読書感想文・蔵出し (33)
読書感想文です。
私の近況を書いておきますと、冬で寒いので、これといって、記録に残すような事はしていません。 毎日、朝食の仕度をし、昼食・夕食の後、食器を洗い、外掃除と、植木・盆栽への水やりをし、近所の山へ、運動登山に行く。 週に一度、自室と二階を掃除し、亀の水換えをする。 十日に一度、車で買い出しに行き、母が病院に行く時には、車で送迎する。 車を使う前には、埃取りとガラス拭きをする。 月に一度、二階のトイレを掃除する。
あとは、読書。 今は、沼津図書館から借りてきた、ドロシー・セイヤーズの≪箱の中の書類≫を読んでいます。 テレビは、2時間サスペンスと、旅番組を見るだけ。 冬季オリンピックをやっていますが、開会式を見ただけで、競技は見ていません。
≪タイムマシンをつくろう!≫
草思社 2003年6月初版 2003年7月4版
ポール・デイヴィス 著
林一 訳
180ページくらいの、ハード・カバーの単行本。 著者は、イギリス人の理論物理学者。 1946年生まれで、2017年現在も存命している模様。 物理学の時間論の世界では、有名な人らしいのですが、ネットで調べても、名前が出て来ません。 英語サイトなら、引っ掛かります。
この本は、ページを開いてすぐに、ど素人向けに、思い切り掻い摘んで、分かり易い解説をした内容である事が分かります。 ところが、それでも、実際のタイムマシン製作の件りになると、著者が言いたい事を捉え切れなくなってしまいます。 私は、泥ベタの文系というわけではないのですが、「少々、技術に興味がある」程度の人間では、理解しきれないわけですな。
まず、アインシュタインの相対性理論により、「時間」というものが、どこでも同じように進むものではない事が分かったというところから説き起こし、早い速度で移動すれば、未来に行ける事を説明します。 しかし、未来へ行くというのは、長期間、眠ったままの人でも、同じ事ができるわけで、さして、エキサイティングな事ではないような気がします。 そもそも、その方法では、戻って来れません。
次に、過去へ行く為に、「ワームホール」という特殊な物理現象に着目し、それを人工的に作る方法が解説されます。 この部分が、この本の肝ですな。 読んでいると、いくつか解決すべき問題があるものの、もうちょっと科学技術が進歩すれば、できない事はないという感じにさせられます。 しかし、そこが、理論物理学の眉唾なところでして、見て来たような講釈師的な、いい加減さを感じないでもないです。
ちなみに、ワームホールを使ったタイムマシンが完成したとしても、完成以前の過去には行けないとの事。 たとえば、完成してから、100年後から出発するとしたら、完成時点までの、過去100年の間なら、戻れるというわけです。 しかも、パラドックスの問題が解決されておらず、「過去を変えてしまうような行動は、不可能なのではないか」と、考えられているそうです。 どんどん、夢が覚めていく感あり。
≪植物のたどってきた道≫
NHKブックス 819
日本放送出版協会 1998年初版
西田治文 著
宇宙論の本にうんざりしていた頃、たまたま、BSの放送大学で、「生物の進化と多様化の科学」という講義を見て、植物進化史に興味が湧き、手っ取り早く、知識欲を満たそうと、図書館で借りてきた本が、これです。 ところが、読み始めたら、なかなか、ページが進みません。 12月5日に借りて来て、10日間くらいは、30ページも行かないまま、うっちゃらかし。 返却期限が近づいたので、気合を入れて読み、期限日の午前中に、ようやく、読み終えました。
宇宙論の本のように、内容が理解できないから、読み難かったわけではなく、絶滅種の名前が、耳慣れないカタカナばかりで、頭に入ってこなかったのが、抵抗になっていたのではないかと思います。 この本をスイスイ読めるのは、ある程度、植物学の知識がある人だと思いますが、内容そのものは、一般読者向けに、植物系統学を紹介する目的で書いてあるように見受けられ、矛盾を感じます。 ドカドカ出て来る初耳の植物名を、この本一冊読む間に、全て頭に入れられる一般人がいるとは、到底、思えません。
植物系統学の本ですが、この本自体は、系統に従って書かれているわけではなく、読者が興味を抱きそうな部分、食いつきが良さそうな部分だけを、摘まんで紹介する形になっています。 そのお陰で、初耳名前の抵抗さえなければ、読み物として、面白いです。 もし、系統に従って書いて行ったら、教科書・参考書みたいな、ギスギスした本になってしまうでしょう。
私が、放送大学の方で食いついたのは、絶滅した古代植物の内、巨大化したシダ植物なのですが、この本にも、多く出て来ます。 現在では、草本サイズの植物が、数十メートルの高さまで育ち、森林を形成していたというのが、何とも言えず、ロマンに溢れています。 現在でも、シダ植物で、ヘゴ科という、20メートルくらいに育つ種類があるそうですが、一度、現物を見てみたいもの。
植物系統学の学者について、著者との交流がある人達の略歴が、ちょこちょこと記されていて、その部分は、人間臭くて、面白いです。 文系の人は、そこだけに、興味を覚えるのでは? それにしても、植物系統学というのは、科学の分野としては、随分と狭い世界のようですな。 相手にしているのが、ほとんど、化石で、現実社会の役に立たないから、研究費を出す大学も少なく、学者が増えないのかも知れません。
≪僧正殺人事件≫
世界推理小説大系 17 所収
東都書房 1963年初版
ヴァン・ダイン 著
平井呈一 訳
沼津の図書館で借りて来た本で、名作を収めた推理小説全集の一冊。 1963年というと、私より年上でして、「よくもまあ、こんな状態の本を、まだ貸しているものだ」としげしげ眺めてしまうほど、ボロボロです。 しかし、沼津の図書館にあるヴァン・ダイン作品は、この一冊きりだというから、是非もなく、借りて来ました。 調べたら、三島図書館には、ずっと新しいのが、全作品揃っているらしく、もし、もっと読みたくなったら、次は、そちらへ行きます。
この本には、≪僧正殺人事件≫と、≪グリーン家殺人事件≫の二作が収録されています。 ヴァン・ダインという人は、長編推理小説を12編書いていて、順序的には、≪グリーン家殺人事件≫が1928年で、3番目、≪僧正殺人事件≫が、1929年で、4番目に当たります。 ところが、この本では、≪僧正≫の方が前に載せてあって、順序通りではありません。 どうやら、≪僧正≫の方が、作者の代表作とされているから、そうしたようなのですが、私の場合、発表順を知らないまま、≪僧正≫から読んでしまい、後で、臍を噛みました。 できれば、発表順で読みたかった。
ニューヨークの高層住宅街にある、ディラード教授邸の近辺で、教授と関連のある、数学者、物理学者、チェス研究家達が、マザー・グースの歌に見立てて、次々と殺される。 マーカム検事に助力を求められた素人探偵、ファイロ・ヴァンスが、教授邸に出入りしている人々に事情聴取して、犯人をつきとめる話。
探偵役のファイロ・ヴァンスですが、実績がある名探偵という設定になっているものの、聞き込みばかりしていて、連続殺人を止められない有様で、長編に於ける金田一耕助と同様、見かけ倒しの無能探偵になっています。 辛うじて、最後の本命殺人だけは食い止めるから、全員殺されてから、犯人の特定と、謎解きしかしない金田一よりは、マシかも知れませんが、まあ、五十歩百歩ですなあ。
ヴァン・ダインという人は、推理小説を書く際のルール、「ヴァン・ダインのニ十則」で有名なのですが、もう一つ、「連続殺人を止められない無能探偵を、名探偵に仕立ててはならない」という規則を付け加えるべきでしょう。 こんな探偵に、捜査を依頼する検事も検事で、警察を含めて、「どんだけ、捜査能力が低いんだ?」と、呆れざるを得ません。
典型的な、フーダニット型の話で、トリックらしいトリックは使われておらず、「どう、殺したか」ではなく、「誰が、殺したか」なのですが、一連の殺人計画を思いつける知能を持つ人間が、6人しかいないのに、その中から、犯人を絞り込めないのですから、捜査関係者は、雁首揃えて、アホウ丸出し。 特に、ファイロ・ヴァンスは、益体もない知識をひけらかす、大変、鼻持ちならない性格なのですが、利口ぶっている分、滑稽さが際立ちます。
容疑者達の職業柄、やたらと、物理学説や宇宙論などが出て来ますが、作者は、本業、美術評論家でして、そんな事に詳しいわけがありません。 当時、最先端だった科学知識を摘まみ食い的に盛り込んで、格好をつけようとしただけなのでしょう。 それが証拠に、それらの知識が、事件の中身と、全く関わっていません。 かすりもしない。 しまいには、性格学や心理学にこじつけて、犯人の動機を説明していますが、んじゃ、あれだけ並べた物理学説は、一体、何だったのかと、呆れ返ってしまいます。
その心理分析も、取って付けたようで、それまで、犯人の心理なんか、ほとんど触れずに来たのに、いきなり、「この人は、こういう人だから、こういう動機で、犯行に及んだに違いない」と言うのです。 特殊な心理が動機というなら、それについて、前以て、書いておかなければ、フェアとは言えますまい。
トリックがなくても、推理小説は成り立ちますが、謎は必須要素でして、話が謎めいていないのは、非常に、まずい。 この作品は、謎がある事はありますが、殺人がいくつも起こるせいで、謎の焦点が分かり難いです。 しかも、探偵が、聞き込みするしか能がなく、どこまで解明したかが分かり難いせいで、ちっとも、ゾクゾク感がありません。
また、検事や警部が、ロール・プレイング・ゲームのキャラのように、探偵の後ろをついて歩くだけで、何の役回りも担っていないんだわ。 探偵と議論するのは、専ら、検事ですが、単に、議論の体裁を整える為に、探偵の言う事に反論させているだけなのは、明々白々。 そもそも、探偵の意見に、ケチばかりつけるのなら、最初から、捜査の依頼なんか、しなければいいのだわ。
昔も今も、創作理論を発表したがる作家が、実際に面白い作品を書いた例は稀でして、この作者も、その一人なんじゃないかと思えてなりません。
≪グリーン家殺人事件≫
世界推理小説大系 17 所収
東都書房 1963年初版
ヴァン・ダイン 著
村上啓夫・田中潤司 訳
推理小説全集の、≪僧正殺人事件≫と同じ本に入っていました。 その本では、≪僧正≫より後になっていたのですが、発表順では、こちらの方が、1年早く、1928年に出たとの事。 訳者が、二人というのは、どういう分担だったんですかね? 解説があるものの、その点には触れられていません。
ニューヨークにある、名家の子孫達が住む屋敷に、賊が入り、最初は一人が死に、もう一人が負傷、次からは、一人ずつ、殺されて行く。 彼らには、遺産を受け継ぐ為の条件が課せられていて、長期間、屋敷を離れる事ができない。 当初、強盗の仕業と考えていた検察や警察に対し、素人探偵ファイロ・ヴァンスが疑念を抱き、捜査を進める話。
以下、ネタバレ含みます。 なるべく、これから読む人の楽しみを損なわないように書きますけど。 えーと、屋敷に住んでいる一族が、使用人を除くと、6人いるのですが、1人残して、あとは、みんな死にます。 ≪僧正≫と同じというか、それ以上に、バッタバッタと殺されまくりで、「これは、推理小説のパロディーなのではないか?」と、思えて来ます。 誤解を恐れずに書けば、ある種の爽快感すら覚えますが、もしや、それが、ヴァン・ダイン作品の魅力になっているんでしょうか?
探偵も無能なら、警察の警備も、何の役にも立たないのだから、笑ってしまいますな。 犯人のやり方が優れているというより、状況設定が非常識なのでして、内部犯行説が有力になった時点で、残った人間を、全員、収監してしまうのが、常識的な対応なんじゃないでしょうか。 それでは、推理小説にならないから、強引に、屋敷に住み続けなければならない理由をこじつけているのですが、こういうのって、アリなんですかねえ?
≪僧正≫と違っているのは、トリックが使われている事。 ただし、比較的、単純なもので、この作品だけに特徴的な工夫はありません。 屋敷の間取り図や、事件が起こった部屋の見取り図が出て来ますが、ほとんど、読者が推理するヒントにならないので、これは、読者を惑わす為の罠、もしくは、推理小説っぽさを演出する為の小道具と思われます。
今のところ、二作読んだだけですが、ヴァン・ダインという人は、犯人が指名される時まで、誰が犯人なのか分からないように書く事に、大変なエネルギーを注いだように見えます。 関係者が、バタバタ殺されて、残り二人になっても、まだ、どちらか分からないのだから、巧みと言えば巧み、凄いといえば凄い。
それにしても、ファイロ・ヴァンスは、無能ですなあ。 無能なのに、名探偵という事になっていて、作中では、検察・警察から一目も二目も置かれているのだから、奇妙な話もあったものです。 推理小説家が、大したネタを思いつかない時に、アホでも分かるような謎を、警察が解けずに、探偵だけが解く話にすれば、一応、物語として、格好がつくわけですが、読者は、アホではないわけで、それでは、単なる子供騙しになってしまいます。
ファイロ・ヴァンスが解く謎は、結構、込み入っていて、彼自身は、決してアホではないのですが、それを無能探偵にしてしまっているのは、作者なんですな。 6人中、5人も殺されて、「事件を解決した」もないもんだ。 どうしても、連続殺人事件にしたいのなら、探偵を、旅行中の設定にしておいて、粗方、殺された後に、帰って来て、「なになに、どうしたって? 事件の経緯を最初から聞かせてくれ」と、話を聞いて、ちょこちょこっと捜査して、スイスイッと解決してしまう、そういう流れにするしかありますまい。
以上、四作です。 読んだ期間は、去年、つまり、2017年の、
≪タイムマシンをつくろう!≫が、11月15日から、20日にかけて。
≪植物のたどってきた道≫が、12月5日から、17日。
≪僧正殺人事件≫が、12月19日から、12月23日。
≪グリーン家殺人事件≫は、12月24日から、26日。
ちょこちょこと、日が飛んでいますが、実は、10月30日に、≪ブルー・バックス カオスから見た時間の矢≫と、≪時間の不思議 アルキメデスの目≫の二冊、11月23日に、≪宇宙の創成と進化≫と、計三冊を借りています。 それらには、一通り目を通したのですが、ほとんど、理解できず、感想の書きようがなかったので、書きませんでした。
宇宙論や時間論など、物事の本質に関わるジャンルの本を読んでいると、何となく、カッコいいようなイメージがありますが、理解できないのでは、読書の喜びが感じられないわけで、意味がありません。 逆に、不様の極みです。
「難しいから、素人には、分からない」というのなら、まだ、いいのですが、「学者の方も分かっていないから、分かるように伝えられないのではないか?」という疑念が拭い難く、特に、定説がなくて、相反する学説が同時に罷り通っているようなジャンルでは、「分かる、分からん」以前に、「信じる、信じない」をクリアせねばならず、学問というより、宗教になってしまいます。
本を読まなくても、Eテレ、木曜夜10時から、≪モーガン・フリーマンの時空を超えて≫という番組をやっているので、それを何回か見てもらえば、この種のジャンルの、「いい加減さ」が分かります。 世界に名の知れた一流大学の、有名学者の学説であっても、そもそも、「信じない」のであれば、どんなに数学的な根拠があろうが、全て、戯言・寝言の類いと判別できません。 だって、理論だけで、証明できないんだもの。 だーから、宗教だって言うのよ。
私の近況を書いておきますと、冬で寒いので、これといって、記録に残すような事はしていません。 毎日、朝食の仕度をし、昼食・夕食の後、食器を洗い、外掃除と、植木・盆栽への水やりをし、近所の山へ、運動登山に行く。 週に一度、自室と二階を掃除し、亀の水換えをする。 十日に一度、車で買い出しに行き、母が病院に行く時には、車で送迎する。 車を使う前には、埃取りとガラス拭きをする。 月に一度、二階のトイレを掃除する。
あとは、読書。 今は、沼津図書館から借りてきた、ドロシー・セイヤーズの≪箱の中の書類≫を読んでいます。 テレビは、2時間サスペンスと、旅番組を見るだけ。 冬季オリンピックをやっていますが、開会式を見ただけで、競技は見ていません。
≪タイムマシンをつくろう!≫
草思社 2003年6月初版 2003年7月4版
ポール・デイヴィス 著
林一 訳
180ページくらいの、ハード・カバーの単行本。 著者は、イギリス人の理論物理学者。 1946年生まれで、2017年現在も存命している模様。 物理学の時間論の世界では、有名な人らしいのですが、ネットで調べても、名前が出て来ません。 英語サイトなら、引っ掛かります。
この本は、ページを開いてすぐに、ど素人向けに、思い切り掻い摘んで、分かり易い解説をした内容である事が分かります。 ところが、それでも、実際のタイムマシン製作の件りになると、著者が言いたい事を捉え切れなくなってしまいます。 私は、泥ベタの文系というわけではないのですが、「少々、技術に興味がある」程度の人間では、理解しきれないわけですな。
まず、アインシュタインの相対性理論により、「時間」というものが、どこでも同じように進むものではない事が分かったというところから説き起こし、早い速度で移動すれば、未来に行ける事を説明します。 しかし、未来へ行くというのは、長期間、眠ったままの人でも、同じ事ができるわけで、さして、エキサイティングな事ではないような気がします。 そもそも、その方法では、戻って来れません。
次に、過去へ行く為に、「ワームホール」という特殊な物理現象に着目し、それを人工的に作る方法が解説されます。 この部分が、この本の肝ですな。 読んでいると、いくつか解決すべき問題があるものの、もうちょっと科学技術が進歩すれば、できない事はないという感じにさせられます。 しかし、そこが、理論物理学の眉唾なところでして、見て来たような講釈師的な、いい加減さを感じないでもないです。
ちなみに、ワームホールを使ったタイムマシンが完成したとしても、完成以前の過去には行けないとの事。 たとえば、完成してから、100年後から出発するとしたら、完成時点までの、過去100年の間なら、戻れるというわけです。 しかも、パラドックスの問題が解決されておらず、「過去を変えてしまうような行動は、不可能なのではないか」と、考えられているそうです。 どんどん、夢が覚めていく感あり。
≪植物のたどってきた道≫
NHKブックス 819
日本放送出版協会 1998年初版
西田治文 著
宇宙論の本にうんざりしていた頃、たまたま、BSの放送大学で、「生物の進化と多様化の科学」という講義を見て、植物進化史に興味が湧き、手っ取り早く、知識欲を満たそうと、図書館で借りてきた本が、これです。 ところが、読み始めたら、なかなか、ページが進みません。 12月5日に借りて来て、10日間くらいは、30ページも行かないまま、うっちゃらかし。 返却期限が近づいたので、気合を入れて読み、期限日の午前中に、ようやく、読み終えました。
宇宙論の本のように、内容が理解できないから、読み難かったわけではなく、絶滅種の名前が、耳慣れないカタカナばかりで、頭に入ってこなかったのが、抵抗になっていたのではないかと思います。 この本をスイスイ読めるのは、ある程度、植物学の知識がある人だと思いますが、内容そのものは、一般読者向けに、植物系統学を紹介する目的で書いてあるように見受けられ、矛盾を感じます。 ドカドカ出て来る初耳の植物名を、この本一冊読む間に、全て頭に入れられる一般人がいるとは、到底、思えません。
植物系統学の本ですが、この本自体は、系統に従って書かれているわけではなく、読者が興味を抱きそうな部分、食いつきが良さそうな部分だけを、摘まんで紹介する形になっています。 そのお陰で、初耳名前の抵抗さえなければ、読み物として、面白いです。 もし、系統に従って書いて行ったら、教科書・参考書みたいな、ギスギスした本になってしまうでしょう。
私が、放送大学の方で食いついたのは、絶滅した古代植物の内、巨大化したシダ植物なのですが、この本にも、多く出て来ます。 現在では、草本サイズの植物が、数十メートルの高さまで育ち、森林を形成していたというのが、何とも言えず、ロマンに溢れています。 現在でも、シダ植物で、ヘゴ科という、20メートルくらいに育つ種類があるそうですが、一度、現物を見てみたいもの。
植物系統学の学者について、著者との交流がある人達の略歴が、ちょこちょこと記されていて、その部分は、人間臭くて、面白いです。 文系の人は、そこだけに、興味を覚えるのでは? それにしても、植物系統学というのは、科学の分野としては、随分と狭い世界のようですな。 相手にしているのが、ほとんど、化石で、現実社会の役に立たないから、研究費を出す大学も少なく、学者が増えないのかも知れません。
≪僧正殺人事件≫
世界推理小説大系 17 所収
東都書房 1963年初版
ヴァン・ダイン 著
平井呈一 訳
沼津の図書館で借りて来た本で、名作を収めた推理小説全集の一冊。 1963年というと、私より年上でして、「よくもまあ、こんな状態の本を、まだ貸しているものだ」としげしげ眺めてしまうほど、ボロボロです。 しかし、沼津の図書館にあるヴァン・ダイン作品は、この一冊きりだというから、是非もなく、借りて来ました。 調べたら、三島図書館には、ずっと新しいのが、全作品揃っているらしく、もし、もっと読みたくなったら、次は、そちらへ行きます。
この本には、≪僧正殺人事件≫と、≪グリーン家殺人事件≫の二作が収録されています。 ヴァン・ダインという人は、長編推理小説を12編書いていて、順序的には、≪グリーン家殺人事件≫が1928年で、3番目、≪僧正殺人事件≫が、1929年で、4番目に当たります。 ところが、この本では、≪僧正≫の方が前に載せてあって、順序通りではありません。 どうやら、≪僧正≫の方が、作者の代表作とされているから、そうしたようなのですが、私の場合、発表順を知らないまま、≪僧正≫から読んでしまい、後で、臍を噛みました。 できれば、発表順で読みたかった。
ニューヨークの高層住宅街にある、ディラード教授邸の近辺で、教授と関連のある、数学者、物理学者、チェス研究家達が、マザー・グースの歌に見立てて、次々と殺される。 マーカム検事に助力を求められた素人探偵、ファイロ・ヴァンスが、教授邸に出入りしている人々に事情聴取して、犯人をつきとめる話。
探偵役のファイロ・ヴァンスですが、実績がある名探偵という設定になっているものの、聞き込みばかりしていて、連続殺人を止められない有様で、長編に於ける金田一耕助と同様、見かけ倒しの無能探偵になっています。 辛うじて、最後の本命殺人だけは食い止めるから、全員殺されてから、犯人の特定と、謎解きしかしない金田一よりは、マシかも知れませんが、まあ、五十歩百歩ですなあ。
ヴァン・ダインという人は、推理小説を書く際のルール、「ヴァン・ダインのニ十則」で有名なのですが、もう一つ、「連続殺人を止められない無能探偵を、名探偵に仕立ててはならない」という規則を付け加えるべきでしょう。 こんな探偵に、捜査を依頼する検事も検事で、警察を含めて、「どんだけ、捜査能力が低いんだ?」と、呆れざるを得ません。
典型的な、フーダニット型の話で、トリックらしいトリックは使われておらず、「どう、殺したか」ではなく、「誰が、殺したか」なのですが、一連の殺人計画を思いつける知能を持つ人間が、6人しかいないのに、その中から、犯人を絞り込めないのですから、捜査関係者は、雁首揃えて、アホウ丸出し。 特に、ファイロ・ヴァンスは、益体もない知識をひけらかす、大変、鼻持ちならない性格なのですが、利口ぶっている分、滑稽さが際立ちます。
容疑者達の職業柄、やたらと、物理学説や宇宙論などが出て来ますが、作者は、本業、美術評論家でして、そんな事に詳しいわけがありません。 当時、最先端だった科学知識を摘まみ食い的に盛り込んで、格好をつけようとしただけなのでしょう。 それが証拠に、それらの知識が、事件の中身と、全く関わっていません。 かすりもしない。 しまいには、性格学や心理学にこじつけて、犯人の動機を説明していますが、んじゃ、あれだけ並べた物理学説は、一体、何だったのかと、呆れ返ってしまいます。
その心理分析も、取って付けたようで、それまで、犯人の心理なんか、ほとんど触れずに来たのに、いきなり、「この人は、こういう人だから、こういう動機で、犯行に及んだに違いない」と言うのです。 特殊な心理が動機というなら、それについて、前以て、書いておかなければ、フェアとは言えますまい。
トリックがなくても、推理小説は成り立ちますが、謎は必須要素でして、話が謎めいていないのは、非常に、まずい。 この作品は、謎がある事はありますが、殺人がいくつも起こるせいで、謎の焦点が分かり難いです。 しかも、探偵が、聞き込みするしか能がなく、どこまで解明したかが分かり難いせいで、ちっとも、ゾクゾク感がありません。
また、検事や警部が、ロール・プレイング・ゲームのキャラのように、探偵の後ろをついて歩くだけで、何の役回りも担っていないんだわ。 探偵と議論するのは、専ら、検事ですが、単に、議論の体裁を整える為に、探偵の言う事に反論させているだけなのは、明々白々。 そもそも、探偵の意見に、ケチばかりつけるのなら、最初から、捜査の依頼なんか、しなければいいのだわ。
昔も今も、創作理論を発表したがる作家が、実際に面白い作品を書いた例は稀でして、この作者も、その一人なんじゃないかと思えてなりません。
≪グリーン家殺人事件≫
世界推理小説大系 17 所収
東都書房 1963年初版
ヴァン・ダイン 著
村上啓夫・田中潤司 訳
推理小説全集の、≪僧正殺人事件≫と同じ本に入っていました。 その本では、≪僧正≫より後になっていたのですが、発表順では、こちらの方が、1年早く、1928年に出たとの事。 訳者が、二人というのは、どういう分担だったんですかね? 解説があるものの、その点には触れられていません。
ニューヨークにある、名家の子孫達が住む屋敷に、賊が入り、最初は一人が死に、もう一人が負傷、次からは、一人ずつ、殺されて行く。 彼らには、遺産を受け継ぐ為の条件が課せられていて、長期間、屋敷を離れる事ができない。 当初、強盗の仕業と考えていた検察や警察に対し、素人探偵ファイロ・ヴァンスが疑念を抱き、捜査を進める話。
以下、ネタバレ含みます。 なるべく、これから読む人の楽しみを損なわないように書きますけど。 えーと、屋敷に住んでいる一族が、使用人を除くと、6人いるのですが、1人残して、あとは、みんな死にます。 ≪僧正≫と同じというか、それ以上に、バッタバッタと殺されまくりで、「これは、推理小説のパロディーなのではないか?」と、思えて来ます。 誤解を恐れずに書けば、ある種の爽快感すら覚えますが、もしや、それが、ヴァン・ダイン作品の魅力になっているんでしょうか?
探偵も無能なら、警察の警備も、何の役にも立たないのだから、笑ってしまいますな。 犯人のやり方が優れているというより、状況設定が非常識なのでして、内部犯行説が有力になった時点で、残った人間を、全員、収監してしまうのが、常識的な対応なんじゃないでしょうか。 それでは、推理小説にならないから、強引に、屋敷に住み続けなければならない理由をこじつけているのですが、こういうのって、アリなんですかねえ?
≪僧正≫と違っているのは、トリックが使われている事。 ただし、比較的、単純なもので、この作品だけに特徴的な工夫はありません。 屋敷の間取り図や、事件が起こった部屋の見取り図が出て来ますが、ほとんど、読者が推理するヒントにならないので、これは、読者を惑わす為の罠、もしくは、推理小説っぽさを演出する為の小道具と思われます。
今のところ、二作読んだだけですが、ヴァン・ダインという人は、犯人が指名される時まで、誰が犯人なのか分からないように書く事に、大変なエネルギーを注いだように見えます。 関係者が、バタバタ殺されて、残り二人になっても、まだ、どちらか分からないのだから、巧みと言えば巧み、凄いといえば凄い。
それにしても、ファイロ・ヴァンスは、無能ですなあ。 無能なのに、名探偵という事になっていて、作中では、検察・警察から一目も二目も置かれているのだから、奇妙な話もあったものです。 推理小説家が、大したネタを思いつかない時に、アホでも分かるような謎を、警察が解けずに、探偵だけが解く話にすれば、一応、物語として、格好がつくわけですが、読者は、アホではないわけで、それでは、単なる子供騙しになってしまいます。
ファイロ・ヴァンスが解く謎は、結構、込み入っていて、彼自身は、決してアホではないのですが、それを無能探偵にしてしまっているのは、作者なんですな。 6人中、5人も殺されて、「事件を解決した」もないもんだ。 どうしても、連続殺人事件にしたいのなら、探偵を、旅行中の設定にしておいて、粗方、殺された後に、帰って来て、「なになに、どうしたって? 事件の経緯を最初から聞かせてくれ」と、話を聞いて、ちょこちょこっと捜査して、スイスイッと解決してしまう、そういう流れにするしかありますまい。
以上、四作です。 読んだ期間は、去年、つまり、2017年の、
≪タイムマシンをつくろう!≫が、11月15日から、20日にかけて。
≪植物のたどってきた道≫が、12月5日から、17日。
≪僧正殺人事件≫が、12月19日から、12月23日。
≪グリーン家殺人事件≫は、12月24日から、26日。
ちょこちょこと、日が飛んでいますが、実は、10月30日に、≪ブルー・バックス カオスから見た時間の矢≫と、≪時間の不思議 アルキメデスの目≫の二冊、11月23日に、≪宇宙の創成と進化≫と、計三冊を借りています。 それらには、一通り目を通したのですが、ほとんど、理解できず、感想の書きようがなかったので、書きませんでした。
宇宙論や時間論など、物事の本質に関わるジャンルの本を読んでいると、何となく、カッコいいようなイメージがありますが、理解できないのでは、読書の喜びが感じられないわけで、意味がありません。 逆に、不様の極みです。
「難しいから、素人には、分からない」というのなら、まだ、いいのですが、「学者の方も分かっていないから、分かるように伝えられないのではないか?」という疑念が拭い難く、特に、定説がなくて、相反する学説が同時に罷り通っているようなジャンルでは、「分かる、分からん」以前に、「信じる、信じない」をクリアせねばならず、学問というより、宗教になってしまいます。
本を読まなくても、Eテレ、木曜夜10時から、≪モーガン・フリーマンの時空を超えて≫という番組をやっているので、それを何回か見てもらえば、この種のジャンルの、「いい加減さ」が分かります。 世界に名の知れた一流大学の、有名学者の学説であっても、そもそも、「信じない」のであれば、どんなに数学的な根拠があろうが、全て、戯言・寝言の類いと判別できません。 だって、理論だけで、証明できないんだもの。 だーから、宗教だって言うのよ。