2020/11/29

読書感想文・蔵出し (69)

  読書感想文です。 ちなみに、この記事を纏めているのは、11月22日でして、認定感染者数が急激に増え始めた週の終わりの日曜日です。 感想文より、新型肺炎の記事を書いた方がいいような気はするのですが、11月末から、12月初めにかけて、他にもやる事があり、心理的ゆとりがないので、感想文でお茶を濁そうという魂胆なのです。





≪殺人暦≫

角川文庫
角川書店 1978年11月20日/初版
横溝正史 著

  2020年5月に、アマゾンに出ていたのを、送料込み、346円で買ったもの。 横溝作品の角川文庫・旧版の中では、59番目。 昭和初期に書かれた短編4、中編1、長編1の、計6作を収録。 タイトルのカバー絵を見ると、何となく、戦後作品なのではないかと期待してしまうのですが、全部、昭和一桁です。 当然、金田一耕助は出て来ません。


【恐怖の部屋】 約24ページ
  1931年(昭和6年)1月に、「週刊朝日 特別号」に掲載されたもの。

  妻の不倫相手によって、妻を死に追いやられてしまった男が、同じ道具を使って、復讐する話。

  道具というのは、「鉄の処女」と呼ばれる、内側に棘が無数に植えられている、棺のような器具。 入れられたら死んでしまうのですが、処刑用具ではなく、専ら、「これに入れるぞ」という、拷問中の脅しにも使われたもの。 この作品では、更に、細工がなされているのですが、それより何より、露悪趣味。 ただただ、残忍な死に方を書いてみたくて、この、どこにでもあるわけではない道具を引っ張り出して来た感が強いです。


【殺人暦】 約132ページ
  1931年(昭和6年)2月に、「講談雑誌」に掲載されたもの。

  それぞれ、社会的な地位があり、まだ生きている、五人の人間の死亡広告が、新聞に出る。 予告の後、一人目が殺され、二人目にも、予告が届く。 二人目に依頼された義族的怪盗が、捜査と保護に乗り出し、五人の中に犯人がいると目星をつけるが・・・、という話。

  由利先生が初登場するのは、5年くらい後なので、この頃には、まだ、決まった探偵役がいなかったわけですな。 義族的怪盗は、隼白鉄光(はやしろてっこう)というのですが、変な名前ですなあ。 白蝋仮面よりは、正義感がある様子。 他に、警察探偵の、結城三郎という人物が出て来ますが、全く、存在感がありません。

  ストーリーのカテゴリーは、アクション活劇です。 犯人は誰かという謎はありますが、それは、半ばくらいで、誰にでも分かるようになっていて、そちら方面で、ゾクゾクするような事はないです。 後々の、由利・三津木コンビ物と、ほとんど、同じ毛色。 当時は、こういうのが好きという読者が多かったのでしょう。


【女王蜂】 約61ページ
  1931年(昭和6年)5月から7月まで、「文学時代」に連載されたもの。 同じタイトルですが、戦後に書かれた、金田一物の長編とは、全く関係がありません。

  かつて、人を殺して服役し、その後、姿を消した女優にそっくりの女が、子爵令嬢として、社交界に出て来た。 女優の過去を知っている者達が、それぞれ、子爵令嬢について探りを入れるが、やがて、死者が出始めて・・・、という話。

  以下、ネタバレあり。

  本来、短編用のアイデアを元に、細部を肉付けして、無理やり、中編の長さにしたもの。 そのせいで、中途半端な印象あり。 バランスも悪い。 昔の事件の方に、メインのアイデアが使われていて、現在起こっている事件の方には、何の謎もないので、作者が、中身のない部分に力を入れて書いているように感じられのです。

  メインのアイデアは、子爵令嬢が起こした事件を、そっくりな女優を身代わりにして、子爵家の名誉を守ろうというもの。 しかし、華族が消滅した現代の感覚では、女優の方が、子爵令嬢より、守る価値が高いと思うのですが、どうでしょう? この感覚のズレが、この作品のアイデアを、違和感あるものにしているのだと思います。


【死の部屋】 約16ページ
  1931年(昭和6年)8月16日に、「日曜報知」に掲載されたもの。

  数十年ぶりにアメリカから帰国した友人が住み始めた家を訪ねると、そこは、半年前に、ある老博士の若妻と、その愛人が失踪事件を起こした家だった。 友人は、偶然、この家を買ったわけではなく・・・、という話。

  復讐譚なのですが、動機が後出し過ぎて、ラストの告白が、ちょっと、唐突な感じ。 アメリカから帰国したという設定も、別に、そうでなければ成り立たない話ではありません。 このページ数では、多くの望むのは、無理か。 逆に考えると、無理を感じてしまうという事は、作品として良くないという証拠です。


【三通の手紙】 約8ページ
  1932年(昭和7年)1月に、「文学時代」に掲載されたもの。

  かつての海賊仲間に恐喝され、平穏な生活を乱されそうになった元首領が、恐喝に応じる気は更々ないが、「二度と、自分の手を汚さない」という誓いを破らない為に、夷を以て夷を制する話。

  ショートショートです。 手紙が三通、やりとりされる形式を取っていますが、そういうところも、ショートショートっぽい。 ページ数がページ数ですし、アイデア一つで作られた話で、肉付けがないので、読み応えを云々するのは野暮と言うもの。

  敢えて、難を言えば、海賊の首領はともかく、手下の方は、こんな手紙が書けるほど、学がなかったのではないかと思うのですが、それを言ったら、話が成り立たないか。 そもそも、それ以前に、海賊というのが、大時代ですが、昭和初期頃は、まだ、海賊にリアリティーがある時代だったのかも知れませんねえ。


【九時の女】 約47ページ
  1933年(昭和8年)3月に、「オール読物」に掲載されたもの。

  実家の破産を避ける為に、是非ともまとまった金を必要としていた作家の元に、電話がかかって来る。 相手は、ダンス・ホールで知り合っただけで、夜9時には必ず帰るから、「九時の女」という渾名をつけていた女だった。 何も訊かずに、ある場所から、赤いショールを取って来てくれれば、必要な金をやると言われて、引き受け、行ってみると、暖炉に頭を突っ込んだ男の死体が、ショールを握っていて・・・、という話。

  金の為に、犯罪と分かっていて引き受けたわけですが、そんな人物が、後半では、検事の友人として、探偵役を務めるというのは、何となく、不純な感じがします。 しかし、問題点は、それだけで、他は、短編探偵小説として、バランスがよく取れています。

  凶器が、暖炉の火掻き棒とか、火事を起こして、犯人を燻り出すとか、ホームズ物からの戴き物が、ちらほらと見られるのは、横溝作品には珍しい。 まさかとは思いますが、横溝さん名義で発表された、別人の作品なのかも。 横溝さん本人は、過去の作品の記録を取っていなかったらしいので、確認のしようがないようです。




≪松本清張全集 4 黒い画集≫

松本清張全集 4
文藝春秋 1971年8月20日/初版 2008年4月25日/9版
松本清張 著

  沼津市立図書館にあった本。 ハード・カバー全集の一冊。 二段組みで、中編6、短編3の、計9作を収録。 中編・短編の判別は、私が決めたテキトーなものです。 詳しくは、ページ数で判断して下さい。 二段組なので、侮ると、手こずります。 【天城越え】以外は、「週刊朝日」に連載されたもの。


【遭難】 約62ページ
  1958年(昭和33年)10月5日号から、12月14日号まで、「週刊朝日」に連載されたもの。

  銀行の同僚三人が、北アルプスへ登山に行ったが、悪天候の中、道を間違えたせいで、遭難し、一人が命を落とす。 その後、リーダー格だった男の所へ、死んだ男の姉と従兄が訪ねて来て、弔いたいから、山岳経験がある従兄の方を、遭難現場まで案内してくれと頼む。 リーダー格だった男は、引き受けたものの、死んだ男の従兄から、常に行動を観察されている事に気づき・・・、という話。

  これは、面白いわ。 最初の、同僚三人連れの登山から、次の、二人連れの弔い登山まで、緊張感が連続し、ゾクゾクしっ放し。 推理小説でもあり、犯罪小説でもあり、山岳小説でもあり、どのカテゴリーで考えても、超一級の出来栄えです。 素晴らしい。

  私の場合、これを読む、一週間くらい前に、≪グレートトラバース3 15min≫という番組で、北アルプスの、ちょうど、この小説の舞台になる辺りを見たばかりだったので、「八峰キレット」など、その場の情景が目に浮かぶ場面が多く、余計にゾクゾクしました。 いや、小説内では、悪天候で、八峰キレットまでは行かずに、引き返すという設定なのですが。

  終わり方も、わざと、倫理バランスを崩してあり、大変、ドライで、大変、良いです。 他に誰も見ていない場所で起こった犯罪は、暴かれようがないというわけですな。 傑作なので、読まねば、損です。 こんな傑作、そうそう、お目にかかれません。


【坂道の家】 約90ページ
  1959年(昭和34年)1月4日号から、4月19日号まで、「週刊朝日」に連載されたもの。

  手堅い商売で、ひと財産を築く事に成功していた小間物屋の主人が、たまたま店に来たホステスに魅了され、女の勤めている店に通いつめるようになり、やがて、病的な嫉妬心から、女に勤めをやめさせて、女の為に買った家に、囲い者にする。 ところが、女の方は、以前から馴染みの若い男と縁が切れておらず・・・、という話。

  前半は、色に溺れた四十男の転落人生を描く、一般小説。 後半は、殺人事件が対象になる、推理小説になります。 前半が優れており、前半だけでも、面白いです。 この主人公と同じように、四十過ぎても、女癖が治らないという人は、この作品を読んでみれば、己の醜さが、よく分かるのではないでしょうか。 あまりにも愚かで、同情する気にもなれません。 気の毒なのは、正妻の方で、何の落ち度もないのに、亭主の色呆けのせいで、築き上げた財産を蕩尽されてしまうわけで、これでは、激怒するのも、もっともです。

  後半は、まあまあ、まずまず、ゾクゾク感があるという程度。 前半の展開がリアルなだけに、後半、少し、子供っぽい印象になってしまうのは、本格物の宿命か。 死亡時刻をごまかすトリックが出て来ますが、2時間サスペンスや刑事物で、よく使われるタイプのものです。

  何度かドラマ化されているそうで、私は、2014年の、尾野真千子さんと、柄本明さんが主演したものを見ています。 中編小説としては長い方ですが、2時間のドラマにするには、ボリュームが足りず、原作にはないエピソードを追加してありました。 しかし、ホステスの方を中心にすると、やはり、ピントがズレてしまいますな。 客を食い物にするというのは、ホステスとしては、普通の生態なのであって、個性がどうのこうのという問題ではないです。 やはり、男の愚かさを軸に描かなければ、こういう話は成り立ちますまい。 


【紐】 約64ページ
  1959年(昭和34年)6月14日号から、8月30日号まで、「週刊朝日」に連載されたもの。

  多摩川の河川敷で、岡山から出て来ていた神主の男が他殺死体で発見された。 殺害日時前後に、東京に来ていた妻と、東京に住んでいる姉夫婦に容疑がかかったが、彼らには、完全なアリバイがあった。 捜査本部が解散になった後、保険会社の調査員が独自に調査を進め、アリバイを崩して行くが・・・、という話。

  アリバイ崩しの捜査物。 警察が解けなかった謎を、保険調査員が解く、というパターンと思わせておいて、実は、もう一捻りしてあるというもの。 江戸川作品によくありましたが、ドンデン返しは、二回重ねると、白けてしまうものでして、この作品も、読み終わると、作者に、事件を茶にされたような、気分の悪さが残ります。

  「・・・と思われたが、実は、こうだった」というパターンは、ちょっと器用な作者なら、いくらでも、できるのであって、全く、感心しません。 作者の語る事件の展開について行こうと、真剣に、出て来る新事実を記憶しながら、ページをめくっている読者を、愚弄する終わり方としか思えないのです。 こういうのは、「意外な結末」とは、似て非なるものです。


【天城越え】 約20ページ
  1959年(昭和34年)11月に、「サンデー毎日 特別号」に掲載されたもの。 原題【天城こえ】。

  家出をして、下田から、天城を越えようとした少年が、山の中で気が変わり、引き返そうとした時、小綺麗な若い女に出会い、ほんのちょっと、同道する。 その後、その女は、山の中で見かけた男を殺した容疑で逮捕されるが、実は犯人は・・・、という話。

  以下、ネタバレ、あり。

  ドラマも映画も見ていますが、原作が、こんなに短いとは思っていませんでした。 原作では、女や男の心理は、ほとんど、描かれていません。 映像化したいと思わせる魅力は、主人公の少年の気持ちが、よく分かるからでしょう。 半回り年上の女に、淡い恋心を抱いたのが動機で、そういう事は、男なら誰にでも、経験があると思うからです。

  恋心を抱いた女が、容疑者として逮捕されたのに、なぜ、真実を話さなかったのかというと、女が、売春婦だと分かって、そんな女を心配した自分に腹が立ち、女に対しても、憎しみを感じていたんじゃないかと思います。 家出少年が、二進も三進も行かなくなったところへ、胸糞悪い情景を見せられて、ヤケになって起こした事件と見るべき。

  足跡について、女と少年の足のサイズが同じというのが、捜査を誤らせるのですが、二人とも、どこの誰なのか分かっているのですから、もっと詳しく足跡の形を調べれば、特定できたのでは? しかし、捜査陣が、最初から、女が犯人と決めてしまっていたというのは、よくある話なので、作品の欠点とは言えません。

  ちなみに、原作では、女は、裁判で、無罪になっています。


【証言】 約11ページ
  1958年(昭和33年)12月21日号から、12月28日号まで、「週刊朝日」に連載されたもの。

  愛人と歩いている時に、近所の人と出くわしてしまった男。 その近所の人が、殺人容疑で逮捕され、男の証言がアリバイを左右する事になってしまう。 愛人の事を隠したいばかりに、会っていないと偽証をするが、思わぬところから、水が漏れて・・・、という話。

  ドラマ化されたのを見た事がありますが、原作は、ごく短いもので、ドラマの方は、相当、水増ししてありました。 原作は、細かい心理の描き込みはしておらず、アイデアの骨格に、最低限の小説らしい肉付けを施しただけのもの。 主人公を、ドライに客観視しているところが好ましいです。


【寒流】 約69ページ
  1959年(昭和34年)9月6日号から、11月29日号まで、「週刊朝日」に連載されたもの。

  愛人にしていたバーのマダムと結婚したくなり、妻との離婚まで考えていた銀行員の男が、そのマダムを上司に奪われた上に、体よく地方の支店長にされて、追い払われてしまう。 マダムを取り戻す為に、上司の失脚を画策するが、上司の方が悪知恵が働き、逆に、追い込まれて行く話。

  組織の上の方にいる人間には、海千山千、奸智に長けた者が多く、普通の人間関係の中で暮らしている者が対抗しようとしても、いいようにやっつけられてしまうという話。 ラストで、一矢報いるのですが、あとがきによると、それは、編集者側から、そうしてくれと頼まれたからだそうです。 松本さんとしては、もっとドライに、やられっぱなしで終わらせたかったようですが、このラストのお陰で、読者側は、かなり、溜飲が下がります。

  この主人公、どこで足を踏み外したかというと、少し、社会的地位と、自由に使えるお金が出来たからといって、水商売の人間を愛人にしようなどと考えたのが、そもそもの間違いです。 そういう女性は、そもそも、お金が目当てなのですから、もっと多くのお金を持っている別の男が現れれば、そちらへ乗り換えてしまうのは、無理もないです。 一度、性関係ができると、自分の男性的魅力で、相手から愛されていると思い込んでしまうんでしょうが、それは哀しい錯覚です。

  1970・71年の、【強き蟻】と、似たような構成。 中心事物が、【強き蟻】では、女だったのが、こちらでは、男になっているだけです。  恐らく、この作品を雛形にして、【強き蟻】が作られたのでしょう。


【凶器】 約22ページ
  1959年(昭和34年)12月6日号から、12月27日号まで、「週刊朝日」に連載されたもの。

  九州のある村で、農家の内職品の買取を生業にしている男が、撲殺死体で発見される。 検視の結果、凶器は、太い棍棒のようなものと推定された。 男が言い寄っていた未亡人が疑われるが、凶器が見つからない。 捜査本部が解散した後になって、ある刑事が、たまたま、その凶器が何だったか、思い当たる、という話。

  動機があっても、凶器が見つからなければ、逮捕できないというパターン。 当初、凶器ではないかと思われた、内職作業用の木槌が 、事件の前日から、よその家に貸し出されていたせいで、逆に容疑を薄めてしまいます。

  本当の凶器が何だったかは、読者には、途中で分かりますが、その種の物は、地域によって、作り方に違いがあり、話の中心にするには、ちと、弱い感じがします。 弱いと思ったから、途中で分かるように配慮したのでしょうが、その分、凶器の意外性が損なわれる結果になってしまっています。


【濁った陽】 約76ページ
  1960年(昭和35年)1月3日号から、4月3日号まで、「週刊朝日」に連載されたもの。

  ドラマの脚本を依頼された劇作家が、汚職事件でよく起こる、詰め腹自殺をテーマにしようと思い立つ。 弟子の女性を助手に使って、ある事件で自殺した人物の妻に話を聞こうとしたが、逃げ回られて、どうしても会えない。 組織的に妨害されているのは、自殺ではなく、殺人だったからではないかと疑念が生じ、とことん、食い下がって、怪しい人物のアリバイを崩して行く話。

  1976・77年に発表された、【渦】と、よく似ています。 対象が、【渦】では、テレビ視聴率だったのに対し、こちらでは、「詰め腹自殺」になっているだけ。 社会的テーマから始まって、後ろに行くに従い、事件捜査に変わって行く点が、そっくりです。 恐らく、この作品を雛形にして、視聴率問題を嵌め込む方式で、【渦】が作られたのでしょう。

  時間トリックが使われていますが、2時間サスペンスや刑事物などで、よくあるタイプで、目新しさはありません。この作品が書かれた頃ですら、ありふれたものだったのでは? 海外作品は、戦間期からですが、日本でも、戦後からは、本格トリック物がうじゃうじゃ書かれており、こういうトリックが使われていなかったとは、思えないからです。

  素人探偵の助手が、捜査好きで活動的な若い女性というのは、今の感覚からすると、テレビ・ドラマ的ですが、そういう組み合わせも、エラリー・クイーンの作品などで先行されており、さほど、珍しかったわけではないと思います。 この助手が喋る、山手言葉は、今となっては、大変、鬱陶しい。 1960年でも、実際の若い女性は、こんな喋り方はしていなかったと思うのですが。

  粗ばかり突ついているようですが、別に、面白くないわけではないです。 アリバイ崩し物として、充分、楽しめます。 動機が一貫している分、【紐】よりも、安定していて、振り回されずに済みます。


【草】 約61ページ
  1960年(昭和35年)4月10日号から、6月19日号まで、「週刊朝日」に連載されたもの。

  入院している病院で、院長と婦長(師長)が失踪する事件が起こり、駆け落ちであるという噂が流れる。 更に、薬室長が、首吊り自殺、事務長が、飛び降り自殺と、事件が続く。 異常な行動を取っていた患者の一人が、事件に関係していそうだと、主人公が気がついて・・・、という話。

  以下、限定的に、ネタバレ、あり。

  語り手の立場を明かさないまま、9割方の話が進むので、形式的には、アンフェア物です。 しかし、推理小説だからといって、全ての読者が、推理しながら読むわけではありませんから、フェアか、アンフェアかよりも、面白いかどうかや、ゾクゾクするかどうかが肝心なのであって、アンフェア物であっても、それだけで批判される謂われはないと思います。 

  で、この作品ですが、面白いです。 「あっ! アンフェア物だったのか!」と気づいた瞬間だけ、面白い、と言ってもいいです。 起こる事件について、語り手が、「推理の材料は、全て提示してある」と書いていますが、結構、複雑なので、分かる読者は、ほんの僅かでしょう。 ただ、印象的に、怪しい人間は、すぐに分かります。

  理屈だけ言えば、語り手の勤め先の部下が、屋上で何をしていたかが分かれば、語り手が何者なのかも分かりますが、この書き方では、分からないでしょうねえ。 私も分かりませんでした。 分かり難いように、工夫を凝らして書いてあるからです。




≪松本清張全集 5 砂の器≫

松本清張全集 5
文藝春秋 1971年9月20日/初版 2008年5月10日/10版
松本清張 著

  沼津市立図書館にあった本。 ハード・カバー全集の一冊。 二段組みで、長編1作を収録。 【砂の器】だけで、一冊を占めています。 つまり、【点と線】などに比べると、2倍以上の長さがあるわけですな。


【砂の器】 約436ページ
  1960年(昭和35年)5月17日から、1961年4月20日まで、「読売新聞 夕刊」に連載されたもの。


  蒲田駅の構内で、顔を潰された死体が発見される。 殺される直前に、被害者ともう一人の男が立ち寄ったバーでの会話から、東北方言風の言葉であった事と、「カメダはどうですか」という話をしていた事が分かるが、その方面を捜査しても、手がかりが途切れてしまう。 捜査本部の解散後、継続捜査をしていた刑事が、いわゆるズーズー弁が、東北以外でも使われている地方がある事を知り・・・、という話。

  梗概はこのくらいにしておきますが、この他にも、謎がてんこもりで、しかも、クロフツ的な、足を使った地道捜査で、コツコツと一つ一つ、結び目を解いていくタイプの描き込みがなされており、読み応え充分です。 推理小説の命とも言うべき、ゾクゾク感が、これだけ長く続く作品も珍しい。 全体の、8割くらいは、ゾクゾクしています。

  映画やドラマに、何度もなっていて、不朽の名作と見做されているわけですが、意外な事に、原作は、ラストが悪くて、読み終わった後には、何だか、肩透かしを食らわされたような、モヤモヤ感が残ります。 原作よりも、映画の方が、遥かに、まとも話になっており、その映画をなぞっているドラマも、原作よりは、遥かにまともです。

  原作のどこがおかしいかと言うと、第二第三の殺人の方法でして、科学的に、かなり怪しい方法が使われているのです。 この作品以外では、どの作家の、どんな推理小説でも使われていないところを見ると、こんな方法は、実際には、不可能なんでしょう。 大変、地道な捜査を積み重ねて来たにも拘らず、終わりの方で、いきなり、この似非科学的殺害方法が出て来て、幕となるので、「全て、ブチ壊し」という感じが、猛烈にします。

  ケチをつければ、地道捜査の段階でも、自殺する女が、今西刑事の自宅のすぐ近所に住んでいたり、第三の殺人の犠牲者が、今西刑事の妹の嫁ぎ先の二階に下宿していたり、偶然が過ぎる部分があります。 今西刑事が、犯人が着ていた、返り血のついたシャツを、どう処分したかを考えている時に、雑誌に出ていた文章で、列車から、紙吹雪のような物を、窓外に捨てている女がいたというのを読み、現場に探しに行くというのは、これまた、偶然が過ぎる。 殺害現場と掛け離れた場所で撒かれた紙吹雪と、細かく切ったシャツを結びつけるのは、大変な発想の跳躍がいるのでは?

  映画・ドラマでは、犯人は、ピアニストですが、原作では、前衛的電気音楽家という、分かり難い職業になっていて、それが、リアリティーのない殺人方法の伏線になるのですが、その点だけを見ても、映画の方が、いかに、まともであるかが分かります。 もし、あの映画が作られなければ、【砂の器】という作品名が、こんなに有名になる事はなかったでしょう。

  ところで、犯人の父親が、ハンセン氏病を患っていたという設定から、社会派作品に入れられているようですが、犯行の動機を作った原因として、重要ではあるものの、ストーリーの軸とは掛け離れており、特定の社会問題を提起する為に書かれた作品とは、到底言えません。 松本さんは、社会派の旗手のように見られていますが、真っ向から、社会問題を扱った作品は、意外に少ないです。 そんな事より、ゾクゾク感を狙う方が、優先だったわけだ。




≪松本清張全集 6 球形の荒野・死の枝≫

松本清張全集 6
文藝春秋 1971年10月20日/初版 2008年5月10日/9版
松本清張 著

≪写真上≫
  沼津市立図書館にあった本。 ハード・カバー全集の一冊。 二段組みで、長編1作、短編11作、計12作を収録。 ≪死の枝≫は、母の本が、うちにあり、過去に二回、読んでいるんですが、感想は書いていないので、一から読み直して、書く事にします。

≪写真下≫
  これが、家にある新潮文庫の、≪死の枝≫です。 角川文庫でないという事は、叔父から貰ったものではなく、母が自分で買ったのでしょう。 1974年(昭和49年)12月16日/初版、1984年7月30日/27版。


【球形の荒野】 約298ページ
  1960年(昭和35年)1月から、1961年12月まで、「オール読物」に連載されたもの。

  戦争末期、ヨーロッパの中立国から、スイスの病院へ移った外交官が、病死した。 戦後16年も経ってから、その外交官と同じ筆跡の文字が、奈良の寺の記帳簿に記されているのを、姪の当たる人物が、たまたま、目にする。 外交官の娘と交際している新聞記者が、その話を聞いて、もしや、外交官は生きているのではないかと思い、関係者に調査を始めたところ・・・、という話。

  以下、ネタバレ、あり。

  有名な書家の書体を手本にした文字で、そんな文字を書ける者が、そもそも少ない上に、日本にいた頃、奈良の寺を巡るのを趣味にしていたというので、偶然も、二つ重なると、必然の匂いがしてくるわけだ。 新聞記者による調査の描写は、クロフツ的な地道なもので、その辺は、クロフツ的に面白いです。

  最後まで、その調子で行けば良かったんですが、途中から、調査されている側の人物達が、新聞記者とは関係ないところで、話を進め始め、木に竹を接いだような印象になります。 間接的に、少しずつ、謎が解けて行くから、面白いのであって、本人達がベラベラ喋ってしまったのでは、ゾクゾク感も何も、あったもんじゃありません。

  概ね、面白い作品だと思いますが、違和感がどうしても拭えないのは、この外交官が、自分を死んだ事にしてまで、戦争終結工作に当たった事を、重大な問題行為だと見做している点です。 戦後16年どころか、5年も過ぎれば、日本国内は、アメリカ万歳の風潮になっていたのであって、この人を責める人間など、ごくごく一部になっていたはず。 外国にいたから、日本が変わった事に気づかなかったのかも知れませんが、帰国して、一週間も観察すれば、戦後日本が、戦前とは、全く価値観が変わっている事に気づいたと思うんですがねえ。

  あと、娘には会いたいが、妻には、微塵の未練もないというところが、いかにも、松本作品らしい人間観察で、面白いです。 今現在、フランス人の妻がいるから、そちらに気を使って、前の妻に興味がないフリをしていたという見方もできないではないですが。


【死の枝】 約149ページ
  1967年(昭和42年)2月17日から、12月まで、「小説新潮」に連載されたもの。 原題は、【十二の紐】。 11作で終わってしまったから、改題したようです。


「交通事故死亡1名」 約15ページ

  夜、前の車を追う形で走っていたタクシーが、前の車が急停車したせいで、急ハンドルを切り、そこにいた男を轢き殺してしまう。 運転手は、交通刑務所に送られたが、タクシー会社の調査員が、調べを進めたところ、被害者たちの関係が明らかになり・・・、という話。

  てっきり事故だと思っていたら、事故ではなかったというパターン。 こういう、交通事故を題材にした短編推理小説は、結構あると思うのですが、それらの嚆矢なのかも知れません。 ストーリーはシンプルですが、内容は濃密です。


「偽狂人の犯罪」 約18ページ

  借金の取り立てに耐えかねて、金貸しを殺す計画を立てた男。 刑罰を免れる為に、精神異常者のフリをする事に決め、事前に研究して、大変高度な演技力を身に着けるが、思わぬところで、正気である事がバレてしまう話。

  これは、一度読んだら、決して忘れない、傑作ですな。 人間の本性が、よく描かれているからでしょう。 ラストで、もう一捻りしてあるのですが、それは、蛇足気味。


「家紋」 約17ページ

  夜中に、親戚の家で人が死にそうだからと、そこの使用人が呼びに来て、まず、夫が、次に、妻が連れ出され、二人とも殺される。 一人残されて、成長した娘が、ある場面を見た事で、幼い頃の記憶が蘇り、犯人が誰だったかを知る話。

  梗概のまんまの話。 忘れていた記憶が、ある事をきっかけに呼び起こされて、というパターンは、松本作品では、よく使われます。 パターンが分かっていると、ゾクゾク感も、半分くらい。 犯人の動機が書かれていないので、想像で補うしかなく、その点、もやもや感が残ります。 


「史疑」 約12ページ

  現物が行方不明で内容も知られていない、新井白石の著作、≪史疑≫を所有しているという老人がいて、見せてくれと言って来る学者達の頼みを、悉く断っていた。 ある学者が、その家に忍びこんだところを見つかって、老人を殺してしまう。 公共交通機関を避け、山道を徒歩で逃げるが、たまたま、若い女と行きずりになり・・・、という話。

  四段階あります。 まず、≪史疑≫が本当にあるかないかの興味で、読者を引き込み、次に、殺人場面で、緊張感をマックスへ持って行きます。 続いて、犯行がバレない事で、一度、緊張を解いておき、最後に、意外なところから、調査の手が伸びて、露顕する、という流れ。 松本作品の黄金パターンですな。

  話の導入部に、歴史に関する謎を使うのは、【万葉翡翠】など、他にも、短編作品があります。 そういえば、社会派の系譜を引く、内田康夫さんの≪浅見充彦シリーズ≫でも、頻繁に使われますな。 ほんのちょっと、文化の香りをつけてやる事で、読者をして、高尚な作品を読んでいるような気分にさせるわけだ。 実際に起こるのは、教養とは何のかかわりもない、野蛮な殺人ですが。

  この作品、犯人が分かる経緯が、大変、変わっていて、ちょっと、捻り過ぎではないかとも思うのですが、そもそも、それ以前に、こういう事を思いつく作者の発想の自由さに、驚かされます。


「年下の男」 約13ページ

  社内の電話交換係をやっていて、婚期を逃しかけていた女性に、年下の恋人が出来た。 結婚式の日取りも決まったが、周囲が噂していたように、それまでの間に、男に若い女が出来てしまい、このままでは、結婚が取りやめになる恐れが出て来た。 社内で恥を掻きたくないばかりに、男を殺す計画を立て、実行するが、思わぬアクシデントで、露顕してしまう話。

  同じような設定の、【鉢植えを買う女】では、まんまと成功したのが、こちらでは、失敗します。 殺害方法は、非常に単純ですが、他にも登山者はいるわけで、見られないように決行するというのは、不確実といえば、不確実。 まあ、機会がなければ、次回を期すという手もありますが。

  カメラの中にいた虫から、場所が特定されるというのは、社会派の系譜を引く、森村誠一さんの作品でも、良く使われます。 松本さんが嚆矢なのか、外国作品に前例があるのか、その辺りは、不詳。 しかし、よっぽど、細かい事が気になる刑事でないと、カメラの中の虫まで、疑わないと思いますねえ。 


「古本」 約15ページ

  売れなくなった小説家が、久しぶりに、雑誌連載を頼まれたが、いいアイデアが出ない。 地方で、ふらりと寄った古本屋で、明治時代に書かれた、足利将軍家が題材の本を見つけ、あまりの面白さに、ほぼ、そっくり戴いてしまう。 連載は大好評となるが、そこに、ネタ本の作者の孫が現れ、恐喝を始める。 恐喝者を殺して、難を逃れたものの、その後、精神的に参って、書けなくなってしまい・・・、という話。

  これも、「ちょっと、文化の香り」と、「思わぬところから、露顕」というパターン。 松本さんでなくても、パターンが分かれば、誰にでも、類似作品が作れますから、恐らく、1960年代には、同パターンの模倣作が、膨大な数、新人賞の応募作や、編集部への持ち込み原稿として、存在したのではないかと思います。 模倣がうまいだけの人は、たとえ、デビューできたとしても、残れませんけど。


「ペルシアの測天儀」 約10ページ

  ある家に泥棒が入り、現金や、貴金属・宝石類に混じって、夫が外国で買ってきた、ペルシアの測天儀というメダルも盗まれたが、泥棒が捕まって、物だけは返って来た。 2年後、夫が愛人に、メダルをくれてやったところ、たまたま、愛人の家に同じ泥棒が入り、メダルを目撃した。 その後、痴情の縺れで、愛人が殺され、別件で逮捕されていた泥棒が、刑事に、メダルはなかったかと、尋ねる話。

  これも、「ちょっと、文化の香り」と、「思わぬところから、露顕」ですな。 ペルシアの測天儀が、日本では大変珍しい上に、泥棒がつけたキズがあり、同じ物に間違いないという事を、くどいくらい断ってあります。 泥棒が、たまたま、メダルのある家に、二軒も入るのは、ちょっと、偶然が過ぎますかねえ。


「不法建築」 約12ページ

  悪質業者による不法建築に悩まされていた役人が、ある時、業者が、妙にすんなりと解体を始めたのを不審に思い、同じ頃に起こった猟奇殺人事件の現場として、その建物が使われたのではないかと推理する話。

  前半は、不法建築というものが、どういう風に作られて行くか、業者と役所のイタチごっこをリアルに描いており、短いとはいえ、立派な社会派です。 犯罪部分よりも、そちらの方が、面白いです。


「入江の記憶」 約11ページ

  妻の妹と関係ができてしまった男が、自分の故郷に、義妹を連れてやって来る。 懐かしい風景を見る内に、子供の頃、父と、母の妹である叔母が不倫していた事を、断片的に思い出す話。

  親子で、同じ犯罪を繰り返すというパターン。 ただの不倫では、止まりません。 これから、殺すというところで終わっており、露見までは、描かれません。 話そのものが面白くないですが、倫理的にも問題があり、主人公を始め、出て来る人間全て、道に外れていて、全く共感できるところがありません。


「不在宴会」 約11ページ

  地方出張先で、接待の宴会を断った役人が、「出席した事にしておけばいい」と、業者に入れ知恵しておいて、愛人と落ち合う為に温泉旅館に行くと、何者かによって、愛人は殺されていた。 大慌てで、姿を晦まし、知らぬフリを決め込んだが、数ヵ月経った頃、刑事が訪ねて来て・・・、という話。

  確かに、刑事は来るんですが、そこが捻ってあって、正に、「語るに落ちる」としか言いようがない、オチがついています。 ショートショート的な軽妙な趣き、あり。

  この作品、ドラマ化されているんですが、2時間サスペンスにするようなボリュームは、とてもなくて、水増しの限りを尽くさなければ、そんなに長くできません。 そして、そんなに水増ししたら、全く別の話になるのは避けられず、せっかくの軽妙なオチが、台なしになってしまいます。 原作通りなら、30分くらいのドラマにしかならないでしょう。


「土偶」 約13ページ

  戦後、軍需物資の横流しで儲けた男が、女連れで、地方の温泉に静養に来ていた。 たまたま、田舎道で出会った女が、騒ぎ出したせいで、弾みで殺してしまい、その女を探しに来た男も殺してしまった。 彼らは、考古学の発掘隊員で、荷物の中に、土偶があった。 捜査の手が及ぶ事はなかったが、それ以来、呪いのようなものを感じて、骨董屋が薦める土偶を、買い集めないではいられなくなる。 ある時、我慢の限界を越えて、高価な土偶を、みんな壊して、捨ててしまうが、その行為が不審がられて・・・、という話。

  「ちょっと、文化の香り」の方はいいとして、「思わぬところから、露顕」には、当て嵌まりません。 なぜなら、高価な土偶を割って捨てれば、周囲から不審がられるのは、当たり前だからです。 疑ってくれと、自分で工作しているようなものではありませんか。




  以上、四冊です。 読んだ期間は、今年、つまり、2020年の、

≪殺人暦≫が、8月23日から、26日。
≪松本清張全集 4 黒い画集≫が、8月26日から、9月1日まで。
≪松本清張全集 5 砂の器≫が、9月6日から、8日まで。
≪松本清張全集 6 球形の荒野・死の枝≫が、9月8日から、13日まで。

  ≪殺人暦≫は、手持ちの本で、買ったのは、比較的早かったのですが、読むのを忘れていて、後から買った物を先に読んでしまい、読むのが遅れました。 普通は、購入から、一ヵ月後くらいには読むのですが、三ヵ月もかかっているのは、そのせい。

  ちなみに、アマゾンやヤフオクで買った本は、とりあえず、触らずに置いておき、5日経ったら、アルコールを吹いたハンド・タオルで除菌して、本棚に入れます。 それから、更に、一ヵ月待ち、ようやく、読みます。 一ヵ月待つのは、新型肺炎の流行前から、やっている事。 大抵の、菌やウィルスは、それだけ待てば、死んでしまいます。

2020/11/22

読書感想文・蔵出し (68)

  読書感想文です。 このシリーズ、前回は、8月30日だったので、2ヵ月半ぶりです。 感想文の在庫が、だいぶ溜まっているので、3回くらい、続きます。 読書は、着々と進んでいますが、未だに、図書館の松本清張全集が、半分も行きません。





≪松本清張全集 20 落差≫

松本清張全集 20
文藝春秋 1973年1月20日/初版 2008年6月25日/8版
松本清張 著

  沼津市立図書館にあった本。 ハード・カバー全集の一冊。 二段組みで、長編1作を収録。 一作で一冊ですから、長い小説もあったもんだ。


【落差】 約439ページ
  1961年(昭和36年)11月12日号から、1962年11月21日号まで、「読売新聞朝刊」に連載されたもの。

  女癖の悪い大学助教授が、死んだ友人の妻を助けるフリをして、囲ってしまったり、他の友人が地方へ出張に行っている間に、その妻を籠絡しようとしたり、好き放題やる話。

  推理小説ではないです。 犯罪小説となら言えなくもないですが、それですら、曲解で、一番近いカテゴリーとしては、サラリーマン小説ではないかと思います。 主人公が、大学助教授だというだけで。 とはいえ、必ずしも、大学が舞台というわけではなく、主人公が、スケコマシに励む活動が、様々な場所で繰り広げられます。 ただし、松本清張作品ですから、官能描写のようなものはありません。

  主人公が、教科書の執筆をやっている設定で、教科書の選定や売り込みに関するネタが盛り込まれており、その点、社会派小説になっています。 ただし、そちらがメインではなくて、あくまで、主人公のスケコマシが、話の眼目なので、目晦まされないように、注意が必要。

  こんな主人公には、微塵も同調できないのであって、始終、「こいつ、逮捕されるか、殺されるか、しないものかな」と、そちらを期待しつつ読む事になります。 そういう小説は、あまり、ノリが良くなくて、なかなか、ページが進みません。 地方出張中の友人の妻をつけ狙う件りなど、強姦魔と言う以外、形容のしようがなく、ほとほと、げんなりする。 しかし、こういうタイプの男は、実際にいるんだわ。 傍から見れば、犯罪なのに、本人は、自分の男性的魅力で、女をものにしていると思っているから、始末が悪い。

  「地方の学校への教科書の売り込みは、女の営業員の方が適している」という文句が出て来て、「なぜだろう?」と思っていたのですが、後に分かって来るのは、しょーもない理由でして、教師の実態を知っている人なら、「なるほど、そういう事も多いだろう」と頷けると思います。 やはり、松本さんは、世の中の暗部を良く知っている。

  こういう小説を読んでいると、くさくさ、この世の中が、嫌になって来ます。 残念な事ですが、こんな奴らの方が、多数派なんだわ。 人間のクズが、大きな顔で、のさばっているのが、現実なんだわ。 なまじ、推理小説でないだけに、人間の醜さが、リアリティー全開で描かれていて、気が滅入って来ます。




≪松本清張全集 19 霧の旗・砂漠の塩≫

松本清張全集 19
文藝春秋 1971年7月20日/初版 2008年6月25日/8版 
松本清張 著

  沼津市立図書館にあった本。 ハード・カバー全集の一冊。 二段組みで、長編3作を収録。 【火と汐】は、以前に、文庫本で読んで、感想を書いていますが、一作なので、同じ物を出しておきます。


【霧の旗】 約162ページ
  1959年(昭和34年)7月から、1960年3月まで、「婦人公論」に連載されたもの。

  殺人の濡れ衣を着せられた兄を弁護してもらう為に、地方から東京まで出て来た女性が、頼りにしていた弁護士に、費用が払えないだろうからという理由で、冷たく追い返される。 兄が獄死した後、東京のバーに勤めた女性が、弁護士の弱みを掴んで、復讐を遂げようとする話。

  何度か、ドラマ化されているので、ストーリーは知っていました。 面白いです。 いや、大変、面白いです。 映画化2回、ドラマ化9回くらい、されているようですが、凄い数ですな。 しかし、これだけ、面白い話なら、映像作家の面々が食いつくのも、不思議はないです。

  何が面白いといって、主人公の女性が、自分の兄を見捨てた弁護士を、最後まで容赦しない事でして、ドライもドライ、人情物の気配なんぞ、微塵も感じさせず、とことん追い詰めて、相手を完全に破滅させるまで、手を緩めないところが、実に、爽快。 崖の上で、お涙頂戴の因縁話に、40分も割いているような、へっぽこ2時間サスペンスの製作者達は、爪の垢でも煎じて飲むべきでしょう。

  この復讐、常識的に考えれば、逆恨みなのですが、弁護士側に、愛人に早く会いたいばかりに、女性の二度目の訪問を受け付けなかったという、弱みがあり、読者に、逆恨みだと思わせない設定が、絶妙の匙加減で施されています。 実に、巧みだ。 この設定のお陰で、読者は、弁護士を追い詰める女性に対し、「もっと、やれ!」と、残忍なエールを、罪悪感なしに送れるわけですな。

  弁護士が、「第一の殺人の真犯人が分かった」と言っても、女性は聞こうともしないのですが、それは道理でして、第一の殺人の被害者は、女性の縁者でも何でもないのですから、真犯人が誰かなんて、どうでもいいんですな。 女性にしてみれば、兄が見殺しにされてしまった、その点だけが、問題なわけだ。

  「第一の殺人の犯人と、第二の殺人の犯人が、同一人物」という見立ては、ちと、偶然が過ぎますが、何と言っても、この作品の眼目は、復讐にあるのであって、殺人事件は背景に過ぎず、誰が犯人だろうが大した問題ではないという、推理小説としては、かなり、風変わりな特徴を持っています。


【砂漠の塩】 約178ページ
  1965年(昭和40年)9月から、1966年11月まで、「婦人公論」に連載されたもの。

  互いに配偶者がいる身で、心中を覚悟し、海外へ駆け落ちした女と男が、カイロからバグダッドまで、逃避行をする話。

  1969年の【象の白い脚】と同様、基本的には、海外紀行で、それを、小説に仕立てたもの。 砂漠で心中したがるというのが、かなり、無理がありますが、国際的な犯罪が絡んでいない分、【象の白い脚】よりは、リアリティー的に救われています。

  それにしても、不倫の挙句、外国へ逃げて暮らすというのなら、まだ分かるのですが、死を覚悟して、わざわざ、外国へ行くというのは、やはり、変な感じがしますねえ。 来られた側にしてみれば、大変な迷惑。 死体を発見したのが、たまたま、そこに仕事で来ていた日本人だったというのも、御都合主義です。 それこそ、「砂漠で、針を捜す」的な偶然ではないですか。

  そもそも、不倫はするわ、自殺はしようとしているわ、そういう人間を、小説の主人公にしても、読者が同調してくれますまい。 そんな道に外れた事をする人は、ごく少数派なんだから。 はっきり言って、主人公達の気持ちが分からないですし、分かりたくもないです。

  風景の描写部分は、完全に紀行文ですが、もし、単なる、作家の旅行記として発表したら、それはそれで、読む人はいなかったでしょうなあ。


【火と汐】 約71ページ
  1967年(昭和42年)11月号、「オール読物」に掲載されたもの。

  夫が、油壺と三宅島を往復するヨット・レースに出場している数日の間に、浮気相手と京都へ旅行に行っていた妻が、大文字焼きの見物中に姿を消し、その死体が、浮気相手の住居の近くで発見される。 当初、浮気相手の男が疑われるが、二人の刑事が、夫の方が動機が強いと当たりをつけ、殺害時刻に海の上にいたという鉄壁のアリバイを崩そうと試みる話。

  この話、ドラマ化されたものを見た事があります。 1996年と2009年で、2作あるようですが、どちらを見たのかは、忘れてしまいました。 他に、西村京太郎さんの≪赤い帆船≫の中に、この作品そのものが小道具として登場した事で、より強く、印象に残っています。 ちなみに、タイトルの「汐」は、ヨット・レースの事ですが、「火」というのは、大文字焼きの事。

  ネタバレしていても、充分面白いから、書いてしまいますが、海の上にいたのだから、京都へ行けるわけがないのに、そこを、巧みなトリックを使って、行き来を可能にしたというのが、作品の特徴です。 鉄道の時刻表トリックのアレンジと言えば言えますが、舞台を海の上に移し、空路まで絡めて、「ありえなさ」をより増幅した事で、読者の意表を衝く事に成功しています。

  面白いのですが、結末が、逮捕に至らないのは、ちと、釈然としないところ。 こんな幕切れを選ぶ人間なら、そもそも、こんなに凝った計画殺人なんて、目論まないでしょうに。 離婚してしまった方が、遥かに、賢いです。




≪真説 金田一耕助≫

角川文庫
角川書店 1979年1月5日/初版 1979年1月30日2版
横溝正史 著

  2020年5月に、ヤフオクに出ていたのを、競らずに、100円で落札し、入手したもの。

  横溝作品の角川文庫・旧版は、カバーの背表紙が、黒地に、緑字(大人向け)、赤字(人形佐七捕物帳)、黄色字(少年向け)が普通ですが、この本は、小説ではないからか、白地に、黒字です。 それでいて、通し番号は、「63」で、旧版シリーズの中に入っているので、本棚に並べると、黒の間に、白が一冊だけ挟まる格好になり、非常に違和感があります。

  旧版中、この本と、この後に出た、≪金田一耕助の冒険1・2≫だけ、カバー絵が、和田誠さんです。 更に、この本には、新聞連載の時に使われていた、和田誠さんのイラストも、そのままついています。 簡単過ぎて、私はあまり好きではないですが、こういう絵が好きという人も多い事でしょう。

  1976年9月から、1977年8月まで、日曜日のみ、毎日新聞に、全51回、連載されたもの。 文庫サイズで、約160ページくらい。 日記、随筆、回想記など、内容は、行き当たりばったりで書いていた模様。

  1976・77年と言ったら、横溝大ブームの真っ最中でして、他者から見て、横溝さんが最も輝いていた時期の、ご本人のリアル・タイムの考えや心情が書き込まれている点で、大きな価値があります。 その点、戦中と、敗戦直後の様子を書いてある、≪金田一耕助のモノローグ≫よりも、内容にひきつけられます。

  内容が興味津々である上に、非常に読み易い文章で書いてあるので、2時間もあれば、読み終えてしまいます。 というか、一度読み始めたら、最後まで、止まりません。 これを読まずして、横溝大ブームは語れないと思われるほど、興味深い。 横溝作品が、角川文庫で、改めて売り出され、ブームが始まったのは、70年代初頭ですが、76年には、≪犬神家の一族≫の映画が封切りされて、ただのブームが、大ブームに盛り上がり、絶頂を迎えた時に、この連載がされていたわけですな。 毎日新聞の読者は、さぞや、楽しく読んでいた事でしょう。

  ≪犬神家の一族≫との関係上、映画の話題が多いです。 戦後、金田一物が続々と映画化された頃の事も、かなり詳しく書いてあります。 専ら、片岡千恵蔵さんが金田一を演じた、それらの映画は、今では、見られませんが、原作とは、まるで違ったものだったとの事。 脚本家が、犯人まで変えてしまっていたというのだから、呆れた話ですが、映画の脚本家というのは、そもそも、そういう権限が与えられているようで、大ブームの頃に作られた、市川崑監督の5部作にも、犯人が変わっているものが含まれています。

  一時期、社会派推理小説に押されて、筆を断っていた横溝さんが、ブームが来てから、小説の執筆を再開し、中途放棄してあった作品を完成させたり、昔書いた短編を新作長編に仕立て直したり、更には、真っ更な新作長編の構想を立てたり、創作意欲に満ち溢れていた事が書いてあります。 実際には、この後に書かれたのは、≪悪霊島≫だけで、1981年には亡くなってしまうのですが、≪悪霊島≫だけといっても、かなりの長編でして、よくぞ、書いて下さったと、頭が下がる思いがします。

  横溝さんは、読者から、好かれるわけですなあ。 この本を読んでいると、つくづく、それが分かります。 「サービス精神旺盛」と、自分で書いていますが、正に、その通りでして、読者から見ると、大変、人柄が良い作家で、好感を抱かずにはいられません。 その上、作品も面白いのだから、文句のつけようがない。 偉大な仕事をした人だったんですなあ。




≪空蝉処女≫

角川文庫
角川書店 1983年12月10日/初版 1984年9月10日5版
横溝正史 著

  2020年5月に、ヤフオクに出ていたのを、二冊セット、340円で入手した内の一冊。 横溝作品の角川文庫・旧版の中では、70番目。 大人向け小説作品としては、後ろから2番目です。 大正末期から、戦後間もない頃までに書かれた短編、9作を収録。 表題作の【空蝉処女】は、以前、≪横溝正史探偵小説コレクション⑤≫で読んでいて、感想も出していますが、一作なので、同じ感想を出しておきます。


【空蝉処女】 約26ページ
  1946年(昭和21年)に、「群青」向けに書かれたが、掲載されず、作者の没後に発見され、1983年(昭和58年)8月、「月刊カドカワ」に掲載されたもの。 タイトルの読み方は、「うつせみおとめ」。

  空襲で怪我をして、記憶を失った若く美しい女性を、岡山の山村の、ある家で預かっていた。 歌を歌う以外に、赤ん坊をあやすような仕草をするので、既婚者だったのかと疑われていたが、実は・・・、という話。

  推理物ではなく、一般小説と純文学の中間みたいな話。 記憶を失い、抜け殻のようになった女性が、山村の人気のない場所で、「山のあなた」を歌っているという、その情景を描きたいばかりに書いたんじゃないでしょうか。 女性の正体が分かると、ちと、興醒めしますが、悪い結末ではないです。 タイトルの字に、「乙女」ではなく、「処女」を使っているところが、ちょっとしたヒント。


【玩具店の殺人】 約22ページ
  1947年(昭和22年)1月、「トップライト」に掲載されたもの。

  戦後、食い詰めかけた芸術家たちが集まり、人形を中心にしたオモチャを作って、焼け跡に、それらを売る店を開いた。 ある朝、店の中で、リーダー格の男の、かつての恋人の首吊り死体が見つかったが、その片目からは、義眼が外されていて・・・、という話。

  焼け跡に、突如として、おもちゃ屋が出来るという出だしは、シュールな雰囲気で宜しいです。 とはいえ、これは、横溝さんではなく、江戸川さんの趣味ですな。

  おもちゃ屋の中に、女の死体がぶら下がっているという取り合わせは、落差があって良いのですが、事件の方が、ひねりに欠けていて、短編としての出来は、まずいです。 このページ数で、雰囲気も、謎も、というのは、無理があるのかも。


【菊花大会事件】 約24ページ
  1942年(昭和17年)1月、「譚海」に掲載されたもの。

  都内で起こった爆弾事件に、たまたま出くわした新聞記者、宇津木俊介が、被害者のポケットから、「赤赤赤白白赤赤・・・」と書き込まれた、菊花大会の入場券を発見する。 会場へ行ってみると、赤い花と白い花の鉢が並んでいた。 爆弾事件が起こる場所を示していると思われる暗号を解こうとするが・・・、という話。

  戦時シフト作品です。 国策協力に半分足を突っ込んでいますが、暗号が入っているという事は、まだ、全面的に協力する気はなかった証拠。

  「宇津木俊助」というのは、横溝さんが戦前に使っていた探偵役、「由利麟太郎」の弟子である、「三津木俊助」とは、別人のようで、由利先生は出て来ません。 暗号を解くのは、宇津木の同級生。 24ページですから、話は簡単なものです。 暗号は、読者が解けるタイプではないです。


【三行広告事件】 約22ページ
  発表年、掲載紙、不明。 戦時中の作品である事は確か。

  新聞の三行広告に出ていた、不動産買取・賃貸の広告から、外国スパイの陰謀を嗅ぎつけた、由利麟太郎と三津木俊助が、爆撃の目標にする為の細工を施した家を突き止める話。

  戦時シフト作品です。 【菊花大会事件】よりも、更に、国策協力に近づいていますが、活劇が入っているのは、まだ、反骨精神が生きている証拠。 この頃はまだ、少し国策協力的な部分を入れておけば、検閲を通っていたわけですな。 軍部は、探偵小説は勿論、娯楽小説全体を無価値なものだと思っており、やがて、どんな作品でも、通らなくなってしまうのですが。 

  三行広告の方は、謎というほどの謎ではなく、見せ場は、活劇ですが、この短さですから、そちらも、簡単なものです。 由利先生が、国策協力を口にするのは、痛々しくて、読んでいられませんな。


【頸飾り綺譚】 約10ページ
  1929年(昭和4年)8月、「朝日」に掲載されたもの。 タイトルの読み方は、「くびかざりきだん」

  妻のネックレスを質入れしてしまった夫が、安いイミテーションを作ってすりかえ、知らぬ顔をしていた。 それを、妻が外出先でなくしてしまい、届けてくれた人に、礼金を約束して取り戻す羽目になったが、実は・・・、という話。

  ショートショートですな。 意外な結末が、ちゃんと付いています。 イミテーションを取り戻す為に、その25倍の礼金を払うのですが、それだけのお金を工面できるのに、妻のネックレスを質入れしなければならぬというのは、一応、説明はされているものの、些か、腑に落ちないところがあります。

  ちなみに、この夫の名前は、「山名耕作」なのですが、【山名耕作の不思議な生活】の主人公とは、別人のようです。 あっちの山名耕作が、やり手の仲買人になって、しかも、妻帯しているというのが、想像できません。 


【劉夫人の腕輪】 約14ページ
  1928年(昭和3年)3月、「サンデー毎日」に掲載されたもの。

  場所は、神戸。 中国の探偵劇を見たくて、中国人の友人に頼み、連れて行ってもらった青年がいた。 劇の後、歓談会となるが、友人の父親が秋波を送っていたある夫人の、大きな腕輪が妙に気にかかって・・・、という話。

  一応、犯罪物ですが、推理するような要素は、希薄です。 ラストで、「ああ、そういう事か」と分かるだけ。 些か、グロテスク。 注目すべきは、神戸の中国人社会を垣間見た、その雰囲気の描写でして、「こんな短編なのに」と驚くほど、エキゾチズムに充ち満ちています。


【路傍の人】 約48ページ
  発表年、掲載紙、不明。 1929年(昭和4年)に発刊された、≪日本探偵小説全集10≫に収録。

  神戸の街で、行った事がない喫茶店を巡るのを趣味にしている男が、自分と同じ趣味の青年と出会う。 その青年は、自分に、直覚的推理力があると言い、犯罪の兆候を嗅ぎ付けて行く。 場末で、人にたかって暮らしている狂女を、一目で、偽者だと見抜くが・・・、という話。

  そこそこ長いだけあって、内容も濃いです。 数奇な物を求めて、街をうろつくという点、この作品も、横溝さん的というより、江戸川さん的です。 話の纏まりが悪いのも、江戸川さん的。 まさか、横溝さん名義で発表された、江戸川作品なのでは? 神戸が舞台とはいえ、この程度の情景描写なら、出身者でなくても、できそうです。

  以下、ネタバレあり。

  殺人事件が一つ起こりますが、なんと、そちらの犯人究明は、うっちゃらかしで終わります。 「異様なほどに、強い好奇心に突き動かされている人たち」という、テーマがあって、そちらを描くのが主眼。 殺人事件は、それと関係ないから、解決する必要はないという理屈ですな。


【帰れるお類】 約22ページ
  1926年(大正15年)11月、「探偵趣味」に掲載されたもの。

  売れない作家の夫に業を煮やし、売れている作家の男と駆け落ちしようとした妻が、相手にスッポかされてしまい、「書き置きまでして来たのに、どうしよう」と頭を抱えつつ、家に戻って、何とか、夫をごまかそうとする話。

  一般小説の短編。 書きようによっては、純文学になり得る要素を持っているのですが、軽いタッチで、気の利いた話風に書いているせいで、ラストの仕掛けが、今一つ、うまく作動していません。


【いたずらな恋】 約24ページ
 1926年(大正15年)9月、「苦楽」に掲載されたもの。

  二枚目俳優に似た青年が、思いを寄せている、ある夫人から、「昔書いた手紙をネタに、ある男から恐喝されているので、どうにかしてくれ」と頼み事をされる。 早速、その男の家に忍び込んで、こっそり手紙を取り返すが、男に見つかってしまい・・・、という話。

  オチがついている、ちょっと気の利いた話の一類。 この頃の横溝さんは、こういう話ばかり、考えていた模様。 ショートショートが好きな人が読めば、「この辺りが、ショートショートの原型なのだろう」と、思うと思いますが、日本でショートショートを始めたのが横溝さんというわけではなく、この頃の作家で、こういう軽妙な短編を書いていた人は、他にも多かったろうと思います。 そもそも、戦後まで作家を続けられた人が少なく、更に、現代まで作品を読み継がれている人は、横溝さんと、江戸川さんくらいのものだから、他はみんな、忘れられてしまったんですな。

  主人公が、二枚目俳優に似ているという設定は、生きているような、オチに関係していないような、微妙なところ。 伏線にしようと思って書いたけれど、話の流れで、どうでもよくなってしまい、回収し忘れたような感じです。




  以上、四冊です。 読んだ期間は、今年、つまり、2020年の、

≪松本清張全集 20 落差≫が、8月1日から、9日。
≪松本清張全集 19 霧の旗・砂漠の塩≫が、8月12日から、14日まで。
≪真説 金田一耕助≫が、8月16日。
≪空蝉処女≫が、8月17日から、22日まで。

  ≪真説 金田一耕助≫と、≪空蝉処女≫は、手持ちの本です。 手持ちの本は、汚染の危険がゼロに近いから、気楽に読めます。 図書館の本は、塩素溶液をつけたティッシュで、浄化してから読みますが、本を閉じるたびに、手を消毒しています。 紙の表面は、新型肺炎ウィルスが、24時間程度しか生きていられないそうなので、警戒し過ぎだと思いますが、まあ、手指の消毒は、すぐに終わるので、大した負担ではないです。 家の外から持ち込んだものに関しては、用心しておくに越した事はありますまい。

2020/11/15

新型肺炎あれこれ ⑨

  このシリーズ、久しぶりだな。 シリーズ外でも、新型肺炎がテーマの記事は書いているから、かなり、いい加減な分類ですけど。 ⑧までは、日記ブログからの移植でしたが、今回は、書き下ろしです。 雑誌じゃないから、書き下ろしだから、貴重というわけではありませんが。




  先に書きますと、新型肺炎の状況について、現状で満足しているわけではないです。 それどころか、冗談じゃない状況が続いていると思っています。 しかし、そんな状況でも、長く続くと、慣れてしまって、「こんな状況のまま、次第に収まって行くのかな」などと思いがちですが、とんでもない! それは、単なる期待であって、今の所、収まっていく兆候など、全く見られません。 そんなに甘いウィルスではないです。

  日本国内だけに限定しても、感染者が、一人でも残っていれば、そこからまた、広がって、全員に感染させる力があるのであって、個々人の努力程度では、とてもとても・・・。 何度も言いますが、感染者が自然に減って行くなどという事は、金輪際、ありません。 世界中どの国を見ても、そんな例がないのが、最大の証拠です。

  その点、日本の、旧専門家会議や、分科会の医学者たちが口している、「クラスターだけ追っていれば、個人間感染は、自然に消滅する」とか、「第一波の何型ウィルスは、根絶した」などという見解は、全く信用するに足りません。 彼らが言っているのは、単なる希望であって、学術的根拠がある予測ではないです。 予測を立てられるほど、彼らが、新型肺炎を知っているとは、まるっきり思えません。

  根絶するには、中国がやっているように、地域内全員検査をするか、台湾がやったように、水際で入ってこないようにしてしまうか、どちらかしかないです。 ちなみに、水際作戦は、早い内に手を打った所だけが成功したのであって、日本や欧米諸国のように、すでに、蔓延している所では、まず、感染者ゼロに持っていかなければ、実行できません。

  韓国方式は、一時期、成功例として、讃えられましたが、完全な対策にはなっていないようです。 今でも、日当たり、二桁程度の感染者が出ているという事は、日本や欧米より、桁違いに少ないとは思うものの、市中感染が連鎖しているわけで、何せ、一人でも残っていれば、そこから全員に広まるのですから、いつまで経っても、安心できない状態が続く事になります。

  韓国以上に強力な追跡システムをもっている中国が、「追跡システムだけでは、捕捉しきれない」と判断して、地域内全員検査を導入し、一網打尽にして、何とか、根絶に成功したわけですが、韓国も、全国民検査を目指した方がいいと思います。 それだけの検査能力があるのですから。 もっとも、遥かにレベルの低い対策しかとれていない、日本の人間が、ああだこうだ言える事ではないですが。

  台湾は、水際作戦に成功した稀有な例ですが、中国のように、一度、感染拡大してから、対策を取って根絶したわけではないので、油断しない方がいいと思います。 いずれ、外部から、感染者が入り込んできて、感染が拡大する恐れがありますから、ゆとりがある内に、検査能力を増強して、全国民検査ができるようにしておいた方がいいでしょう。 もっとも、遥かにレベルの低い対策しかとれていない、日本の人間が、ああだこうだ言える事ではないですが。

  欧米は、もう、駄目だなあ。 どこもかしこも、グジャグジャだなあ。 先進国ぶっていた国々が、まるで、お手上げなのだから、呆れを通り越して、憐れさえ誘います。 もっとも、日本も大差ないですが。 WHOは、相変わらず、役に立っておらず、「ロック・ダウンなんかより、中国方式の全員検査をやれ」と勧告すればいいものを、流行初期に、「中国寄り」と批判された事で、羹に懲りて膾を吹いているのか、言おうとしません。 成功例に倣わなくて、どうすりゃ、成功できるのか? そんな事は、馬鹿でも分かりそうなもの。

  死者が爆発的に増えていないのは、せめてもの希望ですが、それも、いつまでもつやら。 一時期、「弱毒化した」などという説も出ましたが、弱毒化というのは、半年や一年では起こらないそうで、死者が減っているのは、別の原因でしょう。 それも、医療崩壊がまた起これば、どうなるか分かりません。

  そういえば、一時期、感染者を減らしたニューヨークでも、また感染拡大しているそうですが、つまり、追跡や、自発的検査だけでは、感染者を捕捉しきれないんですな。 民間人の「トレーサー」というのが、ほんのいっとき、日本の識者の間で、「手本にすべき」と、持て囃されていましたが、あんなの、全然、力不足だったわけだ。 実際、電話をかけるくらいの事しかできますまい。 なんで、あんなのを持て囃していたのか、日本の識者の気が知れぬ。

  韓国やニューヨークの検査で、「いつでも、誰でも、何度でも」というのも、いっとき、持て囃されていましたが、それでも、駄目なんだわ。 力が足りないんだわ。 自発的検査である限り、本人に検査を受ける気がなければ、それまでなので、捕捉に繋がらないんだわ。 何度も繰り返しますが、一人でも感染者が残っていれば、そこからまた、全員にうつるのですから、取り零しが、いかに重大な問題かが分かろうというもの。

  欧米・日本の政治家たちが、「ワクチンさえ、できれば」と、そればかりに頼っているのは、見え見えですが、獲らぬ狸の皮算用もいいところで、ワクチンが出来るかどうかなんて、今の段階では、全く、分かりません。 まして、「何年何月までに」などというのは、獲らぬ狸の皮で、孫の代まで養おうと算盤を弾いているようなものです。 ワクチンに頼るのは、有効なのが出来てからにした方がいいでしょう。 ちなみに、SARSや、MARSのワクチンも出来ていないので、新型肺炎のワクチンが、数年内に一つも出来なくても、全然、不思議はないです。

  集団免疫理論は、最初から、与太話でしたが、今となっては、口にするだけでも愚かしい。 抗体が出来ても、三ヵ月しかもたないのでは、集団免疫なんて、いつまで経っても、形成されるわけがないです。 ワクチンで出来た抗体も同様だったら、ワクチンを延々と打ち続けなければならず、そんなに膨大な数を、生産・配布・接腫できるのか、大いに疑わしい。 そんな金があったら、全員検査して、感染者ゼロにしてしまった方が、早いし、お金もかかりません。

  そもそも、「全員のPCR検査はできない」と言っている一方で、「ワクチン接種は全員にやる」と言っているわけですが、ワクチン接種が、PCR検査に比べて、費用や手間の面で、実現・非実現の差が出るほど、簡単なものなのか、これまた、疑わしい。 ちなみに、インフルエンザのワクチンを接種する人というのは、どのくらいの割合なんですかね? 全員どころか、半分も行かないと思いますが。

  日本人の間では、「日本は、欧米ほど、ひどくはなっていない」という優越安心意識があると思いますが、相変わらず、日本の実際の感染者数は、分からないままです。 認定感染者数が発表されているだけ。 検査数は、依然、劇的に増えているわけではないので、陽性率が同じくらいで推移していれば、検査数の上限で、認定感染者数も、ある程度決まってしまいます。 別に、厚労相が、与党内で最も衛生知識がある田村さんに変わったからと言って、事情が大変わりするわけではなかったわけだ。

  まず、検査数が少なすぎる。 次に、クラスターを除き、衛生当局の方から、感染者を探しに行かないので、検査を受けに来ない感染者がいる。 無症状者は、完全に野放しで、自分でも気づいていないのだから、検査に来るわけがないですし、軽症者は、自覚症状があるわけですが、検査を受ける前には、新型肺炎かどうか、当人にも分かりません。

  もしやと思っても、新型肺炎である事が周囲に分かってしまうと、吊るし上げを食らう恐れがあるので、それを避ける為に、検査に行かず、体調が悪い事を気取られないように、学校や職場を休む事さえしません。 「ちょっと、寝不足で、頭がクラクラしててさあ」などと、テキトーな事を言って、ごまかす。 マスクさえしない。 他人にうつしても、構わないと思っている。 その結果、学校や職場で、クラスターが発生したら、どさくさ紛れに、自分も検査を受けて、「うつされました面」をしていればいい。 こういう奴、大変、多そうだな。

  日本の追跡システムが、全く機能していないのは、しょーもない感じが強烈ですねえ。 予想はしていましたが、ものの見事に、無能ぶりを曝け出しているのは、絶望的だな。 また、機能していないのが分かっているのに、改善しようともしないのだから、度し難い。 発表された時、ニコニコ笑う写真が新聞に載っていた開発者は、今も、笑っているのだろうか?

  たとえ、追跡システムが、完全に機能したとしても、感染者を全員、捕捉する事はできないのですよ。 最も強力な追跡システムを持っている中国が、追跡システムの能力を見限ってしまったのだから、確実です。 韓国、イスラエル、ロシアなど、追跡システムがあるにも拘らず、根絶できない様子を見ても、それは分かります。

  人は嘘をつくし、隠し事もする。 感染している事がバレたら、吊るし上げられると分かっていて、誰が素直に従うものかね。 感染者である事を周囲に知られても構わないというのは、芸能人くらいのものでしょう。 芸能人は、むしろ、告白して、入院し、さっさと治してしまった方が、得です。 告白しない方が、吊るし上げられる危険性が高いから。 一般人は、逆ですな。

  それにしても、東京だけでも、日当たり、200人近い感染者が出ている状態が、もう、4ヵ月くらい続いているのに、一体、どこに収容しているのか、不思議でならない。 ホテルの借り上げなんか、追いつくわけがないのであって、という事はつまり、自宅待機させている以外に考えられませんが、ゆうに万を超える感染者たちが、自宅で過ごしているというのは、恐怖の一語だな。

  家庭内感染で、全員にうつっていたら、最低でもその内の一人は、食料品や生活必需品の買い出しに出なければならないわけで、その辺のスーパーに来ているんでしょうねえ。 いやまあ、その人達が悪いのではなく、感染者を隔離・治療しない衛生当局が悪いわけですが。

  北海道や、沖縄など、島になっている自治体に限られますが、この、絶望的な状況から脱するには、本州・九州・四国との人の行き来を、一旦、断ち、その上で、全員検査を行なって、感染者を捕捉し、隔離・治療して、ゼロにする。 一時的に、経済がストップするわけですが、無症状者や、軽症者は、長引いても、一ヵ月程度で、社会復帰できるから、致命的な打撃にはならないと思います。

  一旦、感染者をゼロにし、世界に対して、「この島には、感染者がいません」という宣言をした上で、中国、ベトナム、台湾、ニュージーランドなど、同じように、感染者がいない地域の観光客だけ、受け入れたら、いいかも知れません。 本州・四国・九州との人の行き来は、断ったままですが、交流相手国に中国が含まれていれば、観光業や飲食業は、客が少なくて潰れるという事はないでしょう。

  九州や四国でも、島内の人口総数が少ないですから、理論的には可能ですが、県が複数あるので、合意が大変になると思います。 もし、九州・四国で、感染者ゼロが達成されれば、先行した北海道・沖縄との間で、人の行き来を再開できます。 ゼロになった所同士なら、いくらでも、交流していいわけだ。

  本州の都府県も、都府県境を完全に遮断できるのであれば、同じ事ができますが、国は勿論、自治体でも、そこまで思い切った決断ができるとは思えないので、現実味は薄いですな。 そもそも、こういう事は、国がOKを出さなければ、自治体が勝手にやるわけにも行きませんし。

  国がやるとしたら、全国民検査ですが、さて、やりますかね? 今の政府が? 一時的に、社会の機能を停止させる覚悟を決め、大規模な隔離場所を準備した上で、全国民を検査し、感染者に隔離・治療を行なえば、一ヵ月後には、9割くらいの国民が復帰し、非感染者だけの社会が実現できます。 残りの1割くらいは、治療を続けて、少しずつ復帰すればいいわけだ。 「感染対策と経済の両立」などと、絵空事としか言いようがない、全く相容れない目標を掲げ、「Go To キャンペーン」で、感染者を増やしている絶望的な現状よりは、かかる資金が少ないと思います。 

  しかし、日本政府が、そんな事をするような気がしないなあ。 与野党が入れ代わっても、たぶん、やらないだろうなあ。 一体、新型肺炎とは何なのか、それすら分かっていない政治家がゴロゴロいるのでは? 未だに、「インフルエンザみたいなもの」と思っている輩も、珍しくないと思います。

  感染者をゼロにできなければ、どんどん、社会が衰えて行くというのが、想像できないか。 日本だけでなく、欧米・インドなども、今のやり方では、到底、感染者ゼロを実現できるとは思えません。 自滅的なロック・ダウンと、愚かな行動による感染拡大を繰り返しながら、国の体を成さないところまで急激に衰えて行き、地球上には、感染者ゼロを実現した国・地域しか、残らなくなるのではないでしょうか。

  ちょっと、個別事例になりますが、台湾政府が、何とも勿体ない事をしている事よ。 感染蔓延中の欧米諸国と一緒になって、中国批判なんかしていないで、対中交易を大々的に進めて、ここを先途とガンガン稼げばいいのに。 感染者ゼロの中国と、全く収束の見通しが立っていない欧米と、どっちが残りそうか、今の時点でも、明々白々だと思いますが。

  これを言っては、実も蓋もないですが、欧米印日など、民主国家の、人気投票で選ばれた政治家達と、中国の超エリート政治家達では、知能レベルが違い過ぎる。 専門家のレベルに差がなくても、民主国家には、理系の政治家は、ほとんどおらず、理系的思考ができないので、専門家の能力を最大限に引き出す事ができない。 専門家の方も、政治家にゴマをすって、「全員検査なんて、お金がかかるから、できませんよね」と、最初から提言もしない。 話にならぬ。 やれば、確実に、感染者ゼロへもっていけるのに、最初から、その道を否定してしまっているわけだ。    


  ただ、待ってたって、ゼロにはならんのですよ。 みんなが、少しずつ努力しても、ゼロにはならんのですよ。 潔癖だけが、必死に努力しても、非潔癖やズボラどもを、抹殺するわけにも行かないでしょうが。 とにかく、「自然に減って行く」という間違った考え方は、捨ててもらいたい。 それは、完全に間違いです。 「一人でも残っていたら、そこから、また、全員に感染拡大する」、そちらの方が、新型肺炎に対する認識として、正解に近いです。

2020/11/08

コロナうつ

  私は、新型肺炎の事を、「コロナ」と呼ぶのを避けているのですが、「コロナうつ」という単語が普及してしまっているので、今回は、便宜的に、それを使います。 本心としては、「新型肺炎鬱」と書きたいところ。




  本題と直接関係のない話から始まりますが、とりあえず、日記から、抜粋。


【2020/10/18 日】
  外掃除をしている時、家の筋向いにある月極駐車場に、高齢男性がいる事に気づきました。 コンクリート製の輪止めに腰掛けていて、どうも、散歩の途中で、疲れた模様。 すぐに立ち去るかと思いきや、その内、アスファルト面に横になり、輪止めを枕にして、寝てしまいました。 無マスクで、人の家の近くにいるだけでも迷惑ですが、寝るのは、もはや、異常だわ。

  勿論、その月極駐車場の持ち主などではなく、利用者でもないのであって、他人の所有地・利用地で、寝転がっていたら、不法侵入、もしくは、行き倒れと見做されて、警察に通報されてもおかしくないです。 大方、引退後、社会と断絶してしまい、何が常識で、何が非常識か、分からなくなってしまったのでしょう。 憐れだけれど、それ以前に、迷惑です。



【2020/10/25 日】
  先日、うちの近くの月極駐車場で、座り込んだり、寝たりしている高齢男性の事を書きましたが、今日もやって来て、あろう事か、敷地の隅で、立小便をしていました。 あー、こりゃ、駄目だ。 認知不全ではなく、常識がなくなってしまっていると見ました。 社会と断絶しているのが原因だと思います。 社会との繋がりが切れて久しく、他人からどう見られるか、自分のやっている事が他人の迷惑になっていないか、そんな事は、どうでもよくなってしまったのでしょう。

  そういや、この老人、以前は、うちから、半ブロックくらい離れた、賃貸マンションの花壇に座っているのを良く見たのですが、なぜ、河岸を換えたのでしょう? もしかしたら、前の所でも、立小便をして、追い払われて来たのではないでしょうか。 ありそうな事です。 地べたに横になってれば、心配してくれる人もいるかもしれませんが、立小便をしている馬鹿を追い払わない者もいますまい。

  こういう迷惑老人の例が、ニュース番組や、ワイド・ショーで、よく取り上げられますが、精神病とはまた違うので、治るという事がなく、その人物が、その地域に住んでいる限り、延々と続くようです。 相手にされないから、周囲の気を引く為に、迷惑行為をやるようなのですが、相手になって、文句を言えば、逆恨みして、また迷惑行為をやるのですから、どちらにせよ、処置なし。

  うちから、もろに見える場所なので、胸糞悪い事この下ないのですが、解決方法を思いつきません。 ちなみに、月極駐車場のオーナーは、別の地域に住んでいて、たとえ、報告したとしても、しょっちゅう見に来るという事はできません。 立小便は軽犯罪ですから、違法行為ですが、相手が、そういう人間では、警察を呼んでも、せいぜい、注意する程度で、逮捕する事すらできないのであって、当の本人が考え方を改めない限り、やめようとしないと思います。


  もっと、うんざりするのは、今後、高齢者は増えるばかりですから、この一人をやめさせられたとしても、次から次へ、同類が出て来る事が、強く強く予想されるという事です。 なんだか、嫌になっちゃうねえ。 社会が腐りかけているとでも申しましょうか。 明るい未来が全く感じられない。 自分だけ、一生懸命、健康に気をつけ、他人と衝突しないように配慮して生きていたって、周囲の人間の方が壊れて行くのは、防ぎようがありません。

  私が若い頃は、「世の中は、科学の進歩や、社会システムの発展、富の蓄積などで、少しずつ良くなって行く」と漠然と思っていたのですが、バブル崩壊の頃から、暗転し始めて、今は全く、そんな感じがしなくなりました。 逆に、あらゆる点が、悪い方向に向かっているように思えます。 私が歳を取ったせいで、そう感じているだけなら良いのですが、もし、今の若い世代まで、絶望がすぐそばに近づいているように感じているのだとしたら、本当に、社会が崩壊し始めているのだと思います。

  うーむ、こういう暗い未来観に囚われてしまっているのは、「コロナうつ」の一パターンでしょうか。 コロナうつが原因で、女性の自殺が急増しているらしいですが、その気持ちがよく分かります。 「新型肺炎のせいで、失職し、生活が成り立たなくなってしまった」というのは、直接原因ではないので、コロナうつに入れるべきかどうか、首を傾げざるを得ませんが、直接的に影響を受けたという例の場合、恐らく、「新型肺炎への対応だけでも、キリキリ舞いしているところへ、他の問題が覆い被さって来て、対応しきれなくなってしまった」のではないかと思います。

  「もう、駄目だあ・・・・」が口癖になってきたら、かなり、重篤化していると見るべきでしょう。 実は、私も、そうなりつつあり、コロナうつの門前をうろうろしているわけですが。 ここは一つ、「いいや、まだまだ、先はある」を、無理やりにでも口癖にして、乗り切るしかないのかも知れません。



  日記は、以上です。 こういう事を書くようになった事自体、私が、精神的に、だいぶ、追い詰められている証拠だと思います。 一応、感染防御の対策をとりながら、暮らしているのですが、何せ、感染は、人際で起こる事なので、私だけが、必死に、躍起に、一生懸命、対策を取っても、周りの人間が、何の努力もしないのでは、防ぐにも防ぎきれません。

  たとえ、全員が、私と同程度の感染対策を取ったとしても、それで、流行が終わるかと言うと、大いに怪しいところです。 まず、無理でしょう。 また、私は引退者だから、勤め先での感染を完全に避けられますが、働いている人たちは、そうは行きません。 潔癖症の人たちは、感染の危険が高い職場に出ざるを得ず、ほとんど、ヤケクソになっていると思いますが、「こんな恐ろしい日々が、何年も続くのなら、いっその事、死にたい」と感じているでしょうねえ。 それは、コロナうつの一歩手前ですぜ。

  この流行が、いつ終わるとも知れないところが、特段に、気を滅入らせます。 何年何月何日まで我慢すれば、そこから先は、元の生活に戻れると分かっているのなら、努力もできるのですが、それが分からないから、絶望的になってしまうのです。 中国では、基本的に感染者ゼロになり、元の生活に戻る条件が整ったのですが、まだ、マスクをする人は多いですし、検温や、入店、入園、公共交通機関乗車時のQRコードチェックなどは、今でも続けられていると思います。 感染者ゼロになっても、即、元の生活に戻れるわけではないわけだ。

  また、感染者ゼロになって、ウィルスが完全に根絶され、衛生当局が、「もう、元通りの生活をしてもいいですよ」と保証したとしても、マスクを着けないで外出する事を拒む人は、相当な割合で出て来るのではないでしょうか。 一生、マスク。 なぜかというと、たとえ、ウィルスが含まれていないと分かっていても、他人の吐く唾を浴びせかけられるのが、嫌だからです。 んっもー、きったない!

  あの、スパコン富嶽の、飛沫飛散シミュレーションCGを見ましたか? テレビ・ニュースでもやっていたから、見た人の方が多いと思いますが、ウィルスが含まれていなくても、ただ、普通に喋っているだけで、あれだけ、ドッバドッバ、他人に唾を吐きかけているのですよ。 冗談じゃないよ! きったない! きったない! きったない!

  あれを見てしまった後で、マスクなしで、他人と話せますかね? ウィルスに感染する感染しないの問題ではなく、清潔・不潔の問題なんだわ。 ぞっとする。 背筋が凍る。 他人と話をして、家に戻ったら、着ている物は全部洗濯し、風呂かシャワーを使わなければ、椅子に座る事も出来ません。 会食なんて、以ての外。 他人の唾を飲みに行くようなものではありませんか。 あああー、気持ち悪い!

  まったく、スパコン富嶽も、とんでもない露悪趣味をやってくれたものですが、もちろん、科学的には意味があるのであって、その研究自体に、文句があるわけではないです。 それにしても、ショッキングな映像だった。 できる事なら、ああいうものは、一生、見ないで済ませたかった。

  私の事ですが、あれを見てしまった以上、もう、死ぬまで、外出時には、マスクをするつもりでいます。 一生です。 それを考えただけでも、気が滅入る。 「死んだ方が、マシ」と思えてくる。 恨めしや、スパコン富嶽。 知らぬが仏だったのだなあ。 今までの人生で、どれだけ、他人の唾を飲まされてきた事か。 もう、こういう指摘そのものが、露悪趣味になってしまいますけど。


  私はもう、そういう歳ではありませんが、これから、恋愛して、キスしたり、ハグしたり、性交渉したり、そんな事を夢見ている若人たちは、がっくり来ているでしょうねえ。 だってねえ。 感染しちゃうものねえ。 なに、キスぅ? ハグぅ? セックスぅ? 一発感染じゃーん! 相手が感染していたら、一発でうつされる! こちらが感染していたら、一発でうつす! そんな事、するんすか? マジすか? アホすか? 命と性欲と、どっちが大事すか? 命あってのモノダネだとは、思わないすか?

  人間、というか、動物の本能とは、生存欲と生殖欲が二本柱ですが、その内の一本を保つ為に、もう一本を捨てなければならないというのは、大変、厳しい。 感染上等で、キスハグセックスに挑む者もいるでしょうが、相手もそう思っているとは限らんぞ。 相手にうつして、死んでしまったら、どうする? 逆に、うつされて、自分が死ぬ事になったら、どうする? それでも、やりたいか?

  また、自分は、無症状や軽症で済んでも、媒介してしまって、同居している親や祖父母にうつし、死なせてしまったなどという事態になろうものなら、「この馬鹿めが! おまえは、性欲の為に、家族を殺したのかっ! この恥ずかしいチンチン野郎がっ!」と、親戚中から猛攻撃を受けるのは、必至。 一生、許してもらえますまい。 さあ、どうする? それでも、やるか?

  と、そんな事を心配しながら、恋愛なんか、できないわけでして、「恋愛どころじゃないよなー」と、性欲を抑え込んでいると、だんだん、生気が失われて行くわけです。 なんたって、本能の二本柱の、一本ですから。 生きる活力源を、一つ失ったに等しい。 で、「ああ、つまらいなあ。 こんな状態が、いつまでも続くなら、いっそ、死んでしまった方が・・・」と、そこへ落ち込んでいくわけだ。 コロナうつだなあ。


  残りの一本である、生存欲の方も、全うするのが大変。 外食は、即、危険。 用心深い人は、飲食店に入って食事するのを、全面的に避けていると思いますが、それは、正解です。 「お店が困るだろうから」なんて、仏心で、店に入って、他の客からうつされて、感染して死んだら、どうする? 馬鹿馬鹿しい。 自分の命と、仏心と、どっちが大事なのか、考えなくても分かろうというもの。

  「Go Toキャンペーン」なんぞ、「感染拡大している時に、キチガイ沙汰としか思えない」という批判は、さておくとしても、あんなのは、やりたい奴らだけにやらせておけば宜しい。 僅かなお金を得する為に、命を危険に曝すなど、愚かにも程があろうというもの。 あー、もー、飲食店や観光業は駄目ですな。 「Go To」で、いっとき凌げても、それで感染者が増えたのでは、結局、誰も来なくなって、いずれ、閉店に追い込まれて行くでしょう。

  事業者が死なないように、生活保護だけ出しておいて、感染流行が終わった後で、事業再開資金を援助した方が、ずっと、効率的なお金の使い方になったでしょうが、もとより、そんな事を政府に期待してはいません。 そういう、合理的な判断ができないのが、日本人の特徴だからです。 もっとも、欧米でも、同じくらい、失敗してますけど。 根絶してもいないのに、バカンス解禁で感染拡大したというのは、「Go To」と、五十歩百歩の愚かさだ。 どちらも、元が愚かだから、愚かな事を、何度でも繰り返す。

  おっと、脱線していますな。 話を戻します。 外食は、なしとして、家で食べるにしても、買い物が厳しい。 買ってきた物は、生産者、物流業者、商品を並べる店員、レジ打ちの店員の手で触れられているわけで、ウィルスが付着している危険性があります。 それを、どうしてますか? 全部、浄化してます? できないでしょう?

  私は、一人で買い出しをして来た時には、レジ袋2個分なので、ハンド・タオルに塩素溶液をしめして、全ての物を拭いていますが、母と二人で買って来た時には、レジ袋8個分になるので、とても、全部は、浄化しきれません。 時間が、30分以上かかりますし、疲れきってしまいます。 また、所詮、表面を拭くだけですから、完全にウィルスを殺せているかどうか、甚だ怪しいです。

  私は、引退者で、時間があるから、その程度の事はできるわけですが、勤め人では、とても、無理だと思います。 買い物して帰るたびに、こつこつ、そんな事をしていると、ふっと、絶望の悪魔が背後から忍び寄り、「そんな事を、ずっと続けるくらいなら、死んじゃった方が、楽かもよ」と、耳元で囁く。 それは、コロナうつだなあ。

  ちなみに、常温保存可能で、すぐに食べない物の場合、5日間くらい、触らずに置いておけば、自然浄化するので、塩素溶液で拭く手間が省けます。 要冷蔵・要冷凍品は、駄目。 冷やすと、ウィルスが延命してしまいますから。 うちの場合、私が、それを分かっていても、母が分かっていないので、買って来て、すぐに使ってしまう事があり、自然浄化に頼れないのですが・・・。 その点は、一人暮らしの人の方が、自由が利きますな。


  職場が地獄と化しているのも大問題ですが、家の中に敵がいるケースも、同じくらい大問題で、家族内で、感染防御の基準が異なる場合、軋轢、衝突は避けられません。 マスク装着や、手洗い、買ってきた物の消毒など、自分は必死で対策を取っているのに、配偶者が、天下御免のズボラ野郎で、マスクはしない、手は洗わない、買ってきた物をそのまま、居間やダイニング・キッチンのテーブルの上に置く。 もっと、ひどいと、ベッドの上に置く。 見ている方は、もう、卒倒ものですな。 「キーーーッ! なんで、そんなとこに置くのーーーっ! いてまうど、わりゃ、こりゃ、雄鶏ゃ、豚のケツーッ!」。 吉本新喜劇か。

  「後生だから、マスクをしてくれ」と懇願しても、「あー、分かった分かった、うるさいな」と、家を出る時だけマスクをして、10歩も歩くと、外してしまう。 帰ってくりゃ、手も洗わずに、家中、ベタベタ触りまくり、指摘すると、「大丈夫だよー。 今までだって、大丈夫だったんだからよー」。 馬鹿が。 世界中で大問題になっている事が、自分の身の周りだけ、無関係で済むと思っているのか。 冗談じゃない。 そんな奴と、一緒に暮らせるか!

  あー、そうそう。 主に男ですが、夫とか、父親とかで、家族で食卓に着くと、食べ始める前に、必ず、咳をする人って、いませんか? あー、いますか。 やっぱり。 ふふふ、いますよねえ、そういう奴。 もう、決まって、一発、「ゴホン!」とやるんだよなー。 それは、支配欲の顕れでして、「俺が稼いでやっているから、お前らは、飯が食えるんだぞ。 お前らは、俺の人生のオマケなんだ。 だから、俺の唾がかかったものでも、ありがたく、口に入れなければならないんだ」という意識を、自覚のあるなしに関係なく、もっていて、それが、「ゴホン!」に顕現しているわけだ。

  冗談じゃねーよ。 この、新型肺炎で、全人類が準パニック状態に陥っている御時世に、そんな糞下らない理由で、ウィルスが含まれているかもしれない、糞汚い唾を吐き散らされてたまるか! 狂ってるのか、お前! これがもし、飲食店で他人の皿に、同じ事をやった日には、袋田滝は、いや、袋叩きは免れまいて。

  春先、「コロナ離婚」というのが流行りましたが、たぶん、今でも、その状況に変わりはありますまい。 感染防御の基準が、許容範囲を超えて異なる場合、不倶戴天の敵と暮らしているようなものですから、離婚に至っても、全然おかしくないです。 ズボラを通した結果、家にウィルスをもちこんで、家族中に感染させた奴など、人生通しての敵でして、離婚して、当然。 ズボラな配偶者に媒介されて、自分の親が死んでしまったなどという事になったら、もはや、離婚しないで何とする。

  だけど、諸般の事情で離婚できず、いっそ殺してやりたい奴が家族内にいるのに、我慢して暮らし続けなければならない人たちも多いでしょうねえ。 そんな生活を続けていれば、そりゃ、コロナうつになりますわ。 結局、破綻してしまうのだから、単に決心するかしないかの問題であるならば、離婚しちゃった方がいいんじゃないですかね。 ズボラは、治りませんよ。 何かしら、協定を結んだとしても、見ていない所で、ズボラな事をしますから、結局、ウィルスを持ち込まれてしまいます。


  コロナうつにも、いろいろあって、直接、間接問わず、新型肺炎を原因としているものは、全て、コロナうつのバリエーションになっているようです。 ネットで検索すれば、もっと、様々な事例が出てくると思いますが、はっきり言って、読みたくないです。 読むと、また、気が滅入って来るからです。 他人が不幸になった話が大好きという人もいますが、私は、そういうタイプではなく、同情や共感などはしませんが、「自分が同じ目に遭ったら、どうしよう」と心配してしまうので、一緒に、気が滅入ってしまうんですな。

  日記にも書いてありますが、「もう、駄目だあ・・・・」が口癖になってきたら、かなり、危ない。 「いいや、まだまだ、先はある」を、無理やりにでも口癖にするしか、手がないです。 それにしても、ゴールが遠い。 もしかしたら、ゴールなんて、ないかもしれない。 少なくとも、私は、マスクに関しては、ゴールが消滅しています。

  あー、もー、こんな事を書いているだけで、気が滅入って来るな。 どーにかならんか、この身に纏わりつく、黒い靄のような雰囲気は。

2020/11/01

EN125-2A補修 ⑥

  EN125-2Aの補修の記録です。 このシリーズ、11ヵ月ぶりですが、それだけ、バイクが壊れないという事です。 中古バイクを買う場合、少々、値段が高くても、状態がいいのを選んだ方が、後々、手がかからないという証明でしょうか。





【ギア・インジケーター分解】

  6月24日に、伊豆長岡へ、プチ・ツーリングに行った帰り、ギア・インジケーターの「1」のランプが点かなくなりました。 たぶん、球切れだと思い、25日に分解してみたのですが、球を他の位置のと入れ換えても、「1」の位置だと点きません。 一度、元に戻し、27日に、もう一回、分解してみました。どのランプが点き、どの位置が点かないかを確認する為です。

≪写真1左≫
  まず、ライトの反射板から前を外します。 下の方に、2本、ビスがあります。 線は繋がったままなので、前輪泥除けの上に、タオルを敷いて、その上に載せました。 サイド・スタンドで立てた状態なので、バイクは傾いており、泥除けの上面を水平にする為に、ハンドルを右に曲げて、案配してあります。

≪写真1右≫
  ライトのバック・カバーを外しました。 左右2ヵ所のボルト・ナットで固定されています。 まず、内側のナットを外し、次に、外側のボルトを外します。 カバーに埋め込みナットがあるので、ボルトを外す時にも、回す必要があります。 カバーとブラケットの間に、ゴムのワッシャーが入っているのを、なくさないように、注意します。

  ライトのバック・カバーは、ハーネスで吊る格好で、下に垂らしておきます。

  速度計と回転計のケーブルを外し、黒いメーター下側カバーを、ビス3本抜いて、外します。

≪写真2左≫
  メーター下側に、ナットが3ヵ所あるので、それを外します。 写真は、向かって左側を一つ残して、他二つを外したところです。 この後、上に引っ張れば、メーターが分離できます。

≪写真2右≫
  メーターの裏側。 ギア・インジケーターのランプは、緑色の長方形の基盤に付いています。 ビス3本外せば、手前に引き抜く事ができます。

≪写真3左≫
  これは、緑色の基盤を、メーターの下に引っ張って、表側から写した様子。 標準だと、麦球らしいのですが、前の持ち主が、LED球に、交換してありました。 ヘッド・ライトや、スモールもそうなので、たぶん、メーターの他の球も、ウインカーも、あらゆる球を、LED球に換えてあるものと思われます。

  調べた結果、分かった事は、

一、 「1」のランプは、他の位置へ差し替えても、点かない。 全位置で確認。 確実に切れている。
二、 他のランプを「1」の位置に付けても、点かない。 他の4つ、全てで、確認。

  つまり、「1」のランプと、「1」の位置の配線、両方が死んでいるわけです。 これでは、ランプを新しくしても、直りません。 私の電気知識では直せない事がはっきりしたので、とりあえず、諦める事にしました。 ギア・インジケーターがないバイクも多いので、走行には、支障がないです。

≪写真3右≫
  ビス3本を抜いて、メーターの表面部品を外し、メーター本体を露出させてみました。 ギア・インジケーター部分に、「12345」の数字が見えます。 これを、後ろからランプで照らして、浮き上がらせるわけです。

≪写真4左≫
  メーターの表面部品を裏から見ています。 ビス孔3ヵ所の内、1ヵ所が、捻じ切れてしまっていたので、パテで埋めました。 白くなっている部分です。 乾かない内に、ビスを捻じ込めば、ネジ山を復元できます。

≪写真4右≫
  分解して外した部品や、ボルト・ナット・ビスなどは、順番に並べておくと、組み立てる時に、迷わなくて済みます。 分解途中の写真も撮っておくに越した事はないです。


  メーターの分解作業は、難易度としては、5段階で、1、10段階で、2くらいです。 壊さないように、慎重にやった方がいいですが、これといって、難しいところはないです。 ちなみに、オフロード・バイクのライト・メーター周りは、まるっきり構造が違うので、応用が利きません。




【レターパックライトで、取扱説明書】

  ヤフオクに出ていたのを、6月22日に、競らずに、500円で落札した、EN125-2Aの取扱説明書。 23日に支払い、24日に発送、25日に届きました。 実は、この取引、揉めたというほどではないですが、スムーズに進まず、ヤフオクでの取引に、よーく、懲りてしまいました。

  人心荒廃とでも言いましょうか、新型肺炎の流行が始まってから、ヤフオクでは、そんな事ばかりでして、神経を磨り減らすのが嫌になり、これを機会に、しばらく、やめる事にしました。

≪写真上左≫
  レターパック・ライト。 既製の厚紙封筒で、370円。 レターパック・プラス(520円)との違いは、厚さが3センチまでで、配達の際、手渡しではなく、郵便受けに入れられる事です。 どちらも、追跡ができます。

  落札前に、質問ページで、レターパックで送ると決まったのですが、取引が始まると、お届け方法の選択ボタンに、レターパック・ライトがなくて、便宜的に他のボタンを押していいのかをはっきりさせる為に、取引メッセージで何度かやりとりする事になりました。 ちなみに、どれかを選択しなければ、取引を先に進められません。 以前、便宜的操作のつもりで、他のボタンを押して、後で、出品者から、猛烈な非難を受けた事があったので、羹に懲りて膾を吹いた次第。

  今回は、こちらは、念押しのつもりだったのですが、向こうは、どうも、私が代金を払い渋っていると取ったようで、こちらの意思が伝わっておらず、互いに嫌な取引になっというわけ。

≪写真上右≫
  厚紙封筒の中は、茶封筒に中身を入れて、折り畳み、テープで留めたものでした。 防水処置はしてありませんが、厚紙封筒自体が、いくらか、耐水性があるから、郵便受けに入れられてから、長時間、濡れる事がなければ、中まで浸水はしません。 今回も、無事でした。

≪写真下≫
  中身。 EN125-2Aには、日本向け仕様がなくて、日本語の取説も存在しません。 これは、欧米向けの、スペイン語・英語版です。

  EN125-2Aの専用。 他に、EN125-2と兼用のタイプや、同じ、EN125-2A専用でも、裏表紙にバイクの写真が入った、別版もあるようです。 まあ、一冊手に入れば充分で、他の版まで欲しいと思いませんが。




【ギア・インジケーター「1」LED球交換】

  バイクのギア・インジケーター「1」のLED球が切れていたのを、7月15日に、交換しました。

≪写真1左≫
  6月28日に、アマゾンで注文し、7月13日に届いた、12VのLED球、10個入り。 571円のところ、アマゾン・ポイントを使って、548円で買いました。 中国からの発送で、15日目なら、まあまあ、普通の日数です。 人の行き来は途絶えていますが、郵送が滞っているという事はないようですな。

≪写真1右≫
  裏側は、日本で貼ったシール。 「要追跡入力」とあります。 しかし、今回の場合、入力しても、追跡結果が出ませんでした。 私が、サイトを間違えていたのかも知れません。

  この、薄灰色の袋ですが、中国から郵送で届く時には、必ず、使われます。 防水と緩衝を兼ねた優れ物でして、日本国内の、書籍郵送などにも、取り入れてもらいたいところです。

≪写真2左≫
  中身。 すでに、1個取り出した後で撮影したので、9個しか入っていません。

≪写真2右上≫
  取り出した1個を、LED球と、ソケットに分解しました。 針金の脚を伸ばして、引き抜くだけです。 バイク側には、別のタイプのソケットが使われているので、差し替えないと使えないのです。

≪写真2右下≫
  こちらは、今まで付いていた、LED球。 脚が片方切れていますが、そのせいで、点かなくなったわけではありません。 最後に外した時に、切れてしまったのです。 新しい方と、頭の部分は同じですが、こちらには、抵抗が付いています。 別の品だったんですな。 念の為に書いておきますと、このLED球も、前の持ち主が交換したものであって、純正品ではありません。 元は、麦球だったと思われます。

≪写真3≫
  交換しました。 写真のほぼ中央にあるギア・インジケーターに、「1」が点いているのが、分かるでしょうか。 この日は、曇りだったので、割とくっきり見えていますが、他の4つと比べると、明らかに、暗いです。 しかし、点かないままでも、運転に支障はないくらいなので、点いているのが分かれば、それで、充分です。

  直る可能性は、半々だと思っていたのですが、やはり、単なる球切れだったんですなあ。 そして、全ての球が正常でなければ、「1」は点灯しないという、回路の仕組みがあるのでしょう。 なんで、そうなっているかは、分かりませんが、もしかしたら、ニュートラルが、別ランプになっているのが、関係しているのかもしれません。

≪写真4左≫
  バイクの全景。 この角度からだと、妙にスリムに見えます。 実際、単気筒ですから、エンジンの幅は狭いのですが、タンクは、大排気量車並みに大きいので、乗っていて、スリムな感じはしないです。

≪写真4右≫
  ヘッド・ライトのアップ。 実は、スモール(ポジション・ランプ)を点灯してあります。 分からないでしょう? 曇りの日でさえ、分からないのだから、況や、晴れた日に於いてをや。 もちろん、夜は、分かります。 夜に乗った事はないですけど。

  この時、ライトのメッキ部品に錆が浮いていたので、コンパウンドをかけ、油がついたウエスで磨いておきました。




     今回は、ここまで。 ほとんど、手がかからないので、この程度の内容しかないのです。 取説の入手なんて、補修ではないですが、「セルボ・モード補修シリーズ」でも、中に入れてしまっているので、こちらも、それに準じました。

  ところで、ギア・インジケーター「1」のLED球ですが、上の記事にあるように、7月15日に交換したのが、8月2日には、早くも切れてしまいました。 10個入りを買ってあったので、すぐに別のに交換して、それ以降は、10月下旬現在まで、無事に点いています。 どうやら、LED球に換えると、電流が流れ過ぎて、早く寿命が来てしまうとの事。

  「電流制限抵抗」を挟めばいいらしいのですが、私は、電気系統の知識がなく、どうやっていいのか、よく分かりません。 また切れたら、残りのLED球を使っていくか、いっそ、麦球を買って、そちらに戻してしまおうかと思っています。 なまじ、改造なんかするから、全体のバランスを悪くしてしまうんですよ。 その点は、前の持ち主が恨めしい。