2008/02/24

続・増えるリコーダー

過日、≪増えるリコーダー≫という文章で、八本まで増えたソプラノ・リコーダーの内、半分を紹介しましたが、今回は残りの四本について書く事にします。 例によって、「リコーダーなんぞ、わしゃ知らん」という人は、飛ばして下さい。

アウロス 303A
ヤマハ YRS-28BⅢ
全音 スタンダード モデル SB
スズキ SRE-505

  前の四本が100円ショップの品を始めとする≪超廉価モデル≫だったのに比べ、今回の四本は、国内メーカー四社が売っているラインナップの中で、最も安いタイプを揃えたコレクションでして、いわば、≪並の廉価モデル≫です。


≪アウロス 303A≫
 1260円 日本製 バロック式 (運指表・掃除棒・グリス・指掛けフック付き)

  知っている人しか知らないと思いますが、≪アウロス≫というのは、日本のリコーダー専門メーカーなのです。 いや、正確に言うと、会社名は≪トヤマ楽器≫でして、≪アウロス≫はブランド名。 サイトを見てもらえば手っ取り早いんですが、現在整備中だそうで、見る事が出来ません。

  で、この最廉価モデルの303Aですが、見ての通り、色が白です。 象牙を模してあるので、象牙色といった方がいいでしょうか。 大変美しいです。 正直、象牙より美しい。 いや、ほんと。 高いモデルになると白と茶色のツートンになってしまいますが、白一色の方が、ずーっと高級感があります。

  外見はさておき、音ですが、非常に大きな音が出ます。 他と吹き比べてみると、はっきり違いが分かるような大きさで、実に気持ちがいい。 でも、学校で吹くならいざ知らず、家で吹くとなると、この抜けの良さは、却って邪魔になります。 音色は可も無く不可も無く。 音の安定度は良くて、最低音から中音域まで、淀みなく出ます。 廉価モデルの中では優等生ですな。 ちなみに、この笛、他社のものに比べて、長さが5ミリくらい長いです。

  指掛けフックというのは、本体の中程に取り付けて、右手の親指が掛かるようにし、笛を安定させる器具。 アウロスの物は、パチンとはめ込む脱着式で、最もよく出来ているといわれています。 しかし、そもそも初心者向けの装備なので、慣れてしまえば、あってもなくても大差ないという感じです。

  これは、≪アウロス 303A≫のケース。 合成皮革製ですが、作りはしっかりしています。 止め具はホック式。 右端の≪E≫は、イギリス式のEと思われます。 バロック式は、別名イギリス式とも呼ばれるのです。


≪ヤマハ YRS-28BⅢ≫
 1155円 インドネシア製 バロック式 (運指表・指掛けフック付き)

  泣く子も黙る御大ヤマハ楽器の製品。 象牙色の本体に、三音叉マークもバッチリ入っていて、大変美しい笛です。 見ているだけで、惚れ惚れします。 新品の時には、ピカピカ光っていたんですが、何度か使って水洗いする内に、艶は落ちてしまいました。 たぶん、ワックスを塗ってあったのでしょう。 でも、艶がなくなっても、まだ充分に美しいです。

  またまた外見はさておき、肝腎の音ですが、音量はアウロスより幾分小さく、音色も何となく神経質な感じがします。 そして、最低音のドが、出にくいです。 上から、ソ・ファ・ミ・レと塞いで行くと、段々音がビビり始め、全閉のドでは、音が割れるんじゃないかと吹いている方までビビりまくる始末。

  ヤマハに限らず、最低音のドが出にくく設定してある笛は結構あるようですな。 店によっては、「ドが出ない」と苦情を言って来たお客さんに、「指の塞ぎ方に隙間がある」と説明している所があるようですが、完全に塞いでいても、ドが出ない笛はあります。 確認する為には、指穴をマスキング・テープで全部塞いで吹いてみれば分かります。

  この笛、ドだけでなく、高さによって音色が変わる変な癖があり、ソ・ラの辺りは、この世のものとも思われぬような美しい音が出ます。 しかし、ソとラだけでは曲が吹けないから、宝の持ち腐れですな。

  この笛にも指掛けフックがついていますが、粘着テープで貼り付ける方式なので、アウロス以上に使う気が失せます。 こんな付属品、いらないと思うんですがねえ。

  ≪ヤマハ YRS-28BⅢ≫のケース。 材質は布です。 右端の≪B≫は、バロック式を表わしています。 開閉部はマジックテープ。 ケースの下の端に縫い残してある部分があり、通気口になっています。 笛の中に水分を残したまま収納すると、カビが生える事があるので、その対策かと思われます。 リコーダーの生産地はインドネシアでしたが、この布ケースはインド製です。 うーむ、国際的製品だ。


≪全音 スタンダード モデル SB≫
 1155円 日本製 バロック式 (運指表付き)

  全音という会社は、リコーダー以外にも、楽器や楽譜など、音楽関係の製品をたくさん出しています。 かなり有名な会社。 でも、知らない人はやはり知らないでしょうねえ。 サイトがあるので、検索して行ってみると宜しい。 なに、紹介するなら、リンクで繋げ? 誰がそこまで親切なものかね! あたしゃ、全音の社員じゃないんだよ。

  この笛は、最廉価モデルですが、色は中級・上級モデルと同じく、白茶のツートンです。 しかも、ウインド・ウエイが、アーチ形と来たもんだ。 ↓こんな形。

  他社の最廉価モデルは、みなストレート形ですから、こやつは一段上の機構を奢られているわけですな。 ウインド・ウエイというのは、吹き口の穴の事でして、アーチ形にすると、息の通りが僅かに阻害されて、繊細な音色になると言われています。 ストレート形というのは、ただの長方形です。

  で、音ですが、アーチ形を採用している割には、さほど繊細な感じはしません。 特別良くもなく、悪くもなく、音色、安定度、みな平均的。 小学生に使わせるには、良心的な性能といえるでしょう。 高音域にはそこそこ強く、かなりの高さまで、安定した音が出ます。

  ≪全音 スタンダードモデル SB≫のケース。 布製で、開閉部はホック。 裏の上の方に、フック穴あり。 上品な色だと思いますが、子供が使う事を考えると、明るい色は、汚れ易いかもしれません。


≪スズキ SRE-505≫
 1155円 生産地不明 バロック式 (運指表付き)

  スズキ楽器の最廉価モデル。 ヤマハ楽器は、ヤマハ発動機と関係ある会社ですが、スズキ楽器がバイク・車のスズキと関係あるのかどうか、よく分かりません。 なぜか、調べる気にもなりません。

  ネットで調べた段階では、黒だと思っていたんですが、手にしてみると、焦げ茶色でした。 ↓は、頭部管のアップ。

  金文字の≪PLUMA≫は、スズキのリコーダーのブランド名です。 ラテン系の言葉で、≪羽根≫の意味。 それはいいんですが、この最廉価版の≪SRE-505≫のみは、その上に、≪SUZUKI≫と≪S≫マークの浮き彫りが入っているのです。 大方、「小学校に採用された時に、スズキの名前を入れておけば、児童に会社を覚えてもらえるだろう」という魂胆なんでしょうが、狭い所にロゴをゴテゴテ詰め込むのは、ダサさの極致ですな。 ≪PLUMA≫だけにすれば、かっこいいのにねえ。

  この笛、高音に強く、高いファくらいまでなら、いとも容易に出ます。 高音に強いリコーダーというのは珍しいので、貴重な存在と言えます。 私の乏しい経験に照らすと、高いファ辺りまで出せれば、大抵の曲は吹けます。 いや、たぶん。

  これで、外見がよければ、言う事無しなんですがねえ。 いや、言う事まだありました。 足部管が抜け易いのです。 1155円で、これはないだろう。 そういえば、キズも多かったです。 「よく、こんなの出荷したな」 「もしかしたら、中古なんじゃないの?」と思うくらい、あちこちに擦りキズが。 でもまあ、プラスチックなので、歯磨き粉をタオルにちょっとつけて磨けば、表面的なキズは落ちるんですがね。

  スズキ≪SRE-505≫のケース。 布製。 国内メーカーの最廉価版四種の中では、このケースが一番汚れが目立たない色です。 欲を言えば、もうちょっと厚手の生地にした方が長持ちしそうです。


  今回の四本は全部、バロック式の運指です。 バロック式は、ファの音や、半音の指使いが、ジャーマン式とは異なります。 文章で説明するのは難しいので、興味のある方は、メーカー・サイトの図解を御覧下さい。 ちなみに、ソプラノ・リコーダーの場合、国内四社は、すべてのラインナップに、バロック式とジャーマン式の両タイプを揃えています。 私個人の感想ですが、操作はやはり、ジャーマン式の方が簡単です。 ジャーマン式を採用する学校が多いのもむべなるかな。 笛にほとんど興味がない子供に、バロック式を持たせたら、いきなり笛嫌いになってしまうでしょう。

  ネット上で、リコーダーについて偉そうな御高説をぶっている人達は、大概バロック式を勧めていますが、私だったら、これから始めるという人に、バロック式は勧めません。 ジャーマン式である程度吹けるようになってから、バロック式を習っても、別段不都合が無いからです。 問題は、何式の笛で吹いているかではなく、曲が吹けるかどうかなのですから。 私は、両方を日替わりで使っていますが、別段、混乱する事は無いです。 車とバイクの運転の仕方を間違えないのと同じ理屈でして、人間の頭というのは、そんなに単純ではないんですな。


  今回、写真があったので、ケースまで一緒に紹介しましたが、実は私は、笛を陳列台に出しっ放しにしているので、ケースは使っていません。 いちいち吹く度にケースから出すのも面倒ですし、出し入れの度にキズがつくのも嫌だからです。 家の中でしか吹かないから、持ち運びの用も無し。

  小学生は、リコーダーをケースに入れて、持ち運びしているわけですが、吹いた後、洗いもせずに、ケースにぶち込むのは、大変不衛生です。 あけすけに言わせて貰えば、き・た・な・い。 たとえ、クラス一の美少女の笛であっても、唾液がついたまま放置すれば、やがて万億兆の雑菌がうにょろうにょろと繁茂するのであって、そのまま数日おいて、またそれを口につけようというのだから、その無神経ぶりには開いた口が塞がりません。

  プラスチック・リコーダーは、水洗いできますから、吹き終わったら、水道の蛇口の下に持って行って、洗ってしまえばいいのです。 吹き口の外回りをざっと流した後、窓の部分から水を注いで、ウインド・ウエイと管の中を流します。 洗い終えたら、上下に持ち替えて軽く振り、中の水を切ります。 最後に外側の水滴をティッシュかタオルで拭き取ればおしまい。 二分もあれば終わります。 なぜ、学校で、このメンテを教えないのか、大変不可解。

2008/02/17

農薬立国日本

  大型台風というか、大地震並みの報道になりましたね、≪冷凍餃子農薬混入問題≫。 まったく、おかしいったらない。 比較的よくある中毒事件で、一人の死人が出たわけじゃ無し、別段大ニュースではなかったんですが、一国のマスコミが総動員体制で騒ぎまくれば、これだけ大ごとに出来るという、典型事例になりました。 これだものねえ、戦争を始めれば、どの報道機関も、「お国の為」に、嘘でも法螺でも扇動でも、何でもござれで協力するわけだ。 この一件に関する感想は、もうちょっと流れを見てから書こうと思っていたんですが、真っ最中の状況を記しておくのも面白かろうと思って、急遽触れてみる事にしました。

  まず、初っ端の報道では、日本の報道機関は明らかに、この問題を≪事故≫として扱っていました。 中国の工場で作られた製品だった為、≪中国製品=粗悪≫という、安直な図式に安直に当て嵌めて、「いい加減な作り方をしているから、農薬が混ざった事に気付かないまま、出荷したのだ」と、条件反射的に判断を下したのでしょう。 この時点では、製造元の工場に関する情報など、名称以外に何も分かっていなかったにも拘らず、です。 私は、この初期反応を見た段階で、もう問題の本質などどうでもよくなり、日本のマスコミがどんな珍報道をするか、そちらに興味津々となってしまいました。

  二三日すると、製造元の工場について、情報が出回り始め、工場の内部の映像が流されるようになりました。 その影響で、報道の雰囲気がガラリと変わります。 近代的な設備の清潔な工場を見せられて、マスコミの連中が漠然と想像していたと思われる、汚らしい町工場で、私服のオバサン達がもそもそとギョーザを包んでいるイメージがぶっとんだのです。 わはははは! 馬鹿だねえ! 今時、中国の輸出企業が、そんな古臭い町工場で、家内制手工業みたいな生産方式を取っているわけがなかろうが! だから、お前らは、国際情勢音痴、工業常識音痴だと言うんだ。 まあ、日本国内で、細々とやっている中小企業なら、小汚い婆さん達が額寄せ合って、いわしの頭とか取っている光景はよく見るがのう。

  工場の経営者や、立ち入り調査に入った日本の商社の人間の口から、工場が世界でもトップクラスの衛生管理をしているとの証言が出ると、初期の、≪生産管理の不備による事故説≫があっさり消えました。 次に出て来たのは、故意に農薬を混ぜたという、≪事件説≫ですが、これまた面白いんだわ。 故意にやったとなれば、農場での原材料の生産段階から、工場での加工段階、流通段階、販売店、消費者宅まで、あらゆる段階にその可能性が出てくるわけですが、日本のマスコミは押し並べて、工場からの出荷前、というか、中国国内にあった段階での混入以外、可能性を想定していませんでした。 馬鹿じゃないんだから、日本に着いてから、日本人が入れたという可能性がある事に気付かないわけがないと思うんですが、最初からそれを除外してしまっていたのです。

  とことん、他国のせいにしたいわけだ。 「日本人はそんな悪い事はしない」とでも思っているんですかね? だからさあ、日本国内でも、食品の偽装問題でさんざん大騒ぎしましたよねえ。 まだ、去年の話だから、少々ボケが入った人でも、忘れちゃいますまい。 そんな国に住んでいるのに、どうして、同国人なら信じられるんだ? いやいや、これねえ、日本人を信じているから、他国のせいにしているのではないと思います。 「外国人は信用できない」という差別意識が脳の奥底に巣食っているから、「日本人も信用できないが、外国人はもっと信用できないから、こういう悪事をするとしたら、外国人に決まっている」という、なにやら焦点がボケた論理で、こういう判断になるのでしょう。 しかも、こういう報道していたのは、そこらの頭のおかしい週刊誌じゃないですよ。 一流紙といわれるような日本を代表する新聞までが、同レベルの見方をしていたのです。

  その後、捜査が膠着してしまい、「故意による混入の可能性が高い」という事だけ、ある程度確実とされたものの、どの段階で、誰がやったかについては、分からないまま、現在に至ります。 捜査に進展が無いにも拘らず、日本の報道機関は、やはり、中国側に犯人がいるという見方を崩したくないようで、とても証拠にならないような、あやふやな材料を感知して来ては、「包装前に混入された疑いが強まった」というような見出しをデカデカと出しています。

  農薬が検出された部分が包装の中か外かで、混入場所を特定しようとしているのですが、考え足らずもいい所で、「一度開封した後、また密封する事もできる」と言われてしまえば、実際にそういう器具が出回っていますから、論拠を簡単に崩されてしまいます。 農薬の種類から、中国側での混入を証明しようとしているのも浅薄この下無い。 犯人が中国側に疑いが向くように仕組んだとすれば、日本で使われていない農薬を選ぶのは当然で、両国の農薬使用事情をどんな調べた所で、間接証拠にすらなりません。 「悪意で事を行なう者は、随意に偽装工作が出来る」という、犯罪の基本中の基本を失念しているのでしょう。 こういう所にも、論理を理解できない民族的欠陥の哀しさが現れて来ますな。 

  日本の報道機関は、最初に中国側責任説で報道してしまった為に、引っ込みがつかなくなって、どうにか自分の言った事が嘘の報道にならないように、神の祈りつ仏を拝みつ、推移を見守っているのでしょう。 しかし、あーた、そんなに自信が無いのなら、分かってもいない事を最初から言わなければよいではないですか。 手前で手前を崖っ縁に追いやってやがんのよ。 自分を安心させる為に、中国側に不利な情報を探し出してきて、無理やり記事にして、しかも一面に出す自信が無いから、三面に載せて、まるで陰口でもきくように、こそこそ姑息な報道をしている新聞もありますが、そんな情報をどんなに積み上げても、所詮≪推定の根拠≫にしかならないのが分からんのですかね? 警察の捜査で、一つ事実が出てくれば、全部引っ繰り返ってしまいます。 自分が書いてきた事が、すべて見当外れの中傷記事に過ぎなかったと分かった時、この記者、どうするつもりなんでしょう?

  事の真相は、まだ分かっていないわけですが、狂ったように大騒ぎをしている日本側に比べて、中国側の抑制ぶりには、人品の違いを痛感せずにいられません。 どんな結果が出ようが、中国側の被害は甚大なものになるはずですが、先々の事を見通して、感情的な日本批判を手控えているのです。 それに比べると、日本の報道機関の態度は、興奮して大人に食って掛かる子供に見えて仕方ありません。 何と情けない事か。 ちょっと面白いなと思ったのは、中国側の捜査担当者で、記者会見で涙を流した人がいた事です。 それ以降、日本側の攻撃的報道が目立ってトーンダウンしましたが、あの人物、もし戦略的に泣いて見せたのだとしたら、大した日本研究家です。 「日本人には論理的な説明をしても理解されないが、情に訴えると効果がある」事を見抜いていたと考えられるからです。


  この問題に関して、ネット上で、すでにいろいろと書いてしまった人も多かろうと思いますが、まず、こういう事件・事故が起きた時には、何か一言言いたい気持ちをぐっと抑えて、流れを見守る事です。 ≪百観察して、十分析し、一言言う≫くらいが望ましい。 殺人事件などでも、外見的にいかにも怪しそうな関係者がテレビに映ったりすると、「こいつが犯人なんじゃないの?」などと書きたくなるものですが、外れていたら、言い訳のしようがないでしょうが。

  報道機関の場合、会社や団体という組織で責任を分かち合っている為、嘘の報道をしても、別人が謝罪したり、すっとぼけたりという、卑怯な逃げが使えますが、ネットで意見を公表している個人の場合、個人間の信用で読んで貰っているわけですから、信用の失墜は致命的になります。 何度も間違えていると、常連だった読者まで、「なんだ、こいつ。 いい加減な事ばかり書きやがって」と呆れて、去っていってしまいます。 別に、真相を当てなくてもいいんですよ。 預言者や占い師じゃないんだから。 間違いに終る危険性のある事を言わなければ、それで充分なのです。

  昔、≪グリコ・森永事件≫というのがありましたが、未だに犯人は捕まっていません。 生産や流通の関係者が犯人だった場合、事情聴取の対象範囲を広げたり、同じ人物への取り調べを繰り返す内に、犯人が引っ掛かる場合がありますが、もし全く無関係な人間が犯人だった場合、絞り込むのは大変です。 中国側に犯人がいれば、動機が限られて来るので絞りやすいですが、日本側だったら、犯人の特定は雲を掴むような話になってしまいます。

  中国側で日本向け輸出品に毒を盛ろうとするのは、待遇に不満があるとか、過去に解雇されたとか、就職できなかったとか、工場に恨みがある者に限られる可能性が高いですが、日本側で中国からの輸入品に毒を盛る奴となると、単に中国が気に食わない奴とか、冷凍食品にシェアを奪われている別の食品業者とか、関係者に留まらないので、捜査範囲がドーンと広がってしまうのです。 ネット○翼のガイキチどもを筆頭に、事件が起きて以来、ネットの掲示板、テレビのインタビュー、新聞の読者欄などで、中国製品を糞味噌に扱き下ろしている連中は、すべて動機が疑われるのであって、こやつら全員調べるとなったら、警察がパンクしてしまいます。 でも、実際に調べてやったら面白いですな。 この馬鹿ども、顔色真っ青、冷や汗だくだくで身の潔白を訴えるに相違ない。 人を呪わば穴二つ。

  中国製品離れが加速しているそうで、もし日本側に犯人がいるとしたら、思う壺に嵌まったわけで、大笑いしているでしょう。 なんとも浅はかな事よ。 そんなに自分の国を衰えさせたいか。 こういう事件が起きると、日本国内の消費が落ち込むんですよ。 今まで買われていた物が、買われなくなるわけですから、その分だけ内需が細るわけです。 「中国製品の代わりに、国産品を買えばよい」などと思っている人達に言っておきますが、中国製の冷凍食品に価格面で対抗できる国産品など、存・在・し・ま・せ・ん。 どちらかを選べると思うのが大間違いで、代替品なんて、無・い・の。 中国製冷凍食品が入って来なくなったら、冷凍食品を食べないようにするか、数倍の価格の日本製品で我慢するか、どちらかしかないのです。 素朴な疑問ですが、安くない冷凍食品に商品価値があるのかね?

  次に、「日本の食品なら安全」という意見が多いようですが・・・。 だからよー、じゃあ、雪印、不二家、ミートホープ、赤福、船場吉兆、日本マクドナルドなんかは、日本の会社じゃないのかい? いくら、論理が分からないからって、こんな単純な事も分からんというのは頭が弱すぎるぞ。 「日本の食品は安全」という言葉は、去年から今年にかけて、一番言ってはいけない言葉ですぜ。 喉もと過ぎれば熱さ忘るるといいますが、すでに喉が焼け爛れているのに、懲りもせず、ぐつぐつに煮えたぎった鍋を掻き込んでいる愚か者を想像させますな。

  次、「中国の農産物は日本に比べ農薬が多い」。 なんじゃ、それは? もしかしたら、日本の農家は、みんな有機農法をやっているとでも思っているのかな? 正確な統計は知りませんが、日本の農業は、相当農薬使いまくる方だと思いますよ。 トキが絶滅した理由は知ってますよね? エサが取れなくなったからですが、なぜ取れなくなったかというと、水田で農薬をしこたま使うようになった為に、泥鰌などエサになる魚が生きていられなくなったからです。

  以前、料理アニメで見たんですが、農薬の影響で、日本猿の畸形が頻出している所があるらしいですな。 日本の農家は、自分の家で食べる物は、市場に出す物とは別に作っているとも指摘していました。 大昔は、商品として店頭に並べられないような出来の悪い物を、自宅で食べていたわけですが、ある時期からは理由が変わり、農薬汚染されていない作物だけ自宅専用に作るようになったというわけ。 農家も馬鹿じゃですからね。 手前で毒を喰らうような真似はしないわけです。

  とまあ、私が抱いている、日本の農薬事情というのはそういうイメージなんですが、人によっては、これがまったく転倒してしまっていて、「日本の農家は農薬を使っていない」とか、もっと凄いと、「日本の農薬は安全だ」とか、ほとんど妄想に近いようなイメージを作り上げてしまっている者が、膨大な数に上るようなのです。 あのねえ、日本人ほど、作物の外見に拘る民族はいないのよ。 キュウリの曲がりも許さないし、トマトに虫喰い穴が一つあっても買わないんだよ。 味なんて二の次、外見外見、見た目が命なんです。 見た目完璧な作物を作ろうとしたら、農薬ぶちまけるしかないんですよ。 農家が悪いんじゃない。 病的に外見に拘る消費者が異常なのです。

  一方中国ですが、もともと、農薬の使用はそんなに多くありませんでした。 中華料理は、大抵火を通して調理するので、作物の外見が悪くても、切ってしまえば同じ事だからです。 中国の農業に大量の農薬を持ち込んだのは、日本の商社だったと思いますが、私の記憶違いかいな? 日本に輸入する為に、日本の消費者が好む、外見に拘った作物を作るように依頼したんですな。

  そういえば、「日本では禁止されている農薬が検出された」といった報道がよくありますが、日本産の作物から、日本で禁止されている農薬が検出されないのは当たり前でして、禁止されていない農薬なら、いくらでも検出されます。 言葉のマジックという奴ですな。 日本で禁止されているからといって、即健康被害があるわけではないし、日本で禁止されていないからといって、即健康被害が無いわけではありません。 だけど、日本人じゃ、この種のちょっと入り組んだ論理は分かんねえかもしんねーなー。 薬害問題などを見ても分かるように、日本という国は、薬品の規制にルーズですから、日本で合法的に使われている農薬の中に、健康被害があるものがあっても、別段驚くには値しません。

  なんだかねえ、日本人って、自分の国を、清潔で安全でえらく進んだ国だと根拠もなしに信じ込んでいる節がありますな。 馬鹿抜かせつっーの。 日本産品のどこが安全なものか。 観察力・分析力・判断力の低い人間ほど、日本産品信仰が強い。 何か確固たる根拠があるのなら、聞くのは吝かではありませんが、理由が、「外国産品じゃないから」だけじゃ、話にもなりません。 そんな奴ら、ただの差別主義者でんがな。 私ゃ、日本に住んでいるから、しかたなく日本産の食品を食べているけど、もし外国に移住したら、日本産品なんて、絶対口にいれませんよ。 私自身日本人ですから、日本人の民族的性癖を世界中で最もよく知っています。 いい加減だと分かっている連中が作ったものなど、わざわざ選んで食うものですか。

  私の日本人観には悪意があると思っている人、農家をやれとはいいませんから、最寄のファースト・フード店か、ファミレスで、二三週間、アルバイトをして御覧なさい。 大変為になる経験が出来ると思いますよ。 ちなみに私は、若い頃に、ファミレスで一年間アルバイトをしていましたが、その間も、それ以降も、ファミレスに客として入った事は一度もありません。 あんな所の食い物が食えるかよ。 わはははは! まあ、いいから、バイトに行ってみなって。 やってみりゃ分かるよ。

  ちょっとだけ、漏らしますと・・・・、ハンバーグはどこのファミレスでも主力メニューですが、専門機関で調べてみれば、30枚に一枚くらいの割で、床掃除用の薬液が検出されるのではありますまいか? よく、生きてるよなあ。 お客さんて、丈夫なんだなあ。

  もうちょっと漏らしましょうか。 ウエイトレスって、二時間勤務するとして、その間に何回手を洗うか知ってます? 限り無く少ないです。 人によってはゼロ。 忙しい時は、全員ゼロです。 かくして、残飯を片付けたそのままの手で、各種デザートを作ります。 トリプル・サンデーなんて、よく頼むよねえ。 お客さんて、丈夫なんだなあ。

2008/02/10

SFから未来を見る

  カート・ボネガットの作品を読み終わった後も、SFを読み続けています。 図書館に早川文庫のSFシリーズが読みきれないほどあるので、資源に不自由しないのです。 もっとも、依然として仕事の休み時間にしか読まないので、数は知れています。 ボネガット以降、これまでに読んだというと、

スタニスワフ・レム
≪ソラリス≫
≪無敵(砂漠の惑星)≫
≪星からの帰還≫
≪宇宙世紀ロボットの旅≫
≪エデン≫
≪天の声≫

A&B・ストルガツキー
≪風が波を消す≫
≪蟻塚の中のかぶと虫≫
≪有人島(収容所惑星)≫
≪幽霊殺人≫
≪ストーカー≫
≪世界終末十億年前≫

アーサー・C・クラーク
≪楽園の泉≫
≪宇宙のランデヴー≫

  レムはポーランド人で、≪ソラリス≫は、ソ連とアメリカで二度映画になったので、かなり有名。 ストルガツキー兄弟は、ソ連・ロシア人で、ソ連SFで世界的に最も有名な作家。 クラークはイギリス人で、≪2001年宇宙の旅≫を書いた人。 日本語に翻訳されている海外SFは、量的にはアメリカ物が圧倒的に多いですが、大体の雰囲気は映画で知っているので後回しにし、知らない世界から読み始めたという次第。 レムにせよ、ストルガツキーにせよ、鉄のカーテンと日本人の猛烈且つ蒙昧なイデオロギー差別意識を乗り越えてくるだけあって、只者ではない面白さを備えています。 ただ、日本の物でもいいから、ある程度SF小説を読み慣れていないと、分からない概念がうじゃうじゃ出て来るので、あまり人には勧めません。

  やはり、最も強烈な印象を与えるのは、レム作品ですかねえ。 ≪ソラリス≫は少々分かり難いんですが、≪無敵(砂漠の惑星)≫と≪エデン≫は、テーマが面白いだけでなく、物語の展開も優れていて、文句なしに傑作と言っていい作品です。

  ≪エデン≫は、かなり長い作品ですが、あまりにも面白すぎて、読み終わった後、「えーっ、もう終っちゃうのーっ! この倍は続けられるでしょうが!」とフラストレーションすらたまる有様。 普通、長い小説を読み終わると、「あー、やっと終ったよ」とほっとするものなんですが、逆のケースを初めて経験しました。 この小説、明らかに、構想段階ではもっと長い話だったと思うのですが、何らかの事情で、終わりの部分を早送り的に端折ってしまったんでしょうな。 長くなりすぎて、作者が飽きてしまったのかもしれません。

  ≪エデン≫は、異星文明との接触という中心テーマもさることながら、不時着して壊れてしまった宇宙ロケットを、ほんの数人しかいない乗組員達が、それぞれの専門技術を駆使して、直せる所からコツコツ直して行き、最後には、再び宇宙へ出られるように立て直してしまう過程が、大変面白いです。 最初のオートマトン(自動機械・作業ロボット)が修理なって登場してくる場面など、拍手したくなるような感動。 専門家の能力がいかに偉大かを教えてくれます。 こういう部分を細かく描写した小説も珍しいですねえ。

  ストルガツキーで最も面白いのは、≪有人島(収容所惑星)≫です。 これも異星物で、レムの≪エデン≫と同じように、異星の異文明とどう接すればいいかがテーマになっています。 明らかな圧政が行なわれていたり、文明がおかしな方向へ進んでしまって破滅が近づいていたりした場合、正す、もしくは、救う為に干渉すべきか、それとも放って置くべきかという問題。 これは、植民地主義全盛時代から、現代の国際社会情勢に至るまで、地球上の異文明・異文化接触に置き換えても成立する問題なので、大いに興味を引きます。 レムにせよ、ストルガツキーにせよ、結論は、「干渉すべきでない」という方へ傾いていますが、私もそう思います。 ≪正す≫などというのは、「自分達の文明が正しいから、それに近づけさせるべきだ」という傲慢さから出る発想ですし、≪救う≫は、実際には救う事にはならず、その文明の自律性を破壊してしまう事になります。 異文明の存在を尊重するのであれば、何の干渉もしない事以外に、取れる態度は無いのです。

  ストルガツキーは、≪有人島(収容所惑星)≫の続編として、≪蟻塚の中のかぶと虫≫と≪風が波を消す≫を書いていますが、それらの作品では、「干渉すべきでない」から、更に徹底した方向へ進み、「接触すべきでない」という所まで仄めかしています。 日本のSFでは、こういう考え方にはお目にかかった事は無く、「異星文明とであったら、接触するのは当たり前」で、その後は考えていないか、さもなくば、戦争になっています。 ちなみに、日本のSFには、当然、アニメも含まれます。 ほら、大抵、戦争になっているでしょう? 日本人って、異文明との接触というと、戦争がいの一番に出てくるんですよ。

  現在の国際社会を見ると、国連や一部の軍事強国が、圧政を強いている国をあげつらって、≪正す≫や≪救う≫を現実に実行しているわけですが、アフガニスタンやイラクが良い実例で、結果的には、その国を破壊する事にしかなりません。 国連や国際組織の場合、職員がボンクラで、自分達がやっている事が破壊行為であることに気付いていないのですが、アメリカの場合、承知の上で行なっています。 自国以外の文化に価値を認めていないのです。 ちなみに、日本の文化も破壊されている真っ最中で、もはや原形を留めていませんが、もともと野蛮・凶暴で、こうなったのも自業自得ですから、こういう場合は破壊されて良かったというべきでしょう。 放って置いたら、今でも、≪外国人皆殺し計画≫をせっせと続けていたに違いない。

  地球上では、狭すぎて、外部の影響を避けようがなので、いずれ弱小な文化は、強大なそれに呑み込まれて、全星均一のつまらなーい文化に落ち着いてしまうでしょう。 すでに、服装などは、そうなりつつあります。 世界中どこへ行っても、Tシャツ着てるもんね。 むしろ、必要なのは、違いを残す事で、その為には、接触制限をした方がいいのですが、流れから見て、実際にはそうはならないでしょう。 しかし、異星となれば話は別で、圧倒的な距離がありますから、接触前に予め、≪不干渉主義≫を決定しておけば、実行可能かもしれません。


  SFを読んでいると、人類の発展などと言っても、限界はすぐそこまで近づいているのがよく分かります。 太陽系の惑星探査が終れば、そこから先は外宇宙で、今の所、他の恒星系へ行く術は無いんですな。 結局は、太陽系の中で、ごちゃごちゃやっているしかないのです。 いずれ、何らかの高速移動技術が開発されるかもしれませんが、私や、今これを読んでいるあなた方が生きている間は、とても無理でしょう。 遠い遠い。

  クラークの≪楽園の泉≫は、地上から衛星軌道まで、宇宙エレベーターを建設する話ですが、そんな≪身近な≫設備ですら、未だに実現の目処が立っていません。 数年ほど前に、≪カーボーン・ナノ・チューブ≫という強靭な材料が開発されて、「これで宇宙エレベーターが作れる」と騒がれましたが、アホ抜かせ。 勇み足も甚だしい。 材料が地上で開発されたって、それをどうやって、衛星軌道に持って行くねん? いつ爆発するか分からない、おんぼろスペース・シャトルに積んでいくんか? 何が、「現実味を帯びて来た」だよ。 そういうセリフは、実際に一本でもチューブを張ってから言え。

  それどころか、宇宙へ出る以前に、地球環境の破壊で、絶滅しそうな雰囲気ですな。 CO2の削減よりも、もっと直接的に、人口の抑制について、国際的に目標を決めないと、血みどろの殺し合いになるのは避けられないでしょう。 昔から言われていた、≪人口爆発≫という概念は、戦争という形で具現するわけです。 一度大戦争をやればそれで済むというわけではなく、戦争で一時的に人口が減っても、終って平和になれば、戦前以上に増えますから、いずれにまた戦争になります。 大戦争を何度も繰り返している内に、核兵器の使用も当たり前になり、やがて地球は人間が住めなくなるでしょう。 「そうなる前に宇宙へ移民をすればよい」と思う人は、ガンダムの見過ぎでして、技術の発展がとても間に合わないと思います。 チンケな宇宙ステーションの建設にすら、10年以上かかかっている有様ですぜ。 コロニーなんて、何百年先になるのやら。 それに比較すると、温暖化対策としての世界戦争は、数十年の内に迫っています。 なんだか、現実的に考えると、未来は暗いねえ。


  ああ、そうそう、≪無敵(砂漠の惑星)≫などで、( )内に入っているのは、日本で翻訳者もしくは出版社がつけた邦題という奴です。 読ませてもらっていて、こんな事を言うのもなんですが、早川書房という会社、お世辞にもセンスがいいとは言えず、≪無敵≫を≪砂漠の惑星≫にしてしまったのは、およそ頓珍漢な改名です。 確かに砂漠は出て来ますが、それ自体は作品のテーマと何の関係もないのであって、わざわざ変えた意図が分かりません。 大方、フランク・ハーバートの≪デューン 砂の惑星≫と間違えて手に取って貰えると期待したのではないかと思いますが、もしそうなら、その編集者の感性たるや、俗悪・低劣極まれりという趣きですな。

  ストルガツキーの≪有人島≫を≪収容所惑星≫にしてしまったのに至っては、ソルジェニ-ツィンの≪収容所群島≫をもじっているのが見え見え。 ≪有人島≫という原題は、デフォーの≪ロビンソン・クルーソー≫に出て来る、≪無人島≫をもじった題名で、それ自体が作品内容と関係がさほど濃くないとはいえ、≪収容所惑星≫では、もっと離れてしまいます。 いくらなんでも、こんなダサい改名を翻訳者が進んでやるとは思えないので、出版社の意向なんでしょうが、≪ソ連=収容所≫という超低次元な固定観念にガチガチのグルグルに縛られた無知性編集者の馬鹿ヅラが、思わず知らず思い浮かんで来ます。 ああ、いやだいやだ。 どうして、こういう連中ばかり、うじゃらうじゃら、いるのかねえ。 だから、≪人類の叡智≫なんて、信じられないんだよ。

2008/02/03

付助詞

  たまには、言語の話を。 いや、なぜかというと、時々頭に通しておかないと、言語関係の知識を忘れてしまうもので・・・。


≪駐車場有≫
  突然ですが、街なかでよく見かける表示です。 ≪駐車場有ります≫の意味ですな。 あまりにもよく見るので、何の疑問も抱かない人も多かろうと思いますが、実は、この語順は間違いです。 ≪有駐車場≫が正しい。 これは単に、日本語の語順に従うか、漢文の語順に従うかという問題ではなく、そもそも≪有≫という字を「ある」と読むのが間違いなのです。 ≪有≫は、英語で言えば、≪have≫に当たる動詞なので、日本語に訳すなら、≪持つ≫、もしくは、≪持っている≫とすべきです。 日本語の≪ある≫に相当する中国語は、強いて言うなら、≪在≫です。 ≪国破山河在≫ですな。 すなわち、≪駐車場在≫ならば、意味が通る。 だけど、普通は≪有駐車場≫にします。 あー、もっとも、中国語では、≪駐車場≫ではなく、≪停車場≫といいますが、それはまあいいとして。

  中国語や英語では、「~がある」という表現方法を使わず、「~をもつ」という言い方をするわけです。 ちなみに、ヨーロッパ系の言語は、ほとんどが、この「~をもつ」タイプです。 ただし、世界には、「~がある」タイプの言語もたくさんあって、別に珍しいわけではありません。 ちなみに、日本語は文法上、ウラル・アルタイ語族という言語系統の一群に属していて、文法上の特徴は、それらの言語とほぼ共通しています。 近縁なのは、韓国朝鮮語やモンゴル語、満州語など。 遠縁に当たるのは、トルコ語やフィンランド語、ハンガリー語、エストニア語など。 人口は少ないですが、分布範囲は広く、アジア大陸の北半分を占めています。

  英語学習の初歩で、「~がある」に相当する表現は、≪There is ~≫や、≪There are ~≫だと教えられますが、これは、「~がある」そのものというわけではなく、強いて訳すなら、「そこにあるのは、~である」とでもいうのが原義に近い解釈です。 be動詞の基本的な意味は、「ある・いる」ですから、「~がある」の「ある」と同じではないかと思うかもしれませんが、≪There≫という場所を表わす主語しか取れない点が違っていまして、たとえば、「明日、試験がある」を、≪There is an examination tomorrow.≫とは言えません。 翻訳ソフトにかけると、呆れた事に、このまんまの訳文が出てきますが、間違いなので鵜呑みにしないように。 翻訳ソフトは、主語が場所を表わす単語なのか、それ以外の単語なのか区別できずに、単純に、「~がある」を、≪There is ~≫に置き換えているんですな。 正確な文は、≪I have an examination tomorrow.≫ 


≪飛鳥路を行く≫
  国語辞典で、「行く」を調べると、品詞は、≪自動詞≫となっています。 自動詞だから、当然、「~を」で目的語を取る事は出来ないはずです。 ところが、ぎっちょんちょん、「飛鳥路を行く」なんて文が成立するんですな。 そういえば、「わが道を行く」なんてのもありますね。 おい、どうなってんだ、国語学者ども。 自動詞じゃないじゃんかよー。

  ちなみに、日本には、言語学者という職種が存在せず、それぞれの言語の研究者しかいません。 その中で最も数が多いのが、日本語だけを扱う国語学者ですが、この国語学というのが曲者でして、アゴが外れるような前近代性をひきずっています。 江戸時代末期に本居宣長がやっていたような低次元な言葉のパズルを、正統として崇め奉り、金科玉条にしているのです。 科学的見地から研究を行なう言語学者とは異なるので、要注意。 ところが、困った事に、日本国内で出版される国語辞典は全て、この胡散臭い国語学者どもが編纂しているのです。 勢い、明らかな誤謬や、頓珍漢な解釈が随所に見られるのですが、辞書を使う方は、誰も辞書が間違っているとは思わないから、そのまま頭に入れてしまいます。

  「行く」に戻りますが、つまりね、「行く」には、自動詞と他動詞、両方の働きがあるんですよ。 この件については随分前から考えていて、最初の頃は、「~を行く」の方を誤用から出た例外だと思っていたんですが、そういう考え方はしない方がいいみたいですな。 英語の≪go≫には、ちゃんと他動詞用法もあって、≪I go my way.≫といった言い方が出来ます。 日本語の「行く」も同じと見て良いでしょう。

  「飛鳥路を行く」は、「飛鳥路を歩く」と言い換えれば、「歩く」は他動詞なので全く問題ないわけで、もしかしたら、「歩く」の代わりに、似たような意味の「行く」を使っただけなのでは? とも考えたんですが、その線も没。 なぜなら、「飛鳥路を行く」には、「飛鳥路を歩く」以外の状況も含まれるからです。 「歩く」というと、そのものズバリ、足で歩く事を指しますが、「行く」の場合、自転車で行く事も、車で行く事も出来るでしょう。 すなわち、「行く」は、「歩く」の代用ではなく、もっと広い意味をカバーしているという点で、独自の存在価値がある表現なのです。


≪子供に菓子を買う≫
  今度は、「~を」ではなく、「~に」の話です。 「~を」が直接目的語と呼ばれるのに対して、「~に」は、間接目的語と呼ばれます。 私はどうも、この直接とか間接といった名称が分かり難くて、個人的に、「~を」を目的語、「~に」を対象語などと呼んでいましたが、それも昔の話、どんな呼び方をしても結局分かり難いので、今ではどうでもよくなってしまいました。

  日本語で「~に」がつく単語を、外国語に訳す時に、苦労した人は多いでしょう。 苦労した挙句、結局間違っているという最悪のケースも多く見られ、日本語母語話者泣かせの助詞になっています。 まず除外しなければならないのは、格助詞でない「~に」です。 「早々に」とか、「特に」といった副詞、もしくは、「荘厳に」とか、「静かに」といった形容詞・形容動詞の副詞形(連用形)に付いている「~に」は、格助詞ではないので、その単語は間接目的語ではありえません。 ところが、動詞によっては、判別し難いケースも出てきます。 たとえば、「東に進む」ですが、この場合の「~に」は、どっちなんざんしょ? 「東」は、「進む」という動詞の目的地とも取れるし、「東に」という副詞とも取れます。 厄介ですなあ。

  英語に、≪abroad≫という単語があります。 ≪I go abroad.≫で、「私は外国に行く」になりますが、「外国」という名詞で間接目的語なのかな? と思いきや、この正体が、「外国に」という副詞なんですな。 分かるか、こんなもん! ちなみに、「家に帰れ」を表わす、≪Go home.≫の≪home≫も、「家に」という副詞です。 もし、名詞扱いして、間接目的語にするなら、≪Go to home.≫になります。 英語が苦手だった人達、こういう事を、中学・高校の授業で説明された記憶が無いでしょう? まあ、それは無理もないんですよ。 教師自身が、よく分かってないんだから。 英語には、日本語では考えられないような副詞があるので、英文を読んで、「なんだか、文法間違えているんじゃないの?」と思ったら、単語の品詞を全部調べてみた方が良いです。

  一つの動詞に、「~を」と「~に」が両方付く場合、動詞の種類は限定されていて、「与える」とか、「送る」とか、「伝える」といった、何か物事を渡したり伝えたりする意味を持ちます。 「私は彼に本をやる」という具合に、主語になる動作主、その受け手、受け渡される物事の三者が揃って、初めて作動する文なんですな。 ところが、ぎっちょんちょん、「子供に菓子を買う」という文では、動詞の「買う」には、渡したり伝えたりする意味はありません。 おい、どうなっとんじゃい! 話が違うやないけ! 責任者出てこんかい!

  「子供に菓子を買う」・・・・・いや、別におかしくないですよね。 普通に使われる文です。 「子供に」が副詞? そんな事はありえねーっす。 これねえ、種は単純でして、省略されてるんですね。 元々の文は、「子供に菓子を買ってやる」です。 「買ってやる」なら、渡したり伝えたりする意味が含まれています。 日本語に限らず、どの言語でも、この種の省略は頻繁に起こります。 省略は、単語の新陳代謝と並んで、言語が変化していく際のきっかけの一つなので、別に異状でもなければ、由々しき事でもありません。 ただ、分析する時に厄介なだけで。


≪将来は、医者がなる≫
  いや、「医者が、がなる」のではなく、これで、「医者になる」という意味なんですな。 韓国朝鮮語の話です。 上述したように、日本語とほぼ文法が同じなんですが、動詞「なる」の時に、「~に」を使わないのです。 習い始めると、すぐにぶつかる相違点なので、ちょっとでも習った事がある人なら、大概知っているでしょう。 他にも、日本語では、「~を」使うところに、「~に」を使うといった、≪助詞違い≫のケースがちょこちょこ出て来ます。 これねえ、単なる習慣上の違いではなく、動詞が表わしている意味にズレがあるんですな。

  韓国朝鮮語の≪トゥエダ≫に近い動詞として、日本語の「なる」を当てているわけですが、実際には意味が違うのです。 「医者になる」の「医者」は動作の目的語なわけですが、≪ウィサガ トゥエダ≫の≪ウィサ≫は、動作の主語でして、≪トゥエダ≫に最も近い日本語を探せば、「成立する」といった意味合いにでもなりますか。 それでも遠いな。 つまり、日本語には、≪トゥエダ≫を直訳できる単語が無いのです。

  韓国朝鮮語だけでなく、英語でも中国語でも、フランス語でも、この種の動詞の意味のズレは、実に頻繁に出て来ます。 英語では、動詞の後ろに間接目的語と直接目的語をそのまま並べていい場合と、間接目的語に≪to≫や≪for≫をつけなければいけない場合がありますが、それらの組み合わせには、これといった法則性が見出せず、一つ一つ全部覚えていくしかないのが実情です。 私は、この組み合わせの複雑さが、動詞の意味の違いから来ているのではないかと睨んでいますが、そもそも意味範囲がどう違っているかすら分かっていないので、手の打ちようがありません。