2013/02/24

ボトム・ブラケットから異音



  ボトム・ブラケットとは何ぞや? 普通は知りませんわな。 私も、自転車に興味を持つまでは、全く知りませんでした。 簡単に言うと、ペダルのクランクの、軸受けの部分の部品を全体的に指す場合の名称です。

  なに? そんな説明じゃ分からん? そうでしょうねえ・・・。 写真を見せろ? いや、写真を見ても、分からんと思います。 ほとんどの部分が、フレームの中に隠れているし、取り出すと、バラバラになってしまいますから。

  「bottom」は、「下部」の意で、これは、問題無いとして、「bracket」は「腕木」の意ですが、腕木自体が分からん。 腕木というのは、たとえば、棚の下にある支えの部分の事を言うそうです。 総合するに、「自転車の下部にある、クランク軸を支える部分」という意味ですかねえ。 ・・・自信、無し。

  ボトム・ブラケットは、頭文字を取って、「BB」と略されますが、「ビービー」と言って、通じるかどうかは分かりません。 口で言う分には、「ボトム・ブラケット」と言っても、大して負担が大きくないので、確実に伝えたかったら、フルネームで言った方が無難ですかね。 いずれにせよ、専門用語・業界用語なので、略称でも、フルネームでも、知らない人には通じませんが。


  自転車なんて、超が付くような単純な機械だと思っていたんですが、結構、ややこしく出来ている部分もあり、そういう所は、素人にはブラック・ボックスになっていて、故障しても、自力修理が難しいです。 ボトム・ブラケットもその内の一つ。

  どんな故障が起こるかというと、ペダルを漕ぐ時に、「ゴリゴリッ!」という異音が出て来ます。 漕げないわけではないのですが、非常に気持ちが悪い。 ネットで調べたところ、ボトム・ブラケット内の、ベアリングの球が潰れるか、球を収めているリテーナーという部品が破損しているかの、どちらかが原因だとの事。

  故障と言っても、過負荷や、経年劣化が原因なので、普通に使っている分には、全く起こらない事もあります。 通学や通勤で乗っている場合、よほどの長距離でもない限り、経験せずじまいで終わるかもしれません。 一方、スポーツ自転車では、割とよく発生する故障のようで、「ボトム・ブラケットは、消耗品」などと言われているのだとか。

  1万円そこらの軽快車では起こらないのに、5万、10万するスポーツ自転車で、よく起こるというのは、皮肉な話ですな。 スポ自に乗っている人達だって、毎度毎回、全力疾走や、峠越えをしているわけではないんでしょうにねえ。

  私は、現在、折り畳み自転車と、買い物用の軽快車の、二台を使っていますが、ボトム・ブラケットから異音が出て来たのは、折り畳み自転車の方です。 車種は、レイチェルの≪OF-20R≫。 買ったのは、2007年の1月で、今現在、6年経っています。 2011年の5月に、シート・ポストを延長した時や、同年11月に、後輪タイヤを交換した時の記録は、このブログでもアップしました。 その折自が、壊れたというわけですよ。

  最初に、「ゴリッ!」と来たのは、2011年の9月16日です。 なんで、そんなに細かい日付まで覚えているかというと、長泉町にある、≪米山梅吉記念館≫という所まで、折自で行った、その帰りに発生したからです。 沼津市から長泉町に向かう場合、緩~い登り坂になる上、距離が片道10キロくらいあるので、「ちょっと、負担をかけ過ぎたかな?」と思ったものの、その時は、ボトム・ブラケットの構造など全く知らなかったので、何の対策も取りませんでした。

  実際、その後、平地での使用に戻ると、時々しか、異音がしなくなり、「このくらいなら、どうって事はないだろう」と思って、気にしなくなってしまったのです。 しかし、今にして思うと、生物じゃあるまいし、自然治癒能力など望むべくもない機械なのですから、一度壊れたものが、自然に直るはずはないんですな。 ただ、面倒な事から、目を背けたかっただけなのでしょう。

  呆れた事に、その壊れたボトム・ブラケットのまま、2012年の1月には、南箱根の≪十国峠≫に登ったりしていました。 もっとも、その時には、上り坂は押して歩き、平らな所と、下り坂しか乗らなかったので、ペダルを漕ぐ際の負担が、さほど大きくなかったから、何も起きなかったのだと思います。

  後は、そんなに遠出はせず、沼津市内や、清水町、三島市など、近場をうろうろポタリングしていただけなので、1年以上、ごまかせて来たわけです。 ところが、今年に入ってから、沼津の北東部にある、≪門池公園≫まで行った帰り、いよいよ、異音が本格化し、漕げば必ず、「ゴリゴリ」鳴き始めるようになりました。 これはいかん・・・、いよいよ、直さねばならんか。


  ところがねー・・・、気乗りがしないんですわ。 折自を直すという、モチベーションが上がらんのです。 なぜというに、私はこの6年の間に、折自で行ける範囲内は、全て行き尽くしており、もはや、折自に乗っても、新鮮な刺激を得られる可能性が、非常に少なくなっているのです。 実用品でない、趣味の品に於ける、必要性の限界ですな。 壁にぶち当たっていてるわけです。

  直しても、その後に楽しみが無いのでは、この寒い時期に、自転車修理などという、「苦しい、汚い、危険」の3K作業なんて、やりたくないでしょう? やりたくないんですよ。 しかも、素人に直せるものなのかどうか、それすら分からず、とりあえず、バラすだけバラしてみるにしても、専用工具を買わなければならんと来た。 あ~、気が進まんな~・・・。


  しかし、暖かくなるまで、乗らずに放置しておくというのも、また、いろいろ、支障があるのです。 まず、乗らないでいると、折自が錆びる。 次に、ちょっと気分転換に出かけてみたくなった時に、折自が使えないと、ストレスが溜まる。 最後に、暖かくなるまで待ったとして、その時に、修理方法を、もう一度調べ直すのが面倒。 結局、さっさとやってしまうに限るのか・・・。


  というわけで、重い腰を上げたわけですが・・・、まずは、修理方法を調べるところから始めなければなりません。 後輪タイヤを交換した時に参考にした、個人サイトがあるのですが、そこに、ボトム・ブラケットの整備方法も出ていたのを思い出し、もう一度探し当てて、閲覧してみました。

  全く以て、ネットの最大のメリットは、この種のハウツー・サイトで情報を得られる事ですな。 昔だったら、「素人じゃ、無理」と決め付けて、高い金払って、プロに頼んでいた事が、今じゃ、最小限の経費で、自力でできるようになったのですから。 逆に言うと、プロにとっては、ネット情報は迷惑な代物であるわけですが。


  とりあえず、ペダルのクランクを軸から外さなければ、何も始まらないとの事。 で、クランクは、シャフトの両端に、ボルト、もしくは、ナットで締まっていて、それを外すのには、14ミリのボックス・レンチが必要との事。

  クランクの軸の部分は、プラスチックの蓋で塞がれていますが、これは、マイナス・ドライバーでこじったら、簡単に外れました。 見ると、私の折自の場合、シャフトの端がボルト状になっていて、それをナットで締めるタイプでした。 今、売られている、軽快車やシティー・サイクルなどは、大抵このタイプのようです。

  まずは、物置にあった14ミリのボックス・レンチを持って来て、試してみましたが、年季の入った工具なので、ボックスの肉が厚過ぎて、クランクの孔に入って行きません。 これはしたり! いきなり、躓いたか。 会社に行けば、14ミリのボックスも、それを取り付けるラチェット・レンチもありますが、会社の備品を私用に使用するのは、私の倫理観に反します。

  とりあえず、、14ミリのボックス・レンチの件は置いておくとして・・・。 ナットを外した後は、クランクを抜かなければならないのですが、しっかり嵌まりこむ構造になっているので、手では抜けず、たったそれだけのための専用工具があるのだそうです。 その名も、「クランク抜き」。 そのまんまのネーミングで、覚え易いのは宜しい。

  宜しくないのは、値段でして、クランクを抜くだけの工具のくせに、1500円もします。 構造的には、外側と内側にネジが切ってある大きなナットの中に、ボルトが通っているだけの単純なもので、せいぜい、300円くらいが適正価格だと思うのですが、5倍もするとは、何たるボッタクリ・・・。

  ネットで買うと、1200円くらいですが、送料がかかるので、結局、1500円より高くなってしまいます。 それなら、店で買った方が早い。 ちなみに、このシマノ製のクランク抜きには、片側に14ミリのボックスが付いていて、モンキー・レンチと組み合わせれば、クランクのナットを外すのにも使えます。

  沼津の≪スポーツ・デポ≫にあるのを見つけ、「買うなら、ここで」と内定しておいて、念の為、少し足を延ばして、≪サイクル・ベースあさひ≫まで行ったら、ここには、あさひの独自ブランドのクランク抜きが置いてありました。 値段を見ると、980円。 お! 安いやんけ!

  ただし、こちらの品には、14ミリのボックスは付いていません。 14ミリのボックスとラチェット・レンチは、100円ショップのダイソーにあるはずで、ボックスは105円ですが、レンチの方は315円です。 これは、前に見た事があるので、知っていました。 合計、1400円。 辛うじて、こちらの方が安いか。

  ボックスとレンチは、他の用途にも使えますから、自転車にしか使えない工具に1500円出すより、安い方の組み合わせを、1400円で買った方が、潰しが利きそうです。 「よし、それで行こう!」 と、方針が決まったのが、2月15日、金曜日の事。 翌土曜は、六日稼動で出勤なので、その帰りに、店に寄って、買って来る事にしました。


  まだ何も手を着けていない段階ですが、修理計画を、ここまで進めた時点で、もう、気分的には、げんなりです。 モチベーションが・・・、あ~、面倒臭い。 よりによって、六日稼動で休みが一日しかない週に、なんで、こんな事をせにゃならんのか・・・。

  世の中には、「乗り物に乗る事よりも、修理したり、改造したりする方が好き」という人達がいますが、私は、そういうタイプの人間ではなく、自分であれこれ直したがるのは、偏に、お金をケチりたいが為なのです。 これが、バイクなら、通勤の必需品なので、否が応でも直しますが、折自ではねえ・・・。 いや、直しますけどね。


  長くなってしまったので、今回はここまでにします。 次回は、いよいよ修理ですが、ゆめゆめ、私のモチベーションが上がる事を期待しないで下さい・・・。

2013/02/17

読書感想文・蔵出し②

  先週、予告した通り、今週は、六日出勤だったので、読書感想文でお茶を濁します。 疲れているので、さっさと本題へ。




≪天の川銀河の地図をえがく≫
  宇宙に関して、興味津々というわけではないのですが、現実逃避にはうってつけなので、性懲りも無く、こんな本を借りて来ました。 しかし、内容が類似した本を前に何冊か読んでいたため、新しい知見は、あまり、得られませんでした。

  宇宙関係の本というのは、大抵、同じパターンで書かれています。 まず、天体観測の歴史を、ギリシャから説き起こし、コペルニクス、ガリレオ、ケプラーに触れた後、近代以降の天文学者達の功績を、新たな発見の段階順に紹介して行きます。 そして、著者が日本人の場合、最後に、≪すばる望遠鏡≫の自慢を付け加えて、終わります。

  この本も、同じようなパターンで纏められていますが、好感が持てるのは、分かっていない事について、「この点は、まだ、分かっていない」と、はっきり書いている事です。 プラトンを持ち出すまでもなく、学問に於いて、分からない事を分からないと認める姿勢は、極めて重要です。

  さて、内容ですが、主要なテーマは、「遠くの星までの距離を、どうやって測るか?」にあります。 電波の反射で測れるのは、近くの惑星くらいまで。 恒星までの距離を測るには、未だに、≪視差≫を利用するのだそうです。 測定誤差が大きく、新しい技術が開発されて測り直すと、数倍もズレが出る事がある様子。 という事は、現在、分かっている数値も、今後、見直される可能性が高いという事ですな。

  意外なのは、遥か遠くにある別の銀河までの距離が分かっているのに、太陽がある銀河系の中の距離は、あまり測られていないという事です。 分かっているのは、≪視差≫で測れる、割と近い恒星、数千個だけ。 数千個でも多いように感じるかもしれませんが、銀河系内には、一千億台の恒星があると言いますから、数千では、やはり、ほんの僅かという事になります。

  別の銀河の場合、変光星という目印があるから、測れるのだとか。 もっとも、分かるのは、その銀河までの大体の距離で、銀河内での星の遠近は、やはり分からないようです。 測り方が、原理的にも技術的にも、存在しないんですな。

  素人のイメージで、宇宙について、もっといろいろな事が分かっているものだと、漠然と思っていたので、少し、がっかりしました。



≪樽≫
  手持ちの新潮文庫で、シャーロック・ホームズ・シリーズの長編、≪バスカビル家の犬≫を読み返したのをきっかけに、古典推理小説に興味が向きました。 オンライン百科事典で調べて、適当に見繕い、イギリスの、F.W.クロフツという人の、≪樽≫という本を、図書館で借りて来ました。 早川文庫。

  ≪樽≫は、1920年に書かれたもの。 作中での年代設定は、1912年のようです。 クロフツは、時代的には、コナン・ドイルと、アガサ・クリスティーの間に入る作家。 元は、鉄道技師だった人で、病気をして、療養中に書いたのが、この≪樽≫だったのだとか。 現代であったとしても、異色と言える経歴ですな。

  パリからロンドンへ送られて来たワイン樽の中に、一つだけ形が違う、異様に重い樽があり、その中から、おが屑に塗れて、金貨と、死んだ女の手が出て来た事から始まる、殺人事件の顛末を描いたもの。 推理小説のジャンルとしては、アリバイ崩し物です。 主人公は決まっておらず、容疑者、刑事、弁護士、私立探偵などが、リレー式に中心人物を務めます。

  500ページもある文庫本でしたが、台詞が多いせいもあり、スイスイ進みました。 面白かったですが、難もあり。 冒頭部に緊張感があり、ぐっと引き込まれるものの、捜査が始まると、アリバイ・トリックが複雑過ぎて、かなりの中だるみが感じられます。

  正直に白状すると、細かなアリバイの検証について行けず、後ろの方は、「たぶん、辻褄は合わせてあるんだろう」と突き放して、テキトーに読み飛ばしました。 以前、コリン・デクスターの小説を読んだ時にも感じたんですが、複雑すぎる推理小説には、屁理屈合戦に陥った討論に通じる鬱陶しさがありますな。

  それはさておき、古典的名作として後世に生き残った小説に特有の、風格やボリュームは、充分にあります。 こういう作品が、100年近く前に書かれたというのは、凄い事ですな。 樽を木箱に変え、馬車をトラックに変えれば、現代の話にしても、それほど違和感が無いのではありますまいか。

  ちなみに、1920年頃には、すでに、自動車があったようで、人間の移動には、自動車が使われています。 電話もあり。 馬車と電報だけの、ホームズの頃とは、一時代が画されているわけです。 推理小説の歴史を紐解くと、近代から現代に移り変わる社会の様子を辿る事ができて、興味深いものがあります。



≪白衣の女≫
  19世紀中ごろに活躍したイギリスの作家、ウィルキー・コリンズの代表作の一つです。 「白衣」は、「びゃくえ」と読むらしいですが、それはまあ、日本語の中限定の都合ですから、「はくい」でもよかでしょう。 今時、「びゃくえ」なんて言われても、意味が取れる人がおりませんがな。 ちなみに、看護婦、つまり、女性看護士ですが、そちらとは、関係ありません。 物語のキーになる女性が、白い服を着ているというだけの事。

  貴族の娘が、身分違いの絵画教師との恋を諦め、父親が生前に決めた准男爵と結婚するものの、それが実は、金目当ての結婚で、娘の資産を奪うために企てられた計略に落ちて、死んだ事にされてしまったのを、娘の義姉と絵画教師が協力して、娘を助け、犯罪を暴く話。

  岩波文庫、上中下三冊で、全部合わせると、900ページくらいあり、読破するのに、10日くらいかかりました。 登場人物の内の、5・6人が、手記や日記、告白文などで、リレーしながら、物語の経過を書き記していく形式なのですが、途中で文体が変わるため、流れを乗り換えるのに失敗すると、そこで、読書意欲が減退して、進みが悪くなるのです。 しかし、全体を通して見ると、この形式だからこそ、複雑に入り組んだ話を、筋道立てて語る事に成功しているのだという事が分かって来ます。 非常に巧み。

  「長編ミステリー小説の嚆矢」と呼ばれているそうで、発表されたのは、1859年。 ホームズ物よりも、30年くらい前です。 ポーが、≪モルグ街の殺人≫を発表したのが、1841年ですから、コリンズは、ポーと、ドイルの間に入る作家なんですな。 ホームズ物は、近代の夜明けとともに始まりますが、≪白衣の女≫の時代は、まだ貴族が幅を利かせていて、近世から抜け切れていない感じがします。 ただし、鉄道や郵便制度は、すでに整っていたようで、作中で、ごく普通に使われています。

  推理小説的な要素が多いとはいえ、作者が、一般小説のつもりで書いていたは間違いないところで、ストーリーと無関係な風景描写や心理描写に、かなりの紙幅が割かれています。 ≪嵐が丘≫や≪ジェーン・エア≫の世界といったら、分かり易いでしょうか。 もっとも、そんなに暗い話ではなく、作品の雰囲気は、≪モンテクリスト伯≫などに近いですかね。 ドキドキするような展開も、よく似ている。

  群像劇なので、主人公はいないのですが、面白いキャラが何人も出て来ます。 図抜けているのが、准男爵の友人且つ共犯者である、フォスコ伯爵で、これだけの才能がありながら、どうして、莫大というほどでもない金額のために、犯罪に手を染めたのかが、解せないところ。 義姉のマリアンは、しっかりしているようでいて、弱味も多く、犯罪者の狡知に対応しきれていないところに、却って、リアルさを感じます。

  娘の伯父に当たる、フェアリー卿が、また面白い。 寝たきりの虚弱体質で、神経質の権化みたいな人なのですが、超が付くような自己中心的性格の持ち主でして、自分が厄介事に巻き込まれたくないばかりに、姪達を平気で見捨てます。 呆れる反面、この作品の中で、最も現代人に近いのは、このフェアリー卿なので、どことなく、憎みきれないのです。



≪月長石≫
  ≪白衣の女≫の作者、ウィルキー・コリンズの、もう一つの代表作です。 ≪白衣の女≫は、「長編ミステリー小説の嚆矢」ですが、この≪月長石≫は、「長編推理小説の嚆矢」なのだそうです。 ミステリーと推理物は、違うわけだ。 発表は、1868年ですから、日本では、明治の始め頃。

  この本は、創元推理文庫の一冊で、小説の本体だけで、770ページもある、分厚い文庫本です。 沼津の図書館になくて、わざわざ、隣町の三島の図書館まで行って来ました。 何とか、貸出期間の2週間以内に読み終わり、無事に返して来たのですが、なんつーかそのー、遠い所で借りた本は、返しに行くのも遠いわけで、しょっちゅう、利用するというわけにはいきませんなあ。

  人も死にますが、基本的には、紛失した宝石を捜す話です。 ストーリー上は、一人も死ななくても、成立します。 あるイギリス軍の大佐が、インドから奪って来た≪月長石≫という大きなダイヤモンドが、遺産として彼の姪に贈られた直後に姿を消し、犯人は誰か、動機は何か、宝石はどこにあるのか、といった謎が、少しずつ解き明かされていきます。

  推理小説と言われれば、確かに推理小説ですが、謎の内容が、読者に推理を許さない種類のものであるため、もし、推理小説として書かれたのであれば、少し、ズルいです。 しかし、この作品が書かれた頃には、まだ、推理小説というジャンルは存在していなかったわけですから、作者を責めるのは、筋違いと言うもの。 それに、普通の小説として読んでも、充分に面白いです。

  【月長石】という単語は、それ自体、鉱物の種類名なのですが、この作品の中では、特定の宝石を指す、固有名詞としても使われています。 元は、ヒンズー教徒の信仰の対象になっていた秘宝で、まず、イスラム教徒のサルタンに奪われてから、常に三人のヒンズー教徒の監視役が、宝石の行方を追うようになり、次に、サルタンから宝石を奪ったイギリス人大佐を追って、イギリスの田舎にまでやって来ます。

  ただし、三人のインド人は、最終的には、宝石の行方に関係して来るものの、それは、オマケのようなもので、貴族の屋敷内で起こった宝石の消失事件に直接関わるのは、大佐の姪や、その従兄弟達、及び、使用人達です。 三人のインド人は、読者に対する、最初の目晦ましとして、使われているわけです。

  ≪白衣の女≫と同じく、複数の人間の、手記や日記、告白文、報告書といった体裁の文章を並べて、事後回想の形式で、物語が進んで行きます。 読み慣れた文体から無理やり引き離されてしまうのは、ちと戴けませんが、事件を複数の視点から見る事で、リアルな雰囲気を構築しようとしている点は、評価できます。 たぶん、三人称にして、≪作者≫という超越者を設けてしまうのが、嫌だったのでしょう。

  ≪白衣の女≫では、フェアリー氏が最も極端なキャラでしたが、≪月長石≫では、クラック嬢という、敬虔過ぎるクリスチャンが登場して、読者を呆れさせてくれます。 「迷える羊を柵に入れるのが、自分の使命」と信じ込んでいて、やる事為す事、全て、信仰の押し売り。 キリスト教徒から見ても、狂信徒に見えるのですから、そうでない者から見れば、尚の事。 もっとも、こういう人間を遺言状の立会人に呼ぶ方も呼ぶ方ですが。

  三人のインド人を指すのに、「インド人ども」という言葉が使われているのですが、元の英文では、単なる複数形だったはずで、どうして、こんな差別がかった訳し方をしたのか、訳者の意図が量りかねます。 「インド人達」で、全く問題ないと思うのですがね。 原文に無いものを付け加えてしまったら、それは、翻訳として、失格ですぜ。

  もともと、宝石は、インドのヒンズー教徒の物ですから、イギリスに持ち去られてから、誰が所有しているか、誰が盗んだか、などは、≪強盗一味の仲間割れ≫に過ぎないわけで、読んでいる間、ずっと、もやもやした気分が続きます。 しかし、最終的には、そのもやは晴れ、すっきりした気分で本を閉じる事ができるよう、ちゃんと配慮されています。



≪夢の女・恐怖のベッド≫
  19世紀後半に活躍した、イギリスの作家、ウィルキー・コリンズの短編集。 ≪白衣の女≫、≪月長石≫の二長編は、現代人が読んでも唸らされるような名作なのですが、短編の方は、さほど面白いわけではなく、まあまあ、普通の出来といったところ。 それとて、同時代のロシア文学やドイツ文学の名短編と比べると、「軽い」感じが否めません。

【恐怖のベッド】
  博打場で大勝ちした男が、胴元に眠り薬を盛られ、仕掛けベッドに寝かされて、押し潰されそうになる話。 ポーの短編、≪振子と陥穽≫のパクリですが、かなり大味で、怖くも何ともありません。 なんで、表題作になっているのか、解せないところ。

【盗まれた手紙】
  弱味を握られて、恐喝されている知人のために、恐喝者の家に忍び込んで、証拠の手紙を取り返してやる話。 これも、ポーの短編、≪盗まれた手紙≫のパクリ。 しかも、ポー作品と違って、隠し場所が意外でもなんでもなく、謎解きも、極めて稚拙。 いいところがありません。

【グレンウィズ館の女主人】
  これは、コリンズらしい作品です。 貴族の館で、母亡き後、姉に溺愛されて育った妹が、フランス貴族の青年と結婚するものの、子供が生まれる寸前に、その男が偽貴族だったと分かり、悲劇的な結末を迎える話。

  ≪白衣の女≫に出て来る姉妹と、ほぼ同じキャラ設定なのですが、こちらの姉の方が、卒が無い分、より悲劇の度合いが増しているように感じます。 顔が似た人物が二人出て来る点も、≪白衣の女≫と共通するモチーフ。

【黒い小屋】
  父が仕事で外泊し、一人で留守番をする事になった娘が、たまたま、隣家の夫妻から大金の入った財布を預けられてしまったせいで、暴漢の襲撃を受け、必死の抵抗で、財布を守ろうとする話。 これは、サスペンスだわ。 ほんの短い話ですが、手に汗握ります。 コリンズという人は、こういう場面を書かせたら、当時、右に出る者がいなかったのではありますまいか。

【家族の秘密】
  この作品だけ、純文学の薫りがします。 父と叔父が医師である少年が、家を離れて暮らしている時、姉の病死の知らせと同時に、大好きだった叔父が失踪してしまい、姉の死が、叔父の治療ミスのせいにされていたのを、大人になってから、隠された秘密を探って行く話。

  頭に来るのは、少年の母でして、娘が死んで混乱している最中だけならまだしも、後々までも、義理の弟に全ての責任を押し付け続けるなど、人間のクズとしか思えない振る舞いをします。 感動よりも、怒りが後に残る作品です。

【夢の女】
  これも、表題作の一つですが、ちょっと、分かり難い話です。 夢で自分を殺そうとした女が、後に現実となって現れ、当人は気づかずに結婚するものの、やがて、女の不品行がひどくなって離婚に至り、以後、女が夢の中で襲って来るのを避けるため、夜眠らなくなるという話。

  分からんでしょう? 分からんのですよ。 夢と現実の境界が無くなってしまう恐怖を描きたかったのかもしれませんが、そんな事は、実際には起こらないわけで、設定を読者に受け入れさせる説得力に欠けます。

【探偵志願】
  コリンズの作品は、必ず、一人称で書かれるのですが、語り手当人のキャラが曲者というのが、いくつかあって、これも、その内の一つ。 自分は切れ者だと思っている刑事見習いが、駆け落ち結婚の新郎を、窃盗事件の犯人と間違えて、大ポカをやる話。 語り手に同調して読んでいく癖がついていると、途中で、「あれ? こいつ、アホだぞ!」と気づいて、はっとさせられます。 現代小説では、あまり取られない手法ですが、妙に面白いです。

【狂気の結婚】
  異常に厳格な父に、外国人との結婚を反対され、精神病院に入れられた男が、院外療養中に女性と知り合い、結婚するものの、叔父の遺産を貰う立場になってしまった事から、貪欲な親類達の手によって、再び精神病院に送られてしまったのを、妻や義兄達が裁判を起こして、助けようとする話。

  コリンズは、若い頃、法律家だったので、こういう家庭争議が関わるモチーフを好んで使うようです。 実話を元に、イギリス法曹界の問題点を告発するのを目的とした作品。 小説としてどうこうというより、こういう理不尽な話が実際にあったという事に、心が痛みます。



  以上、五冊まで。 実際には、≪白衣の女≫が、上中下三冊なので、七冊ですが・・・。 最初の一冊を除くと、去年、つまり、2012年の春から、初夏にかけて読んだ、推理小説の古典ばかりです。 ちなみに、私は別に、推理小説のファンといわけではありません。 古典だから、教養の足しになるかと思って、読んでみた次第。

  クロフツを先に読んでしまったのですが、時代的には、コリンズの方が、半世紀も前の人。 クロフツは、推理小説というジャンルが確定してからの作家ですが、コリンズは、伝統的な一般小説の作法で書いていて、この半世紀の間に、画期があった事が、よく分かります。  

2013/02/10

墓の話

  さすがに、映画批評ばかり続くと、愛想をつかされそうなので、そろそろ、別の話題を挟んでおきましょうか。 ちなみに、来週は六日出勤なので、恒例に従い、読書感想文になります。 映画批評と読書感想文だけなら、更新が楽でいいんですがねえ。

  ・・・いや、楽でもないか。 結局、書いている文章量は同じくらいだし・・・。 普通、このブログの記事は、土日の休みに書きますが、映画批評と読書感想文は、休みも平日も関係無く、見たり読んだりした直後に書くので、逆に負担が多いという見方もできます。

  なぜ、そんなにまでして、文章ばかり書かねばならんのか、一旦、疑問を持ち始めたら、極端な性格の私の事だから、ブログもサイトも、ネットもパソコンも、思い切りよく、全部一遍にやめてしまうかもしれないので、これ以上、考えない事にします。


  話は変わりますが、母が腹痛と風邪で寝込んで、もう五日目。 父と二人で、台所にある物をテキトーに食べているので、だんだん腹が凹んで来ました。 健康的で、実に宜しい。 普段、いかに、余分な食べ物を喰わされているかが分かります。 やはり、人間、自分で食べる物は、自分で管理するのが一番ですなあ。

  ・・・と、こんな事をしみじみ書くと、ますます、お一人様志向の人間が増えるか・・・。 まあ、私もいずれは、お一人様になる事が決まっている人間ですから、同志が増える分には、構やしないんですがね。 ・・・いや、同志とは、ちと違うか。 同病・・・、では、卑下し過ぎか。 同類? そんなところですな。


  ちなみに、母の腹痛の原因は、餅のせいです。 毎年、暮れになると、餅つき機で、ごそっと餅を作り、年明け後、三ヵ月間、食べ続けます。 そのせいで、毎年、腹痛を起こして寝込んだり、ひどい時には、入院したりするのですが、餅をやめろと言っても、全く聞き入れません。

  詳しい原因は分かりませんが、私も餅を食べると、腹の調子が悪くなります。 私と母の共通点と言うと、胆石の手術をして、胆嚢が無い事です。 たぶん、その関係で、餅が悪さをするのでしょう。 痛い思いをしたくないので、私は食べないのですが、母は全く懲りません。

  三つ子の魂百までで、私の親の世代は、餅を、最高のご馳走だと見做しており、それをたらふく喰える事が、贅沢であり、幸福だと、信じ込んでいるのです。 毎年、餅がある期間にしか、腹痛を起こさないのに、餅を喰えなくなったら困るので、餅が原因だと認めようとしないから、愚かと言えば、あまりにも愚か。

  大体、餅って、そんなにうまい物でもないでしょうに。 ぶっちゃけ、味が無いですよね。 味わえるのは、触感だけ。 大抵の人が、餅の味だと思っているのは、海苔や醤油、黄粉、砂糖醤油、雑煮の味噌などの味です。 それでいて、歯の詰め物が抜けたり、喉に詰まったり、マイナス面ばかり多い。

  年寄りが、餅を喉に詰まらせて死ぬケースが、後を絶ちませんが、なんで、そんなに餅を喰いたがるのかといえば、かくのごとき、幼児期の刷り込みが唯一の原因であると思われます。 よせと言っても、命懸けで喰いたがるのですから、もはや、同情の余地無し。 そんなに喰いたいなら、もう止めませんから、好きにして下さい。


  うーむ、親も、70代、80代になって来ると、いつ死んでも、ちっとも惜しいと思わなくなりますな。 特に、私のように、もう人生、やる事が無くて、自分自身がいつ死んでも惜しくないと思っている人間にとっては、尚の事。

  親に長生きして欲しいと感じるのは、30歳頃がピークでしょうか。 親がそこそこ歳を取って来たにも拘らず、自分にも、まだ未来があり、結婚するかも知れない、子供が出来るかもしれないと期待している時に、一番そう感じるのです。 それを越えて、10年も経つと、「この人達、いつまで生きるのかなあ・・・」と、逆の事が不安になって来ます。

  このままで行ったら、老老介護になる恐れ、十二分にあり。 困ったこってすねえ。 勤めに出ている身じゃ、そんな事できないよ。 腰も悪いし。 大体、不公平じゃないですか。 私は、親が死んだら、お一人様になるのが決まっていて、寝たきりになろうが、痴呆になろうが、誰も介護してくれないのに、なんで、私は親の介護をしなきゃならんのですか?

  葬式も然り。 私の葬式は、行われない事が確定しているのに、どうして、親の葬式は出してやらなきゃならんの? 法事に至っては、もはや論外クラスで、あんなに馬鹿馬鹿しいものは、この世に二つとありますまい。 坊主の私腹を肥やしてやるために、休みは潰れるわ、慣れない礼服は着ねばならんわ、親戚は呼ばねばならんわ・・・、ろっくでもない。

  そもそも、ブッダは、葬式も法事も、やらなきゃいけないなんて、一言も言っちゃあいないのですよ。 死ねば、自動的に、みな、仏。 死んだ後の事なんか心配するだけ、仏の教えから逸脱すると言うもの。 それを、何度も何度も何度も何度も、親戚集めさせて、意味不明の経なんぞ、勿体ぶって、読みおって。 僧侶の面々よ、お主ら、それでも、仏弟子か? 無知な在家は騙せても、自分自身は騙せまい。 一体、何者なのだ? 己が心に、繰り返し、問うべし。

  しかし、なんですな。 今のペースで、お一人様が増えていけば、いずれ、葬式の開催件数は激減し、寺は廃業して、葬式や法事の習慣は絶滅する可能性が高いですな。 連鎖して、墓を作る習慣も無くなると。 いいんですよ、みんな灰にして、埋め立ててしまえば。 どうせ、もう、家を継ぐなんて風習は廃れかけていて、その内、先祖の墓を守る人間もいなくなるんだから。

  伝統が失われる? アホ言いないな。 そもそも、火葬して骨を保存するなんて風習自体が、ごく最近、始まったものじゃありませんか。 昔は、土葬して、後は野となれ。 同じ家で次に死者が出たら、同じ所を掘り返して、また埋めてたっつーじゃありませんか。 伝統を守りたいと言うなら、そっちを実行しなさいな。 死体遺棄罪で捕まりそうけど。

  全く、日本全国、家系なんか続きもしないのに、家ごとに、墓ばっかり作っちゃって、後々、どう処分するつもりなんですかねえ? 墓を買う時には、その墓を誰が維持するのか、ちゃんと考えてからにしなさいよ。

「家を出た息子が、年一度くらいは、掃除に来てくれる」

  わはははは! 甘いわ、愚か者めが! 息子は息子で、自分の墓を、自宅から近い所に買ってるんだよ。 親の墓まで気が回るものかね! 七回忌も過ぎれば、後は、草ボウボウだわ。 保証する。

  そういや、前に新聞で読んだんですが、都会に出て結婚し、家庭を持った娘が、両親の死後、何年かぶりに墓参りをしようと、故郷に帰って、菩提寺に行ったら、自分の家の墓が無い。 住職に訊いたら、無縁仏にされて、合葬されていた。 勝手に、そんな事をするなんて、憤懣やる方無い、といった事例が出ていました。

  いやあ、しょーもない話ですなあ。 だけど、そりゃあ、何年も様子を見に行かなかった方が悪いですぜ。 寺は、墓地の管理を、慈善ではなく、業務としてやってるんですから、法事に貰える報酬が入らなくなれば、管理義務も消滅するのは、理の当然。 先祖代々の墓だから、永久に管理して貰えると思い込んでいた方が、恥ずかしい思い違いなのです。

  そういう事態を避けるためには、永代供養サービスがある霊園に墓を買って、先祖の骨を移し、供養料を前納しておくしかないです。 その上で、ある年数が経ったら、無縁仏として合葬されても仕方がないと覚悟しておけば、もう万全。 墓の事で、あれこれ悩む事も無くなるでしょう。 どうせ、自分だって、その内、死んでしまうのですから。

  もっと、サバサバするのは、散骨ですが、自分や配偶者は、それでいいとして、親や先祖の骨となると、自分の一存で、野や海に撒いてしまっていいものか、微妙に抵抗感を覚えるところ・・・。 やはり、永代供養が、無難か。 それでも、文句を言う親戚が出て来そうですが、そういう輩には、「じゃあ、あんたが、墓守してよ!」と押し付けてやるのが、ベストでしょう。


  なんだか、母が寝込んだ話から、随分、脱線して、お先真っ暗な雰囲気が盛り上がってしまいましたな。 こういう話ですが、会社で、先輩や同僚を相手に語り出すと、周囲の人間が、興味津々で聞き耳を立て始めるのが、如実に感じられて、面白いですぜ。

  墓の話は、誰でもいつかは、ぶち当たる問題なので、話題としては、無敵ですな。 趣味の話、異性の話、子供の話など、人によって、興味の程度が異なる話題なんか、相手になりません。 職場で、軽く見られて困っているという人は、一度、墓について深く考えている事を口にしてみたら、周囲の見る目が変わると思います。

2013/02/03

映画批評⑦

  今回も、映画の感想です。 相変わらず、一日二本くらいのペースで見ているのですが、ここのところ、仕事で残業が増えているため、家で過ごせる時間が短くなり、鑑賞スケジュールが、ますますタイトになってしまいました。 その皺寄せは、このブログの記事を書く時間が無くなる所へ行くわけで、結果として、映画の感想を出さざるを得なくなるという寸法。

  つまりねえ、映画を見るのをやめりゃあいいんですよ。 元々、三度の飯より映画が好きというわけではなく、去年の9月くらいまでは、ほとんど見ていなかったんだから。 どーして、こんなに映画ばかり見る人間になってしまったのかなあ?

  そうそう! 去年の秋のテレビ・アニメがあまりにもつまらなくて、一本も見なくなってしまったのが、そもそものきっかけですわ。 バラエティーも、ほとんど見なくなっていたので、映画以外に見るものが無くなってしまったんですな。

  ノイタミナの≪PSYCHO-PASS サイコ・パス≫は、第四話くらいまで見ていたんですが、何だか、SFの割には、話が古臭いし、ヒロインの顔は変だしで、やめてしまい、それっきり。 他は、もっとひどくて、第一話ですら、早送りせねば、見ていられなった始末。 もちろん、二話以降は、パス。

  どーしてまた、こんなスカ・アニメばかりになってしまったのか・・・。 とにかく、高校生を主人公にする発想から脱却せねば、話になりません。 一体、何が面白いんだ、高校生の? ただの、人間の成りかけやがな。 高校生のセリフに、含蓄なんてあるものかね! 全っ然、面白くないっ!

  でも、もう無理か。 作っている監督達が、恋愛や日常的出来事以外に興味が無いのが、ありありしてますものねえ。 SFなんて、読んだ事も見た事も無い世代に、SFアニメの傑作を期待する方が、理不尽というもの。 日本のテレビ・アニメも、いよいよ、断末魔か。


  おっと、アニメの話が長くなってしまいましたな。 本題は、映画の感想です。 映画ばかり見ていると、アニメの世界設定やストーリーが、子供騙しに思えて来るのは、最近気づいた事。


≪ラブ・アクチュアリー≫ 2003年 イギリス・アメリカ
  ヒュー・グラント、リーアム・ニーソン、キーラ・ナイトレイ、ローワン・アトキンソンなど、錚々たるイギリス出身俳優が出て来る、ロンドンを主な舞台にした恋愛物。 この映画を見て、「あれ? この人、イギリス人だったのか」と初めて知るケースも多いのでは。

  全部で七組くらいの恋の経過を、同時進行で描きますが、一つ一つの話は、ほとんど関連性がないので、オムニバスを混合編集したような形になっています。 そのせいで、俳優さん達の顔を知っていないと、誰が誰で、どの話の人物なのか分からないまま、30分くらい過ぎてしまいます。 まあ、段々、見分けがつくようにはなるのですが。

  ≪ノッティング・ヒルの恋人≫の制作陣が作ったそうで、恋愛物の平均レベルは、楽にクリアしているのですが、どうせ、互いの話に関連性が無いのなら、一話一話独立させて、膨らませ、それぞれ一本の映画にした方が良かったのではないかとも思います。 アイデアが、勿体無いでしょうに。

  それぞれの話の内容は、概ね宜しいと思いますが、不倫物が二つ混じっているのは、ちと引っ掛かります。 相手にその気が無いのに、上司の男を誘惑する女が出て来ますが、他人の家庭を壊すのはいかんなあ。 自分が結婚した後、亭主を誘惑されたら、どう思うんですかね?

  結婚したばかりの友人の奥さんに、「下心は無い」と言いながら、愛の告白をする男も、随分と恐ろしい真似事をする奴ではありませんか。 また、その友人というのが、アフリカ系で、友人の奥さんと、その男が、ヨーロッパ系だから、先々どうなるかと思うと、気分が暗くなって来ます。

  小さな扱いで、笑いを取る為に入れたものだと思うのですが、おくてのAV男優が、純心なAV女優を、不器用にくどく話は、一番、感動的です。 こういうのを、本当の純愛というのではありますまいか。


≪イナフ≫ 2002年 アメリカ
  ジェニファー・ロペスさん主演の、DV物。 金持ちで正義感の強い男と結婚し、子供もできて、幸せの絶頂にいた女が、夫の浮気を知ったのをきっかけに、DVを受けるようになり、娘を連れて家を逃げ出すものの、どこへ隠れても、執拗に追いかけられ、やむなく、覚悟を決めて、反撃に出る話。

  DV物は、他にもありますが、この映画の特徴は、反撃の部分でして、たぶん、そこから先に、アイデアを起こしたのでしょう。 つまり、逃げ回るところまでは、前置きなわけでして、エピソードも、割とありふれたものになっています。

  アイデアは独創的ですし、アクションも迫力があって、そこそこ面白い映画なのですが、現実に、DVに苦しむ女性に、こういう荒っぽい解決方法を勧める事になってしまうのではないかと、そこが、ちと心配です。 物事は、映画のようにはうまく行かないのであって、真似をした結果、殺人罪で服役する事になってしまうケースが出て来るのではないかと思うのです。

  確かに、正当防衛で相手を殺してしまっても、殺人にはならないわけですが、自分の方から、それを狙って、相手を挑発するというのは、倫理的に問題でしょう。 この人、「娘の為」という言葉を何度も口にしますが、夫は、娘には、一度も暴力を振るっていないのであって、実は、「自分の為」であるのは明らか。 父親を殺してしまった母親が、成長した後の娘と、うまくやって行けるようには思えないのですが。


≪ミスター・サンタを探して≫ 2011年 カナダ
  大型商業施設を経営する大企業で、出世コースを歩む仕事一筋の女が、クリスマス商戦で、自分が担当するショッピング・モールの売り上げを、社内トップに押し上げるため、「セクシー・サンタ作戦」を企画し、成功するものの、セクシー・サンタに選ばれた青年の人柄に感化されて、次第に優しい思いやりの心を取り戻して行く話。

  青年の家のピザ屋が立ち退きを迫られているという設定を絡めてあり、ストーリーは、月並みではあるものの、よく練られています。 クライマックスに、もう少し、劇的な要素が加われれば、もっとよくなったと思うのですが。

  たとえば、社長が若い頃、貧乏で、ピザ屋の主人に、親切にしてもらった過去があり、閉店の土壇場になって、自分の会社が立ち退きを迫っていた事を知って、方針を撤回するとか。 ベタ過ぎ? いいんですよ、恋愛物の背景設定なんて、ベタで。

  恋愛物の部分は、まあ、よくあるような話です。 セクシー・サンタなのに、選ばれた青年が、いかにも実直そうで、ちっとも、セクシーでないのは、配役の都合でしょうか。 主人公が、嫌な女である事を演出するために、飲食店の行列に割り込みをさせたりしていますが、そんな事をしたら、嫌な女を通り越して、袋叩きにあってしまうと思います。


≪アドレナリン・ブレイク≫ 2008年 イギリス
  ノンストップ・アクションっぽい、バイオレンス物。 裏社会組織の関連会社に潜入していた女捜査官が、娘を殺された事で怒り狂い、犯人と思しき女ボスの居所を知るために、次々と殺人を重ねていく話。 怒った勢いで、組織の関係者をあらかた始末してしまうのですが、実は本当の犯人は・・・という、意外な結末が待っています。

  冒頭から一時間くらいは、ぞくぞくするような面白さがありますが、死人の数が増えるに連れ、犯罪物というより、ただのヤクザ映画のように思えて来て、評価が下がります。 最終的には、ヤクザ映画ではない事が分かりますが、それでも、評価は下がったままです。 単に、制作サイドの残虐趣味で作っただけの映画なんですな。

  いかに悪党とはいえ、無関係な人間を、十人以上も殺したのでは、主人公に共感するのは、全く不可能。 仮にも、捜査官なのですから、自分の娘が殺されたら、警察の力を使って、犯人を捜すのが、自然ななりゆきでしょうに。 即座に私的復讐に走った時点で、もう、観客は、主人公についていけません。

  出て来る人間が、ろくでなしの外れ者ばかりなので、世も末意識が高まって、げんなりしてしまうのは、大半のヤクザ映画と同じ欠点。 ラストで、一応、善悪バランスは取られますが、後味の悪さは救われません。


≪デンジャラス・ビューティー≫ 2001年 アメリカ
  サンドラ・ブロックさん主演。 男まさりのFBI捜査官が、爆破予告事件の潜入捜査をする為、ミス・コンテストに出場する事になる話。 いかにも、たった一つのアイデアから思いついて作ったという感じの映画。

  サンドラ・ブロックさんが、結構いかつい顔をしているので、「無理矢理、ミスコン」という設定に、よく似合っています。 というか、この人、≪スピード≫の頃は美人だったけど、この頃になると、顔がボコボコになってしまって、もはや、美人でも何でもないですな。 時間の経過は残酷だわ。

  犯罪サスペンスというより、コメディー仕立てで、犯人も、随分とおちゃらけた人達。 クライマックスの緊張感は、ほとんど無いです。 もっと、真面目な犯罪物にしても、成立したと思うのですが、話を膨らませている内に、コミカルな場面ばかりになってしまい、こういう展開にせざるを得なかったのかもしれません。

  わざわざ、映画館に見に行くような作品ではなく、家の居間で、家族で見て、ケタケタ笑うタイプの映画です。 いや、だから、悪いと言っているのではなく、ちゃんと笑えるだけでも、コメディーとして成功しているわけですが。

  マイケル・ケインさんが、ミスコンの極意を伝授する先生役で出ていますが、なんと、おねえキャラ。 何でも、こなす人ですなあ。 ≪スター・トレック≫の、カーク船長、ウィリアム・シャトナーさんも出ています。 こちらは、司会役で、誰でもいいような役。


≪彼が二度愛したS≫ 2008年 アメリカ
  主演のユアン・マクレガーさんは、≪スター・ウォーズ≫で、若い時のオビワン・ケノービをやった人。 助演のヒュー・ジャックマンさんは、≪X-MEN≫のローガン。 こういう説明をしないと分からないのでは?と思わせる役者さんというのは、まだ、メジャーになりきっていないという事でしょうか。

  仕事を真面目こなすだけの、つまらない生活をしていた会計士の男が、ひょんな事で、遊び上手の男と知り合いになり、会員制の秘密クラブに関わって、好きな女性ができるものの、実は、それが罠で、犯罪の片棒を担がされる話。

  マイケル・ダグラスさんが主演なら、もっとピッタリ来るような雰囲気の話。 映像表現が重々しいためか、前半には、ぞくぞくするような深みを感じます。 罠だった事が分かる辺りから、「ああ、そういう話か」と、先が読めて来て、急に白けます。 特に、話の視点が、罠にかけた方側に回ると、ラストに逆転が用意されている事まで読めてしまいます。

  映像美も、ストーリーも、善悪バランスも、全体的に卒なく纏められていて、出来はいい方だと思いますが、こういう話は、他の映画で何度も見ているので、後々、記憶に残るほどの、特徴的な印象はありません。 ストーリーだけの話で、人間性に関するテーマが無いと、完成度が低くなるのは、致し方無いところ。

  原題は、≪DECEPTION≫で、直訳すると、≪偽装≫。 邦題は、≪007≫の副題を継ぎ接ぎしたようなしょーもなさですが、スパイ物とは、何の関係もありません。 一体、どういうセンスやねん?


≪しあわせの隠れ場所≫ 2009年 アメリカ
  サンドラ・ブロックさん主演。 原題は、≪THE BLIND SIDE≫で、直訳は、≪隠れた一面≫とでもすべきでしょうか。 まったく、映画の邦題は、ダサいネーミングの宝庫ですな。

  体格が大きくて、運動神経は素晴らしいが、身寄りが無いアフリカ系の少年を、金持ちのヨーロッパ系家族が家に迎え、アメフトの選手として大学に入れるよう、支援してやる話。

  感動ストーリーとして仕立てられているわけですが、このあらすじを読んだだけで、「人種差別になるのでは?」とは、誰もが思うところだと思います。 で、見てみると、やはり、その通りでして、「アフリカ系は貧しくて、不幸。 ヨーロッパ系は豊かで、幸福」という固定観念をベースに、「豊かな者が、貧しい者に、幸福のおこぼれを施してやる」という図式の話になっています。

  2009年で、まだ、こんな低レベルの人種差別意識が残っているというのは、驚くべき事。 残っているというより、むしろ、増えているんでしょうか? たとえば、エディー・マーフィーさんの映画を見た後で、この映画を見ると、なんで、アフリカ系が、こんなに惨めな存在に描かれているのか、あまりの落差に愕然とすると思います。

  絶望的なのは、この映画の制作者達が、これを、「いい話」だと思っているに違いないという点です。 自分達の人種に対する基本認識そのものが、差別意識に塗り固められている事に気付いていない。 差別するつもりはないと言うなら、立場を逆転させて、豊かなアフリカ系家族が、貧しいヨーロッパ系少年を助けてやる話も作れるはずですが、たぶん、そんな話は、思いつきもしないでしょう。

  この家族が、少年を助けているつもりでいて、その実、やりたいとも言っていないアメフトを、「やって、当然」という調子で、強制しているのも、胸糞悪いです。 進む大学まで、自分達の母校を、実質的に押し付けており、呆れた利己主義。 その点に関しては、映画の中でも問題になるのですが、作っている側が、それを分かっているなら、最初から、こんな脚本、書くなっつーのよ。

  何でも自分で指図しなければ気がすまない母親の性格も、もし、自分の家族に、こんなのがいたらと思うと、ぞーっとします。 その役を、サンドラ・ブロックさんが演じているわけですが、無自覚な偽善者の、鼻持ちならない雰囲気は、よく出ています。


≪桜田門外の変≫ 2010年 日本
  大沢たかおさん主演。 題名の通りの歴史劇。 桜田門外の変を起こした水戸藩士達の、事件前と事件後の様子を描いた話。 大沢たかおさんは、事件の実行部隊の指揮をした、関鉄之介という人物の役。

  日本史では、誰もが知っている事件であるにも拘らず、映像化された例は、ほとんど知りません。 以前、井伊直弼を主人公にしたドラマを見た事がありますが、この映画は、茨城県の地域振興のために企画されたそうで、完全に水戸藩士側の立場で事件を見ています。

  水戸藩は、尊攘・倒幕のスイッチを入れた藩であったにも拘らず、その後、内紛に明け暮れ、幕末の中心的な役割を、全て薩長に持って行かれたという、苦い歴史があるので、「せめて、桜田門外の変くらいは、手柄と思いたい」という気持ちはわかるのですが・・・、これは、ちょっとねえ。

  桜田門外の変は、確かに、安政の大獄を終わらせた、日本史のエポックだったわけですが、やった事は、もろにテロ行為でして、この映画でも、襲撃場面は、残虐極まりなく、井伊直弼を守ろうとして殺された彦根藩士達の方が、気の毒に見えてしまいます。 襲撃に関わった水戸藩士達は、その後、ほとんどが捕らえられ、殺されるわけですが、ちっとも可哀想に見えないから困る。

  主人公の関鉄之介が、また、共感し難い人物です。 国の行く末を憂えて、大義の為に命を捨てる覚悟なのは結構なのですが、そんな立場である割には、国元に妻子がいる上に、江戸に女を囲っているなど、今の感覚で言うと、いい加減な男にしか見えません。 襲撃も、自分は手を汚さず、ただ、指揮をしただけ。 また、仲間が次々に殺されているのに、最後まで逃げ続けるなど、武士らしいけじめも持ち合わせていない様子。

  やっぱりねえ、人殺しでは、世の中を良くする事はできませんよ。 「井伊直弼を殺して、幕府の力を殺ぎ、朝廷に政権を返す」のが目的だったわけですが、その後、朝廷を誰が運営するのかまでは、全く考えていないようで、一概に、軽挙妄動とは言えないとしても、深謀遠慮には程遠いです。 やはり、テロリストでは、歴史劇の主人公になり得ないか。


≪13F≫ 1999年 アメリカ
  ローランド・エメリッヒ監督のSF。 スーパー・コンピューターの中に、1937年のロサンゼルスの街を構築する研究をしていた男が、上司の死の謎を解くために、自ら仮想現実世界に潜入するものの、恐ろしい現実に気付き、戦慄する話。

  途中までは、非常に面白いのですが、謎が解けた後のストーリーに、発展性が欠けていて、どうにも見心地の悪い気分になります。 アイデア勝負のSFなのに、クライマックスで銃が出て来るのは、なんとも興醒め。 もうちょっと、巧い脚本家に頼めなかったものか。

  2006年に、≪ゼーガ・ペイン≫という、日本のロボットSFアニメがありましたが、もしかしたら、この映画から、アイデアを取ったのかも知れません。 基本アイデアは、全く同じです。 こう書くと、≪ゼーガ・ペイン≫を見た人は、どんな話か、すぐに分かってしまいますが、まあ、ネタバレを避けるような出来の映画でもないでしょう。

  有名な俳優が一人も出ていないところから見て、かなりの低予算で作られたのではないでしょうか。 1937年のロサンゼルスの街が出て来ますが、それは、もしかしたら、他の映画のオープン・セットを借りたのでは? とても、大金を注ぎ込むような企画ではないのです。


≪ネバーランド≫ 2004年 イギリス・アメリカ
  ジョニー・デップさん主演。 1904年のイギリスで、劇作家のジェームス・マシュー・バリーが、偶然知り合った、寡婦と四人の息子の一家と交流する内、≪ピーター・パン≫の話を思いつき、劇にする話。

  こりゃあ、ちょっとした傑作ですぜ。 何と言いますか、30分くらい行ったところで、感動の展開を期待している自分を発見して、ワクワクして来ます。 ジョニー・デップさんが演じるバリーが、恐らく、最も地のキャラに嵌っている役柄で、彼を見ているだけでも面白い。

  三男が、ようやく心を開き、初めて作った劇を、母親の咳込みが台無しにしてしまう場面は、凄い落差が使われていて、あまりの痛々しさに、唖然としてしまいます。 これは、純文学の落差だわ。 トルストイばりですな。 三男が、後で、劇の大道具を壊しまくりますが、よーく分かるぞ、その気持ちは。

  あくまで、「ちょっとした」傑作に留まるのは、時間が100分と短いから。 この充実度なら、エピソードを足して、もっと長くした方が、バランスが良くなったと思うんですが。


≪さよならをもう一度≫ 1961年 アメリカ
  イングリット・バーグマンさん主演、イブ・モンタンさんと、アンソニー・パーキンスさんが助演の恋愛物。 パリで、インテリア・デザイナーをしている40歳の女が、浮気性で、なかなかプロポーズしてくれない恋人と、一途に自分を思い続けてくれる歳下の男との間で、心揺れ動く話。

  イングリット・バーグマンさんが、容色の衰え始めた女の悲哀を、地で表現しており、この配役に関しては、満点です。 アンソニー・パーキンスさんは、≪サイコ≫の主人公をやった人ですが、線が細くて、何となく頼りなさそうな雰囲気は、歳下男の役柄に、なかなか合っています。 イブ・モンタンさんの役は、誰でもいいようなもの。

  若い男に簡単に乗り換えられない理由が、「あなたより、ずっと歳上なのよ」というのは、分かるようでいて、分からん話ですな。 逆に言うと、最初の恋人に拘るわけは、「歳が自分と相応だから」という事になりますが、何だか、世間体だけを気にした、下らない理由のように感じられます。 そんな動機で結婚して、幸福になれるとは、とても思えませんが。

  イングリット・バーグマンさんの美貌の衰えが目立つために、主人公の立場に共感する気分にならず、時として、三文芝居を見ているようなアホ臭さに襲われます。 やはり、元美人は、美人じゃないんですよ。 どちらかというと、不美人なのです。 不美人の恋愛に、興味が湧かないのは、致し方ないところ。


≪エイリアンVSエイリアン インベージョン≫ 2007年 アメリカ・カナダ
  エイリアンというので、あの≪エイリアン≫の関連作品かと思ったら、全然違っていて、普通名詞として使われている「エイリアン」でした。 紛らわしい題をつけおって。 これ、間違えて見た人が、そーとーいますぜ、きっと。

  滅亡の危機に瀕した星から、地球へ来た異星人達が、人間を滅ぼして地球を乗っ取ろうとする一派と、それを阻止しようとする側に分かれて、戦う話。 分類すれば、SFですが、異星人は、魂だけがやって来ていて、体は地球人のものを借りているという設定なので、傍目には、地球人同士の戦いになり、中身は、ただのアクション物です。

  話も映像も、かなりやっつけな上に、有名な俳優も出ていないし、アクションは格闘オンリーで、どーにもこーにも、三流作品としか言いようがありません。 国際協力して作るような話ではないと思うのですが、アメリカとカナダの関係は、第三国の人間には、計り知れぬものがありますな。


≪遙か群集を離れて≫ 1967年 イギリス
  むむむむ・・・、これは、大作にして、傑作だわ。 170分ですが、見始めたら、途中でやめられず、一気に最後まで見てしまいました。 こんな映画を、題名すら聞いた事が無かったというのは、ちと不思議。 不当に低い評価を受けているのではありますまいか?

  羊飼いからの求婚を断った女が、伯父から遺された農場の女主人になり、たまたま流れ着いた羊飼いを、農場の管理人として雇うものの、彼を男として見る事はなく、隣の農場の主に冗談で求婚して、本気にされてしまったり、遊び人の軍曹に熱を上げて、結婚してしまったり、愚かしい男遍歴を重ねる話。

  言わば、「馬鹿女」なんですが、この映画の主要なテーマが、「恋は盲目、愛はままならないもので、人生は先が見通せない」というものなので、こういう人物が主人公でも、別におかしい事はないわけです。 女の愚かさを嘲笑っているわけでもなければ、馬鹿女を馬鹿と気付かずに賛美しているわけでもないんですな。

  映像が、絶品級に、素晴らしい。 イギリスの田舎の風景ですが、とにかく、雄大。 また、構図が凝っているせいで、何もかも、美しく見えます。 時代は、19世紀の前半頃ではないかと思うのですが、風俗考証が、これでもかというくらい詳細に詰めてあって、それを見ているだけでも、楽しいです。 大勢で歌を歌う場面が、何回も出て来ますが、歌の力がいかに大きいかを、思い知らせてくれます。

  主人公と結婚する軍曹が、しょーもない悪党のようでいて、実は、結構、繊細な心を持っているという設定が、話に奥行きを与えています。 隣の農場の主が、年甲斐も無く、恋に溺れ、醜くもがく有様も、いかにも、純文学的的。 こんな真面目な人をからかうなど、主人公は、本来なら、地獄に堕ちるべきですな。


≪沈黙の復讐≫ 2010年 アメリカ
  スティーブン・セガールさんが、制作・脚本・主演。 もろ、セガール色の映画。 国際麻薬取締組織の捜査官が、同僚とその家族を殺したチンピラ・グループを追う内、新たな同僚まで殺されてしまい、ブチ切れて、ロシア人の麻薬密売人と手を組み、私的復讐に走る話。

  現実には存在しない麻薬取締組織を設定したり、ルーマニアを舞台にしたり、いろいろと工夫はされているのですが、セガールさんが暴れだすと、みんな同じ映画に見えて来てしまうのは、ジャッキー・チェンさんの映画と、通ずるものがありますな。

  主人公が、あまりにも強過ぎると、嘘臭いし、逆に、弱点が多いと、ヒーローらしさに欠ける。 そこが、この種の映画の、キャラ設定の難しいところです。 セガールさん、一度、アクション物から離れて、コメディーか、ファミリー物でもやった方が、後の役者人生が面白くなるんじゃないでしょうか。


≪招かれざる客≫ 1967年 アメリカ
  題名は知っていたんですが、見たのは初めて。 犯罪物かと思っていたんですが、全然違っていて、人種問題がテーマでした。 テーマもテーマ、これだけ、人種問題に真正面から取り組んでいる映画も珍しい。 しかも、完成度が高く、映画として成功しています。

  サンフランシスコに住むヨーロッパ系の家族の元へ、ハワイ旅行から帰った娘が、アフリカ系の婚約者を連れて来たために、それまで反差別主義者だった父親がショックを受け、承諾するかしないかで、悩む話。

  父親はスペンサー・トレイシーさん、母親はキャサリン・ヘプバーンさん、アフリカ系の婚約者はシドニー・ポワチエさん。 この三人、それぞれ、主役を張れる格ですが、この映画では、トリプル主演という配分です。 役者を見せる映画ではなく、テーマが中心の話なんですな。

  公民権運動の影響で、こういう話が作られたのだと思いますが、この映画で取り上げられている問題は、古いと言えば古く、いつの時代でも変わらないと言えば、変わらないような気がします。 アフリカ系とヨーロッパ系の結婚だけでなく、異人種間や国際結婚では、いつでも、どこでも、立ち塞がる問題でしょう。

  一部、屋外ロケもありますが、ほとんどは、一軒の家のセット内で話が進むので、何となく、舞台劇のような雰囲気があります。 セリフが凝っているのも、舞台っぽい脚本ですな。 逆に言うと、映画的スケール感に欠けるのですが、舞台劇だと思ってみれば、構図に変化がある分、映画の方が面白く感じられます。



  以上、今回も15本。 見たのは、去年の12月初頭から、半ばくらいまでの間です。 うーむ、進まんのう。