2017/02/26

カー連読 ⑫

  今回も、カーです。 カー、カーと、カー作品の感想ばかり、12回も続けて来ましたが、そーんなに熱中して読んだのなら、さぞや、熱烈なファンになった事だろうと思いきや、とんーでもな! そんな事は全然ないのであって、むしろ、読めば読むほど、冷める感覚を味わっています。 特に、今回紹介する、≪赤い鎧戸のかげで≫には、トドメを刺された感があり、読まなきゃ良かったと、つくづく思っています。 コンプリート読破なんて、酔狂でするもんじゃありませんな。




≪赤い鎧戸のかげで≫

ハヤカワ・ミステリ文庫
早川書房 1982年発行
カーター・ディクスン 著
恩地三保子 訳

  相互貸借で、浜松市立図書館から取り寄せてもらった本。 「閉」のシールが貼ってあるので、閉架に入っていたんでしょう。 結構、読んだ形跡があるところを見ると、30年くらいは、開架にあったのでは? 表紙絵は、山田維史さんの、タロット・カードをモチーフにしたものですが、このシリーズには珍しく、あまり、パッとしない絵です。

  発表は、1952年。 H.M(ヘンリー・メリベール卿)が探偵役を務める作品としては、22作中、21作目。 前作の≪魔女が笑う夜≫で、H.Mシリーズの終わりの始まりを感じた私ですが、その読みは、間違っていなかったようで、この≪赤い鎧戸のかげで≫は、もっと、ひどくなっています。


  国際管理地域だった、モロッコのタンジールを訪れたH.Mが、地元の警視総監から、仕事の際に、必ず、鉄の箱を抱えている事から、「鉄の箪笥」と呼ばれている宝石泥棒を捕まえてほしいと頼まれて、スペイン系の警視や、イギリス人の作家夫婦と協力しながら、宝石泥棒の共犯者で、腕っ節の強いロシア人と戦いつつ、宝石泥棒の正体を暴く、ミステリー活劇。

  タンジールは、現在では、モロッコに返還されて、タンジェと呼ばれている街ですが、この作品の頃には、国際管理地域で、スペイン人が多く入植し、フランス人が政治を動かしていたそうです。 だけど、話にフランス人は出て来ません。 警視総監はベルギー人。 警察の管理職はスペイン人。 平の警官は、アラブ人。 そして、街に住んでいる一般人は、アラブ人が多いという構成。 カーは、一時期、タンジールに住んでいた事があるそうで、その時の経験から、ここを舞台にしたのでしょう。

  一口で、感想を述べると、しょーもないです。 しょーもなさ過ぎて、もはや、「珍作」の部類に入れた方がいいのではないかと思うほど。 とても、≪ユダの窓≫と同じ作者が書いた小説とは思えません。 カーの悪いところを、一作に凝集したような感じ。 一応、トリックや謎もありますが、それは、オマケ扱いでして、ほぼ、全編、アクション活劇になっています。 その点が、そもそも、推理物としては、欠陥商品なのですが、この作品の問題点は、それに留まりません。 以下、ネタバレを含みます。

  一番、まずいと思うのは、取って付けたように、「反共主義」が盛り込まれている事でして、ストーリー上は、全く不要であるにも拘らず、宝石泥棒の共犯者を、共産主義者の設定にして、とことん、ろくでなしの卑怯者の極悪人に仕立て、惨めな最期に追い込んでいます。 繰り返しますが、そんな設定は、ストーリー上、要らないのに、わざわざです。

  カーが、社会主義嫌いだったのは、他の本の解説などで知っていましたが、創作作品の中で、ここまで、自分の思想信条を剥き出しにしてしまうと、もう、あきません。 別に、特定の政治思想を、貶さなくても、讃えなくても、推理小説は成り立つのであって、作者の思想を盛り込むなどという行為は、蛇足でしかありません。 良識ある読者なら、眉を顰めないわけにはいきますまい。

  カーは、第二次世界大戦後、イギリスの労働党政権が気に入らなくて、アメリカへ帰るのですが、その頃アメリカでは、マッカーシズム、つまり、赤狩りが盛んになっていて、カーにしてみれば、我が意を得たり的な状況になっていたわけです。 アメリカなら、いくらでも、共産主義批判できると思って、この一作に、どかっと盛り込んでしまったんでしょうなあ。 出版社の方は、「うっ、これは・・・」と、額に汗が浮かんだと思いますけど。 

  カーの他の作品でも出て来た、ロシア文学批判は、この作品の中でも、≪アンナ・カレーニナ≫を扱き下ろす形で出て来ます。 しかも、H.Mに語らせているから、目も当てられない。 カーの場合、「共産主義のソ連が嫌いだから、ロシア文学も嫌い」という、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い的な発想で、ロシア文学を批判しているのではなく、明らかに、ロシア文学の価値を理解できていないものと思われます。 だけど、たとえ、当時住んでいたのが、アメリカであっても、知識人が相手なら、それを主張すればするほど、立場が悪くなったんじゃないでしょうか。 知識人の評価が高い物を馬鹿にすると、馬鹿にした方が、馬鹿扱いされるのが普通ですから。

  H.Mの人格設定に、ロシア文学嫌いを追加してしまったせいで、せっかくの面白い探偵キャラを台なしにしてしまいました。 「癇癪もちな上に、悪戯好きで、子供のようなところがあるが、頭は飛びぬけて良く、風変わりながらも、紳士的良識も持ち合わせている」という基本キャラと、ロシア文学をゲスな言葉で扱き下ろす姿が、一人の人間として、像を結ばないのです。 作者の思想を無理やり代弁させているのですから、そうなるのも当然の事。

  呆れた事に、この話の中で、H.Mは、ナイフ殺人まで犯します。 襲って来た賊を退治したという設定なのですが、傷害ならまだしも、殺してしまったのでは、探偵役になりますまい。 もしかしたら、ハード・ボイルド型探偵小説の影響を受けたのかも知れませんが、H.Mは、頭脳型の典型のような探偵ですから、まるで、似合いません。 ミイラ取りがミイラなのであって、こんなの、ただの人殺しですわ。 いくら、活劇だからって、こんな場面は、全く不要。 H.Mが、夜中の捕り物に自らしゃしゃり出て行く必要すらないです。

  クライマックスは、宝石泥棒の共犯者であるロシア人を相手に、負傷したスペイン人警視の代理として、イギリス人作家が、ボクシングの試合をする場面なのですが、ここも、奇妙奇天烈。 つまるところ、「卑怯で極悪なロシア人を、スポーツマン・シップを尊重する、勇気に満ちたイギリス人が、正々堂々、叩きのめす」という情景を描き込みたくて仕方がないらしいのですが、そもそも、相手は、その場から脱出しようとしていたのを、スペイン人警視が銃で脅して、無理やり、試合させたのであって、卑怯なのは、させた方としか思えません。

  そんな設定ですから、ボクシングの試合は、やる前から、結果が分かっており、面白くもなんともありません。 よってたかって、ロシア人をなぶり殺しにしただけ。 作者が、自分の思想信条にのぼせて、ストーリー構成の判断力を失っており、何を書いているのか、分からなくなってしまったのだと思います。 繰り返しますが、心底、≪ユダの窓≫と同じ作者が書いた小説とは思えない。 あちこち、無理だらけで、もはや、ムチャクチャと言ってもいいです。

  更に、呆れた事に、宝石泥棒の正体が、大変、意外な人物で、普通なら、意外な人物が真犯人だと、「おおっ、そうだったのか!」と驚くものですが、この作品の真犯人には、「はあ~っ? 何それ?」と首を傾げてしまう意外さを感じるのです。 私は、その瞬間、作者が、狂ったのかと思いました。 明らかに、矛盾する部分が出て来るからです。 

  ラストで、H.Mによる謎解きがあり、そこを読むと、一応の辻褄は合わせてあって、別に、作者が狂ったわけではないようだと、少し安心します。 しかし、それはさておき、真犯人の行動の動機が、無理やりのこじつけであるのは、否めません。 また、H.Mがとった、真犯人の処分方法が呆れる。 H.Mのナイフ殺人も含めて、警視総監が、不問に付しているのも呆れる。 こんな、恣意的で、いい加減な連中には、法を執行する資格はありません。

  これだけ、貶せば、充分なようですが、まだ、あります。 アラブ人(ムーア人)の描き方が、偏見と差別意識剥き出しで、げんなりさせられるのです。 カーの世界観は、驚くほど狭くて、興味があるのは、イギリス、アメリカと、せいぜい、フランスだけで、それ以外は、「どうでもいい所」、もしくは、「いずれ、滅びて然るべき所」と思っていたのではないかと思います。 ≪アラビアンナイトの殺人≫という作品もありますが、上っ面の知識だけで書いたものだった事が、この作品を読んで、よく分かりました。 実際に、アラブ地域に住んでみたら、自分の空想していたのと違うので、一気に嫌悪し始めたのではないでしょうか。

  同時代のアガサ・クリスティーにしても、外国への興味は、エジプトくらいが限界で、インドですら、ほとんど、眼中になく、中国や日本に至っては、産物でしか知らないレベルでしたから、カーの世界認識が、特別、狭かったとも言えませんが、それにしても・・・。 外国や異民族の事を扱き下ろすような事はしないのが、知識人の良識というものでしょう。 そして、全盛期のカー作品でも、その良識は、ちゃんと備わっていたのです。 衰退期に入ってから、おかしくなって来たんですな。

  というわけで、この作品、どこが悪いというより、全て悪いです。 誉められるところが、一点たりとも見当たりません。 駄作と呼ぶのも、まだ、誉め過ぎ。 珍作としか、言いようがないのです。



≪騎士の盃≫

ハヤカワ・ミステリ文庫
早川書房 1982年発行
カーター・ディクスン 著
島田三蔵 訳

  相互貸借で、浜松市立図書館から取り寄せてもらった本。 これにも、「閉架」のシールが貼ってあります。 状態は、同時に取り寄せた、≪赤い鎧戸のかげで≫と、同程度。 恐らく、同じ時に購入されて、一方を読んだ人は、もう一方も読むという具合に、同じくらいの数の利用者に借りられて来たのでしょう。

  発表は、1953年。 H.M(ヘンリー・メリベール卿)が探偵役を務める作品としては、22作中、22作目。 とうとう、H.Mシリーズの最終作です。 ≪赤い鎧戸のかげで≫が、政治臭がひどくて、まともに批評できないような内容だったので、翌年に書かれたこれも、どんなものかと、警戒しながら読む事になりました。 ちなみに、H.Mシリーズは、1953年までですが、カーの長編推理小説は、フェル博士シリーズの方で、14年後の、1967年まで書き続けられます。


  歴史ある貴族の館にある「オークの間」に、鍵をかけて籠った当主が眠り込んだ間に、何者かが侵入し、金と宝石でできた「騎士の盃」を、金庫から出したにも拘らず、盗まずに置いて行く事件が起こる。 当主の妻に依頼された警視庁のマスターズ警部が、同じ部屋で、一晩を過ごしたところ、またもや、何者かが侵入し、警部は頭を殴られて昏倒してしまう。 隣の屋敷に住んで、イタリア人教師を相手に、歌の練習をしていたH.Mが、教師もろとも乗り込んできて、謎を解く話。

  H.Mシリーズの最盛期から後は、コミカルな場面が必ず挟まれるようになって、フェル博士シリーズと、差別化が計られるのですが、最終作では、その極に達したようで、全編に渡って、ナンセンス・ギャグで埋め尽くされる事になります。 これは、もはや、推理小説ではなく、推理物の要素を含む、コメディーに分類するのが適当かと思います。

  思わず、笑ってしまうところも少なくないのですが、「推理小説のシリーズでやる事ではないなあ」と、呆れる読者の方が多いのではないでしょうか。 ナンセンス・ギャグだらけの小説なんて、洋の東西を問わず、あまり、例がないので、ジャンルとして、独立していないのだと思います。 もし、こういうのが大ウケしたのなら、カー本人が、もっと同類作を書いていたはず。

  小説では、例がないですが、映画でなら、ナンセンス・ギャグのコメディーは、無数にあります。 カーは、たぶん、そういうのが好きだったろうと推測されるので、もしかしたら、映画の原作にするつもりで書いたのかも知れません。 だけど、映画人には、たとえ、原作者を部外者扱いする傾向があるから、このまま、映像化してくれる会社など、なかったでしょう。 そもそも、真面目な推理物であっても、カー作品が原作の映画というのは、一本もないか、それに近い状態のようです。

  密室トリックの方は、機械的・道具的なもので、正道と言えば正道。 しかし、技術や技術史に関する知識がないと、推理のしようがないという点では、邪道です。 推理小説を読む人は、ほとんど、文系でして、鉛管工の仕事内容なんて、知ってるわけがないです。 しかも、その技能を利用する犯人の本業が、まるで、畑違いなのに、無理やり、鉛管工の経験があった事にしているのは、なんとも、苦しい設定ですな。

  そんな事を言い出せば、事件が起こった屋敷の隣に、たまたま、引退したH.Mが住んでいるというのも、偶然が過ぎます。 他にも、やたらと、偶然に頼る設定が多くて、真面目な推理物としては、どうしても、評価外になってしまいます。 だけど、カーが、この作品でやりたかったのは、ナンセンス・コメディーなのだと思えば、腹を立てる方が、不粋というものなのかも。

  そういう、脱線してしまった最終作なのですが、≪赤い鎧戸のかげで≫のように、猛烈な政治臭が漂っているよりは、コメディーの方が、遥かにマシです。 正直に言わせてもらえば、≪赤い鎧戸のかげで≫は、H.Mシリーズから、外してもらいたいくらいです。 ≪騎士の盃≫の中にも、労働党批判が出て来ますが、小説世界を破壊する程ではなくて、大抵の読者は、問題にしないでしょう。


  H.Mシリーズが、フェル博士シリーズより早く終わってしまった理由は、よく分かりません。 終わりが近いから、ヤケクソで、メチャクチャをやったのか、メチャクチャをやったから、終わってしまったのか、作者が終わらせたくて、わざと、メチャクチャをやったのか、出版社の事情があったのか・・・。 ≪墓場貸します≫までのH.Mなら、まだまだ、続編を望む読者が多かったと思うのですがねえ。



≪第三の銃弾 [完全版]≫

ハヤカワ・ミステリ文庫
早川書房 2001年発行
カーター・ディクスン 著
田口俊樹 訳

  ≪騎士の盃≫を最後に、H.Mシリーズを読み終え、フェル博士シリーズも、だいぶ前に読み終えていたので、カーの長編推理小説で、残っているのは、ノン・シリーズだけになりました。 2016年12月15日に、図書館へ行って、三冊分、相互貸借を頼んだのですが、年末年始を挟んだせいで、取り寄せ作業が停止していたそうで、借りられたのは、2017年の1月7日でした。 3週間ちょい、かかった事になります。 浜松市立三ケ日図書館の本で、まだ開架にあるようです。

  発表は、1937年。 カーター・ディクスン名義ですが、H.Mシリーズではなく、別の出版社から出された複数の作家によるシリーズ物に提供された作品だそうです。 そのせいで、長らく埋もれていたのを、1948年になって、エラリー・クイーンの一人である、フレデリック・ダネイが発掘して、自分達の雑誌に掲載したのですが、その際、紙数の都合で、大幅に短縮されてしまったとの事。

  日本では、その短縮版の方が先に訳されて、創元推理文庫の、カー短編全集2、≪妖魔の森の家≫に収録されています。 後になって、元の長編を訳したのが、ハヤカワ文庫の、この本という事になります。 ややこしい。 つまり、短縮版と完全版は、同じ話なのでして、≪グラン・ギニョール≫と≪夜歩く≫のような、ストーリー上の内容の違いはありません。 というわけで、あらすじは、短縮版の感想を書いた時の物を、移植します。 訳者が違うので、人物の肩書きに異同があり、そこは、修正しました。


  退官した判事が、以前、鞭打ち刑を言い渡した青年に恨まれて、自宅の離屋で射殺される。 ところが、青年の撃った弾は壁に当たっていて、もう一丁の銃が、部屋に置いてあった大きな花瓶の中から発見される。 更に、判事の遺体を解剖したところ、空気銃の弾で殺されていた事が分かり、容疑者が一人、銃が三丁という、奇妙な状況の下、ロンドン警視庁警視監マーキス大佐らが、謎を解いて行く話。

  ≪第三の銃弾≫という作品を楽しむのであれば、圧倒的に、完全版の方が、面白いです。 短縮版では、ざっくり削られていた、探偵役のマーキス大佐と、ペイジ警部らの人物描写や会話が、実に活き活きしていて、そこが、読者をひきつけるのです。 これを削らざるを得なかった、フレデリック・ダネイは、正に、身を切られる思いだったでしょうねえ。 カー作品の大ファンだったらしいですから。

  先に短縮版で読んでいたから、最初は、あまり、気が乗らなかったんですが、読み進める内に、引き込まれて、あっという間に、最後まで行ってしまいました。 解説には、1937年前後は、カーの最盛期で、≪火刑法廷≫が同年、≪ユダの窓≫が翌年なので、この作品も・・・、といった分析がされていますが、カーの場合、続けて、傑作を書く事は珍しいので、それは、一つの見方として承っておく事として・・・、私の読みとしては、それまでとは違う出版社からの注文だったからこそ、こういう、質の高い作品を書いて、渡したんじゃないかと思います。

  この作品は、傑作とまでは行かなくとも、それに準ずるレベルである事は明らかです。 トリックや謎解きの工夫も一級品ですし、カーの長編推理小説の中では、ベスト5くらいに入れてもいいのではないでしょうか。 ノン・シリーズに、優れた作品が多いのは、わざわざ、その作品専用の探偵役を創作してまで書こうというのだから、何か、意図する狙いがあるのであって、自ずと、シリーズ物とは、力の入れ方が変わるのだと思います。



≪九つの答≫

ハヤカワ・ポケット・ミステリ・ブックス
ハヤカワ・ミステリ
早川書房 1958年初版 1996年5版
ジョン・ディクスン・カー 著
青木雄造 訳

  相互貸借で、浜松市立三ケ日図書館から取り寄せられた本。 これには、「閉架」のシールが貼ってあります。 ペーパー・バックですが、二段組みで、解説まで入れると、440ページもあり、「こんな分厚いのが含まれているのに、三冊も一遍に借りたのでは、二週間で読みきれないのではなかろうか」と恐れをなして、延長が可能か訊いてみたところ、相互貸借の本は、延長できないとの返事でした。 やむなく、一生懸命、読みましたよ。

  発表は、1952年。 ノン・シリーズで、探偵役は、主人公の青年が務めています。 1952年というと、H.Mシリーズの最低駄作である、≪赤い鎧戸のかげで≫と同じ年でして、嫌な予感がしたのですが、それは、半分、当たりました。 ただし、政治臭は、ほとんどないです。 その点は、≪赤い鎧戸のかげで≫とは、大違い。


  アメリカから、イギリスに帰れば、伯父の遺産を相続できると、弁護士から説明されていた男が、子供の頃、その伯父に苛められたせいで、気が進まないでいたのを、たまたま、弁護士事務所にやってきた青年に、身代わりとして、イギリスに行って貰うよう話をつけた直後に、毒を盛られて死んでしまう。 青年は、身代わり作戦を続行し、イギリスで男の伯父に会うが、金をやる代わりに、青年の命をつけ狙うという条件を出され・・・、という話。

  なんつーかそのー、いくら、お金に困っていたからといって、自分の命を狙ってよいとお墨付きを与えるような取引に、応じる者がいるかどうか。 たとえ、いたとしても、果たして、そういう、貧すりゃ貪す的な発想の人間が、物語の主人公に相応しいかどうか。 まー、そういう問題点が、いきなり、前面に出て来るわけです。

  目の前で、身代わり作戦を持ちかけてきた男が、毒殺されたのを見たら、まともな人間なら、作戦なんぞ中止するのが、普通でしょうに。 その前に、身分証明書を取り替えているのですが、弁護士事務所に引き返せば、身元確認はしてもらえるわけですから、何の問題もないはず。 それなのに、その場から逃げてしまって、死んでしまった依頼者に成りすまし、遺産目当てにイギリスへ向かうなど、どういう人格なんでしょうか? それでいて、悪漢小説というわけではなく、主人公は、真っ当なヒーローとして描かれているのです。 変でしょ、そんなの。

  前半で、青年の元恋人が、どう考えても、ありえない偶然のタイミングで現れ、即席で旧交を温めるのですが、カーの作品によくある、蛇足としか言いようがない恋愛場面を、これでもかというくらい書き連ねてあって、思わず、「もう、読むの、やめようかな」という気になります。 なんだろね、このひどい、やりとりは?

  カーの女性観は、きわめてリアルでして、日本の恋愛小説のヒロインみたいに、リカちゃん人形が喋っているような、人間性の欠落は感じられないのですが、逆にリアル過ぎて、女性の欠点を剥き出しに描写してしまっているせいで、読んでいる方は、ムカムカ腹が立ってならないのです。 こんなヒロインなら、要らんわ。 鬱陶しくて、邪魔なだけです。

  で、また、ボクシングの勝負場面があるのですよ。 というか、この作品と、≪赤い鎧戸のかげで≫を書いた辺りから、格闘場面が最大の見せ場になってしまって、そこから、その後の歴史ミステリー路線へ流れて行くんですな。 作者本人が、人を殴りたくて、しょうがなかったんでしょうかね? 作品の内容と、作者の人格は、関係ない? そーんな事はありません。 こんなに多くの作品で、同じような場面を、繰り返し繰り返し書くからには、密接に関連していると思います。

  ラジオ放送局の場面は、取って付けたようで、あまりにも唐突に差し挟まれるので、何の小説を読んでいたのか、表紙のタイトルを見返してしまうくらいです。 すごい、バラバラ度。 主人公の青年は、ボクシングの達人で、元戦闘機パイロットで、その上、ラジオの仕事に向いているというのですが、一人の人間に、いろんな才能を、盛り込み過ぎです。 そんな、立派な御仁が、得体の知れない男に頼まれた身代わり作戦なんかに、ホイホイ関わるものですか。

  ここまで貶して、今更こんな事をいうのもなんですが、後半、謎解きの局面にさしかかると、急に面白くなります。 話のところどころに、「九つの間違った答え」という、作者による解説が入っていて、そのつど、「読者は、こういう推理をしているだろうが、それは、間違っている」と指摘されます。 そんな風に張られていた伏線が、謎解きに入ると、パタパタと回収されて行き、てっきり、「街中を舞台にした冒険小説」に過ぎないと思っていた話が、しっかりした推理小説になっていた事に気づくのです。

  実は、フェア・プレーと言いながら、えらく入り組んだ書き方をして、読者を欺いているのですが、そういうのは、推理小説では、よくある事でして、むしろ、面白さに繋がっています。 そういう騙しなら、いくらやってくれても、大歓迎。 漫然と読んでいた、読者の方が悪いのです。

  だけど、前半が悪過ぎてねえ。 とにかく、このヒロインは、要らんわ。 もーう! こういう女と、こういう女を好きな男には、虫唾が走る! 傍で聞いてて、反吐が出るような、みっともない痴話喧嘩を、一生 続けるつもりかいな? 誰か、水ぶっかけてやれ!




  今回は、以上、4冊までです。 2016年の12月上旬から、2017年1月半ばにかけて読んだ本。 相互貸借ばかりなので、取り寄せるのに日数がかかり、冊数が少なくても、読んでいた期間は長くなっています。 ちなみに、次回も4冊です。 それで、カーの本は、おしまい。

2017/02/19

カー連読 ⑪

  今回も、カー作品の感想文です。 前回書いたように、すでに、カー作品の連読プロジェクトは、終了しています。 最初の一冊、≪三つの棺≫を借りて来たのが、2015年の10月下旬だったから、一年と三ヵ月半くらい、カーばっかり読んで来たわけだ。 三島図書館まで通ったり、相互貸借で取り寄せたり、我ながら、よく、意欲が持続したものです。 そーんなに面白い作品ばかりではなかったのですが・・・。




≪雷鳴の中でも≫

ハヤカワ・ミステリ文庫
早川書房 1979年発行
ジョン・ディクスン・カー 著
永来重明 訳

  相互貸借で、富士宮市立図書館から取り寄せられた本。 ハヤカワ文庫なのですが、なんと、カバーが付いていません。 富士宮図書館の文庫は、以前にも借りているので、文庫のカバーを外して保存する習慣があるわけではないのは確かでして、この本が特別に、ないわけだ。 1979年と、文庫としては、一際古いですが、中身は、大変、綺麗でして、カバーだけ、劣化が激しくなって、廃棄したとも思えません。 「寄贈」のスタンプが押してあるから、寄贈される前に、すでに、なかったのかな?

  発表は、1960年。 ギデオン・フェル博士が探偵役を務める作品としては、23作中、20作目。 この後は、≪悪魔のひじの家≫、≪仮面劇場の殺人≫、≪月明かりの闇≫の三作しかありません。 カーの推理小説としては、晩年の作に入れていいと思います。 というか、そのー、もう、戦後になると、量的にも質的にも、急激に、創作エネルギーが落ち始めるのですよ。


  第二次世界大戦前に、ナチスと近い関係にあった映画女優が、ヒトラーに会いに行った山荘で、同行していた婚約者がバルコニーから転落死する原因不明の事件があった。 その17年後、元女優の三人目の夫である、元舞台俳優の依頼で、フェル博士がスイスに呼ばれ、彼らの周辺で起こる恐れがある殺人事件を防ごうとするが、博士が同宿している屋敷で、元女優がバルコニーから転落死してしまう。 元俳優の息子や、彼と縁談がある資産家の娘、17年前の転落の際、同じ山荘にいた新聞記者の女性などが絡む複雑な人間関係と、転落死に至らしめるトリックを、素人犯罪研究家と、フェル博士が、対立しながら解いて行く話。

  梗概が書き難いストーリーですな。 理解できないほど、複雑なわけではないんですが、素人犯罪研究家のせいで、話がややこしくなっています。 また、視点人物が、「資産家に頼まれて、資産家の娘を、監視・護衛に来た画家」という、事件の本筋と関係の薄い男でして、そういう人物の視点で語られるから、ますます、ややこしい。 この男の職業が、画家である理由が、また、よく分からない。 素人犯罪研究家の本職も画家らしいのですが、そちらも、必然性がまるでない設定です。

  ややこしい割に、登場人物の総数は、決して多くはなく、この作品でも、やはり、フーダニットが不発に終わっています。 カー作品で、フーダニットだと思ったら、あまり喋らない人物が犯人だと考えて、まず、間違いありません。 すぐに分かるとまでは言いませんが、半分くらい読めば、大体、見当がつきます。 そして、前にも書いたように、余計な事ばかり喋る、癇に触る女は、絶対に犯人ではないのです。

  読んでいて、非常に不愉快になるのは、登場人物達が、互いに相手を、無視したり、軽視したり、罵ったり、そんな事ばかりしている点です。 誰かが喋っていると、必ず、話の腰を折る奴が出て来て、読者としては、聞きたい話の邪魔をされて、カチンと来るのです。 それが、一ヵ所二ヵ所ならまだしも、最初から最後まで目白押しだから、困ってしまう。 推理物晩期のカー作品では、こういう噛み合わないような会話が、やたら多いのですが、作者本人が、周囲の人間と、こういう険険した会話ばかり交わしていたんでしょうか?

  トリックも出て来ますが、あまりにも、不確定要素が多過ぎて、こんな犯罪が成立するとは、到底、思えません。 作者も、長い事、密室物や不可能犯罪物ばかり考えて来て、すっかり、アイデアが枯渇してしまったんでしょうなあ。 トリックが弱いのは承知していて、その分、人間関係を描き込む事で補おうとしているのですが、話の終わり近くになって、「実は、彼は、彼女を愛していた」などと、読者にとって寝耳に水の新事実を出して来るようでは、もはや、フェア・アンフェア以前の問題でしょう。

  原作とは関係ないのですが、訳文の女性言葉が、異様に鼻につきます。 主要な女性登場人物が、三人出て来るのですが、年齢や職業が異なっているのに、みんな同じ、山手夫人みたいな喋り方なのです。 79年の発行で、これは、ひどい。 「原作の発表年に合わせた」という言い訳も利きますまい。 他の二人はともかく、女性新聞記者が、こんな取り澄ました喋り方をするなど、年代に関係なく、考えられないからです。


  ところで、私は、この作品で、フェル博士シリーズの長編は、全て読み終わりました。 何度も書いているように、フェル博士には、特徴的な人格が与えられていないので、探偵役として以前に、物語の登場人物として、魅力がなく、記憶に焼きつくような面白い話はなかったです。 作者にしてみれば、逆に、人格的特徴がない人物だから、探偵役として使い易かったという見方もできます。



≪魔女が笑う夜≫

ハヤカワ・ミステリ文庫
早川書房 1982年発行
カーター・ディクスン 著
斎藤数衛 訳

  相互貸借で、浜松市立図書館から取り寄せてもらった本。 今までに、相互貸借で借りた本の中では、最も、くたびれていました。 外観だけでなく、中の方も、水濡れ、皺、汚れ、折れ、破れと、破損が目白押し。 別に、名作扱いされている作品でもないのに、一体、誰がこんなに、酷使したのか?

  表紙絵が、タロット・カードをモチーフにした、山田維史さんのものになっていますが、私が手にした、同類の本の中では、この本の1982年が、一番古い発行年です。 82年というと、私がまだ、高校生だった頃ですが、文庫の表紙絵は、もう、これだけ、洒落たものが出ていたわけだ。 というか、当時の方が、今のものより、ずっと、インパクトが強いです。 そういえば、本屋で、表紙絵を見て、衝動買いする事がなくなってから、もう随分経ちますなあ。

  発表は、1950年。 H.M(ヘンリー・メリベール卿)が探偵役を務める作品としては、22作中、20作目。 H.Mシリーズは、1953年には終わってしまいますから、もう、末期の方の作品です。 これの直前が、≪墓場貸します≫で、そちらを読んだ時には、H.Mは、まだ、元気一杯で、なぜ、H.Mシリーズが、フェル博士シリーズより先に終わってしまったのか分からなかったんですが、この作品を読んだら、なんとなく、理由が分かるような気がしました。 何にでも、衰えはあるわけだ。


  村外れに、「あざ笑う後家」と名付けられた岩がある事だけが特徴の小さな村で、「後家」という署名が入った誹謗中傷文書が、村人の多くに送りつけられる。 村人の猜疑心が高まる中で、古書店主に依頼されたH.Mが捜査を始めるが、その直後、退役大佐の娘に、「深夜に訪問する」という後家の予告状が送りつけられ、万全の警備をしていたにも拘らず、後家が部屋に入りこみ、去っていく事件が起こる。 二組の恋愛を絡めながら、H.Mが、謎を解いて行く話。

  実にパッとしない梗概ですが、しょーがねーじゃん、話がバラバラなんだもの。 そもそも、何が悪いといって、犯人の動機が、理解できかねます。 こんな理由で、自分の住んでいる村を混乱に陥れるような、馬鹿がいますかね? 結局、自分の首を絞めてしまうのは、分かりきった事じゃないですか。

  次に、いかに、H.Mシリーズ後期の売りとはいえ、コミカルな場面が、くど過ぎます。 前半と後半に、一箇所ずつありますが、どちらも、悪ノリのし過ぎ。 どちらか一方を、もっと軽いものにしておけば、くどさを感じなかったんですがね。 特に後半のは、まるで、子供が騒いでいるようで、あまりにも、嘘くさいです。 犯人と二人きりになる為に、わざと騒ぎを起こしたと書いてありますが、馬鹿も休み休み・・・。 犯人と二人きりになる方法なんて、他にいくらでもあるじゃありませんか。 大勢の村人を巻き込む必然性は、全くありません。

  トリックが、また、ありえないような、無理無理なものでして・・・。 いや、やるだけなら、できないわけではないですが、大佐の娘が、うまく、引っかかってくれるかどうか、不確定もいいところではありませんか。 また、後始末の方が厄介で、暗闇の中で、そんな事ができるとは、とても思えません。 大体、夜中に、不審者が訪ねて来るのを待ち受けるのに、わざわざ、睡眠薬を飲んで眠り込むというのからして、すでに不自然です。 替え玉を使う方が、ずっと安全。

  更に、恋愛物を二組分も盛り込んだのは、完全な蛇足です。 一組ですら、推理小説としては、邪魔な要素だというのに、二つも入れられたのでは、「なんじゃ、こりゃ?」でして、まるで、トリックや謎解きの方が、オマケのように感じられてしまいます。 カーが、恋愛物の要素を入れたがったのは、陰惨な犯罪物の雰囲気を和らげる為だったと思うのですが、本体の事件との関係が薄いので、みんな浮いてしまっています。 方向性を間違ったサービス精神と言うものでしょう。

  蛇足と言えば、この作品にも、≪剣の八≫に出て来た、ロシア文学批判が、より、濃厚な度合いで、書き込まれています。 カーの、ロシア文学への態度は、嫌悪を通り越して、憎悪の域に入っていたようです。 おそらく、トルストイやドストエフスキーの、どこが面白いのか、全く分からなかったのでしょう。 カーにとって、小説とは、ワクワク・ドキドキするものでなければならなかったのだと思われます。

  H.Mが、14歳の少女に、ロシア文学の代わりに読めと薦めているのが、「大デュマ」、「マーク・トゥエイン」、「スティーブンソン」、「チェスタートン」、「コナン・ドイル」なのですが、作者の趣味が、もろ出しですな。 だけど、少年ならともかく、少女に薦めるには、ロシア文学以上に、不適当なのでは? すでに、トルストイやドストエフスキーを読んでいる者に、そういう作品を薦めても、食い足りなくて、放り出されるのがオチでしょう。

  とにかく、自分の作品の中に、他人の作品を扱き下ろすような場面を入れるのは、問答無用で感心しませんなあ。 読者側には、ロシア文学も、推理小説も、冒険小説も、それぞれの良い所を楽しんで読んでいる人もいるわけで、そういう人から見ると、カーのロシア文学批判は、まるで、子供の悪態です。 カーに批判されても、ロシア文学の愛好者は、蚊に刺されたとも思わないのであって、逆に、カーの為人を訝るだけだと思います。 



≪青銅ランプの呪≫

創元推理文庫
東京創元社 1983年初版 1989年3版
カーター・ディクスン 著
後藤安彦 訳

  相互貸借で、浜岡町立図書館から取り寄せてもらった本。 27年も前に購入されたにしては、異様に、状態が良いです。 「さっき、本屋で買って来た」と言っても、誰もが信じるレベル。 この作品、H.Mシリーズ後期の名作と言われているらしいのですが、その割には、読まれた形跡がほとんどありません。 カーの名前そのものが知られていないせいでしょうか。

  発表は、1945年。 H.M(ヘンリー・メリベール卿)が探偵役を務める作品としては、22作中、16作目。 戦時中に書かれたのは間違いないと思いますが、時代設定は、戦間期のようで、戦争への言及は、全くありません。 カーは、戦時中、イギリスに住んでいて、爆撃で、さんざんな目に遭ったらしく、開戦の頃こそ、戦争状況を作品のネタにする余裕があったものの、この作品を書いていた頃には、もう、戦争にうんざりして、戦前を懐かしんでいたのかも知れません。


  古代エジプトの墓を発掘し、青銅ランプを手に入れたせいで、呪いで死ぬのではないかと噂されていた考古学者の娘が、イギリスの自宅に帰った直後、姿を消してしまう。 屋敷内を隈なく捜しても見つからず、外に出ていない事も大勢の使用人の証言で、はっきりしていた。 続いて帰国した、考古学者本人も、娘と同じように姿を消すに及んで、呪いのせいだとマスコミが騒ぎ立てる。 翻弄される警察を尻目に、事件の発生前から娘と関わりのあったH.Mが、鮮やかに謎を解く話。

  「H.Mシリーズ後期の名作」というのは、嘘でも誇張でもなく、本当でした。 面白いとしか言いようがありません。 エラリー・クイーンと話が盛り上がって、「物語の導入部として、一番面白いのは、人間消失だ」という結論に至り、そこから発想したそうですが、導入部だけでなく、この話全体が、人間消失のトリックをメインの謎にしていて、しかも、「あっ!」と驚かされるアイデアだから、面白いのです。

  420ページくらいあって、結構、長いので、たった一つの謎では尺が足らず、考古学者本人の消失という、オマケもついているのですが、これが、単なるオマケでなく、殺人事件の存在を読者に示す事で、メインの謎が解けた後まで、興味を引っ張り続けるのは、実に巧みな語り口です。 全く毛色の違う作品ですが、≪ユダの窓≫と同じような、「語りの魔術」を堪能できます。

  カー作品の中で、順位をつけるとしたら、≪ユダの窓≫が、1位、この作品が、2位でしょうなあ。 H.Mシリーズの特徴である、コミカルな場面も入っていますが、それがなくても、充分に面白いです。 ただ、映像化するとなると、大変、難しい。 なぜ、難しいのかは、読んでのお楽しみ。 この作品のネタバレを書いてしまったら、私が殺されそうです。 だけど、この本自体が、なかなか、手に入らないかも知れませんな。



≪青ひげの花嫁≫

ハヤカワ・ミステリ文庫
早川書房 1982年発行
カーター・ディクスン 著
小倉多加志 訳

  相互貸借で、富士市立西図書館から取り寄せてもらった本。 おお、富士市には、西図書館があるわけだ。 こういう機会でもないと、他の自治体の図書館事情など分かりませんなあ。  表紙絵は、タロット・カードをモチーフにした、山田維史さんのもの。 ハヤカワ文庫のカー作品は、82年頃に、カバーが新しい物になったんですかね?

  発表は、1946年。 H.M(ヘンリー・メリベール卿)が探偵役を務める作品としては、22作中、17作目。 ≪青銅ランプの呪≫の後、≪時計の中の骸骨≫の前。 出来の良い前作と、平均程度の次作の間にあって、まさに、その中程の出来というべきか。 作中の時代設定は、1946年で、発表年と同じ。


  結婚しては、妻を殺す犯行を繰り返した男が、その後、11年間、姿をくらましていた。 戦後になって、その男を題材にした舞台劇の脚本が、ある俳優の元に送られて来る。 俳優は、その脚本にある結末が実現可能かどうかを試そうと、小さな町に住み着いて、有力者の娘に近づきつつ、自分が殺人鬼である事を町の人々に匂わせるが、本当にその娘を好きになってしまう一方で、町の人々からリンチを受けそうになり・・・、という話。

  この梗概だけ読むと、何となく、面白そうでしょ? 実際、前半は、本当に面白いのです。 カー作品に頻繁に出てくる、演劇関係者の会話には、些か、うんざりするものの、それ以上に、殺人鬼のフリをしてみるという実験が興味深くて、ワクワクしながら、ページをめくる事になります。

  ところが、カーの悪い癖がどんどん前面に出て来て、後半になると、話がバラバラになってしまうんですわ。 その上、H.Mの謎解きを待たずして、読者に、真犯人を気取られてしまうという、カーらしくないミスも犯しています。 細部の証拠はさておき、読者に、「あ、こいつかな?」と思われてしまった人物が、ほんとに、真犯人だった場合、それはもう、推理作家の負けでしょう。

  基本アイデアが良いのに、そちらをうまく活かせていないのは、勿体ないです。 広げた風呂敷を畳めなくなってしまったんですなあ。 途中で、物語の展開方向を見失い、「○○が犯人と思わせて、実は××が犯人」といった、どんでん返しを繰り返されると、読者は、意外さを感じるよりも、作者のごまかしを見抜いて、白けてしまうのです。

  H.Mシリーズ後期の特徴である、コミカルな場面は、二ヵ所入っていますが、あまり、面白くはないです。 酒場での乱闘は、ありきたりですし、ゴルフ場でやりたい放題やりまくる場面の方が、まだ読めるものの、この後、≪墓場貸します≫で、野球のバッターとしての飛びぬけた才能を見せるH.Mが、ゴルフが駄目いというのは、奇妙な話。 いや、そういう矛盾は、シリーズ物では、よく見られる事ですけど。

  恋愛物の要素も入っていて、これも、邪魔臭いです。 特に、視点人物になっている弁護士の恋愛の方は、全くの蛇足でして、最後に、無理やり、ある女性とくっつけようとしているのは、不自然極まりないです。 どうして、こんなにまで、恋愛要素に拘らなければならないのか、とんと解せません。



≪絞首台の謎≫

創元推理文庫
東京創元社 1976年初版
ディクスン・カー 著
井上一夫 訳

  相互貸借で、富士宮市立図書館から取り寄せてもらった本。 なに、76年? 私はまだ、小学生ですな。 こんなに古い本が、まだ、とってあんですねえ。 歳月相応にくたびれてはいますが、借りる人が少なかったのか、中は、割と綺麗でした。 水濡れや、汚れもなく、折れが少しあるだけ。

  発表は、1931年。 アンリ・バンコラン物の長編としては、5作中、2作目。 バンコランは、カーが最初に使っていた探偵役で、長編5作で、お払い箱になってしまいます。 最初の登場は、中編の≪グラン・ギニョール≫で、それを長編に書き改めたのが、長編第一作の、≪夜歩く≫になります。 この≪絞首台の謎≫は、その次でして、長編推理作家として、カーが、どういう方向を目指すのか、バンコランをどういう風に使うのかが試された作品になったわけです。


  ロンドンの、あるクラブの建物に滞在していたエジプト人が行方不明になり、そのお抱え運転手が殺害される。 あるはずのない絞首台の影を見る男が現れたり、エジプト人の愛人までが行方不明になったりと、複雑さを増すばかりの事件を、たまたま、ロンドンに滞在していた、パリ警察の頭目、アンリ・バンコランが、友人ジェフ・マールや、ロンドン警視庁の警部らをしきって、解決する話。

  正直な感想、前半は、退屈で、読むに堪えません。 文字を追っていても、頭に内容が入って来ないのです。 情景描写に凝り過ぎていて、地の文の比率が多く、話がなかなか進みません。 セリフと地の文のバランスが悪いんですな。 セリフが多過ぎても、軽くなって、読み応えがなくなってしまいますが、そちらの方が、話の筋を知りたい欲求で読み続けられるだけ、まだマシ。 延々と情景描写が続くと、「つきあいきれん」という気になるのは、私だけではありますまい。 読者に、読む気をなくされたのでは、小説そのものが成り立ちません。

  それに加えて、語り手役である、ジェフ・マールの、恋人とのやりとりを絡めてあるのが、実に鬱陶しい。 それが、事件本体とほとんど関係ないだけでも、邪魔臭いのに、無理やり関係づけようとして、エジプト人の愛人が、マールの恋人の家の隣に住んでいたなどという、ありえない偶然を入れているから、腹さえ立ちます。 こういう、不自然な設定は、カーの、後の作品でも見受けられます。

  ところが、途中で、第一段階の謎解き場面があり、その後、犯人を罠にかけるクライマックスに向かうと、急に、小説らしい格好がついてきます。 ≪蝋人形館の殺人≫ほどではないですが、アクション場面も盛り込まれていて、なかなかどうして、手に汗握らせます。 問題は、前半と後半で、あまりにも、話の展開のスピード感が違い過ぎるという事でしょうか。

  長編推理小説を、どういう風に書けばいいのか、作者自身が掴みきれないまま書いているのは、明白。 それでは、読者を楽しませるなど、とても、無理です。 つまり、この作品は、まだ、習作なんですな。 だけど、カーの場合、最盛期の作品であっても、「どれもこれも、素晴らしい」という事はなくて、結局、最後まで、よく分からないまま、長編を書き続けていたようなところもあります。

  私は、バンコランが探偵役の作品は、これで、全部読んだ事になりますが、やはり、バンコランは、失敗キャラとしか言いようがないです。 いや、キャラ設定で失敗しているのではなく、カーが、自分の作ったバンコランという人物を使いこなせていないのです。 理想的な探偵を作ったつもりだったのに、完全無欠過ぎて、作者の力量を超えてしまい、思うように動かせなかったのだと思います。 探偵は、頭がいい代わりに、どこか抜けたところを作っておかないと、嫌味な存在になってしまうのです。




  今回は、以上、5冊までです。 残りの冊数が、半端なので、調整に入っています。 この5冊は、2016年の、10月半ばから、11月下旬にかけて読んだ本。 その頃は、父の部屋の片付けを始めて、解体やら破壊やら分別やらで、悪戦苦闘・七転八倒していました。 遺品の処分というのは、お世辞にも、清潔な作業ではなく、思い出すのも、気が進みません。

2017/02/12

カー連読 ⑩

  写真を使ったシリーズが、一段落しましたが、これと言って書きたい事もないので、中断していた、ジョン・ディクスン・カーの作品の、感想文を出します。

  今回、出す本は、みな、相互貸借で、静岡県内各地の図書館から取り寄せて貰ったものなのですが、これが、申請してから、到着するまでに、早くて一週間、遅いと三週間くらいかかる。 その間、本がないときついから、繋ぎに、沼津図書館にある本を何冊か読んでいまして、それらに関しては、いずれ、読書感想文蔵出しで、紹介します。

  繋ぎに他の本を読んでいるという事は、もはや、「連読」とは言えないわけですが、今更、シリーズ・タイトルを変えるのも、混乱の元ですから、このままで、行きます。




≪四つの兇器≫

ハヤカワ・ポケット・ミステリ・ブックス
ハヤカワ・ミステリ
早川書房 1958年初版 1993年3版
ジョン・ディクスン・カー 著
村崎敏郎 訳

  これも、相互貸借で取り寄せてもらった本ですが、≪震えない男≫が、浜松三ケ日図書館の蔵書だったのに対し、こちらは、浜松市立図書館のシールが貼ってあります。 浜松は、市町村合併で、市域が驚くくらい広くなったので、図書館も幾つあるか分かりません。 いずれにせよ、遠い旅をして来た本である事に変わりはないです。

  発表は、1937年。 カー初期作品で、探偵役を務めた、アンリ・バンコランが登場する、最後の作品です。 バンコラン物は、1932年までに、4作書かれ、その後、フェル博士と、H.Mに、バトンを渡して、すでに、過去の探偵役になっていたのですが、5年後になって、新作が書かれたというわけです。 思うに、カーは、バンコランを充分に使い切らない内に、手放してしまったのを悔いていて、「最後の事件」を与えて、有終の美を飾らせたかったのではないでしょうか。


  パリに住む、富裕なイギリス人青年が、結婚を前に、以前関係があったフランス人娼婦に呼び出され、別荘へ行ってみると、彼女は殺されていて、現場には、尖端だけとがったナイフ、カミソリ、ピストル、劇薬の四種類の凶器の他、解釈のしようがない状況が多く残されていた。 以前から、娼婦の正体に気づいて、別荘を見張っていた、引退後のバンコランが、イギリス人青年が雇った弁護士らと共に、複雑に絡み合った事件の謎を解いて行く話。

  正直、バンコランが出ているという以外は、駄作としか言いようがありません。 大変、複雑な事件なんですが、複雑過ぎて、話を飲み込むのに、読書エネルギーを消耗してしまい、肝心の面白さを、まるで感じないのです。 前半から中盤にかけては、舞台や人物に動きが乏しく、セリフの羅列にうんざりします。 賭博クラブでのクライマックスは、本筋と関係が薄過ぎ。 知る人ぞ知るゲームのルール解説なんて、読めたもんじゃありません。 ラストはラストで、謎解きが長過ぎ。 2時間サスペンスか?

  初期のバンコラン物とは、だいぶ、趣きが異なり、バンコランは、惜しげもなく、ベラベラ喋りますが、これはこれで、キャラが一定していないと謗られても、返す言葉がありますまい。 バンコランのモデルは、間違いなく、デュパンだと思うのですが、デュパンが登場する作品が少な過ぎて、カーが、デュパンのキャラを把握しきれておらず、それが、バンコランにも影響して、こんな、よく分からない人格になってしまったのだと思います。

  複雑にすれば面白くなるわけではないという、悪い見本のようなストーリーにも、辟易します。 ラストは、探偵による謎解きと言うより、作者が探偵の口を借りて、苦しい言い訳を並べ、必死に辻褄合わせをしているかのようで、読みづらいにも程があります。 どんでん返しっぽいところもありますが、だから、駄~目だって、推理小説で、どんでん返しは。 白けちゃうから。



≪孔雀の羽根≫

創元推理文庫
東京創元社 1980年初版 1988年5版
カーター・ディクスン 著
厚木淳 訳

  相互貸借で、取り寄せを頼んだら、3週間後に届きました。 「掛川市立 大須賀図書館」の蔵書。 図書館を指定して頼むわけではないので、どこから来るのか分かりません。 いろんな所に、図書館があるものですなあ。 平成の市町村合併の結果、一つの市でも、図書館が複数ある場合があり、大須賀というのも、以前は確か、大須賀町だったと思います。 掛川の海の方。

  発表は、1937年。 H.M(ヘンリー・メリベール卿)が探偵役を務める作品としては、22作中、6作目。 これの次、翌年に、傑作、≪ユダの窓≫が発表されるわけですが、例によって、発表年が近いからと言って、内容に類似性は感じられません。 ちなみに、この作品の前は、≪パンチとジュディ≫ですが、そちらとも、趣向がまるで違います。


  「何月何日に、ある空き家に、十客のティー・カップが現れる」という予告状が送られた後、そこで殺人事件が起こったのが、二年前の事。 再び、似たような予告状が送られて来るが、今度は、警察が厳重に監視する中、またもや、殺人が起こる。 至近距離から射殺されているにも拘らず、犯人が部屋にいた形跡がない、不可能犯罪である。 孔雀の模様がある、ティー・カップや肩掛けが、秘密結社の存在を匂わせ、警察の捜査が混乱するのを尻目に、H.Mが、満を持して、謎を解く話。

  凝っているといえば、大変、凝っていて、この凝り方だけでも、力作と言えるのですが、では、名作や傑作と言えるかと言うと、「冗談も休み休み言え」と思うほど、それらからは遠いです。 事件そのものには、複雑な背景があり、よく考えられていますし、不可能犯罪のトリックも、まずまず、独創的だと思うのですが、このつまらなさは、何が原因なんでしょう?

  たぶん、書き方、というか、語り方が悪いんでしょうなあ。 動きが感じられるのは、空き家の張り込みがある冒頭部だけで、あとは、室内での、取り調べの会話ばかりが、ダラダラと続き、げんなしてしまいます。 カー作品には、こういうパターンのものが、結構あるのですが、もし映像化するとなると、関係者が一部屋に集まって、喋っているだけという、退屈な場面ばかりになると思います。

  H.Mシリーズではあるものの、まだ初期の内なので、H.Mのコミカルな場面は入っていません。 マスターズ警部が、容疑者に痴漢の濡れ衣を着せられる場面が、それに近いですが、書かれた当時はともかく、痴漢の冤罪事件が多い現代では、笑い所として受け入れてもらえないでしょう。 時代は変わるわけだ。

  トリックは、独創的と書きましたが、現実に、それができるのかとなると、話は別でして、よほど、運動能力に自信がある人間であっても、計画殺人の重要部分に、こういう、うまくいくかどうか大いに怪しい要素を入れないのでははないかと思います。 そこで失敗したとしても、何もかも駄目になるわけではありませんが、もし、思わぬ所に、凶器が落ちてしまった場合、犯人がどんなトリックを使ったかについて、警察に大きなヒントを与えてしまうと思うのです。

  こんな書き方をすると、何の事を言っているのか分からず、イライラすると思いますが、それは、読んでみれば分かります。 だけど、薦めるほど、面白くないので、困ってしまうのです。 後半に、もう少し、見せ場があればねえ。 秘密結社の謎が解けて行くにつれ、冒頭に漂っていた、謎めいたゾクゾク感が退潮してしまうのが、惜しいです。



≪疑惑の影≫

ハヤカワ・ミステリ文庫
早川書房 1982年発行
ジョン・ディクスン・カー 著
斎藤数衛 訳

  相互貸借で、富士宮市立図書館から取り寄せてもらった本。 82年の初版本にしては、状態が良く、大勢に借りられた形跡はありませんでした。 カー作品は、後期になると、推理物のレベルが落ちて来るので、最盛期の代表作と比べると、注目度が落ちるのは、致し方ないところ。

  発表は、1949年。 ギデオン・フェル博士が探偵役を務める作品としては、23作中、18作目。 後期ですなあ。 まだ、後期作品の全てを読んだわけではないですが、何となく、戦前・戦中作品と、戦後作品とでは、毛色が違うように感じられます。 質も落ちますが、作者自身が、もう、推理小説に飽きているような気配が感じられるのです。


  腕利きの弁護士が、雇い主の夫人を毒殺した若い女を、クロと感じながらも弁護して、無罪を勝ち取るが、判決の出た日に、その夫人の姪の夫が、同じ毒物で殺される。 夫人の姪に惚れた弁護士は、先の裁判での自分の主張が、彼女に不利な証拠となってしまう事に頭を悩ませつつも、彼女を助けようと尽力する。 一方、悪魔崇拝の集団が、連続毒殺事件を起こしている事を調べていたフェル博士が、この二つの事件にも関わって来て、弁護士を援けながら、謎を解いて行く話。

  バラバラです。 一つの話になっていません。 不可能犯罪のトリックが仕組まれている、二つの毒殺事件を軸にしているのですが、怪奇風味を盛り上げる為だけに、悪魔崇拝などという月並みな背景を持ち出した上に、メインの事件と何の関係もない、格闘アクション場面を見せ場にするという、水と油で木に竹を接ぐような真似をしたせいで、何が言いたいのか、さっぱり焦点を結ばない、キメラ・ストーリーになってしまっています。

  格闘アクション場面は、カーの歴史ミステリーである、≪恐怖は同じ≫や、≪火よ燃えろ!≫の見せ場と、全く同じ趣向でして、その部分だけ読めば、手に汗握る面白さを感じるのですが、本格推理物に嵌め込むとなると、蛇足としか思えません。 また、中心人物である弁護士のキャラが、その二作の主人公のキャラと、瓜三つ。 推理小説というより、武侠小説の主人公に相応しい。

  トリックは、時間差を利用したもので、カー作品では、類似のトリックが、よく使われます。 二つの事件の犯人が錯綜している点は、この作品独特かも知れませんが、ちょっと、偶然が過ぎるような気がせんでもなし。 確かに、こうと入り組めば、謎めいた事件になりますが、現実に起こ得るかどうかは、大いに怪しいです。

  フェル博士は、謎解きだけを受け持っており、それは、前期作品でも変わらないのですが、この作品では、実質的主人公が他にいるせいで、えらく、影が薄くなっています。 そういや、カー作品を読み始めた頃は、フェル博士とH.Mを、区別していなかったのですが、今はもう、全然違うキャラである事が分かっています。 フェル博士は、キャラの特異性に於いて、H.Mに、全く敵いません。 ただの謎解きマシーンに過ぎず、キャラが付与されていないといってもいいです。



≪眠れるスフィンクス≫

ハヤカワ・ミステリ文庫
早川書房 1983年発行
ジョン・ディクスン・カー 著
大庭忠男 訳

  これも、相互貸借で、富士宮市立図書館から取り寄せてもらった本。 表紙絵が、タロット・カードをあしらったものになっていて、これは、その後の、ハヤカワ・ミステリ文庫のカー作品で、よく見る事になるパターンです。 タロットに詳しい人なら、そのカードが選ばれた理由も分かるんでしょうが、私は、さっぱりでして、わざわざ、調べようという気にもなりません。

  発表は、1947年。 ギデオン・フェル博士が探偵役を務める作品としては、23作中、17作目。 ≪疑惑の影≫が、18作目ですから、こちらの方が早いわけですが、同時に借りたのに、なぜか、先に、≪疑惑の影≫の方を読んでしまいました。 例によって、発表年が近くても、内容に類似性はありません。 これも、戦後発表作なので、最盛期のような勢いは感じられません。


  大戦中、諜報機関に属していたせいで、誤って、戦死扱いにされていた男が、7年ぶりに家に戻る。 出征前に思いを寄せていた女性は、まだ、独身でいたが、彼女は、脳出血が原因とされていた姉の死を、その夫に虐待された挙句の自殺であると主張して、姉婿から精神異常者扱いされていた。 フェル博士の導きで、彼女や、その姉、姉婿の秘密を知る事で、事件の真相に迫って行く話。

  出だしの設定が、バルザックの≪シャベール大佐≫そのものでして、良く言えば、落ち着いた、悪く言えば、陰鬱な雰囲気で始まり、純文学的な奥深さを期待させるのですが、本格トリックで有名になったカーが、そういう話を思いつくはずかないのであって、少し進むと、実質的主人公が、戦死扱いになっていた事は、どこかへ消えてしまいます。 終わりの方で、申し訳程度に、その事に触れられますが、そんな設定はなくたって、ストーリーの方は、充分、成立します。

  カー作品にたまに出てくる、事件の主要な関係者の中に、精神異常者が含まれているという設定も、あまり、感心しません。 明らかに頭のおかしい人間がいたら、ちょと話しただけでも、分かるんじゃないですかねえ? 当人が隠して、隠しおおせる事ではないと思うのですが。 関係者に、医師が混じっていれば、尚の事。 正常者と異常者の区別がつかないような医師では、話になりません。

  推理小説として、もっと困るのが、「主要な証言者の中に、嘘をついている者がいる」という設定です。 基本的には、物語の語り手が嘘をついていなければ、フェアと見做されるのですが、語り手でなくても、嘘の証言が出て来ると、読者は、誰の話を信じていいか分からないから、推理しながら読む事ができなくなってしまいます。

  嘘の証言が含まれる場合でも、早い段階で、「一体、誰が嘘をついているのか?」といった問題提起を行なって、探偵役が嘘を見破るところを、話の焦点にすれば、それなりに面白くなるのですが、この作品に出てくる嘘は、焦点どころか、ちょっとしたついでに過ぎず、「こんなの、分かるわけがない!」と、呆れてしまうのです。

  フェル博士が探偵役なので、探偵物の魅力も、ほとんど感じません。 ただ太っているというだけで、性格的に、特徴がないのは、いかがなものか。 誰も入らなかった納骨堂で、棺桶が散乱している謎は、全く大した事がなく、探偵でなくても分かります。



≪囁く影≫

ハヤカワ・ミステリ文庫
早川書房 1981年発行 2000年2刷
ジョン・ディクスン・カー 著
斎藤数衛 訳

  相互貸借で借りた本。 静岡市立図書館の蔵書です。 1981年が初版で、第2版が、2000年というのは、密かに凄いですな。 19年もかけて、最初に刷った分が捌けて、次を刷る事になったんでしょうなあ。 少しずつだけれど、19年も売れ続けたというのは、典型的な古典作品の売れ方でして、カー作品が、古典に殿堂入りしている証拠だと思います。

  発表は、1946年。 ギデオン・フェル博士が探偵役を務める作品としては、23作中、16作目。 この後が、≪眠れるスフィンクス≫。 この前が、≪死が二人をわかつまで≫ですが、それは、1944年の発表で、フェル博士シリーズの方は、1945年の発表作がありません。 一方、H.Mシリーズの方は、戦時中も毎年出ています。 これは、H.Mの肩書きが、陸軍情報局の高官なので、戦争絡みのネタが使いやすかったからでしょうか。 ただの犯罪学者であるフェル博士は、時代に合わなかったのかも知れません。


  戦前に、フランスのシャルトルという土地で、在住のイギリス人事業家が、他に人がいない塔の上で変死する事件が起こる。 その容疑者だった司書の女が、6年後、イギリスに帰って来て、司書を探していた青年に雇われるが、雇ったその晩に、青年の妹が何者かに襲われ、重い精神的ショックを受ける事件が起こる。 フランス人の文学教授が、吸血鬼の仕業ではないかと警告を発する中、フェル博士が、女司書の性格や、最初の犠牲者の家族の素性を調べ、謎を解いて行く話。

  この、フランス人の文学教授というのは、リゴーという人なのですが、この人が、カー作品にしては、ちょっと変わった人物で、性格的には、別に変人ではないんですが、役回りが変わっていて、読者をミス・リードする為に、わざわざ、フェル博士以外に、もう一人、権威筋を出しているんですな。 いや、こう書いても、ネタバレにはなりません。 吸血鬼が出て来た時点で、カー作品にそんなのが、アリでない事は明白ですから、すぐに、リゴー氏が間違っている事はわかります。

  最初の事件は、リゴー氏の口から語られるのですが、普通、作中で、昔の出来事として語られる話は、退屈と相場が決まっているのに、この小説では、なぜか、その部分が、最も面白いです。 これも、リゴー氏の変わった役回りのお陰なのかも知れません。 リゴー氏本人が何者なのかよく分からない状態で語り始めるので、妙に、興味が湧くんですな。 もし、フェル博士が語っていたら、こんな効果は出なかったでしょう。

  前半に、充分なゾクゾク感があるのに対し、後半で、地下鉄を使った追跡場面があったり、関係者の性格分析を後付けするといった、カー作品によくありがちな展開になるのが、ちと、難あり。 事によると、前半の風変わりな趣きは、狙って書いたものではなく、たまたま、そうなっただけなのかも知れませんな。

  もっと、重大な欠点もあります。 犯人が、実質的主人公の青年と知り合う部分が、あまりにも偶然に頼り過ぎています。 普通に考えると、犯人と青年が、知らない内に、知り合いになっている必然性は、全くないです。 もう一割書き足して、犯人と青年の因縁話を補強すれば、自然になったんですがね。 この事は、訳者による解説でも触れられているのですが、あっさり見過ごすには、大き過ぎる問題点だと思います。



≪五つの箱の死≫

ハヤカワ・ポケット・ミステリ・ブックス
ハヤカワ・ミステリ
早川書房 1957年初版 1989年再版
カーター・ディクスン 著
西田政治 訳

  相互貸借で、静岡市立図書館から取り寄せられた本。 沼津の図書館で借りて来る時に、「古い本なので、取り扱いに気をつけてください」と、事前注意を受けました。 しかし、89年なら、それほど、古いわけではないのでは? 初版が57年で、再版が89年というのは、凄い。 ただ、これは、32年間、細々と売れ続けたわけではなく、初版限りで絶版になっていたのを、復刻したんじゃないでしょうか?

  発表は、1938年。 H.M(ヘンリー・メリベール卿)が探偵役を務める作品としては、22作中、8作目。 なんと、傑作、≪ユダの窓≫と同じ年に発表された作品です。 弥が上にも、期待が盛り上がるところですが、未だ嘗て、カーの作品で、期待して面白かった例しがありません。


  毒物学研究所に勤める若い医学者が、街なかで出会った女性に頼まれて、あるビルの部屋に一緒に入ると、テーブルを囲んだ、四人の動かない人間がおり、全員、毒を飲まされ、うち一人は、仕込み杖で刺殺されていた。 生き残った三人の供述では、毒がいつ盛られたか、全く分からないという。 一方、死んでいた男が、弁護士事務所に預けてあった五つの箱に収められていた物が盗まれ、それが、毒を盛られた三人のポケットから発見される。 事件現場の発見直後に、階下の事務所から姿を消した男も含めて、複雑に絡み合った事件の背景を、H.Mとマスターズ警部が解いて行く話。

  複雑過ぎて、全然、面白くありません。 大したページ数でもないのに、横になって読んでいると、必ず眠ってしまう、特異なつまらなさを備えています。 訳文が古過ぎて、意味を取るのに難儀するという問題もありますが、話そのものがつまらなくなければ、こんなにひどくはならないでしょう。 このつまらなさは、≪白い僧院の殺人(修道院殺人事件)≫以来です。

  事件の背景に奥行きを与えようとするあまり、明らかに行き過ぎて、必要以上に煩雑になってしまったものと思われます。 そのせいで、ラストの謎解きが、辻褄合わせに終始する事になり、最後の5ページですら、睡魔の襲撃から逃れられません。 H.Mが、延々と、推理が遅れた言い訳をしているようで、読むに耐えないのです。

  謎の中心が、五つの箱なのか、毒を盛った方法なのか、被害者の性格なのか、読者側には、焦点が定まりません。 なんでも、たくさん、盛り込めばいいというわけではないと思うのですがねえ。 もしかしたら、短編用に考えてあったアイデアを、みんな、ぶちこんで、長編に仕立てたのではないでしょうか? ≪ユダの窓≫の後だから、当然、出版社や読者からは、傑作を望まれていたはずですが、そうそう、立て続けに、傑作級のアイデアが出て来るわけもなく、質より量でごまかしたのではないかと勘繰りたくなります。

  カー作品には、探偵役とは別に、実質的な主人公となる、物語の中心人物が出て来るのですが、この作品では、それが、転々としまして、誰の視点で事件を見ているのか、分からなくなってしまいます。 ポラード巡査部長というのが、その一人なのですが、ただの警官でして、なんでまた、彼を視点人物にしたのか、理由が解せません。 描写が立体的になると考えたんでしょうか? 鬱陶しいだけだと思うんですが。

  ところで、H.Mシリーズといえば、後期作品に於ける、コミカルな場面が魅力ですが、どうやら、それは、この作品での登場場面から始まったようです。 ただし、滑稽なだけですけど。 そして、登場場面だけが、コメディーで、その後は、砂を噛むようにつまらなくなります。 H.Mらしい高飛車な推理の切れ味は、まるで感じられません。

  ちなみに、毒を盛った方法のトリックは、今なら、誰でも、どこかで聞いた事があるようなもの。 もしかしたら、これが最初の使用例なんすかね? いや、そんな事もないと思うんですが・・・。 今では、あまりにも、ありふれたトリックになってしまっているが故に、いつ誰が使い始めたのか、考えた事もありませんでした。

  それらはさておき、この訳文の古臭さと言ったら・・・。 「卓子」と書いて、たぶん、「テーブル」と読ませたいのだと思うのですが、厳しいですなあ。 「たくし」なんて言葉はないですよねえ。 中国語なら、ありますけど。 1957年というのは、こういう文字使いが、まだ、幅を利かせていた時代だったんでしょうか。




  今回は、以上、6冊までです。 2016年の、8月下旬から、10月半ばにかけて読んだ本。  ちなみに、今現在、カーの本は、ほぼ読み終わっています。 というか、つい数日前に、最後の一冊を返したばかりでして・・・。 まだ、手に入れられる本もあるのですが、残るは、歴史ミステリーばかりでして、あまり、興味が湧かないのです。

  一人の作家の作品を、8割方読んでしまうと、得てして、全て読まないといけないような強迫観念に襲われるものですが、私は別に、カーのファン・クラブに入って、コアな批評に花を咲かせようと目論んでいるわけではないですから、そんな義理はないという事で、このくらいで、やめにしておきます。

2017/02/05

三島スカイウォーク ②

  三島スカイウォーク見聞記の後編です。 




≪写真1≫
  スカイウォークの、北側の柱。 巨人の股の下という感じ。 こんな大きなパイプを、どうやって作ったんでしょうねえ。

≪写真2≫
  北側に着きました。 最初に書いた通り、この橋は、どこへ繋がっているというわけではなく、ただ、吊り橋のスリルと、富士山の眺めを楽しむ為だけの橋です。 往復券しか売ってないのですから、客は全員、同じ橋を引き返して、帰る事になります。

≪写真3≫
  北側にも、平地があり、露店が出ています。 飲食店や、アクセサリー類の土産物を売っていました。 車が入れるという事は、車で、ここに来れる道があるという事ですが、このスペースに入れるのは、営業を許可された業者だけなのでしょう。 変わった車が写っていますが、これは、旧車ではなく、ワン・ボックス軽の、レトロ仕様ですな。

≪写真4≫
  北側のワイヤー基礎。 なんだか、地球防衛軍の兵器みたいです。 この上にも上る事ができますが、大して、眺めがいいわけではありません、



≪写真1≫
  北側のエリアを、展望所から、見下ろした写真。 全体の3分の2くらいが写っています。 結構、広い。 駐車場のように、区画線が引かれていますが、無視して使っている模様。 もしかしたら、北側からも、車で入場できるように構想していたのが、方針変更されたのかも知れません。

  後ろに、富士山が見えます。 スカイウォークの売りの一つは、富士山が見える事ですから、展望所から見えるのは、当然の事。 というか、北側エリアから、富士山を見えるようにする為に、この展望台を作ったのかも知れません。

≪写真2≫
  展望所のすぐ、山側。 舗装道路がありますが、私道なのかもしれません。 公道に繋がっているにしても、車が入れないようにするゲートがあるんじゃないかと思います。 歩きで来れば、入れそうですが、箱根の中腹ですから、麓から歩いて来たら、帰りには、日が暮れてしまいそうですな。 南側駐車場に車をとめて、山の中を歩いた場合、ここまで、どれくらいあるんですかねえ?

  青い服を着た人達は、スギ・ヒノキ林の整備をしているようでしたが、山の中で、実際に作業をしている林業関係者を見るのは、かなり、稀有な体験です。

≪写真3≫
  展望所から見た、北側の柱。 人間が歩く部分の幅の狭さと比べると、アンバランスなくらい、背が高いですが、これは、橋が長いからです。



≪写真1≫
  左側は、入場券。 南側の入場ゲートを入る時に、青いスタンプを押され、北側から、橋に入る時に、赤いスタンプを押されます。  こういう写真は、その場で撮影しておかないと、元の状態や、中間状態が分からなくなってしまいます。 デジカメならではの利用法でして、フィルム・カメラの頃には、記録の為に、入場券を撮影するなど、馬鹿も休み休みやる事でした。 ちなみに、今のスタンプは、すぐに乾くようですな。

  右の写真は、橋の上で、足元のグレーチングを透して、下を撮影したもの。 前を歩いていた人が、熱心に撮影していたので、真似して撮ってみましたが、お世辞にも、よく見えるとは言い難く、もちろん、怖さなど、全然、感じませんでした。 物を落とした時に、グレーチングの隙間から下へ落ちたら大変だから、目が細かい物を選んであるのかも。 透明のプラスチック板で覆ってしまえば、目をもっと大きくできますが、風の関係で、面をべたっと覆うのは、駄目なのかもしれませんな。

≪写真2≫
  橋の上からの眺め。 富士山と、愛鷹山が見えます。 愛鷹山は、富士山や箱根が生まれる前に、この辺最大の火山だった山。 こうして、裾野の広さを比べてみると、富士山よりも大きい山だったのかもしれません。 愛鷹山の左に見えているのは、遥か遠くの、南アルプスです。

≪写真3≫
  三島市街地や、清水町、沼津市方面を見た景色。 海の手前に、沼津アルプスが見えます。 海の向こうに見えるのは、伊豆半島・西北部の山々。

≪写真4≫
  ちょっと、幻想的な写真が撮れていたので、出しておきます。 写っているのは、南側の柱です。 曇りでも、曇りならではの写真というのが、たまーに撮れるものですが、これは、その典型。



≪写真1≫
  南側に戻り、橋の袂にある、南側の展望所に上ってみました。 そんなに高くはないのですが、ここからの橋の眺めが、一番優れていました。 富士山も見えるし。 最初に、ここに上がればよかった。 いや、ここも、もちろん、有料エリアなんですがね。 タダで、この景色は見られません。

≪写真2≫
  南側の展望所から、望遠で撮った橋の一部。 渡っている時より、こうして、遠くから見る方が怖いです。

≪写真3≫
  南側展望所から、橋の袂の広場を見下ろしたところ。 結構、広いです。 記念写真の雛壇も見えます。 だけど、少人数なら、展望所に上って撮った方が、いい写真になるかも。

≪写真4≫
  無料エリアに戻って来ました。 写真は、見ての通りの、自動販売機ですが、茶色に塗られています。 景観に配慮しているんでしょうなあ。 飲み物の値段は、見て来ませんでした。 無料エリアだから、他と変わらないかもしれません。




  この後、駐車場に戻り、家へ帰りました。 滞在時間は、約一時間でした。 私らの場合、昼前には家に戻る予定で来たので、早々と引き揚げましたが、ゆっくりすれば、2時間くらいは、楽しめる所だと思います。

  母が一緒だったから、有料エリアに入りましたが、私一人だったら、千円払わなかったと思います。 もっとも、それは、家から30分くらいの近場だからであって、もし、遠くから来たのなら、橋を渡らなければ、来た意味がないのは、言うまでもない事です。