2007/09/30

時事0709

  何だか、最近、書く事がありません。 達観してしまったか? それなら、今までにも何度もあったので、そのうち達観に飽きてきて、またつまらん事をチマチマ考え始めると思いますが。

  しょうがないので、時事コメントを。

  新首相で新内閣が誕生しましたが、早くも不祥事が続々と表沙汰になっています。 つまり、日本の政治家というのは、叩くと埃が出る人ばかりなんですね。 「世の中を良くしたい」なんて思っている人は一人もいなくて、「自分の理想に沿った世の中にしたい」というのさえ表向きのパフォーマンスに過ぎず、実際には「金持ちになれる」から政治家になったという下司が大半なのでしょう。

  不正に金を儲けたがるという政治家の特性は、自民党だけに限られるとは思えないので、よしんば民主党が政権を取っても、不祥事閣僚は続々と現れると思われます。 しかし、私は、それを承知の上でも、与野党の政権交代は頻繁にした方がいいと思っています。 食いっぱぐれる危機感が無いから、「何をやっても、どうにかごまかせる」と考えるのだと思うからです。 与野党が頻繁に入れ替わると政治が安定しないのも事実ですが、本来政治とはそういうものではありますまいか。

  福田さん自身は、どちらかというとリベラル的な考えの持ち主のようですが、年齢が一世代戻ってしまったのは、痛し痒しですな。 前首相や絆創膏元農相、民主党の前代表、メール偽造議員など、ここ数年の実例で、「若い政治家は考えの足りない馬鹿ばかりだ」というイメージが固着してしまった為、今や世を挙げて、「ベテラン政治家の方が信頼できる」という雰囲気になっているわけですが、高齢者はやがて引退していくわけで、いつまでも頼れるわけではありません。 どんなにスカタンだろうが、大馬鹿野郎だろうが、ズバリ・キチガイだろうが、いずれは、若い政治家に政権を委ねる事になるのです。 福田さんで、ほっと一息ついたとしても、先の事を考えると、暗澹としてきますな。


  そういえば、自民党の総裁選のさなかに、ぎょっとするような事を耳にしました。 麻生氏の遊説の内容です。 対朝政策について述べた部分で、「あの国が今までに、圧力以外で動いた事がありますか。 私の記憶にある限り、そんな事は一度も無い。 六者協議が進展したのは、日本が中心になって、国連で制裁決議を成立させたからです」というような事を言っていましたが、これにはビックリ! 驚愕すべき誤認識ですな。 自国中心的思考もここまで来ると、症例として興味深いです。

  新聞の国際面を漫然と読んでいても分かる事ですが、六者協議が進展したのは、アメリカの対朝政策が対立から対話へ変わったからです。 なぜ変わったかというと、核実験で朝鮮の核兵器保有が確実になったので、「核兵器保有国とは戦争をしない」というアメリカの≪事実上の国是≫に従い、対立路線は消去され、残った対話路線に舵を切ったわけです。 この辺り、論理が分かるアメリカ人ならではの理詰めの発想で、論理が分からない日本人には分かり難い、というか、「全く分からん」という人が多かろうと思うのですが、論理的思考とは、すなわち、こういうものなのです。

  も一つオマケに、厳密に言うと、進展したのは六者協議ではなく、米朝協議です。 もともと六者協議というのは、アメリカが朝鮮との直接対話を拒否していた為に、その≪直接≫を避ける目的で、中国やロシアが、「じゃあ、周辺国も含めて、六カ国協議なら、アメリカも参加しやすいだろう」という事で取り持った席でした。 アメリカを朝鮮との協議に引っ張り出す為の、≪方便≫だったんですな。 すなわち、米朝が直接対話するというのであれば、六者協議なんぞ、無用な形骸に過ぎません。 二国間の作業部会などが設けられていますが、ほんの形式的なもので、実体は稀薄です。 そもそも、中露韓の三国は、朝鮮との間に重大な衝突点が無いので、作業部会など必要としていません。 作業部会の成果に拘っているのは、日本だけですが、もともと六者協議は米朝対話のお膳立てに過ぎなかったわけですから、米朝間で話がついてしまえば、日本が何を言おうが、どう思っていようが、自然消滅すると思います。

  さて、麻生氏の恐るべき誤認識のもう一つは、「あの国が圧力以外で動いた事がありますか。 私の記憶にある限り、そんな事は一度も無い」という部分です。 これは全く、物の見事に正反対でして、朝鮮という国は、今まで外国の圧力に屈した事は一度もありません。 「取り引きならする。 しかし、圧力に屈して一方的な譲歩はしない」 それが朝鮮外交の特徴なのです。 相手国のいいなりになるくらいなら、協議を打ち切ってしまいます。 麻生氏は、「圧力以外で動いた事がありますか」と言っていましたが、≪圧力で動いた≫とは、一体どの事例の事なのか、それを聞いてみたいです。

  朝鮮という国は、日本や韓国がアメリカに対して持っているような≪大国に対する借り≫が無い国で、朝鮮にとって外交とは、相手の国と≪対等≫である事が前提になっています。 よく、「北朝鮮に対して影響力を持つ中国は・・・」といった書き方をしている記事を見かけますが、これもとんだ思い違いで、朝鮮が中国の言う事を聞いた例など、私は一つも知りません。 朝鮮の中国に対する態度を見ていると、≪貸し≫こそあれ、≪借り≫など無いと考えているのではないかと思うほどです。

  中国が朝鮮に対して及ぼせる影響力というのは、せいぜい、≪要請≫程度のもので、≪命令≫など以ての外、≪要求≫さえ出来ないのは、まず疑いないところです。 米朝協議が、バンコ・デルタ・アジアの送金問題で滞った時、朝鮮代表が勝手に帰国してしまい、「議長国の中国は面子を潰された格好だ」などと書いている新聞がありましたが、その記者も中朝関係が全然分かってません。 中国の朝鮮に対する立場は、面子ごときで怒るようなものではないのです。

  この関係は、両国の政権の成立時にまで遡るもので、日本がアメリカに対して持っているような≪引け目≫や≪畏怖≫を、朝中関係にも当て嵌められるなどと漠然と想像していると、とんでもない思い違いを起こします。 全歴史を通じて、日本には対等な≪友邦≫が存在しなかった為に、日本人には二国間の友好関係というのが想像し難いのですが、世界には現実に、そういう関係にある国々が存在するのです。

  ちなみに、バンコ・デルタ・アジアの送金問題の時も、朝鮮外交の特徴がよく顕れていました。 一方的に協議を中断させてしまった事に対し、他の五カ国や諸外国は、「たかが送金問題くらいで・・・」と、呆れていたわけですが、まさか、その≪たかが送金問題≫があんなに長引くとは誰も想像できなかったでしょう。 ところが、朝鮮外交部だけは、それを見抜いていたわけですな。 いや、恐らく当のアメリカも分かっていたと思います。 だから、協議全体を投げ出さなかったのでしょう。

  そういえば、協議の停滞中に、ライス国務長官が、「忍耐にも限界がある」といったような事を口にしましたが、私は、「ああ、揺さぶりをかけているんだな」と思いました。 ところが、それを追いかけて、安倍前首相が、米朝協議の当事者でもないくせに、ライス氏と同じセリフを口にしたのには、思いっきり引きました。 恐らく、前首相は、ライス氏が本気で怒っていると思って、尻馬に乗ったんでしょうな。 違うって。 そういう交渉手法なのよ。 分からんかなあ。 基礎的な事なんですがねえ。 もっとも、前首相だけでなく、日本人の99.9%は分からなかった思いますが・・・・。

  結局、朝鮮は、ライス氏の揺さぶりには眉一つ動かさず、送金問題が解決するまで、頑として協議の場に戻らなかったわけですが、この一件でアメリカも、朝鮮外交の基本方針がはっきり分かったわけですな。 ほーら、見なさい、朝鮮という国は、圧力に屈して譲歩なんてしないでしょう? ≪対等の取り引き≫でなければ、乗って来ないのです。

  麻生氏は、ついこないだまで、外相を務めていたわけですが、外相ですら、こんな簡単な分析が出来ないのですから、これが恐れ戦かずにいられましょうか。 麻生氏は、圧倒的に不利といわれながらも、総裁選で4割の得票を集めたわけですが、そのダシに使った≪対朝政策の方針≫が党員に対して効果をあげた可能性は極めて高いです。 他の争点は、あまりはっきりしていませんでしたから。 つまり、自民党員の4割は、麻生氏と同じ対朝意識を持っていると見るべきだと思いますが、それが根本的に間違った認識なのですから、頭痛がせずにはいられません。

≪注釈1≫ 日本人はよく、「中国人は面子を何よりも気にかける」と言います。 新聞記事などもそれを念頭に置いて、中国というと、決まり文句のように「面子、面子」と繰り返しますが、これも典型的な誤認識です。 清代以前ならいざ知らず、現代中国の政治家は、徹底した現実主義者が揃っていて、面子なんぞほとんど気にしません。 それは、昨今の抜け目無い資源外交を見ても、はっきり分かる事。 むしろ、日本人の方が下らない対面に拘ります。

≪注釈2≫ アメリカは、核兵器保有国とは戦争をしないと書きましたが、「イラク戦争では、大量破壊兵器保有疑惑を理由に戦争を仕掛けたではないか」と思う方もいるでしょう。 私はあれは、「イラクに核兵器があるかもしれないから」戦争を仕掛けたのではなく、「イラクに核兵器が無いと分かったから」戦争を仕掛けたのだと見ています。 もし、イラクが核実験をやって、核兵器保有を明確にしていたら、アメリカはインド・パキスタン・朝鮮に対してそうしたように、対話路線にシフトしていたと思います。

  アメリカは世界中で核兵器の恐ろしさを最もよく知っている国で、「核兵器及びその運搬方法である弾道ミサイルを持った国とは、絶対に戦争できない」と考えています。 核兵器というのは、ほんの10発もあれば、アメリカほどの大国でも一気に沈黙させられる力があるという事を知っているのです。 ちなみに、日本人は、広島・長崎の被害をがなり立てる割には、核兵器の戦略的な意味合いなどにはとんと無知で、「大都市圏に数発食らえば、国が亡んでしまうのだ」という事が理解できません。 朝鮮のミサイル実験の際に日本国内で出てきた、馬鹿丸出しの≪先制攻撃論≫などが良い例です。 でんでん分かっとらんのよ。


  書く事が無いと言いながら、ずいぶん長く書いてしまいましたが、長くなったついでに、ミャンマーのデモの事も書いておきます。

  たとえ、デモ隊が軍隊に何百人殺されようが、外国は一切干渉すべきではないと思います。 干渉の先には国連多国籍軍の武力行使が待っています。 いざ、そうなったら、中心になるのは欧米の軍隊だと思いますが、彼らはミャンマーに対しては、文化的にも歴史的にも何の遠慮も無いので、ミャンマー政府を完全に破壊してしまうでしょう。 民主化勢力というのがいますが、彼らは一度も政権を担った事が無いですから、ミャンマーが今以上の混乱に陥る事は目に見えています。 アフガニスタンやイラク、東チモールなどを見れば、権威を持つ政府を失う事がどれほど大混乱を引き起こすかは、現実として分かるはずです。 断言しますが、外国が干渉すれば、死者は桁違いに増えます。 良くするつもりで悪くしていたのでは本末転倒です。

  日本人のカメラマンが撃ち殺されましたが、デモ隊を蹴散らそうと怒り立った兵士の前に、ビデオ・カメラを掲げて接近していけば、撃ち殺されるのは無理もない成り行きです。 私だったら、たとえ相手が兵隊でなくても、銃を持った人間のすぐ近くで、そちらに向けてカメラを構えたりはしません。 「撃ってくれ」と言わんばかりではありませんか。 いや、銃を持っていなくても、怒って興奮している人間にカメラを向けたら、もっと怒らせる事になるのは、日常的経験から想像できます。 故人はあちこちの戦場を経験していたそうですが、なんでまたあのように兵隊を挑発するような行為をしたのか分かりません。

  犠牲者が日本人だったからといって、俄か同朋意識など発揮して、ミャンマー人を憎んだりしないようにしましょう。 日本の外相が国連で、怒り心頭という顔でミャンマー批判をしていましたが、日本軍がビルマで何をしたか、爪の先ほども念頭に無いようですな。 竪琴を弾いていただけじゃないんだよ。

2007/09/23

水滸後伝

  今回も読書感想文を。 何度も書いているように、私はさほど読書が好きなわけではないんですが、今回は勢いがついてしまったらしく、夏休みからこっち、ずっと何かしらの本を読み続けています。 図書館が使える人間で良かった。 この世の中には、「図書館の本なんて、汚らしくて、手に取る気になれない」という人も多かろうと思いますが、私は一向に平気なんですな。 一度読んだら二度は読まないものを、いちいち買っていたのでは、金が幾らあっても足りゃしません。

  ≪水滸伝≫に続いて借りてきたのは、その続編の一つ、≪水滸後伝≫です。 清代に書かれた全40回の作品。 ≪水滸伝≫で生き残ったメンバーを再結集させて、南方の土地で王国を作らせるという痛快な内容。 ≪水滸伝≫が悲劇で終ったのが気に食わなかった陳忱という人が、「よーし、この俺が、是が非でも、否が応でも、ハッピーエンドにしてやろうじゃないか!」と発奮して書いたという話。 この種の続編にしては、大変良く出来ていて、この作品自体も文学全集に納められるほどの名作として扱われています。 かの滝沢馬琴が、≪椿説弓張月≫という作品を残していますが、そのパクリ元になったのがこの作品だそうで、続編と言っても、映画のパート2などとは比較にならない歴史を誇っているわけですな。 ちなみに、≪南総里見八犬伝≫のパクリ元は、ずばり、≪水滸伝≫です。 馬琴本人も、≪水滸伝≫や≪水滸後伝≫が死ぬほど好きで、どっぷり耽溺して暮らしていたようですな。

  ちょっと、前回書いた内容の訂正があるのですが、≪水滸伝≫の100回本というのは、120回本を100回までで打ち切った物ではなく、間を抜いた物らしいです。 120回本では、梁山泊が朝廷に帰順した後、≪遼、田虎、王慶、方臘≫と、征伐を4回行なうのですが、100回本では、その内の≪田虎、王慶≫が抜けているのだそうです。 メンバーに死亡者が出るのは≪方臘≫以降なので、ラストまでのストーリーは変わらないとの事。 前回、「征伐が4回もあるのはくどいから、2回に減らした方が良い」と感想を書きましたが、100回本は正にそうなっているわけですな。 ただ、120回本を削って100回本にしたのではなく、先に100回本が出来ていたのを、増やして120回本が作られたそうです。 これは蛇足というものでしょう。 誰が増やしたんだ、一体?

  さて、≪水滸後伝≫ですが、あまり完成度が高いので驚きました。 ≪水滸伝≫の生き残りを登場人物に使っているのですが、単に彼らの経歴を熟知しているだけでなく、性格まで完璧に把握していて、自由自在に活躍させ、どんどん話を広げて行きます。 ≪水滸伝≫の面白いエッセンスだけを取り出し、冗長な所をざっくり切り落としているので、本家の≪水滸伝≫よりも内容が濃いくらいです。 いや、ほんと。

  時代背景に、宋が北半分を金に取られてしまう時期を取っているのですが、北宋が滅亡した後、宋軍と金軍が入り乱れる中を、夥しい数の人々が淮河以南へ逃げて行く様子が克明に描かれています。 このあたり、迫真の描写で、トルストイの≪戦争と平和≫のような雰囲気です。 作者は明末清初の人なので、作者自身が、明が滅亡する様子を目の当たりにしていたんじゃないでしょうか。 これはちょっと、想像で書けるレベルを超えています。 日本の文学でも、最もリアルなのは、太平洋戦争末期のボロクソな負け戦を描いた作品群ですが、人間というのは、とことん惨めな境遇に落ち込むと、本質が赤裸々に顕れるようですな。

  登場人物達が、≪水滸伝≫で描かれた昔の事を思い出す場面が何度も出て来ますが、数年を経過しているというのが実によく効果を表していて、いずれも胸を熱くさせるものがあります。 特に、メンバーの子供の代に当たる、呼延鈺・徐晟・宋安平が、そこと知らずに梁山泊に辿り着き、幼い頃の思い出に浸る場面は大変美しいです。 時間の経過を味方につけているが故に、≪水滸後伝≫は≪水滸伝≫より、感動する場面が多いものと見ました。

  ただ、この≪水滸後伝≫、中盤を過ぎると、ちょっとパワーダウンします。 金軍の追撃を逃れる為に、主だったメンバーが海に出た途端に、何となく中身が薄くなります。 これは即ち、作者が海浜に親しんだ経験がなくて、航海や海戦について詳しい知識を持っていなかったんでしょうな。 何回か海戦や島城攻めの場面が出て来ますが、どうにも手に汗握らせてくれません。 経験に裏打ちされていない、頭の中で考えた事というのは、やはり限界があるんですねえ。

  メンバーが最終的に落ち着く国が、≪暹羅(シャム)≫という事になっていて、シャムとは現在のタイなわけですが、描かれている地勢はどう見ても群島でして、タイとは似ても似つきません。 解説には、「台湾、もしくは澎湖島と思われる」と書いてありますが、私はむしろ、琉球の方が近いのではないかと思います。 作中に外国として琉球の名が出てくるのですが、昔は台湾も琉球と呼ばれていたので、作中の琉球はそちらを指しているとも考えられるからです。 ううむ、ややこしい。

  日本人も出て来ますが、≪関白≫に率いられた悪役軍団です。 作者が明末清初の人なので、朝鮮を侵略した豊臣秀吉の悪名が轟き渡っており、そういう設定になったのでしょう。 「詩書骨董を好む反面、とかく人の物をだまし取り、また人殺しが好き」と、日本人の民族的性格を割と的確に言い当てている一方で、「倭兵は寒さに弱く、雪が苦手」といった首を傾げるような設定もあり、作者の海外に関する地理知識が、かなり曖昧だった事を示しています。

  この小説、≪水滸伝≫を読んだなら、一緒に読むだけの価値はあります。 登場人物の名前と事績が頭に入っている内に、続けて読んでしまった方が、断然面白いです。

2007/09/16

水滸伝

  今週は六日出勤だったので、著しく疲労しており、本来ならこんなコラムを書くなど以ての外なのですが、ここで一週サボると、サボり癖がついて、ダラダラと堕落していくのが怖いので、ただ更新実績を作る為だけに、ちょこちょこっと読書感想文でも書く事にします。

  さて、ここの所読んでいる本というと、≪水滸伝≫です。 誰でも題名は聞いた事がある、中国四大奇書の一つ。 ちなみに、他の三つは、≪三国志演義≫、≪西遊記≫、≪金瓶梅≫。 私は、≪西遊記≫は中学生の時に読破したんですが、その他はいずれも、冒頭部分をちょこっと読んだだけでした。 性分がケチなので、本を買う時には文庫本を真っ先に探すわけですが、長編小説の場合、全十冊などという物がざらで、二冊くらい読むと、次を買う気力が失せてしまうのです。 また、都合の悪い事に、中国の長編小説は、冒頭部は物語全体の≪枕≫に過ぎず、本体部分は回が進んでから徐に始まるので、面白くなる前に挫折してしまうんですな。 ≪紅楼夢≫は全部読みましたが、岩波文庫で12冊もあり、買い揃えるのに一年以上掛かりました。

  ちなみに、中国の長編小説で最も面白いのは、≪紅楼夢≫なんですが、これは四大奇書には入っていません。 しごくまっとうな恋愛小説なので、そもそも奇書の内に入れられないんでしょうな。 もひとつちなみに、中国人と話をする場合、題名だけでも四大奇書や≪紅楼夢≫を知っておかないと恥を掻きます。 ≪三国志演義≫と≪三国志≫の区別も出来ないとまずいです。 一方、≪金瓶梅≫は、愛欲小説なので、あまり内容に詳しいと、やはり恥を掻きます。

  さて、≪水滸伝≫ですが、これも若い頃に、岩波文庫で二冊だけ購入し読んだのを、それっきりにしてありました。 その頃、岩波文庫のカバーが、半透明の蝋紙から、一般的な艶紙カバーに変更になり、外装を揃えられない事に白けを感じ、三巻以降を買わなかったのです。 今その二冊は押入れの奥で眠っていますが、確か記憶では、第15回までだったと思います。 それから幾星霜、四年ほど前に古本屋で、世界文学全集の一冊と思しき、70回本の≪水滸伝≫を発見し、100円というむちゃくちゃな安値だったので、読む暇もないのに衝動買いしました。 その70回本を今回引っ張り出して、第16回から読み始めたという次第。


  元々講談から発達してきた小説なので、頗る名調子で話が進み、非常に面白いです。 凶状持ちどもが登場人物なので、殺伐としていて違和感がある描写も多いのですが、読み始めると止まらなくなります。 70回本は一週間ほどで読み終わり、続きを読む為に図書館で、120回本の≪中≫と≪下≫を借りて来ました。  図書館には、中国文学のコーナーに、≪水滸伝≫の各版がうじゃうじゃ揃っています。 最初から、図書館に行けばよかったんですな。

  ≪水滸伝≫はもともと南宋から元にかけて講談として発展した物語ですが、それを明初の作家、羅漢中氏(≪三国志演義≫の作者)が小説の形にまとめたのが、最も長いタイプの120回本です。 それを明末清初の文芸批評家、金聖嘆氏が途中で切ってしまったのが70回本。 なぜ切ったかというと、≪梁山泊≫に英雄豪傑達が集まるくだりは70回までで、物語としてはそこまでが最も面白いからという理由。 しかし、120回本も伝わっているのですから、読まない手はありません。

  今までに読んだ、≪西遊記≫、≪紅楼夢≫、≪儒林外史≫などと比べても、≪水滸伝≫には独特の雰囲気があります。 話の展開が早く、滅法面白い一方で、「こやつら、本当に英雄なのか?」と思うような常軌を逸した行動が多く見られ、読んでいて、冷汗脂汗が出て来るのです。 恨みがある相手を殺すのは、まあ分かるとして、その家族や使用人までバサバサ切り殺してしまうから、今の感覚では、とてもまともな神経とは思えません。 いや、当時、つまり宋代ですが、その頃の感覚でも、こんな殺人鬼どもが跳梁跋扈していたら、非難されこそすれ、英雄視など到底されなかったでしょう。 北宋末というと900年位前ですが、中国では文明の発展が早かったので、社会の仕組みは日本の江戸時代よりも進んでいて、特に刑法は厳格でした。 ちょっと怪我をさせただけでも流刑にされてしまうのに、何人も殺してそのまま済むわけがありません。 ところが、この物語の登場人物たちは、それを承知で、恨みを晴らす為、仇を討つ為に殺し捲るのです。

  序盤に出て来る≪花和尚 魯智深≫が肉屋を殴り殺す場面からして震え上がりますし、≪行者の武松≫の仇討ちも明らかにやり過ぎ。 ≪黒旋風の李逵≫に至っては、登場する前から手の付けられない暴れ者で、野獣と呼んだら野獣が怒るような殺人鬼ですぜ。 ところが、水滸伝のファンの間では、この三人がベスト5に入る人気だというから奇々怪々。 つまり、この物語、常識的な善悪の価値観を引っ繰り返している所に魅力があるようなんですな。 実際にやっている行状に関係なく、お上が悪、それに反逆する者が善という設定になっているのです。 恐ろしい事に、読んでいる内に、そんな登場人物達に慣れてしまい、ただ話の面白さしか感じなくなります。 この辺りは、奇書の奇書たる所以ですな。

  山賊の砦、≪梁山泊≫には、108人の頭領達が集まるわけですが、序盤は犯罪者や乱暴者の類が多かったのが、中盤以降は、宋軍の武将が続々と加わるようになって、雰囲気が変わってきます。 梁山泊全体が軍隊になってしまい、ケチな犯罪は行なわれなくなります。 一言で言うと、≪三国志演義≫に近くなってくるのです。 大まか分けて、犯罪者組は歩兵になり、武将組は騎兵になります。 ≪祝家荘の戦い≫以降は完全な≪戦記物≫になり、武将達の戦いぶりに描写の大部分が割かれるので、ある意味、読み易くなりますが、反面、人間ドラマが少なくなって、文学としてはつまらなくなります。

  私の好みとして、やはり犯罪者組よりも、武将組の方が好感が持てます。 弓矢の名手≪小李広の花栄≫や、石礫の名人≪没羽箭の張清≫などは、作者が好んで使っているキャラですが、武器といえば槍・刀が主流の中で、飛び道具が使える者はやはりかっこいいですな。 他に、常に騎兵として先陣を切る≪豹子頭の林冲≫や≪霹靂火の秦明≫も捨て難い。 一方、足が速いばかりに、あちこちに行かされる≪神行太保の戴宗≫は使い走りみたいで気の毒ですし、妖術を使う≪入雲竜の公孫勝≫は戦記物として≪掟破り≫という感じがします。 ≪智多星の呉用≫は明らかに、≪諸葛孔明≫のパクリ・キャラ。 ≪呼呆義の宋江≫はただ人望があるというだけの男で、≪劉備玄徳≫のパクリと見ました。


  120回まで通して読んだら、金聖嘆氏が70回で切った理由がよく分かりました。 70回までは、宋朝への≪反逆≫がテーマですが、それ以降は、≪恭順≫に変わり、皇帝の飼い犬になって働く事になるので、それを嫌ったのでしょう。 他に、100回本、110回本などもあるようですが、100回本だと、北方民族の≪遼≫を征伐し終わる所までで、これは、「大きな手柄を立てて栄光を手にした」という、≪めでたしめでたし≫の終り方になります。 110回本だと、南方で反乱を起こした≪方蝋≫を征伐する寸前までが描かれます。 ここまでは、梁山泊108人の頭領達全員が生きていますが、110回以降120回までの間に、凄まじい勢いで死んで行くので、それを見たくなかった編者が、110回で切ったのだと思われます。

  120回本では、散り散りに別れたほんの30名前後を残して、主だったメンバーは皆死んでしまいます。 終わりの10回で急に死に始める点は少々不自然なものの、やはり、最後まで物語りを続けたこの120回本が最もよく纏まっていると言えます。 前に触れた暴れ者の≪黒旋風の李逵≫ですが、最後の最後に極めて重要な役回りが与えられていて、「あぁあ、これのおかげで、人気が高いのか」と納得しました。 水滸伝は、全般的に言えば≪武侠小説≫なんですが、宋江と李逵が世を去るくだりは、一級の純文学になっていて、胸が熱くなる仕掛けが施されています。 120回全部目を通した読者だけが味わえる特典ですな。

  この物語、場所によって、冗長すぎたり、拙速すぎたり、いろいろと欠点があるのも事実なので、バランスよく書き直したら、もっと良くなるんじゃないかと思います。 後半、戦争場面が何度も出てきて、少々くどいので、四回ある征伐を二回に減らし、頭領達の死者も、最初の征伐からポツポツ出るようにすれば、もっと自然な流れになるんじゃないでしょうか。  続編も各種あるようなので、引き続き、そちらも読んでみる事にします。

2007/09/09

報道の客観性

  雑誌・テレビはもちろん、ネットや、ここ10年ほどは新聞までがそうなりつつありますが、≪報道の客観性≫というものを完全に失念している関係者が多い事には、驚かされます。 おそらく、当人は客観的に物事を見ているつもりなのでしょうが、どこかにレールが抉れた所があって、脱線を引き起こすのです。 列車と違って、脱線しても大体の軌道を走り続けるので、気付かないのではないかと思われます。

  一番分かり易い例ですと、スポーツの報道があります。 国際大会や、日本人と外国人が対戦するような試合が近づくと、マスコミが挙って日本チーム・日本選手の応援に血道を上げますが、あんなのは、客観性からは最も遠い行為です。 個人的なファンが応援する分には客観性は不要ですが、いやしくも報道する立場にある者が、客観性を捨てて、一方の応援に猛り狂うなど、あってはならない事です。 「どこの国のマスコミもやっている」などというのは言い訳になりません。 やっている者すべてが間違っているのであって、間違っていると思ったら自分はやらないようにするのが、理性ある態度というものでしょう。

  高校野球の甲子園大会では、地元のテレビ局が、同じ都道府県のチームに偏った報道を堂々とやっていますが、とんでもない事です。 相手チームの選手に対する情報を集めていても、それはチクチクと嫌味たっぷりに貶す為の材料なのだから、その下劣な動機には呆れ果てます。 ≪客観性≫という言葉を知らないのか、忘れたのか、それとも、元々性格が拗けていて、自己中心的な物の考え方しか出来ないのか、いずれにせよ、≪報道の社会的使命≫などとは縁もゆかりもない、≪下司のしゃかりき≫としか形容しようがありません。

  NHKの正午のニュースで必ず取り上げられる、≪大リーグ情報≫というのを見た事があるでしょうか? 大リーグ情報といっても、大リーグに在籍している日本人選手の成績だけを、毎日毎日これでもかというほど律儀に伝えるのです。 「イチローが、ヒット二本を打ちました」だの、「松井秀喜が守備でチームの勝利に貢献しました」だの、同じような内容ばかり。 日本人選手絡みの事しか言わないので、大リーグ全体の順位などはほとんど分かりません。 イチローが渡米してからずっとですから、もう何年こんな事を続けているのやら。 NHKは、日本のテレビ局の中では、最も客観性を重視している組織なのですが、この無神経ぶりには呆れざるを得ません。 恐らく、意図を訊ねれば、「知りたがっている人がいるから」と答えると思いますが、スポーツ選手の成績は、海外で起きた事故の被害者名を伝えるのとは、緊急度・重要度が全く違います。 毎日、数分を割いて報道するような事ではありますまい。

  ちなみに、「海外で起きた事故の被害者名を報道する時に、日本人の事しか言わないのは、外国人を差別しているのだ」という指摘が昔からありますが、あれは必ずしもそういうわけではありません。 日本の報道機関は、日本国内に向けての報道義務を負っているので、日本国内に家族・親類がいると思われる被害者が出た場合、それを伝えなければならないのです。 何でもかんでも、批判すればいいというわけではないので、注意が必要です。

  昨今、異様に増えてきたのは、報道番組で外国の悪口を何のためらいもなく口にする傾向です。 ついこの間までは朝鮮が、最近は中国が、まるで悪魔でも住んでいる国のような言い方で罵り倒されていますが、もう狂っているとしかいいようがありません。 報道の客観性などかけらも無く、最初から悪意を持って番組の製作方針を決定し、その国の悪い面だけを取材してきて、「こんなにひどい!」と罵詈讒謗の限りを尽くしているのですが、ここまで下劣になると、もはや報道以前の問題で、≪報道人を≫ではなく、≪人間を≫やめた方が良いでしょう。 およそ、悪口などという物は、言おうと思えば際限なく言える物なのであって、最初から悪意をもっていたのでは、対象の実相に迫るどころか、遠ざかる一方です。 そういう番組を見て感じるのは、「この番組の製作者は、この国に猛烈な悪意を抱いているのだな」というその一点のみであり、番組の内容に関係なく、それ以外の何も視聴者に伝えません。 そんな番組を見て喜んでいる方も、同次元の下司である事は明らかで、人間として尊敬できる部分など一ヶ所たりともありません。

  「外国を見る時に、どんな所を見るべきか」には、ちゃんとした目安があります。 自国よりも優れた所を見るのです。 なぜなら、外国から優れた所を取り入れてこそ、自国をよりよい社会に出来るからです。 わざわざ悪い所をほじくり出して罵り倒すなど、ただ単に下賎な仕業というだけに留まらず、何の利益にもなりません。 上にも書いたように、悪い所などというのは、どんな国でもどんな人でも、探せばいくらでも出て来るのであって、そんな事ばかり報道しても、二国間の好感度が下がるばかりで、何の得もないではありませんか。 一体、どういうつもりなのかね? 戦争でも起こしたいのかい? 確かに、戦争になれば、ニュース・ネタがどっと増えるから、報道機関は≪嬉しい悲鳴で、ホクホク顔≫だろうが、まさか本当にそんな事を期待しているのではなかろうね?

  私はしょっちゅう中国や韓国のポータルサイトへ行って、ニュースを読んでいるのですが、日本関係のニュースを見ると、ジャンルによって貶す誉めるがきっちり別れています。 政治・軍事方面では批判的記事が多いですが、科学技術・経済方面では、完全な客観報道がなされていて、日本の報道に見られるような浅薄な下劣さは全く見られません。 ≪浅薄な下劣さ≫とは、たとえば、「どこそこの国で、こういう物が開発された」という記事を書いたその末尾に、「しかし、実用的かどうかには疑問が残る」といった、記者の私的感想を付け加える事です。 もちろん、記者というのはべたべたの文系であって、技術なんぞ門外漢もいい所なのですが、「外国の技術は日本よりも劣っているに決まっている」という偏見に満ち満ちている為、こういう悪態を付け加えずにはいられないのです。 分かったようなふりをして、却って自分の底の浅さを露呈しているのですが、当人はしてやったりと得意満面。 救い難し・・・。

  マスコミばかり批判して来ましたが、明らかに悪意を元に作られた番組や記事を見て、何の疑問も抱かず、「そうだそうだ」と囃し立てている馬鹿な民衆にも、絶望を禁じ得ません。 これだから、民主主義は限界が見えているっつーのよ。 そういう番組で、いとも容易に洗脳された連中が、外国批難だけで飯を食っているような低劣な議員に投票するから、日本の外交能力は落ちる一方だ。 自分の頭でよーく考えてみれば、外国を貶す以外に能がないような馬鹿どもに、外国と交渉なんか出来るわけがない事くらい、分かりそうなもんですがねえ。 罵っていれば、相手が恐れ入るとでも思っているのかね? 頭おかしいんじゃないの?

  ところで、報道の客観性というと、思い浮かぶのは、やはり、某民放局の≪○○特集≫の変貌ぶりですな。 この番組、以前はその局の看板報道番組で、歴史も長く、民放ではダントツの客観性を誇っていました。 他の番組では得られないような、世界の最先端の情報を伝えてくれるので、私も毎週欠かさず見ていました。 日本では珍しく、≪リベラル志向≫の番組だったんですな。 ところが、あーた、驚いちゃうじゃありませんか。 裏番組で民放他局が外国罵倒を売りにした報道番組を始めると、それに対抗して、それ以上の外国罵倒番組に変身してしまったんですな。 毎週毎週同じようなテーマばかりで、とても見られたものではなく、何時の間にか、その番組だけは見ないという正反対の生活になってしまいました。 同じ番組名で、あれだけ方針が変わった番組も他に無いと思います。 もはや、客観性など、ゼロを通り越してマイナスの領域。 あれほど偏っているのに、未だに打ち切りにならない所を見ると、そこそこの視聴率を取っているんでしょうが、それがまた恐ろしいです。 作っている方も、見ている方も、自分のドタマが腐っている事に気付いていないのでしょう。

  テレビ・新聞・雑誌・ネット、全ての報道に言える事ですが、客観性があるか無いかは、その製作者の知性レベルを測るいい基準になります。 報道にとって客観性とは、「あった方が良い」というものではなく、「無くてはならない」ものだからです。 残念ながら、その点、日本の報道機関は、ほとんど失格です。 「少々偏っているくらいでないと、視聴者や読者に受けない」などと考えているのなら、思い違いも甚だしいです。 もしそんな雰囲気が充満している職場なら、個人的に辞表を提出すべきでしょう。 客観性の無い報道で世の中に火種を撒き散らすくらいなら、報道などしない方が遥かに良心的です。

2007/09/02

出家とそのダシ

  さて、私的宗教観の第二段、仏教です。 日本人の大多数が、「あなたの宗教は何か?」と訊ねられると、「仏教です」と答える、あの仏教です。

  前に書いたように、私はよく、「南無阿弥陀仏」や「南無妙法蓮華経」という言葉を唱えるのですが、実はそれは、親兄弟を初めとする周辺環境によって子供の頃から刷り込まれた習慣に過ぎず、それらの言葉によって自分が救われるとは考えていません。 私はある時期、≪原始仏教≫の経典をかなり読んだのですが、知れば知るほど、自分の身の周りに存在する仏教的習慣に≪嘘≫が多い事に気付き、愕然としました。

  と書いて来ても、仏教がどういう宗教なのか、一般的な日本人はほとんど知りませんから、まずそこから説明しなければなりませんな。 やれやれ、日本の歴史は仏教の伝来とほぼ同時に始まり、1500年もの長きに渡って信仰され続けて来たのですが、肝腎の教義が伝わっていないというのは驚くべき事実ですな。 つまり、1500年間、≪真似事≫をし続けてきたわけです。

  仏教は、ゴータマ・シッダールタという人物が、紀元前6世紀頃にインド北部で始めた宗教です。 特徴は、≪生きる事は苦しみである≫と規定し、その苦しみから≪自力で≫逃れる事を目的としている事。 つまり、生きる事を楽しいと思っている人間には、最初から無縁の宗教で、無理に行なうようなものではありません。 また、他の宗教のように、神や超越者を崇め祈る事によって≪救って貰おう≫という考え方はとらず、自分で問題を克服し、苦しみから脱出する事も重要な点です。 ≪生きる事は苦しみ≫という人生観を認めさせた上で、その克服方法を教えているのが、仏教なわけです。

  苦しみから最終的に解放される事を≪解脱≫といいます。 解脱した人間の事を、≪仏≫または≪釈迦≫と呼びます。 仏とは、特定の個人に与えられた称号ではなく、解脱した人間全てが仏になります。 すなわち、ゴータマ・シッダールタは、最初の仏という位置づけになります。 自分が解脱に成功したから、「他の人にも方法を教えてやろう」という発想で、仏教は広められたわけです。

  ≪生きる事は苦しみ≫なので、当然、≪死ぬ事は、苦しみからの解放≫になります。 日本では、「死ねば、みんな仏になる」という言葉が、説明抜きで流布していますが、これは別に日本人特有の虫のいい解釈というわけではなく、仏教の真理を述べた言葉です。 もちろん、ゴータマ・シッダールタのように、生きている間に解脱できれば、よりよいわけで、信者はそれを目指して精神修養します。

  仏教では、人生に苦しみを齎す様々な問題の原因は、その本人の考え方の中にあると捉え、それを≪煩悩≫と呼びます。 煩悩を一つ一つ取り除いて行けば、最終的に苦しみは無くなり、解脱に至るというわけです。 「問題は外部にある」という考え方は最初からしません。 実際に外部に問題があったとしても、その外部を変えるのではなく、外部を見る自分の意識を変える事で、問題を解消しようとします。

  最もよく見られる解決方法が、≪比較≫です。 原始仏教の経典を読むと、宇宙の広大さや時間の無限さについて延々と述べているものが多いですが、大きなものと比較対照する事によって、自分の身辺に起こる問題を矮小化し、問題を問題でなくしてしまうという方法です。 たとえば、持病で苦しんでいる人が、「俺は確かに苦しいが、この世の中には俺なんかよりもっと重い病気を患っている人がごまんといる。 それと比較すれば、俺の苦しみなど大した問題ではない」と考えれば、随分気が楽になるという理屈。 ちなみに、この考え方、基本的には≪老子・荘子≫と同じものです。

  書店で、≪仏教入門≫といった類の本を開くと、真っ先に≪四聖諦・八正道≫といった言葉が出てくると思います。 これは、解脱する為の方法を細かく述べたものなんですが、実は私、この≪四聖諦・八正道≫が、本当にゴータマ・シッダールタの教えかどうか疑問を抱いています。 ゴータマ・シッダールタ本人は著作を残しておらず、原始仏教の経典はすべて弟子達が書き記したものなので、中には偽物も含まれている可能性があるわけですが、これもその類ではないかと思うのです。 ほとんどの経典が、宇宙や時間の無限について、とてつもなくスケールの大きい話で埋められているのに、解脱の為の細かい方法論などといったチマチマした事をゴータマ・シッダールタが言いのこすとは、どうにも思えないのです。 ≪四≫に≪八≫と倍数を並べるなど、如何にも頭でっかちの書生が考えた感じがしませんか? 仏教の教えは、≪生きる事は苦しみ≫と、≪比較による問題解決≫の二つで充分に分かるのであって、それ以上は、蛇足というものでしょう。

  人が何度も生まれ変わるという意味の≪輪廻≫という言葉は、日本人が好む言葉で、仏教用語だと思っている人がほとんどです。 実際にはインドの古代宗教で普遍的に用いられていた用語で、仏教でも使いますが、≪輪廻≫そのものは仏教の目的ではないので、そこの所に注意が必要です。 仏教では、≪生きる事は苦しみ≫なのですから、何度も生まれ変わったのでは、苦しみがいつまでたっても終わりません。 ≪輪廻≫は仏教に於いては悪い事なのです。 「輪廻を断ち切る」という言い方は正しい用法で、生まれ変わらなくなって、初めて解脱できるわけです。 日本人の中は、「何度も生まれ変わって人生を楽しめるのだから、いい事ではないか」と思っている人が多いですが、とんだ思い違いをやらかしているわけですな。 そもそも、そういう人は、生きる事を苦しみだと思っていないのですから、はなから仏教をやる必要がありません。


  とまあ、仏教の基本はこんな所でしょうか。 ここまで読んで来て、日本で身近に見られる仏教と重なる所が少ない事に驚いた方も多いのではありますまいか? 無理もないです。 以上に書いてきたのは、原始仏教の話でして、ゴータマ・シッダールタの死後、仏教は、全く違う宗教に変化してしまうのです。 一言で言うと、≪多神教≫になってしまいます。 ゴータマ・シッダールタの死後、仏教の教団が残されたわけですが、中心軸を失った教団は、組織を維持する為に信者を増やさなければなりませんでした。 その為には、仏教を≪個人的な精神修養の教え≫から、≪集団で信仰する宗教≫に改変させる必要がありました。 そこで、ゴータマ・シッダールタを神格化した上に、他の宗教からも伝統的な神をどしどし取り入れ、あれよあれよという間に多神教に作り変えてしまったのです。

  原始仏教の根本的特徴を否定して、他の宗教と同じにしてしまったわけで、その粗暴さには呆れる外ありません。 ただ、原始仏教の教えを全て否定したわけではなく、信者を≪出家≫と≪在家≫に分け、出家信者の間でだけ原始仏教の教えを伝承しました。 「在家信者は特別な修行をする必要は無い。 ただ出家信者の生活を助け、あとは仏を拝んでいれば、それで救われる」と説いたわけです。 ただし、言うまでもなく、ゴータマ・シッダールタは、そんな事を一言も言ってませんから、これはよく言えば方便、悪く言えば大嘘です。 教団を維持する為に、在家信者を騙して、経済支援させたのです。 

  ここまでがインドで行なわれ、そのままの形で中国に伝わり、更に日本にもコピーされました。 もう、インドにあった時点で、ゴータマ・シッダールタの教えは捻じ曲げられていたわけで、それを二度三度とコピーしたのですから、まともに伝わるわけがありません。 日本仏教の各宗派も、ゴータマ・シッダールタの教えとは何の関係もなく、在家信者を騙して金を巻き上げ、教団を維持する為に存在しています。 新興宗教には胡散臭いイメージがありますが、平安時代から続いているような大宗派でも、在家信者を騙している事に何の変わりもないのです。

  典型的な詐欺行為が、葬式です。 戒名料を始め、様々な料金をぼったくられますが、ゴータマ・シッダールタは葬式の作法について何の規定も残していませんから、あれは後世の人間が勝手に作った習慣なんですな。 ゴータマ・シッダールタの教えに基づくなら、戒名なんてつけなくたって、死ねば仏です。 葬式なんか挙げなくたって、死ねば仏です。 他になりようがないのです。 野垂れ死にしようが、殺されようが、自殺しようが、生きる苦しみから逃れられるのですから、やはり仏になります。

  出家信者である僧侶の仕事というと、霊前でお経を上げる事が代表的ですが、あれほど馬鹿げた光景はありません。 お経を聞いて、意味が分かりますか? 日本で上げられるお経のほとんどは、千年から五百年前の中国語の方言で書かれていて、また読み方もそれに準じていますが、聞いている在家信者は誰もその意味が分かりません。 「分からないから、ありがたい」などと考えるのは、野蛮人が物の怪を崇めるのと一分の差も無いのであって、お経というのは、意味が分かってこそ、意義があるのです。 だって、もともと、教えを伝える為に書かれた物なのですから! 分からない言葉で、お経を聞いたって、犬の遠吠えや蝉の鳴き声を聞いているのと何の変わりもありゃしません。

  改めて考えると、吃驚仰天・顔面蒼白な話ですが、そんな馬鹿げた事を、日本では仏教伝来からこっち、延々と続けて来たのです。 もう、情けないったらありゃしない。 意味が分からないお経を1500年も聞かされて、誰もおかしいと思わなかったんだから、ある意味凄い。 昔話に、≪愚か村の人々≫というモチーフがありますが、さしづめ、≪愚か国の人々≫というべきですな。 「仏教はどんな宗教ですか?」と外国人に訊かれて、何も答えられないのも無理はない。 だって、お経の意味がわかんないんだものねえ。 あははははは! アホか?

  「悪い事をすると地獄に堕ちる」などと言われていますが、もちろん嘘です。 ゴータマ・シッダールタは地獄の存在について、一言も触れてません。 だーからよー、教祖が口にしなかった事を捏造して、信者に吹き込むのはよせっつーんだ、この詐欺師どもが! 死ねばみんな仏なんだから、地獄なんかあるわけねえっぺよ! 当然の事ながら、極楽もありません。 浄土教系統の宗派などは、極楽が無いとなると困ってしまうわけですが、勝手に困りなさい。 大法螺吹き続けてきた報いです。

  それでいて、呆れる事に、どの宗派でも、出家信者、つまり僧侶ですが、彼らは原始仏教の経典を直接勉強していますから、「死ねばそれで終わりで、その後は何も無い。 もちろん、地獄も極楽も無い」という事を知っているのです。 ただ、それを在家信者には教えないんですな。 詐欺がバレるとまずいから。 どこまではらわたが腐っているのか、それこそ仏罰覿面ではありますまいか? もっとも、ゴータマ・シッダールタも他の解脱者達も仏になってますから、どんな悪人が相手であっても罰を与えたりしませんがね。

  「死んだら、三途の川を渡って、お花畑を通り、様々な世界を経巡った後、生まれ変わる」といった俗説も、ゴータマ・シッダールタの教えとは一切関係ありません。 死ぬ事そのものが苦しみからの解放なのですから、死後の世界など元々想定されていないのです。 幽霊なども想定していません。 肉体が滅んだ後も精神が生き残るのでは、輪廻が断ち切れないじゃありませんか。 幽霊なんぞいてもらっては困るのです。

  死後に霊魂が残らないという事は、自動的に≪法事≫も無意味という事になります。 四十九日だ、一周忌だ、三回忌だ、七回忌だと何回やらされるか分かりませんが、そもそも、霊魂が無いのですから、誰の為に法事をするのか分からないではありませんか。 大体、生きている人間ですら意味が分からないお経を、死んだ人間に聞かせて何とする? アホか、うぬりゃ? 耳も脳もとっくに焼き場で灰になっているというのに、どうやって、お経を聞くんじゃい?

  仏像を拝むのも馬鹿馬鹿しい事です。 あれはもう、完全に多神教の習慣ですな。 僧侶達は、仏像なんぞただの人形に過ぎない事を知っていますから、大事に保管していたとしても、それは美術品として扱っているのであって、仏像そのものに魂があるなどとは思ってません。 そんな戯言を本気で口にする坊主がいたら、そいつは原始仏教を理解できないほど頭が弱いのです。 そういえば、十年くらい前に、テレビによく出る霊感坊主がいましたな。 「自縛霊を飛ばす」とか言って、スタジオで派手なパフォーマンスをかましていましたが、あの人にしても、本気で幽霊を信じていたわけではないと思いますぜ。 だって、原始仏教の基本も知らないような人間が、住職になれるわけないものね。

  ボロクソに言って来ましたが、今までに歴史上に登場した各種の仏教教団が、ゴータマ・シッダールタの教えをダシにして、在家信者を騙してきた悪行の罪深さに比べれば、この程度の批判は、お上品過ぎると言うべきでしょう。 教祖の教えをまるっきり無視しているくせに、仏教を名乗っているのもおこがましい。 地獄など無いので、地獄へ堕ちるとは言いませんが、人を騙しているような人間が、生きている間に解脱できないのは疑いありません。 まあ、そんな奴らでも、死ねば仏になれるのが仏教のありがたい所なんですがね。


  さて、私の事ですが、本気で仏教を信仰する気になれないのは、≪生きる事は苦しみ≫と思っていないからです。 ≪楽しみがあるから、生きている≫という考え方をしています。 すなわち、仏教の信者としての要件を満たしていないんですな。 ただ、これはあくまでも現時点での話。 今後歳をとるに連れて、楽しみが減り、苦しみばかり増えて来れば、仏教的な考え方に救いを求めるかもしれません。 ただし、そうなったとしても、帰依する対象は原始仏教であって、仏教教団なんぞには、ビタ一文払う気はありません。 意味の分からないお経なんぞ、あげてくれなくて結構。 自分で知る事も出来ない戒名も要りません。 そんなもの無くても、仏にはなれるのですから。