2025/03/23

実話風小説 (38) 【早食い】

  「実話風小説」の38作目です。 1月下旬の初めに書いたもの。 また、長くなってしまいました。 かけている時間は、一日以内で、大きな負担ではありませんが、書き始めるまでが、なかなか、その気になりません。




【早食い】

  男Aは、最初から、早食いだったわけではない。 ただし、訓練はできていた。 高校生の時、バレー部に所属していたが、そこの顧問の教師が、病的と言っていいほど、権威的な性格で、部員たちに、自分の信条を押し付ける癖が強かった。 土日練習や、遠征試合の日には、昼飯時になると、必ず、大急ぎで弁当を食べさせた。

「早飯早糞、芸の内だ! 他の学校の連中より、早く食い終われば、それだけ、事前練習に時間を回せるんだ」

  ちょっと聞くと、理に適っているようだが、その実、早食いが原因で起こる健康上の弊害について、全く考慮しておらず、素人考えの、浅はかな信条であった。 ちなみに、この顧問、別に体育系の大学を出たわけではない。 文系崩れで、新聞社や雑誌社が就職希望先だったのだが、出版不況の折り、成績不良で雇ってもらえず、たまたま、教員資格を取っていたというだけで、その高校に潜り込んだのだった。 バレーは、中学生の頃にやっていただけ。 技術的な指導はできず、精神論で押し捲るタイプだった。

  しかし、部員たちは、そもそも、細かい事は考えない者が多い体育会系である上に、まだ、世間知が蓄積しておらず、顧問の言う事は絶対に正しいと信じて、早食いを実行した。 男子高校生用の大きな弁当箱に、ぎっしりつまった食べ物を、10分かけずに、腹に押し込んでいたのだから、乱暴極まりない事である。 食後血糖値が、どこまで上がったか分からない。

  そのせいか、試合では、必ず、初戦負けを喫した。 それでも、顧問始め、部員たちの誰一人、早食いのせいだとは思わず、もっと早く食べて、昼休みの練習時間を、より稼がなくてはいけないと考えた。 救いようがない蒙昧ぶりである。

  ただし、男Aの早食い経験は、高校の3年間だけで、卒業し、就職すると、自然に、元の速度に落ちた。 急いで食べる理由がなかったからだ。 社員食堂があり、同期入社の者たちと一緒に食べるから、会話しながらになり、自然と漫食に落ち着いて行ったのである。


  男Aの早食いが復活したのは、勤め先で昇進し、平社員から、係長補佐になって以降である。 直属の上司が、次長と趣味が同じで、私生活での付き合いがあり、コネで係長になった人物。 仕事の実力は、全くと言っていいほど、なかった。 一方、男Aは、高卒入社12年目の現場叩き上げで、実力はあった。 無能係長の代わりに、実務をやらせる為に、補佐に当てられたのだ。

  補佐とはいえ、中間管理職の内である。 平社員とは、仕事が違う。 そして、無能係長の分まで、やらなければならない。 就業時間中、トイレに立つ時間も惜しむくらい、ぎっちり働いていたが、それでも、こなしきれない。 仕事の性質上、社外秘になっているものも扱うので、家に持ち帰る事はできないし、労働時間の制約がきっちりした会社で、課長以下の社員は、定時上がりと決められており、残業もできなかった。

  となると、もはや、昼休みを削るしかない。 昼休みは、1時間。 社員食堂まで、歩いて、5分。 配膳と食事に、30分。 職場に戻るのに、5分。 職場で、同僚と雑談を交わして過ごすのに、20分。 平社員の時には、そういう配分だった。 それが、係長補佐になってからは、職場に戻った後の雑談をなくし、仕事に当てるようになった。 これは、職場での行動だから、別段、問題なかった。

  しかし、それでも、時間が足りないと分かり、そこから、男Aの変調が始まったのだ。

「こうなったら、食堂にいる時間を短くするしかないな。 配膳は、行列が短いメニューだけ選べば、5分もあれば、できる。 食べるのは、高校のバレー部での経験から、10分で掻き込める。 食事中の会話なんて、ただの世間話だから、端折ってもいい。 今まで、30分かかっていたのを、15分で済ませられれば、職場に戻ってからの時間に、どーんとゆとりができるじゃないか」

  大変、いい考え方だと思った。 男A、昇進したばかりなので、気が大きくなっており、仕事に打ち込んで、結果を出せば、今後も、どんどん、上に上がって行けるものと、錯覚していた。 実際には、無能係長の補助役として、便利に使われていただけなのだが、もちろん、上の方は、そんな事を教えてくれはしないのだ。


  男Aは、それまで、食堂では、同期入社の5・6人と、同じテーブルに着いて、昼食を食べていた。 職場はバラバラで、遠いところから10分以上かけて歩いて来る者もおり、面子が揃うだけでも、20分くらいかかった。 それから、食べて、食後の歓談をするのだから、食堂滞在時間が、30分を超すのも、やむをえない。

  男Aは、目立って、早食いになった。 一番に配膳を済まして、テーブルに着くと、一人でさっさと食べ始めて、同期の面子が揃う前に食べ終わってしまった。 実質、食事時間、5分強である。 すでに、30歳なので、高校生の頃より、食べる量は減っているが、それにしても、この急ぎ方は、不健康と言うものであろう。

  そして、早く席を立ちたくて、イライラし始める。 同期が揃い、彼らが、食事を始める頃には、男A、お茶も飲み終えて、テーブルを指先で、コツコツ叩きながら、貧乏揺すりを始める。 早く、職場に戻りたくて、仕方ないのだ。 しかし、入社以来、12年間、ほぼ毎日、昼食を共にして来た仲間たちの手前、それができないのである。 少なくとも、自分の次に食べ終わる者が出て来ないと、席を立つきっかけができない。

  同期の仲間たちは、一週間くらいで、男Aの変化に気づいた。 しかし、敢えて、無視していた。 そもそもが、入社直後、研修所で、合宿を共にしたというだけの仲なのだ。 職場が、バラバラだから、仕事の話が合うわけでもない。 話す事と言ったら、社内の噂、世間話、プロ・スポーツの話、趣味の話、くらいのもの。 私生活で、行動を共にする事も稀。 「食堂で、一人だけで食事をしたくない」というだけの理由で、グループが維持されて来たと言っても、外れていない。 そんな仲なのに、早く席を立ちたいなど、食堂で顔を合わせている目的に背いてしまうではないか。

  そういう同期たちの態度に、男Aの苛立ちは、激しく募るばかりだった。 

「俺、用事があるから・・・」

  と言って、早く席を立つ事が、週に一回、二回、と増えた。 走って、職場に戻り、溜まっている仕事に取りかかるのである。 3週目には、月曜から、木曜まで、4日も、そんな風に、早々と帰ってしまった。 5日目は、残っていたが、テーブルを叩く指先は、聞こえよがしと言っていいほど、激しくなっていた。 さすがに、同期の一人が、キレた。

「おい、A。 そんなに早く戻りたいなら、戻れよ。 用事があるんだろ」

「いやあ。 今日は、そんなに急がなくてもいいんだけどよ・・・」

「嘘つけ。 イライラし通しじゃないか」

「イライラなんて、してないよ」

「してるじゃないか。 テーブルを叩くなよ。 こっちは、昼飯を楽しみに来てるんだよ。 コツコツやられると、まるで、『早く食え!』って、急かされてるみたいだ」

  男A、元が、イライラしていただけに、逆ギレした。

「そう思うなら、もっと早く、食えばいいだろう。 『早飯早糞、芸の内』って言うだろうが。 チマチマチマチマ、食いやがって」

「なんだと!」

  喧嘩になりそうな雰囲気に、別の一人が、止めに入った。

「待て待て。 そんな事で、喧嘩するな。 Aは、もう、行った方がいいだろう。 お前、係長補佐になったから、仕事が増えて、時間が足りないんだろう? 俺も、経験があるよ。 無理に、同期につきあう事はない。 仕事をしに会社に来てるんだから、仕事優先でもいいんだ」

「俺は、別に、仕事がどうとか言いたいわけじゃ・・・」

「とにかく、忙しい内は、俺らにつきあわなくてもいい。 食堂に来るにしても、一人で食べた方が、早く済む。 はっきり言って、俺も、目の前で、テーブルをコツコツやられると、嫌なんだ。 ゆっくり、食べたいんだよ」

「そういう言い方をされると、まるで、俺が悪いみたいだ。 俺は、他にやる事があっても、お前らとのつきあいも大事だと思って、こうやって、お前らが食い終わるのを、待ってやってるのにな」

  最初にキレた男が言った。

「待ってて、く、れ、る、必要はないわ。 いいから、さっさと行けよ。」

「そうかよ。 じゃあ、明日から、俺は、別の場所で、一人で食うからな」

「そうしろ。 是非、そうしろ」

  また、別の男が、気を使って、言い添えた。

「Aよ。 別に、お前が気に食わなくて、追っ払うわけじゃないんだから、ゆとりが出来たら、また、一緒に食べよう」

「・・・・」

  男Aは、答えずに、席を離れた。 仲間から拒絶された精神的ショックもあったが、反面、これで、大幅に時間を節約できる事になったので、ホッとした気持ちもあり、好悪入り乱れて、半々という感じだった。


  男Aは、一人で、昼食を食べるようになったが、長くは続かなかった。 すぐに、「まだ、時間が足りない」と思うようになり、強迫観念に苛まれ始めた。

「あと、15分あれば、その日の仕事を、その日の内に、終わらせられるんだが・・・。 食堂へ行く往復の10分と、配膳に使う3分を節約すれば、だいぶ、楽になるかもしれない」

  考えが一方向にしか進まないのが、強迫観念の特徴である。 極端なのである。 大抵、悪い方向であり、症状が悪くなる事はあっても、良くなる事はない。 男Aは、妻に相談し、弁当を作ってくれないかと頼んだ。 即座に、断固、拒否された。

「冗談じゃない! 私だって、勤めがあるのに、これ以上、早起きなんて、無理無理! 自分で作ればいい」

「俺は、料理なんて、できないよ。 早起きしなくても、おかずは、前の晩の残り物でもいいから。 ご飯は、自分で詰めるよ」

「それじゃあ、前の晩の料理を多く作らなきゃならない! それも、無理! 頼むから、これ以上、私の負担を増やさないで!」

「だけど、俺が仕事を頑張って、出世すれば、給料も上がるし、お前だって、楽に・・・」

「あんたの給料を当てにして、暮らしてるんじゃないんだよ。 まるで、自分が養っているような言い方しないでよ! もーう! 聞いているだけで、気分が悪くなって来る」

  なんだな。 この夫婦は、弁当がどうのこうのと言う以前に、壊れかけているんだな。 壊れかけたものは、いずれ、本当に壊れるものだが、話はまだ、そこまで進んでいない。


  男Aは、コンビニ弁当を買う事にした。 思っていたより、高い。 弁当だけでも、食堂の平均的なメニューと、200円くらい、差がある。 それに、飲み物を付けると、もう、懐具合が苦しくなる。 平日、毎日の事だから、累積すると、馬鹿にならないのだ。 職場の洗面所の前に、自販機があるが、とても買えぬ。 家から、ポットにお茶を入れて、持って行く事にした。 その準備も、帰宅後のポットの洗浄も、自分でやらなければならず、負担感は、半端ないものになった。

  おかずが付いていると、高いので、海苔弁や、おにぎりが多くなる。 部下から、安い弁当の専門店があるという話も聞いたが、通勤経路から外れ過ぎていて、とても、寄れなかった。 「買って来てくれ」という言葉が、口から出かかったが、迷惑がられると思って、引っ込めた。 お礼をしなければならなくなると、却って、高くつく恐れもある。

  コンビニ弁当より、スーパーの惣菜弁当の方が安いのだが、通勤途中にあるスーパーは、男Aが立ち寄る時間帯には、開店はしていたものの、まだ弁当が入荷していなかった。 帰りに買って、家で冷蔵庫に入れておくと、結構、場所を取るせいで、妻が嫌がった。 また、冬場ならいいが、暑くなって来ると、前の晩に買った弁当を、翌日、会社に持って行って、半日以上、常温で置き、昼食に食べるのは、食中毒の危険がある。

  午前中の仕事が終わると、自分の机で、コンビニ弁当を食べる。 最初は、うまいと思ったが、同じような品ばかり買うせいか、すぐに飽きが来た。 しかし、他に、食べる物はないのだ。 10分で平らげて、満腹感が得られないまま、溜まっている仕事を片付けにかかる。

  他にも、職場の休憩所で、家から持って来た弁当を食べている社員がいて、最初は、「休憩所で、一緒に食べませんか」と誘われたが、それでは、食堂と変わらないと思い、断った。 一緒に食べ始めたが最後、早々と食べ終わって、席を立つタイミングが、非常に難しくなってしまうのだ。


  弁当ばかりの昼食を、大急ぎで掻き込んでいるせいというより、仕事の根を詰めすぎたのが原因だろう。 男Aの精神状態は、どんどん悪化して行った。 同僚、上司、部下、家族に関係なく、他者との関係が、ギスギスし始めた。 不必要な大声を出したり、そばに人がいるのに、独り言を言ったり、突然、怒り出したり。 精神科医に診せたら、最低限、通院するように言われるような状態になってしまった。


  ある時、決定的な事が起こった。 それまで、昼食は、社外に出て、次長の奢りで、趣味の話をしながら食べていた無能係長が、その日は、昼休みになっても、自分の机に残っていた。 そして、豪勢な手作り弁当を広げて、食べ始めたのだ。 この係長、前の週に結婚したばかりで、早速、愛妻弁当と洒落込んだわけだ。

  係長と、その補佐だから、男Aの机からは、すぐ近くだ。 男Aが、コンビニ弁当を、10分で食べ終えて、仕事に取りかかると、係長は、昼食とは思えないような御馳走を、ゆうゆうと頬張りながら、能天気に話しかけて来た。

「Aく~ん。 そんなに急いで食べたら、体に悪いよ~。 それに、もう少し、ゆっくり、味わって食べなきゃ、作った人に、失礼だよ~。 家畜が、餌を食べてるんじゃないんだからさ~」

  男A、耳を疑った。 ちなみに、無能係長は、男Aより、3歳、年下である。 大卒だから、社内階級は上であるが。 それはともかく、そもそも、この係長が無能で、仕事がまるで駄目だから、男Aが補佐につき、係長の分まで仕事を引き受けているのである。 そのせいで、時間がなくなり、食堂での同期との歓談の時間を諦め、こうして、自分の机で、コンビニ弁当を掻き込む、惨めな日々を過ごしているのだ。

(その俺に向かって、この言葉は何だ! 一体、こいつ、どういうつもりなのだ?)

  精神状態が不安定になっていたので、怒り始めると、どんどん、激昂メーターの針が上がって行き、容易に、レッド・ゾーンに突入した。

(こんな、ろくでなしの為に、俺は一体、なぜ、こんな大きな犠牲を・・・)

  男A、立ち上がった。 ものの 3歩で、係長の机の横に着いた。 係長は、男Aの顔が、ドス黒く充血しているのを見て、たじろいだ。

「なに? なんだよ、その顔は?」

  男Aは、部屋中に響き渡る大音声で怒鳴った。

「早飯ーっ!!! 早糞ーっ!!! 芸の内ーっ!!!!」

  係長の後頭部に右手を当て、豪華な弁当の中に、思い切り、顔を押しつけた。

「この馬鹿めっ! もっと早く食えっ! さっさと食って、仕事をしろっ! 最低限、自分の仕事は、自分でやれっ!! 馬鹿がっ! 馬鹿がっ!! 馬鹿がっ!!!」

  髪の毛をがっしり掴み、力任せに、何度も何度も押し付けたので、プラスチックの保温弁当箱が割れ、係長の顔が切れて、血が噴き出した。 休憩所にいた、他の社員が気づいたが、男Aの鬼気迫る剣幕に、取り押さえる勇気が出ず、警備員が呼ばれた。 男Aが、暴行をやめるまでに、15分もかかった。 係長は、顔面、血塗れで、机の上に無残に飛び散った愛妻弁当の海に沈み、気を失っていた。


  警察に引き渡された男Aは、支離滅裂な言葉を吐き続けていたので、取り調べに支障を来たし、検事の指示で、早い段階で、精神鑑定を受けた。 当人は、正常だと言い張ったが、医師の診断は、かなり進んだ統合失調症。 心神喪失で、不起訴となった。 その代わり、精神病院に入院である。

  会社の方は、事件の直後に、懲戒解雇になったが、社内には、男Aに同情的な意見も多かった。 男Aが、係長の代わりに、二人分の仕事をやらされていた事を、周囲が知っていたからだ。 社内で起こった傷害事件だったので、小規模ではあったが、調査委員会が設けられ、細かい事情が調べられた。

  この事は、問題になり、顔中 包帯だらけの係長が、重役会議に呼び出され、問責を受けた。 趣味が同じで、係長を可愛がっていた次長は、当然、係長を庇ったが、それが、薮蛇となった。 以前から、その次長の、会社を好き勝手やれる場所だと見做している態度に、疑問を抱いていた、比較的真面目な他の重役達が、ここぞとばかりに、吊るし上げに回ったのだ。 ただし、言葉だけは、穏当なものを選んで。

「そんな、仕事がまともにできない人間を、係長にして、実務も責任も、補佐に全部 押し付けるなんて、無茶苦茶じゃありませんか。 そりゃ、A君が怒っても、無理ないんじゃありませんか?」

「私も、そう思いますね。 いや、傷害罪を軽く見るつもりはありませんがね。 A君の懲戒解雇は、妥当だと思いますが、それと、この係長の問題は、別にして考えるべきでしょう」

「次長さんの趣味の仲間だそうですが、何の趣味なんですか? 『この件とは、関係ない』って事はないでしょう。 今は、事件の事より、係長の仕事を、A君がやらされていた事が問題になってるんですから。 なに、軍用機のプラ・モデル? その趣味が一緒だから、係長にしてやったんですか?」

  一同から、失笑が漏れた。 次長と係長は、赤面するのを抑えられなかった。

「ちょっと、勝手が過ぎるんじゃないですかねえ」

「ちょっとどころじゃありませんよ。 社長や会長、役員たちにも、報告しないと」

  結果、次長は、降格され、有閑部署の課長を任命された。 処分に激怒して、「こんな会社、自分から、辞めてやる!」と、秘書相手に息巻いていたが、退職金が減額されるのが惜しくて、定年までの数年を、移籍先で過ごした。 もちろん、何の仕事もせずに。 こんな、会社に遊びに来ていたようなジジイに、どんな仕事を任せられるというのだ?


  次長なんて、マシな方。 無能係長は、リストラの名目で、会社から追い出された。 こちらは、まだ若かったが、入社以来、仕事らしい仕事を、何もして来なかったのだから、有閑部署に回して、給料を払い続けるなど、ありえない。 上司から、マジマジと目を覗き込まれて、

「君は一体、どんな仕事なら、できるんだ?」

  と訊かれて、いくつか答えたが、新入社員が、職場に慣れる為にやらされるような作業ばかりだった。 その段階で、この男の仕事時計は停まっていたのだ。 これで、中間管理職を務め、部下を前に、朝礼や終礼で、訓示をかましていたのだから、呆れて物も言えない。

「どうやら、この会社に、君の居場所はないようだ。 今までに会社から受け取った給与・賞与を、全額 返還すれば、改めて、何か簡単な仕事を探してやってもいいが、それが嫌なら、退職願を書いてくれ」

  無能係長・・・、正確に言うと、軍用機のプラ・モデルを作る以外、無能な係長は、言い返す言葉もなく、素直に辞めて行った。 かねてから、この係長を、呆れ顔で見ていた職場の者たちは、みな、溜飲を下げた。 次長の庇護がなければ、とっくから、追い出したかったのだ。

  まだ、新婚の内だったが、事情を聞いた妻の両親が、呆れ返ってしまい、娘に強く迫って、離婚させた。 どうせ、無職では、食っていけないから、致し方ない。 子供が出来ない内に別れたのは、不幸中の幸いだった。 その後、この男がどうなったのかは、誰も知らない。 私の推測だが、モデラーとして、暮らしているのではなかろうか。


  さて、精神鑑定で、心神喪失と診断され、不起訴になった男Aだが、会社から課長と部長が、収容されている病院を訪ねて来て、懲戒解雇が取り消されたと告げられた。 病気だったのだから、それが理由で、解雇はできないわけだ。 すでに、3ヵ月 入院していた男Aは、すっかり落ち着いていて、正常な人間と変わりがないように見えた。 薬物療法が効いたというより、仕事から離れて、おかしくなった原因が取り除かれたから、自然に、元に戻りつつあったのだろう。


  その後、個室から、大部屋に移され、退院の日を待っていた男Aに、予想外の事態が襲いかかった。

  大部屋にいる患者は、症状が軽いので、ベッドまで食事を運んでもらえず、休憩室兼食堂で、いくつかのテーブルを囲んで食べる。 ある日、男Aは、入院したばかりの男と、同じテーブルに着いたのだが、その男が、いざ食べ始めたのを見て、ギョッとした。 驚くべき、早食いなのだ。 親の敵のように、スプーンで、料理を口に掻き込み、ろくに噛みもせずに、お茶で、ごくごく、呑み込んで行く。 そう、食べるというより、呑んでいるように見える。

  逮捕以来、早食いの必要がなくなり、自然に、普通の食事速度に戻っていた男Aは、凍りついたように、目の前の男の早食いぶりを眺めていた。 3分もしない内に、全て平らげてしまったその男は、爪楊枝代わりに、左手の小指の爪で、歯をせせりながら、男Aを見た。 見つめられて、男Aは、どぎまぎしながら、言葉を漏らした。

「凄い、早食いですね・・・」

「食える時に食っとかないとな。 その気になれば、もっと早く食えるよ。 次の飯で、見せてやろうか」

  男Aは、まだ、三口も食べていないのに、強烈な不快感に襲われ、吐きそうになった。 これが、かっての自分だったのだ。 なんと醜い存在だろう。 まるで、妖怪だ。 早食いを自慢している。 そんな事が、どうして、自慢になると思うのだ? ただ、自分の都合で、バクバク、口に掻き込んでいるだけではないか。 早食いなんて、周囲に迷惑なだけで、特技でも何でもない。 俺も、こんなに醜かったのか・・・。

  早食いの男は、言った。

「お前も、早く食えよ。 チマチマ食ってると、他の奴に、とられちまうぞ」

  気持ちが悪い。 本当に、吐きそうだ。 早食い男は、更に、決定的な言葉を口にした。

「早飯早糞、芸の内!」

  男Aは、吐かなかった。 吐くほどの物を、まだ、食べていなかったからだ。 その代わり、椅子をガタつかせて、席を立ち、休憩室兼食堂から、走って逃げ出した。 閉鎖病棟なので、窓は嵌め殺しになっていて、外に出られない。 その代わりに、男Aは、階段から、ダイブした。 頭から落ちた。 そして、死んだ。

  男Aが絶命した頃、休憩室兼食堂では、早食いの男が、男Aが残していった食事を、1分で平らげていた。

2025/03/16

時代を語る車達 ⑪

  出かけた先で撮影した車の写真に、個人の感想的な解説を付けたシリーズです。 前回やったのは、2019年6月23日でした。 随分と間が開きました。





  トヨタの、「ファンカーゴ」。 1999年から、2005年まで、生産・販売されていた車。 一代のみで、終了。 この写真を撮った2019年には、まだ、走っているのを見かけましたが、その頃でも、もう、だいぶん、昔の車という感じでした。 今では、ほぼ、姿を見なくなりました。 時代は、どんどん、過ぎ去っていく・・・。

  大きな道具を使う遊びや、移動販売に使うイメージあり。 しかし、元が、小型の車ですから、実際に移動販売に使うとしたら、大した量は積めないと思います。 エンジンは、1300と1500で、充分、ゆとりがありますけど。

  テレビCMの、前向き、開放的で、明るい雰囲気が印象に残っています。 音楽まで覚えている。 変り種グルマを、限定車ではなく、普通のラインナップに入れて、堂々と売っていたのが、面白かったです。 後継車になった、ラクティスには、そういう雰囲気が、全く残っていませんでした。




  日産の、「2代目ステージア」。  2001年から、2007年まで、生産・販売されていた型。

  ステージアは、初代(1996年-2001年)の方が、印象が強いです。 発売前に、当時の社長が、「こんな大きな車が売れるか」と文句を言ったけれど、いざ売ってみたら、人気車種になったという逸話つき。 その結果、その社長は、デザインや企画について、何も言えなくなってしまい、日産の衰退を早めたのではないかと・・・、いや、それは、私の想像に過ぎませんが。

  で、この2代目ですが、私は、こういう、ダイナミックなデザインが、あまり好きではなくて、売っていた当時は、ピンと来ませんでした。 しかし、今、見ると、悪くないと思います。 ステーション・ワゴンが流行らなくなり、目にする機会が減ったから、希少価値で、そう感じるのかも知れません。




  遠くから撮ったので、写りが悪くて恐縮ですが、日産の、「2代目ノート」です。 2012年から、2020年まで、生産・販売されていたモデルで、当時、日産の屋台骨を背負っていました。 巷にある日産車の、半分は、ノートだったと思いますから、ちょっと出歩けば、いくらでも、見かけました。

  現物を見ていただければ、感覚的に分かると思うのですが、最先端の鏃形フォルムをもつ、大変、存在感があるデザインで、しかも、適切なサイズで、スポーツ・ユースも、ファミリー・ユースも、何でも来いという感じ。 欠点が見つかりません。 この車、常に販売台数ランキングの上位を占めていましたが、売れて当然、ちっとも、不思議だと思いませんでした。

  日産は、この車を売っていた頃すでに、企業イメージが、地を這うがごとき、最低の状態になっていましたが、この2代目ノートの、開発、生産、販売、整備などに関わった人達は、それに関してのみ、胸を張り、自尊心をもっても良いと思います。




  白いポールが邪魔ですが、この角度からしか撮れなかったのです。 なかなか、街なかで、他人の所有物を撮影するのは、難しいのです。

  ダイハツの、「ミラ・トコット」です。 2018年から、2023年まで、生産・販売されていた車種。 いつまにか、現行から外れていたんですな。 現行車種については、下手にケチをつけると、販売妨害になってしまうので、基本的に評価しない方針です。 この車は、現行ではなくなったから、オーケーになった次第。

  モデル・チェンジはせずに、一代限りで終わった模様。 それでも、5年間、売っていたわけで、一モデルとしては、特に短いとは言えません。 この車、出て来た時には、あまりにも、地味なデザインなので、顔を顰めてしまいました。 ただの箱。 デザイン・レスと言ってもいいくらい。 ダイハツのデザインは、ヨーロッパの往年の名車から戴く事が多いのですが、「どうしてまた、この車は、こんなに特徴がないのだろう?」と、不思議に思っていました。

  ところが、先日、ネット上で、昔のヨーロッパ車を見ていて、「フィアット126」というのを見つけました。

「トコットのモデルは、これだろう!」

  本国イタリアでは、1972年から、1980年まで、ポーランドでは、1973年から、2000年まで、生産・販売されていたもの。 ちなみに、私は、現物を見た事は、一度もありません。 写真でなら、大昔に見た事があったのですが、すっかり、忘れていたのです。 どんな車か、検索すれば、すぐに画像が見つかりますから、見てみてください。

  ≪ルパン三世≫で有名な、「ヌオーバ・500」の後継車種ですが、時代の変化に合わせたとはいえ、実につまらないデザインで、「ほんとに、イタリア車か?」と、首を傾げずにはいられないレベル。 今でこそ、歳月が経っているから、味を感じて、「可愛い」と思う人もいるでしょうが、当時の人達は、何の感動も覚えなかったんじゃないでしょうか。

  126を真似たのなら、トコットが、同じくらい地味になっても、不思議はないです。 126も、往年の名車と言えなくはないですが、どうせ、パクるなら、ヌオーバ・500にすれば良かったのに。 あまりにも、特徴があり過ぎて、パクリがバレバレになってしまうから、駄目かな?

  トコットと、126を比べると、トコットの方が、遥かに使い勝手がいいです。 126は、リア・エンジンですから、買い出しなどで、多くの荷物を積むとしたら、後席しかありませんが、2ドアなので、前席の背凭れを倒さなければならず、かなり、面倒です。 車の機構レイアウトというのは、理由もなく、長い歳月をかけて進化して来たわけではないわけだ。 126は、旧車の不便さを楽しむ洒落心がなければ、とても、普段使いにはできないと思います。




≪写真上≫
  フォルクスワーゲンの、「up!」。 2011年から、2023年まで、生産・販売されていた車種。 日本では、2012年から、2021年まで、販売されていたとの事。 すでに、現行ではないので、批評してもいいでしょう。 

  排気量、1000ccで、VWの入門車種という事になりますが、この車を買うような人は、それより大きな車種には、興味を示さないような気がしますねえ。 ポロとゴルフでも、事情は同じ。 それぞれ、全く、客層が重ならないのでは? 次第に大きな車に乗り換えて行くという考え方が、廃れてしまった感があります。 外国車では、とりわけ、尚の事。

  5ドアもあるらしいのですが、私は、現物を見た事がありません。 何度か書いているように、3ドアと5ドアでは、5ドアの方が、圧倒的に、使い勝手が良いです。 3ドアの後席なんか、普段、全く使えません。 荷物を入れるのも、出すのも、大変。 買い出しで、ごっそり買って来るような人は、何とか前席の背凭れを倒さずに、荷物を出し入れできないかと無理をして、腰を悪くしてしまいます。

  「たまに、3人以上で乗る時に、使える」のは事実ですが、それなら、5ドアの方が、より適しています。 3ドアを、わざわざ選ぶ理由がないと言うのよ。 マイ・カーの普及初期なら、ドアの枚数を少なくすれば、安くできるので、需要があったと思いますが、そんな時代はとっくに過ぎ去っています。 

  デザインは、大変、卒なく纏まっていると思いますが、ちょっと、スッキリし過ぎていて、物足りないと感じる人もいるんじゃないでしょうか。 些か、オモチャっぽくて、質感に欠けるとでも言いましょうか。 あくまで、ポロやゴルフと比較しての話ですが。 それにしても、この形が、日本の軽自動車に出て来なかったのは、不思議。 

≪写真下≫
  同じ車ですが、後ろを撮りました。 バック・ドアの窓下が、ガラスでブラック・マスクされているのが、特徴。 スマホをイメージしたらしいのですが、馬鹿馬鹿しいアイデアだと思います。 スマホの画面には、情報表示という機能がありますが、この車のブラック・マスクは、ただの飾りに過ぎません。 鉄板塗装の方が、ずっと、いいと思います。




  今回は、以上、5台まで。

  ファン・カーゴは、2019年に撮ったもの。 2代目ステージアと、2代目ノートは、2020年に撮ったもの。 文章は、時制を現在からみたものに修正しました。 トコットと、upは、ごく最近、2025年に入ってから、撮ったものです。

  新型肺炎が流行し始めてから、外出を極力控えるようになったので、車を撮影する機会がなかったのですが、去年の秋、糖尿病を宣告されて、否が応でも、運動しなければならなくなったせいで、徒歩で出かける事が増え、自然と、車も目につくようになったという次第。

2025/03/09

鼠蹊ヘルニアから糖尿病 ③

  月の第二週は、闘病記。 前回は、重度の糖尿病であると宣告され、治療を始めた辺りまで書きました。 今回は、その続きです。




【2024/10/25 金】
  正午前に、ヤマト運輸が来て、血圧計が届けられました。 今夜、試して、明日から、測る予定。

  横山へ登山。 きつい。 右脚の股関節が痛くなってしまいました。 そういえば、去年の後半、新型肺炎の後遺症と思われる腿痛で、股関節も痛めていたのでした。 無理はできないか。 香貫山に変更すれば、楽になりますが、楽になると、血糖値を下げられないというジレンマがあります。

  今日は、平日にも拘らず、単独の登山者、3人とすれ違いました。 まだ、現役世代に見えましたが、どういう仕事をしてるんでしょうねえ。 私も人の事は言えませんが、単独登山しか する事がないというのは、ちと、寂しい生き方ですなあ。 まだ、先は長いというのに。

  今日の歩数は、11206歩。 1万超えは嬉しいですが、体が痛くなってしまっては、意味がありません。



【2024/10/26 土】
  朝食前に、血糖値を測ったのですが、なんと、110でした。 正常値の寸前です。 急に落ちたのは、運動登山のお陰でしょうか。 ほんの数日の間に、いろいろな事をやっているので、何が原因で落ちたのか、判断しかねます。

  午後、昼寝してから、運動登山。 股関節の痛みはなくなっていましたが、大事を取って、香貫山へ行って来ました。 こちらも、4年半ぶり。 中腹にある、閉鎖されたゴルフ練習場は、背が高い草が生い茂り、山に戻りつつありました。 八重坂から登って、展望台下で、昔からいた、2匹の猫に挨拶し、見晴し台コースで、四中の裏手に下りました。

  これが、うちから登る場合の最短コースなのですが、所要時間と歩数を見たら、横山と、ほぼ同じでした。 こちらの方が、道はいいですが、横山の方が、人が少ないので、どちらがいいか、悩むところ。 ちなみに、今日、すれ違った人数は、5人でした。 休日の香貫山にしては、少ないですが、曇りだったからでしょう。



【2024/10/27 日】
  朝食後に、血糖値測定をしたら、202でした。 昨日は、朝食前で、110だったから、2倍になってしまい、ガッカリ。 しかし、そもそも、血糖値とは、食前から食後で、ポーンと跳ね上がるものらしく、食後の正常値は、180という事なので、それほど、離れてはいません。 ガッカリするほどでもないか。

  午後、横山へ、運動登山。 今日は日曜なのに、誰とも、すれ違いませんでした。 曇天で、山に登っても、眺めが期待できないからでしょうか。 横山は、そもそも眺望が悪いですが、横山だけを登りに来る人は稀で、沼津アルプスのついでに通過するだけなので、沼アに来る人が少なければ、横山を通る人は、もっと少ないのです。

  夜になって、居間でテレビを見ていたら、急に心臓が痛くなり始めました。 やばい!やばい!やばい! 不整脈もちである事を軽く見て、急激に運動をし過ぎたのが原因でしょう。 糖尿病を治す為に、心臓で死んだのでは、本末転倒。 やはり、登山は、無理か。 明日、回復したとしても、運動登山はやめて、平地を歩くだけにします。 回復しなければ、寝ているしかありませんな。

  糖尿病治療のパンフを読むと、「続けられる運動を」とあるのですが、横山登山は、きつ過ぎて、とても、続けられそうにありません。 糖尿病とは、一生、つきあう事になるのだから、急いで血糖値を下げる為に無理をするより、続けられる運動を選ばなければ。



【2024/10/28 月】
  心臓の痛みが消えず、午前中は、ほとんど、眠っていました。

  昼食前に、血糖値計測。 181でした。

  分かった分かった! 一日の内で、測るタイミングによって、数値は変わるのです。 朝食前、朝食後、昼食前、昼食後、夕食前、夕食後、眠る前の、7回あり、計測は一日一回なので、一日ごとに、ずらして行きます。 だから、どう変化したかを見るには、同じタイミングで測った、7日前、つまり、一週間前の数値と見比べなければならないのです。

  一週間前は、病院で初めて測った日です。 その時は、朝食後、6時間くらい経過した昼食前で、インスリン注射の直後でしたが、250でした。 今日は、181だから、一週間で、だいぶ、下がった事になります。

  私の場合、普段は、朝食が、6時半、昼食が、10時半だから、間隔が4時間と短く、血糖値が下がりきらないんですな。 明日は、昼食後ですが、食べた後だから、やはり、高い数値でしょう。 今から、覚悟しておかなければ。

  午後は、読書と、屋内歩行。 この頃になったら、心臓の痛みが和らぎ始めました。 一時的なもので良かった。 どうなる事かと思いました。 もう、登山は、禁止ですな。 天気が回復し、外出可能になっても、平地の散歩に留めます。 要は、登山と同じ、7千歩くらい、歩けばいいんですわ。



【2024/10/29 火】
  終日、雨。 雨戸を閉めて、過ごしました。

  散歩に出られない日は、旧居間と床の間を、8の字に歩く事にしました。 1周、22歩くらい。 10周で、220歩。 50周で、1100歩。 気が遠くなって来ますな。 それでも、今日は、夜までで、6000歩、行きましたよ。 ちなみに、木造家屋で、一ヵ所で足踏みをしていると、床が軋んで来ます。 狭くても、歩いた方が、いいのです。

  血糖値。 昼食後で、185。 一週間前は、286だったから、だいぶ、下がりました。 このくらいなら、もう、正常と変わらないと思いたいところですが、然にあらず。 インスリンを一日一回 打っているから、この数値なのであって、健康人の正常値には、程遠いと考えなくてはなりません。 目下の目標は、インスリン注射をしなくても、薬でOKになる事です。 とにかく、次の診察日までに、低血糖になるくらいまで、下げておきたいところ。

  そういえば、今朝の起き抜け、朝食を食べる前まで、頭がクラクラしていましたが、もしかしたら、一時的に、低血糖になっていたのも知れません。 私の場合、夕食から、翌日の朝食まで、14時間くらい、食べ物は、何も口にしないから、血糖値は下がりきってしまうはずで、それに、インスリンの効果が加われば、低血糖になる可能性はあります。



【2024/10/30 水】
  午後、昼寝した後に、運動散歩。 心臓と相談しながらになります。 南へ向かい、2500歩 行った所で、引き返して来ました。 これで、5千歩。 結構、遠くまで行きますねえ。 他に、体を動かす用事がない日には、7千は歩きたいのですが、志下まで行ってしまいますな。 これを、残りの生涯 続けるのは、かなり、きつい。

  夕食前に、血糖値計測と、インスリン注射。 血糖値は、273と、想定より高かったですが、測る前に、水を飲むのを忘れていた事に、後で気づきました。 コップ一杯 水を飲むか飲まないかで、かなり違って来るのです。

「それなら、血液検査前に、水をガブガブ飲めば、糖尿病だと分からないではないか」

  その通りなんですが、それでは、治った事にならず、失明や落命の危険から逃れられません。 発想を逆転させて、検査や測定の前だけでなく、四六時中、水を飲んでいれば、常に血糖値は下がっているから、糖尿病ではなくなります。 生活習慣病だから、対策も習慣にすれば、解決するわけです。 しかし、その実行は、かなり、厳しいですな。 水ばかり、そんなに飲めるものではないです。

  夜になってから、気付いたのですが、この心臓の痛みは、山に登って、心臓を酷使したからではなく、インスリンの副作用なのかも知れません。 初めて起こったのは、27日ですが、横山に登った直後ではなく、インスリンを打った後、夜になってからでした。 もし、登山で痛めたのなら、登山中に痛くなるはずです。 どうも、インスリン注射の方が、怪しい。

  インスリン注射で、血糖値が急に下がる事によって起こる副作用に、「かすみ目」もあるらしいのですが、私の場合、それは、打ち始めた後、すぐに出ました。 パソコンの画面が、見難くなったのです。 逆に、遠くは、よく見えます。 一時的な遠視になるとの事。

  もし、心臓の痛みも、副作用なら、いずれ、インスリン注射をやめれば、なくなるわけで、そう思うと、気が楽になりました。 心臓が動悸でバクバクしていると、どうしても、「死が近いのでは?」と思ってしまいますが、そんな心配をしなくて済むからです。



【2024/10/31 木】
  血糖値、食後で、254。 一週間前と比較して、2 下がっただけ。 なかなか、落ちません。 これ以上、食べる物を絞ると、体重が減ってしまうのですが・・・。 何だか、やる気をなくしてしまいますな。 やる気がなくても、対策は続けますけど。




  今回は、ここまで。 ようやく、2024年10月分が終わりました。 治療開始から間がない時期なので、血糖値を下げるのに、四苦八苦していますな。 「分かった、分かった!」などと、いろいろと書いていますが、今から振り返ると、間違っている事もあるので、糖尿病の方々は、真に受けないで下さい。

  ちなみに、心臓の痛みは、登山をやめたら、消え去りました。 インスリン注射とは、全く関係なかった模様。 視力の低下も、今では、感じなくなりました。

2025/03/02

読書感想文・蔵出し (122)

  読書感想文です。 今回出す分は、2024年の11月・12月に読んだ本で、糖尿病の食事制限と運動療法に慣れようと、四苦八苦していた時期のものです。 精神的ショックも大きかったのに、よく、読書なんて、する気になったものだと、我ながら、今更ながら、驚いている次第。





≪タイタンのゲーム・プレーヤー≫

ハヤカワ文庫 SF 2274
早川書房 2020年3月15日 発行
フィリップ・K・ディック 著
大森望 訳

  沼津図書館にあった、文庫本です。 長編、1作を収録。 397ページ。 コピー・ライトは、1963年。 ディックさんの長編としては、10作目で、この作品以降、乱造が始まるとの事。 必ずしも、粗製ではないようですが。


  中国の人工衛星から発射された兵器で、人類の出生率が激減したところへ、土星の衛星タイタンに住む、知的生命体との戦争に敗れ、タイタン人の支配を受け入れている地球。 主人公を始めとする、土地持ち達が、グループを作り、土地を賭けて、ゲームに興じていたが、ある時、よそから来た、凄腕のゲーム・プレイヤーが殺される事件が起こり、それをきっかけに、タイタン人急進派の目論見が露顕して、地球人類の未来を賭けたゲームに、挑む事になる話。

  殺人事件が起こりますが、推理物SFと言えるほどではなく、トリックは使われていませんし、謎解きも、別段、興味を引くような形で示されてはいません。 殺した側の記憶が消えているので、謎解きのしようがないと言うべきか。 推理物のパターンを借りて、部分的に、ゾクゾク感を盛り上げてみただけ、という感じ。

  全体を見渡すと、バラバラ感が強く、深いテーマのようなものは、なし。 SFのモチーフを、テキトーに寄せ集め、テキトーに繋げて、デッチ上げただけのように見えます。 ディックさんは、そういう書き方も得意なようです。 一番多く使われているモチーフは、超能力でして、他人の思考を読める、テレパスや、未来予知能力者が、ゲームに参加したら、どんな事になるか、そこだけ、よく考えられています。 確かに、こんな事になりそうですな。

  ゲームのルールは簡単なもので、解説の中で要約されていますから、先に、そちらを読めば、理解し易いです。 しかし、そんな事を知らないままでも、ストーリーを追うのに、不便はありません。 ゲームの経過を、読ませどころにしているわけではありませんから。

  バラバラ感が、主な理由で、面白いというところまで、行きません。 もし、新人が書いたら、編集者に、「直しようがないから、一から書き直せ」と言われるでしょうな。 ディックさんは、すでに名前が売れていたから、このままでも、出版されたのでしょう。




≪フロリクス8から来た友人≫

ハヤカワ文庫 SF 2245
早川書房 2019年8月25日 発行
フィリップ・K・ディック 著
大森望 訳

  沼津図書館にあった、文庫本です。 長編、1作を収録。 435ページ。 コピー・ライトは、1970年。 ディックさんの長編としては、27作目だそうです。


  知能の高い「新人」と、超能力者の「異人」という、少数の者達が、60億の「旧人」を支配する、22世紀の地球。 この政治体制を打破する為に、外宇宙へ異星人の助けを求めに行った人物が、フロリスク8という星の知的生命体を連れて、戻って来る。 地球側は、パニックに陥って、あらゆる兵器で迎え撃つが、効果がなく、・・・、という話。

  【三体】を読んでいる人なら、「似たような話だな」と思うこと、疑いなし。 もちろん、こちらの方が発表が早いので、【三体】の方が、話の骨格を真似たんでしょうな。 ただし、ディックさんが嚆矢というわけではなく、他にも前例があると思われます。 【宇宙戦争】などと違うのは、圧倒的な力を持った異星人が、突如 攻めて来るのではなくて、遠い宇宙から、じわじわと近づいて来る点でして、そこが、大変、怖いです。

  主人公は、意外にも、「タイヤの溝彫り職人」という、一般人。 溝がなくなったタイヤに、もう一度、溝を彫り込むという、違法ではないが、安全上、感心しない事を、生業にしています。 宇宙スケールの話に、わざと、しょーもない職業の主人公を持って来るというのは、ディックさん流の、「落差狙い」なのでしょう。 ただし、ストーリー上、彼の職業は、彼の行動に、ほとんど、関係して来ません。

  この主人公が、たまたま出会った、16歳の少女に、反政府活動に引きこまれてしまい、警察に追われる身になる、というのが、ストーリーの中心軸で、異星人の到来は、サブ・ストーリーとして進みます。 しかし、読み終わってから、「さて、どんな話だったかな?」と思い返すと、主人公や少女など、ほとんど、印象に残っておらず、「異星人到来の話」という事になってしまうのです。

  主人公の中年男と、少女のやりとりは、ディック作品では、よく見られるもので、ディックさん本人の願望が、そのまま出ている観があります。 そして、決まって、会話の中身が、ペラッペラに薄っぺらい。 世代が違うのだから、会話が弾むわけがなく、ディックさん本人も、それが分かっているのに、まだ、少女の価値を見限りきれないでいるという感じ。 中年男の悲哀ですな。

  異星人が、地球に到着するまでは、そちらの興味で、ゾクゾクします。 到着後は、一転して、主人公と少女の話だけになってしまい、ガクンと、つまらなくなります。 たぶん、異星人と地球政府のやり取りを、細かく描写するのが、億劫になったんでしょうな。 実に、ディックさんらしい。




≪ジョーンズの世界≫

創元SF文庫
東京創元社 1990年11月9日 初版 1991年11月1日 3版
フィリップ・K・ディック 著
白石朗 訳

  沼津図書館にあった、文庫本です。 長編、1作を収録。 327ページ。 コピー・ライトは、1956年。 図書館にある、ディック作品の内、早川文庫の方は、粗方 読んでしまったので、創元文庫の方へ移りました。


  宇宙から、大量の異星発祥生物が流れて来始めた頃、地球に、一年先までの未来を予知できる男が現れ、宗教的に支持者を集めて、警察国家の政権を打ち倒そうとする。 一方、金星で人類を繁殖させる為に、金星の環境に適応した改変人間が作られていた。 ・・・という話。

  異星発祥生物の話と、金星移民の話で、見事なくらい、話が二つに分裂しています。 というか、全然違う二つの話を、無理やり、一つの小説に合わせようとしたと見るべきか。 結合に完全に失敗しているところが、却って、珍しくて、興味深い。 おそらく、締め切りに追われて、話を煮詰められないまま、中編用のアイデアを二つくっつけて、長編にしようと試み、無残に失敗したのでしょう。

  異星発祥生物の方は、フィニイ作、【盗まれた街】が、この作品の前年の、1955年発表なので、そちらから、影響を受けたものと思われます。 ただし、この作品の生物は、【盗まれた街】のそれほど、積極的に、人間を脅かすものではなく、迫力に欠けます。 確かに、大量にやってくれば、脅威かも知れませんが、それは、理屈上の話で、読者に恐怖を感じさせるほどではないんですな。

  金星移民の方は、今の知識と突き合わせると、噴飯物。 金星が生物の住める星だと、1956年頃には想像されていたようで、金星独自の生物も何種類か出て来ますが、現実には、とてもとても・・・。 金星に生物がいる可能性は、火星のそれよりも、桁違いに低いです。 人間が住むなど、話になりません。 当時は、金星に関する知識・情報が、ほとんど なかったのだから、致し方ないですが。

  というわけで、読むに値するような内容が、ほとんど、ないです。 SFとしてではなく、主人公夫妻の、夫婦間の心の問題を扱っている一般小説としてなら、参考になる事もあるでしょうか。 他人と一緒に住むというのは、大きな困難が伴う事なんですなあ。 この時点で、それが分かっていながら、その後のディックさんは、結婚生活に失敗し続けるわけですが、一人で暮らした方が、精神的に、ずっと健康で過ごせるとは、思わなかったんですかね? 不思議な事です。




≪ヴァルカンの鉄鎚≫

創元SF文庫
東京創元社 2015年5月29日 初版
フィリップ・K・ディック 著
佐藤龍雄 訳

  沼津図書館にあった、文庫本です。 長編、1作を収録。 251ページ。 コピー・ライトは、1960年。 創元文庫の方でも、割と新しい発行年のものがあるんですな。 日本で訳されたディック作品の中では、最も遅いものだそうです。


  地球規模の核戦争の後、世界連邦政府が作られ、「ヴァルカン3号」という人工知能が、政策を決定するようになった。 その場所は、統括弁務官一人しか知らない。 「癒しの道」という反政府団体が出現して、勢力を広げていたが、なぜか、ヴァルカン3号は、対策を指示しようとしない。 不審に思った、地域弁務官の一人が、統括弁務官に接触しようとするが・・・、という話。

  人類を統治する人工知能が出て来ますが、≪ターミネーター≫や、≪マトリックス≫など、後年のSF映画に出て来るそれとは、だいぶ、趣きが異なっています。 ハインライン作、【月は無慈悲な夜の女王】(1966年)よりも、更に前の発表なので、人工知能のイメージが、アメリカのSF界全体で、熟していなかったのではないかと思われます。 この作品に出て来るのは、人工知能と言うよりは、大規模・複雑なコンピューターですな。

  「ヴァルカン」は、バルカン半島とは関係なくて、神の名前から来たもの。 「鉄鎚」は、ヴァルカン3号が使う兵器で、本当に鉄鎚(金鎚・ハンマー)の形をしています。 「鉄鎚を下す」という言葉が英語にあるのか不詳ですが、解説にもある通り、日本語では、そのまんまですな。 飛行し、ビームを放ち、爆弾も落としますが、スタンド・アローンではなく、ヴァルカン3号に、遠隔操作されています。

  3号の前に、2号が作られていて、それが、まだ、稼動しているというのが、ストーリーの鍵。 この、3号と2号の力関係のアイデアは、作劇技法としては、面白いです。 しかし、人工知能を出しておいて、その、人類文明に対する意義を考察するのではなく、作劇技法の方に使ってしまったのは、些か、残念です。

  クライマックスは、戦闘場面でして、これが、ディック作品の中では、大変、長い。 戦争物かと思うくらい、長い。 スパイ物や、戦争小説なら、それもアリですが、SFで、それをやると、どうしても、邪道に走っている観が否めませんねえ。 そういった、細かい事を言わないのなら、ディックさんは、こういう描写がうまいので、迫力はあります。

  一つだけ、ツッコませてもらいますと、「手榴弾サイズの核爆弾」が出て来て、主人公が、それを、「投げる」のですが・・・、おいおい、核爆弾なんでしょ? アメリカ人が、放射線について無知なのは知っているので、そこは、スルーするとしても、小さいとはいえ、核爆弾が、投げられる距離で爆発したら、投げた本人は、とても、生きてはいられますまい。 普通の手榴弾で良かったんじゃないですかね?




  以上、4冊です。 読んだ期間は、2024年の、

≪タイタンのゲーム・プレーヤー≫が、11月18日から、20日。
≪フロリクス8から来た友人≫が、11月25日から、27日。
≪ジョーンズの世界≫が、12月1・2日。
≪ヴァルカンの鉄鎚≫が、12月3・4日。

  ディック作品は、とりあえず、これで、一段落です。 早川文庫の方に、まだ読んでいない作品があったものの、どうも、宗教系の話のようなので、それらは避けて、創元文庫の方へ行きました。

  【アンドロイドは電気羊の夢を見るか?】、【ユービック】、【高い城の男】など、有名な作品の感想が入っていないのを、奇妙に思われる人もいるでしょうが、それらは、20年以上前、現役で働いていた頃に読んでいまして、今回、読み返すのを見送ったのです。 何せ、読書意欲が減退しているので。

2025/02/23

EN125-2Aでプチ・ツーリング (65)

  週に一度、「スズキ(大長江集団) EN125-2A・鋭爽」で出かけている、プチ・ツーリングの記録の、65回目です。 その月の最終週に、前月に行った分を出しています。 今回は、2025年1月分。





【沼津市岡宮・岡宮4号公園】

  2025年1月9日。 沼津市・岡宮にある、「岡宮4号公園」へ行ってきました。 2週前に行った、「馬頭観音」から、すぐ北にあります。 近過ぎて、通り過ぎてしまい、ぐるっと回って、急坂を登り、辿り着きました。

≪写真1≫
  ほぼ、全景。 1号よりは、かなり小さくて、2号と同じ面積だとの事。 3号が、一番小さいようですが、2号・4号と、大差ありません。

≪写真2左≫
  手前は、砂場。 奥は、複合遊具ですが、主に、滑り台のようです。

≪写真2右≫
  ブランコ。 これがないと、児童公園とは言えませんな。

≪写真3左≫
  運動ができるベンチが、4基、ありました。 これは、「腹筋ベンチ」。

≪写真3右≫
  これは、「脇ストレッチベンチ」。 他に、「十字懸垂ベンチ」、「背のばしベンチ」がありました。

≪写真4左≫
  跨る遊具。 これは、「シー・ライオン」。 アシカですな。 もう一基、「ピーコック」がありました。 孔雀。 本物の孔雀に跨るのには、無理がありますが。

≪写真4右≫
  公園の一角にあった、山神社。 石の祠です。 平成19年(2007年)に、他から、ここへ移転させたとの事。 道理で、真新しいです。

≪写真5≫
  ミラーを新しいのに換えてから、初めてのプチ・ツーリングになりました。 乗っている時は、ミラーの前側が見えないから、感動はありません。 こうして見ると、確かに、ピカピカです。




【沼津市東熊堂・大泉寺】

  2025年1月15日。 沼津市・東熊堂にある、「大泉寺」へ行って来ました。 「熊堂」は、「くまんどう」と読みます。 お寺を目的地にする事は、珍しいですが、住宅地図を見ていたら、新幹線のすぐ北にあり、見つけ易そうだったので、そこにした次第。

  神社と違って、お寺は、人が住んでいるから、境内に入るつもりは、最初から、ありませんでした。 山門だけでも、撮影できればいいという程度の当てで出かけました。

≪写真1≫
  山門。 シンプルなもの。 門の左右を車が通れるので、門本来の意味は、ほとんど、ないです。

  掲示板に書かれている言葉は、

「寒苦に鍛えた梅は、風雪に耐えて よく香る」

  なるほど。 梅の性質が、本当にそうなのかは知りませんが、言いたい事は分かります。

≪写真2≫
  本堂。 道路からでも、よく見えたので、撮っておきました。

  たぶん、鉄筋コンクリート。 戦後、建てられたのでしょう。 こういう建物は、冷暖房が利くので、檀家には、恩恵が大きいです。

≪写真3左≫
  道路に沿って、駐車場が並んでいました。 飛び出し坊やの下には、「真宗大谷派 東本願寺末 大泉寺」、「いずみ保育園」とあります。 保育園の名前に、「いずみ」が入っているところを見ると、大泉寺の運営かも知れません。

≪写真3右≫
  山門のすぐ南側を通っている、新幹線の高架。 南から来ると、高架の下を潜った後、東へ、ほぼ直角に曲がります。

≪写真4≫
  門の横に停めた、EN125-2A・鋭爽。 往復で、19キロ。 バイクで来る場合、近所と言っても、おかしくありません。 とりあえず、鼠蹊ヘルニアの手術が終わるまでは、近場で行こうと思っています。




【沼津市東沢田・八幡宮】

  2025年1月23日。 沼津市・東沢田にある、「八幡宮」へ行って来ました。 ネット地図で見つけた所。 「明治資料館」の近くで、「愛鷹神社」の、すぐ南なのですが、その愛鷹神社の方に、まだ、行っていません。

≪写真1≫
  小さい神社ですが、境内は、そこそこ、広いです。 もしかしたら、以前は、鎮守の森が鬱蒼としていたのかも知れません。 前の道路は、愛鷹神社の参道でもあります。

≪写真2左≫
  白く塗られた鳥居は、金属製。 名額に、力強いゴシック体で、「八幡宮」とあります。

≪写真2右≫
  銅板葺きの、社殿。 人が入れる大きさではないです。 これは覆いで、中に、小さな本殿が置かれていました。

≪写真3左≫
  背面。 本殿が置かれている部分が飛び出していない場合、この建物を拝殿とは呼べません。 やはり、覆いに過ぎないのです。

≪写真3右≫
  中には、賽銭箱もありました。 前面に書かれている文字は、左から、「奉納」。

≪写真4左≫
  鈴の代わりに、銅鑼が吊ってあります。 珍しい。 壊すと事なので、鳴らしませんでしたけど。

  向かって奥に、電灯が付いています。 たぶん、中は、電球。

≪写真4右≫
  鳥居の柱の裏側。 奉納年月日が書いてあったようなのですが、薄くなってしまって、読み取れません。 もう一本の柱には、「東沢田氏子一同」とありました。

≪写真5左≫
  道路の端、溝蓋の上に停めた、EN125-2A・鋭爽。 新品に交換したミラーが、ピカピカなのですが、このサイズの写真では、分かりませんな。 走っている間は、私には見えないわけですが、ピカピカだと思うだけで、気分はいいです。

≪写真5右≫
  神社の向かいの家で咲いていた、花。 葉っぱの形から見て、椿だと思います。 何とも、変わった花ですなあ。 珊瑚みたい。




【沼津市東沢田・愛鷹神社】

  2025年1月29日。 バイクで、沼津市・東沢田にある、「愛鷹神社」へ行って来ました。 「愛鷹」は、「あしたか」と読みます。 快晴なれど、寒風が強烈に吹き荒ぶ日で、冬装備の服装でも、まだ寒い。 若い頃以来ですが、新聞紙を胸に入れて行きました。 愛鷹神社は、明治資料館の近くで、新幹線のすぐ南側にあります。

≪写真1左≫
  正面からの、全景。 境内は、丘というほどではないですが、少し高くなっています。

≪写真1右≫
  鳥居は、石製。 名額は、御影石で、こざっぱりしたもの。

≪写真2左≫
  社殿。 瓦葺きだから、昭和に入ってからの建物。 その上、鉄筋コンクリートだから、戦後の建築でしょう。 見えているのは、拝殿です。

≪写真2右≫
  側面から。 拝殿と本殿が、廊下で繋がっている様式です。 本殿も、鉄筋コンクリートの、がっしりしたもの。 風情には、欠けますが。

  本殿のすぐ後ろには、新幹線が通っています。

≪写真3左端≫
  鈴の代わりに、銅鑼。 すぐ近くにある、八幡宮にもありました。 この付近の習俗なんでしょうか。 鈴だろうが、銅鑼だろうが、私は、こういう鳴り物には、触れない事にしています。 落ちて来ると、まずいからです。

≪写真3左中≫
  拝殿の扉のガラスが一枚外されていて、そこから、中の賽銭箱に、賽銭を入れられるようになっていました。 こういう工夫をしている神社は、昨今、多いです。

≪写真3右中≫
  手水、というより、流しと水道ですな。 タイルを貼った流しは、今では珍しいです。

≪写真3右端≫
  境内に祀られていた、石。 何なんでしょう? 奥のは、石碑ですが、文字が彫ってあったかどうか、確認を忘れました。

≪写真4左≫
  石燈籠。 六角断面の笠・火袋に、丸竿タイプ。 左右二基ありました。

≪写真4中≫
  石燈籠。 四角断面の笠・火袋に、丸竿タイプ。 一基だけ。

≪写真4右≫
  石燈籠。 四角断面の笠、球形の火袋に、丸竿タイプ。 一基だけ。 球形の火袋というのは、庭園用なら見た事がありますが、神社用は、初めて見ました。

≪写真5左≫
  境内別社。 詳細は不明。

≪写真5右≫
  境内別社。 詳細は不明。 どちらも、屋根庇は、銅板葺きで、手の込んだもの。

≪写真6左≫
  境内は、児童公園を兼ねているらしく、遊具が一つありました。 雲梯にしては、低いです。 吊る下がるのではなく、上に登って遊ぶものなんでしょう。 それにしても、時代がかっている。

≪写真6中≫
  境内に入れず、道路の端に停めた、EN125-2A・鋭爽。 短時間とはいえ、交通違反になる危険性があり、ヒヤヒヤです。 もっとも、周囲は、住宅地で、警察が巡邏に来るような所ではありませんでしたが。

≪写真6右≫
  しかし、東沢田自治会による、こういう注意書きもありました。 

「警告  不審車両 不審者等 見つけ次第 110番します」

  うーむ。 やはり、大急ぎで見て、早く戻った方が、正解だな。




  今回は、ここまで。 依然、闘病中という事もありますが、それより何より、この冬は寒くて、遠くへ行く気にならないので、近場ばかり、目的地にしています。 往復、45分くらいで帰って来れる半径内でも、まだまだ、行っていない所は多いわけだ。

2025/02/16

実話風小説 (37) 【いなくなる前に】

  「実話風小説」の37作目です。 12月の中ばに書いたもの。 闘病中の事とて、今回も、短いです。 短い方が、書く方も、読む方も、好都合という見方もありますが、どうも、書く方としては、好都合過ぎて、やっつけになってしまう傾向がありますな。




【いなくなる前に】

  男Aは、すでに、人生の半ばを過ぎた年配だが、時々、思い出す事がある。 亡き父が言っていた、祖父の事である。 A氏が生まれるより前に他界しているから、面識はないし、父から聞いた話というのも、祖父に関する、たった一つのエピソードだけである。

  祖父は、第二次世界大戦の末期、昭和20年7月に、21歳で、海軍に召集された。 国内の軍港で、南方へ送られる前の再訓練をしている途中で、敗戦となった。 しかし、外地からの復員事業の為に、船員として徴用されてしまい、家に戻れたのは、5年も経ってからだった。

  多くの復員者がそうであるように、家に戻った祖父も、半ば、廃人という態だったらしい。 家族とは、ほとんど、話をしない。 自分からは、全く話さないし、話しかけても、生返事ばかりで、会話にならない。 朝、親戚から紹介してもらった、引っ越し屋の手伝い仕事に出かけて行き、夕方、もしくは、夜に帰って来る。 母親が作った夕飯を、黙って食べ、風呂に入り、眠ってしまう。

  その内、縁談があり、結婚したが、妻に対しても、ほとんど、口を利かない夫だった。 家父長制が普通だった時代には、そういう男は、いくらでもいたのだが、祖父の場合、職場でも、最小限、必要な事しか喋らず、真面目だが、無愛想な男と見做されていたようだ。

  A氏の父親は、昭和30年に生まれたが、20歳の時、つまり、昭和50年に、祖父は、交通事故で死んでしまった。 運転していた引っ越し屋のトラックに、他のトラックが突っ込んで来て、運転席ごと押し潰されたのだ。 葬式では、「せっかく、戦争から生きて帰って来たのに・・・」と、惜しまれたが、すでに書いたように、祖父は、召集はされたものの、戦闘に参加したわけではない。

  A氏の父が言うには、「親父が話しているところを、見た事がなかったな」との事。 「喋れないわけじゃないんだが、一言、二言、そんなもんで、長い話なんか、一度も聞いた事がない」と言った後で、ふと思い出したように、「・・・あ! そういえば、一度だけ、少し長い言葉を喋ったぞ。 そうだ! あれは、親父が死んだ日の朝だ!」


  A氏の父親は、高校卒業後、その地方にある中堅の土建会社に就職していたが、その会社の社員はみな、現場が遠い時は、現地に泊まり込みになり、数ヵ月間、家に戻れない事があった。 A氏の父親にも、そういう仕事が回って来て、初めて、家から離れて暮らす事になった。

  出張が迫る中、A氏の父親は、一人暮らしの為の準備に忙しかったのだが、その最中に、彼の母親が、頼み事をして来た。 車で、自分の友人の家へ送って行ってくれと言うのだ。 何か、届け物があるらしい。 A氏の父親は、就職前に、車の免許を取っていて、家の車を運転して、自分の母親を、あちこちに、送ってやる事が多かった。 それを、この忙しい時にも、やれというのだ。 地方出張で息子がいなくなると、出かけるのに不便になるから、その前に、自分の用事を片付けてしまおうと考えたらしい。

  A氏の父親は、「この忙しい時に・・・」と、いい顔をしなかったが、何とか、時間をやりくりして、送って行ってやろうかと考えていた。 その時、一人で、遅い朝食を食べていた、A氏の祖父が、口を開いたのだ。

「これから、よそへ仕事へ行く息子に、そんな事を頼むんじゃない! 初めて、家から出て暮らすんだから、不安でいっぱいなんだ。 その気持ちを分かってやれ!」

  A氏の父親も、その母親も、ビックリした。 普段、滅多に口を利かない、魂が半分 抜けてしまっているような人が、長い言葉を、しかも、ピシャリと叱りつけるような、激しい口調で言ったからだ。

  A氏の父親は、思い出しながら、感想を述べた。

「親父って、あんなに長く喋れるんだって、その時、初めて、知ったな。 その日の内に、事故で死んじゃったんだがな」

「出張は、どうなったの?」

「親父の葬儀を済ませてから、一週間遅れで行ったよ」


  A氏が、祖父の言動について知っている事は、父親から聞いた、それだけである。 なんで、そういう事を口にしたのかは、深く考えなかった。 祖父の言葉の意味が分かったのは、A氏の父親が病気で他界して、数年経ってからだ。

  近所で、100歳になった男性がいて、自治会で、そのお祝いをするというので、A氏も参加した。 セレモニー・ホールを貸しきっていたが、割と小さな、立食パーティーだった。 100歳当人の家族・親戚が半数。 残りは、僅かな知人を除き、自治会の者だった。 年齢が年齢なので、友人はもう、一人もおらず、知人も、「昔、世話になった」という、当人より一回り以上若い世代ばかりだった。

  ホールのスタッフによる司会で、主だった者の挨拶が終わると、あとは、歓談という事になったが、家族・親戚以外は、さほど親しい間柄の面子ではない。 特に、自治会の者は、所在ない身となり、ごく自然に、一人ずつ、100歳老人の席に、お祝いを述べに行くようになった。 A氏も、それに倣った。

  A氏の順番が来た。 A氏が、近所に住んでいる、Aだと告げると、100歳老人の表情が変わった。 そして、割と、しっかりした喋り方で、こんな言葉が返って来た。

「すると、○○さんの、お孫さんに当たるのかい?」

  ○○というのは、祖父の名前だった。

「そうです。 祖父を、ご存知なんですか?」

「一緒に、船に乗っていたんだよ。 復員船にな。 といっても、俺たちは、船員の方だったんだが・・・」

「それは、父から聞いています」

「○○は、早死にだったな。 俺だけ、こんなに長生きしちまって、申しわけないくらいだ」

「いえいえ、そんな事はありません。 もっと、長生きして下さい」

  100歳老人は、少し間をおいてから、こう言った。

「お宅の物干し台は、まだ、あるかい?」

「えっ?」

「ああ、とっくに、家を建て替えたんだっけな。 それじゃあ、もう、ないだろうな」

「物干し台が、何か?」

「○○は、昔にしては、背が高かったからな」

  話が見えなくなってしまったが、なにせ、相手は、100歳だ。 こんなものだろうか。 ところが、100歳老人の話は、俄かに、筋が通り始めた。

「○○の奴、出征する前の日に、母親から言われたんだってよ。 『行く前に、物干し台の、上の段の腕木を直して行ってくれ』って」

  A氏、何か似たような話を聞いた事がある。

「どういう事ですか?」

「つまり、母親にしてみれば、背が高い息子が出征すると、物干し台の高い所に手が届く者がいなくなるから、その前に、修理させようって腹だったのさ」

「・・・・・・」

「○○の奴、何度も、その話をして、怒ってたな。 母親なのに、戦争に行く息子を心配するんじゃなくて、自分の都合で、便利に使おうとしたってな」

  ああ、そういう事だったのか。 だから、祖父は、自分の妻が、出張直前の息子、つまり、A氏の父親を、運転手として使おうとした時に、怒ったのだ。 自分の母親と、自分の妻がやった事が、オーバー・ラップして、怒り心頭に発したのだ。 あの話には、そういう裏事情があったのか。 もしかしたら、復員した祖父が、無口になったのも、母親に対する不信感が影響したのかも知れない、

  A氏が、父親から、その話を聞いてから、もう、40年にもなる。 特に、謎とも思っていなかったが、今頃になって、事情が分かった事に、何とも、不思議な気持ちになった。 このパーティーに参加しなかったら、一生、知らないままだったろう。

  しかし、ふと、自分の身に置き換えて考えてみると、A氏自身も、母親や妻から、似たような扱いを受けている事に気づいた。 何かにつけ、便利に使われているのである。 祖父がどうこうというより、女というものが、そういう現実的で、ドライな考え方をするものなのだろう。

2025/02/09

鼠蹊ヘルニアから糖尿病 ②

  月の第二週は、闘病記。 前回は、鼠蹊ヘルニアの手術をしてもらいに、総合病院へ行き、検査が済んだところまで、書きました。 今回は、その続きです。




【2024/10/17 木】
  8時45分から、母自で、病院へ。 外科。 今回は、予約されていたから、待ち時間は少なかったのですが、なんと、「血糖値が高過ぎて、手術どころではない」と言われてしまいました。 かなり、ひどい、糖尿病だとの事。

  で、まず、血糖値を下げなければならないという事で、内科、眼科と回され、あれこれと、検査の嵐。 心電図なんて、最初の日にやったのに、また、やりました。 眼科では、瞳孔を開く目薬を注されて、目がぼやけた状態に。 最後に、栄養士による食事指導を受けて、帰って来ました。 次は、来週の月曜日。

  血糖値、110以上が、糖尿病と言われるらしいのですが、私は、450もあるのだとか。 それは、凄い。 医師は、外科も内科も、「よく、生きてるな、こいつ」という目で見るし、内科の看護師は、「尿検査の結果次第では、即、入院です」と言うし、参ったな、これは。 私の自覚症状というと、「足が、真夏でも寒く感じられるようになった」くらいしかないのですが・・・。 ちなみに、尿検査の結果、最悪のパターンではなかったそうで、とりあえず、今日の入院は回避できました。

  まあ、こうなってしまったら、仕方ないですな。 俎板の上の鯉らしく、向こうの言う通りにします。 目下、健康状態よりも、検査検査で、お金が、どんどん出て行くのが、怖い。

  それにしても、鼠蹊ヘルニアなら、手術してしまえば、それで治りますが、糖尿病となると、一時的に、血糖値が下がっても、その後も、一生、薬を飲み続けなければならないわけで、げんなりしてしまいます。

  内科の医師に、「長生きできない」とか、「失明するかも知れない」とか言われましたが、ポックリ死ねるなら、長生きしたいとは思っていません。 もう、これといって、やりたい事もないし・・・。 ただ、失明は困ります。 母の介助も、自分の事もできなくなってしまいますから。

  とりあえず、栄養士の指導に従い、今日から、夕食後の間食は、やめました。 和菓子や、菓子パン、袋菓子の類を、一切 食べない事にしたのです。 数年前に、コーヒー、サイダーなどの、甘い飲み物断ちに成功しているから、たぶん、食べる方も、絶てるでしょう。 逆に言うと、歳のせいか、「どうしても、甘い物が食べたい」という欲望が、あまり、感じられなくなっているのです。 それはそれで、寂しい事ですが・・・。



【2024/10/18 金】
  昨日の夜に、スマホの電源を入れたら、午後に、17件も着信履歴があり、知らない番号だったので、全部 削除したのですが、その後で、番号をネットで調べたら、病院からでした。 最初に行った時に、外科の問診表に、携帯番号を書けとあったので、うっかり、書いてしまったのです。

  で、今朝、スマホの電源を入れて、自室に置いておいたら、また、かかって来ました。 出る前に切れてしまったので、かけ直したところ、病院の代表番号に繋がり、こちらの名前を言ったら、内科の看護師からかけた事が分かって、そちらに回してもらいました。

  用件は、大した事ではなく、今日、眼科の検査の続きを受けに来いとの事。 それは、断ったら、次の予約の月曜でもいいから、早めに来て、眼科へ行けと言うので、承諾しました。 そうそう毎日、病院まで行ってられません。

  17回も電話をしたのは、私の血糖値が異様に高いので、倒れたのではないかと、心配したからだそうです。 その看護師さん、昨日 話をした時にも、そう感じたのですが、どうも、心配し出すと、気になって仕方がない性格のようです。 平謝りに誤って、お礼も言っておきましたが、やはり、他人と関わるのは、厄介な事だと、つくづく思いました。

  私くらいの歳になると、他人の親切心や、前向きな職業意識を、建前通りに受け取る事ができなくなります。 それはそれで、寂しい話ですが・・・。 


  週末なので、部屋の拭き掃除。 掃除機かけ。 亀の水換え。

  入院したら、こういった事が、全くできなくなってしまうので、入院だけは、断らなくてはなりません。 とはいえ、昨日、「即、入院」の話が出た時には、思わず、ワクワクしてしまった自分がいたのも、事実。 私は、内心では、家事や買い出しなど、母の介助をする生活から、脱したいと思っているのかも知れません。



【2024/10/21 月】
  9時半頃、母自で出て、病院へ。

  まず、看護師により、血糖値計測器で、計測。 350でした。 前回、先週の木曜日には、450でしたから、四日間で、100落ちた事になります。 間食絶ちした甲斐があったか。 ここで、落ちていなかったら、入院になったかも知れず、ヒヤヒヤでした。

  眼科の検査の続きをやり、その後、眼科医の問診。 糖尿病的には、問題なし。 「いずれ、白内障になると思うが、今はまだ、大丈夫」との事。

  内科で、糖尿病専門医の問診。 何か、思い当たる事があるかと訊かれたので、夕食後に、間食で、菓子ばかり食べていたと、即答しました。 血糖値が高いから、本来なら、入院して、点滴で直すのが定石だが、入院が駄目となると、インスリンを自分で打つしかないと言われました。 入院さえ避けられれば、何でもやります。

  会計した後に、内科に戻り、インスリン注射器具と、血糖値測定器の使い方を教わりました。 その場で、インスリンを、一回打ち、10分後くらいに、血糖値を測定したら、250。 更に、100落ちた事になります。 効果が出るのが早いな。 しかし、正常値は、空腹時、110以下なので、まだまだ、遠い。


  眼科で、また、瞳孔を広げる目薬を注されたので、危なっかしい運転で、帰って来ました。 狩野川の土手を走っていた間は、大丈夫でしたが。



【2024/10/22 火】
  昼食後に、血糖値を測りました。 指の腹に、専用器具で、細い針を刺して、血を出すのですが、少な過ぎて、針と試験紙を、無駄にしました。 二度目も、少ない。 やむなく、指の甲の逆剥けを剥がして、出血させ、その血で測りました。 280。 昨日より増えていますが、昨日、病院で打ったインスリンの効果が下がったからでしょう。


  昼寝してから、運動散歩。 ダイソー、セリア、ドラッグ・ストア3軒を回りました。 万歩計は、今では、100円店に置いてないようです。 薬屋だと、千円くらい。 体重計も、針式のが、千円。 血圧計は、4千円くらい。 ネットの方が、2500円くらいと、安いです。 で、何も買わずに帰って来ました。


  夕食前に、インスリンを打ちました。 こちらも、専用器具を使います。 針だけ、毎回、交換。 こちらの方が、血糖値計測より、簡単です。 手順を間違えさえしなければ、失敗しないからです。 針を腹に刺すのですが、大変 細いので、痛みは、ほとんど、感じません。

  打った後は、少し、頭がボーッとする感じ。 2時間ほどで、消えました。 腹に、針の痕の小さな赤い点が残るので、次には、そこから、最低でも、2センチ離して、打ちます。 インスリンは、毎日、同じ時刻。 血糖値測定は、朝昼晩食の前と後、計6タイミングを、一日ずつ、ずらして行きます。 結構、面倒臭い。

  数値を記録するのですが、その表に、血圧、体重、歩数の欄があり、書き込む部分が多い方がいいようなので、それぞれ、器具を買おうというわけです。



【2024/10/23 水】
  昨夜、アマゾンで、血圧計、体重計、歩数計を注文したのですが、受付メールが来てから、到着予定日が、11月5日になっている事に気づき、仰天! キャンセルしました。 2週間も先ではありませんか。 次の診察日までの期間の内、測れる日数が、半分になってしまいます。

  各商品ページで到着予定日を調べてみたら、歩数計が、11月5日で、一番遅く、他2点も、10月31日で、一週間以上、先です。 話にならぬ。 それなら、体重計と歩数計は、実店舗と大差ない値段なのだから、店に買いに行ってしまった方が、早いです。

  今朝、起きて、血圧計だけ、アマゾンを調べ直したら、買おうとしていた品より、300円高いものの、送料無料で、10月25日には届くという品があったので、そちらを注文しました。

  ところが、間違えて、プライム会員登録のボタンを押してしまい、顔色真っ青に・・・。 注文画面のデザインが変更されていたのです。 まったく、紛らわしい所に、ボタンを設置してくれる。 すぐに、キャンセルしましたが、登録受付メールが来てしまいました。 追って、キャンセル受付メールが来て、「まだ、プライムを、一回も使っていないから、会費600円を返金する」との事。 クレカに? ヘルプを調べたら、クレカでも、返金ができるんですな。

  まあ、それはいいとして、間違えて登録してしまう人も多いのだから、一時間以内にキャンセルした場合、最初から引き落とししないようにすればいいと思うのですがね。 そもそも、間違えて押させるようなボタン配置が、おかしいです。 アマゾンほどの、超有名企業が、そんなセコい手を使って、プライム会員に誘い込もうとしているのが、奇怪千万。 おそらく、担当者が、「どんな手を使っても、登録させてしまえば、こっちのもの」といった考えを持っているのでしょうが、企業の格に合いません。

  それにしても、こちらも、不注意というもので、注文画面のデザインが変わっている事に気づいた時点で、隅々まで、よく読めば良かったんですな。 今後は、アマゾンに限らず、ネット利用全体で、そういう事に注意しなければ。 こういう失敗をやらかすと、つくづく、自身の高齢化による、社会からの疎外を感じます。 今は何とか対応していますが、その内、間違いばかり起こすようになり、ネットなんか、怖くて使えなくなってしまうでしょう。


  今日は、朝は、曇り。

  午前9時頃、外掃除の前に、ドラッグ・ストアへ。 母自を押して歩いて行きました。 自転車は、体重計が重いから、前籠に入れて帰って来る為に、同伴したものです。

  アナログ体重計は、タニタが輸入したもので、税込み、1188円。 3Dセンサーの歩数計は、オーム電機製で、税込み、1078円。 もっと安いのもあったのですが、そちらは、振り子センサーだったので、やめました。 3Dセンサー式なら、ポケットに入れたままで、測れるからです。

  帰りも、自転車を押していたのですが、途中から、雨が降り出してしまい、やむなく、乗って、急いで帰って来ました。 ちょっと、濡れた程度でした。 雨のお陰で、外掃除は、パス。

  体重計を開梱。 アルコール浄化して、自室に置きました。 アナログなので、乗るだけです。 66キロ。 デジタルより、重い。 しかし、体重計なんてものは、個体によって、数値が異なるものでして、見るべきは、同じ体重計で量った時の、日々の変化なのです。

  歩数計も開梱。 ボタン電池を入れましたが、振っても、数字が変わりません。 と思ったら、数秒してから、ドカっと変わりました。 そういう作りなんでしょう。 歩数計も、個体によって、数値が全然異なるのであって、日々の変化を見る為のものです。



【2024/10/24 木】
  午後、昼寝してから、運動登山。 4年半ぶりに、横山に登って来ました。 運動登山自体が、4年半ぶり。 香貫山を避けたのは、他の登山者と接近したくないからです。 その点、横山は、平日なら、まず、登っている人がいませんから。 もっとも、今の季節、新型肺炎の感染者数は、最低になっており、山に来ている人が感染している確率は、極めて低いです。

  横山の北側から登ったのですが、やはり、きつい。 マスクをしながらでも登れましたが、誰もいないなら、外してもいいか。 登りも下りも、ホイホイ、進めないから、人の姿を見てからかけても、間に合うでしょう。

  1時間半。 ちと、かかり過ぎですが、平地を歩くより、足へのダメージが少ないようで、爪が剥がれるような事はありませんでした。 これから、しばらく、雨天と、バイク、折自で出かける日以外は、横山に登ろうと思っています。 間食断ち、甘い物断ちだけでは、血糖値の低下が捗らないから、致し方ない。

  鼠蹊ヘルニアを抱えたまま、山なんか登って、大丈夫か、心配ではあるものの、とにかく、血糖値を下げなければ、鼠蹊ヘルニアの手術ができないのだから、そちらを優先するしかありません。

  ちなみに、歩数計は、登山のお陰で、1万歩近く、行きました。


  夜、2018年12月以来、約6年ぶりに、インスタント・コーヒーを飲みました。 ただし、ブラック。 大変、まずい。 血糖値を下げるのに、効果があると知ったからです。 ただし、ブラックに限る。 非常に、まずい。 薬だと思って、飲む所存。




  今回は、ここまで。 まだ、10月分が終わりませんが、長くなったので、この辺にしておきます。 この時期、糖尿病が判明したせいで、生活が激変しており、書く事が多かったのです。