2013/10/20

北海道へ行く男

  北海道応援への出発が来週末に迫る中、金曜が、たまたま、強制有休になり、三連休で、準備の時間をたっぷり取れるかと思いきや、その金曜に、応援の説明会があったため、私だけ、欠席という事になり、まだ、詳細な情報を得られていないが故に、準備を進められません。 どーしたもんかね、これは。

  しかし、無為に過ごすわけには行かないので、できる事から手を着けねばなりません。 で、とりあえず、金曜は、銀行へ行って、向こうで入用なお金を下ろしたり、留守中に引き落とされるお金を口座に振り込んだりしました。 土曜は、軒下にあった折自をプレハブの離屋にしまい、旅行鞄を出し、IHクッキング・ヒーターの実験をしました。

  IHクッキング・ヒーターは、9月に、積立貯金のポイントで貰った物。 応援が近付いていたので、持って行けるように、用意しておいたわけです。 3年前の岩手応援の時には、寮がワンルーム・マンション型で、ミニ・キッチンが付いていたので、自炊していたんですが、普通の寮には、そんなものはありません。 で、ヒーターさえあれば、何とか、自炊の真似事ができるのではと考えたんですな。

  現物が届いてから分かったのですが、このIHクッキング・ヒーターは、鉄とステンレスにしか反応しないようで、アルミ鍋や土鍋は、加熱できないとの事。 それは困った。 岩手で買って持ち帰って来た、手持ちの鍋が、全滅です。 北海道で買うにしても、鉄鍋は、百円ショップにはありません。

  で、実験なんですが、鉄製の皿の上に、アルミの鍋を載せて、IHクッキング・ヒーターで加熱が可能かどうかを調べたもの。 しかし、結果は×でした。 熱伝導が悪くて、水を沸騰させるだけで、20分くらいかかる始末。 これでは、イライラして、ラーメンが煮える前に、はらわたが煮えてしまいます。 やはり、そんな単純な方法で解決できるような問題ではなかったか・・・。

  これは一つ、思い切って、自炊するのを諦めた方がいいかもしれませんな。 台所が無い寮だと、水回りは全て共同なので、部屋で煮炊きできたとしても、鍋や食器を洗う時には、洗面所まで行かざるをえず、非常に面倒になるからです。 洗面所とトイレが、同じ場所にある寮もあり、他人が排泄している同じ部屋で、米を研いだり、食器を洗ったりするのは、衛生的に、どうもねえ・・・。

  自炊をしない場合、2ヵ月半で、食費が、15000円くらい、余分にかかりますが、北海道だと、遠い分、出張費も多く出るので、そのくらいは、相殺できるでしょう。 食堂の定食と、スーパーの弁当と、カップラーメンで、とことん自堕落に暮らしますか・・・。 ご飯だけは、腹いっぱい食べたくなるものですけど・・・。

  とりあえず、IHクッキング・ヒーターは、別個に荷造りしておき、向こうで様子を見て、どうしても自炊したくなったら、送ってもらうという手もあるか。 とにかく、最初から持って行くのは、見送る事にします。 結構、重いので。


  服や靴ですが、これが、さっぱり分かりません。 周囲に北海道出身者がいないので、どんな服装で暮らしているのが、情報が得られないのです。 青森県出身の新入社員がいたので、冬場、どんな格好で暮らしているか訊いてみたところ、「普通の格好ですよ」との返事。 それが分からんのだ! 雪国の普通って、どんなのよ?  「雪が積ったら、靴は、長靴なの?」と訊くと、「普通の靴です」との返事。 そーんなこたーねーだろ! ぐじゃぐじゃになってまうやないか!

  というわけで、こちらで想像していても埒が明かないので、とりあえず、こちらの普通の格好で、向こうへ赴き、向こうの人の標準的服装を見てから、向こうで、服なり靴なりを、買い揃える事にしました。 心情的には、出かける前に準備したくなるものですが、現場を見ないと分からない事というのも、たくさんあるのです。


  向こうでの暮らし方ですが、冬本番になると、氷点下10度以下になるらしく、下手に外出すると、凍傷になりかねません。 岩手も寒かったですが、凍傷になるほどではなかったので、これまた、未体験ゾーン。 北海道と言っても、広うござんして、本州で言えば、関東地方全域や中部地方全域と同じくらいの広さがあるのですから、各地で、気候に差があるのは当然。 私が行くのは、太平洋岸なので、北の方よりは、暖かいのかも知れませんが、そんな事は全然ないかも知れず、油断なりません。

  屋外が寒い反面、屋内は暖かくなっているという噂もあり、五体満足で帰って来るためには、極力、屋内に籠って暮らすのが、ベストかもしれませんな。 テレビのチャンネル数は、ケーブル・テレビのセット・トップ・ボックスが設置してない場合、せいぜい、10チャンネルくらいでしょう。 また、BS1とBSプレミアムだけ見る生活になるのか・・・。 と言って、自前でレコーダーを持って行くほど、テレビが好きなわけでもなし・・・。

  図書館があるようなので、そこで本を借りて来て、読もうかと思っているのですが、住民ではなく、勤め先が市内にあるといっても、長期出張の立場に過ぎないので、もしかすると、図書カードを作ってもらえない可能性もあります。 そういう場合は、古本屋へ行って、なるべく読みにくそうな、難しい本を買い、ちびちび読んで、無聊を紛らわすしかありませんな。

  観光は、一切、するつもりがありません。 あーた、北海道の冬ですぜ。 冗談じゃないですよ。 日常生活も侭ならないというのに、物見遊山など、以ての外! 死にてーのか、てめー! おとつい来やがれ! 海が近いので、アザラシがいたら、見たいと思うのですが、そうそう、ちょこちょこ、いるものでもないか・・・。


  期間が、10月28日から、来年1月の半ばまでなので、暮れ・正月の連休が挟まるわけですが、今のところ、帰って来るつもりはありません。 だって、帰って来たとして、年明けに向こうに戻って、たった二週間しか働かないんじゃ、馬鹿馬鹿しいではありませんか。 それに、旅費もかかるし。 往復の運賃は、飛行機と電車だと、66000円くらい。 そんなに出せるか、たわけものめ! 余を吝嗇家を知っての雑言か! たかが、暮れ・正月を家で過ごすためだけに、そんな大金を費やせるものか! そんな価値なし!

  船と電車だと、24000円と安いですが、その代わり、片道で、25時間かかります。 連休は、11日間ありますが、その内、4日間を移動に取られる事になってしまい、大変、忙しない。 一方、飛行機・電車だと、片道で、5時間です。 速い事は速いですが、上述した通り、金額が問題外。

  船便は、仙台に着く航路と、大洗に着く航路があり、大洗の方が、時間はかかるけれど、電車で移動する距離が短くなる分、安くなります。 でねえ、全くの偶然なんですが、私は、去年の夏に、野宿ツーリングで、大洗まで行っているんですよ。 これも何かの因縁ですかね? いや、街の中で、ロストして、彷徨したんですがね。


  厄介なのが、行く時でして、北海道応援に行く人数が、5人しかいないので、引率は付かず、各自に航空券が渡され、自力で行って、現地集合になる公算が高いとの事。 いやあ、困ったな! 飛行機なんて、乗った事無いですよ! 電車や船なら、どうにでもなるけれど、飛行機は、まるっきり、システムが違いますからねえ。 航空券を払い戻して、私だけ、船で行くっつーわけには行きませんかね? 時間がかかるから、駄目?


  というわけで、私としては、まだまだ、解決しなければならない難問が山積しているのですが、このブログの更新は、今回までとなり、来年の1月半ばまで、休止させていただきます。 来週末は、もう出発なので、とても、更新しているゆとりはありません。 では、さようなら。 私が生きて帰って来れたら、また会いましょう。

2013/10/13

読書感想文・蔵出し⑥

  どうやら、北海道応援が、本決まりになったようなので、またまたまたまた、読書感想文です。 もはや、言い訳的前置きを書いている余裕も無し。



≪赤毛のレドメイン家≫
  イギリスの純文学作家、イーデン・フィルポッツが、1922年に発表した長編推理小説。 その時、61歳で、その前年の60歳の時に、初めて推理小説を書いたのだとか。 クロフツの ≪樽≫や、アガサ・クリスティーの≪スタイルズ荘の怪事件≫が、1920年ですから、恐らく、それらに影響を受けて、「私なら、もっと面白いものが書ける」と思って、書き始めたんじゃないでしょうか。

  イギリスの田舎で、死体が見つからず、犯人の目星はついているものの、逮捕に至らない殺人事件が、二件続いて起こり、ロンドン警視庁の敏腕警部が翻弄される中、イタリアで予想される第三の殺人を阻むために、アメリカから天才的探偵が乗り込んで来る話。

  かなり入り組んでいるので、梗概では伝え難いです。 犯人として追われるのは、それぞれ別に暮らしている、年配の三兄弟の一人で、まず、不仲だった姪の配偶者を殺し、次に 、兄の一人をイギリスの海岸で殺し、最後に、イタリアのコモ湖畔に住む、もう一人の兄を殺しに行く、という順番で、話が進みます。

  当初、探偵役は、ロンドン警視庁の警部なのですが、切れ者との評判に反して、ある個人的事情を犯人に利用されて、まるで役に立たず、途中で、アメリカから、引退した天才探偵がやって来て、捜査の指揮を引き継ぎます。 単に、二人の探偵が交代するだけでなく、ロンドン警視庁の警部は、最後まで捜査に参加し、非常に重要な役割を演じます。こういうパターンは、かなり、珍しいんじゃないでしょうか。

  トリックは、現代の推理物に対する一般的知識に照らすと、どこかで読んだような、見たような、既視感を覚えるものですが、発表当時としては、画期的なものだったと思われます。 現代人でも、推理物にあまり興味の無い人であれば、充分に、「おおっ!」と驚かされるレベルなんじゃないでしょうか。

  鉄道技師が本業だったクロフツの≪樽≫に比べると、フィルポッツは、元が純文学作家であるだけあって、話の進め方が、遥かに巧いです。 心理描写も、情景描写も、純文学のそれが使われており、その後の純粋な推理小説に比べると、ちょっと、余計な感じさえします。

  犯人が、やむにやまれぬ事情で犯した罪ではなく、元の性格からして、犯罪者志向だったという設定も面白い。 いわゆる、キャラが立った物語なんですな。 細かいところまで、よく考えてあります。


≪スタイルズ荘の怪事件≫
  20世紀を代表するイギリスの推理作家、アガサ・クリスティーの長編推理小説第一作。 推理物でない小説なら、それ以前から書いていたようですが、職業作家になったのは、この作品が発表されてからのようです。

  第一作から、エルキュール・ポアロが登場します。 ヘイスティングスという、ポアロの友人が書いているという形式を取っていますが、これは、ホームズの話をワトソンが書いているというホームズ物の形式を、そのままいただいたのでしょう。 ヘイスティングスは、ワトソン同様、好人物ではあるけれど、「憎めない間抜け」といったキャラ設定で、その点、ワトソンとは、だいぶ印象が異なります。

  イギリスの田舎にあるスタイルズ荘で、若い男と再婚して間もない女主人が殺され、義理の息子二人や、長男の妻、そして、寄宿している友人・知人達が、容疑者として疑われる中、戦争で故国を離れ、女主人の世話になっていたベルギー人探偵、ポワロが捜査に乗り出す話。

  部屋の鍵や、毒殺に使われた薬品など、物質的トリックの他、アリバイや人間関係など、推理物の様々な要素が盛り込まれています。 一つの場所に、大勢の人間が集まっている時に、事件が起きて、「この中の誰が犯人か?」という推理物のパターンを、≪Who done it?≫と言いますが、その典型。 というか、この作品が、嚆矢なのかも知れません。

  ホームズ物には、このパターンが、確か、一つもなかったと思います。 金田一耕助物や、名探偵コナン、金田一少年の事件簿などは、ほとんど、このパターン。 逆に言うと、あまりにも良く使われるため、このパターンだと思うと、頭を使って推理するのが面倒になり、「まあ、誰かが犯人なんだろう。 その内、分かるさ」という事で、どーでも良くなってしまうのですが、この作品でも、そういう弊害は出ています。

  しかし、発表当時は、もちろん斬新なアイデアで、読者は、めくるめくぞくぞく感を味わった事でしょう。 今の人間には、この作品の真価を堪能する能力が失われてしまっているんですな。


≪そして誰もいなくなった≫
  アガサ・クリスティーが1939年に発表した長編推理小説。 この頃が、最も筆が冴えていた時期のようで、大作家の風格が滲み出るような作品になっています。 ポアロも、マーブルも、名探偵は出て来ません。 完全に独立した話にしても、充分通用するという、自信に満ち溢れている感じ。

  孤島の邸宅に招かれた10人の男女が、外部との連絡を絶たれた上で、何者かに、それぞれが過去に犯した罪を指摘され、マザー・グースの童謡、≪10人のインディアン≫に見立てて、一人ずつ殺されていく話。

  パターンは、≪Who done it?≫ですが、島にいる10人全員が殺されてしまうので、物語の本体部分は、三人称で書かれています。 全員殺されたのに、犯人がその中にいるというのが、話の肝。 普通に考えれば、最後に死んだ者が犯人という事になるのですが、そう単純ではなく、読者の推理を許さない意外性があります。

  これはねえ。 まだ読んでいないのなら、とにかく、読んだ方がいいと思います。 無茶苦茶、面白いです。 傑作にして名作、誰がどんなに褒めちぎっていても、ちっともおかしくありません。 というか、読書人なのに、こんな面白い物を読まずに済ますのは、人生の損失ですな。


≪アクロイド殺し≫
  アカザ・クリスティーが、1926年に発表した長編推理小説。 これも、超がつくほど有名な作品。 クリスティー作品の人気投票をやると、≪そして誰もいなくなった≫に次いで、2位に入るのだとか。 それは、確かに、頷ける。

  これも、推理物としてのパターンは、≪Who done it?≫。 イギリスの地方の村で、資産家が殺され、家族や親類、友人、使用人など、容疑者が複数存在する中で、誰が犯人かを、引退探偵ポアロが突きとめていきます。 クリスティーの探偵物は、みんなこのパターンなんですかね?

  この作品が有名になったのは、大変巧妙な叙述トリックが用いられているからです。 そこが、作品の肝なので、詳しくは語れませんが・・・。 ポアロや警察関係者を除いて、最も意外な人物が犯人なのですが、予め知っているのでもなければ、まず、絶対に推理できません。

  この種の叙述トリックを推理物に使う事が、是か非か、発表当時、論争になったらしいですが、そんな論争を引き起こせるというだけでも、この作品のインパクトの大きさが計り知れようというもの。 是も非もなく、80年以上、世界中で出版され続けて来たという事実が、作品の真価を証明していると言えます。

  叙述トリックを別にしても、≪Who done it?≫の真骨頂とも言うべき、容疑者全員がついている嘘を、一人ひとり暴いて行って、最後に残ったのが犯人という、玉葱の皮をめくるような展開が実に小気味良い。 

  事件のトリックそのものは、小道具を使ったもので、大したアイデアではありません。 当時は最新だった機械でも、現代から見れば、子供騙しに見えてしまうのは、致し方ないところ。 しかし、それは、この作品のキズには、全くなっていません。


≪ABC殺人事件≫
  アガサ・クリスティーが、1936年に発表した長編推理小説。 ポアロが登場します。 書き手は、ヘイスティングスですが、彼以外の者が書いたとされる章も含まれます。

  ABCと名乗る犯人から、ポアロに送り着けられた予告状の通り、まず、名前がAから始まる町で、姓名ともAから始まる人間が殺され、以後、B、Cと、連続殺人事件が起こるが、狂人の仕業だと思われていたところへ、ポアロが各事件の関連性を見出し、真犯人の存在が浮かび上がる話。

  この作品も有名ですな。 私は、たぶん、ドラマで見た事があると思われ、謎解きの前に、既視感を覚えました。 ただし、犯人は思い出せませんでした。 個人的な感想としては、≪そして誰もいなくなった≫や≪アクロイド殺し≫と比べると、かなり落ちる感じがします。 もし、本当に面白かったら、ドラマを一度見ているのに、犯人を忘れたりはしますまい。

  一番の欠点は、事件と事件の間で、間延びを起こしている事。 一見、無関係と思える各事件の繋がりを探っていく推理物のパターンを、≪ミッシング・リンク≫というのだそうですが、全体の半分を超えても、その繋がりが見えて来ないので、飽きてしまうのです。

  ラストの謎解きで、一気に全てが分かりますが、劇的というよりは、唐突で、「ああ、そう」という感想しか出て来ません。 つまり、私は、この物語の展開についていけなかったわけです。 残念ながら。



  以上、5冊まで。 全て、2013年の1月に書いたもの。 そういえば、≪そして誰もいなくなった≫は、2012年の大晦日に、年越しで読んだものでした。

2013/10/06

読書感想文・蔵出し⑤

  性懲りも無く、臆面も無く、またまた、読書感想文です。 ストックがあるから、というのが、理由ですが、つい先日、もう一つ、もっと大きな理由が出来てしまいました。 11月からの応援先が決まったのです。 岩手だとばかり思っていたのが、まさかの北海道! おいおい、2倍も遠いではないか・・・。

  まず、「腰痛持ちは、愛知応援には行けない」という条件があり、私は、もろに該当者なので、健康診断のために、診療所から二度も呼び出されたものの、二度とも、腰痛を申告したら、あっさり、追い返されてしまいました。 で、「こりゃ、岩手に決定だな」と覚悟を決めていたのです。 ちなみに、愛知応援の方は、親会社の工場なので、厳しい健康条件があるのですが、岩手応援は、同じ会社内ですから、誰でも行けます。

  ところが、健康診断を進める内、社外応援に行ける健康な人間が、予定していたより、ずっと少ない事が判明し、慌てた会社が、頭数を揃えるために、条件を緩くして、一度落とした人間を、また拾い始めたんですな。 で、私の上司が、「腰に負担がかからない所」という事で、探して来たのが、北海道の工場だったというわけ。

  いやあ、わざわざ探してくれて、ありがたいと言うべきか、遠過ぎて、洒落にならんと言うべきか・・・。 最初聞いた時には、笑ってしまいました。 同僚達も、みんな笑います。 他に反応のしようが無いと言ったところ。 誰も行った事が無いので、極端な遠さを、笑うしかないんですな。

  で、大変な事になったので、ブログの記事を書くどころではなくなり、また、感想文になったというわけなのですよ。



≪ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯≫
  2012年の5月頃、何かの番組で、フランス文学者で古書コレクターの鹿島茂という方が、お薦めの本として挙げていたのですが、半年も経ってから、ようやく、読む事が出来ました。 だって、沼津の図書館に無かったんだもの。 なぜか、沼津より規模が小さい三島の図書館にはあり、他にも借りたい本があったので、ついでに、これも借りて来たという次第。

  16世紀半ば頃のスペインで、作者不詳のまま出版され、大ベスト・セラーになった小説。 ≪ピカレスク≫というジャンルの嚆矢になった作品だそうです。 ピカレスクというのは、≪悪漢小説≫などと訳され、悪事も厭わない主人公が、知恵と才覚で世に憚って、逞しく生き抜いて行く話。 ちなみに、16世紀半ばというと、日本では、まだ戦国時代です。

  この本の主人公、ラサーロは、まだ少年で、ケチな盲人や、ドケチな坊主、貧乏なくせに気位だけは高い従士などに仕えて、三度三度の飯もありつけず、まさに死ぬほどの苦労をします。 主人達を出し抜いて、何とか食べ物を手に入れるのですが、その出し抜く手口を、細かく書き記したのが、この本の読み所というわけ。

  ただ、何分、古い時代の作品なので、そんなに面白いというわけではありません。 まだ、ヨーロッパの小説が発達する前の事で、どうすれば面白くなるか、創作技術が確立されていなかったんですな。 ただし、この後、≪ドン・キホーテ≫に発展して行く、萌芽のようなものは見受けられます。

  三人目の主人は、赤貧洗うがごとき貧乏人なのですが、「武士は喰わねど高楊枝」という言葉を、そのまま具現化したような存在で、もしかしたら、江戸時代以前に、この作品を通して、スペインから伝わった言葉なのではないかと、訝りたくなるほどです。

  全部で七話あるのですが、小説としての体裁を保っているのは、一・二・三話だけで、後は、たった一つのエピソードだけ書いてあったり、あらすじだけ書いてあったりと、まあ、オマケのようなものです。

  話は大して面白くありませんが、当時のスペインが、いかに食べ物に困っている国だったかが分かる点は、大変、興味深いです。 解説によると、新大陸からの略奪で、金銀は大量にあったけれど、小麦は足りなかったのだとか。 ラサーロが、パン一切れを手に入れるために、悪戦苦闘を演ずる様を見て、笑うより先に、憐れを感じてしまうのは、書き手と読み手の食生活の充実度に、あまりにも落差がありすぎるからでしょうか。


≪北方から来た交易民 【絹と毛皮とサンタン人】≫
  これは、ネット上で交友している方から薦められた本ですが、沼津の図書館には無かったので、三島で借りて来ました。 なぜ、三島にはあるのかなあ? 

  地理的には、すぐそこであるにも拘らず、日本人には馴染みが極度に薄い、ロシアの沿海州とサハリンの先住民族について書かれた研究書。 副題が【絹と毛皮とサンタン人】となっていますが、サンタン人というのは、特定の民族名ではなく、江戸時代に、沿海州からサハリンに交易にやってきていた人々の事を指していた、日本側の呼称です。

  沿海州とサハリンでは、クロテンやアザラシの毛皮が獲れるのですが、それを中華王朝の明や清が欲しがったため、沿海州に住んでいた先住民が、毛皮を中国製の絹織物と物々交換し、手に入れた絹織物を、サハリンに運んで、アイヌ人経由で、松前藩や江戸幕府に渡し、鍋や鑢など、日本製の鉄製品と交換していたという話。

  清がサハリンで徴税していたといのは、中国史で読んで知っていましたが、先住民が主体になって行なっていた、こういう交易活動の事は、全く知らなかったので、久々に、新鮮な知識欲を刺激されました。 こういう、近隣の民族との間で起こった出来事は、日本史でも教えるべきですな。 もっとも、アイヌ人の事すら、ろくに教えていないのですから、そんな事を文科省に期待するのは無理な相談か。

  毛皮だけが目当てだった明や清は、先住民と、干渉し過ぎない適度な関係を築くのですが、江戸幕府は、サハリンに支配権を及ぼすのが目的だったため、アイヌ人の生活を圧迫し、ロシアと明治政府に至っては、もう、領土欲剥き出しで、先住民など存在しないかのごとく、移民を送り込んで、≪開拓≫を推し進め、先住民の住環境を破壊して行きます。 大変、うしろめたく、胸が痛む話。

  明・清が先住民と結んでいたのが、商取引の契約ではなく、朝貢関係だったというのは、驚きです。 朝貢貿易というと、普通は、朝鮮やベトナムなど、もっと大きな規模の国と行うものだと思っていましたが、個別の民族単位にも適用されていたんですねえ。 民族といっても、彼らの人口は、数百人から、数千人程度ですよ。 基本的には、狩猟民だから、そんなには多くの人数を養えないのです。

  著者が言いたいのは、「沿海州やサハリンの先住民というと、狩猟・漁撈生活を送る、≪原始民族≫、≪自然民族≫というイメージで見られているが、実際には、自発的に交易を営み、国際商人として、文明社会の一端を担っていたのであり、ステレオ・タイプな見方は、民族学者の偏見によって作られたものである」という事。 それは、非常に、よく伝わって来ます。

  研究を、本に纏めたものなので、読み物としては、些か、難し過ぎるところがあります。 特に、先住民の民族名が、時代と共に変遷し、しかも、民族の中身自体も変質して行ってしまうので、ある時点のどの民族が、その後のどの民族に変わって行くのかが、うまく把握できません。 民族名ばかりたくさん出て来て、もう、頭がぐちゃぐちゃ状態になります。

  しかし、その点を除けば、理詰めで分かり易い文体で書かれているので、この種の問題にあまり興味が無い、一般の読書人でも、問題なく読み進められると思います。 内容が面白い事に関しては、保証できます。


≪モルグ街の殺人事件≫
  これは、手持ちの本。 新潮文庫。 奥付けには、「昭和54年・第43刷」とありますが、1979年ですな。 たぶん、中学時代に買ったもの。 値段は、220円。 安いな、昔の文庫は。 短編集ですが、どの作品を読みたくて買ったのか、今となっては、記憶にありません。

  やはり、≪モルグ街≫でしょうかねえ。 作品名を聞いた事はあるけれど、どんな話か知らなかったので、読んでみようと思ったのでしょう。 エドガー・アラン・ポーが、江戸川乱歩の名前の元になった作家だという事は、中学生の頃には、もう知っていました。

【モルグ街の殺人事件】
  ホームズの原型になった天才、オーギュスト・デュパンが登場する三作の中で、最も有名な作品。 短編推理小説です。 ただし、ポーがこの作品を書いた頃には、推理小説というジャンル自体が存在せず、読者に謎解きさせるような構成にはなっていません。

  パリの街なかの建物の中で、母娘の惨殺死体が発見され、その異常な手口から、デュパンが、常識では考えられないような犯人の正体を見抜く話。 デュパンは、職業探偵ではなく、難事件が起こった時に、警察に知恵を貸している人物。

  先に、ホームズ物を読んでから、この作品を読むと、既視感に何度も襲われます。 新聞に広告を出して、容疑者の方を呼び寄せる手法など、ホームズ物に、どれだけ使われている事か。 謎そのものも、ホームズ物に、似た話がいくつかあります。 元は全て、この一作だったわけですな。

【落穴と振り子】
  これは、恐怖小説。 19世紀初頭、スペインの宗教裁判で死刑を宣告された男が、地下牢に送り込まれ、真っ暗な部屋で、落とし穴の周囲を手探りで進まされたり、床に縛られて、天井から、刃物の付いた振り子が、少しずつ下りて来るのを見せられたりする話。

  実際に、その立場になれば、震え上がると思いますが、小説として読んでいる分には、さほどの恐怖は感じません。 どうして、そんな目に遭ったのか、理不尽な経緯が前置きされていれば、より怖くなったと思うのですが。

【マリー・ロジェエの怪事件】
  デュパン物の第二作ですが、早くも、スカ。 いや、何と言っても、まだ推理小説の標準形態が定まっていない頃なので、ポーは、いろいろと、語り方を模索していたんでしょう。 ≪モルグ街≫と同じような作風を期待していると、肩透かしを喰います。

  若く美しい娘が行方不明になった後、死体がセーヌ河に浮いた事件で、新聞各紙が、様々な推測を展開するのを、デュパンが、新聞の記事だけを分析して、真相を探っていく話。 ≪謎解きはディナーの後で≫と同じく、伝聞情報だけが頼りで、実際の捜査場面が無いので、物語に動きが感じられないのが、最大の欠点。

  しかも、推理だけして、犯人を逮捕するところまで行きません。 ほんのちょっと加筆して、デュパンの推理通りに逮捕された事を記しておけば、だいぶ、印象が違ったんでしょうがねえ。 残念な事です。

【早すぎる埋葬】
  これも、恐怖小説。 仮死状態で埋葬されてしまった者が、棺桶の中で生き返って、地上に出て来た話や、棺桶から出て、墓所の入り口まで来たのに、扉を開けられず、そこで本当に息絶えた話など、実話事例を並べた上で、早過ぎる埋葬を極度に恐れる主人公が、自分の墓に施した様々な対策も虚しく、旅先で死んで、棺桶の中で目覚める話。

  これも、自分がその立場になれば、この上無く恐ろしいと思いますが、現代日本では、土葬も、墓所安置もありえないので、実感が今一つ湧きません。 割と、コミカルなラストなので、読後感は悪くありません。

【盗まれた手紙】
  デュパン物の最終作。 これは、≪モルグ街≫ほどではないですが、明らかに秀作です。 ある貴婦人が、自分の身の破滅に繋がるような手紙を盗まれてしまい、パリ警視庁が大人数を繰り出して、犯人の家を何度も捜索したにも拘らず、全く見つけられなかったのを、デュパンが出かけて行って、ちょこちょこんと見つけて来る話。

  こちらも、ホームズ物に、同じ趣向の話があります。 「見つけられたくない物は、最も見つかり易い所に、さりげなく置いておくのが良い」という、逆転の発想は、いかにもの、ポー好み。 コリンズにも、パクリと思しき、同じ題名の小説がありますが、こちらの方が、遥かに昔に書かれた物なのに断然優れています。


  以上、5作品が収められています。 デュパン物が、フランスの話なので、ポーをフランス人だと思っている人もいると思いますが、エドガーという名前を見ても分かるように、英語圏の人で、しかも、アメリカ人です。 推理小説の第一歩は、アメリカ人が足跡をつけたんですねえ。


≪黒猫・黄金虫≫
  こちらは、旺文社文庫。 「昭和50年・第33刷」で、1975年。 200円。 私が買った本ではなく、家にあった本ですが、我が家で、私以外に本を買うといったら、母だけなので、母が買ったものでしょう。

  私の記憶では、この本は、子供の頃から家にあったような気がするのですが、自分で買った≪モルグ街の殺人事件≫とは、4年しかズレていないわけで、すると、小学校高学年頃に初めて見たという事になります。 その頃の時間経過の感覚は、歳を取った今より、ずっと長かったんですなあ。

【黒猫】
  家にこの本があるのを知っていたにも拘らず、通して読んだ記憶が無いのは、最初の【黒猫】だけ読んで、暗い話だったので、嫌になってしまったからです。 今回、読み返しましたが、やはり、暗かったです。

  動物を虐待する性癖がエスカレートして、妻まで殺してしまった男が、地下室の壁に死体を塗りこめるものの、妻の飼い猫が同時に姿を消した事が原因で、犯行が発覚する話。 皮肉な結末が用意してあるので、これ以上、詳しく書けません。

  恐怖小説ですが、黒猫に不吉なイメージを抱かない人には、この話の妙味がほとんど理解できないと思います。 私も、その一人。 ただ、主人公の残虐癖が、不愉快なだけ。

【赤死病の仮面】
  中世に、疫病が流行っていた地方で、領主とその知友だけが、館に閉じ籠る事で感染を免れ、毎夜、宴に興じていたのが、ある時、奇妙な扮装をした人物が闖入して来たせいで、破滅して行く話。

  疫病感染の恐ろしさを、ビジュアル的に表現したもの。 耽美小説というべきか、恐怖小説というべきか、ジャンル分けに迷うところ。 文章で書いた絵画と言ってもいいような作品で、こういう作風は、ポーでしか読んだ事がありません。

【アッシャー家の崩壊】
  友人とその妹が住む館に招かれた男が、友人の妹の死の真相を知ると同時に、意思を持った館が友人を呑み込んで沼に沈むのを目撃する話。

  これも、恐怖小説ですが、あまり、怖くありません。 石造りの館に馴染みが無いと、なかなか、その恐怖を共感する事ができないんですな。 途中に、友人が作った詩が入っていたりして、唐突感と蛇足感を同時に覚えます。

【モルグ街の殺人】
  これは、≪モルグ街の殺人事件≫とダブっているので、感想はそちらで。 訳者が違いますが、読み比べるほど、モチベーションが上がりません。

【黄金虫】
  ポーの代表作の一つに必ず出てくる、宝探しの推理物。 ホームズの≪踊る人形≫は、この作品の暗号解読部分を、そっくりパクっています。 アメリカのメキシコ湾岸の島に住む男が、キャプテン・キッドが遺した宝の地図を手に入れ、暗号を解読し、友人と従僕に手伝わせて、宝を掘り出す話。

  基本的には非常にシンプルな話ですが、友人が書いた手記という体裁になっている上、先に宝の掘り出しがあり、後で暗号の謎解きをするという順番で語られるという、複雑な構成になっているため、読み応えは充分あります。

  大人が読むと、さほど感動しませんが、知性に興味を抱き始めた年齢で、この作品に出会うと、「ほーっ! 凄いな、これは!」と思うはず。 私は、中学の時に、学校の図書室で、この作品を読み、ポーの評価を変えた人間の一人です。

【ウィリアム・ウィルソン】
  自分にそっくりな男が、人生の節目節目に現れて、邪魔をするので、殺してしまったら、実は、それが、自分自身のドッペルゲンガーだったという話。

  映画≪世にも怪奇な物語≫に、この作品が入っているので、読んでみたのですが、映画よりは、ずっとシンプルで、些か、肩透かしを喰らいました。 売春婦を解剖するエピソードは、映画の方の創作だったんですねえ。 あれが、一番怖いんですが。


≪ポオ小説全集 ② 幻怪小説≫
  図書館で借りて来た、エドガー・アラン・ポーの短編小説集。 これは、文庫ではなく、ハード・カバーです。 ポーの小説の中から、幻想・怪奇をモチーフにした作品を集めたもの。 収録作品は、以下の17編。

【赤き死の仮面】
【メッツェンゲルシュタイン】
【アッシャア家の没落】
【ウィリアム・ウィルスン】
【奇態な天使】
【使いきった男】
【息の紛失】
【天邪鬼】
【ペスト王】
【ボンボン】
【ヴァルデマア氏の病症の真相】
【鋸山物語】
【エルサレム物語】
【四匹で一匹の獣】
【シェヘラザアデの千二夜目の物語】
【花形】
【ジュリアス・ロドマンの日記】

  この内、【赤き死の仮面】【アッシャア家の没落】【ウィリアム・ウィルスン】は、文庫の短編集によく収録される作品です。 【メッツェンゲルシュタイン】は、映画、≪世にも怪奇な物語≫の第一話、【黒馬の哭く館】の原作になった話。 映画では、女になっている主人公は、原作では、男です。

  【ヴァルデマア氏の病症の真相】は、臨終の床にある男に催眠術をかけて、死後に会話を交わす実験の様子を描いたもので、実に不気味。 フィリップ・K・ディックのSFに、似たようなアイデアの話がありますが、もしや、こちらが元でしょうか。

  最後の【ジュリアス・ロドマンの日記】は、最も長く、最も読みやすい文体で書かれています。 内容は、ヨーロッパ人として、ロッキー山脈を踏破した人物の探検記です。 問題は、これが、創作なのか、実録なのかが分からない事。 創作だとすると、わざわざ時間を割いて読むほど、価値が無いような気がしますし、実録だとすると、なぜ、この巻に収められているのかが分かりません。

  と、以上、5作は、物語としての態を成しているんですが、他は、もう、どーしょもないという感じで、文字通り、話になりません。 読むのが苦痛。 ポーは、精神的に不安定だったようですが、明らかに、狂った状態で、思いつく事を書き連ねたような、滅茶苦茶な作品が多いです。

  こういうのを読むと、ポーの小説の中で、文庫に収録される作品が、出版社を問わず、数編に限られている理由が、よく分かります。 読むに耐えない、訳すに耐えない、出版するに耐えないのです。



  以上、5冊まで。 2012年の12月から、2013年の正月にかけて、書いたもの。 硬いものに飽きて、また推理小説の古典に戻ったんですな。