2022/01/30

EN125-2Aでプチ・ツーリング (28)

  週に一度、「スズキ(大長江集団) EN125-2A・鋭爽」で出かけている、プチ・ツーリングの記録の、28回目です。 その月の最終週に、前月に行った分を出しています。 今回は、2021年12月分。





【三島図書館・給油】

  2021年12月3日に、バイクで、三島図書館へ行き、帰りに、清水町徳倉のガソリン・スタンドで、給油して来ました。

≪写真1≫
  三島市立図書館が入っている、三島市生涯学習センターの入口。 前にも出しましたが、別角度から。 さすがに、同じ所にばかり通っていると、写真を撮る対象がなくなって来ます。

  この日、≪三体Ⅲ 死神永生≫の上下巻と、≪現代中国SFアンソロジー 折りたたみ北京≫、≪同 月の光≫を返却し、三島図書館通いは、終了しました。

≪写真2≫
  東側駐輪場の全景。 職員の自転車も置かれているのか、いつ行っても、必ずある自転車が見受けられます。 私は、バイクで行った時には、こちらに停めます。 道路に面しているから、出入りし易いのです。 袋小路ですけど。 写真の左手には、一段高くなって、一般住宅が並んでいます。

≪写真3≫
  東側駐輪場の南端に停めた、EN125-2A・鋭爽。 12月に入り、寒くなって来たので、ヘルメットを、フルフェイスの、「アストロe」に換えました。 2年前に、自分で、白から黒に塗り直したもの。

≪写真4≫
  給油に寄った、清水町徳倉のガソリン・スタンド。 セルフです。 ガソリンが高くなってしまい、この時は、リッター160円でした。 千円分で、6.25リットル。 タンクに、半分しか入りません。




【平沼・畑の神社 / 農地保全整備事業完成記念碑】

  2021年12月9日、バイクで、沼津市の西の方、平沼地区にある、畑の神社と、「農地保全整備事業完成記念碑」を見に行って来ました。

≪写真1左≫
  場所を説明し難いですが、東名高速道路の南側に添った所にあります。 地図に、鳥居マークだけついていました。 名前は、分かりません。 畑の隅にあるので、たぶん、個人で祀ったものだと思います。 白い鳥居は、断面が四角い鋼材を溶接したもの。

≪写真1右≫
  社殿は、人間が入れるサイズです。 木造で、屋根は、銅板葺き。 扉の前に、紙パック酒が置いてありました。 祀っている人が、酒飲みなんでしょうな。 自分の好物を供えるのは、よくある事です。

≪写真2左≫
  鳥居の手前左右に、花立て、あり。 普通、神社には、露天の花立てはないです。 個人祭祀ならではのアイテム。 神物・仏物に拘らず、個人で祀っている場合、花を供えたくなる気持ちは、よく分かります。 

≪写真2右≫
  南を見た景色。 眺望は、これ以上ないくらい開けていますが、東名高速道路の高さでは、下界を見下ろしている感じは薄いです。 遠くに、伊豆半島北西部の山並みが見えます。 手前は、茶畑。 

≪写真3≫
  東名に沿って、細い道があり、そこに停めた、EN125-2A・鋭爽。 起伏が激しくて、神社の近くには停められず、10メートルほど行き過ぎた所に、停めました。 ところが、出発する時に、ここでは狭過ぎて、方向転換が出来ず、更に、20メートル以上、押して下って、広くなった所まで移動しなければなりませんでした。

≪写真4左≫
  畑の神社から、北へ少し登った所に、石碑があるらしいのを地図で見ていたので、行ってみました。 割と広い道路が、ヘアピン・カーブになっている所に、ありました。 わざわざ、石碑の為に、敷地を確保して造ってあるのです。

  生い茂っている冬枯れの木は、桜。 下枝を打たないから、屈まないと、枝の下を潜れません。 逆に考えると、花の季節は、下の方まで花がつき、凄い迫力になるのでは? でも、やはり、下枝は刈った方がいいと思いますねえ。

≪写真4右≫
  石碑の手前に植えられた、蘇鉄。 このくらいでも、大きくて、立派ですが、蘇鉄は、もっと大きくなります。

≪写真5左≫
  「農地保全整備事業完成記念碑」。 長い名前だな。 桜の手入れがなっていないところをみると、管理者がいない、訪問者もいないのだと思いますが、せっかく、大掛かりに整備したのに、もったいないです。

≪写真5右≫
  解説板。 昭和47年(1972年)から、16年間かけて、土地を開梱したという内容。 解説板の製作年は、昭和62年(1987年)になっていますから、24年前ですか。 四半世紀程度だと、まだ、古びた感じはしませんな。 桜が育ち過ぎただけで。

  ちなみに、この辺り、完全に山でして、傾斜地ばかりです。 ほとんど、茶畑なのでは?

≪写真6左≫
  石のベンチ。 長時間座っていると、痔になりそうですが、そんな心配は不要で、桜の枝が、この有様では、ここで、弁当を広げる人もいますまい。 石だから、無整備でも、朽ちないのであって、木製だったら、とうに、ガラクタになっているはず。 どんな材料にも、一長一短あり。

≪写真6右≫
  なんだ、これは? 円筒形のコンクリートの物体が、斜めに倒れて状態で、地面のコンクリートに埋め込まれています。 オブジェ? 分からんなあ。




【西浦・平沢海沿いの社】

  2021年12月16日に、バイクで、西浦・平沢にある、海沿いの神社に行って来ました。 住宅地図で、鳥居マークを見つけて、行ってみた次第。

≪写真1≫
  名前が書かれていない神社だったので、見つけられるか心配だったのですが、行き過ぎる事もなく、辿り着きました。 道路の海側に、小さな社が置かれています。 人間が入れるサイズではないですが、宮大工でなければ造れない細工です。

  社の前に、賽銭箱あり。 鳥居、狛犬、石燈籠、手水場などは、ありませんでした。

≪写真2≫
  歩道に停めた、EN125-2A・鋭爽。 車道と歩道の間に、手すりがあり、その切れ目からしか、出入りできません。 下り坂になっていて、バックできないので、帰りは、押して、数十メートル離れた、次の切れ目から、車道に出ました。 軽い125で良かった。

≪写真3≫
  境内というほどの境内はなく、崖下が、海です。 養殖用の生簀が見えています。

≪写真4≫
  少し、東へ戻った所で、富士山が見えたので、撮りました。 手前の黒っぽい山は、愛鷹山。 空を飛んでいるのは、カラスです。 凄い数。 ヒッチコックの、≪鳥≫みたい。




【伊豆市堀切・雄飛滝①】

  2021年12月23日に、バイクで、伊豆市の堀切地区にある、「雄飛滝」へ行って来ました。 2008年7月に、西浦経由で山を越えて行った事があるのですが、今回は、伊豆長岡から南下し、大仁の城山の南を回って、逆方向から行ってみました。

≪写真1≫
  伊豆長岡から、狩野川左岸を、道なりに下って行ったのですが、山坂地区に入ってしまったので、「これは、違う」と思い、引き返して、山田川に沿って、西へ向かいました。 途中、「↑雄飛滝 →益山寺」の標識を見て、直進したのですが、結局、ロストしてしまいました。

  写真は、更に奥地にあるらしい、広野地区のついての解説板。 かつて、各村の入会地だったのが、今は、人工林になっている、といった事が書いてあります。 ちなみに、この場所で、すでに、滝を行き過ぎています。

≪写真2≫
  更に先にあった、分岐点。 「↑広野 →沼津市三津方面」となっています。 私は、滝が、まだ先にあると思っていたので、直進しました。

≪写真3≫
  こんな杉・檜の人工林を抜けて、5分くらい進んだのですが、広野まで行かない内に、道が狭くなって来た上に、時間が折り返し限界に近づいて来たので、諦めて、引き返してきました。

≪写真4≫
  ところが、広野についての解説版より手前まで戻って来たら、雄飛滝があるのを見つけました。 ここですよ、ここ。 バイクの向こうに、「雄飛滝」と書かれた、茶色の標柱があります。 出かけてくる前に、2008年に来た時に撮った写真を見て来たから、この標柱には、見覚えがあったのです。 行きには、気づかずに通り過ぎてしまっていたんですな。 とにかく、着いて良かった。 家から遠いから、そうそう、気軽に出直して来れません。




【伊豆市堀切・雄飛滝②】

≪写真1≫
  滝は、谷底にあり、崖道を下りて行きます。 手すりがありますが、頑丈とは言い難いので、足下に気をつけて、転げ落ちないようにしなければなりません。 道路からでも、滝は見えますが、かなり、遠いです。

≪写真2左≫
  これが、雄飛滝(ゆうひだき)。 当て字だと思いますが、元は、どういう意味でつけられた名前だったんでしょう? 位置的に、夕陽とは関係なさそうです。 上下二段になっています。

≪写真2右≫
  滝壺。 水量が多い時もあるようですが、この規模の滝壺という事は、劇的に多くはならないのでしょう。

≪写真3左≫
  簡単な橋を渡ると、滝の奥に、祠、もしくは、お堂がありました。 中まで覗いて来なかったのですが、外観だけでは、神仏どちら系なのか、判然としません。

≪写真3右≫
  谷から上がってきて、道路脇に停めた、EN125-2A・鋭爽を、斜め後ろから、少し見上げる角度で撮りました。 この角度だと、どうしても、軽薄に見えます。 なぜなんでしょう? タイヤが細いのが、強調されるからでしょうか。 ちなみに、ホイールの幅が決まっているから、タイヤだけ、太い物に換える事はできません。 できたとしても、私は、やりませんが。

≪写真4≫
  だいぶ、下って来た辺りに、山の一部で、岩壁が露出している所がありました。 何山というのか、帰ってから地図を見ても分かりませんでした。 こういうのを見ると、山というのが、土ではなく、岩で出来ている事が、良く分かります。 土は、表面に被さっているだけ。 芯まで土だったら、雨で流れて、なくなってしまいますからのう。




【伊豆の国市宗光寺・白幡神社①】

  2022年12月30日に、バイクで、伊豆の国市、宗光寺地区にある、「白幡神社」へ行って来ました。 7月30日に、行こうとして、ロストし、辿り着かなかった所。 他を一巡している間に、ネット地図で調べ直し、最も確実な道順を選んで行ったら、難なく着いたという次第。

≪写真1≫
  参道の石段。 山の斜面にあるので、いろいろと、立体的です。

≪写真2≫
  境内は二段になっています。 これは、下の段から、上の段へ上がる石段と、その上の社殿を撮ったもの。

≪写真3左≫
  下段から上段へ上がる石段の、向かって左側にあった、石垣の台。 おそらく、大きな石燈籠が、かつて、この上に載っていたんじゃないでしょうか。 注連縄が掛けてあるのは、正月の準備でしょう。

≪写真3右≫
  石段の右側にあった、手水舎。 小ぶりですが、簡潔にして十分という趣き。 しかも、注連縄、榊、柄杓まで、正月を迎えるアイテムが、綺麗に整えられています。 蛇口がどこにあるか、確かめて来ませんでしたが、たぶん、水は使えるはず。 ここまで、揃っていて、水が出ないという事は、考えられませんから。

≪写真4左≫
  石段の途中から、社殿を見上げました。 やはり、注連縄は、新しくなっています。

≪写真4右≫
  社殿の前後左右に、板が立てられていました。 これは、何なんでしょう? 他では、見た事がありません。 神社の祀り方には、他所と似せようという「模倣性」と、個性を持たせようという「独自性」の、二方向がせめぎ合っていて、これは、後者の顕れのようです。




【伊豆の国市宗光寺・白幡神社②】

≪写真1左≫
  社殿の後ろの方。 拝殿・本殿一体式で、本殿がある部分が、背面から飛び出している形式。 まだ、新しいのか、綺麗な壁です。 屋根は、銅板葺き。 こういう社殿を新築すると、一体、幾らくらい、かかるんでしょうねえ。

≪写真1右≫
  境内別社。 割と細かい細工の、石の祠です。 二つ、同じ物なので、これは、他から持って来た物ではなく、この神社の別社用に造ったのでしょう。 台座部分は、時代が若いです。

≪写真2≫
  境内の下の段には、道路から、スロープでも上がれるようになっています。 建物は、社務所ではなく、寄り合い所だと思います。 ほとんど、住宅の造り。 電気は来ているし、カーテンも付いているし、人が住めそうです。

≪写真3≫
  分かり難くて、恐縮ですが、社殿の横の杉・檜林から、駐車場のような更地を見下ろした景色。 紐だか、鎖だかが張られて、入れないようになっていましたが、たぶん、行事がある時の駐車場だと思います。 隅に、物置があります。

≪写真4左≫
  スロープの入口で、万両に、実がついていました。

≪写真4右≫
  スロープの入口に停めた、EN125-2A・鋭爽。 前側が上がっているのは、実際に、傾斜がついた場所だからです。 何とか、サイド・スタンドの摩擦で留まっていますが、これ以上、傾斜がきつくなると、ズルズルと後ろへ下がってしまいます。 センター・スタンドを立ててしまえば、ズレなくなりますが、その代わり、左右に倒れ易くなるので、土や砂利の場所では、お勧めしません。 バイクの駐車は、硬くて平らな所を探す方が、王道。

  ちなみに、私、バイクを停める時、ギアは、ローに入れたままです。 ニュートラルにしても、バイクが動いてしまう危険性が高くなるだけで、何の得もないので。 信号待ち、踏切待ちなどで、「停まったら、ニュートラル」の癖がついている人達は、どうしてるんでしょうねえ。


   これにて、2021年のプチ・ツーリングは、終了。 年末の神社は、何となく、いい雰囲気が漂っていますな。




  今回は、ここまで。

  ようやく、三島図書館通いが終わり、普通のパターンに戻りました。 相変わらず、神社巡りが、メインです。 これだけ、あちこち行っても、まだ、半径1時間以内の神社を行き尽くさないのだから、一体、どれだけ、ある事やら。 神社が終わったら、次は、寺巡りという事になりますが、バイク生活復活計画で予定していた、10年の内、すでに、2年が過ぎており、期間内に、全て回り終えられるか、自信がありません。

2022/01/23

民主主義は終わった

  読書感想文の在庫が、まだ、あるんですが、あまり、続くのもどうかと思うので、ここらで、書下ろしを。 といっても、昨年の12月5日に出した、≪AIの判断≫を書いた時に、途中から脱線して、民主主義批判になってしまった部分を削除したのですが、それが、そこそこの長さがあるので、加筆して、一回分にしようという、セコいやりくりです。




  というわけで、民主主義批判です。

  「民主主義が、うまくいかなくなった」というのは、全世界的な認識として、共有されているようですが、いつからそうなったのか、何が原因かと言ったら、そーりゃ、あんた、インターネットの普及以外に、思い当たるものはありますまい。 時期的には、ネットが大々的に普及した、1998年頃から始まり、以降、じわじわと、民主主義の価値・意義が崩壊して行ったんですわ

  私個人の感覚で言うと、ネットを始める前は、「世の中には、優れた人達がたくさんいて、そういう人達に、専門的な事を任せておけば、間違いはない」と思っていました。 ネットを始めてから、しばらくは、その認識を基礎にして、ネット交流をしていましたが、5・6年経つと、少しずつ、その基礎認識が崩れて行きました。 「確かに、世の中には、優れた人達もいる。 しかし、ろくでなしの糞野郎の方が、圧倒的に多数派だ」という事に気づいたのです。

  一旦、他者に対する敬意が失われると、悪いところばかりが目に付き、鼻に付くようになります。 政治家なんて、いの一番に、駄目の烙印が押されます。 支配欲や権勢欲ばかり剥き出しで、公共の利益なんて、全然、考えてないのなー。 あーもう、政党なんか無関係に、ほぼ、全員、そうなのでは? 自分より劣っていないとしても、同レベルに過ぎない人物に、政治を任せましょうという気にならんというのよ。 その辺が、民主主義に対する幻滅の、主たる原因だと思いますねえ。

  アメリカで起こった、議会乱入事件は、この上なく、象徴的。 あの連中、トランプ氏には、ヒーローの幻想を抱いていたわけですが、一方で、トランプ氏に反対する政治家達に対しては、政党に関係なく、コツメカワウソの小指の爪の先ほども、敬意を抱いておらず、 極端な話、トランプ氏とその支持者以外の政治家なんて、皆殺しにしても構わないと考えていたのではないかと思います。

  議員を否定するという事は、議会を否定する事でして、もう、民主主義もへったくれもありゃしない。 もっと、恐ろしいのは、彼らが、一部、刑事罰を受けたとしても、一人たりとも、心から反省する者などいない事が、容易に想像できる事です。 誰も、悪い事をしたと思っていない。 また、同じ状況が訪れれば、同じ事をやるでしょう。 アメリカの有権者の半数近くに上る、トランプ支持者達にとって、民主主義は、完全に崩壊しているわけだ。 紛う方なき、トランプ崇拝であって、原始的な君主制とすら言えず、一宗教団体の教祖と、信者のような関係になっていると思います。


  インターネットが存在する限り、民主主義が立ち直る事はないです。 悪くなる一方だと思います。 奇妙な話で、ろくでなしの糞屑野郎の方が、圧倒的多数だと分かっているのに、そういう連中に認めてもらいたくて、せっせと努力を積み重ね、ブログの記事やら、動画やら、インスタ写真やら、拵えているわけだ。

  フォロワーが、10万超え? 何言ってるんですか。 その内の、9万9千9百人くらいは、ろくでなしの糞屑下司野郎どもですぜ。 10人抽出して、オフ会で話をしたら、瞬間、ワープで、銀河の彼方へ逃げたくなるような化け物どもなんだわ。 「瓦礫の王様」ではないが、「化け物どもの人気者」というのは、何か価値があるんですかね?

  他者への敬意が失われたら、民主主義は、もう成り立ちません。 そして、決して、インターネット以前には戻れません。 民主国家・地域は、今後、己が存在する限り、その呪縛から、逃れられないわけだ。 アメリカのように、国内が二分されて、内戦スレスレ状態になってしまうところと、日本のように、一党支配へ向かうところ、その他、中間形態に分かれると思いますが、いずれにせよ、失われた民主主義の優位性は、取り戻せないでしょう。


  以上が、脱線・削除した分。 ここから先は、今回用の書き下ろしになります。


  昨年の12月に、アメリカのバイデン政権が開催した、「民主主義サミット」ですが、あれも、しょーもなかったですねえ。 興味がなかったので、ネット・テレビ・新聞、どのメディアの報道も、詳しく見ませんでしたが、イメージ的に言うと、「なんで、今?」、「何の意味があるの?」という、違和感マックスの状況で開かれ、終わってみれば、何の結果も残さなかったイベントとしか思えません。 一体、何がやりたかったのかが、目的すら分からない。

  あのイベントで、民主主義のイメージが上がったとは、到底思えません。 むしろ、民主主義が色褪せた事を、証明してしまったのではないかと思います。 「落ち目のヤクザの親分が、乾坤一擲、他の組の親分どもに声をかけて、集会を開き、勢力を固め直そうとしたけれど、雰囲気ダラダラで、ただの飲み会になってしまった」といった感じでしょうか。

  上に書いたような、インターネット以後に発生した民主主義の構造的欠陥をどうにかしようという、工夫も智慧もなく、ただ、とうに失われた価値観を、無理やり再確認させようとして、失敗したわけだ。 しかし、もしかすると、バイデン政権も、アメリカの識者全般も、失敗したとは思っていないかもしれない。 「あれはあれで、やった意味はあった」と思っているのでは? 終わった途端に、忘れ去られてしまったというのに、何の意味があったというのか?

  アメリカの問題点は、自分の姿が見えていない事ですな。 見えていないのに、見えていると見栄を張っている裸の王様より、尚、重症です。 ここ数年、テレビ画面に出て来る、アメリカの大統領や、閣僚、官僚、学者などを見ると、ただ喋っているだけで、話の中身がスッカスカ。 畏怖や敬意など、微塵も感じる事ができません。 民主主義が機能しなくなった事で、自分達が理念を見失ったという自覚がないのだから、立て直す事など、できるわけがない。

  ちなみに、民主主義を、強引に立て直すとしたら、インターネットを禁止にしてしまうのが、唯一考えられる有効な手段ですが、そんな事、とーでもない。 できんもできん、無理無理な相談です。 ネットを禁止するくらいなら、国の方を解体しろと、多くの利用者が言うのでは? 「国や社会なんか、どうでもいいが、SNSがなくなったら、生きていけない」という人間は、明らかに多数派だな。


  民主主義選挙は、本来、優れた人物を選び出すのが目的で作られたものですが、人格者が選出されるのは、最初の頃だけで、瞬く間に、劣化して、単なる人気投票になるか、人物ではなく、政党を選ぶ形式に変わって、政党内でお山の大将になった者が、トップにつくようになります。 そして、そういう人達が、人格的・能力的に、一般人の平均より優れている事は、大変、稀です。 日本の歴代首相や、アメリカの歴代大統領だけ見ても、いくらでも、例を挙げられます。 というか、例外を見つける方が、難しい。

  不思議な事に、「こんな奴らに、政治を委ねなければならないとは、心底、嘆かわしい」と思っているくせに、なぜか、「民主主義は、最高の政治システムだ」と言う人が多い。 矛盾しとるがな。 教科書で読んだ事を、そのまま口にするのではなく、自分の目で見て、自分の頭で考えて、判断せにゃいけませんぜ。 民主主義選挙には、優れた人物を選び出す機能なんて、ないんですよ。 正確に言うと、最初はあった。 すぐになくなって、それ以降ずっと、ないのです。


  話は変わりますが、アメリカでも日本でも、民主的に選ばれた政治家を外してしまって、官僚だけで、政治機構を動かすようにすれば、簡単に、中国のような、エリート主導政治に切りかえられます。 官僚が、エリートである点は、どの国でも、同じですから。 そうすれば、少なくとも、民主的に選ばれた、「馬鹿、アホ、間抜け、能なし、昼行灯、風呂の蓋、性格異常者、精神異常者、認知症患者」が、政治に関わる事はなくなり、多少なりとも、いや、相当には、知性的な政治が行なわれるようになると思います。

  ただ、官僚は、非の打ち所がないわけではなく、決まって、汚職をします。 頭がいいエリートだから、その分、悪事も手が込んでいて、始末が悪い。 中国では、遥かな昔から、反腐敗キャンペーンを続けて、今に至りますが、つまりその、浜の真砂は尽きるとも、世に腐敗官僚の種は尽きないというわけだ。 しかし、脳味噌スッカラカンの、民主政治家に振り回されるのに比べたら、反腐敗キャンペーンを永遠に続けた方が、効率がいいかもしれませんな。

  だけど、エリートより、もっと、政治に向いているのは、やはり、AIでしょうねえ。 もう、AIで代替できる業務は、全部、AIに切り替えてしまうに限ります。 AIは、馬鹿でもないし、汚職もしないものね。 人間なんか、ウィルスのスパイクの先ほども、信用できるものかね。

2022/01/16

読書感想文・蔵出し (84)

  読書感想文です。 今回も、他に書きたい事もないので、蔵出しを片付けてしまいます。

  なに? 新型肺炎の急増について、どう思うか? 今となっては、論に意味なし。 とにかく、正しくマスクを装着して、人と距離をおき、密を避けるべし。 なに? 当たり前の事を言うな? では、少し、極端な事を書きましょうか。 家から出ないでも済む生活をしている人は、極力、出ない方がいいです。 オミクロン株は、今までの株より、遥かに感染し易いようですから。

  無マスク、顎マスクは、論外として、鼻出しマスクや、鼻の横スカスカ・マスクでも、密状態なら、エアロゾルで、一発感染していると見た。 毒性が弱くて、死者が少ない事が予想されるなら、尚の事。 その少ない死者の中に、自分や家族が入りたくはありますまい。





≪【「新青年」版】 黒死館殺人事件≫

作品社 2017年9月30日/初版 2017年11月30日/3版
小栗虫太郎 著

  沼津市立図書館にあった本。 購入は、2018年1月ですが、ほとんど、読まれた形跡がありません。 この作品、日本の探偵・推理小説界の、「三大奇書」の一つで、しかも、その筆頭と言われているもの。 必ずしも、高尚な内容だからというわけではなく、単に、読み難いから、敬遠する人が多く、借り手がないんでしょう。 この本、6800円もしますが、それでなくても、読書離れの時代に、買う人がどれだけいるか、大いに疑問。

  1934年(昭和9年)の4月から、12月にかけて、「新青年」に連載という、戦前作品です。 すでに、著作権が切れているおかげで、ネット上の、「青空文庫」でも読めるのですが、元が読み難い文章なので、パソコン・横書きだと、ますます読み難い。 なかなか進まない事に業を煮やして、本になっているものを借りて来た次第。 本でも、読み易いとは言えませんでしたが、それでも、何とか、読みました。 薀蓄のほとんどは、さっと目を通すだけで、飛ばしましたけど。


  神奈川県の私鉄の終点にある、降矢木家の洋館、黒死館。 乳児の頃に引き取られ、軟禁状態で暮らしていた西洋人四人の内、一人の女性が殺される事件が起こる。 支倉検事が、元警察捜査局長の探偵、法水麟太郎を連れて、現地に乗り込むが、黒死館は、不気味な自働人形の存在を始め、奇怪な暗示に満ち満ちた場所で、殺人事件や、犯人不明の傷害事件が、次々と起こる。 黒死館では、過去に、三人が変死していたが、その最後の一人であり、黒死館を造った、降矢木家算哲が、実は、まだ生きていて、事件を起こしているのではないかと囁かれるが・・・、という話。

  この作品、梗概には、あまり、意味がありません。 ネット情報で、もっと詳細な梗概を読む事ができますが、大体のストーリーが分かっても、やはり、意味はありません。 この作品の最大の特徴は、ストーリーではなく、探偵役の法水(のりみず)が口にする、衒学的薀蓄の膨大な羅列にあるからです。

  扱われている学問は、ヨーロッパの宗教、歴史、文学、音楽、美術、医学、化学、天文学といったものですが、それらについて、法水が、喋るべるべる、べりまくる。 ただ喋るだけでなく、謎解きの表現方法として、一つを説明するにも、その十倍の薀蓄を交えて語らなければ、気が済まないという、天文学的に嫌な性格。 正直な感想、はっきり言って、常識的に見れば、この男は、狂人としか思えません。

  また、こんな狂人と、会話を交わしている、支倉検事や熊城捜査局長も、まともとは思えません。 会話が成り立っていない事に気づいているのに、それでも、法水を頼っているのだから、狂人の友は、やはり、狂人ですな。 法水、これだけ、自信満々で喋るのだから、さぞや、名探偵かと思いきや、そんな事は全然ないのであって、ラストにならないと、真犯人に辿り着かず、犯人の誤指名を、二回もやらかします。 法水が、いてもいなくても、結局、犠牲者の数は変わらないのだから、やはり、検事・捜査局長らは、法水を連れて来るべきではなかったと思います。 捜査が混乱しただけです。

  ヴァンダインの、【グリーン家殺人事件】(1928年)を、下敷きにしているそうで、私は、そちらも読みましたが、なるほど、似ています。 【グリーン家】の方は、関係者のほとんどが死んでしまいますが、こちらでは、余分な登場人物がいて、生き残る人数が多いので、その点、【グリーン家】で覚える、ゾーッと感はないです。

  むしろ、似ているのは、探偵役が薀蓄垂れで、しょーもない奴だという点でしょう。 しかし、ファイロ・ヴァンスは、嫌な奴でしたが、狂人というほどではなかったです。 喋る薀蓄も、法水に比べたら、すっと、常識的な分量でした。 ファイロ・ヴァンスのキャラを、極端化して、法水を作ったわけですが、狂人と見做されてしまうようでは、探偵として、欠格だと思いますねえ。

  しかし、その極端化のお陰で、この作品は、日本の探偵・推理小説界、随一の奇書となり、この作品のお陰で、小栗さんの名前・業績も、後世に残ったわけですから、何でも、工夫や努力は、してみるものですな。 私は、こういう作品は、感心しないと思いますけど。 

  推理小説としては、全く、大した事はなく、トリックに、心理的な要素を入れたり、特定の体質の人間に起こり易い反応などを使っているものだから、はっきりしないというか、不確定要素が大き過ぎて、「そんなにうまくいくか?」と疑ってしまうのです。 読者に対して、説得力がないトリックは、探偵・推理小説では、有効とは言えますまい。

  基本的に、法水の薀蓄が売りなのですが、後ろの方に行くと、演奏会の件りで、木に竹を接ぐが如く、活劇的な場面が出て来ます。 これも、ヴァン・ダインの影響でしょうか。 恐らく、映画化を念頭に置いて用意したと思われる場面なのです。 当時は、映画の勃興期で、小説家の多くが、映画化を意識していたのですが、小栗さんも、その例に漏れなかったのかも知れません。

  この活劇場面のせいで、静謐な雰囲気が台なしになるかというと、そうでもなく、後ろの方に行くと、もう、大抵の読者が、読むのにうんざりしているので、劇的な展開で、さっさと話が進んで、犯人が分かれば、その方がありがたい。 むしろ、歓迎されると思います。 いやあ、そもそも、読者が、うんざりしてしまう小説が、礼賛に値いするようなものなのかどうか・・・。

  この作品に出て来る衒学的薀蓄ですが、文系系統のものは、今や、全く、価値がありません。 仔細に読んで、頭に入れたとしても、微塵の役にも立ちません。 完膚なきまでに、旧時代の学識であって、もう、この種の事を、教養と捉える習慣が、なくなっているのです。 特に、宗教や文学関連は、カルト知識の領分に入ってしまっており、知らない方が、無難なほどです。

  理系的な薀蓄も、使い物にならないでしょうねえ。 まず、正確かどうかが分かりません。 次に、古い。 その後、科学が発展して、否定されてしまった説もあるわけで、そのまま頭に入れるのは、危険です。 さりとて、一つ一つ、手間と時間をかけて検証するほど、一般的に役立つ知識でもないです。

  教養を蓄えるつもりで読むのなら、却って、悪影響があるので、やめた方がよいと思います。 法水みたいな人間になったら、社会人として、欠格者の烙印を押されてしまいます。 というか、そんな甘い事では済まず、明確に、精神異常者と見做され、それなりの処遇を受けると思います。

  この作品を礼賛している人は、教養に対する、劣等意識があるんでしょうねえ。 こういう薀蓄を知っているのが、教養人だと、勘違いしているのです。 小栗さんは、それを承知の上で、とことん、極端化した小説を書けば、劣等意識を持った面々が無視できない作品になると踏んだのではないでしょうか。

  たぶん、衒学的薀蓄のネタ本はあったと思いますが、一冊二冊ではなく、数十冊くらいは調べたのでは? たとえ、役に立たない知識でも、これだけのボリュームのものを書くとなったら、構想段階で、どこにどんな薀蓄を盛り込むかを計算しておかねばならず、詳細はそのつど調べるにしても、おおまかな知識は、常に頭に入っていなければ、とても無理でしょう。 小栗さんには、それだけの知識があったわけだ。

  この本、作者による原注とは別に、ページの下段に、脚注が付いています。 薀蓄に関する注は、問題ないとして、漢字熟語にまで、注を付けているのは、如何なものか。 読書経験が少ない読者が、辞書を引かずに済むように配慮したのかも知れませんが、特に難しい言葉が使われているわけではなく、この程度の漢字熟語を読めない読者は、そもそも、この本を読もうとは思わないでしょうに。 最初のページで、やめるはずです。

  ごく普通の単語に、注をつけられると、馬鹿にされているような気がします。 何か、特別な意味でもあるのかと思って、わざわざ、ページを繰って、番号の脚注を探してみると、辞書に載っているような説明だけなのですから、骨折り損を感じずにいられません。 大変、宜しくない。




≪夢野久作全集4 ドグラ・マグラ≫

夢野久作全集4
三一社 1969年9月30日/初刷 1971年10月31日/2刷
夢野久作 著

  沼津市立図書館にあった本。 古いな、これは。 2刷でも、71年で、私は、まだ、7歳でした。 小学生の頃、母に連れられて、当時まだ、「駿河図書館」と言っていた、市立図書館へ何回か通った事がありましたが、つまり、その頃、すでに、この本は、そこにあったわけですな。 そう思うと、奇妙な感じがします。

  現在の沼津市立図書館には、新しい、「夢野久作全集」があるのですが、第4巻だけ、出払っていて、やむなく、古い方を借りて来ました。 外見はくたびれていますが、中は、意外と綺麗でした。 手に取る人は多いけれど、実際に読む人が少ないんでしょう。

  1935年(昭和10年)、松柏館書店から、書下ろしで出版された作品。 大正15年から書き始めて、10年くらい、手を入れ続けたとの事。 日本の探偵・推理小説界に於ける、「三大奇書」の一つに数えられています。 夢野さんは、この作品が出版された翌年には、他界しているので、これが代表作で、本人の手による類似作はないです。


  九州大学の精神病院で目覚めた青年は、自分が何者なのか、全く思い出せなかった。 若林という法医学博士から、自分が、ある精神医学治療法の対象になっている事や、その治療法の為に、自分が何者なのかは、自分で思い出さなければならないという事を告げられる。 渡された遺伝記憶に関する奇怪な資料を読んでいる内に、一ヵ月前に死んだと聞いていた、青年の主治医、正木博士が現れて、江戸時代、更に遡れば、唐代の人物から伝えられた絵巻物がスイッチとなって、代々、血腥い凶行が繰り返されていると言われ・・・、という話。

  梗概を書き難いですな。 これでは、ほとんど、分からないでしょうが、作品を読めば、分かります。 そんなの、当然か。 読もうという意思があるかどうかが、鍵でして、その意思さえあれば、そんなに読み難い作品ではありません。 伊達に、10年間も、推敲を重ねたわけではないわけだ。 同じ三大奇書の、【黒死館殺人事件】に比べれば、ずっと、普通に読めます。

  発表当時は、「分からん」という人が多かったそうです。 日本では、最も作風が近い、江戸川乱歩さんまで、「分からん」と言ったそうですが、意外ですな。 江戸川さんが分からんのでは、他の作家は、みな、分からなかったでしょう。 別に、自慢するわけではありませんが、私は、分かりました。 しかも、はっきりと。 ストーリーも、テーマも、作者の意図も。

  私だけでなく、SF小説を読んでいる人なら、割合、すっと、この世界に馴染めると思います。 ≪ドグラ・マグラ≫自体は、SFではなく、似非科学をモチーフにしているだけですが、このテイストは、その後、探偵・推理小説ではなく、SF小説の作家に受け継がれて、戦後日本のSFに影響を与えたのだと思います。 だから、戦後SFを読んでいる者には、分かり易いのです。

  そもそも、探偵・推理小説に分類するには、無理があります。 業界から、評価を拒まれたのも、無理はない。 たとえば、ドストエフスキーの、【罪と罰】は、殺人事件が起こり、犯人、被害者だけでなく、探偵役も出て来るから、倒叙型推理小説の要素が全て揃っているわけですが、だからといって、【罪と罰】を、推理小説と見做す読者はいません。 それと同じで、≪ドグラ・マグラ≫も、要素が揃っていても、推理小説ではないんですな。

  視点人物の一人称ですが、その視点人物の記憶に問題があるせいで、時系列がゴチャゴチャに入り組んでいます。 それが、分かり難くさせている、最も大きな理由でしょうか。 長々と説明をしていた正木博士が、「今のは、嘘だよ」と、あっさり、引っ繰り返してしまう場面があり、そういうところも、読者を嫌がらせる原因になっていると思います。 それでなくても、ややこしいのに、延々と、嘘を読まされたのでは敵いません。 しかし、そこが、面白いところで、実は、正木先生の説明には、一切、嘘はないのです。 これは、作者が読者に仕掛けた罠なのです。

  遺伝記憶に関する学説は、まるっきり、デタラメというわけではないですが、医学界では、異端もいいところで、この作品の中で言われているような水準の評価は受けていません。 ところが、この小説を読んでいると、それが、定説であるかのような錯覚に陥ります。 これが、怖い。 SF小説のヨタ話に慣れていない読者は、なんだか、詐欺師の巧い言葉に引っ掛けられているような、警戒感・拒絶感を覚えるのではないでしょうか。

  遺伝記憶によって殺人事件が引き起こされるのは、視点人物の空想ではなく、作中の事実でして、読む側は、オカルト的な恐怖を覚えます。 しかし、この作品の中では、遺伝記憶は、科学的な現象とされているので、厳密には、オカルトではないです。 ただ、読者がオカルトと錯覚するのを見越して、作者が、こういう設定をした可能性はあります。 作者本人が、遺伝記憶を、科学的現象と思っていたのか、似非科学と思っていたのかは、分かりません。

  実は、一番面白いのは、江戸時代の記録に出てくる、チャンバラ部分なのですが、そこはもう、完全に、チャンバラ物として書かれているので、そこだけ評価しても、意味のない事。 次が、唐代部分ですが、それは、伝奇小説そのまんまです。 たぶん、作者が、唐宋伝奇が好きだったんでしょう。 次が、正木博士が、ある告白を始める部分。 突然、核心に近づくので、ギョッとします。

  視点人物の青年が、正木博士と、若林博士を、どちらも、「お父さん」と言ってしまう場面も、面白い。 てっきり、精神異常で、認識能力が低いせいで、一定年齢帯の男性を、みんな、「お父さん」にしてしまっているのだと、読者は思ってしまうのですが、実は・・・、という作者の罠なのです。 凄いな、夢野さんという人は。

  これだけ、入り組んだ話なのに、最終的には、全ての謎が解決され、スッキリします。 ただし、それは、読者の側の話でして、視点人物の青年は、最後の一行に至るも、依然、無限ループの中にいて、まるで、救われません。 そこも、作者が仕組んだ巧妙な罠でして、読者は、謎から解放されて、読後感は悪くないのに、視点人物は、何からも解放されず、物語は終わらないんですな。

  視点人物こそ、青年ですが、この物語の主人公は、正木博士なんでしょうな。 青年は、ほとんど、若林博士が用意した資料を読んだり、正木博士の話を聞いたりと、受け身の立場に徹していますから。 正木博士を主人公だと思うと、また、違った感慨が起こって来ます。 この人が一番、呪われていたわけだ。 おっと、くどいようですが、この作品は、オカルトではないです。 でも、呪いとしか言いようがないんですよ。

  これは、凄い小説だと思います。 同じ、「三大奇書」でも、【グリーン家殺人事件】を、極端化しただけとも言える、【黒死館殺人事件】とは、次元が違います。 出版の翌年に亡くなったというのは、作者が、この作品に、生命力の全てを注入してしまったからではないかと思えます。




≪虚無への供物≫

東京創元社 2000年2月29日/初版
塔晶夫 著

  ≪虚無への供物≫は、沼津市立図書館にも蔵書があったんですが、貸し出し中で、すぐには返って来そうになかったので、三島図書館までバイクで出かけて行って、≪匣の中の失楽≫と共に、借りて来ました。 単行本、一段組みで、588ページ。 挿絵あり。

  完成作は、1964年に、単行本として、発表。 その2年前に、前半だけ、江戸川乱歩賞に応募したらしいですが、次点だったとの事。 そりゃ、前半だけじゃねえ。 日本の探偵・推理小説界に於ける、「三大奇書」の、三冊目。 「塔晶夫(とう・あきお)」というの、この作品用に使った筆名で、本名の「中井英夫」の方が、通り名になっています。 特に、推理作家というわけではなく、この【虚無への供物】一作に、推理小説に対する思いを全部注ぎ込んだという事のよう。 その点、【不連続殺人事件】を書いた、坂口安吾さんと同類。


  洞爺丸事件で両親を失った青年・氷沼蒼司の精神的な落ち込みを心配した、在フランスの縁者・牟礼田が、自分の婚約者・奈々村久生に様子を見てくれるように依頼した矢先、氷沼邸で、蒼司の弟の紅司が密室死してしまう。 推理マニアの久生を始め、ワトソン役の青年・光田亜利夫、蒼司の従弟・藍司、氷沼家の相談役・藤木田など、素人探偵が集まって、様々な推理を展開するが、紅司が練っていた推理小説の筋書きに従うかのように、氷沼家の関係者に、密室死が続き・・・、という話。

  同じ三大奇書と言っても、【黒死館殺人事件】と【ドグラ・マグラ】が全然違うのと同様に、この【虚無への供物】も、他の二作と、全然、性質が異なる作品です。 最も読み易い。 それはなぜかというと、最も、推理小説的な文体で書かれているからです。 【黒死館殺人事件】は、薀蓄を語るのが目的。 【ドグラ・マグラ】は、そもそも、探偵小説のジャンルを借りているだけで、実は、純文学。 いや、もっと上の何かか。 それに比べると、【虚無への供物】は、純然たる推理小説で、それ以外に分類のしようがありません。

  推理小説として、普通に面白いですが、密室トリックは、ゾクゾクするようなものはないです。 戦後物だから、とっくの昔に、あらゆるパターンが出尽くしているわけで、その点は、致し方なし。 この作品が変わっているのは、密室死が、空想も含めると、四件もあり、とことん、密室に拘っていながら、実は、密室トリックが、テーマとは関係なく、モチーフ・レベルでしか使われていないという点です。 読者側も、密室トリックに拘って読む事が可能ですが、それをやっても、あまり、意味がないとでも言いましょうか。

  密室死が、四件もある上に、素人探偵が、五人も登場するので、推理は、大変な事になります。 当然の事ながら、最終的に、一人だけが正しい謎解きをし、他の四人は、間違っているわけですが、全てが間違っているのではなく、「部分的には、誰それの推理が正しい」といった入り組み方をするので、読者側は、全面的に信じられる探偵役が見つからず、振り回される事になります。 しかし、混乱するほどではないです。

  一番、混乱しやすいのは、四件目の密室死で、これは、実際には起こらずに、作中小説の形で出て来るのですが、その事件について、実際に起こったものとして、推理が展開されるので、読者に、錯覚を起こすなという方が無理というもの。 「もしや、この作者、読者を混乱させて、煙に巻く為に、わざと、こんな話にしているのでは?」と疑いたくなりますが、そうではない事が、最後まで読めば、分かります。

  これだけ、密室トリックに拘っているのに、テーマは、手法ではなく、犯人の動機でして、これが、変わっている。 ネタバレを避ける為に、書きませんが、「こんな動機で、人を殺してしまっていいものか・・・」と、ズシーンと重い気分になります。 狂気としか言いようがありませんが、実際、この犯人、精神に異常を来たしていたんですな。 そうであればこそ、犯人に下される罰が、常識的なものではない事が、辛うじて理解できるのです。 ちなみに、警察は、少し顔を出しますが、これといって、事件の解決に寄与するわけではないです。 

  犯人が自白したのに、司直の手に委ねられる結末にならないのは、作者に、「戦争や、洞爺丸事故のような、人為的災害に比べれば、個人間の殺人事件など、取るに足らない出来事ではないか」という、戦後間もない頃に、多くの人々が抱いていた意識が、強烈にあって、他者による断罪を嫌ったからではないかと思います。 それにしても、中心になる被害者には、殺される理由が理不尽すぎて、「これで、いいのか?」という違和感はあるのですが。

  「推理小説である事を否定している、推理小説」という意味で、「反推理小説」と言われているそうですが、特に、それを意識するような部分はなかったような。 【そして誰もいなくなった】のような、形式上の破格を試みようとした形跡があるものの、それが成功しているとは思えません。 ただし、犯人の動機が特殊で、探偵役達や、読者を含む世間の人間全てに、犯行の責任があるという主張は、確かに、破格と言えます。 もっとも、その言い訳を許したら、司法制度の意味など、なくなってしまうのですが・・・。

  最も変な登場人物は、奈々村久生で、初っ端、神がかり的に優れた探偵のような手並みを見せますが、次第にズレていって、ただのヘボな推理マニアに過ぎないという事が明らかになって行きます。 カッコつかんなあ。 とはいえ、当時の小説で、こういうキャラは、大変珍しかったと思うので、新時代の女性像として、印象に残っている読者も多いのでは。 一方、視点人物になる、光田亜利夫は、至って、常識的な人格です。 好感が持てるというほど、当人について描き込まれませんが。

  1954年から、55年にかけて起こった事件という、時代設定。 当時流行っていた音楽や映画など、時代背景について、細かく描き込まれていて、それが、この作品の質を高めていると思います。 当時の日本の風景が、どんなものだったのか、私の世代では、直接知らないのですが、黒澤明監督の映画で言うと、≪生きものの記録≫が、1954年、≪悪い奴ほどよく眠る≫が、1960年ですから、あんな感じですかねえ。

  しかし、この小説を読むと、ずっと、新しい時代のような感じがします。 出てくる時代情報は別として、雰囲気だけ感じ取るなら、1980年代に書かれた言っても、通るのでは? ≪なんとなくクリスタル≫とか、≪ノルウェイの森≫とか、そんな雰囲気。 登場人物が、妙に垢抜けているからでしょうか。

  車が二台出て来ます。 「プジョー・203」と、「ルノー・ドーフィン」。 203は、1947年登場だから、問題ないとして、ドーフィンは、1956年登場でして、この物語の時には、まだ、存在していません。 「ルノー・4CV」なら、1946年登場だから、分かるのですがね。 時代考証はさておき、音楽と言い、車といい、作者は、相当には、フランス好きだったようですな。 ちなみに、車の形を、ネットで確認すると、大昔の物語である事が、改めて分かります。




≪匣の中の失楽≫

講談社文庫
講談社 2015年12月15日/初版 2017年5月9日/5版
竹本健治 著

  沼津図書館になくて、三島図書館までバイクで出かけて行って、借りて来たもの。 文庫で、776ページ。 厚みが、3センチくらいあります。 開架にありましたが、借りる人が少ないのか、綺麗な本でした。 「匣」は、「はこ」と読みます。

  1977年(昭和52年)4月から、1978年2月まで、「幻影城」に連載されたもの。 日本の探偵・推理小説界に於ける、「三大奇書」に並べて、「四大奇書」というと、この作品が入るそうです。 作者が、大学在学中、23歳の時に書いたデビュー作というから、驚きですな。 デビュー作で、長編を連載というのは、そんなリスクを冒す編集部はないと思うので、完成した作品を、分載したのではないかと思います。


  バラバラの学校に在籍する大学生達を中心とした、12人の推理小説趣味のグループがあった。 双子の中学生の一人、ナイルズが、実際のメンバーを登場人物にした推理小説を書いて、披露するが、それと並行するように、メンバー内で密室死事件が連続する。 現実と小説世界が入れ代わったり、一方が一方を包み込んだりしながら、メンバーによる推理が戦わされる話。

  我ながら、苦しい梗概だな。 こういう作品の梗概をうまく書ける人って、いるのだろうか? 正直なところ、「梗概なんて読んでないで、作品そのものを読め!」と言いたい気持ちで一杯なのですが、この小説を、読み通せるのは、そこそこ、読書歴がある人に限られると思われ、薦めても、冒頭だけで断念してしまう人が多いかもしれませんねえ。 特に、読書離れが進んだ、現在では。

  ネタバレさせなければ、感想が書けない種類の作品ですが、ネタバレの前に、断っておく事があります。 まず、いきなり、読むなという事。 この作品を読む前に、「三大奇書」を読んでおかないと、この作品の存在意義が分からず、読み通せなくなってしまう恐れがあります。 【黒死館殺人事件】は、全部読まなくても、大体、どういうものか分かれば、それで充分ですが、【ドグラ・マグラ】と、【虚無への供物】は、全部、読んでおいた方がいいです。

  とりわけ、【虚無への供物】は、この作品から見て、オマージュの対象になっているので、重要。 しかし、【虚無への供物】を理解するには、【ドグラ・マグラ】を読んでいる必要があるから、結局、二作は、読まねばならないわけだ。 三大奇書を素通りして、この作品だけ読んでも、意味がない・・・、とまでは言いませんが、意義がないのは、確実。

  次の注意事項は、「途中で、迷子になったような不安に襲われても、放棄するな」という事です。 第二章に入って、すぐに、不安の増大が始まると思いますが、大丈夫。 この作者は、ただ、読者を路頭に迷わせるような、無責任な人ではありません。 その不安は、ゾクゾク感の代わりだと思って、読み進めていけば、最終的に、鮮やかに取り払ってもらえます。 作者が若い時に書いたデビュー作だからと言って、「好き勝手に書きっ放しで、感じ取り方は、読者に丸投げ」などといういい加減なものでは、全くないです。 結構は、これ以上ないくらい、しっかりしています。

  次。 大学生は、まあ、いいとして、中学生が出て来て、非常に重要な役所を担うので、「子供の話」と、見くびってしまうとしたら、勿体ないです。 別に、大学生を社会人に置き換え、中学生を大学生に置き換えても、概ね、成立する話でして、「こんな中学生は、いない」などと、登場人物の年齢にケチをつけるのは、詮ない事です。

  この設定年齢は、作者自身が、執筆時、大学生だったから、致し方ないのです。 大学生が、社会人を主な登場人物にした小説を書いても、社会経験がない事は、如何ともし難いですから、どうしても、薄っぺらく、リアリティーのない話になってしまいます。 それを避ける為には、大学生と中学生の話にせざるを得なかったわけだ。 ちなみに、メンバーの中に、一人だけ、社会人の女性が出て来ますが、その人の人格は、あまり、細かく描きこまれていません。 作者に、「知らない事は、書かない」というポリシーがあったのではないかと思います。

  作者自身が、中学生の頃、ナイルズのような少年だったのかも知れませんな。 「こんな中学生」は、「いた」わけだ。 人それぞれ、知能、才能、知識、教養は、違いがあるから、そういう人がいても、あからさまに否定するほど、驚く事はないです。 そもそも、大学生で、こんな作品を書いた人がいるという事実が、驚きではありませんか。


  以下、ネタバレ、あり。 すでに、この作品を読んだ人。 または、今後とも、読む気がない人。 もしくは、いつかは読むかも知れないが、その頃には、こんな他人の感想文なんて、すっかり、打ち忘れているだろうと思う人だけ、読んで下さい。

  序章と、終章を除き、五章で構成されていますが、奇数章で起こった事が、事実。 偶数章で起こった事は、小説内小説です。 これは、はっきりしていて、「どれもこれも、みんな小説内小説なのでは?」と疑いを抱く気持ちは分かりますが、それは、錯覚です。 だから、不安を感じても、放棄せずに、先に進めというのよ。

  小説内小説を、サンドイッチ式に挟んでいる体裁は、読者に、犯人を分かり難くさせる術策でして、巧妙といえば、驚異的なほどに、巧妙。 分かり難くさせるにも程があり、もはや、露悪的な分かり難さになってしまっている、という気もしますが、変格推理小説を読み込んでいる読者なら、むしろ、この分かり難さを、歓迎するかも知れません。


  次に、考えてみれば、当然の事なのですが、本格・変格に関係なく、確実に、推理小説なのですから、黒魔術や占星術など、どんなに、胡散臭い小道具が使われていても、断じて、オカルトではありません。 つまり、それらの小道具は、読者に、ゾクゾク感を与える為の、舞台背景のようなものなのです。 ちなみに、オカルト風の要素を、一切無視しても、ストーリーを理解するのに、何の問題もありません。


  次。 衒学趣味。 その部分は、【黒死館殺人事件】へのオマージュだと思います。 登場人物達の大学での専攻が、バラエティーに富んでいるので、それぞれ、専門分野について、薀蓄をべらべら喋りまくります。 興味があれば、読んでもいいですが、読まなくても、ストーリーを理解するのに、何の問題もありません。 だから、ただの、【黒死館殺人事件】へのオマージュだって言っているじゃないですか。

  これらの薀蓄には、作者の竹本さんと、小栗虫太郎さんの共通点が窺えます。 探偵・推理小説の読者という人種が、基本的に、文系で、自然科学が苦手。 理系的な知識が決定的に欠けていて、劣等意識を抱いている。 だから、理系的薀蓄をこれでもかというくらい、並べてやれば、それだけで、畏れ入ってしまう。 自分の理解を超える、大変な傑作なのではないかと思い込む。 二人とも、その事を、よく分かっていたんですな。

  【黒死館殺人事件】同様、これらの薀蓄には、それぞれ、ネタ本があったと思われます。 自然科学の入門書シリーズに、ブルー・ブックスというのがありますが、あの手の本を、参照しまくったんじゃないでしょうか。 逆に考えると、ネタ本さえ揃えれば、衒学的薀蓄を盛り込んだ推理小説は、誰でも書けるという事になりますが、本に頼らなくても、大体の知識が頭に入っている人でないと、作中の適所に盛り込むのは、難しいでしょう。

  【黒死館殺人事件】にせよ、この作品にせよ、発表されて、世間に衝撃を与えた後、類似作を、新人賞に応募して来たり、編集者に持ち込んだりする者が、どっと出たと思われますが、おそらく、衒学的薀蓄ばかり羅列した、生煮え料理みたいな、スカ作品ばかりで、それを読まされた編集者は、発熱して、寝込んだに違いありません。 そんなに安直に、四大奇書レベルの作品は、書けますまい。

  衒学趣味は、取り扱い注意の危険物のようなもので、作中で、うまく活かせられた例の方が少ないです。 そもそも、【黒死館殺人事件】にしてからが、盛り込み過ぎで、失敗しているという見方もできます。 この作品に使われている薀蓄は、時代が新しい分、現代まで繋がっている、有効期限内の学識がほとんどで、【黒死館殺人事件】のそれよりは、違和感が少ないです。


  最後に、この作品で、最も、分かり難いのは、動機です。 密室死が、現実のものだけで、三件起こります。 きっかけになるのは、もちろん、第一の密室死ですが、メインは、第二で、第三は、第二の反応として起こったものになります。 第一の事件の動機は、問うても詮ない事ですし、第三の事件の動機は、ありふれた復讐だから、それらは、スルーするとして・・・。

  第二の事件の動機は、大変、特殊なもので、「そんな事で、人を殺すのか?」と思わずにはいられません。 しかし、この推理小説マニアばかりのグループというのが、存在自体、病的でして、メンバーが死んでも、悼むのもそこそこに、推理比べに現つを抜かす有様。 「こういう連中なら、やるかも知れない」と思わせる事で、リアリティーを補い、成立させています。 強引ですが、読者を納得させてしまえば、作者の勝ちですから、これも、小説術の内なんでしょうな。


  「反推理小説」の代表作と言われているそうですが、「反推理小説」という言葉自体が、意味的に宙ぶらりんで、どういうカテゴリーを指しているのか、よく分からないので、それについては、述べません。 推理小説の主な読者である、傍流文系の面々が、構成が複雑で、分かり難い作品を、みんな、「反推理小説」や「変格物」という名の押入れへ押し込んでいるだけなのでは?

  構造そのものが、推理小説になっているという意味なら、【そして誰もいなくなった】や【アクロイド殺し】、【ドグラ・マグラ】、【虚無への供物】、それに、この作品などが、本当の推理小説であって、「反」などと言うのは、間違っている。 そういう人達は、トリックや謎など、推理小説の要素を、普通の小説の中に嵌め込んだ作品を、本格物や、社会派として、主流と見做しているのでしょうが、「推理小説としての度合い」から見れば、それらの主流作品は、レベルが低いと思います。 レベルが低いものの方が、読者の数が桁違いに多いのは、残念至極。


  竹本さんが、「三大奇書」の作者達と違うのは、その後も、長編推理小説を書き続けているという事です。 その後の作品を、読んでみたいような、みたくないような、複雑な気分ですな。 読んでみたくないというのは、もし、この作品以上のものを書き続けていたら、私ごときの読者では、受け止めきれないほどの驚異ですし、その逆だったら、ガッカリしてしまうでしょうから。


  【匳の中の失楽】という、21ページの短編が、オマケについています。 「匳」は、「こばこ」と読みます。 【匣の中の失楽】のサイド・ストーリーで、ナイルズと曳間のやり取りでなり立っています。 一応、変格推理物ですが、ささやか過ぎて、読んだら、すぐに忘れてしまいそうな内容。




  以上、四冊です。 読んだ期間は、去年、つまり、2021年の、

≪【「新青年」版】 黒死館殺人事件≫が、10月7日から、11日。
≪夢野久作全集4 ドグラ・マグラ≫が、10月12日から、15日。
≪虚無への供物≫が、10月21日から、23日まで。
≪匣の中の失楽≫が、10月24日から、28日まで。

  今回は、期せずして、四大奇書が、そっくり、収まりましたな。 別に、計算して、調整したわけではないんですが。 この4作を読んだ事は、結構、刺激的な経験だったので、感想も気合が入っていて、特に、付け加える事はありません。 三島図書館に通ったのは、久しぶり。 自転車で行く自信がなく、バイクで、プチ・ツーリング代わりに、出向きました。

2022/01/09

読書感想文・蔵出し (83)

  読書感想文です。 例によって、他に書きたい事もないので、蔵出しを片付けてしまいます。





≪まぼろしの怪人≫

角川文庫
角川書店 1979年6月20日/初版 1979年6月30日/2版
横溝正史 著

  2021年8月に、アマゾンで買った本。 送料無料、358円のところ、アマゾン・ポイントを使って、353円でした。 安い方です。 横溝作品の角川文庫・旧版の中では、87番目で、少年向けの、長編1作を収録。


【まぼろしの怪人】 約246ページ
 解説には、作品データなし。 ネット情報では、1958年1月から、1959年3月まで、「中一コース」に連載されたとの事。


  変装の名人、「まぼろしの怪人」が、巷で話題になっている高価な宝石を狙う。 新日報社の探偵小僧、御子柴進、花形記者、三津木俊介、社長の娘、由紀子、警視庁の等々力警部らが協力し、何度も逮捕するが、部下が暗躍して、何度も脱獄させてしまう話。

  大掴み過ぎますが、4章に分かれていて、それぞれ、ストーリーが異なるので、こんな梗概にならざるを得ないのです。

第1章 社長宅の怪事件
第2章 魔の紅玉
第3章 まぼろしの少年
第4章 ささやく人形

  シリーズ物なわけですから、長編と呼ぶのは、間違いかも知れませんな。 探偵側と犯人側が共通しているというだけで、4話とも、互いに無関係な話です。 第4章に至っては、まぼろしの怪人は、共犯者に過ぎず、添え物みたいな扱いです。 変装の名人で、部下がいるという設定はしたものの、細部の人格まで決めずに書き始めたせいか、イメージが膨らまなかったのかも知れませんな。

  対象年齢レベルが近いのは、【怪盗X・Y・Z】(1960~61年)で、そちらは、「中二コース」に連載されたので、掲載誌も近い関係にあります。 【怪盗X・Y・Z】は、角川文庫旧版では、大人向けと同じく、背表紙が黒地に緑文字になっていて、通し番号としては、少年向けなのに、別格扱いになっています。 内容的には、【迷宮の扉】の方が、大人向けに近いのですが、それが、黒地に黄文字で、完全な少年向けになっているのは、ちと、統一性に欠けます。

  【まぼろしの怪人】は、犯人が、何となく、憎めないという点でも、【怪盗X・Y・Z】に近いです。 遡れば、【白蝋仮面】から始まる、ダーク・ヒーローの系譜を継いでいるのかも知れませんが、それにしては、キャラの描き込みが薄っぺらい。 横溝さん本人が、この種のキャラに、もう、興味がなくなっていたのかも知れませんな。

  この作品も、よくあるモチーフを組み合わせて作られている点は、他の少年向け作品と同じですが、発表年が遅いだけあって、モチーフの内容が、戦後の大人向け作品で使われたものに切り替わっています。 大人向け作品で陳腐化してしまったモチーフを、順次、少年向けに払い下げて行ったわけですな。 戦前のモチーフだと、地下通路で水攻めとか、軽気球で脱出とか、隅田川で追撃戦とかがありますが、そういうものは、この作品では、もう使われておらず、金田一物から拾ったモチーフが、ちらほら出て来ます。

  小学生向けよりも、幾分、レベルが高いとは言うものの、大人が読んで、ゾクゾクするほど、面白いというものではないです。 その点、【怪盗X・Y・Z】や【迷宮の扉】に及びません。




≪波の塔≫

カッパ・ノベルズ
光文社 1960年6月30日/初版 1960年7月5日/8版
松本清張 著

  家にあった、母所有の本。 私が生まれるより、前の本です。 この頃のカッパ・ノベルズには、紐栞が付いていたんですな。 新書版の二段組みで、長編1作を収録。

  この本、母が若い頃、友人から貰ったとの事。 母は知ってか知らずか、乱丁本で、48ページまで行くと、次が、33ページに戻ってしまいます。 つまり、33ページから、48ページまでが、二重になっているのです。 他に、その友人から貰った本がないので、それが原因で、くれたのかも知れません。 落丁ではないから、内容を知る分には、差し支えありません。

  ちなみに、【波の塔】は、文藝春秋の、≪松本清張全集≫にも収録されていて、第18巻です。 沼津の図書館にもあるのですが、この本が家にある事が分かっていたので、そちらは、借りませんでした。


【波の塔】 約466ページ
  1959年(昭和34年)5月から、1960年6月まで、「女性自身」に連載されたもの。


  中央官庁の局長の娘、田沢輪香子は、女子大を卒業後、一人旅に出た先で、小野木喬夫という青年に出会う。 その後、深大寺で、再会するが、その時、小野木には、妻とは思えない女性の連れがあった。 小野木は、なりたての検事だったが、劇場でたまたま出会った人妻、結城頼子と交際するようになっていた。 やがて、地検特捜部に呼ばれ、大きな贈収賄事件の捜査に加わるが、その容疑者の一人が、結城という名前で・・・、という話。

  家に本がある事が分かっていながら、読むのを敬遠していたのは、恋愛小説だと、解説文にあったからです。 しかし、読み始めたら、恋愛と言っても、大人の恋愛で、恋愛小説によくある、現実離れした青臭・アホ臭いものではありませんでした。 考えてみれば、松本さんが、そんなもの、書くわきゃありませんな。

  三人称の群像劇。 紛らわしいですが、冒頭に出て来る、田沢輪香子は、恋愛をする当事者ではありません。 彼女が、前面から後退した時点で、頭を切り替えないと、「輪香子は、どこに行ったのだろう?」と、落ち着かない読書を強いられる事になります。 その後も、ちょこちょこ出て来ますが、ただの脇役で、狂言回しですらないです。

  不正な事を生業にしている上に、外に女を何人も作っている夫との生活に、絶望的な気分になっていた妻が、たまたま知り合った、前途有望な青年検事と恋愛関係になり、相手の将来に害を及ぼす恐れがある事を予感しつつも、別れられずに、とうとう、最悪の事態に至ってしまうという、救われない話。

  「悲劇」ではありますが、「悲恋」と美化するには、些か、性質が悪いところがあります。 ヒロインの頼子は、自分の夫が犯罪に関わっている事を知っていたにも拘らず、検事である小野木と不倫関係になっており、いずれ、離婚して、小野木の元に走るつもりであったにせよ、もし離婚前に、それが露顕したら、小野木の立場がまずい事になるのは、予想できたはず。 しかも、自分よりも、小野木の人生にとって、致命的な躓きになる事も知っていたはず。

  片や、小野木の方も、頼子が、自分が何者であるかを言えない人間である事を知った時点で、距離を置いていれば、こんな目に遭わずに済んだのであって、検事になるような人物にしては、思慮が浅いと謗られても、返す言葉がありますまい。 まだ、20代後半なので、若気の至りと言ってしまえば、それまでですが、女性関係・金銭関係の問題が、危ないという事は、子供でも分かる事だと思います。

「そんな事は承知の上で、突き進んでしまうのが、恋愛というものなのだ」

  嘘です。 たとえ、一目惚れであっても、いきなり忽ち、のっぴきならないほど、深く愛するなどという事はないのであって、必ず、相手を観察する期間があります。 そういう期間がないというのは、もはや、ケダモノの世界でしょう。 交際相手を決めるのに、観察期間を置かなかったというのは、少なくとも、検事という職にある小野木については、言いわけが利きません。

  小野木は、自分が捜査している相手が、頼子の夫だったという事を、クライマックスに知るのですが、「それまでは、知らなかったのだから、仕方がない」では済まないのが、検事という職種なのです。 その後、小野木に下された処分は、妥当と言わざるを得ません。 こんな、身辺を律する事もできない、検事に向かない男を、特捜部に入れてしまったのは、上司の失態と言えない事もないですが、それこそ、知らなかったのだから、致し方ないです。

  小野木と頼子という、恋愛小説の中心人物が、どちらも、人格的に感心しないので、まともな感覚を持った読者は、どうしても、この二人の主人公を、突き放して見る事になります。 共感など、とても、できません。 また、松本さん自身も、この美形の若い二人の存在を、忌々しく思っているような匂いが感じられます。 「こんなやつらは、ひどい目に遭わせてやれ」と、作者が望んでいるような・・・。

  頼子の末路も、悲恋の果ての結末と美化するのが、大いに、ためらわれます。 こりゃ、地元の人に、大迷惑でしょう。 なぜ、わざわざ、そんな所に行くのか? 自分の家でやればいいのに。 つくづく、思慮の浅い女です。 こうなると、外見がいいなんて、何の価値もありませんな。 ただ、そういう顔貌をしているというだけで、中身は、ただの馬鹿女ではありませんか。


  頼子の夫、結城が、妻の不倫の証拠を得る為に、山梨の温泉に調査に出向く件りがあり、そこは、推理小説仕立てになっています。  倒叙法なので、読者側は、すでに真相を知っており、さほど、面白くはありません。 【点と線】(1957年)が高い評価を受けて、間もない頃に書かれた作品ですから、編集者の方から、推理小説の要素を入れてくれと、頼まれたのかも知れませんな。 ちなみに、【聞かなかった場所】(1970年)の前半は、後年になって、この部分を焼き直したものだと思います。


  田沢輪香子ですが、冒頭、一人旅に出る際に、父親が、地方の官庁に手を回し、旅館の手配や、送り迎えをさせる件りがあります。 まるで、上流階級のお嬢様。 ところが、この父親、中央官庁の高官ではあるものの、サラリーマンに過ぎず、給料の高は限られているくせに、付き合いの出費が多くて、家計は火の車。 窮した妻が、業者が賄賂として置いて行った金に手をつけてしまい、結局、それなりの報いを受けます。

  田沢家全体が、脇役なのですが、禍福のバランスをとってあるところが、面白いです。 最初、持ち上げておいて、最後に、地獄に突き落とすところは、松本さんらしいやり方ですな。 高級官僚だというだけで、特権階級のような生活をしている連中に、煮え湯を飲ませてやりたかったのではないかと思います。


  ↑ これは、挿絵です。 雑誌連載時のものを、カッパ・ノベルズ版でも入れたようです。 すっごい、簡単な絵。 驚くほどです。 目次の末尾に、「カット 森田元子」とあります。 こういう絵だけ描いていたのでは、どんな種類の画家にもなれないと思いますから、たぶん、挿絵の仕事だけ、こういう簡単な絵にしていたのだと思います。




≪松本清張全集 27・28 天保図録 上・下≫

松本清張全集 27
 1973年10月20日/初版 2008年7月25日/8版
松本清張全集 28
 1973年11月20日/初版 2008年7月25日/8版
文藝春秋
松本清張 著

  沼津市立図書館にあった本。 ハード・カバー全集の内の、二冊。 二段組みで、長編1作を収録。


【天保図録】 約901ページ (あとがき含む)
  1962年(昭和37年)4月13日号から、1964年12月25日号まで、「週刊朝日」に連載されたもの。


  大御所(11代将軍、徳川家斉)亡き後、ようやく、実権を手にした、12代将軍、家慶だったが、政治に興味は薄く、筆頭老中の水野忠邦に、全てを任せていた。 水野は、天保の改革を実行に移して、身分を問わず、質素倹約を奨励すると同時に、異国船対策や、印旛沼の開鑿工事に乗り出す。 水野の手足として動いていた鳥居耀蔵は、策を巡らして、南町奉行の職に就き、厳しい警察社会を作り上げるが・・・、という話。

  タイトルは、いっそ、「天保の改革」にしてしまった方がいいと思うくらい、天保の改革そのものを描いています。 しかし、それでは、小説として、面白みに欠けるので、本庄茂平次という極悪人を出して、彼が関係する生々しい事件を、並行して書き進めています。 【かげろう絵図】と違うのは、善玉側のヒーローがいない事です。 前半には、それっぽい人物が出て来ますが、話の軸からは遠くにいて、後半では、ほとんど、出て来なくなります。

  うまい汁を吸う為に、鳥居の家来に潜り込んだ本庄茂平次は、人を騙す才に長けている上、人殺しも平気でする男。 登場人物の中では、最も露出が多くて、この男だけに注目すると、ピカレスクのようにも読めます。 しかし、最終的には、善悪バランスがとられるので、ピカレスクとは言えません。 ちなみ、本庄茂平次、この小説を読んだだけでは、架空の人物としか思えないのですが、意外存外、実在の人物でして、「護持院原仇討(ごじいんがはらのあだうち)」という、歴史的事件に、名を残しています。 討たれる方ですけど。

  水野忠邦は、理想があって、それを実現する為に、わざわざ、知行地を石高の少ない土地に移ってまで、出世の資格を得、筆頭老中になります。 結局、うまく行かないのですが、目的があってやった事だから、歴史を読む者の立場から見れば、理解はできます。 質素倹約を押し付けられた、当時の民衆は、大迷惑だったでしょうけど。

  一方、理解し難いのは、鳥居耀蔵でして、出世欲が強いだけで、何の理想も持っていない様子。 元が、儒学の林家の出身で、蘭学が大嫌い。 そのせいで、欧米の技術を取り入れよと言う者達を、取り締まりまくるのですが、そんな事をすれば、ますます、異国対策ができなくなるのであって、自分の国の首を絞めているようなものです。 鳥居本人に、異国対策や、経済立て直し策があったわけではないようで、為政者としては、完全に失格です。

  ところが、この男、失脚しても、全く懲りず、幽閉状態で、明治まで生き延びて、「自分の言う通りにしないから、幕府は滅びた」などと、うそぶいていたらしいです。 ただただ保守的で、ライバルを蹴落とす以外に能がなかったくせに、呆れた不心得者ですな。 現代の組織でも、一見、頭が切れて、周囲からは、仕事ができるように思われているが、裏では不正ばかりしているという人間がいますが、その類いの人物だったわけだ。

  ただし、水野が、鳥居を使わなかったとしても、やはり、天保の改革は、失敗したと思います。 経済の建て直しに関しては、ゆっくり進めれば、うまく行ったかもしれませんが、異国船対策は、相手が待ってくれません。 家慶は虚弱で、いつ代替わりになるか分からず、水野が筆頭老中として力を使えるのは、限られた期間でしかないと分かっていたから、急がざるを得なかったんでしょうな。 そして、失敗したと。 君主制の場合、代を跨ぐような長期政策はとれないから、大きな事業は、伸るか反るかの賭けになってしまうわけだ。

  大変、長いですが、それは、天保の改革の解説が多いからで、その部分、特に興味がないのなら、読み飛ばしても、問題ありません。 理の当然ですが、興味がないのでは、どうせ、読んでも、頭に残りませんから。 私も、その一人です。 興味がある人だけ、全ての文字を読めばいいのではないでしょうか。




≪松本清張全集 52・53・54 西海道談綺 一・二・三≫

松本清張全集 52
 1983年9月25日/初版 2008年10月25日/4版
松本清張全集 53
 1983年10月25日/初版 2008年11月10日/4版
松本清張全集 54
 1983年11月25日/初版 2008年11月10日/4版
文藝春秋
松本清張 著

  沼津市立図書館にあった本。 ハード・カバー全集の内の、三冊。 二段組みで、長編1作を収録。


【西海道談綺】 約1255ページ (「西海道談綺」紀行を含む)
  1971年(昭和44年)5月17日号から、1976年5月6日号まで、「週刊文春」に連載されたもの。


  妻と不義を働いた藩の上役を斬り、妻を金山の廃坑に置き去りにして、江戸へ向かった伊丹恵之助。 途中、信州・奈良井宿にさしかかり、本陣の取り合いで、不利になっていた小藩を助けてやったが、その縁で、徳川幕府で力をもつ茶坊主、北条宗全と懇意になる。 宗全の勧めで、直参の家に養子に入り、太田と姓が変わる。 程なく、宗全の指示で、九州の日田にある西国郡代に、次官として勤める事になるが、それは、実質的な隠密仕事で、変死した前任者について調べるのが目的だった。

  これだけでは、話の枕に過ぎませんが、西国郡代に赴き、公務の合間に、調査を始めると、やがて、恵之助は、後景に立ち退いてしまい、群像劇になって行きます。 視点人物は、定まらなくなり、個々の心理描写も、ほとんど、なくなって行きます。 心理描写の代わりに、会話で、「他人から見た心理」が描かれますが、お世辞にも、いい手法とは思えませんな。

  舞台が、山の中に移って以後は、似たようなパターンが繰り返されます。 悪党一味が、女をさらって逃げ、善玉がそれを追うが、味方が敵になったり、敵が味方になったりして、なかなか、決着がつかない。 全体の3分の2は、山の中で、そんな事をやっているだけで、長編のストーリーとしては、全く感心しません。 時代小説というより、冒険物に近いですが、これを冒険物と呼んだら、冒険物を真面目に書いている作家が怒るでしょう。 ただただ、ダラダラと引き延ばしているだけのように見えます。 刈り込めば、3分の1の長さで、書ける話ですな。

  引き延ばしている疑いがあるのは、説明がダブる部分が大変多い事で、分かります。 たとえば、まず、AとB二名に起こった事が書かれる。 その後、CとD二名が、AとB二名に起こった事を推量する会話が交わされる。 読者は、すでに知っている事をもう一度、説明される事になります。 これは、くどいわ。 後半は、そんな事が、いくらも出て来ます。

  もしかすると、「連載が好評なので、なるべく、引き延ばしてください」と、編集者側から要求されていたのかも知れませんな。 当時、「松本清張作品が、連載中」となれば、週刊誌が売れたのは確実で、内容を水増ししたって、文句は出ないと、編集側が踏んでいたのかも知れません。 それは、作家にとっては、読者の信用を失いかねない、危険な事なのですが。

  恵之助の他に、使用人の嘉助。 恵之助を慕って、日田までやってくる芸者、おえん。 昔馴染みの山師、甚兵衛。 その連れの女、お島。 郡代で、相役の、向井。 配下の、浜島。 山伏の首領、秀観。 といったところが、主な顔ぶれ。 恵之助の後は、向井、その後は、浜島と秀観が、中心人物になります。

  とりわけ、向井は、しぶといなあ。 棺桶に半身突っ込んだような健康状態で、ラスト近くまで、出没します。 後ろの方なんて、もはや、人間というより、生ける怨霊という感じ。 おえんに対する、性欲だけに、突き動かされているわけですが、自分の命より、女が大事というのだから、根本的に、大きな間違いをやらかしているとしか言いようがありません。

  山伏の首領、秀観も同じで、これまた、おえんを自分の女にしたくて、居ても立ってもいられない。 性欲だけで、生きている感じ。 おえんは、いい女という事になっていますが、おえんばかりが、女でもあるまいに、これは、どうした事か。 長い間、山の中に、男ばかりで暮らしているものだから、たまに、垢抜けた江戸の芸者なんか見ると、途轍もなく、いい女に見えてしまうのでしょうか。

  お島は、謎めいた女という設定で出て来ますが、特に勘のいい人でなくても、この長い小説を読むくらい、物語に慣れている人なら、すぐに、誰だか、正体が分かります。 他にいないだろう、というくらい、見え見え。 そもそも、主な登場人物に限ると、女は、二人しか出て来ないものね。

  使用人の嘉助は、江戸っ子で、お調子者である上に、頭は切れる、すばしっこいと、好感の持てるキャラクターです。 前半では、大活躍しますが、後半、山師の甚兵衛と交代する格好で、出番がなくなってしまうのは、残念。 向井や、浜島について、ページ数を使い過ぎているのであって、もっと、バランスを取った方が、面白くなったのに。


  私、この話、1983年に、ドラマ化された時に、見ています。 恵之助役は、松平健さんでした。 しかし、覚えていたのは、本陣争いの場面だけです。 舞台が日田に移ってからの本体部分は、綺麗さっぱり忘れて、何の話だったのかも、記憶していませんでした。 原作でも、一番面白いのは、本陣争いの場面で、他は、ちっとも、心に響きません。

  ヒーロー的主人公を避けようとする気持ちが、松本さんにあったのか、恵之助を視点人物から外したから、つまらなくなってしまったのですよ。 悪玉側を細々と描かれても、読者は困ってしまいます。 ちなみに、刀を使った斬り合い場面は、ほとんど、ないので、普通の時代小説を期待している向きには、薦められません。




  以上、四冊です。 読んだ期間は、去年、つまり、2021年の、

≪まぼろしの怪人≫が、8月30日から、9月13日。
≪波の塔≫が、9月14日。
≪松本清張全集 27・28 天保図録 上・下≫が、9月17日から、24日まで。
≪松本清張全集 52・53・54 西海道談綺 一・二・三≫が、9月30日から、10月5日まで。

  ≪松本清張全集≫を、ようやく、読み終わりました。 読み始めたのが、2020年の3月からなので、1年7ヵ月もかかって、読み終えた事になります。 以前、「読み終わったら、総合的な感想を書く」と予告したような気がしますが、読書期間が、あまりにも長期に亘ったせいか、統一した感想というのは、書けなくなってしまいました。 で、大雑把な事だけにします。

  松本清張さんは、間違いなく、過去に日本で生まれた小説家の内、五指に入ると思いますが、特徴が際立っている作風で、他の作家が手本にするような人ではないと思います。 これだけの実績を遺されると、真似したくたって、真似ができんでしょう。 実際には、60年代初頭から、70年代前半にかけて、松本さんの作風を真似た、「社会派」を名乗る推理作家が、何人も出てきたようですが、ほとんど、消え去っています。

  そもそも、松本さんが、社会派だったのかどうかも、疑問。 社会派風の作品も書いたという程度の事なのでは? 一番有名なのは、【砂の器】ですが、それは、映画が有名なのであって、原作は、さほど、面白くはないです。 原作からして面白いというと、【点と線】で、推理小説としての完成度は、ダントツ。 しかし、60年代以降に書かれた、【わるいやつら】のような作品の方が、松本さんらしさは強い感じがしますねえ。

  他に、時代物や、歴史物がありますが、そちらは、松本さん本人が好きだったから、書いたというだけで、専業作家のそれと比べて、特に面白いという作品はありません。 時代小説は、短編は面白いです。 長くなるほど、冗漫になります。 推理小説で名を売った人なのに、意外なようですが、捕物帳は、押し並べて、出来が悪いです。 枠に嵌まった捕物帳にしたくないという気は分かるのですが、謎解きだけ、目明しが語る形式は、およそ、ストーリーとして盛り上がりません。

  松本清張さんを、「天才」と見るか、「努力の人」と見るかですが、息子さんが言っているように、「努力の天才」という評価が、最も当たっているのでは? これは、「努力した結果、天才になった」という意味ではなく、「努力する事に対して、天才を発揮した」という意味です。

2022/01/02

読書感想文・蔵出し (82)

  読書感想文です。 新年早々、こんなシリーズもなんですが、他に書きたい事もないので、蔵出しを片付けてしまおうと思います。





≪松本清張全集 24 無宿人別帳・彩色江戸切絵図・紅刷り江戸噂≫

松本清張全集 24
文藝春秋 1972年10月20日/初版 2008年7月5日/8版
松本清張 著

  沼津市立図書館にあった本。 ハード・カバー全集の一冊。  二段組みで、短編集3、短編合計、22作を収録。


【無宿人別帳】
  1957年(昭和32年)9月から、1958年3月まで、「オール読物」に連載されたもの。


「町の島帰り」 約19ページ
  ある目明しが、料理屋の中居に目をつけたが、女には、惚れた男がいた。 目明しは、その男に濡れ衣を着せて、島送りにしてしまったが、女は目明しを近づけようとしなかった。 やがて、男は、御赦免で戻って来るが、目明しは、その奉公先に、島帰りの前科者という情報を流し、男は勤める先々で、クビになってしまう。 音を上げた女が、ようやく、目明しに靡きそうになった時に・・・、という話。

  たかが横恋慕で、二人の人間を破滅させてしまうのは、恐ろしい事ですが、これが、人間の欲というものなのでしょう。 自分の得になるのなら、他人が何人死んでも、屁でもないんだわ。 この目明し、おそらく、他でも、何人、何十人という他人を、死に追いやっているはず。

  善悪バランスがとられますが、その罰は、露悪的なだけで、全然、足りません。 最後に、「○○が、死体となって発見されたのは、翌朝の事だった」という一行が欲しいところ。


「海嘯(つなみ)」 約17ページ
  無宿人だというだけで、捕まって、人足寄せ場に送られた、浜生まれの男。 仲間に誘われて、脱走を決意した矢先、高潮の前哨である雲を見る。 高潮が押し寄せて、人足寄せ場を押し流し、町の方にまで被害が及んで・・・、という話。

  うーむ。 松本さん、「高潮」と「津波」を混同していたのでは? 「海嘯」は、地震による津波にも、他の原因による高波にも使われますが、この作品に出て来るのは、明らかに高潮であって、津波ではないです。 また、雲の形を見て、高潮が予見できるのかどうか、大いに疑問。

  それはさておき、ラストが変でして、木に竹です。 印象に残るのは、視点人物ではなく、寄せ場の先輩で、「娑婆よりも、寄せ場の方が、生活が安定していている」と言い、自ら進んで居残っている人物の方。


「おのれの顔」 約15ページ
  牢に入っている顔の醜い男。 自分によく似ていて、もっと醜い新入りが気に入らず、事あるごとにいたぶっていた。 入牢者が急に増え、目立って窮屈になった結果、牢内の主だった者の間で、「5人ほど、秘かに殺そう」という相談が纏まり、その中に、醜い新入りを含めて、殺してしまおうとするが・・・、という話。

  顔の良し悪しは、畢竟、そういう形をしているというだけの事であって、ある形に近いものを、「良い」とし、遠いものを、「悪い」としているだけなのですが、その程度の問題に過ぎない、顔のせいで、殺されたのではたまったものではないです。 しかも、同じように、顔が悪い奴に計られたのでは、ますます、たまったものではない。

  善悪バランスがとられますが、それも、顔が原因で、とことん、顔の悪さを問題にしています。 他の時代物短編でも、同じテーマの作品がありましたが、そのあとがきでは、松本さん自身が、顔が悪いと言われていたから、そういう作品を書いたとありました。 しかし、松本さんを顔で評価する人がいたら、そいつは、只のアホでしょう。


「逃亡」 約17ページ
  佐渡金山に、水替え人足として、送り込まれてしまった男。 仲間が、休みなく扱き使われ、死んで行くのを見て、脱走計画に乗る。 宿舎から、金鉱への移動中に、20人の人足で、2人の役人を殺し、3組に分かれて、舟のある浜を目指すが・・・、という話。

  「舟を複数、確保するのは、無理」と考え、仲間を騙して人数を減らして行く、計画首謀者の算段が、あざとい。 しかし、これが人間というものなのでしょう。 一応、善悪バランスがとられますが、捕まった仲間は、斬罪になった可能性が高く、この程度では、浮かばれますまい。


「俺は知らない」 約17ページ
  無実なのに、質屋に強盗に入った咎で、牢に入れられてしまった男。 外に出たいばかりに、牢破りを企てている連中を、役人に密告し、その褒美として、解き放たれる。 自分を陥れた真犯人に復讐するが、その後、ある人物から声をかけられ・・・、という話。

  二段構えのストーリー展開。 騙されて、質屋強盗の犯人にされてしまうのが一段目。 真犯人を懲らしめる為に、牢から外に出る手段を選ばなかったせいで、大勢の犠牲者を出し、恨みを買うというのが、二段目。 最悪の境遇に陥った人間は、そこから脱する為には、他人の迷惑なんか考えないんですな。 「俺は知らない」では済まない次元の、大迷惑だったわけですが。


「夜の足音」 約17ページ
  ある無宿人、目明しに勧められて、商家の出戻り娘の、夜の相手をする事になる。 いい金になったが、ある時、自分と娘の行為が、誰かに覗かれている事に気づき・・・、という話。

  別に、これは、無宿人だから、どうこうという話ではないです。 ただ、金回りが悪いところに付け込まれただけ。 騙した目明しには、罰が下されますが、罪に比べて、罰が大き過ぎます。 確かに、騙されたとはいえ、お金にはなったのだし、特に嫌な思いをさせられたというわけでもなく、そのまま、騙されていれば、良かったのでは?


「流人騒ぎ」 約25ページ
  八丈島に島流しになった男。 とっくに、刑期を終えているはずなのに、放免にならない。 何かの間違いではと、庄屋に訴えて、逆に、睨まれてしまう。 やがて、脱走計画が持ち上がり、それに乗るが、計画は、事前に漏れていて・・・、という話。

  前半と後半で、テーマが違っています。 前半は、役人の手抜きが原因で、刑期の満了が通知されない理不尽を描いていますが、後半は、脱走劇で、前半とは、ほぼ、関係がありません。 作家志望者が、こういうのを、編集者へ持ち込んだら、ゴミ箱直行間違いなしという、重大な欠陥。

  脱走劇の方ですが、このパターンが多いですなあ。 話を盛り上げようとすると、どうしても、脱走の展開にせざるを得ないのかも知れませんが・・・。 一般人だと、「島の女と、所帯まで持ったのなら、島に骨を埋めるつもりで、地道に生活すればいいのに」と考えるところですが、凶状持ちの面々は、そもそも、そういう真っ当な生活なんて、できないんですな。 本州に戻ったって、結局また、捕まると思うのですがねえ。


「赤猫」 約17ページ
  大火で、一時的に牢から解き放たれた無宿者。 戻るつもりでいたが、同じ牢に入っていた男と会って、その男が質屋へ押し入るのを知らぬままに、見張りをさせられたせいで、戻れなくなってしまう。 その後、よその土地へ行っていたが、江戸が恋しくなって、こっそり戻り、正業について暮らしていた。 ある時、昔、質屋から奪った着物の布で作った財布に興味を持った者がいると聞いて、一緒に牢から逃げた相手に違いないと思うが・・・、という話。

  「赤猫」というのは、牢から解き放ちになるほどの大火の事だそうです。 で、大火解き放ちの話かと思って読み進めたんですが、そちらは、単に話の枕に過ぎず、後は、ただただ、運命に転がされて行くだけの展開になります。 どうも、全体の構想を考えずに書き始めて、テキトーに繋いで行っただのように、思えますねえ。

  意外なところから、犯罪が露顕するパターンが使われていますが、着物からというのは、【書道教授】(1969年)に近いでしょうか。 十年以上、後の作品になりますが。


「左の腕」 約15ページ
  若い娘を連れた、60近い老人。 父娘で、料理屋に住み込んで働き、何とか、口を糊していた。 性質の悪い目明しが、娘に目をつけ、ちょっかいを出そうと、父親の左手にある咎人の刺青を見つけて、脅しをかける。 そんな時に、料理屋に、押し込み強盗が入り・・・、という話。

  素性を隠していた年寄りが、実は、とんでもない大物だった、というパターンの話。 【くるま宿】(1951年)と、同じ趣向。 時代小説に良くあるパターンで、松本さんらしくありません。


「雨と川の音」 約23ページ
  入牢後、仮病を使って、病人が入る別の牢へ移った男が、佐渡送りが決まっている面々に誘われて、脱走する。 その内の一人と一緒に逃げるが、相手の男の凶暴な発想のせいで、駆け落ち者の男女を相手に、強盗をせざるを得なくなり、結果、指を二本失う目に遭う。 その後、一人になり、よその土地へ逃げて、世話になったやくざ一家の跡目を継ぐ事になるが、たまたま立ち寄った温泉宿で、因縁深い、駆け落ち者の女の方を見かけ・・・、という話。

  「赤猫」と同じで、全体の構想なしに、テキトーに繋いで行ったストーリーです。 これといって、テーマはありませんが、強いて、教訓を汲み取るなら、犯罪的性向の強い人間には、近づくなという事でしょうか。 「修羅場を潜っているから、頼りになりそう」などというのは、完全な錯覚で、そういう奴が、俄かに出来た仲間を、大事にするはずがありません。 捨て駒に利用されるのがオチというわけです。



【彩色江戸切絵図】
  1964年(昭和39年)1月から、12月まで、「オール読物」に連載されたもの。

「大黒屋」 約34ページ
  ある男が、同郷の男が主をしている商家に入り浸っていたが、そこの女房に懸想して、年中、泊まり込んだり、亭主の留守に、狼藉を働こうとしていた。 その男が、死体で発見され、前々から、怪しんでいた、下っ引きが、調べを始めると、意外な事件が背後にある事が分かって来る話。

  時代小説ですが、中身は、完全に、推理物です。 しかも、本格。 トリックこそないですが、謎があり、それを、目明し達が、捜査して、解いて行きます。 前半で、殺される男の描写に枚数を使い過ぎているせいで、謎解きが前面に出て来る後半と、アンバランスになっていますが、後半のノリがいいせいか、あまり、気になりません。

  鍬の使い方は面白いですが、余った柄を、柵の代わりに、神社に寄進というのは、ちと、無理があるのでは? 寺で、鍛冶仕事の煙をごまかす為に、焚き火をしたというなら、そこで、ついでに、燃やしてしまえば良かったのに。

  私は、この柵の話を、松本さん原作の、何かの時代劇ドラマで見た事があります。 「大黒屋」というタイトルではなかったし、この作品の話とも、全然違っていましたが、部分的に、他のドラマに取り入れたのかも知れませんな。


「大山詣で」 約34ページ
  年老いた商家の主に、後妻に入った若い女。 亭主が病で、夜の方が駄目になり、浮気相手を拵えたが、大っぴらには逢えない。 で、亭主の病気平癒祈願に託けて、大山参りに出かけ、そこで、逢瀬を楽しんで来た。 ところが、ついて行った番頭と、一行の案内をした男に見られてしまい・・・、という話。

  松本作品には、珍しい。 愛欲だけが、モチーフになっています。 あくまで、モチーフであって、テーマというほどではありません。 よく考えて、構想を練ったわけではなく、なりゆき任せで作ったようなストーリーです。 愛欲場面に期待するような作品ではありません。 松本さんは、エロな設定は作るけれど、エロな描写で読ませようとは、全く考えなかった作家なのです。


「山椒魚」 約30ページ
  流行病の疱瘡に、見るだけで利くという、大きな山椒魚を使って、商売をしている男がいた。 座敷にゴロ寝の旅人宿で、自分だけ、白い飯を炊き、扱き使っている子分や、同宿人達に恵んでやる事で、威張りちらしていた。 新入りの薬屋の女房に目をつけ、口説き落とそうとしたら・・・、という話。

  少々羽振りがいいからと言って、人を人とも思わない横柄な男に、とんだ、しっぺ返しがあった、というだけの話。 別に、何の捻りもありません。


「三人の留守居役」 約25ページ
  大名の江戸留守居役は、金回りがいい事で知られていた。 三人の留守居役が、ある料理屋を訪ねて来て、芸者を呼んで遊び、芝居見物に連れて行こうとする。 用心の為に、芸者の高価な着物や、簪などを預かるが、留守居役そのものが偽者で、それを、持ち逃げされてしまう。 騙された芸者の一人が探索に出るが、行方知れずになったり、別の芸者が夜道で切りつけられたり、奇妙な事が続き、岡っ引きが、乗り出す話。

  完全に、捕物帳。 留守居役を、大企業の重役に代えれば、現代物にしても、通ります。 しかし、誉めているわけではなく、あまり、面白くないです。 捻ってはあるものの、それが、面白さに繋がらず、ただ、複雑、不自然になっているだけという感じ。


「蔵の中」 約29ページ
  ある商家。 主が、娘の婿に、使用人の一人を選んだ晩に、殺人事件が起こる。 使用人の一人が、蔵の中で殺され、もう一人が、蔵の前に掘られた大きな穴に頭を突っ込んで死んでおり、婿になるはずの男は、姿を消していたが、やがて、水死体になって発見された。 また、娘も、蔵の前の穴の中に落ちていたが、命は助かった。 岡っ引きが出張り、謎を解く話。

  これも、捕物帳。 お店の娘の取り合いで、死闘が繰り広げられるわけですが、松本作品ですから、もちろん、アクション物などではありません。 死んだ順序が鍵でして、【そして誰もいなくなった】に、近いものがあります。 もっとも、この作品では、娘と、もう一人、使用人が残るので、恐らく、ゆくゆくは、生き残った男が、婿になるんでしょうなあ。

  江戸時代の商家は、跡取りになる娘婿を選ぶのに、実力優先とは行かず、年季優先や、娘が好きな男優先と、不合理な考え方も入らざるを得なかったと思いますが、この店の主は、実力で選んだ点、評価できます。 それが、娘の想い人と違っていたのが、第一の悲劇。 他の使用人達も、黙っていなかったのが、第二の悲劇。


「女義太夫」 約28ページ
  武家の用人をしている老人から世話を受けていた女義太夫。 若い男と、懇ろになり、そちらへ鞍替えしたいが、用人が離そうとしない。 痺れを切らした若い男が、遠のいてしまい、やけになって、商家の主を相手に刃傷沙汰を起こしてしまう。 訴えられこそしなかったが、用人から縁を切られてしまい、これ幸い、労せずして、自由の身になれた事を喜ぶが・・・、という話。

  これも、現代物にしても、通ります。 単純に言えば、このヒロイン、二股がけでして、気が弱いというか、優柔不断というか、どっちつかずの態度を取っている間に、両方に逃げられてしまうという、大変、愚かなパターンです。 典型的な、虻蜂取らずですな。 ヒロインに同情できないせいもありますが、恋愛模様として、ありふれている事が大きな原因で、面白い話ではないです。



【紅刷り江戸噂】
  1967年(昭和42年)1月、「別冊宝石」に連載されたもの。

「七草粥」 約34ページ
  ある商家で、触れ売りから七草を買い、七草粥を作って食べたところ、中毒を起こし、主人と、番頭夫婦が死んだ。 毒は、トリカブトのものと分かったが、売った男は見つからず、わざと入れたのか、見間違えて入れたのかも分からなかった。 残った後妻と、手代が、店を続ける事になったが、この二人、実は・・・、という話。

  誰かが謎を解くのではなく、作者が途中で犯人をバラしてしまうパターンです。 倒叙型というのでもなく、推理小説になっていない観あり。 単なる、犯罪小説ですな。 話は、面白くないですが、江戸の人々が、七草粥を食べる様子が描かれているところが、興味を引きます。


「虎」 約28ページ
  甲府へ流れて来た、腕のいい絵職人が、鯉幟の絵を描く仕事に就く。 腕のいい職人を逃すまいとする、主人の計略で、嫁をとらされるが、早々にうんざりし、江戸へ逃げようとしたところ、嫁が追って来たので、山の中で始末してしまう。 その際、嫁が持っていた、張子の虎を投げ捨てた。 江戸では、なりゆきで、男色家の医師に気に入られ、その身代を相続して暮らしていたが、貸していた家に、人形細工師が入居し、張子の虎を作り始めて・・・、という話。

  この話、覚えがあると思ったら、2015年に、BSジャパンで放送した、≪松本清張 時代劇シリーズ≫で見たのでした。 この本に含まれている他の作品も、そのシリーズで映像化されていた事を知りましたが、「虎」を読むまで、全然、思い出せませんでした。

  張子の虎が、話の鍵でして、面白いんですが、ちょっと、前置きが長過ぎますかねえ。 頭でっかちで、バランスが、今一つです。 医師は、別に、男色家でなくてもいいのですが、主人公を、貸家を持つような身分にする為に、そういう関係で気に入られたという設定にしたんでしょうな。

  後半で、家主である主人公が、張子の虎を作るなというのに、頑として作り続ける、人形細工師が面白い。 それが元で、主人公は破滅して行くのですが、具体的にどうなったかまでは、書かれていません。


「突風」 約28ページ
  突風で渡し舟が転覆し、死者が出た。 助けられた女が、近くの家に運び込まれ、回復したが、どこの誰かは言わずに、お礼のお金だけ置いて帰って行った。 その家の息子が、女の素性を突き止め、大きな商家の後妻であると分かる。 水死した若い男は、その店の手代で、後妻といい仲になっていたのだと当りをつけ、早速、恐喝にかかるが・・・、という話。

  女の素性が分かるまでが、ゾクゾクします。 分かってから後は、ありふれた展開になります。 もう一捻り、欲しかったですねえ。 たとえば、後妻と手代が渡し舟に乗っていたのは、色事とは無関係で、手代が、主の命令で、後妻を殺そうとしていた事にし、その後、恐喝をしようとした男が、主の罠にかかり、後妻殺しの下手人に仕立てられてしまうとか。


「見世物師」 約22ページ
  それぞれ、見世物小屋を経営する二人の男は、師匠と弟子の関係だった。 弟子の方が、瓦版屋と組んで、物珍しい事件を察知し、そこから、新しい見世物を拵えようと考えるが、師匠に先を越されてしまう。 師匠の出し物で、色気を振りまき、人気を博している若い女を亡き者にしない限り、自分の小屋に客は戻らないと思い・・・、という話。

  前半は、見世物師の世界を描いていて、興味を引きます。 後半は、犯罪と、その解決が描かれています。 解決の方は、罠をかけ、引っ掛かるのを待つという、推理小説では、よくあるパターン。 これは、むしろ、推理小説にせず、見世物師の師弟競争だけで、全編、埋めた方が、面白かったかも知れませんねえ。


「術」 約22ページ
  生首を捨てる者がいるという噂が立った後の事。 体を縛って、座らせた上で、首を切り落とす事件が続いた。 岡っ引きが、蝦蟇の油売りをしていた浪人に目をつけたが、無闇に人殺しをするような人間ではないと分かって、疑いは晴れた。 その浪人が、連続首切り事件の謎を解いてくれたのだが、一件だけ、他と違う特徴がある遺体があり・・・、という話。

  面白いです。 首を切られた者が、「みな、貧乏人の風体で、おとなしく縛られた上に、死に顔が穏やかだった」という点が、大きな謎だったのを、浪人が考えた挙句、理屈に合う解釈をしてみせたわけです。 ちょっと、複雑すぎる感じがしないでもないですが、読むのが嫌になる前に、謎が解けます。

  更に、意外な結末が付いていて、それがまた、面白いです。 異色ショートショートとして、見事なキレを味わえます。 それにしても、こういう人柄の良い夫を捨てて、他の男と出奔する女の気が知れぬ。 女の方の性根が、よほど、腐っていたのか・・・。


「役者絵」 約11ページ
  同じ寺に、灸を据えてもらいに行った縁で、男女の関係になった、荷揚げ人足の男と、囲われ者の女。 女の発案で、女の旦那を殺し、駆け落ちしようという計略が纏まる。 やり遂げた後は、互いに知らないふりをしようという約束になっていた。 事件の後、取り調べを受けたが、知らぬ存ぜぬで押し通した。 解き放たれてから、岡っ引きに誘われて、酒を飲んだが、目覚めると、女の家だったので、つい・・・、という話。

  枚数が枚数なので、シンプルな話です。 寺で、灸を据えてもらう風俗が描かれていますが、それも、簡単なもの。 岡っ引きの罠に嵌るところが、話の眼目で、割と、ありふれたパターンです。




≪松本清張全集 25 かげろう絵図≫

松本清張全集 25
文藝春秋 1972年12月20日/初版 2008年7月25日/9版
松本清張 著

  沼津市立図書館にあった本。 ハード・カバー全集の一冊。  二段組みで、長編、1作を収録。


【かげろう絵図】 約530ページ
  1958年(昭和33年)5月17日から、1959年10月20日まで、「東京新聞」に連載されたもの。


  徳川家斉が、家慶に将軍職を譲り、大御所として院政を敷いていた時代。 家斉の相談役だった、中野石翁一派が、家斉が死んだ後も、権勢を手放すまいと、加賀前田家と結託して、自分達に都合のよい世継ぎを決めさせようと目論む。 石翁の養女、お美代の方は、大奥に、最大の勢力を張っていた。 大奥の腐敗を一掃しようと計る、寺社奉行・脇坂と、島田又左衛門らが、島田の姪、縫を大奥に送り込んで、お美代の方を失脚させる証拠を得ようとするが・・・、という話。

  この梗概では、半分も書けていません。 島田又左衛門の甥、新之助が、実質的な主人公で、他にも、主だった登場人物だけで、10人以上、出て来ます。 形式的には、群像劇。 三人称なので、決まった視点人物は、いません。 松本さんの三人称小説は、場合によって、それぞれの人物の心理まで、描くタイプです。

  ページ数を見ても分かるように、大作なのですが、新聞連載なので、ストーリーは、小さな波が幾つもあるという形で、クライマックスで、ドーンと魅せるというような、盛り上がり方はありません。 大作ではあるが、長編小説としては、構成に欠陥がある、というところでしょうか。

  読めば、大抵の人が、面白いと感じると思いますが、長編時代小説では、よくあるタイプの面白さでして、松本さんらしさは、あまり感じられません。 【点と線】で名を売ってから、1年しか経っておらず、まだ、推理作家なのか、歴史作家なのか、カテゴリーが定まっていなかった頃でして、時代小説は、尚更、書き方が定まらず、平均的な書き方をとらざるを得なかったのかも知れませんな。

  島田新之助のキャラが、まさしく、それを証明しており、時代劇ヒーロー、そのものです。 松本さんの作品と、時代劇ヒーローは、イメージが遠いですねえ。 剣は強いわ、頭は回るわ、容姿はいいわ、ケチのつけようがないのですが、そこが、逆に、リアリティーに欠ける。

  国の中枢が舞台になっているのに、何だか、せせこましい感じがするのは、天下国家の大事というより、幕府や大奥での、権勢の奪い合いという、低劣な事が、テーマになっているからでしょう。 一応、善玉・悪玉が決まっていますが、善玉の方も、清々と善というわけではありません。 敵を潰したい欲が先に立っているのです。 特に、水野越前守は、その口。

  悪玉が死ぬのは、まあ、いいとして、善玉側も、二人、死にます。 その一人は、町人ですが、探索に携わっていたとはいえ、武家の争いに、町人を巻き込み、死なせてしまうのは、気の毒千万。 武家の犠牲者の方は、重要人物だったのに、死に方が、呆気なさ過ぎます。 もっと、描き込んでも、良かったのでは?

  あまり、期待しないで読めば、十二分に面白いと思います。 【樅ノ木は残った】レベルの、深さ・重さを期待していると、肩透かしを食います。 もっと、俗っぽい、面白さなのです。




≪真珠塔・獣人魔島≫

角川文庫
角川書店 1981年9月10日/初版
横溝正史 著

  2021年7月に、ヤフオクで買った本。 本体300円、送料215円、計515円。 安い方です。 横溝作品の角川文庫・旧版の中では、89番目で、少年向けの長編2作を収録。


【真珠塔】 約156ページ
  解説によると、「昭和29年(1954年)に連載された」とありますが、掲載誌は分かりません。 ネット情報では、戦前作品で、1938年8月から、1939年1月まで、「新少年」に連載されたとなっています。 ネット情報の方が、研究が新しい分、正しいとも考えられます。

  金色の蝙蝠が舞う夜に現れる、髑髏仮面の怪人、金コウモリ。 ある真珠王が全財産を注ぎ込んで作った宝飾品、「真珠塔」に、狙いをつける。 殺人をためらわない手口に、真珠王が殺され、真珠塔のありかを知っていると思われる、その娘にも危険が迫る。 新日報社の探偵小僧、御子柴進が、花形記者、三津木俊助や、警視庁の等々力警部らと共に、金コウモリと戦う話。

  内容的には、三津木俊助や等々力警部が、大手を振って活躍する点、戦前作品ぽいです。 地下道の水没、川で追撃戦、軽気球で脱出など、おきまりのパターンが、盛り込まれています。 横溝さんは、とことん、少年向け作品を、「この程度で、充分」と見做していたんですな。

  犯人が、誰か分かると、その点も、戦前作品ではないかと思わせます。 戦後作品だとすると、9年経っていても、この犯人では、ちと、まずかったでしょう。

  はっきり言って、真面目に批評するような、内容のある作品ではないです。 小中学生でも、同じパターンを、2作読めば、飽きてしまうのではないかと思います。


【獣人魔島】 約134ページ
  解説によると、「昭和29年(1954年)から、昭和30年にかけて連載された」とありますが、掲載誌は分かりません。 ネット情報では、連載年は同じで、1954年9月から、1955年6月まで、「冒険王」に連載されたとなっています。

  死刑判決を受けた凶悪犯が脱走し、判事一家に復讐しようとするのを、探偵小僧、御子柴進が、阻止する。 凶悪犯は、犯罪者集団によって、瀬戸内海の孤島に連れ去られ、天才的な医学博士の手により、ゴリラの体に、脳を移植される。 犯罪集団の首領になった、ゴリラ男が、ある真珠王が作った、真珠の宝船を狙い・・・、という話。

  基本アイデアは、ほぼ、【怪獣男爵】(1948年)と同じ。 セルフ・リメイクといわけでもなく、アイデアの使い回しですな。 ただし、【怪獣男爵】は、SF設定でしたが、この【獣人魔島】は、SF的ではあるものの、SFではありません。 それは、最後まで読めば分かります。 そういうラストにしたせいで、辻褄が合わなくなる所が出てしまっていますが、まあ、目くじら立てるような作品ではないです。

  大人の鑑賞に耐えるレベルではありませんが、御子柴進が、犯罪者集団を追って、単身、列車に乗り込み、瀬戸内海の孤島に辿り着くまでの経過だけ、面白いです。 大いに、ゾクゾクします。 この雰囲気は、江戸川乱歩作品に近いです。 使い古されたキャラクターでも、細かく描き込めば、活き活きとした場面になるんですな。

  島から、東京に戻った後は、全く、評価できるところ、なし。 軽気球で脱出、ヘリコプターで追撃戦、犯罪者集団のアジトに潜入など、お決まりのモチーフが組み合わされているだけです。 真珠王が出て来ますが、【真珠塔】の真珠王とは、別人。 真珠王も、少年向け作品の、定番モチーフなのです。

  ところで、このタイトルですが、ゴリラ男が、「獣人魔」で、それが生み出された島だから、「獣人魔島」という意味です。 たぶん、「じゅうじんまとう」と読むのだと思います。




≪松本清張全集 29 逃亡・大奥婦女記≫

松本清張全集 29
文藝春秋 1973年6月20日/初版 2008年8月10日/8版
松本清張 著

  沼津市立図書館にあった本。 ハード・カバー全集の一冊。  二段組みで、長編1作、短編集1(12作)を収録。


【逃亡】 約408ページ
  1964年(昭和39年)5月16日から、1965年5月17日まで、「信濃毎日新聞」、他11紙に連載されたもの。 原題は、【江戸秘紋】。

  江戸時代、性質の悪い岡っ引きに引っ掛かって、罪とも言えない罪で、牢に入れられた男。 大火で解き放たれた後、集合場所に戻ろうとしたのに、悪い岡っ引きに邪魔されて、逃亡せざるを得なくなる。 飾り職人の家に逃げ込み、そこの娘といい仲になって、江戸へ戻るが、また、悪い岡っ引きに関わって、女房を失うはめになる。 その後、贋金作りの一味と思われる大店に潜り込みむが・・・、という話。

  松本さんの短編時代小説を、いくつか、継ぎ接ぎしたような趣き。 新聞小説だから、致し方ないとはいえ、とりとめがないです。 話を引き伸ばすのが、うまい作家というのがいますが、松本さんは、そのタイプではなく、専ら会話を増やす事で、長くしようとするので、冗漫な印象になるのは避けられません。 そもそも、新聞連載に向かない作風だと思うのですが、なぜか、新聞連載だった長編作品は、多いです。

  一番、まずいのは、この主人公が、決まった目的なしに、行動している事です。 悪い岡っ引きに目をつけられたせいで、理不尽な目に遭い続けるわけですが、復讐するにしては、遠回りな事ばかりしており、ただ、運命に流されているだけのように見えます。 それならそれでいいんですが、時折、目的があるかのような行動を取るから、何を考えているのか、よく分からない。

  あちこちで、女を口説くのが、また、信用できません。 本気で好きというわけではなく、その場限り、自分の都合がいいように、女を利用しているだけのように見えます。 こういう不実な人物では、読者が共感できません。 極め付けに、同じ脱牢仲間を殺す件りがあり、いくら、相手が、ろくでなしとはいえ、「そこまで、やるか!」と、驚きます。 殺人犯に、共感など、とんでもない。

  最後は、大山参りですが、そこだけ、シチュエーション・コメディー風になります。 偶然、関係者が皆、大山へ集まって来るのです。 だけど、そもそも、コメディーではないので、笑える結果になるわけではないです。 主人公に都合よく、邪魔者がみな、死んだり、捕まったりしてしまうのは、陳腐という意味で笑えない事もないですが。

  ラストは、主人公が世話になった老人と、湯治場で偶然に出会い、老人の口から、関係者のその後が語られます。 98パーセントくらい、ドロドロで、ダラダラの話なのに、最後だけ、妙に洒落ています。 こういう話を、強引に、ハッピー・エンドにしてしまうのは、文学的罪過なのでは?



【大奥婦女記】 約121ページ
  1955年(昭和30年)10月から、1956年12月まで、「新婦人」に連載されたもの。

「乳母将軍」 約9ページ
  三代将軍家光の乳母として、大奥に入った、春日局。 家光の母でありながら、次男、国松を次期将軍に据えようとする望む、お江と戦いつつ、大奥の実権を掌握して行く過程を描いたもの。

  このページ数ですから、小説というより、解説でして、そんなに読み応えがあるものではないです。 ただし、松本さんは、歴史上の人物の伝記を、掻い摘んで解説する能力は、大変、高いです。 要点を捉えていて、実に分かり易い。


「矢島局の計算」 約10ページ
  家綱の乳母として、大奥に入った、矢島局。 春日局に倣って、大奥を掌握しようと目論むが、出自が、軽輩の妻であったせいか、今一つ、思うように行かない話。

  邪魔者が現れて、計算が躓いたところで、話が終わっています。 幼い家綱がご所望の、丹頂鶴の番いを、松前藩から取り寄せさせる件りだけ、面白いです。 そんな下らない事で、国の機構を使っていたのでは、世も末と思わされますが、江戸幕府は、まだまだ、続きます。


「京から来た女」 約10ページ
  四代将軍・家綱の正妻として、京から嫁いだ顕子の頑なな生き様・死に様と、その後も大奥に残った、顕子の乳母二人、飛鳥井局と姉小路局の権力争いを描いた話。

  下賎の者に、体に触れられたくないからといって、医師に診察を許さないまま、乳癌で死んだ、顕子の性格が、凄まじい。 たぶん、潔癖症だったんじゃないでしょうか。 それも、かなり、重度の。 飛鳥井局と姉小路局に関しては、印象に残るエピソードはないようです。


「予言僧」 約9ページ
  京都の八百屋の娘だった、お玉が、幼少の頃、仁和寺の若い僧に、顔相を見られ、「いずれ、将軍を産む事になる」と言われる。 事が、その通りに進み、大奥へ上がり、家光の目にとまって、側室となり、綱吉を産む。 家綱に子がなかったせいで、弟の綱吉が後を継ぐ事になり、母子ともども、予言した僧を大いに尊敬する、という話。

  これは、割と、有名な経緯ですな。 しかし、こういう予言をした僧がいたとは、知りませんでした。 松本さんの解説は、実に分かり易い。 歴史資料の中から、面白そうな部分を見出す技術に長けていたのでしょう。


「献妻」 約10ページ
  学問好きな反面、好色だった綱吉。 側用人、牧野成貞の屋敷へ訪ねて行き、昔、大奥で見知っていた、その妻を、寝取ってしまう。 臆面もなく、何度も訪ねて来て、そのたびに、寝取る。 やがて、すでに、夫がある身の、娘にまで手を出し・・・、という話。

  これは、病的な関係ですな。 綱吉も病的ですが、牧野成貞の方も、正常とは思えません。 性交渉なんぞ、いずれ、飽きるから、綱吉の害も長くは続かないと踏んでいたのでしょうか。 それにしても、異常です。


「女と僧正と犬」 約9ページ
  綱吉の母、桂昌院が、その運命を予言した僧から推薦されて、隆光という僧を重用するようになる。 その隆光の思いつきで、綱吉の戌年生まれに因んで、「犬を大事にすれば、世継ぎが出来る」と言われ・・・、という話。

  「生類憐みの令」の始まりですな。 もっとも、隆光が発案したという説は、今では、言われていないようですが。 歴史学の研究が進むと、古い説に依拠して書かれた小説は、まるまる、成り立たなくなってしまう厳しさがあります。


「元禄女合戦」 約10ページ
  綱吉の正妻派と、桂昌院派の対立が静かに進行し、綱吉の世継ぎを先に儲けようと、綱吉好みの娘を探して来て、次々と送り込む。 ようやく、一人、懐妊したと思ったら・・・、という話。

  大奥という所は、将軍の代が変わるたびに、同じパターンを繰り返していたようですな。 醜い派閥争いです。 要は、世継ぎが生まれさえすればいいのだから、何も、大奥なんか作らなくても、もっと、効率的な方法があったと思うのですがねえ。 別段、直系でなくても、どうにでもなってしまうような、テキトーな事なのだし。 

  ラストに出て来る、転落のエピソードは、【かげろう日記】の冒頭で出て来たもの。 しかし、そちらの将軍は、綱吉ではなく、家斉でした。 どこまで、史実か、分からなくなって来ます。


「転変」 約9ページ
  結局、世継ぎを儲ける事ができないまま、死期が近づきつつあった綱吉。 やむなく、甥に当たる、綱豊(後の家宣)を世子に決める。 綱吉の側用人として権勢を思うままにしてきた、柳沢吉保は、綱豊にも取り入って、次代将軍の世まで、影響力を及ぼそうと図るが、そうは問屋が・・・、という話。

  代替わりの顛末を解説するのが主目的で、大奥の事は、ほんのちょっとしか触れられませんが、あれだけ、栄華を極めた、桂昌院一派や、それと熾烈な争いを演じた綱吉の正妻派が、代替わりと共に、小者まで含めて、一掃されてしまうところは、記述が少ないだけに、ショッキングです。 なんとも、虚しい世界である事よ。


「絵島・生島」 約18ページ
  六代・家宣亡きあと、まだ幼い、七代・家継の在世。 大奥・御年寄(といっても、30代前半)の重職にあった、絵島が、出入り商人が賄賂代わりに仲を取り持った、歌舞伎役者、生島新五郎と懇ろになる。 将軍生母・月光院の名代として、寛永寺・増上寺に参詣した帰り、歌舞伎小屋に寄って、豪遊した事で、罪に問われる話。

  これも、有名な話。 生島の方が、大奥に潜り込んだエピソードも描かれていますが、それは、危険が大き過ぎる気がしますねえ。 大奥勤めの者が外へ出るのも大変で、何かしら名目が要るのですが、前将軍・家宣の法事を短時間で打ち切って、芝居小屋へ繰り出したというのですから、お仕置きを喰らっても、致し方ないか。

  時の将軍、家継は、まだ、幼児と言っていい年齢で、大奥は、本来の機能を停止中だったので、尚更、風紀が緩んだのではないかと思います。 お世継ぎを儲ける為の役所なのに、将軍が子供じゃ、しょうがない。 女ばかり、大勢集まって暮らしていても面白くないから、男漁りに出かけたくもなるわけだ。


「ある寺社奉行の死」 約8ページ
  十一代将軍、家斉の治世。 硬骨漢の寺社奉行が、大奥に密偵を潜り込ませて、奥女中達と、参詣先の寺の坊主らが、懇ろになっている証拠を掴み、綱紀粛正を目論む話。

  【かげろう絵図】(1958年)の元になった話。 この短編を膨らませて、約530ページの長編にしたわけだ。 組織というものは、必ず腐敗するので、時々、箍を締めなおさなければならないわけですな。 その恨みで、寺社奉行が変死させられるところまで書いてありますが、そういう犠牲も付き物なのでしょう。


「米の値段」 約8ページ
  六代将軍・家宣の、お気に入りの側室は、町医者の娘だった。 家業を継いだ弟に、俸禄が与えられたが、石高に応じて、現金支給される金額が、米の相場に対して、異様に少ない。 弟が、米相場を調べた上で、姉を通じて、上様に奏上したところ、一石当たりの金額を決めている役人が不正をしていた事が露顕する話。

  この町医者だけでなく、旗本全てに対して、一石37両が相場のところを、27両しか払わず、浮いた分を懐に入れていたというのだから、途轍もない規模の不正ですな。 幕府の重役達が、米の相場を知らず、この役人の不正に気づかなかったというのだから、呆れます。 


「天保の初もの」 約9ページ
  十二代将軍・家慶の治世。 水野忠邦が始めた、天保の改革で、先代・家斉の時代に、奢侈に流れていた風俗が、一気に、質素倹約の方向へ締め付けられた。 あまりにも急激な変化に、世上に怨嗟の声が上がっていたものの、上様の信任が厚い水野忠邦に逆らえる者はいなかった。 値上がりを抑える為に、初物まで禁止されていたのだが、ある時、上様が、お膳に生姜がない事を残念がった事で、倹約令が、上様の意向を汲んでいない事が判明し・・・、という話。

  天保の改革というのは、こういうものだったんですな。 歴史の授業で習ったはずなんですが、全く、頭に入っていませんでした。 つくづく、松本さんの歴史解説は、分かり易いです。 まさか、忠邦も、生姜の初物のせいで、失脚するとは、思いもしなかったでしょう。

  現代の経済感覚では、倹約令は、経済を萎縮させるだけではないかと思ってしまいますが、江戸時代は、国内だけで経済が回っていた上に、生産力に限界があったから、必ずしも、倹約令が、逆効果だったわけではないです。 収入が決まっているのなら、支出が少ない方が、貯蓄が大きくなり、豊かになるのは、自明の理。

  小判の改鋳が何度も繰り返されるのは、貨幣価値が下がる、インフレが続いていたからでしょう。 インフレは、物が足りないから起こる現象ですが、外国からの輸入ができないのだから、起こって当然。 翻って、現代は、足りない物があったら、外国から買えばいいので、インフレになり難い時代と言えます。 インフレにしたかったら、輸入を制限すればいいわけですが、日銀程度の権力では、そんな大それた事はできますまい。

  江戸時代の人々は、決して、のんびり暮らしていたわけではなく、生きる為に、朝から晩まで、尽きる事のない仕事や家事をこなして、働きづめだった人達が、大きな割合を占めていたわけですが、それでも、豊かな生活には、ほど遠い有様でした。 一種の奴隷経済だったんですな。 武士階層、つまり、奴隷を使う主人側に、倹約を求めるのは、理に適っています。 忠邦の失敗は、それを、武士以外の階層にも及ぼしてしまった事でしょうか。




  以上、四冊です。 読んだ期間は、去年、つまり、2021年の、

≪松本清張全集 24 無宿人別帳・彩色江戸切絵図・紅刷り江戸噂≫が、8月8日から、14日。
≪松本清張全集 25 かげろう絵図≫が、8月18日から、24日まで。
≪真珠塔・獣人魔島≫が、8月24日から、29日まで。
≪松本清張全集 29 逃亡・大奥婦女記≫が、9月2日から、11日まで。

  ≪松本清張全集≫は、時代物を後回しにしていたので、ここへ来て、時代物ばかり立て続けに読む事になりました。 私は、時代物が嫌いではないですが、どちらかというと、未来好きな方なので、時代小説を進んで手に取るという事はないです。 松本さんの時代物も、全集に入っていなければ、読む事はなかったでしょう。