叔父さん、万歳!
今回は、先週他界した私の母の弟、つまり、私の叔父さんの人生について、ちょっと書かせて貰います。 ここを読んでいる人達にとっては、顔も知らない全くの赤の他人ですから、興味が湧かないとは思いますが、まあ、大目に見てやって下さいまし。 そんなに親しくしていたわけではありませんが、血縁者が一人世を去ったのは事実で、私にとっては結構な重大事なのです。 今書いておかないと、叔父さんの記憶が遠くなって、書く気が失せてしまいますし、叔父さんの関係者で、この種の文章が書ける者といったら、私しかいません。 誰かが書かなければ、叔父さんの存在そのものが無かった事になってしまうような、言いようのない不安を感じるのです。
叔父さんの葬儀が、あまり悲しい雰囲気にならなかったのには、わけがあります。 実は、叔父さん、30年くらい前に、大きな失敗をやらかし、それ以来、親戚一同から、少し色のついた眼鏡で見られていたのです。 家産を注ぎ込んだ事業で躓いて、家を潰してしまったんですな。 今でこそ、破産した人間や、借金で首が回らない人間など珍しくもありませんが、当時は、親戚中の顰蹙を買うような重大事でした。
学校を出て、しばらく会社勤めをした後、親から相続した家屋敷で鉄工場を始めたのですが、順調だったのは最初の十数年だけでした。 アメリカへの輸出の為に投資した直後、為替相場の自由化にぶつかり、大損して、何もかも失ってしまったのです。 しかも、当人は逐電してしまって、その間に、母親、つまり、私から見ると母方の祖母ですが、それが他界するという、重ね重ねの不幸。 小さなアパートに引っ越していた家族は、筆舌に尽くし難い苦難を味わう事になりました。 大阪の方に身を隠していた叔父さんは、虫の知らせを感じたと言って戻って来ましたが、母親がすでに骨になってしまった事を知った時のショックはいかばかりだったか。
その後、再び家族と暮らすようになり、住居を転々としつつ、いろんな職業についていました。 アイスクリームのルート配送をしていた頃には、よく、うちにアイスを持って来てくれて、甘い物好きの私には、大変ありがたい存在でした。 10年くらいして、さんざん苦労させた奥さんとの亀裂が限界に達し、離婚しました。 子供二人は奥さんについて行き、叔父さんは一人に。 山の中に家を借りて、また鉄工の仕事をやろうとしましたが、もうだいぶ歳を取っていたし、バブル崩壊の後だったので、そんなに仕事も来ず、最後には、近くのゴミ焼却場でバイトのような事をして、糊口をしのいでいたようです。
事業で失敗したのは、運が悪かった事が大きいのですが、叔父さん自身も、性格的に事業家に向いていなかったんですな。 ただ、親戚に金の事で迷惑をかけるといった事は無かったです。 強いて言うなら、私の母が相続権を放棄して、家屋敷を全て叔父さんの名義にしていた為に、母まで親の財産を全て失う事になってしまった点が、被害といえば被害です。 しかし、元はといえば、母がホイホイくれてやったからそうなったのであって、今更そんな事を言っても、後の祭ですな。
性格はくだけた人で、冗談もよく言い、同年代の親類からは好かれていたようです。 「失敗はしたけど、人柄はよかった」という、微妙な評価だったんですな。 ただ、甥である私や兄から見ると、可愛がられたという記憶は無いです。 叔父さんにも息子がいて、私達兄弟と同年代でしたから、子供なんか珍しくもなく、甥に可愛いさなど感じなかったのかもしれません。
兄が中学の頃、叔父さんの鉄工場に一日だけバイト行った事がありますが、甥だからといって、全く甘い顔は見せなかったようです。 今でも覚えていますが、その日の昼頃に兄から電話があり、「軍手を持って来てくれ」というので、私が自転車で届けに行きました。 すると、昼休みなのに工場で兄だけが働いていました。 おそらく、与えられた仕事が午前中で終わらず、必死で取り戻そうとしていたら、軍手が破れてしまい、休み時間に働いている手前、叔父さんに軍手をくれとも言い出せず、泣きの涙だったんでしょうな。 結構しぶとい兄がその日だけでやめてまったところを見ると、ほんとにきつかったのだと思います。
叔父さんは、メジロを飼ったり、金魚を増やしたり、犬と一緒に暮らしたり、相当な動物好きでした。 金魚は、私も分けて貰った事があります。 「3匹ください」と言ったら、大きなビニール袋に稚魚をどっさりよこして、数えてみたら、50匹も入っていました。 いやはや、あの時は参りましたわ。 60センチ水槽を一つしか持っていなかったので、もう一つ買い足し、それでも足らずに、衣装ケースを改造して簡易水槽にして、むりやり飼っていたのですが、その内、ポツポツと死んで行き、3年くらいしたら、たった3匹になっていました。 「もしや、叔父さん、こうなる事を見越して、50匹くれたのかな?」と、恐れ入りかけましたが、その後、その3匹も世を去り、私の深読みし過ぎであった事が判明しました。
叔父さんは、私が金魚を貰ってくれた事が嬉しかったらしく、金魚達が少し大きくなった頃に一度家に来て、「ありがとね」と、照れ臭そうに私に言いました。 自分の趣味を甥っ子が理解してくれたと思っていたのでしょう。 実は、私の本心としては、動物を増やす趣味には、あまりいい印象を抱いていないのですが・・・。 たとえば、金魚を増やしている人というのは、形のいい個体を残す為に、規格外の個体をみんな下水に流してしまうわけですが、私にはそういうのが、ちょっと耐えられないのです。
叔父さんは、金魚の件で、私にいい印象を抱いたらしく、それから間も無く、なんと、縁談を持って来てくれました。 相手はゴミ焼却場で働いていた時に知り合った産廃業者の娘さんでした。 もう見合い話など流通しなくなっていた頃でしたから、私としては大変ありがたかったのですが、叔父さんが、「産廃業者だが、違法な物も処分する事がある」などと言ったものだから、母が拒絶反応を示し、「親がそんな人じゃ、しょうがない」と言って、断ってしまいました。 今になっても、あの話は惜しかったと思っています。 なんで、当人が返事をする前に断るかね? 誰の人生だよ。
ちなみに、縁談の仲介者というのは、一度断られると、二度と話を持って来てくれません。 まあ、当たり前だよね。 せっかく、労を取ってやろうとしたのに、返す言葉で拒否されては、ムカつきもしようってもんだわさ。 叔父さんも、その例に漏れず、それ以降、うちに訪ねて来る事さえなくなってしまいました。
うちの母は、母方の親類の集まりでは顔を合わせていたようですが、それも数年前からは疎遠になっていました。 ある年の祖父母の法事の際、叔父さんは一円も持参せず、母にだけ供養料を出させた事にカチンと来て、「あいつには呆れた」と言って、会わなくなってしまったのです。 叔父さんも悪いですが、母も短気な判断をしたもので、私から見れば、「供養料なんか、一人出せば充分だ」という考え方が、いかにも叔父さんらしいと思うのですが、結局、母と叔父さんは、それっきり近寄らなくなり、年賀状をやりとりするだけの仲になってしまいました。
そうそう、年賀状といえば、叔父さんの遺体が発見された時、来年の年賀状が、もう書き上げてあって、出すばかりの状態になっていたらしいです。 飲んでいた薬の残量から計算して、12月9日の午後に事切れたと思われるのですが、たぶん、その日か翌日には投函しに行くつもりでいて、果たせなかったのでしょう。 枚数は、30枚くらいあったらしいです。 つまり、亡くなる寸前まで、そのくらいの人数とは付き合いがあったわけだ。 半分以上は親戚と考えても、10人くらいは、友人・知人がいたんじゃないでしょうか。
そういえば、叔父さんの様子がおかしい事に、最初に気付いたのも、友人の一人だったと聞きました。 叔父さんは独り暮らしだったので、心臓を悪くして以来、自分の死に備えて、家の中のどこに何がしまってあるかを長男に教えていたそうです。 借家の大家さんにも、「玄関の外の電灯が、昼でも点けっ放しだったり、夜でも点いていなかったりしたら、何かあったと思ってくれ」と、頼んであったのだとか。 でも、その大家さんは、全然気付かなかったらしいです。 まあ、言われてから月日が経ってくれば、そういう頼み事を律儀に遂行してくれる人はあまりいませんから、責めるような事ではないですが。
で、叔父さんと会う約束をしていた友人が、叔父さんが現れないので、不審に思って家へ訪ねて行き、全く応答が無い為に、大家さんの所へ報告して、警察を呼んで貰ったのだとか。 その友人が来て幸いで、電気が入れっ放しだった炬燵から、もし火が出ていたら、借家一軒全焼し、長男は父親の葬式代ばかりか、損害賠償で莫大な債務を抱え込むところでした。 持つべきものは、友人といったところでしょうか。
考えてみると、70歳で、そういう友人がいるというのは、相当珍しいケースだと思います。 やはり、叔父さんの人柄の為せる業と言うべきでしょうな。 事業でも家庭でも失敗したけれど、人生そのものが失敗したわけじゃなかったのです。
叔父さん、あなたは、決して、悪い人生を送ったわけではないよ。 不運な事も多かったけど、結婚もしたし、子供も出来たし、趣味はたくさん楽しんだ。 ずっと仕事をしていて、長患いもしなかったし、いい事の方が、ずっと多かったじゃないですか。 それに比べりゃ、私なんか、ろくでもない人生だよ。
叔父さんの人生、万歳! 大変よく生きました。 ご苦労様でした。 金魚と縁談、ありがとね。 さようなら、叔父さん。
叔父さんの葬儀が、あまり悲しい雰囲気にならなかったのには、わけがあります。 実は、叔父さん、30年くらい前に、大きな失敗をやらかし、それ以来、親戚一同から、少し色のついた眼鏡で見られていたのです。 家産を注ぎ込んだ事業で躓いて、家を潰してしまったんですな。 今でこそ、破産した人間や、借金で首が回らない人間など珍しくもありませんが、当時は、親戚中の顰蹙を買うような重大事でした。
学校を出て、しばらく会社勤めをした後、親から相続した家屋敷で鉄工場を始めたのですが、順調だったのは最初の十数年だけでした。 アメリカへの輸出の為に投資した直後、為替相場の自由化にぶつかり、大損して、何もかも失ってしまったのです。 しかも、当人は逐電してしまって、その間に、母親、つまり、私から見ると母方の祖母ですが、それが他界するという、重ね重ねの不幸。 小さなアパートに引っ越していた家族は、筆舌に尽くし難い苦難を味わう事になりました。 大阪の方に身を隠していた叔父さんは、虫の知らせを感じたと言って戻って来ましたが、母親がすでに骨になってしまった事を知った時のショックはいかばかりだったか。
その後、再び家族と暮らすようになり、住居を転々としつつ、いろんな職業についていました。 アイスクリームのルート配送をしていた頃には、よく、うちにアイスを持って来てくれて、甘い物好きの私には、大変ありがたい存在でした。 10年くらいして、さんざん苦労させた奥さんとの亀裂が限界に達し、離婚しました。 子供二人は奥さんについて行き、叔父さんは一人に。 山の中に家を借りて、また鉄工の仕事をやろうとしましたが、もうだいぶ歳を取っていたし、バブル崩壊の後だったので、そんなに仕事も来ず、最後には、近くのゴミ焼却場でバイトのような事をして、糊口をしのいでいたようです。
事業で失敗したのは、運が悪かった事が大きいのですが、叔父さん自身も、性格的に事業家に向いていなかったんですな。 ただ、親戚に金の事で迷惑をかけるといった事は無かったです。 強いて言うなら、私の母が相続権を放棄して、家屋敷を全て叔父さんの名義にしていた為に、母まで親の財産を全て失う事になってしまった点が、被害といえば被害です。 しかし、元はといえば、母がホイホイくれてやったからそうなったのであって、今更そんな事を言っても、後の祭ですな。
性格はくだけた人で、冗談もよく言い、同年代の親類からは好かれていたようです。 「失敗はしたけど、人柄はよかった」という、微妙な評価だったんですな。 ただ、甥である私や兄から見ると、可愛がられたという記憶は無いです。 叔父さんにも息子がいて、私達兄弟と同年代でしたから、子供なんか珍しくもなく、甥に可愛いさなど感じなかったのかもしれません。
兄が中学の頃、叔父さんの鉄工場に一日だけバイト行った事がありますが、甥だからといって、全く甘い顔は見せなかったようです。 今でも覚えていますが、その日の昼頃に兄から電話があり、「軍手を持って来てくれ」というので、私が自転車で届けに行きました。 すると、昼休みなのに工場で兄だけが働いていました。 おそらく、与えられた仕事が午前中で終わらず、必死で取り戻そうとしていたら、軍手が破れてしまい、休み時間に働いている手前、叔父さんに軍手をくれとも言い出せず、泣きの涙だったんでしょうな。 結構しぶとい兄がその日だけでやめてまったところを見ると、ほんとにきつかったのだと思います。
叔父さんは、メジロを飼ったり、金魚を増やしたり、犬と一緒に暮らしたり、相当な動物好きでした。 金魚は、私も分けて貰った事があります。 「3匹ください」と言ったら、大きなビニール袋に稚魚をどっさりよこして、数えてみたら、50匹も入っていました。 いやはや、あの時は参りましたわ。 60センチ水槽を一つしか持っていなかったので、もう一つ買い足し、それでも足らずに、衣装ケースを改造して簡易水槽にして、むりやり飼っていたのですが、その内、ポツポツと死んで行き、3年くらいしたら、たった3匹になっていました。 「もしや、叔父さん、こうなる事を見越して、50匹くれたのかな?」と、恐れ入りかけましたが、その後、その3匹も世を去り、私の深読みし過ぎであった事が判明しました。
叔父さんは、私が金魚を貰ってくれた事が嬉しかったらしく、金魚達が少し大きくなった頃に一度家に来て、「ありがとね」と、照れ臭そうに私に言いました。 自分の趣味を甥っ子が理解してくれたと思っていたのでしょう。 実は、私の本心としては、動物を増やす趣味には、あまりいい印象を抱いていないのですが・・・。 たとえば、金魚を増やしている人というのは、形のいい個体を残す為に、規格外の個体をみんな下水に流してしまうわけですが、私にはそういうのが、ちょっと耐えられないのです。
叔父さんは、金魚の件で、私にいい印象を抱いたらしく、それから間も無く、なんと、縁談を持って来てくれました。 相手はゴミ焼却場で働いていた時に知り合った産廃業者の娘さんでした。 もう見合い話など流通しなくなっていた頃でしたから、私としては大変ありがたかったのですが、叔父さんが、「産廃業者だが、違法な物も処分する事がある」などと言ったものだから、母が拒絶反応を示し、「親がそんな人じゃ、しょうがない」と言って、断ってしまいました。 今になっても、あの話は惜しかったと思っています。 なんで、当人が返事をする前に断るかね? 誰の人生だよ。
ちなみに、縁談の仲介者というのは、一度断られると、二度と話を持って来てくれません。 まあ、当たり前だよね。 せっかく、労を取ってやろうとしたのに、返す言葉で拒否されては、ムカつきもしようってもんだわさ。 叔父さんも、その例に漏れず、それ以降、うちに訪ねて来る事さえなくなってしまいました。
うちの母は、母方の親類の集まりでは顔を合わせていたようですが、それも数年前からは疎遠になっていました。 ある年の祖父母の法事の際、叔父さんは一円も持参せず、母にだけ供養料を出させた事にカチンと来て、「あいつには呆れた」と言って、会わなくなってしまったのです。 叔父さんも悪いですが、母も短気な判断をしたもので、私から見れば、「供養料なんか、一人出せば充分だ」という考え方が、いかにも叔父さんらしいと思うのですが、結局、母と叔父さんは、それっきり近寄らなくなり、年賀状をやりとりするだけの仲になってしまいました。
そうそう、年賀状といえば、叔父さんの遺体が発見された時、来年の年賀状が、もう書き上げてあって、出すばかりの状態になっていたらしいです。 飲んでいた薬の残量から計算して、12月9日の午後に事切れたと思われるのですが、たぶん、その日か翌日には投函しに行くつもりでいて、果たせなかったのでしょう。 枚数は、30枚くらいあったらしいです。 つまり、亡くなる寸前まで、そのくらいの人数とは付き合いがあったわけだ。 半分以上は親戚と考えても、10人くらいは、友人・知人がいたんじゃないでしょうか。
そういえば、叔父さんの様子がおかしい事に、最初に気付いたのも、友人の一人だったと聞きました。 叔父さんは独り暮らしだったので、心臓を悪くして以来、自分の死に備えて、家の中のどこに何がしまってあるかを長男に教えていたそうです。 借家の大家さんにも、「玄関の外の電灯が、昼でも点けっ放しだったり、夜でも点いていなかったりしたら、何かあったと思ってくれ」と、頼んであったのだとか。 でも、その大家さんは、全然気付かなかったらしいです。 まあ、言われてから月日が経ってくれば、そういう頼み事を律儀に遂行してくれる人はあまりいませんから、責めるような事ではないですが。
で、叔父さんと会う約束をしていた友人が、叔父さんが現れないので、不審に思って家へ訪ねて行き、全く応答が無い為に、大家さんの所へ報告して、警察を呼んで貰ったのだとか。 その友人が来て幸いで、電気が入れっ放しだった炬燵から、もし火が出ていたら、借家一軒全焼し、長男は父親の葬式代ばかりか、損害賠償で莫大な債務を抱え込むところでした。 持つべきものは、友人といったところでしょうか。
考えてみると、70歳で、そういう友人がいるというのは、相当珍しいケースだと思います。 やはり、叔父さんの人柄の為せる業と言うべきでしょうな。 事業でも家庭でも失敗したけれど、人生そのものが失敗したわけじゃなかったのです。
叔父さん、あなたは、決して、悪い人生を送ったわけではないよ。 不運な事も多かったけど、結婚もしたし、子供も出来たし、趣味はたくさん楽しんだ。 ずっと仕事をしていて、長患いもしなかったし、いい事の方が、ずっと多かったじゃないですか。 それに比べりゃ、私なんか、ろくでもない人生だよ。
叔父さんの人生、万歳! 大変よく生きました。 ご苦労様でした。 金魚と縁談、ありがとね。 さようなら、叔父さん。