2007/05/27

間食断ち

  世界は全く面白くなく、日常生活はそれに輪を掛けてつまらないです。 かくして、書くネタが無いので、連休明けから実行しているダイエットについて、日記の方から抜き出して経過を記す事にします。



≪第一週≫
  最近、腹部の贅肉が気になるようになり、生まれて初めて節食によるダイエットに臨む事にしました。 とはいえ、体力の要る肉体労働者なので無理は禁物。 とりあえず軽い所から着手し、間食をやめる事にしました。 ズボンのウエストがきつくなり出した時期と、自分でビスケットやチョコレートを買って来るようになった時期が重なるからです。 それ以前は、母がスーパーで買ってくる菓子を食べるだけで、無い時は無いで、我慢していました。 その我慢が嫌で、自分で買うようになったのですが、人間何事も欲望に任せて行動すると、手痛いしっぺ返しを喰らうという事ですな。

  しかし、これが結構きつい。 まだ一週間もたたないのに、へろへろという感じです。 今まで食べていた分、胃が大きくなっていて、入る物が入らないと空腹感が解消しないのでしょう。 胃が適性サイズに戻るまでの辛抱か・・・。 うーむ、いくら食べても太らないという食べ物は無いものですかね。 水以外で。 わはは! こういう事を考えているから、みんなダイエットに失敗するわけですな。


≪第二週≫
  間食を断つ節食ダイエットですが、まだ続いています。 もう空腹感は無くなりました。 だいぶ腹が凹んだような気がしますが、ベルトが緩くなった感触は無く、気のせいかもしれません。

  おぼろげな記憶を辿ると、高校時代、背丈が伸び切った時点で、体重は59キロくらいだったと思います。 今の会社に入った頃には63キロくらいに増えて、その状態を10年ほど維持しました。 それが数年前からじわじわと増加傾向に入り、いつのまにか69キロまで来てしまいました。 高校時代と比較すると、10キロも増えています。 私の身長は174センチですから、70キロ台に入ってもまだ肥満とはいえませんが、そんな具合に食欲に譲歩していたら、あっという間に80、90行ってしまいそうです。

  高校卒業後すぐに誂えた礼服があるのですが、今ではズボンのウエストがまったく入らず、まだ三回しか着ていないのに、箪笥のゴミと化しつつあります。 ここは一つ、あのズボンが再び穿けるようになるまで腹を搾ろうかと思っています。


≪第三週≫
  ダイエットですが、間食抜きは続いているものの、痩せた感じはあまりしません。 ただ、ズボンを穿く時に心理的抵抗を感じなくなった所を見ると、少なくとも、前より太っていない事は確実なようです。 食事の後、冷凍庫に入っているチョコ・アイスが食べたくて禁断症状に似た感覚が起こりますが、そういう時には、「もう食べた」と思う事で乗り切っています。 今までの人生経験から、「食べる事による幸福感は、食べている間しか持続しない」と分かっているので、その錯覚を利用するわけですな。 今の所うまく作動していますが、いつまで続くかは、神のみぞ知ります。


  とまあ、今の所ここまでしか進んでいないんですがね。

  家の中に食べる物がうじゃうじゃあるのに食べられないというのは、肉体的にというより、精神的にきついです。 父はもともと、ほとんど間食をしない人なのですが、母が≪間食王≫なので、袋菓子やアイスの在庫が常に大量に備蓄されているのです。 自分がダイエットを始めると、母の暴食ぶりが今まで以上に際立って見えて来ます。 こういう人は、正規の食事は少なめに食べるんですよ。 それで、「あたしゃ、あまり食べてないよ」というポーズを取るわけですな。 家族に対してというより、自分自身に対してです。 その一方で、食事が終わった後は、テレビを見ながらひっきりなしに菓子・アイスを食べています。 かくして、ぶとぶとぶよぶよ膨れていくわけです。 あなおそろしや!

  最近は表を歩いていても、太った人を見ると、「ああ、食ってるな、この人・・・・」と思います。 「生まれついての体質だ」なんて言う人もいますが、嘘嘘! 好都合な言い訳、もしくは思い違いです。 食ってるんですよ、人並み以上に。 出るエネルギーより入るエネルギーの方が多いからこそ太るのです。

  よくあるダイエット方法に、「これを食べれば痩せる」というのがありますが、論理的・根本的にありえない話ですな。 「食べなければ痩せる」なら分かりますが、食べて痩せるわけがないでしょうが。 肥満というのは、一種の中毒だと思いますが、中毒患者というのは、実に様々な理由をつけて依存物質の摂取を目論むものなんですな。

  「食べた分、運動すれば太らない」という人もいますが、まず実行不能です。 食べる事は快楽であるのに対し、運動は苦痛ですから、苦が楽に勝てるはずがありません。 必ず食べる勢いの方が上回ります。 結局、食べる量を減らす以外に有効な手は無いんですよ。

2007/05/20

外し続けて30年

  現在、≪上海モーターショー2007≫が開かれているのですが、ある日本の新聞社の記事を読んで、げんなりしました。 中国の民族資本メーカーの新型車が日本車に似ていると言うのです。 この種の指摘は五年ほど前から、耳にタコが出来るほど聞かされていて、ほとほとうんざりしました。 もちろん、この種の記事を繰り返し繰り返し書く、大馬鹿記者どもに呆れ果てているのです。

  車のデザインが外国車に似ている事を一番口にしてはいけないのは、日本人です。 私は四半世紀前から車のデザインに興味を持ち、当初かなりのめりこんだ方ですが、その頃の日本車などといったら、9割は見るに耐えない没個性デザインでした。 没個性デザインというのは、日本人デザイナーが線を引いた車で、ドイツ車やイタリア車のパクリか、さもなければ何とも形容のしがたい醜い物体(これを当時の評論家達は≪日本的デザイン≫と呼んでいました)ばかりでした。 嘘だと思ったら、80年代の車の総合カタログを手に入れて、見てみなさい。 ちなみに、残りの一割は外国人デザイナーが手掛けた車で、それらは段違いに洗練されていたので、デザインに詳しい人間なら一目でそれと分かりました。

  当時、日産のパルサーなどは、「オペルの丸写し」と言われるほどそっくりで、日本の自動車評論家ですら、「赤面する」と書いていたほどですが、一般の日本人は馬耳東風で、そんな泥棒デザインの車でもよく売れていました。 外車のデザインを盗用している事に対して、恥を感じてないんですな。 ちなみに、海外で日本車がよく売れていたのは、何かにつけ大雑把なアメリカ市場に限った事で、ヨーロッパ市場では、「パクリ車」として二級品としか思われていませんでした。 実はこれは、今でもさして事情は変わっていません。(他に日本車を多く見る外国というと、ロシアやパキスタン、ペルーなどですが、これらの日本車は中古車や廃車の横流し品で、日本車の新車が売れているわけではありません。 捨て値で手に入り、メンテすればそこそこ動く車だから人気があるのです)

  マツダRX-7はポルシェ924のパクリ、日産シルビアはピニンファリーナのパクリ、トヨタに至っては、≪日本的デザイン≫の頭目クラウンを除けば、オリジナル・デザインを持たないのが社風になっていて、「どの国の会社の車だろうが、売れた車のデザインをパクる」という方針を堅持していたくらいです。 私らの世代が、「トヨタが販売台数世界一」といったニュースを聞くと、サラダ油でも飲まされたような嫌~な気分になるのは、その頃の事を知っている上に、トヨタが現在もその方針を捨てていない事が分かるので、泥棒が町内会長になってしまったような理不尽さを感じるからです。

  日本車で一番最初にデザインで独自性を獲得したのはマツダでしたが、ヨーロッパ人は目敏くそれに気付き、マツダ車だけがヨーロッパで評価されていました。 というか、マツダ社内にヨーロッパ・デザインを理解したデザイナーがおり、「ヨーロッパで評価されるには独自性が必要だ」と考えて、産みの苦しみで努力したんでしょう。 ただ、当時の日本人にはヨーロッパ的デザインを理解できる人間が少なく、90年代のバブル崩壊期には大苦戦に陥り、結局フォードの傘下に入ってしまいました。 そういえば、日本の新聞やテレビでは、自動車メーカーの≪日本勢≫という時に、日産やマツダを当然のように含めていますが、正確には、日産はルノー傘下ですから≪フランス勢≫、マツダはフォード傘下ですから≪アメリカ勢≫に分類すべきです。 それに、≪日産・ルノー・グループ≫といった言葉も間違っています。 経営権を持っているのはルノー側で、日産はその傘下に過ぎませんから、単に≪ルノー・グループ≫とすべきです。 下らん民族意識で誤まった知識を流布するのはやめましょう。

  あまり意識されていませんが、日本の自動車メーカーの中で、唯一日本人によるデザインに拘り続けているのが、ホンダです。 もちろん、所詮同じ日本人なので、パクリもやるわけですが、最終的には日本風・ホンダ風に処理して仕上げます。 この為に、ホンダ車は、ネームプレートの類が全部外されていても、ホンダの車である事がはっきり分かります。 また、紛う方なく日本車である事も分かります。 ただ、ここが肝腎なんですが、ホンダ車のデザインは決して美しくはありません。 日本人の三次元造形下手がもろに出てしまって、どうにも平面的なのです。 実際に出来る車はもちろん立体ですが、平面を継ぎ合わせたような立体になります。 往来に出て、ホンダ車のデザインをしげしげ観察して御覧なさい。 いかに稚拙な立体造形であるかが分かるから。 ちなみに、車の全体のスタイルを吟味する場合、水平位置から見るのではなく、建物の二階から見下ろしてみると、形の良し悪しがよくわかります。 それまでカッコいいと思っていた車が、恐ろしく不恰好に見えて、一気に幻滅したりするので面白いですよ。

  デザインの事ばかり言って来ましたが、動力性能や品質など、日本車が性能面で何とかヨーロッパ車に追いついたのは、90年代に入ってからです。 ただし、追いついただけで、追い抜いたわけではありません。 今でもです。 追い抜けなかったんですな。 (昨今、「ハイブリッド車の開発で抜いた」という意見がありますが、私はあのハイブリッドというシステムを≪まやかし≫だと思っています。 燃費の良さで浮く燃料代よりも、ハイブリッド・システムを積む為の超過額の方が高いのでは、意味が無いからです。 同じ排気量の車で、普通のガソリン車よりハイブリッド車が100万円高価だったとすると、100万円分燃料を節約できなければなりませんが、普通のドライバーでは、それだけ乗る前に車を手放すはずです。 全く得などしていないのです。 その上、生産段階で100万円分余分にエネルギーを投入しているので、環境への付加は普通の車よりむしろ高いのです。 「地球に優しい」が聞いて呆れる。 これが≪まやかし≫でなくて何でしょう?)

  さて、冒頭の新聞記事の話に戻りますが、こういう記事を書いている記者達は大概、技術音痴です。 「ネジはどちらに回せば締るか」といった基本的知識すら持ち合わせていません。 新聞記者というのは全員ガリガリの文系ですから、知っている方がおかしいと考えるべきでしょうか。 読んでいる新聞に≪科学技術欄≫があっても、決して鵜呑みにしてはなりません。 必ず眉に唾をつけて読むべきです。 自分は全然分かっていないのに、「頭のいい俺ですら分からないんだから、どうせ読者も分からないだろう」といった下司丸出しの発想で、超が付くほどいい加減な記事をデッチ上げる記者が多いからです。(最近も新型デジカメの紹介記事で、「複数の対象にピントを合わせられる機能が付いた・・・」という文を目にしましたが、カメラの原理を知っている者なら、そんな芸当が出来るはずが無い事はすぐ分かります)

  また文系というのは、人から聞いた科学技術関係の≪噂話≫を疑いもせず丸呑みにするという特徴があります。 典型的な例が、80年代頃に盛んに新聞記事に登場した、「秋葉原に並んでいる電子レンジには、アメリカの最先端軍事技術より優れた技術が使われている」という形容です。 最近でこそ、秋葉原が電器街でなくなってしまったので目にしなくなりましたが、当時はこの形容を何回読まされたか分かりません。 この記者ども、本気でそう信じていたのです。 馬鹿か? 技術が何たるか全然分かっていない! 電子レンジの技術と軍事技術は全然別物だ! どっちが優れているかなんて何を基準に判断するんだ? そんな最低限の理屈もわからないのか! それともなにか? 電子レンジが作れると自動的に巡航ミサイルやステルス戦闘機も作れるのか? やってみろ、お前!

  技術音痴である上に、日本車の辿って来た、みっともなくも恥かしい≪パクリの歴史≫を知らないのです。 ほんの20年前の事だから、たとえ若い記者でも、子供の頃から車を見ていれば分かったはずなのですが、大方興味がなかったんでしょう、文系だから。 現在の日本車を見ていても、「トヨタ・マークXのヘッドライトはベンツのパクリだ」くらい、よほどのボンクラでも気付くと思うんですが、大方、車のデザインなんか全然興味がなくて、外国車と日本車のパクリ相関図が頭に入ってないんでしょうなあ。 もしくは、≪パクリの歴史≫を知らないのではなく、知っているくせに、「日本車がやったパクリは大した罪ではない」と自分に都合のいい判定をぶちかましているのかもしれません。 「自分には甘く、他者には厳しく」は、≪自慰主義者≫の十八番ですから。

  こんな≪資格外≫のやつらが、「中国車は日本車のパクリだ」といって、空き巣でも捕まえたかのような勢いで怒っているのですが、私に言わせれば、周回遅れの陳腐な批判としか思えません。 中国メーカーが≪完全パクリ≫で車を作っていたのは、初代かせいぜい第二世代までで、現在続々と登場している第三世代では、むしろ独自路線にシフトしているのが見て取れます。 この記者ども、丸々10年前の感覚で物を言っているのです。 日本車は60年代に本格的に作り出してから30年間も≪完全パクリ期間≫があった上に、90年代に性能面でトップに並んでからもう20年近くたっているのに、未だにパクリは無くなっていません。 それに対し、中国の民族資本メーカーは、本格的に車を作り出してからまだ10年もたっていませんが、既にパクリ期間を脱しようとしているのです。 いやしくも自動車関係の記事を書く者なら、そちらの方を観察すべきでしょう。 出来ないか、ボンクラ過ぎて?

  また、こういう馬鹿記者どもが最後に付け加えるのが、「パクリしか出来ない中国の自動車メーカーはその内コケる」という一文です。 あのなあ、かれこれ50年近くパクリを続けて来た日本のメーカーがコケてないのに、なんで中国のメーカーだとコケるんだ? こういう記者は最初から偏見を持っていると思われます。 とにかく中国が気に食わなくて仕方がないわけです。 端から頭が偏っているような奴に国際経済情勢の分析なんて出来るわけないんですが、よく雇うよなあ、新聞社も。 どういう入社試験してるんだろう? 大体、人物像が想像できるでしょう? 根拠も無いのに日本人を優れた民族だと信じ込んでいて、外国人はすべて貶す。 特に中国や韓国といった経済面で日本のライバルになっている国は糞味噌に貶す。 韓流ブームや華流ブームなど生理的に嫌いで、ドラマも映画も一本も見た事ないくせに、ただただ貶す。 頭の中は憎悪だの侮蔑だの、そんなドロドロした悪意ばかり詰まっていて、腐った脳味噌が耳から流れ出して、肩にボタボタ垂れ落ちている始末。 そういうやつらが、こういう記事を書いているんですよ。

  こういう連中は、車の事だけでなく、経済全般についても、「中国はその内コケる」と延々と言い続けてきました。 改革解放が始まった70年代後半から、ずっと言ってたんじゃないでしょうか? そして、どなたもご存知のように、その予測は全部外れて来ました。 さすがに、30年間もずっと予測が外れ続けてきたら、「自分には未来予測の能力が無い」と自覚しそうなものですが、この馬鹿ども、全く懲りずに、まだ同じ事を繰り返しているのです。 馬鹿は死ななきゃ治らないから、恐らく死ぬまで的外れの予測を公表し続けるのでしょう。

  ちなみに、私の予測では、中国の民族資本メーカー三社(奇瑞・吉利・力帆)の販売台数は、それぞれ10年以内に、トヨタを除く日本メーカー全てを抜くと見ています。 (実は、もし90年代後半のアジア通貨危機が無ければ、日本メーカーはまず韓国メーカーに抜かれていたと思うのですが、少々順序が狂ったわけです。 もし通貨危機とストライキが無ければ、現在のヒュンダイとトヨタの立場は入れ替わっていたと思います。 日本メーカーの優位はその程度のものに過ぎません)

  中国の国内販売台数は、今後も倍々ゲームで増える事が予想されますが、その際、民族資本は価格的にも民族感情的にも有利なので、トップ3を占めるようになるでしょう。 どの会社も400万台超えに10年はかからないと思います。 中国車が輸出を本格化させれば、日本車は、性能・品質面ではすぐに追いつかれるのに対し、価格面では太刀打ちできないので、一敗地に塗れると思います。 トヨタも例外でなく。 今のトヨタの隆盛を見ていると、それが砂上の楼閣とはとても信じられませんが、その実、未来には暗雲しか見えません。 日本メーカーに生き残る道があるとすれば、日本を捨てて中国に本社を移し、中国メーカーになる事ですが、恐らく実行できる会社は無いと思います。

  面白いので、大馬鹿記者どもの予測と、私の予測のどちらが当たるか、楽しみに見ていてください。 私は中国の発展に関しては30年間当て続けてきた人間なので、30年間外し続けてきた連中に負ける気はしません。

2007/05/13

  うちには犬が一匹いるのですが、犬を見ていると、動物の限界というものをつくづく感じます。 知能的には、人間の三歳児くらいの能力はあるはずなんですが、やはり犬は犬であって、人間ではないんですな。 「ああ、所詮こいつは動物なんだなあ・・・・」と痛感するのは、散歩に出かける前の挙動を見る時です。 犬は大喜びして、前足を上げてピョンピョン飛び跳ねるわけですが、それが毎回同じなのです。 人間であれば、同じ嬉しさの表現にしても、そのつど反応が違うと思うのですが、犬は毎回、全く同じ事をします。 まるでプログラムされた機械のように。

  犬に話しかける人はたくさんいます。 私も暇な時にはよくやります。 しかし、犬との間で会話が成立しているかというと、それは完璧な勘違いです。 犬は人間が発する言葉のうち、ある特定のものしか聞き取っていません。 「散歩に行こうか」とか、「チーズをあげようか」といった言葉には敏感に反応し、まるで言葉が通じているかのような錯覚を人間に齎しますが、試しに独り言のような事を犬の耳元で喋り続けて御覧なさい。 完全に無視されます。 たとえば、学校や会社での人間関係の愚痴を犬に聞かせてみるわけです。 犬は最初、人間の方を見ていますが、話の内容が自分に関係ない事だと分かると、横を向いてしまい、話が長引くと、「よっこらしょっ」と腹這いになって、居眠りを始めます。 犬を話し相手にしていると、最終的には虚しさが倍増するだけなので、要注意ですな。

  うちの犬は、芸をほとんどしません。 教えてないからです。 ≪お座り≫はしますが、それはエサで釣った時だけで、何も持っていない時に「お座り!」といっても、ほぼ無視されます。 ドッグ・スクールなどに連れて行けば芸を仕込めるのは分かっていますが、そんな気は毛頭ありません。 犬の芸というのは本来不自然なものだと思うからです。 人間の子供を「勉強が出来る」といって誉めるのと、犬を「芸が出来る」といって誉めるのは、似て非なる事柄です。 人間の学力は個人差が大きいですが、犬は心身に重大な欠陥が無い限り、どんな犬でも教えれば芸をするようになります。 芸が出来るか否かは、教えたか教えてないか、その一点で決まるのです。 「ならば教えた方がいい」と考える飼い主が多いわけですが、私の目から見ると、芸を仕込まれた犬は気の毒でなりません。 まさに、≪パブロフの犬≫そのもので、条件反射を刷り込まれているだけだからです。 パブロフ博士はあくまで学術的実験としてやったわけですが、それを普通の人間が飼い犬に押し付けるのは、残酷趣味の謗りを免れないでしょう。

  犬のしつけ方の本は無数に出版されており、そういう本を読むと、散歩の時の紐の持ち方まで事細かに指定してありますが、「よくもここまで型に嵌められるものだ」と、執筆者の精神構造に恐怖を感じないではいられません。 飼い主の左側にぴたりとついて、飼い主の歩調に合わせて歩く犬を見ると、犬は奴隷に見え、飼い主は鬼に見えます。 うちの犬は散歩の歩き方を全くしつけていないので、自然体の見本にしていいと思いますが、犬の歩く速度は人間の倍以上が普通です。 本当なら最も楽しいひと時であるはずの散歩の際に、わざと遅く歩かなければならない犬の苦痛は如何ばかりのものか。 そういうしつけを施された犬は、生きる喜びを99%奪われているといっても過言ではありません。 犬の散歩というのは、犬に勝手に歩かせて、人間はそれについて行くのが正しいのではありませんかね? 犬の為にやってるんですから。 犬を飼った事が無い人の為に申し添えれば、犬はオシッコの為に何度も立ち止まるので、勝手に歩かせても人間が追いつけないという事はありません。 足の弱い人でも、紐を長い物にすれば、充分対応できます。

  犬のしつけ方法に関する書物について、「あまりにも種類が多すぎ、あまりにも内容が違いすぎる。 中には全く正反対の事を書いてある本もあり、何が正しいのか分からない」といった指摘をよく聞きます。 これはどういう事かというと、これらのしつけ方は、すべて執筆者の個人的経験を元に考え出されたもので、科学的研究を経ていないという事です。 犬は本来、狩猟犬や牧羊犬など、人間の営みの補助をする≪道具≫として飼育されていました。 よって道具の使い方としてのしつけ方なら膨大な経験則が存在します。 しかし、愛玩動物としての歴史は浅く、また愛玩には個人の嗜好が強いので、一定の扱い方というのが決まっていません。 つまり、この種の指南書には、もともと存在に無理があるのです。 コーヒーの飲み方に喩えれば、無類の甘党に向かって、「コーヒーはブラックで飲まなければ味が分からない」と説教を垂れているようなものです。 甘党は甘さが欲しくてコーヒーを飲むのに、ブラックを勧められても苦笑いしか出来ますまい。 犬のしつけ本も同じです。 愛玩動物として飼っているのに、道具としての扱い方を指南されても困るではありませんか。

  犬を見ているとつくづく思うのは、家族として一緒に暮らしていても、やはり犬は≪お客≫なのだという事です。 ほんの数年滞在するだけで、いずれは去って行きます。 一期一会。 彼らの一生は長くても人間の七分の一しかありません。 他人に重大な迷惑でも掛けない限り、犬の好きなように暮らさせてやるのが良いと思います。 腹いっぱい食って、散歩を楽しんでいる幸せな犬には、芸もしつけも不要です。

2007/05/06

お蔵入り腕時計

  先日、腕時計を復活させた話を書きましたが、その勢いで、≪腕時計欲しい病≫に罹ってしまいました。 よくある≪手段の目的化≫という奴でして、本来、撮影に行く為に腕時計が必要だったのが、いつの間にか、撮影と関係なく、ただただ腕時計が欲しくなってしまったのです。 私だけでなく、そういうパターンでコレクションの蟻地獄に落ち込んで行く人は非常に多いと思いますが、これねえ、れっきとした心の病なんですよ。 神経症の一種ですな。 腕時計は高い物は天井知らずなので、新しい物をほいほい買い込んでいたのでは、あっという間に身上潰してしまいます。 そこで、無駄金使わず満足感を得る為に、机の引き出しに眠っていた他の時計の復活に走る事にしました。 いずれも買ったから20年以上たっている猛者揃いです。

  まず、高校入学前に父に買ってもらった、≪シチズンのソーラー・デジタル≫ですが、外観はキズ一つない状態で残っていたものの、復活には最初から黄信号が灯っていました。 ソーラー時計には、サイリスタという蓄電池が使われている場合が多いのですが、ボタン電池と違って規格品として流通しているわけではないので、四半世紀も前の時計では、とても交換部品がないと思われたからです。 時計屋さんに持っていけば、何か修理方法が見つかるかもしれませんが、向こうも初期のソーラー時計の構造などすっかり忘れているはずなので、分解してみなければ何とも言えないはずで、分解したはいいが結局修理不能と分かったとしたら、工賃だけ取られる事になりかねません。 ≪時計は直らん、金は取られる≫では馬鹿な話。 きっぱり諦める事にしました。 ちなみに、この時計、3万円くらいしたと思いますが、三年くらいで文字が消えてしまい、いくら太陽に当てても復活しないのでお蔵入りにしたという経緯があります。

  次に高校時代に母に買ってやった≪カシオの女物デジタル≫がありました。 8000円くらいでしたかね。 小遣いを溜めて買ってやったにも拘らず、「文字が薄くて見にくい」とさんざんケチをつけられ、結局、私が回収したという曰く付き。 かなりキズがついていましたが、ボタン電池なので、試しに交換電池を買って来て入れてみた所、まるまる20年ぶりに蘇りました。 これには感動! でも確かに文字が薄い・・・。 説明書を紛失していましたが、まあ時計の使い方なんぞ、あれこれいじっていれば分かってくるものです。 この時計、≪時分≫と≪月日≫の切り替えの他に、当時流行った≪デュアル・タイム≫という機能が付いていました。 主時間の他にもう一つの時分設定が出来て、時差にも対応できるというものです。 すっかり忘れていたので、「こんな機能、何に使うんだ?」としばらく悩んでしまいましたよ、わはははは!

  三番目は、最も思い出深い、≪カシオの薄型デジタル≫。 20年程前、≪ペラ≫という名前の時計が売り出されたんですが、その後継機種の一つです。 カシオは膨大な種類のデジタル時計を発売しているので、まあその中の一つだと思ってください。 厚さが5ミリくらいしかない上にオール・プラスチックで滅法軽いので、私のお気に入りでした。 若い頃、東京の専門学校に一年間通っていたのですが、そこを中退して、「これでもう東京に来る事はあるまい」と思った最後の日に、東京駅の地下街にあった時計屋さんで、これを買ったのです。 2000円か3000円くらいだったと思います。 当時すでにデジタル時計は値崩れしていて、最新型でも捨て値同然で売っていました。

  その後今の会社に入ってから、オペル時計を入手するまでの12年間この時計を使っていました。 間に三年間電車通勤していた時期があるのですが、すっかり忘れているものの、時計無しで電車通勤するとは思えないので、たぶん毎日これを着けて行ったのでしょう。 バイクに乗り始めてから数年間、連休ごとに本州・九州・四国の海岸線を回るツーリング出かけましたが、その時にもしていきました。 私の人生の中で、最も長くつきあった時計と言えます。

  ボタン電池なので本体は簡単に復活させられますが、残念な事に、プラスチック・ベルトが切れてしまい、お蔵入りにしていたのです。 このベルト、バネ棒を使う普通のタイプとは違っていて、横からスライドしていれるタイプなんですが、こんな特殊なベルトはどこを探しても売っていません。 カシオのサポート・センターに電話しても、「7年前くらいまでの部品しか保存してません」との返事。 取り付け基部だけ自作しようと試みましたが、細かい加工が出来ずに失敗を繰り返し、結局諦めました。

  他にも、人材派遣で働いていた頃から専門学校時代にかけて使っていた≪アルバのソーラー・デジタル≫というのが、本体のみ残っていましたが、これは分解するように出来ておらず、壊れたら捨てる事を前提に設計されたようなので、最初から直す気になりませんでした。 この時計も2年くらいで文字が消えてしまったような記憶があります。 ソーラーというのはおよそ使えませんなあ。 最近の時計は、≪電波ソーラー≫というのが流行っているそうで、「電池交換不要」などと書いてありますが、私は全っ然信用していません。 宣伝文句に乗って買った人は、数年後に私と全く同じ見解を持つに至ると信じています。

  それと、もう一つ。 植木屋見習いをしていた時に400円で買った時計がありました。 どうせキズがつくので安ければ安いほど良いと思って、特売品を買ったんですが、一ヶ月もしない内に死にました。 安物だったからというよりも、たぶん非防水だったんでしょう。 着けたまま手を洗ったりしていたので、水滴が入って回路がショートしたのだと思います。 今、見直しても、どこにも≪防水≫を示す文字がないので、まず間違いありません。 説明書をよく読まなかったのが悔やまれます。 ちなみに、現在売っている100円ショップの腕時計はみんな非防水なので、濡らしたらアウトです。 逆に言うと、濡らしさえしなければ、壊れるような事はありません。

  他にも若い頃に買った時計はあったんですが、いずれも壊れた後に捨ててしまったようで、残っていませんでした。 どの時計にもそれぞれ思い出があるので、とっておけばよかったと今では後悔しています。 結局、復活させられたのは≪カシオの女物デジタル≫だけでしたが、問題はこれをどう使うかですな。 せっかく生き返らせたんだから、使ってやらなければ可哀想ですけんの。