2010/07/25

犬に生を学ぶ

  犬を飼っています。 犬を見ていると、つくづく思うのは、彼が極めてシンプルな生活をしているという事です。 彼の欲望は、基本的に二つしかないようです。 食べる事と、散歩に行く事。 それ以外の時間は寝ているわけですが、眠る事は、欲望とはちょっと違っていて、眠りたいから眠るというより、食事と散歩ができず、他にやる事が無いから、仕方なく眠っているように見受けられます。 ちなみに、うちの犬は、鼾を掻いて眠っていても、ちょっと物音がすると、パン!と弾かれたように起き上がります。 犬に深い眠りは無いようですな。

  食べるのは、腹が減っている時には、もちろん食べますが、チーズとか、さつま芋とか、ゆで卵の黄身とか、好きな食べ物は、腹がいっぱいでも、尚食べようとします。 逆に、固形飼料など、好きでない物は、かなり腹が減っても、食べようとしません。 贅沢な奴ですが、今時、どこの犬も、そんなものでしょう。 話によると、かなり舌の奢った犬でも、2週間くらい固形飼料しか与えないでいると、根負けするらしいですが、うちの犬の場合、もはや、そんな荒療治を試せる年齢を過ぎてしまいました。

  散歩は、飼い主を引きずり倒すほどの勢いで飛び出して行きます。 うちの犬は雄なので、散歩の目的は、専ら、近所の雌犬が残した匂いを嗅いで回る事です。 リアルに描写しますと、雌犬のしった小便に鼻をこすりつけ、あまつさえ、舌でぺろぺろ舐めるのです。 んー、品性下劣! 変態か、こいつは! だけど、いいんです。 犬だから。

  犬が若い頃には、近所の山に一緒に登ったりしましたが、「犬もたまには、山に登ってみたいだろう」と考えたのは私の自己満足に過ぎず、犬の方は、別に山に登りたいとか、遠くへ行ってみたいといった欲望を持ってはいないようです。 そんな事より、食べ物と、雌犬の小便が大事なのです。 山へ連れて行っても、特段喜ばないのは、そこに、雌犬の痕跡がほとんど存在しないからでしょう。

  ちなみに、犬を山へ連れて行く時には、長い引き紐をつけておいた方がいいです。 下りになると、犬は人間の遅さにつきあい切れず、ひょいひょい先に行ってしまいます。 散歩用の短い紐だと、犬に引っ張られて姿勢を崩し、滑落する危険性があります。 そういう事故で、大怪我をして、ヘリ搬送などされると、「馬鹿な奴だな。 犬なんか連れて行くからだ」と、家族親類友人知人から、さんざんに言われてしまいます。

  たぶん、どこの犬も、山に行きたいという欲望は無いんじゃないでしょうか。 高い山に登っても、彼らは近視だそうですから、眺望を楽しむ事はできません。 桜が満開の時に、わざわざ名所へ犬を連れて行く人もいますが、あれも無意味だと思います。 およそ、うちの犬は、花なんかに何の興味も示しません。 色が見えていないという説もあり、そうだとしたら、満開の桜も、一面の曇り空も、区別がつかないという事になります。 目の前に色の鮮やかな花を持って行っても、一瞥をくれるだけで、とんと興味無し。 また、匂いの方も、人間の嗅覚で感じる、「いい匂い」より、「臭さ」の方を、彼らは好むようです。

  車で海へ連れて行くと喜びましたが、別に海が好きだったわけではなく、全力疾走できる砂浜が目当てだったんじゃないかと思います。 うちは、専ら散歩に連れて行くのが、父と母なんですが、二人とも、後期高齢者なので、走る事はできません。 犬は常に低速で歩く事を強いられるわけで、ストレスが溜まっています。 休日に私が散歩に連れ出すと、家から1ブロックの直線は、脱兎の如く駆けて行くのですが、あれは、普段抑えている全力疾走の欲望が解放されるのでしょう。 もっとも、ダッシュが利くのは1ブロックだけで、もう歳なので、すぐにへばってはしまいますけど。

  海に連れて行くと、波打ち際まで行きますが、波と戯れるような事は無く、海水を舐めに行くのが目的でした。 人でも犬でも、海水を飲んで健康に良いわけがないので、慌てて紐を引っ張るのですが、手遅れで、後になってから、ゲーゲー吐き戻していました。 飲めないと分かっても、次に行くと全く同じ事をするので、「自然の本能も、学習能力も無いのか?」と呆れたものです。

  なぜ、過去形で書いているかというと、今は、海に連れて行かなくなってしまったからです。 去年の秋、母の車を売ってしまったので、犬を乗せて、砂だらけにしてもいい車が無くなってしまったんですな。 ちなみに、父の車は、犬立ち入り禁止です。 毎年、施餓鬼会の時に、親戚を乗せるので、犬に砂だらけにされるのは困るというわけ。

  そういうわけで、海へ行かなくなってから、10ヶ月くらいたちましたが、別に自分から車の所へ行きたがるような事も無く、1ブロックのダッシュと、近所の散歩で満足しているようです。 砂浜よりも、近所の雌犬の小便の方が魅力が大きいのでしょう。 分かるような、分からんような・・・。


  さて、ここからが本題ですが、同じ動物で、同じ哺乳類なのに、犬に比べて人間は、どうしてこんなに、あれやこれやと、多くの欲望に振り回されて暮らしているんでしょう? 改めて考えると、この差の大きさには、驚嘆せざるを得ません。 生体的には、犬と同じように、≪食≫と≪性≫、たった二つの欲望だけ満たしていれば、充分生きて行けると思うのですが、何なんでしょう、この煩悩の数の膨大さは?

  前にも似たような事を書いたような記憶がありますが、今回、またぞろ蒸し返したのは、居間のパソコンと自室のプリンターという、二つの電気製品を一挙に失ったショックが、未だに尾を引いているからです。 機械に頼って生活していると、それが壊れた時、喪失感に襲われるだけでなく、自分の生活様式に対する疑問まで浮上して来てしまうのです。 「一体どうして、こんなに多くの機械に囲まれて、生きているのだろうか?」と。

  それらの機械は、その時々に沸き起こった欲望を満たすために買われたわけですが、「一体どうして、こんなにたくさんの機械を必要とするほど、多くの欲望が湧いてくるのだろうか?」と思うと、シンプル極まりない生活をしている犬を前に、腕組みして首を傾げざるを得ません。 所詮、同じ動物なのに、なんで、こんなに違うんでしょう?

  「欲望に限りが無いから、人間は進歩して来た」というのは分かっていますが、それは人類全体の話。 個人に限るのであれば、何も、系統発生を繰り返す必要はありますまい。 様々な欲望を実現させながら生きようが、必要最低限の事だけ、こなしながら生きようが、10年は10年、30年は30年、過ぎてしまえば、満足感に大差は無いと思うのです。 それが証拠に、社会人になってからこっち、私は、買いたい物は大抵買って、暮らして来ましたが、だからといって、今までの人生が素晴らしかったとは、全く感じられないのです。

  物欲に限らず、遊びや学習などの体験であっても、それが人間性を豊かにするとは、到底思えません。 たとえば、私の母は旅行好きだったので、今までに、日本国中、大抵の観光地、景勝地には行っています。 一方、父は筋金入りの出不精で、クラス会でも無い限り、地元から出る事すらありません。 こと、旅行の見聞に関する限りでは、父より母の方が、圧倒的に経験値が高いはずですが、では、母が父より人間として優れているかというと、そんな事は微塵も感じられません。 私自身は、バイクで日本の海岸線を回った事がありますが、単なる記憶であって、自慢になるどころか、話の種にすらできないのが実際のところです。 最低でも数ヶ月は住んでみなければ、その地について何かを語るのは、資格外というものでしょう。

  欲望は、放っておいても、次から次へ湧いてくるものですが、果たして、それを一つ一つ、律儀に実現してやる必要があるのかどうか。 やらなければやらないで、全く問題無いのではありますまいか。 犬のように単純に、仕事して、飯喰って、風呂入って、寝てれば、それだけで充分なんじゃないでしょうか。

  幸福とは、「欲望をどれだけ実現できたか」より、「どれだけ満足感を得られたか」の方が重要だと思います。 達成感と満足感は一致する事もあるけれど、同じものではありません。 何かを達成したからといって、必ず満足するとは限らない一方、何もしなくても、気の持ちよう次第では、満足する事は出来ます。 たとえば、「ああ、今日は一日中寝ていたけど、こういう休日の過ごし方は、贅沢だなあ」と思ったりする、あれですな。

  食べ物についても、同じような事を、よく考えます。 日曜の夜など、「カップ・ラーメンが食べたい。 今、食べておかなければ、後悔するような気がする」と思って、腹も減っていないのに、無理やり食べたりしますが、むしろ、後悔するのは、食べた場合である事の方が多いです。 体重は増えるわ、腹は突き出るわで、いい事無し。 しかも、間食で腹が膨れてしまうので、肝腎の朝昼晩の食事が、おいしく感じられなくなります。

  欲望というのは、何でもかんでも実現すればいいというわけではないんですな。 コレクションなどでも、子供の頃、お金が無くて買えなかった物を、大人になってから豪勢に買い込んだりしますが、子供の頃に想像していたほど、嬉しさを感じられなくて、スッポ抜けたような虚しさに沈む事がよくあります。 私なんか、大人になってからの欲望実現の結果は、そんなのばっかりです。 幸福と呼ぶには、あまりにも、満足感が足りなさ過ぎる。 こんなんじゃなかったはずなのに。

  どうせ、満足できないと分かっているのなら、何もしなくても同じでしょう。 エコ的に考えても、人間は、一生懸命何かするよりも、何もしない方が有益です。 少なくとも、昼寝して過ごしている人間は、地球環境に害を及ぼしません。 本当は、死んでしまえば、最も無害なんですが、そうも行きませんから、穏当な妥協点として、寝て過ごすのは、お勧めだと思います。

  特に、もう40歳過ぎて、人生を折り返した人は、「まだまだ、これから! 第二の青春だ!」などと、脂ぎった情熱を無理やり掻き立てようとせず、消え入るように暮らすのが、一番なんじゃないでしょうか。 老いの道楽なんざ、傍から見りゃあ、滑稽か醜悪かのどちらかに決まってますぜ。 ちったあ、犬を見倣いましょうや。

2010/07/18

パソコン死す

  先週の予告通り、≪ハーバード 白熱教室≫の感想記は、前回で終わりにします。 それでなくても、番組内容をわざわざ紹介しなければ話が始められないのが億劫で、げんなりしていたのですが、この番組の絡みで、ジョン・ロールズの著作を読んでいたら、あまりの難解さに、胃が悲鳴を上げてしまい、健康上、大変宜しくない状態に陥ったので、背に腹は代えられず、打ち切る事にした次第。 また、気が向いたら書くかもしれませんが、今のところ、気が向く可能性は非常に低いです。

  それはさておき、パソコンが壊れました。 いや、これを打っている私の部屋のパソコンでなく、居間に置いてあって、専ら母が使っているパソコンの事です。 しかし、我が家にあるパソコンは、全て私が買って設置した物なので、管理責任者は私なのであって、「うわあ、壊れたあ! あっちゃあ!」と、のけぞるのも、私なわけです。

  しかも、腹立たしい事に、たまたま私が使っていた時に壊れやがったのです。 先週の日曜の夜に、居間のテレビで、昔の2時間サスペンスの再放送を見ていたんですが、何年に作られた作品か調べようと思い、居間のパソコンを使おうとしたら、ちょうど、その時に壊れたのです。 一旦立ち上がったんですが、ブラウザ画面が出る所まで行ったら、突然、「プツン・・・」と切れてしまいました。

  そんな症状は初めてでしたが、最初は、事の重大さがピンと来ず、「どうでもいいような事を調べようとした時に限って、これだ」と、マーフィーの法則を呪いつつ、さして慌てもせずに、最初からやり直しました。 しかし、何度やっても、OSが起動する前に電源が切れてしまいます。 プラグを挿し直すと、一応通電しますが、やはり、起動中に切れます。 起動ディスクを入れて試してみましたが、駄目。 ここに至って、顔色真っ青! なんてこったい! 本当に壊れたのか、お前!

  カバーを外して、各ファンの埃を掃除機で吸い取ってみましたが、駄目。 セーフ・モードで立ち上げて、セット・アップをやり直そうとしましたが、セーフ・モード中に切れてしまって、駄目。 リカバリーも試しましたが、リカバリーCDを読み取る前に切れるので、これも駄目。 万策尽きたり! いや、正確には、せいぜい四・五策だったのですが、ハードもソフトも、パソコンの専門知識がまるで無い私には、これ以上、何もできません。

  2002年の5月に49800円で買った、タワー型デスク・トップ・パソコンで、メーカーがはっきりしないものの、最終組み立ては韓国のようでした。 OSは98SEで、起動時間が短く、動作も安定していて、大変使い易かったんですが、形ある物いつかは壊れるんですな。 ほぼ8年もった事になりますが、元を取ったかどうかは、この際どうでもよく、パソコンを買い直さなければならないのが、死ぬほど面倒くさいです。

  すぐに思いついたのは、私のパソコンを居間に移し、私が新しい高性能の物を買うというアイデアですが、私のパソコンも、酷使が祟って、だいぶくたびれているので、いつまでもつか分かったもんじゃありません。 それに、データの引越しが大仕事になってしまいます。 居間のパソコンを買い換えるのなら、そういう心配はなし。 母は自分でテータを作る事は無いですから。

  いや、待てよ! 年賀状の送り先データを、居間のパソコンに入れてありました。 ああ、なんという悲劇か! あれはもう引き上げられませんから、全部打ち直さなければなりません。 顔色は、真っ青を通り越して、白くなりました。


  しかし、悪い事は単独ではやって来ないものです。 あくる月曜日、悲劇の第二波が私を襲いました。 居間のパソコンの修理方法をネットで調べていて、ページを印刷しようと思ったら、私の部屋のプリンターまで壊れました。 電源を入れると、カタカタ異音がして、やがて止まり、後は微動だにしません。 四苦八苦してカバーを外し、機械部分を見てみましたが、別に何が取れたとか、どこが折れたという事もないようで、原因不明。 これもオシャカか。 なんじゃ、この展開は? 悪魔に魅入られたか。

  壊れたプリンターは、キャノンの、≪PIXAS 455i≫で、2004年5月に、12300円で買いました。 もともとは、父のパソコン用に買ったものですが、その後、私のパソコン用に買ったヒューレット・パッカードのプリンターが、私のパソコンには対応しない事が分かり、父と交換した物。 私の部屋に来たのは、2004年12月です。 こちらは、6年の寿命か。 プリンターは、パソコンに比べれば安いですが、それでも、買い直す予定が無いのに、壊れられると、ショックが隠せませんな。

  プリンターは、今は複合機が主流で、安い物は8000円くらい、少し高い独立タンクの物でも15000円くらいで買えますが、使用頻度の低さを考えると、買い直すべきがどうか迷うところです。 居間のパソコンを買い直せば、居間のプリンターが使えるので、印刷する時は、そちらのセットを使えば間に合います。 自分の部屋にあれば、便利な時もありますが、インクの補充やら、週に一度の試し刷りやら、メンテが面倒で・・・。  電子機器が立て続けに壊れたせいで、うんざりしてしまい、なるべく、そういう物に頼らない生活をしたいと思い始めたのです。


  水曜日、偶然ですが、有休を取っていたため、パソコン&プリンター問題に対処する時間が出来ました。 遅番の週なので、帰って来たのが朝の4時半頃で、眠ったのは6時頃だったのですが、昨年末に他界した叔父さんの新盆との事で、無理やり9時に起き、父母と一緒に墓参りに行って来ました。 車で30分くらいの所なので、それはすぐに済んだのですが、家に戻っても、寝直すわけにはいきません。 新しいパソコンを買いに行かなければならないからです。 で、午前中に壊れたパソコンを片付け、午後から父の車を借りて、いざ出陣。

  寝不足で頭が痛い事もあり、あれこれ悩むのすら面倒臭いので、パソコン店にある一番安い機種にしました。 台湾≪acer≫のブランドである、≪eMachines≫のスリム型デスクトップ機、≪EL1352-H22C≫です。 約40000円。 私が今までに買った中では最も安いですが、性能は逆に最も高いです。 いや、もとい、圧倒的に高いです。 こんな高性能は、母が使うパソコンには完璧に不要なんですが、これより安いとなると、中古になってしまうので、致し方無し。

  帰って来て、一服する暇も無く、開梱。 説明書は、複数機種に共用の物らしく、各部名称のページに外形図も載っていません。 内容も雑然としていて、まったく参考になりませんでした。 でも、今のパソコンというのは、コード類さえまともに繋げば、特別なセット・アップ作業なんざ要らないんですな。 勝手に立ち上がり、勝手にネットに繋がり、勝手にプリンターまで認識しました。 見事、見事。

  勝手が違ったのは、OSの≪Windows 7 Home Premium≫が、XPとは操作が全然異なっていた事です。 これだけ違えば、XP機が未だに店頭に並んでいる理由も分かろうというもの。 慣れ不慣れを別にしても、明らかに、XPの方が分かり易いですけんのう。 なんで、コントロール・パネルなんて変えるかなあ。 それでなくても分かり難いのに、ますます分かり難くして、誰に何の得があるのやら。 当然の事ながら、ブラウザも、≪IE 8≫でして、これも私は使いにくいのですが、≪お気に入り≫しか使わない母は、まあ、6でも8でも同じでしょう。

  一番分からないのは、メール・ソフトで、何と、≪Outlook Express≫がついてません。 代わりに、≪Live mail≫というのがあるのですが、これの使い方が全く分からないと来たもんだ。 まあ、母はメールも使わないので、問題無いっつやー問題無いんですが。

  ネットで調べたところでは、≪Windows 7≫では、XP用のアプリケーション・ソフトが使えないケースがあるらしいのですが、それは64ビット版の話だとの事。 私の買ったのは、32ビット版ですし、そもそも、アプリケーション・ソフトを入れる予定が無いので、それもどうでもいいでしょう。

  夕食後には、ほぼ片付きましたが、残った問題は、壊れたパソコンをどうするかです。 中に年賀状の住所録が入っているのでは、おちおち店で引き取って貰う事もできません。 「壊れていても、引き取ります」というのは、ハード・ディスクを抜いた状態でもOKなんすかねえ?

  他にも、私の部屋のプリンターをどうするかとか、まだまだ難問山積なのですが、胃が痛くなってくるので、この日は、新しいパソコンを買って来て、使える状態まで漕ぎ着けた事で良しとしました。  しかし・・・、こんなハード・スケジュールの休日は過ごしたくありませんなあ。 高い買い物をしたというのに、苦しいばかりで、ちっとも楽しくありません。


  有休の一日が怒涛のように過ぎて、夜は普通の時間に床に就き、約9時間眠って、起きました。 一晩眠ったからといって、山積している問題を小人が片付けてくれたわけでもなく、依然として、壊れたパソコンは居間の片隅に不動の趣きで鎮座し、壊れたプリンターも、私の部屋の音楽キーボードの椅子の上で、醜悪な存在感を発し続けています。

  最優先で片付けなければならないのは、壊れたパソコンの処分でして、居間に置いておいたのでは、母が邪魔にするのは必定。 このまま放置しておけば、激怒し、怒鳴り始めるかもしれません。 かといって、私の部屋にも置き場所はありません。 戦場訓に、「死んだ敵は、いい敵だ」という言葉がありますが、死んだパソコンは、最悪の存在ですな。

  パソコン店に電話で問い合わせたところ、ハード・ディスクを抜いた状態でも引き取るとの事。 そこで、出勤前に、車でパソコンを運び、引き取ってもらいました。 100円。 この100円は、私が払うのではなく、店側が私に払います。 形の上では、≪買い取り≫という事になるからです。 なぜなのか理由が分からなかったんですが、どうも、一度引き取って貰った後で、「返してくれ」と言って来る人がいるらしく、それを防止するためのようです。 よし、これで、パソコンの御遺体は片付いた。 よく、8年間、頑張ってくれたな。 ありがとうよ。


  プリンター問題ですが、やはり、新しい物を買う気になれません。 そこで、ホーム・ネットワークを構築して、私のパソコンから、居間のプリンターを操作できるようにしようかと思ったのですが、それをやるためには、わざわざ居間のパソコンも起動せねばならず、思いの外 面倒そうです。 ネット上の物を印刷する場合は、居間のパソコンで同じページを呼び出して刷ればよいので、問題無し。 困るのは、メールの印刷ですが、そんな事は滅多にしないので、その時だけ、居間のプリンターを私の部屋へ運ぶ事にしてもいいでしょう。

  打ち直す事になる年賀状のデータを、居間のパソコンに入れるか、私のパソコンに入れるかも悩むところ。 今回の一件で、下手にデータを入れると、壊れた時にパソコンを処分できなくなってしまう事が分かったので、なるべくなら、居間のパソコンは個人データ空の状態で置いておきたいのです。 一方、私のパソコンは、すでに汚れ捲ってますから、何を入れても構わないわけですが、プリンターが無いのでは、年賀状を刷れません。 まあ、年に一回の事だから、それこそ、居間のプリンターを部屋に運んでくればいいわけですが。

  頭の中であれこれ考えていても埒が開かないので、実際に、ホーム・ネットワークの構築を試してみたのですが、これがうまく行きません。 ネットで調べたところ、7同士なら簡単にできるけれど、XPと7の間だと駄目らしいのです。 なんじゃ、それは? ファイアー・ウオールが働いてしまうためとか書いてありましたが、ホーム・ネットワークで、そんなに壁を厚くしてどうする? マイクロ・ソフトも、変な所で融通が利きませんな。 自社のOS同士くらい、ツーカーで繋げるようにすればいいのに。

  仕方がないので、ホーム・ネットワークは諦め、印刷する時だけ、居間のプリンターを私の部屋に運ぶ事にしました。 幸い、居間のプリンターもキャノン製なので、電源コードとUSBコードは、壊れたプリンターの物が使えます。 本体だけ運ぶのなら、付け替え作業が、かなり楽になります。 重いけれど。 よしよし、これで、プリンターは買い直さなくてよくなったぞ。 ろくに使いもしないプリンターのメンテから解放されるのもありがたい。 自動的に、打ち直す事になる年賀状データは、私のパソコンの方に入れる事に決定。

  壊れたプリンターの処分ですが、これは、ゴミ回収で持って行ってくれるので、問題はありません。 次の≪埋め立てゴミの日≫である8月2日まで、部屋に置いておかなければならないのが鬱陶しいですが、まあ、そのくらいは我慢しましょう。 壊れたパソコンから抜いたハード・ディスクも、分解して、埋め立てゴミに出してしまおうと思っています。 まあ、取っておいても、邪魔になる大きさではありませんけど。


  今回の教訓ですが、とにかく、重要なデータは、バック・アップを取っておく事ですな。 これは、パソコン関係のどんな本を読んでも、どんなサイトを見ても、必ず、くどいほど繰り返して書いてありますが、こういう事があると、つくづく、「もっともな忠告だなあ」と痛感します。 逆に言うと、失ったのが年賀状データくらいで良かったです。 時間をかければ、打ち直しで、復元可能ですから。

  も一つ、教訓。 パソコンが壊れても、保証期間中でもない限り、「修理に出そう」などとは、ゆめゆめ思わない事です。 パソコンを引き取って貰った時に、修理の料金表というのを見ましたが、思っていた通り、目を剥くような金額でした。 一番安い、≪データ消去&廃棄≫でも、5000円。 それより上は、どんなに簡単な修理でも、一万円以下というのはありません。

  古いパソコンに、1万円以上かけるなら、新品を4万円で買った方が、断然良いと思います。 「データを救いたいから」という理由で、金に糸目をつけずに依頼する方もいるでしょうが、結局駄目でも、手間賃は取られますから、こいつは、悩むところですな。 単なる思い出だけなら、消えたしまったデータに、あまり執着しない覚悟も必要なのかもしれません。 パソコンが無かった時代には、そんなデータも存在しなかったわけですから。

2010/07/11

Justice L3

  ≪ハーバード 白熱教室≫、マイケル・サンデル教授の講義、≪Justice(正義)≫の、第三回です。

  ところで、この講義、24コマあるわけですが、もしこのブログで、週に1コマずつ取り上げていくとすると、24週間かかるわけで、半年近く埋まってしまう事になりますな。 「いいのか、これで?」と、思わんでもなし。 最初は、「自分でテーマを探さなくても済むから、楽でいいわ」などと思っておったのですが、いざ始めてみると、録画を見直すのに結構時間がかかるし、分かり易く噛み砕かれているといっても、やはり、哲学関係の話は頭にかかる負担が大きいのです。 事によったら、いい加減かったるくなった所で打ち切るかもしれませんが、そうなっても悪しからず。


    さて、レクチャー3は、【ある企業のあやまち】です。 ベンサムの功利主義が正しいかどうかを検討し始めるわけですが、講義の誘導の方向を見るに、サンデル教授が、功利主義を間違っていると捉えているのは明白で、功利主義的な考え方の特徴が見られる血も涙も無い事例をいくつか挙げて、「さあ、これでも、功利主義は正しいと思うか?」と、学生達に問いかけます。

  槍玉に上がるのは、損失を回避するために企業が行なう、極端な、≪費用便益分析≫です。 ≪費用便益分析≫とは、ある事を行なおうとする時、かかる費用と、それによって得られる便益を天秤にかけ、やるかやらぬか決めるという判断方法で、それだけならば、一般的にも用いられています。 個人でも、何かを買う時に、この種の計算をしている人は多いと思います。 くれぐれも、≪費用便益分析≫自体が悪いわけではありません。 ここで、教授が取り上げているのは、それが、人命を軽視するほど、極端な方向へ振れてしまった場合の話です。 以下、要点だけ纏めた引用。

≪≪≪≪≪
  最近、チェコ共和国で、タバコの消費税率を上げようという提案があった。 そこで、チェコで大規模な事業展開をしている、アメリカのあるタバコ会社が、チェコに於ける喫煙の費用便益分析を行なった。 その結果、「チェコ政府は、国民の喫煙によって、得をする」という事が明らかになった。 喫煙により病気になる人々への医療費の負担は増えるが、タバコ関連商品の販売による税収と、喫煙者が早死にした場合に政府が節約できる、医療費、年金、住宅費用などを足すと、便益の方が高くなる。 人々が喫煙した場合、チェコ政府の純収入は、1億4700万ドル増加する。 その内、喫煙で早死にした場合、節約できる金額は、一人当たり、1227ドルである。
≫≫≫≫

  この例は、人間の命を計算に入れていないので、もう一つ別に、命に値段をつけた例が挙げられます。

≪≪≪≪≪
  70年代に、アメリカの自動車会社が発売した、≪ピント≫という車があった。 小型車で、とても人気があったが、燃料タンクが後方にあり、後ろから追突されると、炎上するという問題点があった。 事故で亡くなった人もいれば、重傷を負った人もいた。 被害者達は、このメーカーを訴えた。 その訴訟の中で、メーカーが随分前から、燃料タンクの弱点を認識していた事が明らかになった。 タンクの周りに保護シートをつける事を考え、それを実行する価値があるかどうか判断するために、費用便益分析を実施していたのだ。 車の安全性を向上させるためにかかる費用を一台当たり、11ドルとすると、1250万台の車の安全を向上させるには、1億3700万ドルかかる。 一方、それを行なった時に得られる便益は、死者が180人で、一人当たりの価値を20万ドル、負傷者も180人で、一人当たり、6万7000ドル、事故を起こして炎上する車は2000台で、一台当たり、700ドル。 これらを合計すると、便益は、4950万ドルにしかならなかった。 そこで、メーカーは、車を直さなかった。
≫≫≫≫≫

  前者の例では、世論の批判を受けて、タバコ会社は謝罪し、後者の例では、裁判で陪審員達が、巨額の和解金の支払いをメーカーに命じたそうです。

  教授は、二つの例を挙げた上で、学生達に、この極端な費用便益分析を弁護する意見が無いか訊きます。 ところが、ここで何を聞いていやがったんだか、ある女子学生が、「このメーカーは、遺族の苦痛や喪失感を考慮していない。 それは20万ドル程度のものではない」と、弁護どころか、反対意見を口にします。 だからよー、教授の話をよく聞けよ。 弁護する意見を求めているのに、なぜ、批判意見を言うかな? ボケとんのけ?

  この女子学生、教授から、「では、いくらなら妥当だと思うか?」と問われて、「数字で表せるものではない。 人の命をこの種の分析に利用すべきではない」と、保険会社の人が聞いたら、仰天するような事を、平気で言います。 ただの世間知らずか? そんな事を言い出したら、すでに何百年もの歴史がある、生命保険制度そのものが成り立たたんではないか。

  この後、男子学生から、「インフレを考慮しないと」という意見が出て、会場が大ウケします。 頓珍漢な提案だと思われたんでしょう。 しかし、インフレを考慮して、金額を今の価値に換算するのは、マジな話、大変重要な事でして、その男子学生が教授から、「今なら、いくらになると思う?」と訊かれ、「200万ドル」と答えると、会場の雰囲気は、だいぶ変わります。 今のレートで、日本円にすると、2億円弱ですか。 その程度なら、大概の遺族が、少なくとも、補償金額としては、納得すると思います。 一人の人間が、一生稼いでも、普通、2億円まで達しませんからのう。

  この後、別の男子学生が、命の値段を、「100万ドル」と言いますが、それでも、理不尽と感じる額ではありませんな。 問題は、こういう、現代の感覚で計れる金額が出て来ると、それまで、命の金額換算に反発していた学生達も、「そのくらいなら、妥当か・・・」と思い始めるという事です。 数字の魔力が発揮されているわけです。

  教授が、極端な費用便益分析の弁護意見を更に求めると、ある男子学生が、「もし、費用便益分析をしていなかったら、どの自動車メーカーも利益を出せず、倒産してしまうだろう。 そうなれば、何百万もの人達が、車に乗れなくなり、生活に支障を来たし、より多くの幸福が犠牲になっていた」と、ようやく、それらしい弁護意見を述べます。

  ここで、教授が、運転中の携帯電話に関して、「それが引き起こす事故による損失と、運転中に電話を使える事による便益を比較したら、ほぼ同じである事が分かった」と言い、それについて、同じ学生に意見を求めると、やはり、「満足には犠牲がつきものだから、仕方が無い」と答えます。 この学生は、教授から、「君は、完全な功利主義者だ」と言われ、少し照れながら、自分でもそれを認めますが、教授は功利主義を批判する立場ですから、別に誉められたわけではありません。

  この後、教授が、費用便益分析も含めた功利主義の問題点を指摘するよう、学生達に求めると、ある女子学生が、「少数派が蔑ろにされている点が問題だ」と言います。 これは、かなりテーマから外れているような気がします。 命に値段をつけられるかという話をしているのであって、「なんで、ここで、少数派問題やねん?」と首を傾げてしまうのですが、教授は、「面白い意見だ」と、一応、評価します。 それは、たぶん、後々の講義で、少数派問題が大きなウエイトを占めるようになるので、ここで邪険にしないように配慮したのでしょう。 

  この学生、事によったら、教授の著書を読んでいたか、前年の講義内容を知っていて、先回りして教授の自説に近い意見を述べ、気を引いて、≪いい子ちゃん≫になろうとしたのかもしれません。 もし、そうだとしたら、こういうズルい学生は、いつどこにでもいるものですが、そのズルさ故に、≪正義≫を語る資格があるかどうかは、大いに疑問です。

  ここで教授は、功利主義を弁護する学生に向かって、「古代ローマでは、娯楽のために、キリスト教徒をライオンと戦わせていた。 これを功利主義の理論に当てはめると、キリスト教徒の痛みや苦しみと、大勢のローマ人の集合的なエクスタシーでは、どっちが大きいだろう」と、問います。 これに対する学生の答えは、「それは昔の話で、今の為政者は、そんな事はしない」というものでした。 しかし、これでは答えになっておらず、この場合、時代は関係ありません。 教授に問い詰められて、この学生はそれ以上の答えに詰まってしまいます。

  この後、教授が、一つの調査を紹介します。 「1930年代に、ソーンダイクという心理学者が、人間が関る全ての行為を一律な基準で表す事は可能だと考え、それを証明しようとした。 政府から生活保護を受けている若い人達を対象に調査を行なった。 不愉快な行為のリストを渡して、いくら貰えば、それをしてもいいかを訊いたのだ。 たとえば、

・ 上の前歯を一本抜く。
・ 片方の足の小指を切断する。
・ 15センチのミミズを生きたまま食べる。
・ カンザス州の農場で残りの人生を送る。
・ 素手で野良猫を窒息死させる。

  などだった。 この中で最も高い金額が付いたのはどれだと思う?」

  答えは、カンザス州の農場で、30万ドル。 二番目は、15センチのミミズで、10万ドル。 一番安かったのは、前歯だったとか。 ソーンダイクは、この調査から、「人間の行為は、すべて、一律の価値基準で表せる」という結論を出したらしいのですが、サンデル教授は、どうもこの結論に懐疑的なようで、「馬鹿げた例を挙げて調査を行なった事で、それとは正反対の事が示されたのかもしれない」と言って、講義を締めくくります。


  で、以下は、私の意見ですが、

  まず、タバコ会社の費用便益分析ですが、「早死にするから、国の費用は却って少なくなる」という結果には、目から鱗が落ちる思いがしました。 なるほど、そうか。 それなら、悪い話ではありませんな。 私のように、喫煙者を心から恨んでいる者にとっては、非常に小気味よい話です。 ただ、タバコの規制を一切やめて、逆に奨励するような事になれば、受動喫煙で、非喫煙者も早死にするわけで、喜んでばかりもいられません。 もし、自分に火の粉が降りかからないのであれば、文句は無いんですが。

  いや、個人的な都合はさておき、一般常識で考えるなら、このタバコ会社の計算は、批判されて当然でしょうな。 基本的に、この世の中は、人命を最も尊いものとして成り立っています。 人命より尊いのは、人命だけなわけです。 それを軽んじているのは明白で、人類の普遍的価値観に対して、不適な挑戦をしていると言っても良いです。 理屈以前に、こういう考え方で商売をしている会社のタバコを、喫煙者が買わないでしょう。 費用便益分析で、チェコ政府は得をしても、この会社はイメージ・ダウンで損をするわけですな。 費用便益分析が有効だとしても、このケースでは、その効用を活かせていない事になります。

  燃料タンクを直さなかった自動車メーカーも、同じです。 誰が聞いても背筋が凍るような、冷血な計算をして、それで、陪審員や原告を納得させようというのが、土台、無理なのです。 結果的には、和解金の支払命令や、企業イメージのダウンにより、莫大な損失を出すのであって、これでは、ちっとも、得になっていません。 費用便益分析に問題があるというより、考慮に入れるべき範囲が狭すぎて、近視眼的な結論を出してしまっているだけなんじゃないでしょうか。 もし、裁判や企業イメージの事まで含めて、費用便益分析をしていたら、違う結果になっていたろうと思います。

  ローマ人が、キリスト教徒をライオンと戦わせていた話ですが、人命が失われる恐れが極めて高い場合、上に述べたように、人命の尊重は人類の普遍的価値観ですから、それに比較できる価値は人命以外に存在しないという事になり、ローマ人達の集合的なエクスタシーなど、端から天秤にかけられません。 なんで、ズバッと、そう答えてやらんのかのう? 簡単な答えだと思いますが。

  ソーンダイクの調査も面白いですな。 ≪カンザス州の農場≫がトップというのは、若者だから、そういう結果になったのでしょう。 私だったら、挙げられている例の内、唯一受け入れてもいいのは、そのカンザスです。 それ以外は、金の事など一切気にしなくて良い左団扇の生活と引き換えでも、御免被ります。 自分の体を傷つけるのは、問題外。 猫を殺すなど、以ての外。 ミミズはそれほど良心が痛みませんが、自分の健康の方が心配です。 カンザスの農場は、行った事も見た事も無いから、どんな所か分かりませんが、体力相応の仕事を割り振ってくれるのであれば、別に文句はありません。

  そういえば、最も嫌がられたのが、カンザスの農場であると教授が言った時、学生達が大爆笑しましたが、講堂の中には、カンザス出身の学生もいたと思われ、彼らの気持ちを考えると、この講義自体が、≪正義≫を語るに値しないような気がせんでもないです。 なぜ、笑う? カンザス州を田舎視しているからに決まってますが、カンザス州側にしてみれば、笑われる筋合いは微塵もありますまい。 サンデル教授、一緒になって笑ってましたが、一体、どういうつもりなのか? このネット時代、マサチューセッツにいようが、カンザスにいようが、知的活動に差が出るとは思えませんから、いっそ、ハーバード大学ごと、カンザス州に引っ越したらいかが?


  サンデル教授は、何とかして、功利主義の欠点を学生に印象づけようとしているようですが、私としては、功利主義そのものが間違っているのか、効用を判定する範囲の設定が間違っているだけなのか、今のところ判断しかねています。 もし、使い方を間違えているのだとしたら、ベンサムが草葉の陰で黙っちゃいますまいて。

2010/07/04

Justice L2

  ≪ハーバード 白熱教室≫、マイケル・サンデル教授の講義、≪Justice(正義)≫の、第二回は、【サバイバルのための殺人】です。

  まず、前回触れた、≪帰結主義≫の中で、最も大きな影響力を持っている、≪功利主義≫について、ざっと説明し、「正しい行いとは、効用を最大化する事だ」、「苦痛よりも快楽、受難よりも幸福」、「最大多数の最大幸福」といった言葉で表される、ジェレミー・ベンサムの思想を紹介します。 でも、そういう前置きはどうでもよくて、今回の眼目も、学生達に向けて出された質問です。 今回の問いの題材は、架空の設定ではなく、生々しい実話。 以下、引用します。


≪≪≪≪≪
  19世紀(1884年)、ミニョネット号というイギリスの船が、南大西洋の、喜望峰から2000キロ離れた所で沈没した。 乗組員は四人。 船長のダドリー、航海士のスティーブンス、船員のブルックス、この三人は人格的に申し分ない人達だった。 もう一人、給仕として乗り組んでいた、パーカーという17歳の少年がいたが、彼は孤児で身寄りが無く、それが初めての長い航海だった。

  船が沈没し、四人は救命ボートへ避難した。 食料は、蕪の缶詰が二つだけで、真水は無かった。 最初の三日間、何も食べずに耐えた。 四日目に蕪の缶詰を一つ開けて食べた。 翌日、海亀を捕まえた。 それから数日間は、もう一つの缶詰と海亀を食べて持ちこたえた。 それ以降の八日間、水も食料も無かった。 給仕パーカーは、ボートの底に横たわっていた。 他の者の忠告を無視して、海水を飲んだために具合が悪くなっており、死が近いように見えた。

  19日目に、船長ダドリーは、みなでくじ引きを行い、「残りの者を助けるために、誰が死ぬかを決めよう」と提案した。 しかし、船員ブルックスが拒否したため、くじ引きは行なわれなかった。

  20日目、船長ダドリーは、船員ブルックスに見ないように言い、航海士スティーブンスに、「パーカーを殺そう」と合図した。 船長ダドリーは祈りを捧げ、給仕パーカーに、「お前の最後の時が来た」と告げ、ペンナイフで頚動脈を刺して殺した。 船員ブルックスは、給仕パーカーが死んでしまうと、その死体を食べる事には加わった。

  四日間、彼らは、給仕パーカーの体と血液で生き長らえた。 三人の生存者は、遭難から24日目に、ドイツの船に救助されて、イギリスに連れ戻されると、逮捕され、裁判にかけられた。 船員ブルックスは国側の証人になった。 船長ダドリーと航海士スティーブンスは裁判にかけられた。 彼らは事実については争わず、「必要に迫られての行為だった」と主張した。 「三人が生き残れるのなら、一人の犠牲は仕方がない」と論じた。 検察官はその議論に惑わされず、「殺人は殺人である」といい、事件は裁判にかけられた。
≫≫≫≫≫


  サンデル教授は、そう事件の経緯を説明した後、学生達に向かって、「自分が陪審員だと想像して欲しい。 議論を単純にするために、法律的な問題は横において、君達は、彼らが道徳的に許されるか否かのみを判断する責任を負っていると仮定する」と、問いかけます。 この、裁判仕立ての質問の仕方がまずかったようで、学生達は、最初少し混乱します。 「法律的には無罪でも、道徳的には非難される場合がある」といった、わざわざ断るまでもない基本的な事を改めて口にしたり、「長い間、食べずにいたのだから、精神的に影響を受けていたと思われ、その点を弁護に使えるかもしれない」といった、道徳議論とは無関係な意見が飛び出したりします。

  ハーバードといえば、アメリカの大学の名門中の名門で、入学基準も国内で最も厳しいそうですが、そんな優秀な頭脳を持った学生達でも、議論の方向性、つまり、サンデル教授が何について話をしているのか、自分達にどんな意見を求めているのかを、すぐには呑み込めないようでした。 いつまでたっても、テーマと関係が無い頓珍漢な意見が出続ける、日本人の≪議論もどき≫ほどひどくはないですが、この後も、本道から逸れる意見が、ちょこちょこ出て来ては、サンデル教授に、やんわりと立ち退けられる場面が見られます。

  まず、「道徳的に、許されるか許されないか」について問うと、大多数の学生は、「許されない」と答えます。 割合は、8対2です。 この数字も面白いですな。 日本の学生だったら、もっと均衡するんじゃないでしょうか。 もし、「どちらなのか判断できない」という選択肢を追加したら、全体の半数は、それを選ぶと思います。 アメリカ人には、子供の頃から、道徳上の罪について、白黒はっきりさせるよう教育されているのかもしれません。 映画を見ているだけでは分からない、アメリカ社会の特徴ですな。

  次に、「殺される当人の同意を得ていたら、許されると思うか」が問われます。 ちょっと、不自然な仮定のように思えますが、この場合、プレッシャーをかけて迫る実質的な強制ではなく、あくまで、自発的な同意である事が前提になります。 この問いには、「許される」と答える学生が多かったです。 続けて、「もし、船長が提案したくじ引きが行なわれていて、給仕パーカーがそれに当たっていたとしたら、彼を殺す事は許されるか」と問うと、「許される」と答える学生の数は、更に増えます。 

  ここで、「そもそも、カニバリズムは、許されない」という意見が出ます。 カニバリズムとは、人間が人間を食べる行為の事です。 ただ、この意見は、重大な問題ではありますが、議論のテーマからは外れているせいか、賛同者が出て来ません。 教授が、「すでに死んでいたとしても、食べる事は許されないか」と問うと、「許されない」という答え。 「(この情況で)殺す事が許されるか許されないか」がテーマなのですから、もう完全な逸脱ですな。 食人不可を言い出したら、「遭難者は、餓死して当然」という事になってしまい、この議論そのものが成り立ちません。 大体、「なぜ、カニバリズムは許されないのか」について語り始めたら、この議論よりも遥かに大きな問題になってしまいます。 

  最後に、「くじ引きなどによる公正な手続きや、殺される当人の同意があったとしても、尚、この行為は許されない」と思う者の意見が訊かれます。

  ある学生は、船長ダドリーが、日記に、救助された時の様子を、「24日目に、私達が≪朝食≫を食べていると、ふいに船が現れた」と書いている点を指摘して、「良心の呵責が感じられず、許されない」と言います。 しかし、これも、テーマからズレていますな。 船長ダドリーが、どういうつもりで、≪朝食≫という表現を用いたかは分からないのであって、単に、昼食や夕食と区別するためだけに、そう書いた可能性もあり、それだけでは、良心の呵責が無いとは判断できません。

  別の学生は、「殺人は殺人であり、どんな情況であっても、例外を作るのは許されない」と言います。 教授が、「生き残った三人には、故郷に養っている家族がいた。 一方、給仕パーカーは、身寄りが無い孤児だった。 三人が死ねば、彼らの家族も路頭に迷う事になったが、それでも許されないか」と訊いても、「殺人は殺人です」と答え、「もし、これが3人ではなく、30人、300人、戦争中で3000人の命がかかっていたとしたらどうか」と訊いても、やはり、「殺人は殺人です」と答えます。 頑なですな。 あまり頑ななので、頼もしささえ感じますが、しかし、この「殺人は殺人」という言葉、事件当時の検察官の使った言葉でして、どうも、それに影響されているだけのような気もします。


  この講義、どこを切っても、実に知的で面白いんですが、学生達の意見が思い思いに広がってしまい、サンデル教授が進めたい方向になかなか纏まってくれないという弱みがあります。 この回で、最終的に教授が導きたかったのは、

1. どこから、基本的権利は来ているのか?
2. 公正な手続きは、どんな帰結も正当化するか?
3. 同意の道徳的な働きは何か?

  という三つの質問の提起だったらしいのですが、学生との議論だけ聞いている分には、話はそんな方向には進まなかったのであって、最後に教授一人が強引に引っ張って纏めたようにしか見えません。 しかし、もともと、難しい方法で講義を進めているのですから、あまり厳しい事は言うべきではないのかも知れません。 あくまで、講義が目的なのであって、学生の意見を聞くのは、その手段の一つに過ぎませんから。


  で、この、≪ミニョネット号事件≫に対する私の意見ですが、もし、私が陪審員だったら、答えは出せません。 こういう極限状況においては、その場にいたものにしか判断できない事柄があるのであって、陸で何の苦労もせず、たらふく飲み食いしていた人間に、彼らを裁く資格はないと思うからです。 当時のイギリスの法廷でも、陪審員達は、「違法性があるかどうか、判断できない」と評決したそうです。 妥当ですな。 ちなみに、当時の裁判は、その後、高等法院に持ち込まれて、有罪、死刑とされたものの、世論の反対が強く、女王の特赦で、禁固6ヶ月に減刑されたそうです。 まあ、さんざん苦労した上に、国に帰って死刑にされたんじゃ適いませんわな。

  しかし、陪審員としては判断不能ですが、もし、給仕パーカーの立場だったとしたら、船長と航海士を許しはしません。 冗談じゃねーす。 それでなくても苦しい思いをさせられているのに、その上、殺されてたまるもんですか。 その情況で犠牲にならなければならない理由など、ロボロフスキー・ハムスターの小指の爪の先ほどもありゃしません。 他の三人は、故郷に家族がいる? 馬鹿おっしゃい! 家族が困るといっても、餓死するわけでも殺されるわけでもありますまいに。 なんで、そんな見ず知らずの連中の生活を安んじてやるために、自分が殺されなければならんのよ?

  そもそも、家族なんて、職務と全然関係ないではありませんか。 ちなみに私は、扶養手当とか、育児手当とか、役所や企業が行なっている、そんな制度にも、根本的・全面的に反対です。 職場へはみな、仕事をしに来ているのであって、家でどんな生活をしていようが、知ったこっちゃありません。 そんな事は、互いに干渉されたくもないし、特殊な条件にある人間だけを、他の人間が助けてやる義務も無いと思います。 なんで私が、見ず知らずのおっさんの、輪を掛けて見ず知らずの家族の分まで働かなきゃならんのよ。 理不尽にも程がある! 責任者はどこか!

  他方、もし、船長の立場だったとしたら、とりあえず、給仕パーカーが死ぬのを待ちます。 死ぬ寸前でも、死んだ直後でも、食料としてのパーカーに、さほどの違いはありません。 死んだ後なら、障碍になるのはカニバリズムの問題だけで、法律的には、罪に問われる事はないと思われるからです。 もし、航海士や船員の立場だったら、船長に、「後々、厄介な問題になりかねないから、パーカーを食べるにしても、死ぬのを待とう」と進言します。 

  つまり、もし、私だったら、船長と航海士が取った行為は、選ばなかったという事になりますな。 ただ、だからといって、私は彼らの行為を裁く事はできません。 それは、陪審員の立場の所で述べた理由によります。

  この事件の場合、たまたま、三人が助かったから、裁判の対象になったわけですが、もし全員死んだ後でボートだけ発見され、最後の一人によって記録されていた事件の顛末が世に知れたとしたら、彼らが行なった殺人行為を非難する者がいたかどうか、大いに疑わしいです。 現在でも、こういう難波漂流事件は起こりますが、生き残った人間を罪に問う事はほとんど無いのではないでしょうか。