2022/09/25

EN125-2Aでプチ・ツーリング (36)

  週に一度、「スズキ(大長江集団) EN125-2A・鋭爽」で出かけている、プチ・ツーリングの記録の、36回目です。 その月の最終週に、前月に行った分を出しています。 今回は、2022年8月分。





【西沢田・森の中の祠】

  2022年8月1日、バイクで、西沢田へ出かけました。 住宅地図で見つけた、祠マークを目当てに行ったのですが、道が不舗装の草ボウボウで、近づけませんでした。 やむなく、近くで見つけた、鳥居のある祠に寄って、写真を撮って来ました。

≪写真1≫
  白い鳥居。 鉄製のようです。 この細い柱を、コンクリートで造るとしたら、強度的に厳しいですな。

≪写真2≫
  石製の祠。 立派な石垣の台座に乗っています。 個人祭祀でしょうなあ。 カップ酒が供えてありますが、祀っている人が酒飲みである証拠。 下戸は、そもそも、酒を供えようという発想が湧きません。

≪写真3左≫
  前の道路も含めて、深い森の中です。 北側を見ました。 建物は、農機具小屋ではないでしょうか。

≪写真3右≫
  前の道路で、南側を見た景色。 昼尚暗い。 炎天下でも、これだけ鬱蒼としていれば、暑さは感じません。

≪写真4≫
  前の道路に停めた、EN125-2A・鋭爽。 他の車が来るような所ではなく、遠慮なしに停めました。

  この頃、ヘッド・ライトを、ウインカーと同時につけると、暗くなったり明るくなったり、息をするようになり、対策として、消費電力を抑える為に、ポジション・ライトを、切れている電球に換えていました。 5ワット、節約していたわけですが、結局、息をするのが直る事はなく、対策になりませんでした。




【東椎路・鳥居のある祠】

  2022年8月10日、バイクで、東椎路の、「鳥居のある祠」へ行って来ました。 住宅地図に鳥居マークが載っていたので、そこを目指した次第。 迷わずに、到着しました。

≪写真1≫
  新幹線の北側にあります。 鎮守の森は、かなりの広さ。 手前は、月極駐車場です。

≪写真2≫
  森の中に立つ、そこそこ大きな鳥居。 コンクリート製。 「昭和二十八年四月吉日 建之」の文字あり。 1953年です。

≪写真3≫
  社殿、というより、祠ですな。 本体は、木製。 覆い部分は、壁が、コンクリート・ブロック。 屋根の骨組みは木製、波板トタン葺き。

  本殿・拝殿一体形式の基本形は、これだと思います。 ただし、この覆い部分を、拝殿と呼ぶには、サイズ的に無理があり、やはり、覆い部分としか言いようがありません。

  鳥居にも、祠の中にも、文字がなく、何の神を祀っているのか、分かりませんでした。 おそらく、土地の人なら、呼び名などで、知っていると思います。

≪写真4左≫
  森の木にくっついていた物体。 サルノコシカケの類いでしょうか。 長辺、30センチくらいありました。

  ここは、鎮守の森と鳥居だけ、妙に立派で、他に、神社アイテムがありませんでした。 だからこそだと思いますが、聖域的な厳かさを感じます。 本当に、神がいるような雰囲気。

≪写真4右≫
  参道に停めた、EN125-2A・鋭爽。 他に停める所がなかったので、ここへ乗り入れたのですが、歩く人がいないのか、道が柔らかくて、サイド・スタンドが沈んでしまいます。 やむなく、南側の月極駐車場から、砕石を拾って来て、スタンドの下に入れました。 引き揚げる時には、石は元の場所に戻して来ました。




【中東・水神の祠 / 中東公園・グラウンド】

  2022年8月16日、バイクで、中東の、「水神の祠」と、「中東公園・グラウンド」へ行って来ました。 「中東」は、「ちゅうとう」ではなく、「なかひがし」と読むのだと思います。 住宅地図の、祠マークを目印に行ったのですが、途中、ロスト。 しかし、大体の勘で、テキトーに走ったら、幸運にも到着しました。 こんな事は滅多にありません。

≪写真1≫
  中央の、小さいながら、こんもりした森の中に、祠があります。

≪写真2左≫
  祠に至る階段。 垂直面には、工事用足場板が利用されています。 水平面は、コンクリート。 足場板が倒れないように打ってあるのは、工事用のパイプです。

≪写真2右≫
  祠。 中に、札が貼ってあり、「水神様」である事が分かりました。 本体は、木製。 覆い部分は、木製、銅板葺き。 ここまで作ったら、扉を付けてもいいと思うのですが、ありませんな。 嵐の時が心配。 よそ者の分際で、余計なお世話ですが。 

≪写真3左≫
  なぜ、水神なのかというと、これがあるからだと思います。 たぶん、井戸。 湧き水が出ているんじゃないでしょうか。 横に、名札のような物が立ててありますが、草深くて、表側に近づけませんでした。

≪写真3右≫
  祠の裏手にあった、時計。 時計そのものは、既製品ですが、入れ物と支柱は、手製。 味がありますねえ。

≪写真4左上≫
  祠の北側にある、「中東公園」。 ブランコ、滑り台、雲梯がある、児童公園です。 右上に写っている、2連のスピーカーは、大きなもので、迫力がありました。 放送したら、大きな音が出るんでしょうねえ。

≪写真4左下≫
  祠の東側にある、「中東グラウンド」。 広大! 大袈裟な表現でなく、野球ができる広さです。

≪写真4右≫
  祠と公園の間にある、公園内の道に停めた、EN125-2A・鋭爽。 ヘッド・ライトの息継ぎは、直っていません。 アマゾンで注文した、ヘッド・ライトのLED球が届くのを待っている最中です。

≪写真5≫
  西側を南北に通る道に出て、南側を見た景色。 すぐ近くを、新幹線が通っていて、時折り、「ゴーーーーッ!」という音が響きます。 新幹線の音は、独特で、あまり、うるさいという感じはしません。 雷と似た、神秘的畏怖を覚えるのは、私だけでしょうか。

  ここは、愛鷹山の裾野ですが、この高さだと、海が見えるほどではないようです。 緑色のボコボコしているのは、茶畑。




【東椎路・茶畑つきあたりの竹林】

  2022年8月22日、バイクで、東椎路(ひがししいじ)の、祠を目指して出かけたのですが、確実に、住宅地図にあった場所に着いたにも拘らず、祠を発見できませんでした。

≪写真1≫
  周囲は、茶畑です。 付近を歩き回ったものの、祠どころか、道祖神一つも見当たりませんでした。 この辺り、明治以降に開墾された農地だから、土地の境に、道祖神を置く必要がなかったわけで、見当たらなくても、当然と言えば、当然。

≪写真2≫
  これが、つきあたりの正面です。 左手の小屋から先は、私有地につき 立ち入り禁止。 もちろん、入りませんでした。

  家に戻ってから、住宅地図の記号について、ネットで調べてみたら、あら、どうしましょう! 私が、祠マークと思っていたのは、竹林マークでした。 似てるんですよ。 祠マークは、「∧」の下に「L」。 竹林マークは、「ハ」の下に、「L」。 似てるでしょう。 なーんだ、そーだったのか! 竹林なら、この写真の右側に写っているじゃありませんか。 ちゃんと、目的地に着き、目的物を見ていたわけだ。

≪写真3左上≫
  つきあたりを右に進み、左に曲がると、こんな未舗装路になります。 車はもちろん、バイクでも、ちょっと、入る気になりません。

≪写真3左下≫
  ≪写真2≫の、竹林の手前、里芋畑の辺りで咲いていた花。 名前は分かりません。 園芸品種で、確実に、栽培されているもの。 もう、盛りを過ぎているようでした。

≪写真3右≫
  道だか、農地だか分からない場所に停めた、EN125-2A・鋭爽。 ここが、ハロゲン球のヘッド・ライトで出かけた、最後の場所になりました。 翌23日に、LED球が届き、25日には、交換したからです。 私としては、ハロゲンの方が好きなのですが、バッテリーに負担がかかってしまうのでは、致し方ない。

≪写真4≫
  高い所から、南を見下ろした景色。 手前から、茶畑、沼津市街地、そして、薄く、駿河湾が見えます。 その向こうは、伊豆半島北西部の山並み。 左に立っている柱の上には、茶畑の霜除け用の扇風機が付いています。




【東原ニュータウン公園】

  2022年8月30日、バイクで、東原にある、「東原ニュータウン公園」に行って来ました。 住宅地図で見つけた所。 途中にある、「宝珠院」というお寺に、以前、折自で来た事があったので、迷わず、到着しました。 分譲地の一角に造られた、児童公園です。

≪写真1≫
  全景。 家を建てれば、4軒分くらいになる面積。 児童公園だから、そんなものでしょう。

≪写真2左≫
  公園内にある、石碑。 これも、住宅地図に載っていました。 石に刻んである解説によると、古墳があったらしく、前半は、その事が書いてあります。 後半は、宗教的な話になります。 どうやら、分譲地を造成した会社の社長が、宗教的な考えを元に建てた石碑のようです。

≪写真2右≫
  そばにあった、石組み。 古墳時代の遺物でしょうか。 石だけだと、時代が分かりません。 小さな石塔には、「馬頭観音」とありました。 それだけ、後から建てたものかも知れません。

≪写真3左≫
  公園の水道と流し。 ホース・リールが、車のアルミ・ホイールを再利用したものでした。 面白い。 器用な人が、近くに住んでいるようですな。

≪写真3右≫
  叢で咲いていた、マリー・ゴールド。 もちろん、植えたものでしょう。 夏の終わりに見る花は、妙に、切ない。

≪写真4左≫
  遊具。 滑り台、ブランコ、鉄棒。 いかにも、児童公園らしい風景です。

≪写真4中≫
  時計。 時計そのものは既製品ですが、箱と支柱は手作りです。 「中東公園」にあったのと、似ています。 同じ人が作ったのかも。

≪写真4右≫
  公園を後にし、少し南へ行ったら、森の陰になった暗い所があったので、バイクを停めて、ハロゲンから、LEDに戻したばかりの、ヘッド・ライトを確認をしました。 確実に、点いてますね。 ウインカーと一緒に点けた時に、息継ぎをするかどうかは、確認し忘れました。 それが、肝腎だと言うのに。 まあ、ぼちぼち、やります。

≪写真5≫
  新幹線を見下ろした景色。 東海道新幹線は、私と同じ歳だから、もう、58歳ですな。 そのくらい経てば、どんなものでも、風景に溶け込むわけだ。

  数分毎に車両が通るのですが、待つのが面倒で、すぐに帰ってしまいました。 私は、鉄道ファンではないのです。




  今回は、ここまで。

  今回も、組み写真の枚数が、5枚です。 ここのところ、枚数が多くなりがちな、村社クラスの神社を避けているので、この枚数で、収まった次第。 組み写真一枚で、全てを語れるような、祠クラスがいいんですよ。 レイアウトも楽だし。 しかし、そういう目的地を、地図で探すのは、なかなか、難しいのです。

  【東椎路・茶畑つきあたりの竹林】と、【東原ニュータウン公園】の間に、メーターと、ライト関連の補修をしまして、その件については、近い内に、補修シリーズで、紹介します。 結局、年に一度は、どこかしら、直さなければならないのだな。 10年以上経っているバイクだから、無理もない事なのですが。

2022/09/18

実話風小説⑧ 【パパと遊ぼう】

  「実話風小説」の八作目です。 普通の小説との違いは、情景描写や心理描写を最小限にして、文字通り、新聞や雑誌の記事のような、実話風の文体で書いてあるという事です。

  今回の話、前半に関しては、離婚して、子供と引き離されてしまった人達は、自分の事を書かれていると思うかも知れませんが、特にモデルはいないので、気にしないで下さい。 後半になると、幾分、現実から乖離するので、自分がモデルでない事は分かると思います。 後半まで、当て嵌まってしまった場合、私を批判するより、自分を批判した方がいいです。




【パパと遊ぼう】

  男A。 有名ではないが、割と堅い会社に勤めていて、世間の平均よりも、少し多いくらいの収入があった。 結婚する前は、遊び好きで、飲む・打つ・買うに現を抜かして、貯金など一円もなく、常にローンを抱えているような生活だった。 結婚後も、遊び癖が抜けず、一度、浮気がバレて、大ごとになり、妻から、離婚届けを突きつけられた事もあった。

  ところが、妻が妊娠している事が分かると、Aは変わった。 自分の子供が出来る事に、神秘的な感動を覚え、生活態度を改めたのである。 浮気相手とは、きっぱり、縁を切った。 つきあう人間も変わり、学生時代からの悪友とは手を切って、新たに、真面目な先輩や同僚と、交友を始めた。 みな、妻子がいる人達である。 いずれ自分も、その仲間に加わろうと、算段していたのだ。

  生まれたのは、男の子だった。 他人の目から見ても、可愛らしい赤ん坊で、Aは、一目見るなり、めろめろになり、舐めるような溺愛を始めた。 あまりにも極端なので、傍目に違和感を覚えるほど。 自分の両親にも、妻の両親にも、触らせない、抱かせないという、極端さだった。

  妻の父親は、その様子を見て、「嫌な予感がした」と、後に語っている。

「いやあ、もう、娘と結婚する前から、嫌な感じはしていたんですよ。 Aは、何につけ、やる事が極端でね。 その事に自分で気づいていないようなんです。 娘も、交際中は、それに気づかなかったのが、結婚してから、分かったらしくて、実家に戻って来て、亭主の話をする時には、いつも、うんざりしたような顔をしていました」

  約10年間、Aと、妻、そして、息子の、仲睦まじい生活が続いた。 正確に言うと、Aと妻との仲は、浮気騒ぎがあった頃から変わらず、冷えていたが、息子が鎹になって、家族を結び付けていたのである。 Aは、休みの日になると、必ず、車を出し、家族サービスに努めた。 最初、日曜だけだったのが、土曜まで、出かけるようになり、さすがに、妻は、つきあいきれなくなって、Aと息子だけを送り出すようになった。

  問題が起こったのは、息子が、10歳になった年の事だった。 ある時、子供部屋を掃除していた妻が、机の隅に置かれた、馬券を見つけたのだ。 当然、ハズレ馬券だが、それは問題ではない。 Aが、息子を、競馬場に連れて行った事が問題なのだ。 まず、息子に、何食わぬ顔で訊いてみたところ、あっさり、それを認めた。 「馬券は、僕が予想して、パパが買ってくれたけど、ハズれちゃった」と言った。 妻は、息子を叱る事はせず、仕事から帰って来たAを、厳しく問い詰めた。

  Aは、最初、「ハズレ馬券を、くれてやっただけだよ」と、シラを切っていたが、息子の証言をとってあると言われると、開き直って、「馬を見せたくて、連れて行ったら、一度やってみたいって言うから、買ってやっただけだ。 ハズレたんだから、いいだろ、もう!」と、逆ギレの様相を見せた。

  だが、妻は、浮気騒ぎの頃から、Aの人間性に大きな疑問符をつけたままにしてあり、そんな事では、引き下がらなかった。 「ギャンブルを教えるのは、絶対、許さない! 今度やったら、離婚する!」と、きっぱり、宣告した。 妻には、親譲りの真面目さも強さもあったが、惜しむらく、常識があり過ぎて、押しが今一つだった。 夫を警戒していた点を除けば、基本的に、性善説で生きており、その後の成り行きを止める事ができなかったのだろう。

  しばらくして、今度は、居間でテレビを見ている時、息子が、小さな玉で遊んでいるを、妻が見つけた。 最初は、ビー玉だと思って、気にせずに見ていたが、やがて、「メッキされたビー玉なんか、ありっこない」と気づき、パチンコ玉だと分かって、ゾッと背筋が寒くなった。 パチンコ屋なら、競馬場より、頻繁に行っている可能性があるからだ。

  前と同様、息子に、何食わぬ顔で訊いてみたところ、Aに、パチンコ屋に連れて行かれた事を、あっさり、認めた。 そればかりか、パチンコ屋には、半年くらい前から行っているという。 この年頃の子供というのは、怒っている素振りを見せずに、普通の会話のように質問すれば、大抵の事は、素直に答えるものである。 「パパは上手だけど、僕がやると、すぐなくなっちゃうんだ」と、屈託なく答えた。 ちなみに、これは、子供連れの入店が、まだ禁止されていなかった頃の話。

  妻は、断固たる態度に出た。 Aを相手にせず、息子を連れて、実家に帰ってしまった。 両親に事情を説明すると、「そりゃ、まずいな。 10歳から、ギャンブルを仕込まれたんじゃ、ろくな人間にならない」と、離婚する事に賛同してくれた。 Aが、電話で妻を呼び出したが、「話があるなら、実家に来い。 ただし、決着がつくまで、子供には会わせない」と、言い渡された。

  Aは、妻の実家に行ったが、妻は、両親を交えて、Aと会い、3対1で、厳然と、Aを威圧した。 Aは、妻の父親から、ギャンブルを子供に教える事の是非を問われて、開き直った。

「男なんだから、ギャンブルくらいできなくて、どうするんですか。 どうせ、大人になれば、やる事でしょうが。 子供の頃から始めていれば、様子が分かるから、大負けしなくて済むんですよ。 これは、社会教育なんだ」 

  この戯言が、全く通用しなかったのは、妻の父親が、ギャンブルを一切やらないだけでなく、彼の交友範囲内に、ギャンブルとは無縁な人間が大勢いたからである。 月当たりの金額を決めて、ギャンブルを楽しんでいる人もいたが、無節操に注ぎ込んで、スカンピンになっている者も見ていた。 Aは、そのタイプに近かった。

  妻と、その両親は、一度、猶予期間を与えていた事を理由に、約束を破ったAに、離婚を迫った。 Aは、「それは、検討するから、とにかく、息子に会わせてくれ」と、辻褄の合わない取引を口にしたが、相手にされなかった。 その後、数ヵ月の調停期間を経て、離婚が成立した。

  Aが離婚を承諾したのは、離婚後も、息子と会う権利を主張し、認められたからである。 元妻側が甘かったのは、Aの家と、元妻の実家に、車で1時間以上かかる距離があったので、「そうそう、頻繁には、会いに来れないだろう」と見越して、頻度を決めなかった事である。 その種の権利は、「月に一度」くらいが標準なので、「Aが頑張っても、せいぜい、半月に一度くらいだろう」と想定していた。 

  ところが、いざ始まってみると、Aは、毎週、元妻の実家まで、通い始めた。 それも、土曜も日曜もだった。 祭日にも、必ずやって来た。 元妻や、その両親と顔を合わせるのを嫌って、玄関までは来ないが、車を家の前に停めて、息子の部屋がある窓に向かって、大声で息子の名前を呼んだ。

  早朝なので、大声、即、騒音なのだが、近所の人々は、Aが離婚後に息子に会いに来ているという事情を知ると、黙認するようになった。 Aを憐れんだのである。 Aの側では、そんな事とは露知らない。 息子に会いたい一心で、他の事など考えられなくなっており、近所の評判など、最初から、気にもしていなかった。

  息子が出て来ると、車に乗せて出かけ、夜まで帰って来なかった。 Aにしてみれば、愛する息子に会う為ならば、往復2時間の運転くらいは、何の苦でもなかった。 離婚前も、平日は、夜に帰宅するせいで、息子と話す時間があまりなかったから、土日祭日、ぎっちり、一緒にいられるのなら、大した変わりがなかったのだ。 変わりがないと、人間、反省など、しないものである。

  息子と会う頻度については、元妻側の予測が外れたが、「ギャンブルには、絶対、連れて行かない」という点は、しっかり、条件に入れてあり、Aも、それは守った。 遊びに行く先は、ゲーム・センターや、ホーリング場、野外アスレチック場などのレジャー施設。 ショッピング・センター。 観光地。 映画館。 たまに、スポーツ観戦など。 最初の内は、動物園や水族館にも行ったが、息子の方が、早々に大人びてしまって、そういう子供向けの施設には、行きたいと言わなくなった。

  息子は、中学生になると、母親とは、あまり話さなくなる一方で、父親と遊びに行くのは、やめようとしなかった。 母親や祖父母が、教育的配慮から、あれやこれやと口喧しいのに対し、父親は、金を湯水のように使い、好きに遊ばせてくれるのだから、どちらに流れるかは、決まっている。 年間120日も遊びに連れ出されている内に、息子にも、すっかり、遊び癖がついてしまった。

  そうなる前に、母親や祖父母が気づけば良かったのだが、Aが条件を守っているので、「なんとなく、こんなもの」で、見過ごしてしまったのだ。 近所の人で、祖母に向かって、「あんなに、年中、遊びに行ってたんじゃ、勉強する時間もないね」と言う人があったが、息子の成績は、特に悪いわけではなかった。 中の上くらいである。 それが更に、問題に気づかせるのを遅らせた。

  息子が高校生になると、変化が起こった。 学校の友人と遊びに行く事が増え、迎えに来たAが、すっぽかされるケースが出て来たのだ。 Aが、大声で、息子の名前を呼ぶ。 息子が出て来ず、返事もないので、もう一度、呼ぶ。 すると、元妻か、その両親の一人が、玄関から顔だけ出し、「友達と遊びに行った。 今日は、帰って来ない」と言う。 Aは、しばらく、未練たらしく待っていて、やがて、しおしおと、帰って行くのであった。

  Aは、対策を練った。 そして、息子に向かって、「友達も一緒に、遊びに連れてってやる」と提案した。 これには、息子も飛びついてきた。 父親と出かければ、お金は、父親の財布から出るから、大いに助かる。 友人1人、もしくは、2人、もしくは、最大3人で、Aの車に乗り、出かけた回数が、両手の指を折って数える程度。 友達が一緒だと、息子が自分の相手をしてくれないので、Aは面白くなかった。


  Aは、この世で、息子だけが愛する対象であり、他人の事なんぞ、歯牙にもかけない人間だったが、一つだけ、他人に、いい事をしたケースがある。 息子の友人の一人で、一時期、息子と最も親しかった少年Bを、真っ当な道に立ち直らせたのである。 少年Bは、Aの車で出かける時には、必ず、加わっていた。 何回も一緒に遊びに行って、Aとも、タメ口で話すくらい、気安い関係になっていた。 いや、少年Bが、そう思っていただけなのだが・・・。

  ある祭日の朝、Aが、元妻の実家の前に行くと、少年Bが立っていて、車から下りて来たAに言った。

「俺も今来たんだけど、今日は、お母さん、お祖父さんと、墓参りに行ったんだって」
「いつ、戻るって?」
「夕方って言ってた。 お祖母さんが」
「ちっ・・・。 それなら、昨夜の内に電話してくれればいいものを・・・」

  腐っているAに、少年Bが、おずおずと提案した。

「俺と、どっか、行きますか?」
「ああん?」

  Aは、片眉を持ち上げ、口元を歪めて、少年Bの顔を見返した。

「何言ってんだよ。 B君と出かけたって、しょうがないじゃんか。 俺は、息子に会いに来てんだよ」
「はあ・・・、そうですか・・・」

  少年Bは、Aの事を、何でも奢ってくれる、気前のいい、大人の友達くらいに考えていたのだが、この一言で、バケツ満杯の冷水を浴びせかけられたように、目が覚めた。 ムシのいい事を提案した恥ずかしさで、頭に血が上り、耳朶が赤黒くなるほど、充血した。 Aは、追い討ちをかけるように言った。

「B君、親御さんと仲が良くないんだって? だけどなあ、親子の関係って言うのは、そんな簡単に切れるもんじゃないぜ。 最後に頼みになるのは、親や子だけなんだよ。 よく考えてみな。 友達の親父と仲良くなったって、俺が、B君の事を、将来に渡って、面倒見てやれるわけじゃないんだぜ」
「はあ・・・」

  それを契機に、少年Bは、親との関係を見直し、仲がこじれた原因の、自分に問題があった点については、親に謝った。 親の方も、少年Bがグレてしまうのではないかと危惧していたので、自分達に非があった点は謝り、関係を修復した。 それ以降は、互いに、相手を思いやるようになり、他人が羨むような、仲のいい親子になった。 雨降って、地固まったわけだ。

  Aが、他人の為にいい事をしたのは、一生の内に、この一件だけである。 しかも、たまたま偶然、成り行きで口にした言葉が、いい方向に影響したに過ぎないのであって、Aが確固たる考えをもって、少年Bを立ち直らせたわけではない。


  話を戻す。 高校二年生になると、息子は、Aと出かけるのを嫌がるようになった。 迎えが来ると、家からは出て来るが、「友達と遊びに行くから、小遣いくれよ」と、金だけ出させて、Aを追い返してしまう事が、多くなった。 せびる金額は、少しずつ上がり、食費を削る計算をしなければならなくなる程だったが、息子に嫌われたくないAは、金を渡し続けた。

  息子は、Aの事を、子供の頃と同じように、「パパ」と呼んでいた。 声変わり直後の、ドスの利いた、ガラガラ声で、「パパ」と呼ばれても、Aは、嬉しかった。 その言葉を聞きたいばかりに、せっせと、金を渡しているようなものだった。 ちなみに、Aがいない場面では、家族相手には、「オヤジ」、友人相手には、「財布」と呼んでいた。

  Aは、条件を守って、息子にギャンブルをさせていなかったが、息子の方は、小学生の頃に教えられたギャンブルの味を忘れてはいなかった。 私服で年齢をごまかし、仲間を率いて、パチンコ屋に入るのは、日常茶飯事。 Aから小遣いをゲットした直後には、競馬、競輪、競艇、オート・レース、雀荘で賭けマージャンと、スッテンテンになるまで、賭けまくった。 今だったら、ネット・カジノに狂奔していたに違いないが、これは、20年も前の話で、そういうものは、まだ、存在していなかった。

  公営ギャンブルでは、換金の際に、年齢確認があるが、息子とその仲間は、勝った時だけ、成人している友人の兄に頼み、手数料を払って、換金してもらっていた。 そういう事は、いくらでも、抜け道があるものである。 つまり、勝つ事もあったわけだが、経験がある人なら分かるように、ギャンブルというのは、一定期間で平均を取ると、客側が損をするように出来ている。 ギャンブルで、財を成す人がいない所以である。

  外見的には、普通の高校生なのだが、中身は、すっかり、ゴロツキ化していた。 金がなくなると、悪仲間数人と駅の近くに屯ろして、他校の生徒を捕まえ、カツアゲにいそしんだ。 その程度でも、充分、犯罪だが、金は手に入る端から、ギャンブルや遊興費に消えて行ってしまうので、もっと大きな犯罪に手を出すようになって行った。

  珍しく、元妻の方から電話があり、息子が警察に補導された事を知ったAは、その罪状を聞いて、驚いた。

「コンビニ? 万引きか? そんなの、誰でもやる。 大した事じゃない。 えっ? 強盗? コンビニ強盗!? 誰が!? 馬鹿抜かせ!! あいつが、そんな事するわけないだろう!!」

  ところが、していたのだ。 それも、連続で、4回もやっており、テレビの地方局で、ニュースになるほどの、大ごとだった。

「悪い仲間に誘われたんだろう! だから、そんな連中とつるむなって、言ったのに!」

  ところが、Aの息子は、明らかに、グループのリーダーだった。 「一見、真面目そうだが、罪の意識が感じられず、大変、悪質」と、少年課の調書に書かれた。 犯行動機は、「遊ぶ金が欲しかったから」に尽きた。 実際、他に目的はなかった。 起訴を免れたのは、奇跡としか思えなかった。

  釈放された後も、息子の行状は改まる事がなかった。 Aに刷り込まれた、遊び好きの癌細胞が、全身に浸潤しており、金が手に入ると、瞬く間に、遊びとギャンブルで、使い尽くした。 母親と祖父母は、何とか立ち直らせようと、一円もやらないようにしていたが、Aがやってしまうので、意味がなかった。 元妻から、「あの子を駄目にする気か!」と、怒鳴りつけられたが、Aは、「やらないから、犯罪者になるんだ!」と言い返した。

  息子は、高校を中退して、本物のゴロツキになってしまった。 家からも出て行って、悪仲間の家を転々としているようだった。 たまに顔を見せても、金をせびるだけ。 「借金取りに、殺されそうなんだよ」と、お定まりのセリフを、毎回、口にした。 母親と祖父母が、それでも、金をやらないと、Aの家に行くようになった。 Aは、金をくれるからである。

  ところが、息子が要求する金額は、天井知らずで、Aの稼ぎの限界を、とうに超えていた。 Aは、会社に給料を前借りし、ありったけのクレジット・カードを限度額まで借り、消費者金融に脚を運んで、息子にやる金を工面し続けた。

  ある時、息子が、Aの家を訪ねると、「売家」の看板が掛かっていた。 Aは、借金の形に取られてしまった家の前に車を停め、その中で、寝起きしていた。 そこにいなければ、息子が訪ねて来られないからだ。 息子が、金をくれと言うと、財布から小銭を出して、「ごめんな。 もう、これしかないんだ」と言った。 息子は、怒った。

「馬鹿野郎! 5歳のガキじゃねーんだぞ! ナメてんのか!」

  Aを車から引きずり下ろして、頭や腹を蹴った。 さすがに、殺すほどの激しさではなかったが・・・。 顔中を血塗れにしたAは、泣きながら、喚くように言った。

「そんな子じゃなかったじゃないか! いい子だったじゃないか! なんで、パパを蹴れるんだ! なんで! なんで!」 

  息子は、Aを見下ろして、不敵に笑った。

「この馬鹿が! こんな俺にしたのは、誰だ? おめえじゃねーのか? えーおい、パパよ!」


  その後、息子は、借金取りに追われて、街から姿を消した。 母親と祖父母は、捜索願いを出したが、警察からは、その後、何の連絡もない。 「便りがないのは、いい便り」と言うが、それは、堅気の話。 ゴロツキの世界では、便りがないのは、死んだか、殺された証拠であるから、とっくに、この世から、いなくなっている可能性の方が高い。

  Aは、息子がいなくなった事で、経済的には救われた。 苦しい時でも、会社を辞めなかったのが幸いし、少しずつ、生活を立て直して、今は、1DKのアパートに住んでいる。 息子が作った借金は、十数年かかって、定年を迎える前までに、何とか返済した。


  Aは、息子を愛した。 それは間違いがない。 しかし、息子の育て方など、考えた事もなかった。 どんな人間になって欲しいかなど、考えた事もなかった。 そもそも、A自身にしてからが、どんな人間になりたいか、考えた事がなかった。 全て、成り行きに任せていればいいと思っていた。 ただ欲望の赴くまま、息子と一緒にいたい為だけに、遊びに連れ出し続けて、息子を人間のクズにしてしまったのである。

2022/09/11

セルボ・モード補修 (34)

  車の修理・整備記録のシリーズ。 今回は、主に、車検の記事です。 車検というのは、参勤交代に似たところがありますねえ。 2年に一回は、きつい。 過去2年間に、整備不良が原因の事故を起こしていない車に限って、3年に一回にしてくれませんかねえ。 免許と同じように、5年に一回なら、もっといいのですが。





【エアコン漏れ修理剤・ガス追加充填】

  車のエアコン・ガスですが、去年の夏前に追加充填したのが、抜けてしまったので、今年は、漏れ修理剤を入れてみる事にしました。

≪写真1左≫
  5月24日に、アマゾンで、注文。 25日に発送され、26日に届きました。 妙に細長い箱です。 クロネコだったので、インター・ホンで話しただけで、対面せずに受け取れたのは、ありがたい。

≪写真1右≫
  中身。 送り状と、本体。 リークラボ・ジャパン社の、「Dr.Leak(ドクター・リーク)」という製品。 送料込み、4150円。

  ところが、5月下旬から、6月中旬にかけて、梅雨空の気温が低い日が続き、車のエアコンを使う機会がなく、作業は、延び延びになりました。

≪写真2≫
  6月25日になって、ようやく、入れました。 「ケージ付きエアコン・ホース」と、「漏れ修理剤」、「エアコン・ガス」です。 ホースは、2018年に買ったもの。 ガスは、去年買った3本の内の2本目。 ガスは、3本で1900円と、割と安いです。

≪写真3左≫
  漏れ修理剤の充填中。 エアコンの「L」ポートにホースを繋いで、行ないます。 詳しくは、ネットで調べて下さい。 入れる前に、缶をよく振り、注入が始まってからも、缶を上下逆さまにして、よく振れと書いてあったので、その通りにしました。

  漏れ箇所が分かるように、蛍光剤が含まれており、ホースを外す時に、「L」ポート周辺が、少し汚れましたが、まあ、大した事ではないです。

≪写真3右≫
  こちらは、ガス。 やり方は、同じです。 注入が始まると、缶が冷たくなります。 振って振って、冷たさがなくなったら、終了。


   その後のエアコンですが、当然の事ながら、冷えるようにはなりました。 ただ、漏れ修理剤の効果がどの程度あるかは、ひと夏、過ぎてみないと分かりません。 もう、25年経つ車だから、駄目でも、仕方ないか。 数年前と違い、今や、車を使うのは、買い出しと母の病院送迎の時だけになっており、乗車時間は、長くても、10分程度。 エアコンがなくても、何とかなるにはなります。 エアコンの為に、車を買い換えるなど、馬鹿げた話。




【車検2022①「準備」】

  私の、というより、我が家の車、セルボ・モードですが、2年に一度の車検が、またやって来ました。 大抵、自賠責の更新予告通知が来て、時期を知るのですが、今回は、来ませんでした。 まあ、大体、日時は、決まっているんですが。

  6月24日に、中古車ディーラーに電話して、7月の初め頃を希望したのですが、向こうの都合で、それは叶わず、前回と同じ、7月6日に決まりました。

≪写真1≫
  7月4日から、準備開始。 まず、ホイール・カバーを外し、ハブ・ナットのトルクを確認しました。 これは、2020年の8月に買った、トルク・レンチです。 2年間、押入れで眠っていましたが、出して、トルクを「80N.m」にセット。 全部のナットにかけましたが、一つも緩んでいませんでした。 ソケットの径は、19ミリ。

≪写真2左≫
  ホイール・カバーを外した、黒の鉄ホイール。 濡れ雑巾で拭き、更に、ペイントうすめ液をつけたウエスでも拭きましたが、大差なかったです。 今は、黒いホイールが流行っているから、この状態で走っても、あまり、違和感がありません。

≪写真2右上≫
  車を買った時に付いていた、発炎筒。 2009年11月で期限が切れていますが、発炎筒は、積んでありさえすれば、期限が切れていても、車検は通るらしいです。 とはいえ、整備工場によっては、勝手に新品に換えてしまい、代金を請求するところもあるらしいので、用心して、これは、外しています。

≪写真2右下≫
  2018年、最初の車検の前に買った、非常信号灯。 単4乾電池2本で、チカチカ、赤い光が点滅します。 こちらなら、期限がないので、いつまでも使えます。 車検の時だけ、これに載せ換えている次第。 

≪写真3左≫
  今回は、代車は用意してもらわない事にしました。 軽のオートマチックしか運転できないので、わざわざ、探してもらうのが、悪いと思って。 帰りは、バスに乗ります。

  沼津市から、コロナ対策として支給された、「バス・タクシー券」。 100円が10枚で、千円分。 これが、3枚あります。 余裕で、足りるはず。 

≪写真3右≫
  ネットで、時刻表を調べました。 バス停を見に行かなくても済むのだから、便利な時代になったものです。

≪写真4≫
  7月5日の夕方、ブレーキ・ランプと、後退灯を確認する為に、デジカメのセルフ・タイマーで、車の後ろを撮りました。 ちゃんと、点いていますね。 よしよし。 そういえば、この車、ハイ・マウント・ストップ・ランプも、付いていたんですなあ。 すっかり、忘れていた。

  他の灯火類は、車の外に出て、自分の目で確認しました。 ブレーキ・ランプと、後退灯だけは、運転席に乗っていないと、点けられないのです。

≪写真5左≫
  車検に出す当日。 出かける前に、撮影。 もしかしたら、通らなくて、そのまま、廃車になってしまうかもしれないので、その場合、これが、遺影になります。

≪写真5右≫
  後ろ。 6年間、よくもってくれた。 買った時には、こんなに長く乗れるとは、思っていなかったなあ。




【車検2022②「引き渡し」】

  7月6日の、午後。 車検に出す為に、まず、清水町のスタンドで、千円分、給油し、それから、沼津市の西の方にある、中古車ディーラーまで、走りました。

≪写真1≫
  少し、時間が早かったので、カインズ・ホームの屋上駐車場に上がりました。 大きな店ですが、遠いから、ここへ来る事は、滅多にないです。

≪写真2≫
  北側を撮りました。 愛鷹山の上に、積乱雲があり、富士山を隠しています。

≪写真3≫
  ここでも、車を撮影。 日が照っていれば、シルバーの車は、反射が強烈なので、塗装の劣化が目立ちません。 黒の鉄ホイール姿は、私の趣味的に、今一つですが。

  車検場で、ハブ・ナットの打音確認があるから、ホイール・カバーを着けたまま引き渡すと、ディーラーの人が、カバーを外す事になります。 その際、古いカバーは、爪を折られてしまう恐れがあるので、用心して、予め、慎重に外してから、持って行くわけです。

≪写真4左≫
  斜め後ろから。 1997年が初登録だから、もう、25年目ですが、よく走っておるなあ。 偉い偉い。 どうも、遺影になりそうで、しんみりしてしまいますねえ。

  ここにいたのは、5分程度で、この後、中古車ディーラーに行き、引き渡して来ました。 2年前は、露天の店舗だったのが、いつのまにか、屋根付きの展示場になっていました。 普段は、無人の様子。

  店長さんではなく、面識のない人が、車でやって来ました。 その人は、「今日中に終わるつもり」と言っていましたが、今までの経験から、それはないと思い、その人が乗って来た車を代車に貸してくれると言われたのを、断りました。

≪写真4右≫
  で、帰りですが、バス停で、1時間半待つのが、我慢できず、歩き始めたら、強行軍好きの血が騒いで、家まで、12.5キロ、歩き通してしまいました。 そのせいで、足を大いに傷めました。 左足の裏の皮は、長辺5センチくらい、ベロリと剥けるわ、両足の親指の爪は死んで、真っ白になるわ、さんざんな有様に。 馬鹿な事をやっている。

  これは、東海道本線、原の踏切。 ここで、まだ、道程の3分の1くらいですが、すでに、足が悲鳴を上げていました。 狩野川に辿り着いた頃には、20歩ごとに、立ち止まって、痛みを堪える始末。 よく、家まで戻れたと、今でも信じられないくらいです。




【車検2022③「引き取り」】

  7月6日に持って行って、7日は連絡がなく、8日の午後4時頃に電話があって、終わったとの事。 やれやれ、ホッとした。 これで、あと2年、乗れるか。 ありがたい。 しかも、費用が、5万5千円と、今までになく、安かったのは、助かりました。 もっとも、車検費用を出すのは、母ですが。

  夕食後、自転車で、スーパーへ、手土産の菓子を買いに行き、ついでに、バス停で、沼津駅までの時刻表を確認して来ました。 ネットでも調べられますが、複数の路線が通るバス停なので、一番早いのを探すには、現場の時刻表を見た方が、確実なのです。

≪写真1≫
  9日の朝、いつもより、45分早く起きて、6時50分には、家を出発。 バス停まで、脚を引きずって歩きました。 ここが、最寄りのバス停。 もっと近い所もあるのですが、そちらは、早朝のバスが通らないのです。

  バスに乗るのは、6年ぶりです。 7時14分のバスで、沼津駅へ。 200円で、バス・タクシー券2枚を使いました。

≪写真2≫
  沼津駅南口。 東海道本線と、御殿場線が乗り入れています。 駅ビルの外見は、ここ数年、変わっていませんが、中には入った事がないから、どうなっているのか、全く知りません。

≪写真3左≫
  旧東海道を、西の方へ向かう路線のバス停。 ネットで調べたのと、場所が違っていましたが、行き先がはっきり書いてあるから、ここに違いありません。 この付近で、他人との接近を避けながら、30分くらい、待ちました。

≪写真3右≫
  10分前に、バスが来ました。 扉が開いて、乗れたのは、2分前くらいです。 8時10分に出発。 8時44分に、目的のバス停に到着。 530円で、バス・タクシー券6枚を使いました。 おつりは出ません。 9月の期限までに、もうバス・タクシーに乗る機会はないので、余らせても、無意味。  

  中古車ディーラーまで、脚を引きずって歩いたら、すでに、車が置いてありました。 5分ほどで、店長が別の車でやって来たので、支払いを済ませ、手土産の菓子を渡し、お礼を言って、車を引き取り、帰って来ました。

≪写真4≫
  我が家に戻って来た、セルボ・モード。 良かった良かった。 車検費用を出した母も、「これでまた、2年乗れるね」と、ニコニコしていました。

  この日の内に、ホイール・カバーを付け直し、書類、取説、電波置き時計など、下ろしてあったものを、積み直しました。 こうして、二年に一度のビッグ・イベントは、無事に終了しました。 いや、足の怪我があるから、無事ではなかったか。




  以上です。

  前回、2020年の車検が済んだ時に、「次に来る時には、新型肺炎も終わっているだろう」と思ったのですが、終わりませんでした。 7月上旬は、幾分、認定感染者が減っていた頃で、そんなに、緊張はしませんでした。 でなければ、バスに乗らざるを得なくなった時点で、顔色真っ青になった事でしょう。

  バス・タクシー券が、こんなところで役に立つとは思わなかった。 3000円分の内、800円分使えただけですが、丸まる、死蔵してしまうよりは、遥かにマシ。

  今回、車券代が安かったのは、もしかしたら、代車を借りなかったからではないかと思えて来ました。 「代車は、サービスで貸してくれるもの」という認識があったのですが、私の場合、「軽の、オートマチック」という制約があるで、ディーラーになければ、他から借りてくる事になり、それには、代金が発生するはず。 そのお金は、当然、車検代に加算されるのでは?

  いや、考え過ぎでしょうか。 次回も、代車を借りなければ、はっきりします。 折自を積んで行けるように、工夫しようかと、目下目論んでいます。 折り畳み自転車はありますが、大き過ぎの重過ぎで、そのままでは積めないので、要らない部品を外す必要があるのです。

2022/09/04

セルボ・モード補修 (33)

  車の修理・整備記録のシリーズ。 例によって、補修とは言えない、オイル交換のような、定期整備も含んでいます。 というか、このシリーズ、久しぶりなので、記事が溜まっており、オイル交換やワックスがけが、二回も出て来ます。





【ジェネレーター・ベルト張り調整】

  2012年7月7日から、車のエンジンで、キュルキュル音がし始めました。 毎回、乗る度に、一回は鳴くので、そろそろ、直そうと思い、7月25日に、ボンネットを開けました。 ベルトを押してみると、エアコン・ベルトは、ピンピン。 代わりに、ジェネレーター(発電機)・ベルトが、ユルユルでした。 エアコン・ベルトだけ張り直すつもりでいたのですが、これでは、反対です。 ジェネレーター・ベルトを放っておくわけにはいきません。

≪写真上≫
  カー・ステップを組んで、車の前側を上げました。 ジェネレーターの下側のボルトを緩めたり締めたりするのに、結構、力をかけるから、ジャッキ・アップでは、怖くて、潜れないのです。

≪写真中≫
  邪魔な部品を外して、空間を開け、ジェネレーター・ベルトを張り直しました。 真ん中あたりに見えるのが、ジェネレーター・ベルトです。 ジェネレーターは、上下、各一本のボルトで留められていて、上側が、アジャスター(調整器)になっています。 両方を緩めてから、ジェネレーターの上側を押して、ベルトをピンと張りながら、上側ボルトを締め付けます。 下に潜って、下のボルトを締めて、終了。

≪写真下≫
  こちらは、エンジンの前端にある、エアコン・コンプレッサーですが、障碍物が多くて、ほとんど、見えていません。 ベルトが、少しだけ見えます。 黄色いのがそれ。 ベルトの向かって右側に、コンプレッサーの上側ボルトがあるのですが、見ての通り、スパナも、ボックスも、入れる余地がありません。 バンパーを外せば、少し、やり易くなりますが、知れたもの。

  やり難いからというわけではありませんが、エアコン・ベルトの方は、緩んでいるわけではなかったから、そのままにしておきました。 これで、様子を見てみます。


  エアコンをかけると鳴くから、てっきり、エアコン・ベルトだと思っていたのですが、もしかしたら、鳴っていたのは、ジェネレーター・ベルトだったのかも知れません。 ジェネレーター・ベルトと、エアコン・ベルトは、クランク・プーリーを中心に、前後で引っ張り合いをしているので、ジェネレーターとエアコン・コンプレッサー、両方が回ると、力の関係が変わって、鳴くのではないかと思います。

  エアコン・ベルトは、2017年に交換しているのですが、ジェネレーター・ベルトは、車を買う前から付いていた物で、だいぶ、古くなっています。 経年劣化して、伸び易くなっているのかも知れません。 その内、換えなければならないか。 アジャスターには、まだ、ゆとりがあるんですがね。




【ワックスがけ / ヘッド・ライト磨き / グリルとワイパー・ベースにシリコン・スプレー】

  2021年11月8日に、車に、ワックスをかけました。 ついでに、ヘッド・ライトに、コンパウンドをかけ、更に、グリルと、ワイパー・ベースに、シリコン・スプレーを吹きました。 シリコン・スプレーは、黒素地のプラスチックに塗ると、黒さと艶が蘇るのです。

  これらの作業は、従前、5月と11月の下旬にやっている、オイル交換と同時にしていたのですが、今回から、分離して、前倒しする事にしました。 歳をとったせいか、一遍にやると、疲れてしまうので。

≪写真1≫
  フロント・エンド。 ヘッド・ライトは、白さが戻り、グリルは、黒さが戻りました。 ボンネットは、ワックスをかけても、塗装そのものが劣化しているので、あまり、変わりません。

≪写真2≫
  ワイパー・ベースのプラスチック部品。 これは、ビフォー写真です。

≪写真3≫
  シリコン・スプレーを吹いた、アフター写真。 おそらく、新品の時より、黒さが戻っています。 歳月と共に、次第に薄くなっていくので、定期的に吹き直す必要があります。

≪写真4左上≫
  ワックス。 亡父が、トヨタ車に乗っていた間に、ディーラーからもらったもの。 半ネリ。 色は、薄緑です。

≪写真4左下≫
  メタリック車用コンパウンド。 これで、ヘッド・ライトを磨きました。 タオルにつけて、こするだけ。 引っ掛かりが感じられなくなったら、タオルに水をスプレーすると、抵抗が戻ります。

≪写真4右≫
  シリコン・スプレー。 潤滑剤としても使えますが、艶出しの方が、強烈な効果が目に見えます。 細いチューブ・ノズルを付けて、ちょぼちょぼと、塗るように吹き、タオルでのばすのがコツ。




【オイル交換】

  2021年11月24日に、車のオイル交換をしました。 半年に一度、やっています。 近所を一回りして、エンジンを暖めてから、始めました。

≪写真上≫
  庭用のプラスチック・パネルと、コンクリート・ブロックで、カー・ステップを組み、その上に、前輪を載せて、エンジン下に潜れるようにします。

  カー・ステップには、車を乗せる時のショックで、崩れないように、ダンボールで作った枠を嵌めていたんですが、前回、ジェネレーター・ベルトを張り直した時に、枠なしでやってみて、大丈夫そうだったので、今回も、なしでやりました。 さほど、時間が短縮したわけではないですが、気分的には、楽になりました。

  ジャッキ・アップでやる場合、車の側面下に、何か頑丈な物を挟んで、車の落下を避ける工夫が要ります。

≪写真中≫
  廃油を抜いた時に、コンクリート面に落ちないように、新聞紙やビニールを敷き、その上に、オイル・バットを置いています。 上から吊る下がっている新聞紙は、オイルの排出口が後方を向いているせいで、後ろへ勢い良く飛び出すのを、止める為の物。

  敷いてあるダンボールは、自分が潜る為の下敷きです。 汚れてもいい、作業服で、潜ります。 工具は、ドレン・ボルトを緩めたり締めたりする、スパナが一本と、あと、新しいオイルを上から入れる時の、漏斗が要ります。 スパナは、車載工具に入っていると思いますし、漏斗は、厚紙でも作れるので、ドレン・ワッシャーと、新しいオイルさえ買って来れば、誰でもできる作業です。

≪写真下≫
  入れているのは、エンパイア・モーター社の、「テクノ・パワー 10W-30」。 左が、古いの。 右が、新しいの。 どちらも、1580円。 ホーム・センターで売っている、一番安いオイルです。

  缶のデザインが変わったようですが、よく見ると、古いのが、「SL/CF」、新しいのが、「SP/CF」と、規格も違っています。 間違えて買って来たわけではなく、2020年に、「SP」という新規格が登場したとの事。 「テクノ・パワー」も、それに変更されたわけだ。 いずれにせよ、私は、一番安いのしか買いません。

  「CF」というのは、ディーゼル・エンジン用の規格のようですが、詳細は分かりません。 とことん調べるほど、好奇心が湧きません。




【ワックスがけ / ヘッド・ライト磨き】

  2022年5月9日に、車のワックスがけと、ヘッド・ライト磨きをしました。

≪写真上≫
  1997年式ですから、今年で、25年になります。 塗装は、屋根とエンジン・フード(ボンネット)のクリヤが剥がれているのですが、色がシルバーであるせいか、日射しが強いと、反射で、目立ちません。そんな塗面状態でも ワックスは、かけないよりは、かけた方が、綺麗に見えるようです。

  ヘッド・ライトのレンズは、半年に一度、コンパウンドをかけています。 茶色の(ピカール)と、白いの(ソフト99)をもっているんですが、間違えて、茶色のをかけてしまい、途中で気づいて、白いのをかけ直しました。 茶色のコンパウンドは、レンズ表面の細かい凹凸に入り込んで、逆に、黄ばんで見えてしまうのです。

≪写真下≫
  後ろから。 写真で見ると、ピカピカですな。 とても、四半世紀も経っている、オリジナル塗装とは思えない。 でも、肉眼で見ると、劣化は、隠しようがないです。

  塗装をやり直せば、本当にピカピカになるわけですが、塗装は、車の修理の中で、最もお金がかかるものでして、外だけやってもらうだけでも、30万円以下など、ありえますまい。 本体8万円で買った車に、30万円かけて、塗装をするなど、馬鹿げた話です。




【オイル交換 / ブレーキ・フルード追加 / エアコン・ガス圧確認】

  2022年5月23日に、セルボ・モードのオイル交換をしました。 ついでに、ブレーキ・フルードを追加し、エアコン・ガス圧の確認もしました。

≪写真1≫
  暖気の為、近所を一周りして来た後、カー・ステップを組み、前輪を10センチ、持ち上げました。 以前は、カー・ステップに、ダンボールで作った枠をかけていましたが、なくても問題ないようなので、ここ数回は使っていません。 上がる時には、運転席の窓を開け、前輪を見ながら、一段ずつ、上げて行きます。

≪写真2≫
  エンジン下に潜り込んで、ドレン・ボルトを外します。 薄青色のビニールの上に、オイル・バットを置いています。 ダンボールは、私が潜り込むところ。 汚れてもいい、作業着を着ています。

≪写真3左≫
  手前は、17ミリのコンビネーション・スパナ。 大抵のドレン・ボルトは、これで、回ると思います。

  真ん中は、左から、ドレン・ボルト。 使用済みのドレン・ワッシャー。 未使用のドレン・ワッシャー。

  奥にある黒いのは、エンジン・オイル・キャップ。 下手な場所に置くと、締め忘れる恐れがあるので、目立つように、白い物の上に置いた方が、無難。

≪写真3右≫
  エンジン下です。 オイル・パンを横から見たところ。 排油口が後ろ向きになっているので、ドレン・ボルトを抜くと、後ろへ廃油が飛び出します。 吊るしてある新聞紙は、それを受けて、真下へ落とす為の物。 今回は、うまく、バットの中へ落とす事ができました。

≪写真4左≫
  バットに出した、廃油。 半年に一度の交換だと、私の走行距離では、200キロくらいしか走らないので、まだ、透明度が残っています。 メーカーの指定通りに、半年間隔で換えていますが、年に一回でもいいかなと、思わないでもないです。

≪写真4右≫
  廃油は、父の遺品の、紙オムツに吸わせて、燃やすゴミに出しています。 2リットルで、6枚必要。

≪写真5左≫
  計器盤の、ブレーキ警告灯が、ちょちょこと点いてしまうので、ブレーキ・フルードを、上限の線近くまで、追加しました。 ブレーキ警告灯が点くようになったら、パッド交換より先に、こちらを試すべし。

  このブレーキ・フルードは、去年(2021年)の8月に、アマゾンで、688円で買ったもの。 ドット3(BF3)。 本当は、新旧混用は、まずいんですが、古い方が、よほど変質していない限り、同じドットなら、大丈夫なんじゃないでしょうか。

≪写真5右≫
  エアコン・ガスの圧力も確認しました。 エアコンが効かないくらい、減っていましたが、抜けきってはいませんでした。 漏れ修理剤が使えると思われます。

  ちなみに、ネット情報によると、ガス圧が高いのに、エアコンが効かない場合、コンプレッサーの故障など、別の原因が考えられるそうです。




  以上です。 今回分は、ほとんど、定期整備ですな。

  オイルは、ホーム・センターで、一番安いのを買っているんですが、2017年の11月に、最初に買った時、998円だったのと同じ品が、今や、1580円です。 1.5倍に値上がりするとは想像もしていませんでした。 大抵の物は、ネットで買った方が安いのですが、エンジン・オイルは、例外の様子。

  大きな缶で買えば、もちろん、割安ですが、量が多過ぎて、使い終わる前に、劣化してしまうので、個人では買えません。 ああいうのは、大量に使う整備工場向けの品です。 今後も、1580円、出し続けるしかないか。 幸い、4リットルで、2回分あるから、年間1580円でして、そんなに大きな出費というわけではないです。

  ブレーキ警告灯は、2018年の車検前にも、点くようになり、その時は、大掛かりにも、ブレーキ・パッドを交換したのですが、外したパッドは、まだ、そんなに減っていませんでした。 その時も、フルードを追加すれば、警告灯は消えたと思います。

  もっとも、警告灯が点くたびに、何度も注ぎ足していたら、いつかは、パッドが減り切って、ディスクを傷めてしまうから、注ぎ足しを一回したら、二回目は、パッドを確認した方がいいと思いますけど。