2016/10/30

カー連読⑧

  母の狭心症の手術があり、またぞろ、ゴタゴタしているので、読書感想文を出します。 カー作品の読書は、相互貸借で、他の図書館から取り寄せる段界に入っていて、取り寄せに、2週間くらいかかる関係で、立て続けに読むというわけには行きません。 感想の数も、あまり増えていませんが、それでも、まだ、2・3回分はあるんじゃないでしょうかね。




≪爬虫類館の殺人≫

創元推理文庫
東京創元社 1960年初版 1994年17版
カーター・ディクスン 著
中村能三 訳

  初版、1960年は、古いですなあ。 だけど、仮名遣いなどは、今と変わりません。 もしかしたら、途中、どこかで、修正してあるのかも。 今と違うのは、女性の喋り方で、「・・・ですわ」とか、「・・・じゃなくて?」と言った、いわゆる女性言葉を使っているのですが、今では、違和感が強いです。 そういう喋り方をする女性を、想像するのが難しくなって来ましたなあ。

  発表は、1944年。 H.M(ヘンリー・メリベール卿)が探偵役を務める作品としては、22作中、15作目。 44年と言えば、もはや、戦争も後半ですが、作中の事件は、1940年に起こった事になっていて、まだ、空襲が本格化していない頃です。 私が最初の頃に読んだカー作品の感想で、「戦時下の発表なのに、戦争に一切触れていないのは、不思議だ」と書いたのですが、別に、そういうわけでもなかったようですな。 作中の事件が起こった年と、作品の発表年に、いくらか、ズレがあるだけで。


  ロンドン市内にある動物園の園長が、園内にある自宅の一室で、ガス自殺に見せかけて殺される。 窓とドアには、内側から、紙テープと糊で目貼りがされ、完全な密室だったが、同じ室内で、園長が大事にしていた蛇が死んでいた事から、園長の娘が、「父が、蛇を殺すはずがない」と指摘し、他殺であると主張する。 たまたま、この事件に関わりを持った、H.Mと、若い奇術師の男女が、密室の謎を解き、犯人をつきとめる話。

  この≪爬虫類館の殺人≫は、他のカー作品の解説で、代表作として挙げられるものの中に、ちょこちょこと顔を出していて、読む前から、タイトルを覚えてしまっていたのですが、読んで納得。 確かに、これは、面白いです。 ただ単に、面白いだけでなく、「内側から目貼りされた密室から、どうやって、犯人か逃げたか」という、どう考えても不可能と思われる密室トリックが、実にあっさりと解決されているという点で、ストーリーなんかどうでもよくて、トリックだけに興味があるタイプの、推理小説研究家からも、評価されているわけですな。

  その上、H.Mが、トカゲに追いかけられて全力疾走したり、蛇に巻きつかれて、身動き取れなくなったりと、コミカルな場面もふんだんに盛り込まれ、大笑いできます。 更に、奇術師二人の、ロミオとジュリエット的な恋愛も書き込まれていて、サービス満点。 それでいて、くどいところや、理屈っぽいところが、ほとんどなくて、ページがどんどん進むのですから、これで、読後感が悪くなるはずがありません。 バランスの良さでは、カー作品中、トップに挙げてもいいのではないでしょうか 

  目貼りのトリックは、今なら、どの家庭にもある、家電製品を使うものなので、大したトリックではないと思うかも知れませんが、発表当時は、まだ、珍しい機械で、子供騙しとは見做されなかったと思います。 これを使えば、簡単に、目貼りした密室を作れるわけですが、そういう知能犯罪自体が珍しいですし、推理小説のファンなら、すぐに、「ああ、≪爬虫類館の殺人≫に出て来ますよ」と分かってしまうので、実際に使おうという人はいないと思います。

  カーの小説では、結婚適齢期の男女が、話の中心になる事が、大変、多いです。 そして、大抵の場合、その二人の中に犯人がいる事はないです。 つまり、事件と直接の関係がない人物なわけで、いなくても問題ないんですが、なぜか、登場頻度が高い。 その理由を推測すると、たぶん、カーが、物語の中に、「未来への希望」を入れておきたかったからではないかと思うのです。 殺人事件の話ですから、陰惨になるのは避けようがなく、それを中和する為に、「近い将来、結ばれて、幸せな家庭を築いて行くであろう」と、読者に予想させる、若い男女が必要だったんですな。

  ところで、≪爬虫類館の殺人≫というのは、邦題で、原題は、≪He Wouldn't Kill Patience≫。 「Patience(ペイシェンス)」というのは、蛇の名前なので、別の邦題に、≪彼が蛇を殺すはずはない≫という、直訳に近いものもあります。 「爬虫類館の殺人」という邦題は、変でして、殺人が行なわれるのは、園長の自宅であって、爬虫類館ではありません。 両者の間には、歩いて、2分くらいですが、距離があり、明らかに、別の場所です。 ミス・ディレクションどころか、完全に誤りでして、なんで、こんな邦題が罷り通ってしまったのか、首を傾げてしまいます。



≪時計の中の骸骨≫

ハヤカワ・ミステリ文庫
早川書房 1976年発行 1995年2刷
カーター・ディクスン 著
小倉多加志 訳

  発表は、1948年。 H.M(ヘンリー・メリベール卿)が探偵役を務める作品としては、22作中、18作目。 戦後の発表で、作品の中の時代も、戦後です。 登場人物に、復員軍人が多いですが、その事は、話の内容と、深い関係はありません。 冒頭の別れの場面に、戦時の混乱が少し関わっている程度です。


  骨董品のオークションで、昔馴染みの老婆と張り合う為だけに、機械や振り子の代わりに、骸骨が入っている大きな時計を、競り落としてしまったH.Mが、その時計と因縁が深い家で、20年前に起こった、当主の転落事故を再調査しに出向いたところ、近くにある廃刑務所で、胆試しをしていた若者達を巻き込んで、新たな殺人事件が起こる話。

  骸骨が入った時計は、メインの謎ではないんですが、一応、絡んでは来ます。 しかし、タイトルにするほど、密接な関係ではなくて、やはり、カーは、タイトルをつけるのが、苦手だったのかなと思わせます。 新たに起こる殺人事件の方で、被害者が殺される動機など、説得力が弱い部分があり、物語としても、推理物としても、あまり、出来はよくありません。

  廃刑務所での胆試しというと、フェル博士シリーズの第一作、≪魔女の隠れ家≫でも、同じモチーフが出て来て、焼き直しなのは明らか。 だけど、こちらは、カーター・ディクスン名義で発表されたものだから、問題ないと考えていたのかも知れません。 当時の読者も、ディクスン・カーと、カーター・ディクスンが、同一人物だと知っていたと思うので、読者に対しては、あまり、誠実だとは言えませんが。

  H.Mが、滑稽さを発揮する場面も、いくつか盛り込まれていますが、≪貴婦人として死す≫などと比べると、些か、パワー・ダウンしたような気がせんでもないです。 この作品では、中心人物になる青年の方に、描写が偏ってしまって、H.Mに割く文章量が割を喰っている感じがします。 電気自動車と馬車の追撃戦の場面なんか、伝聞体ではなく、普通に書けば、もっと面白くなったと思うのですが。

  全体的に見ると、カーの悪い癖が出て、いろいろな材料を集めてはいるけれど、バラバラな印象が強いです。 ただ、ストーリーは、非常に分かり易くて、読むのに難渋するようなところはありません。 概観するに、H.Mシリーズの後半の作品は、他に比べて、読み易いと思います。 コミカルな場面を除いても、尚。



≪墓場貸します≫

ハヤカワ・ミステリ文庫
早川書房 1980年発行 1995年2刷
カーター・ディクスン 著
斎藤数衛 訳

  発表は、1949年。 H.M(ヘンリー・メリベール卿)が探偵役を務める作品としては、22作中、19作目。 戦後4年にして、作品に戦争の影は、全く感じられなくなりました。 この作品では、H.Mが、アメリカのニューヨークとその近郊で活躍するのですが、どうやら、カーは、戦後のイギリスの政治状況が、大変、気に入らなかったようで、イギリスの官僚であるH.Mまで、アメリカに連れて来てしまったのは、それと、深く関係していると思われます。


  船でニューヨークに着いたばかりのH.Mが、昔の友人の家に招かれる。 その友人は、事業に失敗したという噂がある上に、情婦と駆け落ちする為に、姿を消すと公言し、実際に、白昼堂々、自宅のプールに飛び込んで、そのまま消えてしまう。 友人の人と為りを信じているH.Mが、地元の判事や警察を煙に巻きつつ、イギリス帰りの元新聞記者を助手代わりにして、消失トリックや、動機を解明して行く話。

  カーの作品のタイトルには、≪○○の殺人≫というパターンが多いのですが、この作品に限っては、誰も死にません。 ネタバレさせたわけではなく、人が死ななくても、別段、問題なく、成立する話なのです。 不可能犯罪のトリックは、最終的に、きっちり、解明されます。 ただ、割とありふれた、やり口なので、感動するほど、驚きはしません。

  この作品は、H.Mシリーズの後半に属するので、コミカルな場面が盛り込まれていますし、H.Mが、野球の腕前を披露する場面では、スポーツ物の作法を取り入れて、読者をワクワクさせる、凝った見せ場も用意されていて、ページがどんどん進みます。 ただ、そういう場面の部分的面白さと、メイン・ストーリーが、うまく溶け合っているかというと、かなり疑問で、またぞろ、カー作品の欠点である、「バラバラ」という言葉を持ち出さなくてはなりません。

  特に、悪いのは、H.Mの昔の友人が、なぜ、消失しなければならなかったのか、その動機の説明でして、一応、筋は通っているものの、「そういう目的だったら、もっと、直接的な方法が、いくらもあるんじゃないの?」と首を傾げてしまうのです。 ラストの、H.Mの謎解きも、そこに差し掛かると、理屈っぽくなり、どうにもこうにも、強弁に近くなります。

  だけど、欠点は多いものの、面白いか面白くないかと訊かれれば、面白いです。 面白く書いてある場面だけでも、充分、面白いからです。 作者自身も、問題があるのは承知の上で、他の部分でサービスして、読者に楽しんでもらおうと考えていたのかも知れません。



≪妖魔の森の家≫

創元推理文庫 カー短編全集2
東京創元社 1970年初版 1994年31版
ディクスン・カー 著
宇野利泰 訳

  これは、短編集です。 短編が4作と、中編が1作、収録されています。 各作品名の後ろは、発表年。


【妖魔の森の家】 1947年
  森の中にあるバンガローの、密室状態の部屋から姿を消し、その一週間後に、同じように、密室状態の部屋に戻って来た少女が、20年後になって、再び、同じバンガローで姿を消し、彼女の従姉と、その婚約者に誘われて、現場に来ていたH.Mが、謎解きに乗り出す話。

  この作品は、カーの短編の中では、傑作と見做されているそうです。 H.Mの他に、お馴染みのマスターズ警部も出て来ますが、45ページくらいしかない短編なので、活躍するほど尺がなく、単に、H.Mの推理の聞き役を務めているだけです。

  で、内容ですが、確かに、よく出来ていて、密室物としては、カー作品の中で、「あっ!」と思わされる意外性において、最も優れていると思います。 書きようによっては、長編に膨らませる事もできたと思いますが、短編で、さらっと使ったのが、また効果的で、読者を驚かす事に成功しています。 密室トリックそのものではなく、密室物の条件を利用して、一段階上のトリックを仕掛ける発想が、お見事。


【軽率だった夜盗】 1947年
  ある企業家が、自分の山荘に飾ってあった、レンブラントやバン・ダイクの絵画を、自分で盗み出そうとして、何者かに殺される事件が起こる。 前以て、その富豪から、盗難の恐れがあると言われて、屋敷に泊まり込んでいた警部補が、フェル博士に相談し、企業家がとった奇妙な行動の謎を解いてもらう話。

  「どこかで読んだ事があるような話だな」と思ったら、≪メッキの神像≫の中心事件が、同じアイデアでした。 ≪メッキの神像≫の発表は、1942年なので、先に、長編で使ったアイデアを、後から、短編に使った事になります。 ≪メッキの神像≫は、H.Mシリーズだったので、フェル博士シリーズの方でなら、同じアイデアを使っても構わないだろうという判断でしょうか? 

  私は先に、≪メッキの神像≫の方を読んでしまっていたので、こちらは、面白いとは感じませんでした。 だけど、アイデアは、優れていると思います。 保険をかけてあるわけでもないのに、自分で自分の物を盗むという、奇妙な行為が、謎めいた雰囲気を盛り上げるのに、絶大な効果を挙げているからです。


【ある密室】 1943年
  書籍収集家が、事務所を畳んで、アメリカへ行くと言い出した矢先、密室状態だった部屋で襲われて負傷し、金庫にあった大金を盗まれる事件が起こる。 解雇を通告されていた、秘書の女と、図書係の男が疑われる中、フェル博士が、密室内に置かれていたソーダ・サイフォンに着目し、謎を解く話。

  登場人物を少なくして、密室トリックの謎解きを話の中心に据えているので、フーダニット的に見ると、すぐに犯人が分かってしまいますが、ハウダニットの話ですから、それは、問題になりません。 密室トリックは鮮やかで、実際に使えそうなアイデアです。 短編に使うには惜しいような出来ですから、もしかしたら、私がまだ読んでいない長編で、使われているかも知れませんな。


【赤いカツラの手がかり】 1948年
  痩せる体操を発案して有名になった女が、公園で裸同然の死体となって発見される。 彼女がコラムを書いていた雑誌のライバル誌に、ごく最近雇われた、仏英混血の女性記者が、独特な思い切りの良さと、女性ならではの着眼で、捜査主任の警部にヒントを与え、協力して、謎を解決する話。

  別に、トリックがあるわけではなく、なぜ、裸同然で死んでいたのか、その謎解きが中心になります。 短編にしては、纏まりが悪く感じられるのは、女性記者のキャラを特徴的にし過ぎたせいで、2時間サスペンスの素人探偵物のような雰囲気になって、謎解きの方と、二重焦点になってしまっているからでしょう。

  謎の方は、些か、偶然が過ぎるような気がしますが、まあ、それはいいとして、この女性記者のキャラは、シリーズ化しても不思議ではないくらい、魅力的です。 ところが、カー作品をある程度の数、読んだ人なら分かると思いますが、カーの女性観には、女性の本質を見抜ききって、すっかり冷めてしまっているところがありまして、たぶん、そういうシリーズを書こうとしても、後が続かなかったと思います。


【第三の銃弾】 1947年
  これは、かなり長い短編で、中編というカテゴリーを認めるなら、中編です。 この本の半分くらいのページ数を占めています。 人物の書き込みが、少し手薄になっている点を除けば、長編と同じくらい、中身が充実しています。 いや、むしろ、尺を稼ぐ為に、二つの事件をくっつけるといった手管を使っていない分、長編よりも、充実度が高いといえるかも知れません。

  老判事が、以前、鞭打ち刑を言い渡した青年に恨まれて、自宅の離屋で射殺される。 ところが、青年の撃った弾は壁に当たっていて、もう一丁の銃が、部屋に置いてあった大きな花瓶の中から発見される。 更に、判事の遺体を解剖したところ、空気銃の弾で殺されていた事が分かり、容疑者が一人、銃が三丁という、奇妙な状況の下、ロンドン警視庁副総監マーキス大佐らが、謎を解いて行く話。

  面白い事は面白いんですが、証言者が嘘をついているので、犯人を推理しながら読む事はできません。 三人称ですから、語り手が嘘をついているわけではなく、叙述トリックのアンフェアには当たらないのですが、それとは別問題として、読者にとっては、関係者の証言が、唯一の判断材料ですから、その中に、嘘が含まれていると、お手上げになってしまうわけです。




  今回は、以上、4冊までです。 7月上旬から、中旬にかけて読んだ本。 普段は、6冊分なので、今回は少ないですが、出し渋っているわけではなく、短編集の感想が混じっているから、読む方々が、きついだろうと思って、減らした次第。 短編集は、本を読む時には、楽なんですが、感想を書くとなると、作品数が多いせいで、一冊分の量が、えらく長くなってしまうのです。 前にも、こんな事、書きましたっけ? 申し訳ないですが、たぶん、これからも、繰り返す事になると思います。

2016/10/23

信念の連中

  自転車ブログ用に書いた文章ですが、そこそこの分量になってしまったので、こちらへも移植します。 基本的に、自転車に乗る人間の視点で書いているので、そのつもりで、読んで下さい。 中身は、あまり、ないですけど。 どうも、何かを書きたいという気持ちが湧き起こりません。 それは、前から、そうなんですが、減退する一方です。 




  沼津市内の交差点には、数年前から、「歩車分離式」の信号が出来始めました。 はっきり言って、最初の頃は、普通の信号と間違えて、車と一緒に発進してしまう事があり、極力、法規を守るつもりで、自転車を使っている私としては、心ならずも、赤信号で渡ってしまい、非常に、大変に、途轍もなく、残念な思いを、何回かさせられました。

  その後、歩車分離式の信号交差点が増えて来てからは、常に用心して、渡る前に確認するようになり、随分と慣れました。 しかし、相変わらず、歩車分離式が、普通の方式に比べて、特に優れているような気がしません。 「待ち時間が長くなるだけなんじゃないの?」という気がするのです。

  歩行者・自転車だけが渡れるパートがあるわけで、安全といえば安全ですが、「全ての信号交差点が、歩車分離式というわけではない」というのが、どこまで行っても、問題なのでして、普通の交差点だと思い込んでいるドライバーが、交差道路の信号が赤になったのだけ確認して、見切り発車でアクセルを踏んだら、歩行者・自転車を、いとも容易に撥ねてしまうのです。

  安全性が、特別に向上するわけではないのなら、正に、「待ち時間が長くなるだけ」でして、得がありません。 いや、別に、歩車分離式に、目くじら立てて反対しようという気はないですけど、換えるなら、すべての信号交差点を、一遍に、歩車分離式にした方がいいと思いますよ。 実際のところ、勘違いして走り出そうとする車がいない事を確認してから渡らなければならないから、緊張を強いられるんですわ。 「交通には、緊張があった方がいい」という意見を承知の上で言っているわけですが。


  いやいや、法規について、あれこれ批判するのが、目的ではないんですわ。 私ゃ、もう、人生の最終ステージに立っている人間でして、交通法規なんて、どーだっていーんです。 子孫もいないこったし、自分が死んだ後なら、宇宙が消滅しても、いっかな構わないと思っているくらいですから、人間が作った法規くらいが、なんぼのものかいな。 厳しかろうが、緩かろうが、好きにしとくんなまし。 といっても、あまり、厳しくなるようなら、自転車、やめますけど。

  そういや、自転車ブログで、法規について、あーだこーだと、独自の主義主張を開陳している野郎どもがいますが、ありゃあ、鬱陶しいですなあ。 一見、正論を述べているように見えて、その実、どいつもこいつも、自分に都合のいい事しか言っていないから、驚いてしまいます。 自転車ブログをやっているような奴らは、大抵、スポ自乗りで、体育会系だから、論理とか、全然分からんのでしょうなあ。

  何でもかんでも、好きなこと言いまくればいいってもんじゃないんだよ。 それで、大迷惑、被る人もいるんだから。 たとえば、子供乗せ自転車の賛否とか、てめーが乗ってもいねーくせして、ああすりゃいい、こうしなきゃいかんなんて、偉そうに提案するなってーのよ。 自分は乗ってないんだろう? 使用者の実感なんて、分からんではないか。 そんなに意見が言いたけりゃ、まず、自分で使ってみな。

  おっ、脱線してるな。 今回、本体部分が短いから、あまり、脱線すると、バランスが著しく悪くなってしまうぞ。 ハンドルを、戻さねば。


  で、その、歩車分離式の交差点なんですがね。 つい先日、信号待ちで、待ってたんですよ。 結構、交通量が多いところでした。 私以外にも、交差点の四隅に、全部で、5・6台の自転車と、歩行者も、一人二人いました。 そこへ、高校生らしい風体の男子が乗ったシティー・サイクルが、かなりのスピードで、歩道を走って来まして、車と同じ信号で、何のためらいもなく、渡ってしまったのです。 まー、どーしましょ。 待っている人達は、目が点ですわ。

  それだけなら、勘違いしたという可能性もあったのですが、次に、交差側の車の信号が青になったら、その学生、またもや、車と一緒に渡って行ったのです。 待っている面々といったら、目が点を通り越して、目がブラック・ホールですわ。 その学生の態度に、全く、悪びれたところとか、後ろめたそうなところがなく、堂々と渡って行ったのが、印象的でした。 思うに、そのガキ、自分のやっている事が、問題だとは、思っていなかったと思うんですわ。

  考えられる可能性としては、

≪信号方式に、全く興味がなく、歩車分離式という、普通の信号とは違う方式が存在する事を知らなかった≫
  ありそうな事です。 「そんな馬鹿な奴はいないだろう」と思うかも知れませんが、いやいやいや、いるんですよ。 底なしの馬鹿が。 特に、中・高生の場合、年齢的には社会人になりかけなわけですが、頭の中が子供のまんまで、社会の仕組みに対する認識が、異様に遅れる奴というのが、いるのです。


≪歩車分離式は知っていたが、特に守る必要はないと思っていた≫
  ありそうな事です。 「そんなアホな奴はいないだろう」と思うかも知れませんが、いやいやいや、いるんですよ。 天井知らずのアホが。 その学生、もし、曲がる車がいたら、あっさり、轢かれていたと思いますが、なにせ、アホじゃから、その可能性に思い至らないんですな。 「おお、構やせん。 轢かれろ轢かれろ」と、以前の私なら思ったはずですが、今や私は、車にも乗るので、こういうドアホウは、大変、困る。 死ぬなら、私のいない所で死んでくれ。

  「法規は知っているが、ケース・バイ・ケースで、どうしても守らなければいけないわけではない」と思っている人間は、存外多いようで、よく例として挙げられるのは、大阪の歩行者が、車がいなければ、赤信号でも歩き出すという話。 ある時、新聞の読者投稿欄に、「私は、赤信号でも、車がいなければ渡る事にしている。 何がいけないのか?」という趣旨の一文が載った事がありますが、法律違反を堂々と宣言する奴もさる事ながら、それを、傾聴に値する一意見として掲載した新聞にも呆れましたっけ。

  んじゃ、何か? 

「私は、人の持ち物でも、公共の場に置いてあれば、持って行く。 何がいけないのか?」

  も、アリか? そこまで行ってしまうと、

「私は、誰からも憎まれている人間であれば、ためわらず、殺害する。 何がいけないのか?」

  まで、ほとんど、距離がありませんな。 「法律とは、なぜ、必要なのか」まで、遡って説明しないといけないようです。 いや、たぶん、何を言っても、信念を曲げないだろうなあ。 刑務所に行っても、「私は、悪くない」と言い続けるんだろうねえ。 何でも、交通刑務所に入っているやつらなんて、みんな、そう思っているらしいですよ。

  信号を、ケース・バイ・ケースで無視する人に、老爺心の忠告ですが、馬鹿馬鹿しいようでも、信号は守っておいた方がいいと思いますよ。 ああいうのは、身に染み付く習慣ですから。 普段、車を確認している人でも、酔っている時や、体調が悪い時、精神的に落ち着かない時には、確認が疎かになる事もあります。 「赤信号なら、絶対に渡らない」という習慣がついていれば、そんな時でも、渡りませんが、「車がいなければ、赤でも渡る」という人が、車の確認をしなければ、スポーンと撥ねられてしまうのは、無理もない事ではありませんか。

  だけどねえ。 こんなこと言ったって、信念を持って、赤信号を渡っている連中は、聞く耳持たんのよ。 車が来ないのに、赤信号で待っている連中を、「馬鹿」だと思ってるんだから。 ほんとにホント、「馬ー鹿!」だと思ってんのよ。 それで、てめーが撥ねられてりゃ、世話ないわ。 命が助かれば、ほんとの馬鹿が誰だったのか、反省のしようもありますが、死んでしまえば、それにすら気づかず、一生を終えるわけです。


  そういや、歩車分離式信号の男子学生について、もう一つ、可能性がありました。

≪歩車分離式は知っているが、自転車は、車の方だと思っている≫
  おお、それは、大いに、ありそうだ! だーからよー。 「自転車は車両ですから、車道を走るのは当然です」とか何とか、紛らわしい事を、テレビで、自称・自転車専門家どもが言ってたもんだから、こういう勘違いをするボケナスが出て来るのよ。 この学生から、「自転車は、車じゃないんですか?」って、訊き返されたら、何て答えるのよ? えーおい、旦那方?

  だけど、こんなこと言ったって、信念を持って、間違った事を、堂々と実行している連中には、馬の耳に真珠なんだわ。 豚に小判なんだわ。 猫に念仏なんだわ。


  ところで、歩車分離式の信号って、歩行者・自転車のパートでは、斜めに横断してもいいんですかね? 車は、交差点内に、一切入って来ないわけだから、安全上は、問題ないと思いますが、スクランブル交差点ではないのだから、斜めに横断歩道や自転車横断帯は設けられていないわけで、悩んでしまうんですわ。

  私は、痛くもない腹を探られるのが嫌なので、二段階で渡ってますけど、堂々と、斜めに突っ切って行く人も、少なくありません。 特に、自転車は多いです。 どっちなんすか? これも、自転車法規お得意の、グレー・ゾーンなの?

2016/10/16

ノーベル・ショー

  2016年のノーベル文学賞を、アメリカのシンガー・ソング・ライターである、ボブ・ディランさんが受賞したそうです。 作家の方から、「歌手が、どうして、文学賞だ!」と、恨み憎しみの籠った批判が出ているらしいですが、「詩人がアリなら、作詞家もアリだろう」と言えば、大抵の人が納得するのでは? こういう文句を言う人というのは、てっきり、自分が貰えるものだと、妄想的に期待を膨らませていたんでしょうな。 それも、随分とおこがましいと思うのですがね。

  私自身は、ボブ・ディランさんの曲は、詞以前に、曲調が、全く琴線に触れず、残念ながら、お経にしか聞こえません。 私観ですが、短いメロディーを繰り返しているだけの場合、楽曲と認めない方がいいのでは? つまり、言葉の内容を伝えたい気持ちが勝ち過ぎてしまって、メロディーなんて、添え物に過ぎないんですな。

  反戦・平和のメッセージ性というのも、その後のアメリカという国の振る舞いを見ていると、大して社会に影響を与えていないのではないでしょうか。 ノーベル文学賞は、パステルナーク氏を作家廃業に追いやってしまってから、政治とは距離を置いていたはずですが、ここへ来て、反戦・平和などと言い出したのが、不気味です。 今後、同じ轍を踏むんじゃありますまいね。


  そもそも、ノーベル賞というのが、評価が高過ぎ、世間が騒ぎ過ぎでして、物理・化学・生理学は、順番待ちが長過ぎ、文学は、主観が強過ぎ、平和は、政治主張が偏り過ぎ、経済学は、正反対の学説でも受賞するのは、奇怪至極と、いい加減の限りを尽くしています。 比較的、評価が客観的と思われている、物理・化学・生理学に限っても、二流の学者が、一流の学者を選ぶという、根本的矛盾から逃れられません。

  もっと、そもそも、ノーベル自身にしてからが、ダイナマイトの発明で財を成した人でして、彼の発明で、どれだけ人が死んだか、数え切れぬくらい。 血を吸って肥え太った基金から、賞金をもらって、嬉しいんですかね? 間接的に、殺人に加担している事にはならんのですかね? いや、なりますよ。 ならないわけがない。 「平和賞」なんてのがあるのが、聞いて呆れる。 平和賞に選ばれて、「殺人に加担する気はないから、受賞は辞退する」と言ってのける人物・団体は出て来ないものか。 喝采を送りたいと思って、随分、長い事、待っているのですが。



  ちょっと、次元の違う話ですが、村上春樹さんは、この時期になると、毎年毎年、災難ですなあ。 今年も、日本のマスコミや、配慮の足りないファン達が、盛り上げるだけ盛り上げておいて、この結果です。 ファンの一人が、「村上春樹さんは、ボブ・ディランのファンだから、一番喜んでいるだろう」などと言っていましたが、それはまた別問題でして、はっきり言って、自分の名前を出して騒がれるのは、大迷惑だと思いますよ。 自分で、「とる」と宣言しているわけでもないのに。

  そもそも、日本で、なぜ、村上春樹さんが、ノーベル文学賞候補と見做されているかというと、単に、「世界的に名が売れている日本人の作家」というだけの根拠でして、騒いでいる連中は、ノーベル文学賞が、どういう作家・作品に与えられるかについてなんぞ、まるで知らないのではないかと思います。 基本的に、「前衛的作品」が選ばれるのですが、村上さんの作品は、だいぶん、方向性が違うと思うのですがね。 だいぶん。

  そういや、切腹して死んだ事で名を残した、ある作家は、「ノーベル文学賞をとる事が、自分が日本国にできる最大の貢献だ」と思っていたらしく、あれこれ、ロビー活動に精を出しただけでなく、わざわざ、自分の作風とはまるで違う、前衛的な作品を書いて、受賞を目指していたらしいですが、そういう、下心のある作家には、まず、くれないでしょうなあ。

  更に、そもそも、もはや、文学そのものが、芸術の前衛から脱落してしまっており、だーれも、本なんか、読んじゃいねーっつーのよ。 いやいや、芸術そのものが、もはや、文化の前衛から脱落していると言っても、大きく外れてはいますまい。 大衆受けが最も良い映画ですら、心躍らせる作品が、まるで出て来ない有様。 音楽だって、見放されたのは、とおの昔でんがな。


  ノーベル・村上騒動で、毎年、ぐるんぐるん振り回されていると想像されるのは、本屋さんでしょう。 毎年、この時期になると、村上春樹作品をごそっと仕入れ、関連作品として、大江健三郎作品や川端康成作品も、そこそこ仕入れ、ド派手なポップを何枚も書いて、「よーし、いつでも来い!」と待ち構えているわけですが、毎年、無駄な準備に終わるわけです。

  今回は、受賞者が、作家ですらなかったわけで、受賞者の作品を急遽仕入れて、並べる事もできず、呆然としてしまったのではないでしょうか? 同じように呆然としながらも、一瞬遅れて、「こうしちゃいられない!」と、飛び上がり、舞い上がったのが、CD・メディア・ショップで、大方、ボブ・ディラン作品を、どかっと仕入れる事でしょう。 だけど、たぶん、そんなにゃ、売れんと思いますよ。

  現在、50代前半の私ですら、ピンと来ないのですから、CDを買うほど音楽に興味がある若い世代が、食いつくはずがないです。 お経ですわ。 だーからよー、別に、商売を応援する為に、ノーベル賞出してるわけじゃないんだわ。 世界遺産もそうですが、金を儲ける事しか考えていない人間が、それを当然の事のように、大きな顔をして、しゃしゃり出て来るのは、傍から見ると、人の心の醜さを見せつけられたようで、何とも不愉快な事です。


  村上春樹さんの受賞を見越して、日本の書店やマスコミが、どれだけ、無駄なエネルギーを投じまくったかについて、研究し、発表すれば、そのあまりの滑稽さに、イグ・ノーベル賞がとれるんじゃないでしょうか。 いや、至って、マジな話。 ちなみに、私は、ノーベル賞よりも、イグ・ノーベル賞の方が、文化レベルとしては高い賞だと、真面目に思っています。

2016/10/09

富士市・丸火自然公園

  まだ、父が普通に暮らしていた頃の出来事ですが、去年決めた、「月に一度は、日帰りツーリングに行く」という習慣を実行すべく、5月31日に、富士市にある「丸火自然公園」に行って来ました。 丸火は、「まるび」と読みます。 富士山の裾野のなだらかな斜面に出来た森の中に、ハイキング・コースを張り巡らせた所。

  以下、写真と解説で、進行します。 実は、今までのバイク・ツーリングの中でも、飛び抜けた近場で、半日でも行って帰って来れる所でして、そんなに大袈裟に、紀行文を書くような旅ではなかったのですが、まあ、それはそれとして、始めます。



≪写真1≫
  去年の11月末に行くつもりで、ネットからプリントした、丸火公園の園内マップと、書き出したルート・メモ。 ところが、予定していた頃になったら、寒くなってしまいまして、ツーリングどころではなくなって、今年の春に延期しました。 この園内マップとメモは、自室の机の片隅で、年越し・冬越ししたわけです。 ルートをすっかり忘れていて、出かける前の晩に、地図を見ながら、復習しました。

≪写真2≫
  朝9時に出発。 沼津市街地の北を、国道一号線と並行して、東西に通る、根方(ねがた)街道で西に向かいます。 根方街道というのは、昔からの通称で、県道22号線の事です。 私が、21歳の時、普通免許の教習で走らされた道でして、個人的には、馴染み深いのですが、幅が狭くて、車で来ると、ちと怖いです。 バイクなら、その心配はありません。

≪写真3≫
  富士市に入って間もない所にある、「富士岡」という交差点で右折して、北上。 この後、県道76号、24号と、富士山の裾野を登って行きます。 傾斜は、押し並べて、緩やかですが、軽のノン・ターボのような、非力な車だと、ちと、ベタ踏みっぽくなるのではないかと思うような所もあります。 バイクなら、どうという事はないです。

≪写真4≫
  坂を上り始めて、いくらも行かない、住宅街と言ってもいいような所に、なんと、猿がいました。 小猿というほど小さくないですが、成体にしては小柄で、たぶん、若い個体なのだと思います。 猿のような高等動物が、野生で普通に見られるのは、自然保護の観点からは、悪い事ではありません。 だけど、近所の人達は、困らされているのかも知れませんなあ。

≪写真5左≫
  24号の途中にあった、三叉路。 T字路ではなく、中心に三角形の緑地があり、大掛かりな三叉路になっていました。 周囲には、これといった物がないのに、なぜ、普通のT字路にしなかったのか、解せません。 土地に、高低差があるからでしょうか?

≪写真5右≫
  24号も、かなり上の方まで登って来た所で、道路の横に、そこそこ大きな木が数本あり、こんな花が咲いていました。 種類は分かりません。 ヤマボウシでしょうか?

≪写真6≫
  24号と、丸火公園に向かう道の、分岐点。 丸火公園は、有名らしく、自治体が立てたと思われる、案内標識が多かったので、迷う心配がなくて、助かりました。



≪写真1≫
  案内標識に従って進むと、突き当たりに、「富士市立 少年自然の家」がありました。 専ら、中学生に野外学習を体験させる為の施設。 どの自治体でも、似たようなものはあるんじゃないでしょうか。

  写真には写っていませんが、私がここへ来たら、お揃いのジャージで武装した中学生の一団が、この少年自然の家から、ぞろぞろと、丸火公園の方に出て来て、どうやら、一日、公園内で過ごす模様。 まずい時に来てしまった・・・。 平日なのに、というより、平日だからこそ、学生が利用している可能性が高かったわけですな。

≪写真2≫
  駐車場は、異様なくらい、広かったです。 ここだけでなく、何ヵ所かに分散しています。 全て満杯になるような事があるんでしょうか? 大きなイベントをやるにしては、大人数を収容できる広場がないと思うのですが。

  どうせ、帰りまで、ガラガラだろうとは思ったものの、万一という事があるので、バイクは、隅の方にとめました。 ヘルメットも、ホルダーにつけて、置いて行きます。 まず、盗まれるような事はないです。

≪写真3≫
  私がバイクをとめたのは、公園南端の駐車場で、そこから、北へ向けて歩き始めると、すぐの所に、「丸火自然館」がありました。 だけど、扉が閉まっていました。 休館日というわけではなく、閉鎖されているか、利用希望者がいる時だけ開けるという雰囲気でした。

  右側は、森の中にあった、ベンチ。 細い丸太を並べてあります。 これは、いかにも、座り心地が悪そうですなあ。 長居すると、痔になるのでは? 中学生諸君、痔を軽く見ていると、えらい事になりますぞ。

≪写真4≫
  「東グリーン・キャンプ場」の入口。 別に、キャンプ場に用はないのですが、北へ向かう道でもあるので、ここを潜って、先に進みました。 

  右側は、その、キャンプ場。 森林が切り開かれています。 キャンプ場と言っても、ここにテントを張るわけではなく、キャンプ・ファイヤーを行なう場所のようです。 新緑が美しいですが、晴れていれば、もっと気持ちが良かったでしょうな。

≪写真5≫
  遊歩道のところどころに、アスレチック遊具がありました。 この丸火公園は、全ての施設が、老朽化している感じでしたが、これらの遊具だけは、新しい物が据えてありました。 恐らく、安全上の基準があるんでしょうねえ。

  この辺までは、園内マップ通りに歩いていたのですが、この後、現在地が分からなくなり、ロストの嵐となります。



≪写真1≫
  公園内の道は、山道みたいなところもあり、左側の写真のように、砕石舗装のようなところもありました。 傾斜が緩いので、靴底がしっかりしていれば、いくら歩いても、体力の消耗で、へばるような事はないです。

  私としては、公園の中心部にある、「中央広場」を目指して歩いていたのですが。 いつのまにか、北部に入っていて、右側の写真の、アスファルト舗装の道路に出てしまいました。 「友情の桜並木」という道の端の方で、北も北、かなりの北です。 やむなく、近くにあった、「溶岩洞穴」の標識に従って、北北東へ向かいました。

≪写真2≫
  北部エリアの道は、「傾斜のない山道」みたいな感じでした。 しばらく歩いて、辿り着いた、「溶岩洞穴」というのが、これ。 何ヵ所かあります。 その一つに、朽ちかけた説明看板があって、一応、その写真も撮って来たのですが、暗かったせいで、ブレボケして、読めませんでした。 たぶん、溶岩が流れる過程で、何らかの現象で出来る、穴なのでしょう。 貫通して、向こうが見えるものもありました。

≪写真3≫
  公園内の道には、分岐がたくさんあるのですが、こういう標識が立っている所は、数える程で、次の分岐ではどちらに進めば分からなくなってしまうから、ほとんど、当てになりません。 たぶん、中学生に、オリエンテーリングをやらせる為に、わざと、現在位置を分かり難くしているのだと思います。 本来、一般客が、散策に来るような公園ではないんですな。

≪写真4≫
  これは、公園北東部にあった、「溶岩樹形」です。 溶岩に取り囲まれた後、木が焼けて、その形が残ったもの。 そう思うと、大変な巨木だったんですな。 この場所、園内マップには載っていなくて、偶然、辿り着きました。

  なんで、こんなに大きな写真で見せるのかと言いますと、ここが、丸火公園内にある、最も見応えがある場所だと思うからです。 丸火公園は、本来、観光地でも景勝地でもないので、何かを見に来るような所ではないのです。 そんなものを期待していた私が悪い。

  この後が、また大変で、藪の中で、道が見えなくなって、完全にロストしました。 来た道を引き返したり、また、迷ったり、10メートルくらい向こうに見える道へ行く為に、溶岩原の中を突破したりして、何とか、桜並木の舗装道路に戻りました。 方位磁石か、GPSが必要なところなのです。 だけど、公園の外周には、明らかにそれと分かる、舗装道路が通っていて、よしんば迷っても、公園内から出られないようにはなっていました。



  命からがらというか、遭難に片足突っ込んだ気分で、辛うじて、桜並木の舗装道路まで戻って来ました。 この後は、冒険を避け、この道で南下して、中央広場を目指しました。

≪写真1≫
  左側は、道に落ちていた、サクランボ。 桜並木の道だから、落ちていて、当然。 小さくて、食用ではないのが、一目で分かります。 だけど、鳥にとっては、結構な御馳走でしょう。

  右側は、ヤマボウシの花。 公園内の、そこかしこで見られました。 この写真の木の近くに、名前を書いた板があったから、これがヤマボウシである事は確実です。

≪写真2≫
  中央広場の手前にある、「富士見ヶ池」。 大きさは、大した事はありません。 畔にベンチがあって、少人数なら、座れます。 中島がありますが、渡れません。 この池から、富士が見えるのか、ちょっと疑問。 だけど、公園自体が、富士山の裾野にあるわけだから、晴れていれば、すぐ近くに見えるのかも知れません。 ちなみに、この池の周囲にも、溶岩洞穴がいくつかあります。

≪写真3≫
  ここが、「中央広場」です。 割と近くまで、車で来れる道があるので、何かイベントをやろうと思えば、できない事はないですが、 そーんなに広い所ではないです。

  右端に、白っぽい棒が三本立っていますが、これは、旗竿でして、これを見た時、「あれっ? この景色は前に見た事があるぞ!」と感じました。 私は、過去に、ここに来ている可能性が出て来ました。

≪写真4≫
  中央広場にあった、細丸太ベンチ。 なんと、今度は、横に並べてあります。 ますます、座り難い。 椅子の癖に、座られる事を拒否しているかのようです。 中学生諸君、くれぐれも、痔を侮ってはいかんぞ。

≪写真5≫
  中央広場の南東側は、土地が低くなっています。 下の方から見上げて撮ったのが、この写真。 左端の櫓は、弁当を広げる中学生達に占領されていて、近づく事もできませんでした。 私が弁当を食べる場所が見つかりません。



  中央広場を後にし、園内マップにあった、「ひょうたん池」を目指して、東へ歩いて行ったのですが、あっさり、ロスト。 割とちゃんとした道を通っているのに、迷うというのは、方向音痴でない私としては、不可解千万なのですが、曇天で森の中で、太陽の方角が分からないと、方向感覚が狂ってしまうようです。

≪写真1≫
  公園の東端は、ゴルフ場に隣接していました。 ここで、また、デジャビュに襲われました。 この、森の隣がゴルフ場という景色は、確かに、昔、見ています。 中学か高校の時に、遠足で来ているのは、間違いないと確信しました。 ただ、今となっては、調べる方法がありません。

  ロストして、うろうろしていたら、中学生のグループが通りかかりました。 彼らが、ひょうたん池がどこにあるかという話をしているのを、耳聡く聞きつけ、ようやく、その場所が分かりました。 ありがとう、中学生諸君。

  もう、慌てる事はないので、森の中の丸太に腰掛けて、12時20分に、遅い昼食を取りました。 家から持って来た、梅干入りのおにぎりと、水です。 母が朝飯の残りで握ったものだったのですが、御飯が古くて、ゴワゴワしており、まずかったです。 ますます、気が滅入る。

≪写真2≫
  これが、ひょうたん池。 池自体は元からあったのかも知れませんが、周囲が、石とコンクリートで固められていました。 写真だと、大きく見えますが、そんな事はないです。 畔には、ベンチ一つ置いてなくて、一服もできません。 つくづく、この公園は、観光地ではないのだと痛感しました。

≪写真3≫
  中央広場の近くまで戻って、そこから南へ向かい、バイクをとめてある駐車場の近くまで、下って来ました。 ここは、「西グリーン・キャンプ場」という所。 森の中に、写真のような、小さく整地した空間が、幾つも点在しています。 たぶん、ここにテントを張るのでしょう。

≪写真4≫
  西グリーン・キャンプ場の中心にあった、竈や水道がある施設。 綺麗に整備されています。 しかし、こういう場所であっても、飯盒で、うまく煮炊きするのは、難しいと思います。 こういう、学生向けの施設を見ると、自然に懐かしい気分になりますが、実際の私の学生時代は、懐かしく思い出すほど、楽しいものではありませんでした。

  この後、駐車場に戻り、バイクに乗って、1時過ぎには、丸火自然公園を後にしました。 家から割と近い所ですし、帰るには早過ぎる時刻ですが、これ以上、ここにいても、間が持ちません。



  丸火自然公園を後にし、往路を逆に辿って、帰ったのですが、途中、沼津市に入って間もない所で、「興国寺城跡」に立ち寄りました。 根方街道で、西から戻って来る時には、毎回、寄っています。 丸火公園では、ドス曇りだったのに、ここへ来たら、晴れて来ました。

≪写真1≫
  城跡の敷地は、根方街道に沿っているのですが、少し敷地内に入って行かないと、それらしきものは見えません。 この上の右手に、駐車場があります。 いつ行っても、人は、ちらほらしか見かけないので、車をとめる場所に困る事はないはず。   

≪写真2≫
  平山城みたいに見えますが、後背地は、丘になっていて、成り立ち的には、丘の突端部を城にした、山城という事になると思います。 これは、南を見た景色で、駿河湾や東海道が望めます。 眺めはいいですが、この城から、東海道をどうにかするには、遠過ぎでして、守るにも攻めるにも、あまり意味がないポイントなのではないかと思ってしまいます。

≪写真3≫
  山城なので、石垣は、ほんの一部にしかなくて、他の斜面は、元からの崖か、切り崩したものです。 元は、今川氏が作った城ですが、北条早雲に与えられ、早雲が、初めて持った城になりました。 戦国時代は、早雲の登場から始まるので、興国寺城は、戦国時代の始まりを象徴する城という見方もできます。

≪写真4≫
  割と最近、作られた、人工的な流れ。 街道に近い平地部分にあります。 興国寺城跡は、史跡公園になる予定で、のんびりしたペースで整備中で、いずれ、この辺りに、川か池が作られるのだと思います。 それにしても、現状では、趣きに欠ける。



  以上で、富士市・丸火自然公園ツーリングの紹介は、おしまいです。 家に帰ったのが、午後、2時半くらい。 日帰りツーリングは、風呂に入って、夕飯までに一眠りできるくらいの時間的余裕をもって帰って来るのが、望ましいですな。 走行距離は、60キロ。 往復、ほぼ、同じ道を通ったので、きっちり、30キロずつです。 日帰りツーリングとしては、記録的に短いですな。

  丸火公園は、学生の頃に遠足で行った事があると、今では確信しています。 中学だったか、高校だったかは、分かりません。 そもそも、「まるび」という名前は、かなり風変わりで、一度も行った事がなければ、記憶しているわけがないと思うのです。 絶対に、行っているはず。

  それはそれとして、丸火公園ですが、大人が一人で遊びに行くような所ではなかったです。 本来、学習施設なんですよ。 一般人にも開放されているというだけの話。 どこにでも、出かけて行けばいいってもんじゃないわけだ。 天気が悪かったのも、マイナス要因ですが、たとえ、天気が良かったとしても、楽しい方へ天秤が傾く事はなかったと思います。

2016/10/02

愚兄

  今回も、父の死に関係した事です。 いつまでも、暗い話ばかり引きずるのは、どうかと思うのですが、悪い時には、悪い事が、塊になってやって来るものでして、書いて、鬱憤を晴らしでもしないと、ムシャクシャして仕方ないので、書いておきます。 読んで、気分がいい内容でもないと思うので、今現在、幸福感に浸って暮らしている方は、読まないで下さい。


  父が残した預金は、相続人になる、兄へ行く事になったのですが、その手続き中に、兄が、お金を貯めた事がない人間である事が判明し、私と母を驚かせました。 一つ例を挙げると、定期預金と、定額貯金の区別がつかず、定額貯金の口座を持っていたものの、それは、兄嫁が作ったものだった、という有様でした。

  兄は、中学時代のアルバイトから、仕事経験を始めたのですが、そういう人間にありがちな事で、「稼いだ金は、全部使っていいもの」という考え方を持っているのではないかと思っていたら、案の定、そうだったわけです。 そういう人間が、纏まった金額を、突然、手にすると、パーッと使ってしまいがちですが、兄も、たぶん、そうなるものと思われます。 自分が稼いだ金でない、あぶく銭なら、尚の事。

  しかも、重ねて、悪い事に、母が父名義でお金を入れていた預金が出て来て、これが、父本人が残した預金とほとんど変わらない額で、びっくり。 今更、母が、「名義は夫になっているが、貯めたのは自分だ」と言っても、証明できないので、そちらも、兄に譲るしかありません。 だから、私が、「人の名義を勝手に使うな」と、あれほど、言っていたのに。

  母が死んでも、私は相続放棄しますから、母のお金も、兄のところへ行く事が決まっているわけで、結局は同じなのですが、それにしても、いきなり、大金が転がり込んだ兄が、これから、どういう行動に出るか、想像するだに、恐ろしいです。 大金は、人間を変えてしまうものだからです。

  兄は、金銭感覚がおかしくて、父の残した預金額を見て、「少ない」と言い、「普通なら、5000万は残す」などと、何を根拠にしているのか、さっぱり分からない戯言を口にしている有様でしたから、大いに心配です。 自分自身は、僅かな預金しか持っていなくて、「年金受給が始まる、68歳まで働く」などと言っているくせに、一体、どこから、5000万なんて数字が出て来たんでしょう?


  一方、兄嫁の方は、常識程度には、お金の貯め方の知識を持っているようですが、この一連の出来事を通して観察した結果、兄と兄嫁の関係は、かなりはっきりした主従関係である事が分かりまして、兄が言い出したら、兄嫁には止める事ができない危険性が、極めて高いです。 おそらく、兄の事ですから、「金は、使ってこそ、活きる」、「とりあえず、半分だけ残して、半分は使おう」、「もう、だいぶ経ったから、また半分使おう」といった口説き方で、段階的に、兄嫁の防御を切り崩して行くものと推測されます。


  私は、兄と仲が悪く、大人になってからは、話をする事がなかったのですが、「もう、30年以上経っている事だし、向こうも大人になっているだろう」と思って、今回の一件で、仲直りするつもりで、極力、兄を立て、和やかに接していました。 ところが、向こうは、そんな気が全くないようで、相変わらず、人を人とも思わない態度を取り続け、しかも、私だけでなく、母や兄嫁に対しても、同じように、刺々しい言葉を吐いています。

  これはおかしいと思って、一体、どういうつもりなのか、喧嘩覚悟で、カマをかけてみたら、分かったのは、兄が、若い頃から今現在まで、人間的に、全然、成長していないという、恐るべき事実でした。 自分の事を、「偉い人間」、「世故長けた人間」だと思い込んでいて、人の話を聞かず、そのせいで、逆に、世間知らずになってしまっているのですが、自分では、その事に気づいておらず、人が何か言うと、揚げ足をとって、猛烈な毒を含んだ嫌味を浴びせかける始末。 相手が言い返すと、中学生みたいな屁理屈を並べて、相手が引くまで突っ張り続けるという、90年代風に表現すれば、「ゲロゲロ」な性格だったのです。

  これには、たまげた。 30年以上、全く成長せず、人間が丸くなるどころか、むしろ、性格を悪くする方へ、せっせとエネルギーを傾注して来たようなのです。 おそらく、他人に対しても、同じような態度で接していて、これまでに、計り知れないくらいの恨みと軽蔑を買って来たのではないでしょうか? 私が勤めていた時、そういうタイプの人間を、何人か見ましたが、まさか、身内にもいたとは、あまりにも大き過ぎる盲点でした。

  こういうタイプの性格は、相手が引くと、ますます、増長し、「自分が勝った」と勘違いして、「負けた奴は、こちらの言う事を、何でもきくはずだ」と考えます。 自分以外の人間を、全て、敵と見做しているのであって、うまくやって行く事など、まず、無理です。 損害を受けない為には、そもそも近寄らないようにするか、何か言われるたびに、こちらも、同じ態度でやり返して、中学生レベルの屁理屈が、大人の世界では通じない事を、そのつど、思い知らせてやるしかありません。

  だけどねえ・・・、冗談じゃないですよ。 こちとら、引退して、ようやく、他人との緊張関係から解放されたというのに、身内相手に、そんな疲れる事ができるものですか。 それに、もう、50歳を過ぎていますから、根気よく相手をしてやっても、今更、性格が直るとは、考えにくいです。 手遅れなんだわ。


  私の推測では、父と母からもらった、あぶく銭を、あっという間に使ってしまい、金の使い癖がついて、今度は、自分の金を使ってしまい、次には、借金に走って、母のところに泣きつき、母の貯金を使ってしまい、離婚、自己破産、生活保護と、人生の転落スパイラルを描くのではないかと思うのですが、私にまで火の粉が降りかかって来てはたまらないので、そうならない事を祈るしかありません。

  亡き父が、自分の残したお金が、どういう人間に渡ったか知ったら、身震いするでしょうなあ。 「そんな人間に育ててしまった父親にも、一半の責任はある」という理屈も成り立ちますが、兄の性格は、父にも母にも、全然、似ていませんから、父としては、困惑するばかりでしょう。

  兄が中学生の頃、母が、「あいつは、友達が悪い」と、どこの母親でも言いそうな事を口にしていましたが、今にして思うと、当たっているところもあったかもしれません。 大人のフリをしているだけの、低劣な連中を、大人だと思い込み、その真似をしている内に、自分も、低劣な人間になってしまったわけだ。 当時、私は、そういう兄を見て、「こりゃ、とても、ついていけんな」と袂を分かったわけですが、それは大正解でした。 50過ぎて、屁理屈並べているような人間にならなくて良かった。

  世間知らずで、間違った知識を自信満々で口にし、人の気持ちも全然分からないような薄っぺらい人間なのに、私の事を言い負かそうと、必死になっているのを見て、情けなくて、泣けて来ました。 「こんなにも、成長しない人間がいるのか・・・」と。 道理で、父が死んだ時も、大きな葬式を出す事ばかり考えていて、涙の一つも流さないわけだよ。 一緒に住んでなくたって、子供の頃の記憶はあるだろうに。

  通夜の時に、父の遺体が、すぐそばにあるのに、オリンピック中継に夢中になっていた様子も、そういう性格であれば、納得できます。 だけどよー、兄貴よー、てめーの通夜の席で、自分の子供が、テレビに夢中だったら、あんた、どう思うね? 悲しくはないかい? 子供がいないから、分からん? そんな、屁理屈を訊いてるんじゃないんだよ。 なんて、愚かなんだ。 

  介護の甲斐なく、父が死んだ事だけでも、敗北感に打ちのめされて、精神的ダメージが大きいというのに、こんな醜い人間性を見せつけられるとは、神も仏もあったもんじゃない。 どうしても、私に、安楽な引退生活を送らせたくないらしい。 一体、今更、私に何をしろというのよ? 何もできんぞ、実際。