2009/08/30

書き込む理由

  今回は、いつもと違って、コラムではありません。 先週、≪掲示板よ、さらば≫で書いたように、私は最近、よそのサイトの掲示板に書き込みを再開したのですが、その書き込み先の管理人さんに、私の書き込み方針を知らせる為に、自分のサイトに一ページ設けるつもりで書いたものです。 よって、前回の内容と重複する部分もありますが、ご承知置き下さい。


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  ようこそ。 あなたが、このサイトへ来たという事は、あなたのサイトの掲示板に、私が書き込みをしたので、「一体、どんな奴だろう?」と思って、探りを入れに来たわけですね。 OKです。 そういう方の利便を考えて、このページを作りました。 このサイトは、過去に思いつきで作ったコンテンツの残骸を集めたような造りになっているので、ざっと読んでも、私の正体が分からないだろうと思ったのです。

  私が訪ねて行っているサイトは、みな、魅力あるコンテンツを備えている所ばかりなので、そういうサイトを作っている方々から見れば、ここはひどい出来だと感じる事でしょう。 「完成度低いなあ。 一貫したテーマも無ければ、個別に評価できるコンテンツも無いじゃないか」と、失笑すら漏れると思います。 その点については、一言も言い返す事ができません。 正に、その通りなのです。 つまり、私は、個人サイトの構築にも運営にも失敗した人間なのです。 まあ、よく見られる、≪失敗サイト≫の一つなわけですな。 私の正体は、そんなところです。


  このサイトを見ると、掲示板が無い事に気付くと思います。 「なんだ、返礼で書き込みに来てやったのに、掲示板が無いのか」と、肩透かしを喰った方には、大変申し訳ありません。 実は、長い事、下劣写真を添付した悪質な宣伝投稿に悩まされていて、2009年の7月19日に、とうとう外してしまったのです。 よくある話ですが、まったく、あれには、うんざりしました。 元を正せば、このサイトは、タイトルとトップ写真と掲示板だけで始めたようなものだったので、草創コンテンツだった掲示板を外すのには心理的抵抗があったんですが、他に絶対確実な対策を思いつかないので、泣く泣く閉鎖したわけです。

  ところが、いざ、外してみると、一つ、副産物が転がっている事に気付きました。 身軽になったのです。 自分のサイトに掲示板を持っていなければ、返礼書き込みの有無を気にせずに済むので、よそ様のサイトへ自由気侭に書き込めるようになったのです。 「返礼書き込みの有無を気にする」というのはどういう事かというと、こちらが書き込みに行っているのに、相手側が、こちらの掲示板に書き込みに来ず、イライラする状態の事を指します。 そんな経験がある人は多い事でしょう。

  冷静に分析すれば、それは単に、「こちらは相手に興味があるが、相手はこちらに興味が無い」というだけの事であって、怒っても詮無い事なのですが、それが分かれば尚の事イライラするから始末が悪いです。 「よーし、そっちがそういうつもりなら、こっちも書き込みに行かないぞ」と、対抗措置を取るのですが、向こうにしてみれば、元々こちらに興味が無いわけで、そんな事は痛くも痒くもありません。 根競べを続ければ、やがて、音信不通になってしまい、知り合いは減る一方です。 そんな経験がある人も、大変多い事でしょう。

  「どうせ、時間的にも労力的にも、そんなに大勢とは付き合えないんだし、知り合いを10人くらい確保したら、後は巡回を欠かさないようにしていれば、半永久的にネット交友を続けられるだろう」なんて思っていたのが間違いだったんですな。 ネットに於いては、常に積極的に、新しい人達と知り合うように努めなければ、交友関係はどんどん狭まって行ってしまうようなのです。 これまた、経験として、「なるほど、確かにそうだ」と頷いてくれる方が多かろうと思います。

  余談ですが、ここ一ヵ月ばかりの間に、私が覗いて回った百数十箇所の個人サイトの内、健全な形で掲示板が維持されている所は、一つもありませんでした。 ほとんどは閑古鳥が住みついていて、書き込み間隔が、一ヶ月以上空いているのが普通でした。 私の所のような≪失敗サイト≫だけでなく、資料サイトとして、閲覧者数が日当たり百人以上いる所でさえ、掲示板は死に体になっているのです。 稀に、書き込みが引きも切らない掲示板も見受けられますが、大抵は、初心者の質問と管理人の回答が小刻みにやりとりされているような所で、全体から見れば、ほんの僅かです。

  誰も彼も、みんな、自分のサイトに閉じ篭って、外へ出なくなってしまったんですな。 原因はいくつか考えられますが、一つは、上に挙げた、≪返礼書き込みの有無を気にする≫心理だと思います。 対等に拘れば拘るほど、付き合いが細るという事は、つまり、ネット社会の本質が、本来、平等ではないという事なんでしょう。 現実社会と変わらず、様々な格差に満ちているのです。

  そして、その事が、もう一つの原因を浮かび上がらせます。 「自分が他人に興味が無いのは致し方ないが、他人には自分に興味を持って欲しい」と考える、自己中心的な欲望です。 別に、それを批難しているわけではなくて、人間というのは、そういう本能的な欲望から逃れられないと思うのです。 その結果が、個人サイトに於ける掲示板の衰退傾向に現れているのでしょう。

  ちなみに、「ブログのコメント欄には活気があるじゃないか」と思うでしょうが、よくよく見ると、ブログにコメントを書きに来る人のほとんどが、自分のブログの宣伝目的である事が分かります。 恐ろしい事ですが、全く同じ文面を、ワード検索で引っ掛かったブログ全てに、コピー貼り付けして回るという習慣が常態化しています。 私の感覚では、ああいうのは、交友でも何でもないのであって、他人と知り合いになる事の楽しみとは、最も遠い所にある、極めて浅薄な所業だと思うのです。

  さて、「ネット社会の不平等な性質からは逃れられない」という事を前提にした場合、対等な交友は非常に難しくなるわけですが、最初から対等を求めなければ、その枷は容易に外す事ができます。 至って単純な話、自分のサイトに掲示板が無ければ、もともと返礼のしようがないのですから、「なんで、返礼に来てくれないのだ!」などと、地団駄踏む事もないわけです。 お気楽お気楽! これなら、どこへでも出かけて行って、自分のペースで書き込む事ができます。 掲示板を廃止した理由は、極めて胸糞悪いものでしたが、災い転じて福となったのかもしれません。


  という経緯で、私は、約8年ぷりに、≪書き込み専科≫に戻ったわけです。 いや、サイトを残しているので、≪準・書き込み専科≫とでも言うべきでしょうか。 残骸であるにも拘らず、サイトを残した理由は、完全な根無し草になってしまうと、書き込み先の人が、こちらの素性が分からず、却って警戒するのではないかと心配したからです。 一応、トップ写真と日記は、更新が続いていますから、私が今現在、どんな事を考えているかを知る事もできます。 あまり、価値はありませんけど。

  私が、よそ様のサイトの掲示板に書き込む最大の目的は、「人と話をする事」にあります。 自分のサイトの運営が滞り始めて以降、「インターネットを有効に利用する為には、どうしたらいいか」について、ずっと考え続けて来たのですが、「ネットを使っていて、今までに一番楽しかったのは、どんな時だった?」と自問してみると、いつも、「自分のサイトを作る前。 あちこちの掲示板に、ゲストとして書き込んで、レスを貰っていた頃・・・」という答えが出て来るのです。 あの頃は、自分のサイトの閲覧者数やら、掲示板のゲスト数やら、そんなものは一切気にする必要が無く、ただ、書き込んで、レスを貰えるだけで、面白くて仕方ありませんでした。

  全くの赤の他人と、ほんの二言三言の挨拶を交わすだけで、知り合いになれるのですから、現実社会に於ける他人との敷居の高さに比べれば、雲泥の差です。 毎日新しいサイトにアクセスするたびに、「こういう世界があるんだ!」と、目を輝かせ、熱狂していました。 8年の間にすっかりヒネてしまった今の私は、あの頃の私とは違うわけですが、どんな凶暴な悪人にも、目の前を通る虫を踏まない心が残っているように、私にも、僅かですが純粋な心が残っているはずです。 よそ様への書き込みの際には、極力、純粋さを思い出して、書き込む方も書き込まれる方も気分が良くなるような関係を築いて行きたいと思っています。

  第二の目的は、「交友を長く続ける事」です。 実感として、長期間交友が続いている人には、千金の価値があると思っています。 あくまで、ネット上の知り合いですから、現実世界で会う事はありませんし、ほとんどの場合、顔さえ知らぬままで、限定された範囲のつきあいにしかならないわけですが、そうであればこそ、長く続く事に、大変な意義があると思うのです。 生々しい利害が絡んで来る、現実世界での友人・知人より、交友の純粋度は、むしろ高いと思うのです。


  以下は、私がよそ様の掲示板に書き込む際に、目安にしている方針です。 この種の方針は、書き込みを型に嵌めてしまう恐れもあるのですが、行き当たりばったりで書き込んでいると、思わぬ所で失礼な事をやらかしてしまう危険性があるので、一応、取り決めてから、書き込み活動を始めました。 

・ 基本的に、一週間に一度の頻度で書き込みます。 それより多くなると、「レスを書くのが面倒臭い」とか、「来過ぎで、鬱陶しい」とか思われますし、それより少ないと、書き込むたびに、「お久しぶりです」を言わなければならず、どんどん疎遠になってしまうような気がするので、大体、週に一度くらいなら、バランスがいいだろうと按配したわけです。

  ただし、一週間に一度と言っても、曜日を決めるわけではなく、レスが返って来てから一週間後に、次の書き込みを行ないます。 これは、別に、「レスを書いてくれなきゃ、次を書き込んでやらないぜ」などという、高慢ちきな考えから出たものではなく、ゲストへの対応にうんざりしている管理人さんに負担をかけないというのが目的です。 掲示板も長い間やっていると、レスを書くのが億劫になり、何日か放っておくという事をやるようになります。 いや、その気持ちは、私もよく分かります。

  管理人さんにもよりますが、3日4日遅れるのは、割と普通で、人によっては、一週間以上遅れる事もあります。 もし、曜日を決めて書き込むとすると、前の書き込みにレスがつかない内に次を書き込む事になり、追い越してしまうわけで、それはナンセンスというものです。

  そこまで行かなくても、たとえば、管理人さんが6日目にレスを書いてくれた場合、曜日を決めていると、次の書き込みが翌日になってしまうわけで、「この野郎! 昨日レスを書いてやったばかりなのに、また来やがった! 俺を鬱病にする気か!」と怒らせてしまう危険性があります。 それを避けるために、≪レスが来てから、一週間後≫というパターンを取る事になったわけです。

  この法則だと、私が書き込んだその日の内にレスがついた場合、曜日が固定される事になりますが、私としては何曜日でも一向に構わないわけで、書き込まれる方も、曜日がいつになるかは、あまり気にしないでいただければ幸いです。 たとえば、私が書き込んだのが、夜の11時59分だった場合、その日の内にレスを書くのは不可能ですから、早くても翌日になるわけですが、そういう場合でも、曜日はズレて行きます。 別に、当て付けや嫌がらせでズラしているわけではなく、あくまで、単純な計算法則に従っているだけなので、深く考えないで下さい。

・ レスの内容には、あまり頓着しません。 機械的・事務的な文面であっても、書き込みに対して、行数が著しく少なくても、文句は言わないのは当然の事、不満すら感じませんからご安心を。 上に述べたように、ネットは素より不平等な所であり、ゲストがホストより下位なのは動かし難い真理ですから、常にゲストである私が、待遇に理不尽を感じる理由は無いのです。 もちろん、内容が充実したレスをいただければ、大変嬉しいですが、毎度毎度そんなレスを返すわけにも行きますまい。 掲示板の運営は難しいものです。 私もやっていたから、その辺の事情は承知しています。

・ レスの内容には拘りませんが、レスがつかなかった場合は、それ以降、訪問する事はなくなります。 レスがつかない状態というのは、≪飛ばしレス≫をやられた場合を指します。 具体的に言うと 私の書き込みにレスがつかない内に、私より後に書き込んだ他のゲストの投稿にレスがついた場合が、≪飛ばしレス≫をされた事になります。 これを一度でもやられたら、もう行く事はありません。

  これも、対抗措置というような意味合いではなく、レスを書かないという事は、そのゲストが気に食わないという事ですから、無理に書き込みを続けて、圧迫をかけるような真似は慎みたいと考えるからです。 いや、その辺の事情もよく承知しています。 拒絶されるのは不愉快なものですが、掲示板に於いては、管理人の意思が優先なのは当然ですから、致し方ありませんな。

  私以外に書き込むゲストがいない掲示板の場合、飛ばしレスをされたのか、レスが遅れているだけなのか区別がつかないので、一応チェックだけ続けますが、一ヶ月以上放置されたら、自然に行かなくなります。 もし、一気に縁を切りたいという場合は、投稿ごと削除して下されば、それ以上は書きこみませんし、覗きに行く事もありません。

  私は怒りが持続しない性格なので、放逐されても、復讐のような事は一切念頭に上りませんから、ご安心を。 自分が幸福になる事が最大の目標でして、他人を不幸にする事には、全然興味が湧かないのです。 ちなみに、子供の頃には、≪不幸の手紙≫が来ると、即座に丸めて捨てていました。 人の不幸なんぞ願っていると、ろくな事はないものです。

・ 私が、書き込みをする場合、基本的に、そのサイトの感想を書くという形式になります。 その際、良い所を誉めますが、悪い所があっても、貶す事はしません。 ゲストの分際で、ホストの作品を貶すなど、心得違いも甚だしいですな。 よく、「批判しあってこそ、真の友人になれる」などと、利いた風な事を口にする人がいますが、現実を観察した経験が無いのでしょう。 誰だって、批判されれば気分が悪くなるのであって、年中、赤の他人から、「この記述は間違っている」だの、「この写真は構図か悪い」だの言われていれば、ムッとしない方が異常です。 家族ですら、そんな事をしていたら、喧嘩が絶えないでしょう。 貶すくらいなら、書かなければいいのであって、ちっとも難しい事ではありません。 どうしても、そのサイトの作者が気に食わないのなら、行かなくなればそれで済む事です。

・ 同様の理由で、冗談を書き込む事もありません。 冗談が分からないわけではありませんが、自分の方からは言いません。 冗談と揶揄の区別をつけていない人が多いために、他人同士の会話で冗談を交し合っていると、必ず誤解が生まれ、諍いの元になります。 無人になって放置されている掲示板を見ると、大抵終わりの方は、揶揄混じりの冗談を飛ばしあって、萎んで行っているようです。 他人のサイトの掲示板に冗談を書き込んで来る人というのは、≪面白い人≫というよりも、≪無神経な人≫である場合が多いです。 言いたい放題の事を言いまくり、自分への注目度がちょっと落ちると、さっさといなくなります。 恐らく、他へ行って、また冗談を飛ばしているのでしょう。 こういう人達は、冷静に見れば、反面教師にしかならないと思います。

・ 政治や宗教の話は一切しません。 レスで水を向けられても、応えません。 はっきり、有害な話題だと見做しているからです。 また、学問的な事であっても、議論はしません。 それも有害だと思っています。 これまた、「ネットで議論をしたお蔭で、論理的な考え方が身についた」などと言っている青年がうじゃうじゃいますが、その実、屁理屈の並べ方を覚えただけで、その目的は、他人を罵り倒す事だけなのですから、お話にもなりません。

  議論とは本来、「互いの考え方に違いがある事を認めた上で、その溝を埋める為(調停型)」、もしくは、「双方の意見を第三者に聞いてもらい、どちらが正しいか判定してもらう為(裁判型)」に行なうものですが、前者は、議論をしなくても出来る事ですし、後者は、判定者の公平な選別が出来ないために、ネット上で行なうには無理があります。 実際に、ネット上で行なわれている議論は、ただの罵り合いなのであって、双方に何の益もありません。 ただただ、傷つけあい、憎悪の念を募らせるだけです。 全く、馬鹿馬鹿しい! そんな気分の悪い事をする為に、大枚払ってネットを始めたわけではありますまい。

  こましゃくれた議論などしなくても、会話はできます。 私に僅かとはいえ純粋な心が残っているように、誰の心にも純粋な部分があるはずです。 良心的・良識的な会話を温厚に交わせないわけがないではありませんか。 「そんな上辺を飾るような会話はつまらない」と言う方もいるでしょうが、これは、つまるつまらんの問題ではなく、個人サイトの掲示板に於いて、会話が成立するかしないかという、より重大な問題なのです。 現に、ほとんどの掲示板が危篤状態にあるのを見れば、良心の欠如がどんな結果を生むか、一目瞭然です。 たとえ、「つまらん」と謗られても、そこの所は、譲れない線です。

・ 私の書き込みは、≪挨拶≫、≪そのサイトのコンテンツの感想≫、≪手土産写真の説明≫の三部で構成する事が多いです。 一応、最もレスを書き易い構成にしているつもりです。 画像添付が出来ない掲示板の場合は、写真の説明の変わりに、≪自分の近況報告≫が入る事もあります。 写真を貼るのは、書き込みを華やかにするためです。 写真が貼ってない場合、それは、内容に関連する写真を持っていなかったからに過ぎず、他意はありません。 写真撮影は、私の唯一続いている趣味なので、機会さえあれば、貼り付けたくなるのであって、手間をケチろうなどという気は毛頭ありません。

・ URLを打ち込む欄がある場合、必ず入力しますが、これは、上にも書いたように、「どんな奴なのか確かめたい」という要望に応えるためのものなので、一度私のサイトに来て、「ああ、大体こんな奴か」と分かったら、その後は無視して下さって結構です。

・ リンクは、「交友が続けられそうだな」と判断した時点で、私の方から、バナーをいただきに行きます。 大抵のサイトでは、リンク・フリーになっているわけですが、連絡が取れる所なら、必ず一言断るようにします。 私には、交友方針とは全く無関係に、「バナーをコレクションしたい」という欲望があるのですが、話が続かない人とリンクしても、後々始末が悪いですから、しばらくの間は、バナーのバの字も口にせず、息を潜めて推移を覗っているわけです。 相互リンクに関しては、三度の飯より望んでいるというわけではありませんが、もし入れてくれるのであれば、大変ありがたい事です。


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  と、ここまで書いたんですが、「・・・何だか違うな」と思って、サイトに載せるのは中止してしまったのです。 こんなに熱く語る必要は無いんですよ。 この書き込み方針、今風に言うと、「重いっす」よねー。 こんなのを読まされたら、向こうが引いてしまうと思います。 少なくとも、「こいつ、油断ならぬ奴だな。 何を企んでいるか分からんぞ・・・」と、より警戒してしまう可能性が高いです。 それでは、逆効果なのであって、何のために、こんな文章を書いたのか、分からなくなってしまいます。

  あまり手の内を見せ過ぎない方が、いいのかもしれませんな。 今まで、交友が続いている人との関係を見ても、こんな改まった書き込み方針なんて通知した事は一度も無いです。 続く人とは、何ら特別な取り決めをしなくても、自然に続くものなんでしょう。

  これを書くのに3時間くらいかけてしまったので、没にするには、相当なためらいがありましたが、まあ、しょうがないですな。 不適当と分かっていて、使うわけには行きません。 で、あまりにも時間を喰ってしまった為に、ブログの記事を書く暇がなくなってしまい、「んじゃ、せっかく書いたものだから、捨てるのも勿体ないし・・・」と、こっちへ持って来たわけです。 もし、≪準・書き込み専科≫を目指したいという方がいたら、参考にどうぞ。 ただし、この種の断り書きを、ご自分のサイトに掲載するのは、やはり、やめておいた方が良いと思います。

2009/08/23

掲示板よ、さらば

  私は、2001年の10月に開設し、ほとんど死に体状態で維持して来た個人サイトを持っているのですが、去る7月19日に掲示板を廃止し、それに伴って、ネットに於ける活動方針の根本的な改変に踏み切りました。 掲示板を外すと、どうして、ネット活動が変わるのかというと、それはまあ、追い追い説明します。

  掲示板を外した直接の理由は、下劣写真付きの迷惑投稿と縁を切る為でした。 画像添付式の掲示板では、ほとんど全てに、その種のキチガイ投稿者が入り込んでおり、私の所もその例外ではなかったというわけ。 当然、マメに削除はしていたのですが、削除するにも管理者コードを打ち込まなければならないので、結構面倒臭いのです。 「なんで、こんな馬鹿の為に、こんな手間を取らされなければならないんだ?」と、ずっとムカムカしていたのですが、それに加え最近は、削除前に下劣写真を見せられるだけで気持ちが悪くなってしまい、とうとう、キレたというわけです。

  画像添付式をやめて、文章だけのタイプに変えたとしても、今度は、下劣文章を投稿してくるに違いなく、根本的な解決にはなりません。 IPを調べて投稿拒否にしても、すぐに別のIPで入ってくるから、イタチごっこになってしまいます。 最終手段としては、廃止するしかないんですな。 「廃止は敗北だ」という方もいますが、廃止してしまえば、キチガイどもは、こちらにちょっかいを出す手段を失うわけで、損は向こうの方が多く、必ずしも敗北とは言えないと考えました。

  あの種の下劣投稿は、形式的には、≪出合い系サイトなどに呼び込む為の宣伝≫という事になっていますが、実際には、ほとんどが見つけ次第削除されるために、宣伝効果は微々たるもので、とても投稿の手間に見合うとは思えません。 ことによると、不特定多数に対する宣伝などではなく、その掲示板の管理人個人を狙った嫌がらせなのではありますまいか。 ぞっとする話ですが、ネット上をうろついている者の大半は、はらわたの腐った人間のクズですから、ありえない事ではありません。

 「わざわざ、画像認証キーまで打ち込んで、よく投稿するもんだ」と、不思議に思っていたのですが、もしかしたら、画像認証キーを自動的に読み取って打ち込むソフトがあるのかもしれませんな。 掲示板によっては、一日数十件、それが一ヶ月分くらい、全て下劣書き込みで埋め尽くされてしまっているような所もありますが、とてもじゃないが、こつこつキーボードを叩いていたのでは、投稿しきれますまい。 しかし、人間というのは、腐り始めると、とことん落ちていくものですな。 他人に嫌がらせをする以外に楽しみが無いほど人生がつまらないなら、もう死んだ方がいいだろ。 何のために生きてんだよ?


  恨み言はさておき、そういう理由で掲示板を廃止したわけです。 サイトを開設した時は、掲示板をメイン・コンテンツにしていたくらいですから、それを無くすのには抵抗感があったんですが、まあ、仕方ありませんな。 思い切ったついでに、サイトもやめて、プログにしてしまおうかと思ったんですが、ブログの場合、テンプレートが限られているので、デザインに自由が利かず、どうにも気に入った物が出来なくて、諦めてしまいました。 おっと、そういえば、ここもブログですが、ここは私のネット活動の中心地ではないので、デザインは、あまり気にしていません。

  それにしても、最近のブログ・サービスは、背景真っ黒とか、真っ白とか、シンプルなテンプレートが無いんですよね。 アニメ・キャラのトップ背景などが用意されてますが、あんな物、こっ恥かしくて、使えるかっていうのよ。 それに、他人の描いた絵を、平然とトップに掲げて、そりゃ一体、誰のブログなんじゃい? そんなに絵で飾りたいなら、自分で描けっていうのよ。 サイトやブログは、そもそも自己表現のために作る物なのだという事が分かってないんじゃないですかね? アイコンを借りるようなつもりで、イラストを借りてたら、個性も糞もありますまいて。

  うわ、また脱線した。 どこまで書いたっけ? そうか、掲示板を外した所までだ。 で、掲示板を外したんですよ。 するとですね、あら不思議! 急に身軽になったんですな。 一番改善された点は、もちろん、下劣投稿を見ないで済むようになった事ですが、それとは別に、ゲストの方々に迷惑を掛けずに済むようになった事が、私の精神的負担を大幅に取り除いてくれたのです。

  個人サイトも長くやっていると、つきあう人達の数も限られ、話題はとうに枯渇し、内容のマンネリ化が著しくなります。 書き込むのも苦しければ、レスを返すのも苦しく、単に社交辞令でやりとりを続けているだけになってしまうんですな。 特に私のサイトは、ろくなコンテンツが無かったため、ゲストの方々は、「何を書こうか・・・」と、毎回苦労していたに違いないと思うのですよ。 掲示板が無くした事で、そんな苦労を掛ける事もなくなり、私も気が楽になったというわけです。

  それまで書き込んでくれていたゲストの方々は、それぞれ、サイトを持っていますから、話したい事があれば、こちらから出向けばいいわけで、実害はありません。 緊急の連絡がある場合には少々不便ですが、ネット上の交友では、緊急を要する用事そのものが、ほとんどありません。 8月11日の地震の時も、先手を打って、サイトの日記ページに、「無事でした」と書いておいたため、何の問題も起きませんでした。


  単に、気楽になっただけでなく、新たな活動もできるようになりました。 新規の訪問先を開拓できるようになったのです。 自分のサイトを長くやっていると、自分の所の運営や、知り合いのサイト・ブログへの巡回でうんざりしてしまって、それ以上、交友相手を増やそうとしなくなります。 時間に余裕が無いというより、「もう、ネット歴が長いのだから、初心者みたいに、『はじめまして』なんて書き出しで、他所へ初訪問するのは、恥かしいし、面倒臭い」という、≪ベテラン意識≫が邪魔をするのです。

  ところが、実際に初訪問するつもりで、あちこちのサイトを覗いて見ると、この≪ベテラン意識≫が、全くの錯覚である事に気付きます。 単にネット歴の長短という意味ならともかく、ネット利用の熟達度という意味で考えれば、ベテラン意識に囚われている人ほど、ネットをうまく利用できていないのが分かります。 ネットというのは、他人と話してナンボなのであって、その為には、まだ知りあっていない人達と話す為に、自分の方から、どんどん外へ出て行かなければならないのです。 自分のサイトに閉じこもって、お客が来るのを待っていても、交友範囲は狭まる一方です。

  個人サイトの運営者で、「最初の頃は、レスを書ききれないほど、お客が来てくれたのに、今では、週に一人書き込みがあればいい方だ」という方、たぶん、たくさんいる事でしょう。 私も、つい先月まで、そうだったので、あなたの気持ちは、よーく分かります。 「でも、昔の知り合いが見ているかもしれないから、サイトを閉めたりしたら、馬鹿にされるに決まってる」と恐れているでしょう? 分かる分かる、その気持ち。 でもねえ、掲示板に何も書き込んで来ないという事は、見ていないか、見ていたとしても、もう交友するつもりは無いかのどちらかである可能性が高いですから、そういう人達を気にする必要は、もう無いと思いますぜ

  「頑張って続けていれば、また昔のように、お客がたくさん来てくれる時が巡ってくるはずだ」と期待していますよね。 でも、それはありえないと思います。 実際に、他のサイトの状況を見て回れば、それが、はっきり分かります。 誰も彼もみんな、自分のサイトに篭って、同じ期待に縋って、お客を待っているのですよ。 三竦みの逆バージョンをやってるわけですから、新しい客なんて、来るわけないです。 譬えて言えば、「いつか、お客が戻って来る」と励ましあいながら、近所同士で買物しあって食い繋いでいる、寂れた商店街と同じです。

  いいんですよ、別に。 ネット歴が長い人が、「はじめまして」を書いたって。 相手が自分よりネット歴が浅くたって、そんな事、構わないじゃありませんか。 そもそもは、全員、赤の他人なんだから、関係の基本は、≪対等≫です。 自分の方が上だと思っているから、腰を低くするのに抵抗があるのです。 対等だと思えば、「はじめまして」くらい、素直に言えるでしょう。 それどころか、下位に立ったって、いいじゃありませんか。 相手を誉めていれば、喜ばれますし、機嫌の良さそうなレスが返って来れば、こちらも気分がよくなります。 上に立とうとするから、そこから全てがおかしくなってしまうのです。

  これねえ、実践すると、世界観ががらりと変わりますよ。 その点は、胸を叩いて請け合います。 ただ、自分の所の掲示板を維持したまま始めると、すぐ躓く恐れがあります。 こちらから新規の訪問先を増やしていけば、その返礼書き込みで、掲示板の投稿者が一時的にどっと増えます。 長い事、閑古鳥で、レスを書き慣れていなかった人達には、それを捌くのが大変だと思います。 ほくほく顔を通り越して、げんなりしてしまい、「これなら、つきあいなんて狭い方がいい」と逆戻りしてしまうかもしれません。

  また、もっと恐ろしい問題は、返礼に来ない相手に激怒してしまう事です。 自認ベテランでも、返礼をしない人はいくらでもいるのであって、いちいち怒っていたらキリが無いのですが、自分自身もベテラン意識に毒されているために、「返礼もしないような奴とつきあう必要は無い!」と、切り捨ててしまうのです。 ところが、そういう事で怒っていると、他人への不信感が募って、別の所へ行くのも、だんだん怖くなって来ます。 で、結局、交友意欲が萎んでしまうのです。 つくづく、怒りは何も産まないねえ。 壊すだけだわ。 その点、自分の所の掲示板を廃止しておけば、返礼が多かろうが無かろうが、どこ吹く風でいられます。

  「もう、お客なんて、何ヶ月も来てないし、潰れたも同然だ」と思っているサイト運営者の方々、ものは試しで、是非、実行してみる事をお薦めします。 自分の所の掲示板を廃止した上で、どこでもいいから、他人のサイトというサイトにアクセスしまくって、波長が合う相手を探し、「はじめまして」と書き出して、ほんの数行、コンテンツを誉める感想を書き込むのです。 もし首尾よくレスを貰えたら、恐らく何年かぶりで、ネット交友の幸せを感じる事が出来ると思いますよ。 繰り返しますが、ネットとは、他人と話してナンボの世界なのですよ。

2009/08/16

デジビノ

夏休みが九日間もあると、あれこれ雑用で取り紛れるのは最初のうちだけで、瞬く間にやる事がなくなり、やがて、よからぬ事ばかり考えるようになります。 とりわけ有害なのが、「必要ない物を買いたがる」衝動ですな。 この衝動、常にスタンバイして、心の舞台袖で出番を待っているようで、ほんのちょっとでも何か新しい事に興味が向くと、「それをやるなら、まず、これを買わなきゃ!」と、しゃしゃり出て来ます。 で、その衝動に従って買ったりすると、半年も・・・、いや、3か月も・・・、いやいや、場合によっては一週間もしない内に飽きて使わなくなったりするのです。

  というわけで、今私を悩ませているのが、望遠撮影ができるカメラです。 ここでいう望遠とは、バード・ウオッチングに耐えられる程度の倍率の事で、コンパクト・デジカメでいえば、大体、10倍ズーム以上、一眼レフの交換レンズでいえば、300ミリ以上を指します。 双眼鏡の倍率で言うと、7倍以上くらい。

  どうして、そんな事に引っ掛かってしまったかというと、事の起こりは、図書館で借りて来た、≪カモメ観察ノート≫という写真図説本にあります。 これ↓



  書名の通り、国内で観察可能なカモメの種類を、写真に解説を付ける形で紹介している本です。 著者は、鳥マニアのミュージシャンの方でして、素人学術書であると同時に、タレント本でもあるという、かなり変わったカテゴリーに属します。 紹介早々、欠点を論って恐縮ですが、この本、以前紹介した、≪やっぱりペンギンは飛んでいる≫とは別の意味で問題がありまして、どうも、記述内容や写真の同定性に誤謬が含まれているらしいのです。

  アドバイザーとして一文を寄せている専門家の人から、「著者はカモメの観察を始めてからまだ年数が浅いこともあり、初めに見せていただいたゲラでは問題点がたいへん多く、かなり初歩的な間違いも見受けられ・・・」と、知識不足を指摘されてしまったばかりでなく、あからさまに、「私の校閲後に追加した写真や解説文は、原則として関知するところではありません」などと突き放されてしまっていて、学術書としては、出版する前から失格しているようなものです。

  本来なら、≪監修者≫として名前が載るはずの人物が、わざわざ、≪アドバイザー≫と称しているのは、「監修したとは言えないから、内容に責任は持てない」という意思表示なのでしょう。 なぜ、最終的に本にする内容が揃ってから校閲を頼まなかったのか、それが不可解ですが、それより何より、素人が学術書を作ろうとした事自体に問題がある上に、そういう本を世に出そうとした出版社にも責任があると思います。

  ところがですねえ、この本、学術的には問題があるものの、他人の受け売りで本を作ってしまった≪やっぱりペンギンは飛んでいる≫などと違って、どうにも憎めない所があるのです。 とにかく、写真が多い。 しかも、そのほとんどを、著者が自分で撮りに行ったというから、大変な労作です。 そして、一枚一枚の写真の質が、相当高いのです。 カモメの撮影技術に関しては、プロのカメラマンに引けを取らないレベルだと思います。 学術書としては使えないけれど、カモメの写真集として見れば、2500円では安い本でしょう。 返す返すも、最終段階で専門家の監修を受けていない点が惜しまれます。


  で、ですね、えらく前説が長くなりましたが、この本の著者が、カモメの撮影で使ったのが、≪デジスコ≫という器材だったらしいのです。 ≪デジスコ≫というのは、≪デジカメ+スコープ≫の略語でして、このスコープというのは、望遠鏡の事です。 ≪デジスコ≫とは、望遠鏡の接眼部にデジカメをくっつけて、望遠写真を撮るシステムの事で、天体写真や野鳥写真を撮る人達の必須アイテムになっているらしいのです。

  もし、それだけだったら、興味を持たずにスルーしたかも知れませんが、この本を読んでいる間に、たまたま、ある野鳥サイトを訪問しまして、あっと驚くような写真を見せられたのですが、そこでも、≪デジスコ≫という言葉に出合ったため、印象が強くなってしまったんですな。 また、≪デジスコ≫という聞き慣れない言葉の響きが、記憶に残り易いんだわ。

  最初の内は、「望遠鏡にデジカメって、ピントなんかはどうなるんだろう?」と、盛んに疑問符を飛ばしておったわけですが、「考えるより、実際にやってみよう」と思い立ち、望遠鏡が無いから、「似たようなもんだろう」と、双眼鏡で試してみました。 最初は、室内で撮ったんですが、あらやだ、どうしましょ。 撮れるんですよ、これが! マクロ・モードにするとか、そんな小細工は不要で、そのまんまカメラのレンズを双眼鏡の接眼部に近づけ、ピントは双眼鏡の方で合わせれば、それでOK。 これにゃ、ビックリしましたね。 できるんですねえ、デジスコ・・・、いや、望遠鏡ではなく、双眼鏡だから、≪デジカメ+ビノキュラス≫で、≪デジビノ≫。

  で、8月11日の事ですが、地震の後で、崖崩れの恐れがあるというのに、近所の山に登って、下界の景色を撮ってみました。 普通に撮ると、↓こんなですが、



 デジビノで撮ると、↓このくらいになります。



  ちなみに、カメラは、オリンパスの≪C-2≫なので、35ミリ判換算で、36ミリの単焦点レンズ。 双眼鏡は、15年くらい前に会社の記念品で貰ったニコンの≪Libino 7×20 CF≫。 36ミリ×7倍ですから、252ミリくらいになりますな。 デジスコに比べれば、ささやかな倍率ですが、今まで望遠系のレンズを一回も使った事が無い私を仰天させるには充分でした。

  で、次は、野鳥を撮ってみようと思って、近所の川の河口に行って、ウミネコを狙ったんですが・・・・、↓ものの見事にしくじりました。



  ウミネコは300羽くらい、うじゃうじゃいたんですが、遠くにいるので、252ミリ程度では追いつかないのです。 それに、小さな物を撮って、はっきり分かったんですが、ブレは激しいわ、収差は出るわ、白っぽく霞むわで、とても、人様に見せられる写真になりません。 この白っぽい霞みは、画面の周辺部がケラレているために、カメラが自動的に露出を上げているんでしょう。 補正は可能ですが、デジビノをやるたびに、露出設定を変えるのは、煩瑣この上無し。

  その上、モニター点けっ放しで、双眼鏡とカメラの光軸を合わせなければならないので、ほんの数枚で電池が無くなってしまいます。 ケチな私には、これが一番痛い。 カメラと双眼鏡を嵌め込むだけで、光軸がきちっと合うようなアタッチメントを作れば、モニターを点けなくても撮れるかもしれませんが、双眼鏡の方のピントは、そのつど合わせなければならないので、片方で覗いて、片方でカメラと合体させるとなると、かなり変な形になります。

 「いい歳した大人が、そんなみっともない物を、外で使えるか」と思い、「いっその事、高倍率ズーム機を買ってしまえ」と、恐ろしい考えが脳裏をよぎったのですが、「待てよ、高倍率ズーム機のファインダーは液晶式で、電池消耗の速さは、モニター点けっ放しと大して変わらないはずだ。 そんなの使えん」と思い止まりました。 ところが、魔が差すとは恐ろしいもので、「一眼デジカメなら、ファインダーは光学式だから、いくら覗いていても、電池は食わないぞ」などと、もっと恐ろしい事を企み出す始末。

  飽きっぽい私の事だから、本格的な野鳥観察など、続くわけがないのであって、せいぜい100枚も撮れば、「こんな重いカメラは持ち歩けん」と、押入れ行きになるのは疑いないところです。 その100枚の為に、5万も10万も払おうというのかい? 費用対効果が、完全にマイナスです。 いかんいかん、小人閑居して不善を為すとは、よく言ったもの。 無駄遣いしないように欲望を抑えこんで、休みが終わるのを待つしかありませんな。

  そういや、どこぞの野鳥サイトの掲示板で、今盛んにCMをやっているオリンパスの≪PEN EP-1≫が話題になっていましたが、「小さくていいですよね」と、さんざん誉めそやした後で、「ファインダーを覗こうとして、『あれ、無い』と戸惑い、『やっぱり、ファインダーはあった方がいいかなあ』と思いました」などと呑気な事を書いている人がいました。 どうやら、カメラの種類の違いがはっきり分かっていない様子で、大変おめでたい。

  ≪PEN EP-1≫は、≪マイクロ一眼≫と称しているものの、実際には、ミラーもペンタプリズムも無い、ただのレンズ交換式デジカメに過ぎず、本体部分の機能は、ファインダーレスのコンパクト・デジカメと変わりがありません。 構図やピントを決めている間は、ずっとモニターを点け放しにしなければならないのであって、マニュアル操作で撮る事が多い野鳥撮影には、とても使えますまい。 飛行中の姿を撮る為に、飛び立つのを待つという状況が頻繁にあるらしいですが、待っている間に、バッテリーが切れるのは必定。

  ファインダーが付いているコンパクト・デジカメでも、ズーム倍率やピントが、レンズと同調していなければ、単に大体の方向を決めるのにしか役立ちません。 高倍率ズーム機のファインダーなら同調しますが、その代わり液晶ファインダーですから、電池消耗はモニターと同じという事は、すでに書きました。 つまり、野鳥撮影に於いては、光学式ファインダーを持つ一眼デジカメの存在理由が、ちゃんとあるというわけです。 ただ単に、重くて大きくて、ミラーブレが避けられないだけのガラクタではないわけだ。 もっとも、一眼レフで300ミリ以上の望遠レンズとなると、軒並み、大き過ぎの重過ぎである事は否めず、持ち歩く方法を考えるだけでも、頭がくらくらしてきます。

  私も、フィルム時代は、一眼レフを持っていましたから、あの、いかにも本格的に見えるカメラに魅力を感じないわけではないのです。 しかし、腰が悪い事もあり、重い大きいは、本当に困るのですよ。 参ってしまうのですよ。 私だけでなく、カッコつけて、一眼レフ買って、すぐに撮らなくなってしまった人は、無数にいると思います。 あれを持ち歩くには、最低でもウエスト・バックが必要ですが、たかが写真撮影の為に、そんな不恰好な物をつけて出掛けられるかってーんですよ。 カッコつけようとして、逆に格好悪くなっていたのでは、元の木阿弥以下ではありませんか。

  レンズは交換できなくてもいいから、高倍率ズーム機で、ミラーとペンタプリズムを備えた機種が出ないものですかね。 今の高倍率ズーム機は倍率が凄くて、1200万画素で20倍、200万画素サイズにしぼれば50倍ズームが可能などという、とてつもないスペックを誇っています。 35ミリ判換算すると、1500ミリくらいになる機種もあり、もはや、超望遠ですな。 しかも、一眼デジカメ+望遠レンズより遥かに軽く、カメラ・ケースでベルトに提げても、持ち歩けます。 ただ、こういうズーム倍率が大きいレンズは、設計のどこかで、何かを犠牲にしている可能性が高いので、実際に望遠で撮った時、画質がどうなるかは、試してみなければ分かりません。 ま、ブレが凄いのは、予測できますが。


  それにしても、望遠レンズのような扱い難いものを使いこなして、野鳥を撮る人というのは、凄いですな。 特に飛んでいる姿を撮れるというのは、極めて高い撮影技術だと思います。 野鳥サイトの作者も、腕はピンキリで、飛行中のショットが多いほど、腕が高いようです。 また、同じ飛行中でも、気流に乗れる大型の鳥と、羽ばたき続けなければならない小型の鳥とでは難易度が違い、後者の方が格段に難しいとの事。

  ああだこうだと偉そうな事を書いていても、フィルム時代からやっている年配者は、飛んでいる鳥を撮れません。 フィルムでは、シャッター・スピードが速くできなかった上に、フィルムが勿体なくて、プロでもなければ、連写などできませんでしたから、飛行中の鳥を捉えられなかったんですな。 勢い、とまっている姿が多くなり、その癖がデジカメ時代になっても抜けないのです。

  それでも、とまっている姿を見つけられるだけでも大したもので、私なんざ、そもそも、野鳥を見つけられません。 せいぜい、ハト、カラス、スズメ、ハクセキレイ、ムクドリ、ウミネコ、トビ、シラサギ、といったところ。 それ以外の鳥を目にしていても、名前を知らないものだから、脳が認識しない始末。

  そういえば、鳥というのは、写真に撮れなくても、双眼鏡で見ているだけでも、結構楽しいものだという事に、今頃気付きました。 ウミネコやトビは、気流に乗って空中に浮いているのですが、時々、こっちを見るから、ギョッとします。 飛んで来て、街灯の上にとまったウミネコが、生きた蝉を咥えていて、バタバタ暴れるのを、二回くらい咥え直して、パクっと呑み込んでしまったのには、見ていて呆然としました。 自然は厳しいのう。

2009/08/09

はったり・リーダー

  ようやく夏休みに入りました。 ここ数ヶ月というもの、仕事は毎日、定時間で終わっているので、会社にいても、家にいても、体力的負担に大差は無いのですが、それでも休みは楽しみなものです。 そういえば、報告をすっかり忘れていましたが、≪あぶれ組≫で書いたように、4月初旬にラインから外され、≪品質改善部門・汚れ班≫で冷や飯を食っていた私ですが、6月1日から、ラインに戻る事ができました。 しかも、前にやっていたのと同じ工程で、何ら新たな作業訓練を受ける事もなく、すんなり現場復帰できたのは、大変な幸運でした。

  私の個人的な幸運はさておき、相変わらず、生産数は少なく、リーマン・ショック以前の3分の1まで落ちた状態から、ちっとも上向きません。 新聞には、「景気は底打ちした」と、毎日のように書いてありますが、「毎日底打ち」というのは、おかしいでしょうが。 ちいっと、表現に整合性を持たせろっつーのよ。 大体、アルマゲドンでも到来しない限り、底打ちは必ず起こる事であって、別に大騒ぎするような事ではないです。 必要なのは、回復の方なのですが、そちらはかなり長い将来に渡って、望みが薄い事に変わりはありません。

  性懲りもなく、「アメリカ経済は、早期に回復に向かう」と言っているエコノミストが多いですが、論理的に考えて、そんな事、ありえんでしょうが。 アメリカがリーマン・ショック以前の景気に戻るという事は、もう一回、サブプライム・ローンが花開くって事ですぜ。 いくら、民主国家の国民が揃いも揃ってパッパラプーでも、大損こいた記憶が冷めやらぬ内に、またぞろ、バブルに踊ったりしないでしょうに。

  「オバマ政権の景気浮揚政策が効を奏した」なんて言ってる輩も多いですが、財政出動なんて、最低にアホな政治家でも簡単に出来ます。 その財源が、すべて借金である点に着目すれば、アメリカ経済が、健全化どころか、火達磨化の一途を辿っている事が分かりそうなものです。 日本経済も同じ、というか、もっと悪いですが、GDPより大きな借金を、一体、どうやって返すつもりなのか、つくづく訊いてみたいです。 GDPだよ。 国家予算じゃないよ。 分かってる?

  だからねー、借金で経済規模を膨らませたって、返す当てが無い事がバレて、信用を失えば、こういう事になっちゃうんだって。 経済が何とか回っているのは、貸し手が借り手の懐具合の悪化に気付かない間だけなんですよ。 「アメリカ経済は、早期に回復する」と言っている人達に訊きたいんですが、落ちぶれて、借金して食い繋いでいるような人間が、ホイホイと豪遊してた頃に戻れると思うかい? アメリカが再び豪勢な生活に戻るためには、更に借金するしかありませんが、誰がそんな危なっかしい奴に金を貸すのだね?


  エコノミストに限らず、あらゆるジャンルの人達に共通した傾向ですが、オバマ政権に期待し過ぎだと思うんですよ。 明らかに、幻想を抱いていると思いますよ。 私の観察では、オバマという人物は、単なる、≪はったり屋≫に過ぎず、経済も、外交も、実力ゼロだと思いますぜ。 経済危機対策に関しては、常識的にやれる事をやっているだけで、たとえ共和党政権であったとしても、ほとんど同じような事をやっていたと思います。 だって、恐慌状態に入ったら、財政出動するしか手が無いでしょうが。 「オバマ氏だからこそ、できた」なんて対策は、一つも見当たりません。

  外交は、もっとひどくて、たった半年で、あれよあれよという間に、ブッシュ政権末期より悪化させてしまいました。 隔世の感あり。 これには、呆れ返らざるを得ません。 経済危機対策に忙殺されていて、外交に割く余力が無かったのでしょうが、実力があれば、現状維持くらいはできたはずで、あからさまに無能ぶりを曝け出しています。 「無能なのは、国務長官なのではないか?」とも考えられますが、たとえ、ヒラリー氏が無能だったとしても、彼女はあくまで、大統領の部下ですから、大統領の指示が的確なら、こうまでひどくはならないでしょう。

  とりわけ、対朝政策はひどく、政策などという言葉を使うのも憚られ、ただ、威勢のいい事を言って、ブッシュ政権末期の融和ムードをぶち壊しただけです。 なにせ、「チェインジ!」で、大統領に当選した人ですから、前政権の遺産など、すべて葬りたかったんでしょうが、難敵の朝鮮外交部を相手に、ヒル氏やライス氏が、こつこつ積み上げてきた石の塔を、大統領に就任するなり蹴り崩したのですから、何とも考え足らずな事をしたものです。 振り出しに戻るどころの話ではなく、ブッシュ政権に於ける米朝関係最悪期よりも、更に悪化してしまいました。

  ことによると、オバマという人物、イランや朝鮮がどんな国なのか、知識も興味もまるで無い点で、ブッシュ氏と同レベルか、それ以上なんじゃないでしょうか。 大方、頭の中にあるのは、アメリカの栄光だけであって、外国なんて、どーでもいいんでしょう。 そういえば、小浜市の面々、大統領に就任したら、すぐにでも訪問してくれると期待していたのが、物の見事にスカされて、すっかり脱力している事でしょう。 だーからよー、興味ねーのよ、朝鮮にも日本にも、アメリカ以外の全ての国によー。 ましてや、日本語のダジャレなんぞ、どうでもいいのであって、ただ、選挙運動中に、外国の自治体から支持された事で、有権者へのイメージがよくなると思って、ノって見せただけなんだって。

  笑っちゃうのが、「核無き世界を目指す」だよねえ。 案の定、核兵器批判で自国の戦争責任をごまかしたい日本人が、尻馬に乗って絶賛してますが、馬鹿だねー、あんな、はったりを真に受けて、興奮してんじゃないよ。 ちょっと想像力を働かせてみれば、分かりそうなものです。 はったり屋というのは、考えられる限り、一番大きな嘘をつくものなのですよ。 絶対に実行できそうにない事を、「やります!」と言っておけば、言葉に惑わされ易い馬鹿な連中が、「この人になら、未来を託せる!」と心酔して、熱狂的に支持してくれます。 そこが狙いなわけです。

  ところがぎっちょん、最初からできないと分かっている事を、口先で、「やる」と言っているだけですから、逆立ちしたって、ヨガを組んだって、結局できっこありません。 また、熱狂的に支持した連中も、心の隅で、「やると言っても、大変な事だから、できなくても不思議は無いな」と思っているものだから、最終的に実現できなくても、責めたりしません。 むしろ、「希望を持たせてくれた」などといって、更に誉めます。 もう、はったり屋の思う壺! 「できそうな事を口にすると、できなかった時に批判されるが、できそうに無い夢のような目標を掲げれば、できなくても批判されない」という事を、よーく承知しているのですよ、オバマという人は。

  実際、保険もかけていて、「私の任期中には、実現しないかもしれない」と言い添えるのも忘れていません。 これまた、言葉のマジックでして、聞かされた方としては、「たとえ、オバマ氏の任期中に実現しなくても、方向性が示されるだけでも画期的」などと、大甘、甘々の評価をしている人が、さぞや多い事でしょう。 しかし、アメリカ政府の方針が、大統領の交代で、180度引っ繰り返る事が珍しくない事を知っていれば、≪方向性≫などというあやふやな物に何の期待も掛けられない事は、容易に分かりそうなものです。

  そもそも、核軍縮は、オバマ氏が言い出した事ではなく、冷戦時代から絶え間なく提案され続けている事ではありませんか。 アメリカでも、「無くす」とまでは言いませんが、「減らす」なら、歴代政権が、ずっと取り組んで来た事です。 過去の大統領達が、なぜ、「無くす」と言わなかったかといえば、無くせない事が分かっていたからです。 あまりにも見え見え過ぎて、嘘がつけなかったのでしょう。

  「核無き世界」に熱狂している人達に訊きたいのですが、核兵器を無くしたら、どういう状況になるのか、分かってるんでしょうねえ? 核による報復の危険性が無くなりますから、通常兵器による戦争が起こし易くなります。 冷戦時代や現在よりも、戦争で死ぬ人間は確実に増えます。 第二次大戦終了後、核兵器は一発も使われていない事を、忘れてるんじゃないの? 今現在ドカドカ使われていて、「被害が大き過ぎるから、核兵器を無くそう」というのなら、なるほど、有意義な提案ですが、使われていない物を無くして、却って戦争を増やしていては、馬鹿丸出しです。

  いいや、この点に関しては、一切、引く気が無いので、はっきり言質をいただきたい。 「核兵器を無くしても、通常兵器による戦争が増える事は、絶対に無い」と保証していただきたい。 あなたの命を賭けられても、そんなものではとても追いつかない。 一家一族全員の命を賭けて、断言していただきたい。 国全体で支持するというのなら、国民全員の命を賭けていただきたい。 増えないんだな、絶対に! ええ、どうなんだ? 「断言はできないが、核廃絶は正しい方向性であって・・・」なんて、脳足りんな言い訳じゃ、納得せんぞ。 実際に、核兵器を無くして、通常兵器による戦争が増えたら、あんたらにゃ、責任とって、腹切るか、喉突くかしてもらうからな。

  核兵器を全廃した場合、通常兵器による世界最大の軍事力を持っているのはアメリカですから、アメリカ第一のオバマ氏にしてみれば、もし予想外に核廃絶が実現してしまったとしても、損は無いわけです。 いいじゃん、好き勝手に戦争仕掛けられるじゃん。 まあ、あと20年くらいは、どこにも負けないでしょう。 その先は、中国やインドに圧倒されると思いますが、そうなったら、アメリカが真っ先に核兵器の再配備を始めると思います。 もっとも、その頃には、オバマ氏はどう転んでも大統領の座にはいないわけで、責任を問われる事は無いわけだ。 うまく、考えてあるのう。


  こんなに分かり易い、はったり屋の正体も見抜けずに、国際情勢をあれこれ分析しようなど、センスの欠落も甚だしい。 現代においては、一般平均より遥かに秀でた、≪スーパー・リーダー≫などというものは、存在しないのだという事を肝に銘じるべですな。 学門が専門化して、専門馬鹿な学者しかいなくなったのと同じ理由で、社会も複雑化しすぎて、一人の政治家が何にでも対応できる時代ではなくなってしまったのです。

2009/08/02

ネット交友の衰退

  ネット活動というのは、なぜ、やっている内に、つまらなくなるのでしょうか? 現実世界での趣味などと違い、カテゴリーは、ほぼ無限ですし、自動的に仲間も、ほぼ無限に見つけられるわけで、飽きる事などありえないはずなのに、実際には、すぐに行き詰ってしまいます。 なぜ、行き詰るのか、そのメカニズムが解明できれば、もっと有効な利用方法が見つかるかもしれません。

  個人サイトやブログを持ち、よそへの訪問も日常的に行なっているという風に、普通にネット活動をしている人達には、あまり意識されていませんが、私の勤め先の同僚の話などを聞くと、実は、誰も彼もがネット活動をしているわけではないようなのです。 「パソコンは持っているが、ネットはやらない」という人はさすがに減りましたが、「閲覧はするが、サイトやブログは持っていないし、よそへの書きこみも一切しない」という人が、少なからぬ割合で存在するようのです。

  「なぜ、書かないのか?」と訊くと、「文章を書くのが面倒臭いから」との答え。 それには、二つの意味があり、一つは、読書歴がほとんど無く、文章修行をした事も無いために、文が書けない、もしくは、書くのに苦痛を感じるというもの。 もう一つは、キーボードでの打ち込みが出来ないというもの。 この二つは段階的な関係にあり、文が書けないから、キーボードに向かっても何を書いていいか分からず、キーを打とうとしないので、いつまでたってもキーの位置を覚えられないのです。

  こういう人達に、「とにかく、雑誌や本の文章を写すだけでもいいから打ってみろ。 その内、慣れるから」などとアドバイスしても、全く無駄であるばかりか、ちょっとした拷問になってしまいます。 出来合いの文章を写すなど、自分で文が書ける人間ですら、大変な苦痛なのであって、まして、キーの位置も覚えていない者が、そんな単調退屈、疲れるだけの作業に耐えられるわけがありません。 ものの3分で飽きてしまうでしょう。 パソコンは遊ぶ為に買ったのですから、苦しんでまでやる必要はないというわけだ。

  アドバイスするなら、「まず、本を読め」から始めなければなりませんが、これも、ハードルを超えるのは大変です。 というか、大人になってから始めるのでは、ほぼ不可能でしょう。 私が本らしい本を読み始めたのは、小学6年生の時ですが、それですら読書人としては明らかに遅過ぎでした。 一年生くらいから、簡単なものを少しずつ読むようにして、習慣をつけておけばよかったと、悔やまれてなりません。

  成績の悪い人間ほど、頭の良し悪しを、天性の能力の差と思い込みがちですが、よく思い出してみれば分かる事で、小学校で良い成績を取っていた連中の共通点は、読書を習慣にしていた事なのです。 親や教師が教えられる事など、高が知れているのであって、本から得る知識量は桁違いなんですな。 読書量はダイレクトに知性の差になり、知性の差は成績の差になって、はっきり表れます。 小学校低学年・中学年の子供を持つ方々に一言申し上げますが、子供に成績の事で惨めな思いをさせたくなかったら、早めに本を読む習慣をつけさせる事ですな。 「読め」と言っても読みませんから、一緒に図書館に通って、親子で本を読むようにすれば宜しい。

  実際、図書館に行くと、そういう親子連れがうじゃうじゃいます。 私も、小学生の頃、母親に連れて行かれた経験があります。 父は新聞以外何も読まない人ですが、母の方は、目を悪くする前は、小説読みだったのです。 親が読書人なら、子供も自動的に読書人になるとは限りませんが、親が二人とも一切本を読まない場合、子供が読書人になる可能性は、非常に低くなります。 ちなみに、私の兄は、本を全く読みません。 中学の頃には、「読書感想文が書けない」といって、私に代筆させたほどです。 一応、大学まで行きましたが、学問好きには程遠く、単に学歴を得るためだけの進学でした。 まったく、うちの親も、兄に注ぎ込む金があったら、私を私立大学に送り込んでおけば、もそっと有用な使い道になったものを、馬鹿な選択をしたものです。

  だけどねえ、うちの兄に限らず、そういうタイプの人間はたくさんいるはずなんですよ。 本を読む習慣が無いのですから、知識の量は知れていますし、いつまでたっても、文章慣れしないから、自分でも文が書けません。 歳を取れば取るほど、頭は固くなりますから、大人になってから努力してどうにかなるというものではないのです。 中高年のピアノと同じですな。 真似事は出来ても、ものにはならないのです。 まとまった量の、論旨が整った文章を書けるという事は、一種の特技と言っていいと思います。 たぶん、ピアノで百曲弾けるのより、人生の役に立ちます。

  でねー、ネット上で、サイトやブログを運営し、書き込みも出来るというのは、誰にでも出来る事ではなく、そういう特技を持った人達の専売だと言うのですよ。 思いついた事や感じた事を、何の抵抗も無く、スイスイ文章に変換できるからこそ、お気楽に書き込みが出来るのであって、「いかん、何も思いつかん。 一体何を書けばいいんだ・・・」なんて、脂汗垂らして、頭を抱えながら取り組むような一大事業じゃないですわなあ。

  彼らと同じ気分を味わいたかったら、外国語で、外国のブログにコメントを打ってみれば宜しい。 最初の一回二回は面白いですが、その内、あまりの負担の大きさに、ギュウとこら押し潰されて、青菜に塩になるから。 いや~、外国語で書き込んだはいいが、返って来たレスが隠語だらけで、意味が全く分からないのには、参ったね。 ネットじゃ、日本人らしく笑ってごまかすわけにも行かないし、もう、退散する以外、選べる道が無かったものね。

  話を戻します。 「ケータイは生活の必需品」という人は多いですが、「パソコンは生活の必需品」という人は、それほどでもありません。 一度、ケータイを持った人は、99%以上が手放せなくなると思いますが、パソコンの場合は、事情がガラリと異なります。 使いこなせずに埃を被っているのはまだいい方で、目障りになって押入れ行き、客用布団より邪魔になって納戸行き、「壊れたら壊れたでいいや」と物置行き、「電源が入る内に売ってしまえ」と中古店行き、「古くなり過ぎて、値段がつかなくなった」とゴミ捨て場行き、といった按配で、ほとんど使わないまま、お払い箱にする人が、少なからずいるのです。

  インターネットが普及する前にも、パソコンは売られていて、ワープロ、表計算、CG作成、パソコン通信などに使われていたわけですが、その頃には、売れたパソコンの内、使われている物よりも、埃を被っている物の方が、確実に多かったくらいです。 当時、パソコンを買っていたのは、仕事の延長として使う人か、パソコン・オタクか、はたまた、金が余って使い道が無い連中に限られていました。 信じられない話ですが、今から見ると、オモチャ程度の能力しか無いパソコンに、30万円、50万円という、目を疑う値段がついていたものです。 そして、用途も無いのに、時代の雰囲気を感じたい一心で購入した連中が、たちまち飽きて、みんな粗大ゴミにしてしまったんですな。

  インターネット時代になって決定的に変わったのは、≪閲覧≫という利用方法が生まれた事です。 サイトやブログという形で、利用者がネット上に一種の家を構えるようになった為、訪問しあう事が出来るようになったわけです。 相手と話をしなくても、見ているだけで情報が得られるので、負担がぐっと軽くなり、前インターネット時代と比べて、パソコンの活用率はドーンと高くなりました。

  ちなみに、≪公共掲示板≫というのが、今でも盛んに使われていますが、あれは、ネットの利用形態としては、パソコン通信のそれに最も近い原初的なもので、お世辞にも洗練された利用方法とは言えません。 気の毒なのは、ネットを始めてイの一番に、公共掲示板へ行ってしまう人達です。 言葉の暴力が飛び交っている状況を、ネットの標準だと思い込んでしまう為、後々、個人サイトの掲示板やブログという世界がある事を知っても、公共掲示板での癖が抜けず、コミュニケーションに重大な支障を来たすようになります。 口論・冷やかし・罵倒・宣伝をルールだと思い込んでいるのですから、誰がそんな輩を歓迎したりするものですか。

  ネットを、「金を稼ぐ場所」だと見做している連中も救いようがない。 それでなくても、現実よりも胡散臭い世界で、みんな警戒しながらやっているというのに、詐欺の匂いがプンプンする宣伝なんかに引っ掛かると思うのかね? いいから、下らん思いつきは捨てて、現実世界で真面目に働けよ。 楽して儲かる方法があれば、みんな飛びつくから、あっという間にパイがなくなるんだよ。 そのくらいの仕組みは、社会に出て来る前に見抜けてなきゃ、長い人生、乗り越えて行けんぜ。

  まあ、そういう不逞の輩は対象外にするとして、善良なネット市民として、健全に活動している人達に話を絞りましょう。 冒頭に述べたように、健全な人達の中にも、文章を書く習慣が身についていない為に、閲覧以上の利用が出来ないケースが多くあるのです。 そして、ここが肝腎ですが、現実世界に於いては、そういう人達の方が、むしろ社会の主流だというんですな。 読書人なんて、マイナーなんですよ。 ネット上で会話に参加している人達は、ほぼ全員、読書人ですから、自分達が少数派である事に気付きません。

  でねー、では、その読書人達が、コミュニケーション能力に秀でているのかというと、それが、あなた、全っ然、違うんですな。 秀でているどころの話ではなく、まるっきり逆でして、現実世界では人と話なんか、ほっとんどしないっつー人達ばかりなんですよ。 社交が苦手で、本の世界に逃避している連中ですから、無理も無いといえば、無理も無い。 他人との接触といえば、挨拶くらいが関の山で、ちょっとした世間話でも、「早く終わらないかなあ・・・・」と泣きそうな顔をしている始末。 ほとんど、病気。 現実世界で、平均的な市民として、コミュニケーションの主役を担っているのは、読書人ではない人達なんですな。

  さて、ここで、一つのジレンマに突き当たります。 ネット上に於いては、文が書ける人間はコミュニケーションが下手で、コミュニケーションがうまい人達は文が書けないのです。 なぜ、ネット交友が長続きしないか、その理由が何となく掴めそうですな。 書ける人達の中でも、まともな方々と、異常な糞野郎どもとに分けられるわけですが、まともな方々であっても、決して、コミュニケーションが得意なわけではないのです。

  ネットでは同じ趣味の人同士が集まるので、最初の内は、「あ、この世界なら友達ができるかもしれない」と興奮して、いささか躁病的にネット活動に熱中しますが、ちょっと衝突などがあって、嫌な思いをさせられると、元が他人嫌いですから、一気に夢から覚めてしまいます。 繊細な心の持ち主ほど、全面撤退が早い。 結果、性格が良い人は減り、悪い人だけが残る事になりますが、性格が悪い同士で話をすれば、険々するなという方が無理な相談で、長続きする道理がありません。

  ネットという世界では、コミュニケーションは、原理的に衰退する運命にあるんですな。 個人サイトの掲示板が衰えて、ブログのコメントに、コミュニケーションの中心地が移って行った理由は、短い文を書くだけでも会話が成立するようにして、掲示板では書き込みが出来なかった階層を一部取り込んだからだと思われますが、見ての通り、ちょっとレベルを落としただけで、読むに耐えないような稚拙なコメント文ばかりになってしまいました。 挨拶言葉だけとか、自分のブログを宣伝する為だけのコメント文が溢れていますが、ああいうのは、何も書いていないのと同じでしょう。

  とまあ、今回の探求はここまでにします。 コミュニケーションの衰退がネットの原理的宿命だとしても、何かしら突破口があるのではないかと、ただ今、模索中です。