読書感想文・蔵出し (126)

≪照柿 一・二・三・四≫
大活字本シリーズ
社会福祉法人 埼玉福祉会
2010年5月20日 発行(限定部数 各巻500部)
高村薫 著
沼津図書館にあった、ソフトカバーの大活字本です。 四冊で、長編、1作を収録。 合計、1320ページですが、大活字本なので、普通の単行本や文庫本なら、もっと少なくなるはず。 別に、大活字本で読みたかったわけではなく、沼津図書館の本館には、≪照柿≫が、大活字本でしか置いてなかったのです。
「照柿」は、「てりがき」と読み、臙脂色に近い色の名前です。 柿の話ではない事は、読み始めれば、すぐに分かります。 1994年の発表。 2006年に、講談社文庫。 発表時と、文庫化された時とでは、大幅に改稿されているとの事。 高村さんは、そういう手直しを、よくやるのだそうです。 1995年に、NHKでドラマ化されているようですが、私は見ていません。
羽村市にある機械部品の加工工場で、焼入れ部門の管理職をしている野田達夫は、反目していた父の訃報を受けとったが、葬儀に参列する為に、鉄道で大阪へ向かおうとした駅で、18年来会っていなかった幼馴染みの合田雄一郎に、ばったり出くわす。 合田は、警視庁の刑事で、ホステス殺しの容疑者を取り調べる為に、大阪へ向かうところだった。 野田は、次々と問題が起こる仕事や、家庭不和に疲れ果て、合田は、捜査の為に、暴力団に近づき過ぎて、賭博に手を出してしまい、各々、未来が閉ざされた思いをしていた。 そこへ、野田のかつての恋人、佐野美保子が関わって来て、三人の運命が、脱線に向けて、軋み音を立て始める話。
殺人事件が、2件起こりますが、最初の事件は、合田を登場させる為の前座に過ぎず、メインは、2件目の方です。ところが、その2件目が、計画性も動機もない、衝動殺人でして、トリックも謎も、介在する余地なし。 半分を超えてから始まる、倒叙物とでも言いましょうか。 推理小説というより、犯罪小説。 いやいや、この文章の濃密な描写は、純文学のそれでしょう。
2件目の事件の動機があまりにも薄弱なので、推理小説、もしくは、犯罪小説のつもりで読んでいた読者は、大いに戸惑うと思います。 私も、狼狽しました。 これは、大欠陥なのではないかと・・・。 しかし、そもそも、高村さんの作品は、推理小説ではないのであって、トリックは出て来ませんし、謎は出て来ますが、それ自体が読ませどころではないです。 犯罪をモチーフにはしているけれど、犯罪が描きたいのではなく、人間を描くのに、犯罪に関わらせるのが、一番 人間らしい醜さの本質が出ると考えているからでしょう。
純文学のつもりで読めば、「不条理」というテーマで、2件目の事件を、すんなり受け入れる事ができます。 カフカ作、【変身】とか、カミュ作、【異邦人】とか、あの系統。 それらに比べれば、動機の説明が薄弱などという事は、全く感じないのであって、むしろ、逆。 犯人が、どういう経緯で、罪を犯す心境に追い込まれていったかは、これでもかと、くどいくらい、細かく描き込まれています。 それを読者に印象付ける為に、この小説が書かれたとまで言っても、過言ではない。
高村作品独特の、詳細を極める専門知識ですが、この作品では、「工場の焼入れ工程」、「ヤクザの賭場」、「美術界」の三点が、盛り込まれています。 はっきり言って、くどい。 この本を手に取る、99.9999パーセントの読者にとって、いずれも、知らなくてもいい事ばかり。 多くの人が、自分が仕事にしている分野では、こういう専門知識を持っているわけですが、普通、外部の人には、話しません。 全く通じないし、そもそも、興味すらもってもらえないからです。
高村さんが、この種の専門知識を、リアリティーを出す目的で、作品に盛り込んでいるのは、まず間違いないところ。 非常に高度ではあるが、所詮、ハッタリの類いなので、あまり高く評価し過ぎるのも、どうかと思います。 舌を巻くにしても、「こんなに詳しい事を、一体、どんな取材をしたら、調べられるのだろう?」程度で収めておいた方が無難です。 そもそも、門外漢には、高村さんの書く専門知識が、正しいのか間違っているのかの判定すら、できないのですから。
≪地を這う虫≫
株式会社 文藝春秋 1993年12月1日 第1刷
高村薫 著
沼津図書館にあった、ハード・カバーの大活字本です。 短編、5作を収録。 全体のページ数は、約301ページ。
【愁訴の花】 約64ページ 1992年12月
警察を辞め、警備会社に再就職していた元刑事のもとに、かつての上司で、警視になったばかりの人物が、肝臓を悪くして瀕死の床にあるという報せと、かつての後輩で、妻殺しで服役していた男が、刑務所から出たという報せが届く。 後輩の事件には、殺された妻の、為人や素行、金回り、交友関係に不審な点が多かった。 後輩が出所した事で、停まっていた過去の事件が、再び動き出す話。
視点人物が、警察を辞めているのは、警察上層部の不正が絡んでいるから、内部にいる者では、解決が難しくなるからでしょう。 このページ数では、勿体ないくらい、凝ったストーリー展開になっています。 細部を書き込めば、長編にできるボリュームがあるので、ドラマにすれば、脚本家は、簡単に、2時間物に仕上げられるでしょう。 調べてみたら、案の上、1999年に、NHK・BSで、1時間半のドラマになっていました。 民放なら、CM入れて、2サス枠で放送という事になりますな。
逆に考えると、このページ数では、内容を欲張り過ぎているとも言えます。 読み応えはありますが、短編独特の小気味良い切れ味はありません。 といって、そういうものの欠如は、貶すほどの事でもないです。
【地を這う虫】 約56ページ 1993年3月
姻戚から被った家庭の事情で退職した元刑事の男。 経済的理由で別居する事になった妻子に仕送りする為に、倉庫管理の仕事と、別の会社の警備員の仕事を掛け持ちしていたが、唯一の楽しみは、二つの職場と住居の間を移動する時に、住宅地を歩き回り、仔細に観察して、気が付いた事を書き留める事だった。 ある時、その住宅地で、空き巣事件が連続したが、どの家でも、何も盗まれたものはなかった。 元刑事の血が騒いだ男は、空き巣が入った家の共通点を調べ始めるが・・・、という話。
非常に、大変、ハッとするくらい、面白いです。 ベースにしているのは、ホームズ物の【空き家の冒険】だと思いますが、こちらの方が、千倍、優れています。 これは、短編推理小説として、傑作にして、名作なのでは? 古今東西 見渡しても、こんなにゾクゾクする短編は、そう幾つもありますまい。
主人公の極端な性癖が、話の肝なのですが、こういう細かい性格の人間て、実際に いますよねえ。 もしかしたら、高村さん自身も、そういうところがあるのかも知れません。 でなければ、そもそも、こんなキャラクターを思いつかないし、小説の中に描き込む事もできないでしょう。
この作品が、この短編集の表題作になっているのも、むべなるかな。 とにかく、読むべし。 絶対に、損はしません。 ただし、同じような性格だであったとしても、この主人公の趣味を真似ないように。 元刑事だから、何とかなったのであって、一般人がやったら、どんな事になるか分かりません。
【巡り逢う人びと】 約60ページ 1993年7月
警察組織に嫌気がさして辞職し、サラ金会社に再就職して、取り立て担当になった元刑事。 その会社では、最後の取り立て要員として、暴力団の組員を使っていたが、元刑事が厳しく言い聞かせてあったにも拘らず、債務者側の従業員への傷害容疑で、引っ張られる者が出てしまう。 元刑事は、取り立ての責任者として、失職する恐れが出て来るが、意外な人物が債務者であった事が分かり・・・、という話。
「借りた金を返すのは、当然の事だから」と、借金の取り立てを仕事にした事に、負い目を感じていなかった主人公が、自分の古い友人が事件に関わっていたと知って、豹変し、立場も忘れて、友人を救おうとするのですが、ちょっと、極端とは思うものの、まあ、人間というのは、こういうものなのかも知れませんな。
小説として、面白い、楽しい、という感じはしません。 主人公を、世間体のよくない職業に就かせていると、本人に矜持があろうがなかろうが、読者がついて来ないものです。 読書習慣がある人間の大半は、法律的にも、道義的にも、善良な人達ですから。
【父が来た道】 約62ページ 1993年11月
大物政治家の後援者をやっていて、選挙不正の責任を負わされ、有罪判決を受けて、服役中の父親をもつ、元刑事の男。 父親の事件の関係で、警察を辞めた後、その政治家に誘われて、お抱え運転手になったが、裏で、警察に依頼されて、政治家の動向を探るスパイも務めていた。 政治家が体調を崩して入院した直後、病室に呼ばれた男は、政治家から、お前がスパイである事は承知していたと聞かされ・・・、という話。
政治の世界が、いかに汚らしいかを描くのがテーマ。 これが、民主主義社会の現実かと思うと、げんなりして来ます。 当然、裏で、金や利権が動いており、だからこそ、警察・検察に目をつけられているわけですが、この話では、必ずしも、そういう状況を批難しておらず、淡々と、現実を描写しています。
極めつけはラストで、普通、善悪バランスを取って、不正をしている者には、何らかの罰が下されるものですが、そうはなりません。 大物政治家は、高齢ですから、時折り入院するのは、普通の事であって、罰とは言えませんからのう。 そればかりか、主人公も、勤めを続けるようで、些か、呆れてしまいます。 しかし、「これこそが、今の政治のリアル」と言えば、確かに、その通りでして、主人公一人を、不正を許さない人物にしたとしても、いっとき、僅かに溜飲が下がるだけで、全体の構造は、何も変わらないんですな。
この話、2005年に、阿部寛さん主演で、ドラマ化されています。 私も見ているんですが、冒頭部分以外、ほとんど、覚えていません。 ネット情報で知ったドラマのあらすじと比べると、原作小説の方は、ずっと地味で、大きな事件は起きません。 逆に言うと、だからこそ、より、リアルなわけですが。
【去りゆく日に】 約59ページ 1993年秋
翌日に定年退職を控え、刑事として最後の一日を迎えた男。 一ヵ月前に起こった殺人事件で、川の土手の階段から落ちた被害者の、衣服が整えられていた点に違和感を覚え、犯人か、その共犯に、細やかな配慮が習慣になっている女がいるのではないかと調べを進めていたのだが、最終日の夜になって、被害者の後妻が怪しい行動に出て・・・、という話。
公務員だからでしょうが、誕生月ではなく、年度末に、一斉退職するんですな。 同じ年生まれが、一遍に抜けると、職場が困ると思いますが、まあ、そんな事まで、私が心配してやる必要はないか。 それにしても、刑事というのは、足が命の職業だと思いますが、退職寸前まで、現役で務まるものなんですかねえ。 歩くのはともかく、走るのは、無理が利かないでしょう。 20代の犯人が逃げ出したら、59歳の足では、絶対、追いつけないと思います。
不粋なツッコミはそのくらいにしておいて・・・、話自体は面白いです。 退職前日で、上司からも部下からも、「もう、いないも同然」の扱いを受けている人物が、捜査本部が誤認逮捕をやらかしている間に、真犯人に近づいて行くのですから、それを読んでいる読者が、小気味良さを感じないわけがない。 巧い語り口ですなあ。
この作品も、映像化されていて、2009年に、小林稔侍さん主演で、2サス枠のドラマになっています。 私も見ていて、印象深く記憶に焼き付いています。 原作の通りだと、短か過ぎて、1時間で終ってしまうので、主人公の妻が、詐欺に引っ掛かりそうになるエピソードを足しています。 1.5倍くらいに水増しされていたわけですが、取り立てて不自然さを感じなかったのは、脚本家にも実力があったんでしょう。 殺人事件の方に限って見れば、原作に忠実に映像化されています。
≪レディ・ジョーカー 上・下≫
毎日新聞社
上巻 1997年12月5日 第1刷 1997年12月20日 第3刷
下巻 1997年12月5日 第1刷 1998年12月24日 第8刷
高村薫 著
沼津図書館にあった、ハード・カバーの単行本です。 上下巻二冊で、長編1作を収録。 全編のページ数は、約855ページ。 冒頭部のみ、一段組。 それ以外は、二段組。 1995年6月から、1997年10月まで、「サンデー毎日」に連載された作品を、単行本化に当たって、大幅に改稿したもの。
ビール業界最大手のメーカーに勤める重役の一人が、娘が結婚したがっていた相手に対して、差別意識から承諾を与えなかった事が発端になり、相手の青年は交通事故死し、数年後、その父親が自殺する。 姻戚の老人が、孫の仇をとろうと、競馬仲間に声をかけて、企業を恐喝しようと企てる。 仲間には、現職の刑事も含まれていて、警察の捜査方法を知り尽くした周到な計画が立てられるが・・・、という話。
基本的な筋は、そうなんですが、尾鰭がついて、膨れ上がっています。 尾鰭の方が、ボリュームが多くて、本筋は、いつのまにか、脇に追いやられてしまいます。 それにしても、こんなに筆力がある人物が、この世に存在するというのは、心底、驚きです。 一般読者は言うに及ばず、プロ作家の面々でも、「こんな大作は、とても書けない」と、舌を巻くんじゃないでしょうか。 ただ長いだけというのではなく、密度が違うのです。
「レディ・ジョーカー」というのは、犯行グループの名前。 メンバーの一人に、障碍を持つ子供がいて、「レディ」と呼ばれているのですが、障碍がある故に、父親が、「自分の人生のジョーカーだ」と言っていたのが、理由。 実際の発音は、「レディー・ジョーカー」なんでしょうが、様々な「仕組み」に興味津々で造詣深い高村さんでも、「レディー」より、「レディ」を選んでしまうのか、はたまた、編集者の意向か。 言語学を学んだ者としては、致し方ないと言う気はないです。 「レディ」なんて言葉は、日本語にはありません。 誰でも、必ず、「レディー」と伸ばしているはず。 でなければ、通じますまい。
それはさておき、群像劇でして、「犯行グループ」、「ビール会社の経営者達」、「警察の捜査関係者」、「新聞記者達」、といった面々が、それぞれ、視点人物となって、入り乱れます。 「総会屋」と、「政治家」も出て来ますが、そちらは、視点人物になる事はありません。 【マークスの山】や、【照柿】にも出て来た合田警部補が、所轄署の捜査員になっていて、一番、露出が多いですが、主人公と言うには、ちと、弱いか。 そのくらい、群像劇度が高いのです。 とりわけ、ビール会社の社長は、合田と同じくらい、重要な登場人物として描かれています。
50歳以上の人なら、1984・85年に起こった、「グリコ・森永事件」を記憶していると思いますが、この作品の内容は、明らかに、それをなぞっています。 菓子会社を、ビール会社に入れ換えたわけだ。 ただし、グリコ・森永事件そのものが、未解決なまま、この作品が発表された時期を迎えており、この作品が、同事件の真相を明かしているわけではないです。 高村さんが、頭の中で創り出した、「一つの可能性」、という程度の事でしょう。
本筋の事件は、途中から重要度が下がってしまうので、敢えて、ネタバレさせてしまいますと、犯行グループの特定は、警察組織としては達成されません。 もちろん、逮捕もなし。 真相に辿り着く者はいますが、物証がなくて、警察組織を動かせずに終わります。 その辺りは、推理小説、もしくは、犯罪小説として読んでいる読者としては、モヤモヤ感が残るところ。 しかし、作者としては、人間を描くのが目的なのだから、事件が解決するかどうかには、大きな意味がないと考えているのでしょう。
それにしても、「新聞記者達」の視点は、読むのがきつい。 これは、作者のせいと言うより、私個人が、マスコミ関係者に対して、好ましい印象がなく、彼らが重要視している対象はもちろん、彼らの存在そのものにも、興味が薄いからだと思います。 新聞業界の、「仕組み」にも、非常に細かい描写が為されていますが、そんなに丁寧に取り上げてやるほど、価値がある世界とは思えませんな。 もっとも、この作品の発表当時は、インター・ネットの普及前だから、情報源としての新聞の価値は、今よりは、ずっと高かったわけですが。
それにしても、合田警部補は、一作ごとに、心身ともに、ボロボロになって行きますねえ。 とても、30代とは思えない。 定年間近としか感じられない、くたびれようではありませんか。 一応、複数作品の中心的人物なのに、この扱いのひどさは、どういう趣向なんでしょう? コナン・ドイルさんが、ホームズを滝に落として葬った心理と、通じるものがあるんでしょうか。
≪太陽を曳く馬 上・下≫
株式会社 新潮社
上下巻共 2009年7月25日 発行
高村薫 著
沼津図書館にあった、ハード・カバーの単行本です。 上下巻二冊で、長編1作を収録。 一段組で、全編のページ数は、約776ページ。 2006年10月から、2008年10月まで、「新潮」に連載された作品を、単行本化に当たって、加筆修正したもの。
「サンガ」という組織を作り、修行僧達を従業員として雇用している伝統仏教の寺院。 癲癇の持病を持つ青年が、施錠されていたはずの門から出て、交通事故に遭い、死亡する。 遺族から、寺の管理責任を問う訴訟が起こされ、警察が捜査を指示される。 担当になった、合田雄一郎が、サンガを作った人物や、寺の管理者達、修行僧達に聞き取りをして、事故、もしくは、事件が、なぜ起こったかを追究して行く話。
大筋は、そんなところですが、この梗概からイメージされる内容とは、途轍もなく懸け離れています。 この作品、犯罪小説の枠を借りているだけで、その実、事故、もしくは、事件なんか、どうでもいいのであって、その正体は、伝統仏教や、オウム真理教、現代美術などについて分析を加えた論考なのです。
ですから、ストーリー展開を楽しむ読み方は、全くできません。 その点、面白くも何ともないのです。 合田雄一郎は、関係者の話を聞いて回る、単なる繋ぎ役に過ぎず、≪マークスの山≫や、≪レディ・ジョーカー≫でのそれに比べると、ほとんど、存在感がありません。 というか、この作品に、合田を出す必要はなかったのでは? 宗教について、妙に食いつきが良く、教義の理解も深い所まで達するのですが、前2作の合田とは、別人のように感じられます。
合田が、この役に似合わないというに留まらず、毎日、教義の勉強をしている宗教関係者相手に、対等に語り合う事ができる、こういう刑事がいるような気がしません。 それは、作者も承知しているようで、結末近くで、検事の口を借りて、合田を刑事らしくないと言わせていますが、本当に、その通りだと思います。 そういう方面に興味を抱く人間は、そもそも、刑事という職業を選ばないでしょう。
高村作品らしく、モチーフの分析は、途方もなく詳細です。 しかし、詳し過ぎて、普通の読書人では、到底、読み通せないでしょう。 私も、音を上げて、詳しく書かれた部分は、ほとんど、飛ばしました。 実は、飛ばし過ぎて、感想を書く資格もないのですが、そうなってしまうのは、私だけではなく、99.99パーセントの読者が、飛ばしていると思います。
仏教の教義が、最も深く、長く、細かく、取り上げられていますが、一文字も余さずに目を通し、内容を理解しても、人生に、害になる事こそあれ、益になる事は微塵もないと、断言できます。 こんな事は、知らない方が、ずっと、幸福に、快適に生きられます。 その点については、絶対の自信あり。 特定宗教の教義について、何も知らなくても、人生の価値が減ずる事は、金輪際ありません。 知らない方がいい事というのは、実際にあるんですな。
≪黄金を抱いて翔べ≫や、≪照柿≫などでは、リアリティーを醸し出すのに絶大な効果を発揮した詳細な専門知識が、この作品では、真逆に働いて、詳細であればあるほど、胡散臭く、宗教の教義を、価値がないと思わせる方向に、読者を引っ張ってしまっています。 どうも、高村さん自身、それは分かっているような気配もあります。
それなら、最初から書かなければ良さそうな気もしますが、高村さんとしては、日本中を震撼させた、オウム真理教の一連の事件について、何か、書いておかなければと思っていたんでしょうねえ。 30年も経過した今から振り返ると、もはや、何の意味もなくなってしまった感がなきにしもあらず。 この作品を書く為に投じられた膨大なエネルギーが、惜しいと思ってしまいますねえ。
以上、4冊です。 読んだ期間は、2025年の、
≪照柿 一・二・三・四≫が、4月6日から、12日。
≪地を這う虫≫が、4月14日から、16日。
≪レディ・ジョーカー 上・下≫が、4月19日から、25日。
≪太陽を曳く馬 上・下≫が、4月26から、5月6日。
上下巻の二冊だと、やはり、日数がかかります。 もっとも、≪太陽を曳く馬≫は、植木手入れの二日間を挟んでいるので、昼間は、1ページも読めないわけで、他とは少々、条件が異なりますが。
高村さんの本には、短編集が少なくて、作品があるのが分かっているのに、読めないものがあるのは、残念なところ。 掲載された雑誌を見つけられれば、読めるわけですが、図書館の雑誌って、30年以上、保存されているものなんですかね?