読書感想文・蔵出し (22)
引き続き、読書感想文です。 もう、だいぶ長い事、このブログ専用の記事を書いていませんなあ。 正直に白状しますと、個人的な事にかまけているだけで、日々、どんどん過ぎてしまって、世情の事を考える気がなくなってしまったのですよ。 時事ニュースを取り上げて、ああだこうだ書くだけなら、できない事もないですが、そういう記事を読みたがる閲覧者には、距離をおきたくてねえ。
結局、この世界なんてーのは、自分が生きている間だけ、自分にとって意味があるのであって、それならば、自分の事を第一に考えた方が、時間を有効に使えるのではないかと思うのですよ。 人類の未来がどうのこうのと、大きな事ばかり考えていると、死が急速に近づいてきた時、「自分の人生は、一体、何だったのか?」と、後悔しそうでねえ・・・。
そんな事は、いいとして、感想文です。 ようやく、推理小説から脱却する芽が出て来ました。
≪地下室の記録 【新訳】≫
集英社 2013年
フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー 著
亀山郁夫 訳
沼津市立図書館の、青春本特集コーナーにあった、単行本。 ≪地下室の記録≫という書名ですが、一般的には、≪地下室の手記≫という名前で知られている作品です。 発表は、1864年。 流刑・軍役時代の後、後期の代表的長編群の前に書かれたもの。
第一部【地下室】は、勤めていた役所を辞め、地下室的な自分の精神世界に閉じ籠って暮らしている、40歳の男が、うまくいかない他人との関係に悩み、問題の根源を人類全体の特質にまで広げて、ああだこうだと、理屈を並べる話。
第二部【ぼたん雪にちなんで】は、まだ勤めていた若い頃、ぼたん雪の降る日に、学生時代の同級生の送別会に無理やり参加して、醜態を曝した上に、若い娼婦を相手に、青臭い理屈を並べ立て、惨めさのどん底に落ち込む話。
第一部は、小説とは言い難いです。 自分の性格分析をしたり、その頃、流行っていた思想について、理屈を並べているだけ。 何だか、自分の事を、知性と教養に溢れていると思い込んでいる高校生が、頭に浮かんだ事を、垂れ流しているような、稚拙この下ない印象を受けます。 その嫌らしさたるや、小学生の模範児童的作文にも劣る。
作者自身が、43歳の時の作品で、すでに、文壇に名が売れていたから、これでも通ったんでしょうが、もし、無名の人間が、新人賞の応募作として送ってきたら、編集者による篩い分けで落とされるのは当然として、よほど親切な編集者なら、「あなたの作品は、小説とは言えません。 もっと、いろいろな作品を読んで、勉強し直すように」と、アドバイスしてくれるかもしれませんが、普通の編集者なら、無言で、ゴミ箱にポイですな。
第二部は、形だけは、小説っぽいですが、主人公の、やる事、なす事、考える事、口にする事、一点たりとも、正気とは思えず、狂人の生態を観察した記録そのものになっています。 それがまた、一人称で書いてあるから、こっちまで、狂人の相手をさせられているようで、時間の無駄、人生のロスを感じてしまうんですわ。
ほんのちょっとでも、共感できるところがあれば、まだ、評価のしようもあるんですが、あまりにも、駄目人間過ぎて、「地下室に籠るくらいでは足りぬ。 いっそ、埋めてやった方がいいのでは?」と思ってしまうから、ムカムカと腹が立ちこそすれ、感動なんて、全くしません。 人に説教なんて、できる人間か? 実際、当人が書いているように、ハエ同然、いや、ハエ以下ではないですか。
こんなムチャクチャな作品を、絶賛した編集者や著名作家がいたというから、他人の考えている事は分かりません。 その人達も、狂人なんですかね? 人生の一時期であっても、この主人公みたいな事をしていたんでしょうか? そりゃまた、迷惑千万な事ですなあ。 呆れて、ものが言えない。
≪狂人日記 他二篇≫
岩波文庫
岩波書店 1983年
ゴーゴリ 著
横田瑞穂 訳
ゴーゴリという人は、名前はもちろん知っていて、20年くらい前に、≪外套≫という短編を読んだ事もありますが、内容は、おぼろげにしか覚えていません。 ウクライナ生まれのロシア文学作家。 1809年生、1852年没だそうですから、日本では、もろ江戸時代でして、近代文学というよりは、近世文学の作家なのではありますまいか。
≪狂人日記≫に収録されている3作品も、発表は、1834年と、大昔です。 大デュマと、ほぼ同じ時代と言えば、分かり易い。 イギリスのディケンズより、ちょっと早いくらい。 ちなみに、トルストイやドストエフスキーが活躍するのは、19世紀の後半で、ゴーゴリより、半世紀近く後になります。
【ネフスキイ通り】
ペテルブルクのネフスキー通りで起こった、二つの事件を例に、都会の人間模様を描き出そうとした話。 一つ目は、高級娼婦に熱を上げて、妄想を膨らませる画家の話。 二つ目は、自分の美しさに自惚れて、ドイツ人の鍛冶屋の女房にちょっかいを出そうとする軍人の話。
これは、小説というより、「おはなし」ですな。 というか、「おはなし」から、「小説」へ脱皮しつつある途中という感じがします。 これならば、大デュマの作品の方が、小説への脱皮度が、ずっと進んでいます。 もっとも、こちらは短編だから、おはなし風の雰囲気が色濃く残るのは致し方ないのかもしれませんが。
ストーリーは、おはなしレベルなのに、情景描写や心理描写は、完全に、小説レベルになっていて、細か過ぎて、ちょっと、くどさを感じるくらいです。 だけど、心理描写に関しては、スタンダールの≪赤と黒≫は、もっと早く出ているから、当然、ゴーゴリも読んでいたはずで、このくらい細かくても、不思議はないです。
何と言っても、おはなしレベルのストーリーなので、現代の感覚で読むと、お世辞にも面白いとは言えません。 なまじ、中途半端に、小説化しているせいで、おはなし特有の、メルヘンチックな面白さも損なってしまっているように思えます。
【肖像画】
修行中の若い画家が、独特の目つきに特徴がある高利貸しを描いた肖像画を手に入れて以降、顧客に阿った絵を描き始め、富と名声を得るものの、歳を取ってから、自分の間違いに気づき、元の道に戻るに戻れず、破滅して行く。 ところが、実は、それは、高利貸しの肖像画の呪いせいで・・・、という話。
前半だけなら、小説。 後半、肖像画の呪いという謎解きで纏めてしまったせいで、「おはなし」になってしまってしまいました。 この頃の作家にとって、いかに、「おはなし」の誘惑が強かったかが分かります。 不思議な話にしないと、面白くならないと信じ込んでいたのでは? 因習ですなあ。
不思議な話の要素があるので、【ネフスキイ通り】よりは、幾分、面白いですが、これまた、現代の読者には、食い足りないでしょうなあ。 ただ、人生訓的なものが含まれていますから、中高生など、若い読者なら、参考になる部分もあると思います。 それは、【ネフスキイ通り】も同じ。
【狂人日記】
頭のおかしい役人が、岡惚れしている長官の娘の秘密を知る為に、犬の手紙を読んだり、自分をスペイン国王だと思い込んだりする話。
狂人が考えている事を、小説にするのは、そんなに奇抜なアイデアではないと思うのですが、この作品は、使っている小道具が気が利いていて、大変、面白いです。 途中、筒井康隆作品を読んでいるような気分になりました。
長官の家で飼われている犬が書いた手紙を、手紙を受け取った犬の所から横取りして来て、それを読むというのは、そうそう簡単に思いつける事ではありません。 もちろん、犬は手紙を書いたりしないわけで、一体、主人公は、何を読んで、こんな日記を書いているのか? 不思議不思議! 不粋な謎解きをしていないのも、いいですな。
スペイン国王が死に、その後継者がいないというニュースを聞いた後、しばらく経ってから、突然、自分が、新しいスペイン国王なのだと気づくところも、妙におかしい。 だけど、こちらのエピソードは、犬の手紙に比べると、ありふれた精神異常の例ですな。
最終的には、精神病院行きになるわけですが、そうしないで、もう一つくらい、異常なエピソードを書き加えて、そこで、スパッと終わりにしてしまえば、もっと面白くなったと思います。 だけど、時代的に、そこまで欲張るのは、無理があるかな?
≪世界終末十億年前≫
群像社 1989年初版
アルカージイ&ボリス・ストルガツキイ兄弟
深見弾 訳
作者の兄弟は、ソ連・ロシアのSF作家。 ソ連を代表するSF作家というと、イワン・エフレーモフになりますが、ソ連・ロシアを代表するとなると、このストルガツキー兄弟になるのではないかと思います。 こちらの方が、シニカルで、世界の平均的SFファンの好みに合っていますから。
発表は、1977年。 ペーパー・バックの単行本で、一段組み、190ページくらい。 一冊で一作品ですが、長編というには、短くて、中編と言った方が、しっくり来る長さです。 なんだか、大仰なタイトルですが、世界の終末の十億年前の話ですから、別に、終末の様子が描かれているわけではありません。 そういうのを期待して読むと、とんでもない肩透かしを食らいます。
それぞれ、全く関係ない分野の、最先端の研究をしている学者達に対し、それぞれ別の手法で、研究を中止するように仕向ける働きかけがある。 その手法に、常識では考えられないような、大きな力の持ち主の存在が窺われるが、地球上の謎の組織なのか、宇宙人なのかは、はっきりしない。 学者達が、額を集めて、どうしたらいいか、議論する話。
まさに、議論する話でして、ほとんどの場面が、主人公の部屋や、他の学者の部屋での会話で進行します。 地の文の、情景描写もありますが、それは単なる肉付けに過ぎず、会話部分だけ読めば、ストーリーは、理解できます。 ストーリーに関わる、人物の動きが、大変 乏しいので、物語としては、お世辞にも面白くありません。
モチーフやテーマは、ストルガツキー兄弟の話に、よく出て来るものでして、何が言いたいかは分かるものの、語り方が平板すぎるせいで、小説としての評価は、低くならざるを得ません。 ≪路傍のピクニック≫も、かなり、変わった語り方でしたが、動きがあったから、この作品よりも、ずっと、面白かったです。
≪守銭奴の遺産≫
論創海外ミステリ 174
論創社 2016年 初版
イーデン・フィルポッツ 著
木村浩美 訳
1926年の発表。 私が今までに読んだフィルポッツ作品の発表年は、≪赤毛のレドメイン家≫が1922年、≪だれがコマドリを殺したのか?≫が1924年、≪極悪人の肖像≫が1938年ですから、この作品は、長編推理小説としては、前期に入るのでしょう。 作者が、64歳の時の作です。
原題は、イギリスでは、≪メリルボーンの守銭奴≫、アメリカでは、≪ジグ・ソー≫。 英題は、被害者が、メリルボーンに住んでいる守銭奴である事から。 米題は、事件の解決に至る手がかりを集める作業を、ジグソー・パズルに譬えているから。 糸鋸と紛らわしいから、≪ジグ・ソー・パズル≫にすれば良かったのに。 てっきり、糸鋸で殺されたかと思ってしまうじゃないですか。
メリルボーン地区にあるビルの一室に於いて、高利貸しをしている因業な老人が、完全な密室の中で殺される。 事件と前後して、被害者の弟と、ビルの管理人の娘が行方不明になる。 遺産に関係して来る、被害者の甥と姪、秘書には、アリバイがあり、被害者の弟の義理の娘夫婦にも怪しいところはなく、容疑者が浮かんで来ない。 引退した元刑事リングローズが、友人である現役警部補アンブラーと、協力したり衝突したりしながら、謎を解き、特異な人格を持つ犯人像を炙り出して行く話。
以下、ネタバレを含みます。
密室トリックは、全然、面白くありません。 というか、あまりにも幼稚なので、とても、長編推理小説を書き慣れた作家が思いつくアイデアとは思えないのです。 もしかしたら、わざと、チャチにして、「この小説は、トリックなんて、どうでもいいんだよ」と、新しいトリックを捻り出すのに汲々としていた、他の推理作家達を、皮肉ったのかも知れません。 ただ、もし、あっと驚くようなトリックが用意されていたら、この作品は、より高い評価を受けただろうとも思います。
捜査の進み具合を描写する形式で、話が展開します。 探偵役の二人が、中途段階の推理を披露する場面が、何度か繰り返されますが、それは、最終的な正解ではないわけですから、読者は、それと承知の上で、間違った推理を読まされる事になり、そういうところは、まどろっこしい感じがします。
中盤で、農村の小川の畔から、樽が発見される場面があり、そこだけ、妙に面白い。 ゾクゾクします。 だけど、すぐに、低テンションの捜査物に戻ってしまって、後は最後まで、そのまんまです。 リングローズが、密室トリックの方法に気づく場面ですら、子供騙しの度が過ぎて、クライマックスというには、お粗末過ぎ。 ちっとも面白くありません。
この作品のテーマは、犯人の、大変、変わった人格を描き出す事にあると思うのですが、それだけでは、長編推理小説として、読み応えに欠けるのは、致し方ないところ。 本来なら、密室トリックなど取っ払って、推理小説ではなく、犯罪小説として書くべき内容なのでしょう。
結末が、倫理的におかしいのも気になります。 人格が変わっているからと言って、罪人扱いしない理由にはなりますまい。 「もし、逮捕に向かったら、罪を認めないだろう」というのであれば、それは、捜査する側が、確たる証拠を掴んでいないという事になり、事件が解決したとは言えなくなってしまいます。
逮捕しないまでも、精神病院には連れて行くべきなのでは? たぶん、この犯人は、その後も、似たような状況で、必要に迫られれば、同じ事をするはずでして、「それを、外国で起こすのであれば、知った事ではない」というのは、警察官や、その協力者のとるべき考え方ではありません。
以上、四作です。 読んだ期間は、
≪地下室の記録≫が、2016年の、10月半ばから、下旬。
≪狂人日記 他二篇≫が、2016年の、10月下旬から、10月末。
≪世界終末十億年前≫が、2017年の、1月中旬から、下旬。
≪守銭奴の遺産≫が、2017年の、2月上旬から、中旬。
間が開いているのは、これらの本は、カー作品の合間に読んでいたからです。
結局、この世界なんてーのは、自分が生きている間だけ、自分にとって意味があるのであって、それならば、自分の事を第一に考えた方が、時間を有効に使えるのではないかと思うのですよ。 人類の未来がどうのこうのと、大きな事ばかり考えていると、死が急速に近づいてきた時、「自分の人生は、一体、何だったのか?」と、後悔しそうでねえ・・・。
そんな事は、いいとして、感想文です。 ようやく、推理小説から脱却する芽が出て来ました。
≪地下室の記録 【新訳】≫
集英社 2013年
フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー 著
亀山郁夫 訳
沼津市立図書館の、青春本特集コーナーにあった、単行本。 ≪地下室の記録≫という書名ですが、一般的には、≪地下室の手記≫という名前で知られている作品です。 発表は、1864年。 流刑・軍役時代の後、後期の代表的長編群の前に書かれたもの。
第一部【地下室】は、勤めていた役所を辞め、地下室的な自分の精神世界に閉じ籠って暮らしている、40歳の男が、うまくいかない他人との関係に悩み、問題の根源を人類全体の特質にまで広げて、ああだこうだと、理屈を並べる話。
第二部【ぼたん雪にちなんで】は、まだ勤めていた若い頃、ぼたん雪の降る日に、学生時代の同級生の送別会に無理やり参加して、醜態を曝した上に、若い娼婦を相手に、青臭い理屈を並べ立て、惨めさのどん底に落ち込む話。
第一部は、小説とは言い難いです。 自分の性格分析をしたり、その頃、流行っていた思想について、理屈を並べているだけ。 何だか、自分の事を、知性と教養に溢れていると思い込んでいる高校生が、頭に浮かんだ事を、垂れ流しているような、稚拙この下ない印象を受けます。 その嫌らしさたるや、小学生の模範児童的作文にも劣る。
作者自身が、43歳の時の作品で、すでに、文壇に名が売れていたから、これでも通ったんでしょうが、もし、無名の人間が、新人賞の応募作として送ってきたら、編集者による篩い分けで落とされるのは当然として、よほど親切な編集者なら、「あなたの作品は、小説とは言えません。 もっと、いろいろな作品を読んで、勉強し直すように」と、アドバイスしてくれるかもしれませんが、普通の編集者なら、無言で、ゴミ箱にポイですな。
第二部は、形だけは、小説っぽいですが、主人公の、やる事、なす事、考える事、口にする事、一点たりとも、正気とは思えず、狂人の生態を観察した記録そのものになっています。 それがまた、一人称で書いてあるから、こっちまで、狂人の相手をさせられているようで、時間の無駄、人生のロスを感じてしまうんですわ。
ほんのちょっとでも、共感できるところがあれば、まだ、評価のしようもあるんですが、あまりにも、駄目人間過ぎて、「地下室に籠るくらいでは足りぬ。 いっそ、埋めてやった方がいいのでは?」と思ってしまうから、ムカムカと腹が立ちこそすれ、感動なんて、全くしません。 人に説教なんて、できる人間か? 実際、当人が書いているように、ハエ同然、いや、ハエ以下ではないですか。
こんなムチャクチャな作品を、絶賛した編集者や著名作家がいたというから、他人の考えている事は分かりません。 その人達も、狂人なんですかね? 人生の一時期であっても、この主人公みたいな事をしていたんでしょうか? そりゃまた、迷惑千万な事ですなあ。 呆れて、ものが言えない。
≪狂人日記 他二篇≫
岩波文庫
岩波書店 1983年
ゴーゴリ 著
横田瑞穂 訳
ゴーゴリという人は、名前はもちろん知っていて、20年くらい前に、≪外套≫という短編を読んだ事もありますが、内容は、おぼろげにしか覚えていません。 ウクライナ生まれのロシア文学作家。 1809年生、1852年没だそうですから、日本では、もろ江戸時代でして、近代文学というよりは、近世文学の作家なのではありますまいか。
≪狂人日記≫に収録されている3作品も、発表は、1834年と、大昔です。 大デュマと、ほぼ同じ時代と言えば、分かり易い。 イギリスのディケンズより、ちょっと早いくらい。 ちなみに、トルストイやドストエフスキーが活躍するのは、19世紀の後半で、ゴーゴリより、半世紀近く後になります。
【ネフスキイ通り】
ペテルブルクのネフスキー通りで起こった、二つの事件を例に、都会の人間模様を描き出そうとした話。 一つ目は、高級娼婦に熱を上げて、妄想を膨らませる画家の話。 二つ目は、自分の美しさに自惚れて、ドイツ人の鍛冶屋の女房にちょっかいを出そうとする軍人の話。
これは、小説というより、「おはなし」ですな。 というか、「おはなし」から、「小説」へ脱皮しつつある途中という感じがします。 これならば、大デュマの作品の方が、小説への脱皮度が、ずっと進んでいます。 もっとも、こちらは短編だから、おはなし風の雰囲気が色濃く残るのは致し方ないのかもしれませんが。
ストーリーは、おはなしレベルなのに、情景描写や心理描写は、完全に、小説レベルになっていて、細か過ぎて、ちょっと、くどさを感じるくらいです。 だけど、心理描写に関しては、スタンダールの≪赤と黒≫は、もっと早く出ているから、当然、ゴーゴリも読んでいたはずで、このくらい細かくても、不思議はないです。
何と言っても、おはなしレベルのストーリーなので、現代の感覚で読むと、お世辞にも面白いとは言えません。 なまじ、中途半端に、小説化しているせいで、おはなし特有の、メルヘンチックな面白さも損なってしまっているように思えます。
【肖像画】
修行中の若い画家が、独特の目つきに特徴がある高利貸しを描いた肖像画を手に入れて以降、顧客に阿った絵を描き始め、富と名声を得るものの、歳を取ってから、自分の間違いに気づき、元の道に戻るに戻れず、破滅して行く。 ところが、実は、それは、高利貸しの肖像画の呪いせいで・・・、という話。
前半だけなら、小説。 後半、肖像画の呪いという謎解きで纏めてしまったせいで、「おはなし」になってしまってしまいました。 この頃の作家にとって、いかに、「おはなし」の誘惑が強かったかが分かります。 不思議な話にしないと、面白くならないと信じ込んでいたのでは? 因習ですなあ。
不思議な話の要素があるので、【ネフスキイ通り】よりは、幾分、面白いですが、これまた、現代の読者には、食い足りないでしょうなあ。 ただ、人生訓的なものが含まれていますから、中高生など、若い読者なら、参考になる部分もあると思います。 それは、【ネフスキイ通り】も同じ。
【狂人日記】
頭のおかしい役人が、岡惚れしている長官の娘の秘密を知る為に、犬の手紙を読んだり、自分をスペイン国王だと思い込んだりする話。
狂人が考えている事を、小説にするのは、そんなに奇抜なアイデアではないと思うのですが、この作品は、使っている小道具が気が利いていて、大変、面白いです。 途中、筒井康隆作品を読んでいるような気分になりました。
長官の家で飼われている犬が書いた手紙を、手紙を受け取った犬の所から横取りして来て、それを読むというのは、そうそう簡単に思いつける事ではありません。 もちろん、犬は手紙を書いたりしないわけで、一体、主人公は、何を読んで、こんな日記を書いているのか? 不思議不思議! 不粋な謎解きをしていないのも、いいですな。
スペイン国王が死に、その後継者がいないというニュースを聞いた後、しばらく経ってから、突然、自分が、新しいスペイン国王なのだと気づくところも、妙におかしい。 だけど、こちらのエピソードは、犬の手紙に比べると、ありふれた精神異常の例ですな。
最終的には、精神病院行きになるわけですが、そうしないで、もう一つくらい、異常なエピソードを書き加えて、そこで、スパッと終わりにしてしまえば、もっと面白くなったと思います。 だけど、時代的に、そこまで欲張るのは、無理があるかな?
≪世界終末十億年前≫
群像社 1989年初版
アルカージイ&ボリス・ストルガツキイ兄弟
深見弾 訳
作者の兄弟は、ソ連・ロシアのSF作家。 ソ連を代表するSF作家というと、イワン・エフレーモフになりますが、ソ連・ロシアを代表するとなると、このストルガツキー兄弟になるのではないかと思います。 こちらの方が、シニカルで、世界の平均的SFファンの好みに合っていますから。
発表は、1977年。 ペーパー・バックの単行本で、一段組み、190ページくらい。 一冊で一作品ですが、長編というには、短くて、中編と言った方が、しっくり来る長さです。 なんだか、大仰なタイトルですが、世界の終末の十億年前の話ですから、別に、終末の様子が描かれているわけではありません。 そういうのを期待して読むと、とんでもない肩透かしを食らいます。
それぞれ、全く関係ない分野の、最先端の研究をしている学者達に対し、それぞれ別の手法で、研究を中止するように仕向ける働きかけがある。 その手法に、常識では考えられないような、大きな力の持ち主の存在が窺われるが、地球上の謎の組織なのか、宇宙人なのかは、はっきりしない。 学者達が、額を集めて、どうしたらいいか、議論する話。
まさに、議論する話でして、ほとんどの場面が、主人公の部屋や、他の学者の部屋での会話で進行します。 地の文の、情景描写もありますが、それは単なる肉付けに過ぎず、会話部分だけ読めば、ストーリーは、理解できます。 ストーリーに関わる、人物の動きが、大変 乏しいので、物語としては、お世辞にも面白くありません。
モチーフやテーマは、ストルガツキー兄弟の話に、よく出て来るものでして、何が言いたいかは分かるものの、語り方が平板すぎるせいで、小説としての評価は、低くならざるを得ません。 ≪路傍のピクニック≫も、かなり、変わった語り方でしたが、動きがあったから、この作品よりも、ずっと、面白かったです。
≪守銭奴の遺産≫
論創海外ミステリ 174
論創社 2016年 初版
イーデン・フィルポッツ 著
木村浩美 訳
1926年の発表。 私が今までに読んだフィルポッツ作品の発表年は、≪赤毛のレドメイン家≫が1922年、≪だれがコマドリを殺したのか?≫が1924年、≪極悪人の肖像≫が1938年ですから、この作品は、長編推理小説としては、前期に入るのでしょう。 作者が、64歳の時の作です。
原題は、イギリスでは、≪メリルボーンの守銭奴≫、アメリカでは、≪ジグ・ソー≫。 英題は、被害者が、メリルボーンに住んでいる守銭奴である事から。 米題は、事件の解決に至る手がかりを集める作業を、ジグソー・パズルに譬えているから。 糸鋸と紛らわしいから、≪ジグ・ソー・パズル≫にすれば良かったのに。 てっきり、糸鋸で殺されたかと思ってしまうじゃないですか。
メリルボーン地区にあるビルの一室に於いて、高利貸しをしている因業な老人が、完全な密室の中で殺される。 事件と前後して、被害者の弟と、ビルの管理人の娘が行方不明になる。 遺産に関係して来る、被害者の甥と姪、秘書には、アリバイがあり、被害者の弟の義理の娘夫婦にも怪しいところはなく、容疑者が浮かんで来ない。 引退した元刑事リングローズが、友人である現役警部補アンブラーと、協力したり衝突したりしながら、謎を解き、特異な人格を持つ犯人像を炙り出して行く話。
以下、ネタバレを含みます。
密室トリックは、全然、面白くありません。 というか、あまりにも幼稚なので、とても、長編推理小説を書き慣れた作家が思いつくアイデアとは思えないのです。 もしかしたら、わざと、チャチにして、「この小説は、トリックなんて、どうでもいいんだよ」と、新しいトリックを捻り出すのに汲々としていた、他の推理作家達を、皮肉ったのかも知れません。 ただ、もし、あっと驚くようなトリックが用意されていたら、この作品は、より高い評価を受けただろうとも思います。
捜査の進み具合を描写する形式で、話が展開します。 探偵役の二人が、中途段階の推理を披露する場面が、何度か繰り返されますが、それは、最終的な正解ではないわけですから、読者は、それと承知の上で、間違った推理を読まされる事になり、そういうところは、まどろっこしい感じがします。
中盤で、農村の小川の畔から、樽が発見される場面があり、そこだけ、妙に面白い。 ゾクゾクします。 だけど、すぐに、低テンションの捜査物に戻ってしまって、後は最後まで、そのまんまです。 リングローズが、密室トリックの方法に気づく場面ですら、子供騙しの度が過ぎて、クライマックスというには、お粗末過ぎ。 ちっとも面白くありません。
この作品のテーマは、犯人の、大変、変わった人格を描き出す事にあると思うのですが、それだけでは、長編推理小説として、読み応えに欠けるのは、致し方ないところ。 本来なら、密室トリックなど取っ払って、推理小説ではなく、犯罪小説として書くべき内容なのでしょう。
結末が、倫理的におかしいのも気になります。 人格が変わっているからと言って、罪人扱いしない理由にはなりますまい。 「もし、逮捕に向かったら、罪を認めないだろう」というのであれば、それは、捜査する側が、確たる証拠を掴んでいないという事になり、事件が解決したとは言えなくなってしまいます。
逮捕しないまでも、精神病院には連れて行くべきなのでは? たぶん、この犯人は、その後も、似たような状況で、必要に迫られれば、同じ事をするはずでして、「それを、外国で起こすのであれば、知った事ではない」というのは、警察官や、その協力者のとるべき考え方ではありません。
以上、四作です。 読んだ期間は、
≪地下室の記録≫が、2016年の、10月半ばから、下旬。
≪狂人日記 他二篇≫が、2016年の、10月下旬から、10月末。
≪世界終末十億年前≫が、2017年の、1月中旬から、下旬。
≪守銭奴の遺産≫が、2017年の、2月上旬から、中旬。
間が開いているのは、これらの本は、カー作品の合間に読んでいたからです。