カー連読 ⑫
今回も、カーです。 カー、カーと、カー作品の感想ばかり、12回も続けて来ましたが、そーんなに熱中して読んだのなら、さぞや、熱烈なファンになった事だろうと思いきや、とんーでもな! そんな事は全然ないのであって、むしろ、読めば読むほど、冷める感覚を味わっています。 特に、今回紹介する、≪赤い鎧戸のかげで≫には、トドメを刺された感があり、読まなきゃ良かったと、つくづく思っています。 コンプリート読破なんて、酔狂でするもんじゃありませんな。
≪赤い鎧戸のかげで≫
ハヤカワ・ミステリ文庫
早川書房 1982年発行
カーター・ディクスン 著
恩地三保子 訳
相互貸借で、浜松市立図書館から取り寄せてもらった本。 「閉」のシールが貼ってあるので、閉架に入っていたんでしょう。 結構、読んだ形跡があるところを見ると、30年くらいは、開架にあったのでは? 表紙絵は、山田維史さんの、タロット・カードをモチーフにしたものですが、このシリーズには珍しく、あまり、パッとしない絵です。
発表は、1952年。 H.M(ヘンリー・メリベール卿)が探偵役を務める作品としては、22作中、21作目。 前作の≪魔女が笑う夜≫で、H.Mシリーズの終わりの始まりを感じた私ですが、その読みは、間違っていなかったようで、この≪赤い鎧戸のかげで≫は、もっと、ひどくなっています。
国際管理地域だった、モロッコのタンジールを訪れたH.Mが、地元の警視総監から、仕事の際に、必ず、鉄の箱を抱えている事から、「鉄の箪笥」と呼ばれている宝石泥棒を捕まえてほしいと頼まれて、スペイン系の警視や、イギリス人の作家夫婦と協力しながら、宝石泥棒の共犯者で、腕っ節の強いロシア人と戦いつつ、宝石泥棒の正体を暴く、ミステリー活劇。
タンジールは、現在では、モロッコに返還されて、タンジェと呼ばれている街ですが、この作品の頃には、国際管理地域で、スペイン人が多く入植し、フランス人が政治を動かしていたそうです。 だけど、話にフランス人は出て来ません。 警視総監はベルギー人。 警察の管理職はスペイン人。 平の警官は、アラブ人。 そして、街に住んでいる一般人は、アラブ人が多いという構成。 カーは、一時期、タンジールに住んでいた事があるそうで、その時の経験から、ここを舞台にしたのでしょう。
一口で、感想を述べると、しょーもないです。 しょーもなさ過ぎて、もはや、「珍作」の部類に入れた方がいいのではないかと思うほど。 とても、≪ユダの窓≫と同じ作者が書いた小説とは思えません。 カーの悪いところを、一作に凝集したような感じ。 一応、トリックや謎もありますが、それは、オマケ扱いでして、ほぼ、全編、アクション活劇になっています。 その点が、そもそも、推理物としては、欠陥商品なのですが、この作品の問題点は、それに留まりません。 以下、ネタバレを含みます。
一番、まずいと思うのは、取って付けたように、「反共主義」が盛り込まれている事でして、ストーリー上は、全く不要であるにも拘らず、宝石泥棒の共犯者を、共産主義者の設定にして、とことん、ろくでなしの卑怯者の極悪人に仕立て、惨めな最期に追い込んでいます。 繰り返しますが、そんな設定は、ストーリー上、要らないのに、わざわざです。
カーが、社会主義嫌いだったのは、他の本の解説などで知っていましたが、創作作品の中で、ここまで、自分の思想信条を剥き出しにしてしまうと、もう、あきません。 別に、特定の政治思想を、貶さなくても、讃えなくても、推理小説は成り立つのであって、作者の思想を盛り込むなどという行為は、蛇足でしかありません。 良識ある読者なら、眉を顰めないわけにはいきますまい。
カーは、第二次世界大戦後、イギリスの労働党政権が気に入らなくて、アメリカへ帰るのですが、その頃アメリカでは、マッカーシズム、つまり、赤狩りが盛んになっていて、カーにしてみれば、我が意を得たり的な状況になっていたわけです。 アメリカなら、いくらでも、共産主義批判できると思って、この一作に、どかっと盛り込んでしまったんでしょうなあ。 出版社の方は、「うっ、これは・・・」と、額に汗が浮かんだと思いますけど。
カーの他の作品でも出て来た、ロシア文学批判は、この作品の中でも、≪アンナ・カレーニナ≫を扱き下ろす形で出て来ます。 しかも、H.Mに語らせているから、目も当てられない。 カーの場合、「共産主義のソ連が嫌いだから、ロシア文学も嫌い」という、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い的な発想で、ロシア文学を批判しているのではなく、明らかに、ロシア文学の価値を理解できていないものと思われます。 だけど、たとえ、当時住んでいたのが、アメリカであっても、知識人が相手なら、それを主張すればするほど、立場が悪くなったんじゃないでしょうか。 知識人の評価が高い物を馬鹿にすると、馬鹿にした方が、馬鹿扱いされるのが普通ですから。
H.Mの人格設定に、ロシア文学嫌いを追加してしまったせいで、せっかくの面白い探偵キャラを台なしにしてしまいました。 「癇癪もちな上に、悪戯好きで、子供のようなところがあるが、頭は飛びぬけて良く、風変わりながらも、紳士的良識も持ち合わせている」という基本キャラと、ロシア文学をゲスな言葉で扱き下ろす姿が、一人の人間として、像を結ばないのです。 作者の思想を無理やり代弁させているのですから、そうなるのも当然の事。
呆れた事に、この話の中で、H.Mは、ナイフ殺人まで犯します。 襲って来た賊を退治したという設定なのですが、傷害ならまだしも、殺してしまったのでは、探偵役になりますまい。 もしかしたら、ハード・ボイルド型探偵小説の影響を受けたのかも知れませんが、H.Mは、頭脳型の典型のような探偵ですから、まるで、似合いません。 ミイラ取りがミイラなのであって、こんなの、ただの人殺しですわ。 いくら、活劇だからって、こんな場面は、全く不要。 H.Mが、夜中の捕り物に自らしゃしゃり出て行く必要すらないです。
クライマックスは、宝石泥棒の共犯者であるロシア人を相手に、負傷したスペイン人警視の代理として、イギリス人作家が、ボクシングの試合をする場面なのですが、ここも、奇妙奇天烈。 つまるところ、「卑怯で極悪なロシア人を、スポーツマン・シップを尊重する、勇気に満ちたイギリス人が、正々堂々、叩きのめす」という情景を描き込みたくて仕方がないらしいのですが、そもそも、相手は、その場から脱出しようとしていたのを、スペイン人警視が銃で脅して、無理やり、試合させたのであって、卑怯なのは、させた方としか思えません。
そんな設定ですから、ボクシングの試合は、やる前から、結果が分かっており、面白くもなんともありません。 よってたかって、ロシア人をなぶり殺しにしただけ。 作者が、自分の思想信条にのぼせて、ストーリー構成の判断力を失っており、何を書いているのか、分からなくなってしまったのだと思います。 繰り返しますが、心底、≪ユダの窓≫と同じ作者が書いた小説とは思えない。 あちこち、無理だらけで、もはや、ムチャクチャと言ってもいいです。
更に、呆れた事に、宝石泥棒の正体が、大変、意外な人物で、普通なら、意外な人物が真犯人だと、「おおっ、そうだったのか!」と驚くものですが、この作品の真犯人には、「はあ~っ? 何それ?」と首を傾げてしまう意外さを感じるのです。 私は、その瞬間、作者が、狂ったのかと思いました。 明らかに、矛盾する部分が出て来るからです。
ラストで、H.Mによる謎解きがあり、そこを読むと、一応の辻褄は合わせてあって、別に、作者が狂ったわけではないようだと、少し安心します。 しかし、それはさておき、真犯人の行動の動機が、無理やりのこじつけであるのは、否めません。 また、H.Mがとった、真犯人の処分方法が呆れる。 H.Mのナイフ殺人も含めて、警視総監が、不問に付しているのも呆れる。 こんな、恣意的で、いい加減な連中には、法を執行する資格はありません。
これだけ、貶せば、充分なようですが、まだ、あります。 アラブ人(ムーア人)の描き方が、偏見と差別意識剥き出しで、げんなりさせられるのです。 カーの世界観は、驚くほど狭くて、興味があるのは、イギリス、アメリカと、せいぜい、フランスだけで、それ以外は、「どうでもいい所」、もしくは、「いずれ、滅びて然るべき所」と思っていたのではないかと思います。 ≪アラビアンナイトの殺人≫という作品もありますが、上っ面の知識だけで書いたものだった事が、この作品を読んで、よく分かりました。 実際に、アラブ地域に住んでみたら、自分の空想していたのと違うので、一気に嫌悪し始めたのではないでしょうか。
同時代のアガサ・クリスティーにしても、外国への興味は、エジプトくらいが限界で、インドですら、ほとんど、眼中になく、中国や日本に至っては、産物でしか知らないレベルでしたから、カーの世界認識が、特別、狭かったとも言えませんが、それにしても・・・。 外国や異民族の事を扱き下ろすような事はしないのが、知識人の良識というものでしょう。 そして、全盛期のカー作品でも、その良識は、ちゃんと備わっていたのです。 衰退期に入ってから、おかしくなって来たんですな。
というわけで、この作品、どこが悪いというより、全て悪いです。 誉められるところが、一点たりとも見当たりません。 駄作と呼ぶのも、まだ、誉め過ぎ。 珍作としか、言いようがないのです。
≪騎士の盃≫
ハヤカワ・ミステリ文庫
早川書房 1982年発行
カーター・ディクスン 著
島田三蔵 訳
相互貸借で、浜松市立図書館から取り寄せてもらった本。 これにも、「閉架」のシールが貼ってあります。 状態は、同時に取り寄せた、≪赤い鎧戸のかげで≫と、同程度。 恐らく、同じ時に購入されて、一方を読んだ人は、もう一方も読むという具合に、同じくらいの数の利用者に借りられて来たのでしょう。
発表は、1953年。 H.M(ヘンリー・メリベール卿)が探偵役を務める作品としては、22作中、22作目。 とうとう、H.Mシリーズの最終作です。 ≪赤い鎧戸のかげで≫が、政治臭がひどくて、まともに批評できないような内容だったので、翌年に書かれたこれも、どんなものかと、警戒しながら読む事になりました。 ちなみに、H.Mシリーズは、1953年までですが、カーの長編推理小説は、フェル博士シリーズの方で、14年後の、1967年まで書き続けられます。
歴史ある貴族の館にある「オークの間」に、鍵をかけて籠った当主が眠り込んだ間に、何者かが侵入し、金と宝石でできた「騎士の盃」を、金庫から出したにも拘らず、盗まずに置いて行く事件が起こる。 当主の妻に依頼された警視庁のマスターズ警部が、同じ部屋で、一晩を過ごしたところ、またもや、何者かが侵入し、警部は頭を殴られて昏倒してしまう。 隣の屋敷に住んで、イタリア人教師を相手に、歌の練習をしていたH.Mが、教師もろとも乗り込んできて、謎を解く話。
H.Mシリーズの最盛期から後は、コミカルな場面が必ず挟まれるようになって、フェル博士シリーズと、差別化が計られるのですが、最終作では、その極に達したようで、全編に渡って、ナンセンス・ギャグで埋め尽くされる事になります。 これは、もはや、推理小説ではなく、推理物の要素を含む、コメディーに分類するのが適当かと思います。
思わず、笑ってしまうところも少なくないのですが、「推理小説のシリーズでやる事ではないなあ」と、呆れる読者の方が多いのではないでしょうか。 ナンセンス・ギャグだらけの小説なんて、洋の東西を問わず、あまり、例がないので、ジャンルとして、独立していないのだと思います。 もし、こういうのが大ウケしたのなら、カー本人が、もっと同類作を書いていたはず。
小説では、例がないですが、映画でなら、ナンセンス・ギャグのコメディーは、無数にあります。 カーは、たぶん、そういうのが好きだったろうと推測されるので、もしかしたら、映画の原作にするつもりで書いたのかも知れません。 だけど、映画人には、たとえ、原作者を部外者扱いする傾向があるから、このまま、映像化してくれる会社など、なかったでしょう。 そもそも、真面目な推理物であっても、カー作品が原作の映画というのは、一本もないか、それに近い状態のようです。
密室トリックの方は、機械的・道具的なもので、正道と言えば正道。 しかし、技術や技術史に関する知識がないと、推理のしようがないという点では、邪道です。 推理小説を読む人は、ほとんど、文系でして、鉛管工の仕事内容なんて、知ってるわけがないです。 しかも、その技能を利用する犯人の本業が、まるで、畑違いなのに、無理やり、鉛管工の経験があった事にしているのは、なんとも、苦しい設定ですな。
そんな事を言い出せば、事件が起こった屋敷の隣に、たまたま、引退したH.Mが住んでいるというのも、偶然が過ぎます。 他にも、やたらと、偶然に頼る設定が多くて、真面目な推理物としては、どうしても、評価外になってしまいます。 だけど、カーが、この作品でやりたかったのは、ナンセンス・コメディーなのだと思えば、腹を立てる方が、不粋というものなのかも。
そういう、脱線してしまった最終作なのですが、≪赤い鎧戸のかげで≫のように、猛烈な政治臭が漂っているよりは、コメディーの方が、遥かにマシです。 正直に言わせてもらえば、≪赤い鎧戸のかげで≫は、H.Mシリーズから、外してもらいたいくらいです。 ≪騎士の盃≫の中にも、労働党批判が出て来ますが、小説世界を破壊する程ではなくて、大抵の読者は、問題にしないでしょう。
H.Mシリーズが、フェル博士シリーズより早く終わってしまった理由は、よく分かりません。 終わりが近いから、ヤケクソで、メチャクチャをやったのか、メチャクチャをやったから、終わってしまったのか、作者が終わらせたくて、わざと、メチャクチャをやったのか、出版社の事情があったのか・・・。 ≪墓場貸します≫までのH.Mなら、まだまだ、続編を望む読者が多かったと思うのですがねえ。
≪第三の銃弾 [完全版]≫
ハヤカワ・ミステリ文庫
早川書房 2001年発行
カーター・ディクスン 著
田口俊樹 訳
≪騎士の盃≫を最後に、H.Mシリーズを読み終え、フェル博士シリーズも、だいぶ前に読み終えていたので、カーの長編推理小説で、残っているのは、ノン・シリーズだけになりました。 2016年12月15日に、図書館へ行って、三冊分、相互貸借を頼んだのですが、年末年始を挟んだせいで、取り寄せ作業が停止していたそうで、借りられたのは、2017年の1月7日でした。 3週間ちょい、かかった事になります。 浜松市立三ケ日図書館の本で、まだ開架にあるようです。
発表は、1937年。 カーター・ディクスン名義ですが、H.Mシリーズではなく、別の出版社から出された複数の作家によるシリーズ物に提供された作品だそうです。 そのせいで、長らく埋もれていたのを、1948年になって、エラリー・クイーンの一人である、フレデリック・ダネイが発掘して、自分達の雑誌に掲載したのですが、その際、紙数の都合で、大幅に短縮されてしまったとの事。
日本では、その短縮版の方が先に訳されて、創元推理文庫の、カー短編全集2、≪妖魔の森の家≫に収録されています。 後になって、元の長編を訳したのが、ハヤカワ文庫の、この本という事になります。 ややこしい。 つまり、短縮版と完全版は、同じ話なのでして、≪グラン・ギニョール≫と≪夜歩く≫のような、ストーリー上の内容の違いはありません。 というわけで、あらすじは、短縮版の感想を書いた時の物を、移植します。 訳者が違うので、人物の肩書きに異同があり、そこは、修正しました。
退官した判事が、以前、鞭打ち刑を言い渡した青年に恨まれて、自宅の離屋で射殺される。 ところが、青年の撃った弾は壁に当たっていて、もう一丁の銃が、部屋に置いてあった大きな花瓶の中から発見される。 更に、判事の遺体を解剖したところ、空気銃の弾で殺されていた事が分かり、容疑者が一人、銃が三丁という、奇妙な状況の下、ロンドン警視庁警視監マーキス大佐らが、謎を解いて行く話。
≪第三の銃弾≫という作品を楽しむのであれば、圧倒的に、完全版の方が、面白いです。 短縮版では、ざっくり削られていた、探偵役のマーキス大佐と、ペイジ警部らの人物描写や会話が、実に活き活きしていて、そこが、読者をひきつけるのです。 これを削らざるを得なかった、フレデリック・ダネイは、正に、身を切られる思いだったでしょうねえ。 カー作品の大ファンだったらしいですから。
先に短縮版で読んでいたから、最初は、あまり、気が乗らなかったんですが、読み進める内に、引き込まれて、あっという間に、最後まで行ってしまいました。 解説には、1937年前後は、カーの最盛期で、≪火刑法廷≫が同年、≪ユダの窓≫が翌年なので、この作品も・・・、といった分析がされていますが、カーの場合、続けて、傑作を書く事は珍しいので、それは、一つの見方として承っておく事として・・・、私の読みとしては、それまでとは違う出版社からの注文だったからこそ、こういう、質の高い作品を書いて、渡したんじゃないかと思います。
この作品は、傑作とまでは行かなくとも、それに準ずるレベルである事は明らかです。 トリックや謎解きの工夫も一級品ですし、カーの長編推理小説の中では、ベスト5くらいに入れてもいいのではないでしょうか。 ノン・シリーズに、優れた作品が多いのは、わざわざ、その作品専用の探偵役を創作してまで書こうというのだから、何か、意図する狙いがあるのであって、自ずと、シリーズ物とは、力の入れ方が変わるのだと思います。
≪九つの答≫
ハヤカワ・ポケット・ミステリ・ブックス
ハヤカワ・ミステリ
早川書房 1958年初版 1996年5版
ジョン・ディクスン・カー 著
青木雄造 訳
相互貸借で、浜松市立三ケ日図書館から取り寄せられた本。 これには、「閉架」のシールが貼ってあります。 ペーパー・バックですが、二段組みで、解説まで入れると、440ページもあり、「こんな分厚いのが含まれているのに、三冊も一遍に借りたのでは、二週間で読みきれないのではなかろうか」と恐れをなして、延長が可能か訊いてみたところ、相互貸借の本は、延長できないとの返事でした。 やむなく、一生懸命、読みましたよ。
発表は、1952年。 ノン・シリーズで、探偵役は、主人公の青年が務めています。 1952年というと、H.Mシリーズの最低駄作である、≪赤い鎧戸のかげで≫と同じ年でして、嫌な予感がしたのですが、それは、半分、当たりました。 ただし、政治臭は、ほとんどないです。 その点は、≪赤い鎧戸のかげで≫とは、大違い。
アメリカから、イギリスに帰れば、伯父の遺産を相続できると、弁護士から説明されていた男が、子供の頃、その伯父に苛められたせいで、気が進まないでいたのを、たまたま、弁護士事務所にやってきた青年に、身代わりとして、イギリスに行って貰うよう話をつけた直後に、毒を盛られて死んでしまう。 青年は、身代わり作戦を続行し、イギリスで男の伯父に会うが、金をやる代わりに、青年の命をつけ狙うという条件を出され・・・、という話。
なんつーかそのー、いくら、お金に困っていたからといって、自分の命を狙ってよいとお墨付きを与えるような取引に、応じる者がいるかどうか。 たとえ、いたとしても、果たして、そういう、貧すりゃ貪す的な発想の人間が、物語の主人公に相応しいかどうか。 まー、そういう問題点が、いきなり、前面に出て来るわけです。
目の前で、身代わり作戦を持ちかけてきた男が、毒殺されたのを見たら、まともな人間なら、作戦なんぞ中止するのが、普通でしょうに。 その前に、身分証明書を取り替えているのですが、弁護士事務所に引き返せば、身元確認はしてもらえるわけですから、何の問題もないはず。 それなのに、その場から逃げてしまって、死んでしまった依頼者に成りすまし、遺産目当てにイギリスへ向かうなど、どういう人格なんでしょうか? それでいて、悪漢小説というわけではなく、主人公は、真っ当なヒーローとして描かれているのです。 変でしょ、そんなの。
前半で、青年の元恋人が、どう考えても、ありえない偶然のタイミングで現れ、即席で旧交を温めるのですが、カーの作品によくある、蛇足としか言いようがない恋愛場面を、これでもかというくらい書き連ねてあって、思わず、「もう、読むの、やめようかな」という気になります。 なんだろね、このひどい、やりとりは?
カーの女性観は、きわめてリアルでして、日本の恋愛小説のヒロインみたいに、リカちゃん人形が喋っているような、人間性の欠落は感じられないのですが、逆にリアル過ぎて、女性の欠点を剥き出しに描写してしまっているせいで、読んでいる方は、ムカムカ腹が立ってならないのです。 こんなヒロインなら、要らんわ。 鬱陶しくて、邪魔なだけです。
で、また、ボクシングの勝負場面があるのですよ。 というか、この作品と、≪赤い鎧戸のかげで≫を書いた辺りから、格闘場面が最大の見せ場になってしまって、そこから、その後の歴史ミステリー路線へ流れて行くんですな。 作者本人が、人を殴りたくて、しょうがなかったんでしょうかね? 作品の内容と、作者の人格は、関係ない? そーんな事はありません。 こんなに多くの作品で、同じような場面を、繰り返し繰り返し書くからには、密接に関連していると思います。
ラジオ放送局の場面は、取って付けたようで、あまりにも唐突に差し挟まれるので、何の小説を読んでいたのか、表紙のタイトルを見返してしまうくらいです。 すごい、バラバラ度。 主人公の青年は、ボクシングの達人で、元戦闘機パイロットで、その上、ラジオの仕事に向いているというのですが、一人の人間に、いろんな才能を、盛り込み過ぎです。 そんな、立派な御仁が、得体の知れない男に頼まれた身代わり作戦なんかに、ホイホイ関わるものですか。
ここまで貶して、今更こんな事をいうのもなんですが、後半、謎解きの局面にさしかかると、急に面白くなります。 話のところどころに、「九つの間違った答え」という、作者による解説が入っていて、そのつど、「読者は、こういう推理をしているだろうが、それは、間違っている」と指摘されます。 そんな風に張られていた伏線が、謎解きに入ると、パタパタと回収されて行き、てっきり、「街中を舞台にした冒険小説」に過ぎないと思っていた話が、しっかりした推理小説になっていた事に気づくのです。
実は、フェア・プレーと言いながら、えらく入り組んだ書き方をして、読者を欺いているのですが、そういうのは、推理小説では、よくある事でして、むしろ、面白さに繋がっています。 そういう騙しなら、いくらやってくれても、大歓迎。 漫然と読んでいた、読者の方が悪いのです。
だけど、前半が悪過ぎてねえ。 とにかく、このヒロインは、要らんわ。 もーう! こういう女と、こういう女を好きな男には、虫唾が走る! 傍で聞いてて、反吐が出るような、みっともない痴話喧嘩を、一生 続けるつもりかいな? 誰か、水ぶっかけてやれ!
今回は、以上、4冊までです。 2016年の12月上旬から、2017年1月半ばにかけて読んだ本。 相互貸借ばかりなので、取り寄せるのに日数がかかり、冊数が少なくても、読んでいた期間は長くなっています。 ちなみに、次回も4冊です。 それで、カーの本は、おしまい。
≪赤い鎧戸のかげで≫
ハヤカワ・ミステリ文庫
早川書房 1982年発行
カーター・ディクスン 著
恩地三保子 訳
相互貸借で、浜松市立図書館から取り寄せてもらった本。 「閉」のシールが貼ってあるので、閉架に入っていたんでしょう。 結構、読んだ形跡があるところを見ると、30年くらいは、開架にあったのでは? 表紙絵は、山田維史さんの、タロット・カードをモチーフにしたものですが、このシリーズには珍しく、あまり、パッとしない絵です。
発表は、1952年。 H.M(ヘンリー・メリベール卿)が探偵役を務める作品としては、22作中、21作目。 前作の≪魔女が笑う夜≫で、H.Mシリーズの終わりの始まりを感じた私ですが、その読みは、間違っていなかったようで、この≪赤い鎧戸のかげで≫は、もっと、ひどくなっています。
国際管理地域だった、モロッコのタンジールを訪れたH.Mが、地元の警視総監から、仕事の際に、必ず、鉄の箱を抱えている事から、「鉄の箪笥」と呼ばれている宝石泥棒を捕まえてほしいと頼まれて、スペイン系の警視や、イギリス人の作家夫婦と協力しながら、宝石泥棒の共犯者で、腕っ節の強いロシア人と戦いつつ、宝石泥棒の正体を暴く、ミステリー活劇。
タンジールは、現在では、モロッコに返還されて、タンジェと呼ばれている街ですが、この作品の頃には、国際管理地域で、スペイン人が多く入植し、フランス人が政治を動かしていたそうです。 だけど、話にフランス人は出て来ません。 警視総監はベルギー人。 警察の管理職はスペイン人。 平の警官は、アラブ人。 そして、街に住んでいる一般人は、アラブ人が多いという構成。 カーは、一時期、タンジールに住んでいた事があるそうで、その時の経験から、ここを舞台にしたのでしょう。
一口で、感想を述べると、しょーもないです。 しょーもなさ過ぎて、もはや、「珍作」の部類に入れた方がいいのではないかと思うほど。 とても、≪ユダの窓≫と同じ作者が書いた小説とは思えません。 カーの悪いところを、一作に凝集したような感じ。 一応、トリックや謎もありますが、それは、オマケ扱いでして、ほぼ、全編、アクション活劇になっています。 その点が、そもそも、推理物としては、欠陥商品なのですが、この作品の問題点は、それに留まりません。 以下、ネタバレを含みます。
一番、まずいと思うのは、取って付けたように、「反共主義」が盛り込まれている事でして、ストーリー上は、全く不要であるにも拘らず、宝石泥棒の共犯者を、共産主義者の設定にして、とことん、ろくでなしの卑怯者の極悪人に仕立て、惨めな最期に追い込んでいます。 繰り返しますが、そんな設定は、ストーリー上、要らないのに、わざわざです。
カーが、社会主義嫌いだったのは、他の本の解説などで知っていましたが、創作作品の中で、ここまで、自分の思想信条を剥き出しにしてしまうと、もう、あきません。 別に、特定の政治思想を、貶さなくても、讃えなくても、推理小説は成り立つのであって、作者の思想を盛り込むなどという行為は、蛇足でしかありません。 良識ある読者なら、眉を顰めないわけにはいきますまい。
カーは、第二次世界大戦後、イギリスの労働党政権が気に入らなくて、アメリカへ帰るのですが、その頃アメリカでは、マッカーシズム、つまり、赤狩りが盛んになっていて、カーにしてみれば、我が意を得たり的な状況になっていたわけです。 アメリカなら、いくらでも、共産主義批判できると思って、この一作に、どかっと盛り込んでしまったんでしょうなあ。 出版社の方は、「うっ、これは・・・」と、額に汗が浮かんだと思いますけど。
カーの他の作品でも出て来た、ロシア文学批判は、この作品の中でも、≪アンナ・カレーニナ≫を扱き下ろす形で出て来ます。 しかも、H.Mに語らせているから、目も当てられない。 カーの場合、「共産主義のソ連が嫌いだから、ロシア文学も嫌い」という、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い的な発想で、ロシア文学を批判しているのではなく、明らかに、ロシア文学の価値を理解できていないものと思われます。 だけど、たとえ、当時住んでいたのが、アメリカであっても、知識人が相手なら、それを主張すればするほど、立場が悪くなったんじゃないでしょうか。 知識人の評価が高い物を馬鹿にすると、馬鹿にした方が、馬鹿扱いされるのが普通ですから。
H.Mの人格設定に、ロシア文学嫌いを追加してしまったせいで、せっかくの面白い探偵キャラを台なしにしてしまいました。 「癇癪もちな上に、悪戯好きで、子供のようなところがあるが、頭は飛びぬけて良く、風変わりながらも、紳士的良識も持ち合わせている」という基本キャラと、ロシア文学をゲスな言葉で扱き下ろす姿が、一人の人間として、像を結ばないのです。 作者の思想を無理やり代弁させているのですから、そうなるのも当然の事。
呆れた事に、この話の中で、H.Mは、ナイフ殺人まで犯します。 襲って来た賊を退治したという設定なのですが、傷害ならまだしも、殺してしまったのでは、探偵役になりますまい。 もしかしたら、ハード・ボイルド型探偵小説の影響を受けたのかも知れませんが、H.Mは、頭脳型の典型のような探偵ですから、まるで、似合いません。 ミイラ取りがミイラなのであって、こんなの、ただの人殺しですわ。 いくら、活劇だからって、こんな場面は、全く不要。 H.Mが、夜中の捕り物に自らしゃしゃり出て行く必要すらないです。
クライマックスは、宝石泥棒の共犯者であるロシア人を相手に、負傷したスペイン人警視の代理として、イギリス人作家が、ボクシングの試合をする場面なのですが、ここも、奇妙奇天烈。 つまるところ、「卑怯で極悪なロシア人を、スポーツマン・シップを尊重する、勇気に満ちたイギリス人が、正々堂々、叩きのめす」という情景を描き込みたくて仕方がないらしいのですが、そもそも、相手は、その場から脱出しようとしていたのを、スペイン人警視が銃で脅して、無理やり、試合させたのであって、卑怯なのは、させた方としか思えません。
そんな設定ですから、ボクシングの試合は、やる前から、結果が分かっており、面白くもなんともありません。 よってたかって、ロシア人をなぶり殺しにしただけ。 作者が、自分の思想信条にのぼせて、ストーリー構成の判断力を失っており、何を書いているのか、分からなくなってしまったのだと思います。 繰り返しますが、心底、≪ユダの窓≫と同じ作者が書いた小説とは思えない。 あちこち、無理だらけで、もはや、ムチャクチャと言ってもいいです。
更に、呆れた事に、宝石泥棒の正体が、大変、意外な人物で、普通なら、意外な人物が真犯人だと、「おおっ、そうだったのか!」と驚くものですが、この作品の真犯人には、「はあ~っ? 何それ?」と首を傾げてしまう意外さを感じるのです。 私は、その瞬間、作者が、狂ったのかと思いました。 明らかに、矛盾する部分が出て来るからです。
ラストで、H.Mによる謎解きがあり、そこを読むと、一応の辻褄は合わせてあって、別に、作者が狂ったわけではないようだと、少し安心します。 しかし、それはさておき、真犯人の行動の動機が、無理やりのこじつけであるのは、否めません。 また、H.Mがとった、真犯人の処分方法が呆れる。 H.Mのナイフ殺人も含めて、警視総監が、不問に付しているのも呆れる。 こんな、恣意的で、いい加減な連中には、法を執行する資格はありません。
これだけ、貶せば、充分なようですが、まだ、あります。 アラブ人(ムーア人)の描き方が、偏見と差別意識剥き出しで、げんなりさせられるのです。 カーの世界観は、驚くほど狭くて、興味があるのは、イギリス、アメリカと、せいぜい、フランスだけで、それ以外は、「どうでもいい所」、もしくは、「いずれ、滅びて然るべき所」と思っていたのではないかと思います。 ≪アラビアンナイトの殺人≫という作品もありますが、上っ面の知識だけで書いたものだった事が、この作品を読んで、よく分かりました。 実際に、アラブ地域に住んでみたら、自分の空想していたのと違うので、一気に嫌悪し始めたのではないでしょうか。
同時代のアガサ・クリスティーにしても、外国への興味は、エジプトくらいが限界で、インドですら、ほとんど、眼中になく、中国や日本に至っては、産物でしか知らないレベルでしたから、カーの世界認識が、特別、狭かったとも言えませんが、それにしても・・・。 外国や異民族の事を扱き下ろすような事はしないのが、知識人の良識というものでしょう。 そして、全盛期のカー作品でも、その良識は、ちゃんと備わっていたのです。 衰退期に入ってから、おかしくなって来たんですな。
というわけで、この作品、どこが悪いというより、全て悪いです。 誉められるところが、一点たりとも見当たりません。 駄作と呼ぶのも、まだ、誉め過ぎ。 珍作としか、言いようがないのです。
≪騎士の盃≫
ハヤカワ・ミステリ文庫
早川書房 1982年発行
カーター・ディクスン 著
島田三蔵 訳
相互貸借で、浜松市立図書館から取り寄せてもらった本。 これにも、「閉架」のシールが貼ってあります。 状態は、同時に取り寄せた、≪赤い鎧戸のかげで≫と、同程度。 恐らく、同じ時に購入されて、一方を読んだ人は、もう一方も読むという具合に、同じくらいの数の利用者に借りられて来たのでしょう。
発表は、1953年。 H.M(ヘンリー・メリベール卿)が探偵役を務める作品としては、22作中、22作目。 とうとう、H.Mシリーズの最終作です。 ≪赤い鎧戸のかげで≫が、政治臭がひどくて、まともに批評できないような内容だったので、翌年に書かれたこれも、どんなものかと、警戒しながら読む事になりました。 ちなみに、H.Mシリーズは、1953年までですが、カーの長編推理小説は、フェル博士シリーズの方で、14年後の、1967年まで書き続けられます。
歴史ある貴族の館にある「オークの間」に、鍵をかけて籠った当主が眠り込んだ間に、何者かが侵入し、金と宝石でできた「騎士の盃」を、金庫から出したにも拘らず、盗まずに置いて行く事件が起こる。 当主の妻に依頼された警視庁のマスターズ警部が、同じ部屋で、一晩を過ごしたところ、またもや、何者かが侵入し、警部は頭を殴られて昏倒してしまう。 隣の屋敷に住んで、イタリア人教師を相手に、歌の練習をしていたH.Mが、教師もろとも乗り込んできて、謎を解く話。
H.Mシリーズの最盛期から後は、コミカルな場面が必ず挟まれるようになって、フェル博士シリーズと、差別化が計られるのですが、最終作では、その極に達したようで、全編に渡って、ナンセンス・ギャグで埋め尽くされる事になります。 これは、もはや、推理小説ではなく、推理物の要素を含む、コメディーに分類するのが適当かと思います。
思わず、笑ってしまうところも少なくないのですが、「推理小説のシリーズでやる事ではないなあ」と、呆れる読者の方が多いのではないでしょうか。 ナンセンス・ギャグだらけの小説なんて、洋の東西を問わず、あまり、例がないので、ジャンルとして、独立していないのだと思います。 もし、こういうのが大ウケしたのなら、カー本人が、もっと同類作を書いていたはず。
小説では、例がないですが、映画でなら、ナンセンス・ギャグのコメディーは、無数にあります。 カーは、たぶん、そういうのが好きだったろうと推測されるので、もしかしたら、映画の原作にするつもりで書いたのかも知れません。 だけど、映画人には、たとえ、原作者を部外者扱いする傾向があるから、このまま、映像化してくれる会社など、なかったでしょう。 そもそも、真面目な推理物であっても、カー作品が原作の映画というのは、一本もないか、それに近い状態のようです。
密室トリックの方は、機械的・道具的なもので、正道と言えば正道。 しかし、技術や技術史に関する知識がないと、推理のしようがないという点では、邪道です。 推理小説を読む人は、ほとんど、文系でして、鉛管工の仕事内容なんて、知ってるわけがないです。 しかも、その技能を利用する犯人の本業が、まるで、畑違いなのに、無理やり、鉛管工の経験があった事にしているのは、なんとも、苦しい設定ですな。
そんな事を言い出せば、事件が起こった屋敷の隣に、たまたま、引退したH.Mが住んでいるというのも、偶然が過ぎます。 他にも、やたらと、偶然に頼る設定が多くて、真面目な推理物としては、どうしても、評価外になってしまいます。 だけど、カーが、この作品でやりたかったのは、ナンセンス・コメディーなのだと思えば、腹を立てる方が、不粋というものなのかも。
そういう、脱線してしまった最終作なのですが、≪赤い鎧戸のかげで≫のように、猛烈な政治臭が漂っているよりは、コメディーの方が、遥かにマシです。 正直に言わせてもらえば、≪赤い鎧戸のかげで≫は、H.Mシリーズから、外してもらいたいくらいです。 ≪騎士の盃≫の中にも、労働党批判が出て来ますが、小説世界を破壊する程ではなくて、大抵の読者は、問題にしないでしょう。
H.Mシリーズが、フェル博士シリーズより早く終わってしまった理由は、よく分かりません。 終わりが近いから、ヤケクソで、メチャクチャをやったのか、メチャクチャをやったから、終わってしまったのか、作者が終わらせたくて、わざと、メチャクチャをやったのか、出版社の事情があったのか・・・。 ≪墓場貸します≫までのH.Mなら、まだまだ、続編を望む読者が多かったと思うのですがねえ。
≪第三の銃弾 [完全版]≫
ハヤカワ・ミステリ文庫
早川書房 2001年発行
カーター・ディクスン 著
田口俊樹 訳
≪騎士の盃≫を最後に、H.Mシリーズを読み終え、フェル博士シリーズも、だいぶ前に読み終えていたので、カーの長編推理小説で、残っているのは、ノン・シリーズだけになりました。 2016年12月15日に、図書館へ行って、三冊分、相互貸借を頼んだのですが、年末年始を挟んだせいで、取り寄せ作業が停止していたそうで、借りられたのは、2017年の1月7日でした。 3週間ちょい、かかった事になります。 浜松市立三ケ日図書館の本で、まだ開架にあるようです。
発表は、1937年。 カーター・ディクスン名義ですが、H.Mシリーズではなく、別の出版社から出された複数の作家によるシリーズ物に提供された作品だそうです。 そのせいで、長らく埋もれていたのを、1948年になって、エラリー・クイーンの一人である、フレデリック・ダネイが発掘して、自分達の雑誌に掲載したのですが、その際、紙数の都合で、大幅に短縮されてしまったとの事。
日本では、その短縮版の方が先に訳されて、創元推理文庫の、カー短編全集2、≪妖魔の森の家≫に収録されています。 後になって、元の長編を訳したのが、ハヤカワ文庫の、この本という事になります。 ややこしい。 つまり、短縮版と完全版は、同じ話なのでして、≪グラン・ギニョール≫と≪夜歩く≫のような、ストーリー上の内容の違いはありません。 というわけで、あらすじは、短縮版の感想を書いた時の物を、移植します。 訳者が違うので、人物の肩書きに異同があり、そこは、修正しました。
退官した判事が、以前、鞭打ち刑を言い渡した青年に恨まれて、自宅の離屋で射殺される。 ところが、青年の撃った弾は壁に当たっていて、もう一丁の銃が、部屋に置いてあった大きな花瓶の中から発見される。 更に、判事の遺体を解剖したところ、空気銃の弾で殺されていた事が分かり、容疑者が一人、銃が三丁という、奇妙な状況の下、ロンドン警視庁警視監マーキス大佐らが、謎を解いて行く話。
≪第三の銃弾≫という作品を楽しむのであれば、圧倒的に、完全版の方が、面白いです。 短縮版では、ざっくり削られていた、探偵役のマーキス大佐と、ペイジ警部らの人物描写や会話が、実に活き活きしていて、そこが、読者をひきつけるのです。 これを削らざるを得なかった、フレデリック・ダネイは、正に、身を切られる思いだったでしょうねえ。 カー作品の大ファンだったらしいですから。
先に短縮版で読んでいたから、最初は、あまり、気が乗らなかったんですが、読み進める内に、引き込まれて、あっという間に、最後まで行ってしまいました。 解説には、1937年前後は、カーの最盛期で、≪火刑法廷≫が同年、≪ユダの窓≫が翌年なので、この作品も・・・、といった分析がされていますが、カーの場合、続けて、傑作を書く事は珍しいので、それは、一つの見方として承っておく事として・・・、私の読みとしては、それまでとは違う出版社からの注文だったからこそ、こういう、質の高い作品を書いて、渡したんじゃないかと思います。
この作品は、傑作とまでは行かなくとも、それに準ずるレベルである事は明らかです。 トリックや謎解きの工夫も一級品ですし、カーの長編推理小説の中では、ベスト5くらいに入れてもいいのではないでしょうか。 ノン・シリーズに、優れた作品が多いのは、わざわざ、その作品専用の探偵役を創作してまで書こうというのだから、何か、意図する狙いがあるのであって、自ずと、シリーズ物とは、力の入れ方が変わるのだと思います。
≪九つの答≫
ハヤカワ・ポケット・ミステリ・ブックス
ハヤカワ・ミステリ
早川書房 1958年初版 1996年5版
ジョン・ディクスン・カー 著
青木雄造 訳
相互貸借で、浜松市立三ケ日図書館から取り寄せられた本。 これには、「閉架」のシールが貼ってあります。 ペーパー・バックですが、二段組みで、解説まで入れると、440ページもあり、「こんな分厚いのが含まれているのに、三冊も一遍に借りたのでは、二週間で読みきれないのではなかろうか」と恐れをなして、延長が可能か訊いてみたところ、相互貸借の本は、延長できないとの返事でした。 やむなく、一生懸命、読みましたよ。
発表は、1952年。 ノン・シリーズで、探偵役は、主人公の青年が務めています。 1952年というと、H.Mシリーズの最低駄作である、≪赤い鎧戸のかげで≫と同じ年でして、嫌な予感がしたのですが、それは、半分、当たりました。 ただし、政治臭は、ほとんどないです。 その点は、≪赤い鎧戸のかげで≫とは、大違い。
アメリカから、イギリスに帰れば、伯父の遺産を相続できると、弁護士から説明されていた男が、子供の頃、その伯父に苛められたせいで、気が進まないでいたのを、たまたま、弁護士事務所にやってきた青年に、身代わりとして、イギリスに行って貰うよう話をつけた直後に、毒を盛られて死んでしまう。 青年は、身代わり作戦を続行し、イギリスで男の伯父に会うが、金をやる代わりに、青年の命をつけ狙うという条件を出され・・・、という話。
なんつーかそのー、いくら、お金に困っていたからといって、自分の命を狙ってよいとお墨付きを与えるような取引に、応じる者がいるかどうか。 たとえ、いたとしても、果たして、そういう、貧すりゃ貪す的な発想の人間が、物語の主人公に相応しいかどうか。 まー、そういう問題点が、いきなり、前面に出て来るわけです。
目の前で、身代わり作戦を持ちかけてきた男が、毒殺されたのを見たら、まともな人間なら、作戦なんぞ中止するのが、普通でしょうに。 その前に、身分証明書を取り替えているのですが、弁護士事務所に引き返せば、身元確認はしてもらえるわけですから、何の問題もないはず。 それなのに、その場から逃げてしまって、死んでしまった依頼者に成りすまし、遺産目当てにイギリスへ向かうなど、どういう人格なんでしょうか? それでいて、悪漢小説というわけではなく、主人公は、真っ当なヒーローとして描かれているのです。 変でしょ、そんなの。
前半で、青年の元恋人が、どう考えても、ありえない偶然のタイミングで現れ、即席で旧交を温めるのですが、カーの作品によくある、蛇足としか言いようがない恋愛場面を、これでもかというくらい書き連ねてあって、思わず、「もう、読むの、やめようかな」という気になります。 なんだろね、このひどい、やりとりは?
カーの女性観は、きわめてリアルでして、日本の恋愛小説のヒロインみたいに、リカちゃん人形が喋っているような、人間性の欠落は感じられないのですが、逆にリアル過ぎて、女性の欠点を剥き出しに描写してしまっているせいで、読んでいる方は、ムカムカ腹が立ってならないのです。 こんなヒロインなら、要らんわ。 鬱陶しくて、邪魔なだけです。
で、また、ボクシングの勝負場面があるのですよ。 というか、この作品と、≪赤い鎧戸のかげで≫を書いた辺りから、格闘場面が最大の見せ場になってしまって、そこから、その後の歴史ミステリー路線へ流れて行くんですな。 作者本人が、人を殴りたくて、しょうがなかったんでしょうかね? 作品の内容と、作者の人格は、関係ない? そーんな事はありません。 こんなに多くの作品で、同じような場面を、繰り返し繰り返し書くからには、密接に関連していると思います。
ラジオ放送局の場面は、取って付けたようで、あまりにも唐突に差し挟まれるので、何の小説を読んでいたのか、表紙のタイトルを見返してしまうくらいです。 すごい、バラバラ度。 主人公の青年は、ボクシングの達人で、元戦闘機パイロットで、その上、ラジオの仕事に向いているというのですが、一人の人間に、いろんな才能を、盛り込み過ぎです。 そんな、立派な御仁が、得体の知れない男に頼まれた身代わり作戦なんかに、ホイホイ関わるものですか。
ここまで貶して、今更こんな事をいうのもなんですが、後半、謎解きの局面にさしかかると、急に面白くなります。 話のところどころに、「九つの間違った答え」という、作者による解説が入っていて、そのつど、「読者は、こういう推理をしているだろうが、それは、間違っている」と指摘されます。 そんな風に張られていた伏線が、謎解きに入ると、パタパタと回収されて行き、てっきり、「街中を舞台にした冒険小説」に過ぎないと思っていた話が、しっかりした推理小説になっていた事に気づくのです。
実は、フェア・プレーと言いながら、えらく入り組んだ書き方をして、読者を欺いているのですが、そういうのは、推理小説では、よくある事でして、むしろ、面白さに繋がっています。 そういう騙しなら、いくらやってくれても、大歓迎。 漫然と読んでいた、読者の方が悪いのです。
だけど、前半が悪過ぎてねえ。 とにかく、このヒロインは、要らんわ。 もーう! こういう女と、こういう女を好きな男には、虫唾が走る! 傍で聞いてて、反吐が出るような、みっともない痴話喧嘩を、一生 続けるつもりかいな? 誰か、水ぶっかけてやれ!
今回は、以上、4冊までです。 2016年の12月上旬から、2017年1月半ばにかけて読んだ本。 相互貸借ばかりなので、取り寄せるのに日数がかかり、冊数が少なくても、読んでいた期間は長くなっています。 ちなみに、次回も4冊です。 それで、カーの本は、おしまい。