2015/07/26

シュンの記録①

  シュンが死んでから、二週間が経ち、ペット・ロスは、だいぶ、薄らいで来ました。 閑なので、ほぼ毎日、お寺へ行って線香を上げていますが、それも、その内、間が開いて行く事でしょう。 そもそも、犬は、線香や花なんか上げてもらっても、臭がるだけで、喜びゃしないと思うんですが、悼む方法が他にないから、致し方なし。 庭に埋めれば、こんな事にはならなかったんですが・・・。


  このブログは、元々は、私が、2001年に立ち上げたホーム・ページのコラムだったものを、独立させた物です。 そのホーム・ページは、細々と続けられ、2014年の4月に、同名のブログに移行して、今に至ります。 開設当初は、亀サイトだったのですが、写真を日替わりで出していたので、亀の写真だけでは、変化がなく、犬のシュンにも、早い段階から、登場してもらいました。 シュンの登場回数を、写真の枚数で、年毎に追うと、以下のようになります。

2001年 4
2002年 35
2003年 41
2004年 47
2005年 22
2006年 23
2007年 7
2008年 5
2009年 5
2010年 1
2011年 3
2012年 4
2013年 4
2014年 1
2015年 1

  こうして見ると、初期の頃は、シュンの写真に頼りまくっていた事が分かります。 まだ、ホーム・ページの掲示板で、ネット交友をしていたので、シュンの写真は、動物好きの人達に喜ばれました。 2004年が多いのは、亀の写真より、犬の写真の方が気に入っていた、ピークだったのだと思います。

  2007年から、急激に減っていますが、それは、ホーム・ページが、リニューアルして、一般サイトに変身し、「亀には限らないが、基本的に、動物サイト」という縛りがなくなったせいです。 しばらく、写真サイトの真似をして、芸術写真風の写真を出していたせいもあり、亀や犬の出番が、なくなってまったんですな。

  1枚だけという年があるのは、私自身、驚いています。 2010年と言ったら、まだ、シュンは、庭で寝起きし、普通に歩いていた頃ですが、なんで、こんなに少ないんでしょう? 私がシュンに、興味がなくなったんでしょうか? アップ用に加工していない元写真を見ても、一年間に、10枚くらいしか、撮影していません。 これは、他の少ない年も同じです。

  推測するに、すでに、シュンの存在が、空気のようなものになってしまって、わざわざ写真を撮りたいと思わなくなったのだと思います。 シュンが、写真嫌いで、カメラを向けると、そっぽを向いてしまうので、「嫌がるのを、無理に撮る事はないか」と思った事もありました。 2014年の冬以降になると、シュンは寝たきりのオムツ生活になり、ますます、人様に見せる写真の対象にはならなくなってしまいました。


  今回から、3回に分けて、今までに、ホーム・ページやブログにアップした、シュンの写真を掲載します。 サイズが小さいものは、組み写真にしました。 2005年以前のものは、写真を替えるたびに、解説文を消去していた関係で、記録が残っていません。 やむなく、記憶を掘り起こして、新たに、解説を付けました。 全部では大変なので、多い年の分は、印象的なものだけ、選んで出す事にします。



【2001年】
  この年は、何と言っても、初めて、パソコンを買い、インター・ネットを始めた年で、印象深いです。 デジカメを、初めて買ったのも、この年。 富士山に、初登山もしています。 初めてやった事が多かった年ですなあ。 シュンは、家に来て、2~3年目で、3歳になる年です。


≪上左≫
  2001年の10月21日に、ホーム・ページを開設し、しばらくは、亀の写真だけだったのですが、毎日替えていたら、すぐに払底して来たので、12月の半ばから、シュンの登場となりました。 場所は、庭から家に入る時の通り道になっていた、旧居間の窓際です。 冬ですから、日が横から差し込んでいます。

≪上右≫
  これも、旧居間で撮ったもの。 普通、柴犬の大きさだと、家の中には入れないものですが、うちの場合、初めての犬で、よく分からず、犬の好きにさせていたので、子供の頃から、自由に出入りしていました。

≪下左≫
  私の部屋で撮った横顔。 手前味噌ですが、シュンは、柴犬の中でも、顔立ちは整っている方だったと思います。

≪下右≫
  これも、私の部屋で撮ったもの。 寝てますな。 若い頃は、自分でポンポン階段を上がって、しょっちゅう、二階に来ていました。 ちなみに、この時、2歳ちょっとです。



【2002年】
  この年に、バイクを買い換え、それには、今でも乗っています。 パソコンを2台も買いました。 1台は、居間に置き、もう1台は、私のと入れ替えて、私が使っていたのを、父の部屋に移しました。 ハムスターを飼い始めたのも、この年です。 金太という名前の、白いジャンガリアンでした。 シュンも、私の部屋に来た時に、何度か、金太に会っているのですが、ほとんど、興味を示しませんでした。


≪上左≫
  場所がどこか分かりませんが、ホーム・ページの掲示板で、シュンの写真が好評だったので、アップを撮ろうと思ったら、拒絶され、こんな顔になったもの。 この写真を、「可愛い」と言ってくれる人がいて、嬉しかったです。

≪上右≫
  同じ時に撮ったもの。 デジカメにしてから、フラッシュは使っていなかったんですが、まだ、子供の頃、フィルム・カメラでフラッシュを使ったのが、記憶に焼きついたらしく、カメラを向けると、目をつぶる癖がついてしまいました。

≪下左≫
  場所は、居間か、旧居間です。 こうやって、完全に横になる姿勢は、若い頃には、珍しくて、たいてい、腹這いになって寝ていました。 柴犬の口先は、なんとなく、昭和の泥棒っぽいですな。 1999年の1月に、うちに来たばかりの時には、まだ、口先が、黒っぽかったです。

≪下右≫
  居間で撮った、足の裏。 ホーム・ページの掲示板で、「肉球が見たい」という人がいたので、密かに苦労して、脚を持ち上げて、撮りました。 シュンは、脚に触られるのを非常に嫌がり、特に、前脚は、触られた瞬間に、すぐに振り払いました。 犬にとって、脚は、何よりも大事な部位なのでしょう。


≪上左≫
  二階の廊下に腹這いになり、私の部屋の中を片目で覗いているところ。 私の部屋の前にいる時には、土曜か日曜の午前中で、散歩に連れて行ってくれるよう、無言の圧力をかけに来ているのでした。

≪上右≫
  家の横に設けられた、柵の潜り戸の所です。 飼い始めた当初は、紐で繋いでいたんですが、「少ししか動けないのでは、可哀想だ」という事になり、父が、二ヵ所に柵を作って、庭からの出口を塞ぎました。 そのお陰で、裏庭を自由に歩き回れるようになったのですが、こんな風に、柵に鼻先を突っ込んで、往来の様子を眺めている事が多かったです。

≪下左≫
  部屋は不明ですが、家の中で、寝ているところ。 左前脚がどこに入っているのか、何となく、不思議なポーズです。

≪下右≫
  撮影は、6月頃です。 暑い季節には、仰向けになる姿が、よく見られました。 これも、部屋が分かりません。 13年も前だと、記憶が、真っ白に近いです。 壁が写っていれば分かるんですが、この頃は、写真の元データも消してしまっていたので、調べようがありません。 ちなみに、使っていたのは、オリンパスの「C2」というコンパクト・デジカメで、それは、今でも、使える状態で残っているのですが、乾電池の消耗が激しいので、お蔵入りになっています。


≪上左≫
  庭に亀を出したら、興味津津で、追いかけていました。 亀の甲羅を舐めるのが好きで、見ていて、気持ちが悪いくらいでした。 それで、病気にもならなかったのですから、消化器系が丈夫だったんですなあ。 写っている亀は、今は亡き、ハナガメの「葉菜(はな)」です。 大きな亀でしたが、犬と比べると、こんなものです。

≪上右≫
  二階の、流しの前で眠るシュン。 私の部屋の前でもあるのですが、私がなかなか散歩に行かないと、待ちくたびれて、寝てしまうのでした。

≪下左≫
  沼津御用邸公園裏の砂浜を走るシュン。 私は、母の車にシュンを乗せて、最寄のスーパーまで行き、そこから歩いて、御用邸裏の海岸に、よく行きました。 人がいない時に放すと、全力疾走して、すでに30代後半だった私では、まったく追いつけませんでした。 紐をつけたままなのは、捕まえ易いから。

≪下右≫
  同じ場所ですが、牛臥山をバックにして撮りました。 死んだ後、この山の麓のお寺に眠る事になるとは、この時には、思ってもいませんでした。 左の写真と、この写真の二枚は、バンダイのトイ・カメラ、「FSTYLE mini」で撮ったもの。


≪上左≫
  仰向けになったところを狙い、顎の下側を撮影。 上唇が重力で捲れています。 犬の口には、唇があるものの、しっかり閉まるわけではないので、水などは、みんな漏れてしまいます。

≪上右≫
  欠伸をした後の顔。 犬も欠伸します。 くしゃみもします。 咳は、あまり聞かなかったです。 えずく事もあります。

≪下左≫
  後頭部。 この辺のデザインは、大変、美しいです。 特に、耳は、芸術品レベル。 この美しさは、死ぬまで、変わりませんでした。

≪下右≫
  二階の階段の前で、亀を観察するシュン。 私が亀の水換えをしている時に、散歩の催促で、上がってきて、立ち会う事がよくありました。 この後、やはり、甲羅を舐めたと思います。 この亀は、マレーハコガメの「稀枝(まれえ)」で、シュンよりも先輩ですが、今でも、ピンピンしています。


【2003年】
  この年、会社で、職場が古巣に戻った以外は、大した事が起きていません。 遊びに行ったというと、富士山麓にある遊園地、「日本ランド」に行っていますが、一人で行くようなところではなかったです。 平穏といえば平穏、退屈といえば退屈、日常生活に満足していたから、自分から変化を求めなかったのかも知れません。 シュンについても、写真に残っている以外、特別な記憶がありません。


≪上左≫
  台所にて。 ダイニング・キッチンなので、食堂でもあります。 この頃のシュンは、夕飯時になると、台所で先に御飯を食べて、人間が食べ始めると、食べ足りない分をせがむというパターンでした。 この食事の順番は、犬の躾的には、「×」ですが、シュンには、躾をしなかったというか、する気がなかったというか、仕方を知らなかったというか、とにかく、何も躾けなかったので、母が夕飯を用意する順番上、自然にそうなってしまったのです。

≪上右≫
  散歩先で、オシッコ。 子供の頃は、家の中で出してしまい、襖をよーく駄目にされましたが、散歩に行くようになると、家の中はもちろん、庭ですらしなくなりました。 これも自然に、そうなったもの。 まったく躾をしないと、犬の本能が分かるメリットがあります。 オスなので、後ろ脚を高々と上げて、少しでも高い所に、ふりかけようとします。

≪下左≫
  玄関マットの上で眠るシュン。 まだ、3月頃なので、多少暑苦しい所でも、眠れたわけだ。 時々、たたきに落ちる事がありましたが、若い頃は、30センチくらいの落下は、何ともなかったです。

≪下右≫
  居間の窓際で、夜に撮ったもの。 笑っているように見えますが、ナニコレ珍百景に出てくるような、「笑う犬」の笑顔とは、本質的に違うようです。 皮色の首輪は、この頃、母が買って来た物で、それまで、ずっと黒をしていたので、「似合わない!」と私が反対したのですが、奇妙なもので、もっと歳を取ったら、何色でも、全然気にならなくなってしまいました。


≪上左≫
  5月頃。 私の部屋です。 散歩の催促に来たんでしょうな。 行儀よく、お座りをしていますが、今にして思うと、シュンが、この姿勢を取るのは、人間に何かをしてもらいたい時だけだったのかもしれません。 食事の時に、お座りをさせてから、食べ物をやっていたので、「この格好をすれば、願いが聞いてもらえる」と思っていた可能性が高いです。 

≪上右≫
  8月頃。 旧居間で、ガラス越しに、外を見ています。 窓を閉めてあるところを見ると、雨の日だったのかも知れません。 ちょっと、意外な感じがするかもしれませんが、シュンは、夏場の方が、家の中にいる時間が長かったです。 夜は、エアコンが利いた母の部屋で過ごしていました。

≪下左≫
  尻尾。 割と、無防備で、触っても、怒るような事はありませんでした。 柴犬の事とて、若い頃は、常に、巻き上がっていて、こんな風に伸ばしても、巻き癖がついており、あまり、いい形とは思いませんでした。

≪下右≫
  8月の終わり頃。 庭にプレハブの離れがあるのですが、その前の、塀際に、土が出ている所があり、よく、そこで寝ていました。 やはり、犬に土は、必要なんですなあ。 シュンが穴を掘ると、母と父が埋めるという攻防が、何度も繰り返されました。 掘りたいのだから、好きに掘らせてやればいいと思うのですが、私は庭について、管理権がなく、言っても、聞いてもらえませんでした。


≪上左≫
  プレハブの前。 しばらく、口を閉じていても、暑いので、やがて、舌を出し、「ハッ、ハッ、」言い始めます。 シュンの舌は、このくらいでは、あまり出ていない方で、欠伸の時、全部出すと、この、1.5倍くらいはありました。

≪上右≫
  9月頃。 私が自室の外のベランダで、亀の水換えをしていたら、シュンが見に来ました。 こいつが来ると、出入り口が通れなくなってしまって、邪魔なんですわ。 この後、どうするかというと、「邪魔だ邪魔だ」と言って、バックさせるわけです。

≪下左≫
  散歩中の写真は、なかなか、撮れません。 シュンは、匂いを嗅ぐ為に散歩に行くような奴で、頭は常に下げて、鼻を地面に近づけて歩きました。 ぐいぐい引っ張って、「ぜぇぜぇ」と、自分の息が切れるくらいでした。 母と父が散歩に連れて行く時には、少し手加減していたようですが、私なら走れるから、引っ張りまわしても構わないと思っていたのでしょう

≪下右≫
  10月頃。 家の横、犬小屋の前で、引っ繰り返って、口を開けています。 意味もなく、口を開けたりないので、たぶん、欠伸の後だと思います。 歯は、この頃には、まだ、全部揃っていました。


≪上左≫
  11月頃。 私のバイクの、夏用ヘルメットが、洗って干してあります。 寒くなって、冬用のフル・フェイスに換える直前というわけです。 シュンは、私が窓を開けた隙に、ベランダに出てしまう事があり、そのまま寝てしまった場合、窓を閉めてしまいますが、起きても、鳴くような事はなかったです。 若い頃は、無駄吠えを、ほとんど、しませんでした。 

≪上右≫
  顔が黒くなっていますが、別に、喧嘩をしたわけではなく、庭の土を掘り返して、そこに寝ていたので、こうなったもの。 

≪下左≫
  12月頃。 またまた、亀の水換えの時にやって来て、亀の室内ケージを、覗き込んでいます。 亀は、11月の初旬には、室内に入れ、保温して、冬を越します。 ベランダの写真が割と多いのは、水換えの時に、シュンに襲撃される事が多く、自室に置いてあるカメラが、すぐに手に取れるので、撮影し易かったのです。

≪下右≫
  年の暮れの頃。 絨毯から見て、私の部屋ですが、電気ストーブ以外に暖房していないのに、腹を上にしているのは、珍しいです。 腹をさすって欲しかったのかも知れません。 腹に限らず、犬の体をさするのは、20秒くらいならいいのですが、それ以上になると、きつくなって来ます。 マッサージ師が、無料では働かない気持ちがよく分かるわけです。


【2004年】
  一番、アップした写真が多かった年ですな。 シュンは、6歳になる年で、体力的には、絶頂期でしたかねえ。 私の方は、40歳になる年で、ハムスターの金太が死んで、二匹目の銅丸を飼い始めたり、「浜名湖花博」に行ったり、「箱根神社」に行ったり、17年間使った髭剃機が壊れて、新しいのに換えたり、母の車が、トゥデイから、ライフに変わったり、そんな事があった年でした。 大きな事件が起きていないから、割と平穏な年だったんでしょう。


≪上左≫
  御用邸裏の波打ち際で、海水を飲むシュン。 最寄スーパーの駐車場から、500メートルくらい、歩いて来るので、喉が渇いて、海水でも、構わず、飲んでしまいます。 それで、おかしくなったという事はなかったですが、さすがに、塩水は体に悪いだろうと思い、先に、御用邸の駐車場トイレに寄り、家から持参したアイスの空カップに水を汲んで、飲ませてから、海へ行くようにしたのですが、そうしても、結局、海水は飲むのでした。

≪上右≫
  砂浜を走って遊んだ後、堤防の上に上がり、チーズをやるのが、習慣になっていました。 走った後で、ハアハア言っているので、あまり、積極的には、食べたがらなかったですな。 雪印の6Pチーズを一つ持って行って、小さく千切って、口元へ投げてやると、パクっと咥えて食べるのですが、シュンにできる芸は、それだけでした。 晩年、目鼻が衰えて、投げたのを取るどころか、目の前に持って行っても、チーズだと分からなくなるとは、この頃には、予想だにしませんでした。

≪下左≫
  「腕立て伏せ」のようですが、実は、ただの、「伸び」です。 このポーズも、若い頃は、よく見られました。 なかなか、写真に撮れなくて、この時、初めて撮影に成功して、喜んでアップしたのを覚えています。 その後、後ろ脚からだんだん弱って来て、後半生には、全くやらなくなりました。

≪下右≫
  水換えの間、ベランダに出した亀を、舐めまくります。 とりわけ、マレーハコガメの稀枝(まれえ)は、おいしいらしく、よく舐められました。 亀は生きた心地がしなかったでしょうが、シュンの方には、亀を捕食対象と見ている様子は全くありませんでした。 シュンが、家の庭や散歩先で、他の小動物を獲って食べたという事は、一度もなかったです。


≪上左≫
  プレハブ前で寛ぐシュン。 下に敷いてある緑色の敷板は、プラスチック製で、父か母が、ホーム・センターで買って来たもの。 この下は土なのですが、シュンが穴を掘らないように、覆ってしまったというわけです。 私は、掘らせてやった方が良かったと思うんですがね。 夏場は、穴の底が、一番涼しいですから。

≪上右≫
  緑色のホースは、私が二階で亀の水換えをする時に、排水を下水の枡まで流す為に、引いたものです。 こうやって、庭の方にいてくれれば、水換え作業が捗ります。

≪下左≫
  庭から、家の中の私の様子を見ているシュン。 散歩に行く前だから、「そろそろかな? まだかな?」と、私の行動を観察しているわけですな。 散歩から帰って来てしまうと、その日はもう、私を見る事はなくなります。 現金な奴。

≪下右≫
  手前味噌ですが、横顔は、本当に、いい顔ですなあ。 散歩先ですれ違った、全く見ず知らずの人達が、「あの柴は、いい顔だね」と話していたのを聞いた事があります。 シュンは、よそ様に誉められると、急に、スタスタとスマートに歩き始めるようなところがありました。


≪上左≫
  これは、近所の道を散歩中の様子。 田んぼの稲の育ち具合を見ても分るように、7月頃です。 散歩の時は、糞取りセットを持って行かなければならないので、カメラまで持つのは大変でした。 私は、この頃には、カメラは服のポケットに入れ、ベルトに小物入れを吊って、その中に、紙やビニール、チーズなどを入れていました。 シュン自身は、カメラには、何の興味もありません。 そもそも、写真を見た事がなかったです。

≪上右≫
  御用邸裏の遊歩道の上。 もう、遊び終わって、帰る時ですが、まだ、未練がありそうですな。 もう一回、砂浜に下りれば、また、走るでしょうが、こちらが、そこまでは、つきあいきれません。

≪下左≫
  御用邸から出て来て、国道414号線を渡る為に、信号待ちをしているところ。 リードを引っ張っていないと、車なんか見ずに、飛び出して行ってしまいます。 こういう時、躾けていない犬は、油断がなりません。

≪下右≫
  スーパーの駐車場に戻って来ました。 赤い車は、母の一台目の車、ホンダ・トゥデイです。 丸灯の初代。 私の車は、シュンが来るよりも、ずっと前に、処分してしまっていて、シュンと遠くへ行く時には、母の車が頼りでした。 シュンは、運転の邪魔にならないように、後席に乗せます。 犬を車に乗せると、内装が汚れるのですが、このトゥデイの場合、この時点で、すでに、18年も経っていて、あちこち、凹んでおり、あまり、惜し気がありませんでした。 この写真は、7月ですが、10月には、廃車になります。


≪上左≫
  これも、7月ですな。 夏なので、玄関で寝ています。 家の中で、一番床が冷たいのが、ここなのです。 犬も家族も、別に構わないんですが、誰かが訪ねて来ると大変でして、慌てて、犬を抱え上げて、庭へ放逐する事になります。 この頃すでに、12・3キロあったと思いますが、重いんだ、こいつが。

≪上右≫
  右前脚です。 親指の爪が伸びて、くるりと円を描いてしまいました。 犬が一番触らせないのが、前脚でして、爪を切るのは、手術並みの大仕事でした。 犬用の爪切り鋏というのがあるんですが、切りすぎると、血が出るので、もがく犬を押さえ込んで、切る位置を決めるのに、ヒヤヒヤしました。

≪下左≫
  旧居間の濡れ縁に顎を載せるシュン。 これも、散歩待ちの時だと思います。 自分の欲望に素直なので、利益が見込める時にしか、人間に興味を示しませんでした。 待ちくたびれて、半分、眠ってしまっていますな。 11月頃。

≪下右≫
  12月。 旧居間に射し込む陽だまりに寝そべるシュン。 冬場は、昼間は、場所を選びませんでしたが、夜は、基本的に外で寝ていました。 犬は、寒い方は、かなり耐えられるんですな。 家の中で、暖房してある部屋だと、却って、暑いのだと思います。


【2005年】
  この年は、バイクで、「土肥金山」や、今はなき「天城イノシシ村」へ行ったり、映画、≪スイング・ガールズ≫を見て、何か、楽器がやりたくなり、リコーダーに嵌まって、ダンボールで簡易防音室を作ったりしていました。

  今思い返すと、防音室作りなどは、実に、馬鹿な事をしていたと思うのですが、何でも、一度やってみるまでは、その馬鹿馬鹿しさが悟れないんですな。 その後、ダンボール防音室というのが、製品になって売り出されているのを見て、ビックリしましたが、作ったのは、私の方が先です。 性能的には、ガラクタ同然でしたけど。

  シュンとは、相変わらず、土日に一回、散歩に行くだけの接触でした。 シュンの方が、すっかり、家族の一員として、落ち着いた生活をしていたので、私は、両親をシュンに任せて、会社で仕事をこなし、家では、趣味の事だけ考えていればよく、気楽な生活でした。


≪上左≫
  前の年、2004年の12月5日に、暴風雨となり、庭にある、アロエの温室が壊れてしまったのですが、年が明けて、1月8日頃に撮ったのが、この写真。 父が、左奥に見える温室を再建し終わったところです。 シュンが、まるで、自分が建て直したような、得意気な顔をしています。 少なくとも、「じいちゃんの作業を、ずっと、見てたんだぞ」という顔ですな。

≪上右≫
  母の部屋で眠るシュン。 シュンの体を同じくらいの高さから見ると、なだらかな起伏が続いていて、私は、「シュン山脈」と呼んでいました。 この頃は、丸まる太っています。

≪下左≫
  巻き尾。 太ると、毛の量も増えるのか、尻尾まで、ふさふさと毛が生い茂って、気持ちの良い形になりました。 毛が少ない時には、貧弱だったんですけど。

≪下右≫
  小屋の前で寝ていたので、胸をさすってやりました。 ものすごく喜ぶというわけではないんですが、抵抗もしないので、そこそこ、気持ちがいいのでしょう。


≪上左≫
  行儀よく、お座りしていると思ったら・・・、

≪上右≫
  「ベーッ!」 だけど、これは、「アカンベー」ではなく、欠伸の後だと思います。 犬には、アカンベーなんて表情の概念はないです。  

≪下左≫
  居間の窓から、中を覗くシュン。 居間には、濡れ縁がないので、こちらから出入りする事は、少なかったですが、若い頃には、自力で飛び上がってくる事もありました。 50センチくらいの高さになると、犬の場合、かなり気張らないと、一発ジャンプで上がる事はできません。 猫なら、わけない高さですけど。

≪下右≫
  この写真から、公開当時の解説文が残っています。 そのまま出すと、時制がおかしくなるものがあるので、適度に修正して、出します。 復元して書いた解説文と内容が重なっているものもありますが、御容赦あれ。 シュンの写真の登場回数が減って来るに連れ、久々に出す時には、読む人も、前に読んだ事を忘れてしまっただろうと思って、何度も、同じ事を繰り返し書いたのです。

  風邪引き犬。 風邪を引いていても、昼寝は外でします。 一方、夜になると、コタツにも潜り込みます。 犬の温度感覚は、人間には計り知れぬものがありますな。

2015/07/19

さよなら、シュン

  2015年7月11日の、午後10時56分頃、我が家の柴犬、シュンが、身罷りました。 1999年1月24日に、生後二ヵ月くらいで、うちに来て、16歳と7ヵ月、生きました。 


  昨年の終わり頃から、もう長い事、寝たきりだったのですが、食べる方と出す方は、割と健康で、家族内では、「この調子だと、まだ、一年以上、生きそうだ」と話し合っていました。 それが、一週間くらい前から、長雨が続き、気温が下がって、鼻水が出たり、吠える声が細くなったり、風邪のような症状が出始めました。 細っていた食が、更に細くなって、二日ほど前からは、自力では何も食べなくなり、好物だった茹で卵の黄身を水に溶いたり、牛乳をやったり、無理に口を開いて、半生フードを食べさせたりしていました。

  金曜日には、雨が上がって、暑くなり、「これで、風邪が治るのでは?」と期待したのですが、外見的には、むしろ暑さに参っているように見えました。 エアコンを、点けたり消したり、室温を按配して、様子を見ます。 その夜には、便が出て、消化器系が正常に動いていると分かり、ほっとしました。 「よし。 これで、持ち直せるぞ」と思いました。 だけど、それは、私の思い違いでした。


  7月11日、土曜日の、夜の事です。 私は、いつもだと、夕飯の後、居間で新聞を読んで、すぐに、二階の自室に上がってしまうのですが、この日は、珍しく、テレビを見て、遅くまで居間にいました。 テレ東の土曜スペシャル「南関東~富士山・初夏の花めぐり絶景旅」、ブラタモリ「仙台・前編」、たけしの日本芸能史「コント」、NHKスペシャル「老後危機」と、ぶつ切りに見て、10時に、自室に上がる事にしました。

  シュンは、その日の朝から、ぐったりしていて、半生フードを口に入れても、呑み込む事ができず、水も自力では飲めない状態で、夕飯の前に、母が、その日買って来た哺乳瓶で、少し飲ませただけでした。 私は、自室に上がる前に、シュンに水をやってみましたが、飲みません。 冷たい牛乳を試してみましたが、それも飲みません。 シュンの体を横にして、器を片付けて戻って来たら、左前足が痙攣して、苦しそうに口を動かしています。 声は出ていません。 しばらく、痙攣する左前足に、私の手を当てていましたが、落ち着かないので、母を呼びに行きました。 先日、同じような症状になった時に、抱き上げたら、治ったと言っていたからです。

  寝ていた母が下りて来て、シュンをしばらく抱いた後、右側を上にして寝かせ直したら、痙攣が収まりました。 風邪のような症状が、もう何日も続いていて、鼻の右側の穴が詰まっているのですが、通っている左側が下になってしまって、口で息をしていたので、私が、下に敷いてあるタオルを按配して、鼻先を持ち上げました。 それで、少し呼吸が楽になったようでした。

  母が、もう一度抱き上げ、哺乳瓶で、水を飲ませました。 ごくり、しばらくおいて、また、ごくりと、水が喉を通る音がします。 しかし、どうも、全て食道へ行っているとは思えません。 母が、今度は、左側を上にして横にすると、シュンの喉で水が噎せるような音がして、表情が変わったので、腹を見たら、動きが止まっていました。 慌てて、私が、シュンの胸を叩こうとしたのですが、母が「いいから、逝かせてやれ」と言うので、その通りだと思って、やめました。 ほぼ、10時56分に、絶命しました。

  父を呼びに行ったら、ちょっとしてから下りて来たので、死んだ時の状況の説明をしました。 父は、死んだばかりのシュンを見ていたものの、何も言いませんでした。 父は、シュンが元気な頃には、毎日、午後に、散歩に連れて行っていて、家族の中で、一番最後まで、シュンを散歩させていた人ですが、シュンの目と足が衰えて、散歩に出なくなってからは、シュンの世話に、ほとんど、タッチしていませんでした。 最近、めっきり怪しくなった、父のおぼろげな記憶だと、最後に散歩に出たのは、2年くらい前だそうですが、私の日記でも、父とシュンの散歩に触れているのは、2013年の8月が最後なので、実際、そうだったのかも知れません。

  一方、母は、食事も、尿や便の始末も、中心になって世話をしていたので、一番、悲しんでいる反面、世話が終わって、ほっとしているような事も口にしていました。 人間ほどではないですが、犬の介護も、大変なので、そういう気持ちには、共感できるところがありました。 一番手間がかかったのは、目が見えないけど、歩けていた期間でして、水を探して、うろつき回り、狭い所に嵌まり込んで、動けなくなっては、鳴くので、外で夜を過ごさせられなくなり、台所に寝かせていましたが、そこでも、やる事は同じで、助けに行かないと、夜通し鳴いている有様。

  その上、尿や便をしますから、台所の床に敷きつめた新聞紙を取り替えたり、濡れた床を雑巾で拭いたり、毎晩、眠る暇がありませんでした。 去年(2014年)の6月下旬、私が退職して、岩手から帰って来た時、母が、私を歓迎したのは、私がいれば、シュンの世話を任せて、夜、眠れるからでした。 私は、引退して、夜通し起きていても良い身になっていたのですが、それでも、夏の間中、シュンの面倒を見る為に、午前2時くらいまで寝られないのには、参りました。

  秋が深まって来ると、シュンは、自力で立ち上がれなくなり、立たせてやれば歩けるものの、もうヨタヨタ。 その内、何かに寄りかからねば立っていられなくなって、そこから、寝たきりになるまで、すぐでした。 動かないので、後ろ半身が痩せて、オムツができるようになって、介護の世話的には、ずっと楽になりました。 それでも、「飲む、食べる、出す」は、人間が全部、助けてやらなけばならなかったのですが・・・。 シュンが死んで、母が、心の一部で、ほっとしたというのは、そういう経緯があったからです。


  シュンの亡骸を腐敗させないように、夜通し、エアコンをつけておく事にしました。 父が自室に戻った後、私が母に、亡骸の処置について訊くと、母は、別に何も考えていなかったようでした。 「庭に埋めるのは、嫌だ」と言うのですが、では、火葬するとして、骨壺をどうするのか訊くと、答えられないという有様。 たぶん、今まで、そういう、シュンが死んだ後の事を考えるのを、避けて来たのでしょう。

  私は先に自室に戻り、ネットで、火葬について調べ始めました。 近くに、火葬をしてくれるお寺があり、供養塔への納骨までがセットになっているのですが、料金が少し高い。 他に、火葬車で焼きに来てくれる会社があって、そちらは、半額です。 骨壺に入れてもらえるし、散骨のオプションもあるらしいので、一応、そちらに目星をつけておきました。

  遅れて、居間から引き揚げてきた母が、私の部屋の戸を叩き、「夜中に見に行って」と言ったので、 眠る前に、一度行ったら、居間は、よく冷えていて、シュンの体と頭には、タオルが被せてありました。 シュンの為にかけたというより、母は、死体が嫌いなので、自分が見なくて済むように、かけたのではないかと思います。 正直なところ、私も、死体は怖いです。 どんなに小さな動物でも、死んだ途端に、「死」という、生き物が本能的に恐れる雰囲気を漂わせ始めるのです。

  自室に戻って、横になりましたが、全く、眠れません。 4時18分から、4時48分くらいまで、ほんの30分眠っただけで、朝になってしまいました。 後で聞いたところでは、母も、一睡もしなかったとの事。


  7月12日、日曜日です。 5時過ぎには起き出して、居間へ様子を見に行きました。 シュンの鼻からは、血が出て、枕代わりに敷いてある水色のタオルの上に、赤っぽいシミが広がっていました。 死ぬ前の丸一日、ほとんど飲み食いしていなかったからか、下の方は、綺麗でした。 父が仏壇に線香を上げに来たので、私はシュンの為に、二本上げました。

  メジャーを持って来て、シュンの体の大きさを計ったら、70×50センチでした。 火葬を頼む時には、ダンボール箱に入れるのですが、その為の計測です。 死んだばかりで、こんな事をするのは嫌なのですが、誰かがしなければなりません。 家族を失った直後というのは、いろいろと、つらい状況になるものです。

  父母と朝食。 梅干おにぎり2個、豆腐の味噌汁。

  母に、火葬の事を話し、火葬車を勧めたら、あろう事か、「骨壺の置き場所に困るから、近所の寺に納骨する方がいい」と言い出しました。 私としては、今までに飼った動物が死んだ時に、そうして来たように、庭に埋めてやりたかったのですが、母は、それは、断固、拒否。 庭の掃除をする時に、その下にシュンが埋まっていると思うと、ぞっとするのだそうです。 まったく、家族であっても、人の考え方は理解し難い。 しかし、母が主に面倒を見ていたのだから、母に従う事にしました。 私も飼い主の一人ですが、シュンの為に割いた時間は、母はもちろん、父にも及びません。 黒衣に徹するのが、良いと考えました。

  火葬をしてくれるお寺のホームページを調べ直します。 読み直してみたら、そちらでも、やはり、ダンボールに入れるとの事。 亡骸は、車で迎えに来てくれるけれど、人間は同乗できないらしいです。 ただし、その、お迎えは、無料です。 ダンボールは、ホーム・センターが開き次第、買って来る事になります。

  料金は、犬の体重によって変わるので、電話をする前に、量らねばなりません。 久しぶりに、体重計を引っ張り出しました。 まず自分の体重を量ったら、なんと、81.4キロでした。 太り過ぎです。 20代前半には、63キロだったのに。  次に、シュンの足を持って、体重計に載ると、88.4キロ。 つまり、シュンは、7キロなわけです。 こちらは、痩せ過ぎ。 元気な頃には、15キロ近くあったのに、半分以下になってしまいました。 腰から後ろ足までは、歩けなくなってから、一番最初に痩せ始め、筋肉がなくなって、毛がなければ、骨と皮ばかりだったでしょう。

  お寺のホームページの指示に従い、氷をビニール袋に入れ、シュンの腹の所に当てました。 お寺の電話の受付は、9時からです。 電話で質問する内容を、メモ用紙に書き出しておきます。 母から、ダンボール代を渡されました。 高い物ではないから、私が出すと言ったのですが、「1万円札を崩して来て」と言うので、受け取っておきました。 なんだか、子供のお使いのようです。 ここで、7時前頃です。 睡眠不足で、頭が重いので、少し眠り、目覚ましで、9時に起きました。

  お寺に電話したのですが、出ないまま、留守電案内になってしまったので、一度切ったら、すぐに、向こうからかけて来ました。 リダイヤル機能を使ったのでしょう。 どうも、住職の奥さんらしいです。 犬が死んだ事を伝えると、お悔やみを言われました。 個別供養を希望で、7キロの柴犬と伝えます。 「2時に持って来れますか」と言われたので、「車がないので、迎えに来てもらいたいのですが」と頼みました。 住所を教えたのですが、どうも、地図で探し出せない様子。 近所の学校を目安に説明し直したのですが、結局、伝わらなかったようです。 来る前に、また電話するとの事。 他に言われたのは、「犬の体をタオルでくるんでもいいし、そのままでもいいから、ダンボールの箱に入れ、一緒に燃やしたい物は入れてもいい」という事。

  9時15分頃、自転車で、ホームセンターへ。 9時半の開店前に着いてしまい、少し待ちました。 他にも、開店を待っている客が、うろうろしています。 やがて、店が開いたので、ダンボール・コーナーへ。 引越し用の最大サイズのダンボール、700×400ミリを買いました。 295円くらい。 これでも小さいですが、これ以上のがないから、仕方ありません。 大き過ぎて、持ったままでは、自転車に乗れず、片手でダンボールを持ち、片手で自転車を押して帰って来ました。 腕が疲れた。 最初から、歩いていけば良かったです。

  帰って、すぐに組み立てます。 底を、クラフト・テープで貼り、母の指示で、底が抜けないように、内側も貼りました。 箱が明らかに小さいので、シュンには、脚を曲げてもらわなければなりません。 すぐに入れようと思ったら、母が、「午後からでいい」と言うので、それに従いました。 鼻から血が出ていると教えても、見れないほど、死体を恐れているくせに、棺桶に納めるのは、少しでも遅らせようというのですから、変な人です。

  午前中に、部屋掃除。 亀の水換え。 昼飯は、お茶漬け、昆布入り。

  さて、いよいよ、納棺です。 その前に、氷袋をもう一つ作っておきました。

  濡らしたタオルで、シュンの口の周りを拭きます。 ついでに、オムツの中で、いつも汚れていた、チンチンの周りの毛も拭いてやろうと、体を引っ繰り返したら、舌ベロが外に出たまま、潰れていました。 無残です。 こうなっていては、もう、生き返る事は、ありえません。 ざっと拭いて、終わりにし、脚を持って、棺桶に入れました。 まだ体が曲がったので、窮屈ながらも、何とか入りました。

  シュンの体の下には、ミッフィーの茶色のマット。 上には、水色の格子模様のバスタオルをかけます。 どちらも、ずっと、シュンの為に使っていた物です。 氷袋は、新しく作った方を、腹に抱かせ、朝作ったのを、頭の上に半分かかるように載せました。 タオルの上から、母が、今朝買って来た、菊の花を載せました。 シュンの顔には、犬模様の手拭いをかけました。 布類は、みな、母が用意したもの。

  ビスケットをひと箱、母が用意していました。 中に入れると言うのです。 私は、余計な物を入れて、後で出さなければならなくなるのを恐れて、反対し、蓋を閉じて、両脇だけクラフト・テープで留めてしまいました。 ところが、その後で聞いたら、ビスケットの箱からは、プラスチック類を抜いてあるというので、「それなら、入れてやった方が、シュンが喜ぶだろう」と思って、クラフト・テープを剥がして、もう一度、蓋を開き、尻の方に載せてやりました。

  母は、花を載せただけで、あとは、全部、私任せでした。 シュンが生きている間は、ろくに風呂にも入っていない、尿の臭いがする体を、平気で抱きかかえていたのに、死ぬと、触ろうともしないのですから、変な価値観です。 私も、死体を持ったりするのは嫌ですけど、母の場合、それとは、また違うところに、「不可触」の基準があるように思います。

  撮影し、再び、クラフト・テープで両端を留めて、納棺は完了しました。 写真は、作業の要所要所で、何枚か撮りましたが、遺体の写真を、後で見返す事は、たぶん、ないと思います。 しかし、もう見納めなので、見ないと分かっていても、撮っておかなければならないと思ったのです。

  私が、「名前を書いておこうか」と言うと、母がメモ用紙に、「シュンちゃん 16才7ヵ月」と書き、私が、それをセロテープで、棺桶の蓋の上に貼り付けました。 このメモが、後に、和尚さんと私の会話のネタになります。

  私は普段、夏場は半ズボンで過ごしているのですが、さすがに、葬儀に、半ズボンはまずいだろうと思い、長いのに穿き替えました。 春より、更に、腹が太っていて、きつくて、敵いませんでしたが、まあ、数時間の辛抱です。 ズボンは茶色のチノパンで、上は、水色の縦縞の半袖シャツ。 母も、上だけ黒の服ですが、普段着です。 だけど、中には、喪服で行く人もいるんでしょうなあ。 準備を整えて、居間で、待ちます。


  約束の2時が近づき、母と私が、ちょこちょこと外に出てみますが、迎えが来ません。 母が、早々と、居間のエアコンを切ってしまったのですが、このエアコンは、前夜、シュンが死んでから、腐敗を遅らせる為に、ずっと点けていたのを、この時、ようやく切ったのでした。 15時間くらいですか。 今までで、最大の長時間運転だったのではないでしょうか。 ご苦労だった。 それはさておき、車が来ません。

  やむなく、2時を過ぎるのを待って、こちらから電話したら、「すいません。 2時40分にしてくれますか?」と言うので、承諾しました。 急かしても、やってもらえなければ、仕方がないですから。 また、エアコンを点け、居間で、転寝しつつ、2時40分を待ったのですが、時間になっても、またまた、来ない。 外に出て道路を見ますが、気配もありません。

  家の中で電話が鳴り、話を聞くと、迷っている最中らしいです。 近所の学校を目安にした説明を繰り返しましたが、まだ分からないようで、3分くらいしたら、また、電話して来ました。 やむなく、学校の正門の前で待ってもらい、私が自転車で迎えに行く事にしました。 もう、来る事は確実なので、先に、居間のエアコンを切り、シュンの棺桶を玄関まで出しておきました。

  自転車で学校前まで行くと、道路の向こう側に、それらしい車が停まっていました。 ハッチ・バックの外車で、和尚さんが運転し、奥さんが外に立っていました。 お二人とも、60代後半から、70代前半くらいの年配でしょうか。 礼を交わし、「ついて来て下さい」と言って、家まで誘導しました。

  早速、奥さんに、棺桶を見てもらいます。 蓋にテープは要らないというので、両脇の短いクラフト・テープを取ってしまいました。 氷袋を取り出すべきか訊いたら、出すようにとの事でしたが、袋の大きさを見ると、「そのくらいなら、大丈夫です」と言うので、戻しました。 シュンの横顔を見て、「頑張ったねえ」というような事を言ってくれました。 もしかしたら、この奥さんが、動物霊園を始めたのかもしれません。

  私が棺桶を持ち、車のトランクに入れました。 ぎりぎりという感じ。 車は、先に出発し、私と母が、自転車で行きます。 凄い暑さ。 心臓がバクバクして、母よりも、私が倒れそうでした。 海の近くの小山の裾にあるお寺で、私の家から、自転車で、20分くらいです。 お寺の正門の内側に、隙間を見つけ、私の自転車と、ちょっと遅れて到着した母の自転車と、二台を停めました。

  本堂や庫裡の方には、ひと気がないので、奥へ向かいます。 一番奥の山の麓に、動物の供養塔と、火葬場があり、和尚さんがいました。 供養塔の前の作業台の上に、やけに平たい箱があるので、何かと思ったら、私が、今朝買って来て、しつらえた、シュンの棺桶が、側面の真ん中で折り込まれて、高さが半分にされていたのでした。 焼却炉のサイズに合わせて、小さくしたようです。 ただし、中身は、そのままでした。 和尚さんが、「もう一度、お別れしますか」と言うので、犬の手拭を捲り、シュンの左頬から首筋にかけて、毛を撫でました。 さよならだ、シュン。 遅れて歩いて来た母を呼んで、もう一度見ろと言うと、「いい、いい」と、手を振って嫌がりました。 変な人です。

  奥さんが来て、線香立ての台の上に、大きな蝋燭を立てて、火を点け、私と母に、線香をあげるように言いました。 風があって、火が吹き消されそうでしたが、なかなか消えず、結局、最後まで点いていたと思います。 母は眼鏡を持って来ていなくて、火から離れた所にかざしているので、私が取って、点けて渡してやりました。 私も続いて、線香を立てます。 この後、母は、会計をしに、奥さんと、一段下にある、小屋に入って行きました。 「43000円」と言う言葉が聞こえて来ます。 ホームページの料金表通りです。 ちなみに、10キロを超えると、15キロまでが、48000円になります。

  その間に、和尚さんは、細いガムテープで箱の蓋を貼り直し、私に向かって、「犬も猫も、死ぬと寂しいでしょう」と話しかけてきました。 私は、曖昧に笑って、「はい」と言い、「8ヵ月くらい、寝たきりだったので」と付け加えました。 和尚さんが、母が書いて、私が、棺桶の蓋の上に貼り付けたメモ用紙を読んで、「16才と7ヵ月ですか。 (人間なら)70歳くらいか。 少し早かったですかね」と言います。 計算が違うと思ったものの、話を合わせて、「はあ」と応えると、それきり、会話が途切れました。 犬の歳は、人間の7倍だから、16年7ヵ月は、116歳くらいです。 どうも、和尚さんは、動物にあまり、興味がないようです。

  母と奥さんが戻り、私が和尚さんに言われて、半分の高さになった棺桶を、焼却炉の建物の入口まで運んで、和尚さんに手渡しました。 幾分、儀式っぽいですが、読経のようなものはありません。 その後、和尚さんが、焼却炉の中に棺桶を入れ、重い蓋を、滑車にかかったチェーンを引いて下ろし、隙間が出来ないように、楔を打ち込みました。 奥さんの指示で、私と母が、焼却炉の建物から離れ、「ここまで下がってください」という所まで下がると同時に、焼却炉に火が入れられ、バーナーの、「ゴーーッ!」という音が響きました。 嫌な音です。 シュンよ、お前の体も、これまでだ。 私は、土葬にしたかったのだが・・・。

  奥さんが、煙突の上を指し、「そろそろ、上がって来たようですね。 お送りしてください」と言ったので、手を合わせて、薄い灰色の煙を拝みました。 ところが、横にいる母は何もしません。 自分で火葬にしろと言っておいて、ペットの葬式など、馬鹿にしきっているのは、明らかです。 つくづく、変な人です。

  奥さんが、和尚さんに、「納骨もするが、5時半でいいか」と訊くと、二人で、ちょっと話し合った後、6時にまた来るという事になりました。 和尚さんが骨を拾うから、急がされるのが嫌だったのかも知れません。 母が、「その時は、一人でもいい?」などと奥さんに訊き、了解を得ていましたが、自分が納骨しようと言い出したくせに、私一人に来させようとしているのに呆れ、その後、母と二人になってから、すぐに拒否しました。 とりあえず、これで、一旦、引き揚げる事になります。

  帰ろうとしたら、母が、「公園で、ジュースを飲んで行こう」というので、どうせ、閑だからつきあう事にしたのですが、公園というのは、「牛臥山公園」の事だと分かり、中には自販機などないので、入り口の向かいにある自販機の所で待っていました。 ところが、追いついて来た母が、「公園の中には、ジュース、売ってない?」と訊くから、「ないない」と答えたら、「それじゃあ、いいわ」という話になり、結局、帰る事になりました。 母は、帰りに、スーパーに寄って、買い物をして行き、私は、まっすぐ帰りました。


  家に帰り、自室にいる父に、火葬の様子を報告に行きます。 火葬の時刻を訊かれ、その時、3時半だったので、「20分くらい前だから、たぶん、3時10分くらいだったろう」と答えました。 この時、父が、時間の事を訊いてくれて助かりました。 お寺にいる間、時間の確認をすっかり忘れていたのです。 ちなみに、して行った腕時計の、「シチズン・クリスタル7」は、元々、葬儀用に買った物なのですが、まさか、シュンの葬儀が最初の出番になるとは思いませんでした。 葬儀と言っても、人間のそれとは比較にならないくらい簡単で、腕時計をして行くような、改まったものではなかったのですが・・・。

  居間のエアコンを点けて、涼んでいると、その内、母が帰って来ました。 夕飯用に、惣菜の稲荷・海苔巻きパックを買って来た様子。 私が、犬の登録抹消手続きの話をし、鑑札があるか訊いたら、首輪に着けた物を出して来ました。 そういえば、昔、「鑑札は、犬に着けていなければならない」とか、テレビの番組で聞いて、こんな事をやっていました。 いつの事だか思い出せなくて、懐かしくなってしまうくらい、昔の事です。

  ついでに、他のプレートも見せられましたが、番号が全部バラバラです。 よく見ると、そちらは、狂犬病の予防注射の証明プレートでした。 「愛犬手帳」というのがあり、それには、登録番号が書かれていて、鑑札の番号と同じでした。 市役所に電話して、鑑札番号を言えば、登録抹消できるはずです。 

  一緒に出て来た写真冊子に、シュンの若い頃の写真が、たくさん入っていました。 家に来たばかりの、子犬の頃のもありました。 まだ、デジカメを買う前、フィルム・カメラで撮ったものです。 16年7ヵ月という歳月の長さが、私の記憶を曖昧にしています。 シュンは、とても、大切な家族だったのですが、私とは、ものすごく仲がいいという関係ではなかったから、仕方ないのでしょうか。 もっとも、シュンは、誰に対しても、べたべた甘えるという事はなかったです。 そういうのが、苦手だったのかも知れません。

  母が、夕飯のおかずを並べ始め、「早めに食べちゃうか」と言って、4時5分頃なのに、勝手に食べ始めました。 私は、上に上がり、最初に自転車で出かけるところまで、日記を書きました。 4時40分に下りて、父と夕食。 惣菜の稲荷・海苔巻きと、同じく、惣菜の鶏の唐揚げ。 他に、焼きプリン。 父が、稲荷を二個残し、私が、夜に食べるという事にしました。 父の食も細っています。

  夕飯は、私が茶碗を洗います。 昨夜から、ほとんど寝ていない上に、朝から、火葬手続き、棺桶ダンボール購入、納棺、部屋掃除、亀の水換え、迎えの車の誘導、お寺まで往復、火葬に立ち会いをした上に、昼飯・夕飯と茶碗を洗ったのでは、疲労困憊してしまいます。 5時10分頃、出かける仕度をして、居間の母に声をかけましたが、「まだ、早いだろう」と言われました。 自分は早々と夕飯を食べてしまったくせに、変な人です。 で、時間まで、居間で新聞を読んで過ごしました。

  いつの間にか、5時半になってしまい、少々慌てて、出かけました。 まだ明るかったです。 お寺には、6時前には着いたと思いますが、この時は、腕時計を外して行ったので、時間が分かりません。 供養塔の前に行くと、「愛犬シュン君」と書いた骨壺が供えられていました。 大きさは、トイレット・ぺーパーを僅かに大きくしたくらいでした。 ああ、シュンよ。 昨夜までは、息をしていて、ついさっきまでは、そこそこ大きな体があったのに、今は、こんな小さな壺に納まってしまったのか・・・。

  再び、奥さんが大きな蝋燭を持って来たので、線香に火を点け、立てました。 昼間と同じように、母の分も点けてやりました。 その間に、奥さんが、異様に長い卒塔婆を持ってやって来て、それにも、「愛犬シュン君」と書いてありました。 奥さんの指示で、供養塔の後ろに回り、骨壺の蓋をとめてある、細いガムテープの片側を剥がし、骨壺の中の骨を改めました。 細かい破片がたくさん詰まっていました。 横で見ていた母が、「よく焼けてるね」と言うと、奥さんも、「そうですね。 いいワンちゃんだったんでしょうね」と、あまり、関係ないけれど、聞いて気分が悪くならない事を言いました。 私には、骨の焼け具合は、分かりません。 見た目、カリカリという感じはしましたが。 それにしても、シュンよ・・・、変わり果てたのう。 ついさっきまでは、数え切れないほどの毛に覆われていたのに。

  蓋をして、テープを貼り戻すと、奥さんの指示で、私が、骨壺を、納骨堂の奥に押し込みました。 奥さんが、「これでもう、出せません」と言います。 ホームページでは、「3年間、保存する」とあったので、「3年経ったら、どうなるんですか?」と訊いたら、「3年という事はなく、後ろから詰めて行って、一杯になったら、前から出します」との事。 つまり、火葬される動物が多ければ、早く押出されて、合葬されてしまうわけです。

  なんとなく、嫌な感じがしましたが、これは、もう、シュンそのものではなく、骨に過ぎません。 切った爪の先や、抜けた毛と同じなのです。 骨を保存しようとする考え方自体が、習慣に過ぎないのだと思って、気にしない事にしました。 もし、母の意向に逆らって、骨壺を持って帰ったとしても、庭に埋めれば、母が嫌がるし、私の部屋に保存しても、いずれは、私も死にます。 結局は、同じ事なのです。 私の死後、ゴミとして処分されるより、他の動物の骨と合葬された方がいいでしょう。

  供養塔の前に回り、もう一度、線香に火を点け、今度は、供養塔の上にある線香置きの方に置きます。 これで、全て終わりました。 卒塔婆は、供養塔の横に立てられて、しばらく保存されるようです。 拝みに来るのは、いつ来てもいいという説明を受けました。 ただし、あげるのは、お花と線香だけにしてくれとの事。 供養塔や、線香台の上に、缶詰が置いてあったのですが、お供え物か、もしくは、火葬の時に、棺桶の中に入れられていたのを、取り出したものなのでしょう。

  まだ、明るかったですが、用心して、二人一緒に帰りました。 今度は、母が先頭で、私がついていきました。 母は、しょっちゅう下りるので、遅いのですが、これだけ慎重なら、違反や事故は起こり難いと思います。 家の近くまで来て、母が、車を避ける為に、必要もないのに下りてしまったので、そこからは、私が先に行く事にしました。 帰って、6時10分くらいだったでしょうか。 家に着いて、居間に入っても、話しかけるシュンはもういません。 私は、つい3時頃まで、シュンの「兄ちゃん」だったのですが、もう、兄ちゃんではなくなってしまいました。

  居間にエアコンを点けて、寛ぎます。 テレビで、伊豆半島の内陸の秘湯を巡る番組をやっていました。 その後、母と一緒に、スーパーカップのアイスを食べ、母がいなくなった後、チャンネルを変えたら、NHKの「これでわかった世界のいま」を、まだやっていたから、時間は、6時半まで行っていなかったと思います。

  遅れ馳せながら、シュンの毛を二本確保し、メモ用紙に挟んで、隅を折り返し、机の引き出しに入れました。 位牌がないので、その代わりです。 内一本は、母の黒い服の背中に付いていた物。 昼間、お寺で、背中に、シュンの毛が付いているのを見ていたのです。 シュンの毛は、我が家の洗濯物にくっついて、それを取るのに、毎日、苦労していたのですが、これからは、減って行き、いずれ、全く見られなくなるでしょう。

  先に風呂に入り、出て来て、上に行こうとする母に、「あんた、今日を限りに、ボケるで」と言ったら、「シュンがいなくなったから?」と、笑っていましたが、冗談ではなく、マジな話です。 「半年もしない内に、じいさんと同じくらいになる」と言い添えておきました。 父は、シュンと散歩に行かなくなってから、徐々に元気がなくなり、今では、話しかけても、返事が戻って来るまでに、衛星中継くらい、間が開くようになってしまいました。 

  続いて、私も、風呂に入ります。 昨日から、かなり動いたので、汗臭くていけません。 でも体を洗う時、「これで、もう、シュンの匂いが消えてしまうのだな」と思って、少し、惜しいような気になりました。 私は、外出中、犬に寄って来られる事が多いのですが、それは、たぶん、シュンの匂いがついているからだと思うのです。 シュンが家に来るまでは、そういう事はなかったですから。 今後は、犬が近寄って来る事は、減るでしょう。

  風呂から出て、自室に上がろうとした時、もう、居間の灯りを小玉にする必要がなくなった事に気づき、ショックを受けました。 シュンが、庭で夜を過ごせなくなって、台所や居間で眠るようになってから、一年以上になりますが、その間、夜は、ずっと点けて来た、居間の小玉電球は、もう、要らないのです。 シュンはもう、ほとんどが煙になり、一部が骨と灰になってしまいました。 シュンは、もう、いないのです。

  一日前には、まだ、シュンが生きていて、私は、その横で、紅茶を飲み、菓子パンや、カップ麺、おにぎりを食べていました。 シュンは、苦しんでいたのに、それを分かってやれなかったのです。 シュンよ、済まなかった。 兄ちゃんは、駄目な飼い主だった。 もう、兄ちゃんでさえ、なくなってしまった。 最初から、兄ちゃんなんかじゃなかったのかも知れない。

  でも、シュンよ、ありがとう。 お前が来てくれたお陰で、うちの家族は、16年と7ヵ月もの長い間、壊れずに済んだのだ。 お前は、勝手放題、生きていただけだろうけど、それでも、充分だったのだ。 お前が、うちの家族に齎してくれた恩恵は計り知れない。 ありがとう。 本当に良く、頑張ってくれた。 ありがとう。 何度感謝しても足りない。 ありがとう。

  前日の夜から、この日の宵の口まで、怒涛のような一日でした。 脳には刺激になりますが、身体的には、健康に悪いです。 10時半頃、ベットに横になったら、スーッと、眠ってしまいました。


  7月13日、月曜日です。 午前9時頃、目覚めました。 久しぶりに、よく眠った事になります。

  台所に行くと、母によって、シュンの陰膳が据えてありました。 半生フードが残っている間は、やるつもりだと言います。 居間に座り、「犬とは、鬱陶しく、面倒臭いものだが、それが良かったのだ」と、今朝起きてから、思いついた意見を述べました。 母は、シュンに愚痴を聞かせていたそうです。 やはり、新しい犬は必要なのかも。 このままでは、母がボケ始めるのは、時間の問題です。 私としては、両親の死後、その犬を最後まで面倒見なければならないので、気が重いのですが、「家族が壊れるのを、少しでも遅らせられるのなら」と、思うのです。

  カメラを持ってきて、陰膳と、家の中の、シュン関係の場所を撮影。 外に出て、犬小屋も撮りました。 シュンが外に出なくなってから、半年くらい経っているので、もう、外にあるシュンの痕跡は、犬小屋くらいになっています。

  役所に、死亡届の電話をしなければなりません。 母に言って、愛犬手帳を借りると、電話の子機を持って自室に戻りました。 電話の本体は居間にありますが、そういう手続きの様子を、母は聞きたくないだろうと思ったのです。 ネットで番号を調べ、市役所の「生活環境部・環境政策課」に電話しました。

  「犬の登録抹消をしたい」と言うと、「亡くなられたんですか?」と訊き返されました。 死亡の他に、盗まれたり、いなくなってしまうケースもあるからでしょう。 登録番号を訊かれたので、念の為、「鑑札に書いてある番号ですか?」と訊くと、そうだとの事。 4桁の番号を答えると、続いて、飼い主の名前、住所、犬の名前を訊かれ、答えましたが、向こうは、パソコンのデータを見て、間違いがないか確認しているのだと思います。 それで、手続きは完了。 その後、会話が途切れて、「もしもし」と聞き返されたので、「はい、分かりました」と、相槌を打たねばなりませんでした。 ペット・ロス状態と思われたでしょうなあ。 実際、そうなんですけど。 最後に、「お願いします」と言って、切りました。

  愛犬手帳を撮影。 死亡届が済んだ事を母に報告し、手帳を返しました。 手帳には、狂犬病予防注射のスタンプ欄が3ページもあるのですが、シュンは、16年分で、1ページしか埋まっていません。 「48年も生きる犬がいるのだろうか?」と話し合いました。


  昼食の時、両親に向かって、「こんな事を言うと、反対されるとは思うけど」と、前置きした上で、「10月頃になったら、新しい犬を買って来ようと思う。 理由は、ボケるのを防止する為だ。 シュンがいなくなれば、あんたらがボケるのは、目に見えている。 犬の力は、それだけ大きいんだ」と言ったところ、意外な事に、賛成も反対もされませんでした。 説得力がある理由だったからでしょう。

  なぜ、10月からなのかというと、暑い時期を避けたいからです。 まだ、先なので、それまでに、反対意見が出るかも知れませんが、とりあえず、そのつもりで行く事にします。 もう、うちの家族は、終わりが近づいており、これから先、10年が見通せません。 犬で、もたせられるものなら、藁にも縋りたい気分なのです。 「これから、犬を飼う」と思うだけで、また、家の中に、生気が戻って来ます。

  シュンが死んで、二日目で、こんな事を考えているのは、罪な事ですが、希望を繋いでおかないと、人の心の崩壊など、瞬く間に進んでしまうのです。 許せよ、シュン。 もし、新しい犬を飼う事になっても、最初に飼ったお前の事を、忘れるなんて事は、絶対にないからな。

2015/07/12

読書感想文・蔵出し⑭

  どうも、一週間おきに、感想文の蔵出しになっていますな。 いちいち、言い訳するのにも疲れましたが、そこを敢えて、言い訳しますと、うちで飼っている、もう、8・9ヵ月というもの、寝たきりの老犬が、いよいよ、物を食べなくなってしまいまして、鼻水が出ているところを見ると、どうやら、風邪を引いたようなのですが、奥歯が抜けてから、食べなくなったという母の診立てもあり、原因がよく分かりません。

  好物だった茹で卵の黄身を水に溶いてやったり、牛乳を飲ませたり、歯が抜けた隙間から指を突っ込んで、口を開けさせ、半生フードを食べさせたり、いろいろと、工夫しているのですが、なかなか、自力で食べる状態に戻ってくれません。 もう、寿命ならば、嫌がる事を、無理にやるのも、飼い主のエゴなので、その辺の按配が難しいです。

  というわけで、目下の私は、そちらに神経が行っていて、ブログの記事どころではないのです。 まあ、読書感想文ではあるものの、私自身が書いた文章である事に変わりはないわけで、出す事に引け目を感じる事もないのですがね。 もともと、このブログで出す為に、書いたものですし。



≪いなかミューズ≫

バルザック全集 22
東京創元社 1973年
オノレ・ド・バルザック 著
西岡範明 訳

  北海道応援の時に読んだ、≪シャベール大佐≫という文庫本に、【アデュー】という中編が入っていて、その感想文は、以前、出したのですが、それを書く時に、忘れている部分を確認する為に、沼津の図書館で、同作を探したら、全集の中にしかありませんでした。 やむなく、本ごと借りて来たのですが、その、「バルザック全集22」の中に入っていた一編が、この中編小説です。 どうせ、借りたのだから、返す前に、読んでみたという次第。

  1843年~44年に、パリの日刊紙に連載。 これも、小説群、≪人間喜劇≫の中に含まれています。 バルザックは、1830年から、42年まで、猛烈な創作活動を行なったのですが、42年が絶頂で、その後、失速し、この作品を書いていた頃には、下降線だったとの事。 ただし、それは、量的な事で、内容は、むしろ、失速後の方が、充実しているようです。

  地方の葡萄農園経営者に嫁ぎ、自分の屋敷に崇拝者達を集めて、サロンを構成していた美しい夫人が、田舎暮らしで、容姿の衰えが進む事を嘆いた詩を発表したところ、話題になってしまい、パリからやって来たジャーナリストの青年に誘惑されて、不倫に走り、子供まで出来て、パリへ出奔するものの、いざ、同棲し始めた青年は、身持ちが悪い上に、才能も今一つで、次第に、窮乏して行く話。

  ストーリーだけ見ると、フローベールの、≪ボバリー夫人≫に、よく似ています。 というか、こちらの方が、10年以上、先に出ているので、≪ボバリー夫人≫の方が、似ているわけですな。 バルザックの知名度からして、フローベールが、この作品を読んでいないはずはないので、当然、当人も、批評家も、似ている事は承知していたと思うのですが、≪ボバリー夫人≫には、現実に起こった事件がモデルとして存在していたせいか、パクリとは見做されなかったようです。 こういう不倫話は、当時、実話でも小説でも、よくあったのかも知れません。

  ≪ボバリー夫人≫と違うのは、夫のキャラクターでして、ボバリー氏が、外見は悪くないものの、これといった才能のない、平凡な人間だったのに対し、ラ・ボドレー氏は、背が低く、虚弱で、老け込んでいるものの、事業運営の才能はあり、損得勘定に長けているが故に、ケチな性格で、文学的な知識や教養を尊ぶ、妻や、その崇拝者達に、軽蔑されています。 同じ寝取られ亭主でも、ボバリー氏は、ただ、馬鹿正直なだけの、哀れな男に過ぎないのに、ラ・ボードレー氏は、妻の価値観を、逆に軽蔑し返しており、「羊は、逃げ出しても、餌がなくなれば、自分で帰って来る」という態度で、泰然と構えています。

  前半は、田舎での、サロンの様子が描かれますが、「なんで、こんなに、もたつくのか?」と、腹が立つほど、話の進みが遅いです。 取り巻きの男達が、お得意の物語を語って聞かせる場面など、≪千一夜物語≫かと思われるのですが、≪千一夜物語≫ほど、ファンタジックなら、まだしも、冒険小説やピカレスクの断片みたいな、古臭い話が続き、うんざりしてしまいます。

  こういうところには、バルザックの古さが出ますねえ。 近代小説になりきれていないのですよ。 ディケンズと同じで、「物語」から、「小説」に変化する、過渡期の作家だったんでしょうなあ。 バルザックは、≪ボバリー夫人≫が出る前に、世を去って、幸いだったと思います。 ≪赤と黒≫だけでも、ギクリとしていたと思いますが、≪ボバリー夫人≫を読んだら、自分の考える話が、完全に時代遅れになってしまった事に衝撃を受け、≪人間喜劇≫などという大構想を打ち上げたのが恥ずかしくて、人前に出られなくなってしまったでしょう。

  そういや、≪人間喜劇≫という命名自体が、バルザック作品の限界を表しているようにも思えます。 彼にとって、小説とは、前世紀以前の、風刺小説や、ピカレスクのように、人間の滑稽さを笑う為の表現手段だったわけだ。 どれほど鋭く、心理を掘り下げても、どんなに深刻な状況を作り出しても、作者が、それを笑う視点で書いている限りは、リアリズム小説にはなりえません。

  ≪ボバリー夫人≫の作者は、完全に黒衣に徹していて、読者は、作者の存在を感じる事はありませんが、バルザックの小説では、バルザックが、そこに、いるのです。 登場人物として出て来るわけではないですが、語り手として、「どうだい、こんな話は?」と、得意満面、語りかけて来るのです。 この違いは、もう、どうしようもないですな。

  ≪いなかミューズ≫に戻りますが、ラ・ボードレー夫人は、ボバリー夫人ほど、病的ではなく、散財するどころか、パリに出て来てからは、青年の為に、献身的に働きます。 不倫して、夫の元から逃げてしまった点だけが、問題なのであって、それ以外は、至って、常識的な人物なんですな。 青年の方も、悪党というわけではなく、パリの文芸界で、華やかに生きて行くには、ちと、才能が足りなかったという程度の小物。 登場人物の性格付けを、極端にしていない分、話が大人しくなっています。

  よく分からないのは、ラストでして、ハッピー・エンドではないものの、不倫も、出奔も、他の男の子供を産んだ事も、不問に付されており、なんだか、大山鳴動鼠一匹という感じ。 こういう纏め方をしてしまうと、何が言いたかったのか、分かり難くなってしまいます。 「女とは、文学的素養があろうが、都会的センスがあろうが、結局、男の価値も見抜けない、愚かな生き物である」とでも、言いたいんでしょうかね?

  まあ、愚かかどうかは別として、当たっている点もないではないですが。 地味な亭主と一緒に歳を取って行くのが怖くなって、他の男を作って逃げたけれど、その男が、生活能力がない、ろくでなしで、逃げる前より、もっと、ひどい生活に落ち込んでしまう女性というのは、少なからず、存在します。 不完全ながらも、こういう普遍的テーマを扱っているだけ、≪シャベール大佐≫や、≪アデュー≫よりは、先に進んでいるんですな。



≪人生の門出≫

バルザック全集 22
東京創元社 1973年
オノレ・ド・バルザック 著
島田実 訳

  これも、「バルザック全集22」に収録されていた中編です。 もっとも、中編と言っても、二段組で、150ページくらいあるので、文庫本にしたら、そこそこ厚い本が、まるまる一冊、この作品だけで埋まると思われ、長編と考えてもいいと思います。 ≪いなかミューズ≫も、同じくらいの長さ。 しかし、どちらも、≪従姉ベット≫に比べると、3分の1くらいしかないです。

  1842年、新聞連載で発表。 ≪いなかミューズ≫の、一年前ですな。 ただし、バルザックは、一年に作品を何作も書いていたので、直前というわけでもないようです。 晩期の作品なので、当然、≪人間喜劇≫の中に入っています。 元は、バルザックの妹が書いた、短編小説で、それを貰い、バルザックが話を継ぎ足して、この長さにしたのだとか。 あまり聞きませんが、そういうケースもあるんですねえ。 貰い物という事情もあり、発表したり、発行したりするたびに、ころころと題名が変わったらしいです。

  パリから、近郊のプレールという町へ向かう乗合馬車に乗った、学校出たての、世間知らずの青年が、虚栄心の強さから、同乗した法螺吹きどもに対抗したいばかりに、自分が世話になっている人物の主人に当たる伯爵について、恥になるような秘密を口にしてしまったところ、たまたま、その馬車に、正体を隠して乗っていた、その伯爵を激怒させて、世話になっていた人物もろとも、伯爵の屋敷から追い出されてしまうが、その後、別の伝手で、ようやく、法律事務所に就職できたと思ったら、またぞろ、虚栄心から、賭け事に興じて、仕事で預かった金をすってしまい、結局、兵隊になるしか道がなくなって・・・、という話。

  妹が書いた短編というのは、この内の、乗合馬車の中の会話場面から、青年が伯爵の屋敷から追い出される所までで、法律事務所に世話になる部分と、兵隊に行く部分、そして、ラストで、また、乗合馬車に乗る部分は、バルザックが追加したもの。 だけど、一番面白いのは、妹が考えた部分で、追加部分は、蛇足とまでは言わないものの、盛り上がりに欠けます。

  とにかく、この小説の最大の見せ場は、激怒した伯爵が、プレールにある自分の屋敷に入るなり、青年、及び、青年の後援者で、プレールの領地を任せている管理人の先手を打って、ビシバシと処罰を下して行く件りでして、あまりの手際の良さに、読んでいて、ゾクゾクして来ます。 貴族というと、自分では何もしないようなイメージがありますが、怒ると、持てる力を遺憾なく発揮するわけですな。

  この場面の面白さは、サディズム的な要素が大きいと思います。 作者としては、青年に、わざと許しがたいような侮辱をさせておいて、伯爵の激怒を、もっともなものとし、思う様、復讐させる事によって、落差を作り出そうしたのでしょう。 このパターンは、法律事務所での失敗の場面でも、繰り返されますが、そちらでは、話の流れが、わざとらしくなり、金をすらせる為に、賭け事をするように追い込んでいるように見えます。 一口で言えば、不自然。

  主人公の青年は、ただ、愚かだっただけですが、もう一人、馬車の中で、大佐を騙って法螺話を繰り広げる男の方は、より低劣で、悪辣です。 「邪悪」という形容が、最も、ぴったり来る。 こういう人物は、程度の差はあれ、現実に、どの集団にも、一人くらいは存在するので、より忌まわしく感じられ、青年よりも、こやつがひどい目に遭うべきだと思う読者も多い事でしょう。 

  作者も、その辺のところは承知していて、この男には、それなりの末路を用意していますが、少し、甘いような感じがします。 どうせ、サディズムを見せ場にするのなら、後半は、この男の、致命的な失敗を描けば良かったのに。 なまじ、「人生の門出」などという、無理やり、こじつけたテーマに近づけようとしたのがいけないのであって、サドで押し切れば、その方が、ずっと面白くなったと思います。

  ラストの纏め方には、どうにも生煮えな感が否めません。 中途半端に、ハッピー・エンドになるのですが、こんなラストなら、書かない方が、マシだったのではないでしょうか。 そもそも、妹の書いた小説が、話として完成していたと思われるのを、無理に書き足したから、バランスが崩れたんですな。 元の小説の方を、読んでみたいです。



≪追放者≫

バルザック全集 3
東京創元社 1973年
オノレ・ド・バルザック 著
河盛好蔵 訳

  これは、【シャベール大佐】の内容を確認する為に借りて来た、「バルザック全集3」に収録されていた短編小説。 2段組みで、30ページくらいしかありません。 1831年に発表。 13世紀後半のパリで、警官が副業で営んでいる貸し部屋に住み始めた、外国人の老人と若者が、二人の素性を怪しむ警官の心配をよそに、パリ市内にある教会を訪ねて、高名な宗教学者の話を聞いた後、若者が天に召されようと、自殺を図る話。

  一応、梗概は書きましたが、ストーリーで読ませる小説ではないです。 ≪人間喜劇≫の中では、「哲学的研究」に分類される小説だそうで、キリスト教哲学について語るのが目的。 アウグスティヌスの著作に近い感じで、トマス・アキナスのように、論理で説得するつもりはないようです。 この外国人の老人の方が、とある、文学史上の有名人でして、それが明らかになるのが、ラストの仕掛けになっています。

  短いので、一応、全部読みましたが、キリスト教徒でない身には、こういう話に興味を持てと言われても、無理な相談です。 欧米の小説には、たまに、そういうものがありますが、特定宗教の価値観を基盤にして、初めて成り立つ話なので、異教徒や無神論者には、窺い知れない部分が多く、小説の価値も分かりかねます。 言葉を換えれば、普遍性に欠けるわけです。

  ただ、この13世紀後半のパリの様子を描いた雰囲気には、なんとも言えぬ味わいがあります。 せっかく、警官の貸し部屋とか、故国から追われる身とか、若者の自殺とか、ミステリーっぽい道具立てが揃っているのですから、加筆して、≪薔薇の名前≫のような話にしてしまえばよかったのに。 いや、1831年といえば、まだ、ポーの、≪モルグ街の殺人≫も出ていない頃ですから、バルザックに、ミステリーに仕立てろというのは、無理な相談なんですがね。



≪あら皮≫

バルザック全集 3
東京創元社 1973年
オノレ・ド・バルザック 著
山内義雄・鈴木建郎 訳

  これも、「バルザック全集3」に収録されていた作品。 2段組みで、220ページくらいあり、長めの中編か、短めの長編といった長さです。 発表は、1830~31年とありますから、雑誌か新聞に連載されていたんでしょうか。 これも、≪人間喜劇≫の中の、「哲学的研究」の一作品。

  身を持ち崩して、自殺するつもりでいた青年が、最後に入った骨董屋で、特殊な驢馬の皮を東洋で加工したと思われる、「あら皮」を見つけ、手に入れるが、その皮には、持ち主の欲望を叶えてくれるのと引き換えに、小さくなり、小さくなればなるほど、持ち主の寿命が短くなるという性質があり、青年は、突然、遺産が転がり込んで裕福になるものの、寿命を食い潰す事を恐れて、それ以降、ひきこもった生活を続けざるを得なくなる話。

  ストーリーだけ見ると、よくある、「悪魔と、三つの願い」のバリエーションみたいな話なんですが、なにせ、哲学小説なので、ストーリーは、枠として用いているに過ぎず、ファンタジックな面白さとは無縁です。 こういうのも、御伽話を換骨奪胎したアイデアとして、評価できるのかもしれませんが、何度も書いているように、バルザックの小説には、古い時代を引きずっているところがあり、換骨脱胎なのか、そもそも、御伽噺と小説の区別がついていないのか、判然としません。

  たとえば、桃太郎や浦島太郎を元にして、哲学的なテーマを盛り込む事も可能なわけですが、「時代を代表する作家のやるような事じゃない」という気もするのです。 バルザックが、生涯を通じて、パロディーを得意にしていたというなら、話は別ですがね。 御伽噺の枠を借りた小説の場合、読者の方も、御伽噺的な、分かり易い展開と、洒落た結末を、期待してしまうわけですが、この作品は、曲がりなりにも、近代小説ですから、正反対でして、遠回りに遠回りを重ねた展開の挙句、なんとも救われない終わり方をします。

  特に、あら皮を手に入れた直後の、パーティーの場面で、主人公が、自殺を思い立つに至った、それまでの経緯を語る件りがあるのですが、2段組みで、70~80ページくらい、延々と喋り続けるのには、仰天します。 時間にすると、よほど、早口で喋っても、2時間はかかると思うのですが、そんなに長時間、他人の話を聞いてくれる友人なんて、いるんでしょうか? セリフが長過ぎるにも程があろうというもの。 ドストエフスキーどころではないのであって、もし、これを舞台劇にしたら、2時間、一人で喋り続けるんですかね? 

  こういう、変な所があるから、バルザックを、リアリズム作家扱いしている評価には、賛成できないんですよ。 あんたら、2時間喋れるかい? しかも、酒の席だよ。 一人で、2分喋り続けるのも、難しいでしょうが。 その間、聞かされている方は、何してるんですか? 間が持たないではないですか。 だからねー、描写が細かければ、リアリズムってわけじゃないんですよ。 良心的に見るならば、まだ、初期の頃の作品ですから、作風を確立する為に、いろんな事を試していたという事なんでしょうかねえ。

  ちょっと面白いと思ったのは、あら皮の正体を知る為に、学者を訪ねて行くところです。 博物学者に材質を訊いたり、科学者に、強力なプレス機で、引き延ばしてもらおうとするのですが、そこだけ、妙に近代的。 そっちの方向へ進めれば、SFになったかもしれません。 いや、1830年と言ったら、まだ、ジュール・ベルヌが、2歳の時でして、バルザックに、SFを書けというのは、無理な相談なんですがね。



  以上、4作品でした。 バルザックは、これくらい読めば、もう充分という感じです。 長短取り混ぜて、全部で、7作品読んだのですが、その中で、一番面白かったといえば、やはり、≪従姉ベット≫ですかねえ。 最も長かったですが、近代小説への脱皮が最も進んでいて、型に嵌まったところがない点が、良かったです。 もっとも、それも、バルザック作品の中では、という、相対的な評価ですが。

  バルザックと言えば、ブリジッド・バルドーさん主演の、1956年の映画、≪裸で御免なさい≫に、パリにあるバルザックの家が登場します。 地方から出て来た主人公が、画家志望の兄の住所を訪ねたら、凄い豪邸で、ビックリ! てっきり、兄が大成功したと思い込み、留守中、勝手に入り込んで、本棚に並んでいた高そうな本を持ち出して、売ってしまったところ、それは、バルザックの初版本で、結構なお金になります。 ところが、その屋敷は、バルザックの家をそのまま保存している、「バルザック博物館」で、兄は、そこの住み込み管理人だったと分かり、また、ビックリ! 本を買い戻そうと、賞金目当てに、ストリップ・コンテストに出場するというストーリー。

  この映画には、バルザックへの敬意など、微塵も感じられず、単に、コメディーのダシにしているのですが、フランスでの、バルザックの評価は、こんなものなんですかねえ。 親しみを感じているとも取れますが、からかっても構わない人物と思われている可能性も否定しきれません。 もし、バルザック本人が、この映画を見たら、確実に、怒ると思います。 ダシに使われるくらいなら、忘れられている方が、まだ、マシでしょう。

2015/07/05

カタログ・ギフト

  先日、父の高校時代の友人が亡くなり、父が、葬儀に行きました。 同級生ですから、うちの父も、同じ歳なわけで、すでに、80代半ば。 犬が歩けなくなって、散歩に連れて行かなくなって以降、ここ一年ばかりの間に、父も、めっきり力がなくなり、背中は曲がり、歩き方も、ぎこちなくなって、葬儀が行なわれる隣の市まで、辿り着けるのか、心配になるくらいでしたが、まあ、無事に帰って来ました。

  訃報が入った時、電話を取ったのが私だったのですが、その後、父に、「バスの時間が分かるか?」と訊かれたので、ネットで、バスと電車の時間を調べ、メモに書いて渡しました。 私にできるのは、そんな事くらいですな。 私が車を持っていれば、送って行けばいいのですが、そういう用の為に、車を買うという発想はないです。 公共交通機関で出かけられないほど、衰えてしまったら、「参列できない」と言えばいいのであって、冠婚葬祭は、無理に出かけて行くようなものではありますまい。

  今後、私が車を買う事があるとしても、それは、親が何かの病気になって、尚且つ、自力では行けない病院に、週一以上の頻度で通わなければならなくなった場合に限ります。 費用対効果が主たる理由ですが、別の理由もありまして、何でもかんでも、子供がやってやっていると、自分では何もしなくなり、衰えが加速してしまうので、それを避けたいのです。 たまに、バスや電車に乗るだけでも、心身ともに、緊張を要求されるわけで、それは、健康にいい影響を及ぼすと思うのです。

  これは、親だけでなく、私自身にとっても言える事でして、バイクを手放すか否かで、悩んでいるのも、衰えるのが恐ろしいからです。 交通事故の恐怖と、精神的衰弱の恐怖、どちらが大きいのか、未だに見極められません。 月に一回くらい、ツーリングに出ていれば、準備でも、本番でも、だいぶ、緊張感を味わえるわけで、そういう機会を捨ててしまうのは、惜しいと思うんですな。


  話を戻します。 葬儀の当日、父は、午前9時過ぎに出かけて行って、昼過ぎには帰って来ました。 早かったのは、葬儀だけにして、火葬場には行かなかったからだそうです。 「行っても、やる事はない」と言ってましたが、親戚ならともかく、友人ですから、そんなものなのでしょう。 参列者が少なくて、骨を拾う人数が足りないという場合でもない限り、残ってくれとは言われないわけだ。 

  その日の天気予報が、曇り時々雨で、「たぶん、父は、傘を持って行くだろう。 そして、かなりの確率で、傘を忘れて来るに違いない」と予測していたところ、本当に忘れて来ました。 判で押したようなパターンですな。 当然と言えば当然ですが、どこで忘れたのかも覚えておらず、「たぶん、バスの中だろう」と言っていました。 それでは、探しに行くのも、無駄なエネルギーになりそうです。

  父が、香典のお返しに貰って来たのが、カタログ・ギフトだったのですが、それを知った父は、自分では、カタログのページを開こうともせずに、母と私に丸投げして、「これで、傘を貰えばいい」と言いました。 一つ欠けたら、一つ埋める。 一見、うまい考え方のように思えましたが、念の為、「香典に、いくら包んだんだ?」と、私が訊くと、「一万円」との答え。 冗談じゃない、一万円と引き換えに、傘なんて、割に合わないにも程があります。

  お返しですから、一万円のカタログという事はありませんが、それでも、半額くらいはするでしょう。 ネットで調べてみたら、税抜きで、4100円のコースでした。 それにしても、4100円の傘なんて、結構な高級品になってしまいます。 しかも、忘れて来たのは、折り畳み傘だというじゃありませんか。 折り畳み傘に、高級も低級もありゃしません。

  で、翌日、私は、100円ショップへ出かけて行きました。 まず、近所のセリアに行ったのですが、普通の傘はあったものの、折り畳みが見当たらず、店員さんに訊いたら、置いてないとの事。 以前は、あったような記憶があるので、たぶん、円安の影響で、消えてしまったんでしょう。 100円ショップ及び、低所得者にとっては、受難の時代ですな。

  やむなく、ちょっと遠いのですが、ダイソーまで足を延ばしたら、そこには、200円商品として、置いてありました。 もはや、100円ショップではないわけですが、たとえ、200円商品でも、ないよりは、ある方が、ありがたいです。 ホーム・センターで買えば、千円はしますから。 何色かあったのですが、葬儀に持って行けるように、黒を買いました。 税込みで、216円。 三段式で、折り畳むと小さいので、いざという時には、礼服のポケットに入れる事も可能で、忘れて来る危険性も減るでしょう。

  家に帰って、父に渡しましたが、試しに開いてみるように言ったら、何と、力が足りずに、カチッと止まる所まで、開けません。 これには、驚いた。 つい、こないだまで、父は、私より、ずっと力があって、腰が悪くないので、重い物でも、平気で持ち上げる人だったんですが、傘を開けないほど、衰えてしまうとは・・・。 まあ、少々、力が要る傘ではあったのですが。 もしかしたら、父が、よその葬儀に参列する機会は、もうないのかもしれませんなあ。

  ここで、数年前の私なら、「毎日、家に籠りきりで、動かないから、衰えるんだ。 犬がいなくても散歩はできるんだから、出かければいいではないか。 せめて、体操くらいしろ」と、迫るところですが、私自身、引退した今となっては、何だか、明るい未来を想像し難くなってしまいましてねえ・・・。 たとえ、ここで、父が努力して、しばし、衰えを防ぐ事ができたとしても、無限に生きるわけには行かないのです。 当人が努力を望んでいるのならともかく、私が、どうこう言う事ではないでしょう。 80年以上、健康に生きて来ただけでも、もう、充分ではありませんか。


  話を傘に戻しますと、父が、「金を払う」というので、「いや、ギフト・カタログと交換にしよう」と言って、取り引き成立。 何だか、私が、216円の傘で、父から、4100円のカタログを巻き上げたように取れるかも知れませんが、そうではないのであって、どうせ、父は、カタログで欲しい物なんて、ありはしないのです。 今までにも、カタログを貰った事は何度もあったわけですが、「要らない」と言って、私に、くれる事がありました。 今回は、216円の傘と引き換えになっただけでも、父にとっては、損ではないわけだ。

  かく言う私も、すでに、カタログで欲しい物など、何もありません。 そのカタログには、食品が載っていたので、父が好きな、そうめんでも貰おうかと思いましたが、そうめんなんて、スーパーで買っても、高が知れているのであって、馬鹿馬鹿しくなり、結局、壁掛け時計にしておきました。 当座、使う予定はありませんが、腐る物ではないですから、押入れに入れてとっておけば、その内、どこかの部屋で時計が壊れた時に、すぐに取り替えられるという算段です。

  壁掛け時計は、長持ちするものと、早々と逝ってしまうものがあり、一週間で一分以上、狂い始めると、そのつど直すのが面倒になって、買い替えという事になります。 割と、新陳代謝が激しい機器ではないかと思います。 部屋によって、時計の精確さに対する要求度は違っていて、何十年も、同じ時計を使っている部屋というのは、普段、人がいないとか、個人で使っている部屋とか、時計の重要度が大して高くなくて、2・3分ずれてから直しても、問題ない部屋だと思います。

  一番、狂い易いのは、台所の時計でして、湿度や油で、すぐに、おかしくなります。 以前、防湿タイプという、ムーブメント全体を、ねじ込み式のカバーで覆ってしまう時計を使っていた事がありますが、普通の時計と、寿命は変わりませんでした。 油はともかく、湿気の方は、カバーくらいで、浸入を防げるものではないのでしょう。

  ちなみに、ネットで検索すると、「狂ったクオーツ時計の直し方」というのが載っていて、「軸や歯車に汚れが着くのが原因だから、分解して掃除すれば、復活する」などと書いてあります。 しかし、分解自体に、結構、技能が要るので、素人はやらない方が無難です。 私は、一度やった事がありますが、針を外しただけで、ひん曲がって、一気に、ガラクタに近づいてしまいました。 その上、掃除して、組み立てたら、一時間に10分も進むようになってしまい、口あんぐり・・・。 いや、捨てましたけどね・・・。


  何だか、脱線しておりますな。 ギフト・カタログの話でした。 つまりその、生活に必要な道具が、一通り揃ってしまった家では、ギフト・カタログで貰いたいような品がないんですな。 これは、カタログの値段に無関係で、5000円以上するカタログでも、事情は変わりません。 一万円クラスのカタログもあるようですが、そういうのは、貰った事がないので、不詳。 一万円のカタログを貰うには、祝儀や香典を、いくら包めばいいんですかね? 富裕層向けなんでしょうな。 もっとも、富裕層なら尚の事、一万円程度のカタログで、欲しい物など、何もないと思いますが。

  食品が載っていれば、それが一番、無駄になりませんが、先に触れた、そうめんの例でも分かるように、店で直截買うのに比べて、損になるケースが多い。 ラーメン10食分なんて、スーパーで、生ラーメンとスープのセットを買ってくれば、千円もしないでしょう。 どうせ、どちらも、具材は付いていないのだから、スーパーで買った方が、断然、得ではありませんか。

  すでに持っている物を、重複して貰ってしまうと、なかなか、出番が来ず、貰った事を忘れてしまって、何年も経ってから、大掃除のどさくさに紛れて発見し、愕然とするのも、よく見られる光景です。 手に入れた経緯を思い出せれば、まだしも、なぜ、新品がしまってあるのか、全く覚えがなく、狐に抓まれたような気分になる事もあります。 脳というのは、印象の薄いものは、早々と忘れてしまうから、使わなかった品の記憶なんか、綺麗さっぱり、消去されてしまうんでしょうなあ。

  私は、今までに、腕時計を二つ、カタログで貰っています。 何となく、価値がありそうに見えるので、つい、貰ってしまったんですな。 だけど、腕時計ばかり増えると、後々、厄介な事になります。 全て、クオーツですから、電池が切れたら、交換しなければなりませんが、その電池が、種類によっては、結構高いので、いくつも並行して動かしておくというわけにはいかないからです。

  カタログには、腕時計のページというのが、女性用・男性用の順で出て来ますが、それ以外に、ファッションや、アウト・ドア用品のページにも、ちょこんと混じっている事があり、そちらの方が、物が良かったりするから、要注意です。 男性用の腕時計の場合、本体のデザインにばかり気を取られていると、送られて来てから、ベルトがフリー・タイプだったりして、青くなる事があるので、カタログ上に、ベルトの説明がない場合は、ネットで調べた方がいいです。 まあ、しょっちゅう、太ったり痩せたりを繰り返している人なら、フリーの方が、便利なんですが。

  ちなみに、カタログに載っている腕時計を、ネットで検索すると、大抵は、カタログの値段の、3分の2くらいで売っています。 思うに、カタログ業者というのは、結構、儲かっているんでしょうねえ。 2000円の商品を載せたカタログを、3000円で売ってるんですから、凄い利幅。 冠婚葬祭で出費されるお金の、かなりの部分が、カタログ業者の懐に入っているんでしょうなあ。 いや、商売だから、それ自体を批判する気はないですけど。

  問題は、カタログに載っている商品が、すでに持ってる物ばかりで、選ぶのが、楽しみではなく、苦しみになってしまっている事ですな。 開く前から、「欲しい物など、ないに決まっている」と分かってしまっているところが、妙に悲しいです。 で、無駄にしない為に、損と承知で、食品を選んだりするわけですよ。 洗剤なんかも、確実に使うから、貰えれば、ありがたいのですが、あまり見かけないのは、値段の割に、重くて嵩張るから、送料の関係で、外されているんでしょうか。 石鹸はありますが、アロマ系とか、妙に凝った、変な匂いの物ばかりで、実用になりません。

  カタログを見ていて、腹が立つのは、陶磁器の食器のページが、やたらと多い事です。 セットならまだしも、ちょっと高そうなのが、単品で載っているのが多い。 単品の食器なんて、重ねられないから、置き場所に困るではありませんか。 誰が、そん不便な物を欲しがるんでしょう。 それに、ちょっと高そうと言っても、所詮、2000円程度の品ですから、大量生産品ですよ。 量産品であれば、質的に、100円ショップで売っている食器と、変わりはありません。 どこが違うのか、説明して欲しいです。 どっちも、落とせば、割れるんでしょう?

  包丁も多いなあ。 そんなに、包丁ばかり揃えてもねえ。 地雷包丁を仕掛けるわけじゃないんだから。 地雷包丁なんて書いても、もう、誰も分からないか・・・。 包丁も、100円ショップで、売ってるというのよ。 切れ味が違う? だって、カタログのだって、所詮、2000円程度の品でしょう? 大差ないと思うんですがねえ。 高い物を買うより、マメに研いだ方が、ストレスなく切れると思いますよ。 と、かつて、毎晩、鋏を研いでいた、元植木屋見習いは語る。

  服というのは、あまりなくて、ファッションのページは、小物が多いです。 特に、バッグ類は、豊富。 しかし、写真だけで決めるは危険でして、必ず、サイズを見て、現物の大きさを想像してから、貰った方がいいです。 旅行鞄は、とりわけ、要注意。 サイズを見ると、写真からは想像できないほど、小さい物も混じっています。 ちなみに、旅行鞄選びは、飛行機に機内持ち込みできる、最大サイズのを狙うのが、肝です。

  私が、昔、カタログで貰った旅行鞄は、キャスター・取っ手・背負い紐付きの、結構な優れ物で、北海道応援の時と、沖縄・北海道旅行の時に、飛行機で移動するのに、大活躍しました。 元は、旅行好きの母にやるつもりで、貰ったのですが、一度使っただけで、母の旅行趣味は幕を閉じてしまい、結局、私本人が使う事になったわけだ。 だけど、私も、もう、旅行鞄を使うような旅行は、二度としないかも知れません。

  そういや、北海道応援の時と、岩手異動の時に、IHクッキング・ヒーターを使いましたが、それも、カタログで貰った物でした。 とりわけ、北海道では、それのお陰で、自炊が成立したわけで、二ヵ月半で、数万円の金額を節約できて、大いに役に立ったと言えます。 しかし、家に戻ってしまえば、出番がないですから、今では、私の部屋の天袋にしまわれて、眠っています。

  こうして見ると、カタログで貰って、役に立ったというと、日常的な用途ではなく、旅行や、長期出張のような、特殊な状況で使った物が多いですな。 これから、実家を出て、一人暮らしを始めるというような人にも、歓迎されると思います。 だけど、こちらの都合に合わせて、カタログが送られて来るわけではないのが、うまく行かないところ。 甥や姪の、入学祝や、就職祝に、カタログを贈る人は多いんでしょうか。 贈る側が選んだ物を押し付けるより、贈られる側が必要としている物を、当人に選ばせた方が、喜ばれるのは、考えるまでもない事。 ただ、プレゼントとしての、印象は薄くなると思います。

  他に、カタログで貰った物で、役に立っていると言うと、文庫を収めてある、カラー・ボックスが二つあります。 棚の高さを変えられるタイプで、普通に店で買うと、やはり、2000円くらいでしょうか。 だけど、同じカタログに、棚の高さが変えられないタイプも載っていました。 そちらは、店で買うと、1000円前後ですから、掲載商品の値段には、かなり、幅がある模様。 そのカラー・ボックスは、今でも、現役で働いています。 もし、自腹だったら、たぶん、買わなかったんじゃないかと思います。


  取りとめがなくなりましたが、それはいつもの事として、カタログ・ギフトに関する事というと、こんなところですかねえ。 私の場合、冠婚葬祭に関わる機会は、多くないのですが、労金のポイントが貯まると、大抵、カタログに換えるので、割とよく、カタログを手に入れます。 同じ会社のカタログですから、載っている品も、大体同じ。 ますます、選ぶ物がなくなるというわけだ。


  ところで、私は、葬儀の香典に包んだ金額に対し、お返しの品の値段が、異様に安いと、ムッとする事が多いのですが、それは、あくまで、義理で出した香典の話でして、たとえば、亡くなったのが、ほとんど、世話になった記憶がない親戚とか、勤め先の同僚の親といった、会った事もない人の場合です。

  子供の頃、可愛がってもらった、おじさん・おばさんとか、同僚本人とかが亡くなった場合は、そもそも、お返しを欲しいとも思いません。 今回の、父の場合も、亡くなったのは、高校時代の友人だった人ですから、たぶん、お返しなんか、どうでも良かったと思うのです。 友情というのは、金額で価値を量るようなものではないですから。


  も一つ、ところで、「カタログ・ギフト」は、前後を引っ繰り返して、「ギフト・カタログ」と言っても、ほとんど、同じ意味として取られる、珍しい連語ですな。 厳密には、前者は、「カタログ式のギフト」、後者は、「ギフトのカタログ」で、意味が違うんですが、実際には、全く区別されていません。 というか、区別できないでしょう?

  「お返しは、何だったの?」と、訊かれた時、「カタログ・ギフト」と答えても、「ギフト・カタログ」と答えても、ツッコミを入れられる心配がないから、注意して、両者を区別しようという気にならず、混同したままになっているのです。 もし、敢えて、ツッコんで来る奴がいたら、そいつは、たぶん、嫌われ者だと思います。