2008/06/29

物語とバランス

  何回目の再放送か分かりませんが、地方局で夕方にやっていた、アニメ・≪フランダースの犬≫を見終わりました。 ラストシーンだけはクイズ番組で見て知っていたのですが、アニメ本体は見た事が無かったのです。 私の年齢だと、小学校高学年の時に本放送していたのですが、その前年の≪アルプスの少女ハイジ≫のあまりの陰鬱さに、「こんなのは漫画ではない!」と子供心に断定した私は、≪世界名作劇場≫に決別し、翌年やった≪フランダースの犬≫も、にべもなくパスしたのです。 よって、≪アルプス≫の方は、ハイジが都会に連れて行かれた辺りまでは見ていたのに対し、≪フランダース≫は、綺麗さっぱり一回も見ませんでした。 今回改めて見てみる気になった理由は、私の家で犬を飼い始めてから、初めての再放送だったからです。 やはり、犬を飼っているか否かは、犬が登場する作品に対する態度に、少なからぬ影響を及ぼすものですな。

  というわけで、以下、≪フランダースの犬≫の感想になりますが、基本的に、すでに見ている人を対象に書く事になります。 よって、これから見るという方は、ここまででストップして下さい。 「見ていないが、今後とも見る予定は無い」という人の為に、あらすじを大雑把に説明しましょうか。 牛乳運びでその日暮しをしている少年ネロとおじいさんが、死にかけで捨てられた犬・パトラッシュを拾います。 看病してパトラッシュを元気な体に戻してやり、しばらく二人と一匹で助け合って暮らすんですが、やがて、おじいさんが病死し、牛乳運びの仕事も失ってしまいます。 更に、風車小屋の火事で放火犯に仕立てられたり、コンクールに出品した絵が落選したりして、絶望したネロは、クリスマスの深夜、教会でパトラッシュとともに凍死するという話です。 詳しく知りたい方は、公式ホームページがありますから、そちらで、各話ごとのあらすじでも読んでくださいな。

  で、録画までして、ほぼ全話つぶさに鑑賞したわけですが、おじいさんが死んだ辺りから見るのがきつくなり、終わった時には、正直ほっとしました。 本当に救われない話ですな。 悲劇といえば筋金入りの悲劇でして、これに比べれば、≪ああ無情≫なんて、どこが無情なのか分からなくなってしまうくらいですが、私としてはやはり、この話を名作と認めたくありません。 善人が爪弾きにされて死に、悪人がぬくぬくと生き残るような物語は、大人の感覚でも許し難いです。 子供向けなら尚の事で、この作品を見て、将来に希望が湧いて来る子供がいたら、会ってみたいものです。 このアニメが発しているメッセージを素直に受け止めると、他人が信用できなくなってしまうんですよ。 世の中、悪人だらけの真っ暗闇みたいな気分になって来るのです。 いくら悲劇とはいえ、何の救いも無いのは、やはりまずいでしょう。

  さんざんネロを苛めていた連中が、終わりの二回で改心する所が、呆れるほど安直。 はらわたの腐った≪小人・コゼツ≫や、性根のねじくれ曲がった≪下司・ハンス≫どもが、落とした金を拾ってもらったくらいで考えを改めるとは到底思えません。 それどころか、奴らなら、「金は落としたのではなく、ネロがこっそり馬から盗んだのだろう。 いかにも拾ったかのように届けに来て、恩を売ろうという魂胆に違いない」と考えるでしょう。 証拠も無いのに、ネロを放火犯に仕立てあげ、仕事を奪って餓死に追い込むような鬼畜どもが、反省などするわけがありません。

  村人も村人で、僅かばかりの金を惜しんで、牛乳運びの仕事を、ネロから野菜売りに乗り換えるなど、現金にも程があります。 奇妙なのは、野菜売りの持ち込んだ論理でして、「農家から野菜を安く売ってもらう代わりに、牛乳をただで運んでやる」というのですが、これを農家側から見ると、牛乳をただで運んでもらう為には、野菜を安く売らなければならず、損得ゼロです。 それなら、ネロの仕事を干してまで、野菜売りに牛乳運びを頼む理由はありますまい。 非常に不自然。 また、この村人達が、小人・コゼツ及び下司・ハンスの口車に乗って、ネロを放火犯扱いするわけですが、仕事を取り上げた上に、犯罪者扱いとは、あまりにもひど過ぎる仕打ち。 すなわち、ネロに対し暗に、「村を出て行け」、もしくは、「飢えて死ね」と言っているようなもので、もはや外道の限りを極めています。

  樵のミシェルおじさんが引き取ってくれる事になっていたのに、コンクールに出した絵が落選したというだけで、世を見限ってしまったネロの態度も解せません。 自分だけならともかく、パトラッシュにも餌を食べさせなければならない立場なのですから、ミシェルおじさんを頼るのが当然選ぶべき道でしょうに。 行動に合理性が見られません。 ミシェルがケガをした時には、親身に看病し、ミシェルの代わりに大木を切り倒すなどして、樵という職業に興味を示していたにも拘らず、いざ樵をやらされる段になって、気後れするというのも変な話です。

  物語の中程で、別の街からアントワープを訪ねて来た貴婦人が、ネロに死んだ息子を面影を見て、何くれとなく良くしてくれるエピソードがありますが、後々また登場して、ネロの窮地に救いの手でも差し伸べてくれるのかと思いきや、最後まで出ずじまい。 おいおい、あれだけ思わせぶりに顔を出しておいて、伏線じゃなかったのかい? 物語には、セオリーというものがあってだなあ・・・・まあ、いいか。 いや、よくないのですが、こんな所でつっかえていると先に進まないので、一先ず目をつぶります。


  あまりにも、不自然な箇所が多いので、原作を読んでみました。 最初、図書館で児童向けのひらがなだらけの本を読んだんですが、「こりゃ、もしかしたら、ダイジェストされているかも知れないな」と疑って、ネット上で、子供向けでない物を読み直しました。 原作が書かれたのが、1870年代という事で、とっくに著作権は切れているので、ネットでただで読めるのはありがたい。

  で、原作とアニメの比較ですが、かなり違いがありました。 原作はちょっと長めの短編か、短めの中編くらいの長さですから、毎週ほぼ一年間放送したアニメの方は大幅に水増ししてあるのです。 概ね、原作の筋立てはバランスが取れていて、不自然な点は少ないです。 ミシェルという樵は、原作では登場せず、アニメ化する際に追加されたキャラでした。 道理で、ネロが最後に頼っていかないわけだ。 頼れる人物がいたら、ネロが死なないわけで、原作とラストが変わってしまうものね。

  野菜売りが引っ越して来るというエピソードも、原作にはありません。 ネロが牛乳運びの仕事を減らされてしまうのは、商売敵が登場したからではなく、村人がネロを嫌うコゼツに圧力をかけられたからでした。 息子を亡くした貴婦人もアニメ側の創作。 つまり、ストーリー上不自然さを感じるような部分は、みんなアニメ化した時に付け足したものだったわけです。 アニメの付け足しで、成功している部分もあります。 ネロの友達になるジョルジュとポールの兄弟は、好感が持てて、陰鬱な話を明るくするのに寄与しています。

  他に、原作とアニメの違いというと、パトラッシュの元の飼い主、金物屋が、原作では酔っ払って喧嘩した挙句、死んだという事になっています。 アニメの方では、一度パトラッシュを連れ戻した後、逃げられしまい、それっきり出てきません。 エピソードを水増しする一方で、元あった部分を削っている点もあるわけですが、何らかの創作上の意図があってやっているのか、ストーリー構成が混乱しているのか、わかりづらいです。

  そうそう、大事な事を忘れていました。 原作では、下司・ハンスが出て来ません。 あまりにも、下司なキャラなので、「ヨーロッパの小説に、こんなに露骨な下司が出るものかなあ?」と首を傾げていたんですが、やはりアニメ・サイドの創作キャラだったんですな。 この下司ぶりは、日本の時代劇の、「越後屋、おぬしも悪よのう」 「お代官様こそ。 ひっひっひ」のあれそのものでして、ヨーロッパの小説では、ほとんど見られないキャラクターです。


  原作とアニメを比較しましたが、では、原作そのままならば、名作と言えるのか? というと、やはり言えないのです。 この作品の問題は、ラストの処理にあり、そこが致命的におかしいのです。 原作もアニメも、ラストは変わらないわけで、同じ欠陥を背負っています。 物語には必ず、≪バランス≫というものがあり、これが取れていないと、鑑賞者に違和感を与えます。 バランスとは、「損をした者は後で得をし、得をした者は後で損をする」、「悪い事をした者には悪い報いがあり、良い事をした者には良い報いがある」 といった事ですな。 昔話から始まり、純文学、推理小説、劇映画など、およそ、ストーリーを持つ作品には、みな、この骨組みが使われています。

  ≪フランダースの犬≫がおかしいのは、主人公は何も悪い事をしていない、それどころか良い事ばかりしているのに、最後が悲劇的な死で終っている点です。 もし、悲劇で終らせたいならば、ネロやパトラッシュには、前以て命で購わなければならないような悪事をさせなければなりません。 しかし、ネロとパトラッシュの本質的特徴である善性を変更するわけには行きませんから、それは無理な相談。 すなわち、この物語は、本来、悲劇で終らせてはいけない話なのです。

  さもなくば、テーマを善悪対立から、報恩物などに変更する必要があります。 たとえば、ラストシーンで、パトラッシュが来てくれたお蔭で、ネロはパトラッシュの体温で凍死せずに済み、パトラッシュだけが死んだというなら、おじいさんとネロに瀕死の所を救って貰ったパトラッシュの恩返しの話として纏める事が出来ます。 そうした方が、パトラッシュが話の中心になって、題名にも合うと思うのですが、なぜか、作者はそうしなかったんですな。

  このウィーダ(本名は、マリー・ルイーズ・ド・ラ・ラメー)という作者、大変な犬好きで、それが高じて、晩年は人間不信に陥り、ひどく惨めな死に方をしたらしいです。 それを聞くと、≪フランダースの犬≫で、物語のバランスを崩してまで、ネロとパトラッシュを一緒に死なせた理由が想像できるような気がしてきます。 ネロは作者の分身だと思われるので、飼い主だけが生き残って犬を死なせるなんて話にはしたくなかったんでしょう。 その逆も、もちろん嫌だというわけだ。


  ところで、この≪フランダースの犬≫という話、アニメはもちろん、原作も、日本以外では、ほとんど知られていません。 物語の舞台である、ベルギーのフランドル地方ですら知っている人は珍しいとか。 ちなみに、≪フランダース≫というのは、フランドルの英語読みです。 なんでも、アントワープを訪れた日本人の観光客が、「≪フランダースの犬≫の教会はどこ?」とよく聞くので、「そんな物語があったのか」と再認識したのだとか。 しかし、その後も、別に人気が出たわけではないようで、一部の観光関係者以外は、至って冷めているらしいです。

 「地元の話なのに、なぜ?」と思うかもしれませんが、理由はすぐに察しがつきます。 作者のウィーダという人が、地元の人間ではないのです。 それどころか、ベルギー人ですらなく、イギリスで生まれ育って、イタリアに移住した人で、フランドル地方には、旅行でしか来た事がないという、正真正銘ちゃきちゃきの外国人なのです。 外国人が書いた物語を、いくら舞台になっているからといって、地元の物語と見做す人はいませんわな。 日本人だって、≪蝶々夫人≫あたりを日本の物語とは思わんでしょう?

  おそらく、フランドル地方の人に言わせれば、≪フランダースの犬≫は、かなり問題ある作品だと思うのですよ。 原作を読むと、「この地方では、犬を労働犬として、死ぬまでこき使っている」といったような事を、サラッと書いてあるわけですが、たとえ当時その通りであったとしても、地元の作家なら、こんな敵意に満ちた書き方はしませんわな。 「たかが旅行者の分際で、よく知りもしない事を、勝手放題に書きやがって」と苦々しく感じていると思うのですよ。 しかも、コゼツ始め、村人達は血も涙も無い悪党として描かれているわけで、こんな物語を読んでも、作者への憎悪が燃え上がりこそすれ、愛着など湧くはずがありません。

  フランドル地方の人達だけでなく、他の国でも人気がないのは、たぶん、上述したバランスの悪さのせいだと思います。 近年、アメリカで映画化されたそうですが、原作通りのラストと、ハッピーエンドで終るラストの二種類が作られたらしいです。 むべなるかな。 脚本技術のレベルが高いアメリカの事ですから、このアンバランスなラストは、どうにも受け入れ難かったのでしょう。

  では、なぜ日本人だけが、≪フランダースの犬≫を高く評価しているのか? それはたぶん、日本人が、むちゃくちゃなストーリー展開に慣れているからだと思われます。 というか、バランスのいいストーリーというのが、どんな物なのか分からんのです。 歌舞伎のストーリーが、この種のむちゃくちゃ型でして、悲劇を盛り上げる為だけに、死ななくてもいい人間が死んだりします。 観客は、とにかく泣ければ満足なわけで、ストーリーのバランスなんて知ったこっちゃありません。 この伝統は、日本の映画やドラマにも脈々と受け継がれていて、時折、日本映画の海外上映会などで、泣かせる場面なのに、観客から笑いが起こる事があるらしいですが、そういうのはつまり、ストーリー・セオリーからの逸脱に、日本の監督が気付いていないからなんですな。


  このアニメの≪フランダースの犬≫、どうやったら救われるか考えてみたんですが、ラストはしょうがない、そのままにして、その後に、パトラッシュの子供が生まれたという場面をくっつければいいかもしれませんな。 その為には、母犬になる犬とのエピソードを前以て挿入しておかなければなりませんが、ミシェルおじさんが雌犬を飼っていた事にすれば、そんなに不自然にはならないでしょう。 アロアやジョルジュが、パトラッシュそっくりの仔犬達を分け合うシーンを最後にすれば、ほら、だいぶ救われるでしょう。

2008/06/22

境遇は通り魔を産まない

  やれやれ、テレビも新聞も、ろくなニュースが無いねえ。 人生が嫌になっちゃうよ。

  人生が嫌になるといえば、≪秋葉原通り魔事件≫ですが、実は私、犯人が働いていた、≪関○自動車・東富士工場≫とは少々因縁のある人間でして、工場の中の様子も、割とよく知っています。 どのくらいの因縁かというと、毎日門前を通ってるくらいの因縁。 最初にテレビでニュース速報が流れた時に、「静岡県裾野市の派遣社員」というので、「え!」と思ったんですが、その後、「自動車部品工場に勤務」と聞き、「おや、≪矢○電線≫かな?」と思っていたら、翌日になると、≪関○自動車≫の建物がテレビにモロに出たので、驚いた次第。

  裾野市は、全国的にはあまり知られていませんが、市全体が広大且つ緩やかな傾斜地で、大きな工場が幾つもあります。 ただ、自動車関係というと、≪関○自動車≫か、≪矢○電線≫のどちらかに絞られるというわけ。 マスコミが、「部品工場」なんて言うから、てっきり、ハーネス(車の中に張り巡らされている束ねた電線の事)を作っている、≪矢○電線≫だと思ってしまったのですが、≪関○自動車≫の方だったんですな。 地元の人間なら大概知っていますが、≪関○自動車≫は、ト○タ系の完成車組み立て会社ですから、作っているのは自動車そのものでして、部品なんか作ってません。  一体誰が、「部品工場」などと言い出したのか、奇怪千万。 別に企業秘密でも何でもない、事業内容そのものですから、調べればすぐに分かったはずなんですがねえ。

  テレビも新聞も、日曜日に事件が起こってから、日月火水と四日間ずっと、「自動車部品工場」と報じていて、木曜日になって漸く、「車体工場」と書く新聞が出て来ました。 別に訂正記事のようなものは無く、昨日まで、「部品工場」と書いていたのを、いきなり、「車体工場」に変えたわけで、さぞや読者は混乱した事でしょう。 犯人が働いていたのは、塗装工程だったわけですが、≪関○自動車≫で、塗装工程といえば、もう車体の塗装に決まっています。 それを、マスコミの連中は、部品工場だと思い込んでいたわけですから、何の塗装なのか分からずに困ったんでしょうな。 想像を逞しくして、「部品の塗装の検査をしていた」などと、ありもしない仕事を捏造していた記事もありました。 それを書いた記者、車体工場だと分かった後で、顔から火が出たんじゃないでしょうか?

  だーから、簡単に確認できる事を確認せずに、想像で記事を書くなっつーのよ。 少なくとも、静岡県の東部地域では、その新聞の信用度に相当キズがついたと思われます。 マスコミっていうのは、いい加減なんですねえ。 これじゃあ、ネットで素人が流すテケトー情報と変わらないではありませんか。 しかも、間違いと分かっても、訂正する気骨すら無いのです。 視聴者・読者が詳しい事情を知らないのをいい事に、きっと他のニュースでも、いい加減な事を言い捲ってるんでしょうな。

  で、私は毎日毎晩、≪関○自動車・東富士工場≫の前を通っているわけですが、この歳になって初めて、マスコミの一団のというのを目にしました。 門前で捕まった、≪関○自動車≫の社員が、カメラや収録マイクを持った集団に取り囲まれて、インタビューを受けているのですよ。 「こんな田舎にマスコミが来るとしたら、富士山が噴火した時だけだろう」と踏んでいた私の予想は見事に外れたわけです。 ちなみに、裾野市の名前は、≪富士山の裾野≫という所から来ていて、この工場の門前からも、富士山がよく見えます。

  マスコミの大半は首都圏から来ていたようですが、都会の人間だから、少しは派手な格好をしているのかと思いきや、男も女も、上から下まで黒ずくめだったのは意外でした。 しかもシャツは白。 葬式か、おまいら? もしかしたら、殺人事件で犠牲者が出ているから、こういう色の服装にしてるんですかね? それにしても、黒ずくめの一団が門前にたむろしているのは、何とも不気味な光景でした。 何十年に一度も無いような事なので、写真を撮りたい衝動に駆られましたが、やはり、犠牲者が出ている事に配慮して、やめておきました。 そういえば、マスコミの人達、夜中にもいましたよ。 夜の部は、カメラなどは持っていなかったから、たぶん、雑誌かなんかの記者だったんでしょうな。 昼の部よりもガラが悪く、言葉遣いが丁寧でなかったら、ヤクザにしか見えない風体でした。


  個人的な経験談はこのくらいにして、事件そのものの感想ですが、まあ、恐ろしいの一語に尽きますな。 言うまでもないですが、すべての責任は、派遣会社でも派遣先の工場でもなく、レンタカー会社でもミリタリー・ショップでもなく、両親でもなく国の政治でもなく、犯人当人にあります。

  まず、仕事関係ですが、「人材派遣会社の社員で、工場に派遣されていたのが、契約を切られて、二ヵ月後にやめさせられる事が決まっていた」 その程度の理由で、大量殺人を起こされたのでは、人間社会が成立しません。 ほぼ同じ境遇、もしくはそれ以下の状態で働いている人間は全世界に無数にいるわけですが、その人達がみんな人殺しに走るわけではありますまい。 というか、そんな理由で人を殺す奴なんて、限り無くゼロに近いです。 この犯人個人が、異常者中の異常者だと見るべきであって、「気持ちは分かる」などという戯言は、たとえ寝言であっても口にすべきではないと思います。 派遣社員の立場が弱く、急にやめさせられる事があるのは、勤める前から分かっている事ではありませんか。 その度毎にブチ切れて、通り魔に出撃されては、派遣会社そのものが成り立ちません。

  派遣先の工場も、とんだとばっちりというものでしょう。 世間に謝罪する必要など全くありません。 そんな事を言い出したら、雇った派遣社員を仕事が減ってもやめさせられないという事になり、人件費の負担で会社が潰れてしまいます。 ちなみに、自動車業界では、6月から軒並み、生産台数が急減したのですが、元を辿れば、サブプライム・ローン問題でアメリカ向けの輸出が減った事が原因です。 ≪関○自動車≫のせいという以前に、生産台数の割り当てを減らした≪ト○タ自動車≫のせい、車が売れなくなったアメリカ市場のせい、サブプライム・ローンのバブルに踊ったアメリカ市民のせい、と際限なく責任の所在が遡って行きます。 アメリカ市民に向けて声明でも出しますかね、「秋葉原の通り魔事件は、お前らのせいで起こったのだから、謝罪せよ」と。 おっ門違いも甚だしい!

  レンタカー会社は、まったく無実ですな。 借りたいという客に車を貸すのが仕事ですから。 むしろ、最初要求された4トン車を、免許の住所が地元に変更されていない事を理由に貸さなかったのは、チェック機能がちゃんと働いていたわけで、誉めるべきでしょう。

  ミリタリー・ショップは、人殺しにしか用途が無いナイフを売ったということで、問題点もありますが、今回の事件の責任となると、ほとんど問えないと思います。 なぜなら、その店でダガー・ナイフを売らなかった所で、犯人は犯行を諦めなかっただろうと思うからです。 刺す事自体は、どこにでも売っている果物ナイフでも出来ますから。 普通のナイフを買って、艶消しの塗料を塗るくらい、あの計画立案・実行能力の高い犯人なら、容易にこなすでしょう。 しかし、ダガー・ナイフの販売は、今後取り止める方が賢明でしょうな。 今回の事件で、ダガー・ナイフの実力を知って、真似する奴が出て来る可能性が高いですから。

  次、両親の責任。 どんなものですかねえ。 犯人がとっくに成人している上に、長い間、家に帰っていなかったとなると、いかに親とはいえ、そこまで責任持たなければならないのか、大いに疑問です。 法律上は、連座制ではないので、親の責任が問われる事はありません。 道義的責任を感じた親が、自発的に被害者や遺族に謝罪するのなら、止める理由は無いですが、マスコミを筆頭に世間の方から親の責任を追求するのは筋違いだと思います。 親の立場になってみれば、どうにもしようがないのが分かるではありませんか。

  親を吊るし上げようとしている方々、まあ、落ち着いて考えてみなさいな。 自分の子供が殺人を犯してしまった場合の事を。 子供が、自分の見ていない所でどんな事をやっているか、何を考えているかなんて、全然知らんでしょうに。 さあ、責任が持てるかな? もし、親にも責任があるというなら、これほどの大事件となれば、謝罪くらいでは到底すまないわけですが、連座して、子供と一緒に絞首刑になる覚悟があって言っているのかな? 自分が同じ立場になったら受け入れられない事を、他人に求めるのは、それもまた罪ですぜ。

  最後、国の責任。 アホ臭い。 国に責任なんてあるものかね! 「派遣社員の待遇を法的に保証しないから、こんな事件を誘引したんだ」などと、難癖に近い批判を繰り広げている連中がいますが、現場の事情を知らないにも程があります。 今、日本中の工場で、派遣社員の契約打ち切りが続出しているのは、皮肉にも、国が、≪派遣法≫を整備したからです。 それまで、法の網の目をくぐる形で、派遣社員という安い労働力を得ていた企業が、≪派遣法≫の締め付けに抗しきれなくなり、法・に・従・っ・た・結・果、派遣社員をやめさせざるを得なくなったのです。

  作業訓練には時間も費用もかかるのに、「三ヶ月以上、同じ職場で働かせてはいけない」などと言われれば、そんな短期間で移動させなければならないような人材を雇うのは不効率ですから、派遣社員は使い難くなり、正社員や直接雇用の期間工に切り替えざるを得ません。 ところが、派遣社員はあくまで、派遣会社の所属ですから、企業側の一存で、派遣会社から引き抜いて、雇い直すわけには行きません。 結局、今まで働いていた派遣社員をクビにして、新たに正社員や期間工を雇う事になるのです。

  国はやるべき事はやっているのであって、ただ、今はそれが裏目に出ているだけです。 労働界全体のシステムを変更するには時間がかかります。 各企業が派遣社員を減らして、正社員主体に舵を切り直すには、何年も要するでしょう。 現在は過渡期と見るべきです。 悪くすると、企業が、今後人件費が嵩む事になる国内での生産に見切りをつけて、工場を海外移転してしまう可能性もあり、そうなったら裏目を通り越して、泣きっ面に蜂、弱り目に祟り目です。 しかし、たとえそうなったとしても、それは世界経済の流れなのであって、国の責任とは言えますまい。

  昨今、フリーターの労働運動が俄かに盛んになり、国の政策を槍玉に挙げる風潮が出て来ましたが、何でもかんでも国のせいにすれば解決すると思ったら大間違いです。 私の経験から言わせて貰えば、そんな事をしている閑があったら、少しでも条件のいい正規採用の口を探し回った方が、人生にプラスになること疑いありません。 そもそも就職もしていない立場では、労働者の唯一の武器であるストを打つ事も出来ないではありませんか。 デモなんかやったって、就職している人間は賛同しませんから、決して多数派にはなれず、多数派になれない限り、民主国家で政策に影響を及ぼす事は不可能です。


  私は若い頃に、人材派遣会社にいた事があって、コピー機工場に派遣されていました。 派遣先の面接の時には、「長く続けられますか? すぐにやめられてしまうと、こちらとしては困るわけです」などと言われたのですが、三ヶ月たったら、「生産台数が減ったので・・・・」と、派遣会社ごとクビになりました。 今回の事件の犯人同様、割とその仕事が気に入っていたし、正社員の人達からも、「おまえは、よく働くね」などと評価されていたので、クビを宣告された時にはドタマに来ました。

  でもね・・・・、どんなに頭に来ても、人殺しなんか、微塵も考えませんでしたよ。 当たり前でしょ、そんなの。 「クビになったから、歩行者天国へトラックで突っ込んで、大量殺人」なんて、正気の沙汰かね? ≪クビで自殺≫なら、まだ分かりますが、≪クビで殺人≫なんて、異常者でなければ、そんな人の道に外れた事が出来るわけが無いではありませんか。

 「自分も同じ境遇だから、犯人の気持ちがよく分かる」なんてほざいている連中は、模倣犯になりかねないですから、警察で身元を調べ、カウンセラーでも送り込んで、幼稚極まりない心得違いを正し、犯行を未然に防ぐべきですな。 何が、「気持ちが分かる」だよ。 そんな答えしか出てこない頭なんぞ、トイレへ流してしまえ。

2008/06/15

環境闘争

  6月7日(土)にNHKで放送された、≪SAVE THE FUTURE 日本のこれから≫という番組を見ました。 討論番組など気分が悪くなるだけなので普段は見ないのですが、何が面白いのかさっぱり分からないバレー中継のせいで、≪IQサプリ≫が休みだったので、仕方なく見た次第。

  ≪日本のこれから≫と副題をつけているのに、中国とアメリカの市民を参加させるなど、少々ピントがズレた企画だった点は大目に見るとしても、日本人の議論の欠点がモロ出しで、多数決で結論を決めるでもなく、妥協点を探るわけでもなく、ただそれぞれの言いたい事を言い合うだけの低次元な≪発表会≫だったのは、予想していた事とはいえ、やはり残念な印象を受けざるを得ませんでした。

  こういう席に出てくる人というのは、「自分は環境問題や温暖化対策について、日頃から真剣に考え、実践もしている」と自負していて、恐ろしさを感じるほど強い言葉で主張を繰り広げますが、自分が努力しているから、他人にも同じ努力を強要するというのは、全体主義の発想でして、そんな事をテレビで公然と口にして世論をアジるのは、危険人物以外の何者でもありません。 当人達は、自分の事を、≪正義の味方≫と見做しているわけですが、実際は、≪悪の化身≫の方なんですな。 問題は、彼らが、自分の正体に一生気付かないということで。

  「勿体ない」にしてからが少々胡散臭い言葉でしたが、「バチが当たる」などという言葉まで出て来ると、「欲しがりません、勝つまでは」が登場するのも時間の問題かと思われます。 この種のスローガンが幅を利かせ始めるようでは、社会の閉塞化が進みつつあると見るべきでしょう。 ≪自国の責任≫を、≪全人類の責任≫にすり替え、本来、先行排出国・先行浪費国として糾弾される側なのに、ヌケヌケと攻撃側に回るなど、卑怯この下無いですが、全体主義者の考え方というのは、時代を問わず、似たり寄ったりですな。

  歴史が教えてくれるのは、全体主義者のいう事を聞いて、良い結果になった事は、一度も無かったという事です。 こいつらねえ、思い込みが極端なだけで、てんで先が読めんのですよ。 幕末の志士どもと同じでして、世間である事象が流行ると、ぱっと飛びついて、「これが今この世で最も重要なテーマだ!」と信じ込んでしまうんですな。 そして、それ以外の事は、すべて犠牲にしても構わないと断じてしまうのです。 実際には、重要な事は並行していくつも存在するわけですが、この連中、頭と心が弱い為に、多くの事をバランスよく按配するという芸当ができず、一つの事に執着する事によって、「これさえやっていれば間違いない!」と決めてしまって、心の安定を得ようというわけです。

  だけどよー、自分のやっている事が、他人に犠牲を強いる事である場合、公の場に出てきて、大声で主張するのは、温暖化以上に重大な問題だと思うぞ。 空き缶拾いを思い浮かべてみなよ。 黙々と空き缶を拾い続けている人には頭が下がる思いがするけれど、道往く人を捕まえて、「俺が拾ってるんだから、お前も拾えよ!」と怒鳴っている人間が、小指の先ほどの尊敬も得られないのは、簡単に想像できるよな。 お前らは、まさに、その怒鳴る男だよ。

  話を戻しますが、応募してきた一般市民と、ゲストとして招かれた専門家の間に、論者としてのレベルの差が歴然と見られたのは、興味深かったです。 まず、一般市民は、データを数字で示す事が出来ません。 これは実態を知らないまま、漠然としたイメージで、≪思い込み≫を起こしている危うさを否定できないという事です。 科学技術的な問題に関する議論をしようという時に、≪思い込み≫を元にして意見を組み立てている人間を参加させるのは、混乱を引き起こすだけで、何の益もありません。 いちいち、正確なデータを教えながら進める議論など、不効率極まりないです。 討論会をする前に、まず研修会を開くべきでしょう。

  一般市民の無知は、数字以外の点でも多く顕れていました。 最初、中国を大排出国として批判していた人物が、≪国民一人当たりのCO2排出量≫という言葉が出て来た後は、何も言わなくなりましたが、恐らく、それまで、その概念を知らなかったのでしょう。 国単位でのみ比較して、頭の中で単純に悪玉国家を仕立て上げていたものと思われます。 同じ人物が、「中国の参加者の意見が全員同じなのは変だ」という指摘もしていましたが、経済先進国と発展途上国では温暖化の責任に対する立場が違いますから、中国人がアメリカや日本を責めるのは当然で、別段おかしな事ではありません。 この指摘の時以外にも、中国人参加者の意見が全員一致した際に、日本の会場で、侮蔑意識から出たとしか思えない笑いが広がりましたが、こういう反応が出てくること自体に、応募参加した一般市民達の次元の低さをよく表わしています。

  一般市民の中に、≪後進国≫という言葉を平気で使う者がいたのにも呆れました。 司会者が、わざわざ、「発展途上国」と言い直して、暗黙の修正を求めても、気付かないのか、わざとやっているのか、改めもせずに、≪後進国≫という言葉を使い続ける始末。 ≪後進国≫という言葉には差別意識が含まれているという事で、≪発展途上国≫という言葉に置き換えられたのは、もう何十年も前の話です。 ところが、この自認・正義の味方達の頭の中では、何十年もの間ずーっと、≪後進国≫という言葉が生き続けて来たわけですな。 まったく、恐ろしい奴らだ。 差別主義者に、社会問題を語る資格なんてあるのかね?

  一般市民の暴走無知ぶりに比べると、産業界の代表や学者・研究者達の意見には、まっとうな物が多かったです。 特に、「現在起こっている温暖化には、経済先進国が優先的に責任を負わなければならない」という点で彼らの意見が一致していたのには、あまりにまとも過ぎて、驚いたくらいです。 もっとも、所詮同じ日本人の意見なので、そこかしこに外国に対する差別意識・侮蔑意識が垣間見えたのも事実ですが。


  確か、産業界の代表の一人だと思いますが、「CO2排出量の削減義務を企業にのみ負わせるのは、計画経済の手法ではないか? 日本は計画経済の道をとるのか?」というような疑問を環境相にぶつけた人がいました。 それを聞いた私は、「おっ!」と思ったわけです。 最近つらつら考えていた事に関係していたものですから。 どういう事を考えていたかというと、「このまま、資源の減少や、CO2排出量の増加が続くと、資本主義は成り立たなくなって、社会主義が息を吹き返すんじゃないの?」と、そんな事をね。

  CO2排出量を各国で調整しようという動きにしてからが、もう完全に資本主義の原理から逸脱しています。 前に、≪温暖化対策の末路≫という文章で書いたんですが、CO2排出量というのは、経済規模と比例関係にあります。 CO2排出量を抑えるという事は、取りも直さず、経済成長を抑えるという事です。 最近、北欧の一部の国の例を挙げて、「経済成長と、CO2排出量の削減は両立可能だ」と主張する論が出て来ていますが、そういう嘘みたいな≪うまい話≫は、眉に唾をつけて聞くべきでしょう。 それらの国では、CO2排出量が少ない産業だけ国内に残して、排出量の大きい産業を国外依存しているのではないでしょうか? 自分の家のゴミを隣家の庭に放り込んでおいて、「ご近所のみなさん、うちのように綺麗に暮らしましょうね」と言っているようなものです。 北欧というと、理想社会のようなイメージがありますが、この種の≪北欧神話≫には、気をつけなければいけませんな。

  資本主義というのは、経済活動を活発にし成長させる為に最も有効な原理でして、CO2排出量の抑制にはマイナス効果しか及ぼしません。 アメリカや中国はCO2排出量に枠を嵌められるのを嫌っていますが、彼らが最も恐れているのは、それによって経済成長が止まる、いや、むしろ縮小してしまう危険性です。 アメリカの場合、深刻な打撃を受ける産業界が、政府に削減目標を受け入れないように常に圧力をかけていますし、中国の場合は、経済成長を止められてはたまらないので、負担を背負い込まないように、政府そのものが警戒しています。

  資本主義を維持しようとする国が、削減目標の設定に反対しているのは、目的と行動が一致していて、分かり易いんですが、削減目標設定に意欲的な国が、何の利益があってそうしようとしているのか、そちらが解せません。 「地球全体の未来を考えているのだ」というのは、国連職員やNGOあたりのボンクラが唱えるお題目でして、それぞれの国の政府が責任を負っているのは、自国民に対してだけであって、外国の利益など爪の先ほども念頭に浮かびませんし、全人類の利益も観念レベル以上には考えていないものです。

  削減目標設定に意欲的なのが、ヨーロッパの先進国だという点が気になるところで、先進国といえば聞こえがいいですが、実態は、≪発展停止国≫ですから、経済成長が続いている新興国やアメリカの足を引っ張るつもりで、削減目標を利用しようとしている可能性があります。 これ以上、世界の経済勢力図が変化しないように、自国の経済力が相対的に沈降しないように、全国家に枷を嵌めて、≪現状維持≫で止めてしまおうというわけです。 もしそうであれば、彼らの腹づもりが、よく理解できます。

  だけど、問題がCO2排出量の削減だけに限定されるのならともかく、いずれは、地下資源や食料の分配も全世界規模で調整しなければならなくなりますから、そうなると、もはや完全に、世界全体で計画経済をやる事になります。 競争なんてやっているゆとりはないのであって、各国の条件の違いを考慮に入れつつ、均等に分配するわけですから、これはもう、社会主義としか言えませんわな。 企業レベルの競争も成立しなくなります。 シェアや利益を奪い合うのが企業社会ですから、奪い合いが禁止されれば、企業の存在意義は無くなり、分配作業を行なう役所だけあれば事足りるという事になります。 おお、紛う方無き、計画経済だ。 マルクスには悪いですが、階級闘争とは全く別方面の要求によって、資本主義社会は崩壊し、社会主義の時代が来るわけですな。

  おっと、ここまで読んで、「なるほど、そうだったのか。 社会主義は資本主義に負けたのではなく、出て来る時期が早過ぎただけだったんだな。 社会主義の時代は、これから到来するわけだ」と、感無量の皆様、その感動はまだ早いです。 上に書いたのは、希望的観測に過ぎません。 まず、世界規模で計画経済を実行するには、中心になる組織が必要ですが、国連の能力の低さを見るにつけ、そんな舵取りが出来るわけがなく、国連に変わる組織も想像し難いですから、計画経済の実行そのものに無理があります。 それに、人間というのは、「均等に分配」なんて奇麗事には、そうそう乗って来ないものです。 もう一つ、より現実に起こりそうなシナリオがあります。

  自国企業が競争に負けそうになった時、「もう競争している時代ではないから、外国と話し合って、資源を均等に分配しよう」とは考えず、軍事力に物を言わせる国が出て来るだろうと思うのです。 身近な例では、イラクに攻め込んで、石油の利権を奪ってしまったアメリカのように。 均等分配を受け入れれば、否が応でも社会主義化せざるを得ませんが、社会主義の社会が、資本主義のそれに比べて、かなり貧しく、窮屈なものになるのは、旧ソ連・東欧圏や開放政策を取る前の中国の例からも明らかです。

 「そんなしょぼい暮らしをするくらいなら、戦争でかたをつけた方がマシだ」と考える国が出て来るのは、多いにありそうな話です。 なにせ、それぞれの国の政府は、自国民に対してだけしか責任を負ってませんから。 アメリカは現役で実行していますし、イギリスも、アメリカに誘われれば、外国を侵略するくらい何のためらいも感じない国です。 フランス、ドイツ、日本、イタリア、ロシア、オランダなど、帝国主義の前科がある国々も、侵略の遺伝子を持ってますから、「他がやっているのだから、うちも」となるのは目に見えています。 「資源が足りないなら、使う人間を減らすのが一番だ。 外国人を殺しまくれば、わが国で、それだけ余分に使えるではないか。 世界全体で人間の数が減れば、CO2排出量も減るのだから、温暖化も防止できて、いい事尽くめだ」というわけですな。

  まったく恐ろしい。 でも、人類の歴史に照らし合わせれば、「みんなで仲良く、均等分配」という社会主義コースより、こちらの方がずーっとあり得そうな未来ではありますまいか。 社会主義というのは、すべての国が窮屈・不便を受け入れる事でしか成り立ちませんが、一旦豊かな生活を経験した人間というのは、なかなか生活レベルを落せないものです。 無理を押して、豊かな生活を続けようとし、結局破綻して一気にホームレスまで落ちる。 そんなもんでしょ。 現在の資本主義先進国は、生活レベルの低下に耐えられないと思いますから、無理を押して、侵略戦争に打って出る危険性が濃厚です。 どこも民主国家ですから、国民の多数が、「外国を攻めて、資源を奪え!」と言い出したら、政府は従うしかありません。


  最終的にどういう形で落ち着くか分かりませんが、人口が激減する事で、CO2排出量が減って温暖化にブレーキがかかるまで、また、資源や食料にゆとりが出るまで、戦争の時代が続く事になるんじゃないでしょうか。

2008/06/08

耕すのは誰か?

  突如到来した世界的な食糧不足で、「国内自給率を上げろ」という意見が飛び交っています。 日本全国には、埼玉県の面積に相当する≪休耕田≫が散在するので、それらを復活させれば、すぐに生産量を上げられるではないかと・・・・

  ・・・・いや、まあ、口で言う分には簡単なんですがね。 休耕田があるのはいいとして、そこを誰が耕すのよ? 政治家? 自称識者? 休耕田は長年放ったらかしになっているので、背丈を越えるような草がボウボウですが、政治家や自称識者の皆さんでは、その草を刈る事も侭ならないでしょう。 「農家がやるに決まっているじゃないか」? もしかしたら、農村の事情をまるっきりご存知ないのかな? 後継者がいなくて、田畑をどんどん潰している有様だというのに、休耕田を耕せだと? そんな余分な労働力がどこにあるんじゃい!

  私のうちは、農家ではなかったんですが、家があるのは紛れも無い農村の中で、私が子供の頃には、田畑の方が宅地よりも圧倒的に多い風景でした。 私の父が子供の頃には、家などほとんど建っておらず、一面、田畑ばかりの所だったらしいです。 それが今では、家で埋まってしまい、田畑を探すのに苦労するほどになってしまいました。 知らない人が見たら、元から住宅地として開かれた所ではないかと間違えるほどです。 農家が、みんな田畑を売ってしまったんですな。 農地として持っていても、農業をやる人間がいないので、邪魔になるだけ。 それなら、宅地にして売ってしまった方が得になると判断したわけです。

  現在の日本の農家は、基本的にすべて自作農ですが、この状況はそんなに歴史が古いわけではなく、戦後の≪農地改革≫によって成立したものです。 地主から取り上げた土地を小作農に分け与えた頃に農家の働き手だった世代は既に世を去りつつあり、今、田畑を耕しているのは、その子供の世代です。 この世代は、生まれた時から自作農だったわけですから、小作から自作に転ずる事が出来た喜びを知りません。 親の世代が持っていた地主に対する劣等感が全くない代わりに、農家以外の職業の人々に対して、優越感・劣等感・疎外感などを混然として抱いています。

  優越感というのは、やはり土地を多く持っているという事が一番大きいです。 また、サラリーマンに比べて収入が遥かに多く、目に見える豊かさとして、大きな家を建て、高い車を何台も保有し、買いたい物は大抵買えますから、優越感を抱くのは当然というもの。 一方、劣等感というのは、仕事が≪2K≫だという点から出て来ます。 「きつい」と「汚い」ですな。 「危険」はほとんどありません。 疎外感は、テレビや雑誌など、メディアの農家に対する態度から発しています。 ≪ダーツの旅≫などに如実に現れているように、テレビ関係者には、農村を≪異質な世界≫、農民を≪変わった人達≫と見做す傾向が明確に見られます。 農家の人達もそういう番組を見ているわけですが、実質的に笑いの種にされているのですから、農家側からしてみれば、否が応でも疎外感を抱かずにはいられないというわけです。

  もし、優越感だけならば、後継者に困るという事態にはならなかったはずです。 優越感よりも、劣等感や疎外感の方が大きかったから、子供は農業を継ごうと思わず、親も継がせようと思わなかったんですな。 農家では、「誰が継ぐか」や、そもそもそれ以前に、「継ぐか継がないか」に関する話題が、家族内でタブーになっているケースが多いらしいです。 親が子供に、「継げ」と言えば、子供が反発するし、子供の方から、「継がない」と言ってしまうと、親が憮然として、家庭内の雰囲気がギスギスする。 それならいっそ、その話題には触れないようにしようという暗黙の了解が成立します。 そんな事をしている内に、子供は、都会の大学へ進み、そのまま帰って来なかったり、帰って来ても、サラリーマンになったりして、農業からは遠のきます。 子供側にしてみれば、親が、「継げ」と強く言えない事を承知しているので、さっさと就職して、勤め人としての既成事実を作ってしまった方が勝ちというわけですな。 農家の苦悩はサラリーマン家庭の比ではありません。

  そんなわけで、農地改革によって到来した日本の自作農時代は、たった一代で滅びつつあります。 農地は山間部では放棄され、平野部では宅地として売られて、減る一方。 宅地にされてしまったところは仕方ないとして、放棄されたところは耕作者さえいれば、数年で復帰させる事が出来ないではないですが、その耕作者がいないのです。 機械が使えないような田畑ほど放棄されやすいので、復活は人手に頼らなければならないのですが、その技術を持った人がいないのです。 だから、聞きたいんですよ。 「休耕田を耕すって、一体、誰がやるの?」って。

  ≪鉄腕DASH≫のDASH村企画に、三瓶明雄さんという方が農業指導で出演していますが、あまりにも膨大な量の農業関連知識を頭に入れているので、驚かずにいられません。 で、あの方一人が特別優れているのかというと、そうではありますまい。 農民と名のつく人なら誰でも、あのくらいの知識と経験を備えていなければ、務まらないと見るべきです。 素人が真似事でやれるような甘いものではないのです。 ほんの数坪の家庭菜園ですら、失敗続きで収穫ゼロが何年も続く事などザラです。 売り物になるような作物を大量に作るとなれば、素人では何十年かかるか分かりません。

  農業は、知識・経験の他に、様々なパターンの労働に対する慣れも大切な要素で、「ちょっと腰が悪いけど、手先で出来る作業なら・・・・」などという、≪限定付き≫の人間では、却って足手纏いになってしまいます。 子供の頃からやっているから、最小限のエネルギーで効率よく作業をこなせるのであって、大人になってから始めるのでは、何を究めるにしても、何年も費やす事になるでしょう。 工場労働などと違って、年柄年中同じ作業を繰り返しているわけではないので、覚えきらない内に、その作物のシーズンが終ってしまい、次の年には、また初歩からやり直しという、厄介な現場だからです。

  今のご時世ですから、「フリーターや派遣社員などを、農家が雇えるようにしたら?」とは誰でも思いつくアイデアですが・・・・、無ー理無理! 出来るわけねーっぺよ! 一人残らず、一週間で逃げ出すね。 週休二日制の工場ですら、「きつい」って言って居つかないんだよ。 休みが一定しない農家でなんて、働けるものかね。 あー、ちなみに、農家には定休日が存在しません。 農閑期のように休みが集中する事もありますが、一度勤め人を経験した人間は、休みが定期的に巡って来ない職場に耐えられんでしょう。 「夏場は、雨の日だけ休み」なんて言われた日には、予定が立てられなくて、お先真っ暗な気分になってしまいます。 農家に於いては、≪仕事≫と、≪生活≫は一体化しているんですな。 農業が企業として成り立ち難い理由も、そこにあります。

  私は昔、農家の娘と結婚した人と一緒に働いていた事がありますが、その人、休みの日には、奥さんの実家で、農業の手伝いをしていました。 「していた」というより、「させられていた」んですな。 ほぼフリーターのような生活だったので、奥さんの実家で食わせてもらっている状態で、奥さんに、「休みでゴロゴロしてるなら、畑の水撒きでも手伝ってよ」と言われ、立場上断れるはずもなく、ホースを抓んで水を撒いていたらしいです。 ま、それだけの話なんですが、今思い出してみると、素人に手伝わせられる作業が、水撒きくらいのものだったという事が分かって、大変興味深いですな。 農家の方も、インストラクターではありませんから、素人に農作業を教えるのは苦手なのです。 テキトーに教えて、せっかくの収穫を台無しにされても困るし。


  さて、休耕田を耕すのは一体誰なのか? 私には想像がつきません。 上に述べて来たように、理由も無しに休耕田が増えたわけではないのです。 耕す人間がいなくなったから、休耕田が出て来たのです。 江戸時代以前の、≪逃散≫のように、農民がどこかへ逃げてしまった為に、田畑が放棄されたというなら、農民を連れ戻せば復旧は可能ですが、現代の休耕田には、連れ戻すべき農民がいません。

  国内自給率を上げろ上げろと机をドンドコ叩いている方々、まあ、落ち着きなさい。 とりあえず、あんたの家の庭で、ジャガイモでもトウモロコシでも作って見なさいな。 家族にやらせるんじゃなくて、あんた自身がやるんだよ。 ご近所や親戚にお裾分けしたくなるほどの質と量が収穫できたら、改めて机を叩けば宜しい。 まあ、無理だと思うがね。 農業は、職人技の最高峰なのだという事を思い知る事になるでしょう。

  なに? マンション住まいで、庭が無い? 問題外だな。 つまり、日頃、土に触れる事も無いんだろう? 農業について語る資格なし。 これからは、農作物を口にする前には、作ってくれた人の姿を思い浮かべて、心の中で土下座するようになさい。 その人達がいなければ、あんたは生きていく事も出来ないんだよ。 ≪ダーツの旅≫を見て、ゲタゲタ笑っている身分じゃあるまいて。

2008/06/01

日記の醍醐味

  確か、小学5年生の頃だったと思いますが、先生が、「日記をつけている人は?」と質問した時があり、クラスで二人ばかりが手を挙げました。 その内の一人は、一年生くらいの時から、ずっとつけているとかで、「へええ、そういうマメな人もいるのか」と、感心というか、素朴に驚いた記憶があります。 小学一年生が自主的に日記をつけ始めるとは思えませんから、おそらく親の勧めに従っての事だと思いますが、今にして思うと、その親は大変な財産を子供に残していたんですねえ。 この世で何に価値があるといって、日記ほど価値が高いものもありません。 特に子供の頃の日記は、値千金、いや、何億何兆積んだ所で、人から買う事ができない、個人にとっての≪至宝≫と言えるのではないかと思います。

  私は子供の頃は、日記を全くつけず、親が何回か日記帳を買って来てくれたにも拘らず、すべて三日坊主で終わり、その三日分しか書いていない日記帳ですら、とうの昔に捨ててしまって、表紙のデザインも覚えていない始末です。 つっくづく、勿体ない事をしたもんです。 箇条書きのメモ程度の文なら、小学一年の頃からでも書けたのですから、一日に一行、いや、一週間に一行でも書き残しておけば、今読み返してどれだけ面白かったか分からないものを。

  日記をつけていない人は経験が無いので分からず、日記をつけている人は当然過ぎて普段余り意識しない事ですが、日記というのは、書く時には、ほとんど価値がありません。 時間は取られるし、文章は練らなければならないし、面倒なだけです。 日記が真価を発揮するのは、何を書いたかすっかり忘れてしまった後で、読み返す時なんですな。 もう、滅茶苦茶面白いです。 昔読んだ小説や漫画を読み返すよりも、遥かに面白い。 なぜかというと、小説や漫画は、名作であればあるほど記憶が残り易く、読み返しても新たな感動が起こりにくいものですが、日記の場合、完全に忘れてしまっているが故に、「おおうっ! こんな事があったのか!」と、新鮮な驚きに満ち満ちているからです。 しかも、書いてある内容がすべて自分自身に関わる事だという点が味噌。 人間というのは、結局自己中心的なものですから、自分の事に一番興味があるんですな。

  若い頃は、人生が始まったばかりという意識が強くて、過去を振り返る事など滅多に無く、むしろ、済んだ事を思い出してばかりいるような大人を軽蔑しているものです。 私も子供の頃には、昔の写真を引っ張り出して、何時間も見入っている母の姿が惨めったらしく見えて、嫌だったものです。 しかし、自分自身が30代半ばを過ぎた辺りから、過去の記憶というのが如何に貴重な財産であるかをひしひしと痛感するようになりました。 なぜ、大事なのかというと、過去の記憶は、自分の人生の存在そのものだからです。 自分の事を覚えているのは自分だけなんですよ。 一人暮らしで天涯孤独という人なら、実感としてよく分かると思いますが、他の誰も、自分の事なんて覚えていてくれません。 自分が覚えていなければ、自分の過去は存在しなくなってしまうのです。

  自分が死んでしまえば、自分という存在そのものが消えてしまうので、日記にも価値がなくなりますが、問題は生きている間の事でして、寿命が尽きるその瞬間までは、自分の日記は自分にとってのみ、最高の価値を有するのです。 歳を取ってから、昔の自分の存在を確認したくなって、母校に卒業アルバムや卒業文集を閲覧しに行く人がいるようですが、あんな大雑把な物を見て、何が分かるものですか。 自分が手元でつけていた日記に比べれば、一万分の一の情報量もありゃしません。 幼友達に会ったり、クラス会に出かけて、昔の思い出話をした時に間々起こる事ですが、同じ事柄に関する記憶であっても、人それぞれに捉え方が違っていたり、場合によっては、事実そのものが歪められて記憶されている事があります。 昔の友人達の思い出話だけから、自分の過去を再現すると、人間のクズとしか思えないような子供にされてしまっている事さえあります。 他人の記憶というのは、そんなもんなんですな。

  「親ならば、割と正確に自分の事を覚えていてくれているだろう」と思うでしょう。 ところがねえ、親というのは、子供の事をほとんど知らないものなんですよ。 学校や職場で何が起こったかなんて、情報そのものを知りませんし、家で起こる事件なんて、パーセンテージは知れています。 また、親というのは、自分の子供を自分の分身だと見做していて、何かにつけ、贔屓目で見る傾向があります。 よく、凶悪事件が起こると、「あの子は、そんな恐ろしい事ができる子じゃないんです」と頑なに言い張る親がいますが、自分の子供の行状など、一日にほんの二三時間分しか見ていないくせに、よくもまあ、自信たっぷりに言い切れるものです。 「いや、あんたの子供はそういう恐ろしい人間だったんだよ。 あんたが知らなかっただけで・・・・」

  そうそう、余談ですが、子供が事件に関わった時に、学校の校長がインタビューに答える事が恒例化してますが、ありゃ、爆笑だよねえ。 「とても明るく、まじめな子で・・・・」 何言ってやがる! 校長が個々の生徒の性格なんて知ってるわけねーだろ。 まったく、いーから加減な奴らだぜ。 どの口から、そーゆー出任せが出る? 恥を知れ恥を! おっと、余談にしても脱線し過ぎました。 日記だ日記だ。

  でねー、結局、自分の事は自分で記録しておくしかないんですよ。 記憶力によほど自信があっても、十年以上前の出来事になると、ほんの半行くらいの走り書きのメモよりも、内容があやふやになってきます。 「こんな事あったっけ?」とか、「こんな事を考えていたのか?」とか、読み返して驚愕すること請け合い。 いや、ほんとだって! 記憶力なんてものが如何に頼りにならないものか、痛感しますから。


  さて、日記をつける場合の注意点ですが、なによりも続ける事が優先課題なので、無理をしてはいけません。 その点、手書きよりは、キーボードで打つ方が、継続率はずっと高くなります。 私自身、日記が続くようになったのは、ワープロを入手してからでした。 今なら、否が応でもパソコンという事になりますが。 デスクトップに、≪日記≫のテキストを用意して、すぐに開けるようにしておけば、他の作業の後に、「ちょっと書いておくか」という軽いノリで対応できます。 まあ、こんな事は日記をつけるつもりがあれば、誰でも思いつくことですな。

  ちょっと要注意なのは、公開する日記と、本物の日記を一緒にしてしまわない事です。 ≪パソコン=ネット≫だと思っている人も多いと思いますが、ネットに公開する事を前提にしている場合、家庭内の事情や個人的秘密、財産管理記録など、他人に知られたくない事は書けませんから、どうしても内容の幅が狭くなります。 もし、サイトやブログで日記に近いものを書いているのなら、それとは別に、非公開の本物の日記をつけておいた方がよいでしょう。 私の場合、本物の日記の代わりに、サイトで日記まがいのものだけ書いて済ませていた時期があるのですが、後で読み返すと、映画やドラマの批評ばかりで、私生活についてほとんど触れておらず、その間の過去の再現が困難になってしまいました。 後悔先に立たず。 ネットが大事か、私的な記録が大事かと問われれば、今なら断言できますが、後者の方が一億倍大事です。 だーから、他人なんか、自分にほとんど興味を持ってないってーのよ。 社交辞令でつきあってるだけなんだって。

  続けるコツですが、毎日書く事に拘らないことです。 「日記というのは、毎日書くから日記なんじゃないのかい?」と、ニヤニヤしている人もいるでしょうが、そういう杓子定規な考え方をしていると、およそ続かないのです。 「毎日つけなければいけない」という強迫観念に取り付かれていると、一日でも書き漏らしたが最後、「ああ、もう駄目だ。 気分悪い。 もう放っとけ!」となってしまいます。 週に一回、いや、月に一回でも良いのです。 何の記録も残さないよりは、遥かにマシなのですから。 だけどねえ、パソコンでしょっちゅう文章を打っている人なら、週一くらいのペースは維持できると思いますよ。 大抵の人は、週末の夜には、平日とは違うパターンの過ごし方をしますから、その変則を利用して、ちょこっと書いておけばいいのです。 繰り返しますが、たとえ、一行でも、何も無いよりは、ずっと価値があるのです。

  書く内容ですが、読み返す時のニーズから優先順位をつけると、

1・ 起こった事。
2・ 考えていた事。
3・ 体調の記録。
4・ 買った物の記録。
5・ 鑑賞作品の感想。
6・ 食べた物の記録。
7・ 街の変遷の記録。

  といった所でしょうか。 もちろん、どれか一つだけでも、何も書かないよりはずっと良いです。

  ≪考えていた事≫というのは、そのまんまの意味で、その頃考えていた事ですな。 一方、≪起こった事≫というのは、朝何時に起きて、家の中で何をしたか、どこへ行ったか、誰と何を話したかといったような事で、「そんなつまらん事を、どうして書き残す必要があるねんな?」と思うでしょうが、歳月が経ってから過去を再現する時、その種の細々した記録が非常に役に立つのです。 この種の記録は、ネット上に公開するようなものではないので、ブログを日記代わりにしていると、書かずじまいになってしまいがちです。 だからこそ、わざわざ配慮して残す必要があるのです。

  ≪体調の記録≫は、病気をした事がある人なら、価値が分かると思います。 入院・手術するような大病であっても、時間が経つと、病状や治療の経過を忘れてしまいますから、再発する場合の事も顧慮して、詳細な記録を取っておくに越した事はありません。 ≪鑑賞作品の記録≫は、映画・ドラマ・小説・漫画・絵画などの感想の事で、これは、みなさんネット上で普通にやっていると思うので、説明いらないでしょう。

  私の場合、≪買った物の記録≫は、手書きでノートにつけていて、日付・曜日・品名・サイズ・店・値段を記録してあります。 これが、壊れた物を買い直す時などに、結構役に立つのです。 ≪食べた物の記録≫など、馬鹿馬鹿しいようですが、どうしてどうして、毎日食卓の写真を撮り続けて、イグ・ノーベル賞を貰った人もいるくらいで、後々読み返せば、滅法面白くなるのです。 ≪食べた物≫や、≪街の変遷≫などは、写真の方が価値は高いですが、それは相応の手間がかかります。 日記にちょこっと書いておくのなら、ずっと簡単です。

  ところで、書いておいた方がいい事もあれば、書かない方がいい事もあります。 分類すると、≪考えていた事≫の中に含まれますが、考えが纏まっていない内に、あれこれ悩んでいる経過を日記に書いてしまう事があります。 何かを買おうとしている時に、あれがいいかこれがいいかと検討しているような状況ですな。 一見、「文章を書きながら考えを纏めている」かのように見えますが、こういう文章を後で読み返すと、ただただダラダラと長いだけで、何ともとりとめがなく、うんざりしてしまうのです。 読むのが嫌になるようだと、日記そのものの価値が減じてしまうので、こういうのは避けて、書きながら考えを纏めたいのなら、別の場所で行ない、日記には、簡単な思考経過と出た結論だけを記した方がよいと思います。

  もう一つ。 「日記なんかつけていると、事故で突然死などした場合、家族に読まれてしまって恥かしい」と案じる方も多いでしょう。 その心配はもっともだと思います。 いくら、≪考えていた事≫を書き残すといっても、やはり制限はあるのであって、性的欲望や犯罪志向などを書くのは、避けた方が良いでしょう。 まあ、死んでしまえば、恥もクソも無いという考えもありますが、なかなかそこまで割り切れるものではありません。