なんぞ」と頑張っていたんでしょうか? いや、池の中から、家の中の様子なんて、見えやしないんですがね。

  この金魚は、犬より先輩で、1996年か、97年に買って来たので、享年18歳か19歳だった事になり、金魚としては、長命な方だったと思います。 父の話では、前日に、エサをやった時には生きていたらしいのですが、20日の朝、母が見たら、横腹を上にして浮いていたとの事。 亡骸は、庭に穴を掘って埋めましたが、大きくて、小ぶりの鯛くらいありました。 私が金魚屋で買って来た時には、5センチくらいだったのですがねえ・・・。


7月15日の朝、存命中、最後に撮った金魚の写真。


  魚の場合、犬とは、人間との距離が違っていて、喪失感はあるものの、そんなに、大きなショックはありません。 むしろ、家の中で、死が続く事の方が、恐ろしいです。 単なる偶然だとは思うのですが、どうも、動物では止まらずに、人間が誰か死ぬのではないかと、嫌な予感がしてしまうのです。 両親とも、もう、いい歳なので、夏の暑さで、参ってしまう恐れがなきにしもあらず。 特に、エアコン嫌いの父が、危ない。 何度も、付けろと言っているのですが、頑として付けないのです。 私が、無理やり付けたとしても、たぶん、使わないでしょう。


  この池は、元は、父が、錦鯉を飼っていたもので、大きさは、幅2500ミリ×奥行1800ミリ×高さ700ミリの枡形をしています。 家を建て替えた直後ですから、かれこれ、35年くらい前に、父が自分で、コンクリート・ブロックを積んで、作ったもの。 鯉は、それ以前から飼っていて、ブロック製の池を作ったのも、二度目。 そのせいか、とても、素人の手とは思えないような、しっかりした作りでした。

  最も多い時には、15匹くらい錦鯉がいたのですが、少しずつ減り、最後の10年くらいは、「銀ちゃん」という名の、一番大きな銀色の錦鯉と、今回死んだ金魚の2匹だけが暮らしていました。 銀ちゃんは、2013年の10月18日に、40歳くらいで死に、それ以降は、金魚1匹だけでした。 金魚を買って来たのは私ですが、池の管理は父がしていたので、エサやりや、水の入れ換えは、引き続き、父がしていました。

  金魚がいなくなって、もはや、池は不要になり、解体する事になったのですが、父はもう、年老いてしまって、そんな大仕事ができないので、自動的に、私にお鉢が回って来ました。 実は、私は、この日が来るのを、前々から恐れていて、池を壊すのに悪戦苦闘し、腕や腰など、体のあちこちを悪くして、「こんな事、できないよ~! 死んじまうよ~!」と、ヒーヒー悲鳴を上げる自分の姿を、悪夢で見るほどでした。 前の池を父が壊した時に、果てしなく長い時間と、極まりなく夥しい手間をかけていたのが記憶にあり、「あああ、あんな事だけは、やりたくない」と思っていたのです。 しかし、最後に残った金魚が、私のものだったので、「自分が作った池じゃないから、知らない」とも言い難い立場でした。

  魚がいなくなった池は、ただの水溜りでして、蚊が湧くだけで、大変、不衛生な存在となります。 また、さして、広くもない庭ですから、デッド・スペースを放置しておくのも、勿体ない話。 水を抜いても、池のままでは、中に入るのにも、踏み台が必要で、何かを置く事もできません。 

  で、金魚の埋葬が済んだ後、早速、手動ポンプとホースで、水を抜きました。 まるまる半日かかったから、水の量は、浴槽の比ではありません。 ようやく、水深が、2センチくらいまで減ったので、長靴を履いて中に入り、底の一番低い所に穴を開けました。 雨が降っても、水が溜まらないようにする為です。 鏨(たがね)をハンマーで叩いたのは、30年ぶりの事で、5センチの穴一つ開けるのに、疲れきってしまいました。

  「とりあえず、雨水が抜けるようにしておいて、解体は、涼しい季節になってからやればいい」と、父に言われたものの、私は、せっかちな性分でして、自分がやらなければならない仕事を、先延ばしにする事ができません。 ブロックの数が、65個もある池を、全部壊すのに、一体、何日かかる事やら。 私の体力もさる事ながら、音が近所迷惑なので、ボチボチ進めるのも、考えものなのです。 さっさとやってしまうに、越した事はありません。

  やれやれ、えらい事になってしまった。 次に死ぬのは、私かも知れません。 父の作った池を壊す為に、私が死んでいたのでは、あまりにも理不尽なので、あれこれ知恵を絞ったところ、何も、池全体を壊さなくても、手前の一辺だけ取り払い、中に出入りできるようにすれば、使える空間になる事に、思い至りました。 父と母にそのアイデアを話したところ、「それで、よかろう」との返事。

  うちは、子孫がいない家なので、今住んでいる者が、みんな死んでしまえば、家と土地は人手に渡る事になります。 「次の持ち主が、家を壊す時に、池も壊してもらえばいいではないか」という、いささか虫のいい考え方ですが、どうせ、その時には、両親も私も死んでいるわけで、誰に文句を言われる事もありますまい。 よし、これで、解体対象は、全体の6分の1になったぞ。


水を抜いて、底を乾かしたところ。


  ネットで、ブロック塀を壊す動画を見たところ、片手ハンマー一本で、側面から叩いて、豪快に、バンバン崩して行き、長さ3メートルくらいの塀を、30分で壊したなどと、とてつもなく景気のいい事を言っています。 どうも、イメージが違う。 前の池を父が壊した時には、鏨をハンマーで叩いて、コツコツ削って行ったような覚えがあるのですが・・・。

  片手ハンマーの大きいのは、家にあったのですが、それでは、心許なくて、両手で使う、大きなハンマーを、ネットやホーム・センターで物色しました。 6ポンド(約2.7キロ)で、2600円程度と、驚くほど、高い物ではないのですが、なにせ、池を壊したら、用なしになると分かっていますから、おいそれとは買えません。 とりあえず、そちらは後回しにして、家にある道具で、できるところまで進める事にしました。

  父に訊いたら、ディスク・グラインダーを持っているというので、それを使って、崩す所と残す所の境界に、切れ込みを入れました。 2ヵ所で切るので、裏と表で、合計4ヵ所に切れ込みを入れたわけですが、大昔に父が買ってあった、石材用の切断砥石4枚を、一気に使ってしまいました。 ものの3分くらいで、丸坊主。 こんなに消耗が早いとは思わなかった。

  そうそう、書き忘れていましたが、グラインダーを使う前に、粉塵対策を施しました。 目には、北海道応援の時に、会社で支給されて、そのまま貰って来たゴーグルを着け、口には、風邪用のマスクをしました。 普通の紙製の使い捨てマスクです。 なぜ、風邪用なのかというと、防塵マスクが、思いの外、値段が高かったからです。 3個入りで千円もするのに、使い捨てだと言うのですから、話にならぬ。 風邪用マスクでは、完全な防塵などできるわけはないのですが、「とりあえず、何も着けないよりは、マシ」という発想で、着けた次第。 ちなみに、この風邪マスクも、北海道応援の時に、苫小牧のダイソーで買って、持ち帰った物の残りです。

  服装は、会社で使っていた作業ズボンと、長袖の作業ポロシャツに、黒の腕抜きをしました。 頭には、使い古しの帽子。 靴は、最初、汚れても、簡単に洗えるように、サンダルでやっていたのですが、グラインダーで飛んだ破片が、パチパチ足に当たって痛いので、長靴に履き換えました。 この長靴は、バイク通勤に使っていたものですが、引退して以降、一年以上、出番がなくて、靴箱の肥やしになっていた物。 今回は、大活躍しました。 「奇貨おくべし」と言うほどの奇貨ではありませんが、取っておけば、役に立つ事もあるものですな。

  作業期間中、前半は、毎日、昼過ぎから始めていたので、フル装備にすると、暑くて熱くて、たまりませんでした。 特に、マスクとゴーグルは、真夏の炎天下に着けるもんじゃありませんなあ。 熱中症対策に、クール・スカーフを巻いていましたが、それがなければ、倒れていたかもしれません。 一時間に一回くらい、家の中に逃げ込んで、氷水を一気飲みすると、飲んだ端から、汗になって噴き出して来る気持ちの悪さ。


  話を、作業に戻します。 ブロック壁に切り込みを入れた後、ネットの動画の真似をして、片手ハンマーで、側面を叩いてみたところ、一回では、ビクともしないものの、何回か叩いていると、ひびが入り、「バコッ!」という感じで、割れて崩れる事が分かりました。 コツが分かると、面白いように、ガラガラ崩れて行きます。 ブロック塀が、こんなに脆い物だとは思いませんでした。 やれやれ、先走って、両手ハンマーを買わなくてよかった。 ガラクタを増やすところでした。

  父の話では、「鉄筋が、かなり入れてあるはず」との事でしたが、それは、父の記憶違いで、入っていたのは、縦方向に、2本だけでした。 鉄筋が少なかったお陰で、崩し易かったのです。 驚いたのは、35年も経っているのに、鉄筋が、全く錆びていなかった事です。 それだけ、周りのセメントの密度が高かったわけで、父は、いい仕事をしていたという事になります。 できれば、壊すのも、自分でやってもらいたかったものですが・・・。

  一見、順調に進んでいるようでしたが、この後、躓きます。 切れ込みの近くまで壊したら、鏨で少しずつ削って行けばよかったんですが、横着して、ハンマーで、ガンガンやったら、片側を、切れ込みの先まで、崩してしまいました。 痛恨のミスです。 もう片方は、慎重に、彫刻するように崩して、そこそこ、うまく行きましたが、切断部を、目地の所にしたせいで、ブロックとブロックの間に入っているモルタル部分が残ってしまい、どうにも、格好がつきません。


  片手ハンマーだけで、壊したブロック壁。 奥側の切断面の上の方を崩し過ぎています。


  ブロック塀を切断する時、目地の部分で切りたくなるのは、人情ですが、それは考え足らずでして、綺麗にスパッと切りたかったら、ブロックの途中の、穴の端で切らねばならなかったのです。 で、結局、切れ込みを入れる所から、やり直す事にしました。 切断砥石を使い切ってしまったので、ホーム・センターに買いに行ったら、なんと、売っていません。 やむなく、仕上げに使う、石材用オフセット砥石だけ買って帰りました。 248円。 安いな。

  家に帰ってから、調べたら、今は、切断砥石の代わりに、ダイヤモンド・カッターというディスクが主流になっているとの事。 ネットの方が安いので、3枚組、991円を注文しました。 その日は、金曜日だったのですが、続く、土日は、作業を休みました。 夏休みとはいえ、大人は働いているわけで、休日に騒音を立てると、近所迷惑だと思ったからです。 子供? 子供なんか、どーでもえーわ。 子供に比べたら、解体工事の方が、なんぼか静かですわ。

  月曜日に、ダイヤモンド・カッターが届いたので、作業を再開。 使ってみると、これが、切れる切れる! 切断砥石とは比較にならないくらい、ザクザク切れます。 なるほど、これなら、切断砥石が売れなくなっても、ちっとも不思議はありません。 ディスク1枚だけで、4ヵ所切って、まだ、余裕で、刃が残っていました。 よし、今度は、慎重にやるぞ。


≪上≫ 父が所有していた、ディスク・グラインダー。
≪中左≫ 石材用オフセット砥石。
≪中右≫ ダイヤモンド・カッター3枚組。
≪下≫ 左から、鏨、平鏨、片手ハンマー。


  平鏨をハンマーで叩き、彫刻家になったつもりで、コツコツと、削り落として行き、何とか、真っ直ぐに切り取る事ができました。 実は、また、少し、角の所を欠いてしまったのですが、幸い、破片が残っていたので、コンクリート・ボンドを買って来て、くっつけました。 298円。 探せば、どんな材料でも見つかるものですな。


≪左≫ コンクリート・ボンド。
≪右≫ 欠けた部分を接着しました。


  池の一辺を崩す事自体は、可能だったわけですが、困ってしまったのが、瓦礫の処理です。 日本全国、どの自治体でも同じだと思いますが、コンクリート・ブロックやレンガ、瓦などは、ゴミ回収で持って行ってくれません。 まして、その瓦礫では、尚の事です。 沼津市の「ゴミ出し便利帳」に、「清掃プラントに、自己搬入するのであれば、有料で引き取る」と書いてあったので、とりあえず、それを当てにしていました。 もし、駄目なら、業者を頼むしかありません。 もちろん、業者の方が、料金は高いです。

  いずれにせよ、運び易いように、土嚢袋に入れる事にし、瓦礫を細かく砕きました。 ただ割るだけだから、楽かと思いきや、結局、ハンマーを振るう事に変わりはなく、疲労困憊しました。 ブロック壁を壊している時にもそうでしたが、連続して、ハンマーを振るえるのは、5・6回が限度で、その後、「はあはあ」言って、息を整えなければなりませんでした。 連続で働けるのも、10分くらい。 10分経つと、ベランダ下の濡れ縁に仰向けになって、ゴーグルとマスクを外し、大きな息をして、体力が戻って来るのを待ちます。


≪上≫ 崩したままの瓦礫。
≪中≫ 細かく砕いた瓦礫。
≪下≫ 土嚢袋10枚の束。


  ところで、「土嚢袋(どのうぶくろ)」というのは、変な言葉でして、「土嚢」だけでも、「土のふくろ」ですから、「土嚢袋」は、「土のふくろのふくろ」という事になり、とても、正しい形容とは思えません。 だけど、実際に、袋だけで売られているわけでして、それに呼び方をつけようとすると、「土嚢袋」としか言いようがないのです。

  その土嚢袋は、ホーム・センターで、10枚154円で買って来た物。 砕いた瓦礫を入れてみると、10袋全てに、8分目くらいまで入って、とても、持ち上げられたもんじゃありません。 体重計を持って来て、何とか載せて見たところ、平均、25キロ弱くらい。 つまり、全部で、250キロあるわけだ。 「ゴミ出し便利帳」によると、自己搬入は、200キロまでが、1220円で、それを超えると、追加料金がかかるとの事。 まあ、大した追加額ではないようですが。

  問題は、運搬方法です。 自転車の荷台に、プラスチックの箱を括り付け、その中に土嚢袋を入れて運ぶつもりでいたのですが、この重さでは、問題外です。 荷台まで上げる事さえできません。 土嚢袋を、もう10枚買って来て、20袋に分ければ、何とかなるような気がするものの、20回も往復するのは、あまりにも、非現実的。 一回に、2袋運べば、10往復で済みますが、それでも、まだ、非常識でして、そこまで多くなると、レンタカーを借りて来る方が、まともな発想というものでしょう。

  また、清掃プラントまでは、ちょっとした峠を越えなければならず、普通の自転車では、とても漕いで上がれません。 母の電動アシスト車があるので、それを借りるという手も考えましたが、それでも、10往復もするのは、気が進まないではありませんか。 バイクを使えば、時間と労力は短縮できますが、重量物を載せて、バランスを崩した時、自転車のように、すぐに足を着いて踏ん張るという事ができませんから、危険度が増します。 タンデム走行を考えれば、25キロどころではないわけですが、土嚢袋には脚がなく、重心が上に行きますから、コーナーリング時なんて、傾けたが最後、そのまま、転倒する危険性が、極めて大きいです。


  ここまでやって、市役所のゴミ関係の部署に電話してみたら、「ブロック塀のような、構築物の瓦礫は、引き取っていない」との事。 がっかりすると同時に、自力で運ばなくて良くなったので、ほっとしました。 やっぱ、どう考えても、10往復は、異常行為だよなあ。 いくら、安く上げたいからと言って、大の大人が、やる事じゃないです。

  早速、瓦礫を引き取ってくれる業者を調べます。 なるべく、近くがいいと思って、沼津市内の便利屋に電話したら、「そういうのは、うちでは、対応できない」と言われ、没。 めげている暇もなく、次を探します。 近場には、もうないようなので、静岡市の業者に電話したら、そちらはオーケーで、翌日の午後1時に取りに来てもらえる事になりました。 料金は、15000円。 思っていたよりは安かったですが、喜ぶのは、まだ早いです。 この業界は、いろんな名目で、お金を取るので、それでは収まらないかも知れません。 父に話したら、「金は出す」との事。 そりゃそうでしょうよ。 解体作業は全部、私任せなんだから、お金くらい出してもらわなければ。


  翌朝、前日に土嚢袋10袋に入れた瓦礫を、20袋に分けました。 大した作業ではないのに、汗びっしょりになりました。 解体にせよ、瓦礫処理にせよ、猛暑の最中にやる事ではありませんな。 一袋、12・3キロになったので、袋が破れる恐れもなくなり、門の内側まで、持って運べました。 20袋も運ぶのは、きつかったのですが、見に来た父は、全く手伝いませんでした。 とことん、衰えたのう。

  瓦礫を運び出して、池の中がすっきりしたので、グラインダーに、家にあった鉄工用の切断砥石を着けて、鉄筋を根元から切り取りました。 錆びていないので、保存しておく予定。 ゆくゆく、捨てる事になっても、鉄筋は、短く切れば、資源ゴミに出せます。 更に、グラインダーに、ホーム・センターで買って来た、石材用オフセット砥石を着けて、ブロック壁や基礎部分の切断面を滑らかにし、角の部分は、面取りしました。 安全の為です。

  午後12時40分頃に、静岡市の業者が、軽トラックで到着。 体格のいい青年二人で、両手に袋を持って、どんどん積んでしまいます。 私も運びましたが、一つずつが限界でした。 話を聞くと、静岡市を中心に、浜松から沼津までをカバーし、しょっちゅう、行き来しているとの事。 手広いですなあ。

  「どこを壊したんですか?」と訊かれたので、「庭にある池を、部分的に壊しました」と言ったら、「この暑いのに、大変だったでしょう」と、同情されてしまいました。 向こうも、ブロック塀を壊す仕事を、普段やっているらしく、猛暑の中で、力仕事をするのが、どれだけ大変か、分かる様子。 同病相憐れむ。

  料金は、電話で言われた通り、15000円でした。 電話に出たのは、事務的にテキパキ事を進めるタイプの人でしたし、引き取りに来た二人も、いかにも、善良そうな青年達で、後から、追加料金を取りに来るような、あくどい人間には見えなかったので、たぶん、これは、これで終わりになるでしょう。 向こうは、15000円でも、充分、元が取れるのだと思います。

  とにかく、池解体計画の、最大の山場だった、瓦礫の処理が終わり、ほっとしました。 瓦礫を運ぶのに、自転車を使わないで済んで、ほんと、良かったです。 荷台の左右に吊り下げるラックを作れば、バランス良く、重量物を運べるかもしれませんが、それなりにお金がかかるわけで、少なくとも、今回の計画で、それを作る気はありませんでした。 だから、私が作った池ではないと言うに。


  だけど、まだ、池の方の作業は、完了していません。 解体作業中に、池に溜まる雨水の出口を作る為に、崩したブロックの基礎部分をぶち抜いて、幅3センチほどの溝を掘ったのですが、この溝が浅くて、池の中に水溜りが出来てしまう事が分かったのです。 幅が狭過ぎて、グラインダーが入らないので、鏨とハンマーで、手掘りします。 「手彫り」と書いた方がピッタリ来る、えらい作業でした。 江戸時代以前に、手掘りで、岩山にトンネルを掘った話が、脳裏に何度も浮かびます。 昔の人は、丈夫で、気長だったんですなあ。


基礎をぶち抜いて掘った、水捌け用の溝。


  溝は深くなり、水捌けは良くなりました。 だけど、まだ終わりません。 池の水を最初に抜いた後、最も低い部分に、穴を開けたという件りを覚えているでしょうか? 今度は、その穴を塞がなければならないのです。 そのままにしておくと、雨が降るたびに、池の下に水が浸み込んで、空洞が出来てしまいます。 穴を塞いだ上に、最も低い部分に、モルタルを盛って、高くし、基礎に開けた溝から、水が出るようにしなければなりません。

  おいおい、壊すだけじゃなくて、モルタルまで、塗るのかよ? でも、やらないと、まずいのです。 池は、隣家との境にあり、塀に密接しているので、地下に空洞が出来たら、えらい事になります。 で、ホーム・センターで、インスタント・モルタルを見たら、25キロ袋で、600円。 安い! でも、25キロなんて袋を、どうやって、家まで運べばいいのか分かりません。 そもそも、一人では、持ち上がりませんがな。 もっと、小さい袋もあるのですが、不思議な事に、1キロでも、500円くらいします。 世界で一番愚かな奴が考えても、25キロ袋の方が得。

  瓦礫と違って、モルタル袋は平たくなっていますから、自転車の荷台に、載せられない事はないです。 まず、同じくらいの大きさの板を、紐で荷台に括り付けて行き、ホーム・センターで、モルタルを買ったら、店の人に手伝ってもらって、板の上に載せ、その上から、もう一本の紐で縛って、帰って来ればいいわけだ。

  「こういう時の為に、荷台拡張用の専用板を作ってもいいなあ」と思いました。 適当に穴を開けて、荷台に、紐か、ボルト・ナットで括り付けられるようにし、板の隅の方にも、ボルト・ナットで下向きに突起を付けて、荷物を縛る時に、紐をかけられるようにするわけです。 ほとんど板の値段なので、千円もあれば作れるでしょう。 だけど、今回、それを作る気はないです。 だから、私が作った池ではないと言うに。

  ところが、モルタルを買って来ようと思っていた矢先に、物置の奥で、古いセメントと砂を発見し、結局、そちらで間に合わせる事になりました。 父は、もう、すっかり、老いぼれてしまって、庭で何かを作るような事はないですから、セメントや砂なんか、取っておいても仕方ありません。 使える時に、どんどん、使ってしまわなければ。

  モルタルを買うのはやめたんですが、重ね塗りをすると、すぐに剥がれてしまうというので、「モルタル接着強化剤」という薬品を買って来ました。 908円。 下地に、刷毛で塗って、乾かせば、接着効果が高まるという効能です。 結構、高かったのが痛いけれど、すぐに剥がれてしまうよりは、使った方がマシでしょう。


  材料の目処だけつけて、日を改め、午前中に準備を整え、午後から、モルタル塗りに取りかかりました。 まず、昼食後すぐに、池の底にモルタル接着強化剤を塗り、充分に乾かして、3時半頃から、セメントと砂を水で混ぜて、モルタルを作りました。 塗り方なんて、知らないので、一番深い所から、テキトーに、ボタボタ落として、全部使ってしまい、後から、鏝で表面を均しました。


≪上≫ 物置にあった、セメントと砂。
≪下左≫ モルタル接着強化剤。
≪下右≫ モルタル施工後。


  「よーし、これで、完成だ!」と、達成感に浸ったのも束の間、夕飯の後、見に行ったら、早くも、ひび割れが出来ていました。 所詮、経験値がほとんどない、素人のやる事など、こんなものか。 まあ、そんなに重大な問題ではないです。 雨が、大量に浸み込まなければ、それでいいのですから。 ひびが大きくなるようなら、後で、何かで埋める事にします。


完成。


  完成したのは、8月1日(土)でした。 金魚が死んだのが、7月20日(月)で、埋葬の直後から、水抜きを始めたので、完成するまでに、13日間。 準備期間を除外して、24日(金)に、解体作業に入ってからでも、9日間。 猛暑の中、激闘したわけですが、一応、目的を達成し、格好がついて、良かったです。 毎日、汗を搾り出したお陰で、体重が2キロ減って、70キロ台になりました。 だけど、すぐに、戻ってしまうだろうなあ。

  池解体計画にかかったお金は、瓦礫の引き取り料が、15000円で、一番多かったですが、それは、父持ちなので、私の懐は痛みませんでした。 しかし、グラインダーのオフセット砥石や、ダイヤモンド・カッター、コンクリート・ボンド、土嚢袋、モルタル接着強化剤は、私が自腹で買いました。 合計、3000円くらい。 私の労賃を計算したら、日当たり1万円として、半日仕事が、9日間続いたわけですから、4・5万円貰ってもいいくらいなのに、逆に、3000円の出超です。 私が作った池ではないのに、なんで、こんな目に・・・。 金魚が一匹死んだせいで、途轍もなく大きな波紋が発生したものです。

2015/08/09

シュンの記録③

  いよいよ、≪シュンの記録≫シリーズも、最終回です。 2011年から、2015年の写真。 シリーズの初回に書いたように、この頃には、シュンを撮った写真の数が、めっきり減っています。 解説文に手を入れて、撮影した日付を入れておきました。 終わりの方なので、往年の元気な姿は見られなくなり、寂しい写真が多いですが、最後まで、見てやってください。



【2011年】
  2011年は、東日本大震災の年で、私が勤めていた自動車業界は、東北で作っていた部品が入荷しなくなり、2ヵ月くらい、休みになりました。 折り畳み自転車のシート・ポストを伸ばして、サドル・ポジションが出るようにし、遠出するようになります。 被災した方々には、申し訳ないのですが、この年は、私生活に軸足を置いて暮らすタイプの私にとって、休みの多い、楽な年でした。 精神的にゆとりがあったせいか、12月には、バイクのタイヤ交換にも挑戦しています。

  だけど、シュンと、どんな生活をしていたかは、記憶にありません。 日記を調べると、近所の散歩は、毎週土日に、やっていたようです。 シュンの散歩距離は、どんどん短くなって、一区画を、回って来る事すらせず、一区画の一辺を行って戻って来る程度で、満足してしまうようになりました。 というか、自分で帰りたがるのですよ。 毎回、帰って来ると、チーズはやっていましたけど。


  3月18日のシュン。 冬毛が、盛んに抜けています。 凄い抜け方、という事は、つまり、それだけ生え変わっているわけでして、私は常々、犬が食物から摂取するエネルギーは、半分以上、毛を生やすために使われているのではないかと疑っています。 そういえば、ダッシュ村の柴犬、北登君は、どうしてるんでしょうねえ。 どこかへ非難して無事でいればいいんですが。


  7月22日のシュン。 寄る年波と、苦手な暑さにやられて、めっきりしょっきり、くたびれています。 もう、13歳なので、いつ、お迎えが来ても不思議はないんですが、どうにかこうにか、この夏は乗り切れそうです。


  8月18日、小屋の前で伏せる、シュン。 基本的には、ここが定位置で、木戸の格子を通して家の前の往来を眺めています。 夏場は、ここだと、日中、日向になってしまうので、家の東側の狭い通路か、家の中に避難している事が多いです。



【2012年】
  私が、シュンと、最後の散歩に行ったのが、この年の2月の事です。 それ以降は、シュンが嫌がって、胴輪や紐をつけさせなくなりました。 朝に母と、午後に父と、散歩に行っていたので、シュンにしてみれば、そちらが優先で、衰えて来た体力を温存しておきたかったのだと思います。 仕方なく、私は、犬小屋の前で、チーズだけやって、終わりにしていました。

  この年は、自室のパソコンを買い換えたり、血栓性外痔核の手術をしたり、大腸カメラを経験したり、バイクで、伊東の大室山、群馬の鬼押出しに行ったり、夏には、十数年ぶりに、野宿ツーリングに出かけて、房総半島を巡ったりしました。 バイクのレギュレーターが壊れて、押しがけをしたり、バッテリーまで換えたり、バイクの故障は多かったですが、この時、お金をかけて直したのが良かったのか、今でも、問題なく、動いています。

  仕事の方では、春先に生産台数が減って、ラインから離れ、解体班に回されますが、この時は、同じ班に配属されたのが、顔見知りの先輩ばかりだったので、責任が軽く、結構、気楽に暮らしていました。 休み時間のたびに、缶コーヒーを奢ってくれる、太っ腹な先輩がいて、申し訳ないと思いつつも、毎日、リッチな気分を味わっていました。 その先輩と、最後に会ったのは、2014年6月の岩手の寮でした。 私は、退院した直後で、もう退職を決めていたので、「大丈夫か?」、「どうも、いろいろ、お世話になりました」といった、湿っぽい別れになってしまいました。 あの先輩は、今でも、元気にしているかなあ・・・。

  この年の暮れに、父の最後の車、コロナ・プレミオが廃車になり、うちには、車が一台もなくなります。 しかし、父は、自分の車に犬を乗せる事を嫌っていたので、この車とシュンは、ほとんど関わりがありませんでした。


  2月3日。 濡れ縁の下で、夕食を食べるシュン。 午前中にも食べますが、そちらは、ペレットです。 夕飯は、半生タイプのドッグ・フードと、炒めた肉と、野菜を微塵切りにした物。 以前は、ダイニング・キッチンで食べていたのですが、最近は、濡れ縁に飛び上がるのが億劫になったらしく、外で食べるようになりました。 この様子を、ブロック塀の上で、隣家の猫が見ていて、犬が食べ終わると、食べ残しを片付けに来ます。


  4月21日のシュン。 この冬は寒かったので、毛がモコモコしていたのですが、それが、ようやく抜けて、涼しい風情になりました。 うちの犬は、冬場は家の中に入ってこないのですが、それは、たぶん、冬毛の保温効果が高過ぎて、屋内にいたのでは、暑いからなんでしょうなあ。


  12月18日。 処分するテレビを撮影していたら、珍しく、座敷に上がって来たので、ついでに撮った写真。 こちらも、そろそろ14年を経ており、相当くたびれていますが、言うまでもなく、処分対象外です。  尻尾が垂れてしまったのは、もう二年くらい前からですが、最近は、後ろ脚が曲がり気味で、お尻が低くなってしまいました。 犬は、後ろ脚から歳を取るんですねえ。 ちなみに、尻尾は、散歩で外に出る時だけ、元通り、巻き上がります。


  12月29日。 日だまりのシュン。 一見、夜のような感じですが、夜に日が射すわけはないのであって、もちろん、昼間の撮影です。 露出の関係で、こんな風になってしまうのです。 シュンは最近、滅多に家の中に入ってきませんが、たまに入って来ると、暖かい所を探して、眠ります。



【2013年】
  この年は、折り畳み自転車のボトム・ブラケットのベアリングを交換したり、尿管結石を患って、死ぬほど痛い思いをしたり、日本平動物園に行ったり、伊豆北部の城山・葛城山・発端杖山に登ったり、三浦半島の長井や、静岡県中部の牧の原へ、ツーリングに行ったりしていました。 小松左京・筒井康隆作品の文庫本蒐集計画に奔走したのも、この年です。

  尿管結石には、参りましたが、それ以外は、気楽に暮らした年でした。 職場も、元の場所に戻り、若いけれど、しっかりしていて、気を使ってくれる上司と、気のおけない同僚に囲まれていたので、仕事上のストレスが、ほとんど、ありませんでした。 ちょっと大仰に表現すれば、私が、あの会社で経験した、最も安定した一年だったと言えます。

  シュンは、前年の2月に、私と散歩に行かなくなった後、やがて、母との朝の散歩にも行かなくなり、この年の夏には、父との午後の散歩までやめてしまって、とうとう、家から出ない犬になってしまいます。 父の話では、終わりの頃には、もう、よたよたで、二軒隣の家の前まで行って、戻って来る有様だったのだとか。

  10月になると、私が、まさかの北海道応援に行く事になり、生まれて初めて、飛行機に乗る事になります。 苫小牧は、大変いい街でしたが、その期間中に、岩手異動の宣告を受け、一気に、人生が暗転します。 2010年に、岩手応援から帰った時には、尻尾を振って、私を歓迎してくれたシュンですが、この年の暮れに、北海道から帰った時には、ほとんど反応らしい反応が見られませんでした。 シュンは、もう、老犬になっていたんですな。


  2月23日のシュン。 病気というわけではありませんが、歳が歳なので、めっきり活力がなくなりました。 今では、散歩に行くのも、歩行数を惜しむようになり、父母が優先。 私が胴輪をつけようとすると、逃げて行きます。


  3月17日。 小屋の中で、いかにも不安そうな顔つきをしているシュン。 犬も、眉でものを言うんですね。 しかし、この状況を考えると、本当に、不安がっているのかどうか、怪しいところ。 父との散歩を終えた後で、夕飯を待っている時間帯なのですが、それの何が不安なのか? もしかしたら、犬と人とでは、表情の意味するところが、全く違うのかもしれません。


  5月26日、長窪ポタリングから帰って来た時に撮ったシュン。 暑い季節は、庭の奥の木陰にいる事が多いのですが、家人が帰って来ると、一応、出迎えに来ます。 今年14歳なので、もう、ヨロヨロしています。


  9月8日のシュン。 よたよたで、もう、散歩には行かず、家の敷地内だけで暮らしています。 夕飯が、最大の楽しみ。 若い頃と決定的に違うのは、家の敷地の中でも、排泄をするようになった事。 目も耳もそうですが、鼻まで利かなくなって、便が近くにあっても、何とも思わなくなったようです。



【2014年】
  1月の半ばに、北海道応援から帰って来て、4月中旬まで、こちらで仕事をし、5月の連休明けから、岩手異動になりました。 シュンとは、年に3回しか会えなくなる事を覚悟して、岩手の寮へ引っ越しましたが、幸いにも、と言うか、最悪にもと言うべきか、1ヵ月もしない内に、心臓を悪くして、9日間入院し、退院後、すぐに退職して、1ヵ月と20日で、家に戻って来ました。 急転直下でしたなあ。

  帰って来たら、シュンは、すっかり、要介護になっていて、目が見えない体で、あちこち、うろつきまわり、狭い所へ嵌まり込んでは、大声で泣き喚くという、最悪の状態でした。 夜は、外に寝かせられずに、家の中に入れていましたが、台所を彷徨し、糞尿を垂れ流しては、泣いて、人を呼ぶので、夜中まで眠れませんでした。

  私は、退職後、残っていた会社の福利ポイントを消化すべく、沖縄旅行と北海道旅行に行きますが、その間、母は、シュンの世話をする為に、毎晩、居間で寝起きしていたようです。 犬も、こういう状態になってしまうと、可愛い可愛いでは、済ませられなくなります。 元気だった頃に、楽しませてくれた、お返しのつもりで、世話をしていたわけですが、介護には、綺麗事では語れない辛さがありました。

  そんな状態が、12月まで続きますが、次第に、自力で立てなくなり、立たせてやっても、壁に凭れなくては歩けなくなり、やがて、歩く事も立っている事もできなくなって、寝たきり生活になります。 歩かなくなると、急激に後ろ半身が痩せて、紙オムツができるようになり、介護の手間は、ぐんと楽になりました。


  5月2日のシュン。 岩手異動で、ほぼ、移住する事になるので、最低、3ヵ月は、会えません。 めっきり老け込んで、歩くのもよたよたですが、食欲だけはあります。 とはいえ、犬は暑さに弱いですから、今年の夏が越せるかどうか、微妙なところ。 8月の半ばまで、生きておれよ。

【註】 実際には、私が岩手で倒れ、入院・退職を経て、6月下旬には、家に帰って来たので、3ヵ月もせずに再会できました。


  7月22日に、沖縄旅行に出かける朝に撮ったものです。 9泊10日もある旅行なので、もしかしたら、もう会えないかと思って、撮っていったんですが、考えてみれば、私が旅先で死んでしまえば、この写真を見直すこともなかったわけですな。 シュンは、この時、すでに、要介護で、歩けるものの、目は見えず、起きると、水を探して、彷徨するようになっていました。


  こちらは、8月25日に、5泊6日の北海道旅行に出かける朝に撮ったもの。 撮影の動機は、沖縄旅行の時と同じです。 この時も、まだ、歩けていました。 昼間は、このように、外で暮らし、夜は、家の中に入れていましたが、どちらでも、目覚めれば、歩き回り、出て来られない所に頭を突っ込んで、鳴くのでした。 でも、昼間、外にいられただけ、その間は尿の世話が要らず、まだ、良かった頃です。



【2015年】
  いよいよ、シュン最後の年です。 寝たきりだったので、夜中に起こされる事も、ほとんどなくなりました。 ずっと、右側を下にして寝ていたら、右前足の関節の所が、擦り剥けてしまったのですが、左側を下にすると、どこかが痛いようで、悲鳴を上げるので、脚には包帯を巻いて、右ばかり下にしていたら、吠える時に出す涎で、右側の顔の毛色が変わってしまいました。


  2月1日のシュンです。 シュンには気の毒ですが、彷徨しなくなってから、世話は、ぐんと楽になりました。 敷いてあるのは、清水エスパルスのバス・タオル。 元は、貰い物ですが、シュンが子犬の頃から、雨の後や風呂の後に、体を拭くのに使っていたものです。 お尻の方に、折り込み広告が敷いてあるのは、便対策。


  4月20日の、シュン。 もはや、完全に、居間の住人となり、屋外に出る事はなくなりました。  寝たきりで、寝返りも打てません。 左手前にいるのは、「チビ・シュン」と呼ばれている、動くぬいぐるみ。 別に、シュンのお気入りというわけではなく、母が勝手に、友達として宛がっている物。 だけど、目が悪くなってしまって、もう、明暗にしか反応しないので、この距離でも、見えていないと思います。


  全景。 いろいろと液体を漏らすので、畳を汚されないように、二重三重の対策を施しています。 人様にゃ見せられぬ有様ですが、これが、老犬の介護の実態。



  シュンの写真は、以上です。 2014年は、北海道旅行の後は、一枚も撮っていません。 2015年になってから、寝たきりの写真を、2月1日に一度、かなりおいて、4月20日に一度撮影した後は、7月11日に他界するまで、一枚も撮りませんでした。 何だか、「死への記録」のようで、撮る気にならなかったのです。 死んでしまった後で、「もっと、撮っておけばよかった」と悔やんだり、「それで良かったのだ」と思ったり、複雑な気分になりました。

  死ぬ一週間くらい前までは、割と普通に暮らしていたので、「まだまだ、もつだろう」と思っていたのです。 毎日、見ていると、変化が少なくて、気づかないのですが、シュンは、少しずつ、食が細り、少しずつ、痩せて行ったのです。 寝たきりの状態で、何年も生きられると思っていた、私や母が、愚かだったんですな。

  死んだ後と、納棺の後に、何枚か写真を撮りましたが、それは、自分でも見たくないので、出しません。 代わりに、お寺の供養塔の写真を出しておきます。


  他の動物達と同居ですが、この中に、シュンの骨壺が納められています。 後ろの、煙突がある建物は、シュンの亡骸が焼かれた火葬場です。 私は、シュンを、もっと可愛がってやれなかったのを、深く後悔しており、感謝と謝罪の念に駆られて、ほぼ毎日、線香二本を持って、墓参りに行っています。

2015/08/02

シュンの記録②

  シュンの記録ですが、今回は、2006年から、2010年までの写真です。 シュンの一生の、ほぼ、中期に当たります。 年毎に、どんな事が起きたか、シュンよりも、私の事について、解説文を付けていますが、これは、年毎のシュンの様子について、細かい観察記録をつけていなかったからです。 日記を読めば、その日その日に、シュンに起こった事について、記述があるのですが、なにせ、16年7ヵ月という長期に渡るので、とても、纏められません。

  このシリーズでは、シュンの一生を、おおまかに、三分割しているわけですが、生き物として、最も盛んだったのは、最初の3分の1で、次の3分の1では、少しずつ、力が衰え始め、最後の3分の1では、目に見えるくらい、激しく衰えました。 それが、一番、極端に表れたのは、散歩の時の、紐を引く力でして、うちの犬は、躾をしていなかったから、犬の好きなペースで引っ張って行くのですが、最初の頃は、暴れ馬のような状態だったのが、5・6年を過ぎると、人間側で制御可能になり、最後には、人が引っ張らないと歩かなくなりました。

  犬だから、直截的に、それが感じられたわけですが、たぶん、人間の一生も、三分割すれば、そんな配分になるのではないかと思います。 「働き盛り」とか、「最も脂がのった時期」という表現で、30代から40代を指す事がありますが、それは、経験値がものを言う職種の場合でして、体力的には、30歳を超えたら、20代には、全く敵いません。 中期に入ったら、もう、衰える一方なんですな。

  犬の場合、2歳くらいで、生殖可能になり、3歳くらいで、成犬になってしまいますから、それ以降は、早くも、下降曲線に入るわけです。 ただ、衰え始めても、しばらくは、角度が緩やかで、見た目には分かり難いというだけの事。 「子供の頃に比べたら、だいぶ、おとなしくなったな」と感じたら、それは、大人になって、精神的に落ち着いたというより、体力が衰えたと考えるべきでしょう。



【2006年】
  2006年には、新年早々、大雪で道路が凍り、退勤時にバイクを押していて、右肩を脱臼したり、二匹目のハムスター、銅丸が死んでしまったり、ホーム・ページを、リニューアルしたりしていました。 嫌な事もあったけれど、まだまだ、日常的な範囲内で収まっていた頃です。

  この頃までは、近所のメス犬が何匹か生きていて、彼女らに盛りが来ると、シュンは夢中になっていました。 その後、みんな先立ってしまい、シュンだけ残されたような形になり、シュンの青春は、幕を閉じて行きました。 シュンに子孫を残させてやれなかったのは、生き物として気の毒な事でしたが、相手を探して、子犬が生まれた場合、「それも飼うのか?」という話になり、もっと、残酷な結末になり兼ねないので、致し方なかったのです。


≪上左≫
  新春の砂浜を駆けるシュン。 犬と浜辺。 非常に月並みな取り合わせですが、犬を浜辺に連れてくると、全開で喜ぶのは事実です。 御用邸の裏の浜は、午前中に来ると、いつも無人なので、安心して犬を放せます。 ゴミが多いのが、問題点。

≪上右≫
  波を避けるシュン。 こういう躍動的な写真は、固定焦点のトイ・カメラの方が撮り易いです。 普通のデジカメだと、フォーカシングしている間に、犬がどこかに行ってしまいます。 惜しむらく、もうちょっと、画素数が多ければなあ・・・。

≪下左≫
  母の2代目の車、ライフに乗車中のシュン。 前に乗せると、ダッシュボードを引っ掻くので、紐で後席に括りつけます。 移動中は常に不安そうな鳴き声を発し続けます。 乗りたがるくせに、移動は怖いという変な奴です。

≪下右≫
  旧居間で、朝飯を食べるシュン。 なぜか、この頃、えらく食が進み、以前は見向きもしなかったドッグ・フードまでガツガツ喰らいつくようになりました。 そのせいで太って太って、もはや、ブタのような肉付きです。


≪上左≫
  自転車で、路上観察写真を撮りに出かけたら、途中で散歩中のシュンと父に会いました。 散歩の時は、自分の事しか考えてない犬ですが、家族とすれ違えば、一応分かるようです。 

≪上右≫
  毎日、夕方の散歩から帰って来た後に、父に濡れタオルで体を拭いてもらいます。 シュンは、頑固一徹の風呂嫌いなのですが、この習慣のおかげで、外見上は綺麗さを保っています。

≪下左≫
  家庭内避暑地。 犬は、自分で涼しい場所を探します。 ここは家の南側のベランダの下ですが、ここにいるという事は、まだそんなに暑くないという事です。 犬には、自分の糞尿を除き、不潔という概念がないので、どこででも横になります。

≪下右≫
  撮影は、6月ですが、まだサツキが咲いています。 サツキはツツジと違って、一つの株にいろんな色の花が付くのですが、この鉢の場合、華やかというよりモザイクのようで、あんまり綺麗ではありませんな。 シュンは、花には、ほとんど、興味を示しません。 だから、近くにいても、悪戯される心配がありません。


  犬の薬草。  シュンは腹の調子が悪くなると、自分で薬草を探して食べました。 ある一種類の雑草が本来の目当てですが、それは散歩に出ないと食べられないので、家の庭にいる時は、笹の葉で代用していました。 薬効成分を求めているというよりも、繊維質を腹に入れて、下し薬か、戻し薬にしているようでした。


  晩秋でも、日向を探して昼寝するシュン。 歳をとったせいで、顎の肉が弛んで来たような気がします。 「えらそうに、髭なんか生やしちゃって」(≪ドラえもん≫より)



【2007年】
  2007年は、折り畳み自転車を買って始まり、それを、母の車ライフに積んで、路上観察に出かけたり、バイクで、熱川バナナワニ園や、井川ダムに行ったり、リコーダー蒐集を進めたりしていました。 そういや、音楽キーボードを買って、弾く練習をしていましたが、自分が腰痛持ちで、長時間、椅子に座っていられない事に気づき、その内、全く弾かなくなってしまいました。 2010年には、リサイクル店に売ってしまいます。 折自は、今でも、乗っています。

  この年の分からは、ネットにアップしたものを、全部出します。 解説文ですが、アップ当時に書いたものの方が、活き活きしているようなので、今後は、そのまま出す事にします。 どうも、追悼気分で書くと、湿っぽくなって行けません。 アップの間隔が開いているので、自分でも、前回、シュンのどんな写真を出したか忘れていて、同じような事ばかり書いています。


  正月に近所の山に登った時の写真です。 頂上に着くと人間はほっと一息つきますが、犬には頂上という概念がないようで、なぜそこで止まるのかが分からない様子。 そもそも平地と傾斜を区別してません。


  海辺のシュン。 御用邸の裏ですが 、唯一、紐を気にせず思い切り走り回れる場所なので、シュンはここが大好きです。 舗装されていない所でオシッコをした後は、必ず後足で土を蹴るんですが、これはその直前の瞬間です。


  最近のシュン。 冬場は「犬の沽券に関わる」と言わんばかりに、頑として屋外にいるくせに、夏場はなぜか、家の中にいる事が多いです。 アーモンドアイですが、実は後ろで引っ張ってます。


  散歩をねだるワンタレコ。 一見、可愛いように見えますが、この媚態に乗せられて一歩外へ出ようものなら、我が物顔で飼い主を引きずり回す、徹底した利己主義の犬と化します。


  砂浜に立つ暴れん坊将軍。 こやつ、つい先日、散歩中に、母の腕をガブガブ噛みまくったらしいです。 母がつまづいて転倒し、前を歩いていたこやつの尻尾に触った所、後ろから襲われたと勘違いして、いきなり噛み付いたのだそうです。 母の腕は見る間に血塗れ! まー、どうしましょ! 怖い子だよー、この子は!


「蹴りっ! 蹴りっ!」

  土や草原など、舗装されていない所で用を足した後には、必ず後ろ足で土を蹴り上げます。 というか、これがやりたいばかりに、わざわざ土の上へ行きたがるのです。 奇妙なのは、オシッコによるマーキングは自分の匂いをつけるために行なうのに、土を掛けてそれを消そうとしている点。 何か、別の意味があるのかもしれません。


  こやつをカメラ目線にさせるのは一苦労です。 子犬の頃に、APSカメラでこいつを撮ろうとして、ストロボを使ってしまったのですが、それ以来、カメラを向けると目を逸らすくせがついてしまいました。 フィルム・カメラの頃は、ストロボを使わずに動物を撮るのは、フィルムを無駄にするのと同じ事でした。



【2008年】
  2008年には、擬古文を書くのに凝ったり、箱根の大涌谷に行ったりした後、伊豆の発端丈山、達磨山を皮切りに、登山に嵌まり、愛鷹山の各峰を一つ一つ、征服して行きました。 いや、そーんなに凄い山ではないんですが。


  日向で眠る犬の腹部。 シュンの腹は後ろの方へ行くに従い、毛が薄くなって、地の肌色が見えるくらいだったんですが、今年は寒かったせいか、飯をモリモリ喰って、強引に毛を増やしました。 犬の底力、恐るべし! 毛というのは、増やそうと思って増やせるものなんですね、犬の場合。


  押しボタン信号で足止めを喰らっているシュン。 正確に言うと、足止めしているのは紐を引っ張っている私であって、シュンが信号を見ているわけではありません。 盲導犬のように、ちゃんと信号を見て渡れるかどうか判断する犬もいるわけですが、シュンには、そんな芸当とてもとても・・・・。


  走る柴犬。 ソフト・バンクのお父さん犬が、テニス・コートで疾走するシーンでは、尻尾は後ろへたなびいていますが、うちのシュンの場合、どんなに早く走っても、尻尾は巻いたままです。 走る時には、興奮しているので、尻尾が垂れる事はないはずなんですがねえ。 あの映像はCG合成なのではありますまいか?


  うーむ、実に犬らしいショットだ。 こんな写真が撮れるのもデジカメ時代の恩恵です。 フィルム・カメラでは、走っている犬の撮影など、フィルムを捨てるのと同じ事でした。 ≪流し撮り≫というプロの技がありますが、あれは、動く対象を遅いシャッター速度で捉えるための苦肉の策だったものが、撮影技術として定着したものなんですな。


  これは、走り出す所ではなく、小用を足した後、蹴りをくれているところ。 下が土だと、これをやらずにゃいられない。 蹴りは後ろ足でするわけですが、バランスを取る為に、前足も上げています。


【2009年】
  この年の後半から、写真の数が、極端に減りますが、それは、2009年の9月に、母の二台目の車、ホンダ・ライフが処分されて、犬を海へ連れて行く手段がなくなり、散歩が、家の近所ばかりになって、写真を撮るような状況ではなくなってしまったのが、大きな原因だと思います。

  この年の3月には、シュンがうちに来る前から、私が飼っていた、ハナガメの葉菜(はな)が死んでしまい、しばらく、ペット・ロスに沈みました。 5月以降は、前年に引き続き、愛鷹山登山に行き、とりあえず、全峰を征服しました。 他に、近場の動物園・水族館に、よく出かけました。 野鳥を撮りたくて、双眼鏡とデジカメを組み合わせて、デジビノ写真を撮ったり、それに飽き足らず、高倍率ズーム・カメラを買ったのも、この年です。 


  家の横で座るシュン。 これは、横顔を撮ったわけではなく、こちらを向いている所を撮ろうとしたら、直前にそっぽ向いてしまったのです。 一度そっぽ向くと、梃子でもこっちを向きません。 まったく、小憎らしいったらありゃしない。 一体、誰に似たんでしょう。


  外出から帰って来た時には、カメラを持っているので、ついでに、シュンを撮影する事が多いです。 シュンは、出迎える時は、「どんな匂いをつけて来たかな?」と、興味津々で寄って来ますが、すぐに飽きて、こういう無関心な態度になります。


  ほぼ正面。 この何の興味もない顔。 バッキンガム宮殿の衛兵は、何を話しかけられても答えず、表情を全く変えないことで有名ですが、柴犬も生まれながらの番犬だけあって、表情を殺しているんでしょうか。 そんな事はないと思いますが。


  濡れ縁で昼寝するシュン。 犬は暑いのが苦手ですが、何か健康上の必要でもあるのか、時折、直射日光を浴びて眠っています。 右手の上に顎を載せるのは、シュンのよく取る体勢です。 これが一番、楽なんでしょう。


  冬の昼下がりのシュン。 旧居間で、日向ぼっこしているところ。 犬は猫と違って、沼津くらいの寒さでは、どこにいても、何ともないはずですが、やはり、日向と日陰があれば、日向を選ぶようです。 ガラスに顔が映っています。



【2010年】
  2010年は、アップした写真が、1枚しかありません。 この年も、連休のたびに、動物園巡りをしていましたが、動物園や水族館に行くと、しばらく、土産写真ばかりになって、それ以外の写真が減るという事情がありました。 更に、10月から、年末まで、3ヵ月間、岩手に応援に行っていたのも、犬の写真が少ない原因の一つだったと思い出しました。 シュンには悪いですが、仕事の方で、いろいろと問題が起こり、犬どころではなくなってしまったのです。

  前年の秋から、職場に加わった、社外応援の男と険悪な仲になり、この年の8月まで、ストレス性の胃炎に苦しめられました。 そいつがいなくなった途端に、治り始めたから、「精神的な圧迫というのは、つくづく恐ろしいものだ」と思いましたっけ。 ようやく、正常な生活に戻ったと思ったら、10月から岩手応援で、いいように扱き使われ、またまた、辛酸を舐める事になります。 思えば、ひどい年でしたが、ひど過ぎて、あまり、思い出したくありません。

  暮れに、ようやく、帰って来れた時、シュンは、旧居間にいて、私を見て、フリーズしていました。 3ヵ月留守にしていたから、私の事を、すっかり、忘れていたんでしょう。 30秒くらいしたら、思い出したらしく、はしゃぎ始め、一心に私の匂いを嗅いでいました。 あの時は、応援の苦労から解放された事もあって、嬉しかったです。


  私の部屋の、亀ケージの前で眠るシュン。 私の部屋に入って来るのは、休みの日の午前中だけです。 「散歩に連れて行ってくれ」と、せっつきに来るわけですな。 私がなかなか腰を上げそうにないと見ると、そこらに伏せて、寝待ちモードに入ります。 左の衣装ケースが、マレーハコガメの稀枝が暮らしているケージ、右の踏み台様の物は、私が亀を見る時の腰掛けです。