2009/07/26

出力より入力

  前々から考え続けている、インターネットの有効な使い方ですが、最近思っているのは、「基本的な方向性として、≪出力≫より、≪入力≫を多くした方がよいのではないか」、という事です。 つまりその、自分の方から他者に働きかけるより、他者が出している情報を取り入れる方に重きを置くべきではないかと思い始めたわけです。

  インターネットを始めると、最初の半年くらいは閲覧ばかりしていますが、その内、他人のやっている個人サイトの掲示板などに書き込むようになり、徐々に話し相手が増えるに連れ、「自分にもできるかな」と思い始め、個人サイトを立ち上げたり、ブログを開設したりと、入力から、出力へ移行していきます。 一旦、出力を始めると、他者の反応が返ってくるのが面白くて、「出力こそ、インターネットの本領だ!」と信じ込み、がむしゃらに情報発信を続けますが、一人の人間が持っている情報量には限界があるので、やがて枯渇し、大勢いた閲覧者も減って行きます。 個人サイトでも、ブログでも、こういう経過を辿っている所は、非常に多いですな。

  最終的には、閲覧者はゼロになり、作った当人さえ滅多に覗かなくなり、サイトやブログの残骸だけが無残に晒されます。 これを読んでいる方々の中にも、同じコースを経験して、思い出すだに、心の傷が疼き、苦笑いで平静を装う以外ない人も多い事でしょう。 しかし、必要以上に自己嫌悪に浸る事はありません。 一度でも繁盛を味わっていれば、まだ幸せな方です。 最近ネットを始めた人達などは、否が応でも、ブログから始めざるを得ないわけですが、昨今のブログは、利用者数の肥大化が原因で、ブログ・センターの更新紹介機能が働かなくなり、新しく立ち上げても一人も見に来ないという悲惨極まりない状態に陥っています。 誰も見てくれないのは、哀しくも悲しいよねえ。

  たまにコメントが入っても、記事に対する感想などそっちのけで、「初訪問です。 僕のブログも宜しくお願いします」とだけ書いてあったりするから、鶏冠に来る。 何が、初訪問だよ。 それで、恩でも着せてるつもりか? おまえ、馬鹿じゃないの? そんなコメント打たれて、「はいはい、ありがとうございます。 ただちに、お礼のコメントを書かせて頂きに参上致しますでげすよ」なんて、揉み手で応じる人間がこの世にいると思ってんのかよ。 全くの見ず知らず、紛う方無き赤の他人の、スケベ根性丸出しの宣伝コメントに付き合ってやる義理なんぞ、金輪際あるものかね! KYどころの話ではなく、他人の心理をまるで読もうとしていない所が怖い。

  また、「どんなコメントでも、数の内」と割り切っているのか、宣伝コメントに対し、ご丁寧に返礼に行く人も、気が知れません。 そんなコメントを書く奴に限って、知能の低い半端人間でないはずがないのであって、つきあったって、何のプラスにもなりません。 むしろ、頭が腐ります。 時間の無駄、エネルギーの無駄。 あー、やだやだ、勿体ない。 人生の貴重な時間を、そっただバカタレの相手に費やすなど、もはや、自分に対する背徳行為ですな。

  それに、そういうコメントを打って来る奴をテキトーにあしらって無視していると、全く同じ文面で、何度でもやって来るから、始末に負えません。 更に悪質になると、文面は同じで、名前だけ変えたあったりします。 名前が違うから、別人かと思って、ブログを開いてみると、同じ所なのです。 閲覧者数を増やすのだけが目的なのか、相手に迷惑を掛けようが、何と思われようが、一向に気にしないようなのです。 こういう輩は、馬鹿といったら馬鹿に失礼で、スバリ、キチガイと呼ぶのが適切な表現でしょう。 一旦、取り憑かれたら、無視し続けて向こうが飽きるのを待つか、コメント欄をオフにしてしまうか、どちらかを選ぶしかありません。

  ブログは、簡単に作れるので、一人で何軒もやっている人が多いと思いますが、テキトーな内容の更新しかしていない場合、まーあ、客が来ないでしょ? 隠しても駄目よ。 私もさんざんやったんだから。 「閲覧者は一週間に2・3人、コメントは冷やかし以外来た事が無い」なんて状態で運営しているなら、即刻やめた方がいいですな。 「せっかく作ったんだし。 愛着があるから」と、閉鎖をためらう気持ちは分からんでもないですが、手間対効果的に見て、マイナスになっているのは確実なので、続ければ続けるほど損をする事になります。 そのブログは、作者にとっては、「ささやかな人生の記録」でも、他人から見れば、「閲覧価値ゼロ」なのであって、だからこそ、お客が来ないのです。 他に理由がありますまい。 やめちゃえ、やめちゃえ。 スッと肩の荷が下りますぜ。

  個人サイト全盛期に作ったサイトを、閲覧者がほとんどいなくなったにも関わらず、維持・更新し続けている人も結構いると思いますが、それも閉めちゃった方がいいと思いますぜ。 個人サイトの場合、ブログと違って、コンテンツのページがあるわけですが、それを消すのが惜しいと思ったら、ブログのサイドバーに、リンクとして残しておけば宜しい。 基本的に、客が来なくなったら、そのサイトの価値はゼロになったと見るべきで、一人で頑張ってたって虚しいだけ、傍から見れば滑稽なだけです。 「全盛期を知っている人が見に来た時、閉鎖した事が分かったら、馬鹿にされそうで、悔しい」なんて心配は、一切せんで宜しい。 却って、残骸を放置しておく方が馬鹿にされますし、それ以前に、一度来なくなった人は、大抵、二度と来ませんから。

  「いや、今でも、閲覧者が日当たり5・6人はいるから、その人達の為に閉められない」というケースもあると思いますが、アクセス・ログで何人か来ている事がわかっても、掲示板やコメント欄に書き込みが無い場合、その客は常連ではなく、単語検索で引っ掛かった所をたまたま開いた可能性が高いです。 当然の事ながら、一度は見ても、二度は来ません。 その種の、≪行きずりの客≫の為に、少なからぬ手間をかけて更新を続けるのは、愚かな努力というものでしよう。

  もう、時代が時代ですから、個人サイトは全面的にやめてしまって、ブログを一本だけ出力用に残しておくようにすれば、それで充分だと思います。 どうせ、まともな客なんて、永久に復活しませんよ。 百年河清を俟って、待ちぼうけを喰らうのがオチ。 まともな人間がこの世にいないとは言いませんが、ネット初期にいた比較的まともな人達は、早々にネットのネガティブな面を見抜いて、距離を置くようになってしまったんですな。 まともだからこそ、関わらなくなったわけです。

  かつて、個人サイトの掲示板で、3分の1近い勢力を誇っていた、専業主婦の方々が、軒並み姿を消してしまった事は、大変な地殻変動を引き起こしました。 彼女らは、多少の幅はあれ、良識を備えていたので、学生・フリーター・ひきこもりといったネットのゴロツキどもを牽制するのに大きな役割を果たしていたのですが、悪貨が良貨を駆逐する法則には勝てず、「こんな頭のおかしい人達とは話が出来ない」と、眉を顰めて、ネットへの出力をやめてしまったのです。 全く、惜しい。

  ちなみに、私の経験では、ネット上で出会った女性の中で、独身でまとも、という人は皆無でした。 ただ、既婚なら必ずまともというわけでもなく、オタク系や、鬱病系は、やはり話が通じませんでした。 女性の特徴としては、これといった前触れもなく、突然、サイトを閉めてしまったり、急に掲示板に顔を出さなくなったり、そういうパターンが非常に多かったです。 女性のいい所は、相手を馬鹿にしたり、見下したり、そういう態度を取らない事ですかね。 ネット交友に於いては、極めて重要な資質だと思うんですが、それを備えた人達がいなくなってしまったのですから、損失は計り知れません。

  一方、男ですが、全く、ほとほと、ろっくでもないよねー。 年下は馬鹿ばっかり。 知識も教養もサランラップ並みにペラッペラのくせこいて、どこで覚えたんだか、屁理屈ばかり一人前。 とりわけ、学生・フリーター・ひきこもりの三馬鹿には、まともな人間を一人も知りません。 世の中についてああだこうだ御託を並べる前に、まず自分の人生をどーにかせーよ。 誰が、己の食い扶持も稼げないような人間を、対等に見てくれるのだね?

  年上は数がぐっと少ないですが、こちらもこちらで、態度ばかりでかいです。 えっらそーに、何様のつもりだよ。 表面的に敬語体で書いていても、年下の相手を見下し、どうにかして、コケにしてやれないかと虎視眈々、言葉の端々に嫌味を盛り込む事だけに余念が無い。 あのなあ、年長・年少以前に、他人様なんだから、とりあえず、対等関係からスタートしろよ。 礼儀のかけらも知らんのか? 何を親に教わった? 年下を見たら、馬鹿にしろと教わったか? 親子揃って、恥を知れ。

  自分と同じ世代の人とは、割と良好な関係を築けますが、ネット上で同年代を探すのは、結構な骨です。 もし見つけたら、少々意見に違いがあっても、論戦などは厳に謹んで、大切に交友を続ける事ですな。 一度失うと、なかなか代わりが見つかりませんから。 子供の頃、同じテレビ番組を見ていたとか、同じマンガを読んでいたとか、それだけでも、ダイヤモンドより貴重な共通点です。


  出力を、ブログ一ヶ所だけに絞るとして、更新頻度ですが、せいぜい、一週間に一度くらいで充分だと思うのですよ。 何といっても、ブログ・センターがもう死んでいるわけですから、頻繁に更新したところで、それで客が増えるという事はありえません。 また、客を増やす事自体に意味が無い。 なにせ、今時、ネット上を遊弋しているのは、馬鹿やキチガイばっかりなわけですから。 週に一回更新して、後はうっちゃらかしておきましょうや。 トラックバックは言うに及ばず、コメントも受け付けなくて宜しい。 断言しますが、どうせ、ろくなコメントは来やしません。

  最大の眼目は、出力の為に投入するエネルギーを、極力減らす事にあります。 一日に、パソコンの前に座る時間は決まっていると思うので、出力にかける時間が減れば、その分、入力にかける時間を増やせるという計算になります。 現在、自分のサイト・ブログや、よそへの書き込みで、毎日、何らかの出力に明け暮れている方々、その時間がそっくり浮くと思えば、どれだけ、あちこち見て回れるか、想像するだけでも、目の前が薔薇色に変わる心地がしませんか?

  出力をいくらやったって、所詮、自分の頭の中から出て来るものですから、それが自分を成長させてくれる事はありませんが、入力は、信憑性の高い発信元でありさえすれば、確実に自分の知識・情報力を高めてくれます。 入力と言っても、他人のブログなんか見ても愚にもつかないのであって、国内外のニュース・サイトや、公共機関、企業、研究団体などのサイトを見れば、得るものは膨大にあっても、失うものは何も無いと思います。

  ネット歴の浅い人は、「そんな所を見ても、他人と話ができるわけじゃないから、面白くない」と思うかもしれませんが、もううんざりするほど長くやっている人なら、「話なんかしても、所詮、他人は他人だ。 現実世界のような友人になれるわけじゃない」という事を知っているので、軸足を閲覧の方に置く事に、「一理ある」と、納得してもらえるんじゃないかと思います。

  まず、自分がネットに対して費やしている時間と労力を観察し、出力と入力の割合がどくらいになっているかを見極める事から始めるべきですな。 更新や巡回書き込みにうんざりしているようなら、それは出力が多過ぎるのですから、少しずつ減らしてみて、どの辺りで楽になるか、試してみればよいと思います。 ネットは、本来、誰にやれと言われたわけではなく、自発的に楽しむ為に始めたのですから、苦しさを我慢する必要などありません。 嫌な事はさっさとやめ、新たな楽しみを見つける旅に出るのが、本道ではありますまいか。

2009/07/19

靴下考

  人は時に、非常に下らない事で、深い苦悩に陥るものである。

  というわけで、靴下が破れるんですよ。 必ず同じ所から破れる。 足の裏の前の方の、真ん中あたりに丸い穴が開きます。 以前は、爪が当たる爪先部分から破れていたのですが、いつのまにか転移したんですな。 むしろ、爪先が破れなくなった事の方が不思議。 別に爪の手入れがよくなったわけではないんですがね。

  ちなみに私は、かれこれもう十年くらい、靴下は100円ショップでしか買っていません。 それより前は、衣料品を置いているホームセンターで、4足組1000円くらいのスポーツ・ソックスを買っていましたが、100円ショップで靴下を見つけてからは、2.5倍も高い品を買うのが馬鹿馬鹿しくなり、あっさり乗り換えたというわけ。

  100円ショップの靴下にも、様々なブランドがあり、私が今買っているのは、ダイソーの少し厚手のカラー・リブ・ソックスです。 色が選べるので、常に薄い灰色の品一種類に決めて買うようにしています。 そうすれば、片方だけ先に穴が開いた時にも、まだ使える方を保存しておき、後々、残った物同士で組み合わせて、また穿けるからです。 衣料品店にある、4足組や5足組の靴下セットの場合、なぜだか知りませんが、色がバラバラというパターンが多く、片方穴が開くと、まだ無事な方も捨てなければなりません。 それに比べると、常に同じ色の靴下をバラで売っているダイソーは、非常にありがたい存在と言えます。

  この世には、親元にいる間は親に買って来てもらい、結婚してからは妻に買って来てもらい、自分では靴下や下着を買った事が一度も無いという人が結構いると思いますが、社会人になってから数十年間、靴下を自分で買い続けている私に言わせると、耐久性と値段に相関関係が無い点に於いて、靴下ほど典型的な商品もありません。 一足1000円もするような高い物を買っても、必ず長持ちするとは限りませんし、100円だから、早く穴が開くとも限りません。 ただし、同じメーカーの同じ品なら、大体寿命は同じなようです。

  衣料品店の靴下は、穿き口、つまり、足を入れる穴が開いている所ですが、そこから壊れ始めます。 布地に織り込んだゴムが延びて切れてしまい、穿き口がビロビロに広がってしまうんですな。 当然、歩いている内にずり落ちてきて、スボンの下からそのビロビロが見え、みっともなくて、穿いていられなくなります。 また、感触的にも、気持ちが悪いったらありゃしない。

  一方、100円ショップの靴下は、穿き口の作りは滅法強く、半年くらいではビクともしません。 特にダイソーの品は強いです。 しかし、その代わり、冒頭に述べたように、足の裏の前方中央が、すぐに薄くなり、穴が開いてしまいます。 いずれも一長一短あり、困った事ですな。

  イメージ的に、「衣料品店の靴下より、100円ショップの靴下の方が、持ちが悪いような気がする」と思っている方も多いでしょうが、そう感じるのには、買い方の違いも関わっていると思われます。 4足組や5足組で買うと、1セット使い終わるのに1年以上かかる事が多いのに比べ、100円靴下は、せいぜい一回に2足くらいしか買いませんから、しょっちゅう店に行って買い足しているような錯覚に陥るのです。

  あ、そうそう、衣料品店の4・5足組でもなく、100円靴下でもなく、500~1000円もする薄手の高級靴下を買っている、≪大人の男≫の方々に、一言ご忠告があります。 あなた方の足が臭いのは、その薄手の靴下のせいです。 間違いない。 「男は大人になると、足の裏が汗ばむようになるから、通気性がいいように、極力薄い靴下を選ぶ必要がある」と思っているんでしょう? 逆ですよ、逆。 薄い靴下を履くようになるから、靴下の繊維が汗を吸い切れず、靴の中に溜まった汗に細菌が繁殖して、悪臭を放つのです。

  「俺も今日から社会人だ。 スポーツ・ソックスなんて子供っぽい物は卒業して、サラリーマン定番の薄手黒靴下を履かなくちゃな!」なんて、考え足らずに決心したのが運の尽きだったんですな。 靴の中が、汗でネチョネチョしてるんだから、匂うなっていう方が無理でんがな。 活性炭入りの中敷なんか敷いたって、無駄無駄。 あんな物が汗を吸ってくれるわけないじゃありませんか。 「ああ、俺の足は、いつの間にかこんなに臭くなってしまった! 歳をとったせいなのか!」なんて、頭抱えている閑があったら、学生時代に穿いていた厚手の靴下に戻しなさいって。 すぐに匂わなくなるから。 足の汗は厚手の靴下に吸わせておいて、洗濯機で洗ってしまうのが唯一の処理方法なのですよ。

  ちなみに、靴下を厚いのに戻すのと同時に、靴も新しいのに替えた方が、より効果が実感できますが、「靴は高くて捨てられない」という場合は、ホームセンターで売っている、≪除菌アルコール≫をスプレーしたり、家にいる間、靴の中に新聞紙を丸めてつっ込んでおくようすると、消臭に効果があります。 幾分、新聞紙の匂いがつきますが、なーに、汗の腐った匂いに比べれば、物の数ではありません。

  足の匂いや靴下の消耗頻度は、人によっても、随分違いがあると思います。 仕事が立って動く肉体労働だったり、足で歩く外回りだったりすると、否が応でも、足に汗を掻きますし、靴下の破損も早くなります。 「通勤は車で、会社では一日中、机仕事をしている」なんて人の経験談は、全然役に立ちません。 そりゃ、足を使ってなきゃ、汗も脂も出なかろうよ。


  靴下に話を戻しますが、破れた靴下を捨てるべきか、繕って穿き続けるべきかは、悩む所ですな。 「靴下を繕うなんて、半世紀前の習慣だ」などと言っている、そこのあなた! いや、私もそう思っていたのですよ。 たった、100円で買えるものですし。 でもね、最近、物の価値を、「自分で作ってみた時に、どれくらい時間と労力がかかるか」に換算して考えるようになり、徐々に宗旨が変わって来たのです。 「100円やるから、靴下一足編んでみよ」と言われたら、さて、出来るか? まず、出来ないでしょう。 靴下どころか、ただの円筒も編めやしません。 まして、そんな高度な技術と膨大な手間がかかる作業に対して、たった100円の労賃しか貰えないのでは、まるっきり割に合いませんよ。 それを考えると、「100円靴下は偉大だなあ」と、つくづく感じ入るわけですわ。 私の足など、靴下一足分の価値も無いような気がして来るのです。

  ちなみに、50年くらい前までは、靴下は、穴が開いたら、繕って直すのが当然の習慣だったらしいです。 私ですら、それを小説家の随筆で読んで知ったのであって、現実に靴下を繕っている人の姿を見た事はありません。 母はもちろん、祖母もやっていませんでした。 私自身も、学生時代に繕った靴下を穿いた記憶が無いです。 随分昔から、景気よくポイポイ捨ててるんですねえ、みなさん。 うまく直せば、数ヶ月は延命できるんですが、勿体ない話ですな。 いや、エコとか、省資源とか、そういう風潮に乗って言っているのではなく、お金が惜しいと思うのですよ。 

  穿き口が延びてしまった場合は、直しようが無いので、これは捨てます。 しょうがないです。 延びた部分を内側に折り返して、幅の広い紐ゴムを挟んで縫うという手も考えられますが、一旦延びてしまった生地ですから、どうしても皺が出来るのであって、よほどうまく処理しても、新品のようにはなりますまい。 しかも、穿き口だと、ズボンの裾が捲れれば、即、人に見えてしまいますから、恥を掻く可能性が至って濃厚。 いかに人生を合理主義で押し通すといっても、そんな危険は冒せません。 穿き口の損傷は、諦める以外ないのです。

  しかし、爪先に穴が開いたとか、足の裏に穴が開いたという場合、技術的には直せるので、後は、直すか直さないかで悩む事になります。 判断のネックは、その直した靴下を履いている時に、人前で靴を脱ぐ機会があるか無いかですな。 靴の中に隠れてしまう部位だからこそ出来る補修であって、靴を脱げば繕った跡がはっきり見えますから、さすがに、そんな有様を人前に曝すわけには参りません。

  私の場合、勤め先で靴を脱ぐ機会といったら、通勤用の靴と仕事用の靴を履き替える時がそうですが、これは他人がいない所で行なっているので、問題ありません。 他は健康診断の時くらいのものですが、それは年に二日だけだから、その日だけ、無傷の靴下を穿いていけば済む事です。

  私生活では、まーず、無いですね。 靴を脱がなければならないような場所に行きませんから。 病院や歯医者は、脱がされますが、これもその時だけ新品を穿けば宜しい。 旅行は、ホテルや旅館に泊まるような旅行をしなくなってから久しいので、これも考慮の必要無し。 友人は皆無ですから、友人宅へ上がる時の心配もせんでよし。 飲み会の誘いも全部断っているので、居酒屋の座敷に上がらされる恐れも無いと来たもんだ。 つまり、私の場合は、靴下の靴に隠れる部分の補修をしても、問題無いという事になります。

  繕い方は簡単でして、爪先に開いた穴の場合、穴の部分を摘まんで、半円になるように平らにし、弧に沿って、まつり縫いしてしまいます。 数センチの糸と、時間が5分もあれば終わります。 靴下の色にもよりますが、同系色の糸を使えば、穿いても、補修したかどうか、ほとんど分かりません。 靴下の爪先部分は、もともと構造が入り組んでいるので、目立たないんですな。

  足の裏に穴が開いた場合、糸だけだと摘まみきれないので、つぎあてをします。 靴下の色が一定なら、100円ショップで同じ色のハギレを買ってくれば、それ一枚で、3年分くらいあると思います。 穴の周囲の繊維も傷んでいるので、大きめに布を裁ちます。 丸くすれば見栄えはいいですが、このミッション自体が、補修部分を人に見せない事が前提なので、縫い易さを優先して、四角にしても充分でしょう。 切り出したら、四辺を5ミリばかり折り返し、靴下の穴あき部分を覆うように待ち針で仮止めして、やはり、まつり縫いで縫い付けて行きます。 並縫いだと、もたないので、必ず、まつり縫いにします。 縫い方を忘れてしまった方は、自分で調べて下さい。

  かかと部分に穴が開いた場合も、同じようにつぎあてで補修が出来ますが、穴が小さい内にやらないと、アキレス腱の方までべリべり破れて来て、手遅れになります。 穿き口よりも大きな穴が開いてしまった場合、さすがに、お払い箱にした方がよいでしょう。 かかとの場合、補修跡が靴から食み出るかどうかが、判断の分かれ目になります。


  さて、ここまで読んで来て、あまりにも貧乏臭い話なので、「倹約もここまで来ると、ついていけんなあ」と思った方も多い事でしょう。 というか、ごく一部の変人を除いて、全員そう感じたんじゃないでしょうか。 私も補修作業をしながら、「ここまでやる必要があるのかね?」と思わなかったといったら嘘になります。 「一度しか無い人生なのに、靴下の穴塞ぎで貴重な時間を無駄にしていいものか」と、冷や汗垂らして自問する事もしばしば。

  ところがですね、補修すると、マジな話で、靴下の寿命が倍近く延びるんですよ。 つまりその、靴下というのは、破れる箇所が決まっていて、それ以外の部分は、破れた所より、ずっと高い耐久性を持っているんですな。 全面積の95%が使用可能な物を、たった5%の破れで、ドカドカ捨てているわけです。 もし、これが、電気製品や自動車だったら、そんな捨て方しないでしょう。 当然、直して使いますよね。

「それは、値段が高い物だからだ。 靴下なんて、100円でも買えるじゃないか」

  おっと、またそこへ戻ってしまいましたな。 しかし、世界人類全体で見たら、靴下の寿命が倍になるという事は、小規模国家のGDPに匹敵する程の倹約効果を産むと思いますぜ。 「どうせ、俺の靴下なんて、誰も見てないしな」とか、「どうせ、うちの亭主の靴下なんて、誰も見てないしな」と思ったら、試してみる価値はあるんじゃないでしょうか。 あ、言わずもがなですが、女性の方は、やめた方がいいと思います。 あと、まだ、これから恋愛をして、結婚してと、カッコつけなければいけない立場にある青年もやめた方がいいでしょう。 全世界的に、「靴下は、直して使うのが当たり前」という日が来るまでは。 来ない可能性は、想像を絶するほど高いですけど。

2009/07/12

続・動物に限る

前回の続きです。 12冊ですが、終わりの二冊は、ごく最近、読み終えたものなので、記憶や印象が鮮明な分、感想が長くなっています。




≪動物たちの社会を読む≫
  動物の行動を心理面から探求した解説が主ですが、内容は動物学の全般に亘っていて、一口では説明できません。 「狼少女の話は、動物学的には信用できない」とか、「アライグマが食べ物を水に浸けて捏ね繰り回すのは、別に洗っているわけではない」とか、一般的に信じられている動物に対する常識を、次々と覆してくれます。 大変、面白い本です。



≪魚のおもしろ生態学≫
  海水魚と淡水魚の中から、有名どころを選び出して、個別に生態を解説した本。 些か対象が多過ぎて、一つ一つの種に対する掘り下げが浅く、食い足りない面があります。 魚を漁業資源として見る態度が頻繁に出て来て、純粋な生物学の楽しみを感じさせてくれないのも欠点。



≪イカはしゃべるし空も飛ぶ≫
  これはビックリ! イカというのは、凄い生き物だったんですなあ。 刺身だの煮込みだの、食う事ばかり考えていては、罰が当たりそうです。 イカは貝類から進化した生き物で、言わば、≪泳ぐ貝≫なのだそうです。 漏斗からジェット噴水する事で推進し、漏斗の向きを変えれば、前進・後退・方向転換も思いのまま。 トビウオのように、海面から飛び出して滑空する事も出来るとか。 一方で、漁業資源扱いもしており、どうも魚介類の研究者の感覚には、理解しかねる所があります。



≪砂漠のラクダはなぜ太陽に向くか?≫
  書名にはラクダが取り上げられていますが、牛の記述の方が多いです。 動物の生態を、エネルギーと水分の代謝機能面から解説した本。 普通の動物本では取り上げられないテーマなので、実に面白いです。 「牛の第一胃は、観察用に外から大穴を開けても、健康上問題がない」というのが凄い。 世の中には、知らない世界がたくさんあるもんですなあ。



≪生物が子孫を残す技術≫
  題名の通り、十数種類の動物をピックアップし、変わった繁殖の仕方を紹介しています。 ただし、子育ての仕方までは触れず、相手を見つけて交尾する所までの話。 テーマがテーマだけに、小中学生向けの割には、下品な感じがします。 とりわけ、「ゴキブリの○ェ○○○」は、呆れ果てた章題で、子供向けでなくても、こんな言葉を平気で使う本は珍しいでしょう。 本文イラストも、妙にマンガっぽくて、学問書に似合いません。 下ネタでウケを狙う事と、科学の面白さを伝える事を履き違えている感あり。



≪親子で楽しむ生き物のなぞ≫
  動物全般を対象にした小中学生向けのマメ知識本。 複数の執筆者による共著で、それぞれ専門分野を受け持っているのか、一般向けとしても充分に楽しめるくらい内容は濃いです。 しかし、後半のペット編や、家の中の生き物編になると、急にしょぼい話になり、生物学への興味が失せてしまいます。



≪「退化」の進化学≫
  人間の体に残る、太古の生物の痕跡について、詳細に記した本。 科学入門書であるブルーバックスに入れておくには勿体ないような、独創的な視点の研究成果が盛り込まれています。 「哺乳類の耳は、魚類の鰓穴が変化した物」とか、「爬虫類では体の横に張り出していた脚が、哺乳類では体の下に回ったが、前脚と後脚が逆向きに捻れた為、人間の手と脚は、曲がる方向が逆になった」とか、目から鱗の解説が満載。 読者を選ばずに、一読の価値があります。



≪「あ!」と驚く動物の子育て≫
  内容を動物の子育て方法に限定した、小中学生向けのマメ知識本。 そこそこ面白いのですが、著者当人が研究した結果ではなく、本を読んで集めた知識を又書きしてあるので、あまり、ありがた味がありません。 写真とイラストがたくさん入っていますが、写真はともかく、イラストは著者が描いたもので、お世辞にもうまいとは言えません。 中には、何の動物なのか分からないようなものもあります。 こういうのは、編集者が意見をして、プロの絵描きに頼むべきでしょう。 というか、もしかしたら、著者が、「自分の描いたイラストを使ってもいい」と言い出したから、こんなにイラストの多い本が出来上がったのかもしれません。



≪ペンギンの世界≫
  ≪ペンギンたちの不思議な生活≫とは、別の著者によるペンギン解説書。 これも、種類ごとではなく、総合的な説明になっています。 潜水深度が、コウテイ・ペンギンでは、600メートルに及ぶそうで、仰天もの。 他の種でも、200メートルは楽に潜るとか。 原子力潜水艦の安全な潜行深度が、400メートルくらいですから、ペンギンの凄さが分かろうというもの。 太古には、身長160センチくらいの大型ペンギンがいたというのも、興味深いです。 後ろの方へ行くと、ペンギン保護活動の紹介になり、些か活動家の自慢話臭くなりますが、その点を割り引いても、なかなか面白い本です。



≪コウモリのふしぎ≫
  割と珍しい、コウモリの生態を解説した本。 文化方面の記述は数本のコラムに留め、あとは全て、動物学的な研究成果の紹介になっています。 特に、コウモリが使う音波探知能力に関する記述はボリュームあり。 この本を一冊読むと、確かに、コウモリに対するイメージが変わります。 私は一度も見た事が無いんですが、コウモリというのは、日本全国、市街地でも住宅地でも、どこにでもいるらしいですな。 アブラコウモリという種類に至っては、人家の中にだけ営巣するそうで、ちょっとビックリな話。



≪犬の科学≫
  ペットとしての犬ではなく、イヌという種を科学的に分析した、という触れ込みの本。 以前、新聞の記事で、「イヌとオオカミの遺伝情報はほとんど変わらない事が分かった」と書いてあったので、てっきりそうだと思っていたのですが、この本によると、まるで違うようですな。 イヌというのは、オオカミから別れて人間の生活圏に入ってきた種で、イヌを山へ戻せばオオカミと同じ行動を取るようになる、というわけではないようです。 イヌが人間に見せる愛情や忠誠心は、実は人間側の錯覚に過ぎず、イヌとしては、グループ内の上位個体に対して、服従の態度を取っているだけなのだとか。 そして、隙あらば上位個体に挑戦し、自分が上に立とうと狙っているのだそうです。

  ただ、この本の著者が、イヌの専門家ではなく、動物学者ですらないのは、かなり気になるところです。 略歴を見ると、一応、≪科学者≫の肩書きも並んでいますが、本業は学者ではなくジャーナリストのようで、それを知るといきなり記述内容が胡散臭く思えて来ます。 本人もイヌは飼っているようですが、せいぜい観察くらいがいいところで、実験などは行なっていない模様。 つまり、この本の内容は、ほとんど、他の学者が研究した事の受け売りなんですな。 うちもイヌを飼っているので、経験的に頷けるところもあるのですが、内容が受け売りとなると、信憑性には疑問符を付けざるを得ません。



≪やっぱりペンギンは飛んでいる≫
  これは、つい昨日まで読んでいたんですが、ちょっと洒落にならない本でして、記述内容とは全然別の面で仰天している次第。 こんな本が、曲がりなりにも科学書の一冊として出版されているとは、ダーウィン様でも気がつくめぇ。

  図書館でパラパラっと捲り読みした時に、「あれ? 何だか、どこかで読んだような事が書いてあるな」と、思うには思ったのです。 しかし、「同じ、ペンギンについて書かれた本なら、似た記述があってもおかしくはないか」と思って、そのまま借りて来たのです。 ところが、いざ読み始め、読み進むにつれ、顔の筋肉が引き攣ってきました。 前回紹介した、≪ペンギンたちの不思議な生活≫、及び、今回紹介した、≪ペンギンの世界≫の二冊に書かれている内容が、文章を変えて、摘まみ食い的に書き写されていたのです。

  よく見ると、書名にしてからが、≪ペンギンたちの不思議な生活≫の序章の章題、≪それでもペンギンは飛んでいる≫を下敷きにしているのは疑いなく、「よくも臆面もなく、こんなタイトルを・・・」と、開いた口が塞がりません。 参考文献のページに、40冊くらいの書名が載っていますが、おそらく、それらを精査すれば、この本の文章の原形がすべて見つかるんじゃないでしょうか。 調べるのも恐ろしいですが。

  前書きによると、著者は、ペンギンの研究者ではなく、本業は絵描きだそうで、言わば、ただの、≪ペンギン好き≫。 ネットの個人サイトで、ペンギンについてあれこれ書いていたのが、出版社の目に止まり、本を出さないかと持ちかけられたのだそうです。 なるほど、それなら、納得できます。 個人サイトの文章であれば、学者が書いた本の内容を受け売りするのは、珍しい事ではありませんから。 しかし、それは、個人サイトが営利目的でないから許される事であって、本を出しちゃったらアウトでしょう。 だって、印税入るんでしょう? 他人の著作の内容を書き写して、本出して、お金儲けたら、そりゃ、犯罪ですよ。

  学者が書いた本であっても、他の学者の研究内容を引用する事は頻繁に行なわれていますが、そういう場合は、学者名や、引用元の論文・書籍名を明記するのがルールです。 この本にも、片手の指ほどの学者の名前は出ていますが、その余の大部分はスルー。 一応、「~だそうです」とか、「~のようです」といった語尾をつけて、「自分が研究した事ではなく、読んだり聞いたりして知った事だ」と匂わせる表現にしていますが、つまり、「ヤバい事をやっている可能性がある」という自覚はあるわけで、尚更、性質が悪いです。 勝手に研究内容を書かれた学者達が怒り出さないのは、この本が日本というローカル市場で、研究者向けではなく、一般向けに出されているため、目に入る機会が無いという、ただそれだけの理由でしょう。

  上に紹介した、≪コウモリのふしぎ≫も、同じ出版社の、同じ科学シリーズの本なんですが、そちらは、学者4人の共著だけあって、引用元はくどいくらいに細かく記してあります。 同じ出版社で、この違いは何なんでしょう? 少なくとも、担当編集者は、確実に別人でしょうな。

  百歩譲って、素人が書いた本という事で、引用元の記載が異様に少ない点を大目に見るとしても、この本の受け売りには、読む者を驚かせる甚だしさあります。 ≪ペンギンたちの不思議な生活≫と、≪ペンギンの世界≫を先に読んでから、この本を読めば、十人中十人が、「なんじゃ、こりゃ?」と噴き出すでしょう。 動物の科学書の場合、その動物に関するどんな面をテーマに取り上げるかで、著作の独自性が発揮されるのですが、≪ペンギンたちの不思議な生活≫と、≪ペンギンの世界≫の各テーマには、重なる部分がほとんど無いのに比べ、この本は、前二書と重ならない部分を探す方が難しいくらいです。

  学者ならば、既に他者が発表しているのと同じ研究を後出ししても業績になりませんから、本を書くにしても、先人の著作とテーマが重ならないように注意深く避けるわけですが、素人は、まるっきり発想が逆でして、「先人の著作を真似ておけば、学問上、間違いにはなるまい」と考えるのではありますまいか。 保険のつもりで真似られたのでは、元の本を書いた人はたまらんでしょう。 テーマを考えるのも著作権の内なのだという事が、分かっているのやらいないのやら。

  この本、もっとたまげた事に、監修者がいるのです。 そちらは、本物の学者。 こんな本に名前を入れてしまって、その後の学者としての活動に支障が出ないものなんですかね? もしかすると、「一般向けの本だから、そんなに厳格に考えなくてもいいだろう」と思ったのかもしれませんが、明らかな子供向けならいざ知らず、一般向けであれば、受け売りで書いた本を出版するのは、充分に問題ですぜ。

  こういう本を出す人間がいると、ペンギンまで穢れて見えてくるから、嫌になります。 実際には、ペンギンはペンギン、人間は人間なのであって、どんな人間に好かれたとしても、ペンギンに罪があるわけでは無いんですが・・・。


  ≪犬の科学≫や、≪内科医からみた動物たち≫の時にも、同じような事を感じましたが、科学書の著者となれば、専門性が問われるのは当然で、ただの動物好きが筆を執っていい分野ではありますまい。 もし、こういう本がアリだというなら、私は明日からでも、作家に転身します。 関連書籍を読み漁って、要所要所を自分の文体で書き写せば一丁上がりですから、文系人間ならば中学生でも出来るでしょう。 だけど、そんな本に、何の価値があるんですかね?

2009/07/05

動物に限る

今に始まった事ではありませんが、とりわけ、ここのところ、人間のやる事なす事、何もかもが、醜く思えて仕方なく、「人間という存在自体のおぞましさに比べれば、それが作り出す文明や文化の素晴らしさなど屁ほどの価値もない」と感じられてなりません。

  やる事も無く散歩のみに明け暮れている年寄りを見れば、「早く死ね」と思い、観光地に不必要に豪華なバスで乗り付けてくるオバサンの団体を見れば、「バスごと谷底に落ちろ」と思い、前を走る車の運転手が窓を開けてタバコを吸い始めると、「肺癌で死ね」と思い、コンビニの前で車座になって弁当を食っている馬鹿小僧どもを見ると、「携帯で話しながら運転している車が突っ込んでくればいいのに」と思い、近所のガキが狂ったように騒ぎ散らしているのを聞くと、「誘拐されろ」と思い、妊婦の腹を見ると、「どうせ生まれて来たって、ろくな人間にゃなりゃしないだろう」などと思っているようでは、もはや人間もおしまいですな。 いや、私はさすがに、そこまでは思っていませんが。

  政治家は無能に加えて、汚職ばかりやらかすし、マスコミは騒ぎを大きくする事以外、何も目標としていないし、学者は小粒な研究ばかりやっていて、世界に劇的なインパクトを与えるような天才的頭脳の持ち主は影も見えません。 美術は死んで久しく、音楽も80年代以降、全く進歩無し。 映画も焼き直しばかりで、わざわざ映画館に足を運ぶ人の気が知れない。 スポーツには、そもそも興味が無いと来たもんだ。

  「もう、人間なんて、見るのも嫌だ。 いや、現実問題として、自分も人間である以上、人間を見ないわけにはいかないが、生きていく上での必要最小限にとどめて、他は、極力目を背けて暮らそう」

  と、緩~く決心したのが、4月の中頃でしたかねえ。 「では、人間以外の物なら醜くないだろう」という事で、単純に動物学の世界に逃げ込もうと思い、図書館でそちら方面の本を借りて来るようになりました。 以来、約三ヶ月、読んだ本が結構溜まったので、ざっと感想を書く事にします。 あー、長い前説だったなあ。




≪カメの文化史≫
 ペット飼育本を除くと、亀について書かれた本というのは、思いの外少ないです。 この本は、ペット・コーナーではなく、動物学コーナーにありました。
  生物学的な事も多少書いてありますが、中心テーマは、人類が亀を象徴や食料、ペットとして、どう扱って来たかという、文化面でのアプローチです。 著者はイギリス人で、小ネタ・エピソードは、イギリスの物が多いです。



≪カメのきた道≫
  これも、亀関連の本。 亀は亀でも、動物学ではなく、古生物学の方です。 化石を掘り出して、絶滅した生物について調べる、アレですな。 亀の系統に関する説明は大まかで、著者個人の研究に関するこぼれ話が中心です。 面白いんですが、ちょっと自慢話臭い所が鼻につきます。



≪新しい発見≫
  非常に珍しい、ニホントカゲの本。 日本中どこにでもいるのに、益にも害にもならないために、興味を持つ者が少なく、自動的に関連本も少ない、ニホントカゲ。 この本には期待していたんですが、研究書というより、観察日記に近く、肩透かしを喰いました。 むしろ、こんなに稀薄な内容で出版された事が不思議です。 動物学関係者には珍しく、著者の人柄が良い点が、せめてもの救い。



≪ワニと龍≫
  これまた珍しい、ワニの本。 著者の言に従えば、日本で初めて出版された、一般読者向けのワニの本なのだそうです。 「龍とは、ワニの事だった」という説を当然の前提として語り始め、ワニの生態や、人間との関わりなど、全般的な解説へと話を広げて行きます。 博学な上に、ユーモアに溢れていて、楽しい文章です。 著者の本業は古生物学で、化石屋さんなので、現生のワニに関して、種類ごとに細かくは触れていません。 そういう事は、図鑑を見るか、専門の論文を読めという事なんでしょう。



≪カエルの不思議発見≫
  これも、割合珍しい、カエルの本。 総合的な解説書で、日本のカエルを中心に、世界中の様々なカエルの生態を紹介しています。 ナガレガエル(流れ蛙)の話が面白いです。 流れがある川で産卵するのだそうですよ。 しかも、日本に結構いるらしいのです。 是非一度、見てみたいもの。 



≪金沢城のヒキガエル≫
  こちらは、ヒキガエルの本。 「金沢城の・・・」と限定している点を見ても分かるように、対象を特定区域の棲息集団に限った生態研究の記録です。 ヒキガエルがどんな生き物なのか、一般的な解説書以上によく分かります。 また、生物学の研究という物が、どの程度アバウトなのかも、よく伝わって来ます。 個体識別のためにカエルの指を切るという方法には、どうにも馴染めませんが、生物学と動物愛護は違うので、研究するとなれば、そういう手段もアリなのでしょう。



≪図説・なぜヘビには足がないか≫
  なにやら気になる題名ですが、これはキャッチ・コピーでして、読んでも、はっきりした答えは書いてありません。 というか、「この本全体を読めば、それが答えになる」という仕組みになっています。 内容は、ヘビ全般についての解説で、種類ごとの説明はありません。 毒牙の構造が、種類によって原始的なものと、進化したものとに分かれるというところが、興味深かったです。 ツチノコの正体についての、もっともありそうな推測が載っています。



≪狐狸学入門≫
  冒頭部、文系的アプローチが続くので、不安になりますが、その内、理系の話にシフトし、ぐっと科学書っぽくなります。 キタキツネとホンドギツネには種の違いが無いのに、映画やテレビの影響で、別種のように思われているという話は、目から鱗でした。 タヌキの共同トイレの話も面白いです。 高速道路で車にはねられる動物は、タヌキがトップだそうで、痛々しい反面、「まだ、そんなにいるんだなあ」と、意外な気もしました。



≪都市鳥ウォッチング≫
  街の生活に適応した鳥達を種類ごとに詳説したもの。 巻頭部に、取り上げている全種類のカラー写真が載っているので、実際の観察にも役に立つ本です。 街に馴染んだ鳥など、カラスかハトくらいのものだろうと思ってましたが、意外と多かったんですねえ。 チョウゲンボウという、猛禽類まで加わっているから凄い。



≪内科医からみた動物たち≫
  「人間の内科医の視点から、動物の生態を見た本」という触れ込みですが、かなりの羊頭狗肉でして、内科医的な分析が行なわれているのは、ほんのちょっとだけ。 後は、単なる動物の種類ごとの解説です。 この著者、動物学の専門家ではなく、ただの動物好きでして、本で読んだ知識を又書きしているわけですが、こういうのは、科学書としての価値がかなり落ちます。 子供向けの解説書としてなら有用かも知れませんが、やはり、専門家が書いた本の方が、信用度は高いでしょう。



≪イルカとクジラ≫
  イルカとクジラについての、総合的な解説書。 種類ごとではありません。 イルカというと知能が高い事で有名ですが、人間の子供や猿ほど頭が良いわけではないという事が、よく分かります。 マークの識別のような、単純な実験を行なうのも、かなり苦労するのだとか。 クジラに関しては、どうも、捕鯨推進派の肩を持っているような論調が見受けられ、科学書としては、基本から逸脱していると言わざるを得ません。 いやしくも、動物学者が、野生動物を食料資源として見ていたのでは、話になりますまい。



≪馬の科学≫
  馬の体の作りを、部位ごとに解説したもの。 著者は、競馬関係者なので、どうしても、競走馬の話が多くなります。 純粋の野生馬というのは、もはや存在しないので、仕方ないといえば仕方ないのですが、蒙古馬や挽馬など、サラブレッド以外の馬にも、もそっと焦点を当ててもらえば、もっと面白くなったと思います。



≪ペンギンたちの不思議な生活≫
  日本のペンギン学の第一人者が書いた、ペンギンの生態に関する解説書。 精細なイラストを添えた種類ごとの説明もありますが、それはほんのちょっとで、大部分のページは、ペンギン科全体の総合的な特徴を記すのに割かれています。 ペンギンの白黒模様の意味とか、ペンギンの発祥地とか、テレビの動物番組では触れないような、コアな知識がたくさん詰まっていて、実に面白いです。



≪ゾウの鼻はなぜ長い≫
  これは、かなり有名な本で、一般向け動物学入門書の古典になりつつある感があります。 書名だけ見ると勘違いし易いですが、別にゾウ専門の本ではなく、動物全般から、素人の興味を引きそうな疑問点を何十項目か選び、それぞれ一二ページで解説するという形式の本。 スイスイ読み進む事ができますが、読み終わると、内容を細かく思い出す事ができません。 なぜかというと、この本が出版された後に、類似本がたくさん出て、動物関連の疑問が常識化してしまったため、既に知っている事が多くて、印象に残らないのです。 動物学に興味を持ったら、最初の内に読むべき本なのでしょう。



  という事で、ここまでで、14冊です。 実はまだ半分残っているのですが、一遍に出すと、写真の加工が疲れるので、次回に回します。 例によって、ほとんどの本を、仕事の合間の休み時間に読みましたが、「たかだか、3ヶ月でよくこれだけ読んだなあ」と、今更ながらに驚いている次第。 私の読書速度は、決して速い方ではないんですが、会社で読むと、他にやる事が無く気が散らない為に、短い時間でもページを捲る手が捗るんでしょう、きっと。 講談社の、≪ブルー・バックス≫の本が多かったので、読み易かったという事もあります。 科学入門書のシリーズでして、新書サイズで、大抵が200ページ以下なので、三日もあれば、一冊読み終わるのです。