2025/05/04

読書感想文・蔵出し (124)

  読書感想文です。 どうも、読書を楽しめなくなっています。 図書館へ通っているからとか、ブログに感想を出しているからとか、そういった、読書意欲とは別の理由で、借りて来て読む習慣を無理に続けているような気がします。





≪南紀 潮岬殺人事件≫

NON NOVEL
祥伝社 2001年6月10日 初版第一刷発行
梓林太郎 著

  沼津図書館にあった、新書サイズのソフト・カバー本です。 長編1作を収録。 二段組みで、232ページ。 副題に、「長編本格推理 旅行作家・茶屋次郎の事件簿」とあります。 橋爪功さん・主演の2時間サスペンスでお馴染みの、≪旅行作家・茶屋次郎シリーズ≫の原作の一つ。


  友人が、茶屋の所へ、ホームレスの露店で見つけたという、美しい女性を描いた肖像を持ち込み、「この女性を、父親が持っていた写真で見た事がある。 父親との関係を探って欲しい」と依頼する。 「岬シリーズ」の取材を兼ねて、絵が描かれたと思われる、南紀・潮岬付近へ赴いた茶屋は、その女性が、数年前に殺されたと知り、原因を調べ始めたが・・・、という話。

  この原作を元にして、2サスでは、2004年に、第4話、≪熊野川殺人事件≫が作られたらしいのですが、話は、大幅に手を加えられており、原形を留めないと言ってもいいです。 梓さん、ドラマを見て、ガッカリしたかも知れませんが、ドラマだけ見れば、充分に面白かったです。 むしろ、原作の方に、些か、問題が・・・。

  どうも、茶屋先生の年齢設定は、原作の方が若いようで、ドラマの橋爪さんほど、程良く枯れていません。 あの枯れ味がいいんですけどねえ。 一番、違和感が大きいのは、被害者の妹を訪ねて、何度も会う内に、懇ろになり、あろう事か、性交渉をする仲に発展してしまう事ですな。 これは、2サスでは、やれないでしょう。 必ず、ベッド・シーンを入れていた、80年代前半の、2サスであっても、主役にはやらせませんわなあ。

  次に、文章の書き方が、妙に、平板である事。 梓さんは、山岳小説の、道原伝吉シリーズでは、クロフツ流のコツコツ地道な捜査を描きますが、警官だから、それでいいのであって、素人探偵が、同じような捜査をするとなると、「こんなに、相手が喋ってくれるかね?」と思わずにはいられません。 まして、茶屋先生は、一般人ですらなく、週刊誌連載を持つ、作家なのであって、週刊誌に書かれてしまうと思えば、どんな人でも、ますます、喋らないでしょう。

  また、茶屋先生が、なぜ、こんなに一生懸命、捜査をするのかも、不思議。 取材を兼ねているわけですが、ドラマ同様、先生本人は、旅行記を書くつもりで旅をしているのであって、推理小説や、犯罪ドキュメンタリーが書きたいわけではありません。 では、なぜ、こんなに、捜査に熱心なのか? 捜査に入れ込む、動機が不自然なのです。

  とはいえ、新書サイズの推理小説を読む読者というのは、独特の嗜好をもっていて、こういう、淡々とストーリーが進んでいく話が、三度の飯より好きなのかも知れません。 通勤電車の中で読む分には、あまり、血湧き肉踊ったり、始終、ゾクゾクしっ放しというのは、向かないので、この種の作品の方が、都合が良いのでしょう。

  それにしても、ドラマに比べて、ファースが少ない。 茶屋先生の秘書である二人の女性が、その担当という事になりますが、笑わせるキャラとしては、弱いです。 ちなみに、ドラマでは、春川真紀(ハルマキ)と、江原小夜子は、同じ回には出て来ませんが、原作では、二人同時に雇われた事になっています。 山倉副編は、この作品には、出て来ません。 雑誌の名前も違うし、そもそも、ドラマの方では、「日本名川紀行」ですが、この作品では、「岬シリーズ」を書いている事になっています。




≪倉敷 高梁川の殺意≫

NON NOVEL
祥伝社 2018年11月20日 初版第一刷発行
梓林太郎 著

  沼津図書館にあった、新書サイズのソフト・カバー本です。 長編1作を収録。 二段組みで、200ページ。 副題に、「長編旅情推理 旅行作家・茶屋次郎の事件簿」とあります。 橋爪功さん・主演の2時間サスペンスでお馴染みの、≪旅行作家・茶屋次郎シリーズ≫の原作の一つ。


  知人女性から、千葉の犬吠埼で行方不明になった弟の行方を捜してくれと頼まれた茶屋次郎だったが、調査中に、倉敷で警察に保護されたという報せが入る。 その青年は、見知らぬ男に車に乗せられ、陸路、連れて行かれたと言い、男の似顔絵を描いて見せた。 その後、中年女性が、同じように連れ去られ、やはり、倉敷で解放された。 青年の事件に先立って、女の子が連れ去られ、倉敷で遺体となって発見された事件があり、中年男性が、車で故意に轢き殺される事件もあった。 4件に共通するのは、被害者が同じ住宅地に住んでいて、大人3人は、通学路の見守り活動をしていた事だった。

  梗概が長くなりましたが、これらはまだ、序章でして、後ろに行くに従って、想像もしていなかった方向へ、事件が発展して行きます。 序章だけなら、大いに謎めいていて、ゾクゾク感を覚える点、推理小説の導入部としては、相当、優れていると言えます。 問題は、その発展の仕方ですな。

  後半になってから、初めて登場する人物が、多過ぎです。 これは、アンフェアというより、構成の練りが不十分なまま、書き始めて、途中から、人物を増やし、彼らに纏わるエピソードを追加したと見るべきでしょう。 そういう作り方がされる小説もありますが、その場合、追加した部分の伏線を、前の方に、後から入れておくのが普通。 ところが、この作品では、それが行なわれていないので、後半で唐突に、初登場の人物が、続々と現れた印象が強くなってしまっているのです。

  複雑な背景を用意すれば、奥行きのある話になるのは、事実ですが、何も、こんなに入り組ませなくても、いいと思うんですがね。 とにかく、伏線が張ってないのが、残念。 茶屋先生も、あちこちの地方に行かせ過ぎです。 これでは、土地土地の風物を描き込むゆとりが失われてしまいます。

  ちなみに、【南紀 潮岬殺人事件】では、景勝地の写真が、何枚も入っていて、観光小説の線も狙われていましたが、この本では、巻頭の地図だけで、写真は一枚もありません。 挿絵すらないから、徹底している。 これは、作者の意向というより、編集者が、印刷コストが高くなる事を嫌ったのかも知れませんな。 2サスのお陰で、主人公、茶屋次郎の名前も売れているから、もう、そのシリーズだというだけで、売れるだろうと。

  二人の秘書、ハルマキと、小夜子は、相変わらず、出て来ても出て来なくても、違いがないような、薄い存在感です。 ファース担当の用を、ほとんど、為してません。 ファースに関しては、ドラマの方が、圧倒的に優れていますな。 編集者の牧村氏も、飲んだくれていてるだけで、笑えません。 こんな編集者なら、要らないのでは?

  ラストで、導入部の、連れ去り事件の謎が解き明かされますが、この動機は、分かるような分からないような。 こういう動機で犯罪に走る人間も、実際にいると思いますから、必ずしも、リアリティーを欠くとは言えませんが、推理小説の犯人の動機としては、弱いような気がします。 これが、OKなら、動機は、何でもアリになってしまうのではないでしょうか。

  とはいえ、量産された作品の一つですから、あまり、ツッコミばかり入れるのも、作者に冷た過ぎるかも知れません。 量産しても、尚、この水準を保っている点は、評価に値すると思います。 数時間、茶屋先生と一緒に、あちこち、旅行した気分になれるのだから、それだけでも、この本を読む意味はあります。




≪冷戦史 上・下≫

中公文庫 2781・2782
中央公論社 2023年12月25日 発行
青野利彦 著

  沼津図書館にあった、中公新書です。 ページ数は、上巻257ページ、下巻222ページで、計479ページ。 巻末に、写真出典一覧や、関連年表が付いています。 この種の硬い本を借りたのは、久しぶり。 ちなみに、私は、現役で働いていた頃は、小説よりも、教養系の新書本の方を、多く読んでいました。


  米ソ間の冷戦の経緯を、ソ連成立前の国際情勢から、90年代初頭のソ連崩壊までの期間、世界全体の国際関係の推移を交えながら、詳細に紹介したもの。

  詳細と言っても、「世界史の教科書などと比ベれば、遥かに詳細」という程度の意味です。 ソ連成立以降から見ても、69年間もあるので、これだけのページ数があっても、そんなに細かくは書けますまい。 まして、アメリカとソ連の関係だけでなく、関係して来る国の事まで、書く範囲を広げていますから、尚の事。

  書き方は、至って、客観的で、米ソどちらか、もしくは、それ以外の国に偏った見方は、されていません。 その点、ちょっと、徹底し過ぎていて、読者の中には、一般的に言われている見方と違うので、怒りを感じてしまう人もいるかも知れませんが、歴史の書き方とは、本来、こういうものなのでしょう。 冷戦期が、早くも、歴史になりつつあるという事なのかも知れません。 もう、30年ですものねえ。

  偏らないとなれば、当然ですが、一方を悪、もう一方を善、という見方も、一切、排除されています。 どちらも、所詮、個人、もしくは、個人の集まりに過ぎないのであって、誰もが、理想、欲望、恐怖心、猜疑心をもっており、そのぶつかり合いで、対立や融和が生まれて来たんですな。 核兵器が絡むほど、規模が大きいだけで、本質的には、猿山の猿の、ボスの座を巡る勢力争いと、何ら違いはありません。

  私は、冷戦の経緯の大体の流れを知っていたので、この本を、読み易いと思いましたが、世界の近現代史に興味がないとか、基本的な知識が頭に入っていない若い世代は、全く逆の感想を抱くかも知れません。 小学生では、話にならず、中学生でも、10ページも進まないで、放り出すでしょう。 高校生以上で、興味がある者なら、何とか、食いついて行けるでしょうか。




≪日ソ戦争 1945年8月 棄てられた兵士と居留民≫

株式会社みすず書房 2020年7月17日 第1刷発行
富田武 著

  沼津図書館にあった、ハード・カバーの単行本です。 1段組みで、329ページ。 統計表、写真、参考文献など、資料が多いです。


  第二次世界大戦の末期、戦後の国際的立場を計算して、駆け込みで対日参戦したソ連と、南方に戦力を取られて、兵員数も装備も、スカスカの状態になっていた関東軍の、一方的な戦いを、戦闘開始前から説き起こし、経過を追った内容。 対象は、主に、満州国(現・中国東北部)と、朝鮮半島北半分で、サハリン(樺太)南半分については、オマケ程度。 クリル諸島/千島列島に関しては、ほとんど、記述がありません。

  研究の論考でして、戦史物という体裁ではないです。 読み物としては、引き込まれるようなところは、全くありません。 資料が羅列されている部分も多く、同じ対象を調べている研究者でもなければ、価値を感じない内容と言っても、大きく外れていないでしょう。 そもそも、そういう本なのであって、「面白くない」と文句を言うのは、お門違いというもの。

  日本側を、関東軍と書きましたが、主だった将校は、家族を連れ、物資を掻き集めて、逃走しており、戦ったのは、ごく一部です。 甚大な被害を出したのは、俄かに根こそぎ動員された一般人の移民と、その家族でして、死傷者 数知れず。 生きて、帰国できた人達がいたのが、不思議なくらいです。

  南方戦線に引き抜かれて、スカスカになっていた関東軍ですが、たとえ、元のままの戦力があったとしても、ソ連軍の装備や兵力に太刀打ちできたとは、到底、思えません。 対戦車兵器もなく、緒戦から、「爆薬を抱えて、敵戦車の下へ飛び込め」という指示を出しているのだから、絶望的ですな。 そんな命令、突っぱねて、「お前が最初にやれ」と言ってやればいいのに。 銃殺されても、どうせ、死ぬのなら、同じではありませんか。

  そもそも、日本人居留地が、あの広大な満州の各地に散らばっていたのでは、兵器や弾薬の補給も侭ならないのは、想像するだけで分かる事。 備蓄分を使い尽くしたら、そこで、アウトです。 攻められた時に、守り通せるような場所ではなかったんですな。 兵站の重要性を考えていないのは、日本軍全体に共通する特徴のようです。

  ソ連軍が攻めて来たと分かった時点で、降伏するしか、生き残る道はなかったのですが、「満州に骨を埋めるつもりで来たのだから・・・」といった、手前味噌な理由で、残った者もいたというのだから、戦争の恐ろしさが分かっていない。 明治維新から、それまで、対外戦争では勝ち戦が多かったから、負けたら、どうなるかが、分かっていなかったのでしょう。 「自分達がやったのと同じ事を、やり返されるのでは?」という想像すらできず、現実に経験するまで、分かっていなかった様子。

  捕虜になったり、性的暴行を受けるのを、恥と考えて、自殺してしまう者も、膨大な数、いたようですが、そういう考え方を教え込んでいたのが、当時の日本社会の文化だったというのが、大変、情けない。 で、恥を避けて、自殺して、名誉になったかというと、とんでもない。 彼ら一人一人の名前すら、記録に残っていないのです。 そんな人達がいた事すら、誰も知らないのです。 死んで、花実が咲くものかね。

  この本では、日本側と、ソ連側、双方の資料が研究されていますが、戦争の統計資料なんて、国に限らず、まるで、信用できません。 勝った側と、負けた側では、記録の残し方が変わります。 勝った側は、加害を多く言い、被害を少ない言いますし、負けた側は、加害を少なく言い、被害を多く言います。 正確な数字を知る事は、現在の戦争ですら、不可能なのです。

  この犠牲者達に、一言、言えるとしたら、「軍事力で手に入れた海外領土への集団移民なんぞ、ろくな結果にならないから、もし、生まれ変わる事があったら、絶対に避けるように」という事でしょうか。 誰か、先導する者がいて、「家族が行くから、自分も・・・」という形で、渋々行った人達も多かったと思いますが、もしも、あの世で会えるのなら、先導した奴を、決して、赦さないでしょう。 無責任にも程があると言うのよ。

  ソ連軍兵士の蛮行についても、詳しく書かれていますが、日本人も、外国人に同じ事をやって来たのであって、目糞鼻糞でしかありません。 即ち、人間なんてものは、こういう、しょーもない存在なんですな。 所詮、食い物を取り合って、仲間同士で殺し合いを演ずる動物と同じなのです。 文明も、文化も、何のブレーキにも、なりはしません。 それを思うと、げんなりして来ます。

  この本に書かれている事が、大昔の事ではなく、当時、子供だった人で、まだ生きている人がいる程度の、歴史的に見れば、割と近い過去の出来事だという点が、また、恐ろしいではありませんか。




  以上、4冊です。 読んだ期間は、2025年の、

≪南紀 潮岬殺人事件≫が、1月19日から、21日。
≪倉敷 高梁川の殺意≫が、1月24・25日。
≪冷戦史 上・下≫が、2月2日から、9日。
≪日ソ戦争 1945年8月≫が、2月16から、20日。

  戦争関連の二冊は、硬い内容でした。 図書館で借りる時には、大して気にもせず、家に帰って読み始めてから、「やめときゃ良かった」と、後悔しました。 私の年齢や、引退者という立場が、もう、この種の本を、必要としていないのかも知れません。

2025/04/27

EN125-2Aでプチ・ツーリング (67)

  週に一度、「スズキ(大長江集団) EN125-2A・鋭爽」で出かけている、プチ・ツーリングの記録の、67回目です。 その月の最終週に、前月に行った分を出しています。 今回は、2025年3月分。





【沼津市中沢田・中沢田の湧水】

  2025年3月9日。 沼津市・中沢田にある、「中沢田の湧水」へ行って来ました。 ネット地図に載っていた所。 根方街道から、少し南へ入った、「ベル歯科」の裏手にあります。

≪写真1≫
  南東側から見ました。 後ろの建物は、ベル歯科。 複雑な形の屋根を載せてますねえ。 三角地で、三方全周を、道路に囲まれています。 その一角に、湧水が流れ込む川があります。 たぶん、農業用水。

≪写真2≫
  北東側から見ました。 塩ビ・パイプから湧き水が、勢いよく、流れ出しています。 湧き水を、「飲ませる」という、設えではないようです。

≪写真3左≫
  三角地の一角にある、水槽。 中で、金魚が飼われていました。 遠くて、分かりづらいですが。

≪写真3右≫
  近くの家の庭で咲いていた、たぶん、薔薇の品種。

≪写真4≫
  ベル歯科の裏手に停めた、EN125-2A・鋭爽。 ここは、折自でも来れるような、近場。 うちから出て、永代橋で狩野川を渡って、幟道(のぼりみち)を北上し、大中寺の交差点で、根方街道に入って、西へ1分も走れば、ここに着きます。 ベル歯科の案内看板が出ているので、それを見逃しさえしなければ、間違える事はないです。




【沼津市東椎路・小屋敷バス停付近】

  2025年3月14日。 沼津市・東椎路にある、「小屋敷バス停」へ行って来ました。 別に、バス停を見に行ったわけではなくて、住宅地図を見ていたら、バス停の向かい側に、神物・仏物マークが付いていたのです。

≪写真1≫
  根方街道の、小屋敷バス停。 後ろは、小屋敷公会堂。 バス停の横に並んでいるのは、奥から、「千手観音の浮き彫り石塔」、「庚申塔」、「判別不明の浮き彫りがある石」。 しかし、住宅地図に載っていたのは、これらではありません。

≪写真2≫
  道路を挟んで、向かい側にあるのが、この覆い。 コンクリート・ブロックの壁に、コンクリートの屋根が乗っています。

≪写真3左≫
  中には、石製の坐像がありました。 暗くて、顔が見えませんな。

≪写真3右≫
  露出を上げて、撮り直してみました。 お地蔵様のようです。

≪写真4≫
  覆いの後ろに、駐車場があったので、そこに、バイクを停めました。 もしかしたら、個人の敷地かも知れませんが、ごく短時間だったからか、誰にも何も言われませんでした。

≪写真4右下≫
  近くにあった、椿の木に咲いていた、花。 一重椿ですが、蘂の元が、赤くなっています。 こういう品種があるんでしょうねえ。




【沼津市中沢田・甲子塔】

  2025年3月18日。 沼津市・中沢田にある、「甲子塔」を見に行って来ました。 住宅地図に、神物・仏物の記号が出ていたので、何かと思って行ってみたら、甲子塔だったというわけ。

≪写真1≫
  あいにくの曇天、暗くて分かり難いですが、「とび出し注意」の看板の、向かって右下に、石塔があります。

≪写真2左≫
  近づいて、露出を上げて撮りました。 「甲子塔」と、デカデカ彫ってあります。 「庚申塔」というのも良く見ますが、干支の組み合わせは幾らもあるのに、他のは見た事がありません。

≪写真2右≫
  甲子塔があるのは、T字路、というか、Y字路です。 沖縄の、「石敢當」のように、魔除けの意味があるんでしょうか?

≪写真3≫
  路肩に停めた、EN125-2A・鋭爽。 家から、往復14キロ。 凄い近場です。 この日は、晴れの予報であったにも拘らず、ずっと曇りで、晴れ間は見えるが、日射しはないという、3月中旬としては、大変、寒い陽気でした。 承知の上で出かけたとはいえ、冬場のバイク・ツーリングは、厳しいです。

≪写真4左≫
  近くの空き地で、自然に生えて来たと思われる草に、小さな花が咲いていました。 花が小さくても、密度が高ければ、園芸家に喜ばれるんですが、疎らだと、相手にされないようです。

≪写真4右≫
  少し北へ行った所に、「沢田ゴルフ練習場」があるのですが、その入口の道路で咲いていた、寒緋桜。 まだ、ソメイヨシノ系が咲く時期ではないです。




【沼津市中沢田・三叉路の祠と道祖神】

  2025年3月26日。 沼津市・中沢田にある、「三叉路の祠と道祖神」へ行って来ました。 こういう名前が付いているわけではありませんが、名前が分からないので、便宜的に、そう呼びます。 住宅地図に、神物・仏物記号があった所。

≪写真1≫
  道祖神の石像を想像して行ったんですが、いざ着いてみたら、もっと格上で、祠規模の神社でした。 鎮守の杜まで付いています。 三叉路の一角にあります。 国道1号バイパスのすぐ北。 梅の名所で有名な、大中寺の南西。

≪写真2左≫
  木製・銅板葺きの祠。 人間は入れないサイズですが、大変、凝った作りです。 ミニチュア社殿ですな。 

≪写真2右≫
  側面。 この祠そのものが、拝殿と本殿を兼ねているものと思われます。

≪写真3左≫
  道祖神も置いてありました。 ポンと置かれた感じを見ると、他から持って来られたものかもしれません。

≪写真3右≫
  近くの水路。 一点透視図法の見本みたいな眺め。

≪写真4≫
  南を通る道路の向かい側に停めた、EN125-2A・鋭爽。 ここが少し、広くなっていたのです。

  そういや、先日、「レッドバロンの者」を名乗る男が、家の呼び鈴を押して、「処分するオートバイはありませんか?」と訊いて来たので、「ありません」と即答しました。 本当に、レッドバロンの者だったのか、詐欺師の下調べだったのかは、不明。 向こうからやって来る訪問販売の類いは、問答無用で片っ端から断っておいた方が、無難。




【沼津市足高・江藤浩蔵翁顕彰碑】

  2025年3月30日。 沼津市・足高にある、「江藤浩蔵翁顕彰碑」を見に行って来ました。 住宅地図に出ていた所。 「愛鷹広域運動公園」の、すぐ北側の、山林の中にあります。 ちなみに、出かける前の時点で、江藤浩蔵氏に関する知識は、ゼロでした。

≪写真1≫
  「愛鷹運動公園 配水池」の門前に、バイクを停めました。 邪魔にならないように、アコーディオン門扉の前を避けて。 向かって左端の階段を上がって行くと、顕彰碑がある場所に至ります。

≪写真2≫
  3分くらい登ると、ここに着きます。 顕彰碑と、あずまや、ピクニック用の机やベンチがあります。 この平地は、造成した可能性もありますが、木が大きいところを見ると、元から、こうだったのかも知れません。

≪写真3≫
  向かって右側の、自然石の方が、「江藤浩蔵翁顕彰碑」。 江藤浩蔵氏は、金岡村の村長だった人物で、愛鷹山御料地払い下げの為に、江原素六氏に最も近い協力者だったとの事。 昭和の初めに、この石碑の台座になっている石の下に、遺髪を埋めたそうです。 石碑自体は、昭和58年11月の建立。 1983年。

  左側の白っぽい方は、「愛鷹山御料地○下げ 八十周年記念碑」。 「○」は、「払」の旁が、「弗」になっていました。

≪写真4左≫
  車道からの登り口に立っていた、「愛鷹山御料地○下げ 八十周年記念碑」の解説板。 昭和54年に石碑を建立した経緯が書かれています。

≪写真4右≫
  これも、登り口に立っていた、「愛鷹広域運動公園内散策エリア 案内図」。 石碑がある場所自体が、散策エリアに含まれているんですな。 「花と海の見える丘」、「工芸館」、「運動広場」などがあるようです。

≪写真5左≫
  石碑の近くで、タンポポが幾つも咲いていました。

≪写真5右≫
  車道を少し下って、愛鷹広域運動公園の駐車場まで来たら、桜が咲いていました。 バイクを停めて、撮影。 満開には、少し早いか。


  この日は、天気は良かったのですが、寒の戻りがあって、ツーリングには、寒かったです。 目的地の標高が高かったから、尚の事。 平地に下りて来たら、少しは、マシになりました。




  今回は、ここまで。 鼠蹊ヘルニアの手術が終わるまで、目的地は近場に限ろうと思っていたのですが、あれこれと問題が起きて、手術の目処が立たず、諦めなければならない可能性が高くなって来たので、プチ・ツーも、以前のように、近隣自治体まで、半径を広げようかと思っています。

2025/04/20

実話風小説 (39) 【食べ歩き番組】

  「実話風小説」の39作目です。 2月中旬の初めに書いたもの。 私自身の糖尿病治療の経験を基にしました。 ちなみに、総合病医院へ行く事になった本来の目的である、鼠蹊ヘルニア手術は、様々な障碍が発生し、未だに受けられていません。




【食べ歩き番組】

  ≪旅の空の下≫は、Z県の県庁所在地に本社がある地方テレビ局で、1985年に始まった、街歩き番組である。 放送時刻は、月曜日から金曜日の、午後6時から、CM込みで、30分。 その時間帯、地方テレビ局では、御当地情報番組を放送している事が多いが、その局では、≪旅の空の下≫の視聴率が、そこそこ高かったので、情報番組を前にズラしていた。

  開始当初は、全国的に名の知れたタレント、A氏が、県内の各市町村を、一日一ヵ所、訪ねて、観光地や景勝地、レジャー施設などを見て回る内容だった。 しかし、当時、グルメ・ブームが勃興しており、その影響を受けて、すぐに、飲食店で食事をするコーナーが設けられた。 食事場面は、一日に一度、必ず入れられ、菓子店や果樹農家を訪ねた時にも、飲食する様子が紹介された。

  A氏は、食レポが巧みで、あまり旨くないものでも、誉められるところを誉めるという、批評技術を持っていた。 A氏の紹介のお陰で、名物になった食べ物も、少なからず、存在する。 A氏が訪ねた店では、「≪旅の空の下≫ 御来店! Aさんのおすすめメニュー!」といった看板を出すところも多かった。

  A氏は、60年代末に、歌手として、デビューしたが、歌の方はヒットがなく、70年代になって、テレビのバラエティー番組で、マルチ・タレントとして、人気が出た。 その後、時代の変化で、露出が減り、全国的には忘れ去られていたが、≪旅の空の下≫の旅人を務め始めたことで、Z県でだけは、ずっと、有名人だった。 老若男女に関係なく、Z県民で、A氏を知らない者は、一人も、いなかったくらいである。

  そのA氏も、引退する時が来た。 健康には気をつけていたが、さすがに、寄る年波には勝てない。 2010年代の終り近くになり、80歳が近づくと、本人から、「もう、やめたい」と申し出があった。 実は、数年前から、ちらちらと、そう言っていたのだが、局の方が、人気番組を終わらせるのが惜しくて、引き止めていたのである。

  ≪旅の空の下≫の打ち切りが決まったのには、他にも、事情があった。 放送開始から、一貫して、ディレクターを務めて来た、B氏が、体調を悪くして、仕事に出られなくなってしまったのだ。 B氏は、A氏よりも、10歳年下で、とっくに定年を過ぎていたが、局側が手放さず、定年延長と、契約社員扱いで、70歳になる直前まで、≪旅の空の下≫のディレクターをやっていた。

  B氏が入院した後は、彼が育てたスタッフが、B氏の指示を忠実に守りながら、番組制作を続けていた。 しかし、スタッフの面々も、何度か世代交代していたものの、やはり、高齢化していた。 番組の打ち切りは、局内の誰もが予想していた事だった。

  そこへ、人事の刷新があり、プロデューサーが変わった。 新しいプロデューサーは、キー局から引き抜かれて来た男で、地方局を見下していたのは当然の事、地方局らしい番組も、軽蔑し切っていた。 「時代遅れも、甚だしい」というのが、口癖だった。 特に、御当地お店巡りのような企画は、虫唾が走るほど嫌いで、≪旅の空の下≫に対しても、「どこが面白いのか、さっぱり分からない」と言い切っていた。

  背景に、そういう局内情勢があったので、≪旅の空の下≫の打ち切りそのものは、すんなり、決まった。 問題は、後番組である。 県内情報番組を、6時台に移したところ、他局の類似番組と重なったせいで、すぐに、視聴率が落ちた。 慌てて、元の時刻に戻す事にしたが、そうなると、6時台に何を持って来るかが、問題だ。 とりあえず、昔の30分ドラマを、再放送したが、視聴者からは、≪旅の空の下≫と同じような番組を見たいという要望が多く寄せられた。 人間というのは、それまでの生活習慣を、おいそれとは変えられないものなのだ。

  新プロデューサーは、古巣のキー局から、一人のディレクター、C氏を連れて来た。 深夜帯に、二級のバラエティーを作っていた男で、思い切りがいいのが、性格上の特徴だった。 逆に言えば、慎重さや深慮に欠けるのだが、何かを変えようとする時には、そういう人物でないと、役に立たないのだと、プロデューサーは考えていた。

  ≪旅の空の下≫と似たような、街歩き番組にするという方針は、局として、もう決まっていた。 Cディレクターは、「まあ、田舎だから、贅沢は言いませんよ。 大枠は、局の言う通りにしましょう。 中身は、俺が好きにやらせてもらいます」と言っていた。 ちなみに、「田舎」という言葉は、地方では、禁句である。 都会や大都市の人間にとっては、都会や大都市でない場所の事を指しているだけだが、地方に住んでいる者が聞くと、馬鹿にされているとしか取れないのだ。 C氏は、大都市の生まれで、Z県の県庁所在地くらいでは、鼻にも引っ掛けなかった。


  まず、番組タイトルだが、ディレクターの独断で、≪ぐるぐるグルメ 歩いて満腹・ウィークデイ≫に決まった。 プロデューサーも、聞くなり、OKした。 この二人のセンスが伺えるタイトルだな。 

  次に、旅人を決めなければならない。 曜日ごとに、人を変えるのは、ギャラが多くかかるし、スタッフのタレント対応が煩雑になるので、却下。 一人となると、A氏のように、有名ではあるが、すでに高齢で、第一線での仕事はしておらず、暇が有り余っているような人物が、好都合だ。 誰か、適当な人物はいないものか。

  Cディレクターは、プロデューサーと、わざわざ、東京に出て、歓楽街のバーに行き、飲みながら、人選をした。 田舎の飲み屋では、洗練されたアイデアが出ないというのだ。 もちろん、交通費も飲み代も、経費で落とす所存。

  何人か候補が出たが、有名過ぎて、ギャラが高いタレントや、舞台公演をよくやる俳優などばかりで、プロデューサーは、ことごとく、却下した。 ディレクターは、しばらく考えてから、次の名前を言った。

「Dなんて、どうですかね?」

「あいつは、不祥事を起こして、干されたんじゃないか」

「でも、どうせ、田舎のテレビですから」

「駄目駄目! むしろ、田舎の方が、そういうタレントには、厳しいんだ」

「ああ、なるほど。 そういうものかも知れませんねえ。 じゃあ、Eさんは?」

「イメージはいいけど、あの人、あんなに痩せてたんじゃ、少食だろう。 食べる機会が多いから、食えない人じゃ、務まらないぞ」

「食える人と言うと、最初から、太っている奴ですかね? Fなんか、どうです?」

「あいつは、家が、Y県だ。 東京なら、出て来るのに、そんなに遠くないが、Z県までじゃ、遠過ぎて、交通費が大変だ。 それに、内孫が生まれたばかりだっていうから、平日ずっと、Z県に泊まり込みの仕事じゃ、断って来るだろう」

「じゃあ、Gは?」

「G? G? ああ、あの人か。 あの人、まだ、仕事してんの?」

「してますよ。 ネットの、割と有名なチャンネルで、釣りをしているのを見た事があります。 割と最近の日付でしたよ」

「うーん、Gねえ。 悪くないなあ。 ちょっと、第一線からは、ご無沙汰が久しいけど、名前は全国区で売れてるものなあ。 試しに、打診してみるか」

  で、事務所を調べて、打診してみたところ、本人から、電話がかかって来て、「何でも、やります」との返事。 閑ぶっこいていて、仕事が欲しかったようだ。 トントン拍子に話が進んで、次の週から、試しに一週間、やらせてみる事になった。 結果は、上々。 A氏に比べると、アクが強くて、≪旅の空の下≫の視聴者からは、評判が今一つだったが、比較的 若い世代からは、「口が悪いところが、面白い」という意見が寄せられた。 視聴率は、一週間平均で、≪旅の空の下≫の8割くらいだった。

  ディレクターが変わっただけでなく、スタッフも、≪旅の空の下≫に関わっていた面子は一掃されて、他の番組をやっていた、若い世代が入れられた。 Cディレクターは、前番組と似たような後番組を作る場合、前番組のスタッフを残しておくと、ああだこうだと、文句ばかりつけて、新しいやり方をいつまでも受け入れようとしない者が出て来るのを嫌っていたのだ。

  ≪ぐるぐるグルメ 歩いて満腹・ウィークデイ≫が始まって、半月経った頃、病床のB氏、つまり、≪旅の空の下≫の元ディレクターから、重役を通して、Cディレクターに連絡があり、「伝えておきたい事があるから、入院先の病院まで、一度 会いに来て欲しい」と言って来た。 C氏は、重役の前であるにも拘らず、顔を顰めて、毒づいた。

「どうせ、お小言でしょう。 前の番組とは、まるで趣向が違うんだから、不満があるのは分かりますが、そんなの、いちいち、聞いてられませんよ」

「いや、Bさんは、本当に用事がないと、一面識もない人に会いたがったりしないよ」

「とにかく、今は、番組が立ち上がったばかりで、暇がないから、しばらくは、無理です。 その内、近くへ行った時に、寄ればいいんでしょう?」

「なるべく早く、行ってやってくれ。 Bさん、長くなさそうだから」

「はいはい」

  「はい」は、一回。 などと言っている場合ではなく、それから、一週間もしない内に、B氏は、他界してしまった。 心筋梗塞だった。 Cディレクターは、永遠に、B氏の忠告を聞き損なったわけだ。


  ≪ぐるぐるグルメ 歩いて満腹・ウィークデイ≫が始まって、半年経った時、タレントGが、入院した。 月曜日の朝、東京にある自宅で、Z県へ出かける仕度をしている時に、倒れたのである。 意識不明。 救急車で、最寄の総合病院へ担ぎ込まれた。 意識が戻ってから、精密検査をしたところ、血糖値が、500を超える、超高血糖だった。 医者が、「この血糖値で、よく、生きてるなあ」と言わんばかりの、珍しい生き物でも見るような顔で、笑いながら、言った。

「一体、どんな食生活をしてるんですか?」

  タレントGは、自宅での食事の内容を話した。

「お仕事は、まだ、してるんですね。 外では、食べませんか?」

  タレントGは、≪ぐるぐるグルメ 歩いて満腹・ウィークデイ≫の事を話した。 それが原因だとは思っていないから、淡々と、包み隠さず、毎回、どれだけの種類の食べ物を、どれだけの量、食べているか、正直に伝えた。 次第に、医者の顔から、笑いが消えて行った。

「今、ざっと聞いただけでも、日当たり適正カロリーの、5倍は食べてますね。 平日は、それが、毎日? たまらんな。 その腹が出て来たのは、番組開始以降ですか? ああ、やっぱり・・・。 今年、60歳でしょう? 無理ですよ、そんなに食べるのは。 そのまま行くと、とても、長生きできませんよ」

「どうしたら、いいんでしょう?」

「現状すでに、重度の糖尿病ですから、血糖値が下がるまで、半月は入院した方がいいです。 退院後は、インスリン注射か、投薬治療という事になりますが、その仕事を続けるのは、やめた方がいいですねえ。 番組の人に言って、食べる量を減らしてもらえるなら、また、話は別ですが」


  タレントGの報告は、Cディレクターとプロデューサーの顔色を真っ青にした。 タレントGの体を気遣ったからではない。 番組に穴を開けてしまう事を恐れたのだ。 急遽、地元タレントの一人が呼ばれ、代役という事で、収録がされた。 その男は、まだ、30代で、仕事がない時の方が多く、いつも腹を空かせていた。 食べる場面では、餓えた豚のように、フガフガと、がっついた。 スタッフ全員、下品な奴だと思った。

「こいつに、今後も任せるわけには行かんな」

  Cディレクターは、すぐに、次の旅人の人選にかかった。 前回同様、プロデューサーと二人で、東京の歓楽街に繰り出して。 金のかかる奴らだ。


  あー、面倒臭い! この後、同じような展開が繰り返されるので、ここは一つ、読者の想像力に丸投げするとして、思い切って、割愛。


  ≪ぐるぐるグルメ 歩いて満腹・ウィークデイ≫は、約半年ごとに、旅人を変えながら、その後も続けられたが、開始3年後に、旅人が死亡する事態に至り、打ち切りになった。 出演した旅人、6人の内、一時入院は、全員。 脳血管障害による死亡、1人。 眼底出血による両目失明、2人。 片目失明、1人。 慢性腎不全で人工透析患者になった者、3人。 複数の病気に該当する者もいるので、合計人数は合わない。 生き残っている5人は、全て、糖尿病の治療を受けている。


  有名タレントの死者を出した事で、局は、記者会見を開いて、御遺族と世間様に、謝罪。 プロデューサーは、降格され、処分前に、自主的に退職した。 しかし、業界から消える事はなく、昔取ったコネ柄を頼りに、別の県の地方テレビ局へ潜り込んだ。 ワケアリ人物なので、大した仕事は任されなかったが。

  Cディレクターは、懲戒解雇となった。 まあ、当然か。 どの旅人に対しても、視聴者のウケを良くする為に、毎回、腹がはち切れるほどに、食わせまくっていたのである。 Cディレクター、人間が飲み食いできる量には、年齢により、限界があるという事を、知らなかったのだ。 自身が体育会系で、高校・大学時代には、毎食、丼飯と、大皿に山盛りの料理を平らげていたので、「食える人間は、いくらでも食える」と思っていたらしい。

  ≪ぐるぐるグルメ 歩いて満腹・ウィークデイ≫で、旅人に相応しい、暇がある有名タレントというと、どうしても、60歳前後以上の年齢になってしまうのに、「食える食えないは、その人次第」だと思って、何の配慮もしなかったのだ。 二人目が、病院に担ぎ込まれた時点で、原因が、暴飲暴食にあると感づいていたにも拘らず、「なかなか、胃腸が丈夫な奴に当たらない」と、自分や番組の、「運」の問題だと思っていたのである。


  C氏も、業界から離れるのが嫌で、隣県の小都市にある、ケーブル・テレビ局にいた知人に頼み込み、拝み倒し、かろうじて、パート社員として雇ってもらった。 仕事内容は、雑用係だったが、この際、贅沢は言っていられない。 とにかく、業界にいさえすれば、テレビ関係者で通るのだ。

  その局の契約カメラマンに、かつて、≪旅の空の下≫で、臨時スタッフをやった事がある者がいた。 昔の仲間と連絡を取り合っていたので、後番組の事情も聞いていた。 しかし、C氏が、後番組を潰して、解雇されたディレクターだと分かっても、直接、批難したり、からかったりするような人物ではなかった。

  逆に、C氏の方が、長い間、気になっていた事を訊いた。 ≪旅の空の下≫のディレクター、B氏が、死ぬ前に、C氏を呼んで伝えておきたい事があると言った、あの件である。 一体、何が言いたかったのだろう? そのヒントだけでも、知りたかった。 契約カメラマンは、少し考えてから、こう答えた。

「それは、たぶん、出演者の健康には、くれぐれも気をつけるように、という話だったのかも知れませんねえ」

「という事は、Bさんは、Aさんの健康に気をつけていたって事?」

「そりゃあもう! 収録で、飲食店に行くと、まず、Aさんに食べてもらうものを、Bさんが見て、カロリー計算をするんですよ。 糖質も見てたな。 Bさん自身が、糖尿病だったから、一目で、大体のカロリーが分かってしまうんです。 Aさんが、30年も、あの番組を続けられたのは、Bさんのカロリー計算のお陰ですよ。 Aさんを、自分の主治医のところへ連れて行って、検診もしてもらっていたらしいです」

「そこまで、やるかね?」

「グルメ番組は、そのくらい、糖尿病に警戒しないと、続けられないと言ってましたよ。 もう、50代になったら、何を食べても大丈夫、なんて人は、いなくなりますからね。 よく、旅番組で、突然、出演者が降板してしまって、打ち切りになる事があるでしょう。 あれは、医師から糖尿病を宣告されて、それまでのように、飲み食いできなくなるからじゃないですかね」

「・・・・」

「出演者が、店の人に、『御飯を少なくして』なんて、頼んでいたら、まず間違いなく、糖尿病でしょう。 炭水化物で、血糖値が上がるのを恐れているんですよ。 ところが、店の方は、糖尿病患者が、どの程度 食べられるかなんて知らないから、『ご飯、少な目』なんて言われたって、せいぜい、10割を、8割にする程度でしょう。 丼物だったら、8割でも、糖尿病患者の許容量の、2倍はありますよ。 殺す気か? ってなもんですよね」

「・・・・」

「普通、糖尿病患者は、厳しい食事制限をしているから、外食なんか しないんですよ。 そういう客が来ないから、飲食店側も、糖尿病の知識が頭に入らない。 食べ歩き番組は、特殊なケースなんですね。 許容量が分からないどころか、相手が有名人だから、できるだけ、サービスしようと思って、注文してない物まで出して来るから、困ったもんだ。 それまた、殺す気か? ってなもんです」

「・・・・」

  C氏、そう言われて、返す言葉がなかった。 自分が何をやったのか、ようやく、はっきり分かって、ゾーーーッと、背筋が寒くなった。 C氏には、中高年の健康管理に対する知識が、絶望的なまでに、欠けていたのだ。 罪には問われなかったが、出演者の健康被害に責任がないとは言えない。 一人は死んでしまったのであり、懲戒解雇くらいで済んだのは、むしろ、幸運だったと思うべきなのかも知れない。

  C氏の責任を軽く見る為の材料といえば、旅人達は、みな、「食いしん坊」で通っていた人達で、≪ぐるぐるグルメ 歩いて満腹・ウィークデイ≫に出なかったとしても、いずれ、糖尿病になっただろう、という事である。 C氏は、そう思う事で、罪悪感を軽くしようと努めた。 そもそも、生き馬の目を抜く業界で生きて来た人間だから、さほど強い罪悪感があったわけではないが。

  C氏は、その後、長生きした。 この時、糖尿病について、知識を仕入れたお陰で、食生活が改まり、糖尿病にならないで済んだのが、大きな理由だ。 何とも、皮肉な話である。

2025/04/13

鼠蹊ヘルニアから糖尿病 ④

  月の第二週は、闘病記。 前回は、2024年の10月末まででした。 今回は、11月からです。 血糖値を下げるのと、運動療法をどう進めるかで、四苦八苦していた頃。




【2024/11/01 金】
  運動散歩。 南へ。 前回、片道、2500歩だった地点から、更に1000歩進み、3500歩地点を確認しました。 志下の半分を過ぎてしまいました。 これからは、歩数を数えなくても、そこまで行って、戻ってくれば、7000歩、歩いた事になります。

  えらい疲れたのですが、家に戻って、時計を見ると、1時間12分しか かかっていませんでした。 登山の方が、時間が短く感じられます。 これを、毎日は、続けられないかな?

  間食を絶ってから、三度の食事が、楽しみになって来ました。 当然と言えば、当然か。 特に、好きなものでなくても、食べる事自体が、楽しみなのです。 しかし、それで、食べ過ぎてしまうから、糖尿病は、なかなか治らないんでしょうな。

  ちなみに、食べる順序としては、「野菜 → おかず → ご飯類」となります。 千切りのキャベツを常備して、嫌になるまで食べてから、他の野菜類を食べ、次に、肉・魚などのおかずに移ります。 最後に、ご飯を、茶碗7分目ほど。 パンや麺類は、ご飯の同類になります。



【2024/11/02 土】
  血糖値、昨夜の眠る前で、92。 とうとう、100を切ったか。 しかし、今朝、朝食前で、104。 飲み食いをしていない、眠っている間に増えるとは、これ如何に? 計測器に問題があるのか、体の中の、他の部分から、血液に糖分が流れ込んでいるのか。 それとも、インスリン注射から時間が経ったので、その効果が薄くなったという事かな?

  今頃になって、知ったのですが、食後血糖値は、食後2時間で測るようです。 私は、早い方がいいだろうと思って、1時間で測っていたのですが、それでは、当然、高い数値になるわけです。 明日から、2時間で測る事にします。 ちなみに、「食後~時間」とは言うものの、食べ終わってからではなく、食べ始めてからの時間です。 血糖値は、一口食べただけでも、上がり始めますから。

  今日は、朝から、雨。 屋内で、歩行して、なんとか、3000歩。

  正午頃に上がったので、傘を手に持ち、徒歩で、図書館へ。 帰って、1時25分。 図書館にいた時間を引くと、1時間20分で、昨日行った志下と、大して変わりません。 歩数も、7000歩台で、ほぼ同じ。 行き来し慣れた道であるせいか、志下よりは、時間が短く感じられました。



【2024/11/03 日】
  歩数計を着け始めて分かったんですが、茶碗洗いや、掃除は、思っていたほど、歩数が行きません。 移動が少なく、上半身だけ動いているからでしょう。 総合的な運動量は、行っているから、血糖値や血圧を下げるのには、効果があると思うのですが。

  朝食後2時間で、血糖値を測ったら、207。 一週間前より、僅かながら、上がっています。 ガッカリだ。 これ以上、何かするとなると、食事を減らすしかありません。 痩せるのもまずいので、ご飯や、パン、麺類など、炭水化物を減らし、野菜を増やすしかないです。

  もっとも、食後血糖値の目標は、180以下だから、200程度なら、いい線まで落ちていると言えないでもなし。 ただし、インスリンを打っての数値ですから、糖尿病が治ったわけでは、断じて、ありません。

  午後、昼寝してから、折自で出かけました。 港大橋で狩野川を渡り、沼津港の前を通って、千本街道を、西へ。 撮影目標の歩道橋が、なかなか見つからず、片浜まで行ってしまいました。 遠過ぎる。 ところが、帰って来て、歩数を見ると、4500くらいしか行ってません。 自転車だと、移動効率がいい分、運動にならないようです。

  夜になってから、座敷を歩いて、何とか、1万歩にしました。



【2024/11/04 月】
  血糖値、昼食前で、126。 一週間前は、181でしたから、だいぶ、減った事になります。 しかし、まだ、空腹時・正常値の110以下になりません。 手強い。 というか、糖尿病は、一旦なってしまったら、そんなに、短期間で治るものではないのでしょう。

  午後、昼寝してから、運動散歩。 八重坂側から、香貫山の麓の道を一周して来ました。 1時間20分で、7000歩ちょっと。 割と身近に、7000歩コースがあったか。 つくづく思ったのは、1時間20分 歩くというのは、どのコースであっても、かなり、きついという事です



【2024/11/05 火】
  昼食後2時間の血糖値、203。 一週間前より、20近く上がっています。 食事で、食べ過ぎているのかも知れません。 ご飯を、茶碗半分くらいにして、食パン1切れを追加しているのですが、その追加が余分なのかも。 間食・甘いお菓子を全廃したから、せめて、三度の食事だけは、満腹近くまで食べようと思っていたのですが、そういう考え方が甘かったか・・・。

  もう、次の血液検査まで、一週間しかないので、明日から、食事を減らしてみようと思います。 このままでは、糖尿病治療が終わらず、鼠蹊ヘルニアの手術が、どんどん、先延ばしになってしまいます。

  午後、昼寝してから、バイクで、裾野市の南の端、水窪にある、道祖神へ行って来ました。 旧246号線沿いで、以前に来た、水窪神社の近く。

  帰ってから、運動散歩。 南へ、往復で4000歩、歩いて来ました。 ツーリングと、散歩を、一日で両方やるのは、厳しい。



【2024/11/06 水】
  買い出しから帰って、外掃除。 運動散歩。 香貫山の麓を一周して来ました。 1時間20分。

  今日から、食事の時刻を変更しました。

  実は、昨夜、8時頃から、頭がクラクラし始め、「これは、低血糖に違いない」と思い、砂糖水を作って、飲みました。 放っておくと、脳に障碍が残ったりして、まずいらしいのです。 血糖値計測をしたわけではないから、確実にそうだとは言い切れませんが、あんなにクラクラが続いた事は、過去に経験がないので、まず、間違いなく、低血糖でしょう。

  夕食後、眠るまで、何も食べないから、低血糖になったんでしょうな。 つまり、確実に、血糖値は下がっているわけだ。 昼間、いつまで経っても、血糖値が下がらないのは、食事の間隔が詰まり過ぎていて、下がる時間が足りないのかも知れません。

  で、今日から、昼食は、10時半から、12時に、夕食は、3時半から、6時に改めた次第。 昼食は、母とバラバラなので、問題なし。 夕飯は、母と一緒に食べていましたが、3時半に、一応、食卓に着くものの、その時には、お茶だけにし、6時を待って、私一人で食べる事にしました。

  で、5時50分に、夕食前の血糖値計測。 140。 一週間前は、273だったから、だいぶ下ですが、夕食を遅らせているのだから、当然の事。 むしろ、空腹時なのに、正常値の110より、30も高いのは、問題です。 あと、一週間では、落としきれないか。

  どうも、私は、血糖値の特性について、理解していない事が多いです。 最初に、栄養士から、食事指導を受けた時に、「食事の時刻を変えてください」と言われていたのに、食事制限と運動だけで、どうにかなると決め込んで、やろうとしなかったのてす。 専門家のいう事は、素直に聞いておくものですな。



【2024/11/07 木】
  午後、運動散歩。 南へ、4千歩コース。 同じ道を歩くのは、もう、4回目なので、歩く時間が短く感じられます。

  11月に入ってからは、終日の雨天がないお陰で、毎日、1万歩を超えています。 足が引き締まって、筋肉がついて来ました。 こういう体に変わって行く事で、カロリー消費がし易くなって行くんでしょう。 血糖値が下がるのに、月日がかかるというのは、この変化が必要だからなのかも知れません。 そして、一生やらなければならないと・・・。 それが、きつい。

  6時に夕食。 8時に、水を飲み、座敷を500歩歩いてから、血糖値計測。 なんと、126でした。 食後は、180以下が正常ですから、かなり低いです。 インスリン注射をしているから、私の体の実力ではありませんが、とにかく、ここまで落ちたのが、嬉しいです。 水よりも、運動が効くんですかねえ?



【2024/11/08 金】
  午後、昼寝してから、運動散歩。 南へ、4千歩コース。 昨日と同じです。 カメラは、持って行きません。 胸ポケットが重いだけですから。

  今日は、1時間以内で、戻って来られました。 脚に筋肉がついて、脚力が上がったからでしょう。 逆に考えると、運動をほとんどしていなかった、この5年間に、如何に、私の体が衰えていたかという事ですな。

  朝起きて、階段を下りる時に、今までは、足踏みを6回やってからでないと、危なっかしかったのに、ここ数日は、ポンポン下りている次第。 脚だけでなく、体全体の動きが良くなっています。

  糖尿病になって、いい事もあるんですなあ。 落命とするとか失明するとか言われないと、運動する気になりませんでしたから。 太らなければ、それでいいと思っていたのです。



【2024/11/09 土】
  昨夜10時。 眠る前の血糖値が、121。 空腹時の正常値は、110以下なので、まだ、高い。 夕食の時間を遅らせた関係で、腹が減りきらないんでしょう。 12時くらいまで起きていればいいんですが、寒くなって、ガタガタ震えが来る有様。 やむなく、早く眠った次第。

  今朝、朝食前は、98。 これは、正常値内です。 ただし、インスリン注射のお陰。

  外掃除・水やりの後、車にワックスをかけました。 ヘッド・ライトには、コンパウンド。 車とバイクの、タイヤ空気圧を見て、みな、減っていたので、空気入れで足しておきました。 タイヤ6本分やると、結構な運動になりますが、歩数計には、カウントされません。 血糖値は落ちたようで、昼食前に、また、頭がクラクラして来ました。 食べると、治ります。

  午後、昼寝してから、運動散歩。 八重坂峠を越えて、家から、2千歩地点で引き返してきました。 往復、4千歩。 家の中で、6千、稼いでおけば、散歩は、割と近くまでで済みます。



【2024/11/10 日】
  買い出しから帰って、8時40分に、朝食後2時間の血糖値計測。 177。 食後だと、180以下が正常値ですから、何とか、切っています。 買い出しに行って、動いたからでしょうな。 やはり、運動は効くようです。

  午後、昼寝した後、資源ゴミを出しに行って、そのまま、南へ運動散歩。 少し歩き過ぎて、今日は、12000を超えてしまいました。 まあ、多い分には、問題ないか。




  今回は、ここまで。 ひと月に一回で、出すのが、10日分では、溜まる一方で、無限に捌けないようですが、その点は、ご安心を。 この頃は、まだ、どういう風に、生活習慣を変えて行けばいいのか分からず、試行錯誤しているから、毎日、記述があるのです。 要領が分かって来ると、闘病経過について、たまにしか書かなくなるから、そうなったら、すぐに追いつくでしょう。

2025/04/06

読書感想文・蔵出し (123)

  読書感想文です。  この記事を纏めているのは、3月半ばなのですが、鼠蹊ヘルニア手術は、肝機能の数値が悪くなったせいで、中止になってしまい、未だに予定すら立っていません。 糖尿病の治療は、地道に続けています。 読書は、全然、やる気にならないものの、惰性で続けている次第。





≪非Aの世界≫

創元SF文庫
東京創元社 1966年12月16日 初版 2016年2月29日 新版
A・E・ヴァン・ヴォークト 著
中村保男 訳

  沼津図書館にあった、文庫本です。 長編、1作を収録。 310ページ。 コピー・ライトは、1945年。 創元文庫での、旧版の方は、2007年1月19日で、29版まで行ったようです。 旧版と新版で、訳者が代わっているのかどうかは、不明。 「非A」は、「ナル・エー」と読みます。


  ≪機械≫による統治が行なわれている未来の地球。 政府の要職や、金星行きの特権を賭けたゲームに参加しようと、≪機械市≫にやって来た男は、他のゲーム参加者からの指摘で、自分の記憶にある自分の経歴が、ことごとく、間違っている事に気づく。 自分にそんな記憶を与えたのが誰で、どんな目的があるのか、地球と金星を、瞬間移動で行き来しながら、探り出そうとする話。

  「非A(ナル・エー)」とは、アリストテレスの演繹的推論を否定し、帰納的推論を重視する人達の事らしいですが、タイトルとしては、印象的であるものの、話の中身とは、あまり、関係がありません。 娯楽作品に、哲学が出て来たら、まず、その作者が、哲学について、どの程度、知見があるかを疑い、次に、翻訳者が、哲学について、どの程度、知見があるかを疑うべし。 とんだ間違いが、堂々と臆面もなく書かれている場合があるので、最初から無視してしまった方がいいくらいです。 翻訳の世界では、哲学書を訳す時に、「分からないところは、分からないように訳せ」というコツがあるそうで、真面目に読んでも、意味が通らないなどという事は、ザラらしいです。

  主人公には、予備の脳があり、それを訓練する事で、瞬間移動が可能になるという設定。 地球と金星の距離でも、飛んでしまうのだから、大変な力ですな。 ≪機械≫が統治している社会ですが、AIがテーマではないので、そちらは、掘り下げられていません。 SFらしい設定は、瞬間移動だけかな? 金星が、居住可能な星として描かれていますが、1945年では、致し方ないか。 真空管も、頻繁に出て来ますが、それも、書かれた時代を表しています。 トランジスターが登場するのは、遥か後です。

  見せ場は全て、活劇部分でして、映画にした時に、どういう映像になるかを想像しながら書いたような、場面転換の速さが見られます。 活劇にしてしまえば、大抵の映画は、観客の興味を引っ張っていけますからのう。 ただし、小説として面白いかどうかは、話が別。 読書慣れ、SF慣れしている読者ほど、途中で眠ってしまうのではないでしょうか。

  印象としては、1945年に書かれたものとは思えないほど、新しい感じがします。 ディックさんに大きな影響を与えたというのも、納得できます。 しかし・・・、私としては、この作品で評価できるのは、タイトルの異化効果だけのような気がしますねえ。 この作品に見られる不思議さは、SF的雰囲気に過ぎない、ハッタリなんじゃないでしょうか。




≪非Aの傀儡≫

創元SF文庫
東京創元社 1966年12月30日 初版 2016年3月25日 新版
A・E・ヴァン・ヴォークト 著
沼沢洽治 訳

  沼津図書館にあった、文庫本です。 長編、1作を収録。 361ページ。 コピー・ライトは、1956年になっていますが、解説によると、発表されたのは、1948年だとの事。 ≪非Aの世界≫の3年後に書かれた続編。 創元文庫での、旧版の方は、前作同様、2007年1月19日で、29版まで行ったようです。 旧版と新版で、訳者が代わっているのかどうかは、不明。


  ≪非Aの世界≫の主人公は、金星を狙う、大帝国の野望を打ち砕く為に、瞬間移動能力を活用して、支配者エンローの元に向かう。 何者かの手によって、主人公の精神が、支配者の後継者である王子の体に乗り移ったり、予知能力がある人々が住む星へ行ったり、めまぐるしく、宇宙の広大な距離を行き来する話。

  前作は、辛うじて、SFアイデアをテーマにした、本格SFでしたが、この続編は、ほぼ、スペース・オペラですな。 特に、スペース・オペラを、軽く見る気はないですが、王国、宗教、星間戦争なと、スペース・オペラに必要に要素は、全て備わっています。 スペース・オペラが好きな人ならは、ワクワク・ドキドキする事、請け合い。

  SF設定は、瞬間移動の外に、予知能力が加わります。 乗り移りの方は、SFというよりは、オカルトに近いですが、一応、主人公が、予備脳を持つ、特殊な人間という事で、科学的に辻褄が合わされています。 SFの科学的辻褄なんて、それ自体が胡散臭いですが、ないよりは、安心できます。

  前作と違うのは、瞬間移動と予知能力について、大変、細かく、主人公の思考が描きこまれている点です。 「先を読まれているから、相手は、こう動くはずだ」といった類いの事。 細か過ぎて、スペース・オペラ好きには、「くどい」と思われてしまうかもしれませんが、普通のSFファンなら、その細かい描き込みだけが、この作品を、本格SFの範疇に入れていると見做すでしょう。

  私も、その細かいところだけは、読み応えを感じました。 作者の頭が悪くては、こんな事は、とても、書き込めません。 問題は、その細かさが、紙数を稼ぐ方には寄与していても、作品を面白くする方には、影響していないという事ですな。 スペース・オペラとしては、理屈っぽく、本格SFとしては、スペース・オペラチック過ぎるのです。




≪夏樹静子作品集 第一巻≫

株式会社 講談社 1982年8月15日 第一刷発行
夏樹静子 著

  沼津図書館にあった、ハード・カバーの作品集の一冊です。 長編1作、中編3作を収録。 二段組みで、全体のページ数は、338ページ。 


【天使が消えていく】 約164ページ 1970年4月

  地方誌の女性記者が、取材した心臓病の赤ん坊を助けてやりたいと思うようになるが、売春を生業にしている母親は、その女の子を邪魔者扱いして、ろくに世話もしようとしない。 殺人事件が、連鎖して、二件起こった後、赤ん坊の母親に、不穏な言動が見られ・・・、という話。

  夏樹さんの作品は、初めて読んだんですが、同じ女性推理作家でも、山村美紗さんの作品と比べると、ずっと、硬い文章ですな。 これが、処女作だそうですが、元は、純文学志望だったのでは? 推理小説としては、描写が濃過ぎると思います。 じっくり、物語の世界に入り込みたい読者は、喜びそうですけど。

  トリックは、特には、なし。 謎は、あります。 動機が凝っていて、いかにも、夏樹作品という特徴が見られます。 私は、小説の夏樹作品は、これが初めてなので、ドラマのそれを参考にして、言っているわけですが。 いわゆる、ドンデン返しのラストでして、私は、あまり、好きじゃないんですが、よく考えられているという点では、高評価する以外ないレベルです。 こういう方法でしか、目的を達成する事ができなかったというのは、悲しい生き方ですな。


【77便に何が起きたか】 約56ページ 1977年10・11月

  車の事故で死んだ男が、事切れる間際に、「77、危ない」と言い残す。 それとは無関係に、77便に乗る予定でいた男性が、ノイローゼが治ったばかりの弟から、乗らないように言われたのを無視して、空港まで車で向かうが、途中、入れたばかりのガソリンが、なぜか、なくなり、飛行機に乗り遅れてしまう。 そして、飛び立った77便は、貨物室に載せられた爆弾により、空中分解し、乗客乗員全員が死亡した。 警察が、搭乗予定だったのに、乗らなかった人間を調べて行くと・・・、という話。

  この頃、旅客機の事故が多く起きていたのかも知れません。 松本清張さんや、森村誠一さんが、航空事故を題材にした作品を発表しており、流れとしては、それに乗ったのだと思いますが、この作品は、社会派というわけではなく、推理小説としての純粋度が高いです。 読者を、ゾクゾクさせる目的で書かれており、航空事故は、そのダシに過ぎないからです。

  徹頭徹尾、搦め手から攻める手法。 一見、何の関係もないと思われる、複数の人物について、順に語られて行く内に、ある一点だけで、彼らの共通点が出て来て、そこから、一気に、謎が解けて行きます。 その一点というのが、映画館なのですが、その点は、松本さんの、【砂の器】から、戴いたのかも知れません。 【砂の器】を読んでいない、映像化されたものも見ていない、何も知らない読者ならば、ゾクゾクして、堪えられないでしょう。


【90便緊急待避せよ】 約72ページ 1979年9・10月

  米子から、東京へ向かっていた小型旅客機。 機内で、東京で大きな地震が起こったというアナウンスがあり、大島へ下りたが、実は、地震など起こっておらず、機内で見つかった爆破脅迫文の指示に従ったのだった。 結局、爆弾は見つからなかったが、警察は捜査本部を立ち上げ、脅迫犯を突き止めにかかる。 乗客の内、数人に尾行がつくが、実は、この脅迫事件の目的は・・・、という話。 

  これは、航空事故ものと言えるかどうか、微妙です。 実際、飛行機そのものや、乗客乗員には、何の被害もなかったわけですから。 タイトルから、航空事故ものを期待して読み始めた読者は、肩透かしを食らう事になります。 夏樹さん、それを承知で、航空事故もののパロディーのつもりで、こんな話を考えたんじゃないでしょうか。

  捜査が始まって以降は、普通の、といっても、かなり濃密な、推理物になります。 で、最終的に、旅客機を脅迫した理由が分かるわけですが、「いくら、そういう目的があったとしても、こんな傍迷惑な事をするかね?」という違和感を覚えずにはいられません。 よく練られた話であるからこそ、その大元のアイデアが、弱い感じが滲み出てしまうのです。


【ガラスの絆】 約46ページ 1972年12月

  双方に健康上の問題があって、子供が出来ない夫婦。 他人の精子を混ぜた人工授精で、ようやく授かったが、子供が大きくなるに連れ、夫と似ていない点が目に付くようになり、他人の方の種であった事が分かる。 夫の態度が次第にきつくなる中、妻のもとに、「自分が、子供の精子の提供者だ」という若い男が現れ・・・、という話。

  これだけでは、推理物になりませんが、この後、その若い男が殺され、妻が容疑者になるという流れ。 若い男には、女がいて、その女が、夫の愛人という設定で、些か、偶然が過ぎると思わせますが、実は、偶然ではなく、そうなった経緯からして、犯罪計画の一部だったという話になります。

  若い男が、二人出て来るのですが、最初の内は、それが一人の人物だと、読者に思わせるように書いており、アンフェア、ギリギリなところもあります。 真相が分かると、意外性に驚くというより、「ああ、そういう事ね」と、軽く納得するタイプの種明かし。 題材からして、社会派も兼ねて狙ったように見受けられます。




≪夏樹静子作品集 第二巻≫

株式会社 講談社 1982年3月15日 第一刷発行
夏樹静子 著

  沼津図書館にあった、ハード・カバーの作品集の一冊です。 長編2作を収録。 二段組みで、全体のページ数は、388ページ。 この作品集、なぜか、第二巻の方が、第一巻より、発行が早くなっていますな。


【蒸発】 約222ページ 1972年4月

  東京から北海道へ向かう旅客機の中で、確かに乗ったはずの女性乗客が、下りる時には、いなくなってしまう。 ベトナム戦争へ取材に行っていた新聞記者が、殺されたというニュースが流れた直後の事だった。 生還した男は、妻と別れて、再婚しようとしていた人妻が家出した事を知り、行方を捜す。 やがて、福岡のアパートの一室で、その人妻に、かつて、懸想していた人物が、死体となって発見され・・・、という話。

  これでは、あらすじになってしまうので、このくらいにしておきます。 話が複雑過ぎて、数行の梗概では、纏められないのです。 二段組みですから、単行本や文庫本にすれば、一冊になる長さですが、それにしても、普通の長編の長さなのに、この複雑さは、異様。 推理物のアイデアには、トリックや謎を、パッと思いつく、「発想型」と、理詰めで積み上げて行く、「構築型」がありますが、この作品は、間違いなく、後者です。

  旅客機内で、女が一人消えてしまう、というだけでも、大事件ですが、その後に、殺人事件が3件も起こり、しかも、全ての事件が、関連あり。 一つの作品なのだから、当然と言えば当然ですが、誰にでも書けるというものではなく、人並外れて緻密な思考能力がある、夏樹さんだかこそ、こういう作品を作り出せたのでしょう。 おそらく、当時の推理小説界では、他の作家はもちろん、評論家の面々も、あまりの複雑な設定に、大いに唸らされたのでは?

  メインのトリックである、旅客機からの蒸発は、ちゃんと、現実的な説明がなされていて、実際にやれば、できたものと思われます。 夏樹さんも、よくもまあ、これだけ込み入った旅客機業界事情を、調べたものですなあ。 これだけでも、感服つかまつる。 後半には、鉄道トリックまで出て来ますが、そちらは、ちと、盛り込み過ぎの、欲張り過ぎか。

  ただし、複雑さを堪能するのが目的ではなく、ゾクゾク感を楽しみたいという読者には、却って、読み難いかも知れません。 説明に、繰り返しが多い点も、お世辞にも、美点とは言えません。 たとえば、そこまでの会話の流れで、すでに、何が起こったか、読者には分かっているにも拘らず、作者が、解説するかのように、説明を繰り返すのです。 「複雑だから、説明が要るだろう」という配慮なのでしょうが、推理小説を読み慣れている読者なら、大抵は、「くどい」と感じるんじゃないでしょうか。

  重箱の隅をつつきますと、その、旅客機内で消えた女には、そんな事件を起こした動機があるのですが、これが、特殊な性格から来るもので、少々、違和感があります。 こんなややこしい計画に、協力する者がいるというのも、不自然な感じがしないでもない。 話をもちかけられたとしても、常識があれば、他の方法を勧めるのでは? 


【第三の女】 約166ページ 1977年2月~4月

  大学助教授の男が、パリ郊外のホテルの一室で、嵐と停電の夜に出会い、顔を見ぬまま、愛を交わした謎の女は、帰国後、助教授が殺したいと願っていた非道な教授を殺してくれた。 今度は、謎の女が殺したいと願っていた別の女を、助教授が殺さなければならない。 明確な約束がないまま、実行される交換殺人には、助教授の謎の女に対する強い思慕が背景にあったが、事件関係者の中で、誰が謎の女なのか分からず、四苦八苦する話。

  この作品、何度もドラマ化されていて、私も、村上弘明さん主演の版で、見た事があります。 あのドラマは、ほぼ、原作に従って、映像化されていたわけですな。 原作自体が、よく練られている上に、映像的にも、「絵になる」場面が多いので、下手に弄るよりも、そのままやった方がいいと思わせるのかも知れません。

  いかに、ロマン心を刺激する、外国での嵐の夜とはいえ、初対面で、顔も見ていない相手と、性交渉まで行くかね? とは、誰でも思うところですが、解説にもあるように、この作品は、推理小説であると同時に、ロマンスでして、恋愛小説のほとんどがそうであるように、理屈は二の次、ロマンチックなら、それで充分。 野暮な指摘はするな、という事ですな。

  推理小説としても、面白いです。 交換殺人ネタは、推理物では、定番中の定番ですが、ちょっと驚くような捻り方をしてあって、ラストで、謎の女の正体について、種明かしをされると、アハ体験が避けられません。 さすが、夏樹さんと言うべきか。 主人公が知る前に、謎の女の正体を知っているのは、二人だけですが、一人は早々と死んでしまいますし、もう一人は、ラスト近くで、主人公の話を聞いて、確証に到達するから、まあ、知らなかったようなものですな。

  その、早々と死んでしまう人が、鍵なんですが、どんな読者も、それを見抜く事ができないでしょう。 謎の女ではないかと思われる、紛らわしい人物が、複数人出て来るのは、作者が、この作品で一番、読者を引きつけたいと望んだのが、謎の女の正体である証拠。 そして、その作戦は、見事に成功しています。

  オマケみたいなものですが、食品会社による有害な製品で、小児ガンが引き起こされるという社会問題が背景にあり、社会派推理小説でもあります。 この時期の推理小説界では、社会派でないと、相手にしてもらえないような風潮があったのかも知れません。 社会派を吹き飛ばしてしまうのは、角川映画、≪犬神家の一族≫の、歴史的大ヒットですが、すぐに潮目が変わったわけではなかったのでしょう。




  以上、4冊です。 読んだ期間は、2024年から、年を跨ぎ、2025年にかけて、

≪非Aの世界≫が、12月17日から、19日。
≪非Aの傀儡≫が、12月20日から、22日。
≪夏樹静子作品集 第一巻≫が、12月29日から、1月5日。
≪夏樹静子作品集 第二巻≫が、1月12から、15日。

  ≪非Aの世界≫で、SFに飽き、推理小説に回帰しようと目論んだのですが、夏樹静子さんの作品は、どうも、馴染めず、今回紹介した二冊で、とりあえず、止めてあります。

  月日が経つのは速い。 ≪夏樹静子作品集 第一巻≫なんて、つい先日読んだような気がするのですが、年を跨いだ頃だから、もう、3ヵ月も過ぎたんですな。 こんなに時間の経過が速く感じられるのは、糖尿病治療の運動療法で、一日13000歩も歩いているせいで、体力を消耗し、食欲が旺盛になって、毎日、食べる事ばかり考えているからでしょうか。

2025/03/30

EN125-2Aでプチ・ツーリング (66)

  週に一度、「スズキ(大長江集団) EN125-2A・鋭爽」で出かけている、プチ・ツーリングの記録の、66回目です。 その月の最終週に、前月に行った分を出しています。 今回は、2025年2月分。





【沼津市中沢田・沢の子橋】

  2025年2月6日。 沼津市・中沢田にある、「沢の子橋」まで行ってきました。 ネット地図で名前を見つけ、ちょっと変わっているので、見に行ったもの。 愛鷹神社から、北西に向かうと、谷あいに、架かっていました。

≪写真1≫
  右岸・上流側から。 「沢田ゴルフ練習場」の、北端に架かっています。

≪写真2左≫
  右岸・袂から。 幅は、バイクなら、問題なし。 車は、通れるとしても、気をつけないと、左右をこするかも知れません。 欄干は、歩行者用のタイプで、ガード・レールではないです。 という事は、やはり、車は通行禁止なんでしょうか? 何の標識も立っていませんでしたが。

≪写真2右上≫
  名板。 「沢の子橋」

≪写真2右中≫
  ひらがな名板。 「さわのこばし」。 普通、「~ばし」と発音しても、ひらがな名板では、「~はし」と書いて、濁音にしないものですが、ここのは、発音通りの表記ですな。

≪写真2右下≫
  竣工年月板。 「昭和54年8月 竣工」。 1979年。 70年代と思うと、だいぶ、古いですな。

≪写真3左≫
  「沢田ゴルフ練習場」。 北側から見ています。 南側の道路なら、以前、バイクで通った事があります。 北側は、橋になっていたわけだ。

≪写真3右≫
  橋が架かっている、川。 小川というには、幅が広いか。 山の中なので、雨が降ると、水量が激増するはず。

≪写真4左≫
  橋の左岸袂にあった、小屋。 電話ボックスくらいの大きさで、人が一人、詰められるようになっています。 何の為にあるのかは、不明。

≪写真4右≫
  右岸側の道路に停めた、EN125-2A・鋭爽。 この日は、寒くて、正直、バイクに乗るような陽気ではなかったです。

  山の中ですが、未舗装路ではなかったので、汚れるような事もなく、無事に帰って来ました。 山中の道路は、乾きが悪いから、数日、晴天が続いていたとしても、油断ならないのです。




【沼津市中沢田・弾薬庫跡】

  2025年2月13日。 沼津市・中沢田にある、「弾薬庫跡」へ行って来ました。 ネット地図に載っていた所。 なぜか、より詳細な住宅地図には、載っていませんでした。 根方街道を、津島神社の交差点で、山の方へ入って行くと、東海道新幹線の、ちょっと先にあります。

  ガードで潜るのではなく、跨線橋で、上を通るので、新幹線を通り過ぎた事に気づかず、東名高速道路まで行ってから、引き返して来て、見つけました。

≪写真1≫
  道路から見えますが、登り方向では、気づき難いです。 上から下って来ると、左手、つまり、東側にあります。 観光地ではなく、史跡という扱いでもないようで、解説板の類いは、ありませんでした。 本当に、弾薬庫だったのかは、不明ですが、どう見ても、普通の建物ではありませんな。 鉄筋コンクリート製。

≪写真2左≫
  陰になっている所に、木製の扉があります。 出入口も、鉄筋コンクリートの覆いで、守られているわけだ。 空からの攻撃に備えていたのでしょうか。

≪写真2右≫
  南東側から。 本体部分は、シンプルな、蒲鉾形。

≪写真3左≫
  コンクリートが剥がれた部分がありました。 鉄筋が入っているのが分かります。 少なくとも、1945年以前に造られたものなので、すでに、80年を経ていると思うと、それなりの、時代の重みを覚えます。 なぜ、史跡にしないのだろう?

≪写真3右≫
  道路の反対側の路肩に停めた、EN125-2A・鋭爽。 この道は、以前、2・3回、通った事があります。 その時には、こんな建物があることに、全く気づきませんでした。

≪写真4≫
  弾薬庫から、南側を見ました。 愛鷹山の中腹という事になりますが、この辺りは、まだまだ、なだらかなので、高い所から見下ろした、という景色ではありませんな。 遠くに見えている山並みは、伊豆半島北部のもの。




【沼津市西沢田・日吉神社穀水】

  2025年2月19日。 沼津市・西沢田にある、「日吉神社穀水」へ、行って来ました。 ネット地図で見つけた所。 日吉神社は、ここから、北へ少し行った所にあり、以前、プチ・ツーリングで訪ねています。 「穀水」は、たぶん、「こくすい」と読むのではないかと思います。

≪写真1≫
  湧き水です。 段々になっていて、古代の水時計、「漏刻」のようですが、もちろん、そういうものではなく、複数の人間が同時に使えるようにしてあるのでしょう。 しかし、今現在、ここを、洗い場に使っている人はいないんじゃないでしょうか。 コップが置いてあるので、水を飲む人はいると思いますが。 どうも、この造り自体が、復元されたか、それっぽい形に創作されたような感じがします、

≪写真2≫
  反対側から。 太い塩ビ・パイプが通っているのは、排水用でしょうか? まさか、水を循環させているという事はないと思います。

≪写真3左≫
  石碑に彫られた、由来。 ちょっと長いですが、書き写します。 ○○は、写真からでは、判読できなかった文字。

「遠い太古の昔、愛鷹山に降った雨水が地下水となって流れ、豊な湧き水となり、日吉神社穀田を潤し、穀水として、ご祭神大山咋神に奉上する米を作り、地域の人々にも、○○与えていた。 特に、大祭に捧げる穀は穀水でなければ、上手に出来ないとの言い伝えがある」

≪写真3右≫
  石碑の裏側。 作った人達の名前か彫られています。 「平成四年十月吉日」とありますが、この石碑を建てた時なのか、湧き水を整備した時なのかは、分かりません。

≪写真4≫
  路肩に停めた、EN125-2A・鋭爽。 周囲は、住宅地でして、バイクをどこに停めればいいか、分からなかったのです。 ちなみに、車で来た場合、路上駐車になります。 生活道路で、交通量は少ないから、短時間なら、問題ないと思いいますが。




【沼津市西沢田・大志建設の天然水】

  2025年2月25日。 沼津市・西沢田にある、「大志建設の天然水」へ行って来ました。 ネット地図で見つけた所。 建設会社が整備した、水場です。 先週行った、「日吉神社の穀水」を通り過ぎて、新幹線の南で、右へ。 最初の交差点で、跨線橋を渡って、そのまま、北へ向かうと、すぐに着きます。

≪写真1≫
  全景。 建設会社の敷地内ですが、道路に面しています。

≪写真2左≫
  大きな看板で、「天然水 どなたでも 自由にご利用 ください 大志建設」と、あります。 サービス精神に溢れておりますな。

≪写真2右≫
  解説板。 天然水という名前ですが、湧き水ではなく、地下70メートルら、汲み上げているようです。

  蛇口とコップ、あり、 飲むなら、ここから出すという事でしょう。

  右下の緑色のは、「募金箱 善意の樹」。 よほど大量に汲んで行かない限り、お金を入れる人がいるかどうか・・・。

≪写真3≫
  水槽の方には、金魚が飼われていました。

≪写真4≫
  路肩に停めた、EN125-2A・鋭爽。 南から上がって来たのですが、帰りは、このまま、北へ向かい、適当な所で、西へ。 日吉神社の北側を大きく回り込んで、南へ下り、根方街道へ出ました。




  今回は、ここまで。 鼠蹊ヘルニア手術の方は、次から次へ、障碍が立ち塞がって、未だに、予定すら立てられない状況。 腸が膨れ出た状態で、遠出は怖いので、一時間以内に帰って来れる、沼津市内の目的地が続いています。 この冬は、寒くて、参りました。 バイクでツーリングなんかする陽気ではなかったと言うのよ。

2025/03/23

実話風小説 (38) 【早食い】

  「実話風小説」の38作目です。 1月下旬の初めに書いたもの。 また、長くなってしまいました。 かけている時間は、一日以内で、大きな負担ではありませんが、書き始めるまでが、なかなか、その気になりません。




【早食い】

  男Aは、最初から、早食いだったわけではない。 ただし、訓練はできていた。 高校生の時、バレー部に所属していたが、そこの顧問の教師が、病的と言っていいほど、権威的な性格で、部員たちに、自分の信条を押し付ける癖が強かった。 土日練習や、遠征試合の日には、昼飯時になると、必ず、大急ぎで弁当を食べさせた。

「早飯早糞、芸の内だ! 他の学校の連中より、早く食い終われば、それだけ、事前練習に時間を回せるんだ」

  ちょっと聞くと、理に適っているようだが、その実、早食いが原因で起こる健康上の弊害について、全く考慮しておらず、素人考えの、浅はかな信条であった。 ちなみに、この顧問、別に体育系の大学を出たわけではない。 文系崩れで、新聞社や雑誌社が就職希望先だったのだが、出版不況の折り、成績不良で雇ってもらえず、たまたま、教員資格を取っていたというだけで、その高校に潜り込んだのだった。 バレーは、中学生の頃にやっていただけ。 技術的な指導はできず、精神論で押し捲るタイプだった。

  しかし、部員たちは、そもそも、細かい事は考えない者が多い体育会系である上に、まだ、世間知が蓄積しておらず、顧問の言う事は絶対に正しいと信じて、早食いを実行した。 男子高校生用の大きな弁当箱に、ぎっしりつまった食べ物を、10分かけずに、腹に押し込んでいたのだから、乱暴極まりない事である。 食後血糖値が、どこまで上がったか分からない。

  そのせいか、試合では、必ず、初戦負けを喫した。 それでも、顧問始め、部員たちの誰一人、早食いのせいだとは思わず、もっと早く食べて、昼休みの練習時間を、より稼がなくてはいけないと考えた。 救いようがない蒙昧ぶりである。

  ただし、男Aの早食い経験は、高校の3年間だけで、卒業し、就職すると、自然に、元の速度に落ちた。 急いで食べる理由がなかったからだ。 社員食堂があり、同期入社の者たちと一緒に食べるから、会話しながらになり、自然と漫食に落ち着いて行ったのである。


  男Aの早食いが復活したのは、勤め先で昇進し、平社員から、係長補佐になって以降である。 直属の上司が、次長と趣味が同じで、私生活での付き合いがあり、コネで係長になった人物。 仕事の実力は、全くと言っていいほど、なかった。 一方、男Aは、高卒入社12年目の現場叩き上げで、実力はあった。 無能係長の代わりに、実務をやらせる為に、補佐に当てられたのだ。

  補佐とはいえ、中間管理職の内である。 平社員とは、仕事が違う。 そして、無能係長の分まで、やらなければならない。 就業時間中、トイレに立つ時間も惜しむくらい、ぎっちり働いていたが、それでも、こなしきれない。 仕事の性質上、社外秘になっているものも扱うので、家に持ち帰る事はできないし、労働時間の制約がきっちりした会社で、課長以下の社員は、定時上がりと決められており、残業もできなかった。

  となると、もはや、昼休みを削るしかない。 昼休みは、1時間。 社員食堂まで、歩いて、5分。 配膳と食事に、30分。 職場に戻るのに、5分。 職場で、同僚と雑談を交わして過ごすのに、20分。 平社員の時には、そういう配分だった。 それが、係長補佐になってからは、職場に戻った後の雑談をなくし、仕事に当てるようになった。 これは、職場での行動だから、別段、問題なかった。

  しかし、それでも、時間が足りないと分かり、そこから、男Aの変調が始まったのだ。

「こうなったら、食堂にいる時間を短くするしかないな。 配膳は、行列が短いメニューだけ選べば、5分もあれば、できる。 食べるのは、高校のバレー部での経験から、10分で掻き込める。 食事中の会話なんて、ただの世間話だから、端折ってもいい。 今まで、30分かかっていたのを、15分で済ませられれば、職場に戻ってからの時間に、どーんとゆとりができるじゃないか」

  大変、いい考え方だと思った。 男A、昇進したばかりなので、気が大きくなっており、仕事に打ち込んで、結果を出せば、今後も、どんどん、上に上がって行けるものと、錯覚していた。 実際には、無能係長の補助役として、便利に使われていただけなのだが、もちろん、上の方は、そんな事を教えてくれはしないのだ。


  男Aは、それまで、食堂では、同期入社の5・6人と、同じテーブルに着いて、昼食を食べていた。 職場はバラバラで、遠いところから10分以上かけて歩いて来る者もおり、面子が揃うだけでも、20分くらいかかった。 それから、食べて、食後の歓談をするのだから、食堂滞在時間が、30分を超すのも、やむをえない。

  男Aは、目立って、早食いになった。 一番に配膳を済まして、テーブルに着くと、一人でさっさと食べ始めて、同期の面子が揃う前に食べ終わってしまった。 実質、食事時間、5分強である。 すでに、30歳なので、高校生の頃より、食べる量は減っているが、それにしても、この急ぎ方は、不健康と言うものであろう。

  そして、早く席を立ちたくて、イライラし始める。 同期が揃い、彼らが、食事を始める頃には、男A、お茶も飲み終えて、テーブルを指先で、コツコツ叩きながら、貧乏揺すりを始める。 早く、職場に戻りたくて、仕方ないのだ。 しかし、入社以来、12年間、ほぼ毎日、昼食を共にして来た仲間たちの手前、それができないのである。 少なくとも、自分の次に食べ終わる者が出て来ないと、席を立つきっかけができない。

  同期の仲間たちは、一週間くらいで、男Aの変化に気づいた。 しかし、敢えて、無視していた。 そもそもが、入社直後、研修所で、合宿を共にしたというだけの仲なのだ。 職場が、バラバラだから、仕事の話が合うわけでもない。 話す事と言ったら、社内の噂、世間話、プロ・スポーツの話、趣味の話、くらいのもの。 私生活で、行動を共にする事も稀。 「食堂で、一人だけで食事をしたくない」というだけの理由で、グループが維持されて来たと言っても、外れていない。 そんな仲なのに、早く席を立ちたいなど、食堂で顔を合わせている目的に背いてしまうではないか。

  そういう同期たちの態度に、男Aの苛立ちは、激しく募るばかりだった。 

「俺、用事があるから・・・」

  と言って、早く席を立つ事が、週に一回、二回、と増えた。 走って、職場に戻り、溜まっている仕事に取りかかるのである。 3週目には、月曜から、木曜まで、4日も、そんな風に、早々と帰ってしまった。 5日目は、残っていたが、テーブルを叩く指先は、聞こえよがしと言っていいほど、激しくなっていた。 さすがに、同期の一人が、キレた。

「おい、A。 そんなに早く戻りたいなら、戻れよ。 用事があるんだろ」

「いやあ。 今日は、そんなに急がなくてもいいんだけどよ・・・」

「嘘つけ。 イライラし通しじゃないか」

「イライラなんて、してないよ」

「してるじゃないか。 テーブルを叩くなよ。 こっちは、昼飯を楽しみに来てるんだよ。 コツコツやられると、まるで、『早く食え!』って、急かされてるみたいだ」

  男A、元が、イライラしていただけに、逆ギレした。

「そう思うなら、もっと早く、食えばいいだろう。 『早飯早糞、芸の内』って言うだろうが。 チマチマチマチマ、食いやがって」

「なんだと!」

  喧嘩になりそうな雰囲気に、別の一人が、止めに入った。

「待て待て。 そんな事で、喧嘩するな。 Aは、もう、行った方がいいだろう。 お前、係長補佐になったから、仕事が増えて、時間が足りないんだろう? 俺も、経験があるよ。 無理に、同期につきあう事はない。 仕事をしに会社に来てるんだから、仕事優先でもいいんだ」

「俺は、別に、仕事がどうとか言いたいわけじゃ・・・」

「とにかく、忙しい内は、俺らにつきあわなくてもいい。 食堂に来るにしても、一人で食べた方が、早く済む。 はっきり言って、俺も、目の前で、テーブルをコツコツやられると、嫌なんだ。 ゆっくり、食べたいんだよ」

「そういう言い方をされると、まるで、俺が悪いみたいだ。 俺は、他にやる事があっても、お前らとのつきあいも大事だと思って、こうやって、お前らが食い終わるのを、待ってやってるのにな」

  最初にキレた男が言った。

「待ってて、く、れ、る、必要はないわ。 いいから、さっさと行けよ。」

「そうかよ。 じゃあ、明日から、俺は、別の場所で、一人で食うからな」

「そうしろ。 是非、そうしろ」

  また、別の男が、気を使って、言い添えた。

「Aよ。 別に、お前が気に食わなくて、追っ払うわけじゃないんだから、ゆとりが出来たら、また、一緒に食べよう」

「・・・・」

  男Aは、答えずに、席を離れた。 仲間から拒絶された精神的ショックもあったが、反面、これで、大幅に時間を節約できる事になったので、ホッとした気持ちもあり、好悪入り乱れて、半々という感じだった。


  男Aは、一人で、昼食を食べるようになったが、長くは続かなかった。 すぐに、「まだ、時間が足りない」と思うようになり、強迫観念に苛まれ始めた。

「あと、15分あれば、その日の仕事を、その日の内に、終わらせられるんだが・・・。 食堂へ行く往復の10分と、配膳に使う3分を節約すれば、だいぶ、楽になるかもしれない」

  考えが一方向にしか進まないのが、強迫観念の特徴である。 極端なのである。 大抵、悪い方向であり、症状が悪くなる事はあっても、良くなる事はない。 男Aは、妻に相談し、弁当を作ってくれないかと頼んだ。 即座に、断固、拒否された。

「冗談じゃない! 私だって、勤めがあるのに、これ以上、早起きなんて、無理無理! 自分で作ればいい」

「俺は、料理なんて、できないよ。 早起きしなくても、おかずは、前の晩の残り物でもいいから。 ご飯は、自分で詰めるよ」

「それじゃあ、前の晩の料理を多く作らなきゃならない! それも、無理! 頼むから、これ以上、私の負担を増やさないで!」

「だけど、俺が仕事を頑張って、出世すれば、給料も上がるし、お前だって、楽に・・・」

「あんたの給料を当てにして、暮らしてるんじゃないんだよ。 まるで、自分が養っているような言い方しないでよ! もーう! 聞いているだけで、気分が悪くなって来る」

  なんだな。 この夫婦は、弁当がどうのこうのと言う以前に、壊れかけているんだな。 壊れかけたものは、いずれ、本当に壊れるものだが、話はまだ、そこまで進んでいない。


  男Aは、コンビニ弁当を買う事にした。 思っていたより、高い。 弁当だけでも、食堂の平均的なメニューと、200円くらい、差がある。 それに、飲み物を付けると、もう、懐具合が苦しくなる。 平日、毎日の事だから、累積すると、馬鹿にならないのだ。 職場の洗面所の前に、自販機があるが、とても買えぬ。 家から、ポットにお茶を入れて、持って行く事にした。 その準備も、帰宅後のポットの洗浄も、自分でやらなければならず、負担感は、半端ないものになった。

  おかずが付いていると、高いので、海苔弁や、おにぎりが多くなる。 部下から、安い弁当の専門店があるという話も聞いたが、通勤経路から外れ過ぎていて、とても、寄れなかった。 「買って来てくれ」という言葉が、口から出かかったが、迷惑がられると思って、引っ込めた。 お礼をしなければならなくなると、却って、高くつく恐れもある。

  コンビニ弁当より、スーパーの惣菜弁当の方が安いのだが、通勤途中にあるスーパーは、男Aが立ち寄る時間帯には、開店はしていたものの、まだ弁当が入荷していなかった。 帰りに買って、家で冷蔵庫に入れておくと、結構、場所を取るせいで、妻が嫌がった。 また、冬場ならいいが、暑くなって来ると、前の晩に買った弁当を、翌日、会社に持って行って、半日以上、常温で置き、昼食に食べるのは、食中毒の危険がある。

  午前中の仕事が終わると、自分の机で、コンビニ弁当を食べる。 最初は、うまいと思ったが、同じような品ばかり買うせいか、すぐに飽きが来た。 しかし、他に、食べる物はないのだ。 10分で平らげて、満腹感が得られないまま、溜まっている仕事を片付けにかかる。

  他にも、職場の休憩所で、家から持って来た弁当を食べている社員がいて、最初は、「休憩所で、一緒に食べませんか」と誘われたが、それでは、食堂と変わらないと思い、断った。 一緒に食べ始めたが最後、早々と食べ終わって、席を立つタイミングが、非常に難しくなってしまうのだ。


  弁当ばかりの昼食を、大急ぎで掻き込んでいるせいというより、仕事の根を詰めすぎたのが原因だろう。 男Aの精神状態は、どんどん悪化して行った。 同僚、上司、部下、家族に関係なく、他者との関係が、ギスギスし始めた。 不必要な大声を出したり、そばに人がいるのに、独り言を言ったり、突然、怒り出したり。 精神科医に診せたら、最低限、通院するように言われるような状態になってしまった。


  ある時、決定的な事が起こった。 それまで、昼食は、社外に出て、次長の奢りで、趣味の話をしながら食べていた無能係長が、その日は、昼休みになっても、自分の机に残っていた。 そして、豪勢な手作り弁当を広げて、食べ始めたのだ。 この係長、前の週に結婚したばかりで、早速、愛妻弁当と洒落込んだわけだ。

  係長と、その補佐だから、男Aの机からは、すぐ近くだ。 男Aが、コンビニ弁当を、10分で食べ終えて、仕事に取りかかると、係長は、昼食とは思えないような御馳走を、ゆうゆうと頬張りながら、能天気に話しかけて来た。

「Aく~ん。 そんなに急いで食べたら、体に悪いよ~。 それに、もう少し、ゆっくり、味わって食べなきゃ、作った人に、失礼だよ~。 家畜が、餌を食べてるんじゃないんだからさ~」

  男A、耳を疑った。 ちなみに、無能係長は、男Aより、3歳、年下である。 大卒だから、社内階級は上であるが。 それはともかく、そもそも、この係長が無能で、仕事がまるで駄目だから、男Aが補佐につき、係長の分まで仕事を引き受けているのである。 そのせいで、時間がなくなり、食堂での同期との歓談の時間を諦め、こうして、自分の机で、コンビニ弁当を掻き込む、惨めな日々を過ごしているのだ。

(その俺に向かって、この言葉は何だ! 一体、こいつ、どういうつもりなのだ?)

  精神状態が不安定になっていたので、怒り始めると、どんどん、激昂メーターの針が上がって行き、容易に、レッド・ゾーンに突入した。

(こんな、ろくでなしの為に、俺は一体、なぜ、こんな大きな犠牲を・・・)

  男A、立ち上がった。 ものの 3歩で、係長の机の横に着いた。 係長は、男Aの顔が、ドス黒く充血しているのを見て、たじろいだ。

「なに? なんだよ、その顔は?」

  男Aは、部屋中に響き渡る大音声で怒鳴った。

「早飯ーっ!!! 早糞ーっ!!! 芸の内ーっ!!!!」

  係長の後頭部に右手を当て、豪華な弁当の中に、思い切り、顔を押しつけた。

「この馬鹿めっ! もっと早く食えっ! さっさと食って、仕事をしろっ! 最低限、自分の仕事は、自分でやれっ!! 馬鹿がっ! 馬鹿がっ!! 馬鹿がっ!!!」

  髪の毛をがっしり掴み、力任せに、何度も何度も押し付けたので、プラスチックの保温弁当箱が割れ、係長の顔が切れて、血が噴き出した。 休憩所にいた、他の社員が気づいたが、男Aの鬼気迫る剣幕に、取り押さえる勇気が出ず、警備員が呼ばれた。 男Aが、暴行をやめるまでに、15分もかかった。 係長は、顔面、血塗れで、机の上に無残に飛び散った愛妻弁当の海に沈み、気を失っていた。


  警察に引き渡された男Aは、支離滅裂な言葉を吐き続けていたので、取り調べに支障を来たし、検事の指示で、早い段階で、精神鑑定を受けた。 当人は、正常だと言い張ったが、医師の診断は、かなり進んだ統合失調症。 心神喪失で、不起訴となった。 その代わり、精神病院に入院である。

  会社の方は、事件の直後に、懲戒解雇になったが、社内には、男Aに同情的な意見も多かった。 男Aが、係長の代わりに、二人分の仕事をやらされていた事を、周囲が知っていたからだ。 社内で起こった傷害事件だったので、小規模ではあったが、調査委員会が設けられ、細かい事情が調べられた。

  この事は、問題になり、顔中 包帯だらけの係長が、重役会議に呼び出され、問責を受けた。 趣味が同じで、係長を可愛がっていた次長は、当然、係長を庇ったが、それが、薮蛇となった。 以前から、その次長の、会社を好き勝手やれる場所だと見做している態度に、疑問を抱いていた、比較的真面目な他の重役達が、ここぞとばかりに、吊るし上げに回ったのだ。 ただし、言葉だけは、穏当なものを選んで。

「そんな、仕事がまともにできない人間を、係長にして、実務も責任も、補佐に全部 押し付けるなんて、無茶苦茶じゃありませんか。 そりゃ、A君が怒っても、無理ないんじゃありませんか?」

「私も、そう思いますね。 いや、傷害罪を軽く見るつもりはありませんがね。 A君の懲戒解雇は、妥当だと思いますが、それと、この係長の問題は、別にして考えるべきでしょう」

「次長さんの趣味の仲間だそうですが、何の趣味なんですか? 『この件とは、関係ない』って事はないでしょう。 今は、事件の事より、係長の仕事を、A君がやらされていた事が問題になってるんですから。 なに、軍用機のプラ・モデル? その趣味が一緒だから、係長にしてやったんですか?」

  一同から、失笑が漏れた。 次長と係長は、赤面するのを抑えられなかった。

「ちょっと、勝手が過ぎるんじゃないですかねえ」

「ちょっとどころじゃありませんよ。 社長や会長、役員たちにも、報告しないと」

  結果、次長は、降格され、有閑部署の課長を任命された。 処分に激怒して、「こんな会社、自分から、辞めてやる!」と、秘書相手に息巻いていたが、退職金が減額されるのが惜しくて、定年までの数年を、移籍先で過ごした。 もちろん、何の仕事もせずに。 こんな、会社に遊びに来ていたようなジジイに、どんな仕事を任せられるというのだ?


  次長なんて、マシな方。 無能係長は、リストラの名目で、会社から追い出された。 こちらは、まだ若かったが、入社以来、仕事らしい仕事を、何もして来なかったのだから、有閑部署に回して、給料を払い続けるなど、ありえない。 上司から、マジマジと目を覗き込まれて、

「君は一体、どんな仕事なら、できるんだ?」

  と訊かれて、いくつか答えたが、新入社員が、職場に慣れる為にやらされるような作業ばかりだった。 その段階で、この男の仕事時計は停まっていたのだ。 これで、中間管理職を務め、部下を前に、朝礼や終礼で、訓示をかましていたのだから、呆れて物も言えない。

「どうやら、この会社に、君の居場所はないようだ。 今までに会社から受け取った給与・賞与を、全額 返還すれば、改めて、何か簡単な仕事を探してやってもいいが、それが嫌なら、退職願を書いてくれ」

  無能係長・・・、正確に言うと、軍用機のプラ・モデルを作る以外、無能な係長は、言い返す言葉もなく、素直に辞めて行った。 かねてから、この係長を、呆れ顔で見ていた職場の者たちは、みな、溜飲を下げた。 次長の庇護がなければ、とっくから、追い出したかったのだ。

  まだ、新婚の内だったが、事情を聞いた妻の両親が、呆れ返ってしまい、娘に強く迫って、離婚させた。 どうせ、無職では、食っていけないから、致し方ない。 子供が出来ない内に別れたのは、不幸中の幸いだった。 その後、この男がどうなったのかは、誰も知らない。 私の推測だが、モデラーとして、暮らしているのではなかろうか。


  さて、精神鑑定で、心神喪失と診断され、不起訴になった男Aだが、会社から課長と部長が、収容されている病院を訪ねて来て、懲戒解雇が取り消されたと告げられた。 病気だったのだから、それが理由で、解雇はできないわけだ。 すでに、3ヵ月 入院していた男Aは、すっかり落ち着いていて、正常な人間と変わりがないように見えた。 薬物療法が効いたというより、仕事から離れて、おかしくなった原因が取り除かれたから、自然に、元に戻りつつあったのだろう。


  その後、個室から、大部屋に移され、退院の日を待っていた男Aに、予想外の事態が襲いかかった。

  大部屋にいる患者は、症状が軽いので、ベッドまで食事を運んでもらえず、休憩室兼食堂で、いくつかのテーブルを囲んで食べる。 ある日、男Aは、入院したばかりの男と、同じテーブルに着いたのだが、その男が、いざ食べ始めたのを見て、ギョッとした。 驚くべき、早食いなのだ。 親の敵のように、スプーンで、料理を口に掻き込み、ろくに噛みもせずに、お茶で、ごくごく、呑み込んで行く。 そう、食べるというより、呑んでいるように見える。

  逮捕以来、早食いの必要がなくなり、自然に、普通の食事速度に戻っていた男Aは、凍りついたように、目の前の男の早食いぶりを眺めていた。 3分もしない内に、全て平らげてしまったその男は、爪楊枝代わりに、左手の小指の爪で、歯をせせりながら、男Aを見た。 見つめられて、男Aは、どぎまぎしながら、言葉を漏らした。

「凄い、早食いですね・・・」

「食える時に食っとかないとな。 その気になれば、もっと早く食えるよ。 次の飯で、見せてやろうか」

  男Aは、まだ、三口も食べていないのに、強烈な不快感に襲われ、吐きそうになった。 これが、かっての自分だったのだ。 なんと醜い存在だろう。 まるで、妖怪だ。 早食いを自慢している。 そんな事が、どうして、自慢になると思うのだ? ただ、自分の都合で、バクバク、口に掻き込んでいるだけではないか。 早食いなんて、周囲に迷惑なだけで、特技でも何でもない。 俺も、こんなに醜かったのか・・・。

  早食いの男は、言った。

「お前も、早く食えよ。 チマチマ食ってると、他の奴に、とられちまうぞ」

  気持ちが悪い。 本当に、吐きそうだ。 早食い男は、更に、決定的な言葉を口にした。

「早飯早糞、芸の内!」

  男Aは、吐かなかった。 吐くほどの物を、まだ、食べていなかったからだ。 その代わり、椅子をガタつかせて、席を立ち、休憩室兼食堂から、走って逃げ出した。 閉鎖病棟なので、窓は嵌め殺しになっていて、外に出られない。 その代わりに、男Aは、階段から、ダイブした。 頭から落ちた。 そして、死んだ。

  男Aが絶命した頃、休憩室兼食堂では、早食いの男が、男Aが残していった食事を、1分で平らげていた。