2008/05/25

続・震災の真っ最中

  水曜日に書いた、≪震災の真っ最中≫の追記なんですが、書いている内に中途半端に長くなってしまったので、別記事にする事にしました。

  記憶が薄れていたので、図書館へ行って、新聞の縮刷版を紐解き、≪阪神淡路大震災≫の時の経過を調べてきました。

  阪神淡路大震災が発生したのは、1995年1月17日の早朝ですが、その日の内、というか、二時間くらいで、フランス・スイス・イギリスの緊急救助チームから救援の申し入れが来ています。 在日米軍からは、18日に支援の申し入れが行なわれています。

  日本政府は、スイス・チームに対しては18日に受け入れ表明していますが、他に対しては遅れて、在日米軍と仏チームには19日、英チームには21日に受け入れ表明します。 なぜ、スイスに対してだけ早かったかというと、スイス・チームが災害救助犬を使う事を聞いていたので、日本の消防庁がその様子を見てみたかったからだとの事。 ちなみに、消防庁は当初、外国に人的支援を依頼をするつもりが全く無く、すべて国内のチームで対応する方針だったらしいです。 しかし、各国から申し入れがあったために、「全部断るのもどうかと思うから、スイスだけでも受け入れよう」という話になったのだとか。 何だか、凄い態度ですな。 当初断るつもりだった仏英チームを受け入れる事にした理由は、書いてありませんでした。

  今回の四川大地震では、生き埋めになった人間を助けられるタイムリミットを、72時間と報じていましたが、阪神淡路の頃のヨーロッパ・チームの基準では、48時間だったそうで、申し入れから受け入れまでで、すでに二日以上たってしまっており、それから本国を出発して現地入りするのに更に二日かかっていますから、日本政府の受け入れ表明は明らかに遅過ぎで、外国チームが生存者を助け出したという記事は見当たりませんでした。 私が当時のテレビ・ニュースを見ていた記憶では、せっかく救助犬を連れて来たけれど、生存者の匂いを嗅ぎ当てられずに、落胆している外国チームの姿が写っていたと思います。

  緊急救助チームの後に、医療チームが入国して来るのですが、驚くべき事に、外国人医師の治療行為が始まるのは24日からで、それ以前は、「日本国内の医師法に抵触するから」という理由で、日本側が治療をさせなかったらしいです。 馬鹿か? 信じられんな。 じゃあ、外国の医療チームを何の為に受け入れたんだ? 死ぬ人間を指をくわえて見させる為か?

  阪神淡路大震災の際に、日本に対して人的・物的な支援申し入れをした外国は57ヶ国ありましたが、日本政府や神戸市が受け入れたのは、その内の16ヶ国に過ぎず、他は断ったとの事。 「現地での通訳の手配や、活動割り当ての対応が大変だから」というのが理由。 私が覚えているのは、フィリピンの救助チームが、神戸市に受け入れを断られたという新聞記事です。 確か、「面倒が見れないから」とか何とか、そんな理由だったと思います。 当時、「アホか? 面倒見てもらうのは、こっちの方だろうが」とムカついた記憶がありますから。

  その頃、日本には、海外に派遣する緊急救助チームが無く、1999年に起きた≪トルコ西部地震≫の時に、初めて本格的なチームを派遣するのですが、このチームがとんでもない連中で、自分達の食料・水も用意せずに現地入りし、ホテルに宿泊して、被災地に≪通勤≫していたらしいです。 どうも、日本の消防庁というのは、緊急救助チームというものを思い違いしていて、やるのは救助だけで、衣食住は現地側がもてなしてくれるものだと考えていたようですな。 このチーム、現地のマスコミが取材に来ると、「我々は、こんなハイテク器材を持っている」と、救助活動よりも、宣伝活動に余念がなく、現地側に呆れられて、駐トルコ日本大使が大恥を掻き、消防庁に、「変な連中をよこすな」と文句を言ったとか。

  この種のエピソード、現在35歳以上の人なら、細部の数字は忘れても、大体聞いた事がある話だと思いますが、今回の四川大地震の日本マスコミの報道ぶりを見ていると、完全に失念しているか、世代が変わってしまって、自分の国のダメダメ度を知らないかのどちらかのようですな。 天災は忘れた頃にやって来るわけですが、たかだか13年前の自国の醜態をすっかり忘れてしまって、外国政府の災害対応を扱き下ろしているようでは、次にでかい地震が来た時には、また途轍もない被害を食らう事になるでしょう。


  それにしても、世界でも稀な大災害に必死で対応している国を扱き下ろすというのは、どういう下司根性なのかね? もし、自分の国が大災害に見舞われた時、外国メディアが、「政府の対応は後手後手だ」だの、「被災地では、反政府感情が高まっている」だの、「今、日本政府に求められているのは、被害状況の正確な把握である」だのと、てめえは何もせんとカメラの前で喋っているだけの能無しの癖こいて、偉そうな事をベラベラ並べ立てられたら、怒らんか? 気分いいか? まったく、外国の不幸を喜んで、ここを先途と攻撃しているとしか思えません。 どんなクズ親に育てられれば、あんな下司に育つんでしょう? 下衆どもが悪意に満ち満ちた情報を流して、世界にどんな明るい未来が来るというのやら。

2008/05/21

震災真っ最中

  四川省の大地震。 基本的に、時事ネタは、ある程度、事件・事故の経過が掴めてから、≪後出し≫する形で触れる事にしているのですが、ニュースを見ていて、鶏冠に来る事態が頻発し、黙っていると精神衛生によくないので、途中を承知で書く事にしました。 ただし、平日に書いているので、短いです。

  日本の救助チームは、つい数日前に行ったと思ったら、もう帰って来てしまったんですなあ。 最初から、やけに人数が少ないので、どういう活動ができるのか疑問に思っていたんですが、どうやら、市街地の建物倒壊現場にだけ対応したチームだったようで、土砂崩れの現場では、救助の依頼を断る場面もあったらしいです。 人数が少ない上に重機なども持っていないので、大掛かりな作業ができないのは分かりますが、それでは一体何の為に行ったのか、根本的な疑念が湧きます。 そんな特殊なチームでなくても、消防や警察から有志を募って、千人くらい送った方が、瓦礫や土砂を取り除ける単純労働だけでも、ずっと役に立ったでしょうに。

  入れ替わりに現地入りした日本の医療チームは、現地側から依頼された大病院での活動を断り、「もっと被災地の前線に入れて欲しい」と要望して、未だに行き先が決まっていないとか。 そういう態度もどうかと思います。 大病院に日本の医師が入れば、病院の医師が前線に行くゆとりも出来るわけで、直接だろうと間接だろうと、救助に貢献する事に変わりはありますまい。 あれこれ揉めている内にも時間はどんどん経って行きます。 災害現場に於いては、現地の指示に従わない外国チームなど、邪魔なだけです。 これでは、支援に行っているのか、妨害に行っているのか、分からないではありませんか。

  被災地では、まだ余震が続く、≪震災の真っ最中≫なのであって、外国の救助チームの都合に合わせて、活躍の場を用意するようなゆとりが無いのは当然です。 阪神淡路の時を思い出してみれば、発生から9日目では、まだ道路も通れない、ぐちゃぐちゃの状態だったではありませんか。 日本のマスコミの報道の仕方を見ていると、まるで、「中国側の受け入れ態勢が悪いから、日本チームが思うように活躍できないのだ」と言わんばかりですが、馬鹿も状況を考えて言うべきです。 外国チームの受け入れ態勢が行き届くほどゆとりがあれば、そもそも外国チームの助けなど必要ないわ!

  でかい事ばかり言って、もし、日本で同規模の地震があった時に、日本政府やマスコミが、どんな対応を取るか、今から楽しみです。 家を失う者が500万人も出たら、具体的にどうするつもりなんでしょうねえ? 「とりあえず、学校へ避難して・・・」と、みんな漠然と思っているんでしょうが、その学校が倒壊しているのでは、避難する場所もありません。 日本の場合、震源地が海底なら津波が襲ってきますし、未だに木造軸組み建築が主流ですから、大火災が起これば、救助どころではなくなってしまいます。 政府はお手上げ、マスコミにできる事といったら、ヘリコプターを飛ばして上空から絶叫中継するだけ。 いやはや、今から混乱ぶりが目に浮かぶようです。

  阪神淡路の大被害で、日本の耐震神話は完膚無きまでに叩きのめされたはずなんですが、歳月が流れる内に、またぞろ馬鹿ウイルスが息を吹き返して来たようで、新聞紙上やニュース番組で、「耐震対策が進んでいる日本では、こういう被害は・・・」式の戯言を抜かす、大馬鹿学者・キチガイ自称識者どもが、ちらほら出て来ました。 経験から断言しますが、その種の言動を取る人間は、100%信用できませんから、名前を控え、顔を覚えておいて、今後は何を言っていても無視するようにした方がいいです。

  一方、日本政府が国内の学校校舎の耐震補強対策に乗り出したという話は、実に適切な対応だと思います。 他国の教訓に謙虚に学ぶ姿勢は、高く評価できます。

2008/05/18

生きる目標

  人間、生きていく上で何が大切だといって、目標こそ大切なものはないと、最近つくづく思います。 ≪将来何になる≫とか、≪ライフワーク≫といった、長いスパンの目標も必要ですが、それが無い場合には、≪その日一日の予定≫という短射程な目標でも、何かしら確保していないと、あれよあれよという間に、虚しさの淵へ落ち込んでしまいます。

  私の場合、今年の春連休は十日あったのですが、借りていた本を読み終えたり、バイクのオイル交換をしたり、ちょっとしたツーリングに出かけたりと、前半で予定していた事をやりつくしてしまうと、何もする事がなくなってしまいました。 仕方ないので、午前中は犬の散歩、午後は自転車で路上観察、夜はテレビとネット、と同じパターンを繰り返して過ごしていたんですが、さすがに三日も四日も続くと、うんざりして来ます。 休みは本来楽しむ為にあるのに、出かけるたびに、「なんで、俺ゃ、こんな事しなきゃならんのだ?」と自問しているようでは、本末転倒ですな。

  買いたい物が無いというのが痛いです。 欲しい物が無いんですよ。 とりわけ、ここ半年ばかり、電気製品に対する欲求がゼロになり、「連休になったら、○○を買おう」という目標が立てられなくなってしまったのです。 ≪地デジ付きHDDビデオ≫は、いずれ買わなければならないわけですが、今買う理由はありません。 だって、買い替えたからって、見れる番組は同じだものね。 他に一度でも欲しいと思ったことがあるものというと、自室専用の掃除機とか、自分用のミシンとか・・・・ああ、下らない! そんなもの、いらんいらん! 部屋が狭くなるだけだ! もう、電気製品方面は絶望的だな。

  写真趣味は続いているから、デジカメを買い換えるというのはいかが? ダメダメ、壊れたのならいざ知らず、充分な性能の物が正常に使えるのに、なぜ買い換える必要があるのよ。 一眼デジカメなど、言語道断! つい先日も、イベント会場で、一眼デジカメに300ミリ・ズームをつけた母親が、手持ちで子供を撮影している光景を見ましたが、あれは、一種の悲劇でしたね。 あんなダンベルみたいに重い器材で撮影して、ブレないわけがないんですよ。 でも、当人は、「一眼レフだから、いい写真が撮れるはずだ」と信じて疑わないんでしょう、きっと。 無知とは恐ろしい。 逆に言うと、無知であれば、一眼デジカメを買えるわけで、その点は羨ましい。

  こうして考えると、「何かを買いたい」という欲望は、人間が日々を生きていく上で、重要な目標になっているんですねえ。 もっとも、何でもいいから買えばいいというわけではなく、靴下だの、トランクスだの、耳栓だの、生活必需品を買っても、ちっとも面白くありません。 以前、100円ショップに様々な種類のマグカップが並んでいるのを見て、「週に一つずつ買っていけば、安価で且つ見栄えのするコレクションになるのでは?」と妄想した事がありますが、すぐに吹き払いました。 そんな物、置く所無いっつーのよ!


  目標を、買物だけに限定するのはいけませんな。 他の方面も探ってみましょうか。 望み薄だけど。

  擬古文ですが、ネット上に擬古文で会話できる相手が存在しない事が分かってから、かなり熱が冷めました。 自分一人だけで書いていても、面白くも何とも無いですからねえ。 実は、試しに、花や動物の写真に擬古文の解説をつけたブログを作ってみたんですが、かれこれ一ヶ月ばかり運営しているにも拘らず、お客が一人も来ません。 ブログ・センターがあって、新着更新が表示されるのに、誰もアクセスしてこないというのは、凄いよね。 ああ、ちなみに、≪ウェブリブログ≫の無料サービスを利用したんですがね。 ≪ヤフー・ブログ≫にも、路上観察のブログを持っていますが、そちらは、更新した時だけとはいえ、人が来ますから、≪ウェブリブログ≫の、「だ・れ・も・こ・な・い」という状態には、落胆を通り越して、薄気味悪さすら感じました。 センターが利用者から、完全に無視されているのかな? コメントやトラックバックが入らないのは好都合だけれど、閲覧者そのものがゼロというのは、問題でしょう。 何の為にブログをやっているのか、分からないではないですか。

  自分で運営するより書きこみに行く方が、こちらのペースで会話ができるので気が楽なわけですが、最初の内、ひたすら相手を誉め続けなければいけないのは苦痛ですなあ。 いや、誉める所があるから、書きこもうと思うわけで、初回と二回目くらいはネタがあるんですよ。 ところが、三回四回と重なる内に、目尻が引き攣ってくるのです。 何かしらコンテンツが更新されていれば、感想も書けますが、日記の更新だけで、しかも、その中身が、「今日、○○へ、噂の△△を食べに行った。 まいう~!」とかいうレベルだと、感想の書きようがねーわなー。 だーから、ブログのコメントは書き難いんですわ。 それでいて、一生懸命書いた所で、レスはお座なりなお礼の言葉が並ぶだけだし。

  しかし、ネットという道具、もっと有効に使う方法が無いもんですかねえ。 個人サイトは死んでる、ブログは独り言だらけ、公共掲示板はキチガイの巣、企業サイトは自慢話ばっかり、ニュースは不愉快、ろくなものがありません。 ≪プロフ≫が流行っているそうですが、他人のプロフィールになんぞ全く興味がない私としては、何が面白いのかさっぱり分かりません。 自分の事を書けば、誰かが興味を持ってくれると思ってるんでしょうか? 馬鹿だねえ、他人から見れば、あんたはただの他人なんだから、興味なんか湧くものかね!

  ありきたりの極みですが、テレビに面白い番組があれば、「ああ、来週はどうなるのかな」と、結構いい目標になるんですがねえ。 今期は、ドラマでは、≪パズル≫が、≪トリック≫の焼き直しとはいえ、まあまあ楽しめます。 ≪猟奇的な彼女≫も、引き伸ばしの弊害が出ているとはいえ、そこそこ面白い。 ≪絶対彼氏≫は、アイデア倒れか。 アニメでは、≪マクロスF≫が、久々のハイ・クオリティー作品で、大変ありがたい。 ≪潜脳調査室≫と≪秘密≫も、学生以上向けに徹していて、見応えあり。 ≪×××HOLiC◆継≫も、前作に引き続き、魅力ある作品になっています。 前期は、深夜アニメが全滅状態でしたから、今期はいい方なんでしょうねえ。

  ちなみに、≪ヤッターマン≫は、どんな話を作っていいのか見失ってしまったらしく、すでに迷走状態。 本来、子供向けの作品なのに、パロディーだけで乗り切ろうとしても無理ですって。 ≪名探偵コナン≫は、一刻も早く打ち切った方がいいですな。 もう、アニメ作品としては、搾りカスです。 ≪コード・ギアスR2≫、もう勘弁してくれ、サンライズよ。 おまいら、一体、何が作りたいんじゃ? サンライズといえば、≪ガンダム00≫の打ち切りは、終った後で知って、大笑いしました。 冒頭の五回まで見て、「こ~んなの、面白くなるわけが無い!」と見限って、それ以降放ったらかしておいたんですが、まさか、半分で切られてしまうとはねえ。 ガンダムで中途打ち切りになったのは、≪ガンダムX≫以来でしょう。

  お、話題がずれた。 スカ・アニメの吊るし上げではなく、テレビ全般の話でした、失敬失敬。 ドラマ/アニメ以外の番組というと、バラエティーですが、ここ一年ばかりの間に、凄まじい勢いで、タレント・クイズ・パラエティーで埋め尽くされてしまいました。 しかも、博識を競う本来のクイズ番組ではなく、各種検定の問題集を馬鹿タレントにやらせて、馬鹿な回答ぶりを嘲るという趣旨の番組ばかり。 ≪知性を装った下劣さ≫とは、この種の番組の事をいうのでしょう。 馬鹿がうつりそうなので、一本も見ていません。 ≪IQサプリ≫は、習慣でまだ見ているんですが、さすがにネタ切れなのか、昨今はクイズよりゲームに比重が移ってしまい、めっきり面白くなくなりました。

  ≪世界遺産≫だの、≪世界の絶景≫だのといった番組もやたらと増えましたが、もうほとんどの名所を見尽くしてしまって、全然感動しなくなりました。 厳しいのは、どうしても、≪遺跡≫が多くなる為に、「所詮、昔の栄華。 もう終わったこと」という虚しさが拭えない点です。 エジプトやマヤの文明がどんなに興味深くても、それらを作り出した当時の人達はもういないわけで、熱中するにも限度があるというわけです。 遺跡を見て、≪もののあはれ≫は感じても、「チチェン・イッツァのピラミッドは凄いなあ。 よーし、来週も頑張って働こう」という思考展開には、無理があるでしょう? 廃墟をいくら見ても、未来は明るくならんのよ。


  やれやれ、こうやって書いている内に、何か面白そうな目標を思いつくかと思ったんですが、結局何も出ませんでした。 それでも、生きて行かなければならないのは、辛い所ですな。 しっかし、大地震で、今この瞬間にも瓦礫の下で人が死んでいるというのに、こんな事を呑気に書いている自分にも、呆れ果てる物がありますな。 こういう時には、生きているだけでもありがたいと感謝すべきなのでしょう。

2008/05/11

古文の過去と完了

  さて、現代日本語に過去形が無いのは、前回で納得したとして、問題は、古文にいやらしくも存在する過去の助動詞をどう扱うかです。 英語と同じように、過去の文すべてに、過去の助動詞がつくかというと、日本語古文の場合、そうではないんですな。 古文でも現代日本語同様、作者の時間軸移動が行なわれるので、過去の助動詞がつかない文がうじゃうじゃ出て来ます。 また、古文に於いても、完了が過去の代用をする傾向があり、大概、完了で間に合ってしまっているものですから、どういう条件の時に、過去の助動詞が使われるのかが、はっきりしません。 こんなもの無くてもいいと思うんですが、古典を読むと、ちらりほらりを顔を出すから頭に来る。 お前は一体、何者なんだ! 参考書を読むと、【き】と【けり】の違いについては書いてあるんですが、どちらを選ぶかという以前に、そもそも、それらをどこへ入れたらいいのかが分からないのだから、手の施しようがないではありませんか。

  私の悩みの原因になっているものの一つに、古文の文法への不信感があります。 古文の文法研究というのは、江戸時代末期から始まったものですが、それですら、相当にはいい加減。 まして、それ以前の時代には、文法書はおろか、助動詞活用表一枚すら無かったのであって、文を書く人達はみんな、原典をたくさん読んで、その中から自分なりに文の書き方を習得していました。 みんながみんな、原典から正しい法則を読み取る能力があるわけではありませんから、誤用が起こるのは避けられません。 口語上失われてしまった単語などは、修正のしようが無い為に、だんだん元の意味からズレて来ます。 現在、古語辞典に載っている解説は、江戸時代末期以降の人間が、古典を分析して、「たぶん、こういう意味であろう」と復元したものなんですな。

  ううむ、なんて、胡散臭いんだ! 清少納言先生あたりを、タイムマシンで連れて来て、古語辞典を見せたら、一読大爆笑の渦に巻き込まれ、悶絶・失神なさるかもしれません。

≪めちゃくちゃなるもの。 千年後の古語辞典、参考書。 かかるものを頼みて、古文を読まむ学生こそいたましけれ。≫

  冗談は抜きにしても、めちゃくちゃでないと言い切れないから怖い。 なにせ、誰も正解を知らないのですから。 たとえば、≪源氏物語≫の現代語訳は、何種類かあるわけですが、読み比べてみると、訳が全然違う部分があって、かなりとまどいます。 更に、どれが正しい訳なのか、誰もはっきりした事は言えないのだという事に気付くと、何ともいえない不安な気分に襲われます。 国文学界の権威と見做されている人の意見ですら、タイムマシンでお出でいただいた紫式部先生の前では、素人の戯言として一蹴されてしまう可能性があるのです。

  ま、そういう世界なんですよ、古文というのは。 逆に言えば、タイムマシンなんざ出来るわけが無いから、正解を知っている者が現われっこないのをいい事に、テケトーな学説を、言いたい放題に発表し捲っているとも見れます。 相対的にしか、正しさが決められない、このもどかしさよ。


  具体的な話に戻します。 そもそも、【き】と【けり】が過去で、【たり】【り】【つ】【ぬ】が完了だという分類にしてからが怪しい。 現代日本語人は、過去と完了の区別がつかないのに、どうやって見分けたのか? 私の推測ですが、これらの助動詞が組み合わさって使われる事があるんですよ。 「~にき」とか、「~たりけり」といったように。 「その際、前にしか来ないのが、完了の助動詞で、後ろにしか来ないのが、過去の助動詞だ」という具合に分けたんじゃないでしょうか? 他に、手掛かりが考えられないですから。 つまり、「同じ意味の助動詞を二つ並べても意味が無いのだから、二つ並んでいる時は、一方が過去で、一方が完了であるに違いない」と判断したわけですな、きっと。

  ところがどっこい! そうは烏賊の禁治産者でして、同じ意味の助動詞が二つ並ぶ例が、現代日本語にあるっつのよ! 「~てあった」がまさにそれです。 「~た」というのは、「~たり」が縮まったもので、更に元を辿れば、「~てあり」が源流です。 という事は、「~てあった」をもともとの形に直すと、「~てありてあり」になるわけです。 全く同じ物が、二つ並んでいるんですな。 そして、重大な点は、その前後どちらもが、過去を表わしているわけではないという事です。

「台所へ行ったら、誰かが、お湯を沸かしてあった」

  という場合、前回の例で説明したように、「沸かしてある」までは、他動詞に「~てある」がついたもので、≪結果≫を表わします。 問題は後ろの「た」が、何を表わしているかでして、≪過去≫と考えたくなるのが人情ですが、実は、≪過去≫ではないのです。 それが証拠に、未来に使うことが出来ます。

「台所へ行って、お湯が沸かしてあったら、ポットごと取って来て」

  未来の仮定ですわな。 もし、後ろの「た」が、≪過去≫を表わすのであれば、こんな用法が成立するはずが無いんですよ。 じゃあ、一体何なのかというと、≪発見≫とでも呼ぶべき相なんですわ。 ちょっと深入りしますが、≪発見≫の「た」は、形容詞・形容動詞や、状態を表わす動詞にくっついて、「その事に気付いた」というニュアンスを表わします。

「ひどい恥を掻いて、鏡を見たら、耳まで赤かった」

  別に、過去の事ではなく、今現在、鏡を見ていても、「赤かった」は「赤かった」です。

「ケータイに気を取られていて、ふと見たら、信号が黄色だった」

  これも同じ。 過去のことではありません。 それが証拠に、これらは、仮定形にすれば、未来の事にも使えます。

  ≪状態を表わす動詞≫というのは、「~てある」・「~ている」がくっついた動詞の事です。 日本語の動詞は、そのままだと全て、動作を表わします。 「~てある」・「~ている」をつけないと、状態を表わせないのです。 英語で、「have」を、「持つ」ではなく、「持っている」と訳したり、「love」を「愛する」ではなく、「愛している」と訳さないと、うまく処理できない事がありますよね。 あれは、英語には、「have」や「love」のように、動作と状態を両方表わす動詞があるのに対し、日本語の動詞は動作専門なので、「~てある」・「~ている」をくっつけないと、状態を表わせない事から起こる軋轢です。 こういう事、英語の先生、説明しないんだよなあ。 たぶん、知らないから。

  で、「沸かしてある」も、「~てある」がくっついて、状態を表わしているわけです。 状態を表わすという事は、形容詞・形容動詞と同じ働きをする事になります。 ゆえに、「沸かしてあった」は、沸かしてある事に気付いた事を表わす、≪発見≫相なのです。 ゆめゆめ、≪過去≫ではありません。

  長い説明になりましたが、要するに、「~てあった」は、≪過去≫など含んでいないと言いたいわけです。 それを踏まえて、古文に戻りましょう。 「≪完了≫と組み合わさっているから、もう一つは、≪過去≫だろう」という考え方は、日本語というより、英語の文法ですな。 古文の、「~にき」や「~たりけり」も、後ろが、≪過去≫だと証明する事はできません。 また、厄介な事に、≪過去≫ではないと証明する事も難しいです。 なにせ、現代語と違って、誰も正解を知らない世界ですから。

  でねー、面白いんですが、過去の助動詞とされている、【き】と【けり】ですが、辞書の解説の、後ろの方の項目を見ると、なんと、「動作の存続を表わす」などと、こっそり書いてあるのです。 をゐをゐ、それは、≪結果≫相ですぜ。 それじゃあ、完了の助動詞の、【たり】【り】【つ】【ぬ】と同じになってしまうではありませんか。 つまり、古文を読んでいくと、どう考えても、≪過去≫では説明できない、【き】や【けり】が出て来るので、学生を混乱させない為に、こういう項目を入れているのでしょう。 だけど、それじゃあ、分類もクソもありませんぜ。

  すなわち、分かっているのは、「【き】と【けり】は、【たり】【り】【つ】【ぬ】と組み合わさる時に、後ろに来る」という事だけで、≪過去≫を表わす証拠など、何も無いのです。 六種すべてを、≪完了≫として、【き】と【けり】だけに、用法上の違いがあるという事にしても、別段不都合はありません。 日本語では、現代語同様、古文にも、過去を表わす助動詞なんて、無いんじゃないでしょうか?


  ああ、自分で書いている内に、ますます分からなくなってきました。 いや、分析には自信がありますが、擬古文を書く時に、【き】と【けり】をどこに入れればいいか、ますます分からなくなったというのです。 藤原道綱母様、和泉式部様、清少納言様、紫式部様、菅原孝標女様、後深草二条様、どなたでも宜しいですから、私の夢枕に立って、古文の文法を手解きしていただけますまいか。

  なに、「女ばかりじゃないか、このスケベエ野郎が!」ですと? あのなあ、仮名文というのは、平安時代に女性の手によって発展した表現形式なんだよ。 彼女らがいなければ、現代の漢字かな混じり文も存在しなかったの。 そんな事も知らんのか!

  なに、「後深草二条は、鎌倉末期だから、仮名文の発展とは関係ないんじゃないの?」ですと? ぬぬっ、つまらない事を知っている。 いや、二条様に関しては、ただ、どんなお顔をしていらっしゃったのか、拝見したいと思いまして。

「やっぱり、スケベエではないか!」

  うむ、ごもっとも。 でもねえ、見たいと思いますよ、二条さんは。 よっぽど魅力が無ければ、ああはモテないでしょう。 なんで、リアルな映画を作らないのか、不思議不思議。

2008/05/04

過去と完了

  古文が現代語より厄介な点で、最たるものというと、過去と完了の違いがあります。 過去の助動詞が、【き】と【けり】。 完了の助動詞が【たり】、【り】、【つ】、【ぬ】ですが、過去と完了の区別さえ分からないのに、その上、助動詞が六つもあった日には、思考停止したくなるのが人情というものでしょう。 これがせいぜい、分かり難いという程度なら、≪学生泣かせ≫という形容で片付きますが、根本からしてさっぱり分からず、どんなに調べても正体が掴めないとなると、もはや超常現象に遭遇したのと同様の感覚になり、勉強する気すら失せます。

  教科書はもちろんの事、書店に並ぶ参考書を片っ端から読もうが、古文の専門研究書まで動員しようが、過去と完了の区別について、はっきり書いてあるものはありません。 なんで、はっきり書いてないのかというと、教師や学者も分かってないからでしょう。 英語の参考書でも、過去と完了の説明は適当にはぐらかしてありますが、つまり、この問題に関しては、日本語人全員が、お手上げ状態なんですな。

  日本語人が、過去と完了の区別が分からないのは、現代日本語で、両者の区別をしていないからにほかなりません。 過去相は、「~た」ですし、完了相も、「~た」です。 英語のように、過去と完了を区別する言語の話者から見ると、「一緒にしてしまって、問題が起こらないのか?」と思うでしょうが、日本語人の実感として、別に不自由は感じませんわな。

  大抵の日本人は、外国語というと、即英語を思い浮かべるので、英語が外国語の代表みたいに思われていますが、実は、英語の時制・時態の法則の方が、ちょっと変わっているのでして、過去と完了を区別しない言語は日本語以外にもたくさんあります。 大抵は、完了形が、完了相だけでなく、過去相も表わすようになっている点も、日本語と同じ。 ドイツ語やフランス語には、≪複合過去≫、≪半過去≫、≪単純過去≫など、いろんな過去形がありますが、ふだんは英語の完了形に当たる≪複合過去≫で、みんな済ませてしまいます。

  現代日本語は、過去と完了の区別はしないわけですが、「~た」の本質は何かとえば、完了の方です。 つまり、過去形が存在せず、完了形のカバー範囲の中に過去相が入ってしまっているわけです。 これはどういう事かというと、現代日本語が区別しているのは、時制ではなく、時態の方なんですな。 時制というのは、≪過去≫、≪現在≫、≪未来≫の事。 時態というのは、≪完了≫、≪進行≫、≪結果≫、≪経験≫、≪習慣≫、≪普遍真理≫などの事です。 これらの組み合わせもあり、全部ひっくるめて、≪相≫と言います。

  具体的に説明しますと、動作がすでに終っている事を表わすのが、完了の「~た」です。 過去の出来事もすでに終っているわけですから、完了の「~た」が流用されます。 まだ終っていなくて、現在続いている動作の場合、進行の「~ている」で表わされます。 これから行なわれる動作の場合は、未来の「~する」になります。 意外なようですが、現代日本語では、動詞の原形は、現在ではなく、未来を表わします。

「夕飯、うちで食べる?」
「食べる」

  ほら、未来でしょう。 英語を習った時に、未来形という用語が出てきて、「えっ、未来ってなに? そんなのあるの? 逆に、どうして日本語には、未来形が無いの?」と、うろたえた人も多かろうと思います。 しかし、同じ言語であるからには、未来を表わす方法が無いわけがないのであって、ちぃっと考えてみれば、原形がそれを担っているという事も分かるはずです。 ちなみに、実は英語でも、原形で未来を表わす事は多いです。 文中に、「tomorrow」だの、「next year」だのといった単語が含まれていて、未来の話である事が分かりきっている場合、「will」を使わず、原形で片付けてしまいます。

  現代日本語の動詞の原形は、未来だけを表わすわけではなく、≪習慣≫や、≪普遍真理≫も表わします。 

「私は毎朝、新聞を読む」 ≪習慣≫
「地球は太陽の周りを回る」 ≪普遍真理≫

  しかし、≪習慣≫や≪普遍真理≫は、原形だけで表わされるわけではなく、「~ている」も使われます。

「私は毎朝、新聞を読んでいる」 ≪習慣≫
「地球は太陽の周りを回っている」 ≪普遍真理≫

  口語的感覚では、≪習慣・普遍真理≫は、「~ている」で表わす方が、しっくり来るような気がします。 やはり、原形には、「まだ行なわれていない動作」というニュアンスがあって、≪習慣・普遍真理≫に使われる場合、簡潔さを狙って原形を借用したかのように感じられるからでしょう。


  ついでなので、≪結果≫と≪経験≫についても書いておきましょう。

  ≪結果≫は、≪存続≫などとも呼ばれます。 動作の結果が残っている事で、自動詞なら、「~ている」、他動詞なら、「~てある」で表わします。

「棒が倒れている」 (自動詞 「倒れる」)
「お湯を沸かしてある」 (他動詞 「沸かす」)

  他動詞の方に、「~ている」をくっつけると、≪進行≫になります。 逆に、自動詞に、「~てある」をくっつけると、成立しません。

「お湯を沸かしている」 ≪進行≫
「* 棒が倒れてある」 (この組み合わせは無い)

  ただし、自動詞に、「~ている」がついている場合、状況によって、≪結果≫と≪進行≫のどちらかを表わします。

「ずっと、そこに棒が倒れている」 ≪結果≫
「ちょうど今、棒が倒れている (倒れつつある)」 ≪進行≫


  ≪経験≫は、現代日本語では、特別な形があり、「~した事がある」で表わします。

「大阪に行った事がある」

  しかし、経験について話している事が分かりきっている場合、「~た」や、「~ている」が使われる事もあります。

「他にはどこに行った事があるの?」
「名古屋に行った。 福岡にも行っている」

  ちなみに、「~する事がある」だと、≪頻度の低い習慣≫になります。

「私は朝、新聞を読む事がある」

  ああ、≪相≫は無数にあるから、面白いですねえ。 でも、きりが無いから、このくらいにしておきましょう。


  現代日本語が区別している急所は、

・ 動作が終っている。 「~た」
・ 動作が続いている。 「~ている」
・ 動作が始まっていない。 「~する」

  の三分類にあり、いずれも、動作の始まりや終わりが肝心なのであって、その動作が行なわれたのが、過去なのか、現在なのか、未来なのかは、焦点になっていません。 過去形が存在しない理由は、ここにあります。 いらないわけですな。 過去である事をはっきりさせたい場合は、漢文や現代中国語と同じように、「昨日」とか、「随分前に」といった単語で、時点を指定します。

  英語の場合、未来相こそ、原形を使ったり、「will」を使ったりと、ゆるい法則になっていますが、過去相では、厳格に過去形を使用します。 時間的に過去に起こった事は、すべて、過去形で表わすわけです。 そうそう、よく、翻訳家の人が、「英語の小説では、過去形で終る文が延々と続くが、日本語の場合、過去の事であっても、原形で終わる文を適度に挟まないと、文章のリズムが悪くなる」といったような事を言いますが、それはまた別の話でして、日本語の小説では、作者が、自分がいる時間上の位置を変えて、過去の一点に軸足を置いて書くという事が行なわれるのです。 それも、文章に限った場合の事で、口語では、そういう事は行なわれません。


  あっあ~、疲れた! 古文の過去と完了の話をするつもりで書き始めたのに、現代日本語の相の説明だけで、こんなに延びてしまって、あたしゃ、一体これからどうしていいのやら・・・・。 なんで、こんなに延びてしまったかというと、現代語がどうなっているかを説明しておかないと、古文の方がどれだけ分かり難いかを論証できないからなんですが、それにしても、これは長過ぎだ! とにかく今回は、ここで切ります。 せっかくの連休なのに、こんな一円にもならない事に、時間を潰しとられまへんわ。