2023/06/25

EN125-2Aでプチ・ツーリング (45)

  週に一度、「スズキ(大長江集団) EN125-2A・鋭爽」で出かけている、プチ・ツーリングの記録の、45回目です。 その月の最終週に、前月に行った分を出しています。 今回は、2023年5月分。





【裾野市麦塚・矢野坂の滝】

  2023年5月3日、裾野市・麦塚にある、「矢野坂の滝」へ行って来ました。 「やのさかのたき」。 別名、「コンドル滝」。 ネット地図で見つけた所。

≪写真1≫
  事前に、ネットで調べたら、「わざわざ行く所ではない」とあったんですが、実際に行ってみたら、大変 気持ちのいい所で、期待していなかっただけに、得した気分になりました。 滝の落差は、3メートルくらいですが、堂々たる滝壺をもっており、景勝地として整備されていないのが、不思議なくらいです。

≪写真2≫
  滝の上流。 小さな滝が、幾つもあります。 この川は、大場川(だいばがわ)です。 対岸は、三島市。 三島市の方からは、滝が見えません。 この森が、いいですねえ。 トトロでも出て来そうです。

≪写真3≫
  富士山も見えます。 左右対称で、絵に描いたような富士ですな。 こういう、景色に恵まれた土地で育つと、他の大抵の景勝地に行っても、感動が薄いでしょうねえ。

≪写真4左≫
  滝のすぐそばに立つ、高圧電線の鉄塔、「西-沼129号」。 この鉄塔に、中ほどまででも、登れるようにしたら、滝も富士山も、よく見えると思うのですが、危険だから、無理な相談か。

≪写真4右≫
  鉄塔の下に停めた、EN125-2A・鋭爽。 今回は、ほぼ、平地のみだったので、安心して行って来れました。 ここは、裾野市の南端でして、距離的には、私の家から、往復25キロくらいと、そんなに遠くありませんが、時間は、結構かかります。

≪写真5左≫
  滝の近くで咲いていた、片食み(カタバミ)。 小さい花です。

≪写真5右≫
  滝に架かる、大きな木に、藤が巻きつき、花が咲いていました。 公園などの、藤棚で見る事が多いですが、本来は、こういう咲き方をする花です。




【裾野市伊豆島田・熊野神社 ①】

  2023年5月10日、裾野市・伊豆島田にある、「熊野神社」へ行って来ました。 三菱アルミの西隣です。 三島の日大通りを北上して行くと、着きます。

≪写真1≫
  信号交差点の角にあります。 三菱アルミの西側に差しかかったら、すぐに分かります。 結構な巨木が立っています。

≪写真2左≫
  「関係者以外、乗り入れ お断り」の注意書き。 氏子総代というのは、そういう事を決める権限があるようです。 神社の注意書きで、氏子総代が出て来るのは、珍しい。

≪写真2右≫
  向かって 右側が、鉄コンの社殿。 左側は、木造の集会所。 屋根がある階段で繋がっています。

≪写真3左≫
  拝殿の正面。 棒注連の上に、木の彫刻を嵌めてあります。 左端に、よく 電柱の街灯に使われる、蛍光器具あり。 これも、神社では、珍しいです。

≪写真3右≫
  社殿は鉄コンですが、装飾として、木彫りの獅子が柱の外に付けてありました。 珍しいなあ。

≪写真4左≫
  拝殿の、正面扉上の照明器具。 これは、レフ・ライトですな。 壁の痕を見るに、以前は、蛍光器具が付いていたようです。

≪写真4右≫
  鉄製の賽銭箱。 たぶん、固定してあると思います。 いかにも、頑丈そう。

≪写真5左≫
  戦後・獅子型狛犬。 昭和45年(1970年)の寄進。 なるほど、その頃のデザインですな。 53年も経っているにしては、石の白さが残っていますねえ。

  左隅に、古い石燈籠が写っています。 シンプルな造形。

≪写真5右上≫
  新しい石燈籠。 「1990年」と、西暦で彫ってありました。 先々の事を考えると、その方が、分かり易いです。 それでも、33年経っているわけですが、新品に見えます。 管理がいいんでしょうか。

  絵馬掛け、あり。 これがあると、大きな神社という感じがします。

≪写真5右下≫
  社殿の縁先に置いてあった、絵馬の箱。 無料だけれど、「お気持ちは、賽銭箱へ」との事。 奥ゆかしいと、言えば言えますが、やはり、無料は、財政的に厳しいのだと思います。




【裾野市伊豆島田・熊野神社 ②】

≪写真1≫
  境内から見える、三菱アルミの工場。 大きな工場です。 この付近の、ランド・マークになっています。

≪写真2左≫
  氏子総代による、注意書き。 「石の欄干に登るな」というのは、至極もっともな注意でして、木材と違って、複雑な組み方をしていないから、簡単に崩れてしまう恐れがあります。 子供は、そんな事は知らないから、大いに登りそう。 子供が、ちょっと高い所に登りたがるのは、猿の本能が残っているからだと思います。

≪写真2右≫
  なんじゃ、こりゃ? おそらく、元は、石燈籠。 火袋と傘が、壊れてしまったのでしょう。

≪写真3左≫
  境内別社。 何の神かは、不明。 総石造りで、これ全体が、美術品のように見えます。

≪写真3右≫
  南側道路の近くにあった石碑。 「萬民仰○○」、下の二文字が、読めません。 

≪写真4左≫
  社殿前にあった石碑。 漢文。 まったく、読めぬ。 石碑はそれでいいとして、横に、現代日本語の解説板を立ててくれるとありがたいんですが。

≪写真4右≫
  境内の西の方にあった、大きな石碑。 漢文。 まったく、読めぬ。 せめて、題字だけでも、と思ったら、篆書。 ますます、読めぬ。 解説板が欲しいところ。

≪写真5左≫
  社殿を横から。 拝殿と本殿が、短い廊下で繋がれている形式。 それにしても、頑丈そうな建物だ。

≪写真5右≫
  境内に乗り入れて停めた、EN125-2A・鋭爽。 「関係者以外、乗り入れ お断り」なわけですが、見学者は、関係者だと思うので、問題ないでしょう。 他を訪ねて来たのに、神社の駐車場を使うな、という意味でしょうから。




【裾野市伊豆島田・住宅地の神社】

  2023年5月16日、裾野市・伊豆島田の住宅地の中にある、「神社」へ行って来ました。 ネット地図には、「神社」と書いてあるだけ。 現地でも、名前は確認できませんでした。

  三菱アルミと、御殿場線に挟まれた住宅地の中にあります。 地図で調べてこなければ、よそ者が、偶然、辿り着くような所ではないです。

≪写真1≫
  砂利を敷いた参道があります。 敷地の奥に、鳥居が見えます。

≪写真2≫
  コンクリート製の鳥居。 大きめの牛蒡注連が、かけてあります。 その後ろは、どう見ても、御神木。

≪写真3≫
  社殿。 拝殿というよりは、覆い。 たぶん、鉄コン。 屋根もコンクリートですが、優雅な曲線が出来ています。 宮大工とは別に、こういうものを作る、コンクリートの技師がいるんでしょうか。

  見え難いですが、切り株が、5・6個あります。 かつては、鎮守の森を形成していたのでしょう。 もしかしたら、宅地化する前は、大きな森があったのかも知れません。

≪写真4左≫
  本殿。 木製。 牛蒡注連。 榊立て。 賽銭箱。 質素ながら、神社アイテムが、揃えてあります。

≪写真4右≫
  石燈籠。 シンプルな造形。 この神社の管理をしている人のセンスなのだと思いますが、規模に相応しい、質実さを感じさせます。




【裾野市伊豆島田・三島市伊豆島田浄水場】

  2023年5月22日、裾野市・伊豆島田にある、「三島市伊豆島田浄水場」へ行って来ました。 裾野なのか、三島なのか、分からない名前ですが、場所は、裾野市の伊豆島田地区にあり、三島市が造って使っている浄水場なのだと思います。 三菱アルミの西側にあります。

≪写真1≫
  正面入口。 行ったと言っても、用があるわけではないので、中に入ったというわけではありません。 どんな所か、外から見て来ただけです。 いかにも、公共施設という趣きの建物です。

≪写真2≫
  これが、浄水設備のようです。 モダン、というより、未来的だな。 SF映画の撮影ができそう。

≪写真3左≫
  ≪写真2≫の端にも写っていますが、こういう、大きなバルブのような設備が、幾つか ありました。 網格子の覆いは、一般家庭の物置くらいの大きさがあります。

≪写真3右≫
  浄水場の北側道路から、西を向いた景色。 踏切は、御殿場線のもの。 写ってませんが、踏切まで行くと、すぐ近くに、旧国道246号線、現、県道394号線が通っています。 堰原(せぎばら)の交差点で、左折して、南下し、途中から、勤めていた頃の退勤経路に入り、緊張感なしに運転して、家に戻りました。

≪写真4≫
  これは、浄水場の北側の道で撮った、EN125-2A・鋭爽の写真ですが、なんと、ギア・インジケーターのランプ「1」が、また、切れました。 前回、換えたのは、1月だから、半年もちませんでした。 また、交換しなければなりません。




【裾野市伊豆島田・すその中央自動車学校】

  2023年5月22日、裾野市・伊豆島田にある、「すその中央自動車学校」へ行って来ました。 三菱アルミの隣です。 中に入ったわけではなく、外から見て来ただけ。

≪写真1≫
  三菱アルミとの境を通っている、県道21号線から、自動車学校の正面側を見ました。 あいにくの曇りで、写真が悪いですが、御容赦あれ。 水色の建物が、校舎です。

≪写真2≫
  敷地の裏側から、学校の中を見ました。 まあ、教習所は、みんな、同じような感じですな。 教習車は、トヨタの、コンフォート、もしくは、クラウン・コンフォートのようです。 私が、現役時代に作っていた車ですが、そういや、教習車タイプもあったかな?

≪写真3左≫
  坂。 まあ、教習所は、みんな、同じような感じですな。 なぜか、フォルクス・ワーゲンのup!が停まっていますが、これは、教習車ではないと思います。 オフ・ロード・バイクやスクーターも停まっているところを見ると、従業員のものではないでしょうか。

≪写真3右≫
  県道21号線の、三菱アルミ側の歩道で咲いていた、たぶん、タンポポ。 野芥子だと、葉っぱが見えるはずですから。

≪写真4≫
  教習所側の歩道の、少し北に行った所に停めた、EN125-2A・鋭爽。 こうして見ると、全く、125ccに見えんなあ。 特に、エンジンは、250ccの単気筒と見分けがつかぬ。 たぶん、その分、シリンダーの肉が厚くて、冷却効率がいいのではないかと思います。

  出力や、ギア比的には、速く走れないようになっていて、血気盛んな若い人には、不満があるでしょうが、私のような引退者には、スピード違反で捕まる危険性が低くなるので、都合がいいです。

≪写真5≫
  三菱アルミ側の歩道から、北西方向を見ました。 工場風の建物の上に、富士山が見えています。 ちなみに、裾野、御殿場、小山は、富士山を見るポイントとしては、絶好です。





  今回は、ここまで。

  プチ・ツーは、週一回なので、極力、天気がいい日を選んで出るのですが、梅雨時は、そうも行きません。 雨が降らない事が分かっていれば、曇りでも、出かけます。 曇りの日に行った所は、珍しいせいか、妙に記憶に残ります。 「すその中央自動車学校」は、その一つ。 記憶には残るけれど、光の量が少ないから、写真は、悪くなります。 痛し痒しか。

2023/06/18

実話風小説 ⑰ 【眼鏡の男】

  「実話風小説」の17作目です。 実話風と言いながら、長くなり過ぎて、普通の短編小説と大差なくなってしまった、このシリーズ。 書く方も、負担が大きくなって、そろそろ、耐えられなくなって来ました。

  で、やめるか、初心に返るかの二択になったのですが、やめても、他に掲載する記事がないので、とりあえず、初心に返ってみようかと思います。 今回から、初期の頃のように、短くなります。




【眼鏡の男】

  当年25歳の女性、A。 無名の私立大学を出て、就職したが、すぐにやめてしまった。 以来、「家事手伝い」を肩書きにしているのだが、今時 珍しい事である。 ひきこもりというわけではなく、近隣の地方都市へ、買い物には、よく出かけていた。 車の免許は持ってなくて、普段は、バスを利用していたが、ある時、バスを乗り逃してしまい、電車で帰って来た。

  退勤ラッシュの時間帯で、車内は、立錐の余地もない混雑。 そこで、Aは、痴漢に遭った。 後ろから、スカートの中に、手を入れて来るのが分かった。 何度も払い除けようとしたが、やめようとしないので、次の駅で、人を掻き分けて下りた。 その時、勇気を振り絞って、ちらっと後ろを振り向いた。 一瞬、目に映ったのは、眼鏡をかけた男だった。 Aは、全身の毛が逆立つ思いがした。

  下りた駅が、比較的、大きな街だったので、駅員がホームにいた。 はっきり、それと分かるほどに取り乱しながら、痴漢にあった事を告げた。 駅員から、「犯人は、どうしましたか」と訊かれて、「電車に乗ったまま、行ってしまったと思う」と答えた。 駅員は、困ってしまった。 それでは、見つけようがないではないか。 車内で大声を出して、周囲の人達に取り押さえてもらえば良かったのだが。 しかし、性格的に、そういう対処ができない被害者も多いから、致し方ない。

  ところが、Aは、意外な事を付け加えた。 犯人は、知っている人間だと言うのだ。 自分の家の近所に住んでいる男だと言うのである。 駅員は、警察を呼び、その街にある所割署から、生活安全課の刑事がやって来た。 30代後半の男性警部補と、20代の女性巡査である。 犯人が誰か分かっていると言うので、詳しい事情を訊く為に、Aを車に乗せ、署まで連れて行った。

  Aから、犯人の家の場所と、Bという名を聞き、警部補が、部下の男性巡査部長と共に、B氏の家へ向かった。 すでに、午後8時である。 B氏は不在だったが、隣家の住人が、「もうすぐ、帰って来ると思う」と言うので、車の中で待ち、20分後、車で帰って来たB氏に声をかけた。 B氏は、眼鏡をかけた、40歳前後の男性だった。

  痴漢の容疑について、尋ねられると、B氏は、「全く、身に覚えがない」と、即答した。 「その時刻には、会社で仕事をしていたから、証人はいくらでもいます」と言った。 被害者が、Aである事を聞くと、「ああ、あの人・・・」と、うんざりしたような、迷惑そうな表情を見せた。 人家が疎らに建つ農村地帯で、Aの家は、B氏の家から、100メートルほど離れていたものの、直接、見る事ができる。 B氏は、Aの家の灯りを指し示しながら、「Aさんの顔を知ってはいますが、以前、挨拶をした事があるくらいで、話をした事はないです。 ご両親とは、何度も話をした事があります」と言った。

  B氏は、バツイチの一人暮らしで、心配する家族もいない。 任意同行を求められて、家に入る事もせず、そのまま、警察の車に同乗し、所轄署へ向かった。 本人が、はっきり否定しているのだから、この時点での任意同行は、勇み足と言われても仕方がない。 本来なら、B氏のアリバイを確認するのが先だ。 警部補は、首実検をさせるつもりで、連れて来たのだが、それにしても、任意同行には早過ぎる。 Aが、犯人を名指ししていたから、ほぼ間違いないと、アタリをつけていたのである。

  取調室に、B氏を入れ、隣室のマジック・ミラー越しに、Aに確認させたところ、ちらっと見ただけで、顔を背け、強張った表情で、おぞましそうに、肩を震わせながら、「間違いないです」と言った。 警部補は、それで、B氏を、完全に、犯人と決めてしまった。 留置するように命じられた巡査部長が、「アリバイ確認しないんですか?」と訊くと、「それは、明日でいい。 どうせ、嘘だろう」と言った。

  「とりあえず、一晩、泊まってもらう」と言われたB氏は、別段、慌てもせずに、「それは構いませんが、今夜でも、明日の朝でも、駐在のCさんを、呼んでもらえますか」と言った。 C駐在は、A宅やB宅がある集落の担当である。 警部補は、B氏を犯人だと決め込んでいたので、犯罪者のくせに、「今夜でも、明日の朝でも」などと、余裕を見せた言い方をされたのが気に入らず、もう、9時過ぎだというのに、電話をかけて、C駐在を呼び出した。

  C駐在は、30代前半の男性である。 普段着に着替えて、寛いでいたところへ、電話を受けて、制服を着直し、車で署へ駆けつけた。 生活安全課へ行くと、応接セットに、Aが座っているのに気づき、うんざりしたような表情を見せた。 Aに付き添っていた女性巡査から、「警部補は、取調室にいます」と言われて、そちらへ向かったが、ちょうど、巡査部長が取調室から出て来て、「警部補は、喫煙所で、課長と話をしてる」と言われ、喫煙所へ向かった。 課長はおらず、警部補だけが、煙草を吸っていた。

  C駐在は、開口一番、警部補に言った。

「あの人、おかしいですよ。 今までにも、何度も、問題を起こしてるんです」

  警部補は、我が意を得たりといった顔で、ニヤリと笑った

「やっぱり、そうか。 もう、帰っていいよ。 遅くに、御苦労だったな」

  C駐在は、何か言い足りなそうな素振りを見せたが、その警部補とは、あまり、折り合いが良くなかったので、帰っていいと言われて、そのまま、引き揚げてしまった。

  B氏は、C駐在が署に来た事を知らないまま、留置所で、一夜を過ごした。 警部補は、Aを、自分の車で、Aの家まで、送り届けた。 普通、警察は、そういう事はしないのだが、警部補には、下心があったのだ。 この警部補は、仕事は人並みにできる方だったが、強面なせいか、まだ、独身だった。 Aは、そんな警部補の好みのタイプだったのだ。 警察官だって、人間だから、恋をする事もある。 それ自体は、他者が批判できる事ではない。


  翌朝、警部補と巡査部長が、B氏の勤め先へ赴くと、B氏が、事件発生時刻、会社で仕事をしていた事は、あっさりと証明された。 証言者が、8人もいたのだから、容疑も何もあったものではない。 B氏の勤め先は、痴漢が起きた地点とは、30キロも離れていた。 とても、トイレに立ったついでに、犯行に及べるような距離ではなかった。

  巡査部長が言った。

「Bの犯行ではなさそうですね」
「そんな事はないだろ。 Aさんが、あれだけ、はっきり、Bが犯人だって言ってるんだから」

  署に帰ると、B氏を留置所から出し、取り調べが再開された。 B氏は、相変わらず、犯行を否定していた。 B氏に、「駐在のCさんは、呼んでくれないんですか?」と訊かれて、警部補は、冷めた顔で答えた。

「呼んだよ。 昨夜の内にな。 お前の事を、おかしな奴だって、言ってたよ」
「そんな馬鹿な!」
「馬鹿なもんか。 今までにも、何度も、問題を起こしてるそうじゃないか」
「Cさんが、そんな事を言うわけがない!」
「言ったんだよ。 俺が この耳で、しっかり 聞いたんだから」
「何かの間違いだ!」
「だったら、もう一度、呼ぼうか? お前に、不利になるばかりだと思うけどな」

  C駐在が呼ばれた。 今度は、取調室にである。 C駐在は、B氏を見て、驚いた。

「なんで、こんな所にいるんですか?」
「痴漢容疑だそうです」
「えっ! そんな馬鹿な!」
「全く、身に覚えはないです」
「いつから、ここに?」
「昨日の夜9時頃から」
「じゃ、泊められちゃったんですか?」

  警部補は、頭の周囲に、「?」マークを幾つも飛ばしながら、C駐在と、B氏の会話を聞いていたが、割って入って、C駐在に問い質した。

「おい! お前、昨夜と言っている事が、全然、違うじゃないか! こいつの事を、おかしな奴だって、言ってただろうが!」
「Bさんの事じゃないですよ。 女の方です」
「Aさんが、おかしい? 馬鹿抜かせ! あの人は、被害者なんだぞ!」
「痴漢被害が、本当かどうかは分かりませんが、とにかく、Bさんは、犯人ではないです。 それは、自分が保証します。 こと、あの女に関する事件ならば、Bさんは、絶対、犯人ではありません」
「どういう事なんだ?」

  B氏が、口を挟んだ。

「アリバイの方は、どうだったんですか?」

  巡査部長が答えた。

「証言は取れました。 8人分も」
「それじゃあ、私の容疑は晴れたんですね」

  B氏が立ち上がると、警部補が、慌てて、止めた。

「ちょっと待て! まだだ!」
「あなた、一体、何を理由に、私に、容疑をかけてるんですか?」
「被害者の証言だ! あんたがやったって、はっきり 言ってるんだ!」

  B氏は、C駐在と顔を見合わせた。 二人とも、困ったような表情だ。 そして、B氏が、警部補に言った。

「たぶん、その痴漢は、眼鏡をかけていたんでしょう」
「何を言い出すかと思ったら、わけの分からん事を・・・」
「あの、Aさんは、眼鏡をかけてる男の区別がつかないんですよ」
「そんな馬鹿な! いい加減な事を言うな!」

  C駐在が言った。

「本当です。 ご両親の話では、中学生の時に、眼鏡をかけた先輩に片思いして、ストーカーまがいの事をした挙句、相手を怒らせて、近づかないように、きっぱりと言い渡されたんだそうです。 自分の外見に自信があったから、フラれた事実を受け入れられなくて、精神に異常を来たしたようです。 それ以来、眼鏡をかけた男に対して、憎悪を抱くようになったという事です。 被害妄想が昂じて、ご両親が精神科にも連れて行ったそうですが、よくならないようです」

  B氏が、事情を語る。

「小学生の頃までは、道で会えば、挨拶を交わすような、普通の子だったんですが、中学の時から、態度がおかしくなって、私の顔を見ると、逃げて行くようになりました。 以来、あの女の周囲で、何か悪い事が起こると、片っ端から、私のせいにされているんです。 眼鏡をかけている男で、一番近くに住んでいるのが、私なものだから」

  C駐在が、見解を述べる。

「眼鏡をかけている男が、みんな同じに見えるようなんですが、区別する能力が低くて見分けられないというより、眼鏡をかけている男は、全員、自分の敵だという事で、同一視しているみたいです。 『戦場で、敵と戦う時に、敵一人一人の顔を見分けないのと同じ理屈だ』と、父親が説明していましたが」

  B氏が言う。

「これは、母親から聞いた話ですけど、就職先の会社を、半年もしない内に辞めたのは、職場に、眼鏡をかけている男がたくさんいて、問題ばかり起こしてしまい、いたたまれなかったようです。 事務職だと、眼鏡をかけている人間の方が多数派ですから、無理もない。 Xさんから命じられた仕事を、Yさんのところへ提出する、なんて事をやっていたら、滅茶苦茶ですからねえ」

  C駐在が言う。

「Bさんの家から、あの女の家が見えるので、Bさんが窓から覗いていると思い込んで、逮捕してくれと、駐在所に電話して来た事が、何度もありました。 決まって、ご両親が不在の時でしたが」
「それ以来、うちじゃあ、東側の窓は、雨戸を開けられなくなっているんですよ」

  まだ、信じられないと言う警部補に、巡査部長が、ある実験をしてみるように進言した。 警部補は、最初、小馬鹿にして、取り合わなかったが、途中から来て、話を聞いていた課長が、やってみるように言ったので、すぐに、準備が始められた。

  「もう一度、面通しをするから」と言って、Aを連れて来て、取調室の隣室に案内した。 Aは、マジック・ミラー越しに、取調室の中を見ているように言われた。 背格好は問わず、眼鏡をかけた男性署員5人を、B氏の上着を着回しさせながら、一人一人、取調室に呼んだ。 それぞれに、別の質問をし、適当に答えさせた。 Aは、眼鏡をかけた男が入って来るたびに、怯えるような素振りを見せたが、人が替わっている事には、全く気づかないようだった。

  巡査部長が、Aに、「今の5人の中で、誰が犯人でしたか?」と訊くと、きょとんとした顔で、「みんな、同じ人でしょう? 今の人が犯人です」と答えた。 5人は、年齢は、20代から50代まで散っており、顔立ちに共通点はなく、髪型もバラバラ。 眼鏡も、銀縁、黒縁、縁なしと、バラエティーに富んでいたのだが、Aは、そういう違いを、一切、感知していなかった。 眼鏡をかけている男は、みんな同じに見えるのだ。

  この結果には、さしもの警部補も、Aの異常さを認めないわけには行かなかった。

  B氏は、釈放された。 警部補は、苦虫を噛み潰した顔で、謝りもしなかった。 代わりに、巡査部長とC駐在が謝り、C駐在が乗って来た車で、B氏を、家まで送り届けた。 B氏は、その後、留置所に一泊させられた経験を、武勇伝として、友人・知人や、勤め先の同僚たちに、語りまくった。 話の種にした事で、無実の罪を着せられかけた事の、仇を討ったわけだ。


  2ヵ月後、例の電車内で、痴漢の常習者が取り押さえられた。 余罪十数件。 Aに痴漢を働いたのも、その男と思われた。 まだ、20代前半で、顔も、髪型も、背丈も、服装の雰囲気も、B氏とは、似ても似つかなかった。 共通点は、眼鏡をかけているという事だけ。 Aが、その男から、痴漢被害を受けたのは、間違いないのだが、Aの認識能力に問題があったせいで、Aの被害に関しては、起訴理由から外されてしまった。 担当検事が眼鏡をかけていたので、犯人と検事の区別がつかず、異常ぶりを露呈してしまったものらしい。


  呆れた話だが、あの警部補、Aへの恋慕の情を諦めきれず、搦め手から接近した。 「痴漢被害に遭わないように、警備する」などと言って、デートに誘い出す事に成功したのだ。 何回か、近場の観光地に遊びに行って、親睦を深め、うまくすれば、結婚に持ち込めそうだったが、そうは問屋が卸さなかった。

  ある時、刑事課の応援で、強盗犯グループの捕り物に参加したのだが、乱闘で顔面を殴られ、右目の視力が著しく落ちてしまった。 医者の指示で、コンタクト・レンズでは、眼球への負担が大きいと言うので、やむなく、眼鏡をかけた。 当然の事ながら、Aは、悲鳴を挙げて逃げ出し、二度と会ってくれなかった。

2023/06/11

新入社員の面々へ ②

  日記ブログの方に書いた、「新入社員の面々へ」という一連の文章の転載。 今回が、2回目で、最終回です。 もちろん、基本的に、私の主観に過ぎませんから、無視しても構いません。




【趣味編】

  趣味ですが、基本的に、何をやるのも、個人の自由です。 しかし、制約が、ない事もないです。

1. お金がかかり過ぎない。
2. 危険がない。
3. 他者に迷惑をかけない。
4. 仕事に支障を来すほど、夢中になり過ぎない。

  お金の事については、給与・賞与を半分貯蓄して、残りから、生活費を除いた分は、趣味に回してもいいわけですが、毎月、ゼロになるほど、使っていては、危険水域に入ってしまいます。 「ちょっとだけ」のつもりで、貯蓄を取り崩し始めると、結局、全部使ってしまうようになります。 


  危険がある趣味というのは、車、バイク、モーター系のマリン・スポーツ、登山などです。 死んだら、それまでですが、せっかく、社会人になるまで、育って来たのに、趣味で死ぬなんて、あまりにも、馬鹿馬鹿しい、愚かしい。 人生が、勿体ないです。 例に挙げた趣味をやるにしても、いずれも、安全にできる限界というのがありますから、それをよく見極めて、安全圏から出ないように心がけた方がいいです。

  くれぐれも、先輩や同僚など、他人のレベルに合わせようとしないように。 バイク趣味で顕著ですが、後輩に対して、偉そうな指導をブチたがる先輩ほど、早々と死んで行きます。 あまり、尖がった事ばかり言っている先輩には、逆に、「もうちょっと、安全運転した方がいいじゃないですか?」と、意見してやるくらいがちょうど良い。 そんな事を言っても、どうせ、やめないと思いますけど。 

  ウルトラ・ライト・プレーンなど、飛行系ですが、高齢になるまで生きるつもりでいるなら、やめた方がいいです。 必要か不要かと言ったら、人生に、そんな経験は、不要です。 死ぬ危険性が、極めて高い。 プロが操縦するのに同乗するだけの遊覧飛行なら、多少、危険が少ないですが、離陸して、高度が上がると、パニックになる奴がいるので、事故は、どうしても、ゼロにはできません。 誰が操縦していようと、墜落したら、まず、助かりません。 

  趣味での事故は、「死んでしまうなら、まだマシな方」という見方もあります。 まずいのは、事故の後、障碍者になってしまう事です。 家族や周囲に、甚だしい迷惑を、長期間に渡って、かけ続ける事になります。 たかが、趣味の結果ですぜ。 楽しむつもりで、周囲に大迷惑をかけていて、どうする?


  「他者に迷惑をかけない」というのは、趣味を楽しむ上での、基本中の基本です。 迷惑をかけないからこそ、好きな事がやれるのです。 「日曜大工が好き」とか言って、住宅地にある家の庭に、工作室を作って、平日・土日を問わず、ギコギコ・トンカン、騒音を立てているなど、言語道断。 庭掃除をしていても、「箒の音がうるさい」と言われるくらいなのに、趣味で、騒音を立てるなど、以ての外です。


  「仕事に支障を来すほど、夢中になり過ぎない」というのは、ちと、解説が必要ですな。 趣味の為に、仕事を休むというケースは、10年に一日くらいにしておいた方がいい。 つまり、そんな事は、ほぼ、許されないのです。 頻繁に、そういう事をしていれば、職場での信用を失ってしまいます。

  あなたが休めば、他の人間が、あなたの仕事をしなければならないのであって、趣味に一日使って、翌日、出勤して、その自慢話をしたとして、あなたの代わりに、あなたの仕事を余分にさせられた人が、どういう気持ちになるかは、相手の立場になれば分かる事。 お土産なんかじゃ、信用は戻りません。

  正式に、有休を取るのなら、その日を、趣味に使うのは、問題ありませんが、やはり、自慢話はやめておいた方がいいです。 新入社員だと、勝手が分からない人も多いでしょうが、有休は、趣味の為に、積極的に取るようなものではないです。 冠婚葬祭や、風邪とか、捻挫、腰痛など、1日だけ、もしくは、長くても、3日程度で回復する病気の時の為に、残しておくものなのです。

  有休とは別に、「傷病休暇」という制度がありますが、それは、入院や、長期の自宅療養など、本格的な病気・怪我用です。 診断書の提出が必要になるので、軽い病気・怪我では使いません。 ちなみに、診断書は、安い病院でも、3千円くらい取られます。

  年度末に、有休が余って、強制有休になった場合は、この限りではなく、何をやろうが、問題ありません。 翌日、出勤してからの、趣味の自慢話も、堂々とできます。 しかし、そういう細かい違いの区別がつかない人は多そうだな。

  しょっちゅう、趣味で休みを取ったり、早退したりしている者が、上司から、問題視されて、

「この趣味は、私の、ライフ・ワークなんです」

  と答えるケースがあります。 ライフ・ワークと言えば、何でも許されると思っているわけだ。 たぶん、上司から言われるでしょう 。

「ライフ・ワークの前に、会社の仕事をしろよ。 その為に、就職してんだから」

  ライフ・ワークというのは、誰にでもあるわけではなく、普通は、芸術家や自営業の人が、人生目標として掲げるものです。 勤め人の趣味程度では、本人がその気でも、他人から認めてもらえるレベルに到達するのは、困難でしょうねえ。 それだけの才能があれば、その道で食ってますって。


  以上のような制約を守れるのなら、何の趣味をやるのも自由ですが、それとは別に、若い内から、一生続けられる、お金がかからない趣味を構築しておくのも、肝要。 それは、他人に話す必要も、仲間を探す必要もないです。 自分一人だけで楽しめる趣味である事が、重要だからです。 人生、いい人達と、いいつきあいができれば、それに越した事はないですが、大抵の人は、引退後、精神的に孤独になってしまいます。 そうなっても、困らないように、備えておくわけです。

  ゴルフのような、仲間がいないとできないものは、駄目。 打ちっ放しに通うのも、お金がかかり過ぎる。 もちろん、野球やサッカーも、できません。 一人でできるものでないと、まずいんですわ。 釣りは、その点、まずまずか。 近場に、釣り場があれば、餌代くらいしかかかりませんし。

  室内系は、どれも、イケますが、読書など、目を使うものは、いずれ、視力の衰えで、できなくなる恐れがあります。 ブログ運営は、割と有望。 日記だけで押し捲っても、文章を書くだけで、まずまず、楽しめます。 若い頃から、ずーっと、日記ブログを続けていたら、それ自体が、一生の財産になるでしょうねえ。



【交友編】

  社会人になり、仕事をして、お金を稼ぐようになるわけですが、並行して、大人になる必要があります。 ところが、「大人になる」というのを、勘違いしていて、酒を飲むだの、煙草を吸うだの、車の運転をするだの、性交渉をするだの、そういった事をするのが、大人の証明だと思い込んでいる者が、非常に多い。

  馬鹿抜かせ。 そんなの、高校生だって、できるわ。 そんな、表面的な事じゃないんですよ。 人格的に成長するのが、大人になるという事です。 「それは承知しているけど、簡単にはできないから、先送りにしている」のなら、まだ、いいですが、全く分かってなくて、頭の中が、子供のまんま、40歳50歳まで、行ってしまう連中が、多数派と言ってもいいくらい多いのは、たまげた話です。

  子供の頃から、大人びている人もいますが、それは、親の影響でして、本当の意味で、人格的に成長するには、社会経験が必要になります。 だけど、社会経験さえ積めば、誰でも大人になれるわけではなく、ガキのまんまというのが、うじゃらうじゃら、いるんだわ。 ある時、赤の他人と諍いになって、子供的人格を曝け出し、「なんだ、お前、大人になってないのか?」と言われて、絶句する事になるでしょう。  

  今現在、自分に、子供的な部分が多いと感じている人ほど、大人とは何か、常に考えて、大人的な判断、大人的な行動に、努める必要があります。 別に、趣味が子供っぽくても、問題ありませんが、他人と接する時に、大人的な態度が取れないと、相手にされないばかりか、小馬鹿にされてしまいます。 フリでもいいから、大人として、振る舞うべき。

  「自分は大人なんだ。 今までとは違うんだ」と思うだけでも、考え方や、行動が変わってくるはず。 認識を変えない限り、一生、子供のままです。 「子供のままで、いいんだ」と思ってしまったら、死ぬまで、大人になれません。 誰でも、自然に、大人になれると思ったら、大間違い。 それが証拠に、親戚のオッサンどもを観察すれば、いくらでも、子供のままの例が見つかります。


  それに関連して、人づきあいですが、自分から見て、大人だと思える人と、つきあった方がいいです。 私生活でつきあうのは、ハードルが高いですが、職場で休憩時間などに、そういう人と話す機会を増やすだけでも、大人に近づけます。 全く喋らない人は、何も考えていないと見做してもかまいませんが、普段、無口だけど、喋る時には、見識のある事を口にするという人は、大人度が高いですねえ。 まあ、観察していれば、分かります。

  新入社員だけで話すのが、×だというのは、すでに書きましたが、2年目、3年目になって、後輩とだけ話すというのも、×です。 つまり、そういう奴は、お山の大将になりたいんだわ。 自分が会話の中心になりたい。 一番、物識りだと、周囲から認められたい。 だから、年下とばかり話して、同年や、年上とは話さないんだわ。 そういう事をしていると、成長しないので、大変、つまらない人間になります。

  怖がる事はないから、年上と話せというのよ。 相談をする場合、人を見て、相手を選ぶ必要がありますが、世間話くらいなら、誰の話でも、一応、聞いておいて、損はないです。 信用が置けない人から聞いた事は、頭の中で保留にしておいて、真偽を確認してから、知識・情報に加えるという手順を踏めばいいのです。

  会話のコツは、聞く方を優先する事ですかね。 7割聞いて、3割話すくらいが、程よいでしょうか。 他人経由の知識・情報は、馬鹿にならない重要性を持っていて、世間知を蓄えるのには、人の話を聞くのが一番、効率的です。 新聞や雑誌から得るとなると、どうしても、身近な問題から遠いものになってしまいますねえ。

  悪い例として、学生の頃に、「自分は、完成した」と思ってしまうと、それ以降、他人の話を聞かなくなります。 他人が、自分の知らない事を喋っていると、「俺が知らない事は、重要な事ではない」と判断して、シャット・アウトし、新たな知識・情報を入れなくなります。 それが、何年、何十年と続くと、とんだ、世間知らずになってしまいます。 それでいて、本人は、自分が一番、物識りだと思い込んでいるから、始末が悪い。

  他人の話に興味がないという人は、考え方を改めて、「とりあえず、何でも、聞いてみる」という方針に切り変えた方がいいでしょう。 話を、喜んで聞いてくれる人は、職場で同僚達から、当然、歓迎されます。 マザー・テレサではありませんが、興味がないというのが、一番、よくないです。

  友人も、選べるのであれば、知識・情報に明るい人がいいですねえ。 話題に困りませんから。 学生時代までは、「本音で語り合って、言いたい事が言えるのが、友人だ」といった考えでいた人も多いと思いますが、大人の世界で、いきなり、それをやると、無礼と取られてしまい、以後、相手にされなくなる恐れがあります。

  初めて会った相手には、評価点を100点与えておき、どんな人間か分かるに連れて、減点するようにして行った方がいいです。 もちろん、減点しないで済めば、それに越した事はない。 最初に、0点からスタートして、タメ口や見下し口を利いたり、相手を小馬鹿にした態度を取ったりしてしまうと、それだけで、向こうから、0点をもらってしまい、その評価が、ずっと変わりません。 見限られてしまうわけだ。

  知らない人間なのだから、礼儀正しく振る舞うのは、当然の事。 「早く、友達になりたいから」なんて言って、最初から、無礼な態度を取るのは、考え足らずも甚だしい。 自爆に近い、愚挙です。 学生時代までの、「本音で語り合って、言いたい事が言えるのが、友人だ」という考えが抜けないから、その状態へ直行しようとして、無礼をやらかしてしまうんですな。 私は、実際、そういう奴を何人か見ましたが、他の人間が、みんな、逃げて行く有様でしたねえ。 誰でも、親しくもない奴から、馬鹿にされたくないですからねえ。

  同僚と友人は、似て非なるものですが、職場の同僚で、私生活でも行動を共にしているなら、それはもう、友人と言っていいでしょう。 結婚する気があるのなら、同性の友人は多い方がいいです。 というか、同性の友人がいない人で、結婚できた人は、例を知りません。 親決め婚や、見合い制度があった頃は、そういう人でも、結婚していたわけですが、今は、合コンなど、友人の紹介が主流ですから、同性の友人がいないと、紹介もしてもらえないわけだ。



【結婚編】

  結婚するかしないかは、人生を大きく左右します。 私は、生涯独身なので、結婚の経験は語れないのですが、生涯独身についてなら、語る資格があります。 とにかく、苦労を避けたいと言うのなら、生涯独身は、魅力のある選択と言えます。 しかし、未だに、生涯独身を勧めるほど、社会の雰囲気は、熟していない感じがしますねえ。 今でも私は、結婚について訊かれたら、「相手がいるのなら、結婚した方がいい」と答えます。

  生涯独身のいいところは、ほとんどの事を、自分の意志で決められる事です。 配偶者がいると、そうは行きません。 最悪の場合、自分の人生の重要事であっても、一切の決定権を奪われてしまうケースもあります。 一言の相談もなく、配偶者が全てを決めてしまい、異を唱える事が許されないわけだ。  

  それほど、極端でなくても、必ず、配偶者と相談しなければならないというのが、大変、煩わしい。 馬鹿な配偶者だと、始末に負えぬ。 常識がなく、間違った判断ばかりしているのに、頑固で、考え方を変えず、人を、さんざん振り回し、結局、夫婦揃って、大損をするような羽目に陥ります。 それでも、相談しなければ、怒るから、無視するわけにも行きません。

  結婚とは、いい点ばかり想像して、するものですが、婚前に想像していたようないい事は、3ヵ月もすれば、幻と消えてしまうでしょう。 恋愛感情は、ピークを過ぎると、冷めて行くものです。 何年もラブラブの夫婦なんて、見た事がない。 同じ相手との性交渉なんて、すぐ飽きる。 というか、結婚前に、すでに飽きている人の方が、大半だ。 男の場合、特にそうです。 義務的に続けていると、もう、拷問ですな。

  共同生活も、うまく役割分担が噛み合えばいいのですが、偏りが出る方が、圧倒的に多い。 不満のマグマが蓄積し、いずれ、噴火します。 そうなったら、もう、家族というより、敵同士と言った方が、適切。 敵と一緒に、暮らしてるんだわ。 敵がいる家に帰りたくないから、会社にいつまでも残っていたり、夜の街を遊び歩いたり・・・。 なんだ、その生活は? 幸せになりたくて、結婚したんじゃないのかい? 一体、何やってんだ、あんた?

  子供がまた・・・。 小さい内は、可愛いというより、うるさい。 大きくなると、厄介者でしかない。 親を、財布くらいにしか思っていない。 グレでもした日には、毎日が、地獄。 それでいて、今の子供は、親の老後の面倒なんか、見てくれません。 あなた自身が、親の面倒なんか、見たくないでしょうが。 一体、子供って、何なんだよ?

  そういう、結婚の悪い点ばかり見ると、生涯独身は、気楽でいいなあ。 人生計画が立て易いのも、素晴らしい利点だ。 配偶者や子供といった、不確定要素がないからです。 親の面倒だけ見れば、後は、自由。 楽だなあ。 人生、遊んでいるようなものだな。 いや、それでも、若い人に、生涯独身を勧めはしませんがね。

  結婚に関連する、幸不幸の4段階というのがありまして、 幸福な順に並べると、

1. 結婚して、うまく行った人。
2. 生涯独身者。
3. 結婚して、うまく行かず、離婚した人。
4. 結婚して、うまく行かなかったが、諸般の事情で離婚できない人。

  と、なります。 結婚して、うまく行けば、それが一番幸せなのは、誰も異論がないでしょう。 「結婚して、うまく行かなかったが、諸般の事情で離婚できない人」は、現状、敵と暮らしているわけだから、最も不幸です。 生涯独身者が、「結婚して、うまく行かず、離婚した人」よりも、幸福なのは、離婚に至るまでの、嫌な記憶がないからです。

  特に、仕事を引退すると、閑になるせいで、過去の嫌な記憶が蘇えって来る事が多くなります。 離婚前の険悪極まりない関係の記憶が、どれだけ、その人を苦しめる事か。 離婚した相手との、いい記憶なんて、あり得ません。 離婚の時の、嫌な記憶で、全て塗り潰されてしまうからです。

  それと同じ理屈で、恋愛に縁がない人は、「恋多き女」とか、「モテモテのイケメン」などを、羨ましがる必要は、全くありません。 彼らは、何人もの相手と交際したせいで、別れに至る嫌な記憶が、折り重なり、脳を埋め尽くし、ドロドロのグジャグシャになっています。 一度汚染された記憶は消えませんから、引退後の生活は、嫌な記憶との、地獄の戦いになるでしょうねえ。 むしろ、憐れんでやるべき人達なのです。

  閑話休題。

  性別比が、半々くらいの職場なら、自然と組み合わせが出来て、職場結婚で、ほとんどが片付いてしまいます。 近年、職場結婚の比率が下がっているそうですが、中高年ジジイどものセクハラが原因で、若者まで、職場で異性を探すのを、ためらっている模様。 とんだ、とばっちりで、気の毒な事です。 頭のおかしい、ジジイどもが! もう、5歳離れたら、異性にちょっかいを出すのは、よせというのよ。 遊びのノリで、年下世代の人生を邪魔するな! 馬鹿どもめ!

  職場結婚が優れているのは、相手の素性が分かり易い事です。 結婚するとなると、人間関係に、親や兄弟姉妹、親戚まで関わって来るので、素性が胡乱な相手を選ぶわけには行きません。 悪い相手と結婚すると、迷惑が及ぶ範囲が、自分が責任を取れる範囲を、簡単に超えてしまうのです。

  とりわけ、反社系、政治系、宗教系は、まずい。 自然に知り合って、仲良くなってから、相手が、その手の関係者と分かって、家族から猛反対されるのは、よくある話。 押し切って、結婚する場合、家族と縁を切るしかないです。 職場結婚だと、その種の危険が少ないのです。 相手の人柄も、第三者の情報で分かるから、ギャンブル狂や、酒乱などを、予め、避ける事もできます。 給与・賞与の額、将来性まで、大体のところが分かるんじゃないでしょうか。

  性別比が偏っている職場の場合、あぶれている性別の方が、相手を見つけるのは、至難の業です。 独身者が多過ぎて、友人の紹介システムも、機能しません。 私が一番長く勤めた会社も、そういう所でしたが、別に、外見が悪いわけでもないのに、独身のまま、40歳を超えてしまった人達が、うじゃうじゃいました。 40歳を超えると、結婚できる確率が、1パーセントを割ってしまうので、彼らは、みな、生涯独身になったわけだ。 気の毒に。 勤めた会社が悪かったんですなあ。

  断っておきますが、すでに、見合い制度というのは、なくなっているので、そちらに期待しない方がいいです。 ドラマの世界は、時代感覚が異様に鈍く、未だに見合いが行われている事になっていますが、現実世界では、1990年代半ば頃には、もう、機能しなくなっていました。 消滅してから、すでに、四半世紀以上を経ているので、仲介していた人達は、とっくにやめているわけで、いくら待っても、縁談は来ません。

  どうしても結婚したいけれど、職場では見つけられないというのなら、若い内から、結婚相談所に登録しておいた方がいいのでは? あまり、うまく行った例を知りませんが、他に手がないので、致し方ない。 ただし、結婚相談所は、営利組織であり、目的は、会員から、お金を取る事であって、会員の成婚ではないので、不誠実な対応を取られる事もあります。 紹介はしてくれたが、相手は、隣の県に住んでいる人だった、というのは、全国展開している大手の相談所では、よくある話。

「そんな遠くに住んでいる人と、どーやって、交際すんだよ?」
「それは、あなたの熱意次第です」

  言われそうだなあ。

  昨今流行の、「SNSで知り合う」というのは、まだ、本当にうまく行くのかどうか分からないので、慌てて、飛びつかない方がいいです。 相手の素性が分からない点は、自然に出会うパターンと同じでして、ネット上は、詐欺師が暗躍し易い場でもありますし、今後、騙されるケースが続出して、数年したら、すっかり下火になってしまう事も考えられます。

  結婚して、うまくやっているつもりでいたのに、ある日、家に帰ったら、「もう、耐えられません。 捜さないで下さい」という置き手紙があり、預金通帳の残高が、0になっていた、なんてケースが、続々と出て来たら、誰でも、警戒するようになるでしょう。 堅実な今の若者なら、尚更です。

  飲み屋に通って、金で、水商売の相手を落とし、結婚に持ち込む、というのは、昔も今も、例があると思いますが、お金がかかりそうですねえ。 そんな事に費やすくらいなら、趣味にでも使った方が、お金が活きるでしょう。 あと、借金を抱えているなど、訳ありの相手を見つけ、返済の肩代わりで、恩を売って、結婚に持ち込む、という作戦を夢想した人もいると思いますが、よせよせ、下心全開の奴に、恩義を感じる人間なんているものかね。 それこそ、「もう、耐えられません。 捜さないで下さい」という置き手紙になってしまいますよ。 光景が目に見えるようだな。

  ちなみに、自然恋愛で結婚に至るケースは、実際には、稀です。 ドラマや映画の中だけの、創作だと言ってしまってもいい。 イケメンや美女は、結婚はするけれど、実は、彼らは、恋愛をしていません。 外見目当てに、近づいて来た相手に、「まあ、こいつでもいいか」という許容をしているだけ。 私は、それを、「許容婚」と呼んでいます。

  一見、相思相愛に見えて、実は、恋愛をしているのは、一方だけで、もう一方は、情にほだされて、OKしただけ、というのも、許容婚ですな。 結婚適齢期に、自分に近づいて来る相手で、我慢できないほど、外見や人格に問題がなければ、誰でも良かったんだよ。 そういうケースは、多そうだな。 相思相愛による、純然たる恋愛結婚は、非常に例が少ないと思います。

  なんだか、新入社員へのアドバイスというより、ただの、恋愛論になってしまいましたなあ。 この話は、このくらいで、やめておきましょう。



【異常編】

  これは、書いておかなければならないと思うのですが、社会人の世界では、精神異常者、性格異常者は、確実にいます。 学生の頃に目立たないのは、問題がある子供は、予め、別扱いにされてしまうからです。 社会人になってから、異常になった人の場合、仕事に大きな支障を来たさないのであれば、そのまま、働き続けるので、学校よりも、実社会の方に、異常タイプが多いという理屈です。

  人数が少ない職場なら、一人もいない、つまり、全員、正常という事もあります。 30人くらいの集団になると、一人二人、含まれています。 入社してから、退職するまで、ずっと同じ職場というのは、稀なので、大概の人は、現役の間に、一人くらいは、異常者と同じ所で働く事になると思います。

  精神・性格異常者は、身体的な障碍者とは、別ものだと思わなければなりません。 必要なのは、協力や手助けではなく、警戒です。 そういうタイプは、周囲に悪影響を及ぼすのです。 確かに、気の毒ではあるが、同情するゆとりなどないのであって、何とか、悪影響を受けないように、こちらで、努力しなければなりません。 

  たとえば、5・6人くらいのグループで仕事をしているとして、その中に、一人、異常者がいると、次第に、周囲が悪影響を受けて、いつのまにか、グループ全体が、異常な事をし始めます。

「一人、頭がおかしいのがいるけれど、他の者は、まともなんだから、周囲の好影響で、おかしな奴も、まともになって来るさ」

  それが、大間違いなんだわ。 究極の思い違いなんだわ。 実際に起こる事は、真逆です。 異常者の悪影響で、全員が、おかしくなってしまうのです。 嘘みたいですが、私は、実例を、いくつか見ています。

  理屈は単純でして、まともな人間は、常に他者に気を使って暮らしているので、妥協できるところは、他者に合わせようとします。 それは、相手が異常者であっても、変わりません。 ところが、異常者は、周囲に気を使ったりしません。 異常者にとって、他者というのは、敵か、虫ケラか、依存対象か、そのどれかでしかないのです。 相手に合わせるなどという事は、一切しません。 異常者が、まともな人間に合わせず、まともな人間が、異常者に合わせているのだから、全員、異常になってしまうのは、理の当然。

  一対一のつきあいでも、同じ事が言えます。 異常者の影響の方が、圧倒的に強いんだわ。 まともな方は、異常者に合わせてしまうから、ミイラ獲りがミイラになってしまうんだわ。 自殺したいと訴える親友を説得しようとしたのに、逆に自殺願望をうつされて、一緒に死んでしまう女子中学生というのが、時折り、ニュースになりますが、あれも、同じパターンですな。 うつされた方の遺族は、やり場のない怒りで、地団駄踏んでも、踏み切れないでしょう。

  配属先に、明らかに、おかしい人間がいた場合、どうすればいいのか? 距離をおければ、それに越した事はないですが、相棒になって仕事をしなければならない場合など、どうしても、逃げられない時もあります。

「あんたは、異常だ! 俺に話しかけるな!」

  と言ったら、喧嘩になりますわな。 上司に言っても、その上司まで、異常者の悪影響を受けて、おかしくなっていて、取り合ってくれないかも知れません。 もう、しょうがない。 異常者に合わせるしかないです。 ただし、表面的にだけ。 芯の部分では、自分をしっかりと保っておき、異常者の考え方に、完全に毒されてしまわないように、頑張るしかありません。

  良くしたもので、異常者というのは、異常であるが故に、仕事に支障が出る事が多く、何年かすれば、他の職場にうつされて、いなくなる事が期待できます。 そのグループに、仕事上のトラブルばかり起こっていたり、成績が極端に悪くなっていたりしていた場合、もっと上の上司が、「あそこは、何か、問題があるのか?」と思い、調べて行くと、「実は、一人、おかしな奴が入ってから、変になったんです」と、指摘する者がいて、異常者の存在が露顕するわけだ。 さりとて、クビにもできないので、何か理由をつけて、他へ移されるだけなのですが。

  そのつもりで、観察していれば分かりますが、異常者がいなくなると、おかしくなっていたグループが、次第に、まともに戻って行きます。 元から、おかしかったわけではない人達だから、異常の発信源がなくなると、正気に戻るわけだ。 本人達は、異常者に振り回されていた事に、気づいていない事が多いです。

  読書習慣がある人なら、一般向けに書かれた精神医学の本を何冊か読んでおくと、異常者の類型が頭に入って、見分け易くなります。 ネット上で読める解説だけだと、おぼろげにしか分かりませんが、それでも、何も知らないよりは、マシ。 「被害妄想」、「統合失調症」、「うつ病」、「双極性障碍」、「アスペルガー症候群」あたりから、検索して行くのがいいと思います。


  被害妄想の患者は、分かり易いです。 護身用に、刃物を鞄に入れていたりするので。 しかも、それを、周囲に見せたがります。 職場の休憩時間に、異常者らしく、唐突に、刃渡り20センチもあるナイフを見せて、

「これこれ。 なかなか手に入らなくてさあ。 やっと、ネット・オークションで、落としたよ」

  と、世間話のように軽く言うのですが、その心は、

「俺は、こういう物を持っているんだぞ。 俺に害を加えたら、ブスリと行くぞ」

  と、アピールしたいんでしょう。 脅しておけば、攻撃して来ないだろうと考えているわけだ。 それだけでも、怖いですが、もっと、前のめりに、「やられる前に、やれ」という発想に走る奴もいるので、油断なりません。 冗談じゃないよ。 どうして、そんな物騒な奴と、同じ所で働かなきゃなんないんだよ。

  車のトランクに、バットや斧といった、武器になる物を入れてある奴というのも、そのケがあります。 他の車が、車線変更で、前に入って来ると、それを、自分への攻撃とみなし、前に回りこんで、相手の車を停めさせ、トランクから出したバットを、ブンブン振り回しながら、

「出て来い、この野郎! ナメやがって! 殺してやる!」

  となるわけだ。 昨今、頻繁に、ニュースになる、あおり運転の加害者なんて、ほとんど、そういうタイプなのでは? 彼らを送り込むべき所は、刑務所ではなく、精神科の病院ですな。 刑務所に何年入ったって、被害妄想は、治らんわ。

  被害妄想は、根を辿れば、他者に対する不安から出ています。 他者が、怖くて仕方がない。 で、「やられる前に、やれ」になるのです。 同じ、他者への不安から出ていても、怖さが、対抗心に勝った場合、他者から逃げ出すようになり、それは、うつ病という事になります。 被害妄想の凶暴さに比べれば、うつ病の方が、まだ、マシですが、それは、他人の立場での話。 家族は、たまったものではありませんな。

  「被害妄想の患者は、分かり易い」と書きましたが、それは、見る側に、精神医学の基礎知識がある場合でして、そうでない人は、気づかない場合が多いです。 Aに、明々白々、被害妄想の症状が出ているのに、その件について、Bに話をすると、Bは、

「いやあ、別に、Aを、精神異常とは思わないな。 ちょっと、変だけどな」

  と、問題にしようとしない。 おかしいとは分かっているのに、知識がなくて、診断ができないのです。 この、周囲が異常に気づかないというのが、怖いんだわ。 どんどん、異常者の悪影響に浸食されて行きます。 身体障碍者と混同してしまって、むしろ、障碍者との共生意識がしっかりしている人ほど、精神・性格異常者を、そのまま受け入れてしまう傾向があります。 それ即ち、自分も異常になるという事なのですが・・・。

  下手に、異常者本人に指摘したりすると、本人は、自分を異常とは思っていませんから、喧嘩になります。 常日頃、武器を持ち歩いているような奴と、喧嘩になったら、無事では済みません。 向こうは、一気に追い詰められて、命がけですから、こちらが殺されても、不思議ではない。 上にも書きましたが、正常者の好影響で、異常者を治す事はできないので、何とか、悪影響を最小限にして、乗り切るしかないです。


  職場結婚をしようとしている、専ら、女性に忠告ですが、相手の男が、アスペルガー症候群でないか、よく見極めてからにした方がいいです。 もし、そうだったら、結婚なんて、とんでもない。 自然に、別れる作戦を練らなければなりません。 アスペルガー症候群は、病気と言うより、性格でして、薬で治るものではないです。 周囲に、知識のある人がいて、女性の方に忠告しても、結婚前は、あばたもえくぼになっていますから、聞き入れてくれません。

「彼って、クールだから」

  違うよ。 異常性格アスペルガーなんだよ。 そのまま結婚して、結局、耐えられなくなり、良くて、別居、悪くて、離婚という事になります。 ほとんど、コースが決まっているのだから、最初から避けた方が、嫌な思いをしなくて済みます。 まったく、アスペルガー症候群の夫に振り回された記憶なんて、思い出したくないよなあ。 人生の汚点でしかない。

2023/06/04

読書感想文・蔵出し (101)

  読書感想文です。 また、月一に戻ってしまったので、在庫が減らんなあ。 7月が、日曜日が、5回あるから、そこで、2回か、3回、蔵出ししましょうか。 まだ、先の話ですが。





≪殺人は容易だ≫

クリスティー文庫 79
早川書房 2004年3月15日/初版
アガサ・クリスティー 著
高橋豊 訳

  沼津図書館にあった文庫本です。 長編1作を収録。 【殺人は容易だ】は、コピー・ライトが、1939年になっています。 約403ページ。 これは、ノン・シリーズの推理小説です。


  マレー植民地で警察官をやっていた男が、本国へ戻って来る。 ロンドンへ向かう列車内で道連れになった高齢女性から、彼女の村で起こっている連続不審死について、犯人の目星がついていると聞かされたが、真に受けなかった。 ところが、その日の内に、彼女は車に轢かれて死んでしまった事が、後で分かる。 もしや、本当に連続殺人が行なわれているのではないかと思い、民間伝承の研究者に化けて、村へ乗り込み、捜査を始める話。

  タイトルの意味は、殺人の方法が、至って、単純なものである事を表しています。 ただし、バレないようにやればという条件付き。 それは、どんな殺人でも、同じ事ですが。 単純な方法を繰り返しているという事は、単純な方法しかとれないという事でして、犯人のカテゴリーが、ある程度、絞られて来ます。

  典型的な、フー・ダニット。 容疑者が多いから、聞き取り場面も多く、些か、うんざりします。 三人称で、視点人物が、探偵役ですが、中途段階で、間違った推理が展開されるので、その部分は、あまり、真面目に読まない方がいいです。 混乱させられるだけ。 常識的に考えて、推理小説の中程で、犯人が分かってしまうなどという事はあり得ないのですから、間違っているに決まっています。

  以下、ネタバレ、あり。 この作品は、ネタバレさせないと、感想が書けないんですわ

  この作品が、他のフー・ダニット物と異なるのは、視点人物が探偵役であるにも拘らず、彼が事件の謎を解くわけではないという点にあります。 変でしょう? というか、変わっているでしょう? 彼は、犯人の推定を、二回、間違えた後、偶然、犯人が新たな犯行をする場面に行き合わせて、たまたま、犯人を捕まえるのです。

  つまり、クリスティーさんは、そのアイデアを書きたかったわけですな。 問題は、その形式が面白いかどうかでして、はっきり言って、面白くありません。 探偵役が、探偵としての役割を果たしていないせいで、読者側は、謎解き場面で、爽快感を得られず、もやもやした気分で、読み終わる事になるからです。

  実験としては、失敗。 この後に書かれるのが、【そして誰もいなくなった】でして、そちらは、同じ実験小説でも、推理小説の歴史に残るような大成功を収めたわけで、この作品とは、比較にならないほど、優れています。




≪死が最後にやってくる≫

クリスティー文庫 83
早川書房 2004年4月15日/初版
アガサ・クリスティー 著
加島祥造 訳

  沼津図書館にあった文庫本です。 長編1作を収録。 【死が最後にやってくる】は、コピー・ライトが、1945年になっています。 約409ページ。 ノン・シリーズの推理小説ですが、舞台は、大変、変わっています。


  4000年前のエジプトで、墳墓の管理を生業にしている一家。 家族構成は、当主と、その母親。 当主には、息子が三人いて、長男と次男には、妻子がいる。 夫を失って、出戻った娘と、その子供。 他に、召し使い達。 仕事の用事で、北部へ旅に出ていた当主が、若い妾を伴って、帰って来る。 財産分与の敵が増えて、当主の息子達は、若い妾と対立を深める。 当主が再び旅に出ている間に、家に残っていた若い妾が・・・、という話。

  作者の前書きにも、「どの国の、どの時代でも、成り立つ話」と書いてありますが、正に、その通りで、古代エジプトでなければならない必要は、ほとんど、ありません。 いや、皆無と言ってしまってもいいです。 日本のシリーズ・ドラマや、連載漫画で、現代劇なのに、一回だけ、江戸時代に舞台を移した話が作られるケースがありますが、あれと似ています。 洒落・冗談のノリ、といったら、中身が真面目すぎるか。

  とにかく、バタバタ、人が死にます。 家族の中で、最終的に生き残るのは、ほんの僅か。 フー・ダニット物では、あまり、人が死に過ぎると、容疑者も減って、犯人が自然と分かってしまう事がありますが、そうなるギリギリのところで、連続殺人が終わります。 犯人が分かっても、意外性を感じないのは、容疑者が減り過ぎているからでしょうか。 クリスティー作品の推理物としては、あまり、出来がよくない部類なのでは?

  古代エジプトを舞台にしていても、推理小説の魅力は、損なわれていませんが、当時の風俗について、みっちり書き込まれているわけではないので、古代エジプトに興味がある人が読むと、「なんだ、この程度か」と、ガッカリするかも知れません。 あくまで、推理小説であって、舞台がどこか、どの時代かは、二の次なわけだ。

  クリスティーさんは、二度目の夫が、考古学者で、自身、中東に何度も行っているのですが、古代社会に、趣味的な興味があったわけではない様子。 でなければ、もっと、古代エジプト人の生活について、自分の知っている事を、細々と書き込んだと思うのです。 他人から借りた資料を読んで、頭に入る事は、この程度なんでしょうな。 いかに、クリスティーさんと言えども。 

  推理物の部分で、敢えて、ケチをつけるなら、探偵役が誰なのか、はっきりしていないので、読者としては、不安定な感じがします。 「この人は、絶対、犯人ではないだろう」と思っていた人が、途中で殺されてしまうから、尚の事。 犯人が分かるところまで、つまり、全体の95パーセントくらい行かないと、その感じは消えません。 やはり、探偵役は、いた方がいいんですな。




≪忘られぬ死≫

クリスティー文庫 84
早川書房 2004年5月15日/初版 2019年7月25日/4版
アガサ・クリスティー 著
中村能三 訳

  沼津図書館にあった文庫本です。 長編1作を収録。 【忘られぬ死】は、コピー・ライトが、1945年になっています。 約440ページ。 ノン・シリーズの推理小説。


  大変な資産家である上に、性的魅力にも溢れた女性が、レストランで服毒自殺してから一年。 関係する6人の人物が、彼女について、回想を巡らせていた。 夫だった男の発案で、再び、同じレストランに集められた人々は、ある人物を紹介される事になっていたが、その前に、意外な人物が、またも、毒を盛られてしまい・・・、という話。

  山に登って、下りて来るような話の流れです。 第一の事件に関係する6人、一人一人に過去を語らせた後、第二の事件が起こり、そこが、山の頂上。 聞き取り捜査が進められ、一人一人が怪しまれますが、一人一人、容疑が晴れて行きます。 結局、ある意味、一番、犯人らしかった人物が犯人なのですが、見抜ける読者がいるかどうか、微妙なところ。 分かる人は、分かると思います。

  探偵役は、元陸軍情報部の退役大佐から、死んだ女性と関連があった青年に、リレーされる形になります。 些か、国際スパイ物的な雰囲気になり、白けかけるのですが、最後まで読むと、そちら方面の話ではない事が分かります。 情報部の人間を出す事が、目晦ましに使われているわけですな。

  この作品も、何かしら、実験を試みたのかも知れませんが、よほど、推理小説を研究している人でないと、はっきり指摘できないと思います。 私程度の読者では、普通に、フー・ダニット物として、読み終えてしまいますな。 作品全体を見れば、つまらないという事はないです。 実験アイデア自体が面白いとは感じないというだけで。

  トリックは、犯人の長期に渡るアリバイを隠すのに使われています。 事件現場でも、トリックが使われますが、オマケのようなもので、謎は、トリックとは別の原因で発生しています。 こういうのは、本格トリック物としては、二流のアイデアですな。 ただし、推理小説の謎・トリック方面のアイデアは、クリスティーさんが書き始めた頃には、すでに出尽くしていたのであって、そこを批判するのは、酷というものでしょう。




≪暗い抱擁≫

クリスティー文庫 86
早川書房 2004年6月15日/初版
アガサ・クリスティー 著
中村妙子 訳

  沼津図書館にあった文庫本です。 長編1作を収録。 【暗い抱擁】は、コピー・ライトが、1947年になっています。 約364ページ。 ノン・シリーズの一般小説。


  結婚寸前に、交通事故で、車椅子生活になった青年が、婚約者から離れて、兄夫婦が住む土地へ移り住む。 国政選挙の最中で、保守党から立候補している、保守派らしからぬ、型破りな少佐や、貴族の令嬢、獣医の妻らと知り合いになる。 少佐は、優位に選挙戦を戦っていたが、獣医の妻と良からぬ噂が立ち・・・、という話。

  この梗概では、何も伝わりませんな。 推理小説ではないので、ネタバレを過度に避ける必要はないんですが、常識レベルで、ストーリーを知らない方が、楽しめると思うので、これ以上書きません。 カート・ボネガット・ジュニア作品じゃないんだから、「ストーリーなど、問題ではない」とも言えませんしねえ。

  カバー裏表紙の紹介文に、「愛の小説」とあるのですが、少なくとも、全体の8割くらいは、愛とは、何の関係もない話です。 ズバリ、「イギリス国政選挙の、地方区戦の様子を描いたもの」と言ってしまっても、甚だしくは外れていない内容。 選挙に関する書き込みが、最も多いです。

  これは、勘繰りですが、クリスティーさん、誰かに、「推理作家として有名でも、政治の事なんか、全然、分からないんだろう」とでも言われて、カチンと来て、「私だって、このくらいの事は、知ってるんだよ」と、思いっきり、書き倒してやったのでは? そう思ってしまうくらい、政治にどっぷり浸した内容なのです。

  愛については、終盤に、急展開があり、彼らの動機が、愛だと言いたい次第。 だけど、取って付けた感が強いですねえ。 政治の事ばかり書いていたのでは、小説にならないから、強引に、話を切り返して、ドラマチックな展開に持って行ったという体裁。 プロットを良く練るのが身上の、クリスティーさんの作品とは思えない。 実に、らしくない。

  松本清張さんの長編小説に、自身が出かけた旅行の記録を元にして、強引に、推理小説に仕立ててしまったものが、幾つかありますが、それらと似た強引さを感じます。 決して、傑作などというものではないので、そこは、冷めた目で評価すべきですな。 どんな大作家でも、誉められない作品はあるものです。




  以上、四冊です。 読んだ期間は、2023年の、

≪殺人は容易だ≫が、1月25日から、30日。
≪死が最後にやってくる≫が、1月31日から、2月3日。
≪忘られぬ死≫が、2月8日から、10日まで。
≪暗い抱擁≫が、2月13日から、15日まで。


  まだ、半年も経っていないのに、今年の、1月・2月頃、どんな生活をしていたのか、すっかり 忘れてしまっている事に気づき、動揺せざるを得ません。 日記を見れば、思い出す事はできるわけですが、なまじ、日記をつけているから、脳が、「忘れても、問題なし」と判断して、忘れ易くなっているのかも知れませんなあ。

  それに関連して・・・、 認知不全になる人達が、日記をつけているか いないかを調査してみるのには、意味があると思います。 日記をつけていない人達は、記憶力を自慢にしている人達と、かなりの部分、重なると思うのですが、多くの事を記憶していようとすれば、それだけ、脳に負担がかかるわけで、記憶容量に、ゆとりがなくなり、早く、認知不全を発症するのではないかと思うのです。

  ちなみに、「記憶の変容」という現象があり、「絶対、間違いない」と思っている記憶でも、日記の記録と照らし合わせてみると、違っていたという事が、よく あります。 人を間違えていた、機会を間違えていた、場所を間違えていた、等々。 日記をつけていない人は、確かめようがないので、変わってしまった記憶を、「絶対、間違いない!」と、頑なに言い張って、周囲の顰蹙を買い、呆れられてしまう事が、多くあると思います。 日記をつけている人でも、それを確認しないで 喋っていれば、同じ事ですが。