2014/11/30

軽快車で運動



  岩手で会社を辞め、6月24日に、沼津に帰ってから、かれこれ、5ヵ月になります。 最後に、有休消化期間があったので、正式な退職日は、8月25日でしたが、それから数えても、もう、3ヵ月ですな。 月日が経つのは、早いものです。

  沼津に戻って来た頃には、「落ち着いたら、アルバイトでも探そう」と思っていたのですが、退職手続きで、市役所や年金事務所とやり取りする内、中途半端に働くのは、国民年金でも、健康保険でも、市県民税でも、却って不利になりかねないという事が分かって来て、働く気力が失せてしまいました。

  つくづく痛感したのは、正規雇用されている間、会社が、給与・賞与以外に、いかに多くのお金を払ってくれていたかという事です。 その分を自腹で払おうとしたら、バイトで、月に10万円程度の収入を確保したとしても、とても追いつきません。 むしろ、さっさと、無収入になってしまい、年金・健保・税金の基準になる金額をゼロにしてしまった方が、得なのです。

  で、バイトを探すのはやめ、本格的に、貯金取り崩し生活に入る事にしました。 「無職」と言うと、聞こえが悪いですが、「引退者」になったわけです。 常識的に見ると、引退するには、明らかに早過ぎる年齢ですが、それはまあ、人によって、事情は異なるという事で・・・。

  幸い、私は独身で、両親は年金暮らしですから、扶養家族がいるわけじゃなし、誰にも、迷惑はかかりません。 追い出し部屋で、地獄の憂き目に遭いながらも、妻子を養っているばかりに、勤めを辞められない人が多い事を思うと、私は、幸福だと言えるでしょう。 あまり、実感はありませんが。

  「早々と、働くのをやめてしまって、これから、大病でもしたら、治療費なんか、どうするのだ?」と思うかもしれませんが、これまた、私の場合、特殊な事情がありまして・・・。 何せ、「突然死の恐れがある心臓」を抱えているので、むしろ、働き続けている方が、大病への早道になってしまいかねないのです。 それに、大病になるなら、尚の事、体が動く内に、余生を楽しんでおきたいと思うのです。

  世間体を気にして、突然死の恐怖に怯えつつ、60歳まで働いたとしても、誰が誉めてくれるわけじゃなし。 この歳になると、他人の評価というものが、いかに、いい加減で、気まぐれで、無責任で、手前勝手なものであるかという事が、つくづく分かります。 他人の目線など、無視していればいいのです。 どうせ、模範的人生を送ったところで、他人から見れば、それは正に、他人事なのであって、悪く言おうと思えば、いくらでも、悪く言えるのですから。 たとえ、人に誉めてもらっても、自分が納得できなければ、何の意味もありません。 自分の人生の価値を決められるのは、結局、自分だけなのです。

  ただ、私がこういう考え方をするのは、すでに、人生の後半に入り、余生の帳尻合わせに取りかかっているからであって、若い人達には、全く勧められません。 そもそも、最低限、年金を受給できる年齢まで喰い繋げる蓄えがなければ、生きていけませんから。 また、仕事に生き甲斐を見出している人達にも、こんな考え方を押し付ける気は、毛頭ありません。 積極的に働くつもりがあるのであれば、働いていた方が、肉体的にも精神的にも、ずっと健全だと思います。


  唐突に話題が変わりますが、仕事をしなくなって、一番最初に、ぶちあたった問題が、運動不足による、肥満です。 毎日毎日、喰っちゃ寝喰っちゃ寝を繰り返しているのだから、当然といえば、当然でして、具体的に言うと、腹が出て来ました。 ズボンのウエストがきつくて、前のボタンを留めると、苦しくていられません。 どうにかせねば・・・。

  一応、家の中で体操はしていたのですが、今まで、一日10時間くらい、肉体労働をしていたのに、その代わりになるほどの運動量を、体操だけで賄うのは、不可能です。 やはり、外に出なければ、無理か。 しかし、若い頃に、ギックリ腰をやってから、ずっと、腰痛持ちですし、二年ほど前に、仕事で膝まで痛めて、もう、足腰ガタガタなので、ジョギングはできません。 となれば、自転車を漕ぐ以外、残された手はありますまい。 やれやれ、ようやく、自転車の話になったか。

  折自は、普段、カバーをかけているので、毎日出すのは、面倒です。 そこで、私が使っている、もう一台の方の、軽快車で出かける事が多くなりました。 この軽快車、元は、2004年8月に、母が買った物ですが、母が、2010年4月に、電動アシスト車に乗り換えたので、御役御免となり、その後、放置されていたのを、2012年5月に、私が復帰させて、以来、買い物用にしていたのです。

  この自転車の事を、私は、便宜的に、「旧母自」と呼んでいます。 メーカーは、「出来鉄工所」。 この会社、大阪府堺市にあったらしいのですが、2004年6月には、倒産しており、母は、倒産後2ヵ月経ってから、買った事になります。 値段は、8000円台だったとか。 大方、処分価格だったんでしょう。 商品名は、「フレスコ」。 イタリア語で、「新しい」という意味だそうです。 英語の、「フレッシュ」ですな。 倒産処分品なのに、フレッシュとは、皮肉な名前。

  24インチ、変速なしの、ごく普通の軽快車で、サドルの後ろに、「DEKI Bicycle」と書いてあります。 前籠は、早々と壊れてしまったらしく、随分前に、父が交換して、今は、ブリジストンのプラスチック製の籠が付いています。 何せ、放置されていた期間が長かったので、修理歴が、はっきりしないのですが、後輪タイヤも、父が一度換えたと言っていました。

「DEKI Bicycle」、のロゴ(上)/ ブリジストンの前籠(下)


  折自のシート・ポストを、資材用パイプを使って、長くした話は、以前に書きましたが、その時、余ったパイプがあったので、この旧母自のシート・ポストも長くして、サドル・ポジションを出しました。 それが、2012年5月の事だったわけです。 サドル・ポジションが出せたので、乗り始めたんですな。 私が、使うようになってからは、2013年6月に、後輪のタイヤを交換しています。 つまり、後輪タイヤは、二回換えているわけだ。

  軽快車ですから、ハンドルを下げるには、限界があり、折自ほど、前傾姿勢になりませんが、逆に言うと、腕の方に体重がかからないので、近距離ならば、姿勢は楽です。 遠距離になると、体重のほとんどを、サドルに載せているせいで、腰が痛くなって来ます。 だけど、そもそも、そんなに遠くまで、買い物に出かける事はありません。


  その、旧母自を、退職後、運動に使い始めたというわけです。 「軽快車で、運動になるのか?」と思うでしょうが、思ったよりは、なります。 しばらく続ける内に、「サドル・ポジションさえ出せば、どんな自転車でも、運動用に使えるのではないか?」と、思えて来ました。 むしろ、大腿筋を活動させて、カロリーを消費したかったら、軽いスポ自よりも、重い軽快車の方が、向いているのではないかとさえ思います。

  家から、西に向かい、我入道という所から、狩野川の土手に上がると、その上を走って、川を遡って行き、香貫大橋の手前で下りて、香貫山の麓を回り、家に戻って来るのが、基本的なコース。 大体、30分くらいですかね。 港大橋、永代橋、御成橋、三園橋、黒瀬橋と、狩野川左岸の橋の袂を通りますが、この内、黒瀬橋以外は、車が通る道路を横切らなくても、土手道が、橋の下を潜るようになっているので、信号待ちで止まる必要がありません。 歩行者の便の為に、こうなっているのですが、自転車にもありがたいです。

狩野川左岸の土手道(上)/橋の下を潜る道(下)


  沼津市には、海岸線に、津波対策の防潮堤があり、遠く、富士市の田子の浦港まで続いています。 その上も、自転車で走るには、気持ちがいい所なのですが、私の場合、走って行くと、どんどん、家から遠ざかってしまうので、毎日行くには、不向きです。 また、海岸線には、潮風があり、鉄部品が多い軽快車には、大敵となります。 穏やかそうな日でも、結構、吹いているもので、知らない内に、錆びて来ます。 それは、以前、父の自転車で、田子の浦まで往復していた時に、経験済み。

  で、結局、無難なところで、狩野川の土手になってしまうんですな。 歩行者が多い時は、てれてれ走りますが、前方クリアになると、結構、力を入れて漕ぎます。 折自より、輪径が大きく、ペダルが重いので、漕げば、かなりのスピードになります。 土手道は、交差道路がないから、突然、横から、人や車が飛び出して来る心配がないのは、実にありがたいです。 運動に出て、事故ってたんじゃ、格好がつきませんからのう。

  「自転車を、いくら漕いでも、腹は凹まない」と、何かの本で読みましたが、確かに、それは正しいようで、ウエストの方に、大きな変化はありません。 ただし、太腿は、明らかに、硬く、太くなりました。 筋肉というのは、年齢に関係なく、使えば、鍛えられるんですねえ。 お陰で、体重の増加は、免れています。 自転車趣味が、こんなところで、役に立つとは、全く予測していませんでした。

  運動に使う上で、自転車が、ジョギングより優れているのは、かなりの距離を走っても、カロリーを消費するだけで、関節や筋肉に、過度な負担がかからない事ですかね。 狩野川の土手道でも、汗みずくになって、ジョギングしている人を、多く見かけますが、確かに、運動にはなると思うものの、あれは、膝や腰には、決して、よくは働きますまい。 それ以前に、脳溢血で死ぬ可能性も高い。 ウォーキングの方が、まだ、安全に見えます。

  自転車は、靴が減らない点もいいですな。 代わりに、タイヤが減るわけですが、靴ほどではなく、毎日30分ずつ乗っていても、2年以上はもつんじゃないでしょうか。 ちなみに、タイヤは、千円くらいで売っています。 足が、汗臭くならない点も、良いです。 ジョギングやウォーキングから帰って来ると、すぐに、風呂かシャワーを使わねばならないと思うのですが、自転車の場合、そういう事はありません。 普通に、夜を待って、入れば宜しい。

  メリットが多い割に、自転車で運動している人は、少ないわけですが、もしかしたら、ロードやクロスといった、スポ自を買わなければ、運動にはならないと思い込んでいるのでは? いやいや、なりますなります。 要は、思い切り、漕げればいいんですよ。 低いサドルで、思い切り漕いでいると、膝を痛めてしまいますが、サドル・ポジションさえ出せば、折り畳み自転車でも、軽快車でも、シティー・サイクルでも、何でも行けますって。

  30センチのシート・ポストなら、一般車用の、太さ25.4ミリ(1インチ)のが、ホーム・センターなどで売ってますから、試しに、自分の自転車に着けて、乗ってみるといいと思います。 それでも、高さが足りない場合、自作するしかありませんが、そうなると、面倒過ぎて、簡単には試せないか。 興味がある方は、このブログの、≪シート・ポスト延長計画≫の記事を参照の事。 一度、サドル・ポジションで乗ってみれば、低いサドルじゃ、二度と乗れなくなるくらい、快適なんですがね。

サドル・ポジションを出したシート・ポスト


  ついでながら、シート・ポストを長くしたお陰で、店や公共施設の駐輪場に停めた時、その中から、自分の自転車を探すのが、いとも容易になりました。 こんなにサドル位置が高い軽快車は、まず、ないからです。 私の身長は、175センチで、中背ですから、逆に考えると、ほとんどの人が、サドル・ポジションを出さずに、自転車に乗っている事になります。

  もう一つ、ついでに書いておきますと、スカート・ガードを外してないのは、私の所有物ではないからです。 使っているのは私だけですが、買ったのは、あくまで、母で、防犯登録も、母の名前でなされています。 今現在、電動アシスト車を使っている母が、今後、「返せ」とは言わないと思いますが、用心して、いつでも、元に戻せるようにしているというわけです。

2014/11/23

さよなら、北海道

  北海道旅行記の、六日目です。 8月30日、土曜日。 北海道旅行の最終日にして、図らずも、退職記念旅行になった、福利ポイント消化による、沖縄・北海道、贅沢旅行の最終日。 この日の予定は、前日に引き続き、貸切タクシーで、函館市内を観光し、後は、帰るだけです。 ここまで、持ち込んでしまえば、終わったも同然で、気楽なものでした。

  沖縄旅行から、続けて読んで下さっている方々には、朗報があります。 今回は、かなり、短いです。 メインの観光が、貸切タクシーの3時間だけで、後は、オマケのようなものですから、引き伸ばしようがないのです。 どれくらい短いか、今、沖縄と北海道の記事、全15回を比較してみたんですが、最短は、60段落台、最長は140段落台で、えらい、バラツキがありました。 今回は、最短の方に近いので、大船に乗った気でいて下さい。



≪ホテルの朝≫
  和室だったせいか、夜中に目覚める事があっても、目蓋を開けるのが怖かったです。 幽霊を怖がる気持ちが、まだ残っていたとは、新鮮な驚きでした。 手のつけられない乱暴者を、更に力の強いロボットで、ねじ伏せるという夢を見ました。 こういう、エキサイト型の夢は、途中から、自分の意思で操作してしまう事が多く、ありきたりな結末に終わる事が多いです。

  朝5時には目が覚めてしまいました。 前夜、0時半頃まで起きていたので、正味4時間半しか眠らなかった事になりますが、割と爽快な気分でした。 前々夜も、睡眠不足だった上に、前夜には、フローズン系ドリンクで頭をやられ、パンチ・ドランカーのように、ふらふらしていたにも拘らず、そんなに短い睡眠時間で回復したのは、内面意識が、「最終日だから、逃げ切ってしまえ」と、判断したんでしょうな。

  窓のブラインドを開けると、どうやら、雨が上がったばかりの様子。 前夜、私が、夜景ツアーから帰った後に、降り出したんですな。 前日の昼間も、パラパラ降っていたわけで、ちょうど、夜景ツアーの間だけ、やんでいた事になります。 私も含めて、前夜、ツアーに参加した客は、運が良かったんですなあ。

  7時に、一階の大宴会場へ、朝食に下りました。 同じバイキングでも、朝なので、品数は少ないです。 メインの料理を取り、一度、トレイを席に置いてから、御飯・味噌汁、ドリンクなどを取りに行くのですが、会場が広すぎて、席まで戻るのが大変。 何事にも、適度なサイズというのは、あるものですな。 だけど、食べる段になれば、場所は、狭いより、広い方がいいです。 周囲を歩き回る人々が立てる埃を、気にしなくて済みますから。

  ホテルに泊まって、バイキング料理を食べるのも、これで最後かと思うと、一品でも多く欲張りたくなるものですが、朝から、そんなにたくさん食べられるものでもありません。 ジャガイモがあったので、取ったのですが、意外な事に、あまり、おいしくありませんでした。 バターか何か、つけて食べるんですかね? 食べ方を知らないというのは、救いようがないものです。

  食べ終わった頃、会場の隅に、食器を片付ける台車が置いてあるのが、目に入りました。 「もしや、セルフか?」と思って、そちらへ持って行きましたが、途中、係員が通りかかったので、「自分で片付けるんですか?」と訊いたら、何も言わずに、受け取って、持って行ってくれました。 そうですよねえ。 バイキングで、セルフ片付けというのは、聞いた事がありませんから。 社員食堂じゃあるまいし。


≪湯の川温泉街≫
  ロビーの隅に掲示されていた、湯の川温泉の地図を、写真に撮って、部屋に戻り、身支度して、散歩に出かけます。 散歩と言っても、温泉街によく見られる、浴衣に下駄をつっかけた、朝の散歩のような、お気楽なものではなく、貸切タクシーが迎えに来る10時半までの間に、徒歩で、湯の川温泉の近辺を観光してやろうという、野心的な試みです。 持ち物は、ウエスト・バッグに貴重品、ナップ・ザックにチケット・クーポン類と、折り畳み傘を入れて行きました。

  傘を入れて行って、応じ合わせ。 ホテルから出るなり、雨がパラパラ。 しかし、中止するほどの降りではないので、傘をさして、歩き出しました。 旅先で折り畳み傘を使うと、乾かすのが厄介ですが、この時は、もう最終日なので、濡れたら、ビニールに入れて、持ち帰ってしまえばいいわけで、気軽に使いました。 

  ホテルのすぐ横を流れている、「松倉川」に沿って、北上し、途中、軽くロストしたものの、そんなに広い地区ではない事に助けられて、すぐに復帰し、「湯の川温泉発祥の地碑」を見つけました。 1617年のが最古の記録だそうですが、「湯の川」は、アイヌ語の、「ユベツ(湯の川)」から来ているそうで、アイヌ人には、もっと古くから知られていたものと思われます。

  すぐ隣の、「湯倉神社」に上がりました。 読み方ですが、境内の説明板には、「ゆのくら」と書いてあるのに対し、ネットで調べると、この神社のホームページに、「ゆくら」と出ていて、どちらが正しいのか、判断できかねます。 大きな神社です。 函館には、神社でも寺でも、やたら、立派なものがあります。 狛犬が、新旧二組あり、古い方は、阿吽の並びが、逆になっていました。 私が知らないだけで、逆というのも、あるものなんでしょうかね? 新しい方は、アニメ・キャラ的な造形です。 狛犬のデザインは、世に連れて、変化が激しいですな。

  すぐ近くに、路面電車の「湯の川駅」があり、緑色の車両が停まっていました。 いや、路面電車の場合、駅ではなく、停留所ですか。 バスの停留所と区別して、「電停」とも言うようです。 「湯の川停留場」は、函館の路面電車の、東の端です。 この目で確かめたから、間違いない。 そういや、タクシーの運転手さんが言ってましたが、函館の路電は、段階的に減って、一時は廃止まで検討されていたのが、近年になって、エコや観光の方面から、見直され、逆に、延伸するという話が出て来たものの、今のところ、予算がないので、実現されていないのだとか。

  南下して、ホテルの近くの、「湯浜公園」という児童公園で、小用。 「そんな細かい事まで、書かんでもよい」と思うでしょうが、ここで、ちょっとした物を見たのです。 トイレの手洗い場の蛇口なのですが、壁から、表面処理も何もしていない、素地のままの水道管が、にょきっと飛び出しているだけ。 ところが、上に、センサーが付いていて、手をかざすと、オートで水が出るのです。 素朴にして、ハイテク。 センサーは市販品ですが、それを水道管と組み合わせた人は、密かに、凄い技師なのでは?

  ホテルの前を素通りし、松倉川を渡って、海岸の方にある、「函館市熱帯植物園」の前へ。 とはいうものの、まだ開園時間前ですし、たとえ、開園していたとしても、中には、入りません。 植物園は、札幌で懲りました。 それに、わざわざ、北海道で、熱帯植物を見せているという事は、ここは、観光客用ではなく、市民向けなのでしょう。 そういや、苫小牧にも、図書館の建物の中に、熱帯温室がありましたっけ。

1 最後の朝食
2 湯倉神社の新狛犬
3 湯倉神社の旧狛犬
4 湯の川停留所の路面電車
5 センサー水道管(左)/ 熱帯植物園(右)


  近くの、海岸を見下ろせる場所へ。 函館山が、すっぽり、雲を被っています。 昨夜も、こんな状態だったら、とても、夜景は見られなかったでしょう。 函館山は、そんなに高いわけではないのですが、こんなに深く笠を被るのは、不思議な事です。 雲ではなく、霧なんでしょうか? 海岸は、専ら流木系の細かいゴミが打ち上げられ、お世辞にも綺麗とは言えません。 沼津の海岸と、いい勝負です。 やはり、川の河口が近いと、いろいろな物が、流れ出して来るようです。

  その後、「根崎公園」という所に寄ったんですが、この公園は、児童公園と、野球場、ラグビー場が合わさった、スポーツ公園で、観光客には、無縁の施設でした。 再び、松倉川の土手に出て、ホテルへ戻りました。 約一時間の散策でした。 ああ、いけない! こんな、ささやかな散歩の記述に、こんなに行数を費やしてしまった! まだ、タクシーが、迎えに来てもいないというのに・・・。

  まだ、時間があるので、横になり、テレビを見ます。 沖縄では、日テレ系がなくて、地デジ民放は3局でしたが、北海道では、逆に、テレ東系がプラスされて、5局見れます。 NHKと合わせると、7局。 でも、土曜の午前中というのは、どこの局でも、大した番組はやっていません。 ちなみに、このホテルのテレビは、地デジのみ。 でも、BSが映ったとしても、やはり、この時間帯では、テレビ・ショッピングしかやっていなかったでしょう。


≪出迎え≫
  荷物を纏め、10時15分に、ロビーへ下りました。 最後のホテルで、最後のチェック・アウト。 追加料金は、なし。 すでに、タクシーが来ているとの事。 外へ出ると、大仰にも、入口前にタクシーが横付けされていました。 一瞬の錯覚ですが、VIPになった気分。 同じ貸切タクシーの運転手さんでも、契約時間にならなければ、乗せない人と、「早い分には、構わない」という人の、二種類があって、函館の運転手さんは、後者でした。 まだ10分前でしたが、すぐに、出発。 夜景の感想を話しながら、市街地へ向かいます。


≪函館朝市≫
  この日はもう、観光地のクーポンは持っていないので、完全に、運転手さん任せです。 まずは、函館駅の隣にある、「函館朝市」という、商店街へ。 飲食店・その他の店が、400軒も集まっているとの事。 40軒でも多いと思いますが、その10倍とは、たまげるばかり。 私が行った時にも、結構、観光客がいましたが、運転手さんに言わせると、「今日なんて、少ない少ない。 普段は、あんなもんじゃないです」との事。 那覇の、「国際通り」みたい。 日本は、人口減少中とはいうものの、いる所にはいるもんですな。

1 函館駅、逆光御免
2 朝市


  市役所の前を通ると、「北海道新幹線」関係の横断幕が掲げられていました。 北海道新幹線は、2016年には、函館まで開業するそうですが、その駅が、函館市ではなく、西隣の北斗市に出来る事になったため、駅名をどうするかで、揉めに揉め、結局、「新函館北斗駅」になる予定なのだとか。 北斗市は、平成の大合併で出来た市です。 今風で、いい名前だとは思いますが、全国的な知名度となると、ほとんどないのが、現状。 「新函館北斗駅」と言われても、後ろの「北斗」が、所在自治体の名前である事に気づく人は、あまりいないのでは?


≪教会群≫
  函館山の裾野に、教会群があり、そちらに向かいました。 車で、ざっと回って、説明を受けた後、私一人、車を下りて、徒歩で、見て回りました。 まずは、「カトリック元町教会」。 三角屋根の礼拝堂に、尖塔形の鐘楼と、「いかにも、教会」という形をした教会です。 無料で、中に入れるとの事でしたが、土禁だったので、パス。 この一帯、洋風木造建築が多く、石畳の道路と相俟って、エキゾチックな雰囲気に満ちています。

  この一帯、洋風木造建築が多く、石畳の道路と相俟って、しっとりと落ち着いた、異国情緒に満ちています。 ところが、次に行ったのは、「東本願寺 函館別院」。 寺じゃん。 しかも、鉄筋コンクリート造り。 1945年(大正4年)に建てられた、日本初の鉄コンの本堂だとの事。 でも、日本ビリでもいいから、木造の方が、お寺っぽいですな。

  次に、「日本聖公会函館聖ヨハネ教会」。 長い名前で、名前を読んだだけで、それ以上、深く知りたいと思う気力が失せますが、現物は、一目見ると忘れないような、特徴的な形をしています。 白い立方体を組み合わせた本体に、蒲鉾を十字に組み合わせたような赤い屋根。 上から見ると、赤い十字架に見えるとの事。 宗派は、イギリス国教会です。

  教会自体は、明治初期からあるらしいですが、今の建物は、1979年に出来たのだそうです。 道理で、モダンなわけだ。 今や、「モダン」という言葉自体が古臭くなってしまいましたが、この教会の場合、その、微妙に古い感じまで含めて、モダンという形容が、ぴったり来ます。

  最後が、大抵の人が、一度はその名を聞いた事がある、「ハリストス正教会」。 「ギリシャ正教の教会」と書いてあるガイド・ブックがありますが、正確には、ロシア正教です。 まあ、系統的には、どちらも正教なので、同じ宗派ですけど。 正教というのは、東ローマ帝国で受け継がれていた、正統派のキリスト教の事。 意外なようですが、プロテスタントや、イギリス国教会は言うに及ばず、ローマ・カトリックさえも、キリスト教としては、傍流です。

  ここが、なぜ有名かというと、建物が美しいからです。 「ロシア風ビザンチン様式」というのだそうですが、クレムリンのような派手さはないものの、壁の白と、屋根の緑のツートンで、華麗さと渋さが、見事に調和しています。 ここも中に入れるようでしたが、土禁で、しかも、撮影禁止、とどめに、拝観料200円を取っていたので、パス。 運転手さんの話では、密出国して、渡米する前の新島襄が、この教会の神父に匿われていたとの事。 しかし、私は、≪八重の桜≫を、ちょこっとしか見ていなかったので、ピンと来ませんでした。

1 カトリック元町教会(左)/ 洋風木造と石畳(右)
2 東本願寺 函館別院
3 日本聖公会函館聖ヨハネ教会(左)/ ハリストス正教会、正面(右)
4 ハリストス正教会、側面


  タクシーに戻る途中、若い女性に呼び止められ、カフェの割引券を貰いました。 近所にあるとの事で、道順を詳しく説明してくれたのですが、私は、貸切タクシーで動いている身ですから、勝手に予定を狂わせられません。 いや、それ以前に、カフェに入るほど、太っ腹ではなく、何か飲みたかったら、迷わず、自販機を探す性質なのです。 で、詳しい説明をされるのが、心苦しくてなりませんでした。 かといって、途中で遮ると、却って、気を悪くしそうだし。 こういう時は、ほとほと困ってしまいます。


≪函館の坂≫
  この辺り、有名な坂が三つあります。 石畳と街路樹の美しさで、「日本の道百選」に選ばれているのが、「大三坂(だいさんざか)」。 それが、上の方へ行って、道幅が狭くなると、「チャチャ登り」になります。 「チャチャ」というのは、アイヌ語で、お爺さんの事で、傾斜が急で、登っていると自然に腰が曲がって来て、お爺さんのように見えるから、そんな名が付いたのだとか。

  もう一つは、大三坂より、一本西側にある、「八幡坂(はちまんざか)」で、別名、「チャーミー・グリーンの坂」。 前の晩の夜景ツアーの帰り、ガイドさんが、「チャーミー・グリーンの宣伝で、お爺さんとお婆さんが、手を繋いで跳ねていた、あの坂です」と、説明していたのですが、その時は、夜だったので、よく分りませんでした。 タクシーの運転手さんは、「ここも有名ですよ」と言って、私を入れて写真を撮ってくれましたが、「チャーミー・グリーン」という言葉を使わなかったので、その坂がそうだとは分からず、家に戻ってから、写真と地図を突き合わせて、そうだと分かった次第。

1 大三坂
2 チャチャ登り
3 チャーミー・グリーンの八幡坂



≪旧函館公会堂≫
  前日、「旧イギリス領事館」に行った時、少し上に、大きな木造洋館があり、「函館公会堂」だと教えられたのですが、今度こそ、そこへ向かいました。 正確には、「旧函館区公会堂」。 1907年の大火で、前の建物が焼けた後、近所に住む資産家が、5万円寄付し、市民が8千円出して、計5万8千円で建てられたもの。 ちなみに、当時の5万円というのは、今で言うと、2億円くらいだそうです。 「コロニアル様式」というのだそうですが、白い壁に、窓枠やバルコニーの手すりが、黄色く塗られ、華麗な雰囲気を醸し出しています。

  この黄色い部分ですが、以前は、別の色だったのを、1980年の解体修理の時に、ペンキを削って行ったら、一番下に黄色が現れたため、建築当時の色として、復元されたのだそうです。 中は、ぶち抜きの大広間で、舞踏会ができるようになっていたのだとか。 夜は、ライト・アップしているそうで、その写真も、掲示してありました。 親切な事です。


≪函館中華会館≫
  次に、「函館中華会館」。 煉瓦造りの、重厚そうな建物。 華人の集会所として建てられたとの事。 さりげない所にあります。 37年前の、母が買ったガイド・ブックに載っていたので、停車してもらって、写真だけ撮ってきました。 まだ、清の時代、本国から職人を呼んで、本国から持って来た材料を使い、釘を一本も使わずに建てたのだとか。 たぶん、基本木造で、煉瓦を、壁材として使っているのではないかと思います。 ここ以外にも、同じ様式で造った塀が見られました。 同じ職人達が造って行ったのか、それとも、日本人が真似て造ったのかは、分かりません。


≪外人墓地≫
  なるほど、あれだけ、教会があれば、外国人も多かったわけで、墓地があっても、不思議ではありません。 横浜も、神戸も、長崎も、開港地は、みな同じか。 昔は、船便しかないわけで、死が予測されても、おいそれと帰るわけには行かなかったんでしょう。 きっと、本心では、帰りたかったでしょうねえ。 誰か故郷を思わざる。

1 旧函館公会堂
2 函館中華会館
3 外人墓地、後ろから


  他に、お寺を幾つか、前だけ通りましたが、説明されたエピソードを忘れてしまいました。 名前だけなら、「高龍寺」とか、「地蔵寺」とか、覚えているんですがねえ。 貸切タクシーに乗る時には、カメラの他に、録音機が入り用ですな。 海の近くへ下りて、「新島襄 海外渡航の地碑」を、走りながら、一瞬だけ見ました。 「停まってください」と言えば、停まってくれたんですが、なにせ、私が、≪八重の桜≫を見ていなかったものだから、写真を撮るほど、新島襄に思い入れがないと来たもんだ。


≪金森赤レンガ倉庫群≫
  これは、港にあります。 いや、港と言っても、函館の港は、広いのですが、函館山側の付け根辺りですな。 赤煉瓦造りの倉庫群の一角が、そっくり残されていて、中は、土産物店や飲食店になっています。 土産物と言っても、ここでも、やはり、「これが、函館!」といったものはなくて、アクセサリー類が中心でした。 倉庫の正面には、「¬森(かねもり)」というマークが入っていて、どうやら、その会社が、運営している様子。

  ここでも、タクシーを下りて、私一人で、見て歩きました。 時間は、40分くらい。 しかし、何も買う気がないので、見るだけだと、時間が余ってしまいます。 通りを挟んで、向かい側にある、「西波止場」という商業施設にも行きましたが、そこには、食べ物系の土産物店が入っていました。 いやあ、この期に及んで、カニは買えませんや。 今までの、節約が、水泡に帰してしまいますがな。 通りに出て、うろうろしていたら、ホルスタイン模様のタクシーを発見。 後で調べたら、「モーモー・タクシー」と言って、北海道の観光振興で、やっているのだそうです。

1 金森赤レンガ倉庫群
2 内部
3 モーモー・タクシー
4 旧函館郵便局舎


  待ち合わせ場所の、「旧函館郵便局舎」前で、タクシーに乗車。 いよいよ、この旅、最後の観光地である、「トラピスチヌ修道院」へ向かいます。 場所は、湯の川温泉よりも東で、赤レンガ倉庫群からは、そこそこの距離があります。 実は、朝の散歩の時、案内標識に、「トラピスチヌ修道院 ○km」とあるのを見て、○の部分が、2だったか、2.6くらいだったか忘れてしまいましたが、歩いて行けそうな距離だったので、一瞬、強行軍をやりたい衝動に駆られたのです。

  朝の時点では、運転手さんが、どこを回るつもりなのか、知らなかったので、そう思ったんですが、やめておいて、正解でした。 たとえ、2キロだったとしても、往復で、4キロ、1時間以上かかるわけで、えらい無駄なエネルギーを使うところでした。 有名な所だから、観光タクシーのルートに入っていないわけがなかったのです。

  途中、運転手さんに、函館にゆるキャラはいないのか訊いたら、「さあ、いるんだかいないんだか・・・」という返事。 そこから、「ふなっしー」の話題になり、

「収入が凄いらしい」
「マネージャーはいるのか」
「自分でやっているとしたら、移動はどうしているのか」
「あの格好で、車を運転しているのか」
「捕まえた警官は、ビックリだ」
「どこで着替えているのか」
「家から、あの格好で出て来るのか」

  といった議論が白熱しました。 いや、まあ、それだけの事なんですがね。


≪トラピスチヌ修道院≫
  12時40分頃に、到着。 少し山に入った、とても、静かな所です。 舌を噛みそうな名前ですが、元の単語である、「トラピスト」というのが、カトリックの修道会の一つで、その女性版が、「トラピスチヌ」なのだそうです。 今でも、60人ほどが、修道生活をしていて、農牧業で自給自足しているとの事。 本来なら、観光地にはなり得ないのですが、観光業界の方がお願いして、建物の外観と、庭園だけ、公開してもらっているのだそうです。 入場は、無料。

  ここでは、運転手さんが、中まで一緒に来て、写真を撮ってくれました。 タクシーを停める駐車場がある所では、そういうサービスをしてくれるんですな。 函館の観光地は、街なかの史跡が多いせいか、どこも駐車場がなくて、車を離れると、違反切符を切られてしまうので、解説したくても、ついていけないのだと漏らしていました。

  その後は、私一人になり、建物の外観と、庭園、資料館を見て回りました。 敷地は山の斜面にあって、奥に行くに従い、高くなります。 建物は、複雑な形状をしており、大勢が住んでいるだけあって、かなりの大きさです。 壁は、煉瓦造りのように見えますが、本当に煉瓦なのか、煉瓦模様なのか、素人には判断つきません。 庭園は、建物によく似合う、落ち着いた造りで、大変、綺麗に整備されています。 絶妙の配分で、「聖ミカエル」、「聖母マリア」、「ルルド」、「リジニーの聖テレジア」の像が設置してあり、撮影ポイントになっています。

  資料館は、売店の建物の奥にあります。 ここにある写真で、修道生活の一部を垣間見る事ができます。 ほんとに、農業やってるんですねえ。 修道生活について、絵入りで解説されたパネルがあり、「午前3時半、起床。 午後7時、就寝」とありました。 うちの両親などは、そんなパターンで暮らしていますが、若い内は、辛いでしょうねえ。 売店では、修道院で作った、お菓子や、手芸品を売っています。

1トラピスチヌ修道院
2 庭園、上から
3 聖母マリア像(左)/ 売店・資料館(右)


  少し、時間が余ってしまったので、庭園のベンチで、10分ばかり、ぼーっとして過ごしました。 「もう、二度と、北海道に来る事もないだろうなあ・・・」といった事を考えていました。 時間が来たので、タクシーに戻り、つつがなく、全ての観光が終了。 そこから、10分くらいの距離にある、「函館空港」まで送ってもらいました。


≪函館空港≫
  運転手さんは、「小さい空港だから、絶対、迷う心配はない」と言っていましたが、着いてみると、結構、大きなターミナルでした。 私が行った事がある中で、大体、同じ規模というと、「宮古空港」でしょうか。 宮古空港が、伝統建築風の屋根を載せていたのに対し、こちらのデザインは、完全に現代建築でした。 中は、割とシンプルで、確かに、迷う事はなさそう。

  日本航空のチケットなのに、間違えて、全日空のチェックイン・マシンに行ってしまい、全日空の係の人から、にっこり笑顔で、「日航の方へどうぞ」と言われてしまうという、ポカをやらかしました。 今回の旅は、4回、飛行機に乗った内、3回までが、全日空だったので、てっきり、最後もそうだろうと思い込んでいたんですな。 でも、空港では、この程度の事は、恥の内に入りません。 ほとんどの利用者にとって、空港は、非日常的空間なのですから、間違いが起こるのは、当たり前なのです。 

  着いたのが、午後1時半頃で、飛行機は、15:05発ですから、かなり、時間があります。 空港で、ラーメンを食べるつもりだったのですが、一番安いのでも、800円と、想定より高かったので、断念。 空港内にあったコンビニで、「ピザソース ちぎりパン」を100円で買って、済ませました。 続いて、売店へ行き、家への土産に、「白い恋人」の一番安い箱を、576円で買いました。

  時間があったので、展望台も見て来ましたが、驚いた事に、ここの展望台は、ビヤ・ガーデンになっていました。 凄いアイデアもあったもんだ。 しかし、もし、これから搭乗する客が、ビヤ・ガーデンで、一杯引っかけているのだとしたら、飛行機の中で、近くに座った人は、たまったもんじゃありませんな。 とはいえ、客の飲酒は、別に禁じられているわけではないので、そういうケースも、実際に起こっていると思います。


≪函館から、羽田まで≫
  帰りの飛行機は、≪B777-200≫で、私が苦手になりつつあった大型機でした。 大型なら大型であるほど、安心できるというわけでもない事が分かってしまうと、大型機というのは、乗る人数が多い分、不愉快な場所になります。 搭乗や降りる時の混雑では、辺りの空気が殺伐として、怖いくらいです。 「数の暴力」という言葉は、こういうケースでも使えるのでは?

  この機体は、新品なのか、改造したのか分りませんが、内装が真新しくて、シートは黒の革張りになっていました。 しかし、革張りだからと言って、別に乗り心地がいいというわけではありません。 むしろ、ありがたかったのは、子供連れが、ほとんどおらず、静かな飛行を楽しめた事です。 まったく、他人のガキほど、有害なものはない。

1 函館空港
2 展望ビヤ・ガーデン
3 ≪B777-200≫
4 機内


  私の席は、中央列の右端で、窓際ではなかったのですが、まあ、北海道から羽田に戻る時の地上の眺めは、前に一度見ているから、もういいでしょう。 それより、私の左隣の席が、またしても空席だったのが、不気味な程に、幸運でした。 この時は、函館空港のチェックイン・マシンで、座席を選んだので、○△商事の担当者は、確実に無関係です。 「隣席空席率」の記録保持者になれるのではないかと思いました。

  ドリンク・サービスは、キウイ・ジュースを貰い、その後、希望者にだけ注いでくれる、アップル・ジュースも貰いました。 最後だから、貰える物は、機会を逃しません。 それにしても、希望者にくれるジュースは、どの航空会社も、なぜ、アップルと決まっているんでしょうか? 仕入れ値が安いんですかね?

  後は、順調な飛行。 僅かに遅れただけで、羽田に、無事、着陸しました。 羽田に下りるのは、四回目。 もはや、何の感動もありませんが、ここへ来るのも、最後だと思うと、そちらの方で、若干の感慨あり。 まず、間違いなく、私は、この後の人生で、再び、飛行機に乗る事はないでしょう。


≪羽田から、家まで≫
  空港の地下に下りて、京急の「エアポート快特」で、品川駅へ。 最後こそは、エアポート快特に乗れました。 国内線ターミナル駅を出たら、停車するのは、国際線ターミナル駅だけで、次は、品川駅ですから、頗る早いです。 そういえば、この快特は、成田行きでしたよ。 空港と空港を結んでいたんですなあ。 これぞ、真のエアポート快特と言うべきか。 というか、エアポート快特って、みんな、そうなんですかね? 鉄道に興味がないので、調べる気になりません。 京急の線路が、どこを通って、都心を突破しているのか、それも不思議な感じがしますが、これまた、調べる気になりません。

  品川駅では、乗り換え改札を通りましたが、この時は、記念に切符が欲しかったので、京急の係員に言って、まず、切符に、「無効」のスタンプを押してもらい、その上で、「精算済証」と印字された、代わりの切符を貰って、JRの乗車券と重ね、自動改札機に入れました。 機械を通って出て来るのは、JRの乗車券だけです。 つまり、「精算済証」と印字された切符は、機械に入れる為だけに、くれるわけです。 この仕組みは、7ヵ月前、北海道応援から帰った時に、経験していました。

  「旅行に使った切符は、全部、貰って来てしまった方が、記念になって良い」と思いついたのは、沖縄旅行から帰った後でして、北海道旅行では、一枚も漏らさず、貰って帰って来ました。 別に、理由を言わなくても、改札の横にいる係員に、「これ、欲しいんですが」と言えば、スタンプを押したり、パンチ孔を開けたり、その両方をしたりした上で、フツーに、くれます。 こういう物も、保存しておけば、当時の運賃が分かったり、日付の確認になったり、後々で見返した時、結構、面白いものです。 何もせずに、機械に入れてしまったら、取られて、それっきりですけんのう。

  そういや、この時、乗り換え改札にいた、京急の係員は、50歳くらいの女性でしたが、私が、切符を持って近づくと、「ここで終わりです」と言い、「いや、切符が欲しいんですけど」と言ったにも拘らず、「ここで、終わり!」と繰り返し、もう一度、「切符が欲しいんですが」と言ったら、「え? なに?」と訊き返されたので、少し大きめの声で、「切符が欲しいです」と言ったら、三度目の正直で、ようやく通じました。 人の話を聞け、というのに。 それにしても、「ここで終わり」って、どういう意味だったんでしょうね? ちなみに、そんなに手こずったのは、この人だけで、普通は、あっさり話が通じます。

  新幹線ホームへ出て、17:34発のこだまに乗って、三島へ向かいます。 今度こそ、三島駅で、階段の近くに下りられるように、後ろの方の車両に乗りました。 車内では、礼文島で買ったハッカ飴の、最後の数個をなめつつ、最後の日記を書いていました。 三島着が、6時20分くらい。 乗った車両が後ろ過ぎて、三島駅では、また、少し歩く事になりましたが、方向は正しかったです。 どのみち、自由席車両では、階段のすぐ近くには停まらないのだという事を、最後の最後に知った次第。

  三島駅から、東海道本線で、沼津駅に着いたのが、午後6時40分くらい。 沖縄旅行の時は、夜中の10時過ぎで、バスがなく、家まで歩きましたが、今回は、早かったので、ゆうゆう、バスに乗れました。 ただ、出発時刻が早いバスを選んだせいで、普段利用するのとは違う路線に乗ってしまい、停留所から、家までの距離が、300メートルほど、遠くなってしまいました。 でも、まあ、その程度は、失敗の内に入りません。

  旅行鞄を背負って歩く道すがら、近所の神社で、盆踊りをやっているのが、目に入りました。 お盆は、とっくに過ぎており、正確に言えば、「盆踊りイベント」ですな。 私は、普段、暗くなったら、家を出ない生活をしているので、こんな事をやっているとは、全然知りませんでした。 土曜の夜は、自分の好きな事をして過ごしたい人も多かろうに、迷惑な行事である事よ。

  家に着いたのが、7時ちょい過ぎ。 居間にいた母に、土産の、「利尻昆布」と、「白い恋人」を渡し、ちょっと話をしてから、荷物を自室に運びました。 その後、風呂。 夕飯はスパゲッティーと、梨が二切れ。 新聞を読み、9時には、自室に引き上げて、コンセントを正常な状態に戻しました。 函館の和風ホテルで、途中まで見た、≪匿名探偵≫は、録画してありませんでした。 残念! 後半は、分からずじまいか・・・。 その日は、何もせず、10時前には、眠りました。

1 羽田空港
2 品川駅で、貰った切符と、精算済証
3 沼津駅
4 バスの中(左)/ 利尻昆布と白い恋人(右)





≪六日目、まとめ≫
  函館の感想ですが、観光資源が、これだけ集中している街も珍しいと思います。 自然景観こそ、立待岬だけですが、歴史的・文化的遺構が、うじゃうじゃあって、名前だけでも、覚えきれないほどです。 教会のような、特殊な施設でなくても、洋式木造風の建物が、普通の住宅地に、古い姿のまま、普通に残っていて、「この中の一つでも、沼津にあれば・・・」と思わずにはいられませんでした。

  運転手さんが、「函館の人間は、昔から、西洋かぶれだったんだな」と言っていました。 残っている多くの洋風建築を見ると、確かにそう感じるのですが、言い換えれば、異文化を取り込むのに積極的だったわけで、相対的な見方ができる証拠とも言えます。 そのせいか、この運転手さんには、二日間で、計6時間、お世話になったわけですが、これだけ、見所が多い街なのに、自慢話の類を、ほとんど聞きませんでした。 街が洒落ていると、人も洒脱になるものと見えます。

  帰りは、飛行機に乗ってしまえば、後は、何度も経験したルートなので、これといって、事もなし。 5泊6日でしたから、心身ともに、沖縄の時より、軽微な消耗で、帰って来れました。 強行軍も控えたから、怪我や足腰のダメージも、ほとんど、なし。 終り良ければ、万事良しといったところ。



≪沖縄・北海道旅行を終えて≫
  やれやれ、やっと、福利ポイント消化の旅が、完結しました。 旅行の総括は、一回分に独立させて、書こうと思っていましたが、今回、本文が短かったので、ついでに書いてしまいましょう。 なーに、そんなに長くはなりません。

  沖縄も北海道も、ほとんど人任せで作ってもらった計画でしたが、利尻島や礼文島など、自分の発想では絶対に行かないような所にも行けたおかげで、見聞が広まったのは確かです。 リゾート・ホテルやビジネス・ホテルが、どういう所かも分かったし、貸切タクシーが、観光手段としては、最高の贅沢なのだという事も認識しました。 地元の人から、マン・ツー・マンで、直截話を聞けるというのは、他の乗り物では、望むべくもありません。

  沖縄も、苫小牧以外の北海道も、福利ポイントの残りがなければ、たぶん、行かないまま、人生を終えていたと思うので、行けて良かったと思います。 沖縄の方は、昔、百科事典や琉球の歴史書で読んだ世界を、部分的ながらも、実際に、この目で見る事ができて、嬉しかったです。 「今帰仁城」なんて、自分で見て来た事が、今でも、信じられないくらいです。 一方、北海道の方は、知らなかった事が多くて、この旅行は、大いに勉強になりました。

  食べ物は、どちらもおしいかったです。 沖縄だと、「八重山そば」、「宮古やきそば」、本島の、「ソーキそば」、「サーター・アンダギー」、「フー・チャンプルー」、「ゴーヤ・チャンプルー」、「四川料理」・・・、 うーむ、懐かしい。 北海道は、利尻島のホテルのコンブラン、礼文島の寿司屋で食べた、「しょうゆラーメン」、稚内の、「ホタテ塩ラーメン」、運転手さんから貰った、「茹でたトウモロコシ」、「鮭の燻製」・・・、失礼、涙が出て来てしまいました。 もう、二度と、食べれますまい。

  貸切タクシーの運転手さん達には、大変、よくしていただきました。 沖縄で3人、北海道で3人の運転手さんに、お世話になりましたが、どの方も、地元の事を熟知している上に、話題が豊富で、膨大な量の知識・情報を得る事ができました。 野宿ツーリングとは比較にならない、知的充足度でした。 一人客で、しかも、ケチなので、案内する側としては、物足りない事もあったのではないかと思いますが、その辺は、何分、御容赦のほどを。

  北海道の写真は、1660枚も撮って来ました。 沖縄では、9泊10日で1960枚、日当たり、196枚でしたが、北海道は、5泊6日ですから、日当たり、276枚も撮った計算になります。 長い旅行は、これが最後だと思っていたので、思い残す事がないように撮りまくって来た次第。 SDカードは、2GBのを入れて行ったのですが、最小サイズか、その一段上のサイズに設定していたので、これだけ撮っても、まだ、ゆとりがありました。 

  旅行中、さんざん気にしていた、自腹額ですが、沖縄では、17250円、北海道では、10340円で、総計、27590円でした。 私の感覚だと、たった、16日間の出費としては、どえらい金額なのですが、一般常識で考えると、3万円弱のお金で、パスポートなしで行ける、端から端まで旅行して来れたわけですから、不平を言うなど、以ての外なのかも知れません。

  沖縄の土産は、「沖縄そば」と、「紅芋タルト」、「ミニ・リアル・シーサー」の三点。 北海道の土産も、「利尻昆布」と、「白い恋人」、「掌サイズの、木彫りの熊」の三点。 シーサーと、木彫りの熊は、自分の記念用に買ったものなので、今は、二つ並べて、机の本棚の中に飾ってあります。

  だけど、本当の土産は、日記のノートや、撮って来た写真や、持って帰って来た、チケット・切符類、現地で貰ったパンフなどですかね。 今現在、北海道旅行から帰って来てから、すでに、2ヵ月半経っており、私の頭の中の記憶は、徐々に薄れつつあるのですが、これらの品は、今後、見返すたびに、強烈に、当時の事を思い出させてくれるでしょう。


  旅行が終わったのは、2ヵ月半前ですが、この旅行記は、今この時まで書いていたわけで、7月の下旬から、11月の半ばまで、4ヵ月近く、延々と、沖縄・北海道旅行の記憶と向き合って来た事になります。 回を追うごとに、文章が長くなり、自分でも参りました。 ホテルに泊まるような旅行は、これが最後だと思うと、「起こった事を細大漏らさず、書き留めておいた方がいいのでは・・・」という強迫観念に駆られ、かくの如き仕儀に至ったもの。

  全15回、いや、退職から旅行に至る経緯を書いた回を含めると、16回にも及び、この旅行記を書く事の方が、実際の旅行よりも、難行苦行だった事は、否定できません。 こーんなに、詳しく書かなくても、良かったんですよ。 「見聞きした事」や「起きた事」と、「思った事」を同列に書くから、こんなに伸びるのです。 本来、紀行文とは、「見聞きした事」と「起きた事」を中心に書き、「思った事」は、少し添える程度が、ちょうど良いのでしょう。

  ただ、紀行文というのは、そこへ行った事がある人なら、自分の記憶と突き合わせる形で、割と前のめりで読めますが、そうでない人には、全く面白くないという面があり、そういう人は、「見聞きした事」には、まるで、興味が湧かず、「起きた事」と「思った事」だけ、拾い出して読むという事になります。 だから、「思った事」も、疎かにできんのですわ。


  とにかく、旅行も旅行記も、大過なく終わってくれて、良かったです。 一生の記憶に残る、大変、いい経験でした。

「ああ、退職して、沖縄・北海道旅行に行けて、良かったなあ・・・」

2014/11/16

函館へ向かう

  北海道旅行記の、五日目です。 8月29日、金曜日。 この日の予定は、札幌から、鉄道で、函館に向かい、貸切タクシーに乗って、函館一日目の観光をする事になっていました。 長距離の移動の後に、観光というパターンは、気分的に億劫な感じがするのですが、観光の方は、3時間程度なので、朝の時点では、大した事はないだろうと思っていました。 ところが、函館のホテルに入った後で、予定外の所に行く事になり、ズルズルと、ハードな方へ雪崩れ込んで行きます。

  いや、前置きで、こんな事を詳しく書いても、仕方ないか。 面白いもので、前置きが、伸びに伸びて、5段落、10段落くらいになってしまう時もあれば、今回のように、これと言って、書く事がない時もあります。 旅行記なんだから、前置きなんて要らないような気もしますが、どうしてまた、伸びる時は、あんなに伸びるんでしょうねえ。

  「本文を書き始めたくないから、前置きが伸びるのだ」という説を、たった今、思いつきました。 そう言えば、今回は、公開日記用に、9月の初め頃に書いた文章を元に、加筆修正する予定なので、「これから、本文を書かなければならない」という、心理的負担が少ないのです。 なるほど、長い前置きは、「心理的逃避」だったのか。



≪ホテルの朝≫
  ぶつ切りに、眠ったり覚めたりしながら、5時過ぎに完全に目覚め、後は、テレビを見て過ごしました。 「ワールド・ニュースを見ていた」と、日記に書いてあるので、このホテルでは、BSも映ったんでしょう。 沖縄旅行の時は、まだ、≪こころ旅 2014年春シリーズ≫をやっていたので、BSが映るかどうかは、真っ先にチェックしたのですが、北海道の時は、これと言って見たい番組がなく、テレビは、「あればいい」という感じでした。 「もう、いいか」と思って、起き出したのは6時です。

  エアコンを一晩中、「強」にしていただけあって、洗濯物は、全て乾きました。 よしよし。 残り一泊ですから、これで、最終日までの着替えは確保できた事になり、この日の夜は、洗濯しなくても済みます。 そう考えただけでも、気分が楽。 手で洗濯するのは、なんで、あんなに、きついんでしょう。 昔の人は、よく、やっていたものです。 江戸時代の職人は、夏場、褌一丁で働いていたらしいですが、それは、洗濯物を減らすのも、大きな理由だったのかも知れませんなあ。

  6時55分に、朝食を食べに、1階に下りました。 このホテル2回目の朝食は、和定食に変更してもらっていたので、二日ぶりに、御飯にありつけます。 レストランに行ってみると、まだ、開店前で、ビジネスマン風の中年男性、三人連れと、旅行中と思われる青年一人が待っていました。 1分もせずに、開店し、席に案内されたのですが、壁際の席に、ずらりと並ばされたのは、体育館の小学生みたいで、ちと、恥ずかしかったです。 しかし、案内する側としたら、端の席から埋めて行くが、合理的なやり方なんでしょうなあ。

  前日同様、先に、水とオレンジ・ジュースを、セルフで注いで来ます。 料理は、8分くらいで来ました。 焼き豆腐、ピーマン、焼き魚の切り身、きんぴら牛蒡、卵焼き、煮豆、たくあんが、一皿に盛り付けられ、他に、御飯と味噌汁。 ああ、御飯だよ、二日ぶりだよ、こんなにうまそうに見える御飯は、一生に、そう何回もありますまい。 余計な事に、納豆が付いていましたが、白い御飯をそのまま食べたかったので、先に納豆だけ食べてしまいました。 ビジネスマン風の三人も和定食。 青年一人だけが、洋定食でしたが、気の毒に・・・。 この青年の食が細かった事を、祈って已みません。

  部屋に戻って、荷物を纏め、8時過ぎには、チェック・アウトしました。 最初に渡された、リセッシュ(消臭スプレー)は、意趣返し半分に、貰って行こうかと思ったんですが、スプレーの横に、サインペンで、「F」と書いてあって、どういう意味かは分からねど、「ホテルの備品である」という主張が感じられたので、フロントで返却しました。 本音を言うと、ホテル側の契約違反だったんだから、宿泊料金を、一割くらい、払い戻して欲しかったんですがね。 まあ、済んだ事は、良しとしますか。

1 朝食 和定食
2 煙草臭い部屋(左)/ リセッシュの「F」(右)



≪札幌から、函館へ≫
  函館へ移動する為に、札幌駅へ向かいます。 重い旅行鞄を背負っていても、ホテルから駅までは、やはり、10分くらい。 この近さは、何ものにも代えがたい便利さがありましたねえ。 さすが、ビジネス・ホテルだ。 基本的に、ビジネス・ホテルというのは、駅から徒歩で行ける距離に立地しているのかも知れませんな。 逆に言うと、ビジネス・ホテルがあれば、その近くには、必ず、駅があるわけだ。 ほんとかな? 今後、気をつけて観察してみる事にします。

  札幌駅、08:34発の、「特急 北斗6号」に乗ります。 沖縄でも北海道でも、長距離の移動は、飛行機だったんですが、この区間だけは、鉄道でした。 飛行機の便も、新千歳から函館までなら、たぶん、あると思うのですが、私が、去年の終りから今年の初めにかけて、仕事の応援で苫小牧に住んでいた事を、○△商事の担当者に話してあったので、その近辺を、車窓から見られるように、計らってくれたのではないかと思います。 ちなみに、鉄道で、札幌から函館へ向かうには、小樽を経由する方が、距離的には近いと思うのですが、特急は、そちらを通らず、太平洋側に出て、海岸線を回って行きます。

  ホームに上がると、北斗6号は、もう、停まっていました。 先頭に行って、写真を撮りましたが、先頭部分の色が青いだけで、普通の電車然としたデザインでした。 車内にあったパンフを見たら、同じ路線を走る、「スーパー北斗」の方は、「いかにも、特急」というデザインのようです。 ちなみに、どちらも、ディーゼル駆動。 電化してない区間があるんですかね? なにせ、鉄道に興味がないので、よく分かりません。

  函館駅までの所要時間が、なんと、4時間! 長いなー。 座席は指定席で、「2号車 3番A席」。 右の窓側でした。 苫小牧から先、左側は、ほとんど、海ですから、変化がある山側が見れる右側席は、お得と言うべきでしょう。 指定席車両は、座席も高級で、新幹線のそれと、ほぼ同格でした。 ただし、走る線路は在来線なのであって、乗り心地は、それなりです。 特急と言っても、スピードが、普通列車より、格段に速いというわけではなく、停まらない駅が多いから、その分、早く着くというだけの話のようです。

  車内は、七割方、席が埋まっていました。 札幌・函館間、8830円と、決して安くないのに、指定席を買う人がこんなにいるとは、驚きです。 社用で、経費で落ちるんでしょうか? ビジネスマンばかりではなかったような気がしますが。 幸いにも、私の隣の席は空いていて、余計な神経を使わずに過ごせました。 飛行機でも、鉄道でも、隣に人がいるといないとでは、大違いです。 隣席との境に、肘掛けが一本しかないのは、どういう設計理念なんでしょうねえ? 半分ずつ使うんですか?

  出発する前から、腹の調子が悪くなり、トイレへ行ったのですが、レバーを引いても、ドアが開かず、「壊れているのか?」と思って、何度もやっていたら、中から、ノックの音が・・・。 使用中だったんですな。 これは、失礼しました。 交通機関の中で、トイレを使うのが、何十年かぶりだったので、使用中である可能性を、完全に失念していました。 よく見れば、ドアの横に、「使用中」という文字が出ていたんですがね。

  ところが、その後、三回行って、三回とも、使用中。 三回目には、お婆さんが外で待っていて、「いつまで経っても空かない。 大丈夫だろうか?」と言うので、私が、ノックしてみたら、中から、ノックが返って来ました。 意識を失っているわけではない様子。 また、席に戻って、待ちます。 その内、いかにも、「すっきりした」という歩き方の男が、席に戻って行ったので、ようやく出たと分かった次第。 それにしても、出発前から、20分くらい、トイレを占拠していたわけで、迷惑な奴もいたものです。

  お婆さんが出た頃を見計らって、トイレに行き、ようやく、入れたのですが、中は、洋式でした。 今は、みんなそうなのかもしれません。 除菌液があったので、それをトイレット・ペーパーにつけて、便座を拭き取ります。 衛生上の心配がなくなるのはいいんですが、トイレのたびに、誰が座ったか分からん便座を拭くのは、あまり、気分のいいものではありませんな。 何とか、除菌が自動にならないものか。

  席に戻って、しばらく走ると、とある街に入り、「上組」という看板が出ている大きな建物が見えました。 苫小牧にも、同じ会社があったので、「へえ、ここにもあるのか」と思っていたら、そこが、もう、苫小牧でした。 思ったより、早く来てしまった。 慌てて、カメラを出しましたが、駅前の、ドン・キホーテを撮るのがやっとでした。 頂上にプリンを載せた、「樽前山」や、白老町の、「ポロトコタン」、登別の水族館、「マリンパークニクス」など、懐かしい風景が、次々と、目に入って来ます。 しかし、窓の外を、夢中で見ていたのは、そこまででした。

  知らない土地に入ってしまうと、鉄道の旅は、単調です。 鉄男や鉄子が、どうして、あんなに燃えるのか、気が知れません。 下りなければ、その土地の事は分からないのですが、全ての駅に下りるわけにも行きますまいに。 また、特急の指定席車両で、4時間という長い旅でありながら、何のサービスもないのですから、飛行機とは、雲泥の差です。 「これから、○○のサービスに参ります」という放送があっても、それらは、全て、有料なのです。 これでは、飛行機に勝てないでしょう。 原価、数円のドリンク・サービスだからといって、侮ってはいけません。 それが、「また、乗りたい」という気持ちを、客に起こさせるのですから。

  伊達紋別駅を過ぎると、「有珠山」らしき山が見えて来ましたが、車内アナウンスがあるわけではないので、本当に有珠山なのかどうか、分かりません。 この点、観光バスや、貸切タクシーに、遠く及びませんな。 鉄道会社というのは、車窓の眺めなんか、どうでもいいと思っているんじゃないでしょうか。 どうせ、客室乗務員を乗せているのなら、鉄道グッズなんか売らせるより、車内放送で、簡単なガイドをやらせた方が、ずっと、受けがいいと思います。 「観光客ばかりではないから」? いやあ、移動だけが目的の客でも、ガイド放送を嫌がったりはしないと思いますよ。 大体、移動だけが目的なら、それこそ、飛行機の方を選ぶでしょう。 列車の揺れを、4時間も我慢する理由はありません。

1 特急 北斗6号(左)/ 指定席の座席(右)
2 樽前山のプリン
3 推定・有珠山

  この辺り、左側は、ほとんど、海でした。 電車から見る海の景色というのは、そんなに何分も、眺め続けていられるものではないんですわ。 変化がありませんから。 漁船が、ちょこちょこと、目に入りますが、他には、崖が見えるわけでもなければ、島が見えるわけでもなく、この上なく、退屈。 閑で仕方ないので、日記を書いていましたが、すぐに、現時点に追いついてしまい、書く事がなくなりました。 礼文島で買った、ハッカ飴の残りをなめつつ、ぼけーっと過ごします。

  その後、洞爺、長万部、八雲、森と停車し、そこから、内陸へ南下して行きます。 ちなみに、長万部から先は、「渡島半島」に入ります。 北海道を手で持つと仮定した時に、取っ手の部分に当たる所が、全部、渡島半島です。 範囲が広いので、半島という感じがせず、こんな名称がある事自体、全国区では知られていません。 「ははは! 『としま』じゃなくて、『おしま』って読むんですよ」などというツッコミを受ける以前に、渡島半島自体を知らないのですが、北海道民は、そんなに知名度が低いとは、思ってもいないでしょうなあ。

  次の大沼公園駅は、 大沼・小沼という沼があり、そこへ来る客のためだけに作られたと思われる駅。 大沼と小沼の間を、線路が通っています。 そこを過ぎると、もう、函館に繋がる平野に入ります。 田畑が広がっていて、何となく、本州的な風景です。 五稜郭駅を過ぎ、函館駅に着いたのが、12時半。 函館駅は、ホームが湾曲していて、いかにも、絵になりそうな駅でした。 しかし、鉄道に興味がない私は、するっと、スルーです。 貸切タクシーが待っているので、芸術写真なんか狙っている暇はない。

1 大沼・小沼の、小沼の方
2 函館平野北部
3 函館駅ホームの湾曲


≪貸切タクシー≫
  運転手さんは、改札の外で、名札を掲げて待っていました。 北海道では、四人の運転手さんにお世話になりましたが、全員、私の名前を、カタカナで、デカデカと書いた名札を持っていました。 初対面の相手を探すわけですから、名札を用意するのは、無理もないのですが、何となく、恥ずかしいのは、私だけで、向こうは、仕事だから、何とも思っていないんでしょうか。 函館の運転手さんは、私と会うなり、目を丸くして、言いました。

「一人?」
「はい」

  先に立って歩き出したものの、すぐに振り向いて、

「一人?」
「はい」

  ちょっと間を置いてから、また、振り向いて、

「ほんとに、一人?」
「はい」

  くどい、っつーに。 つまり、函館では、貸切タクシーを、一人で頼む人間など、まず、いないという事なんでしょうな。 クーポンには、ちゃんと、「大人 1名様」と書いてあるんですが、この運転手さんは、個人タクシーなので、細かい情報まで、伝わっていなかったんでしょうか? いや、それにしては、傘を二本、持って来ていました。 一人とは分かっていたものの、半信半疑だったんですかね?

  駅から出ると、雨がポツポツ降っていましたが、濡れるほどの降りではなかったので、傘はささずに、車まで、そのまま歩きました。 車は、黒のクラウンです。 個人タクシーだからでしょうが、高い車を使っています。 この車、オーナー・カーだと、コンセプトが中途半端で、パッとしませんが、黒塗りのタクシーにすると、迫力があって、大変かっこよく見えます。

  この日に、3時間、翌日に、3時間の貸切契約です。 この日の分のクーポンを渡すついでに、「五稜郭タワー」と、「旧イギリス領事館」の、入場クーポンを見せました。 この二枚、○△商事から、送られて来た物ですが、8月29日、つまり、この日の日付が入っており、他の日では使えない可能性があるのです。 運転手さんは、困った顔をしました。 二日に分けて函館を観光する場合、無駄なく回れる最適なコースというのが、当然あるわけですが、運転手さんが考えていたコースでは、五稜郭と旧イギリス領事館を、初日に回るのは、ありえねー組み合わせだった模様。


≪五稜郭タワー≫
  とはいえ、そこはプロで、すぐに、コースを組み直し、まず、五稜郭へ向かう事になりました。 五稜郭は、昔は、函館郊外の、何もなかった所に造られたらしいのですが、今では、周囲をびっしり、市街地に埋め尽くされていて、運転手さんの話では、「ちょっと中の方に入ると、飲み屋ばっかり」なのだとか。 五稜郭タワーは、すぐに見えて来ました。 運転手さんに付き添われて、チケット売り場まで行き、そこからは、一人で上に上がります。

  このタワー、下が、地上1階と地上2階、上が、展望1階と展望2階の、合わせて、4フロアあるのですが、エレベーターで上がる時には、地上1階から、展望2階へ上がり、下る時には、展望1階から、地上2階へ下ります。 展望2階から展望1階、地上2階から地上1階に下りるには、階段を使います。 ややこしいですが、現場に行けば、他に、上がりようも下りようもないので、混乱する事はありません。

  エレベーターは、30人乗りが二基ありました。 ドアは、地上1階にも、展望2階にも、二つあるんですが、地上1階から乗れるようになっているのは、一基だけでした。 もしかしたら、二基を、上り専用と、下り専用で、分けているのかもしれません。 もし、そうだった場合、図で表すと、こんな感じになります。 「↑・↓」は、エレベーター、「\・/」は、階段です。

□展望2階
↑ \
↑   □展望1階
↑   ↓
↑   ↓
↑   ↓
↑   □地上2階
↑ /
□地上1階

  なんで、こんな方式にしているかというと、土産物の売店の前を通らせるためというのも考えられますが、それ以上に重要な理由は、エレベーターを効率よく動かすためでしょう。 30人乗りともなると、途中階で停止させていたら、奥に入った人を下ろすのに、時間がかかって仕方ありません。 この方式なら、途中階がなくなるので、乗る時には、全員が乗り、下りる時には、全員が下りるパターンになって、混乱が起きません。 満員になってから、動くので、係員が操作します。 昔懐かしい、エレベーター・ガールですな。

  そういや、私が上がる時、最後に乗り込んで来た家族連れがあったのですが、その中にいた、小学校低学年くらいの女児が、「満員だから、乗りたくなーい!」と大声で叫びました。 すでに乗って、待っている客の間に、苦笑いが広がります。 それでも、親に引っ張られて、乗って来ましたが、別に、こちらも、乗せたくはないのであって、次の便にしてもらっても、一向に構わなかったんですがね。 もちろん、次の便も、満員にならなければ、動かないわけですが。

  私は、一乗客に過ぎないから、まだいいんですが、係員は、満員にならなければ、動かせない立場ですから、こんな事を言われたら、いい気分はしはないでしょう。 親は、なぜ、その場で、注意しないのか。 子供に嫌な思いをさせたくないから? いやあ、自分が恥を掻きたくないからじゃないの? こんな事を、人前で平気で口にする子供を連れている事の方が、よっぽど恥だと思いますが。

  また、他の客で、若い男どもが、軽薄なノリで、「そうだ。 その通りだ」などと、この女児を応援していました。 馬鹿めが。 他人のガキに媚びていてどうする? そんなに満員が嫌だったら、お前らが率先して下りろよ。 こういう所で、全くの赤の他人と行動を共にせざるを得ない状況におかれると、人間の醜い面ばかり、目につき鼻について、ほとほと、嫌になります。

  展望2階、つまり、最上階へ。 エレベーター自体は、高速なので、動き出してしまえば、待つ間もなく、到着します。 エレベーターを下りて、ガラス張りの壁に近付くと、眼下に、五稜郭が、ドーン! これは、凄い! 高さは、90メートルだそうですが、五稜郭を見るためだけに、これだけのタワーを作るというのが、また凄い。 そして、充分にその価値がある眺めなのです。

  もう、一心不乱に、写真を撮りまくり! 肉眼だと、一目で、五稜郭の全体が見えますが、カメラだと、全部を一コマには収められず、左右半分だけとか、片側の端っこだけとか、無駄な写真が、どんどん増えます。 帰って来て、見返していると、同じような写真ばかり何枚もあって、「なんで、こんなに撮ったんだろう?」と、自分で自分が、分からなくなって来ます。 逆に言うと、感動が大きかった所ほど、写真の枚数が増えるという事になりましょうか。

  展望2階には、五稜郭の歴史を解説したパネルが並んでいました。 五稜郭というと、戊辰戦争で、幕府脱走軍が拠点にし、薩長軍と戦った事で有名ですが、造られたのは、もう少し前で、作ったのは、徳川幕府です。 本来の目的は、開国と平行して、ロシアに対する防備を固めるためだったとの事。 ヨーロッパの城郭を手本にして、1857年に着工、7年後の1864年に完成。 戊辰戦争で、幕府脱走軍が乗り込んで来るのは、1868年です。 結果的には、その為に作ったような格好になったわけですな。

  01番から16番まで、ずらりと並んだ、縦長のガラスケースの中に、五稜郭の歴史の一コマを表した、ジオラマ模型が入っています。 ガラスの前面に、文字の解説と、四コマ漫画がプリントされていました。 文字の解説は、日本語、英語、簡体字中国語、繁体字中国語、韓国朝鮮語で書かれているのですが、奇妙なのは、同じ中国語なのに、簡体字版と繁体字版で、訳文が異なっていた事です。 繁体字版の方が、広東語というわけでもなく、どちららも、北京語(普通話・国語)です。 たぶん、それぞれ、別の人が訳したんでしょうな。 元の日本文は同じなのに、こんなに変わるものなのか・・・。

  また、四コマ漫画が、オチのない漫画でして、ものの見事に、面白くも何ともないと来たもんだ。 大抵の人は、四コマ漫画を見ると、オチを期待する癖がついていると思うのですが、そのつもりで読んでいると、肩透かしを喰らいます。 連続16回も肩透かしを喰らわせてくれる、珍しいスポット。 もしや、漫画のつもりで描いたのではなく、単なる、フキダシ入りのイラストなんすかね? ちなみに、漫画のフキダシは、日本語オンリーです。 この漫画があるせいで、そちらに目が行ってしまって、肝心のジオラマを、ろくに見なかったという人が多いのでは?

  フロアの一隅に、土方歳三の銅像あり。 土方は、新撰組副長としては、説明不要だと思いますが、京都と甲州で敗退した後、新撰組の生き残りを率いて、幕府脱走軍に加わり、陸軍奉行並として、最後まで薩長軍と闘い、函館で戦死しました。 ここのは、座像ですが、地上1階にも、立像があり、どうやら、五稜郭では、一押しの英雄となっている模様。 斬首された近藤勇と比べると、いい死に場所を得た人と言えます。

  展望1階に、階段で下ります。 ここは、専ら、土産物店の為の階ですが、ここでも、充分高いので、五稜郭は、よく見えます。 床の一部に、ガラス張りになった所があって、真下が見えます。 高所恐怖症でなくて良かった。 世界各地の、類似城郭を紹介したパネルあり。 ヨーロッパが多いですが、東南アジア、台湾、あと、北アメリカ大陸にも、いくつかあるようです。 日本にも、ここの他に、長野県佐久市に、「龍岡城 五稜郭」というのがあるとの事。 なに、長野県? 近いじゃん。 バイクで行って来ようかな。

1 30人乗りエレベーター(左)/ 展望2階(右)
2 タワーからの五稜郭
3 ジオラマと解説(左)/ 土方座像、逆光御免(右)
4 函館の街と、函館山の裾だけ
5 展望1階、土産物売り場

  エレベーターで、地上2階へ下ります。 この階には、レストランがいくつか入っています。 階段で、地上1階へ。 この階の大部分は、土産物の売店で占められています。 こちらは、展望1階のそれより、広いです。 土産は、利尻島で、昆布を、礼文島で、木彫りの熊を買ったから、とっくに予算オーバーしており、もう宜しい。 司馬遼太郎さんの、≪燃えよ剣≫は読みましたが、土方に、さほどの思い入れはありませんし。


≪五稜郭≫
  外に出て、五稜郭そのものへ向かいます。 ふと、思ったんですが、五稜郭タワーへ先に上って、五稜郭を見たつもりになり、五稜郭そのものへ行かずに帰ってしまう観光客が、かなりいるのではありますまいか? そのくらい、タワーの方のボリュームが大きいのです。 タワーは有料ですが、五稜郭は無料。 そこまで、行きさえすれば、誰でも入れます。 公園になってますから。

  また、ポツポツ、雨が。 しかし、濡れるほどではありません。 カメラと腕時計だけ庇って、早足で歩きます。 「一の橋」と、「二の橋」を渡って、城内へ。 石垣は、みな切石で、整然と詰まれていますが、石垣自体は、そんなに高くありません。 上に、武者返しが付いているのは、珍しい方でしょうか。 ちなみに、城郭ではありますが、いわゆる、城主の居城としての城ではなく、用途としては、砦に近いです。 よって、天守閣は、最初からありません。 櫓もなし。 築城の理念にしてからが、日本の伝統的なそれとは、異なっているんですな。

  ただ、幕府の、「箱館奉行所」が置かれていた関係で、その建物が、中央にあります。 37年前に、私の母が来た時には、そんな物はなかったらしいですが、近年復元されたそうで、まだ新しい奉行所が、デンと構えていました。 結構には、存在感のある建物です。 復元後に来て、良かった。 中は、資料館ですが、有料・土禁と、私が嫌いな条件が揃っていたので、パス。 周囲を歩くだけにしました。 この五稜郭、正直な感想、形が整然とし過ぎていて、城・城跡としては、あまり、面白くありません。 「タワーがなければ、観光名所になれなかったのでは?」とさえ思いました。

  タクシーに戻って、次へ行きます。 運転手さんの話では、五稜郭タワーは、個人の所有物で、函館観光の目玉なのに、バスの駐車場があるだけで、車やタクシーを停める場所がないのだとか。 函館をレンタカーで回ろうという人は、前以て、停められる所を調べておかないと、右往左往する事になりそうです。

  土方について、私が、「函館の観光資源として考えると、いい所で死んでくれましたね」と言うと、運転手さんは、「まあ、土方は、生きてたって、捕まれば、斬首されるだけだからね。 同じ、新政府に歯向かったといっても、榎本らとは、立場が違う」と言っていました。 確かに、京都では、薩長の藩士をどれだけ殺したか分かりませんから、その通りなんでしょうなあ。 私としては、土方が生き残って、新政府軍の要職に就き、後々、外国侵略に加担するような事がなかったのは、幸いだったと思います。

1 五稜郭の堀と二の橋
2 武者返しが付いた石垣
3 復元・箱館奉行所
4 松の間から、五稜郭タワー


≪オーシャン・スタジアム≫
  函館山の方へ南下して行きます。 街なかで、野球場の横を通りました。 運転手さんの話では、函館は、社会人野球が盛んで、「函館太洋倶楽部」というチームの本拠地が、その球場だとの事。 このチームに、戦前の日米野球で、沢村栄治投手とバッテリーを組んだ、久慈次郎という選手がいて、後に、試合中の事故で亡くなってしまうのですが、その敢闘精神を偲び、都市対抗野球に、「久慈賞」が設けられているという話も聞きました。 私は、野球に興味がないので、生相槌を打っていたのですが、帰って来てから調べたら、この球場は、「千代台(ちよがだい)公園野球場」の事だと分かりました。 愛称は、「オーシャン・スタジアム」。

  その事故というのが、打者だった久慈選手が、四球で一塁へ向かおうとした時、相手チームの捕手が、二塁に向けて投げたボールが頭に当たったという内容。 久慈選手は、まだ、ホーム・ベース上にいて、次の打者に指示を与えようと振り向いた為に、そういう事になってしまったらしいです。 久慈選手は、もちろん、気の毒だと思いますが、その相手チームの捕手も、残りの人生、嫌~な思いをし続けたでしょうねえ。


≪石川啄木一族の墓≫
  函館山の東の方で、「石川啄木一族の墓」の横を通りましたが、墓の前面を遮るように立つ先客の一団がいた上に、車も停めてくれなかったので、写真は撮れませんでした。 啄木は、元は岩手県の人ですが、一時期、函館にも住んでいたんですな。 ただし、あくまで、一時期であって、死んだのは、東京です。 その後、ここに墓が建てられ、遺骨も移されて来たのだとか。 ただ、一族が、函館に根を下ろしたのは、また、別の理由のようです。 私は、歌人・詩人に、とんと興味がないので、その辺の、込み入った事情を調べる気力が出ません。

  そういや、啄木の友人だった、若山牧水は、晩年を沼津市の千本浜近くで過ごした人で、記念館もありますが、私は、一度も入った事がありません。 もっとも、これは、牧水だけのせいではなく、同じく、沼津にゆかりがある、井上靖や芹沢光治良の文学館が、あまりにもつまらなかったせいで、「文学系の記念館には、決して近づいてはならぬ」という私訓を立てたからです。 生原稿なんか、いっくら、睨めっこしたって、全っ然、面白くない。 ビジュアル価値、ゼロ。 超一流文学者の記念館より、素人画家の物置美術館の方が、遥かに見応えがあります。

  ところで、ネット情報では、この、「石川啄木一族の墓」が、「立待岬」にあるかのように書いてあるものもありますが、実際には、ちょっと離れています。 また、函館には、「啄木小公園」という所もあるのですが、そこはまた、別の場所です。 ややこしいなあ、もう。 ややこしいのは、啄木本人の人生だけにしてくれ。


≪立待岬≫
  そのまま、少し南下すると、「立待岬」に着きました。 「たちまち みさき」ですな。 母が37年前に買ったガイド・ブックによると、ここで、アイヌの娘が、帰らぬ男を待ち侘びたのが、名前の由来だとか。 海に突き出た公園のようになっていて、「晴れた日には、いい所ですよ」と運転手さんが言ってましたが、その時は、思いっきり曇っていました。 でも、背後に大きな岩山があり、確かに、晴れていれば、気持ちがいい場所だろうと思われました。

  ハマナスの木がたくさん植えてあって、赤い実が成っています。 運転手さんが、「うまくはないけど、食べられない事はないから、ちょっと齧ってみたら」と言うので、一つもいで、齧ってみたら、その通りの味でした。 何も食べるものがなければ、食べるでしょうが、今では、他においしい物がたくさん溢れているから、子供も食べないでしょうなあ。

1 立待岬
2 背後の岩山
3 ハマナスの実(撮影地、稚内)


  この岬からは、青森県の下北半島も見えます。 しかし、たぶん、函館付近ならば、どこからでも、下北半島が見えるのではないかと思います。 ちなみに、私は、1994年の夏に、野宿ツーリングで、下北半島の大間崎まで来ており、その時、本州側から、北海道を見ています。 あれから、20年も経つのか。 別の見方をすれば、あの時、遠くから見た場所へ来るのに、20年かかったわけですな。

  渡島半島の南西の方ですが、北島三郎さん、千代の富士さんの故郷が、そこから見えると、出身地の地名を教えられました。 しかし、基本的な地図や地名が頭に入っていない私には、ピンと来ませんでした。 北島三郎さん、「はるばる来たぜ、函館」と歌っていましたが、実際には、それほど、はるばるではない所の出身だったんですな。


≪函館公園≫
  また、タクシーに乗り、函館山の中腹を、ぐるりと回って、「函館公園」の横を通りました。 函館公園は、明治の初め頃、イギリス領事のリチャード・ユースデン氏が、「病人に病院が必要なように、健康な人間には公園が必要だ」と、呼びかけて、函館市民が総出で作った、日本で初めての公園だとの事。 ユースデン氏の気の利いたセリフと、函館市民のノリの良さに、思わず、「ほーっ」と感心したんですが、ここでも、停まってくれなかったので、写真は撮れませんでした。

  ちょっと、停まってくれれば、そこへ行った証拠写真が撮れるんですがねえ。 道が狭くて、他の車が来たら困るという事情もあったと思いますが・・・、もしや、運転手さん、五稜郭タワーと、旧イギリス領事館のクーポンのせいで、予定を狂わされて、虫の居所が悪かったのでは? 60歳くらいの、大変、温厚な方でしたが、どんなに出来た人でも、やはり、思い通りに事が進まなかった時には、気分が腐る事もあるのではないかと・・・。 いや、それは所詮、私の推測に過ぎませんが。


≪旧イギリス領事館≫
  2時半頃、「旧イギリス領事館」に着きました。 二階建ての、木造洋館です。 日本の一般家屋と比べれば大きいですが、イギリスの上流階級なら、個人の家と同じくらいの規模なんじゃないでしょうか。 建物の外観は、アイボリーの壁に、青い窓枠、寄棟の瓦屋根を載せていて、瀟洒という言葉がピッタリ来ます。 この黒っぽい瓦は、日本の瓦でしょうか? 家具調度は、昔の物が置いてあって、茶器セットなどもあるので、領事がここに住んでいたように感じられるのですが、広さ的にみて、もしかしたら、住居は別で、ここは、領事事務だけを執り行なっていた、役所だったのかもしれません。

  ちなみに、現在、函館に、イギリス領事館はありません。 1859年から1934年まで、置かれていたとの事。 2階の部屋の一つに、双眼鏡で、窓の外を見ているユースデン氏の像があり、各部屋の説明板も、ユースデン氏と、その夫人の事績を中心に紹介してあります。 ここで、ちょっと、引っかかりました。 ユースデン氏の在任期間は、1968年(明治元年)から、1880年(明治12年)までで、その年に帰国しています。 一方、イギリス領事館は、何度か、火災に遭っていて、この場所に移って来たのは、1885年だとの事。 だったら、ユースデン氏は、この建物には、一度も入った事がない事になります。 うーむ、油断ならんな。 イメージで、騙されるところだった。

  順路があり、最初に、2階に上がって、その後、中二階を通り、1階の中庭に下りるようになっています。 中二階には、函館の歴史を解説したパネルがあり、これはまあ、勉強になります。 解説が詳し過ぎないのも良し。 ただし、ペリー提督の像が置いてある点は、「イギリス領事館なのに、なぜ?」という、違和感あり。 中庭には、床面いっぱいに、「函館 世界大鳥瞰図」という、昔の地図が描かれています。 函館だけがクローズ・アップされた、奇妙な地図で、ちょっと、驚かされます。

  中庭に下りると、様々なヨーロッパ言語でフキダシをつけた、人形パネルが並んでいますが、訳文を読んでみると、大した事は喋っていません。 最も変わっているのは、鏡を利用した、セルフ顔出し撮影の部屋で、ちょうど顔が入るくらいの穴から、部屋の中を覗き込むと、向こう側の壁が鏡になっていて、手前側の壁に描かれた絵の中の人物になれるという趣向。 絵は、明治初頭の函館港の賑わいを描いたもので、カメラを構える穴は別に開いています。 観光地によくある顔出しパネルは、専ら、子供向けですが、ここのは、大人も楽しめるようにしてある点、高評価を与えられると思います。

  1階の一部屋が、土産物店になっていますが、函館グッズではなく、イギリス・グッズで埋まっていまして、「なんで、函館に来て、イギリスの土産を買わねばならんのよ?」という事で、もちろん、何も買いませんでした。 これは、沖縄・宮古島の、「ドイツ村」で、何も買わなかったのと、同じ理由。 庭も見れますが、煉瓦敷き、芝生、噴水、あずまや、並んだベンチと、公園風になっており、いわゆる、「イギリス式庭園」ではないです。

1 旧イギリス領事館
2 函館の街を眺めるユースデン氏の像
3 函館 世界大鳥観図(左)/ セルフ顔出し撮影の部屋(右)
4 建物背面と庭

  この、旧領事館、すでに、イギリスとは無関係で、運営しているのは、函館市のようです。 函館には、かつて、他の国の領事館もあったわけですが、なぜ、イギリスの物だけ残っているかというと、開港の頃から、一貫して、領事館を置き続けていたのは、イギリスだけだったからとの事でした。 たぶん、以前は、「函館 世界大鳥瞰図」や、「セルフ顔出し撮影の部屋」などはなかったのだと思いますが、さすがに、21世紀ともなると、「旧イギリス領事館」というだけでは、客が呼べなくなったのでしょう。 いろいろ、工夫しているのは分かりますが、却って、興醒めになってしまっている感、なきにしもあらず。


≪ペリー提督来航記念碑≫
  外に出ると、運転手さんが待っていて、向かい側の敷地に、ペリー提督の銅像があると言うので、行ってみました。 広い敷地の、片隅に、立像があります。 右手に、ナポレオン風の帽子を抱え、左手は、サーベルの柄の上に載せています。 運転手さんによると、このポーズは、敵意がない事を示しているのだとの事。 思いっきり、砲艦外交をやった人なんですが、良心的に見れば、確かに、人は殺してませんな。

  なぜ、イギリス領事館の向かいにあるのか? もちろん、ペリー氏は、アメリカの提督であって、イギリスとは関係ありません。 運転手さんの話では、以前、この敷地には、病院があったそうなのですが、更地になったので、空いている所に建てたのだろうとの事。 帰って来てから、ネットで調べたら、像が建てられたのは、2002年で、ここが選ばれたのは、かつて、近くに、旧アメリカ領事館があったからだとか。 いずれにせよ、大した理由ではなさそうですな。

  ペリー提督、下田にも来ていますが、函館にも来ていたとは、知りませんでした。 時は、1855年。 松前藩が応対に当たったのですが、幕府から、「そっちに行くぞ」とだけ連絡が来て、日米和親条約の内容を知らされていなかったので、えらい大慌てをしたそうです。 滞在日数18日間。 ちょっと、来てくれただけで、後々、観光資源として、莫大なお金を地元に齎してくれるのですから、つくづく、歴史上の人物というのは、ありがたいものです。 大物であればあるほど、効果が大きい。

  ペリー像の隣に、函館ゆかりの歴史上の人物について、写真や解説文をプリントした円柱が、三本、立っていました。 この円柱、五稜郭でも、たくさん見ました。 たぶん、函館市か、観光協会か、そういうところが立てているのだと思いますが、一目で、そこに、史跡があると分かるので、自力で観光している人達には、いい目印になると思います。 情報量が多くて、全部読むのが大変なのと、平面でないせいで、写真に取り難いのが、問題点。

1 ペリー提督像
2 歴史解説円柱

  このすぐ上の方に、白い壁に黄色い窓枠の、大きな木造洋館があり、運転手さんに、「あれは、何ですか?」と訊いたら、「あれが、『函館公会堂』だけど、あれを今日、見ちゃったら、明日、見る物がなくなっちゃうよ」と言われたので、それ以上、触れませんでした。 おそらく、この時、運転手さんの頭の中では、明日回るコースの道順が、凄まじい勢いで、計算されていたに違いありません。

  この日のタクシー観光は、これで、おしまい。 函館の東の方にある、「湯の川温泉」へ向かい、予約してある、「湯の川観光ホテル 祥苑」に送り届けてもらいました。 その途中、「せっかく、函館まで来たんだから、夜景は、見ておいた方がいいですよ」と言われました。 私も、そんな気分になりかけていたので、「はあ、そうですねえ」と言うと、「ホテルの前まで、バスが迎えに来るから、フロントで訊いてみればいいですよ」との事。 それなら、見に行かない手はありません。 すっかり、乗り気になって、タクシーを下りました。 これが、この日の、「ハード化」の、ターニング・ポイントとなります。


≪和風ホテル≫
  函館のホテルですが、沖縄・北海道旅行の最後にして、初めての、「和風ホテル」でした。 和風旅館ではありません。 あくまで、和風ホテル。 湯の川は、温泉地だから、和風ホテルが主流になるのは、致し方ありませんが、私は温泉嫌いで、どうせ、大浴場には行きませんから、洋風の方がありがたいというのが本音です。 テレビ東京の、≪ローカル路線バス乗り継ぎの旅≫で、蛭子さんが、旅館や民宿、海鮮料理を、極度に嫌う気持ちが、私には、よーく分ります。

  もっとも、ここの場合、和風と言っても、ホテルはホテルなので、部屋が畳敷きで、布団を敷いて寝るという以外は、洋風ホテルと同様の設備がありました。 まず、ロビーとフロントは、完全に洋式。 廊下も、土足OKです。 各部屋の中に、靴脱ぎがあるわけですな。 部屋も、靴脱ぎから、直かに、畳の間に上がるのではなく、板張りの廊下がありました。 そこでは、持参のスリッパが使えたので、土禁アレルギーの私としては、大変、助かりました。 さすがに、畳の上には、スリッパでは上がれませんから、自分が歩く所だけ、除菌ティッシュで、拭いてしまいました。 これで良し。 何にでも、対策はあるものです。

  大浴場以外に、個室にも浴室があり、その辺りも、完全に、洋風です。 ユニット・バスではなく、浴槽と洗い場が分かれています。 トイレは独立していて、洋式の洗浄機能付き。 こうなって来ると、もはや、畳敷きに拘る意味がないような気もします。 温泉地だからと言って、普段、畳生活をしていない人達が、畳を喜ぶとは思えません。 壁や天井は、和風のデザインでもいいですが、床は板張りにして、ベッドと、机・椅子を置いた方がいいんじゃないでしょうか。

  それはさておき、部屋の広さですが、畳の間は、10畳。 それに、座卓・座椅子式の応接セットの間が、3畳。 椅子代わりになる台と、板張りの床に机を置いた空間が、3畳で、合計16畳。 水周りは、それとは別ですから、いかに広いかが分かります。 四人くらいは、楽に泊まれる広さですが、座椅子の数や、浴衣の数からみると、これでも、二人部屋のようです。 私は、そこに一人で泊まるわけで、何たる贅沢! 罰が当たるんじゃないでしょうか。

  ちなみに、昔は、旅館と言ったら、夜になってから、係の人が、各部屋の布団を敷いて回ったものですが、今では、チェック・インする前から、敷いてあります。 この方が、荷物を広げた後で、他人に部屋に入って来られなくて済むので、ありがたいです。 布団は、ごく一般的な布団。 シーツの間に入り込む、ベッド・メイクされたベッドよりは、寝易いですが、その下の畳の硬さに違和感があるからか、旅館で安眠するのには、慣れが要ります。

  食事は、夕食も朝食もバイキングだそうで、気楽で良かったです。 場所は、食堂というか、テーブルと椅子が並んだ、大宴会場で、舞台があり、映画の上映設備まであるという、だだっ広い所でした。 料理の種類も、今までで、最多。 和風ホテルだけあって、和食系が充実しているんですな。 しかし、私は、バイキングの刺身なんぞ、絶対食べません。 私の感覚では、海鮮料理というのは、自分から進んで選んで、食べるようなものではないのです。

  バイキングだと、飲み物にジュースを取るのが、癖になってしまいました。 普段、家では、そんな事ができないので、「せめて、旅行中くらい」と欲を掻いてしまうのです。 ところが、ここで、思わぬ失敗をしました。 ジュースだと思って、マシンからコップに入れたのが、フローズン系ドリンクだったのです。 どろどろっとした、かき氷だと思っていただければ宜しい。 その内、融けるだろうと思っていたのですが、食事が終わっても、ほとんど、状態が変わりません。 やむなく、そのまま、口にかき込んだのですが、直後から、急激、且つ、強烈な頭痛に襲われ、手の甲で額を押さえる事になりました。 痛くて、目も開けられません。 痛みが引くのに、一分以上かかる。

  一口で、そんな有様ですから、そこでやめておけばいいものを、勿体ないというより、「取って来た物を、残すと、間違えたみたいで、みっともない」という気持ちがあって、やめられません。 間違えたのは事実なのですから、やめればよかったんですがねえ。 一口飲んでは、額を押さえ、また、一口飲んでは、額を押さえる。 それを繰り返し、7・8分かけて、何とか、コップを空にしたのですが、頭の中の血管がどうにかなったようで、頭痛が残ってしまいました。 立ち上がっても、くらくら、目眩がする始末。 部屋に帰って、すぐに、眠りたかったのですが、そうは行きません。 まだ、夜景見物があるのです。

1 湯の川観光ホテル 祥苑
2 部屋(左)/ 応接セット(右)
3 バイキング会場
4 夕食と、フローズン系ドリンク(緑色)

  「どうせ、起きているのなら・・・」と思い、もう一度、部屋を出て、ロビーで公衆電話を探しましたが、見当たりません。 やむなく、外に出て、ちょっと歩いた所にあった、ローソンで、家に電話をかけました。 ついでに、店に入って、ローソン・オリジナルの菓子の中から、「チョコレート・プレッツェル」という、ポッキーの類似品を、108円で買って帰りました。 夜の、お茶の友にするつもり。 それ以前に、頭痛で倒れるかも知れませんが・・・。

  テレビを点けると、NHKで、吉幾三さんが、稚内を旅する番組をやっていました。 そういえば、稚内の運転手さんが、その番組の撮影が来たという話をしていましたっけ。 私が、お金をケチって上らなかった、稚内公園の展望塔からの景色も映っていました。 うーむ、つい、二日前の事なのに、妙に懐かしい。 いや、私は展望塔に上っていないのだから、懐かしいというのは、変かな?


≪函館夜景ツアー≫
  チェック・インの時、夜景を見に行くバスについて、訊いたところ、「バスは、7時48分に来ますが、今夜は、天気の関係で、中止になる可能性があります。 中止のようなら、その時、キャンセルできますから、とりあえず、予約だけ入れておきますか?」というので、頼んでおきました。 7時40分頃、頭がくらくらするまま、ロビーに下りて、フロントへ行くと、そこで、チケットを売る様子。 1550円。 げ、そんなにするのか? まあ、仕方ないか。 ロビーで待っていると、程なく、バス・ガイド風の、30代くらいの女性が駆け込んで来ました。 「夜景ツアーの人、いませんかー!」と呼ぶので、そちらへ行きます。 私の他に、もう一組、二人連れがいて、計三人でした。

  外に出ると、ホテルの前に待っていたのは、フル・サイズの観光バスでした。 私はてっきり、路線バスが幹線道路の方に停まり、それに乗って行くのかと思っていたので、びっくりしました。 中には、他のホテルから乗って来たと思われる客が、10人くらいいました。 バス・ガイド風の女性の話では、この後、四つのホテルに寄るとの事でしたが、三つまでは、誰も乗って来ませんでした。 「この人数で行く事になるのかな」と思っていたら、四つ目のホテルで、一人二人、乗り込み、その後、なかなか、出発しません。 バス・ガイド風の女性や、ホテルの係員が、ホテルに出たり入ったりしています。

  10分近く経過し、いい加減、イライラして来た頃になって、ホテルから、わらわらと人が出て来て、バスに乗り込み始め、結局、ほぼ、満席になりました。 40人くらい出て来た事になります。 一体、今まで、この連中はどこにいたんでしょう? 飯でも喰っていたのか? ホテルもホテルで、どうして、決められた時間までに、集合させておかないのか、呆れて物が言えません。 まったく、他人と一緒に行動をすると、不快な思いをする事が多いです。

  ようやく出発したバスは、市街地の方へ向かって走って行きます。 バス・ガイド風の女性が、マイクを持って喋り出したのですが、そこで初めて、この人が、バス・ガイド風ではなく、本物モノホン、正真正銘のバス・ガイドである事が分かりました。 そして、このバスは、送迎バスのような簡単なものではなく、れっきとした、観光バスで、私が参加しているのが、時間こそ短いとはいえ、「Mt.函館 夜景ロマンコース」という名の、れっきとした、観光ツアーである事も分かりました。 見れば、チケットに、そう書いてあります。 頭がぼーっとしていて、それまで、気づかなかったんですな。

  このガイドさん、恐ろしいまでに、名調子で喋る人で、ガイドというよりは、芸人と言ってもいいような、話術の持ち主。 「今夜は、函館山の展望台が、すっきり・はっきり・くっきり見えていますね。 という事は、展望台の方からも、街の夜景が、すっきり・はっきり・くっきり見えるという事です。 お客様たちは、大変、運がよいという事になります」といったような事を、乗客の笑いを誘いながら、間断なく喋り続けます。 確かに、ほんの二時間くらい前まで、「中止になるかもしれない」と言われていたのですから、運がいいんですな。

  ガイドさんが、バス会社の名前が入ったピンク色のワッペンを配って回り、それを、服でも荷物でも、見易い所に貼るように言われました。 行きは、頂上まで、バスで登りますが、帰りは、麓近くまで、ロープ・ウェイで下るため、このワッペンが、ロープウェイの乗車券代わりになるのだそうです。 「革製品には、貼らないで下さい」とも、くどいくらい言っていました。 剥がし難くなったり、革を傷つけたりするのだそうです。 私は、革製品など持っていないので、心配なし。 テキトーに、シャツの右肩の所に貼っておきました。

  余談ですが、このガイドさん、ロープ・ウェイの事を、「ローペイ」と言っていました。 毎晩、口にしているので、言い易い方に変化したんでしょうな。 それでも、通じるから、何ら問題はないわけですが。 ちなみに、「ロープ・ウェイ」を、発音し難いと感じている人は、少なくないと思いますが、「ロープーエイ」と発音すれば、ほぼ、同じになります。 「ウェイ」が発音し難いのは、日本語には、「W」で始まる二重母音が、「ワ」しかなくて、「ウィ・ウェ・ウォ」に関しては、二重母音ではなく、母音の連用で対応しているからです。 たとえば、「ウィン・ウィンの関係」と言う時にも、実際には、「ウイン・ウインの関係」と発音しています。

  函館山に登り始めると、バスの車内灯が消されます。 夜景は、函館山の中腹からも見えるので、その邪魔にならないようにとの配慮。 2合目、7合目、9合目に、それぞれ、スポットがあるのですが、停車はしません。 走りながらとなると、バスの片側の乗客しか見れない上に、木々の合間からなので、一瞬で終わってしまい、写真は、まず、撮れません。 中腹のスポットでは、最初から、写真は諦めて、肉眼で見る事に専念した方がいいです。

  やがて、頂上に到着。 大型観光バスが、ゴロゴロ停まっています。 忘れちゃいけませんが、もう、夜9時近い時刻ですぜ。 夜景ツアーというのが、些か非常識な企画である事が分かる一方で、それが常識化している、函館の夜景が、どれだけ、魅力あるものであるかも、予感できます。 毎晩、イベントで盛り上がっているようなもの。

  展望台では、フリー・タイムになりますが、解散の前に、まず、集合場所を指示されました。 売店の外の広場です。 展望台には、一ヵ所しか売店がないので、その外と覚えておけば、間違いないと言われました。 しかし、後で分かったのですが、展望台の構造は、そんなに複雑ではなく、間違えようがないような所でした。 わざわざ、細かい目印まで教えたのは、酔っ払っている客に配慮したのかもしれませんな。 すでに、ホテルの夕食の時に、一杯ひっかけている連中がいて、バスの中が、酒臭かったですから。 それにしても、これから、夜景を見に行くというのに、よく、その前に、酒を飲むよなあ。 帰って来てから、飲みゃーいーじゃん。 ほんのちょっとも、待てないかね?

  で、解散。 早速、展望台の上の方へ上がります。 凄い人の数! 展望台は、鉄筋コンクリートの建物ですが、屋上が段になっていて、それぞれ段の前面に、金属製の柵を張って、落下防止にしています。 その柵が壊れるんじゃないかと思うほど、人が鈴なりになっています。 くれぐれも、言っておきますが、夜の9時ですぜ。 何やってるだー、こん衆等は? いや、私も、その一人なんですがね。

  人間は、この際、無視するとして、肝心の夜景ですが、これは凄かった。 「素晴らしい」という言葉も、俄かには出て来ないほど、衝撃的に美しい景色です。 夕食以来、ずっと続いていた頭痛が、すっかり、消えてしまいました。 「なーんで、こんなに綺麗なんだろう」と思い始めるのは、10分くらい経って、写真も、20枚くらい取りまくった後の事です。

  考え始めると、とりあえず、答えが出るもので、函館の夜景は、函館の街の主要部分が、半島の上にあり、その半島の先にある函館山が、街を見下ろすのにちょうどいい高さを持っているお陰で、半島の形が、街の灯りで、くっきりと浮かび上がって、美しく見えるのでしょう。 函館の夜景は、他の地方都市と比べて、特別に明るいわけではないと思うのですが、この、半島の形が特徴的なので、特別な夜景になっているのです。

  理屈は分かっても、この美しさは、やはり、凄いとしか、感じようがありません。 こりゃ、無敵の観光資源ですな。 他の街では、真似ができますまい。 ちなみに、展望台は、夜10時までは、観光バスか、観光タクシーの専用で、一般車は乗り入れ禁止。 10時以降なら、登れますが、10時を過ぎると、街の方で、ライト・アップをしている施設が、灯りを消してしまうので、夜景の趣きが、少し落ちるのだそうです。 うまく出来ている。

  写真は、嫌というほど撮ったので、階下に下り、売店に行きましたが、これといった物はありませんでした。 これといった物とは、「これが、函館だ!」と、一目で分かるような物ですが、ないんですな、マジで。 まあ、あったとしても、私は、すでに、土産物の予算をオーバーしているので、買わなかったと思いますけど。

  人が大勢集まると、必ず、変な奴がいるものです。 ここでも、やはり、いました。 彼女と二人で来ている、20歳前後の男でしたが、どうも、夜景を二人で眺めながら、彼女と、いい雰囲気になろうとしている気配が見受けられる。 おいおい、ちょっと待ってくださいよ。 周りは、人で、ごった返しているんですぜ。 状況を考えて、事に及べよ。 展望台の下に行けば、人が少ない所があるんだから、そっちへ誘えば良さそうなものですが、恐らく、彼女の方は、常識があって、「夜景を見に来ているのだから、高い所にいるのが当然」と考え、思うように誘われてくれないのでしょう。

  こんな初歩的な事をやっているという事は、まだ、性的関係まで行っていないのだと思いますが、性欲エンジンで稼動している男というのは、傍から見ると、何とも、みっともないものですなあ。 この彼女、間違いなく、この男が何をしたがっているか、分かっていたと思うのですが、「こーんな、人だらけの所で、どーして、そんな雰囲気になれると思うの?」と、呆れていた事でしょう。 何とか、恥を掻かされないように、必死に、はしゃいで、男の性欲を散らそうとしている様子が、痛々しかったです。 ケダモノを操る、調教師だね。

  5分前くらいに、集合場所へ。 私が一番乗りで、他に誰もいませんでした。 解散前に、ガイドさんが、「外は寒いですから、集まるのは、ギリギリで結構です。 私も、たぶん、ギリギリにならないと来ないと思います」と言っていたのですが、ほんとに、来ねーんでやんの。 時間を過ぎてから、三々五々、集まり始めました。 酔っ払いが相手では、時間厳守は、望む方が無理か。 ここで、チケットの半券をもぎり、それをガイドさんが集めて、人数確認をしました。 全員揃ったとの事で、ロープ・ウェイへ。 係員にワッペンを見せて、ゴンドラへ乗り込みます。

  このゴンドラですが、125人乗りだそうで、まるで、プレハブ事務所が吊り下がっているような大きさがあります。 予め、ガイドさんから、「ローペイの中からも、夜景が見えるので、前か、左側の窓に近い場所を確保して下さい」と言われていましたが、私は、そういう、椅子取りゲームみたいな事が苦手なので、中の方にいました。 それでも、他の客の背が低かったお陰で、そこそこ、夜景を見れて、写真も撮りました。 でも、やはり、揺れているゴンドラ内で、いい写真が撮れるわけがなく、帰って来てから見たら、ほとんど、ブレていました。

1 夜景ツアー・バス
2 ほぼ満席(左)/ ロープ・ウェイ用ワッペン(右)
3 函館の夜景
4 展望台売店(左)/ 125人乗りゴンドラ(右)

  麓に下りると、そこの駐車場に、バスが回されていました。 ぞろぞろと乗り込んで、帰途に着きます。 帰りも、ガイドさんの話芸が炸裂し、「四季それぞれに、夜景の雰囲気が変わるから、四回は見た方がいい」とか、「すでに、四回見た人は、パートナーを変えると、雰囲気が変わるから、また、四回見れる」とか、オヤジも思いつかないような、洒落たギャグを飛ばすわ、「昼間のツアーに、まだ若干の欠員があるので、一日空いている人は、是非どうぞ」と、宣伝に抜け目がないわ、見事としか言いようがありません。 この人、どこで、こんな話術を会得したんでしょう? 料金1550円の内、500円は、このガイドさんの力で稼いでいる感じ。

  そうそう、ガイドさんの話では、湯の川温泉は、全国ランキングで、16位。 北海道では、4位だとの事。 一見、大した事がないようですが、北海道のベスト3は、登別温泉、定山渓温泉、洞爺温泉と、名だたる所ばかりなので、「その次につけているのは、凄いのだ」と言ってました。 なるほど、物は捉えようですな。

  帰りは、来る時に、先に乗せた客のホテルから回って行くので、非効率な道順になりますが、これは、致し方ありませんな。 遅刻して、最後に乗って来た40人が、下りるのがドン尻になるのは、気味がいい事です。 私のホテルに到着したのは、10時ちょっと前くらいでした。 ほぼ、2時間のツアーだった事になります。


≪ホテルの夜中≫
  頭痛は治ったものの、もう、くたくたです。 この後、風呂に入り、日記を書いて、ようやく、眠れると思ったら、テレビで、≪匿名探偵≫を見始めてしまい、途中で切り上げたものの、眠ったのは、0時半頃でした。 それでも、旅行最後の夜だったので、洗濯をしないで済んだだけ、まだ、楽だったのですが・・・。 



≪五日目、まとめ≫
  朝食は、二日ぶりに御飯が食べられたから、満足。 札幌から函館までの鉄道旅も、まあまあ、楽でした。 函館の貸切タクシーも、三ヵ所しか寄りませんでしたから、ゆとりがありました。 五稜郭タワーは、予想以上に良かったです。 問題は、ホテルの夕食からですな。 あの、フローズン系ドリンクがいけなかった。 もしかしたら、ドリンクとは名ばかりで、飲む物ではなく、スプーンで掬って食べるものだったのではありますまいか。 年齢や健康状態に関係なく、あれを、グビグビ飲める人間が、この世にいるとは、とても思えない。

  一度、体調を崩すと、前夜の睡眠不足や、長旅の疲れが、どっと顕在化して、立っているのもやっとという有様になってしまいました。 死ななくて、良かった。 その後の、夜景ツアーも、函館山の頂上に着くまでは、頭がズキズキして、不機嫌この上なかったのですが、夜景があまりにも素晴らしくて、頭痛が消えてしまったのには、少なからず、驚きました。 精神的な刺激というのは、つくづく、影響が大きいものなんですなあ。

2014/11/09

札幌・小樽を歩く

  北海道旅行記の、四日目です。 8月28日、木曜日。 この日の予定は、フリー・タイムでした。 札幌の街の、ど真ん中のホテルに泊まっているので、そこを基点に動く事になります。 ケチな私の事ですから、お金がかかる交通機関は、極力使いたくありません。 よって、基本的に、徒歩という事になります。 旅行に出る前に立てた計画は、「午前中に札幌を見て、その後、電車で移動し、午後は小樽を見る」というものでした。

  札幌を中心に、無理なく、一日で行ける範囲となると、自然に、札幌市内と、小樽になってしまうんですな。 旭山動物園の旭川や、美瑛、富良野などは、遥かに遠いです。 札幌を全く見ずに、丸一日かければ、行けない事もないですが、札幌自体が、初めて来た街なのに、駅からホテルまでの景色だけ見て、終わりにするというのも、何だか、変な話。 やはり、時計台と大通公園くらいは見ておかなければねえ。

  そもそも、7ヵ月前の応援の時、2ヵ月半も、近くの苫小牧に住んでいたのですから、お金をケチらずに、札幌や小樽まで足を延ばしておけば、こんな事にはならなかったわけです。 したっけ、その時は、こんなに早く退職して、北海道旅行に来るなんて、思ってもいなかったんだから、しょーがねーじゃん。 まあ、どうしても、道央や道東が見たかったら、また、来ればいいさ。 ・・・いや、自腹だと、絶対来そうにありませんな。 バイクで、野宿しながら、自走して来れば、2万円くらいで、来れるかな? 死ぬほど、疲れそうですが・・・。 というか、ほんとに、死にそうですが・・・。

  ところで、先に言っておきますと、今回は、これまでより、文章量が、ぐっと少ないです。 旅行記の元にしている、日記のノートのページ数も、5ページ半しかありません。 理由は単純でして、この日は貸切タクシーに乗らなかったので、運転手さんから耳で聞いた、知識・情報の分が全くないからです。 逆に言えば、タクシーの車内で喋っている時間が長ければ長いほど、書く事が増えるわけです。



≪ホテルの朝≫
  朝、4時半に目覚めましたが、早過ぎるので、二度寝して、6時半に、起きました。 電気ケトルで湯を沸かし、部屋に備え付けの、粉末のお茶を入れて、飲みます。 お茶は、大抵のホテルで、備えられていますが、ティー・パックの場合と、粉末の場合があり、私は、どちらかというと、ティー・パックの方が、何度も出せるので、ありがたいです。 粉末だと、一回こっきりですけんのう。 ただし、味は、粉末の方が濃いです。

  部屋の対角線に張り渡した洗濯紐に、前夜から干しておいた洗濯物ですが、夜中に寒くなって、エアコンを、「弱」にしてしまったせいか、乾いていません。 礼文から持ち越した、靴下と、おしぼりタオルだけは、乾きました。 とりあえず、その靴下が穿ければ、この日は間に合うわけですが、前夜洗った分を、湿ったまま、袋に入れるのも気持ち悪いので、ここは一つ、この日入る予定の掃除をパスし、このまま、乾かし続けるしかないでしょう。

  部屋の中に、洗濯物を干したままの状態で、掃除に入られるのは、私よりも、掃除係の人にとって、不都合が多いと思うのです。 狭い部屋なのに、パンツだの、靴下だのが吊る下がっている下で、ベッド・メイキングなんて、もし私が掃除係だったら、背筋が、ぞーっとします。 このホテルでは、各階ごとに、洗濯室があり、乾燥機も備えられているので、「洗濯物は、そちらで乾かして下さい」とでも言われたら、ケチな私は、困ってしまいますし。

  掃除をパスしたい場合、「起こさないで下さい」の札を、ドアの外にかけるより、フロントに直截、頼んでしまった方が確実だという事は、沖縄のホテルで、経験済みでした。 しかし、両方やっておけば、尚、安心でしょう。 このホテルの部屋にも、その札はありました。 ドアにかけた写真が残っているので、あった事は確かなのですが、部屋の中の、どこに置いてあったのか、それを、どうしても思い出せません。 この部屋には、クローゼットがなかったからです。 ドアの内側のノブにかけてあったのかな? まあ、どうでもいい事なんですが。

  ナップ・ザックを出して、貴重品を移し、外出する準備をした上で、7時に、1階のレストランに下りました。 ビジネス・ホテルは、みんなそうなのかも知れませんが、ここでは、夕食はなし。 だけど、朝食は付きます。 街なかですから、夜は、いくらでも、飲食店が開いているのに対し、朝は、ファミレスか喫茶店くらいしかやってませんから、ホテルで朝食を取れないと、困る客が多いのでしょう。

  このホテルでは、バイキングではなく、洋定食と和定食のどちらかを選ぶ方式になっていて、面倒臭いので、チェック・インの時に、二日分とも、洋定食にしてもらったと、前回書きましたが、その選択は、失敗でした。 何でもそうですが、面倒臭がって、テキトーに済ますと、大抵、結果が悪く出ますな。

  いかにも、都会的な感じのするウエイトレスさんに、朝食券を渡すと、席を指定されました。 ドリンク類だけ、セルフだったので、水とオレンジ・ジュースを、先に注いで来ました。 5分もしない内に、料理が来ました。 ミニ・オムレツ、チキン・ナゲット、スパゲティー・ナポリタン、フライド・ポテト、ポテト・サラダが、一皿に盛り合わせ。 他に、単品で、コーン・スープ、野菜サラダ、フルーツ・ヨーグルト、そして、パンが付きます。

  料理は、別に、まずいわけではないのですが、肉っ気が、ナゲットしかない上に、全体的な量も少ないのです。 更に、食パン半切れと、バター・ロール1個だけでは、食べた気になりません。 それまで、ホテルの朝食と言えば、全て、バイキングで、腹いっぱい食べていたので、この量の少なさは、想定外でした。 また、箸が付かず、サラダのレタスを、フォークで刺して食べるのに、えらい手間取ってしまいました。 それでいて、オムレツを切るためだけに、ナイフが付いているのですから、妙にアンバランス。

  その前の晩も、パンだったわけで、腹に力が入りません。 私は、料理は、洋食の方が好きなんですが、主食に関しては、「御飯派」だったのだという事を、この日この朝に至って、初めて、認識しました。 もちろん、認識しても、腹が膨れるわけではありません。 「これは、危機的だ・・・」と思い、すでに、洋食で予約してしまった、翌日の朝食を、和食に変更してもらおうと、硬く心に誓いました。 しかし、それは、すぐに言わなくてもいいでしょう。

1 ロビー・レストラン
2 朝食 洋定食
3 時計台


≪時計台≫
  朝食後、そのまま、フロントへ行き、部屋の鍵を預けるついでに、掃除に入らないで欲しいと伝えました。 どのホテルでもそうですが、掃除のパスを頼むと、決まって、訝しそーな目つきで見られます。 「部屋に籠って、何か、不穏な事でもやる気なのでは?」と、思うんでしょうかね。 しかし、断られるような事はありません。 最近のホテルは、エコの為に、「連泊の方は、シーツの取り替えが不要ならば、そう言って下さい」という注意書きがあったりしますから、否やはないはずです。

  フロントの横に、パンフ・コーナーがあったので、札幌市街地の観光マップを貰って、そのまま、札幌の街へ踏み出しました。 歩きながら、マップをざっと見たところ、大通公園の周辺に、観光名所が集中している様子。 あまり時間のゆとりがない時、歴史が長くない街は、大変ありがたいです。 別に、馬鹿にして言っているわけではなく、歴史的遺構があり過ぎると、一日では、ほんの一部しか見られないという所があるのですよ。 京都や奈良は、典型例。

  ホテルから、少し南に行くと、かの有名な、「時計台」がありました。 こんなに近いとは、思わなかった。 元は、北海道大学の演武場。 時計がなければ、ただの洋風木造建築ですが、時計が付いていたばかりに、残す価値のある建築になった事が、現物を見ると、よーく分かります。 存在感が、半端ではありません。 周囲の樹木が育ちすぎて、建物が見え難くなってしまっているのが、難点と言えば、言えます。

  もろ、街なかにあるので、全体の写真を撮ろうとすると、道路を渡って、反対側の歩道まで行かなければなりません。 ここの撮影には、みんな、当惑するでしょうねえ。 南側のビルの駐輪場に、「時計台 撮影スポット」という所があったので、素直に従って、そこで撮ってみましたが、私に限って言えば、「どこが、スポットなんだか・・・」という写真にしかなりませんでした。 全体を収めようとせず、時計がある部分だけを切り取った方が、時計台らしい写真になるかもしれませんな。

  中にも入れるようですが、観覧料200円は、恐れる程ではないものの、開館が8時45分からで、まだ1時間以上あったので、きっぱり諦めました。 何せ、徒歩なので、いくら近いと言っても、後でまた来るというのは、かなり厳しいです。 午後からは、小樽にも行かなければならないし。


≪さっぽろテレビ塔≫
  南下して、「大通公園」へ向かいます。 20階以上あると思われる、大きなビルの横を通りましたが、正面に回ってみたら、「札幌市役所」でした。 シンプルと言うべきか、没個性と言うべきか、評価に悩むデザイン。 更に、南下すると、大通公園に出るなり、いきなり、「さっぽろテレビ塔」が、目に飛び込んで来ました。 「おおお!」という感じで、結構な迫力です。 高さ、147.2メートル。 東京タワーをサイズ・ダウンしたような形ですが、建設は、こちらの方が早いとの事。 ちなみに、同類タワーを、早く出来た順に並べると、

1889年 エッフェル塔    (324m)
1954年 名古屋テレビ塔  (180m)
1957年 さっぽろテレビ塔 (147.2m)
1958年 東京タワー     (332.6m)

  エッフェル塔は、オリジナルなので、別格として、東京タワーを基準にすると、さっぽろテレビ塔や名古屋テレビ塔は、形が崩れているように見えますが、それはたぶん、相対的な見方に過ぎず、どれを最も見慣れているかで、評価は変わって来ると思います。 さっぽろテレビ塔の特徴は、真ん中くらいの高さの所に、巨大なデジタル時計が付いている事でして、これがあるとないとでは大違い。 幾分、雑然とした雰囲気も相俟って、≪ブレード・ランナー≫的な、未来都市のイメージを醸し出しています。

  ここも、上に上れますが、営業は、9:00からで、私が着いたのは、7時47分くらいですから、問題外のズレです。 そんなに待てますかいな。 参考までに、今調べたら、展望台料金が、720円ですと。 あ、そりゃ、営業時間内に行っていたとしても、上がりませんでしたわ。 720円あったら、札幌ラーメンでも食べますって。

  入るかは入らないかは、別として、この塔は、テレビや写真などで、遠景を見るのと、現地に行って、自分の目で見上げるのとでは、全然、印象が違います。 「一見の価値あり」とは、こういう所の事を言うのでしょう。 想像ですが、この塔に、誇りを感じている札幌市民は、相当な割合に上るのではないでしょうか。 街のシンボルにするには、ビル城なんかより、塔の方が、ずっと、理に適っています。


≪すすきの≫
  大通公園を、西に少し歩き、南へ曲がって、「すすきの」へ。 言わずと知れた歓楽街。 とりあえず、どんな所か見てみようと、足を延ばしてみた次第。 途中、「狸小路」という商店街を横切りましたが、早朝の事ですから、入るまでもなし。 路面電車あり。 古い車両と、トラム風の新しい車両が混用されている様子でした。 「地下鉄すすきの駅」の前を通り過ぎると、それっぽい街に入りました。 ビルの壁面に、入居している飲み屋の看板が、上から下へズラリと並び、銀座のようです。 いや、銀座にも行った事はありませんが・・・。 先入観があるせいか、この付近、何となく、びしょびしょした感じがします。

  大体、分かったので、長居は無用と、北へ引き揚げました。 そういや、稚内の運転手さんが、「北海道の風俗街は、以前は旭川にもあったけれど、今や、すすきのだけになってしまった」と言っていました。 私は、まるで無縁なので、分からないのですが、風俗店って、そんなに減っているんですかね? 北海道全体では、まだまだ、相当な人口がいると思うのですが。

  そういや、7ヵ月前の北海道応援の時、毎週、土曜の夜になると、苫小牧から札幌に出撃して、風俗店に通っている人がいましたっけ。 毎週ですよ。 私より年上でしたけど、よっぽど、好きなんでしょうなあ。 また、そういう人が、武勇伝を語りたがるんだわ。 いいよ、そんなの。 私の感覚だと、そういう店に行くのは、明らかに、「恥」なんですが、全く逆に、自慢の種になると思っている人もいるのです。 それより何より、感染症を恐れないのが、一番、不思議。 エイズでも貰った日には、面倒な事になるで。 「自分は、大丈夫」と思える、その根拠が分からん。

1 さっぽろテレビ塔(上)/路面電車(下)/すすきの(右)
2 大通公園



≪大通公園≫
  時間は、8時過ぎくらいで、平日の事とて、通勤者の人波が、ざわざわと、駅の方へ向かって、打ち寄せて行きます。 こんなに大勢の人間が、同じ方向へ向かって歩いているのは、都会ならではの光景ですな。 また、札幌の街は、自転車が多い。 自転車通行帯がないので、歩道をびゅんびゅん走っています。 後ろから接近されると、怖い怖い。 私は、ほんの1時間ほどで、5・6回、怖い思いをしました。 こんな状況が毎日繰り広げられていて、事故が起こらないわけがないので、たぶん、結構、人身事故が起きているんじゃないでしょうか。

  大通公園に戻り、西へ向かいます。 ここで、書いておきますと、「大通公園」は、「おおどおり こうえん」と読みます。 「大通り公園」と書けばいいと思うんですが、なぜか、「り」を略します。 「札幌雪まつり」の会場になる関係で、全国的に名が知れているから、「だいつう こうえん」などと、読み間違える人はいないと思っているのかもしれませんな。 大阪の運送会社で、「大通」なんてーのが、ありそうな気もしますが。

  そういや、去年(2013年)の10月の事ですが、北海道応援に出る前に、同僚達から、「雪まつりに行ってくればいいよ」と言われました。 顔を合わせる人全てから、そう言われて、私も、その気でいたんですが、来てみると、雪まつりは、2月だって言うじゃありませんか。 応援期間は、1月半ばで終わってしまうのに、見られるわけがありません。 私を始めとして、誰も、詳しい事を知らなかったんですな。 人間とは、平気な顔して、テキトーな事を言うものです。

  大通公園は、「北海道マラソン」の準備で、仮設トイレやテントが、大量に設置中。 もし、それらがなければ、この公園、この上なく、気持ちの良い空間だと思われました。 大都会のど真ん中だというのに、1ブロック、すっぽり入るくらいの幅を取って、繁華街の端から端までぶち抜き、中に、噴水や花壇、木立などを、巧みに配してしてあります。 名古屋も、100メートル道路なんか潰してしまって、公園にすればいいのに。

  ただ、問題もあります。 石碑や銅像、モニュメントなどが、多過ぎるのです。 どうも、北海道民は、そういうのが、大好きなようですな。 あまり多かったので、いちいち書きませんが、たぶん、私だけでなく、ここを訪れた観光客のほとんどが、スルーしていると思います。 何度も繰り返すようですが、この種の物は、同じ場所に集め過ぎると、駄目なのですよ。

  銅像は、西の方に、黒田清隆と並んで、全国区では名前を知られていない、明治期の外国人技師のものがありました。 「ホーレス・ケプロン」・・・、誰? 札幌で、欧米人の像というと、よそ者の目には、みんな、クラーク博士に見えますが、クラーク像は、郊外の、「羊が丘公園」(立像)と、北海道大学の中(胸像)にしかありません。 立像の複製を、大通公園に置いてくれれば、手っ取り早く、そこで記念撮影して、「どうだ、これが、クラーク像だぞ」と、土産にできるのですが、それをやってしまうと、羊が丘公園に行く人が激減するから、やらんのでしょうな。

  札幌の姉妹都市は、ドイツのミュンヘン市と、アメリカのポートランド市。 ミュンヘン市から贈られたという、「マイバウム」という、竿灯祭りの竿灯みたいな物体が立っています。 高さ、23メートル。 竿の枝の上には、村祭りの様子を描いたと思われる、人々の姿が、切り抜かれ、取り付けられてています。 材質不明。 鉄と木の、混成でしょうか。 華やかですが、雨曝しだと、傷みが早そうです。

  その近くに、友好都市である、中国の瀋陽市から贈られたと思しき、唐獅子の像が、四体、台座の上に据えられていました。 唐獅子と言えば、神社の狛犬も、時代が浅いものは、唐獅子を模してあるわけですが、言わば、本家の唐獅子というのは、随分違うものですな。 頭の毛が、「螺髪(らほつ)」になっているものね。 しかも、背中には、リボンの結び目のような物が垂れています。 胸の方にも、何かが付いていますから、それを首に下げているという設定で、背中に回した紐まで彫られているのかも。

  大通公園の西の端に、「札幌市資料館」があります。 古い石造風の建物ですが、帰ってから、調べてみたら、鉄筋コンクリート造りで、外壁に石板を貼ってあるのだとの事。 無料らしかったので、入ろうと思ったのですが、着いたのが、開館の10分前で、10分待つのが惜しくなり、パスしました。 午後の小樽行きが気になって、時間がかかりそうな所は、全てパスという感じ。

1 マイバウム(左)/唐獅子の背中(右)
2 札幌市資料館


≪知事公館周辺≫
  札幌市資料館の横にあった案内看板に、「知事公館」というのが出ているのを、発見。 ホテルの観光マップからは、食み出した所ですが、近いので、寄ってみる事にしました。 車なら、すぐそこなんですが、歩くと、どんな所でも、結構あるように感じます。 1ブロックが、こんなに遠く感じるのは、初めて歩く街だからでしょうか。 それとも、札幌の1ブロックが、本州の街のそれより、実際に大きいんでしょうか。

  「uhb」という、地方テレビ局の前を通り過ぎて、西へ。 やがて、それらしき場所が、見えて来ました。 緑がいっぱいの大きな敷地が、塀に囲まれていて、東南の一角に、交番があります。 西南の一角に、「知事公館」という表札が出ている門がありましたが、中は、木が生い茂っていて、建物は見えません。 ほんとに、ここかいな? もっとも、知事が住んでいるのだとしたら、道路から、建物が見えては、防犯上、まずいと思うので、別段、不思議はないのかも。

  知事公館のある一区画は、北側が、森になっているようですが、そちらに回る前に、西隣にある、「道立・近代美術館」へ向かいました。 ここも、案内看板に出ていた施設です。 周りを囲む木立を抜けて、建物のすぐ前まで行きました。 外観は、三角と四角の白い積み木をくっつけたような形で、スマートでありながら、落ち着いた趣きがあります。 ただし、中には入りませんでした。 そんな暇は、ねー。

  知事公館の敷地に戻って、北側の森の中を歩きます。 犬の散歩をしている人など、市民の憩いの場になっている模様。 南を見ると、芝生の向こうに、スイスの山小屋風の建物が見えましたが、何の仕切りもない所にあり、あまりにも、無防備。 どうやら、公館とは言っても、知事が、その建物に住んでいるわけではなさそうです。 この敷地内には、縄文時代から、擦文時代までの、竪穴式住居跡があるらしいのですが、私は、先を急いでいたので、探せませんでした。 隅に、「道立・三岸好太郎美術館」がありましたが、そこもパス。

1 道立・近代美術館
2 知事公館の森
3 知事公館の建物


≪北大植物園≫
  大きく東へ戻って、「北大植物園」へ。 正式名称は、「北海道大学北方生物圏フィールド科学センター植物園」。 ・・・長いな。 入園料、400円。 微妙に高い。 しかし、ここは、有名なので、入らないわけにはいかない強迫観念に押され、券売機で、券を買いました。 券売機で買った券を、受付に渡すわけですが、「受付に人がいるなら、券売機は不要なのでは?」と、思わんでもなし。 機械の維持費の無駄だと思います。 単に、券を買ったかどうかの確認の為だけに、人一人雇っているのは、勿体ない。 券も売ってもらえば、いいのでは?

  実は、見たかったのは、植物園の方ではなく、園内にある、「北方民族資料館」だったのですが、行ってみると、さほど広くない部屋が一室、展示スペースになっているだけで、まるで、ボリュームに欠けていました。 これでは、「苫小牧美術博物館」のアイヌ民族コーナーの方が、見る物が多かったです。 やられたな。 どうも、大学が絡んでいる、この種の施設では、肩透かしを喰らう事が多いです。

  植物園は、植物園。 広いですし、植物の種類も多いですが、特別な興味がない限り、楽しむというところまで行きません。 駆け足だと、何しに行ったか分らないですし、じっくり、説明版を読みながら回っていると、ここだけで、日が暮れてしまいます。 動物園や水族館とは、同列に語れない施設なんですな。 日本庭園・・・、というか、「なんちゃって日本庭園」風の一角や、熱帯温室もありましたが、どうも、「お金を取って、見せる」という、レベルではないような気がしました。 でも、植物園というのは、どこも、こんなものかも。

  園の中央に、博物館があり、そこを、最後の頼みにしていたのですが、行ってみると、まさかの、「改修中」! それはないだろ! 建物がいくつかあるのですが、工事の覆いがかかっていて、入口に近づく事もできません。 一旦、受付に戻って、訊いてみたら、耐震工事中で、中は全く見れないとの返事でした。 申し訳なさそうに言われても、見れない事に変わりはないわけで、慰めにもなりません。 また、やられたぜ。

  それでいて、入園料は、博物館が見れる時と変わらず、400円のままなわけだ。 券売機だから、安くできない? そんな事もありますまい。 汎用品なんだから、金額を調整する機能がないわけがないではありませんか。 200円とは言いませんが、せめて、300円にしてくださいよ。 いや、そもそも、ここへ入ったのが、失敗だったか。 400円あったら、昼飯代に足して、札幌ラーメンでも食べれば良かった。

  帰って来た後で知ったのですが、南極から生還した樺太犬の、「タロ」は、この植物園で余生を過ごし、死んで、剥製にされた後、やはり、ここで、展示されているとの事。 たぶん、「改修中」の資料館の中にあったのではないかと思われます。 そう思うと、今更ながらに、重ねて悔しい。 ちなみに、「ジロ」の方は、国立科学博物館に剥製があるらしいですが、札幌よりは近いと言っても、東京でしょう? その為だけには、ちょっと行けんなあ。


≪北海道庁旧本庁舎≫
  植物園を出て、東へ向かうと、すぐに、「北海道庁旧本庁舎」の赤煉瓦の建物が見えて来ます。 札幌市街の観光地で、最も有名なのは、時計台ですが、最も観光客が多いのは、ここのようです。 堂々たる洋風建築で、周囲に敷地をたっぷり取っているので、全体が一目で見えて、威厳溢るる雰囲気を、辺りに撒き散らしています。 よく分からん混合様式の国会議事堂や、街なかに埋没している東京駅などより、遥かに見応えがあります。

  敷地の南側の門から入ると、まず、「北海道議会」の現代的なビルがあり、こちらは、現役で使われている模様。 では、「北海道庁・旧本庁舎」は、イコール、「旧北海道議会」の建物なのかというと、そうではなく、中には、議場のような場所はありませんでした。 昔は、知事は、中央の任命制だったので、議会とは関係なかったんですな。 「旧本庁舎」というのは、役所が入っていた建物なのでしょう。 外観は巨大ですが、中に入ると、天井が高い二階建てに過ぎず、部屋数も、そんなに多くありません。

  中は、部屋ごとに、「樺太関係資料館」や、「赤れんが北方領土館」などの、展示スペースになっています。 しかし、こういう見せ方をするより、使用されていた当時のままの調度品を置いて、純粋に、歴史的遺構として見せた方が、観光客には、受けがいいと思います。 時計台やテレビ塔に比べて、全国区での知名度が低いのは、中の展示のせいではありますまいか? あの展示を見て、「旧本庁舎は、絶対に見に行った方がいいよ」と、人に勧める観光客は、あまり、いますまい。 政治信条に関わる事というのは、扱いが厄介なのです。

  敷地の東側にある正門から外へ出ます。 正門前は、通りを挟んで、広い空間があり、かなり離れても、旧本庁舎を撮影できます。 つくづく、外観は、一級品なんですがねえ・・・。 つくづく、中が惜しい・・・。 時刻は10時半。 ホテルまでは、もうすぐです。 午後からの、小樽行きに備え、カメラの充電をしたいので、一旦、戻らなければなりません。

  ホテルへ戻る途中、普通の道路を、観光馬車が進んでいくのを目撃し、追いかけて、写真を撮りました。 二階建てで、20人以上乗っている車を、白い馬が一頭で、牽いて行きます。 力があるのう。 1馬力で、20人引けるのなら、50ccの原付は、5馬力くらいありますから、100人引けるという勘定になりますが、何だか、イメージ的に無理っぽいですな。

1 北大植物園
2 博物館、改修中
3 北海道庁旧本庁舎
4 観光馬車


≪ホテルの昼≫
  北海道庁旧本庁舎から、東へ向かうと、いくらも歩かない内に、ホテルのある通りに出ました。 すぐ、近くだったんですな。 という事は、行き当たりばったりながら、割と、無駄のないコースを回って来た事になります。 10時45分くらいに、ホテルに戻り、フロントで、キーを貰い、部屋に戻って、カメラを充電してから、一服しました。 この時、日記も、少し書いたと思いますが、覚えていません。 トイレにも座っているから、日記を書くほど、時間がなかったかも。

  大して歩いていないのに、脚が痛くなっていました。 退職してからこっち、喰っちゃ寝ばかりで、腹が出て来たせいで、たまに歩くと、自分の体とは思えないくらい、動きが鈍くなっているのを感じます。 それでいて、朝食の喰い足りなさは、こたえているようで、空腹感だけはあるのだから、始末が悪い。 でも、フリー・タイムの日は、昼食を抜く事に決めていたので、この時も、何も買って来ていませんでした。 なんだか、ひもじいなあ。


≪札幌から、小樽まで≫
  11時30分、小樽へ行く為に、また、出かけました。 カメラの充電は、まだ、終わっていませんでしたが、途中で打ち切ります。 フル充電でなくても、半日分くらいは、もつでしょう。 掃除をパスしておいたお陰で、荷物を旅行鞄に戻さずに済み、出たり入ったりが気楽にできました。 そういや、この時、廊下は、掃除係の仕事時間で、各種の掃除用具や、アメニティー類を積んだワゴン台車で、ごった返していました。 フロントには、一日で、キーを二度預けた事になりますが、二度でも、結構気が引けるというのに、何回も出かける人は、どうするんでしょうねえ。

  ホテルを出、10分くらい歩いて、札幌駅へ。 駅前は、昼間に見ると、高層ビル群の人工の美が、際立って見えます。 夜のような威圧感がないのは、ありがたい。 札幌駅から、電車に乗るのは初めてですが、前夜、一度来ているので、改札口がどこかは分かります。 改札口さえ分かれば、券売機は、必ず、そばにあるわけで、切符を買うのは、どうって事はありません。 ≪こころ旅≫を見ていると、火野さんが、駅の券売機で悪戦苦闘する場面が、よく出て来ますが、私は、券売機で滞った経験はないです。 金額の選択と、お金の投入の、どちらを先にするかで、悩んだ事がありません。 つまり、どちらが先でも、買えるようになっているんでしょう。

  11:44発の、快速エアポートで、小樽へ。 快速エアポートは、新千歳空港へ行く列車ですが、札幌ではなく、小樽から出ているので、小樽へ戻る列車もあるわけです。 片道、640円。 切符を買った後で、「しまった! どうせ、今日中に戻って来るんだから、往復で買えば良かった」と思ったんですが、後で調べたら、往復でも、別に割安になるわけではありませんでした。 なーんだ、そうだったのか。

  ・・・じゃ、どうして、往復切符を売っているんでしょう? 帰りに、券売機に並ばなくて済むメリットがある? いやあ、そんなの、手間も時間も、大した事じゃありませんぜ。 切符をどこにしまったか、分からなくなってしまうデメリットの方が大きいでしょう。 それにしても、切符というのは、どうして、ああ、なくし易いんでしょうね。 旅に出る前に、「切符を買ったら、必ず、ここへ入れておく」という、場所を決めておいた方がいいですな。

  札幌が、11:44発で、琴似、手稲、小樽築港、南小樽、と停まって、小樽に、12:16着です。 札幌の近郊は、ずっと街が続いていて、大人口を抱えている事が分かります。 194万人だとか。 そりゃ、街も膨れ上がるわな。 快速なので、停まらない駅もあります。 銭函という駅から、海沿いに出ますが、そこはもう、小樽市になります。 しばらく、山と海の間を、鉄道だけが通っている感じ。


≪小樽駅≫
  32分間の電車旅を終えて、小樽駅に着きました。 すぐそこ、というわけではありませんが、遠いという感じはしない距離です。 ホームの屋根を見るに、だいぶ、年季が入った駅で、何だか、懐かしさを感じます。 しかし、駅舎の方は、そんなに古く見えません。 最近、リニューアルしたのかも知れないと思いましたが、これは、帰って来てから調べたら、実際、そうでした。

  駅舎の前の壁に、洋風の鐘が吊るされていました。 何か、由来があるのでしょうが、迂闊にも、説明板を読んで来ませんでした。 ここのところ、洋風の鐘を見ると、昨今、観光地に、うじゃうじゃ作られている、「恋人の鐘」を連想してしまい、反射的に軽視する癖がついてしまったからでしょう。 これも、帰ってから調べたら、「むかいの鐘」という、昔、列車が到着するのを知らせるのに使っていた鐘だという事でした。


≪小樽の街≫
  駅を出て、すぐに分かるのは、「小樽は、そんなに大きな街ではない」という事。 名前こそ有名ですが、「大いに栄えたのは、昔の話」という感じが、街に漂う雰囲気で分かります。 人口は、12万5千人くらいだとか。 街全体が、傾斜地に作られていて、完全な平地は、海の近くに、ごく僅かしかありません。 駅から、坂の下を見ると、港の海が見えるのですから、街の狭さが分かろうと言うもの。 何となく、熱海に似ていますが、熱海は、人口4万人くらいですから、小樽の方が、ずっと大きいです。

  一応、ネットで、地図をプリントして来たのですが、この街は、そういったものがなくても、迷う心配はありませんでした。 とにかく、海の方へ向かって歩き、運河にぶつかったら、北か南か、どちらかへ進めば、その近辺に、目当ての観光地が必ずあります。 大変、分かり易くて、観光客にはありがたい街ですな。 車では、却って不便。 バスに乗るほど、広くありません。 自転車では、1時間半くらいで、見終わってしまいます。 徒歩なら、3時間。 半日いるとなると、とても、間が持ちません。

1 札幌駅前
2 小樽駅内部(上)/小樽駅外観(下)/むかいの鐘(右)
3 駅から見える海
4 旧手宮線


≪旧手宮線≫
  坂を下る途中、「旧手宮線」という、鉄道の跡を見ました。 1985年に廃止され、レールが一部残されている様子。 説明板によると、北海道で初めての鉄道だったとの事。 日本全国でも三番目で、開業は、明治13年(1880年)というから、随分、急いで作ったものです。 石炭の運搬が主な用途だったそうですが、明治政府は、よっぽど、北海道の資源が欲しかったのでしょう。 北海道の鉄道は、アメリカの技術で作られた、とも書いてありました。


≪小樽運河≫
  やがて、運河が見えて来ます。 その直前に、壁が全面、ブルー・シートで覆われた、改修工事中と思われる建物がありました。  多いな、改修中の所・・・。 「運河プラザ」と書いてあって、名前から考えて、土産物店だろうと思い、気にせずに通過したのですが、実は、ここには、後で、戻って来ざるを得なくなります。

  小樽の街は、どちらかというと、南北に広がっているので、運河も南北方向に伸びています。 南の方には、かなりの数の観光客がいました。 しかし、私は、博物館を目指していたので、北へ向かいました。 こちらは、あまり、人がいません。 運河には、遊覧船が行き来し、漁船やモーターボートが、繋いであります。 どうやら、運河の実用的な役割は、すでに終わっていて、観光専用になっているようでした。 時代がありそうな倉庫の建物が、あちこちに残されています。

  運河というと、広大な大陸の内陸部で、都市と都市を結ぶ、長大な物を連想してしまうのですが、小樽の運河は、そんな大それた規模ではなく、単に、港で陸揚げした荷物を、倉庫群に効率よく運ぶ為に作られた、水路です。 いっそ、「小樽水路」と言った方が、適切な表現になるかもしれません。 絶景的なスケールの大きさではなく、古い時代の風情を楽しむ観光地なんですな。


≪小樽市総合博物館≫
  やがて、運河の北端に至り、そこから、更に、数百メートル歩くと、「小樽市総合博物館」に着きました。 思っていたよりも、ずっと大きい建物です。 市の人口規模に比して、博物館が、これだけ大きいという事は、小樽の文化レベルが高い事を示していると見るべきでしょうか。 私論ですが、住民の知性レベルを高めたかったら、充実した博物館は、必須です。 特に、子供には、大きな影響を与えます。 コツは、子供騙しの展示にせず、大人が楽しめる内容にする事ですな。

  門を入ってすぐの所に、銅像あり。 「ジョセフ・U・クロフォード」という、アメリカ人の鉄道技術者だとの事。 知らんなあ。 「少年よ、大志を抱け」のように、何か、一言、言って帰れば、全国的に、有名になったんだと思いますがね。 たとえば、鉄道技師なら、「この一本のレールが、未来に繋がっている」とか何とか。 もっとも、むしろ、真面目な人ほど、そういう事は言わないのかも知れませんな。 クラーク博士は、本国アメリカでは、全く無名なようですし・・・。

  別館との共通入館券が、500円。 フリー・タイムの日に、自分で来た所なので、もちろん、クーポンはなく、自腹。 でも、この券で、三つの施設に入れるので、高いという感じはしません。 ただ、この総合博物館の本館は、私が想像していたのと違って、ほぼ、完全に、鉄道博物館でした。 相当なボリュームがあるので、鉄道好きにはこたえられないと思いますが、あいにく私は、全く興味がなくて、何を見ても、ピンと来ませんでした。

  ちょっと、興味を引かれたというと、鉄道員の制服が並んでいる中で、保線担当者の服だけ、上着が、法被だった事です。 つまり、法被の方が、作業がし易いと判断されていたんでしょうな。 あと、レールの種類を比較した展示も、まじまじ見ました。 断面を見せてありましたが、こんなに、いろんな形があったとは、知らなかった。 面白かったのは、そのくらいですかね。 興味がないというのは、どーしょもないもので、写真も、ほとんど、撮ってありません。

  建物の外に出ると、広大な屋外展示場があり、蒸気機関車、ラッセル車、郵便車、客車、転車台、車庫などが展示されている他、「アイアン・ホース号」という、蒸気機関車の実走もやっていました。 敷地内の、「中央駅」から、「手宮駅」まで、線路が敷いてあって、その間を走るのです。 私は、時間の関係と、興味の薄さの関係で、乗りませんでしたけど。 汽車時代の経験がある両親から、「あんなの、煙いだけ」と聞いていたので、ますます、興味が湧かぬ。

1 小樽運河①
2 小樽市総合博物館
3 鉄道員の制服
4 アイアン・ホース号

  昭和の中頃に使われていた、客車があったので、ちょっと懐かしくなって、中に入ってみたのですが、あまりのみすぼらしさに、思わず、眉間に皺が寄ってしまいました。 私が子供の頃は、こんな粗末な物に乗っていたんですねえ。 もっとも、当時も、新幹線を除いて、鉄道の旅を快適だと思った事はありませんでしたが・・・。 また、独特の臭いが、そのまんま残ってるんだわ。 昔は、列車の中で、飲み喰いするのが当たり前だったから、様々な臭いが重なり合って、ごってり染み付いているのでしょう。 リセッシュ、リセッシュ!

  今でも、駅弁は売っていますが、列車内で食べている姿は、あまり見なくなりました。 それで正解。 向かい合わせの席で、前に座った奴に、飯なんか喰い始められた日には、気持ち悪くて、目のやり場がなくなってしまいます。 また、喰い終わった弁当の箱を、椅子の下に放り込むのが、汚いんだわ。 誰が、あんな事、始めたのかねえ。 今でも、やる奴はやっていると思いますが、全く感心しない習慣です。 「車内、ゴミ捨て禁止」にしてしまえば、どれだけ、乗り易くなるか知れません。


≪手宮洞窟保存館≫
  博物館の裏手の山の麓に、崖にへばりつくようにして、「手宮洞窟保存館」があります。 実は、ここが、私が小樽に来た最大の目当てでした。 洞窟の壁に、1500年前の、彫刻画があるというのです。 ここにも、共通券で入れます。 入口に近付くと、受付係と思しき、高齢の男性が、外に出ていて、暗渠の格子蓋の付近に、念入りに、殺虫剤をスプレーしていました。 奇妙な光景でしたが、後で考えたら、あれはたぶん、デング熱のニュースを見て、転ばぬ先の杖をついておこうとしていたんでしょうな。 その殺虫スプレーを持っていた手で、私にパンフを渡してくれましたが、こちらは、複雑な気分・・・。

  中は、狭く、真っ暗で、彫刻画がある所と、展示品がある所だけ、ボタンを押すと、数分、灯りがつくようになっています。 ところが、彫刻画の向かい側に展示品のケースがあり、そちらの灯りが点くと、彫刻画の前のガラスに反射して、写真が撮れません。 灯りが消えるまで、待たなければなりませんでした。 そして、灯りが消えると、暗くなるので、三脚なしのカメラでは、ブレてしまって、ろくな写真にならないというジレンマ。

  彫刻画そのものよりも、それを描き写して、見易くしたパネルの方を、専ら見て来たのですが、二本の角が生えた、道化師みたいな形態の人間が描かれていました。 この絵、以前は、古代文字という説もあったようですが、今では、否定されているそうです。 二本の角が生えているのは、シャーマン(呪術師)が、動物に仮装しているのではないかと推測されているとの事。 シベリアにも、同じような彫刻画があるというのが、不思議。 同じ民族が、ここまで来たんでしょうかねえ。

1 手宮洞窟保存館
2 デング熱対策中
3 彫刻画(左)/模写図(右)


≪運河館≫
  手宮洞窟を後にして、港寄りの道を通り、市街地に戻ります。 運河の通りに出て、共通券で入れる、博物館の別館である、「運河館」へ。 ここは、倉庫風の壁に、瓦屋根を載せた、特徴ある建物らしいのですが、現在、改修中で、壁は、ブルー・シートで覆われていました。 そうです。 この運河館は、前述した、「運河プラザ」と続きの建物だったのです。 しまった! 無関係だと思っていたら、有関係だったのか。 北大植物園の博物館に続き、今日は一日で、改修工事中の建物に、二回も当たってしまった。 何たる不運・・・。

  しかし、不幸中の幸い。 ここの場合、中は営業中で、ほぼ全ての展示を見る事ができました。 やれやれ、共通券が、無駄にならなくて済んだ。 中は、北前船や、小樽の歴史を中心テーマにした資料館です。 本館の方より、運河館の方が、博物館っぽい。 模型、写真、遺物、再現した店構えなど、ビジュアル的な工夫が凝らしてあって、よく考えられた展示方法でした。 昔、栄えた所だけあって、今の街より、資料の中の街の方が、活気を感じます。

  「オタモイ遊園地」の展示がありました。 昭和8年(1933年)から、昭和27年(1952年)まで、小樽の西の方にあった遊園地で、崖の上に、三階建ての、巨大な楼閣があった事で有名。 以前、ニュース番組で、開園当時の映像が発見されたというの報道を見た事があったんですが、その時は、オタモイが小樽にある事は愚か、小樽が北海道のどこにあるのかも知りませんでした。 ここだったんですなあ。 今でも、廃墟の一部が残っているようですが、市街地から、かなり離れていて、簡単には行けないようです。 

  消防犬、「文公」の剥製あり。 昭和初期に、小樽の消防署に「勤務」していた犬で、火事が起こると、真っ先に消防車に乗り込み、火事場では、野次馬の整理や、ホースの縺れを直すなど、大活躍をしていたとの事。 凄い犬もいたものです。 他界した時には、消防組葬が行なわれ、多くの市民から、好物のキャラメルを贈られたのだとか。 悲劇ではないのに、なぜか、泣ける話です。

1 運河館、改修中
2 北前船
3 オタモイ遊園地の資料
4 文公剥製(左)/文公銅像(右)

  他に、縄文土器や、昆虫標本、トドの骨格標本など、考古学や、生物学の展示もあり、大変な規模です。 私個人的には、本館より、こちらの運河館の方が、ずっと面白かったです。 改修中でなければ、もっとよかったんですがねえ。 建物の外に出ると、文公の銅像がありました。 銅像にすると、ハチ公みたいに見えますな。 剥製の方は、もっと、可愛らしいんですけど。


≪運河再び≫
  運河館を後にして、運河の、南の方へ。 観光客が、うじゃうじゃいる辺りへ入って行きます。 人力車が、そこここに、全部で10台くらい、屯ろしていますが、お客は、あまり、乗っていない様子。 料金表を見ると、一番安いコースで、「一区間 一人3000円、二人4000円」、一番高いのは、「1時間 一人13000円、二人17500円」とあります。 そりゃあ、ホイホイとは乗れんわなあ。 走っている時間よりも、客引きをしている時間の方が長いようだったら、全員で話し合って、値下げした方がいいのでは? タクシーもそうですが、客を乗せて、初めてお金になる仕事ですからねえ。

  倉庫の中を改装して、飲食店にしている所が多く、そちらも、賑わっているようでしたが、あまりにも、運河の周辺に、観光客が集中し過ぎていて、何だか、アンバランスな感じがしないでもなし。 小樽は、歴史上の事件・人物との関わりが薄くて、運河以外に、観光の目玉になる物がないようです。 それならそれで、もっと徹底して、運河周辺の街並みを、最盛期の時代の建物で埋め尽くしてしまった方が、観光客は、より喜ぶでしょう。 石碑は、集め過ぎると白けますが、倉庫のような、個々の謂れが希薄なものは、逆に、散らばっていると駄目なのです。 人気のあるエリアから離れた所に、昔の倉庫があったとしても、倉庫だけを見に、そこまで行く観光客はいますまい。

1 人力車
2 小樽運河②
3 小樽運河③


≪遅い昼食≫
  ここで、2時45分くらいです。 この日は、昼食抜きの予定だったのですが、朝から、かなりの距離を歩いたせいで、疲労が溜まり、駅までの坂を上る体力がなくなってしまいました。 やむなく、予定変更して、コンビニに入り、「くるみチーズマヨちぎり」という、長い名前のパンを買いました。 定価115円のところ、賞味期限が近づいていたせいで、値下げされて、99円。 我ながら、とことん、ケチだ。 しかし、食べるには食べたものの、前の晩から、パンばかりなせいか、期待していた程、エネルギーに変わってくれませんでした。 つまり、元気が出ないのですよ。


≪札幌に帰還≫
  ひーこら言いながら、坂を上って、小樽駅に戻ったのが、3時15分頃。 その後、一番早く来た、15:24発の普通列車に乗ったのですが、これが失敗で、普通列車ですから、当然の事ながら、各駅停車。 しかも、車内放送を聞くと、後から来る、快速エアポートに、途中で抜かれるというのです。 疲れていて、少しでも早く帰りたかったので、手稲駅で下りて、快速エアポートに乗り換えました。 ところが、こちらは、混んでいて、到着寸前まで、座れませんでした。 泣きっ面に蜂だね。

  4時10分頃に、札幌駅に、到着。 駅の近くで、電話ボックスを見つけ、家に電話しました。 前日は、ホテルを探すのに夢中で、電話どころではなく、中一日置いてかけたのですが、もちろん、家の方は、私の心配などしていませんでした。 その後、ホテル近くのローソンで、夕飯用に買ったのは、またしても、パンです。 この時は、「カレー・パン 123円」と、「メンチカツ・ロール 108円」の2個。

  一途に吝嗇道を貫こうとする、己れの気骨が恨めしい。 しかし、弁当となると、400円近くするわけで、パン2個と比べて、値段が2倍。 そう思うと、どうしても、買う気にならないんですな。 ホテル住まいなので、弁当の容器を、ゴミ箱に捨てていいものかどうかも気になります。


≪ホテルの夜≫
  4時半頃、ホテルに到着。 キーを受け取って、部屋に戻ると、朝食券を持って、フロントに取って返し、翌朝用に予約していた、洋定食を、和定食に変更してもらいました。 すんなり、変えてもらえて、良かった。 情けない話ですが、早急に御飯を食べねば、死んでしまいそうです。 今にして思うと、ローソンで、パンだけでなく、おにぎりも1個買ってくれば、だいぶ、違ったと思うんですがね。 死ぬほど、ケチって、どうする?

  そういや、この時、フロントの隣で、女性客が、チェック・イン手続きをしていて、驚いた事に、禁煙室を割り当てられていました。 この日に空いたのかも知れませんが、何だか、釈然としません。 先に、禁煙室を予約していたのは、私なのですから、禁煙室が空いたなら、まず、私に、移るかどうか、訊ねるべきではないですかね? 同じ料金を払っている客なのに、この女性は、何の障碍もなく、禁煙室に入り、私だけが、望まない喫煙室に、二泊を強いられる理由はないはずです。 リセッシュを渡せばいいというなら、この女性に渡したら如何か?

  しかし、ここで、それを言うと、これまた、嫌~な思い出になってしまいそうなので、やめておきました。 もっとも、言わなくても、結局、こうやって、嫌な思い出になっているわけですがね。 たぶん、フロントは、「男だから、我慢できるだろう」と、軽く考えたんでしょうなあ。 それ自体が、喫煙者の発想でして、非喫煙者が煙草の臭いを嫌うのに、男も女もありゃしないんですが、そういう事は、喫煙者には、死ぬまで理解できんのでしょう。

  部屋のドアの外に、ビニール袋が置いてあり、中を見ると、アメニティー類が入っていました。 今までのホテルで、掃除をパスした日に、こういう物が置かれていた所はなかったので、配慮の行き届いたサービスと言えます。 フロントはさておき、掃除係は、よく出来た人物のようですな。 こういう、いい所もあったから、前回、ホテルの名前を実名で出したわけですが。

  北海道旅行では、汗を掻かなかった場合には、シャツを洗わない日もあったのですが、この日は、結構歩いたので、ズボン以外は、全て、洗濯しました。 何とか、翌朝までに乾かすために、エアコンは、「強」にしておきます。 フリース・ジャケットも、もう使わないだろうと思って、リセッシュして、ハンガーにかけておきました。 翌朝には、畳んで、旅行鞄に入れてしまうつもり。 夕食は、もちろん、パン。 もう、飽き飽きしてしまって、カレー・パンだろうが、メンチカツ・ロールだろうが、関係なく、砂を噛むようです。

  7時に横になったら、眠ってしまって、8時に目覚め、また眠ったら、夜中の1時半に目覚めるという、ぶつ切りの睡眠になりました。 旅の終わりが近づいていると、いろんな事が脳裏をよぎって、心が落ち着きません。 この晩、睡眠不足だったせいで、体調に不具合を生じ始め、次の日が、ハードな一日になってしまったのは、否定できないところです。



≪四日目、まとめ≫
  フリー・タイムで、自分の好き勝手に動けましたから、気楽は気楽でした。 貸切タクシーは、話を聞けるのは面白いですけど、他人との接触ですから、その分、気も使うのです。 予定通り、札幌と小樽の要所を見て回れたのは、頂上な結果。 疲れた疲れたと言いつつ、強行軍好きの私にしては、時間的に、早々と帰って来てしまいましたが、これは、小樽観光が、予想していたよりも、早く終わってしまったからです。

  もし、貸切タクシーで行ったのなら、もっと、いろんな物が見れたのかもしれませんが、鉄道で行って、歩いて回るとなると、大体、私の通ったコースくらいになってしまうんじゃないでしょうか。 いや、総合博物館の方まで、足を延ばす人は少ないから、もっと、コンパクトになるのが、普通なのかも。

  これから、北海道に旅行に行くという方へ、老婆心のアドバイスですが、札幌と小樽を、一日で見るのなら、札幌の方にウエイトを置き、小樽の方は、午後2時頃から出かけても、充分だと思います。 鉄道博物館や手宮洞窟に興味がなければ、運河周辺で、全て間に合いますから、2時間も取っておけば、釣りが来ます。 あと、もし、札幌に、丸一日、使えるなら、周辺の山の方に、見る所はいくらもあるようです。

2014/11/02

稚内を走る

  北海道旅行記の、三日目です。 8月27日、水曜日。 この日の予定は、かなり、ハード。 朝一で、フェリーに乗って、約2時間、航海し、稚内へ。 稚内を、貸切タクシーで、約5時間、観光。 午後4時に、稚内空港から、飛行機で、新千歳空港へ移動。 そこから、電車で札幌へ行き、札幌泊まりとなります。 ホテルの到着予定時刻が、夜7時半くらいに設定されていて、もう、真っ暗なのは確実。 しかも、ホテルの夕食はないので、自分で用意せよというのです。 ハードでしょう?

  前の晩から気にしていたのが、「日記を、いつ書くか?」という点でした。 先に書いておけないのが、日記の厄介なところです。 ホテルの夜を除き、書く時間が取れるとすれば、フェリーの中か、稚内空港での待ち時間の、どちらかだけ。 しかし、フェリーは朝一だから、まだそんなに書く事は溜まっていないでしょう。 稚内空港で、どれだけ時間があるかによって、夜が楽になるか苦になるかが決まって来るわけだ。

  というわけで、予め、この日の日記は、「箇条書き主体で行こう」と決めていたらしく、今、日記ノートを読み返すと、個々の文が妙に短いです。 単語だけ並べてある所もあって、暗号か、判じ物のよう。 どうせ、内容を整理して書き直すから、構わないと言えば構わないんですが、後で思い出した事を、全然違うページに追記してあったりするので、突き合せるのが、非常に厄介。 他人が書いたのなら、腹を立てるところですが、他ならぬ自分の筆だから、致し方ない。 ところで、個々の文は短いといっても、ページ数は、8ページ余りあります。 それだけ、いろんな事があったんですなあ。



≪ホテルの朝≫
  朝、4時半に目が覚めました。 前の晩、9時頃には寝てしまったので、7時間半は眠った事になり、それ以上、眠れないだろうと思って、起きてしまいました。 前の晩に手洗いした洗濯物の内、部屋の中に干しておいた、靴下と、おしぼりタオルが乾きません。 ユニット・バスの中に干してあった、その他の物は、ほぼ乾いていたので、場所を入れ替えました。 このホテルの、この部屋に限らず、北海道は、沖縄ほど、乾燥度が高くない模様です。 最初のホテルで、すんなり乾いたのは、扇風機のお陰でしょう。

  4時50分頃、カーテンを開けたら、外はもう明るくなっていて、嬉しい事に、利尻岳の全体が見えました。 二日間、山の上半分を覆っていた雲が、綺麗に吹き払われて、東から射す曙光に照らされ、幾分シルエット気味ながら、ギザギザに尖った頂上の形が、はっきり見えます。 何という、厳かな存在感か・・・。 「嬉しい」というより、「ありがたい」というべきか。 実に、神々しい姿で、言葉になりません。 周囲が海で、余計な物がない分、富士山よりも、神秘的な印象が強いです。 なるほど、これなら、地元の人達が、どんなに誇りに思っても、不思議はない。

  やがて、日の出。 太陽が出てしまうと、光が強く当たり過ぎて、情緒が損なわれます。 日の光で、利尻岳の山容が、はっきり見えるかと思って、粘っていたんですが、逆に、白く霞み始めてしまい、諦めて、窓とカーテンを閉めました。 とにかく、利尻岳の全体を見る事ができて、良かったです。 たぶん、もう二度と来れないのに、見れないまま帰ったら、一生、悔やみそうな度合いは、桃岩の比ではないような気がしますから。

  まだ、時間が早いので、ベッドに横になっていたら、うとうとして、夢を見ました。 自宅の自室で、兄と二人で、何かに釘を打ち付けている夢。 兄が出て来る夢など、滅多に見ません。 よりによって、旅先で、なんで、そんな夢を見るのか? 岩手赴任と退職で、心が傷ついたせいで、精神の退行現象が起こっているのでしょうか。 兄と何かを一緒にやっていたのは、子供の頃だけですから。

  6時頃、再度、起き出して、洗濯物の様子を見ましたが、乾く気配はありません。 やむなく、使っていなかったバス・タオルの間に挟み込んで、湿気を取る事にしました。 新聞紙があれば、水の吸い取りは、一番いいのですが、ホテルの部屋では、望むべくもなし。 フロントに頼めば、くれるかもしれませんが、それ以前に、洗濯室の乾燥機を使うように勧められてしまいそうです。 もちろん、そういうのは、有料なわけでして、自他共に認める吝嗇家の私が、たかが、靴下と、おしぼりタオルを乾かす為だけに、そんなものを使うわけがありません。 馬鹿馬鹿しい。

  6時半になったので、2階の食堂に、朝食を食べに下りました。 同じ階から、エレベーターに乗り合わせた中年男性二人が、「●●さんは、船を雇って、行ったらしいよ」という会話を交わしていました。 ●●の部分には、北海道の地方テレビ局の名前が入ります。 船を雇って、行った先は、土砂崩れで孤立している、元地地区の事でしょう。 客船の航路は存在しませんから、漁船を雇ったのだと思われます。 そういう話をしているという事は、この二人もテレビ関係者に違いありません。

  しかし、取材に来ているのに、こんな、現場と離れたホテルに泊っているようでは、報道に携わる者として、如何なものか。 なぜ、テントと寝袋を背負って、脚で山を越えぬ? もっとも、これは、事件・事故・災害の重大度の問題で、もし、大勢の死者が出ているような件だったら、徒歩で山越えも辞さなかったかも知れませんな。

  朝食は、バイキングです。 7階だった利尻のホテルの食堂と違い、こちらは、2階で、高層階ではなかったのですが、窓を大きく取ってあって、明るさに関しては、負けていませんでした。 やはり、子供客はおらず、静かなのは、大変、気持ちがいい。 それはいいんですが、圧倒的多数を占める、高齢者の客が、子供とは別の意味で、問題を引き起こしていました。 独立したテーブルの周囲に料理が並べられている場所で、行列しているのに、テーブルを囲む人の輪に、途中から割り込む、オッサン共がいるのです。 一人がやると、我も我もと割り込んで、何とも思っていない様子。

  あまりひどいので、私の前に並んでいた、30代くらいの女性に、「これは、並んでるんじゃないんですか?」と訊いたら、困った顔で振り返って、「並んでます」との返事。 私は、「ですよねえ」と続けましたが、その会話が聞こえているのかいないのか、一向に、割り込みが止まりません。 それどころか、私がようやく、料理を取れる位置に来たら、オバサンの一人が、そのすぐ前に割り込んで来ました。 片手を立てて、私を拝んでいましたが、悪いと思って拝むくらいなら、割り込まなければいいのに。 どうも、この高齢者達は、一般常識とは違う原理で活動しているようです。 歳を取ると、怖いものがなくなるんでしょうか。

  御飯と味噌汁だけは、係の人がよそっくれました。 こういう事をしていたのは、沖縄・北海道通して、このホテルだけです。 その方が、ジャーや鍋に、大勢がタッチしないので、衛生的には望ましいのですが、御飯が、すりきり一杯だったのは、ちと少なかったです。 さりとて、おかわりするほど、食べたいわけでもなし。 味噌汁には、カニの脚が入っていました。 中身が、箸で簡単に出せたのは、不思議。

  私が取った料理は、利尻同様、ほとんど、洋食系です。 和食系にできない事もないですが、朝食ですから、和食だと、海苔とか卵とか、結構しょぼい物になってしまい、せっかくのバイキングなのに、もったいないと思うのです。 料理用の皿を一枚しか取らなかったので、その上に、全部載せる事になり、盛り付けが、料理というより、エサのようになってしまいました。 でも、味のおいしさは変わりません。

1 利尻岳全景
2 朝食


  他に、ここの朝食で、目に付いたというと、浴衣姿で食べに来ている、オッサンが多かった事ですかね。 何かの団体だと思うのですが、60代くらいの男ばかり、十数人が、揃って、浴衣。 ホテルによっては、「食堂と浴場は、浴衣姿でも構いません」と、利用規約に書いてある所もあるので、ここもそうだったのだろうと思いますが、座敷ならともかく、テーブル・椅子式の食堂で、浴衣は、何とも不似合いです。 浴衣といっても、つまるところ、「寝巻き」なわけでして、寝起きで、顔も洗わずに、公衆の面前へ出て来たように感じられるのです。 実際、そうだったのかも知れん。 きったねーなー。

  部屋に戻って、7時くらい。 前日のチェック・インの時、フェリー・ターミナルへの送迎バスが、8時に出ると聞いていたので、それに合わせて、荷物を片付け始めます。 結局、靴下と、おしぼりタオルは乾ききらず、書類の防水用に持って来たビニール袋を一つ空けて、その中に、湿ったまま入れ、持って行く事にしました。 札幌のホテルで、また乾かすつもり。

  7時50分、部屋を出て、一階ロビーへ。 チェック・アウトすると、送迎バスが、玄関前にいると言われました。 出てみると、大きなマイクロ・バスでした。 ざっと見て、20席くらいでしたが、帰って来てから、写真を元に調べたら、トヨタのコースターで、26人乗りと、29人乗りがあるとの事。 それらは、たぶん、補助席も使った場合の人数なのでしょう。 後ろの方の席に座ったんですが、荷物の積み込み用に、後部ドアが開けられていて、発車する寸前まで、寒い思いをしました。 さすが、最北の島、8月でも朝は寒いのです。 私自身は、旅行鞄を、膝の上に載せていました。 飛行機でも、車でも、荷物を預けると、後で受け取る時が面倒だと思っていたので。

  8時に、お客が、10人ほど乗った状態で出発したのですが、その直前に、運転手の孫らしき子供が二人乗せられました。 一人は幼稚園くらい、もう一人は、まだ2歳くらいです。 どうやら、日常的に、幼稚園や保育所へ送って行っている様子。 公私混同だとは思いますが、それは、まだいいとして。 問題だと思ったのは、2歳くらいの方を、座席ではなく、運転席の隣の台の上に座らせた事です。 背凭れはなく、もちろん、シート・ベルトもありません。 子供は、ただ尻を載せているだけで、運転手が、時々、左手で支えながら、片手運転しています。

  背筋が、ぞーっとするではありませんか。 この人、運転手という仕事を、何だと思っているんでしょう? 人の命を預かっている責任感など、微塵もないのでは? いくら、礼文島に警察官が3人で、交通取り締りが緩いとはいえ、これはないでしょう。 フェリー・ターミナルの前まで、5分もかかりませんでしたが、距離が短ければいいというものではありません。 下りて、ほっとしました。 犬も歩けば棒に当たるといいますが、嫌なものを見てしまった。 長生きはしたくないものです。


≪香深港フェリー・ターミナル≫
  前回も書いた通り、搭乗口は工事中ですが、ターミナル自体は、機能しています。 中に入って、クーポンを、乗船券に換えてもらいました。 船会社は、前日乗ったのと同じです。 「香深⇒稚内 2等 大人1名 2570円」とあります。 前日の960円と比べて、随分と高いですが、これは、航海時間が違うからです。 鴛泊・香深間が、50分なのに対し、香深・稚内間は、2時間弱かかるのです。 前の晩、食品雑貨店で、飴を買っておいたのは、この為です。 過密スケジュールだというのに、朝一から船酔いは、是非とも避けたいところではありませんか。

  ちなみに、飴をなめ続けていれば、大抵の乗り物酔いは、回避できます。 何飴でも宜しい。 まだ試した事はありませんが、たぶん、ガムでも行けるはずです。 要は、何か口の中で、なめていればいいんですな。 乗り物酔いだけでなく、高山病も避けられます。 私は、富士山に、一日で二度、登頂した事がありますが、その時も、飴のお陰で、快適に過ごせました。 酸素スプレーなんぞより、よっぽど、効能が高いのに、値段は、一袋100円くらいですから、コスト・パフォーマンスも、抜群。 この対策が、一般常識化しないのが、不思議でなりません。

  ターミナルの中にいても、無意味なので、外へ出ます。 ターミナルの横に、プレハブで、待機通路が作られていました。 乗船前に、ここに並べばいいわけですが、中は、空気の通りが悪く、長居したいとは思えない環境でした。 すぐ隣は、駐車場で、前日にお世話になったタクシーの運転手さんが、今日の客を迎える為に、待っていました。 夏場の観光シーズンは、毎日、このパターンを繰り返しているんでしょうなあ。 改めて、話す事もないので、近づきませんでしたが。

  やがて、フェリーが入港して来ました。 見たところ、前日に乗ったのと、そっくりな船です。 下船客が、スロープのタラップで下りて来て、駐車場の方へ散って行きます。 中に、テレビ関係者の一団がいて、駐車場から出た所の歩道に、レポーターを立て、中継だか、撮影だか分かりませんが、とにかく、カメラを回し始めました。 ここで撮っても、あまり意味はないと思いますが、放送時間が迫っていて、急いでいたんでしょうかね。

  ちなみに、香深の街は、前日の朝に比べると、より、水溜りが減っていました。 道路には、乾いた泥の跡が残っています。 ここで、思い出しましたが、水の出が最もひどかった時には、港近くのホテルから、ターミナルまで、お客に、片足ずつ、ゴミ袋を履かせ、歩かせていたと、タクシーの運転手さんが話していましたっけ。 なるほど、それなら、長靴を使い回したりするより、ずっと、衛生的です。 機転が利く人もいるものですな。

  ところで・・・、利尻富士町には、「りっぷくん」がいましたが、礼文町には、マスコット・キャラクターがいないんでしょうか? いや、いるらしいのです。 ターミナルの玄関ドアに、ポスターが貼ってありました。 「あつもん」という名前。 「羹に懲りて膾を吹く」とは関係なく、ネットで調べたら、「レブンアツモリソウの妖精」だとの事。  割とシンプルで、可愛らしいデザインです。 きぐるみも存在する模様。 残念ながら、会う事はできませんでしたが、普段、どこに棲息しているんでしょうねえ? 観光客のジーサンバーサン達に、もみくちゃにされるのを恐れて、町役場に引き籠っているんでしょうか。

  下船客が下り始める前に、プレハブの待機通路は、乗船待ちの客で埋まり、長蛇の列が出来ていました。 人が満杯になると、空気が更に悪くなって、とても耐えられないので、私は、最後まで外にいて、乗船が始まり、通路内の人が減るまで待ってから、一気に通り抜けました。 そういうわけで、乗船は最後の方になり、8時30分くらいに、タラップを上がりました。

1 あつもん(左)/テレビ中継(右)
2 乗船風景


  妙に賑やかな、見送りの一団あり。 ギターを持って来たりして、文字通り、鳴り物入り。 20~30歳くらいと思われる、青年達です。 どうやら、先輩達を送りに来た様子ですが、過疎の島なのに、見送り側の若者がこんなに多いというのは、奇妙な話。 もしかしたら、見送られる側も見送る側も、島外の人間で、夏場だけ、バイトに来ている人達なのかも知れません。 先輩達は、先に帰るのか、それとも、バイトの激励に、島に立ち寄ったのか・・・。 いや、私の想像なので、まるっきり、外れている可能性は高いですが。

  見送りがいたおかげで、昔ながらの客船の出港光景に、幾分近くなりました。 紙テープは、飛びませんでしたけど。 余談ながら、出港の紙テープですが、私は、高校の修学旅行で九州の島原に行った時、一度だけ、経験した事があります。 船に乗る時に、一人に一巻ずつ渡され、船が離岸する時に、埠頭に向かって、みんなで、飛ばすのです。 もちろん、片端は手元に残します。 その事に気づかず、テープごと投げてしまう馬鹿は、必ずいるわけですが、そういうのも、お約束の内ですな。

  だけどねえ、よく考えてみるまでもなく、変なんですよ。 修学旅行先の港ですから、見送る側には、こちらの知り合いは一人もいないのです。 別れを惜しんで、テープを飛ばすのに、相手が、港の関係者じゃ、意味がないでしょう。 つまりその、雰囲気だけでも、味わわせようとしたんでしょうね。 それ以降、紙テープを投げるような出港には、立ちあった事がありません。 今は、環境問題がありますから、もう、どこでも、やっていないのかも。


≪礼文・稚内間フェリー≫
  乗り込んでみたら、フェリーは、前日の朝、利尻から礼文まで乗って来たのと、同じ船でした。 同型船ではなく、全く同じ、それそのもの。 壁に貼ってある名板に、「フィルイーズ宗谷」とあり、前日に写真を撮ってあったので、間違いありません。 つまり、この船は、利尻・礼文・稚内の間を、渡り歩いているわけだ。 勝手知ったる船なので、まっすぐに、船尾の屋外デッキに出ます。 ところが、前日と違い、この時は、乗客が3倍くらいいて、屋外デッキの座席も、8割方、埋まっていました。 人が多いと、不愉快な事が起こる危険性が高くなります。 嫌な予感。

  船尾から、車の積み込みをしているのが見えましたが、その中に、前日、スコトン半島で見た、色違いハスラーの一団が含まれていました。 室内デッキの一角には、やはり、前日見た、警察官の一団がごろ寝していました。 別に、懐かしくはないですが、離島近辺では、世間の狭さを感じます。 8時40分に出港。 早速、飴を、なめ始めます。 これから、約2時間、これだけが頼り。 20分に1個のペースで、なめ継ぎました。

  船内に、「カモメにエサをやらないように」という啓発のポスターが貼ってあるのですが、それを見たのか見ないのか、平気で、エサをやっている、爺さんあり。 夫婦者で、婆さんも隣にいるのですが、温かく見守っているだけで、何も言いません。 エサを掲げれば、カモメは寄って来るのであって、船と速度を合わせて飛ぶカモメを、写真に収めようと、他の客も、爺さんの周りに集まります。 

  この爺さん、こんな風に、人の注目を集めるのが、好きなんでしょうな。 一度、どこかでやって、味を占め、以来、病み付きになっているのではありますまいか。 屋外デッキに出る時には、必ず通る場所に貼ってある、結構、大きなポスターだったんですが、船に乗り込む前から、エサをやる気満々で、そんなもの、目に入らなかったのでしょう。 私も含めて、誰も注意する者はいませんでした。 なぜ、私が注意しなかったかって? そんなの、決まっているじゃありませんか。 旅の思い出を、汚したくなかったからです。 こういう光景を見ただけでも、嫌なものですが、下手に注意して、「なぜ、いけない!」などと、喰ってかかられたら、一生消えない、どす黒い記憶になってしまいます。

  爺さんのエサは、やがて、終わりましたが、恐れていた通り、真似をして、船内の売店で、ポッキーを買って来て、カモメを寄せる馬鹿な若造が続きました。 一人がやると、必ず、こういうのが出て来る。 自分が自腹を切れば、他の客にも喜ばれると思っているから、始末に負えない。 こういう連中を相手に、啓発ポスターくらいでは、不充分なのであって、エサをやりそうな場所に、「カモメに、エサやり禁止!」と、注意書きのプレートを貼っておけばいいのです。

  船は、次第に、礼文島から離れて行きます。 後方左手に、利尻岳が見えます。 八合目辺りに、雲が襟巻きしているものの、頂上の尖がりは、よく見えました。 急傾斜の頂から、次第に、なだらかになって、海に入って行く稜線は、「美しい」と、「素晴らしい」の、二語に尽きます。 この佇まいの良さは、富士山を、軽く超えますな。 富士山も海の上にあったらなあ。 それじゃあ、沼津は、海の底か・・・。 利尻島と並べて見ると、右手の礼文島が、平らな島に見えます。 礼文岳が、490メートルもあるとは、俄かには信じ難い。 いや、実際、あるんですがね。

  北の方を見ます。 稚内からはサハリンが見えると聞いていましたが、船は、この時、稚内より北を航海しているわけですから、理論的には、サハリンが見えるはず。 で、目を凝らしたのですが、これが、なっかなか・・・。 私の目が悪いせいか、それらしきものが見えません。 しかし、その後、1時間くらい経って、稚内港に近づいて来たら、幽かに見えるようになりました。 カメラを最大望遠にして、撮影しましたが、写真だと、雲だか山だか区別がつかないのです。

  屋外デッキの椅子に座り、日記を書いてしまった後、船に乗っている間にやっていた事というと、船尾で、後方の利尻岳を見るか、左舷側で北のサハリンを探すか、右舷側で、行く手のノシャップ岬を望むか、のどれかで、その3ヵ所を、ぐるぐる回っていただけでした。 他に、やる事がないんですわ。

  そういや、屋外デッキでの事ですが、私が日記を書いている時、少し離れた席で、利尻岳をスケッチをしている爺さんがいました。 若い人達が見れば、たぶん、「いい趣味だ」と思うのでしょうが、世間の波に少々揉まれている私の目には、これ見よがしの、いやらしいパフォーマンスにしか見えません。 なんで、わざわざ、船の中で、絵を描かねばならんのよ? 写真に撮って行って、家で描けばいいじゃん。 驚いた事に、この爺さん、スケッチが終わったと思ったら、徐ろにパレットを開いて、色を塗り始めました。 そこまでやるかね? よっぽど、自分に絵心があるところを、人に見せたいんでしょう。 何たる、いやらしさ! どーしょもねーなー。

  そういう人間の醜さを見ているのが嫌で、他の席に移ろうとしたのですが、空席を探して歩いていると、もう一人、絵を描いている爺さんがいました。 こちらは、より高齢です。 もう、80歳を超えているのでは? で、何を描いているのかと思って、チラッと見てみたら、なんと、船尾の手すりの所に立って、海を眺めている小学生の女の子、その後姿を、こっそり描いているのです。 たまげたね、こりゃ。 「盗描」とでも言いましょうか、絵で描いているというだけで、発想的には、カメラによる盗撮と、何の変わりもありません。 こんな、ヨボヨボのジジイになっても、まだ、色気が抜けんのですなあ。

  大方、問い質せば、烈火の如く怒り、「そんな、劣情で描いたんじゃない!」とでも言うでしょうが、馬鹿抜かせ、劣情がなければ、赤の他人の女の子を、後ろから描こうなどと思うものかね。 性欲が、形を変えて噴出しているだけだわ。 嗚嗚呼、何たる醜さ! 人間よ、特に、ジジイどもよ、汝等、何故、斯くも低劣なのか。 一体、今までの長~い人生で、何を積み上げて来たのだ? 人徳のかけらも得ようと思わなかったのか? こういったジジイどもに比べると、同じ年寄りでも、女の方が、まだマシか。 旅先で、自分の趣味を披瀝しようとする婆さんというのは、あまり見ませんから。

  やがて、船は、ノシャップ岬を回りこんで、稚内港に入って行きます。 大きな港です。 同じフェリー会社の、同型船が、フェリー埠頭に一隻、停泊していましたが、それとは、別の岸壁に、接岸しました。 稚内のフェリー・ターミナルは、利尻島の運転手さんが言っていたように、船から直截、ターミナルの中に繋がるブリッジはなくて、礼文の香深港同様、スロープのタラップが架けられました。 ターミナルから、岸壁の方へ伸びている、空中通路はあるのですが、途中で切れているのです。 思うに、雨天時や降雪時などに、待機通路として使っているのかも知れません。 その外で、地面を重機で掘り返していましたが、これが、ブリッジを作る工事なのか、全く関係ないのかは、知る由もなし。

1 見送りの一団
2 さらば、礼文島
3 稚内港フェリー埠頭


  入港した辺りから、船内放送で、音楽が流れました。 「宗谷岬」という、聞けば誰でも、「ああ、これか」と分かる曲です。 小学校唱歌とフォーク・ソングの中間みたいな曲調で、テンポがゆったりしていて、アクがなく、突然、耳に入って来ても、押し付けがましい感じが全くしません。 こういうのは、優れた曲の証拠ですな。 稚内は、いい曲をゲットしましたねえ。

  そういえば、利尻の鴛泊港を出港する時と、礼文の香深港で入出港する時にも、曲が流れていました。 そちらは、利尻と礼文を歌詞に詠み込んだ演歌でした。 しかし、利尻も礼文も、人間より自然が勝っている土地でして、演歌は、あまり似合いませんなあ。 その曲、全国的知名度は、ほぼゼロだと思うので、利尻と礼文で、それぞれ、別の曲を作り直したらどうでしょう。 雰囲気的には、スコットランド民謡のような、うら寂しくも、ほの温かい感じがする曲調が、よく合うと思います。

  接岸したのは、10時35分。 乗客の数が多いので、下船は、時間がかかりました。 やはり、スロープのタラップが、障碍なんですわ。 あんなの、ホイホイ下りられませんよ。 私は、先を争うのが嫌で、最後の方で下りました。 ここでも、下りてしまえば、ターミナルに用はなくて、埠頭解散になります。 稚内を離れる時には、空港から飛行機に乗りましたから、結局、ここのターミナルには、近づきもしませんでした。 迎えの人達は、空中通路の下で待っていました。 ほんの数人で、観光バスの関係者が5・6人と、タクシーの運転手さんが一人。 その一人が、私が稚内で乗せてもらう人なのです。


≪貸切タクシー≫
  車は、タクシー会社の所属で、トヨタのコンフォートでした。 私が作っていた車です。 車内に掲示してあった名札によると、運転手さんは、昭和30年生まれで、私より、だいぶ年上ですが、体格がいいせいか、若く見えました。 後で聞いたところでは、以前は、土建会社に勤めていたとの事。 なるほど、道理で、体格が良かったわけだ。 眉毛が長く、樽顔。 そういや、沖縄の運転手さん達にも、樽顔が多かったですが、タクシー適正の顔型というのがあるんでしょうか。


≪稚内港 北防波堤ドーム≫
  まずは、港の中にある、「稚内港 北防波堤ドーム」へ。 ドームと言っても、いわゆる、ドーム形のドームではなく、古代ローマ風の柱と、蒲鉾を半分に切ったような形の覆いがある、細長いアーケードのような空間です。 元は、鉄道の駅だった所で、背後が海なので、覆いが、防波堤を兼ねているという、文章や言葉では、非常に表現し難い構造物。 今は、中は空っぽで、ちょっとしたコンサートをやったり、バイクや自転車で北海道を旅している人達が、テントを張ったりしているとの事。

  すぐ近くの埠頭に、海上保安庁の巡視船が停泊していました。 運転手さんが言うには、「一時期、尖閣諸島まで、派遣されていた」との事。 おいおい、こんな端から、あんな端まで、巡視船を送っていたのかよ。 予算は大丈夫なのか、海保よ。 巡視船の名前は、「れぶん」。 なんで、「わっかない」でないのかは、不明。 船尾の、「れぶん」の文字の下に、「東京」と書いてあります。 どうも、巡視船は、みんな、東京の登録になっているようですな。 詳しくは知りませんが。


≪稚内公園≫
  港を離れ、高台にある、「稚内公園」へ。 「稚内市開基百年記念塔」という、高さ80メートルの塔がありましたが、400円取るというので、パス。 塔に上れば、眺めがいいのは分かっていますが、極力、自腹を避けたかったのです。 なに、塔に登らなくても、公園自体が、充分高い所にありますし、海側に樹木がないので、見晴らしの良さに、不足はありません。 いやあ、気持ちのいい所じゃありませんか。 

  公園内には、南極観測隊が、犬橇に使う樺太犬を、稚内で訓練した関係で、犬の像があります。 運転手さんは、像のモデルについて、「タロか、ジロか分からないけど・・・」と言っていました。 まーそのー、みんな樺太犬ですから、作った芸術家も、あまり区別してなかったんじゃないですかね? 銅像だから、毛の色も出せないし。

  ≪南極物語≫の撮影も、稚内で、少しやったらしいです。 ≪南極物語≫と言っても、今の若い人は、全く分からないかな? 1983年公開の映画で、主役の犬達の他、高倉健さんや、荻野目慶子さんが出演し、当時は、一世を風靡する人気でした。 今は、映画の人気というと、前宣伝だけ派手で、封切った途端に、ピタリと騒がなくなるパターンが多いですが、あの頃は、前宣伝を大きく打てば、よほど出来が悪くない限り、ヒットしたものです。

  たまたま、私が、映画の中に出て来る、犬を置き去りにして来た隊員が、犬の飼い主の元を訪ねる場面を覚えていたので、「ああ、あれは、稚内で撮影したのか・・・」と、鈍いながらも、感慨を覚えました。 83年か・・・。 私が見たのは、テレビ放送の時でしたから、その数年後だと思いますが、いずれにせよ、80年代は、遠くなりましたなあ。

1 北防波堤ドーム
2 稚内公園からの眺め
3 樺太犬の像


  他にも、記念碑、慰霊碑がいくつもあったのですが、あまり多いと、却って、記憶に残り難いものですな。 運転手さんが説明してくれたのは、「九人の乙女の像」で、戦争末期、ソ連の対日宣戦で、南樺太にソ連軍が南下して来た時、残っていた電話交換手の女性9人が、最後の連絡を残して、自殺したという話。 私が、「何も、死ななくてもねえ。 非戦闘員なんだから、命までは取らんでしょう」と言うと、運転手さんが、「いやいや、当時は、そういう教育を受けていたから」と言います。 なるほど、そうかも知れませんな。 「今の日本の女なら、自殺はしないだろう」という事で、意見が一致しました。

  私も運転手さんも、昭和の中頃に生まれた世代ですが、その歳にして、すでに、戦前戦中の人間の考え方が、感覚的に理解できません。 あまりに、世の中は変わった。 そして、戦後生まれの人間というのは、「戦前戦中の方が良かった」とは、決して思っていないのです。 今の若者なら、尚の事。 昔の価値観を美化して、無理に分かったフリをしない方がいいです。 そういう事を言っていると、いずれ、自分が同じ状況に追い込まれます。 死んでから、碑など建ててもらっても、命の貴重さに代えられるものかね。

  この公園からも、サハリンが遠くに見えました。 運転手さんの話では、季節的に、秋が一番、見え易いとの事。 距離は、40キロくらいと言っていました。 以前は、市街地から、この公園まで、ロープ・ウェイが通り、公園のすぐ下には、遊園地もあったらしいのですが、人口が減って、採算が取れなくなり、廃止されてしまったのだとか。 ちなみに、稚内市の人口は、最盛時は、5万5千人くらい。 現在は、3万6千人くらいだそうですから、3分の2になってしまったんですな。 うーむ、利尻・礼文という離島ばかりでなく、北海道本土でも、過疎化は進んでいたのか。


≪ホタテ塩ラーメン≫
  11時半でしたが、この後、西海岸の方へ行くと、店が探し難くなるらしく、先に、昼食を取る事になりました。 前日の礼文島でのパターンを踏襲し、「福利ポイントで来ているので、自腹は、なるべく切りたくありません。 千円以下で、ラーメンが食べられる所で、お願いします」と言うと、難なく、OK。 ここに至って、確信しました。 貸切タクシーであっても、お金を使いたくない事を、先に断っておけば、土産物屋などに、いざわなれる事はないのです。 沖縄や利尻では、先に言わなかったから、要出費スポットへ連れて行かれてしまったわけですな。 ああ、もっと早く、気づけば良かった。

  高台から、市街地に下りて、「稚内副港市場」という、複合施設に入ります。 中に、「おむすび島」という、食事所あり。 券売機で、先に食券を買う方式です。 運転手さんに勧められた、「ホタテ塩ラーメン」にしました。 カウンター席に座って、他の客の顔ぶれを見るに、主に、トラックの運ちゃんなどが利用している様子。 5分ほどで、ラーメンが出て来ましたが、ホタテが、大きい大きい。 ラーメン自体も、うまかったです。 塩ラーメンといっても、袋ラーメンの塩味のように、辛い程しょっぱい事はなくて、絶妙に味を調整してあります。 こういうのを、本物の塩ラーメンというんですねえ。 850円と、値段も、そこそこしましたが、あれだけ大きなホタテが入っていれば、そのくらいの値段は、リーズナブルと言うべきですな。

1 稚内副港市場
2 ホタテ塩ラーメン


  北海道のラーメンは、今まで私が食べたラーメンとは、スープの出来が、まるで違うような気がします。 沖縄旅行記で、沖縄そばを絶賛し、「全国展開すれば、日本のラーメン店を、商売換えさせられる」と書きましたが、北海道だけは、攻略できないかもしれませんなあ。 麺に関しては、沖縄そばの方が、うまいと思いますが。

  私が食事をしている間、姿を消していた運転手さんが、終わった頃に、ふらりと戻って来ました。 どこで買って来たのか、茹でたトウモロコシと、鮭の切り身の燻製が入った袋を、後で食べるようにと渡されました。 私は、ケチな人間なので、こういう物を貰うと、とても、嬉しいです。 鮭の燻製の方は、酒のつまみだそうですが、飲まない人でも、たぶん、おいしいだろうとの事。

  この、稚内副港市場には、一角に、間宮林蔵の樺太探検を紹介した部屋がありましたが、解説パネルの文章量が多過ぎて、とても読みきれません。 運転手さんを待たせてまで、読みたいとは思わなかったので、写真だけ撮って、出て来ました。 しかし、後で考えると、運転手さんは、むしろ、「如何に、時間を潰すか」に頭を使っていたのであって、じっくり読んで来た方が、良かったのかも知れません。 これから、どこへ回るかは大体分かりますが、それぞれの目的地で、どのくらい時間がかかるかは、運転手さんしか知らないので、客側では調整に限界があるのです。


≪旧瀬戸邸≫
  日程表にはなかったのですが、運転手さんが、「是非、見せたい」と言うので、「旧瀬戸邸」という、底引き網漁船会社の社長の旧宅へ行きました。 稚内副港市場と同じ、街なかにあるので、すぐそこです。 ちなみに、稚内の市街地は、鴛泊や香深と比べて、遥かに大きいのですが、ここの場合、ほんとに、すぐそこで、4分くらいで着きました。

  二階建ての日本家屋。 見るなり、さーーっと血の気が引きましたが、裏手の駐車場でタクシーを下り、運転手さんに案内されて、玄関に回ると、案の定、土禁でした。 そりゃそうか。 日本家屋そのものですけんのう。 ここまで来てしまったからには、「やっぱ、いいです」とも言えず、諦めて、上がる事にしました。 前日の、「北のカナリア・パーク」では、辛くも逃れましたが、三日目にして、破れたか。

  スリッパを履いて、座敷に上がります。 心穏やかでない点は同じでしたが、首里城の時ほど、不愉快な気分にならなかったのは、あちらでは、土禁でなくてもいい所まで、土禁になっていたのに対し、こちらでは、元個人の住宅で、土禁が当たり前だったからです。 また、この時は、旅行鞄の中に、除菌ティッシュを備えていて、事後処理の目処が立っていたから、幾分、安心感があったという事もありました。 備えあれば、憂いなし・・・、いや、それでも、憂いはありましたが。

  運転手さんから、稚内市の職員と思われる青年に、引き継がれ、家の中を案内してもらいました。 このガイドは、無料でした。 最初、ガイドの青年は、一人客をどう扱っていいか戸惑っている様子でしたが、私の方も、こういう家に入ったのは初めてで、どういう所を観察すればいいのか、大いに戸惑っていました。

  この家、昭和初期に建てられたとの事。 屋敷と言えば、屋敷ですが、江戸時代の武家屋敷のような、広大なものではなく、敷地面積的には、地方都市の庶民の住宅と、さほど、違いはありません。 家自体も、びっくりするほど大きいわけではないです。 しかし、金が唸っていた頃に建てられただけあって、内装や、家具調度など、贅を限りを尽くしています。 窓は、三重窓だとの事。

  北海道でよく見られる、「ニシン御殿」とは、全然違い、あくまで、底引き網漁船会社の社長の家だと、強調していました。 最盛時には、50隻もあった底引き網漁船が、今では、7隻に減っているとの事。 その漁船は、ここへ来る前に、港で見ていたのですが、結構大きな船でした。 「どうやって、50隻も接岸させていたのだろう?」と、疑問に思ったのですが、最盛時に撮った写真というのがあり、それを見ると、一目瞭然。 船を横に並べて、列を作らせていたのです。 船から船へ乗り移る形で、上陸したり、乗り込んだりするわけですな。 たぶん、魚の水揚げは、別の場所で順番にやっていたのでしょう。

  一階の大広間には、膳を並べた宴席が再現され、他に、主人の部屋、奥様の部屋、女中部屋、台所などがあります。 トイレだけは、今風の洋式便器に換えてあって、ウォシュレットが付いていました。 女中部屋が、二階にあり、結構広かったのは、意外。 いい暮らしをしていたんですねえ。 しかし、しょっちゅう宴会があったとすると、仕事も忙しかったのかも。 家の中は、ミニ博物館になっており、大鵬の手形色紙とか、石の置物とか、珊瑚の杖とか、他では見られない物が、いろいろ置いてありました。 フイゴ式の霧笛があり、鳴らしてみろというので、やってみたら、凄い音がしました。 霧笛って、もろ、手動だったんですね。

  どの部屋だったか忘れましたが、天井板の合わせ目を繋ぐのに、籐の蔓を使って、「×」の形に結んだ飾りがあり、ガイドの青年の説明では、これは、ここでしか見られない細工だとの事。 「ほほお・・・」と唸ったものの、私は、自分で家を建てる予定がないため、建築の細部の意匠に、あまり興味がなくて、ノリきれませんでした。 見る人が見れば、喰いつくと思うんですが、申し訳ない。

  石の置物は、家中あちこちに置いてありました。 何でも、奥様の趣味だったとの事。 玄関に、亀そっくりの石があり、「これは凄い!」と驚いたら、「それは、少し、加工してあるようです」と言われました。 なるほど。 加工すれば、そりゃ、似ますわな。 珊瑚の杖の、珊瑚というのは、稚内の近くで獲れたと言っていましたが、こんな北の海でも、珊瑚があるんですねえ。 杖の他に、生えていた時の姿のままの現物が、玄関に飾ってあって、天井まで届くような、大きなものでした。

旧瀬戸邸(左)/再現宴席(上)/亀の石(下)


  一通り、見終わったので、礼を言って、辞しました。 たった一人の客に、無料で、これだけ、解説してくれたのですから、ありがたいと思わなければなりますまい。 たぶん、普段は、団体観光客か、少なくとも、タクシーに乗れる限界の、3人くらいを相手にしているのだと思います。


≪ノシャップ岬≫
  稚内市街地の北にある、「ノシャップ岬」へ。 北海道には、知床半島の南に、「納沙布半島・納沙布岬」というのがありますが、そちらは、「のさっぷ」。 読み方が違うものの、それは、日本語上での便宜的な読み分けに過ぎず、元のアイヌ語は、同じ言葉で、「岬のそば」という意味です。 元々、「岬のそばの集落」を表していたのが、岬の名前になってしまったのだとか。 ネットで調べると、「野寒布岬」と、当て字してある場合もありますが、私が現地で見た、案内標識や看板では、全て、「ノシャップ」になっていました。

  ちょっと、私論を述べさせてもらいますと、アイヌ語語源の地名は、カタカナで表記した方がいいんじゃないかと思います。 当て字をするから、却って、イメージが混乱してしまうのです。 アイヌ語は、日本語とは別言語なので、漢字を意味で当てる事ができず、音だけで当ててあるわけですが、それだと、元の意味と漢字の意味がズレるのは、避けられません。

  昨今、「南アルプス市」や「さいたま市」のように、カタカナ・ひらがなの自治体名が登場し、漢字に拘る理由は薄れつつあるのですから、当て字と分かっている地名は、カタカナにしてしまった方が、すっきりして、いいと思うのです。 更に、突っ込んで考えるなら、アイヌ語表記で使っているローマ字にすれば、もっといいわけですが、それでは、日本人が不便になり過ぎるので、実現しないでしょう。 ローマ字で書かれた地名は、当て字の漢字で書かれた地名よりも、更に読み難いのよ。

  話を戻します。 地形が頭に入っていない方の為に説明しますと、北海道の北端は、二股に突き出していまして、東側が、最北端の宗谷岬、西側が、ノシャップ岬です。 ノシャップの方は、半島状になっていますが、「ノシャップ半島」とは言わないようです。 中心市街地から岬まで、街や住宅地が、ずっと続いているので、地図を見ないまま、連れて来られると、何だか、街外れのようで、半島の先に来たような感じがしません。

  最初に目に入って来るのは、赤白の横縞に塗り分けられた、高い灯台です。 これが、利尻島の運転手さんが話していた、北海道で一番、日本で二番目に高い灯台なんですな。 ちなみに、日本で一番高い灯台は、「島根県にあるらしい」と、言っていました。 伝聞の伝聞ですが、いちいち、調べて確認するほど、興味が湧きません。 灯台という建築物は、ライトとレンズが納まっている部分は、どの灯台でも、サイズが同じらしく、高い灯台だと、頭だけ小さい、巨人のような印象を受けます。

  岬は平地で、小奇麗な広場が作られています。 中央に、イルカと時計を組み合わせたオブジェがあり、その隅に、「ノシャップ岬」と書かれた板が立ててあって、そこが、撮影ポイントになっていました。 ここは、稚内市の北西端なので、西側には、海の向こうに、利尻岳も見えます。 利尻岳が背景になる位置に、撮影ポイントが設定されているわけで、稚内に於いても、利尻岳は、特別な存在なのだという事が分かりました。

  岬の背後の山に、自衛隊のレーダー基地が見えます。 運転手さんの話では、海自や空自の駐屯地があるけれど、一般の兵隊ではなく、レーダーの管理をしている人間だけ、いるらしいとの事。 別に、私の方から訊いたわけではないんですが、沖縄でも北海道でも、基地があると、必ず、運転手さんが、説明を始めるのです。 基地というのは、準観光地扱いなんでしょうか?


≪夕日が丘パーキング≫
  そのまま、半島の海岸線沿いの道路を回り込み、西海岸へ出て、南下します。 途中、ちょっと、山側に入り、中腹にある、「夕日が丘パーキング」という所へ寄りました。 車を停められる、展望スポットです。 ここはもう、完全に、利尻岳を見る為に作られたような場所ですな。 正面に、ドーンと見えます。 運転手さんの話では、冬場は、入り口が閉鎖されてしまうとの事。 開けておくと、除雪をしなければならず、維持費がかかるからだそうです。 冬は、観光客が少ないから、割に合わないのでしょう。


≪浜勇知園地≫
  海沿いの道路に戻って、南下し、「浜勇知園地」という、海側にある自然公園に寄りました。 海のすぐそばだというのに、「コウホネ沼」という沼があり、沼の畔には、木道が作られています。 湿地なのかも知れませんな。 植え込みで、ハマナスの実が成っていましたが、この時はまだ、それが、ハマナスだとは知りませんでした。

1 ノシャップ岬灯台とオブジェ
2 夕日が丘パーキング
3 浜勇知園地のコウホネ沼


  駐車場の横に、「展望休憩施設 こうほねの家」という建物がありました。 平屋ですが、屋上が展望台になっていて、外から階段で上がれます。 ここでも、利尻岳が、ドーン! 稚内市の西海岸は、どこからでも、利尻岳が望めるので、利尻岳を見る為のスポットが、そのまま観光地になっているようです。 一階は、休憩所と書いてありましたが、タクシーに乗っていると、ずっと休憩しているようなものなので、入りませんでした。

  この後も、海岸線の道を南下して行ったんですが、もう、遠くて遠くて、果てしない感じ。 話に聞いていた、北海道の延々と続く直線道路というのは、こういうものだったんですな。 運転手さんも、私も、さすがに、話題が途切れ、沈黙の時間が挟まるようになります。 右は海、左は丘陵に草が生えているだけで、道路以外に、人工物がありません。 道を作った人達も、あまりの長さに、うんざりした事でしょう。

  こんな単調な道を走っていて、眠くならないわけがなく、対向して来たバイクが、中央線をはみ出して来そうになりました。 「はっ!」と気づいて、目を開けた、女性ライダーの表情が、ありあり窺えましたが、気づくのが、ちょっと遅れたら、こっちに突っ込んで来たと思います。 道は、真っ直ぐならいい、というわけではないんですな。 わざとでも、少し曲げた方がいいです。 


≪サロベツ湿原センター≫
  南隣の自治体、豊富町に入ってから、内陸へ向かい、「サロベツ湿原センター」へ行きました。 ここへ来る為に、延々と南下して来たわけです。 稚内に来たら、「サロベツ原野」は、必ず見る所になっている模様。 建物があり、その半分くらいが、湿原の博物館のようになっています。 野鳥や小動物の、剥製や模型など、展示内容は、そこそこのボリュームで、同じ、「ラムサール条約湿地」でも、苫小牧にあった、「ウトナイ湖野生鳥獣保護センター」と比べると、より見応えがありました。 そういや、ここにも、≪北のカナリア≫のパネルがありましたよ。 稚内でも、撮影したんでしょうか。

  建物の裏手に、湿原があるのですが、青々とした草で、ぎっしり覆われていて、湿原という感じがあまりしません。 夏よりも、秋口の方が、いいのかも。 サロベツ原野は、広大なのが特長なのですが、ここには、別に、展望台があるわけではないので、そんなに遠くまでは見渡せません。 私が、期待し過ぎていたのか・・・。

  奇妙な形をした、大型の機械が、湿原の中に、いくつか置かれています。 説明板を読むと、「泥炭の浚渫船」だとの事。 近くに、博物館とは別棟の建物があり、その中には、泥炭の加工設備が展示されていました。 「泥炭て、何?」という感じですが、湿原から取れる資源でして、加工して、土壌改良材にして、出荷していたようです。 有機質を多く含むので、アルカリ質の土壌を改良するのに、効果があるのだとか。 1970年から、2002年まで採掘していたとの事。 32年は、資源採掘地の寿命として、短いのか、長いのか、微妙なところですな。


≪宮の台展望台≫
  この後、来た時とは別の、内陸の道を通って、北へ戻りました。 途中、山側にある、「宮の台展望台」という所に寄りました。 公園というほど広くはなく、駐車場と展望台とトイレだけがあります。 展望台の下に、ホルスタインの親子がいるのが、目に入り、ギョッとしましたが、よく見ると、それは、オブジェでした。 展望台は、普通の建物に換算すると、四階建てくらいの高さがある鉄骨構造物で、一番上に展望室があり、その下は、骨組みだけ。 屋外階段で上がって行きます。

  展望室は、ガラス張りで、ドアも付いています。 この日は、暑いくらいの天気でしたが、風が強くて、おちおち、景色も眺めていられない日の方が多いのかも知れませんな。 もっとも、風が入って来ないというだけで、そんなに、高級な造りではありません。 もちろん、管理人などはおらず、無人。 しかし、望遠鏡も備えられていて、眺めは良かったです。

  ここに寄ってもらったお陰で、サロベツ原野の全体を見渡す事ができました。 だいぶ、内陸に来ているようで、海が見えず、その向こうにある利尻岳が、まるで、平野の中に鎮座しているかのように見えます。 サロベツ原野の中に、「兜沼」という沼があるらしいのですが、そこここに水面は見えるものの、どれだか分かりません。 数日前の豪雨で出来た、「水溜り」が混じっているそうで、運転手さんにも、見分けられませんでした。 湿原ですから、水溜りといっても、沼くらいの大きさになってしまうんですな。

1 サロベツ湿原センター
2 泥炭浚渫船
3 宮の台展望台から、サロベツ原野


  この、宮の台展望台、山の木を切り開いて、作っただけかと思いきや、トドマツやエゾマツを植林してあるのだそうです。 利尻で、見分け方を習ったばかりだったので、確認するつもりで、近くの木を指し、「これが、トドマツですか?」と訊いたら、運転手さんの方が、植物に詳しくなくて、首を傾げていました。 まずい質問をしてしまった・・・。


≪タクシー話≫
  国道40号線を通って、稚内へ戻ります。 この辺から、ちらほらと、乳牛を飼っている牧場が目に付くようになりました。 いかにも、北海道らしい。 牧場が広くても、牛というのは、群で固まっています。 野生時代の本能で、集団でいた方が安全だという意識が抜けないのでしょう。 そういや、この辺では、ヒグマは出ないと言っていました。 稚内市内でも、東の方へ行くと、出るらしいです。 「出る」というのは、ヒグマに失礼か。 そちらの方に、「棲んでいる」わけですな。 西の方は、潮風の影響か、植生が貧弱で、大きな木がなく、ヒグマの主食である、木の実が採れないのかも知れません。

  他に、この辺りで、運転手さんから聞いた事というと、「冬は、吹雪が凄い」という話。 私が、「苫小牧に、2ヵ月半いましたが、吹雪には遭いませんでした。 一度、経験してみたいです」と言ったら、「いやあ、あんなものは、経験しないで済めば、その方が、ずっといいですよ」と、笑っていました。 どうやら、ほんとに凄いらしい。

  雪がひどくなると、道路が埋まって、どこがどこだか分からなくなるとの事。 道の両脇に支柱を立て、道路の上に腕を伸ばして、上から、赤い反射板の矢印を下げてあるのですが、そこが、車道の端を示していて、その矢印だけを頼りに走るのだそうです。 なるほど、それは、怖そうだ。 矢印は、一定間隔で設けられているそうで、その間隔の長さも聞いたのですが、忘れてしまいました。

  この時、走っていたのは、「国道」、行きに通った海岸線の道は、「道道」なのですが、国道と道道では、投入される維持費が違うそうで、国道の方は、これでもかというくらい、いろいろな設備が作られるのに対し、道道の方は、必要最低限の設備だけなのだそうです。 運転手さんは、元土建業なので、そういう事は、詳しいようでした。 もっとも、あくまで、「元」なので、土建業界の立場で物を言う事はなく、「国が借金だらけなのに、必要ないような工事ばかりしていて、どうするつもりなのか・・・」といった事も言っていました。 これは、私が、元自動車業界関係者であっても、退職した今、自動車業界の肩を持つ気が、更々ないのと、同じ意識ですな。

  そういや、タクシー車両のコンフォートについて、私が作っていたという話もしたのですが、運転手さんは、車には、さほど興味がないようで、そちらの話題は発展しませんでした。 ただ、プリウスに関しては、ちょっと話が出ました。 運転手さんの会社でも、3台いるらしいのですが、冬場は、使い勝手が良くないらしいとの事。 ハイブリッド云々というより、車高が低くて、雪が積もった道では、引っかけ易いのだそうです。 バンパーが、カラード・ウレタンなので、傷を付けた時に、修理も交換も、高くつくとも言っていました。

  そもそも、プリウスは、タクシー用に作られた車ではないですから、その種の問題点が出て来るのは、無理もない事。 空気抵抗を低く抑える為に、屋根の形状を流線型に近付けてあるせいで、後席のヘッド・ルームが、狭くなってしまっていますが、その点も、タクシーには向いていません。 乗せる側は、燃費が良い点、助かるでしょうが、客側にすれば、料金は変わらないわけで、乗り難いだけ、損という事になりますな。 ちなみに、コンフォートでも、一時期、ハイブリッド仕様を作っていたのですが、発進の時だけ補助をするシステムで、あまり効果がなく、仕様廃止になってしまいました。 次のタクシー専用車では、たぶん、本格的なハイブリッド仕様が設定されると思いますが、まあ、私にはもう、関係ない事です。

  他に、警察署の話も出ました。 稚内署は、交通取り締まりについて、伝統的に、割と優しいのだとの事。 一方、南隣の豊富町は、別の署の管轄で、そちらは、気風が厳しいのだそうです。 この日もそうでしたが、稚内のタクシーでも、豊富町まで行く事があり、管轄によって、緊張度が変わるのだとか。 なるほど、そういう事は、どこでもあるんですなあ。 署によって、取り締まりが緩くなったりきつくなったりするのは、法治の原則とは相容れませんが、現実に存在するのは事実。 どちらがいいとは、一概に言えず、たとえば、大都市で、警察が緩いと、ゴロツキばかり増えますし、人が少ない土地で、無闇に厳しくすると、却って、殺伐とした状況を作り出してしまいます。

  あと、タクシーの中で話した事というと、地方議員の話ですかね。 例の、世間を騒がした、「号泣議員」が、そもそもなぜ、当選したのか、という話から始まり、仕事で聞き知った、センセイ方の奇妙な生態を、いろとろと教えてくれました。 私も一般論の範囲で意見を挟みながら、相槌を打ち、結構、盛り上がりましたが、・・・そういう事は、あまり書かない方が良さそうですな。 どこで、名誉毀損になってしまうか分かりませんからのう。

  そうそう、稚内には、ロシア人がよくやって来るそうです。 漁船の船員が多いけれど、一般の観光客もいるとの事。 で、タクシーに乗るわけですが、言葉が互いに全く通じずに、苦労するのだそうです。 船員が行く所は、大体決まっていて、銭湯か、パチンコ屋か、スーパー。 銭湯に関しては、「サウナ」と言うから、分かるのだとか。 観光客の場合、絵が入ったパンフを持っていて、絵を指で指してくれると、通じるとの事。

  運転手さんが知っているロシア語が、「ダー」だけで、これは、「はい(Yes)」という意味ですが、ロシア人の客が、何を話しかけて来ても、全て、「ダー、ダー」と答えていたら、「なんじゃ、こいつ。 分かっとんのか?」という顔をされたのだとか。 そりゃそうだわな。 この運転手さん、ソ連・ロシアに関しては、あまりいい印象を持っていないようで、結構、辛い批判も飛び出しました。 もちろん、私は、旅先で国際政治論など戦わす気は、これっぽっちもないので、ニコニコ笑って、「なるほど、そうですか」と応じているだけでした。

  しかし、仕事で、乗せる事があるのなら、もっと単語を増やせば、グンと効率が上がると思うんですがね。 安いテキストを買って来て、だらだら見ているだけでも、一ヵ月で、100くらいの単語は、自然に頭に入ります。 1語しか知らないのと、100語知っているのとでは、大違い。 幸い、ロシア語は、英語と違って、カタカナと発音の相性がいいです。 カタカナ書きしてある物を、そのまま読んでも、通じますから、相当な利器になるはず。 極端な話、客を下ろす時に、「スパシーボ(ありがとう)」と添えるでも、リピーターが増えるのでは?

  もう一つ。 稚内にも、海水浴場があるという話を聞きました。 ある事はあるけれど、2週間くらいしか泳げないらしいです。 で、海開きの後、一度だけ行って、その年の海水浴は、終わりにする人が、ほとんど。 好きな人だけ、二回行くのだとか。 お花見と似たような感覚なのかな? 私は、そもそも、海水浴場なんて、2ヵ月やっていても、一度も行かない人間ですけど。


≪間宮林蔵渡樺出港の地≫
  北上して、稚内市街地に戻り、北海岸へ。 稚内市の北海岸は、ノシャップ岬から、宗谷岬まで、弧を描いています。 その、弧の部分は素通り。 宗谷岬まで、もう程ない所で、「間宮林蔵渡樺出港の地」に寄りました。 と言っても、ただの海岸でして、石碑が幾つかと、説明板が一枚、立っているだけです。 サハリンは、ここでも見えます。 というか、稚内の場合、北海岸のどこからでも、サハリンは見えるようですな。 間宮林蔵、どの程度の大きさの船に乗って行ったんだか。

  間宮林蔵は、二回、探検に出たそうですが、実は私、この人に、あまり興味がありません。 サハリンは、間宮が行く前から、北方民族が、フツーに住んでいたのであって、「探検」という言葉に、そもそも、抵抗があります。 「サハリンが、島である事を発見した」というのが、業績とされていますが、住んでいた人達は、交易で、大陸と日常的に往来していたのですから、そんな単純な事を知らなかったとは、とても、思えないのです。 単に、日本人とロシア人が、「サハリンが島である事を、先住民族が知っている事を、知らなかった」だけなんじゃないですかね?


≪象岩≫
  右手の沖合いに、白い島あり。 運転手さんの話では、それは島ではなく、岩であって、白いのは、鳥の糞のせいだとの事。 この岩、BSプレミアムの人気番組、≪こころ旅≫で、2012年に、火野正平さんが、見に行った岩です。 その時は、「象岩」と紹介されていましたが、正式名称というわけではない様子。 私は、その番組を見ていたのですが、この時は、すっかり忘れていて、同じ場所に来ているとは、つゆ知りませんでした。 写真を撮ってあったので、確認してみたら、確かに、体半分、海に浸かった、象の形に見えます。 なーんだ、ここだったのか。


≪宗谷岬≫
  宗谷岬には、あっさり着きました。 テレビでよく見る、「日本最北端の地」の碑がありますが、碑というより、モニュメントですな。 観光客が、順番で、記念写真を撮っていました。 私も、運転手さんに撮ってもらいました。 海に向かって、左手に、「間宮林蔵の立像」、右手に、「宗谷岬」の曲の音楽碑があります。 楽譜を刻んだ石碑で、前に人が立つと、曲が流れる仕組み。 人感センサーを使っているんでしょうな。 観光客は、次から次へ、そこへやって来るので、引っ切りなしに、曲が流れています。 だけど、いい曲なので、耳障りな感じはしません。 つくづく、稚内市は、テーマ・ソングに恵まれましたな。

  近くの土産物店の奥に、そこそこ大きな冷凍室があり、中に流氷が保存されています。 無料というので、入ってみたところ、冷えるわ冷えるわ! 海獣類や鳥の剥製が、流氷の上に置いてあるのですが、なぜか、ペンギンのもありました。 帰って来てから、その冷凍室の写真を見ていたら、扉の外に、「低血圧、心臓病の方は、氷室内に入らず、ガラス越に、ご覧下さい」という注意書きが貼ってありました。 そういや、私、心臓をやって、会社を辞めたんでした。 危ない事やっとるわ。 前の人と入れ替わりに入ったから、注意書きを読まなかったんですな。 どこで死ぬか分からん。

  この土産物店、妙にサービスがよくて、店の前面、入り口の上の壁に、時計の他、年月日と気温の電光掲示板をつけてあります。 「平成26年8月27日 午後3時 気温20.5℃」 ついでに、緯度も書いてありました。 「北緯45度31分14秒」。 しかし、普段、緯度を気にして暮らしていないせいで、ピンと来ませんでした。 緯度というと、「38度線」しか思いつきません。 それに比べて、高いというのは、分かりますけど。

  岬の背後の丘の上に、灯台あり。 背が低く、胴体が四角くて、ライト・レンズ部分だけ、円筒形という、変わった形ですが、色は赤白の横縞。 赤白横縞は、必ずしも、高い灯台だけに限った事ではなかったのか。 うーむ、基準が分からん。 また、高さも、何を基準に決められるのか、分かりません。 すぐ隣の、ノシャップ岬と、宗谷岬で、どうして、灯台の高さが、こんなに違うのでしょう?

  この丘には、碑とか、塔とか、鐘とか、記念モニュメントが、たくさんありました。 どうも、岬を持つ自治体というのは、こういうのを好む傾向があるようですが、過ぎたるは何とやらで、観光客の目から見た時、あまりたくさん集まっていると、逆に、白けてしまいます。 一ヵ所に一つだけあれば、喰い入るように、説明板を読むんですがね。 ちなみに、一番大きいのは、「祈りの塔」という、「大韓航空機撃墜事件」の後に作られた、慰霊塔です。 運転手さんの話では、この辺りの海岸にも、残骸や遺品が、かなり打ち上げられたらしいです。 1983年というと、偶然にも、映画≪南極物語≫の公開と、同じ年ですな。 稚内では、いろんな事が起きた年だったわけだ。

  宗谷岬の内陸側は、山と谷が複雑に入り組んだ丘陵地帯になっていて、私個人の感想としては、この丘陵地帯が、稚内で、一番、興味を引かれた景色でした。 やはり、絶景は、ダイナミックな地形でなければ。 丘陵の草原には、牛が、たくさん、放牧されていました。 乳牛ではなく、黒毛和牛です。 仔牛もいました。 子供の頃は、毛が茶色なんですな。 遠くに、エゾシカの姿あり。 シカも草を食べるんですねえ。 運転手さんの話では、道路での、シカの飛び出しは、日常茶飯事で、車が全損する事も多いのだとか。 ちなみに、車とぶつかった場合、シカは死ぬそうです。


≪その他≫
  この後、帆立貝の殻を砕いて、敷き詰めた、白い道というのを、見せてもらいました。 ホタテは、稚内の特産品ですが、貝殻が大量に出て、始末に困る。 そこで、細かく砕いて、丘の上の道に敷いてみたら、これが、案外、綺麗で、歩きに来る観光客が出始めたとの事。 私が見に行った時にも、歩いている人達がいました。 両脇は、ススキが生い茂っているのですが、道だけが真っ白で、何とも、シュールな光景なのです。 「何が観光資源になるか、分かりませんねえ」と、頷きあった次第。

1 宗谷岬
2 流氷冷凍室
3 丘陵地帯の牛
4 白い道


  最後に、普通の神社と、普通の寺を、車の中から見ました。 神社は、「宗谷厳島神社」。 手広くやっとるのう、厳島神社。 運転手さんに、「この辺では、墓石の色は、白ですか、黒ですか」と訊ねたところ、「うーーん・・・」と、しばらく考えてから、「どっちも、ありますねえ」との答え。 「最初、白石だったのを、建て替える時に、黒石にした例を知っている」と教えてくれました。 宗派や土地の習慣だけでなく、時代的な流行もあるんでしょうかね。 

  これにて、貸切タクシーの観光は、終了。 契約通り、午後4時ぴったりに、「稚内空港」に送ってもらいました。 昼に買ってもらった、トウモロコシと、鮭の燻製が入った袋を持ち、篤く礼を言って、別れました。 最後に、「楽しかったです」の代わりに、「面白かったです」と言ってみたら、しっくり来ました。 よし、今後は、これで行こう。 と言っても、貸切タクシーに乗るのは、あと、函館だけですけど。


≪稚内空港≫
  稚内空港は、石垣空港よりは小さく、利尻空港よりは大きいというサイズの建物でした。 1階に、チェックイン・マシンや、手荷物預かり所があり、2階が、保安検査場と待ち合い場です。 ここで、保安検査場と間違えて、手荷物預かり所に行ってしまう、ミスをやらかしました。 不様なこって。 「空港ごとに、レイアウトが違うから、初めてだと、勘違いし易いんですよ」と、言い訳しておきましょう。

  全日空の新千歳行きの便は、17:10発ですから、まだ、1時間くらいあります。 先に、待ち合い場に入ってしまい、日記を書きました。 フェリーを下りた後から、貸切タクシーに乗っている間に起きた事全部ですから、膨大な量になります。 箇条書きや、単語だけの羅列になったのも、致し方なし。

  そういえば、空港内に、ポスターが貼ってあって、稚内のマスコット・キャラクターが描かれていました。 名前は、「出汁之介(だしのすけ)」。 体は、アザラシで、前脚と、尾鰭が、昆布になっています。 うーむ、思い切ったデザインだ。 「この尾鰭では、きぐるみはありえないだろう」と、思っていたんですが、帰って来てから調べたら、なんと、あるらしいのです。 尾鰭とは別に、腹の下から、脚が生えている・・・。 何にでも、解決法というのは、あるようですな。 こうなると、もはや、アザラシではありませんが、「元から、アザラシではない。 妖精だ」と言われてしまえば、それまでか。


≪稚内空港から、新千歳空港へ≫
  17:10発なのに、5時3分には、出発しました。 またも、フライングです。 搭乗ゲートを通ったのは、4時57分くらいでしたから、ゲート前にいた客が乗り終わるなり、すぐ動き出した事になります。 ドアが閉められるのが早過ぎて、離陸前に、写真を撮る暇もありませんでした。 なぜ、そんなに急ぐのか、理由が分かりません。 機長の奥さんが、出産でもするのかね?

  飛行機は、≪B737-800≫で、初めての機体。 ≪B737シリーズ≫の中では、最新の部類に入るタイプのようで、初日に、新千歳から利尻まで乗った、≪B737-500≫より、随所が新しくなっていました。 主翼の端が、上に立ち上がっていますし、エンジンの取り付け基部も、形が丸くなっています。 内装も、何となく、丸っこい。 ちなみに、この機体、中は全日空ですが、胴体の外は、「スター・アライアンス」の塗装で、主翼の端の立ち上がりの所にだけ、「ANA」と書いてありました。

  私の席は、初日の新千歳・利尻便の時と同様、右の窓側で、主翼の少し前でした。 この時も、エンジンの頭が、すぐそこに見えました。 隣の席は、またまた、空席。 この時の席は、予約段階で指定されていましたが、まさか、○△商事の担当者、2席分、予約したんじゃなかろうね。 いや、まあ、どうせ、福利ポイントは使いきらなければ、消えてしまうのだから、どんな使い方をしても、構わないんですがね。 できれば、沖縄から帰って来る時の便で、それをやって欲しかった。 そうすれば、狂ったガキに苦しめられなくて済んだのに・・・。

  離陸すると、窓から、もろに、利尻島が見えます。 雲は、ほとんどかかっておらず、頂上まで、バッチリ。 カメラを使えないので、やきもきしましたが、その内、ベルト・サインが消え、ギリギリで、撮影が間に合いました。 その後、南下して行くと、焼尻島と天売島が見えて来ました。 この二島は、≪こころ旅≫の、2014年春のシリーズで出て来たので、この位置にある事を知っていたのです。 だいぶ傾いて、黄色味が強くなった西日を、背後から浴び、シルエットになった島影は、この上なく、幻想的でした。

  CAは、二人。 全員に配るドリンク・サービスは、なし。 飴も、なし。 ただし、希望者に注いで回る、アップル・ジュースがあったので、それを貰いました。 もう、図々しくなっちゃって、貰える物は、全て貰う所存。 どうせ、この北海道旅行が終わったら、二度と飛行機に乗れないんだから、何でも、やったれ。

  南下して行くに連れ、北海道本土の上は、雲が覆い始めましたが、30分くらいしたら、飛行機が高度を下げ、何と、雲の下へ出ました。 こんな飛び方も、アリか? 地上の、街、畑、家、山、川といったものが、航空写真のように、はっきり見えます。 陸の上で、こんな低高度を飛んだのも、初めてです。 怖いくらいでした。


≪新千歳空港駅≫
  フライングした分、到着も早くて、予定の18:00より、7分も早く着きました。 まあ、この日は、スケジュールが詰まってましたから、早い分には、文句は言いますまい。 新千歳空港に下りるのは、これで、四回目なので、もう、寄り道したいなどと思いません。 直行で、到着ロビーに出て、そのまま、地下にある、JR北海道の、「新千歳空港駅」へ下りました。

  この駅は、7ヵ月前の北海道応援の時に、利用した事があります。 支笏湖へ観光に行った時、苫小牧駅から電車に乗り、南千歳駅で乗り換えて、新千歳空港駅に着いたのです。 過去に、一度でも来ていると、心強いもので、ぐいぐい、先へ進みます。 新千歳から、札幌までは、○△商事から送られて来た、乗車券がありました。 確認してみると、日付指定は、なし。 改札横の駅員に訊いてみたら、どの列車に乗ってもいいとの事。 日程表では、18:34発の快速エアポートに乗る予定でしたが、どれでもいいなら、待つ理由はありません。 ちょうど、ホームにいた列車に乗り込みました。 帰ってから調べてみたら、この便は、18:03発でした。


≪札幌駅へ≫
  この列車も、快速エアポートだったと思います。 新千歳から、札幌方面に、15分ごとに出ているのです。 車両の座席配列に特徴があり、なんとなく、未来っぽいです。 南千歳駅と、千歳駅は、7ヵ月前に来た事があるので、ちょいと懐かしい景色。 その後、恵庭、北広島、新札幌と過ぎて、札幌駅に着いたのが、18:40でした。 これは、帰って来てから、時刻表で調べた到着時刻ですが、写真のデータを見ても、大体、定刻通りだったと思われます。

  初めて、札幌駅に下りました。 巨大な駅です。 人、人、人で、視界が遮られて、駅の造りが、よく分かりません。 南側へ出なければならないのに、案内標識には、西口と東口しかなくて、早くも、当惑。 しかし、それは、改札口の事でした。 東口の改札から出ると、南北に貫く通路があり、それを南へ向かったら、南側の出口に出られました。 やれやれ。 ちなみに、ここでも、切符は、記念に貰っておきました。


≪大都会、札幌≫
  駅の中だけでも、圧倒されていたのですが、外へ出たら、駅前に高層ビルが林立していて、まるで、上から覆い被さって来るようです。 しかも、もう、真っ暗なので、ネオンやら、電飾やら、ライト・アップやら、様々な色の光が渦巻いて、大都会そのものの光景。 こういうのは、田舎者には、心臓に悪いんですよ。

  とにかく、南へ進みます。 夜に、初めての街に着くと、信号一つ渡るのも、命懸けです。 いや、大袈裟でなく、マジ、マジ。 1ブロック進むのも、恐る恐るです。 ホテルは、駅から歩いて行ける距離にあるはずなのですが、家でプリントして来た地図が、へっぽこで、目印になる建物が出ていません。 ホテルがある通りを歩いているのかどうかさえ、はっきりしないと来たもんだ。

  「こんな地図では、埒が開かん!」と、旅行鞄を開け、○△商事から送られて来た、ホテルのパンフを取り出しました。 これを持って来ておいて、正解でした。 パンフの裏に出ている地図を見たら、恐ろしく簡単な地図だったものの、「かに本家」の隣と書いてあります。 見上げると、筋向いのビルの壁に、巨大なカニがくっついていました。 ビルの屋上には、これまた巨大な、「かに本家」という、真っ赤なネオンの文字が、夜空に浮き上がっています。 その隣を見ると、「ホテル パールシティ札幌」という青いネオンの看板。 なんだ、すぐ、目の前まで来ていたのです。 通り過ぎていなくて、良かった。

1 稚内空港
2 利尻岳
3 天売島と焼尻島
4 雲下飛行
5 出汁之介(左)/札幌かに本家(右)


  ホテルでは、夕食が出ませんから、行く前に、近くにあったローソンで、パンを2個、買いました。 コロッケ・パンとツナ・パンで、どちらも、108円。 やっすい、夕食やのう。 でも、野宿ツーリングの時なら、三食、こんな感じです。 人間、どんな物であっても、腹に詰めてしまいさえすれば、眠れるものです。


≪ホテルの夜≫
  都会のど真ん中にある事からして、疑いも間違いもありませんが、ここは、ビジネス・ホテルです。 これまで、リゾート・ホテルと、観光ホテルしか泊まった事がなかったので、ビジネス・ホテルは、初体験。 1階は、ロビーと言えるほどの空間がなく、フロントの他は、レストランで埋まっていました。 「食堂」って感じじゃないです。 レストラン、もしくは、カフェですな。

  チェックインします。 住所、氏名、電話番号を書くのは、他と同じ。 朝食は、バイキングではなく、洋食と和食を選べるとの事。 ここには、2泊するのですが、面倒臭いので、2回とも、洋食にしてもらいました。 朝食は、この1階にあるレストランで食べるようです。 ビジネス・ホテルなので、温泉も大浴場もありません。 私は、一向に構いませんが。

  問題は、この後、起こりました。 フロント係が言うには、「予約は、禁煙室という御希望でしたが、あいにく、埋まっておりまして、喫煙室でお願いします」との事。 そして、「これを、どうぞ」と言って、ドンと、目の前に置いたのが、「リセッシュ」のスプレー・ボトルでした。 消臭剤ですよ。 そんなの、アリか?

  部屋は、7階です。 このホテルには、エレベーターが、2基あって、昇降に不便は感じませんでした。 部屋に入ると、確かに、煙草臭い。 これは、敵わん。 消臭剤くらいで、部屋全体に染み着いた、この悪臭が消えるとは、とても思えません。 窓はありましたが、5センチしか開きませんでした。 どうせ、開けても、隣は、「かに本家」のビルの壁ですけど。 エアコンを、「強」にし、ユニット・バスの換気扇を点けっ放しにすると、気分的に、だいぶ、楽になりました。

  ベッドは一つ。 沖縄・北海道を通して、シングルだったのは、このホテルだけです。 鏡台を兼ねた机と、椅子。 応接セットは、テーブルと椅子が一脚 他に、荷物を載せる台がありました。 さして広くない部屋に、応接セットは、要りませんわ。 窓のカーテンを開け閉めするのに、ベッドを回り込まなければならないのですが、応接セットが邪魔で、通り難い。 他は、テレビと電気ケトルがありました。 ユニット・バスは、意外にも、標準より広かったです。

  まず、除菌ティッシュで、スイッチとか、リモコンとか、トイレの便座とか、あちこち拭いて回り、その後、靴を脱いで、中を丁寧に拭きました。 この日は、土禁を喰らってしまったので、この作業は外せません。 どうせなので、渡されたリセッシュも、靴の中に、しこたま吹いておきました。 除菌効果があるかどうか分かりませんが、少なくとも、培養効果はないでしょう。

  それから、洗濯、風呂。 窓に、丈夫そうなカーテン・レールがあったので、そこから、入口横のハンガー掛けまで、紐を張り、洗ったばかりの洗濯物と、礼文のホテルで乾かないまま、ビニール袋に入れて持って来た、靴下、おしぼりタオルを干しました。 疲れるなあ。 ホテルに入ってからの方が疲れるというのは、観光旅行として、如何なものなのか・・・。

  ようやく、夕食ですが、利尻・礼文の豪勢な夕食に比べると、パン2個の食事は、あまりにも、しょぼい。 で、引き続き、稚内の運転手さんに貰った、茹でトウモロコシを食べましたが、これは、うまかった。 今までに食べたトウモロコシの中では、最もうまかった。 ありがとう、運転手さん。 更に、鮭の燻製にも手をつけましたが、最初、歯で千切っていたら、思いの他、硬くて、歯を傷めそうになり、手で契って、小片にしてから食べました。 確かに、これは、酒のつまみですな。 大人の味です。 

  左手で、鮭の燻製を食べながら、右手で日記を書きます。 洗濯よりも、日記の方が辛い。 ホテルの夜に日記を書いていて、1時間以内で終わった例しがないです。 鮭の燻製を食べ終わったら、礼文で買ったビスケットの残りを食べながら書き続け、9時半頃には、何とか 、終わりました。 テレビをちょっと見て、眠ったのは、10時頃。 やれやれ、長い一日が、ようやく、終わりました。



≪三日目、まとめ≫
  この日の朝は、まだ、最果ての島、礼文にいたのが、フェリー、タクシー、飛行機、電車と乗り継いで、夜は、札幌にいるというのが、感覚的に信じられませんでした。 しかも、稚内では、5時間も、観光しているのです。 ハード過ぎだんがな。 思うに、売れっ子の芸能人というのは、毎日、こんな生活をしているんでしょうかね?

  メインは、稚内観光だったわけですが、利尻や礼文ほど、強烈な印象はなかったものの、北海道の広さを感じられたのは、いい経験になりました。 稚内の市街地は、夏に行くと、普通の地方都市という感じで、再北端の街といった特殊性は、感じられません。 でも、冬は、行く人は、あまりいないでしょうねえ。 そういえば、冬のイベントとして、犬橇レースが開かれていると言っていましたっけ。 さすが、タロ・ジロを輩出した土地だけの事はある。 一度、見てみたいですが、私は、資金的に、もう行けないと思います。

  かくのごとく、この日は、ハードだったわけですが、もっと、ハードな日もありました。 それは、いずれ書きますが、この次の日ではありません。 ・・・変な予告。