2010/01/31

土曜の憂鬱

  宜しくない・・・。 ここのところ、私生活の調子が、大変宜しくありません。 平日は仕事で、毎日3時間近い残業を喰らっているので、家に帰っても、≪風呂・飯・寝る≫以外に何もできないのですが、その分、土日を楽しもうと思っても、全然楽しめません。

  休みになると、掃除やら、布団干しやら、犬の散歩やら、亀の水換えやら、図書館通いやら、サイト・ブログの更新やら、映画鑑賞やら、読書やら、撮影行やら、やる事ばかり多くて、時間を有効に使えないのです。 まるで、強迫観念に取り付かれているかのよう。 休みなんだから、一日中寝ていてもいいはずなんですが、なんで、それが出来なくなってしまったんでしょうか。 出来ないと思い込んでいるだけで、やってみれば、簡単なのかもしれませんが。

  やっぱりねえ、次から次へやる事を増やしたのが、ここへ来てアップアップになったんでしょうねえ。 平日に時間のゆとりがあればこそ、やれる事がやれるのであって、休みだけで帳尻を合わせようとしても無理があるんですな。 うむむむむ、どうにかせねば。


  休みが楽しくない原因をいろいろ考えているんですが、最悪の元凶が、このブログなのではないかと思う事がしばしばあります。 私、このブログの記事を、土曜日に書いているんですが、この長さですから、最低でも3時間、長引けば5時間くらいはかかってしまい、朝から書き始めても、明るい内に書き終わる事はまずありません。 土曜は他にもやる事がいっぱいあるため、こんな事に割く時間がないのです。 大体、雨天やドス曇りならいざ知らず、天気が良い格好の外出日和に、家に籠もって、こんな文章カタカタ書いていたら、そりゃ病的でしょうが。

  で、夜は夜で、テレビを見たいじゃありませんか。 「土曜の夜は、街に繰り出すのが当たり前」という人もいるでしょうが、まあ、そういう人には好きにして貰うとして、家で過ごすタイプの人なら、土曜の夜が、テレビ鑑賞の書き入れ時だという事に、「うんうん」と納得していただけると思います。 「土曜のゴールデン・タイムにテレビを見ずして、一体いつ見るというのじゃね?」と、白髭に杖ついて、逆に問い返してもいいくらいです。

  夕食の後、居間の炬燵に入ってしまうと、もう9時までは、梃子でも動きませんね。 ここ数年は、バラエティーが地を這うつまらなさなので、昼間録画したサスペンスなどを見る事が多いのですが、何を見るかが重要なのではなく、土曜の夕方から9時まで、居間でテレビを見て過ごすという、そのシチュエーションに幸福を感じるのです。 こんな糞下らんブログを書くために、その貴重なひと時を潰してたまるもんですか。

  で、9時になると、自室に上がるわけですが、そこでも、やはりテレビは見続けます。 だって、地上波で、映画をやるでしょう。 昔に比べると頻度が落ちましたが、今でも、地上波で週末の夜9時から放送される映画には、話題作だった物が多く、見逃すわけにはいかんのですよ。 「地上波初放送!」なんて言われると、二流作品でも見てしまいます。 ただ、名作扱いされていても、二度目の放送だと、決して見ません。 いい作品ほど記憶に残り易いので、見直しても、覚えている部分が多く、時間の無駄になるからです。

  ああ、ちなみに、私は、相当な映画好きです。 DVDは買わぬ主義ですし、レンタルの習慣も絶えて久しいですが、それでも、平均して、二日に一本くらいは映画を見ています。 「買いもせず、借りもせずに、どうやって、そんなに見るねん?」と訝る方もいらっしゃるでしょうが、家がケーブル・テレビを入れているので、映画専門チャンネルもありますし、地上波だけでも、週末の深夜放送をチェックしていれば、二三本は未見の作品を録画できるのです。 時間さえあれば、毎日でも見れます。 嘘だと思ったら、試してみれば宜しい。

  そういえば、去年の4月から9月まで、仕事が暇で、毎日定時で帰って来ていた頃には、映画を録画しまくって、一日に二本くらい見ていました。 映画を見ると、必ず感想を書いて、個人サイトの方の日記にアップしているのですが、その頃のログを見返すと、映画評ばかりで埋まっています。 こちらにも、その文を持って来てしまえば安直に記事が埋まるのですが、映画評の厄介な所は、その映画を見た人でないと、何が何やらさっぱり分からないという点でして、なんとなく、ためらいを感じるのです。 もっとも、そんな事を言い出せば、こちらで時折やっている読書感想文の回なども、事情は同じなわけですが、映画の場合、写真でごまかせないのが、ちょっとねえ。 いや、いろいろと悩みつつ、運営しておるのですよ、こんなブログでも。

  話を戻しますが、土曜の夜9時から映画を見始めると、終わるのは11時前後。 それから、このブログの記事を書くと、書き終わるのが、夜中の1時になったり、2時になったりします。 もう地獄ですな。 私ゃ、受験生じゃないんですよ。 ただのオッサンなんです。 そんなに根を詰めても、何もいい事なんかありゃしないんですよ。 どーして、せっかくの土曜の夜を、こんな自主拷問で血塗らなきゃならんのよ? ブラッディー・サタデイだね。

  「日曜の朝に更新しているから、土曜の夜までに書き上げなければならなくなるのであって、更新を日曜の夜に変えれば、土曜が楽になるんじゃないの?」と思うでしょう? ふふふ、甘いな。 そんな事は、当の本人である私が、既に何度も検討しておるのですよ。 更新を日曜の夜にすると、今度は、日曜が潰れてしまうではありませんか。 日曜は日曜で、やる事が満載なのです。 午後は、週末恒例のイベント、撮影行があって、昼から出掛けると、夕方まで帰って来ませんから、ブログなんて書く余裕はとてもとても、捻り出せるもんじゃありやせん。

  夜は夜で、やはりテレビを見なければなりません。 日曜の夜は、テレビ鑑賞の書き入れ時なのであって、「日曜のゴールデン・タイムにテレビを見んで、一体いつ見れ言うんじゃい、われーっ!」と、こめかみに拳銃突き付けて、逆に問い返してもいいくらいです。 そもそも日曜の夜というのは、小学校の頃以来、「ああ、明日は学校だ。 嫌だよー。 行きたくないよー」と、鬱々とした気分に陥りがちなのであって、その心理は今でも、「ああ、明日は仕事だ。 嫌だよー。 行きたくないよー」てな具合に、全然変わっていないのです。 それでなくても気分が暗いのに、ブログなんか書いて、四苦八苦していられるかってんです。


  でねー、いっその事、このブログ、やめちまったらどうかと、最近つくづく思うのです。 現在の閲覧者数は、日当たり100人から150人くらいですから、勿体無いといえば勿体無いですが、どうせ、コメントとトラックバックはオフで、直接交友しているお客じゃありませんから、打ち切ったとしても、恨み言やら、苦情やらを言われる心配は無いわけです。 文章を盗みに来ている奴は困るでしょうけど、そんな不埒な奴らは、困っても一向に困りません。 困れ困れ! 困り死にしてしまえ。

  このブログをやめると、土曜が楽になる以外にも、大きな特典がありまして、プロバイダーの乗り換えができるのです。 同じフレッツでも、今の所より、800円も安くなるプロバイダーがあって、そーりゃ、ケチな私には大きな魅力ですわなあ。 私はメールをほとんど使わないので、メール・アドレスが変わる事で被る損はほとんどありません。 個人サイトは、アドレス変更を通知すればいいだけですから、問題無し。 つまり、このブログさえ諦められるのなら、乗り換えた方が断然お得というわけです。

  だけどねえ、人間、長く続けて来た習慣はなかなか変えられないのですよ。 歳を取って来ると、尚更その傾向が強まります。 このブログを書く事自体が、人生の意義と化している感すらあり、月々800円程度の得には代えられないような気もするのです。

  書く事自体は嫌いではないので、仕事が楽になって、平日の時間にゆとりが出来れば、今、土曜日にやっている事を平日に分散して、土曜を書き物に当てる事が出来るんですがねえ。 うーむ、結局そこへ戻ってしまいますか。 やれやれ、人生というのは、思うに任せないものですな。

  今回、いつもより短いですが、中身が無いただの愚痴ですから、致し方ありません。 そもそも、長く書こうとするから、どんどん負担が増えるのであって、短くすればいいのですよ。 でも、興が乗ると、自然にどんどん長くなるので、自分自身、長い記事の方が価値があるように感じられて、どうしても、そちらが主流になってしまうのです。 悪循環ですな。 どうにかならんかな、ほんとに。

2010/01/24

光化不幸か

  昨年の暮れ、12月20日の日曜日ですか、昼前に、NTT西日本の人間がやって来ました。 今までの経験からして、この種の人間が訪ねて来て、良い結果になった例しは無いのですが、来てしまったものは仕方がないです。 「インターネットに関わる話らしいから、ちょっと来い」と父が呼ぶので、しぶしぶ玄関へ行きました。 待っていたのは、30代半ばと思われる男性と、20代っぽい女性の二人。 ≪NTT西日本≫というロゴが入った青いジャンパー式のジャケットを着て、首には名札を下げていました。

  用向きは、「お宅の家の前を通っている光回線を新しくしたので、これを機会に電話とインターネットを、光にしませんか」というもの。 内心、「またか~!」と思いました。 実は我が家では、ここ一年ほど、「NTT西日本の代理店」と名乗る相手から、≪光勧誘≫の電話が、月に一度くらいペースで掛かり続けており、最初は胡散臭くて、後には執拗さが気に食わなくて、相手に話もさせぬ勢いで、すべて断っていたのです。 一般論として、向こうから電話を掛けて来たり、家に訪問して来たりする輩は、信用できぬと見做しておいて間違いありません。

  余談ですが、「~の代理店」というのが、そもそも怪しいのであって、契約変更を勧めるなら、NTT西日本の社員が直接来れば済む話。 わざわざ、代理店に依頼するような事とも思えません。 保険の勧誘でもそうですが、どうして、代理店を挟みたがるんでしょうかねえ? ほとんどの事務をコンピューターで処理する時代に、代理店が必要とは思えませんが。 ただ煩雑になるだけです。

  で、今回も、まず最初に疑ったのは、「こいつら、本物だろうか?」という点。 NTT西日本のジャケットや名札なんて、偽造しようと思えばわけないのであって、外見だけでは信用できません。 私が名札の辺りをじろじろ窺っていると、こちらの意を察したのか、向こうから先手を打って、「私は、市内にあるNTT西日本のビルから来ている者ですよ」と、釈明して来ました。 話によると、うち以外でも、この界隈では、「NTT西日本の代理店」を名乗る電話勧誘が相次いでおり、たくさんの苦情が来ているのだとの事。 そして、NTT西日本では電話勧誘は一切行なっていないとの事。 よっぽど、「しかし、そいつらが、うちの電話番号を知っているという事は、まだ光化していない家のリストを持っているのだろう。 そのリストは、お宅から流出したんじゃないのかい?」と訊き返してやろうと思いましたが、せっかくの日曜日に喧嘩をするのも嫌なので、黙っていました。

  そのNTT西日本の男、喋った喋った。 30分くらいですか、光化の利点について、喋くり捲くりました。 大方、「客に断る隙を与えたら終わりだ」という勧誘ノウハウでも信奉しているのでしょう。 しかし、内容的には相当お寒いもので、光化の利点を直接述べるのではなく、「光化しても、そんなに悪くはなりませんよ」という消極的なアピールに終始しました。 ≪フレッツADSL≫を、≪フレッツ光≫にすると、料金はどうしても高くなるんですよ。 その点は、どんなに美麗字句を並べたって覆る事は無いのであって、それを承知で売り込もうと思ったら、「割引を含めれば、それほど高くはなりません」という方向で話を進めるしかないんでしょうなあ。

  面白いのは、決して、「ADSLより、速くなる」とは言わなかった事です。 光化の利点といえば、速さ以外に無いような気がするのですが、こちらの方から、「ADSLで十分でしてね。 そんなに速くなくても、問題ないんですよ」と言っても、「ええ、まあ、みなさん、そうおっしゃるんですがね・・・」などと、ヘラヘラ曖昧に応えつつ、速さについて、自分の方から触れようとはしませんでした。 そのわけは、後々分かる事になります。

  で、私としては、一円でも負担が増えるのは気が進まなかったんですが、電話代の方を払っている父に訊くと、「いいや。 どうせ、いつかは変えなけりゃならないんだから、今変えちまえ」というので、切り替える事にしました。 他に、話の詳しさの程度から見て、99%くらい本物のNTT西日本社員だと思われたのと、「プロバイダーの方の料金が安くなる、と思う」言われたのも、主な承諾理由です。

  そうそう、回線引き込み工事の代金も、キャンペーン期間中なので、タダになると言っていました。 だけどねえ、本当に光がお得なら、別に工事代金が掛かったって、客の方から進んで申し出るって言うんですよ。 サービスの本質が分かっていないんじゃないですかねえ? 客の方から欲しがるものを提供するのが本当のサービスであって、客が欲しがっていないものを、オマケをつけて押し付けるのは、その反対の行為だと思うんですが。

  男は、その場で工事業者に電話を掛けて、工事日の予約をしました。 私は、すぐにでもやってもらえると思っていたんですが、年末は立て込んでいるので、年明けのしかも、17日になるとの話。 「なんだ、そんな先の話か・・・」。 先憂後楽型の性格で、何でも、厄介事は早めに片付けてしまいたい私としては、一ヶ月近くも心配の種を抱えて生きるのは、非常にきついのです。

  私のそれまでの契約は、≪フレッツADSL≫だったので、NTT西日本の他に、プロバイダーのau-oneにも料金を払っています。 男の話では、プロバイダー料金が安くなるとの事だったんですが、連中が帰った後で調べてみたら、あら、やだ、どうしましょ! とんだガセ情報だったのです。 安くなるどころか、300円も高くなるじゃありませんか! おのれ、いい加減な事を言いおって!

 「後で、気に入らなかったら、ADSLに戻せる」とも言っていましたが、1年3ヶ月以内に解約すると、光回線の引き込み工事代金をこちらで支払わなければならず、使わない物に金を払うような馬鹿馬鹿しい事をする私ではありませんから、実質的に、もはや取り消しが利きません。 うぬぬぬ! 本物の社員であっても、結局、客を丸め込んでナンボのセールスマンである事に変わりはないか。 いやだいやだ、まったく、人の営みというのは醜いものです。

  ちなみに、一緒に来ていた20代の女性は、男が喋り捲っている間、その斜め後ろで立っているだけで、最後まで、一言も発しませんでした。 たぶん、見習いとして、先輩の後をついて回っているだけなんでしょう。 それにしても、あれだけ、のべつ幕無しに喋り続ける先輩の技術を学び取るのは難儀ですな。 他人事ながら、同情に耐えません。


  と、ここまでが、去年の話。 ここからは、今年の話になります。


  1月16日の夜、工事業者から電話が入り、「明日の午前9時から始める予定だったが、8時から8時半までに変更できないか」と言うので、快くOKしました。 その週は6日出勤で、休みが日曜一日しかなかったので、工事が早く終わってくれる分には、否やは無かったのです。

  翌朝、予告通り、8時に業者のトラックが来たのですが、玄関を訪う前に、外で電信線の工事を始めたのには、いささか虚を突かれました。 普通、一声掛けてから始めると思うのですが・・・。 外は10分ほどで終わり、それから、「御免下さい」と訪ねて来て、中に取り掛かったのですが、光ケーブルを電話機のある部屋まで引き込むのに大いに手間取り、30分の予定がなんと1時間半もかかってしまいました。 でも、まあ、私は見ていただけですから、その点については、別に文句は無いのです。 むしろ、彼らの仕事ぶりに、感服したくらいでして。 作業員二人と、交通整理係一人のお三方でしたが、冬の朝で滅法寒いというのに、よくテキパキと頑張るものです。 うーむ、仕事とは本来、ああいう姿勢で取り組むものなんですねえ。

  と、そこまでは良かったんですが、工事の人が帰った後、ネットへの接続方法が分からず、七転八倒する事になりました。 昨年末に契約を取りに来たNTT西日本の男は、「CD-ROMを入れるだけで、簡単に接続できます」などと、涼しい顔でしゃあしゃあ言っていたのですが、とんでもねー! 難行苦行、天竺までお経を取りに行く方が、まだ楽なくらいでした。 一時は絶望のあまり、インターネットをやめようかとまで思いましたぜ。 どーして、セールスマンというのは、ああいう、いい加減な事を次から次へと口に出来るのか、不思議で不思議で夜も寝られません。

  まず、向こうが予め郵送したというフレッツ光用のIDとアクセスキーを求められたんですが、そんな郵便物は受け取っていません。 早速NTT西日本のサポート・センターに電話すると、「確かに送ったはずなんですが・・・」と、向こうも大いに狼狽している様子。 再郵送するとなると何日もかかるとか。 「とりあえず、担当の者と相談しますので・・・」というので、折り返しの電話を待っている間に、「もしや」と思って、父に尋ねてみたところ、なんと、それらしい郵便物が来ていたというのです。 すぐに出させると、確かにそれで、IDとアクセスキーが記されています。 まあ、私の顔色が青くなったのならないのって。 電話の方の契約は父名義で行われているので、郵便物もそっちへ行ってしまうんですな。 しかし、父も父で、光化の工事が入ると分かっていて、どうして、私にそれを知らせないかな? 折り返し電話をかけて来た向こうの担当者相手に、「すいません。 実は届いていました」と、平謝りですわ。

  とまあ、そこまでも、まだ良かったんですが、次の段階で、プロバイダーのアカウントを求められて、また滞りました。 ADSLコースから光コースへ契約変更をする前に工事をされてしまったので、光用のアカウントなんて持っているはずがないのです。 すでに、普通の電話回線は切られてしまっていますから、ネット上で契約変更するのは出来ぬ相談。 それも、去年、NTT西日本の男が、「工事の前に、プロバイダーのコース変更をしておいて下さい」と一言言ってくれていれば、ちゃんと済ませておいたのに。 どーして、セールスマンというのは・・・・、以下略。

  しょうがないので、プロバイダーのサポート・センターに電話して、契約変更を頼もうと思ったら、なんと、「00から始まる番号にはかかりません」と機械音に応えられてしまいました。 そう言われても、私の手許の資料には、プロバイダーのサポート・センターの番号は、00で始まるものしか載ってません。 この辺りが絶望の縁ですな。 「どうしろというのだ!」と机を叩き、ヤケクソ半分、八つ当たり半分で、NTT西日本の方のサポート・センターに、また電話してみました。 すると、「光回線では、00で始まる番号にはかかりません。 こちらで調べて、プロバイダーの0120でかかる電話番号をお教えします」と言われました。 もはや、首の皮一枚で繋がっている感じ。

  ところが、その番号でかけても、「ただいま、混み合っております」で、一向に通じません。 ここで、正午になったので、昼飯を食べましたが、不安で不安で、味なんかしやしません。 こういう時は、悪い予感ばかりが脳裏をよぎります。 インターネットには二度と繋がらず、それでいて、料金だけは取られ続けるとか・・・。 午後になってから、再度、電話したら、今度は通じて、割とすんなりと、契約変更の手続きをして貰えました。 向こうの物馴れた捌き振りから察すると、こういう事はよくあるような感じでした。 一時間ほどで、変更が済むという話。

  で、一時間後、接続に再挑戦したのですが、今度は、「メール設定のパスワードが違う」と表示されて、また頓挫しました。 忘れたよ、メールの設定なんて! 大昔にやった事だもの! どうしていいか分からないままに、アウトルックを開いて、設定が載っていそうな辺りを探していくと、パスワードの所が「****」となっています。 なるほど、四文字なわけだ。 私がこの種の設定に使う四文字といったら、二種類しかないので、一つずつ試していったら、二つ目でクリアできました。 やれやれ、ロールプレイングゲームかよ。 つくづく、どんな設定をした時でも、必ず記録をとっておくべきだと、痛感しましたっけ。

  で、午後3時頃に、ようやく、接続に成功! こりゃ、ロケット打ち上げ並みの嬉しさだね。 こんなに苦労したのは、9年前に、ダイヤルアップからADSLに変更した時以来です。 あの時も、やり方が全く分からず、産みの苦しみを味わいましたっけ。 ネットの接続作業というのは、電話会社、プロバイダー、パソコンという、それぞれ独立してシステムを構築している三つの要素が重なるので、一度、壁にぶつかると、一体どの要素が障碍になっているのかを突き止めなければ、サポート・センターに質問も出来ないんですな。 ああ、なんで、こんな苦難を乗り越えなければならないのか。 自分で望んだ変更ではないというのに。

  ところで、新しく設置された光回線用のルーターは、LANケーブルの差込口が四つあるので、今まで使っていた別付けのルーターは不要になりました。 で、私のパソコンからの接続には死ぬほど苦労したのに、父と母のパソコンの方は、何の設定もしないのに、今まで通り接続できるようになっていました。 つまり、私が悪戦苦闘していた相手は、パソコンの設定ではなく、ルーターの設定の方だったんでしょうな。 一度、設定が済んでしまえば、それ以外のパソコンを弄る必要は無いわけだ。

  というわけで、何とか半日程度の空白で、ネットに復帰できたわけですが、これだけ苦労させられたにも拘らず、光になっても、ちっとも速いと感じません。 せいぜい、「画像の取り込みが、少しスムースになったかなあ」と思うくらい。 そうか、だから、NTT西日本の男は、速さについて、何も言わなかったのだな。 料金が高くなるのに、スピードが上がらないとは、一体全体、何の為に光にしたのか、さっぱり分かりません。 なんだか、巧妙な詐欺にあったような気分です。

  以上、長々と書いてきましたが、これは、総合的に見れば、明らかに、≪失敗談≫です。 セールスマンの言葉に手も無く乗せられ、必要も無いのに、むしろ料金が高くなる光回線への変更を承諾してしまった私が馬鹿だったのです。 もし、現在、≪フレッツADSL≫を使っていて、≪フレッツ光≫への変更をしつこく勧められている方があったら、そのつど、しつこく断った方が無難だと思います。 光回線化の工事をすると、今までの電話回線を撤去されてしまいますから、戻すとなったら、また別に工事代金を取られると思われます。 「嫌だったら、また戻せばいい」という気軽なノリは通用しないのです。 そういや、あのNTT西日本の男、その点でも嘘つきやがったな。 まったく、セールスマンというのは・・・・、以下略。

2010/01/17

2010年・冬の読書

今週は、またまた6日稼動だったので、文章を書いている時間がありません。 だもんで、恒例の読書感想文で穴埋めを図ります。 いやいや、そう言ってはいても、半分、いや、4分の1は謙遜でして、決して手抜きではなく、写真を10枚もアップしなければならないので、結構大変なのですよ、これでも。 というわけで、今回も10冊です。 例によって、全部、図書館で借りて来た本。 中には写真集も含まれていますが、まあ、大目に見てください。




≪アザラシの自然誌≫
  イギリスのウェールズ地方に棲むハイイロアザラシとゼニガタアザラシの生態や人間との関わりの歴史を詳細に記した本。 著者は、イギリスに於けるハイイロアザラシ研究の第一人者だそうです。 学術書というほど硬い内容ではありませんが、科学的アプローチによる観察や接触方法をとっていて、信用が置ける内容になっています。

  イギリスでも、60年代頃までは、普通にアザラシ猟が行なわれていたそうですが、著者達の研究によって、アザラシと漁業資源との関係が明らかになり、害獣扱いから、保護の対象に変化していったのだとか。
 野生動物の生息環境を保護するに当たって、地道な学術的調査がいかに重要かが分かります。




≪アザラシは海の犬≫
  これもイギリス人が書いたアザラシの本ですが、呆れた事に、アザラシを捕まえて来て、犬のように躾け、ドーバー海峡横断のパートナーに仕立てようと試みた記録です。 著者の本業はクレソン栽培家で、副業が発明家。 子供の悪戯のような風変わりな事が大好きで、先祖から受け継いだ広大な屋敷に住んでおり、繁殖地から捕まえて来た二頭のゼニガタアザラシの赤ん坊を、庭にある大きな池で調教しようとします。

  この著者、頭の中が子供のままでして、読んでいて、あまりの無責任さにムカムカして来ます。 アザラシ飼育の知識など全く無いのに、専門家でも難しい赤ん坊の保育を無手勝流で始め、人工乳を飲ませる事には成功するものの、魚の餌への移行に失敗し、調教どころか、生かしておく事さえ侭ならぬていたらく。

  二頭の中でいじめが起こると、途端に手に負えなくなり、いじめていた方の一頭を、≪アザラシの自然誌≫の著者に引き取ってもらいます。 ところが、自分が飼っていた方が死んでしまい、引き取ってもらった方が魚の餌への移行に成功して生き残ると、今度は、そちらを借りて来て、テレビ撮影の為にあちこち引き回し、結局は海で逃げられてしまいます。 こんな勝手放題な事をされて、≪アザラシの自然誌≫の著者が、よく怒らなかったものだと不思議でなりません。

  この引き取られたアザラシに関しては、≪アザラシの自然誌≫の中にも記述があるのですが、両者で内容が食い違っている部分があり、≪アザラシの自然誌≫の著者の方が信用度が高いので、余計にこちらの著者がいい加減に見えて来ます。

  そもそも、ドーバー横断のパートナーにするなどという、超が付くほど下らない目的の為に、アザラシの赤ん坊をさらいに行く、その神経が分かりません。 時代が60年代だから許されたのであって、今こんな事をしたら、動物愛護的にも自然保護的にも、世間から吊るし上げられるのは疑いありません。 




≪アザラシの棲む岬から≫
  アザラシの本というより、襟裳岬に住みついたカメラマンの著者の写真エッセイ集です。 アザラシの写真はあまり多くないのですが、水中で撮った一枚に、全身が写ったアザラシが、ギョロッとカメラの方を見ているものがあり、それが大迫力です。 図書館では、動物学のコーナーに置いてありましたが、内容的には、写真集に分類すべきですな。 アザラシについての学術的解説などは無いので、要注意。




≪アザラシの赤ちゃんに出会う旅≫
  カナダ東部、セントローレンス湾の流氷の上で子育てする、タテゴトアザラシの赤ちゃんを見に行くツアーがあるらしいのですが、そのツアーの魅力を紹介した本。 著者は、アザラシの赤ちゃんの写真を日本で流行らせたカメラマンで、この本にも、真っ白い毛に包まれた可愛い赤ちゃんの写真がふんだんに使われていて、写真集としても十分なボリュームがあります。

  ただ、後半、話が変な方向に進み、アザラシ猟を禁止に追い込んだ自然保護団体への批判が出て来ると、「なんじゃ、こりゃ・・・」という感じになって来ます。 著者は何度もツアーに参加している内に、元アザラシ猟師の地元民達と懇意になり、次第にそちらの主張に染まってしまったようなのです。 それでも、本文では辛うじて中立を保っているのですが、あとがきになると、はっきりと、自然保護団体を扱き下ろしてしまっています。 どうも、自分が薦めているアザラシ・ウオッチング自体が、自然保護団体の活動が無ければ実現しなかった事を、理解していないようなのです。

  「猟師だって、アザラシの赤ちゃんは可愛いと思っているのだ」という話が繰り返し出て来ますが、これも猟師の言い繕いに丸め込まれているとしか思えません。 一方で可愛いと思っているのに、一方でその頭をかち割れる人間がいたら、それは狂人でしょう。 猟師の言い分を精一杯良心的に解釈しても、「可愛いと思う時もあるが、殺す時にはそんな事は考えていられない」くらいがいい所ではないでしょうか。

  なまじ、アザラシの赤ちゃんの写真が素晴らしいだけに、猟師に同情を示す著者の態度には、強烈な違和感を覚えます。 そういう主張がしたいのなら、別の本でやればよかったのに。 恐らく、この本を手に取った人のほとんどが、読後、胸がモヤモヤし、著しく興醒めする事でしょう。




≪ネオン街に眠る鳥たち≫
  都市に適応した鳥の研究で有名になった、唐沢孝一さんの本。 前半は、ゴミ焼却場の施設内に大群で入り込んで眠るハクセキレイなど、個別事例が並べられます。 留鳥といっても、やはり冬の寒さはこたえるらしく、少しでも暖かい場所を探して、眠るのだそうです。 後半になると、「なぜ、鳥は群れて眠るのか?」の考察になり、学問の雰囲気が出て来ます。 しかし、あくまでも観察を元にした推論の域を出ず、仮説を実験で確認しようという所までは行きません。 かなり面白い内容なんですが、やはり日本の鳥類学の限界が感じられます。




≪鳥の渡りの謎≫
  鳥が長距離を移動する時に、どんな感覚を頼りに方向や目的地を決めているかを調べている学者達の研究成果を概説した本。 私がここ数年読んだ本の中で、最も科学的に厳格な内容でした。 ハトを使って、様々な実験を行なっているのですが、その実験方法の工夫の仕方が凄まじい。 「ここまでやるのか!」と、タジタジしてしまうほど細かいです。 鳥の渡りの研究をしているのは、専らドイツやアメリカの学者ですが、彼らの科学的探究心が、どれだけ強く深く高いものか、思い知らされます。 この本、対象の種類に関わらず、動物学に興味がある人は、是非一度読んでみる事をお薦めします。

  で、鳥の渡りの仕組みですが、地形の記憶や、地球の磁場、太陽の傾斜角、星の位置、匂いなど、いろいろな要素を組み合わせて利用しているらしいです。 面白かったのは、人間にも磁場を感じる能力があるという件り。 目隠しと耳栓をして回転椅子に乗せ、くるくる回した後、どっちを向いているかを訊ねると、かなりの確率で当たるらしいのです。 実験前数日の寝る時の体の方向が関係していて、地球磁場に合わせて南北方向に向いて寝ると、方向感覚がよくなるのだとか。 方向音痴に悩んでいる方は、試してみてはいかがでしょう。




≪夢の動物園≫
  泣く子も驚く旭山動物園の、現園長である坂東元さんが書いた本。 坂東さんは、テレビで旭山動物園が取り上げられると、必ず登場するので、顔を見た事がある人も多かろうと思います。 この方、恐らく、日本一有名な地方公務員なのではありますまいか。

  ペンギン館やアザラシ館など、旭山動物園の名物施設を構想した時のエピソードの他、御自身が動物と関わるようになった経緯、ボルネオ島へ野生の象を見に行った時の体験記など、盛りだくさんの内容になっています。 とりわけ、これからの動物園の果たすべき役割について語っている後半は、示唆と含蓄に飛んでおり、読み応えがあります。 ただの理想論なら誰でも言えますが、坂東さんの場合、実行に移し、しかも驚異的な成功を収めているので、説得力のインパクトが違います。




≪旭山動物園へようこそ≫
  旭山動物園本の一つ。 「文・坂東元」「写真・桜井省司」とありますが、基本的には写真集で、その合間に、ちょこちょこっと、坂東さんが書いた文章のページが挟まっている形です。 写真はどれも逸品、しかも、かなりページ数があるので、見応えはたっぷりあります。 マリンウェイに縦に浮いているアザラシの姿が、現世離れして美しいです。




≪〈旭山動物園〉革命≫
  旭山動物園が全国区で有名になった時の園長である、小菅正夫さんが書いた本。 題名の通り、旭山動物園の≪革命≫の経緯が記されています。 施設の老朽化で低迷し、閑に飽かせて夢ばかり膨らませていた頃から始まり、エキノコックス騒動で入場者数が最低に落ち込んだ危機や、市長の交代で追い風が吹き始めた時期を経て、行動展示施設の実現で日本一有名な動物園になるまで、波乱の十数年が語られています。 旭山動物園関連の本はたくさんありますが、どんな理由でこんなに有名になったのか、一冊で一通り頭に入れたいのなら、この本が一番分かり易いと思います。




≪旭山動物園のつくり方≫
  日本の動物園史のエポックになりつつある旭山動物園の特徴を、外部の人間の目で観察した本。 批判も賛美も無く、現地で見た事聞いた事を、そのまま書いているという感じを受けます。 経営者側だけでなく、飼育展示員の何人かにも取材して、本音を拾っている所は、丁寧な取材ですな。 かなり大きなサイズの本なので、写真にも迫力があります。

  後半は、前園長の小菅正夫さんと、立松和平さんの対談が納められています。 これはちょっと曲者でして、立松さんが自分の自然保護観を強く主張しすぎており、主客転倒の嫌い無きにしもあらず。 小菅さんが、立松さんに遠慮して、自分の意見を抑え気味に話しているのが分かるので、小菅さん側に立って読んでいる者にはモヤモヤ感が溜まってしまうのです。 対談は論戦と違って、ある程度、相手と話を合わせなければならないので、何かの結論を得ようとするには不向きなんですな。

2010/01/10

放狼忌

突然ですが、学者でも研究者でも、保護活動家でも、動物関係者には、変な人が多いです。 思い込んだら命懸けというか、手段の目的化を起こし易いというか、自分が人間である事を忘れているというか、傍から見ていて異常としか思えない行動や言動をとります。

  変といえば、ペットショップの店長や獣医などにも、何か違和感を覚える人格の持ち主が多いです。 動物を物体としてしか見ていない、異様なドライさを感じます。 しかし、こちらは、金が絡んでいるという点で、ほぼ説明がつきます。 彼らにとって動物は、物体というより、商品なんですな。

  畜産農家や養殖漁業者の動物観もこれに近いですが、殺して出荷する事を前提に動物を飼育しているので、商品視の程度は、更に高いと思われます。 彼らは、動物を育てている間は、確かに愛情を注ぎますが、最終的には殺すのをためらわない、ドライな割り切りも持ち合わせています。

  これが、収奪漁業者や猟師の類になると、その動物観は、「獲物」以外のなにものでもありません。 彼らが口にする、「動物の命に感謝を忘れない」などという尤もらしいセリフを真に受けるのは愚かの極みでして、感謝するくらい相手に配慮しているなら、そもそも殺そうとは思わないはずです。 自分の生業の後ろめたさを言葉で粉飾しようとせず、素直に、「金になるから殺すんだ」と言えばいいのですよ。 その上で、「買う奴らがいるから獲るんだ。 批判するなら肉を食うな。 皮製品も買うな」と消費者に全責任を押し付けてやれば宜しい。 その方が、無理強引な正当化より、ずっと正直に生きられます。

  更に、ハンターと呼ばれる人種に至ると、もはや、金すら絡んでこない、ただの鉄砲遊びになります。 遊びで殺される動物はたまったものではありませんが、ハンター達にしてみれば、動物の意思なんぞ想像した事もないのであって、シカもクマも、イノシシもウサギも、ダーツの的と何ら区別がつきません。 ただ、皮肉な事に、このハンター達が、猟を遊びでやっているからこそ、山の動物達は辛うじて生き延びているのであって、もし商売で殺していたら、ウサギより大型の鳥獣は、一種残らず、とっくに絶滅しているでしょう。

  いきなり脱線しかけているので、話を戻しますが、なんで、「動物関係者には、変な人が多い」などと言い出したかというと、最近、二冊の本を読んで、つくづく、それを思い知らされたからです。 まず、先に読んだのが、↓こちら。



≪オオカミを放つ≫
  新聞やテレビでも時折紹介されますが、外国のオオカミを日本の山に放って、生物環境の食物連鎖を、在来オオカミ絶滅前の状態に戻そうという計画があります。 この本は、それを提案している≪日本オオカミ協会≫のメンバーによる共著です。 主張している内容は、

・ 日本全国でシカが増え過ぎて、植物が食い荒らされている。 シカを人為的に減らすには、射殺や捕殺が有効だが、猟師やハンターの数が減っているため、シカの増加に歯止めがかけられない。

・ シカが増えた原因は、シカを食べる肉食獣がいなくなったためである。 シカを捕食するのは、主にオオカミだが、在来のオオカミは絶滅してしまった。 そこで、外国のオオカミを導入して、日本の山に放ち、生態系を復元すべきである。

・ ニホンオオカミと外国のオオカミは、同一種内の亜種関係にあり、本来同じものであるから、マングースやアライグマのような外来生物の問題は起きない。

・ オオカミが危険な猛獣だというのは童話などで広められたイメージによる誤解であり、人間を襲う事はない。 家畜を襲う事はあるが、日本では畜産農家が少ないので、欧米やモンゴルのような大きな被害にはならない。

  というもの。 この本だけ読んでいると、「なるほど、オオカミ導入は、やってみる価値のある計画だな」と思わされます。 しかし、反対意見があるという事も聞いていたので、公平を期すために、そちらも読んでみる事にしました。 それが、↓この本。



≪ニホンオオカミは生きている≫
  これは、今から十年ほど前に、九州の祖母山で、ニホンオオカミらしき動物を目撃し、鮮明な写真を撮る事に成功した人物が書いたもの。 その動物がニホンオオカミである事を学界に認めて貰うために、様々な資料や専門家の意見を集め、証明を試みた奮闘記です。 この本の最大の魅力は、その動物を撮った10枚ほどの写真でして、そのページを開くと、正に、「食い入るように見る」状態になります。

  こちらが主張している意見は、

・ この写真の動物がニホンオオカミである可能性は極めて高い。 確実に証明するには、捕獲して頭骨を取り出すしかなく、それは不可能だが、さりとて、否定するだけの証拠も無い。

・ 「絶滅した」とされた後に目撃された事例が、この写真の他にも何件かあり、ニホンオオカミは生きている可能性が高い。

・ ニホンオオカミは、外国のオオカミとは明らかに異なる形態上の特徴を持っている。

・ 外国オオカミの日本への導入は、細々と生き残っているニホンオオカミを本当に絶滅させてしまう恐れがある。

・ 外国オオカミ導入を議論する前に、ニホンオオカミの生息状況について、行政の力で徹底した調査を実施し、生存が確認されたら、保護を行なうべきである。

  といったもの。 この本の文面には、≪日本オオカミ協会≫への燃え盛る対抗心がありありと見て取れて、鬼気迫るものさえ感じますが、「外国オオカミを放たれたら、ニホンオオカミはおしまいだ」という危機感が強烈なためでしょう。

  ああ、ちょっと紛らわしいので、断っておきますが、≪日本オオカミ協会≫というのは、「日本の、オオカミ協会」という意味で、「ニホンオオカミの、協会」ではありません。 ≪日本オオカミ協会≫は、最初から、「ニホンオオカミは、すでに絶滅している」という見方をしており、だからこそ、外国オオカミを連れて来ようという発想が出て来たわけです。 ちなみに、≪ニホンオオカミは生きている≫の方の著者は、≪オオカミ党≫というグループを作っているそうです。 


  でねー、この二冊、続けて読んだわけですよ。 両方に目を通しておいて応じ合せでして、もし一方だけ読んでいたら、そちらの主張に手も無く釣り込まれて、入会もしくは入党しているところでした。 危ない危ない。 双方の意見を直接聴かなければ、公平な裁定はできないのだという事がよーく分かりましたよ。 居住まいをただし、客観的視点に立って、双方の言い分を比べて、改めて抱いたのは、「こんな争いには、首を突っ込まないのが一番だな」という感想です。

  論点が直接には噛みあっておらず、分かり難いので、まずちょっと整理してみましょう。 ≪放つ≫の方の計画は、「ニホンオオカミは絶滅した」という事を前提にしています。 それに対し、≪生きている≫の方は、「絶滅していない」と言っているのですから、≪放つ≫の計画の前提を崩している事になります。

  単純に考えれば、前提を崩されてしまった≪放つ≫側の負けのようですが、そうは問屋が卸さないのであって、≪生きている≫側は、写真と目撃証言以外に、生きている事を証明する根拠が無く、学界や行政を動かすほどの説得力を持っていないのです。 ≪放つ≫側は、そもそも、その写真をニホンオオカミだと認めていないのであって、≪オオカミを放つ≫の本の中でも、≪ニホンオオカミ生存説≫に対しては、反対意見を述べる事さえせず、無視を決め込んでいます。

  じゃあ、≪放つ≫側が優勢なのかというと、そうでもないのであって、著者達自身も認めているように、「いつまでたっても、外国オオカミを放す事に対する、世間の理解が深まらない」と嘆いています。 それねえ、無理も無いですよ。 かなり極端で軽薄な性格である私ですら、その計画について最初に新聞で読んだ時には、「なんだか、子供の思いつきみたいな話だな」と思ったくらいですから。

  ≪放つ≫側の人達が、この計画を実行してみたいと思う気持ちは、私にも分かるのです。 シカの食害問題の解決という表向きの目的は別にして、「日本の山にオオカミが戻って来る」と思うと、何となくワクワクしますよね。 一度思いついたら、取り止める事が出来ないような、大きなロマンを感じます。 アメリカの≪イエローストーン国立公園≫で、カナダからオオカミを移住させた例があり、そこそこ順調に成果を上げているらしいので、必ずしも突飛な発想ではないわけで、おそらく日本でも、実行すれば、シカ害を減らすのには効果を表わす事でしょう。

  ≪放つ≫側の人達は、世間の無理解の最大の原因は、「オオカミは危険な動物だ」と見做す誤解にあると分析しているようで、それを解こうと、非常に多くのページ数を割いています。 確かに、オオカミ猛獣視はあると思います。 ちょうど、ツキノワグマに対する見方と同じですな。 ただ、もしそれだけなら、オオカミが人を襲わない事を地道に説得していけば、いずれ理解はされると思います。 実際に、襲わないわけですから。 ペットとして、イヌを飼う家庭がどんどん増えていますから、イヌ科の最近縁種、というか、≪野生のイヌ≫と言ってもいいオオカミに興味を持つ人も確実に増えているはずで、正しい知識が広まる素地は着々と固まりつつあります。

  だけどねえ、ニホンオオカミが生き残っている可能性があるとなれば、全然話は別ですわ。 こりゃもう、確実な証拠なんぞ不要にくらいでして、ただその可能性があるというだけでも、「外国オオカミの導入なんて以ての外だ!」という事になってしまうでしょう。 ニホンオオカミと外国オオカミを、「単なる亜種関係であり、種としては同じものだ」などと、軽く片付けてしまっている点も、≪放つ≫側の失策でして、この種の問題に興味を持つ人ほど、亜種の違いがそんな簡単に無視できる要素でない事に、すぐ気付きますから、「重大な事を、大した問題ではないかのように見せ掛けている」と取られると、「この連中、世間を騙そうとしているのではないか?」という疑念が生まれやすいです。

  ここで、奇妙に感じるのは、≪放つ≫側がなぜ、ニホンオオカミが生きている事を歓迎しようとしないのかという点です。 オオカミを放すのは、確かにロマンですが、ニホンオオカミが生きているというのも、それに勝るとも劣らないロマンなのであって、そちらには、なぜ興味を示さないのか? 「たとえ、ニホンオオカミが生き残っていても、全国に満遍なく増えて、シカを捕食してくれなければ意味が無い」と考えているのか? しかし、シカの駆除と、ニホンオオカミの生存のどちらが重要かと言えば、そりゃもう、ニホンオオカミの方が遥かに重要でしょうに。 農林業関係者が、「シカを駆除する方が大事だ」と言うのなら分かりますが、≪放つ≫側の面々は、みな生物関係の学者・研究者なのであって、希少種保護の重要性が分からないわけではありますまい。


  さて、では、私が、≪生きている≫側に全面的に共感しているのかというと、そうでもないのです。 この著者は、当人自ら、「在野の研究者」と言っていますが、それは別に問題ないとしても、元教員で、校長まで勤め、教えていた専門は英語、趣味で鳥類の研究をしていて、オオカミ研究を本格的に始めたのは、ニホンオオカミを目撃・撮影する少し前だったという、その経歴がちょっと中途半端なのです。 「若い頃からオオカミ一筋!」とまでは言いませんが、せめて哺乳類の専門家だったら、だいぶ説得力が違って来たでしょう。

  専門家でないために、写真の動物の鑑定を、日本の哺乳類研究の第一人者という学者に依頼しているのですが、この学者さんが、当人も認める高齢者でして、「間違いなくニホンオオカミだ」と断言する一方で、「尻尾の先が丸くなっているのがニホンオオカミの特徴だったとは、今まで気付かなかった」などとも漏らしており、「おいおい、大丈夫か、この第一人者?」と、読んでいる方は、否が応でも不安の霧に包まれてしまいます。 この学者だけでなく、ニホンオオカミという種の特定自体が、非常にあやふやな基盤の上に乗っているらしく、シーボルトが送った標本を持っているライデン博物館の研究者などは、「シーボルトの標本も、写真の動物も、オオカミではなく、野化犬だと思う」と言い出す始末。

  シーボルトの標本は、ニホンオオカミの標準になっている物で、それがオオカミでないという事になったら、ニホンオオカミという種がいたかどうかすら怪しくなって来ます。 ニホンオオカミの問題について調べた事がある人なら、必ず見聞きした事があると思いますが、日本の古い文献では、≪狼≫と≪山犬≫の呼称が混乱しています。 単なる別名だという人もいれば、両者は別の種であるという人もいて、定説が成立していません。

  さらに、「オオカミとイヌは、DNA鑑定で区別する事ができないほど近い」などと言われると、もはや、「オオカミというのは、一体、何なんだ?」と、疑念の対象が根源的な所まで後退してしまいます。 ちなみに、オオカミとイヌは交雑が可能なので、≪種≫の定義によっては、同一種内の亜種関係にあると言う事も不可能ではありません。 実際、ヨーロッパの学者の間では、「イヌはオオカミが家畜化したものに過ぎない」と見做されているのだとか。 オオカミ全般についてすら、このあやふやさですから、絶望的なまでに残存資料が少ないニホンオオカミに至っては、科学的な検証に耐える基盤ができていないのです。

  ただ、だからといって、「ニホンオオカミなどという種はいなかった」と断言する事はできません。 ましてや、「ニホンオオカミという種はいなかったのだから、現在も生き残っているはずはなく、外国オオカミを導入しても問題はない」という事には、ますますなりません。 もし、日本にオオカミがいなかったのだとしたら、≪放つ≫側が言う、「オオカミの復活」という主張は、成立しなくなります。 また、ニホンオオカミが単なる野化犬であれば、わざわざ外国オオカミを導入しなくても、イヌはいくらでもいるのですから、日本犬を山に放って野化すれば、それで良いという事になります。 あああ、何から何まで、あやふやだ!


  さて、この本の著者、フィールド調査重視で、退職後、ありあまる時間を活用して、泊り込みで山中を渉猟しているそうですが、使命感を伴う趣味に全力を注ぎ込める生活には、大いに羨ましさを感じる反面、やり過ぎの感も否めません。 こうと頻繁にテリトリーに入ってこられては、ニホンオオカミがいたとしても、逃げて行ってしまうのではないでしょうか。 ≪生きている≫側としては、生きている証拠例を積み重ねなければならないわけで、その為には、山で調査せざるを得ないのですが、オオカミにしてみれば、執拗な調査者の存在は、生活の障碍以外の何ものでもありません。

  この人一人ならまだいいですが、≪生きている≫側の賛同者が増え、「俺も俺も」と全国の山へ分け入って行ったら、そのせいで、ニホンオオカミの棲める空間は失われてしまいます。 ほら、そう思うと、共感するにも限度があるでしょう? 実際、この本を読んで、「自分も近くの山を調査してみよう」と思い立った人が相当いると思うのですが、それがニホンオオカミの生存にとって、いい結果を齎すとはとても思えません。


  当人達は否定するでしょうが、≪放つ≫側と≪生きている≫側、どちらも、オオカミの事を考えているというより、自分の人生の価値を高めようとしているだけに見えるのです。 ≪放つ≫側は、「日本にオオカミを復活させた」という業績が欲しい。 ≪生きている≫側は、「ニホンオオカミの生存を証明した」という業績が欲しい。 活動の動機は、それだけはないと思いますが、あとは、どちらも同程度の、ロマンの追求といったところじゃないでしょうか。 良かれと思って悪くしている点は、どちらも変わりません。


  「では、どうすればいいのか?」というと、私個人の哲学で言わせて貰えば、何もしないのが最善の道だと思います。 ニホンオオカミの生存調査はしない。 そして、外国オオカミの導入もしない。 もちろん、山でニホンオオカミらしき動物を見かけても、追いかけたり、殺したりしない。 マスコミや学者に通報もしない。 ないない尽くしで押し通すのです。

  ≪生きている≫側は、「生存を確認した上で、行政による保護を」と言っていますが、私ねえ、日本の政治家や官僚が、保護区を設けるほど、ニホンオオカミの保護に力を入れてくれるとは、到底思えないのですよ。 日本では、山といっても、必ず誰かの所有物です。 国公有地ならともかく、私有地では、立ち入り禁止とか難しいでしょう。 登山道がある場合、それも閉鎖した方がいいですが、登山者が、「はい、そうですか」と納得するとは思えません。 また、立ち入り禁止にするには、フェンスや鉄条網などで境界を仕切らなければ徹底が難しいですが、その境界が動物の移動を制約して、却って絶滅種を増やしてしまう危険性もあります。

  「ないない尽くしでは、保護しているとは言えない」と言いますか? いや、それでいいんですよ。 自然というのは、人間に保護されて存在するものではないのですから。 自然はもはや、人間が戦う対象ではありませんが、だからといって、保護する対象かといえば、それも違うと思います。 人間が保護したら、それはもう自然ではなく、人工的な存在になってしまいます。 戦うのではなく、保護するのでもなく、接触しないという第三の選択が、今後、人間が自然に対して取れる、最も結果が悪くならない道だと思うのです。

  でも、こんな事言っても、どちらの側も、自分達の活動を、絶対やめないだろうねえ。 だって、ライフワークにしてるんだものねえ。 やれやれ、結局、人類が滅亡して、本来の意味で自然が回復して来るのを待つしかないのか。 大きなスパンで見れば、次の氷河期が来れば、日本列島は大陸と氷続きになりますから、否が応でも外国オオカミが渡って来て、山野を覆い尽くす事になります。 そして、また、氷河期が過ぎれば、住みついた外国オオカミが日本列島の固有種になって、新たなニホンオオカミが出現するわけです。 人間の時間感覚で見ているから、醜い争いが起こるのであって、地学的時間で見れば、「この世はなべて事もなし」なんですな。

2010/01/03

カーナビで迷う

  昨年末12月26日、連休初日の事ですが、朝飯を食べていたら、父が急に、「カーナビが欲しい」などと言い出しました。 叔父さんが亡くなった事は先日書きましたが、連絡を受けて叔父さんの家へ行ったその帰り、夜中に道に迷ってえらい目に遭ったらしく、その時、痛烈に、「ナビがあれば・・・」と思ったのだそうです。

  まあ、一時的な物欲衝動だという事は分かっているのですよ。 なぜというに、父は私以上に出不精で、車で出掛けるといっても、せいぜい、隣り合った市町村にしか行かないのですから、ナビなんざ必要なわけがありません。 ただ、ちょっと高価な物を買って、散財してみたいだけなのですよ。 理性的に判断するなら、とんだ無駄遣いです。

  でもね、最近、父が言うのですよ。 「どうせ、もう、あと何十年も生きる歳ではないのだから、金なんか残していても仕方がない」とね。 それはそれで一理あると思うので、反対せずに、手伝ってやろうと思ったわけです。


  で、カーナビですが、「ポータブルでいい」というので、新聞の折り込み広告を探してみたところ、安くても3万円台でした。 ネットで見ると、遥かに安く、12000円台が最安値でしたが、3.5インチでは見難いだろうという事でパス。 その上は、4.3インチで、16000円台。 一度は、それで決まりかけたんですが、ネットでユーザー・レビューを読んでみたところ、「ダッシュボードの上に取り付ける為の吸盤が剥がれ易い」、「地図の更新に結構金がかかる」などと、購入意欲を殺ぐような事を書いてあります。 それを父に言うと、「やっぱり、要らない」と言い出しました。

  それでも、私としては、漕ぎ出してしまった舟なので、その日の午後から、家電量販店を何軒か巡ってみました。 ところが、店頭に並んでいるのは、軒並み高価な品ばかり。 ネットに安い物があるのを知ってしまっていると、倍近い価格には、どうにも納得が出来ません。 機能的には、ワンセグ対応だと、どーんと高くなりますが、父も私も、車でテレビを見るつもりは無いので、それは必要ありません。 でも、店頭だと、ワンセグ無しでも、3万円はするのです。

  で、結局、何も買わず、候補さえ決められずに、虚しく引き上げてきました。 まあ、当人がもう要らないと言っている以上、私がお節介を焼く理由は無いんですが、「欲しい」というものを、難癖情報を吹き込んで、諦めさせてしまって、そうこうする内に、ポックリ逝かれてしまったりしたら、後悔してもしきれないだろうと、つまらん心配をするわけですよ。 父も、一度は諦めたものの、話を振ると、まだ未練がある様子。 そうとなれば、孝行息子を演じたがっている私としては、暇潰しも兼ねて、調査を続行せざるを得ないわけです。


  カーナビを買った事が一度も無いので、値段やカタログ情報だけでは、比較するにも基準が分からず、ネットのユーザー・レビューを隅々まで読む事になりました。 で、予想していた通り、今回も嫌~な思いをさせられました。 かなり前に、≪悪質レビュアー≫という文でも書いたんですが、ユーザー・レビューという奴、大部分は参考になるものの、必ず幾つかはろくでもない書き込みが含まれていて、非常に悪い気分になるのです。

  一番性質が悪いのは、その製品を買ってもいないくせに、「値段が安いんだから、そんなもんでしょ」などと、十羽一絡げで貶す奴です。 馬鹿の一つ覚えで繰り返すセリフが、「安かろう悪かろう」。 高い物の性能や品質が良いのは当たり前なのであって、良い物を少しでも安く買いたいと思うからこそ、レビューを読むのですが、その意味が全然分かっていません。 こういう輩、昔からいますが、一向に根絶できませんな。 明らかに営業妨害をしているのですから、メーカーが素性を調べて、告訴してやるのが良いと思います。

  次が、買ってもいないのに、憶測で、「その機能はあるはずです」といった回答を書き込む人です。 悪意は無いとはいえ、いい加減な情報を流している事に変わりはなく、やはり、まずいでしょう。 それを鵜呑みにした人が、買ってから話と違う事が分かったら、怒るに決まっています。 「国内メーカーなら、旧製品でも、サポートを打ち切るような事はありません」などと、自信満々で回答している人もいましたが、一体、何を根拠にそんな事を断言しているのやら。 旧製品のサポート打ち切りは、国に関係なく、普通に行なわれている事だと思いますが。 ただの世間知らずか?

  三番目が、メーカーに問い合わせもしていないのに、製品の欠陥について愚痴をこぼす人。 工業の常識ですが、どんな製品であっても、必ず不良品というのは出るのであって、その為に、サポート・システムが用意されているのです。 ネットで陰口など叩いていないで、まず、問い合わせるべきですな。

  四番目、ユーザー情報を訊ねられているのに、「メーカーのサイトを参照してみてはどうでしょう」などと、分かりきった事を答えている人。 これも、悪気はないのだと思いますが、常日頃、他人をみんなボンクラだと見做していなければ、こんな言われるまでもない事が質問の回答になるとは考えないでしょう。 誰だって、メーカーのサイトくらい見てるっつーのよ。 自分で答える気が無いなら、書き込むなっつーの。

  最後に、読んでいて頭痛がしてくるのが、誤字の多さです。 レビューを書く人々というのは、個人サイトの掲示板に出入りしている人達とは、識字レベルが違うんですな。 ありえないような誤字の頻度で、社会言語学的には興味深いですが、正直、うんざりしてしまいます。 たとえば、「測位する」を「即位する」と書いていて、しかも、それが一文中に何回も出て来ます。 つまり、うっかり見落としたのではなく、そもそも字を知らないのでしょう。 カーナビが、何に即位するっちゅーねん?

  いろいろ列挙しましたが、誤解の無いように言っておきますと、誤字だけは満遍なく見られるものの、その他の問題書き込みは全体の5%くらいで、ユーザー・レビューそのものは、大変、参考になります。 やはり、使った人でないと分からない事は、たくさんあるんですな。


  さて、メーカー・サイトだの、価格サイトだの、ユーザー・レビューだの、あれこれ読み倒した結果、目当ての機種がほぼ決まったので、29日の朝、父に報告してみたところ、「OK、注文せよ」との事。 やっぱり、諦めてはいなかったんですな。 サンヨーの、≪ゴリラ・ライト≫という製品で、5インチ、ワンセグ、内蔵バッテリー、ACアダプター付。 取り付けは吸盤式ですが、特殊な吸盤で、吸着力が強いのだとか。 ネット通販で、32000円くらい。

  ワンセグとACアダプターが付いているので、家でテレビとしても使えるとの事ですが、ま、父の生活習慣から考えて、そんな使い方はしないでしょう。 内蔵バッテリーが3時間超もつので、散歩のナビにも使えると書いてありますが、ま、父の生活習慣から考えて、そんな使い方もしないでしょう。 でも、どうせ、一時的な買物衝動に決まっているので、カーナビだけだと、すぐ飽きてしまうに違いありません。 テレビ機能もあれば、潰しが利くだろうという深謀遠慮です。

  無くてもいい物に、32000円もする機種を選ぶなど、私の買物だったら言語道断ですが、ま、父の財布だから、どーでもいいんです。 価格より、父が後々、「損した」と思わないような物を選ぶ方が肝要です。

  注文先は、≪Amazon≫。 もっと安い店もあったんですが、新たに個人データを打ち込むのが面倒なので、パスしました。 ≪Amazon≫のショップ評価は、意外なほどに低いですが、どうやら、有料の≪お急ぎ便サービス≫が予告通り着かないのが不評の原因になっている模様。 私は別に急がないので、関係ないですけど。

  で、29日の朝に注文し、30日の夜に届きました。 実は、午後2時半頃に来たらしいのですが、母が家にいたにも拘らず、二階で掃除機をかけていて呼び鈴に気付かず、帰られてしまったのです。 まったく、自分の物でないと、これだよ。 ヨン様グッズだったら、買物にも行かずに、居間に籠城して待ち構えているくせに・・・。 電話して、夜に再配達してもらい、無事到着。 注文から一日半ですから、申し分ない速さでしょう。


  で、これを書いているのは、年が明けた、1月2日なのですが、未だに電源を入れていません。 「まず、父に説明書を読んでもらわなければ」と思って、任せておいたのですが、厚さ1センチもある説明書が難しすぎて、ちっともページが進まないと言うのです。 そこで、私が先に読む事になりましたが、なるほど、これは難しいわ。 カーナビが他の電気製品と勝手が違うのは、車に載せなければ試す事ができないという点です。 内蔵バッテリーやACアダプターがあるとはいえ、ナビゲーションが正常に作動するかどうかは、車で実際に移動してみなければ分かりません。 まったく、煩わしい機械だわ。

  ここまで加担しておいて、今更こんな事を言うのもなんですが、私はカーナビには興味が無いんですよ。 車も所有していませんし、父の車を借りる事があっても、勝手知ったる近場しか行きませんから、カーナビなんて、いらいらん。 百歩譲って、遠出する事があったとしても、地理感覚はいい方なので、紙の地図で曲がる交差点を予め調べていけば、あとは道路標識を見ながら、確実に目的地に辿り着く自信があります。

  だもんで、自分が必要としていない物には、興味が湧かないんですな。 買う段階だけ手伝うつもりだったのに、まさか説明書を読む羽目になるとは・・・。 あー、面倒臭い。 ・・・いや、読みますよ。 父の金とはいえ、32000円もした物を、ガラクタにするわけにはいきませんから。 使えるようになったら、また、感想でも書く事にしましょう。