読書感想文・蔵出し (129)

≪推理作家になりたくて マイベストミステリー第三巻 迷≫
株式会社 文藝春秋
2003年10月30日 発行
日本推理作家協会 編
沼津図書館にあった、ソフト・カバーのシリーズ・アンソロジーです。 短編小説、14作、書き下ろしエッセイ、もしくは、インタビュー、7作を収録。 全体のページ数は、約319ページ。 小説は、二段組み。 エッセイ・インタビューは、一段組み。
当世推理作家の短編の次に、彼らが推理作家になりたいと思っていた頃に影響を受けた、先人の短編を並べ、更に、それに関する、書き下ろしエッセイ、もしくは、特別インタビューを添えたもの。 感想は、短編のものだけ、書きます。 数が多いので、ざっと。
≪岩井志麻子≫
【魔羅節】 2001年 約13ページ
明治時代、渇水に苦しむ山村で、藁にも縋る態の、奇怪な雨乞い儀式が行なわれ、ハイになった村の男達から、一人の少年が、性的な嬲り者にされる。 妹と共に、大きな都市に逃げて来たが、花街で男色を売る以外に、生きる術がなく・・・、という話。
これは、ひどい。 小説として、ひどいのではなく、話の中身が、ひどいです。 こんな事が許されていいものか。 許されないほどひどい事だと思うから、モチーフにしたんでしょうけど・・・。 善悪バランスなど、全く頓着しておらず、とにかく、救いがない。 こういう小説を、分かったフリや、通好みのフリをして、評価しない方がいいと思います。
≪葉山嘉樹≫
【セメント樽の中の手紙】 1926年 約5ページ
セメント袋の中から出て来た箱の中には、手紙が入っていた。 セメント工場で働いていた彼氏が、機械に巻き込まれて、チリヂリの粉々、セメントの中に混ぜ込まれてしまったのだが、そのセメントが何に使われたか知りたいから、連絡してくれとの事。 しかし、読んだ人物は、何の興味もないようで・・・、という話。
小林多喜二作、【蟹工船】と同類の、プロリタリア文学らしいのですが、この彼氏の場合、使用者に搾取されていたのではなく、事故に遭ったのであって、だいぶん、事情が違うのでは? 労災の補償がなかったという事でしょうか。
屁理屈を承知で言いますと、普通、人間が機械に巻き込まれたら、まず間違いなく、機械は止まってしまいます。 そのまま、セメントに混ざって、出荷される事はないと思いますがねえ。 プロレタリア文学であればこそ、リアリティーの欠如は、大きな欠陥になるのでは?
≪恩田陸≫
【オデュッセイア】 2001年 約9ページ
大きな城のような街が、自らの意思と力で、陸となく、海となく、地球上を放浪している。 長い歳月の間に、戦争や疫病で、住人は入れ替わって行き、やがて、核戦争が起こって、地球には、人間も動物もいなくなってしまう。 ある時、宇宙へ出た人類の子孫が訪ねて来て・・・、という話。
SFというよりは、ファンタジー。 私ゃもう、歳が歳ですけん、ファンタジーは、えーがな。 こういう小説は、まだ将来に希望がある、15歳以下の人達が読むべき。 というわけで、感想ではなく、印象を書きますと、宮崎駿さんのアニメを、部分的に切り取って、肉付けし直したような世界観です。
≪島田荘司≫
【糸ノコとジクザグ Jigsaw & ZigZag】 1985年 約33ページ
今は昔。 あるラジオ番組で、視聴者サービスとして、3分間のメッセージを募集したところ、意味不明の文章を伝えて来た者がいた。 「これは、全体が判じ物で、自殺の予告ではないか」と判断され、自殺を阻止すべく、DJ始め、番組関係者や、他の視聴者達が、謎解きに挑む話。
一種の暗号物で、いかにも、本格トリック作家の好みそうな話。 私も好きな方なので、ゾクゾクしながら、読みました。 判じ物で出来た文章は、結構 長いものでして、短編に、これだけの内容を盛り込むのは、アイデアの大盤振る舞いと言えます。 もっとも、判じ物と言っても、全てが洒落たものというわけではないので、作者の頭の中で、好きなように組み立てられる点、読者が感じるほど、難しくなかったのかも知れませんが。
話が、入れ子式になっていますが、その点は、効果の程が、はっきりしません。 なぜ、入れ子式にしたのか、首を傾げてしまうくらい。
≪篠田節子≫
【青らむ空のうつろのなかに】 1997年 約33ページ
実の母親から虐待を受けていた少年が、地方の農村にある、施設に預けられる。 豚の飼育をさせる事で、少年達に社会性を教える方針の施設だったが、その少年は、いつまでたっても、心を閉ざしたまま、ひたすら、豚だけに愛情を注いでいた。 やがて、豚が出荷される日が迫り・・・、という話。
こういう施設、本当にありそうだな。 話も、実話として、ありそうですが、結末は、救いのない形で終わっていて、本当にこうなったら、ワイド・ショーのネタにされてしまいそうです。 こういう施設そのものが、子供を立ち直らせる力などないのであって、絶望的な気分で読み終わる事になります。
動物ものと捉える事もできますが、豚はダシに過ぎず、作者が発したかったのは、「社会性の欠けた人間には、生きる場所などないのだ」というメッセージなのでは? と言ったら、穿ち過ぎですか。
≪西村寿行≫
【痩牛鬼】 1979年 約40ページ
肉牛を育てている大規模な牛舎から、600万円もする出荷前の高級和牛が一頭いなくなり、同時に姿が見えなくなった従業員の青年が連れて逃げたと思われた。 青年は、その牛に対して、子供の頃の経験から来る特別な思い入れがあり、屠殺されるのを避けようとしたのだった。 山の中の廃村に隠れて、牛には、草を食べさせていたが、配合飼料を食べられなくなった牛は、どんどん痩せて行き、青年も食料が尽きて・・・、という話。
肉牛の飼育について、細かく取材した跡が伺えます。 豚と牛の違いがあるものの、【青らむ空のうつろのなかに】と、よく似た話。 書かれたのは、こちらの方が、ずっと早いのですが、この作品に影響を受けて、【青らむ空のうつろのなかに】を書いたわけではないとの事。 つまり、こういう話を思いつく人は、多いというわけなんでしょう。
最終的に殺す事になる動物は、可愛がり過ぎてはいけないんですな。 助けようと思うと、結局、こういう事になってしまうのです。 人間にできる事には限界があり、犯罪や、社会性を無視した行為は、動機が貴くても、実行は困難なわけだ。
≪高村薫≫
【みかん】 1996年 約6ページ
60歳を過ぎて、息子夫婦と同居している男。 ある日、家にあったみかんを食べようとしたが、小さい上に、色が黄色で、男の食べたいみかんとは、違っていた。 外出して、果物屋を巡るが、目当てのみかんは見つからない。 ふと、自分が求めていたみかんが、どういうものなのか気づくが、それは、店では手に入らないものだった。 という話。
短いので、梗概を書こうとすると、ストーリー全部を書いてしまいますな。 老年期に入った主人公が見つけようとしているのは、若さそのもののようですが、はっきり、そう書いてあるわけではありません。 推理小説でも、犯罪小説でもなくて、戦前の作家が書いた、何が言いたいのか良く分からない、私小説に似た雰囲気があります。
この短さで、この分かり難さは、勘弁して欲しいところ。 短いのをいい事に、4回 読み返しましたが、やはり、はっきりとは、分かりませんでした。 そもそも、この本を借りて来たのは、高村作品を読むのが目的だったのに、肝腎のそれが分からんのでは、意味がない。 高村さんレベルの、知能・知識・教養がある人には分かるのに、自分には分からないというのは、大変、歯痒いです。
≪武田泰淳≫
【ひかりごけ】 1954年 約41ページ
戦時中に、知床半島で起こった、「人肉食事件」。 冬に、船が難破して、辛うじて、陸に逃れたものの、その土地から出られなくなってしまった乗組員4名が、餓死した順に食われて行き、最後に残った船長だけが生還したが、やがて、どうやって生き延びたかが露見して、裁判にかけられたというもの。 その話を、土地の者から聞いた人物が、分からない部分を想像で補い、戯曲に仕立てる、という内容。
こういう、ギョッとする話を推挙するところは、いかにも、高村薫さんらしい。 血も凍るのは、この作品を読んでいる内に、「こういう場合、人肉食も、やむを得ないのではないか」と思っている自分を発見した時です。 作者の言いたい事は、大変、よく分かる。 しかし、分かり過ぎてしまうと、実際に、同じような状況に置かれた時に、やってしまうかも知れず、それが、怖いのです。
「『人間の尊厳』などというものは、観念的な倫理観に過ぎず、生き残る事を最優先するのなら、やれる事は何でもやるべきだ」、というのは、AIが、人類の比較対象として認識されつつある現在を生きる者には、受け入れ易い考えだとは思いますが、さすがに、「人食い」となると、実際に、極限状態に追い込まれない限り、自分事として、真剣に考える気になれませんなあ。
≪馳星周≫
【古惑仔 チンピラ】 1997年 約14ページ
香港に来た日本のヤクザの親分の娘を、観光案内する事になった、地元のチンピラ。 娘をホテルに送り届け、その日の務めは済ませたが、アニキの車を借りていたせいで、アニキの命を狙う連中に、間違って狙われ・・・、という話。
梗概で、全部、書いてしまいました。 ストーリーというほどのストーリー性は、備わっていません。 チンピラらしい結末ですが、そんな生活をしていたのでは、いつ、こういう事になっても、致し方ないですな。
映画の世界で、香港ノワールが流行っていた頃に書かれたものなんでしょうか。 一作家が、外国のヤクザ業界の事情を、どれだけ調べられるかは、大いに疑問でして、「江戸時代以前の日本を描いた、アメリカ映画」に似た、胡散臭さが隠せません。
≪大藪春彦≫
【雨の路地で】 1959年 約24ページ
学生時代は、演劇に関わっていたが、結婚生活に無理があって、そこから、道を踏み外して行った男。 数年後には、ヤクザの幹部になったものの、仲間内の賭博で借金を抱え込み、昔の友人を頼る。 しかし、堅気の友人から、金を奪うに忍びず、雨の中を、また出て行って、タクシーに乗り・・・、という話。
大藪さんの話ですから、タクシーに乗った後、どういう展開になるかは、想像がつくと思います。 きっかけはどうあれ、一旦、ヤクザになってしまった者には、結局、こういう末路しか待ってないんですな。 恙なく生きて、天寿を全うできるような世界ではありません。 新聞記事やニュースにならないだけで、どれだけのヤクザ・チンピラ・半グレの面々が、闇から闇へ、秘かに死んで行っている事か。
大藪さんの作品にありがちですが、小説の構成としては、滅茶苦茶で、こういう設定の主人公に起こりうる、月並みなエピソードを寄せ集め、順不同で書き並べた観あり。 バランスは、非常に悪いです。 もっとも、大藪ファンは、そんなところは、読んでいないのであって、それが瑕になるわけでもないのですが。
≪山田風太郎≫
【まぼろしの恋妻】 1958年 約20ページ
あるアパートの一室に、7年前 勤めていた官庁から金を持ち逃げして、逮捕され、服役を終えた男が住んでいた。 少々、頭がおかしくなってしまっていて、事件以来、行方が分からなくなった妻と娘を捜していた。 同じアパートに住む、若い女性二人が、男の頭にショックを与えたら、正気に戻るのではないかと、男の妻子と似たような年格好の母娘を仕立てて、試してみたところ・・・、という話。
戦後間もない頃の、探偵小説っぽい雰囲気。 話の根幹部分は、ありふれているけれど、ベタに面白いです。 問題は、余計な設定でして、一人称の語り手の人物設定を、こんなに細かく決める必要はないです。 連作の一つで、他の作品と、登場人物を共有しているから、こうなったんでしょうか? そういう場合、章の一つに過ぎないのですから、切り取って、独立した短編として紹介するのは、無茶というものでしょう。
≪夢野久作≫
【瓶詰の地獄】 1928年 約10ページ
船が難破して、無人島に漂着した、兄と妹。 裸でも暮らせる気候で、食料も、いつでも、労せずして手に入るという、生きて行くには、何の支障もない環境だった。 ところが、妹が成長するに従い、性的な魅力が顕著になり、それが、兄を苦しめ、楽園が地獄に変わる話。
戦前の発表でして、兄妹が、一線を超える事はありません。 しかし、そうであればこそ、地獄のように苦しいわけです。 一線を超えなくても、超えたくて超えたくて、居ても立ってもいられないというだけで、倫理的に、アウトのような気がしますが、よく、発表できましたねえ。
≪山田正紀≫
【雪の中の二人】 1979年 約24ページ
営業から社史編纂室に左遷された男。 雪の夜に、酒場の前で会った浮浪者に、酒を奢ってやるが、もっと欲しいという要望は、高飛車な態度で断った。 店を出て、浮浪者の後をついて行くと、立体駐車場に着き、蜜柑箱に跨って、雪に覆われたスロープを滑り降りるゲームを挑まれる。 意地になって応じたが、初めての事とて、勝てるわけがない。 二人の仲は、更に険悪になり・・・、という話。
文章は、会話が多くて、大変、読み易いです。 逆に言うと、書き方が、軽過ぎる感じがします。 「自由に生きるとは、どういう事か」をテーマに、人間ドラマを描いているわけですが、この二人は、生き方が根本的に異なるのですから、価値観も違うのであって、諍いになれば、それぞれ、自分勝手な理屈をぶつけあう事になるのは、当然の事。 こういう争いは、犬も食いません。 星新一さんが絶賛したそうですが、どういうところを気に入ったのかが、測りかねます。
≪日影丈吉≫
【かむなぎうた】 1949年 約21ページ
都会から、地方の山村に転校した少年。 同じクラスにいた、逞しい少年、源四郎と交際するようになるが、それは、友情とは異質の、張り合いのようなものだった。 ある時、イタコの老婆が、川で水死体となって発見される。 源四郎が、老婆に金をせびる様子を見ていた少年は、風邪で、ぼんやりした頭の中で、源四郎がどうやって老婆を殺し、金を奪ったかを推測するが・・・、という話。
あまり目にしない漢字熟語の訓当てが多くて、些か読み難いですが、旧仮名ではないし、本物の古文に比べたら、物の数ではないです。 話の方は、「推理して、一応の結論に至ったけれど、実は全然 違っていた」とうもの。 推理小説のパロディーとも取れます。 ストーリーよりも、雰囲気を楽しむ作品でして、変格ミステリーの類いです。
この本の総括ですが、「推理作家になりたくて」というタイトルにしては、推理小説が少ないのは、羊頭狗肉というもの。 推理小説で、短編となると、本格は、型に嵌まってしまうから、避けたがり、変格風の作品で勝負しようとして、推理小説から離れてしまうのではないかと思います。
アンソロジーというのは、どうも、私の肌に合いません。 一作ごとに、文体や作風が変わるので、そのつど、頭を切り替えて行くのが、億劫なのです。 やはり、気に入った作家の作品を、続けて読む方が、安心できます。
≪わが手に拳銃を≫
株式会社 講談社
1992年3月28日 第 1刷発行
2002年3月29日 第21刷発行
高村薫 著
沼津市立図書館に相互貸借を頼んで、金谷町中央公民館図書室から取り寄せてもらった、ハード・カバーの単行本です。 長編、1作を収録。 本文は、二段組み。 プロローグとエピローグは、一段組み。 約344ページ。 先に読んだ、【李歐】(1999年)の、原形になった作品ですが、こちらも、長編です。 短編を長編に書き直すというのは、良く聞きますが、長編を長編に書き直すというのは、珍しい。
検察官をしている父の仕事の都合で、母と三人で、大坂へ移り住んだ男の子。 母に連れられて通っていた教会の隣にある町工場に遊びに行っている内に、金属加工に深い興味を持つようになる。 その工場には、韓国朝鮮語や、中国語を話す工員や居候がおり、社長は、拳銃の密造にも手を出そうとしていた。 社長の襲撃事件に巻き込まれて、母が殺されてしまい、男の子は母方の祖父母に引き取られる。 成長し、大阪の大学に通うようになった青年は、母が殺された事件の真相を探っていたが、バイト先のナイト・クラブで起こった、ヤクザの暗殺事件をきっかけに、殺し屋の中国人美青年と懇意になり、犯罪の世界に片足を入れをながら生きて行く身になる話。
登場人物や、基本的なストーリーは、【李歐】と、ほぼ、同じ。 予想していた通り、タイトルが、拳銃絡みである分、拳銃に関する詳細知識は、こちらの方が、ずっと多いです。 この作品から、拳銃関係の文章を減らしたのが、【李歐】という事になりますが、減らした分を他の部分の描写に回したというわけでもなく、同じストーリーを、場面ごとに、少しずつ視点を変えて、書き直したといった体裁です。
アクション場面は、こちらの方が、躍動感があって、面白いです。 些か、映像作品的な軽薄さも感じられるので、もしかしたら、そういうところに不満があって、書き直したのかも。 全体の構成も、こちらの方が、バランスがいいです。 普通の作家だったら、この作品に書き直す必要を感じる事はないでしょう。 うーむ、知能の高い人の考えている事は、分からない。
特に、ラストですが、【黄金を抱いて翔べ】に近い雰囲気もあります。 ただ、【黄金…】が、一犯罪計画を対象にした、比較的短い期間の話なのに対し、こちらは、一人の人間の半生を追った話なので、どうしても、密度の低さが出てしまいます。 また、主人公が、確固たる意志があって、こういう人生を選んでいるのではなく、行き当たりばったりというほどではないものの、半分くらい、成り行き任せで生きているところがあり、それがますます、話を緩くしています。
この作品と、【李歐】の、どちらか一作だけ読むと言うのなら、こちら。 しかし、高村さんの作品は、数が知れているので、手に入るなら、両方 読むのもいいんじゃないでしょうか。 「なぜ、わざわざ、書き直されたのか?」について、研究するのも、面白いかも知れません。
それにしても、この作品でも、【李歐】でも、最も魅力を感じるキャラが、笹倉という名前の、オッサン、もしくは、ジーサンなのは、興味深い。 主人公や李歐より、一世代以上 歳をとっている、海千山千の商人なのですが、この人が出て来ると、利益最優先で、仲間でも平気で裏切る考え方が独特で、喋る言葉を一文字も余さずに読まなければ、損するような気にさせられます。
≪女性作家シリーズ 20 干刈あがた/高樹のぶ子/林真理子/高村薫≫
女性作家シリーズ 20
株式会社 角川書店
1997年10月27日 初版発行
干刈あがた/高樹のぶ子/林真理子/高村薫 著
沼津市立図書館にあった、ハード・カバーのアンソロジー。 4人の作家の、短編10作と、長編の抄録1作を収録。 全体のページ数は、435ページ。
≪干刈あがた≫
【プラネタリウム】 1983年 約27ページ
不倫している夫とは、ほぼ別居状態で、まだ小中学生の息子二人を育てている母親が、息子達の成長の様子を観察したもの。
確認したわけではありませんが、元は、実話のような感じですな。 80年代っぽい、軽妙な文体で書かれていますが、内容は、私小説のそれに近いです。 「プラネタリウム」というのは、長男が、穴を無数に開けたティッシュの箱と、懐中電灯で作ったもの。
【ウホッホ探検隊】 1983年 約61ページ
とうとう、夫と離婚した母親が、ますます、息子二人を愛しむものの、長男には、幾分 反抗期の兆しが見られ、両親の離婚が、彼らの心に悪影響を及ぼさないように、涙ぐましい努力で、息子達と心を通わせようとする話。
随分前に、映画版を見ていますが、原作は、ずっと、シンプルで、短いものでした。 逆に言うと、映画版は、よくぞあれだけ、膨らませたもの。 映画では、誰が主人公かはっきりしませんでしたが、原作では、母親の視点で話が進みます。 その点、やはり、私小説的。
離婚するほど、溝が深いのに、別に喧嘩しているわけではないというのが、不思議。 夫に別の女が出来た時点で、もう、諦めてしまっているんでしょうか。 夫は、どうか分かりませんが、妻の側だけでも、これだけ物分かりが良ければ、別居にも離婚にもならないような気もしますが、そう思うのは、私の経験が欠けているのであって、人により、夫婦により、様々なパターンがあるんでしょう。 結婚には失敗したけれど、できる限り、前向きに対処しているところが、好ましいです。
【女の印鑑】 19??年 約12ページ
離婚する為に、旧姓の実印を注文しに行った女性。 印鑑の本体に、女物と男物で、太さの違いがある事に、カチンと来て、男物で作ってくれるように頼みながら、離婚に至った経緯を思い返す話。
干刈あがたさんのは、三作とも、離婚ネタですが、この作品には、子供が出て来ません。 とばっちりの被害者がいないせいか、サバサバした感じがします。 夫の母親の反応は、頭に来ます。 こういう事は、身内だけで愚痴っていればいいのであって、息子の離婚相手に言う事ではありませんな。 他人に戻った相手を怒らせる事が、怖くないんですかね?
≪高樹のぶ子≫
【光抱く友よ】 1984年 約68ページ
高校の女だけのクラス。 家庭の事情で、学校に出て来ない事が多い生徒と、たまたま、親しくなった主人公が、彼女の家を訪ねて行くと、部屋の壁に、宇宙の写真が、たくさん貼り付けてあり・・・、という話。
周囲から不良と思われていて、実際、それに近い生き方をしているのですが、人格の一部に、純粋で高尚な部分があるという人物は、割と多くいそうですな。 本人は、その部分を大事にしている事で、自尊心を担保しているのでしょう。 しかし、アル中の母親と離れられないというのは、厳しい。 典型的な親ガチャの一例でしょうか。
【水脈(抄)】 1995年
元の作品、【水脈】は、水に関わる話を集めた、短編集のようです。 その中から、以下の三作を選んだわけですが、登場人物も、ストーリーも、互いに関係していません。
[裏側] 約18ページ
子供の頃に、姉妹で近所の洞穴に潜った時、滝の裏側に出た記憶がある姉。 大人になってから、妹に訊くと、全く記憶にないという。 遥か昔、祖母が家に招いた絵師に描かせたという絵の中に、滝があり、その中に入って行くと、若い頃の祖母と、絵師が密会していて・・・、という話。
途中から、ファンタジーが入ります。 純文学とファンタジーは、異質なようですが、短編の場合、割と重なるところもあり、特に、違和感を覚える事もなく、受け入れる事ができます。 別に、絵の中の滝から戻った時に、ズブ濡れになっているのは、主人公が夢を見ていたわけではないと示す為かも知れません。
[月夜] 約14ページ
この作品は、更に、三つのエピソードに分かれていますが、一人称の主人公は、共通。 一つ目は、夫と二人で、中米のユカタン半島へ行った主人公が、水に中って、トイレにお百度を踏む話。 二つ目は、20年前に、トイレで流産した時の話。 三つめは、祖父が子供の頃、池で溺れて、三日月に掴まって助かったという話。
「水」だけでなく、「月」も絡めてあるわけですな。 三つ目のエピソードには、ファンタジーで締めてありますが、これまた、違和感がないです。 高樹のぶ子さんは、こういう作風なんでしょうねえ。 ストーリーとしては、特に面白いところはありません。 バラバラ過ぎ。
[水卵] 約22ページ
故郷に墓参りに行った女性。 よその家の墓に立てられた卒塔婆を見て、子供の頃、一緒に遊んだ友達が亡くなっていた事を知る。 友達の家を訪ねると、母親と娘がいて、娘の話では、友達は、毎夜、池に遊びに行って、肺に水が溜まって死んだとの事。 その遊びというのが、池から、オルガンを引き上げて弾く事で・・・、という話。
これも、結末が、ファンタジー。 しかし、SFに分類するには、純文学に近過ぎ。 [月夜]と違って、話に一体感があるせいか、面白いと感じます。 雰囲気レベルの事ではありますが。
≪林真理子≫
【星影のステラ】 1985年 約63ページ
地方から東京に出て来て、一応、広告関係の会社で、一応、デザイナーの仕事をしているが、周囲から、野暮ったいと思われている、20歳の女。 ある時、憧れている、センスのいい都会的な女性に出会い、目下 失業中という事情に付け込んで、自分の部屋に居候させる事に成功する。 しかし、その居候は、一円も稼がず、それでいて、養っている事を感謝してくれるわけでもなく、次第に憤懣が募って行って・・・、という話。
実際に、ありそうな関係ですな。 特に、女同士の場合。 主人公は、収入にゆとりがあるわけではなく、二人分の食い扶持だけで、カツカツ。 こんな生活は長続きするはずがないのですが、それでも、センスのいい人間と繋がっていたいという欲望を捨てきれないわけだ。 バブル期へ向かう、80年代の東京ですから、こういう人は、いくらでもいたと思います。 今でも、いるかな。
「頼る相手は、私でなくても、誰でも良かったのでは?」という疑問は、最初から承知しているのかと思いましたが、そうではなかったようで、後ろの方で気づきます。 そもそも、居候の方は、「頼っている」という気持ちすらなかったでしょう。 自分の才能や魅力を最大限に活用し、都会で、他人をうまく利用しながら、スイスイと泳ぐように生きて行く人間て、いるんですよ。 巧い生き方というより、他者との信頼関係を構築できない点で、寂しい生き方ですが。
【最終便に間に合えば】 1985年 約49ページ
30代前半で、造花のアーティストとして有名になった女。 仕事で札幌に行く事になり、きまぐれ半分で、札幌に住む、かつて交際していた男を呼び出して、夕食を共にする。 翌日の仕事の為に、最終便の飛行機で東京に帰りたいのに、男の方は呑気に構えていて、空港へ向かうタクシーの中でも、泊まって行くように執拗に迫って来て・・・、という話。
うーむ、この俗っぽい設定が堪えられませんな。 80年代は、こういう感じだったんですよ。 交際していた頃の回想部分を読むと、「なんとまあ、ろくでもない男に捉っていたもんだ」と思いますが、そのろくでもなさを見抜けない女も女でして、割れ鍋に綴じ蓋であった事が分かります。
この夜だって、もし、時間にゆとりがあったり、翌日に東京で仕事がなかったりしたら、誘いを断ろうとはしなかったと思われますが、男が、すでに妻子持ちである事を承知の上で、そうなのですから、呆れます。 そもそも、有名になった自分を見せつけて、昔 自分を蔑ろにした男を、見下してやりたいという、その発想が、下司っぽい。
だけどねえ。 そういう時代だったんですよ。 当時を知る世代にとっては、リアルな話なのです。
≪高村薫≫
【地を這う虫】と、【みかん】は、すでに、別の本で読んでいるので、感想は、そちらのものを移植します。
【地を這う虫】 1993年 約51ページ
姻戚から被った家庭の事情で退職した元刑事の男。 経済的理由で別居する事になった妻子に仕送りする為に、倉庫管理の仕事と、別の会社の警備員の仕事を掛け持ちしていたが、唯一の楽しみは、二つの職場と住居の間を移動する時に、住宅地を歩き回り、仔細に観察して、気が付いた事を書き留める事だった。 ある時、その住宅地で、空き巣事件が連続したが、どの家でも、何も盗まれたものはなかった。 元刑事の血が騒いだ男は、空き巣が入った家の共通点を調べ始めるが・・・、という話。
非常に、大変、ハッとするくらい、面白いです。 ベースにしているのは、ホームズ物の【空き家の冒険】だと思いますが、こちらの方が、千倍、優れています。 これは、短編推理小説として、傑作にして、名作なのでは? 古今東西 見渡しても、こんなにゾクゾクする短編は、そう幾つもありますまい。
主人公の極端な性癖が、話の肝なのですが、こういう細かい性格の人間て、実際に いますよねえ。 もしかしたら、高村さん自身も、そういうところがあるのかも知れません。 でなければ、そもそも、こんなキャラクターを思いつかないし、小説の中に描き込む事もできないでしょう。
とにかく、読むべし。 絶対に、損はしません。 ただし、同じような性格であったとしても、この主人公の趣味を真似ないように。 元刑事だから、何とかなったのであって、一般人がやったら、どんな事になるか分かりません。
【犬の話】 1993年 約39ページ
犬の一人称小説を書こうとしている作家が飼っている犬が、夢想して、飼い主の小説の中に入り込み、野犬狩りにあったり、超自然的な力を持つ別の犬によって、施設から脱出する力を与えられたり、冒険を繰り広げる話。
一読、科学的説明を欠いたSFのようですが、さにあらず、純文学の一類でしょう。 「人間を描く」のと同じスタンスで、「犬を描く」事に挑んだわけだ。 幻想的ですが、ファンタジーと言うには、残酷な場面が、尖り過ぎています。 ドライに生命を観察している点は、ジャック・ロンドン作、【野性の呼び声】、【白い牙】に近いものがあります。 擬人化していない、犬の一人称というのは、かなり、珍しいのでは?
【棕櫚とトカゲ】 19??年 約6ページ
仕事で南の国にある営業所へ転勤している、日本人ビジネスマン。 上司と後輩の三人で、車で移動中、反政府ゲリラに襲われ、手榴弾で吹っ飛ばされる。 死ぬ前に、時間が巻き戻った感覚を味わう話。
このタイトルは、特に深い意味はなく、その土地で、棕櫚とトカゲが普通に見られるというだけの事。 「死ぬ前に」ではなく、もう死んでいるのかも知れませんが、そう断られてはいません。 ずっと後年に書かれる、【墳墓記】は、この作品がベースになっているんじゃないでしょうか。 ストーリーという体裁ではなく、イメージのスライド・ショーのようなものなので、面白いも何もありません。 このページ数では、致し方ないか。
【みかん】 1996年 約5ページ
60歳を過ぎて、息子夫婦と同居している男。 ある日、家にあったみかんを食べようとしたが、小さい上に、色が黄色で、男の食べたいみかんとは、違っていた。 外出して、果物屋を巡るが、目当てのみかんは見つからない。 ふと、自分が求めていたみかんが、どういうものなのか気づくが、それは、店では手に入らないものだった。 という話。
短いので、梗概を書こうとすると、ストーリー全部を書いてしまいますな。 老年期に入った主人公が見つけようとしているのは、若さそのもののようですが、はっきり、そう書いてあるわけではありません。 推理小説でも、犯罪小説でもなくて、戦前の作家が書いた、何が言いたいのか良く分からない、私小説に似た雰囲気があります。
この短さで、この分かり難さは、勘弁して欲しいところ。 短いのをいい事に、4回 読み返しましたが、やはり、はっきりとは、分かりませんでした。 そもそも、この本を借りて来たのは、高村作品を読むのが目的だったのに、肝腎のそれが分からんのでは、意味がない。 高村さんレベルの、知能・知識・教養がある人には分かるのに、自分には分からないというのは、大変、歯痒いです。
≪神の火 (1991年)≫
新潮ミステリー倶楽部特別書き下ろし
株式会社 新潮社
1991年8月25日 発行
高村薫 著
沼津市立図書館に相互貸借を頼んで、大井川図書館から取り寄せてもらった、ハード・カバーの単行本です。 長編、1作を収録。 本文は、二段組み。 プロローグとエピローグは、一段組み。 約384ページ。 書き下ろし。 ネット情報では、後に、同じタイトルのまま、改稿されて、こちらは、絶版になったとの事。
日本人の母が、ロシア人の男と通じて産んだ、緑色の目をした子供は、長じて、原子力発電の技術者となる一方で、日本人である義父の知人の手によって、ソ連のスパイとしての教育を受けていた。 原発の仕事を辞めて、大阪の専門書輸入会社に勤めている時、自分の息子ではないかと思われる青年に会い、その青年を助ける為に、再び危ない橋を渡る事になるが・・・、という話。
スパイ物。 ですが、【リヴィエラを撃て】よりは、ずっと、リアリティーがあります。 舞台が日本、特に、大阪でして、作者が大阪出身なので、土地勘が有り余っており、イギリスが舞台の、【リヴィエラを撃て】とは比較にならないくらい、風景描写に分厚さが感じられるのです。 その辺りの文章には、点滴的な陶酔感すら覚えます。
その点、1990年の、【黄金を抱いて翔べ】に近いですが、そちらと比べると、こちらの方が、落ちます。 【黄金…】が、犯罪物で、主人公達の目的は、金と、誰にでも分かり易いのに対し、こちらの目的は、最終的に、原発の破壊でして、一般読者には、ピンと来ないものだからだと思います。 破壊と言っても、別に、放射性物質をバラ撒こうというわけではなく、原発を使えなくすればいいのですが、やはり、一般読者としては、分かり難い目的ですな。
しかも、その目的が、主人公の頭の中で固まるのは、中盤以降でして、前半は、特に何がしたいというわけでもなく、ダラダラと話が進みます。 酒浸りになる件りもありますが、一体、この主人公に何をさせたいのが、作者のつもりが分からず、強か読書意欲を殺がれました。 その後、大阪から福井へ舞台が移ると、持ち直して、洋上での身柄引き渡しの件りでは、手に汗握る緊張感を覚えるほどになります。
で、その後のクライマックスが、高浜原発襲撃の準備と実行となるのですが、どうやって取材したのか想像もつかない、原発についての詳細な描写が繰り広げられるものの、ストーリー展開としては、また、低調になります。 つまりその、一般読者は、原発の構造には、興味がないんですな。 「安全、安全と言うが、軍事的な攻撃には、全く無防備」というのは分かりますが、そもそも、原発とはそういうものだと、大抵の人が思っているから、やはり、ピンと来ません。
世に起こった大きな事件・事故から、題材を取る事が多い高村さんですが、この作品の場合、「チェルノブイリ原発事故」が、それに当たるんでしょうなあ。 1986年の事でして、まだ、5年しか経っていなかったから、生々しかったんでしょう。 ただし、チェルノブイリについての、詳細な描写は入っていません。 主人公の息子が事故直後の対応に関わっていたという、間接的な関連だけ。
詳細な描写と言えば、パソコンについても、みっちり書き込まれていますが、知識が、1991年当時のものなので、今から見ると、古さは隠せません。 91年では、まだ、インター・ネットすらなかったのだから、それは致し方ない。 ポケベルをトリックに使った推理小説が、あっという間に陳腐化してしまったのを覚えている方もいるでしょうが、最先端のものほど、変化が激しくて、もちが悪いんですな。
以上、4冊です。 読んだ期間は、2025年の、
≪推理作家になりたくて 第三巻≫が、6月24日から、27日。
≪わが手に拳銃を≫が、7月5日から、8日。
≪女性作家シリーズ 20≫が、7月9日から、11日。
≪神の火 (1991年)≫が、7月19から、7月22日。
アンソロジーが2冊も入っていると、感想も長くなりますな。 この記事を纏めている時には、もう、感想を書いてから、だいぶ経っているから、涼しい顔でいますが、これから書くとなったら、気が重くて、鬱病になりそうです。
プロ作家の作品の中から、プロの選者が選んでいるのだから、一作一作のレベルは高いのですが、それが却って禍いでして、なまじ、レベルが高いから、他は無視して、目当ての作家の作品だけ読んで済ます、という事ができないんですな。 で、全部 読むと、感想が大変になってしまうのです。