2007/02/25

素人百科事典

  先日、新聞を読んでいたら、ネット百科事典≪ウィキペディア≫に関する記事が出ていました。 アメリカのある大学の教授が学生に対して、ウィキペディアから得た内容をレポートに使う事を禁止したというのです。 学生達が提出したレポートの中に同じ間違いがあり、原因を辿ったら、学生達が参考にしたウィキペディアの記事に行き当たったからだそうです。

  ウィキペディアを利用している人は、日本にもうじゃうじゃいると思いますが、私は前々からあの、≪利用者が記事を書く百科事典≫というのは極めて危ないと思っていました。 百科事典の基本を理解していないからです。 世界史で習ったと思いますが、百科事典というのは、その時代最高の科学知識を集めた事典で、記事の書き手が当代随一の専門家であるからこそ価値が出る物です。 ウィキペディアでは、それを素人が書いているわけで、記事の内容に信用が置けないからです。

  今私はちょっと抑えて書いていますが、腹を割ってぶっちゃけますと、「どこの馬鹿が書いたか分からない記事から得た知識など、糞の役にも立たないばかりか、100%有害でしかない」と思っておるのです。

  ウィキペディアには、学者の執筆者もいるらしいですが、その人達がどういうつもりなのか、さっぱり分かりません。 最も良心的に考えれば、「素人だけに任せておいては誤まった知識が広まってしまうから、それを少しでも防ぐ為に専門家も加わった方がいい」と判断したのかもしれません。 しかし、この理屈は、「強盗団を悪党だけに任せておいたら犯罪を次から次に引き起こすから、自分も強盗団に入って犯罪を防ぐ」と言っているようなもので、解決の方法を根本的に間違えています。 強盗団は捕まえて罰を受けさせるしかないですし、ネット百科事典に対する専門家の態度は、その問題点を批判して、利用者に警告を与える事しかありません。

  たとえ、執筆者の99%が専門家になったとしても、残りの1パーセントが素人であれば、それだけで、その百科事典の信用度はゼロになってしまいます。 なぜなら、どの記事が正しく、どの記事が誤まっているか、利用者には見分けがつかないからです。 毒薬が一粒混じっているキャンデーの缶を安心して食べ続ける人はいますまい。 たとえ 残りの全部が普通のキャンデーであっても、缶ごと捨てるしかないではありませんか。

  ≪利用者が記事を書く百科事典≫という発想は、いかにもネット時代的です。 「一部の専門家ではなく、様々な人間が加わって、大きな物を作り上げる、外に開かれたシステム」 こういう題目に共感する人は大変多い。 「普段誰にも認められない自分にも、世の中に何かを発信する事が出来る」と、ささやかな野望に酔いしれるわけですな。 しかし、それがこと百科事典の執筆となると、素人にししゃり出て来られては、非常に困るのです。

  実際の所、ウィキペディアには、仰天するようないい加減な記事がうじゃうじゃ出ています。 特に、歴史や思想・哲学・文学など、文系の分野で、素人が勝手放題な自説を書き連ねているケースが非常に多い。 反論したり、異説を書き加える事も出来ますが、それを最終的に裁定する専門知識を持った監修者は存在しません。 監修者を置いてしまったら、≪利用者が記事を書く百科事典≫という特質を捨てる事になってしまうからです。 一つの項目に対して異なる説が二つ以上ある場合、どれを信用するかは利用者の判断に委ねられますが、そもそも、それが分からないから百科事典を紐解くのであって、複数の説の判定など出来るわけがありません。 そんな判定が出来るのは、専門家だけです。 ≪利用者が記事を書く百科事典≫という考え方そのものが矛盾を包含しているのです。

  学問の世界というのは、民主主義とは全く相容れません。 「より多くの人間が支持した説が正しい説だ」という事にはならないのです。 天動説・地動説の問題などは典型例ですな。 コペルニクスやガリレオが地動説を主張していた頃には、ほとんどの人間が天動説の方を信じていたわけですが、だからといって、天動説が正しくはなかったわけです。 科学知識は徐々に解明されて行くという性質上、どの時代の百科事典にも、誤謬が含まれる危険性はあります。 しかし、専門家が書いた記事と、素人が書いた記事ではやはり信用度がまるで違うのです。 民主主義を百科事典の執筆に持ち込むのは、お門違いというものでしょう。

  ヒトラーのセリフに、「嘘も百回言えば本当になる」というのがありました。 ≪利用者が記事を書く百科事典≫には、それに似た落し穴があります。 百人が嘘を書けばその場では本当になります。 それを利用して、わざと嘘を書いて、嘘を本当にしてしまおうと企んでいる者が相当いると思われます。 しかし、それは学問的な真実とは何の関係もありません。 嘘はどこまで行っても嘘だからです。

  ≪利用者が記事を書く百科事典≫は、ただただ嘘の知識を広め、世界を混乱させる事にしか寄与しないでしょう。

2007/02/18

対話と圧力

  時間が確保できそうに無かったので、今週は新しい文を書くのをやめようかと思っていたんですが、日曜の午前が雨になったせいで、犬の散歩がキャンセルになり、ネタも無いのに書く事になりました。 ネタが無い時には、時事問題を取り上げるしかないわけですが、今週最大の時事ニュースといえば、六者会談の合意です。

  笑ってしまうのは、合意に至った事に対して、日本のマスコミが「米朝接近は、日本にとって悪夢」というスタンスで報道している事です。 あのなあ、険悪な関係にある二国が、ある懸案で合意したというのだから、それは即ち戦争の危機が遠のいたという事なんだよ。 戦争の危機が遠のいたのが、何で悪夢なんだ? テレビの討論番組で、自称識者達が、「拉致問題はどうなる?」などと言っていますが、すると何か? 拉致問題の方が戦争よりも大ごとだというのかね?

  いや、実際の話、本気でそう考えている日本人が多いようなので、真底空恐ろしいです。 戦争になったら、少なくても何百人、多ければ何千万人という数の人間が死ぬわけですが、それよりも拉致の方が大きな問題だと言うのです。 怒りで目が眩んで、事の大小の判断が出来なくなっているわけです。 それもネットで三無能どもが吠えているというならまだしも、国民の大部分がそんな有様だから救いようが無い。 私はこのブログで何度も、「日本はその内、戦争を始める」と書いていますが、戦争発生の最大の要因は、≪憎悪≫ですから、まさに日本はその条件を満たしているのが分かると思います。

  ところで、今回の合意ですが、私は別の意味でまずいと思いました。 米朝間関係が安定すると、東アジアでのアメリカの負担が軽くなるので、その分、中東に力を割ける事になり、対イラン戦争を始める恐れが高まるからです。 ブッシュ政権はもはや死に体ですが、大統領権限は使えるので、「やりたかった事を任期中にすべて始めてしまおう」と考えても奇妙ではありません。 窮地に追い詰められた者ほど、一か八かに賭けようとしますから、「イランで勝利すれば、再び国民の支持を取り戻せる」と夢見る可能性は大です。

  そう考えると、米朝間合意は至ってまずいのです。 朝鮮にはもっとゴネて貰った方が良かった。 アメリカの軍事力は一般に恐れられているほど大きくないので、距離的に遠く隔たった二箇所で同時に戦争は出来ないのですが、中東に集中すれば、戦線の拡大自体はそれほどの障碍ではありません。 現にイランの核施設に対する攻撃を仄めかしているアメリカ政府の高官もおり、条件さえ整えばやるんじゃないでしょうか。 政権が死に体であるからこそ、暴挙をためらう理由が無いというわけです。 ただ、朝鮮にしても中国にしても、韓国にしてもロシアにしても、その辺の事情はよく分かっていると思うので、たぶん今回の合意内容がすんなり履行される事は無いでしょう。 アメリカも立場は逆ですが、それは読んでいると思います。 分かってないのは残る一国だけ。 一般人はもとより、政治家から外務省職員に至るまで、国際政治なんてちんぷんかんぷんなんですから、無理も無いですが。

  ヨーロッパで世論調査をすると、「世界の国々の中で最も危険なのはアメリカ」という結果が出るそうですが、これは全くその通りで、戦争を始める国が最も危険なのであり、テロ支援国よりも遥かに有害度が高いです。 アメリカが思うままに軍事力を使える期間は、最低でも今後10年以上は続くと思われますから、それ以外の国は、どうやったらアメリカに軍事力を使わせずにその期間を乗り切るか、挙って知恵を絞らなければなりません。

  それには、≪対話と圧力≫を使い分ける事が必要です。 フランスやドイツがやっているように、対話で諌める形でアメリカの暴走を抑える方法が一つ。 朝鮮、イラン、キューバがやっているように、対立する事で圧力をかけ、アメリカを動けなくする方法が一つ。 問題は、アメリカの軍事力を封じ込めるという点で、これらの国々の目的は一致しているにも拘らず、対話組と圧力組に直接の連携が無い事ですな。

  一方、日本やイギリスのように、アメリカの後についてせっせと支援している国は、世界の安定に何の貢献もしないばかりか、戦乱の後押しをしているようなものです。 ただ私は、対話にせよ圧力にせよ、効果の程には非常に懐疑的であり、今後もアメリカの起こす戦争を止められないと思っています。 世界が真に安定する為には、戦争以外の方法で世界をまとめる力を持った国が登場するのを待つしかありません。

2007/02/11

戦争適性ゼロ

  まったく野党は何をやってんだか、いつの間にか防衛庁が防衛省になってしまい、その上、海外活動が自衛隊の通常業務になってしまいました。 こじつけを含むありとあらゆる理由に関わらず、≪軍事組織の海外派遣≫と≪侵略≫は同じ方向性を持つ行為の程度の差に過ぎません。 ドイツを見なさい。 あれほど深いナチスへの反省を示しながら、平和維持の名目でアフガニスタンに駐留部隊を出したばっかりに、今タリバン相手にやっている事は戦争以外の何ものでもありません。 外国の土地で地元の人間と戦争をするという事が、≪侵略≫とどう違うのか、屁理屈でもいいから申し開きを聞いてみたいものです。

  何度も言うように、軍隊の本来の仕事は、殺害と破壊であって、人命救助だの災害復旧だのは、全くの副業に過ぎません。 それらの活動は軍隊でなくても出来るもので、尚且つ、専用の組織があればその方がずっと効率よくやってのけられる活動です。 実際に土砂崩れで家の下敷きになったと思ってみなさい。 そこへ助けにやって来たのが、消防隊員だった場合と、自衛隊員だった場合の安心度の差は容易に想像できるでしょうが。 片や救助のプロ、片や単なる頭数で引っ張り出された人足です。 さあ、どっちが頼りになる? 困った時に助けてくれるなら誰でもいいと思うのは人情ですが、それが行き過ぎて、軍隊の本質について思い違いをしていると、必ずしっぺ返しが来ます。

  軍隊というのは思いの外馬鹿な集団です。 軍隊の賢さを探すのは至難の業ですが、愚かな所なら、いくらでも見つかります。 清朝以前の中国文明では、「兵隊は体を動かす以外に能がない馬鹿が就く職業」と決まっていたほどです。 どの国でも軍隊は馬鹿者の集団なんですが、日本では特にその度合いが強いです。 なぜかというと、日本人は、古来≪尚武の国≫などと自称して、戦争が大好きであるにも拘らず、戦争がド下手で、特にあらゆる局面で合理的判断力を必要される近代戦には全く向かない民族だからです。 今回は、日本人がいかに近代戦が不得手かを論じてみましょう。

  まず何よりも重大な欠陥は、日本人には兵器の使い方が分からないという事です。 これは、旧日本軍も自衛隊も、江戸時代以前の武士団もみんな同じです。 戦争は根性でやるものだと思っているので、敵よりも優れた武器を装備しようという発想が出て来ないのです。 火縄銃が伝来から廃止までほとんど進化しなかった事は有名ですが、もっと身近な例として、太平洋戦争の期間中に新開発された兵器が非常に少ない点を見てもこれは歴然と分かります。

  太平洋戦争中の日本軍の優れた兵器というと、アホでも知っていていの一番に口に出すのが≪ゼロ戦≫ですが、実はゼロ戦そのものはさほど戦果を上げたわけではありません。 真珠湾攻撃やマレー沖海戦など、初期の勝ち戦に加わっていたので、圧倒的に強かったかのように思われていますが、その実、攻撃自体は攻撃機や爆撃機が行なったのであり、ゼロ戦は護衛についていただけです。 しかも真珠湾では、辛うじて離陸して来たほんの数機の米軍戦闘機に撃墜されるゼロ戦も出ていて、日本人が抱いている無敵のイメージとは大きく掛け離れています。 初期でもそんな有様ですから、負けが続くミッドウェー海戦以降はほとんどいい所がなく、消耗戦でベテラン・パイロットが戦死し始めると総崩れになって、後はただただ押されまくるていたらくとなります。

 「日本の戦闘機は、量で負けたが質では勝っていた」などと言う日本人が大変多いですが、戯言もいい所で、初期でも米軍機に対する優位は僅かなものでしたし、中期以降、米軍が2000馬力級の戦闘機を出して来てからは、全く手も足も出ない有様でした。 日本軍機にベテランが乗っていても、素人同然のパイロットが乗った米軍機を追いかけるスピードが出ないのですから、勝てるわけがありません。 ゼロ戦のスピード向上計画は何度も出たのですが、スピードを速くすると運動性や航続距離が落ちるので、結局どう弄っても改悪にしかなりませんでした。 技術者が、「運動性か速度か、どちらかに特化する事しか出来ないから、優先順位を決めてくれ」といっても、馬鹿な軍人は技術の限界というものが理解できず、「まあ、精一杯いい物を作ってくれ。 我々も死ぬ気で頑張るから」などと曖昧な返答をして、精神論で終わらせてしまったそうです。 ちなみに、現在の日本企業でも、こういう精神主義を実践している管理職は無数にいます。 本来、戦争のプロであれば、自国の兵器が敵国の兵器に敵わない事が分かった時点で、戦争の中止を政治指導者に具申すべきですが、「武器が劣っていても、根性があれば勝てる」と思っているから、破滅するまでやめられないのです。

  そういえば、「日本のパイロットは腕が良かった」などと思っている日本人も多いですが、これまた何の根拠もない妄想です。 日本人パイロットはほぼ全員、軍隊に入隊してから初めて飛行機に触れるわけですが、生活の中に飛行機が溶け込んでいるアメリカでは、子供の頃から飛行機に乗っている者が航空部隊に入ってくるわけで、慣れの度合いが段違いです。 初陣に至るまでの飛行時間は何倍も違うのであって、日本人がアメリカ人に飛行機の操縦で敵うはずがないのです。 これは昔だけでなく、今後も全く同じです。 民間のパイロットでも事情は同じなので、航空会社を選ぶ時は飛行機の普及度が高い国の会社にした方が安全度は高いといえます。

  武器に関する事をもう一つ。 バスーカ砲です。 歩兵が肩に担いで撃つ対戦車ロケットで、太平洋戦争でも中期以降、盛んに使われました。 日本軍の戦車は、開戦から敗戦まで歩兵支援戦車の域を出ず、装甲がぺらぺらだったので、バズーカ砲を喰らうとイチコロでした。 非常に興味深いのは、日本軍がバズーカ砲の簡便性と威力を知っていたにも拘らず、同様の兵器を作らずに終わった事です。 対戦車ロケットはそんなに難しい技術ではなく、成型炸薬弾の原理さえ知っていれば、日本にある材料でも簡単に作れたはずなのですが、全く作っていないのです。 そればかりか、バズーカ砲を鹵獲して本国に送りコピー兵器を作ってもらうという事もしていません。 どの国でも歩兵の能力には大差がないのであって、日本軍と米英軍の決定的な差は、戦車や装甲車の強さだったわけですから、バズーカ砲があれば、歩兵部隊だけでも相当有利な戦闘が出来たはずなんですが、なぜコピーしなかったんでしょう?

  私は兵器マニアだった少年時代に、この事が不思議で仕方なかったんですが、大人になって日本人の性向が分かって来ると、無理もないと思うようになりました。 日本人は、合理的な思考が出来ないのです。 そもそも論理的に物を考える事が出来ません。 命が掛かっているような重大な局面でも、その場限りの感情だの、伝統だのしきたりだのが優先され、合理的判断は脇に追いやられます。 大方、陸軍の上層部の中に、「敵の兵器を真似るなど、帝国軍人のする事ではない」などと言う奴がいて、それが軍隊内の力関係で、そのまま通ってしまったのでしょう。 日本人社会では、よくある話です。 ≪和の心≫という奴で、上の人間がこうと決めると、下の人間は、間違っていると思っても言う事を聞かざるを得ないのです。


  次に、作戦立案能力について見てましょう。 これも日本人には決定的に欠けています。 ビルマ戦線で日本軍と戦ったあるイギリス人将校の体験談によると、日本人は作戦らしい作戦を全く使わないのだそうです。 日本人の戦法は常に一つしかなく、それは、敵と遭遇すると味方を二手に分け、一方を敵の背後に回らせるというものなのだそうです。 英軍側から見ると、日本軍とぶつかったら、必ず背後に回る一隊が出てくるので、それを待ち伏せして潰してしまえば、日本軍は一遍に半数に減るという、非常に対応し易い敵だったらしいです。 つまり、馬鹿の一つ覚えだという事ですが。

 「味方を二手に分けて、一方を敵の背後に回らせる」という戦法は、ヤクザの出入りや、警察のガサ入れで使われるものです。 正面と背後から撃ち合ったら、同士討ちを起こしてしまいますから、相手が飛び道具をもっていない事を前提にした戦法であり、近代戦に使えるものではありません。 しかし、論理思考が出来ない日本人には、こんな簡単な理屈すら分からないのです。 作戦といったら、二手に分ける事しか知らないのですから、もう情けないを通り越して憐れになって来ます。 私はこの事を知って以来、映画や実話で、日本人が考える作戦というものを注意深く観察してきたんですが、本当に「二手に分かれて」が多いので、びっくりしてしまいました。 「そんな事はない。 極端な事を言うのはよせ」とお怒りのあなた、その内日本が戦争をやらかして、兵隊に取られる機会があったら、自分の目で確かめてみるのが良いでしょう。 敵と遭遇した時、上官がきっとこう言います。 「よし、作戦を説明する。 二手に分かれて・・・・」 断言します。 絶対言います。

  映画 ≪硫黄島からの手紙≫が話題になったせいで、栗林中将を英雄視する風潮が出ていますが、とんでもない話です。 自分が預かった兵士を全滅させてしまうなどというのは、指揮官として完全な失格です。 近代戦においては、「勝つか、全滅か」などという二択はありえません。 栗林は戦力の半数を失った時点で降伏する事も出来たはずです。 降伏が恥だというなら、その汚名は自分一人が背負えば良かったのです。 そうすれば、一万人は生きて戦後を迎えられたではありませんか。 一万人が自分一人の判断によって死んでしまうという事がどれほど重大か、よーく考えてから栗林を英雄扱いすべきですな。 また、「5日で陥落すると言われた島を36日間守った」というフレーズに感動している人も多い事でしょうが、硫黄島での戦闘が31日間延びたという事は、つまり戦争終結までの時間がそれだけ延びたという事で、その31日の間に爆撃・砲撃等で死んだ人達が何というかよく考えてから、感動するようにしましょう。 

  ≪男たちの大和≫などという推戦映画もありましたが、あれも大馬鹿な作戦でねえ。 ただ、敵の中に突っ込んでいくだけなんですが、それでも一応、≪作戦≫だと言うんですよ。 よく、「陸軍に比べて海軍は世界情勢が分かっていた」なんて言う人がいますが、所詮同じ日本人ですから、オツムの出来は大差ありません。 また、快晴なら主砲で対空攻撃が出来るのに、わざわざ曇りの日に出撃させているのもキチガイ沙汰です。 一度日取りを決めてしまうと、決定的に不利になる天候条件であっても出撃を取り止めないその頑迷さは、もはや救いようがありません。

  沈められると分かっているのに出撃させる超人命軽視にも恐れ入りますが、乏しい資源の有効利用に対する認識の無さにも呆れざるを得ません。 大和一隻作るのに、どれだけの鉄を使ったと思います? 一方で、一般家庭の鍋釜や寺の梵鐘を供出させてまで、鉄を掻き集めていたんですぜ。 そんなに鉄が欲しいなら、糞の役にも立たない戦艦を解体すれば、山ほど余剰が出たではありませんか。 戦略レベルでも、判断力ゼロなんですよ。 ここまで馬鹿だと、その馬鹿さ加減が研究対象になります。


  日本人が如何に近代戦に向かないか、ネタはまだまだいくらでもあるんですが、キリが無いので、ここら辺にしておきます。 上に書いたような日本民族の性向は、過去の話ではなく、現在の未来も全く変わりません。 日本人が日本人である限り、何度戦争をやっても、同じ結果になります。

2007/02/04

国力比較

  世界各国の経済力を国内総生産(GDP)で比較する時に、未だに≪為替相場換算値≫を使っているのは実に奇妙です。 貿易のみに関する事なら為替相場換算値の方が妥当ですが、国力比較をするのであれば、≪購買力平価換算値≫を用いなければ、正確な値が出ません。 為替相場換算値というのは、各国国内の物価の違いを全く計算に入れていないからです。 たとえば、A国とB国の物価の差が10:1だとすると、A国で1日分の食費にしかならない金額で、B国では10日食べられる事になります。 ドル換算すれば全く同じ金額になるのに、実際の価値は10倍も違うのです。 こんなに重大な点を無視して、国力比較など出来るわけがありません。

  2005年の国内総生産を為替相場換算値で比較すると、上位10国は以下のようになります。 括弧内の数字は1位を100とした時の大雑把な比較値です。

 1 アメリカ(100)
 2 日本(36)
 3 ドイツ(21)
 4 中国(17)
 5 イギリス(17)
 6 フランス(17)
 7 イタリア(13)
 8 カナダ(9)
 9 スペイン(9)
10 ブラジル(7)

  これが、新聞やテレビの報道で一般的に使われる比較値です。 ところが、これを購買力平価換算に変えると、順位が激変します。

 1 アメリカ(100)
 2 中国(77)
 3 日本(31)
 4 インド(29)
 5 ドイツ(20)
 6 イギリス(14)
 7 フランス(14)
 8 イタリア(13)
 9 ブラジル(12)
10 ロシア(12)

  ただ単に順位が入れ替わるだけでなく、顔ぶれも変わり、一位との比較値もがらりと変わります。 一目見て分かるように、中国がアメリカを急追し、インドが日本を抜く寸前である事が分かります。 昨今、≪BRICs(ブラジル・ロシア・インド・中国)≫と呼ばれる国々の存在が注目されている理由は、購買力平価換算値を見なければ分からない事でしょう。

  購買力平価という概念を用い始めたのはアメリカで、世界戦略に必要な情報として、純粋な国力比較をする為に、CIAが統計に取り入れた事で有名になったようです。 純粋な国力を知る事が最も効果を表すのは、軍事費の比較です。 ドル換算で同じ額の軍事費でも、国内物価が安ければ安いほど、装備や兵員数が増やせるので、物価を計算に入れなければ、比較にならないからです。

  今回、なんでこんな話を持ち出したかというと、日本国内には、自称・識者も含めて、購買力平価という計算方法を知らないまま、為替相場換算で日本と外国の国力を比較して物を言っている者が非常に多い事に懸念を感じているからです。 割と客観報道に徹しているNHKやリベラル系の新聞社ですら、「世界第2位の経済大国・日本は・・・」といった言い方をしているケースが非常に多い。 最もよく聞くのは、中国と比較する時で、「中国の経済成長は目覚しいが、GDPを比較すれば、日本の3分の1に過ぎない」といった文脈で使われます。 そこには、≪見下し≫や、≪嘲り≫のニュアンスが含まれていて、わざわざその一言を入れた人物の下賎度がひしひしと分かるわけですが、実際の国力は、≪日3:1中≫どころか、≪日1:2中≫なのであって、しかも、成長率が日本足踏みにし対して中国は年率10%ですから、その差は猛烈な勢いで開く一方であって、もはや対等に比較するのも恥かしい有様なのです。

  実際、日本や独英仏など、成長が停止した小国群は、もう世界の力比べに於いては、落ち目の前頭クラスに過ぎないのであって、視野の外に置いても全く問題ないというのが現状です。 アメリカが恐れているのは、スバリ数年以内に自国を抜いてトップに躍り出る中国であり、十数年以内には同じように抜いていくインドなのです。 どの国も≪市場経済社会≫ですから、経済発展の条件は等しいのであって、最終的に一人当たりの経済力がほぼ同じになるとすれば、国力差を生み出すのは人口であり、中国・インドはそれぞれアメリカの約4倍の国力を持つようになる事が予想されます。 アメリカでも、この事が分かっていない人がかなりの割合で存在し、イラクやアフガニスタンで、やらなくてもいいような戦争にエネルギーを注ぎ込んでいるのは、自国の立場の危うさがよく分かっていない事の証拠でしょう。 しかし、アメリカ人は本当の危機に於いては合理的対応力を発揮しますから、中国に抜かれた時点で、世界戦略を大幅に変更し、中規模国家としての道を模索し始めると思います。

  問題は日本だよ。 今でも国民の99.9%は購買力平価など全く知りませんから、老若男女雁首揃えて、中国やインドを遙か後方で蠢いている貧乏国だと思い込んでいるわけですが、その愚かさ加減には笑うなという方が無理だよねえ。 「人民元のいっそうの切り上げを求める」なんて、国の経済担当者が平気で言ってますが、人民元が変動相場制になったら、為替相場が購買力平価に接近しますから、名実ともにあっさり抜かれますぜ。 その辺の所を分かってて言ってる? 人民元が高くなると中国製品の価格が高くなって輸出が打撃を受けるので、それを期待しているんでしょうが、安い物を輸出できなくなれば、高い物にシフトするのが世の常ですから、日本製品と競合する品目が激増して、日本のメーカーは全部倒産しますぜ。 その辺の事情を分かってて言ってる?

  もっと怖いのが軍事力比較の勘違いです。 為替相場換算だと日本の方が軍事費が多いので、「中国軍より自衛隊の方が装備がいい」などと漠然と思い込んでいる馬鹿者が政治家の中に無数にいますが、前述したように、軍事費の実態価値は国内物価の影響を最も大きく受けるので、中国の方が遥かに多いと見るべきです。 私は少年時代、兵器マニアだったので、そちらの知識はかなり豊富ですが、自衛隊の装備は購入費が高いばかりで、性能的には全く大した事がありません。 そもそも、自衛隊の兵器技術はアメリカからスペック・ダウンして与えられた物がほとんどで、最先端でも何でもありません。 もちろん量的にも、中国には遠く及びません。 「いざとなったら、自衛隊の最先端兵器で・・・」などと夢想している人がいたら、それは1945年の8月に「日本には連合艦隊があるから、絶対に負けない」と演説ぶっていた奴と同次元の大馬鹿者と見て差し支えないでしょう。 ちなみに、テレビの討論番組などに出てくるコメンテーターの大半は、戦車と装甲車の区別も付かないような軍事無知なので、言っている事を真に受けない方がいいです。

  もう、ありとあらゆる点で、中国は日本が対抗できる相手ではないという事に早く気付くべきです。 そして、いずれインドが同じ状態になります。 世界の勢力地図は激変の真っ最中なのです。 生き残りたかったら、自分の国の≪分≫を正確に見究め、立場を弁えなければなりません。 ≪毅然とした外交姿勢≫などに固執していると、あっさり滅亡しますぜ。