実話風小説 (38) 【早食い】

【早食い】
男Aは、最初から、早食いだったわけではない。 ただし、訓練はできていた。 高校生の時、バレー部に所属していたが、そこの顧問の教師が、病的と言っていいほど、権威的な性格で、部員たちに、自分の信条を押し付ける癖が強かった。 土日練習や、遠征試合の日には、昼飯時になると、必ず、大急ぎで弁当を食べさせた。
「早飯早糞、芸の内だ! 他の学校の連中より、早く食い終われば、それだけ、事前練習に時間を回せるんだ」
ちょっと聞くと、理に適っているようだが、その実、早食いが原因で起こる健康上の弊害について、全く考慮しておらず、素人考えの、浅はかな信条であった。 ちなみに、この顧問、別に体育系の大学を出たわけではない。 文系崩れで、新聞社や雑誌社が就職希望先だったのだが、出版不況の折り、成績不良で雇ってもらえず、たまたま、教員資格を取っていたというだけで、その高校に潜り込んだのだった。 バレーは、中学生の頃にやっていただけ。 技術的な指導はできず、精神論で押し捲るタイプだった。
しかし、部員たちは、そもそも、細かい事は考えない者が多い体育会系である上に、まだ、世間知が蓄積しておらず、顧問の言う事は絶対に正しいと信じて、早食いを実行した。 男子高校生用の大きな弁当箱に、ぎっしりつまった食べ物を、10分かけずに、腹に押し込んでいたのだから、乱暴極まりない事である。 食後血糖値が、どこまで上がったか分からない。
そのせいか、試合では、必ず、初戦負けを喫した。 それでも、顧問始め、部員たちの誰一人、早食いのせいだとは思わず、もっと早く食べて、昼休みの練習時間を、より稼がなくてはいけないと考えた。 救いようがない蒙昧ぶりである。
ただし、男Aの早食い経験は、高校の3年間だけで、卒業し、就職すると、自然に、元の速度に落ちた。 急いで食べる理由がなかったからだ。 社員食堂があり、同期入社の者たちと一緒に食べるから、会話しながらになり、自然と漫食に落ち着いて行ったのである。
男Aの早食いが復活したのは、勤め先で昇進し、平社員から、係長補佐になって以降である。 直属の上司が、次長と趣味が同じで、私生活での付き合いがあり、コネで係長になった人物。 仕事の実力は、全くと言っていいほど、なかった。 一方、男Aは、高卒入社12年目の現場叩き上げで、実力はあった。 無能係長の代わりに、実務をやらせる為に、補佐に当てられたのだ。
補佐とはいえ、中間管理職の内である。 平社員とは、仕事が違う。 そして、無能係長の分まで、やらなければならない。 就業時間中、トイレに立つ時間も惜しむくらい、ぎっちり働いていたが、それでも、こなしきれない。 仕事の性質上、社外秘になっているものも扱うので、家に持ち帰る事はできないし、労働時間の制約がきっちりした会社で、課長以下の社員は、定時上がりと決められており、残業もできなかった。
となると、もはや、昼休みを削るしかない。 昼休みは、1時間。 社員食堂まで、歩いて、5分。 配膳と食事に、30分。 職場に戻るのに、5分。 職場で、同僚と雑談を交わして過ごすのに、20分。 平社員の時には、そういう配分だった。 それが、係長補佐になってからは、職場に戻った後の雑談をなくし、仕事に当てるようになった。 これは、職場での行動だから、別段、問題なかった。
しかし、それでも、時間が足りないと分かり、そこから、男Aの変調が始まったのだ。
「こうなったら、食堂にいる時間を短くするしかないな。 配膳は、行列が短いメニューだけ選べば、5分もあれば、できる。 食べるのは、高校のバレー部での経験から、10分で掻き込める。 食事中の会話なんて、ただの世間話だから、端折ってもいい。 今まで、30分かかっていたのを、15分で済ませられれば、職場に戻ってからの時間に、どーんとゆとりができるじゃないか」
大変、いい考え方だと思った。 男A、昇進したばかりなので、気が大きくなっており、仕事に打ち込んで、結果を出せば、今後も、どんどん、上に上がって行けるものと、錯覚していた。 実際には、無能係長の補助役として、便利に使われていただけなのだが、もちろん、上の方は、そんな事を教えてくれはしないのだ。
男Aは、それまで、食堂では、同期入社の5・6人と、同じテーブルに着いて、昼食を食べていた。 職場はバラバラで、遠いところから10分以上かけて歩いて来る者もおり、面子が揃うだけでも、20分くらいかかった。 それから、食べて、食後の歓談をするのだから、食堂滞在時間が、30分を超すのも、やむをえない。
男Aは、目立って、早食いになった。 一番に配膳を済まして、テーブルに着くと、一人でさっさと食べ始めて、同期の面子が揃う前に食べ終わってしまった。 実質、食事時間、5分強である。 すでに、30歳なので、高校生の頃より、食べる量は減っているが、それにしても、この急ぎ方は、不健康と言うものであろう。
そして、早く席を立ちたくて、イライラし始める。 同期が揃い、彼らが、食事を始める頃には、男A、お茶も飲み終えて、テーブルを指先で、コツコツ叩きながら、貧乏揺すりを始める。 早く、職場に戻りたくて、仕方ないのだ。 しかし、入社以来、12年間、ほぼ毎日、昼食を共にして来た仲間たちの手前、それができないのである。 少なくとも、自分の次に食べ終わる者が出て来ないと、席を立つきっかけができない。
同期の仲間たちは、一週間くらいで、男Aの変化に気づいた。 しかし、敢えて、無視していた。 そもそもが、入社直後、研修所で、合宿を共にしたというだけの仲なのだ。 職場が、バラバラだから、仕事の話が合うわけでもない。 話す事と言ったら、社内の噂、世間話、プロ・スポーツの話、趣味の話、くらいのもの。 私生活で、行動を共にする事も稀。 「食堂で、一人だけで食事をしたくない」というだけの理由で、グループが維持されて来たと言っても、外れていない。 そんな仲なのに、早く席を立ちたいなど、食堂で顔を合わせている目的に背いてしまうではないか。
そういう同期たちの態度に、男Aの苛立ちは、激しく募るばかりだった。
「俺、用事があるから・・・」
と言って、早く席を立つ事が、週に一回、二回、と増えた。 走って、職場に戻り、溜まっている仕事に取りかかるのである。 3週目には、月曜から、木曜まで、4日も、そんな風に、早々と帰ってしまった。 5日目は、残っていたが、テーブルを叩く指先は、聞こえよがしと言っていいほど、激しくなっていた。 さすがに、同期の一人が、キレた。
「おい、A。 そんなに早く戻りたいなら、戻れよ。 用事があるんだろ」
「いやあ。 今日は、そんなに急がなくてもいいんだけどよ・・・」
「嘘つけ。 イライラし通しじゃないか」
「イライラなんて、してないよ」
「してるじゃないか。 テーブルを叩くなよ。 こっちは、昼飯を楽しみに来てるんだよ。 コツコツやられると、まるで、『早く食え!』って、急かされてるみたいだ」
男A、元が、イライラしていただけに、逆ギレした。
「そう思うなら、もっと早く、食えばいいだろう。 『早飯早糞、芸の内』って言うだろうが。 チマチマチマチマ、食いやがって」
「なんだと!」
喧嘩になりそうな雰囲気に、別の一人が、止めに入った。
「待て待て。 そんな事で、喧嘩するな。 Aは、もう、行った方がいいだろう。 お前、係長補佐になったから、仕事が増えて、時間が足りないんだろう? 俺も、経験があるよ。 無理に、同期につきあう事はない。 仕事をしに会社に来てるんだから、仕事優先でもいいんだ」
「俺は、別に、仕事がどうとか言いたいわけじゃ・・・」
「とにかく、忙しい内は、俺らにつきあわなくてもいい。 食堂に来るにしても、一人で食べた方が、早く済む。 はっきり言って、俺も、目の前で、テーブルをコツコツやられると、嫌なんだ。 ゆっくり、食べたいんだよ」
「そういう言い方をされると、まるで、俺が悪いみたいだ。 俺は、他にやる事があっても、お前らとのつきあいも大事だと思って、こうやって、お前らが食い終わるのを、待ってやってるのにな」
最初にキレた男が言った。
「待ってて、く、れ、る、必要はないわ。 いいから、さっさと行けよ。」
「そうかよ。 じゃあ、明日から、俺は、別の場所で、一人で食うからな」
「そうしろ。 是非、そうしろ」
また、別の男が、気を使って、言い添えた。
「Aよ。 別に、お前が気に食わなくて、追っ払うわけじゃないんだから、ゆとりが出来たら、また、一緒に食べよう」
「・・・・」
男Aは、答えずに、席を離れた。 仲間から拒絶された精神的ショックもあったが、反面、これで、大幅に時間を節約できる事になったので、ホッとした気持ちもあり、好悪入り乱れて、半々という感じだった。
男Aは、一人で、昼食を食べるようになったが、長くは続かなかった。 すぐに、「まだ、時間が足りない」と思うようになり、強迫観念に苛まれ始めた。
「あと、15分あれば、その日の仕事を、その日の内に、終わらせられるんだが・・・。 食堂へ行く往復の10分と、配膳に使う3分を節約すれば、だいぶ、楽になるかもしれない」
考えが一方向にしか進まないのが、強迫観念の特徴である。 極端なのである。 大抵、悪い方向であり、症状が悪くなる事はあっても、良くなる事はない。 男Aは、妻に相談し、弁当を作ってくれないかと頼んだ。 即座に、断固、拒否された。
「冗談じゃない! 私だって、勤めがあるのに、これ以上、早起きなんて、無理無理! 自分で作ればいい」
「俺は、料理なんて、できないよ。 早起きしなくても、おかずは、前の晩の残り物でもいいから。 ご飯は、自分で詰めるよ」
「それじゃあ、前の晩の料理を多く作らなきゃならない! それも、無理! 頼むから、これ以上、私の負担を増やさないで!」
「だけど、俺が仕事を頑張って、出世すれば、給料も上がるし、お前だって、楽に・・・」
「あんたの給料を当てにして、暮らしてるんじゃないんだよ。 まるで、自分が養っているような言い方しないでよ! もーう! 聞いているだけで、気分が悪くなって来る」
なんだな。 この夫婦は、弁当がどうのこうのと言う以前に、壊れかけているんだな。 壊れかけたものは、いずれ、本当に壊れるものだが、話はまだ、そこまで進んでいない。
男Aは、コンビニ弁当を買う事にした。 思っていたより、高い。 弁当だけでも、食堂の平均的なメニューと、200円くらい、差がある。 それに、飲み物を付けると、もう、懐具合が苦しくなる。 平日、毎日の事だから、累積すると、馬鹿にならないのだ。 職場の洗面所の前に、自販機があるが、とても買えぬ。 家から、ポットにお茶を入れて、持って行く事にした。 その準備も、帰宅後のポットの洗浄も、自分でやらなければならず、負担感は、半端ないものになった。
おかずが付いていると、高いので、海苔弁や、おにぎりが多くなる。 部下から、安い弁当の専門店があるという話も聞いたが、通勤経路から外れ過ぎていて、とても、寄れなかった。 「買って来てくれ」という言葉が、口から出かかったが、迷惑がられると思って、引っ込めた。 お礼をしなければならなくなると、却って、高くつく恐れもある。
コンビニ弁当より、スーパーの惣菜弁当の方が安いのだが、通勤途中にあるスーパーは、男Aが立ち寄る時間帯には、開店はしていたものの、まだ弁当が入荷していなかった。 帰りに買って、家で冷蔵庫に入れておくと、結構、場所を取るせいで、妻が嫌がった。 また、冬場ならいいが、暑くなって来ると、前の晩に買った弁当を、翌日、会社に持って行って、半日以上、常温で置き、昼食に食べるのは、食中毒の危険がある。
午前中の仕事が終わると、自分の机で、コンビニ弁当を食べる。 最初は、うまいと思ったが、同じような品ばかり買うせいか、すぐに飽きが来た。 しかし、他に、食べる物はないのだ。 10分で平らげて、満腹感が得られないまま、溜まっている仕事を片付けにかかる。
他にも、職場の休憩所で、家から持って来た弁当を食べている社員がいて、最初は、「休憩所で、一緒に食べませんか」と誘われたが、それでは、食堂と変わらないと思い、断った。 一緒に食べ始めたが最後、早々と食べ終わって、席を立つタイミングが、非常に難しくなってしまうのだ。
弁当ばかりの昼食を、大急ぎで掻き込んでいるせいというより、仕事の根を詰めすぎたのが原因だろう。 男Aの精神状態は、どんどん悪化して行った。 同僚、上司、部下、家族に関係なく、他者との関係が、ギスギスし始めた。 不必要な大声を出したり、そばに人がいるのに、独り言を言ったり、突然、怒り出したり。 精神科医に診せたら、最低限、通院するように言われるような状態になってしまった。
ある時、決定的な事が起こった。 それまで、昼食は、社外に出て、次長の奢りで、趣味の話をしながら食べていた無能係長が、その日は、昼休みになっても、自分の机に残っていた。 そして、豪勢な手作り弁当を広げて、食べ始めたのだ。 この係長、前の週に結婚したばかりで、早速、愛妻弁当と洒落込んだわけだ。
係長と、その補佐だから、男Aの机からは、すぐ近くだ。 男Aが、コンビニ弁当を、10分で食べ終えて、仕事に取りかかると、係長は、昼食とは思えないような御馳走を、ゆうゆうと頬張りながら、能天気に話しかけて来た。
「Aく~ん。 そんなに急いで食べたら、体に悪いよ~。 それに、もう少し、ゆっくり、味わって食べなきゃ、作った人に、失礼だよ~。 家畜が、餌を食べてるんじゃないんだからさ~」
男A、耳を疑った。 ちなみに、無能係長は、男Aより、3歳、年下である。 大卒だから、社内階級は上であるが。 それはともかく、そもそも、この係長が無能で、仕事がまるで駄目だから、男Aが補佐につき、係長の分まで仕事を引き受けているのである。 そのせいで、時間がなくなり、食堂での同期との歓談の時間を諦め、こうして、自分の机で、コンビニ弁当を掻き込む、惨めな日々を過ごしているのだ。
(その俺に向かって、この言葉は何だ! 一体、こいつ、どういうつもりなのだ?)
精神状態が不安定になっていたので、怒り始めると、どんどん、激昂メーターの針が上がって行き、容易に、レッド・ゾーンに突入した。
(こんな、ろくでなしの為に、俺は一体、なぜ、こんな大きな犠牲を・・・)
男A、立ち上がった。 ものの 3歩で、係長の机の横に着いた。 係長は、男Aの顔が、ドス黒く充血しているのを見て、たじろいだ。
「なに? なんだよ、その顔は?」
男Aは、部屋中に響き渡る大音声で怒鳴った。
「早飯ーっ!!! 早糞ーっ!!! 芸の内ーっ!!!!」
係長の後頭部に右手を当て、豪華な弁当の中に、思い切り、顔を押しつけた。
「この馬鹿めっ! もっと早く食えっ! さっさと食って、仕事をしろっ! 最低限、自分の仕事は、自分でやれっ!! 馬鹿がっ! 馬鹿がっ!! 馬鹿がっ!!!」
髪の毛をがっしり掴み、力任せに、何度も何度も押し付けたので、プラスチックの保温弁当箱が割れ、係長の顔が切れて、血が噴き出した。 休憩所にいた、他の社員が気づいたが、男Aの鬼気迫る剣幕に、取り押さえる勇気が出ず、警備員が呼ばれた。 男Aが、暴行をやめるまでに、15分もかかった。 係長は、顔面、血塗れで、机の上に無残に飛び散った愛妻弁当の海に沈み、気を失っていた。
警察に引き渡された男Aは、支離滅裂な言葉を吐き続けていたので、取り調べに支障を来たし、検事の指示で、早い段階で、精神鑑定を受けた。 当人は、正常だと言い張ったが、医師の診断は、かなり進んだ統合失調症。 心神喪失で、不起訴となった。 その代わり、精神病院に入院である。
会社の方は、事件の直後に、懲戒解雇になったが、社内には、男Aに同情的な意見も多かった。 男Aが、係長の代わりに、二人分の仕事をやらされていた事を、周囲が知っていたからだ。 社内で起こった傷害事件だったので、小規模ではあったが、調査委員会が設けられ、細かい事情が調べられた。
この事は、問題になり、顔中 包帯だらけの係長が、重役会議に呼び出され、問責を受けた。 趣味が同じで、係長を可愛がっていた次長は、当然、係長を庇ったが、それが、薮蛇となった。 以前から、その次長の、会社を好き勝手やれる場所だと見做している態度に、疑問を抱いていた、比較的真面目な他の重役達が、ここぞとばかりに、吊るし上げに回ったのだ。 ただし、言葉だけは、穏当なものを選んで。
「そんな、仕事がまともにできない人間を、係長にして、実務も責任も、補佐に全部 押し付けるなんて、無茶苦茶じゃありませんか。 そりゃ、A君が怒っても、無理ないんじゃありませんか?」
「私も、そう思いますね。 いや、傷害罪を軽く見るつもりはありませんがね。 A君の懲戒解雇は、妥当だと思いますが、それと、この係長の問題は、別にして考えるべきでしょう」
「次長さんの趣味の仲間だそうですが、何の趣味なんですか? 『この件とは、関係ない』って事はないでしょう。 今は、事件の事より、係長の仕事を、A君がやらされていた事が問題になってるんですから。 なに、軍用機のプラ・モデル? その趣味が一緒だから、係長にしてやったんですか?」
一同から、失笑が漏れた。 次長と係長は、赤面するのを抑えられなかった。
「ちょっと、勝手が過ぎるんじゃないですかねえ」
「ちょっとどころじゃありませんよ。 社長や会長、役員たちにも、報告しないと」
結果、次長は、降格され、有閑部署の課長を任命された。 処分に激怒して、「こんな会社、自分から、辞めてやる!」と、秘書相手に息巻いていたが、退職金が減額されるのが惜しくて、定年までの数年を、移籍先で過ごした。 もちろん、何の仕事もせずに。 こんな、会社に遊びに来ていたようなジジイに、どんな仕事を任せられるというのだ?
次長なんて、マシな方。 無能係長は、リストラの名目で、会社から追い出された。 こちらは、まだ若かったが、入社以来、仕事らしい仕事を、何もして来なかったのだから、有閑部署に回して、給料を払い続けるなど、ありえない。 上司から、マジマジと目を覗き込まれて、
「君は一体、どんな仕事なら、できるんだ?」
と訊かれて、いくつか答えたが、新入社員が、職場に慣れる為にやらされるような作業ばかりだった。 その段階で、この男の仕事時計は停まっていたのだ。 これで、中間管理職を務め、部下を前に、朝礼や終礼で、訓示をかましていたのだから、呆れて物も言えない。
「どうやら、この会社に、君の居場所はないようだ。 今までに会社から受け取った給与・賞与を、全額 返還すれば、改めて、何か簡単な仕事を探してやってもいいが、それが嫌なら、退職願を書いてくれ」
無能係長・・・、正確に言うと、軍用機のプラ・モデルを作る以外、無能な係長は、言い返す言葉もなく、素直に辞めて行った。 かねてから、この係長を、呆れ顔で見ていた職場の者たちは、みな、溜飲を下げた。 次長の庇護がなければ、とっくから、追い出したかったのだ。
まだ、新婚の内だったが、事情を聞いた妻の両親が、呆れ返ってしまい、娘に強く迫って、離婚させた。 どうせ、無職では、食っていけないから、致し方ない。 子供が出来ない内に別れたのは、不幸中の幸いだった。 その後、この男がどうなったのかは、誰も知らない。 私の推測だが、モデラーとして、暮らしているのではなかろうか。
さて、精神鑑定で、心神喪失と診断され、不起訴になった男Aだが、会社から課長と部長が、収容されている病院を訪ねて来て、懲戒解雇が取り消されたと告げられた。 病気だったのだから、それが理由で、解雇はできないわけだ。 すでに、3ヵ月 入院していた男Aは、すっかり落ち着いていて、正常な人間と変わりがないように見えた。 薬物療法が効いたというより、仕事から離れて、おかしくなった原因が取り除かれたから、自然に、元に戻りつつあったのだろう。
その後、個室から、大部屋に移され、退院の日を待っていた男Aに、予想外の事態が襲いかかった。
大部屋にいる患者は、症状が軽いので、ベッドまで食事を運んでもらえず、休憩室兼食堂で、いくつかのテーブルを囲んで食べる。 ある日、男Aは、入院したばかりの男と、同じテーブルに着いたのだが、その男が、いざ食べ始めたのを見て、ギョッとした。 驚くべき、早食いなのだ。 親の敵のように、スプーンで、料理を口に掻き込み、ろくに噛みもせずに、お茶で、ごくごく、呑み込んで行く。 そう、食べるというより、呑んでいるように見える。
逮捕以来、早食いの必要がなくなり、自然に、普通の食事速度に戻っていた男Aは、凍りついたように、目の前の男の早食いぶりを眺めていた。 3分もしない内に、全て平らげてしまったその男は、爪楊枝代わりに、左手の小指の爪で、歯をせせりながら、男Aを見た。 見つめられて、男Aは、どぎまぎしながら、言葉を漏らした。
「凄い、早食いですね・・・」
「食える時に食っとかないとな。 その気になれば、もっと早く食えるよ。 次の飯で、見せてやろうか」
男Aは、まだ、三口も食べていないのに、強烈な不快感に襲われ、吐きそうになった。 これが、かっての自分だったのだ。 なんと醜い存在だろう。 まるで、妖怪だ。 早食いを自慢している。 そんな事が、どうして、自慢になると思うのだ? ただ、自分の都合で、バクバク、口に掻き込んでいるだけではないか。 早食いなんて、周囲に迷惑なだけで、特技でも何でもない。 俺も、こんなに醜かったのか・・・。
早食いの男は、言った。
「お前も、早く食えよ。 チマチマ食ってると、他の奴に、とられちまうぞ」
気持ちが悪い。 本当に、吐きそうだ。 早食い男は、更に、決定的な言葉を口にした。
「早飯早糞、芸の内!」
男Aは、吐かなかった。 吐くほどの物を、まだ、食べていなかったからだ。 その代わり、椅子をガタつかせて、席を立ち、休憩室兼食堂から、走って逃げ出した。 閉鎖病棟なので、窓は嵌め殺しになっていて、外に出られない。 その代わりに、男Aは、階段から、ダイブした。 頭から落ちた。 そして、死んだ。
男Aが絶命した頃、休憩室兼食堂では、早食いの男が、男Aが残していった食事を、1分で平らげていた。