2009/04/26

あぶれ組

  景気悪化の影響が身辺に及ぶこと着々たるものがあり、いつの間にか私も、世界不況の桧舞台に躍り出てしまいました。 しかも、主役ですよ、主役! もっとも、この場合、主役は世界中に何億人といるわけですが。

  私の勤め先は、典型的な製造業の工場なのですが、今まで、早番と遅番の二直体制で操業していたのが、四月半ばから、一直になってしまいました。 よく、テレビ・ニュースや新聞記事で、「○○メーカーは、生産量の減少に伴い、国内の全工場で一直化を進め・・・」などと、お気楽に表現してくれちゃっていますが、ほんとに意味分かって言っとるんかいのう?

  二直が一直になるという事は、単純に計算して、工場の人員が、半分要らなくなるという事です。  実際には、ライン・タクト、つまり、生産ラインが流れるスピードの事ですが、それを速くして、その分、工程数を増やし、あぶれた人員を吸収しますが、それでも、全体の三割近くは仕事を失います。 大きい工場だと、三千人とか五千人とか働いているのも珍しくありませんから、その三割が遊休人員になるという事が、どれだけ重大な異変か、門外漢でも想像できようというもの。

  家電メーカーなどは、二直の一直化に留まらず、工場の統廃合まで、ザクザクと進めてしまいましたが、話に聞くのは他人事、実際に体験するのは大ごとでして、単に働き口が確保できればいいというものではなく、勤め先が変わるとなれば、生活のほぼ全てが激変します。 家から通えるのか、寮に入らなければならないのか、場合によってはビジネス・ホテル暮らしか、下手すればアパートに雑魚寝か。 住居一つとっても、膨大な量の難題が一挙に押し寄せてくる事になります。

  また、別工場に移れば、今までして来たのと同じ仕事があるわけは無いので、新しい仕事を一から覚えなければなりません。 役付きだった人達も、ヒラからやり直し。 十歳以上若い上司の下に付き、「君(クン)」付けで呼ばれて、手取り足取り、仕事を教えてもらわなければなりません。 とりわけ、出世コースをひた走っていた人達は、プライドが高いので、こういう過去のキャリアを無視されるような扱いには耐えられません。 会社から、「辞めてくれ」と言われなくても、環境の変化に対応しきれずに、半分近くが自ら辞表を書きます。

  機械設備ですら、買い手が現れなければ、移設先が無いまま朽ち果てるのみですが、私生活を引きずって生きている人間が、「ほい、あっち行け」、「やれ、こっちに来い」などと言われても、そうそう身軽に対応できるものではありません。 飛行機に乗らなければ帰って来れないような遠くの工場に行かされた日には、目も当てられないです。 家族とも離れ離れで、満足な食事も取れず、健康状態は悪化、気分も落ち込んで、いとも容易に鬱病にかかります。 挙句の果ては、自殺者予備軍。 人生が変わってしまうのですよ。 工場が閉鎖されるというのは、そういう事なんですな。


  一般論はこのくらいにして、現在の私の状況ですが、一直化に伴い、ラインから外され、あぶれ組に入ってしまいした。 やばいで、こりゃ・・・。 最初は、「外れるといっても、工程を担当しなくなるだけで、ラインの中で検査のような仕事をやり、一ヶ月交代で工程に戻れる」という話だったんですが、いざ一直になってみると、完全にラインから引き剥がされて、≪品質改善部門≫という全く別の部署に組み入れられてしまいました。 話が違うじゃん! まったく、いい加減な!

  この品質改善部門、私の所属部署だけでも、百人くらいいるんですが、それが全員、あぶれ組です。 全社では、千人近くに上るに違いありません。 その内の半分くらいがヒラで、残りの半分が管理職。 ライン作業に必要なのはヒラの作業者でして、管理職は最も多くあぶれているため、こういう比率になるようです。 ≪品質改善部門≫という名前は付いていますが、実際には、あぶれ組に格好ばかりの仕事を与えるのが目的の、≪容れ物≫部署に過ぎません。 

  品質改善部門は、いくつかの班に分かれており、私が入れられたのは、製品に付く汚れを減らす、≪汚れ班≫です。 そんな仕事、やった事ないっすよ! そもそも、二直体制の時には、そんな班は存在しなかったわけで、本来は必要ない仕事なんですな。 それが証拠に、活動開始以来、二週間経ちましたが、何の成果も上げていないにも拘らず、どこからも文句が来ません。

  特に今週の後半など、私の日課と言ったら、詰め所に籠もって、他の人がやっているパソコンの入力作業を、傍から見ているだけでした。 時折、あからさまに居眠り扱いていましたが、それを見ている周りの人達も、仕事をやっているフリをしている者ばかりだったので、注意一つ受けませんでした。 もし、「こら、おまえ! 何しに会社に来ているんだ! 仕事をしろ!」と言われたら、「じゃあ、ラインに戻して下さい」と答えるだけです。 みんな。それが分かっているから、何も言わないのです。

  むしろ、あぶれ組にバリバリ仕事をやられては困るのですよ。 たとえば、汚れ班だったら、最終的な成果は、ライン作業者に汚れを出さないような作業方法を指導する事ですが、作業者というのは、汚れだけに気をつけて働いているのではないのであって、まず、製品を作るのが第一、次いで、その速さ、作業忘れをなくす事、キズをつけない事などが続き、汚れなどは、ずーっと重要度が低くなります。 だって、汚れは、拭けばとれるものね。 それを、「作業内容を変更してでも、汚れを無くしてくれ」なんて、強く言えないでしょう? そう考えて来ると、汚れ対策専従班なんてものが存在する事自体がおかしいのですよ。

  この班は8人ほどいるんですが、ヒラと管理職の比率は、やはり半々。 管理職が一つの班の中に4人もいると、どうなるか? 「船頭多くして船山に登る」とは、よく言ったもので、何をするか決める時に、方針が決まりません。 めいめい勝手に意見を述べて、人の言う事など聞かず、バラバラに動きます。 各工程に出向いて、作業を観察し、チェック表を作るのですが、これがまた、人によって書き方が全部違うと来たもんだ。 「まず、書式を統一してから、調査を始めたらどんなもんですかね?」というような、至極当然の事を、遠回しに匂わせても、もちろん、耳を貸す人はいません。 お山の大将だった人というのは、とにかく、自分の意見が一番正しいと思っているので、他人の指図では動きたくないのです。

  更に凄いのが、メンバー間の陰口です。 ほとんどが互いに面識が無かった人達なんですが、おとなしくしていたのは最初の三日くらいで、人間関係に慣れて来ると、休んでいる人や、その場にいない人を魚にして、悪口を並べ立てるようになりました。 自分があぶれ組に堕ちた惨めさを、より惨めな者を貶める事で紛らわせよとしているのでしょう。 もう、ボロクソな人格攻撃を繰り広げます。 一応、その場にいる人優先という事で割り切って、私も適当に相槌を打ってますが、正直言わせてもらうと、別段遺恨も無い人の陰口なんざ、やめた方がいいですぜ。 そんな事をしていたら、自分がより惨めになるだけなんじゃないの?


  会社のカレンダーでは、ゴールデン・ウイークの前に、来週、月火と出勤日あるのですが、あまりにもやる事が少ないので、その二日間、有休を取ってしまう事にしました。 つまり、この土日から5月5日まで、11日連休という事になります。 家にいても、やる事は無いんですが、会社に行って遊んでいるよりはマシでしょう。 私は、どちらかというと怠け者の方ですが、さすがに、喜々として給料泥棒するほど性根が腐ってはいません。 こういう境遇になってしまった以上、「なるようになれ」とは思っていますが、「遊んでいて給料貰えるなら、その方がおいしいではないか」と考えるようになったら、人間失格してしまいそうではありませんか。

  一直化した直後、5月中旬から二直に戻る話や、社内の別工場へ応援に行く話などが出ましたが、いずれも噂の域を出ず、二週間経った現在、両方とも否定されて、今度は6月下旬からの親会社への応援話が浮上して来ました。 二直に戻る方に期待を掛けていた人が多かったので、ガックリという感じです。 他工場への応援なんて、できれば行きたくないのです。 一時的にせよ、人一人が住居を変えるというのは、本当に大変な事だからです。 親会社への応援の場合、年齢や健康状態の制限があるので、私は行かないで済む可能性が高いのですが、それはそれで、まだ数ヶ月間、このあぶれ状態が続く事を意味するわけで、やはり歓迎できる事ではありません。 やれやれ・・・。


  テレビを見ていると、「景気は底を打ちつつある」などと軽々しく口にしている人がいますが、何を根拠にそういう事を言っているのか、見当も付きません。 輸出産業の現場感覚では、事態は悪くなる一方です。 景気底打ちの証拠として、「在庫調整が進み、休業日の数が減っている」などと報じている番組もありましたが、調査不足から来る、的外れな分析ですな。 五月以降は、確かに休業日が減りますが、代わりに時短で毎日早引けするのであって、実働時間は変わらないのです。 輸出が回復しないのに、生産量が増えるわけねーだろ、バカタレ! 作った物をどこへ捌くんじゃい? 埠頭に雨曝しで並べとくのか?

  G7にしてからがそうですが、現段階では景気が回復するはずがないのに、「もう回復する。 その内、回復する」って言わない方がいいと思いますぜ。 日本のバブル崩壊の後が、全く同じだったではありませんか。 大勢のエコノミストが、機会さえあれば、同じセリフを口にしていました。 でも、10年以上、回復しなかったのです。

  「市場経済は信用で動くものだから、人々に希望を感じさせれば、それが呼び水となって、実際の景気も回復してくる」という計算で、民衆を導こうとしているのでしょうが、バブルというのは、本来、≪無い≫ものを、人々が、≪ある≫と思い込んでいたのが、結局、≪無い≫と分かった為に、崩壊したわけですから、今更、≪ある≫かのように吹聴しても、実際には、≪無い≫事をみんな知ってしまっているわけで、いくら言葉で唆しても、もう騙せないでしょう。

2009/04/19

信用できぬ信用

  バブル崩壊が起こっている時、世間を観察していてつくづく思うのは、市場経済システムというのが、大掛かりなネスミ講に過ぎないのではないかという事です。 マルチ商法と言ってもいい。 とにかく、その本質は、相当怪しげな代物だと思うのです。 ただ、あまりにも大規模なので、正体に気付かない人が圧倒的に多いというだけで。


  バブル崩壊によって景気がどんどん悪化している状態の解説を求められると、エコノミストは決まって、「市場に対する信用が失われているからだ」と言います。 エコノミストの言う事は、あまり信用できないんですが、こういう状況の分析に関しては、多くの人の意見がほぼ一致しているので、そこそこ信頼性が高いです。

  ちなみに、経済学というのは、内容正反対の理論がどちらも定説として罷り通っていたりする、相当いい加減な学問です。 ≪エコノミスト≫という言葉も、本来は、≪経済学者≫という意味であるにも拘らず、大学や研究機関に在籍している者だけでなく、企業に雇われている経営顧問や、経済誌に記事を書いている程度の一般研究者まで含む、この上なく便利な呼称です。

  経済学がいい加減である事の単純な証拠は、経済動向の予測が出来ない点に明確に現れています。 過去の出来事を分析して、「こういう理由で、こうなったに違いない」と言う事なら出来ますが、未来の事となると、「こういう理由で、こうなるに違いない」と言う事が出来ないのです。 いや、単に言うだけなら出来ますが、それが当らないんですな。 大概のエコノミストが、予測を外します。 たまーに、当る場合があって、バブル崩壊のような大規模な変動を言い当てたりすると、預言者として持ち上げられ、ノーベル賞を貰ったりしますが、そんなのは、まぐれに決まっています。 賞をやるどころか、無責任な予測で世間を騒がした罪で逮捕するくらいが、妥当な扱いというものでしょう。 統一された学問理論が成立していないのに、未来予測なんて、出来るはずが無いのです。

  話を戻しますが、バブル崩壊後の景気後退が、市場の信用失墜から起こる事だけは、確かなようです。 一般的な意味での、≪信用≫というと、そんなに大仰な事ではないような感じがしますが、経済の世界では、信用は極めて重要なんですな。 ほれ、人間、お金が絡んでくると、考え方がシビアになりますから。 明らかに、返済能力が無いと思われる人物に、お金を貸したりしないでしょう?

  「そういう人間に貸す時には、返って来ない事を覚悟して貸すんだ」などという人もいますが、そんな利いた風な処世訓に頼るより、借金話を持ち出されたら、友情も信頼関係も御破算にして、鐚一文貸さない方が、ずっと賢明ですな。 お金の大切さが分かっていないんじゃないの? たとえば、稼ぐのに一年かかる金額だとして、それを、「返って来ない事を覚悟して貸す」という事は、すわなち、自分の人生を一年間捨ててしまった事になります。 では、借りる側が、相手の人生の中の一年間を借りるつもりで来ているのかというと、そんな事は全然無いわけで、ただの札束としか思っていません。 この感覚のズレが、いざ返済期日が来た時に、猛烈な軋轢を生むのです。 あんたねえ、たとえ、1万円くらいでも、踏み倒されたなんて事になったら、その記憶が一生頭から離れないよ。 一万円札を見るたびに、思い出して、死ぬまで憤激しながら暮らす事になるのです。

  おっと、話を戻した途端に脱線しとりますな。 また戻しましょう。 基本的に、個人レベルでも、企業レベルでも、金融機関レベルでも、お金の貸し借りに関わる信用は、同じような働きをします。 「あの銀行、不良債権を処理できないらしい。 事によったら、潰れるかもしれないぞ」という噂が広まると、取引先や顧客の信用が無くなってしまって、ますますお金を集められなくなり、本当に倒産します。 潰れたら、貸した金が戻らないのですから、警戒するのは当たり前ですな。 ≪風評被害≫というのがありますが、噂の元が根も葉もないか根や葉はあるかの違いに過ぎず、信用失墜によって大損害を出したり倒産に至ったりする原理は変わりません。

  金融機関ほどではありませんが、一般企業同士の取引も、かなりの程度、信用の上に成り立っています。 損をする危険性がある場合、担保を取っておいたり、取引先を変えたりするのは、普通の事です。 誰からも信用されなくなってしまったら、個人同様、金融機関や企業も、お金が入らなくなって、死ぬしかないんですな。

  この、極めて重要な、≪信用≫が、社会全般で失われると、景気の悪化が起こります。 誰も他者を信用しなくなるので、物を買う人がいなくなって、経済活動が鈍ってしまうのです。 ちなみに、バブル経済というのは、信用が上がり過ぎた状態の事と言っていいです。 「これに投資すれば、必ず倍になって返って来る!」なんて話には、分厚い信用がなければ、とても乗れませんわなあ。 ところが、そんなうまい話がいつまでも続くわけは無く、常識のある人達が少し警戒して財布の紐を締め始めると、「あれ? もしかしたら、天井を打ったかな?」と、みんなが感じ始め、互いに与え合っていた信用がさーっと冷めて行き、バブルが弾けるというわけです。


  信用が屋台骨を支えるシステムの典型例が、≪ネズミ講≫や、≪マルチ商法≫です。 どちらもほぼ同じですが、≪ネズミ講≫の方は、お金だけの話でして、≪マルチ商法≫は、何かしら商品が介在します。 ≪ネズミ講≫の方を例にして、仕組みを簡単に説明しますと、名目は何でもいいから、とにかく会を作ります。 そして、最初の一人が次の三人から、会費を千円ずつ集めます。 すると、最初の一人は三千円手に入り、次の三人は千円ずつ損をする事になります。 しかし、次の三人それぞれが、また別の三人から千円ずつ集金すれば、損を取り戻した上に二千円の得になります。 これを樹状図式に、どんどん広げていくのです。 実際には、もっと複雑な仕組みになっていて、初期の会員ほど得が大きくなるように作られています。

  ≪マルチ商法≫も、会費が商品代金に変わるだけで、全く同じです。 樹状図式に参加者が増えて行く点は、≪不幸の手紙≫にも似ていますが、ちょっと違うのは、≪不幸の手紙≫が、「不幸から逃れたい」という恐怖心を利用して広がって行くのに対し、≪ネズミ講≫や≪マルチ商法≫は、「会に参加していれば、どんどん金が入って来る」という、システムへの信用の上に乗っている事です。

  もちろん、≪ネズミ講≫も、≪マルチ商法≫も違法です。 なぜ、違法になっているかというと、破綻する事が分かっているからです。 もし、こんなシステムが無限に広まって行けるのであれば、誰も損をしないわけですから、違法にする必要はないわけですが、駄目駄目! これには限界があるのですよ。 絶対確実に、破綻します。

  世の中に生きている人間を、おおまかに三分割しましょう。 ≪騙され易い人≫、≪騙され難い人≫、そして、≪中間の人≫の三つ。 便宜的に、それぞれ、三分の一ずつの人数を占めるとします。 ≪ネズミ講システム≫にすぐに引っ掛かるのは、当然、≪騙され易い人≫です。 つまり、三分の一は、ほぼ無抵抗で入会してくるわけで、この期間に会は急成長して、口コミで世間の話題になるような大きな信用を築きます。

  ≪騙され易い人≫が全部入会してしまうと、今度は、≪中間の人≫へ触手を伸ばして行きますが、この層は、幾分用心深いので、成長速度が鈍ります。 鈍って来ると、お金の集まりが悪くなり、速度が遅いのを数でカバーしようと、≪騙され難い人≫にまで、声を掛け始めます。 ところが、何せ彼らは、騙され難い人達ですから、≪ネズミ講≫である事を一発で見抜いてしまい、入会しないどころか、「そんなの、破綻するに決まってるじゃん。 もし、人類全員が入会したら、最後に入った会員は、一体誰からお金を集めるのさ?」などと、鋭い指摘をバシバシ突きつけます。

  すると、≪中間の人≫はもちろん、≪騙され易い人≫も、激しく動揺せずにはいられません。 なにせ心も頭も弱いので、筋の通った指摘には反論のしようがなく、もはや、新規の勧誘どころではなくなって、顔色真っ青。 一旦、システムへ信用が崩れると、脱会する者が続々と出始め、一気にピラミッドが崩れて行きます。 詐欺事件として、マスコミのニュース・ネタになるのは、大抵この頃ですな。


  でねー、この、≪騙され易い人≫、≪騙され難い人≫、≪中間の人≫のパターンが、もっと大規模な、≪市場経済≫にも、そっくり適用できると思うのですよ。 バブル絶頂期には、≪騙され易い人≫がたくさん世間に露出してましたよねえ。 打ちっ放しにすら行かないくせにゴルフ会員権を買ったり、住みもしないマンションを投機目的で買って掃除婦代わりに愛人を囲ったり、乗りもしないフェラーリを倉庫に安置してプレミアが付くのを待っていたり、ズブの素人なのに近所の奥さんの真似をして株式取引に手を出したり、NTT株を一株だけ買って値段の上下に一喜一憂したり・・・・、今から考えると、アホ丸出しな人達が、うにょうにょ蠢いていました。

  そういう、≪騙され易い人≫が急増殖するのが、バブル景気なんですな。 ところが、投資ブームが、少し慎重に物事を考えられる、≪中間の人≫層に波及すると、ブレーキが掛かり始めます。 おいそれとは、お金を出そうとしなくなるわけです。 そして、経済の拡大が止まる事を恐れて、≪騙され難い人≫にまで声を掛け始めると、何せ、騙され難い人達ですから、バブルである事を一発で見抜いてしまい、投資話に乗るどころか、「こんなの、崩壊するに決まってるじゃん。 もし、人類全員が金持ちになったら、誰が働くのさ?」などと、鋭い指摘をバシバシ突きつけます。

  一度、不安が芽生えると、見る見る信用が失われて、バブルなんぞ、たちまち弾けてしまいます。 信用というのは、恐ろしいほどに、脆いものなんですな。 そして、市場経済は、その不安定極まりない、信用の上に乗っかっているわけです。 今回の世界経済危機も、全く同じ。

  信用が失われるのは恐ろしいですが、過度に信用が上がるのも宜しくない。 本来、信用してはいけない相手にまで、お金を貸すようなもので、踏み倒されたり、不良債権化したりすると、始め信用が高かった分だけ、失墜の度合いも大きく、大損害が出ます。 騙された人間が多いほど、また、失なわれた資産の総額が大きいほど、経済活動の冷え込みも大きくなります。 

  と、ここで、こう思う人も多いでしょう。 「問題は、信用が失われた事なのだから、嘘でもハッタリでも、全員で、「儲かる、儲かる! 天井知らずだ!」と浮かれ騒げば、信用が戻って、景気が回復するんじゃなかろうか?」と・・・・。 実際に、アメリカを始め、世界の国々が現在行なっている景気刺激策は、そういう路線のものです。 金融機関や民間企業の経営を公的資金で支えて、経済規模の縮小を阻もうとしているわけです。 「いざとなったら、政府が金を出すから、大丈夫だ! どーんと信用してくれ!」と言いたいわけだ。

  しかしねえ。 それは、結局、≪過度の信用≫を復活させようとしているだけなんじゃないですかねえ? 現在、公的資金で助けられている金融機関や民間企業は、もし市場原理に任されていたら、すでに倒産していた所ばかりです。 つまり、それらの会社に対する信用は、ゼロになっていたわけですな。 それを政府の力で、無理やり持ち上げて、健全な経営状態のように見せかけているだけであって、これは、≪過度の信用≫以外の、何ものでもありますまい。

  今ごまかしていても、過度である限り、いつかまた、信用は失墜します。 大損をした経験が無い者は、騙されている事になかなか気付きませんが、一度経験すると、危険に敏感になりますから、次の信用失墜が、何十年も先という事は無いと思います。

2009/04/12

異常尽くし

  あっさり通り過ぎてしまったので、「このまま忘れてしまってもいいかな」と思っていたんですが、何かしら触れておかないと、わざとその話題を避けていると思われるのが心外なので、一応、私の考えを書いておきましょう。 日本で、3月後半から4月5日まで、半月ちょっとほど続いた、大・空騒ぎの事です。

  基本的に・・・、いや、基本も特例もありませんが、宇宙ロケットを打ち上げる権利は、すべての国にあります。 そして、近隣の国が打ち上げるからといって、反対する権利は、どの国にもありません。 ましてや、自分の国が宇宙ロケットを恒常的に打ち上げているにも拘らず、近隣の国が打ち上げるのを批難するのは、まるで筋の通らない、常識を疑われる要求というものです。 個人に譬えれば、精神異常者の反応ですな。

  次に、当の国が、「宇宙ロケットを打ち上げる」と言っているのに、それを、「弾道ミサイルだ」と決め付けるのは、やはり異常です。 一体、何を根拠に、それを弾道ミサイルだと断定しているのか、全く見当がつきません。 自分で制作に携わっているか、計画に関与しているか、もしくは、諜報員でもなければ、それが弾道ミサイルだという証拠を手に入れられますまい。 裁判でも、基本は、「疑わしきは罰せず」ですが、こんな簡単な応用を利かせる事すら出来ないとは、裁判員制度施行を前にして、大変心許ない。 明確な証拠も持っていないくせに、見て来たような断定を下すのは、事が重大な問題だけに、講釈師より性質が悪いです。

  「過去の例から言って、弾道ミサイルに決まっている」という人に訊きたいのですが、一体、過去のどの例の事を言っているのかな? 朝鮮が長距離誘導ロケットを打ち上げたというと、今回を除くと、二回だけですが、いずれも予告無しでした。 二回目の時には、撹乱用に複数の短距離ミサイルを同時発射している点から考えて、ほぼ確実に弾道ミサイル実験だったと見做せますが、その時は、予告が無かったのです。 今回は、宇宙ロケット打ち上げの国際慣例に従った予告があったわけで、明らかに前回とは違います。 この事実から、ごく自然に導き出せる法則は一つしかありません。 「弾道ミサイル実験なら予告が無い。 宇宙ロケットなら予告がある」 ところが、日本では、最初から、弾道ミサイルと決め付けていました。 政府も、マスコミも、民衆もです。 論理的思考のかけらも無し。 ある意味、驚嘆に値する現象ですな。

  次、≪弾道ミサイル≫と、≪弾道ミサイル実験≫を混同してるケースが、非常に多く見られました。 いや、正直に言わせて貰うと、日本人のほとんど全員が、この両者の区別をつけずに、あれこれ意見を表明していたと言うべきでしょう。 この二つは、どう違うのか? 大違いです。 ≪弾道ミサイル≫を撃ったら、弾頭が付いているわけですから、落下地点が外国ならば、即、軍事的攻撃になります。 「事故だった」と通告して、謝罪や遺憾の意の表明をしないと、宣戦布告と取られても仕方ありません。

  しかし、≪弾道ミサイル実験≫であれば、ロケットの能力を試すのが目的ですから、普通は弾頭はつけません。 長距離弾道ミサイルの場合、最大で地球を半周するほど飛びますから、外国の領土や領海を通過しないわけには行きませんが、その事で国際的な問題になったという事例はあまり聞きません。 ただの実験であって、攻撃ではないのですから、まるで、戦争でも起こるかのように大騒ぎする国など無いわけです。

  「宇宙ロケットと、弾道ミサイルは同じ技術だ」というのは、確かにその通りですが、だからといって、≪宇宙ロケット=弾道ミサイル≫という事にはなりません。 それでは、「日本が打ち上げている宇宙ロケットも、すべて弾道ミサイルだ」と、自分で言っているようなものです。 実際に、日本の宇宙ロケットも、弾道ミサイルの技術開発を兼ねている可能性が低くありませんが、だからと言って、外国が、「日本が打ち上げている宇宙ロケットは、弾道ミサイルだ」と言ったら、「何を馬鹿馬鹿しい事を言っているのだ?」と思うでしょう。 それと同じ事を、日本も朝鮮に対してやっているわけです。 確かに馬鹿馬鹿しい。

  さて、百歩譲って、今回の長距離誘導ロケットが、宇宙ロケットではなく、弾道ミサイル実験だったとしましょう。 それが、何かいけない事なのかな? アメリカは、恒常的に弾道ミサイル迎撃実験をやっていて、標的として、本物の弾道ミサイルから弾頭を外した物を使っていますが、それを批判する国はありません。 ちなみに、日本もその実験に参加しています。 なぜ、アメリカや日本がやるのはよくて、朝鮮がやるといけないのか、その理由を説明できますか? 現在の世界では、国の上に、それらを統括する上位の存在は無く、国の立場は全て対等です。 アメリカや日本だけが、特権を持っているわけではありません。

  「安保理決議違反だから」? あはははは! アホけ? その安保理決議自体が、おかしいんだよ。 おかしいのは、もう、そこから始まっているのです。 だからよー、第二回目の長距離誘導ロケット発射の後に、安保理で朝鮮に対する批難と制裁決議が行なわれたわけですが、それは、安保理が勝手に決めた事であって、朝鮮が受け入れたわけではありません。 安保理は、専らアメリカが動かしているのですから、反米国家敵視の決議が通りやすいのは当然でして、そんなのは公正とは言えますまい。 更に根本を糺せば、安保理のシステム自体がおかしいです。 一部の国だけが特権を持っているのでは、それらの国に有利に事が運ぶに決まっています。

  本来、国際社会における全ての国は対等であるにも拘らず、国連という組織が安保理に不平等なシステムを持っている為、一部の国が、自国に特権があるものと思い込んでしまっているのです。 「現実には対等」、「国連というフィルターを通してみると不平等」、そのギャップが、今回の日本に於ける馬鹿馬鹿しい騒ぎの原因の一つになったのは疑いありません。 大体、≪制裁≫とは何事だ? 何様のつもりだ? 一国として、他の国に対して、≪対抗措置≫なら取れますが、制裁などという上から見下すような行為は、どんな国も取れないのです。 立場は、対等なのですから。 分かるまで何回でも言うよ。 対等なんだよ、対等! た~い~と~おっ!

  あー、ちなみに、国連は国際的問題の調停の場に過ぎず、国々を超越した権威ではありません。 本来なら、≪国連軍≫などという組織もおかしいです。 国連軍が、国連加盟国の領土内に展開する事がよくありますが、一体、誰の許しを得てやっているのか、考え出すと夜も眠れません。 その国の許可が無ければ、外国の連合軍による侵略と選ぶ所がありますまい。 まして、国連軍が、国連加盟国の軍隊と戦うなど、蛇が自分の尻尾を喰っているようなものです。 加盟国があってこそ、国連が成り立つのであって、特定の加盟国を、国連軍が攻めるのがアリとなれば、加盟国などなくなってしまいます。

  そういえば、国連軍と多国籍軍を混同している人も、嫌になるほど多いですが、全然違うので、ちゃんと区別するように。 どこが違うかというと・・・・・、あー面倒臭い! 自分で調べな! 調べても分からなかったら、それだけの知能しかないのですから、スパッと諦めて、今後は国際問題について意見を述べようなどと考えない事です。 恥を掻くだけじゃて。 ≪コードギアス≫や、≪ガンダム00≫を見て、「パワー・ゲームだな~」などと感心しているようでは、寿命が300年あっても基礎レベルまで辿り着けませんから、つまらん事に首を突っ込まず、自分の身の周りの心配だけして、一生を終えなされ。


  話を元に戻します。 「たとえ、宇宙ロケットだとしても、日本の領土の上を通るのは不愉快だ」と言った政府高官がいましたが、それなら当然、日本の宇宙ロケット打ち上げも控えるのだろうね。 日本のロケットも、太平洋諸国の領土上を、バンバン通ってるからねえ。 ははは、もしかしたら、太平洋には、国が無いと思ってる人がいるかな? いそうだから、怖いな。 何年か前に、日本のロケットが連続失敗して、その内の一回は、かなりの高度に達してから制御不能になって、自爆させましたが、あれも、落下地点の事を考えた上でやったんだかどうだか。 爆破した後で、破片がどこへ落ちるかなんて、計算のしようがないものねえ。

  自分の国は、平気で外国の上にロケット飛ばしているくせに、外国が自国の上にロケットを飛ばすと、怒るのかい? 一体、何を基準に、善悪の判断をしているんだ? 自分に都合が良い事は善で、都合の悪い事は悪のなのか? 原始人か? 無人島のヌシか? 生まれてこの方、公正・不公正について、一度も真面目に考えた事が無いのか?

  「そんなこと言ったって、現実に破片が落ちて来たら、危ないだろう。 重大問題じゃないか」 いやいや、落ちて来る物体が危ないというなら、航空機の方がよっぽど危ないです。 住宅地はもちろん、大都市の上空ですら、連日連夜、何千機の航空機が飛び交っているか分かりませんが、それらのすべてに墜落や部品落下の危険性があります。 「そんなのは、国の許可を得て飛んでいるのだから、問題無いのだ」と言いますか? 自分の頭の上に落ちてきても、まだ問題無いと言うかな? 実際、戦闘機やヘリコプターが住宅に突っ込んで、大悲劇になった事例がうじゃうじゃあります。 毎日毎日、定期的に何千と飛んでいる航空機には眉一つ動かさないくせに、数年に一度上空を横切るのロケットにめくじらを立てるのは、正に、感覚異常というものでしょう。


  今回の一件で、私が最も震え上がったのは、日本政府が、「領土上に落ちて来たら、破片を迎撃する」方針を打ち出した事です。 実際に迎撃ミサイルが移動・配備されましたが、ほとんど、狂気の沙汰としか思えませんでした。 たとえば、太平洋諸国が、「日本が宇宙ロケットと称して、弾道ミサイルを発射するから、迎撃態勢を整える」と言い出したら、ぎょっとするでしょう。 「どうして、そんな物騒な話が出てくるのだ?」と、脂汗が流れるでしょう。 しかし、日本が今回やったことは、それと全く同じですぜ。 たとえ、弾道ミサイル実験であっても、外国が打ち上げた物を、他の国が撃墜したら、重大問題です。 逆に宣戦布告をしたと取られても仕方ないほどのね。

  政府の方針には、「領土上に落ちて来たら」という条件がついていましたが、マスコミの手にかかった途端、そんな条件は消えてしまい、「発射したら撃墜する」に変わってしまったのが、輪を掛けて恐ろしい。 実際、マスコミから情報を受け取った民衆の雰囲気は、「迎撃ミサイルで撃墜すれば大丈夫」といった、戦時下そのものの感覚でした。 一体、どこでどんな函数に掛かれば、≪宇宙ロケットの打ち上げ≫が、「撃墜すれば大丈夫」などという感想を惹起するのか、空恐ろしいにも程があります。

  日本のマスコミが、最初から今現在に至るまで、一度も、≪宇宙ロケット≫という言葉を使わず、≪弾道ミサイル≫で押し通している点も、その執念深さに、ほとほと呆れ果てます。 恐らく、「日本政府がそう言っているから」と言うでしょうが、それは嘘でしょう? あんたらの頭の中に抜き難い偏見があって、「朝鮮のやる事は全て悪事だから、宇宙ロケットというのはごまかしで、弾道ミサイルに決まっている」と、思い込んで、信じ込んで、他の可能性が頭に浮かばないのでしょう?

  しっかし、報道機関なんて言っても、客観視点なんぞ、かけらも見当たらないねえ。 なんなんだ? 本当に報道の自由がある社会のマスコミなのか? 週刊誌、ワイドショー、報道番組、新聞、揃いも揃って、政府に右倣えしているのは、不気味極まりないです。 戦中・戦前とどこが違う? それにとどまらず、政府の言う事を増幅し、民衆を煽り立てているのだから、始末が悪い。 そりゃ、騒ぎが大きくなればなるほど、マスコミの得は大きいけどねえ。 企業や政治家の倫理をどうこう言う前に、まず自分の襟を正すべきなんじゃないの?

  今までにも何度も指摘しているように、マスコミ関係者というのは、文系の吹き溜まりでして、科学技術知識は皆無、理工系の常識も絶無に近いです。 番組を作っているスタッフにしてからが、ロケットとミサイルの区別が分からず、記事を書いている記者にしてからが、≪確率≫の概念など持ち合わせていないのですから、嘘でもこじつけでも、個人的妄想でも、平気で報道します。 今回は特別にひどかったですなあ。 北京五輪のキチガイ報道以上だよ。 なにせ、一触即発の戦争寸前まで行ってしまったわけで、その責任の60%くらいがマスコミにあります。 残りの20%が政府、20%が民衆といった所でしょうか。

  民衆も民衆だよねえ。 なるほど、こういう民族なればこそ、≪外国人皆殺し戦争≫なんぞ始めたわけだわ。 野っ蛮極まりない。 野蛮人にとって、戦争を始める理由は、どこにでも転がっているというわけですな。 現に、アメリカも、韓国も、日本の十分の一も騒いでなかったものねえ。 アメリカなんて、打ち上げの日のトップ・ニュースは、国内の乱射事件でしたぜ。 韓国のニュースも、打ち上げ前は、全然騒いでいませんでした。 だからよー、インターネットをやってるんだから、外国のニュース・サイトを見に行けっつーのよ。 翻訳ソフトや翻訳サイトを利用すれば、英語や韓国朝鮮語は、簡単に読めるんだから。 外国の様子を観察していれば、自分達の騒ぎ方がいかに狂乱しているか、比較で分かるでしょう。

  そういえば、フランスやドイツでは、トップ・ニュースどころか、トピック一覧にも入っておらず、≪世界ニュース≫まで下らないと、見つけられませんでした。 日本だけが狂乱してたんですな。 ちなみに、日本以外の国では、一般に、≪宇宙ロケット≫と報道していて、ちょっと詳しく書く時には、≪人工衛星を積んだ~≫という修飾語がつき、たまに、≪弾道ミサイル実験を兼ねる事が出来る≫という説明が添えられていました。 アメリカ政府でさえ、「宇宙ロケットだが、人工衛星の軌道投入には失敗した」と言っており、「弾道ミサイルだ」と未だに言い続けているのは、日本政府、日本のマスコミ、それと、日本の民衆の大多数だけです。

  「人工衛星の存在が確認できないから、弾道ミサイルだ」という言い方をした政府発表がありましたが、もはや、論理が滅茶苦茶です。 その前提から導き出される結論は幾つもあるはずで、一つに決められるわけがないでしょうが。 そんな事を平気で言った所を見ると、おそらく、自分の言っている事がおかしい事に気付かないほど、論理に蒙いのでしょう。 これが、加藤周一さんなら、「論理は分かっているが、自分が悪意を抱いている事をはっきり表明したいので、分からぬフリをしている」と分析するかも知れませんが、私としては、日本人の論理性の低さを素直に評価したいと思います。 言った当人も、伝えたマスコミも、聞いた民衆も、でんでん分かっとらんのよ。 まったく、恐ろしい民族に生まれてしまったものじゃて。 いっそ、勉強などせず、アホなままでいた方が、幸せに暮らせたかも知れぬ。


  そうそう、今回の騒ぎで最も強烈だった意見が、ネット上で紹介されていました。

「ミサイルが失敗して落ちて来たら、日本が滅亡しちゃうんでしょ?」

  ごく普通の、20代半ばの女性が、真顔で質問して来たのだそうです。 これも、論理はぐじゃぐじゃで、そもそも、「失敗したら日本に落ちる」というなら、成功とはどんな状態を指すのか、それが分かりません。 大方、そんな論理的な事は考えてないんでしょう。 ≪失敗≫だの、≪落ちる≫だの、≪滅亡≫だの、悪いイメージのみ思い浮かべ、意味の成立を無視して、単語を並べただけのように見えます。 明らかに、核弾頭が搭載されていると思い込んでいるようですが、どこにどう尾鰭がつけば、核弾頭が出て来るんですかねえ? 知る事は悩み多いが、その一方で、無知ほど怖いものは無い。

  おいよ。 政府、マスコミ、及び、民衆の大多数よ。 こんな所まで追い込んだのは、おまいらだぞ。 悪意でデマを増幅するのが、どんなに恐ろしい事か、分かっているのか? 何の反省もしていないようなので、今後も同じような状態になるたびに、同じような騒ぎを繰り返し、いつか踏み外して、戦争をおっ始めるのでしょうが、それこそ、最終的に滅亡するような事になっても、外国のせいとは言わせないからな。 もっとも、そうなってしまえば、言う奴も言われる奴もいないわけですが。

2009/04/05

接続魔法

  口でなら、思った事を抵抗無くベラベラ喋る事が出来るのに、文章に書くとなると、急に筆が進まなくなってしまうという人がいます。 喋る事が出来るという事は、その内容について考えているという事で、概念はもちろん、使用すべき単語も分かっているわけです。 なのに、それを文章に書けないというのは不思議な話です。

  こういう人達に限って、「私には文才が無い」という言い方をします。 文章を書くには特別な才能が必要で、自分にはそれが欠けているのだという捉え方をしているわけですな。 しかし、それは程度の問題だと思います。 確かに、名文を物すとなれば、才能が関わって来ると思いますが、普通に考えている事を文章に書けないというのは、才能などという高次元な問題ではなく、単に、基本的な技法を知らないだけなのではないでしょうか。

  ≪書けない人≫の四苦八苦する様子を観察していると、わざと難しい言葉を使おうとしているのが見て取れます。 「文章というのは格調高い物で、普段口で喋っているような言葉はそぐわない」と思っているのかもしれません。 単語なら、漢字熟語や外来語を多く使いたがり、フレーズなら、諺や慣用句をありがたがります。 ところが、その種の言葉を使いたがる人ほど、その種の言葉をよく知らず、「言葉が思いつかないなあ・・・、ああ、俺は馬鹿だ!」となってしまうのです。 いやいや、馬鹿じゃないって。 勘違いしてるだけだって。 いつまでたっても勘違いに気づかないという点では確かに馬鹿ですが、耳慣れない単語や慣用句を知らなくても、それだけで馬鹿という事にはなりますまい。

  知らない言葉というのは、つまり知らない事なのであって、知らない事は誰でも書く事が出来ません。 対策は二つ。 知ってから書くか、知らない事は書かないようにするか、のどちらかです。 前者は即効性が無いので薦めません。 知識を増やす事は良い事だと思いますが、膨大な量の読書をしなければならず、今すぐに文章を書きたいという人には役に立たないからです。 ちなみに、膨大な量の読書をしただけでは、文章を書けるようにはならず、その基礎が出来るだけです。 文章を書くには、やはり、書く習慣を身に付ける努力が必要です。

  で、手っ取り早い方の対策ですが、「知らない事は書かないようにする」、逆に言えば、「今知っている事だけで、文章を書く」という事になります。 この場合でも、若干の努力は必要ですが、機械的な作業だけすればいいので、その日の内に書けるようになる点、至ってお手軽。 どうすればいいかというと、一旦、家族や友達を相手に喋るような調子で書いてみて、後から文章語風に修正するんですな。

「今日の午後さあ、車にワックス掛けようと思って、ホームセンターに行ったの。 近所の。 そしたらさあ、途中で、前走ってた車が、曲がろうとして対向車にぶつかって、事故っちゃってさあ。 びっくりしたよ、もう。 でさあ、道路狭くて通れないから、俺も停まっちゃってえ、車下りて見に行ったんだけど、運転手、両方ともぼーっとしちゃって、放心状態なわけ。 しょーがないから、俺が警察に電話してさあ、大変だったよ、もう」

  まあ、こんな文面なら、アホでも・・・いや、小学生程度でも、書けるでしょう。 喋ってる事そのまんまですから。 これを文章語っぽくするわけですな。 喋るのと書くのとでは何が違うかというと、最も異なるのは、相手がいるかいないかです。 喋る場合は、当然相手がいますから、話しかける形式で喋ります。 一方、書く場合には、あたかも、読み手の存在を無視して、独り言を呟くように書きます。 要点を挙げれば、

1. 間投詞や、語調を和らげるための助詞を切り落とす。
2. 省略されている格助詞を復活させる。
3. 言い忘れて、後で補足した形容詞句や副詞句を、本来入るべき位置に戻す。
4. 口語っぽい単語を、知っている範囲内で、文語っぽい単語に入れ替える。

「今日の午後、車にワックス掛けようと思って、近所のホームセンターに行った。 すると、途中で、前を走ってた車が、曲がろうとして対向車にぶつかり、事故を起こしてしまった。 大変驚いた。 道路が狭くて通れないので、私も停まってしまい、車を下りて見に行ったのだが、運転手は両方ともぼーっとしていて、放心状態だった。 しかたないので、私が警察に電話した。 大変な目に遭った」

  うーむ、いかにも、文章っぽい。 もっとも、私の場合、読み易さを慮って、ここまで硬くはしませんが。 とりあえず、基本的なパーツをほとんどそのまま使っても、口語文を文語文に直す事は可能だという事が分かって貰えれば宜しい。

  ≪独り言を呟くように≫と書きましたが、世の中には、精神健全で、独り言のような病的な習慣は一切持ち合わせておらぬという人もいると思うので、言葉を変えましょう。 ≪箇条書きのように≫書くのが宜しいと思います。 箇条書きなら、よほど、文章が苦手な人でも書けるでしょう。

・ 今日の午後、車にワックス掛けようと思って、近所のホームセンターに行った。
・ 途中で、前を走ってた車が、曲がろうとして対向車にぶつかり、事故を起こしてしまった。
・ 大変驚いた。
・ 道路が狭くて通れないので、私も停まってしまい、車を下りて見に行った。
・ 運転手は両方ともぼーっとしていて、放心状態だった。
・ しかたないので、私が警察に電話した。
・ 大変な目に遭った。

  ほーら、これなら、アホでも書けるじゃろ。 なあ、アホ。 いや、失敬失敬。 とにかく、こんな細切れ文なら、誰でも書けるわけだ。 しかし、箇条書きを羅列しただけでは、文章らしくなりません。 譬えれば、道路のあちこちに水溜りが点在しているようなものです。 これに、接続語を入れて、繋げてやると、初めて文章になるのです。 水溜りを溝で繋いで、流れを作り、川にするわけですな。

  接続語は、基本的に、五種類しかありません。 細かく分ければ、もっと数えられますが、話がややこしくなるので、便宜的に五種類にしてしまいましょう。 具体的な単語で言えば、「だから」、「しかし」、「そしたら」、「その為に」、「そして」ですな。 

≪天気が良い。 だから、散歩に行く≫
  「だから」の前の文は、後の文の原因・理由を表わします。

≪天気が良い。 しかし、散歩には行かない≫
  「しかし」の前の文も原因・理由ですが、後ろには、その原因・理由から自然に導き出される行為とは、食い違う行為が来ます。

≪もうすぐ雨が上がる。 そしたら、散歩に行く≫
  「そしたら」の前の文は、後の文の条件・仮定を表わします。

≪散歩に行く。 その為に、早起きする≫
  「その為に」の前の文は、後の文の目的を表わします。

≪散歩に行った。 そして、帰って来た≫
  「そして」は、単に行為の順序を表しているだけです。

  まあ、大概の接続語は、この五種類のどれかに入ると思います。

  「だから」と同じ意味の接続語は、「故に」とか、「なので」など、幾つも存在します。 接続の仕方が、前の文の末尾にくっつく、「~から」とか、「の故に」とか、「~ので」なども、働きは同じですな。 「しかし」にも、「けれども」、「だが」、「~が」、「~ものの」などの類語があります。 なぜ、同じ意味の接続語が幾つも用意されているかというと、それは、文章に変化をつけ、読み易くするためです。

≪彼はやって来た。 しかし、すぐに帰った。 彼女もやって来た。 しかし、やはり、すぐに帰った≫

  という風に、「しかし」を二回使うよりも、

≪彼はやって来た。 しかし、すぐに帰った。 彼女もやって来たけれども、やはり、すぐに帰った≫、

  と言った方が、単調さが破られて、語呂的に耳に聞き易いというわけですな。 ちなみに、普通、逆接の接続詞を、一つの文の中で二つ重ねると、論理が破綻します。

≪彼はやって来たが、すぐ帰ったが、またやって来た≫

  実際の状況としては、こういう事は起こりうるわけですが、文章道的には、邪道・外道です。 目にするのも、おぞましい。 どこに軸足があるのか分からぬではないか。 そこで、普通は、逆接を一つ外して、修正します。

≪彼はやって来て、すぐ帰ったが、またやって来た≫

  これなら、読めるでしょ? どうしても、逆接を二つ使いたい場合は、二つの文に分けます。

≪彼はやって来たが、すぐ帰った。 しかし、またやって来た≫

  これもオッケーですな。 ところが、逆接を二つ使っても、論理的破綻を首の皮一枚で救い、読める文にしてくれる接続語があります。

≪彼はやって来たものの、すぐ帰ったが、またやって来た≫

  ほーら、正しいんだか、変なんだか、よく分からないでしょう? 実は、「~ものの」という、少し曖昧な語感がある言葉を使って、読み手に目くらましを掛け、論理をごまかしているんですが、それはそれで、技法の内というもの。 事程左様に、接続語の類語は使いようなんですな。


  ところでぎっちょん、「そんな事は、わざわざ言われなくても、感覚的に分かっている。 文章作法なんてものは、量を読んで、量を書いて、自然に身につけるものであって、文法をチマチマ分析して覚えるような事じゃないだろう」とおっしゃる諸兄も、おありでしょう。 それは、その通りだと思います。 母語に限ってはね。

  ふふふ、私が言わんとする意味がお分かりかな? この、接続語による文の繋げ方の技法は、外国語で作文する時に、絶大な力を発揮するのです。 つまりー、中学一年生レベルの単純な英文しか作れない人でも、それらの単文を接続語で繋げば、複雑な内容を持つ複文を、簡単に作れるってーんですよ。 単文が接続語で繋がっているのが複文であって、複文より上は、もう存在しません。 すべて、その組み合わせに過ぎないのです。

  ほれ、もう頭に浮かんでますよね。 「だから」は「because」、「しかし」は「but」、「そしたら」は「if」、「その為に」は「for」、「そして」は「and」といった具合に、知っている英単語が頭にふわふわと浮かんで来たでしょう。 日本語と語順や用法が違うので、ちょっと注意が必要ですが、基本的には、そういう簡単な接続語で、すべての単文を繋ぐ事が出来るわけです。 という事は、あらゆる文章をこの方法で書く事が出来るという事を意味します。

  英語にも、「だから」と、「なので」に相当するような、同じ意味の類語がありますから、調べてみると良いと思います。 使い分けるのが面倒臭い場合は、「because」一本で押し通してしまいなさい。 「まずい文章だなあ」とは思われるけれど、少なくとも意味が通じないという事は無いから。

  英語に限らず、すべての言語で、この手は使えます。 外国語の作文が中一レベルで終わるか、そこから先に進めるかは、接続語が鍵を握っているんですな。