2025/11/30

EN125-2Aでプチ・ツーリング (74)

  週に一度、「スズキ(大長江集団) EN125-2A・鋭爽」で出かけている、プチ・ツーリングの記録の、74回目です。 その月の最終週に、前月に行った分を出しています。 今回は、2025年10月分。





【函南町桑原・かんなみ仏の里美術館付近】

  2025年10月6日。 車での買い出しから帰った後、バイクで出かけ、函南町・桑原にある、「かんなみ 仏の里美術館」付近へ行って来ました。 ここにある事は、前から知っていましたが、目的地にしたのは、初めて。 ただし、中に入ったわけではありません。 道路から、建物の写真を撮っただけ。 入らない理由は、有料である事もありますが、それより何より、仏像に興味がないからです。

≪写真1≫
  「かんなみ 仏の里美術館」を、南側のT字路から見上げました。 当地の有名なお寺にあった仏像群が、函南町に寄贈され、それを収める為に造られた施設のようです。 ホーム・ページがあるので、詳しい事は、そちらを参照あれ。

≪写真2≫
  T字路南の路肩に停めた、EN125-2A・鋭爽。 交通量が少ない割に、道路の幅が広いので、バイクはもちろん、車であっても、不安なく停められます。 ただし、美術館に入るのなら、中の駐車場に入れた方がいいです。

≪写真3≫
  帰りに見かけた、谷あいの風景。 月並みな形容ですが、日本の原風景ですなあ。

≪写真4≫
  行きに見かけて、帰りに撮影した、八重の芙蓉。 色は白ですが、赤い色素をもっているようで、萎んだ花殻は、赤くなっていました。




【函南町大竹・宗時神社】

  2025年10月13日。 函南町・大竹・にある、「宗時神社」へ行って来ました。 ネット地図で見つけた所。 北条宗時と狩野茂光の墓があるとの事。 北条宗時は、政子や義時の兄で、頼朝の旗揚げ後、真っ先に死んでしまう人。

  函南駅の西側に位置する、高台の上にあります。 坂が急で、一番近いところからでは危なっかしかったので、少し駅寄りに向かい、傾斜の弱い道から上がって、逆方向から辿り着きました。

≪写真1左≫
  路肩が広がっている場所があったのですが、こんな注意書きが。

「駐車禁止 宗時神社参拝者に限り利用下さい」

  つまり、私は、停めてもいいわけだ。

≪写真1右≫
  他の参拝者が車で来たら、邪魔になると思い、なるべく、隅の方に停めました。 ここも坂になっています。 必ず、前が高くなる向きで、サイド・スタンドをかけます

≪写真2左≫
  境内へは、徒歩で階段を登って行きます。

≪写真2右≫
  境内にあった唯一の建物。 神社という名前になっていますが、これは、社殿ではないようです。 どうやら、墓が祭祀対象になっている、特殊な神社のようです。 

≪写真3左上≫
  見難いですが、これが、墓。 大きい方が、北条宗時のもので、小さい方が、狩野茂光のものらしいです。

≪写真3≫
  石造物群の全景。 墓は、この中にあります。 向かって右の方にある石碑は、昭和19年(1944年)に建てられた、「北条宗時 狩野茂光 碑」。 ところが、裏側には、「祈願 大東亜戦勝」とあり、そういう目的の石碑だった事が分かります。

≪写真4左≫
  石燈籠。 シンプルなタイプ。 笠が、妙に小さい。

≪写真4中≫
  QRコードで、案内動画が見られるようです。 こういう時代か。

≪写真4右≫
  手水というよりは、ただの流し。 高台の上ですが、ここより高い所に住宅地があるので、水が引いてあっても、不思議ではありません。

≪写真5左≫
  咲いていた、黄色い花。 1センチ以下の、小さな花です。 家に帰ってから、大きな画面で写真を見たら、片食み(カタバミ)でした。

≪写真5右≫
  南西方向の眺望。 なぜ、ここに墓を作ったのか分からなかったのですが、もしかしたら、ここから、北条氏の根拠地、韮山の守山が見えるのでは? ちなみに、墓を作ったのは、宗時の父親の、北条時政だとの事。



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函南町間宮・田方自動車学校】

  2025年10月24日。 函南町・間宮にある、「田方自動車学校」へ行って来ました。 ネット地図で見つけました。 国道136号線と、伊豆中央道が交わる交差点から、少し東へ引っ込んだ所にあります。 この辺りは、函南町で最も商業施設が集まっている所です。

≪写真1≫
  南東に、正門があります。 中心的な建物。 教習所としては、平均的なサイズですな。 縦の看板には、「T.D.S. 静岡県公安委員会指定 田方自動車学校」とあります。 私が、大二輪の教習を受けた、沼津市の「東部自動車学校」も、英語にして、頭文字を取れば、「T.D.S. 」になりますが、検索すると、田方の方しか出て来ないから、登録商標になっているのかも知れません。

≪写真2≫
  北西側から、コースを見ました。 いつもながら、平地の視点で、教習所のコース写真を撮るのは、難しいです。 坂道発進をやる小山は、写っていませんが、西の端にありました。

≪写真3≫
  普通免許の教習車は、マツダの3代目アクセラ・セダンのようです。 私は、3代目アクセラ・セダンと、現行のマツダ3・セダンの見分けがつかないのですが、ネット情報によると、3代目アクセラには、ベスト・セラーの教習車があるのに対し、マツダ3には、ないようなので。

≪写真4左≫
  大型や、二輪も教えているようです。 ホーム・ページで調べたら、大二輪も。 今は、どこの教習所でも、そうなのかも知れませんが。

  教習用バイクを、遠くから撮りました。 この2台は、ガタイ的に見て、大型のようですが、私が最新のバイクに興味がないせいで、車種が全く分かりません。

  迷える教習生達に、老爺心から告ぐ。 教習用バイクが、どんなにカッコ良く見えても、うまく乗れるとは限らんのだぞ。 特に、バランス感覚が悪くて、一本橋を、速度に関係なく、渡り終えた事が一度もないなどという人は、二輪そのものを諦めた方がいいかも知れません。 こればっかりは、体質だから、練習して、どうなるというものでもないです。

  高校が鉄道・バス通学で、自転車にも、ほとんど乗った事がないという人は、バイクなんて、危ない危ない。 死ぬ為に、お金を払い、努力しているようなもの。 何とか免許を取っても、自分のバイクで公道を走り始めて、何日もしない内に、あの世行き、という例もあります。 もちろん、教習所の責任ではないです。

≪写真4右≫
  これは、教習所の北東にある、資源ステーションに停めた、私のバイク、EN125-2A・鋭爽。 教習所に、125ccで乗り付けても、大二輪はもちろん、中免の教習生にも馬鹿にされそうですな。 とはいえ、私は、大二輪の免許は持っていても、大きいのに乗りたいなどとは、つゆほども思いません。 重いから。 歳も歳ですし、鋭爽が最後の一台になる事は、もう決まっています。 極力、大事に乗らなければ。

  この日は、ドス曇りで、家を出た時には、多めのポツポツ雨まで降っていたのですが、日程の都合があって、なかば ヤケクソで出かけました。 大平トンネルを抜けたら、東側は降っておらず、家に帰るまで、何とか、もちました。 帰ってから、濡れタオルで、塗装面とプラスチック面を、油ウエスで、メッキ部品を拭いておきました。


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【函南町上沢・函南町文化センター】

  2025年10月29日。 バイクで、函南町・上沢にある、「函南町文化センター」へ行って来ました。 静岡県内の石碑のリストがあるのですが、その中に、「狩野川台風記念碑」が、「函南町中央公民館」にあると出ていました。 ネットで調べてみたら、施設の名前が変わって、今は、「函南町文化センター」になっているとの事。 地図を暗記して、出かけて行ったというわけ。

≪写真1≫
  行ってみたら、前にも来た事がある所でした。 帰ってから、日記を調べたら、2017年2月26日に、折自で来ていたのです。 このブログの日替わり写真にも、2017年3月31日付けで、「6506 ≪函南町立図書館を見に行く≫」として、紹介してありました。 その時は、図書館を見に行ったのですが、そのすぐ隣が、文化センターで、そちらの写真も撮ったのでした。

  記憶はあったのですが、名前を忘れていて、同じ所だとは思わなかったんですな。 まあ、ツーリングの方が主目的だから、バイクで来たのが初めてなら、問題ないか。

  この写真は、西から見た様子。 こちら側に、正門があります。

≪写真2≫
  南から見ました。 中央に、正面出入口があります。 手前は、広い駐車場になっています。

≪写真3左≫
  「定礎 昭和61年3月吉日」。 1986年です。 この種の施設の建物としては、まだまだ、新しい内。

  1986年は、私が、3年間のひきこもりを脱して、働き始めた年。 普通免許を取って、車を買い、乗り始めた年。 ワープロを買った年。 何かと、思い出が多いです。 この建物は、その頃に出来たんですなあ。

≪写真3右≫
  北側。 窓がない大きな壁面は、何となく、シュールですな。

≪写真4≫
  すぐに西側を南北に通っている、伊豆縦貫自動車道。 この辺りは無料区間ですが、私は車でもバイクでも、一度も走った事がありません。

≪写真5左≫
  駐車場の端で繁茂していた、宿根朝顔。 普通の朝顔は、もう、花が終わっている季節ですが、宿根は、かなり寒くなっても、咲いています。

≪写真5右≫
  駐車場に停めた、EN125-2A・鋭爽。 西側に、駐輪場があるのですが、東側から敷地に入ったので、気づかず、すいていたのをいい事に、駐車場に停めました。

  バイクを下りて、建物の周りを一周してみましたが、「狩野川台風記念碑」は、見当たりませんでした。 まさか、屋内にあるんですかね? 石碑だから、そんな事はないと思うのですが。




  今回は、ここまで。 10月は、終活の書類処分や、井戸水ポンプ異常の原因究明など、イレギュラーでやる事が多く、プチ・ツーリングは、楽しみというより、負担になってしまいました。 やはり、趣味は、他にやる事がない時に、心のゆとりを持って取り組むものですな。

2025/11/23

時代を語る車達 ⑰

  出かけた先で撮影した車の写真に、個人の感想的な解説を付けたシリーズです。 今回から、後文を廃止して、4台目の解説文で、終わりにします。 わざわざ、後文で纏めるほどの内容ではないので。





【ルノー・2代目カングー】

  ルノーの、2代目カングー。 2007年から、2021年まで、生産・販売されていた車型。 デザインの印象は、初代と、ほとんど変わりません。 カングーは、もしかしたら、日本国内で最もよく見るフランス車なのではありますまいか? トヨタ・ファンカーゴに似ていますが、初代カングーは、1997年の登場で、ファンカーゴは、1999年からですから、ファンカーゴが、初代カングーを真似たのは、疑いないところ。

  この種の、ユーティリティー車は、車内容積の縛りがあるので、似たような形状になり易いですが、それを勘定に入れても、ファンカーゴは、初代・2代目カングーに似ていると思います。 パクリと言っても、特に言い過ぎにはならないくらい。 もっとも、こういう車は、使い勝手の良し悪しでナンボなので、細部のデザインを云々しても、意味はないです。

  この写真の車、色が褪せているように見えますが、然にあらず、黄色とオレンジ色のツートンなんですな。 この車を選ぶ人は、たぶん、目立ちたがりだと思うので、こういう色合いの方が、気分がアガるんでしょうな。 私の趣味からは遠い世界の話ですが、理屈だけでなら、理解できます。

  ところで、カングーって、3ナンバーだったんですねえ。 すると、税金も高いわけだ。 車のイメージ的に、金持ちが乗る車という感じがしませんが、お金に余裕がないと、維持できない車だったんですなあ。 知らなかった。




【ソフト・トップ車と置き場所】

  上は、BMW・3代目Z4で、2019年から、現行。 下は、マツダ・4代目ロードスターで、2015年から、現行。

  なんで、二台一絡げ扱いなのかというと、私が、スポーツ・カーに、興味がないからです。 一家言どころか、マイナス一家言もありません。 興味がないのに、なぜ、撮って来たかというと、ソフト・トップ車の置き場所について、ちょっと、意見があるからです。

  この二台とも、露天駐車ですが・・・、駄~目だって、雨曝しは。 ソフト・トップは、防水処置はしてあるものの、所詮、布製なので、雨風を受けたら、どんどん、ヤレて、見る見る、劣化。 やがては、ボロボロになってしまいます。 破れが出たら、雨漏りで、目も当てられない事になります。

  50年代頃の英米映画を見ると、主人公、もしくは、相手役が乗っている車が、軒並み、オープン・カー。 もちろん、スポーツ・カーです。 それが許されたのは、彼らが、貴族、事業家、資産家、高収入の著名人など、裕福な階層に属していたからです。 金持ちですから、屋敷には、堅牢な車庫があるのであって、露天駐車などしません。 出かける時には、基本的に、オープンで乗り、ソフト・トップは、出先で雨に降られてしまった時に、やむなく使う為のものだったのです。 その程度の出番なら、布製でも、そこそこ、長もちすると思います。

  ソフト・トップは、本来、露天駐車を前提にした装備ではないんですな。 乗りたい気持ちは分かるし、所有したい気持ちも分かりますが、それは、社会的に成功し、車庫がある屋敷に住めるくらい、裕福になってからにした方がいいんじゃないでしょうか。 もちろん、車本体を買うお金があれば、何を選ぼうが、当人の勝手ですが、ソフト・トップ車の正しい保管場所について、知識がある者から見ると、露天駐車は、大変、大変、非常に、非常に、貧乏臭く見えてしまうのです。 そこが、月極駐車場なら、尚の事。

「ヤレたら、張り換えればいい」

  それも、どうかと思います。 たぶん、仰天するほど、お金がかかりますよ。 また、ソフト・トップの張り換えなんて、どこの整備工場でも、滅多にやらない事ですから、慣れた整備士がいません。 「あっ! 破いちゃった!」なんて事になっても、整備工場側で、弁償してくれるかどうか怪しいもの。 こっそり、キットを購入し直した分を、手間賃に加算して、請求して来るかも知れません。 自動車業界では、客を騙すのは日常茶飯事ですから、やられかねませんな。

  ≪名車再生 クラシック・カー・ディーラーズ≫という、車のレストアをする番組で、時折り、ソフト・トップの張り換え作業をやりますが、テレビ番組にレギュラー主演するほど腕がいい整備士でも、大いに、てこずっている様子。 そういう、超が付く難物なんでしょう。 キットが買えるとしても、「自分でやる」なんて、間違っても思わない事です。 さんざん頭を抱えた末に、キットを駄目にして、元の木阿弥になる姿が目に見えるようだ。 敗北感は、半端ないでしょうな。

  オープン・カーにも、ハード・トップがありますが、あれもねえ。 金属製の開閉機構を積むのだから、途轍もなく重くなるに決まっているんですよ。 軽い事が、性能に大きく関わって来るスポーツ・カーを、わざわざ、重くしていて、どうする? それほどまでにして、オープン走行に拘る理由が分からない。

  結局、一般人が選べるのは、タルガ・トップか、Tバー・ルーフくらいのものでしょうか。 とにかく、ソフト・トップの露天駐車は、やめときなさいって。 惨めになるだけだから。 土台、雨が多い日本の気候じゃ、オープンで走るなんて、ほとんど、やらないんでしょう? 買って、最初の一回か二回で、開閉の面倒臭さにうんざりしてしまって、後は、手放すまで、閉めっ放しだった、なんて例は、ザラにあると思います。 そうなる自分を予測できる人は、最初から、オープン・カーを買わないのが、一番ですな。




【トヨペット・3代目コロナ】

  函南町・日守にある、露天の車置き場に、もうだいぶ以前から置いてある、トヨペット・3代目コロナ。 1964年から、1970年まで、生産・販売されていた車型。 古い・・・。 よく、残っているものです。 この写真だと、分かり難いですが、ネットで検索してもらえば、割と特徴的なフォルムなので、「ああ、これか」と思う人も多いのでは?

  私が子供の頃、兄と同年の友人が、近所に住んでいて、確か、その家の車が、これだったのでは? いやいやいや、記憶が定かではありませんな。 とにかく、私が子供の頃には、よく見かける車でした。

  その頃のデザインとしては、スラント・ノーズで、子供の目にも、カッコ良く映っていました。 当時、アメリカ車を真似た、鮫形フォルムが流行っていて、コロナも、次の4代目では、それっぽくなってしまうのですが、鮫形は、子供の目には、グロテスクにしか見えませんでしたから、比較して、スラント・ノーズの、この車が、カッコ良く見えたのだと思います。

  ちなみに、スラント・ノーズというのは、車の前端を、横から見た時に、上より下が前に出る角度で、傾斜がついている形の事。 垂直になっているものや、下より上が前に出ているものには、特に、名称がないようです。

  この車、2018年の、4・5月頃に流されていた、三菱UFJ銀行のテレビCM、「カード・ローン バンクイック パッキング篇」で、出張の旅に出かける男性(阿部寛さん)の車として、赤いのが使われていました。 綺麗にレストアすれば、欲しがる人もいる事でしょう。 雑草に埋もれさせておくのは、惜しい。




【三菱・6代目ミラージュ】

≪写真上≫
  三菱の、6代目ミラージュです。 日本国内では、2012年から、2023まで販売されていた車型。 ミラージュは、かつては、カローラ・クラスのサイズでしたが、この6代目は、一回り小さくなり、排気量も、1リットルと、1.2リットルと、リッター・カーになりました。

  この車のいいところは、大きさの手頃感ですかね。 両親と、小学生以下の子供二人くらいの家族が出かけるには、最も使い易いサイズだと思います。 親子四人というのは、1960年代後半、マイ・カー時代が始まった頃の、平均的な家族構成ですが、当時 売れていた、初期のカローラ、サニー、ファミリアなどに近いサイズなのです。 日本人の体格は、その頃より大きくなりましたが、前席の大人が普通に乗れれば、後席は子供ですから、狭いという事はありません。

  デザインは、特に絶賛するほどではありませんが、まあ、今風のハッチ・バック車のそれですな。 安定感よりも、躍動感を重視している点は、時代に迎合していますが、迎合し過ぎて、SUV風に流れなかった点は、評価できます。 纏まりは、極めて良いです。

≪写真下≫
  後ろ姿。 リヤコンの形も、いいです。 昨今、どのメーカーの、どの車種も、鰹節みたいな形のリヤコンばかりになってしまいましたが、こんな風に、さりげない個性を盛り込もうと思えばできるのだという、証明になっています。 バック・ドアの、プレス・ラインも、車体側面のそれと、セットになっていて、悪くない。

  私は、エアロ・パーツは、全般に嫌いなんですが、この車のバック・ドア上のスポイラーは、違和感がありませんな。 むしろ、とってしまうと、悪くなるような気がしないでもなし。

2025/11/16

庭景色 ②

  11月は、更新日の日曜が5回もあり、埋めるネタがないので、日記ブログの方から、自宅の庭で撮った写真と、その解説文を転載します。 前回は、8月に、5・6月に撮った写真を出しましたが、今回は、7月後半から、9月後半まで。





【芙蓉 / 向日葵 / 百合 / モチノキ / 仕切り格子の扉を補修】

≪写真1左≫
  7月17日の撮影。 北東芙蓉の第一輪。 撮影が午後になったので、花弁の縁が、もう、萎れ始めています。

≪写真1右≫
  7月27日の撮影。 北東芙蓉。 今年は、新しい枝の背丈があまり伸びず、蕾が少ないです。 一日に、1・2輪ずつ、リレー式に咲いて行きます。

≪写真2左≫
  7月25日の撮影。 ダイソーで買って来て、南通路に種を播いた向日葵の、第一輪が咲きました。 想像していたのより、小さい花でした。

≪写真2右≫
  7月27日の撮影。 同じ花の、二日後の様子。 芯の黒点がある突起が、中心部に向けて、数を増やしています。 これらが、いずれ、種になるんでしょうな。

≪写真3左≫
  7月25日の撮影。 西塀花壇の、細葉鉄砲百合(ホヒバテッポウユリ)。 第一輪です。 下を向いて咲くので、写真が撮りづらい。 

≪写真3右≫
  7月27日の撮影。 東南花壇のモチノキ。 また伸びて来たので、刈り込み鋏と、剪定鋏で、切り戻しました。 背が高くなると、隣家の敷地に、大きな葉が落ちてしまうのです。

≪写真4左≫
  車置き場・南の、仕切り格子に付いている扉ですが、格子として入れている園芸用・緑支柱の一本が、錆びて腐ってしまい、以前、継ぎ手を作って、繋いであったのが、更に腐食が進んで、短くなってしまいました。 これが、腐食部分。

≪写真4中≫
  短くなったので、上に隙間が出来てしまっています。 この扉は、日中は、庭への侵入を防ぐ防犯の役割を担っているので、このままでは、無用心です。 こんな小さな隙間から、何ができるというわけでもありませんが、腐食をそのままにしてあるというだけで、犯罪者に付け入られてしまう恐れがあります。

≪写真4右≫
  7月27日に、本格的に修理しました。

  新しい支柱は、物置にあった、同じ長さ・太さの物を使用。 扉の上の角材を、木ネジを緩めて外し、支柱を入れ換えて、元に戻しました。 思っていたより、簡単に事が済みました。 釘ではなく、木ネジを使ってあったから、ドライバー1本で外す事ができたのです。

≪写真5左≫
  アフター写真。 上の隙間がなくなりました。

≪写真5右≫
  扉の全景。 普段、この扉を閉め、掛け金をかけた上で、ワイヤー・ロックを施してあります。 乗り越える事はできるわけですが、普通、大人は、そういう荒っぽい事は避けたがりますから、心理的な防犯効果が期待できます。


  仕切り格子も扉も、作ったのは亡き父です。 そもそもは、防犯目的ではなく、柴犬シュンを裏庭で放し飼いにする為に作ったもの。 「支柱が腐った時、容易に交換できるように、釘ではなく、木ネジを使った」というわけではなく、たまたま、その頃、父が日曜大工をするのに、長い木ネジを使うのに嵌まっていたのだと思います。 土に埋めてあるわけでもないのに、園芸用の支柱が腐るなんて、普通、思いませんからねえ。




【百合 / 百日草】

  8月8日の撮影。

≪写真上≫
  東南花壇の百合。 ここは、日が当たるので、絵になり易いです。 種を播いたり、球根を植え替えたわけではなく、自然に生えて来たもの。

≪写真中≫
  西塀花壇の百合。 ここは、だいぶ前ですが、種をごそっと播きました。 1万2万も播けば、このくらいは育つわけだ。 今年もたくさん、蕾が出来ましたが、去年までほどではなかったです。 暑過ぎたせいかも知れません。

≪写真下左≫
  蕾の状態で、割れてしまったもの。 今年は、こういうのが、多かったです。 たぶん、暑過ぎたせいだと思います。

≪写真下右≫
  ダイソーで種を買って来た百日草に、花の第一輪が咲きました。 想像していたのより、だいぶ、貧弱で、みすぼらしいものでした。




【百日草 / 南通路の芙蓉】

≪写真上左≫
  8月17日に、「PENTAX X70」で撮りました。 池跡に置いた鉢で咲いた百日草。

≪写真上右≫
  8月18日に、「FUJIFILM FinePix JX550」で撮りました。 同じ花ですが、カメラが違うと、だいぶ、違う写真になりますな。 写りはさておき、前日と比べて、中心部の小さな花の数が増えています。 おそらく、周辺部の大きな花弁は、本物の花弁ではないのでしょう。

≪写真下≫
  8月18日に、撮影。 南通路の芙蓉です。 この数日前から咲き始めたのを、萎んだ花殻が地面に落ちているのを見て、気づきました。 北東芙蓉は、7月17日から咲いているので、一ヵ月近く遅れた事になります。 北東芙蓉から分かれた株なのに、なぜ、こんなに開花時期がズレるのか、解せません。 日当たりは、南通路の方が、ずっと、いいです。

  上の方で咲くので、葉に隠れて、見えません。 これは、枝を引っ張って、撮った次第。




【藪蘭の花 / 藪茗荷 / 青紫蘇】

  9月8日の撮影。

≪写真上≫
  プレハブ離屋の西南の、ブロック塀際に自然に生えて来て、群落を作った、藪蘭(ヤブラン)に、花が咲きました。 他の植物に埋もれてしまいましたが、花が咲くと、健在である事が分かります。

≪写真下左≫
  物置の北側に自然に生えて来て、群落を広げている、藪茗荷(ヤブミョウガ)。 花と実が同時につきます。

≪写真下右≫
  第1落ち葉溜めの北側に、土を盛っておいたら、自然に生えて来た青紫蘇が、こんなに大きな株になりました。 土は、松葉や槙の葉から出来た腐葉土なのですが、紫蘇と相性が良かった模様。

  一回に、20枚ずつ摘んで、全部で何回 収穫したか覚えていないくらい、多くの葉が採れました。 専ら、天麩羅にして食べました。




【実生ランタナの花】

  昨年、2024年の7月28日に、歩道に生えていた株から、種を採って来て、鉢に播いたランタナですが、芽はすぐに出たものの、成長は遅く、一年以上 経って、ようやく、花が咲きました。

≪写真上≫
  9月22日の撮影。 実に、ランタナ的な、華やかな色ですな。 別名が、「七変化」で、色が変わって行くらしいのですが、出先で見る株では分かりません。 この花で、じっくり観察してみようと思っていたのですが、変化を見る前に、萎れてしまいました。

≪写真下≫
  玄関に入れた、鉢の全景。 うちには、客は来ないのですが、玄関に入れたのは、母に見せる為です。 母は、特に花が好きというわけではなく、一回見れば、もう、興味がなくなります。

2025/11/09

鼠蹊ヘルニアから糖尿病 ⑪

  月の第二週は、闘病記。 前回は、2025年の3月4日まででした。 今回は、その続き。 そろそろ、終わりが見えて来ました。 このシリーズが終わったら、次は、何にしましょうか。 また、悩みの種が増えてしまったな。




【2025/03/11 火】
  午後2時前から、病院へ。 前回に続き、雨ですが、自転車で行って、濡れ鼠になった大失敗に懲りて、今日は、車で行きました。 片道15分くらいなので、距離的には、全く大した事はありません。 有料になってから、駐車場を使うのは初めてですが、予め調べて行った甲斐があって、割と簡単に、発券機と精算機の操作ができました。 外来患者は、割引されて、6時間まで、100円。 その程度の出費なら、前回も、車で行けば良かったです。 後悔、先に立たず。

  今日は、内科で、肝臓の専門医の初診です。 着くなりすぐに、問診があり、それから、血液検査。 尿検査は、なし。 1時間くらい待って、呼ばれました。 問題の肝臓数値は、前回よりは下がったとの事。 食前インスリン注射をやめてから、一週間と一日経っているので、原因は、インスリン注射だったのかというと、そうは決められず、一回 下がっただけでは、判断できないので、2週間後に、また検査して、続けて二回 下がっていたら、たぶん、それ、という事になるのだそうです。

  もう、鼠蹊ヘルニアの手術は、ほとんど諦めており、どうでもいいです。 とりあえず、今月末までは、その病院へ行くつもりでいます。



【2025/03/18 火】
  午後は、昼寝と、屋内歩行。 足が浮腫んでしまい、日に、13000歩は、歩き過ぎなのかも知れないと思って、今日から、10000歩に抑えました。 その分、食べる物を減らして、調整します。

  少しずつ暖かくなるに連れ、手足の角質化は、治り始めたので、薬やハンド・クリームを塗るのは、やめました。 それだけでも、随分、楽になりました。



【2025/03/19 水】
  足の浮腫みがひどく、今日も、屋内歩行を、1万歩に留めました。 夜になって、居間で炬燵に入っている間に、左足は、浮腫みが治まって来ましたが、右足は、依然、足首を曲げると痛むほど、浮腫んでいます。 原因が分からないから、困ります。



【2025/03/21 金】
  足の浮腫みは、一進一退。 ネットで調べたら、原因は、無数にあり得るとの事。 「塩分の摂り過ぎ」というのがあり、御飯にかけていたふりかけや、ゆで卵にかけていた胡麻塩をやめてみましたが、今まで、ずっとやって来た事であって、そんなのが原因とは思えませんなあ。

  基本的に、横になっている時間を長く取ると、浮腫みが和らぎます。 重力の関係で、それは、当然の事。 だからといって、朝起きた直後に、大幅に改善しているというわけでもないです。

  もう一つ、気温が高いと、楽になります。 こちらの方が、影響が大きいのかも。 暖かくなるようでいて、いつまでも、本格的な春の陽気にならないから、体が不調を起こしている感じもするのです。

「人間の体は、小宇宙だ」

  とは、よく言ったもの。 一旦、不調になると、原因を究明するのは、容易な事ではない、というか、真の原因なんて、分からない事の方が多いのかも知れません。



【2025/03/22 土】
  「米2 : 押麦1」の麦御飯にしてから、4ヵ月くらい経ちますが、母が、「白米が食べたい」と言い出したので、私のと母のを分けて炊く事にしました。 母のは、白米。 私のは、押麦10割です。

  で、今日の夕飯から、私の御飯を、押麦10割にしたのですが・・・、うーむ、米の御飯とは、全く別の食べ物ですな。 独特の香りがあり、プチプチする食感が面白いです。 粘着しないので、箸で食べると、少しずつしか、口に運べません。 その方が、食べでがある感じがして、食事制限をしている身にとっては、都合がいいです。



【2025/03/25 火】
  12時から、旧母自で、病院へ。 すぐに、血液検査。

  診察は、午後1時25分の予約だから、1時間前に着くように家を出たわけですが、なんと、予約時刻を間違えていて、内科受付の看護師さんから、「診察は、2時からですが、待合所で待ちますか」と訊かれてしまい、予約票を見直したら、2時半からでした。 約1時間も、早く来てしまったのです。 どういう勘違いの仕方をすれば、「2時半」が、「1時25分」になるのか、自分の認識能力が理解できません。

  病院内で待つのも不健康なので、自転車で外出。 近くにある、高齢者向けの公共施設に行き、出入り口外のベンチで、1時間を潰しました。 そんな所にいたのは、室内にある壁時計を見る為です。

  病院へ戻り、2時になると、すぐに診察室に呼ばれました。 私が、早々と来ていた事が伝わっていて、順番を早くしてくれたようでした。 まったく、内科は、いろいろと配慮してくれる。

  血液検査の結果、肝臓の数値は、AST、ALT共に、2週間前の半分に減っていました。 私としては、インスリン注射の、食前タイプをやめたのが、奏効したとしか思えませんが、肝臓専門の医師に言わせると、「何せ稀なケースなので、そうとも断定し兼ねる」との話でした。 「24時間タイプもやめたい」と、こちらから言ったら、「糖尿病専門の先生に訊くべきだが、患者本人の意思でやめる事もできる」と言われたので、そうする事にしました。

  インスリン注射は、最初の内は、「これのお陰で、高血糖を抑えられている」と、ありがたく思っていたのが、最近では、「これを打つたびに、肝臓が悪くなる」に変わってしまっていて、自ら毒を体に入れているような、嫌~な気持ちで、続けていたのです。

  今日は、1680円。 帰って、3時頃でした。 夕飯に間に合ったのは、良かった。 もっとも、3時半から食べるのは母だけで、私はお茶だけ飲み、6時から居間で食べるパターンなのですが。

  というわけで、今日から、24時間タイプも打つのをやめ、インスリン注射からは、解放されました。 血糖値計測は、続けなければなりませんが。

  一見、鼠蹊ヘルニアの手術に向けて、前進したかのようですが、その実、外科の方には、全く話が行っておらず、手術の目処が立っていない事に変わりはありません。 もう、通い始めてから、半年になろうとしているのに、なんともかんとも、どうにもこうにも、呆れた話ではありませんか。



【2025/03/30 日】
  火曜日に、インスリン注射を全てやめたわけですが、血糖値の方は、打っていた頃と、あまり変わりません。 つまり、私は、食事制限と運動療法だけで、血糖値対策が間に合うという事ですな。

  明日、病院へ行って、糖尿病専門医の診察を受けますが、肝臓数値との関係があるから、インスリン注射を再開しろとは言われないでしょう。 代わりに、薬を出すと言われるかもしれませんが、断ろうと思います。 薬のせいで、また、どこかおかしくなったら、困りますから。 どうしてもと言われたら、他の病院へ行くと言うつもり。



【2025/03/31 月】
  午前9時に、旧母自で家を出て、病院へ。

  血液検査、なし。 糖尿病医師と話をしただけ。 それだけの為に、この寒いのに、病院まで行ったのが、なんとも、馬鹿馬鹿しい。 インスリン注射を全てやめてから、一週間経ったので、肝臓の数値がどうなっているかを知りたかったのですが。

  インスリン注射を中止した事を伝え、事後承諾してもらいました。 インスリン注射が、私の肝臓に悪さをしている可能性が高くなったのだから、中止を認めざるを得ますまい。 幸い、代わりの薬も出ませんでした。 インスリン注射より、薬の方が、悪影響が出るケースが多いそうだから、出しようがなったのでしょう。 

  次は、来月の下旬。 そこで、肝臓の数値が悪化していたら、もう、その病院へ行くのはやめます。 そう、はっきり、言って来ました。 もっとも、その糖尿病の医師は、今日で終わりで、来週からは、別の医師に引き継がれるらしいのですが・・・。 どうも、不確かな事が多過ぎる。

  帰りも、寒い。 雨がポツポツ。 しかし、そんなに濡れませんでした。

  午後は、屋内歩行と、昼寝。 インスリン注射にも、薬にも頼らず、血糖値を抑えなければならないので、食後の歩行は、確実にやらなければ。 毎食後、2千歩は歩く事に決めようと思います。

  そういえば、数日来、歩き難いほど浮腫んでいた足が、今日は、だいぶ、楽になりました。 見た目の腫れも収まっています。 これはもしや、気温が下がったからなのでは? だとしたら、暖かくなれば、また、浮腫み始めるという事になります。 気温のせいではなく、自然治癒した方であって欲しいものです



【2025/04/02 水】
  インスリン注射を全面的にやめてから、血糖値が高めになっているので、今日から、一時間に一杯、ぬるま湯を飲む事にしました。 計測の寸前だけ飲むと、インチキ臭いですが、一日中、飲んでいれば、そういう生活習慣になるのだから、インチキではありません。

  で、今日の計測ですが、夕飯前の空腹時で、100。 久しぶりに、低めに出ました。 良し良し。



【2025/04/03 木】
  血糖値、昨日から、一時間に一杯、水か、ぬるま湯を飲むようしたわけですが、今日は、夕食後の計測で、129。 食後の正常値上限は、180ですから、充分に低いです。 インスリン注射も、薬もなしの数値ですから、価値があります。

  といって、健康になったかというと、決して、そうではないのであって、食事制限と運動療法をやって、この数値ですから、何もしなくても、正常値に収まる健康な人とは、やはり、違います。 「糖尿病は、一度なったら、一生 治らない」と言うのは、何もしなくても正常な血糖値の状態に戻す事はできないという事なんですな。




  今回は、ここまで。

  4月末には、病院通いをやめてしまうので、このシリーズの残りも、あと一回という事になります。 問題は、病院と縁が切れても、私の病気が治ったわけではない、という事ですな。 「病気は、医療機関にかかりさえすれば、治る」と、漠然と思って来たのですが、必ずしも、そうとは限らないわけだ。 「医療機関は、治せる病気しか、治せない」というのが、正解でしょうか。

2025/11/02

読書感想文・蔵出し (130)

  読書感想文です。 読書の現状は、高村薫作品の内、小説は、短編を残すのみになりましたが、短編集に纏められていないので、読みたくても読めません。 エッセイや時評で、単行本になっているのがあるので、ボチボチ、借りて来ていますが、小説ほどは、読み応えがないです。 感想は、そろそろ、他の作家のものが混じるようになります。





≪神の火 (1996年)≫

新潮ミステリー倶楽部特別書き下ろし
株式会社 新潮社
1996年8月20日 発行 1996年9月15日 2刷
高村薫 著

  沼津市立図書館に相互貸借を頼んで、菊川文庫から取り寄せてもらった、ハード・カバーの単行本です。 長編、1作を収録。 本文は、二段組み。 プロローグは、一段組み。 約522ページ。 1991年に、書き下ろされた作品が、文庫化された時に、全面的に改稿され、この本は、文庫版を元に、再度、発行されたものだそうです。


  日本人の母が、ロシア人の男と通じて産んだ、緑色の目をした子供は、長じて、原子力発電の技術者となる一方で、日本人である義父の知人の手によって、ソ連のスパイとしての教育を受けていた。 原発の仕事を辞めて、大阪の専門書輸入会社に勤めている時、ソ連から来た青年に会い、彼を助ける為に、再び危ない橋を渡る事になるが・・・、という話。

  1991年版と比べて、全面改稿されているとは言うものの、ストーリー的には、ほぼ同じ話でした。 特に、冒頭からしばらくは、全く同じ。 中盤から、書き改められた場面が出て来ますが、91年版の、約384ページから、522ページと、138ページも増えているにしては、ストーリーに変化が少ないです。 膨らませたのではなく、場面を差し替えたといった体裁。

  一番大きな違いは、青年が、主人公の息子ではなくなっている事。 それに関係して、青年の母親に対する、主人公の想いの部分も、ざっくり、なくなっています。 にも拘らず、日本人の父親から受け継いだ船の名前が、「イリーナ号」のままなのは、解せぬ感じ。 96年版だけ読んだ人は、「ここで、その名前を持って来るかね?」と、首を傾げるでしょう。 91年版の方なら、イリーナに関する記述が多いので、すんなり、頷けるのですが。

  なぜ、改稿されたかは、興味があるところで、特に良くなった点がないので、わざわざ、138ページ分も増やすほど書き換えた理由が分かりません。 一つ、確実なところでは、91年版の後、ソ連が崩壊し、東西対立の構図が消えてしまったのが、関係しているという事です。 ただし、話の背景になっている時代は、91年版と同じく、ソ連末期のままです。 世の中を騒がす大きな事件・事故に、敏感に反応する高村さんの事だから、ソ連崩壊を見ていて、【神の火】を崩壊前と同じままにしておく事ができなかったのかも知れませんな。

  ただし、改稿の理由は、それだけではないはずです。 この話、確かに、ソ連は関係して来るけれど、舞台は、ほぼ全て、日本国内ですし、どちらかというと、アメリカの情報機関の方が、露出が多いです。 ソ連のスパイは、むしろ、91年版より、出番が少なくなっています。 うーむ、分からん。

  出版社の都合ではないと思うんですがねえ。 「改稿すれば、また、単行本が売れるから」なんて、算盤勘定剥き出しの理由で勧めても、あの知性の塊みたいな高村さんが、承諾しないでしょう。 高村さん自身が、書き直したかったのは、間違いないです。 それにしても、良くなった点が見当たらない。 さりとて、特に、悪くなった点もないんですが・・・。

  というわけで、「どちらか一方だけ読むなら、どちら」といった勧め方ができ兼ねます。 借りて読むのであれば、両方 読んだら、どうでしょう。 なるべく、続けて読んだ方がいいです。 間が開くと、両者の違いが分からなくなってしまいますから。 そのくらい、ほぼ同じ話なのです。




≪空海≫

株式会社 新潮社
2015年9月30日 発行
高村薫 著

  沼津市立図書館にあった、ハード・カバーの単行本。 本文は、一段組み。 脚注あり。 巻末の対談だけ、二段組み。 約186ページ。 カラー写真のページが、全体の3分の1くらい、あります。 共同通信社が、2014年から、2015年にかけて、新聞社に配信した連載、【21世紀の空海】に、加筆したもの。


  真言宗の開祖、空海の、生涯の伝記。 没後の捉えられ方。 高野山が、いかにして、宗教都市になったか。 真言宗のその後、 現代の空海の捉えられ方。 などを記したもの。

  元々が、新聞連載用の短い文章なので、高村薫さんらしい、異様に詳細な内容を期待していると、肩透かしを食います。 カラー写真のページが多いせいもあって、読書習慣がある閑な人なら、一日で読めます。 簡単に読めるという意味で、空海について知る事ができる、お手頃感のある本になっています。

  と、一応、評価できるところを評価しておいて、ここから、正直な感想ですが、空海その人に関する元の資料が少ないようで、分かっている事が、大変、限定されています。 平安時代初期の人ですから、無理もないか。 個人の伝記なんて、ほとんど書かれておらず、歴史書の中に、名前がちらほら出て来る程度でも、マシな方だったのですから。

  開祖なのだから、真言宗の中では、きちんとした伝記が伝えられているのだろうと思いきや、真言宗では、空海が今でも生きているという解釈をしているくらいで、大昔から、伝説化してしまっており、精確な事は伝わっていない模様。 うーむ、宗教の開祖とは、そういうものなのか。

  というわけで、この本を読んでも、空海を、別段、凄い人だと思う事はできません。 中国留学中の挿話などから、一種の天才であった事は分かりますが、それが物を言っていたのは、生前の話であって、死後は、急激に忘れられ、高野山も、諸国行脚して浄財を集めた、高野聖(こうやひじり)という、宣伝マン達の活躍がなければ、存続できないほどだったとは、知りませんでした。

  巻末の、前高野山真言宗管長との対談ですが、二段組み、3ページの、ごく短いもので、あっという間に読み終わります。 双方で、自分の意見を述べ合っていて、話の噛み合いが今一。 高村さんは、相手に合わせて、その場限りで、相槌を打つというタイプではないのかも知れませんな。 ケース・バイ・ケースだとは思いますが。

  ところで、本文に付いている、脚注ですが、たぶん、高村さん本人が書いたものだと思います。 宗教の専門用語に関する事が多く、そんな事、編集者に分かるとは思えませんから。




≪落葉≫

新潮社
1980年1月25日 発行
G・ガルシア=マルケス 著
高見英一 訳

  沼津市立図書館にあった、ハード・カバーの単行本。 短編、7作を収録。 ただし、表題作の【落葉】は、中編と言ってもいい長さがあります。 一段組みで、全体のページ数は、198ページ。


【落葉】
(約126ページ 1955年)

  25年前に、マコンドの町に流れて来た医師を、数年間、居候させていた退役大佐の家。 首吊り自殺をした医師は、過去に治療拒否をした事で、町の人々の恨みを買っていたが、大佐は、周囲の白い目を無視して、医師の遺体を、町の教会の墓地に埋葬すべく、ゴリ押ししようとしていた。 大佐と、その娘、そして、孫の男の子の語りによって、25年の間に、医師や大佐の家に起こった事柄が、明らかになって行く話。

  なぜ、大佐だけが、医師の遺体の埋葬に積極的なのか、理由が分からなかったのが、だんだん、分かって来るという展開。 三人の語りが、ブツ切りで何回も重ねられていますが、これは、疑問がすぐに分かってしまっては、つまらないからでしょう。 逆に言うと、語り方だけが、この作品の特徴になっているのであって、話の内容は、大した事ではないです。

  ガルシア・マルケスさんの、処女作だそうです。 それにしても、126ページもあるのでは、短編とは言えませんなあ。 この本の半分以上を、この作品で占めているわけで、短編集としては、かなり、バランスが悪いです。


【世界中で最も美しい男の溺死体】
(約10ページ 1968年)

  小さな村の海岸に流れ着いた、大きな男の死体。 子供達のオモチャになっていたのを、大人が見つけて、仰天。 男達は、遺体を家に運び込んでから、近隣の村の者ではないかと、調べに散った。 女達は、遺体を綺麗にして、経帷子を作ったりしていたが、その男が、顔立ちと言い、体つきと言い、あまりにも立派なので、惚れ惚れと、熱を上げてしまい、男の素性について、様々な妄想を逞しくする話。

  子供向けに書かれた作品との事ですが、別に、それらしいところはありません。 女達が、立派な男と比べて、自分の亭主を貶すところなど、むしろ、子供には有害だと思います。 普通の子供は、両親は互いを大切に思いあっているものだと信じているでしょうから。 短いですが、ショートショート的な落ちはないです。


【大きな翼を持った老人】
(約12ページ 1968年)

  ある家の庭で、衰弱しているところを発見された、背中に翼をもつ高齢男性。 言葉は通じなかったが、外見から、天使に違いないと判断される。 一目見ようと、大勢の見物客が押しかけるが、人気は長く続かず、見世物興行の蜘蛛女に負けて、忘れ去られてしまう。 老人は、秘かに新しい羽根を生やし・・・、という話。

  これも、子供向けと断ってありますが、私が子供的感性を失って久しく、こういう話を、子供が喜ぶかどうか、ピンと来なくなってしまっています。 一応、結末はあるのですが、ショートショート的な意外性はないです。 「来て、騒がれて、忘れられて、帰った」だけ。


【ブラカマン 奇跡を行商していた善人の物語】
(約14ページ 1968年)

  毒蛇を使ってインチキ薬を売る露天商に、占い師志望として買い取られた少年。 インチキがバレて、二人して追われる身となり、隠れた場所で、露天商に虐待された結果、どんな病気も治せる魔力が身についた少年が、露天商に、最も残酷な方法で復讐しようとする話。

  非常に変わった文体で、句点が、ほとんど使われず、文章が数珠繋ぎになっています。 そのせいか、非常に、ストーリーが捉え難い。 最低でも、二回は読まないと、どういう話なのか、頭に入って来ません。 この梗概でも、まだ、読み取れてないところがあるかも知れません。

  有名にして、高名な作家だから、読み取れないのは、こちらの読解力が低いせいだろうと思いたいところですが、あまり、買い被るのも良くありません。 そもそも、ストーリーが、おかしくて、文字通り、話になっていないところがあるのです。 とにかく、読者に、強烈な印象を与えるのが目的で、そもそも、ストーリーを語る気がないのかも知れませんなあ。


【幽霊船の最後の航海】
(約10ページ 1968年)

  子供の頃、大西洋航路の大型船が、座礁し沈没するのを見た男。 毎年、同じ月に出現する幽霊船を、数年後に捉える事に成功し、誘導して、港町へ突っ込ませる話。

  この作品も、文章が数珠繋ぎになっていて、非常に、ストーリーが捉え難いです。 何度か読み返さないと、何が言いたいのか、分かりません。 分かってみると、大した話ではない点も、同じ。 そもそも、どうして、幽霊船を町に突っ込ませるのか、主人公のつもりが分かりません。


【イサベルの独白 マコンドに降る雨を眺めながら……】
(約12ページ 1955年)

  【落葉】と、登場人物を共有しています。 大佐の娘が視点人物の、一人称。 まだ、若い頃で、夫が同居しています。 長雨が続いて、洪水になり、大佐の家が床上浸水する話ですが、それだけの事でして、これまた、ストーリーを楽しむ小説ではないです。 私小説になら、似たような趣向の物があるかもしれませんが、それにしても、読者の興味を引くような事が、何も起こらんな。


【ナボ 天使に待呆けを食わせた黒人】
(約14ページ 1951年)   

  馬の世話係をしていた、中南部アフリカ系の少年が、手に入れた櫛で、馬の尻尾を梳いてやったら、後足で頭を蹴られて、おかしくなってしまった。 部屋に閉じ込められて、食事だけ差し入れられながら、誰とも顔を合わせないまま暮らしていたが、ある時・・・、という話。

  処女作は、【落葉】のはずですが、こちらの方が古いですな。 発表した作品の最初が、【落葉】という事でしょうか。

  閉じ込められた時に、少年だったのが、部屋から出た時には、大人になっていたというのが、怖い。 トイレとか、風呂とか、どうしていたんでしょう? おかしくなったのなら、病院に入れれば良かったのに。 もっとも、日本でも戦前までは、座敷牢が、普通に使われていたわけですが。

  作者が若い頃の作品だけあって、ストーリー展開は、分かり易い方です。 それでも、普通の小説に比べると、充分、分かり難いですけど。 天使らしき人物が出て来ますが、オカルトと取るべきか、主人公の幻覚と取るべきか、微妙なところ。




≪64(ロクヨン)≫

株式会社 文藝春秋
2012年10月25日 第1刷発行
2012年12月 5日 第4刷発行
横山秀夫 著

  沼津市立図書館にあった、ハード・カバーの単行本。 長編、1作を収録。 一段組みで、644ページ。 分厚い。 元は、2004年に、別冊文藝春秋に、数回、掲載され、その後、途絶えていたのを、全面改稿して、2012年に、単行本化したもの。 先に、映画版を見て、見応えがあったので、原作小説はどんなものかと、興味を抱いて、借りて来た次第。 以下の梗概は、映画版の感想で書いたものです。


  7日間しかなかった、昭和64年(1989年)に、ある県で起こった小学生女児誘拐事件は、身代金を奪われ、人質が殺された上に、犯人を逮捕できないまま終わった。 時効まで1年となった平成14年(2002年)、事件の捜査に当たった刑事は、警務部に異動になり、広報官になっていた。 警察庁長官が、被害者遺族を訪ねる予定が組まれ、その許可を取りに、家に赴くが、女児の父親にとって、事件はまだ終わっていなかった・・・、という話。

  原作を読んだら、映画は、原作に極めて忠実に映像化している事が分かりました。 エピソードの順番が入れ替わっているところがあるのと、結末が違う点を除けば、ほぼ、そのままです。 結末が違うといっても、推理小説の映画化でよくある、犯人を変えてしまうといった、乱暴・粗雑なものではなく、原作では、犯人が犯行を認めるところまで行かないのに、映画では、エピソードを追加して、そこまで描いたという程度の違いです。 この追加は、必ずしも蛇足にはなっておらず、観客に、スッキリした気分で見終わらせる効果を狙ったのでしょう。

  三人称ですが、終始、主人公を視点人物にして、彼の、目で見たもの、耳で聴いたもの、頭で考えた事を、細かく書き綴っており、心理小説と言ってもいいくらいです。 推理小説のファンの中には、こういうのを好む人もいるでしょうねえ。 本格では味わえない、ボリューム感を堪能できます。

  犯罪小説というよりは、警察小説でして、この作品の場合、警察とマスコミの確執を描くのが、主な目的になっているようです。 交通事故や、新旧二つの誘拐事件は、そのダシとして使われているわけだ。 もう一つ、県警刑事部長の人事問題は、警察庁と県警の争いですが、マスコミ問題と、うまく融けあっておらず、どちらかを本体と見ると、もう一方が、尾鰭に見えてしまい、ストーリーの統一性を損なっているような気がしないでもなし。 主人公の視点のみで語る話だから、そう感じるだけで、大河小説なら、統一性など、気にならないのですが。

  それにしても、これが、警察組織の実態なら、ひどいものでして、こんな権力闘争の内輪揉めばかりやっている組織に、まともな仕事ができるとは思えません。 ピラミッド型の組織にするから、こんな事になるのであって、もっと、縦の階梯を減らし、横に広い組織に作り変えた方が、いいのでは?

  県警内に於ける、主人公のライバル、二渡という人物ですが、他人の心の裏の裏まで読んで、多くの人間を、本人に気づかれないように、巧みに操り、躍らせ、途中経過は問題にせず、最終目的を達成しようとするタイプ。 一見、大変、知能が高い人物のようですが、その実、こういう腹に一物も二物もある人間は、周囲から警戒されて、信用されません。 同僚や部下はもちろん、上司からも、「何を考えているか分からない、怖い奴」と思われてしまったのでは、重要な仕事など、任せてもらえますまい。

  スパイ物では、こういうタイプが、悪玉側の首領になっている事が多いですが、大勢の人間が関わる問題では、不確定要素が多過ぎて、物語のように うまくは行きません。 「オッカムの剃刀」という考え方があるように、現実の社会を見れば、ずっと単純に事が進んでいるのが分かるはず。 創作作品に、こういうキャラが出て来ても、本当にいると思わない方がいいです。 よしんば、いたとしても、一生に一人、見られるかどうか、という程度の割合でしょう。 そして、その人は、決して、いい人生を歩んでいないと思います。




  以上、4冊です。 読んだ期間は、2025年の、

≪神の火 (1996年)≫が、7月23日から、25日。
≪空海≫が、7月30日から、8月2日。
≪落葉≫が、8月9日から、11日。
≪64(ロクヨン)≫が、8月23から、26日。

  ここのところ、図書館から借りて来て、一週間以内で、バタバタっと読んでしまい、貸し出し期間二週間の残りは、何も読まずに過ごす、というパターンが続いています。 どうも、読書が重荷になっている感あり。

  健康不安から、終活に取りかかり、溜めてあった、通知などの郵便物や、現役時代の勤め先の書類などを処分し始めているのですが、そちらを早く片付けてしまいたくて、ますます、読書に割く時間が惜しくなっています。 そんなに焦らなくても、ボチボチやればいいと、頭では分かっているんですが、母親譲りのせっかちな性格が、そうさせてくれないのです。

2025/10/26

EN125-2Aでプチ・ツーリング (73)

  週に一度、「スズキ(大長江集団) EN125-2A・鋭爽」で出かけている、プチ・ツーリングの記録の、73回目です。 その月の最終週に、前月に行った分を出しています。 今回は、2025年9月分。





【伊豆の国市四日町・元韮山町役場付近】

  2025年9月2日。 伊豆の国市・四日町にある、元韮山町役場付近に行って来ました。 1987年発行の都市地図に、韮山町役場として載っていたのですが、その後、合併して、伊豆の国市になっており、役場の跡がどうなっているのか、興味が湧いたのです。

≪写真1≫
  こうなっていました。 「JAふじ伊豆 伊豆の国地区本部 韮山支店」。 ネット情報によると、元役場の建物は解体されたようなので、この建物は、建て直したんでしょう。

≪写真2≫
  すぐ西側にある、大きな建物。 博物館のような雰囲気ですが、入り口がある裏側へ回って、名前を見たら、「厚生年金・国民年金 積立金還元施設 福祉保健センター」となっていました。

≪写真3≫
  近くの道に停めたEN125-2A・鋭爽。 背後に、水田。 高圧電線の鉄塔。 そして、雲の上に顔を出した、夏の黒富士。

≪写真4≫
  育ちつつある、稲。 今年の夏は、猛暑で、渇水の所も多かったのですが、この辺りは、そうでもなかった様子。 韮山近辺は、昔から穀倉地帯でして、米の生産量が多い。 それが、前後北条氏の経済力の背景になったのだと、私は思っています。




【伊豆の国市韮山山木・平兼隆館跡案内板】

  2025年9月8日。 伊豆の国市・韮山山木にある、「平兼隆館跡案内板」を見て来ました。 ネット地図に出ていた史跡。 案内板以外、何もない事は、ネット情報で知っていたんですが、周囲がどんな感じになっているのか、見に行ったのです。

≪写真1≫
  これが、平兼隆の館があったと思しき場所。 何も残っていません。 源頼朝が、北条氏一党に担がれて、打倒平家の旗揚げをした時、最初に襲撃した所です。 この場所、北条氏の館があった、守山の麓から、徒歩で、1時間くらいでしょうか。 大昔の襲撃には、リアルな距離ですな。

≪写真2左≫
  ≪写真1≫の右の方に、緑色のフェンスが写っていますが、そのフェンスの端に掲げられていた、案内板。

「← この先の高台一帯が 平兼隆館の跡です」

  バイクで、高台に上ってみましたが、普通の住宅地でした。

≪写真2右≫
  坂の下に停めた、EN125-2A・鋭爽。 住宅地なので、道が狭く、車が来ないか、ヒヤヒヤでした。 この場所に、車で来るなら、江川邸の駐車場に停めて、歩いた方がいいです。

≪写真3左≫
  近所の家で咲いていた、カンナの花。 「ベロンチョ」という感じ。

≪写真3右≫
  同じく、百日紅(サルスベリ)の花。 日射しが強過ぎるせいなのか、角度が悪いのか、色が出ません。 現物は、もっと鮮やかな赤でした。

≪写真4≫
  近くにある観光名所、「江川邸」の正門。 韮山反射炉を造った韮山代官、江川英龍(江川太郎左衛門)の屋敷ですが、江戸時代までは、敷地内に、「韮山代官所」もありました。 有料になってから、入った事がありません。 昔 入った時の記憶だと、武家屋敷というより、豪農の家という感じでした。 もっとも、私が見れたのは、見学可能な部分だけだから、そう思ったのかも知れませんが。




【伊豆の国市寺家・願成就院】

  2025年9月15日。 伊豆の国市・寺家にある、「願成就院」へ行って来ました。 「がんじょうじゅいん」と読みます。 韮山では、「江川邸」、「反射炉」の次に有名な観光地。 鎌倉幕府の初代執権、北条時政が建立した寺です。 2008年5月に、折自で来た事があります。 国道136号線を南下して行くと、西へ曲がる出入口に、案内看板がありますから、すぐに分かります。

≪写真1≫
  出入口の道路を入って行くと、山門の前が広くなっています。 左へ行くと、駐車場があります。 右の奥には、「守山八幡宮」の鳥居が見えます。

  この道だったと思うのですが、2008年に来た時には、看板が立っていて、「大河ドラマ ≪草燃える≫のロケ地」とありました。 1979年の放送ですから、大昔です。 息の長い看板でした。 ≪鎌倉殿の13人≫の時に、撤去されたのではないかと思います。

  願成就院は、拝観料、あり。 大人、800円。 中高生・400円。 小学生・200円。 25名以上の団体の場合、半額。 毎週、火・水曜が、休館。 拝観時間は、10時から、16時。 ここまで、細かい情報は、不要か。 自分が入りもしなかったくせに。 ちなみに私は、有料の施設には、まーず、入りません。

≪写真2≫
  駐車場の先にある、「願成就院跡」。 ややこしいですが、創建当時の願成就院は、現在のそれより広大な敷地をもち、建物も多かったらしく、この場所には、塔があったとの事。

≪写真3≫
  山門の横に停めた、EN125-2A・鋭爽。 つくづく、お寺などの史跡には、スポーツ・バイクが、よく似合う。

≪写真4左≫
  136号線と、山門の中間あたりに、石の標柱がありました。 「国寶 旗揚不動尊」。 そういう像が、寺の中にあるのでしょう。

≪写真4右≫
  近くの住宅の庭に咲いていた、芙蓉の白。 普通は、ピンク。 白は、珍しいです。




【伊豆の国市四日町・田方消防訓練場】

  2025年9月23日。 伊豆の国市・四日町にある、「田方消防訓練場」へ行って来ました。 元韮山町役場付近に来た時に、見つけた所。 一面の水田地帯の中に、ビルを模した塔が建っているので、遠くからでも、よく見えます。 名前の通り、消防士が訓練をする施設。 「田方(たがた)」というのは、この付近の広域を指す地名で、郡名にもなっています。 たとえば、韮山は、以前、「田方郡韮山町」だったわけです。

≪写真1左≫
  ビルを模した塔。 縮尺が書いてあって、16メートルまで、目盛りがあります。

≪写真1右≫
  これも、訓練用だと思います。 津波避難タワーのように見えますが、この近辺は、海から遠いので、津波の心配はないです。 狩野川が氾濫して、大水が出た時には、避難できるのかも知れませんが、登れる人数は限られていますな。

≪写真2≫
  周囲の水田。 収穫が近く、米がたわわに実っていました。

≪写真3≫
  訓練場の出入り口前、側溝をまたぐ橋の上に停めた、EN125-2A・鋭爽。 む! 撮った時には気づきませんで下が、改めて見ると、この角度は、カッコ良く見えますな。 ちなみ、このEN125-2Aは、2010年頃に作られたものですが、1980年代・90年代のデザインを模しています。 レーサー・レプリカが流行った80年代にも、丸1灯の普通のバイクには根強い人気があり、90年代に入って、レプリカが、普段使いし難い事で、敬遠されるようになると、主流になりました。

  往路の事ですが、大平トンネルに入る直前で、バイクのエンジンが止まりました。 ランプ類が全消なので、バッテリー端子だと思い、車載工具のプライヤーで、端子を締めている結束バンドを、更にきつく締めつけたら、通電しました。 ツーリングを続行。 それ以後は、エンジン停止はありませんでした。

  帰ってから、結束バンドを切って捨て、一回り太目の結束バンドで、締め直しました。 ハンダづけするのが本道ですが、面倒で、やる気になりません。 結束バンドで間に合っている間は、それで行こうと思います。

≪写真4左≫
  施設内から、側溝に出ていた、太いパイプ。 直径50センチくらい。 何を流すんでしょう?

≪写真4右≫
  これは、韮山ではなく、帰り道に、江間の水田脇に咲いているのを撮った、彼岸花。 この日は、彼岸の最終日でした。




【伊豆の国市南條・伊豆震災殉難者慰霊碑/狩野川台風殉難者慰霊碑】

  2025年9月28日。 伊豆の国市・南條にある、「伊豆震災殉難者慰霊碑/狩野川台風殉難者慰霊碑」へ行って来ました。 伊豆長岡の、狩野川に架かる千歳橋の右岸袂、下流側にあります。 千歳橋は、これまでに、何十回も渡っており、ここに石碑らしきものがあるのは知っていたのですが、何の碑なのかは、確かめていませんでした。

≪写真1≫
  石碑群ですな。 まだ、新しい感じですが、台座には、「昭和49年9月26日」と記してあり、1974年ですから、もう、51年も前です。 こんなに綺麗に維持できるものなんですねえ。 向かって左から、

・ 伊豆震災殉難者慰霊碑 (昭和5年11月26日)
・ 交通災害者慰霊碑(昭和50年5月)
・ 仏像
・ 狩野川台風殉難者慰霊碑 (昭和33年9月26日)
・ 狩野川台風50周年慰霊碑 (2008年9月)

≪写真2左≫
  台座を別にしている、「狩野川台風50周年慰霊碑」。 このオブジェは、何を表しているんでしょう? 飛行機? 波の上に、船?

≪写真2右≫
  近くで咲いていた、彼岸花。 もう、盛りは過ぎたらしく、白っぽくなっている花が、半分くらい ありました。

≪写真3≫
  伊豆長岡の、駅と温泉街を結ぶ、千歳橋。 手前のトラス構造部分は、歩行者・自転車橋です。 車道橋は、鉄骨アーチ橋で、アーチの頂上部分が、少し見えています。

≪写真4≫
  石碑群の横に停めた、EN125-2A・鋭爽。 傾斜地ですが、うっかり、下向きに進入してから、エンジンを切ってしまい、下りて方向転換するのに、一苦労しました。 傾斜地に停める場合は、上向きにしないと、サイド・スタンドが外れてしまう恐れがあるのです。

  センター・スタンド? それは、傾斜地では、上向きでも下向きでも、やめた方がいいです。 バイクが重くて、下向きだと、かけられませんし、上向きだと、外せなくなります。




  今回は、ここまで。 現・伊豆の国市の中でも、旧・韮山町を目的地にしました。 出かける間隔が一定しないのは、専ら、天気の関係です。 なるべく、週の初めに出かけるようにしているのですが、雨では、日延べせざるを得ません。 言うまでもない事ですが、合羽を着て出るなど、プチ・ツーリングの道に反します。 通勤ではないのですから、

  他に、やる事があって、なかなか、出かけられない場合もあります。 9月の下旬は、国勢調査の訪問が来るのを待っていて、強か、予定を狂わされました。 5年前は、9月16日に来たのに、今回は、9月26日と、十日も遅れたのです。 私が、どれだけ、ヤキモキさせられたか、分かっていただけるでしょうか。

2025/10/19

時代を語る車達 ⑯

  出かけた先で撮影した車の写真に、個人の感想的な解説を付けたシリーズです。 正直に白状しますと、このブログの、レギュラー・シリーズを埋める為だけに、せっせと、出先で、車を撮影している次第。





【ホンダ・初代 N-ONE】

  バイクで出かけた時、コンビニに停まっている車を、道路から撮ったので、角度が悪い上に、遠いですが、ホンダ・初代 N-ONEです。 調べた事はありませんが、「エヌ・ワン」と読むんでしょうな。 Nシリーズ全てに言える事ですが、どうも、あまり、いい名前ではありませんな。 しかし、ただの記号名よりは、覚え易いです。

  初代は、2012年から、2020年まで。 現行は、2代目ですが、鉄板部分は、初代も2代目も同じらしいです。 昔だったら、ビッグ・マイナー・チェンジにすら当たらない変更なので、初代、2代目と分けるべきなのかどうかも疑問。 この写真の車は、たぶん、初代だと思います。 後ろバンパーだけを手掛かりに、判断したので、自信はありませんが。

  こういう形が好きな人の気持ちは良く分かる。 ちょっと、レトロっぽくて、フィアットの、NUOVA 500あたりを、想起させるからでしょう。 特に、40歳以下の世代は、そう思うはず。 しかし、私の世代の目には、ミラ・デザインの亜流にしか見えません。 ダイハツ・ミラの、初代から、3代目までの形を指します。 かつて、超名作、初代トゥデイ(丸灯)をデザインしたホンダが、2010年代になって、ミラ・デザインに走ってしまったのは、情けないとまでは言いませんが、残念なところ。

  しかも、この車、セミ・トール・ワゴンに分類されるらしく、背が高い。 1610ミリもあるんですな。 1395ミリの、3代目ミラと比べると、バランスが狂っているように見えてしまうのは、そのせいでしょう。 つくづく、軽自動車の世界では、「ふくらませ病」が蔓延しておりますな。 馬鹿馬鹿しい。 室内高が、10センチ高くなったからといって、どれだけ、乗り易くなると言うのよ? 車は重くなり、運転はつまらなくなるだけです。 広い車内が欲しい人には、N-WGNや、N-BOXがあるのだから、中車高の車まで、膨らませる必要はないと言うのよ。

  「今時、背が高くなければ、売れない」というのは、完全な錯覚であって、いいデザインならば、中車高でも、充分、売れます。 ミライースが、好例です。 レトロに走る必要もありません。 レトロ・ブームなんぞ、とうの昔に過ぎ去っているのであって、わざわざ、レトロ風の現行・新車を探している客が、たくさんいるとは、とても思えない。 メーカー側の錯覚なのです。 その考え方では、背も高くなく、レトロ風とは無縁のミライースが、なぜ売れているかを、説明できないでしょうに。

  話を、N-ONEに戻します。 この写真では分かりませんが、フロントの、ヘッド・ライトとグリルのグラフィックがねえ・・・。 私の世代だと、ああいう形を見ると、≪天才バカボン≫に出て来る、お巡りさんの、「つながり目」を思い浮かべてしまうのです。 マツダや日産でも、そういうのがありましたが、なんで、左右のライトを繋げたがるのか、動機が分からない。 車のフロント・デザインが、人間や動物の顔に相当するイメージで捉えられるのは、車のデザイナーでなくても、誰でも知っている事だと思いますが、目が繋がっているのは、漫画の狸か、バカボンのお巡りさんくらいのもので、それらに似せる事に何か利点があるんですかね? 大いに、解せぬ。 

  まーた、貶してしまったなあ。 現行車ではないけれど、現行の2代目も、あまり変わっていないわけで、やはり、貶すのは、いかんなあ。 ホンダも、新しいデザインを思いつかないのなら、初代トゥデイ(丸灯)を、フォルムはそのまま、現行規格のサイズに拡大した上で、5ドアにして出したら、どうですかね? ・・・と、こんな提案が、金輪際、受け入れられないのは、百も承知の上で言っているわけですが・・・。




【ホンダ・5代目ライフ】

  ホンダの、5代目ライフです。 2008年から、2014年まで、生産・販売されていた車型。 ライフは、この代で終わり、後継車種は、N-WGN(エヌ・ワゴン)になりました。 ちなみに、ライフの初代は、1971-74年に、360ccで出たもの。 だいぶ間が開いて、1997年に、2代目が出ますが、名前を受け継いだだけで、トール・ワゴンとなり、以降、5代目まで、そのカテゴリーで続きます。

  うちには、母の二台目の車として、新車で買った4代目ライフがあったのですが、2008年に、母が車の運転をやめ、その後、私が休日に乗っていたものの、翌2009年には、売却してしまいました。 5代目が出てから売ったので、値段が、ガクンと下がってしまったのですが、その事に気づいたのは、ずっと、後になってからです。 当時、車からは興味が離れていて、5代目が出ても、注意して観察する事はありませんでした。

  ライフは、2代目のデザインが良くて、2016年に、父を病院へ送迎する為に、中古車を買わなければならない事態に至った時、第一候補にしていたのですが、諸般の事情で手に入らず、急いでいた事もあり、中古車店にあった、セルボ・モードを買ったという経緯があります。 デザイン的には、うちにあった4代目も、独自性が強くて、レベルの高いものでした。

  で、この5代目ですが、4代目をベースに、手直しを加えたという印象です。 4代目よりは、角ばっていますが、程良い角ばり方と見るか、中途半端と見るかは、人によって異なるでしょう。 私には、中途半端に見えますが、さりとて、目くじら立てて扱き下ろすほど、悪いとも思いません。 トール・ワゴンとして、良く言えば、普通、悪く言えば、普通過ぎで、印象が薄いです。 特に興味がない場合、この5代目ライフと、初代N-WGNの見分けがつかないという向きもいるのでは?

  この写真の車は、後期型のようですが、前期型よりは、フロント・マスクのデザインが良いです。 特に、グリル付近がカチッとしていて、好ましい。 だけど、その点も、個性という基準で見ると、退歩して、「普通」になってしまったという感じもします。 難しいところですな。 




【三菱・8代目ミニカ】

  三菱の、8代目ミニカ。 1998年から、2011年まで、生産・販売されていた車型。 ミニカは、この代で終了しました。 あまり、印象に残っていないという人も多いと思いますが、同時期に、三菱では、初代・2代目の、ekワゴンを売っていて、そちらが大ヒットしていたせいで、ミニカは、日陰の存在になってしまっていたのです。

  この写真の車は、前期型のようです。 中期型以降、グリル周辺が変わるのですが、前期型の方が、いいデザインだと思います。  3ドア、4ナンバーなので、ボン・バン。 ボン・バンは、大変、安価な値段で売っていたらしく、その点は、好ましい。 やはり、軽は、本体価格・維持費、共に安くなければ、積極的に選ぶ意味が損なわれますから。

  デザインは、古臭いところも、斬新過ぎるところもなく、標準的。 ミニカは、4代目までは、見るに耐えぬ、醜悪なデザイン。 それ以降、脱皮して、5・6・7代目と、特徴的なデザインが続いていたから、この8代目が出た時には、「悪くはないが、何とも、地味である事よ」と思ったものです。 しかし、今から振り返ると、こういう、標準と言えるデザインこそ、優れていたんですな。

  個人的な趣味で言わせてもらいますと、このヘッド・ライトの切り方が、素晴らしい。 センスがないと、こういう形は、なかなか作り出せません。 この写真では分かりませんが、リヤ・コンの形もいいんですよ。 そういうのが得意なデザイナーが担当したんでしょうなあ。 7代目から微かに受け継いだと思われる、前窓から屋根にかけての適度な丸みも、心憎い。

  強いて、難を探せば、Cピラーが、逆台形になっている点が、少し引っ掛かりますが、ダイハツ・MAX(2001年~2005年)ほどの違和感は覚えません。 逆台形を、順台形にしたら、印象の安定度は増すと思いますが、個性は減ずるので、痛し痒しといったところでしょうか。

  「安かったから、下駄代わりに、乗っているだけ」というオーナーの方もいるでしょうが、どうしてどうして、今時のトール・ワゴンや、ハイト・ワゴンなど、相手にもならないくらい、レベルの高いデザインだと思いますよ。 お洒落を狙った、特殊な車ではないからこそ、このデザインには、価値があると言えます。




【三菱・2代目ekワゴン】

  三菱の、「ekワゴン」ですが、これは、2006年から、2013年まで生産販売されていた、2代目です。 2001年から、2006年までの、初代の方が、強く記憶に残っている人が多いと思いますが、代変わりはしたものの、外見は、ほとんど変わらなかったとの事。 昔だったら、マイナー・チェンジの内ですな。 ほとんど変わらなかったのに、なぜ、この写真の車が、2代目だと分かるのかと言うと、左の後ろドアが、スライド式になっているから。 これは、初代にはありませんでした。

  名前に、「ワゴン」が入っているから、トール・ワゴンのようですが、全高は、1550ミリで、現行アルトより、少し高い程度。 そもそも、この車の外観を見て、背が高いという感じはしません。 「セミ・トール・ワゴン」と言うべきなのかも知れませんが、私は、そういう細かいカテゴリー分けを、あまり、いいとは思いません。 背を高く見せないというのは、私に言わせれば、デザインが優れている証拠ですが、昨今の「膨らませブーム」に毒されている向きには、逆の考え方をする人達も多そうですな。

  初代は、車のデザインに興味がない人でも、ハッとさせられたような、優れたデザインでした。 切り餅を大小二つ重ねただけのような、シンプルな形なのに、どうして、あんなに美しく感じるのか、不思議でした。 この2代目も、事情は同じですが、グリルを弄ったせいで、シンプルさが、若干 減じています。 だけど、どこかしら変えなければならないとなれば、グリルが対象になってしまうのは、致し方ないですな。

  この車、持ち主を、センスが良い人と思わせますが、不思議な事に、「標準」も感じさせるのです。 誰が乗っていても、おかしくないような普遍性を、このシンプルなデザインが醸し出しているんですな。 この時期の三菱の軽は、デザインのレベルが高いわ。 特に、初代・2代目のekワゴンには、車に対する哲学すら感じさせます。




  今回は、以上、4台まで。

  出先では、車だけでなく、オートバイも目にするわけですが、滅多な事では、撮影する気になりません。 私は現役時代、バイク通勤を、20年以上していたので、乗るのであれば、車よりも、バイクの方が好きなのですが、他人が乗っているバイクの車種には、ほとんど、興味がないのです。 バイクは、車以上に、「乗って、ナンボ」の道具でして、どの車種を選ぼうが、その人の勝手だと思っています。