2011/05/29

読破・森見登美彦作品①

岩手に行く前ですから、もう去年の夏頃の事になりますが、フジテレビの深夜アニメで、≪四畳半神話大系≫というのをやってました。 これが、かなり変わった作品で、いろいろと賞も獲ったらしいのですが、私の好みにも合致し、今でも、録画したものを時折見返しています。

  原作者は、森見登美彦さんで、当代の人気作家だとの事。 で、沼津の図書館にも一通り、著作が揃っていたものですから、借りて来て読んでみました。 今風の小説で、大変読み易く、一気に読破したという感じです。 人気作家だけあって、常にどれかが借りられており、発刊順に読むというわけには行きませんでした。 私が読んだ順の紹介になる点は、あしからず。




≪四畳半神話大系≫
  京都、下鴨神社に程近い、≪幽水荘≫の四畳半に下宿し、京都大学農学部に通う当年三回生の青年が主人公。 サークル選びに失敗した上に、不気味な友人に付き纏われて、二年間を棒に振っては、後悔する話。

  SFアイデアの、パラレル・ワールドの仕掛けが施してあって、二年前の入学直後に戻って、サークル選びからやり直すパターンが、章ごとに4回繰り返されます。 ちなみに、アニメの方では、10回くらい繰り返されます。 といって、べたべたのSF小説というわけではなく、それぞれの章に於ける主人公の物語は独立しており、一章ごとに読めば、純粋な青春小説としか言いようがありません。

  最終章で、それらの物語がパラレル・ワールドである事が明かされ、全ての章に共通して出て来る、≪蛾の大群≫の謎が解けて、話全体が一つになります。 実に鮮やかな纏め方で、作者の力量が高さに感服します。 青春小説で、こういう複雑な構成を取っている作品は、滅多に無いのではありますまいか。

  400ページもありますが、実際のボリュームは、160ページ分くらいしかありません。 なぜかというと、各章の物語が、多くのエピソードを共有しているからで、大体8割くらいは同じ事が書いてあるので、第一章だけ100ページ通して読んでしまえば、残りの三章で新たに読まなければならない部分は、それぞれ20ページ分に過ぎず、全部足すと160ページ分にしかならないという計算。 その上、文章のノリがいいので、読書人なら、あっという間に読み終わります。

  京都ローカルのネタが満載されていて、その雰囲気を味わうだけでも、楽しい気分になります。 シャーロック・ホームズのロンドンみたいに、小説の舞台になっている土地への憧れが湧いて来るのです。 作者は奈良県出身だそうですが、大学時代以来、京都在住だそうで、もう心底、京都に惚れ込んでいるという感じ。 これだけ、京都色の濃厚な小説を書く人も他にいないでしょう。 そういえば、アニメの方は、京都府や下鴨神社が制作協力していました。

  写真の本は図書館から借りて来たので、旧版なのですが、アニメ化に伴い、カバー・イラストが、中村佑介さんの絵に変更されました。 中村佑介さんは、アニメの方のキャラクター原案者です。 今、本屋へ行くと、旧版と新版が入り混じっています。




≪【新釈】走れメロス 他四篇≫
  森見登美彦さんの短編小説集。 なんですが、完全オリジナルではなく、日本の過去の名作短編を元にして、森見さん風に書き換えたもの。 元になっている短編は、

≪山月記≫ 中島敦
≪藪の中≫ 芥川龍之介
≪走れメロス≫ 太宰治
≪桜の森の満開の下≫ 坂口安吾
≪百物語≫ 森鴎外

  の、五編です。 私は、≪桜の森の満開の下≫と≪百物語≫を読んだ事が無かったので、家にある日本文学全集から、坂口安吾と森鴎外を引っ張り出して、読んでみました。 元の作品が分からないと、どういう風に書き換えたかも分かりませんからのう。 ちなみに、書き換えた作品も、題名は全く同じなので、紛らわしいです。 題名の前に、【新釈】を入れて、区別する事にします。

  すべての【新釈】版に共通する特徴として、舞台は現代の京都に、登場人物は、京都大学の学生と、その卒業生に置き換えられています。 ≪四畳半神話大系≫に出て来たのと、ほぼ同じ人物も多数登場します。 ただし、名前は変わっていますし、役所も違うので、作品ごとに、新しいキャラとして、リセットして読む必要があります。


【新釈・山月記】
  自分を天才小説家と見做し、常に、「大作を執筆中」と言って、周囲の者達を凡人扱いししつつ、それなりの尊敬も受けていた男が、大学に何年も留年した挙句、自分の才能に疑問を抱いて、何も書けなくなってしまい、山に入って天狗となる話。 パロディーではなく、原作のテーマはそのまま、現代風に書き換えたものですな。


【新釈・藪の中】
  映画サークルに属する天才肌の男が、自分の彼女と、その元彼を起用して、別れた恋人同士がよりを戻す映画を撮る話。 ≪藪の中≫の書き換えなので、多くの人間が、いろいろな証言をして、映画を作った三人がそれぞれどういうつもりだったかを語って行くのですが、別に誰が死ぬというわけでもないせいか、≪藪の中≫ほど緊張感も無ければ、事件の焦点もはっきりしません。 読んでいて、ちょっと恥ずかしくなるような話です。


【新釈・走れメロス】
  表題作になっているだけあって、これが最も面白いです。 この一遍だけは、原典の完璧なパロディーになっています。 ≪詭弁論部≫に属する男が、各サークルに隠然たる支配権を持つ組織、≪図書館警察≫に反発した結果、ピンクのブリーフを穿いて公衆の面前で踊らなければならなくなります。 「姉の結婚式に出席したい」と言って、身代わりに友人を差し出し、一日の猶予を貰うものの、もとより姉などいないのであって、戻るつもりはさらさら無く、何とか連れ戻そうとする図書館警察一味と、京都の街を追いかけっこして回る話。

  逃げる男の屈折した心理もさる事ながら、追いかける側の張り巡らす罠が巧妙にして馬鹿馬鹿しく、借り物競争の女とか、昔惚れていた女とか、あっと驚く仕掛けが施されていて、大いに笑えます。


【新釈・桜の森の満開の下】
  これは、知らない人の方が多いと思うので、原典の方から説明しましょう。 平安時代、桜の森に恐怖を感じていた山賊の男が、ある美しい女をさらって以降、その女の言いなりになってしまいます。 都に引っ越して、強盗殺人を繰り返しては、女の遊び道具として人間の生首を持ち帰るものの、やがて、そんな生活に嫌気が差し、桜の森を見たくなって、故郷の山に帰って行くという話です。

  【新釈】の方は、これを現代の京都に住む小説家志望の大学生に置き換えています。 ある女と出会って、その女のアドバイスに従う事で、小説が売れ出し、東京へ引っ越して、成功を手にするものの、自分のために書いているのか、女のために書いているのか分からなくなり、結局、京都へ帰って行くという話。 原典の殺伐とした所が無くなっているため、むしろ、テーマがはっきりしたように感じられます。


【新釈・百物語】
  これは、原典とほとんど変わりません。 ただ、時代と場所を置き換えただけ。 原典にしてからが、題名から期待されるような怪談話ではなく、単に、百物語の催しに出かけて行った主人公が、興が乗らず、飯だけ食って帰って来るという話なんですが、【新釈】の方も、全く同じです。


  全部で216ページですが、文章のノリがいいため、一日あれば読めます。 どうも、最近の小説は、読み易くなければ買って貰えないようですな。 私だったら、一日で読めてしまうものに、1400円は払いませんが。 だけど、図書館で借りて読む分には、面白い本だと思います。




≪きつねのはなし≫
  森見登美彦さんの短編小説集。 四話収録されています。 例によって、現代の京都が舞台で、大学生が主人公ですが、パロディーでもコメディーでもなく、古風な雰囲気に満ちた奇譚です。 奇譚と言われてもピンと来ないと思いますが、怪談というには、怖さを追求しているわけではないので、結局、奇譚としか表現しようがありません。 芥川龍之介の短編に、どことなく似ています。 四話それぞれ独立した話ですが、胴の長い獣や、骨董屋に関る登場人物など、モチーフの一部を共有しています。


【きつねのはなし】
  表題作。 若い女主人が経営する骨董屋でバイトをしている青年が、大きな屋敷に住む得体の知れぬ客に、小さな借りを作ってしまった事から、いわくのある狐の面を始め、自分の大切な物を、次第に奪われて行く話。

  雰囲気主導の話でして、ストーリーの構成は、お世辞にも緻密とは言えません。 伏線を張ってあるように見えて、結局活かさずじまいになる、≪伏線もどき≫も多く見られ、作者が行き当たりばったりで、話を継ぎ足して行ったのが分かります。 ただ、それが、謎めいた雰囲気を増幅している面もあり、必ずしも、欠点というわけではないです。


【果実の中の龍】
  風変わりな経験談を魅力的に語るのが巧い先輩と、彼に傾倒した青年の交友記。 途中で先輩の秘密が明かされて、「あっ! そういう話なのか!」と、青年よりも、読者の方がショックを受けます。 どういう秘密か書いてしまうと面白さが半減するので、書きたいけれど、やめておきます。 気になったら、作品を読むべし。

  これは、構成主導です。 森見さんの作品には、行き当たりばったりで書いたような話が多いですが、決して、物語の構成能力が低いわけではなく、その気になれば、いくらでも読者を驚かす話を作れるようです。 能ある鷹は爪を隠しているんですな。


【魔】
  夜な夜な、通りで人を襲う正体不明の獣を、幼い頃からその獣と因縁のある高校生三人が退治しようする話。 ・・・なんですが、主人公は、その三人ではなく、その中の一人の、弟の、家庭教師に来ている大学生という、何とも凝った設定。 森見作品特有の、間接的に事の経緯を語らせる手法を取るために、このような設定になっている模様。 推理小説でよく使われる、≪叙述トリック≫も用いられています。

  「いずれ飼えなくなる生き物だから、小さい内に殺してしまおう」という三人の発想は、道徳的に感心しませんが、この三人は主人公ではないため、善悪バランスが辛うじて保たれています。 もし、ラストの後に、謎解きのような場面を入れてしまったら、そのバランスは、あえなく崩れてしまったでしょう。 どちらが善とも、どちらが悪とも決めずに終わらせてあるところは、よく言えば、巧み、悪く言えば、綱渡り的に危ういです。

  文弱イメージが強い森見作品の中では珍しく、剣道のアクションが見せ場になっており、迫力あるクライマックスを作る事に成功しています。 中程に、高校生同士の剣道の試合場面が入っていますが、ラストでの戦いが唐突にならないよう、前座のような役割を担わせているんですな。 見事な構成力だと思います。


【水神】
  祖父の通夜に参列するため、古い屋敷にやって来た青年が、父や伯父達の昔語りを聞きながら、一族の開祖から曽祖父まで伝わっていた、屋敷の秘密に近づいていく話。 琵琶湖疎水の開鑿工事と水神を絡めてあるのですが、近代と鬼神伝承の組み合わせには、荒俣宏さんの≪帝都物語≫のような、独特の不気味さがあります。

  真夜中になって、骨董屋が祖父からの預かり物を届けに来る辺りまでは、ぞくぞくするほど怖いのですが、ラストの水の暴れ方が、少々大人し過ぎで、どうせやるなら、屋敷を谷合いにある設定にしておいて、全部水の底にしてしまった方が面白くなったような気がせんでもなし。




≪美女と竹林≫
  これは、小説というより、連続物のエッセイなんですが、一部にフィクションも含まれており、全体としては、創作作品に近くなっています。 作者当人は、≪妄想エッセイ≫と書いていますが、さすが、的確に言い当ててますな。

  雑誌にエッセイを連載する話が決まったものの、何を書いていいか分からない作者が、「とにかく、自分の好きな物を挙げてみよう」と思って書いたのが、≪美女≫と≪竹林≫の二つだった。 というきっかけから始まり、取材のために、職場の先輩の家が所有している竹林の整備をさせて貰う事にしたものの、作家と勤め人の二足の草鞋を履く作者の事とて、なかなか竹林に足を運ぶ時間が取れず、悪戦苦闘する話。

  竹切りの助っ人を頼んだ友人が、よりによって、司法試験の勉強中の身というところが、すでに笑えます。 いくら忙しいからといって、自分よりも忙しい人に、なぜ頼む? 案の定、その友人は途中から来れなくなってしまうのですが、その代わりに、雑誌の編集者をわざわざ東京から呼びつけて、竹を切らせる無体な作戦が、また凄い。 編集者というのは、原稿を書かせるためなら、竹まで切るんですねえ。

  時折行なう竹林の整備だけではネタが足りないので、作者のこれまでの人生に於ける竹との関わりや、竹林整備事業の将来に対する大風呂敷な夢想などが織り交ぜられて、肉付けされています。 ただし、あくまで、≪妄想エッセイ≫なので、どれが本当で、どれが嘘なのか、読者サイドからは、全く見分けがつきません。

  こういう作品形式があっても別に問題は無いと思う反面、エッセイに創作を混ぜ過ぎると、作者の人間としての信用が損なわれるのではないかと、心配にならぬでもなし。 恐らく、森見さんが将来、自伝のようなものを書いたとしても、誰も真実が書いてあるとは思ってくれないのではありますまいか。 狼少年現象ですな。

  一方、美女の方ですが、これは看板倒れというか、羊頭狗肉でして、先に題名を決めてから書いたものの、何せ、基本的にはエッセイなので、そうそう都合よく、竹林に関わる形で美女が現れてくれるはずもなく、うっちゃらかしになります。 強いて言うなら、連載中に作者が対談した本上まなみさんが、美女といえば確かに美女ですが、対談内容が書かれているわけではないので、あまり期待しないように。

  本上さんは作者が学生時代から憧れていた人だそうで、「いつか、直接会えるだろうか・・・」と淡く仄かに願っていたのに、作者があまりにも急激に有名になってしまったために、早々と対談が実現してしまい、心の準備が整わずに恐れ戦く様子が面白いです。

  そういえば、もう一人、美女が登場します。 竹林の所有者の奥様で、時によって硬さの違うケーキを焼いて、竹林整備隊に差し入れをします。 この方が、雑誌に掲載されたイラストに対して、苦情を述べるのですが、その件りが、この作品の中で一番笑えます。 しっかし、描き直しても下手な絵ですな。

  行き当たりばったりの展開で、一つの作品としての纏まりには欠けますが、文章のノリがいいので、退屈せずに、すいすい読み進められます。 ただし、「森見作品を、面白い順に薦めろ」と言われたら、この本はかなり後になると思います。 他が面白すぎるからです。


  今回は、以上、四冊まで。 ≪四畳半神話大系≫を除けば、比較的地味な短編集ばかり、三冊続いてしまいましたが、なぜかというと、つまり、人気作品は、借り手が多くて、なかなか空かないからです。

2011/05/22

汚染列島

  全然、駄目ですなあ、福島第一。 メルトダウンが明らかになっても、工程表を見直す必要は無いとの事。 そりゃそうだわな。 元々、丼勘定で作った工程表なんだから、事情に応じて、調整するほどの繊細さなどあるわけがありません。 それ以前に、原子炉の状態がどうなっているかによって、処置方法がまるで変わってくると思うのですが、原子炉建屋の中に入れなかった段階で、工程表なんか、よく発表できたなあと、そちらの方に驚きます。

  建屋の中といえば、ロボットですが、今使っているのはアメリカ製、次は、スエーデン製ですと。 くっくっく・・・、笑うなと言われても、笑っちゃうよねえ。 誰だよ、「日本は、ロボット大国」なんて言ってた奴は。 今でも、言えるか? ちったあ、恥ずかしいと思うなら、二度と口にするなよ、「ロボット大国」という言葉。

  それにしても、アメリカ製のロボットなんて、えらい単純な構造で、汎用部品を寄せ集めて、ロボ・コンの高専学生に組ませたって、二週間くらいで作れそうに見えますが、そんなものですら、日本では実用化されていなかったとはねえ。 いや、10年前に、電機会社が作るには作ったんだけど、電力会社に買ってくれって、持って行ったら、「原発で事故は起こらないから、そんな物は要らない」と、足蹴にされたのだとか。 ちっ・・・、救いようがねーな。

  戦時中、東北大学の八木教授が、≪八木アンテナ≫という、世界でも最先端の技術を発見して、電波兵器の開発に協力できるかもしれないと、陸軍に話を持って行ったら、「帝国陸軍は、そんな兵器に頼らなくても、敵に勝てる」と言われて、追い返されたという話を聞いた事がありますが、その時から、全く進歩してないねえ。 日本人らしいっつやー、実に日本人らしいが。

  そういえば、原発敷地内の瓦礫を撤去するのに、ドーザーをつけた74式戦車を、東富士から持って行ったのは、その後どうなったんですかねえ? 遠隔操作の重機も使っているそうですが、そういう重機があるなら、人間が乗らなければ動かない戦車は、要らなかったでしょうに。 戦車は、安くないよ。 74式でも、3億円くらいしたんじゃないの? 一度、ああいう用途に使ってしまったら、元の配属場所には戻せないと思うのですが、それも、国民の税金で払うのか? やれやれ。 天井知らずに、経費が膨らんで行くのう。

  も一つそういえば、バブル時代に、科学技術庁と重工企業が技術実験のお遊びで作ったものの、使い道が無くて、分割して、清水港に運ばれ、釣堀にされていた、≪メガ・フロート≫が、福島第一に到着したとか。 放射性汚染水を入れるタンクとして使うそうですが、これにも、74式戦車と同じ危なっかしさを感じますな。

  素人の思いつきで、「おお、あれが使えるじゃないか!」と、掌を打ったのでしょうが、もともと、水を入れるために設計した構造物ではないのですから、問題なくタンクに使えるとは、到底思えません。 水漏れしたら、どうやって直すの? 潜水具着けて、放射線数万倍の海へ潜るのかい? 誰が?

  メガ・フロートをタンクに使うためには、原発の前の海に係留しておかなければならないわけですが、大きな余震が起こって、また津波が押し寄せてきたら、どうするつもりなんですかね? そういう事は、全く懸念していないのか? メガ・フロートが津波に押されて、原発敷地に乗り上げてきたら、何もかも一巻の終わりですぜ。 どうも、関係者は、福島第一が片付くまで、次の地震が待っていてくれると思っているように見えるのですが、相手は自然なのですから、そんな心遣いは持ち合わせていますまい。

  最初の頃、原発学者が、「タンカーを持っていって、汚染水を入れろ」とか言っていましたが、あれも、余震で津波が来る可能性には、全く考えが及んでいなかったんでしょうなあ。 どいつもこいつも、考え足らずに、適当な事を、ポンポン口にする事よ。 海運会社は、断って正解でしたねえ。 一回、放射性汚染水なんか入れられちゃったら、もう使えなくなってしまいますよ。 安くないよ、タンカーは。

  メガ・フロートも、使い終わったら、どうするつもりなんだか。 清水に戻す? 引き取らないでしょう。 釣堀なんかより、健康の方が大事だものねえ。 解体する? その作業は、どこでやるんですか? 解体したゴミは、どこに持って行くんですか? ほーれほれ、全然考えてない。 行き当たりばったりもいいところ。

  そもそも、事故が起こらない事を前提に、原発を作っていたんだから、実際に事故が起きた時に、どうすればいいかなんて、言~隹も、イ~可にも考えていなかったんでしょうなあ。 ニュースを見ていると、福島第一の内部では、専門家達が叡智を結集して、できうる限り最良の対策を取っているようなイメージがありますが、その実、≪原発事故の専門家≫などという者は、日本には一人もいないのであって、みーんな、素人なわけだ。

  事故対策マニュアルすら、あったかどうか疑わしい。 だって、「原発では、事故が起こらない」と思っていたんだから、そんなもん用意しているわけないわなあ。 素人が寄り集まって、その場で考えて、あれやこれやと、やっとるのよ。 ぞーっとする話ですが。 せめて、メガ・フロートのような巨大浮遊物が目の前の海にある時、次の津波が、どういう惨事を引き起こすかくらい、想像してくれ。 おまいらも、死にたかあるまい。


  3月11日に福島第一を襲った津波の高さについて、東電が、ここへ来て、「14、5メートル」を強調しているのも、何だか醜いねえ。 つまり、「そんな大津波だったのだから、対応できなくても仕方がない。 俺達のせいではない」と言いたいんでしょうが、なーにを虫のいー事を言ってるだーか。 そもそも、そういう大津波にも対応できなければ、原発を作っちゃいけないんじゃないんですか? ええ? 「想定外」は、聞き飽きたよ。

  大体、おまえら、そんな屁理屈捏ねてまで、責任逃れする必要無いんじゃないの? 東電社員に、自腹を切って、賠償しろと言っているわけではないんだから。 おまえらの勘定であっても、結局、ツケは国民全体で払うのさ。 どんなに大赤字になろうが、国が支援してくれるし、電気料金の値上げで、利用者に負担を押し付ける事もできる。 最悪、会社が解体されても、結局、関東圏の電気事業者は必要なわけだから、どうせ、ほとんどが再雇用されるに決まっている。 となれば、何をそんなに焦る事がある?


  何が驚いたと言って、福島第一の事故が起こった後に行なわれた世論調査でも、6割の人間が、原発の推進・容認側に回った事です。 これは、凄い! 毎日のように、ニュースで、原発事故の齎す甚大な被害を見せつけられていながら、まだ、賛成なんだとさ。

  原子力に関する知識が、そんなに普及しているとは思えませんから、この人達、「安全だから、推進・容認」なのではなく、「今のところ、他人事だから、自分の住んでいる所が停電しない方が大事」とでも考えているのでしょう。 危機に対する認識力が完全に欠如しているのは、ある意味、社会学や心理学の研究対象になりうるほど、興味深い現象です。

  浜岡原発運転停止の要請が、政府から出された時の、地元自治体の反応も凄かった。 不平たらたらですよ。 「停止に反対しているわけじゃない。 やり方に問題があると言っているんだ」と、怒りも露わに、ぶつくつぶつくさ。 なんですか、「やり方」って? 要請じゃなくて、命令なら良かったのかな? いやいや、皮肉が通じる相手ではなさそうだ。 とどのつまり、自治体に入る金が減るのが、嫌で嫌で我慢がならないのでしょう。

  しっかしなあ、えー、おい、あんたら。 福島のニュースを見ていないのかね? 浜岡で同様の事故が起これば、真っ先に自分の家を追い出されるのは、あんたらなんだぜ。 永久に帰れなくなる可能性も高いのに、それでも、金の方が大事かい? まさか、「追い出された後も、国の金で暮らせるから、損は無い」なんて算盤弾いているわけでもあるまいに。 とても、帳尻が合わない事くらい、直感的に分かるよな?

  静岡県は、富士川以東が東京電力、以西が中部電力で、テレビの県内局は、中部電力管内の静岡市にあります。 で、その県内局の報道番組での、キャスター達の反応が面白かった。 浜岡原発停止と聞いて、何とも言えぬ複雑な表情を見せていたのです。 「安全性を考えると、やむをえないという気もしますが・・・・、地元の人達には生活もあるわけで・・・・」と、ごにょごにょ、ごにょごにょ。 つまり、停止に対して、不満があるらしいのです。

  「地元の人達の生活」云々は、あまりにも建前臭いので、真に受けないとして、彼らが気にしているのは、「自分達が住んでいる静岡市で、停電になったら困る」というところではないでしょうか。 いや、十中八九そうだと思います。 「計画停電になったら、ビデオの予約録画ができなくなる」とか、「節電しなければならなくなったら、コンセントを抜いたり、エアコンの設定温度を落としたり、何かと面倒臭い」とか、そんなとこでしょう。

  「家から追い出される」と、「面倒臭い」を天秤にかけて、「面倒臭い」が勝ってしまっているのだから、もう、しょーもないです。 「家から追い出されるのは、将来の可能性に過ぎないが、面倒臭いのは確実に起こるのだから、当座の面倒臭さを避ける方が優先だ」とでも、考えているんでしょうかね? 実際に、家から追い出された後に訊けば、絶対に同じ事は言わないと思いますけど。 この人達、一応、報道関係者のはしくれなんですが、情報があっても、判断力が無ければ、こんな結論しか出せないんですなあ。

  キー局のテレビも、浜岡停止について、「首相のやり方」を槍玉にあげて、ああだこうだと文句を言っていますが、それを口にしているのが、福島第一の惨状を伝えて、東電や政府の対応を、「遅い」だの、「拙い」だのと、ボロクソに貶しているのと同じキャスターだから、奇怪至極です。 一体、原発に反対なのか、賛成なのか、どっちなんだよ?

  こやつらの場合、たぶん、上から、「東電や政府を吊るし上げるのは構わないが、原発そのものに反対するのはやめろ」と言われたのでしょう。 圧力の出元は、CMスポンサーである、産業界だと思います。 「一日も早く生産を回復させたいのに、電力供給がこれ以上滞ったら、足を引っ張られてしまう」と、原発反対世論が盛り上がるのを恐れているのに違いありません。 そういう裏事情を踏まえた上で、キャスター達の態度を観察していると、滑稽で笑ってしまいます。

 「歯に衣着せず、言いたい事をズバズバ言う」のを売りにしていて、「天下のご意見番」、「世論の代弁者」を気取っている奴ほど、矛盾した主張を、屁理屈で無理やり擦り合わせようとするものだから、滑稽度が高くなります。 論を弄ぶ者は、論に溺れる。 不様で、惨めなやつらよのう。 全く正反対の意見を、並べて言っていて、自分の頭がおかしくなるような感じはせんか?


  もし、日本で原発を全廃するとしたら、今が最大の好機である事は、疑いないです。 福島第一の事故のせいで、原発の恐怖が、ビジュアルで全国民の目に届いており、原発事故の記録を文章で読むよりも、桁違いに強烈な印象を、人々の脳裏に焼き付けているからです。 スリーマイルやチェルノブイリは、日本人にとって、「所詮、他人事」だったわけですが、今度は違う。

  実際に、自分の家を追い出され、荷物を取りに行くのも思うに任せず、老人や病人は、移動の負担でバタバタ死に、家族の一員のはずだったペットは、置き去りで餓死or行方不明。 その上、避難した先では、放射線と放物線の区別もつかない馬鹿どもに、謂れの無い差別を受けるという、理不尽さ。 あの日を境に、一気に地獄に突き落とされたような人々の様子が、テレビをつければ、毎日のように、目に入って来るのです。

  と・こ・ろ・が・だ。 本来、最も反原発の世論が沸騰してしかるべき、この情況においても、実際の、反対意見は、この程度なのです。 反対どころか、堂々と推進を口にしている者まで、うようよいる始末。 ニュース、見とらんのか? それとも、頭おかしいのか? 「馬鹿は死ななきゃ治らない」は、真理だったのか?

  浜岡原発の停止にしてからが、「防潮堤が完成して、安全性が確保されるまでの、2年ほど」という期限付きです。 福島第一の例を見ても、防潮堤が出来たからといって、安全性が保証されるとはとても思えないと思うのですが、そうは思わない人間の方が、多いという事なんでしょうなあ。 防潮堤というのは、低くすれば津波に乗り越えられますし、高くすれば構造が脆くなって、津波に押し流されてしまいます。 映像を見れば、感覚的に理解できると思うのですが、あの津波の、真っ黒でどっしり重たい水を、人工構造物で受け止められると思う方がおかしいです。

  今の、この情況にありながら、「安全性」という言葉が、軽々しく使われているのも、非常に気になります。 「では、福島第一は、安全ではないのに運転していたのか?」と問われれば、そうではないでしょう? あれで、安全だと思っていたのです。 危険性を隠していたわけですらありません。 東電も国も、本当に、「事故は起こらない」と、思い、考え、判断し、信じていたのです。 ところが、事故は起こった。

  これは、危険性を隠して運転していた場合より、当事者達の力では防ぎようが無いという点で、より深刻な事態と言えます。 当人達は、危険だと思っていないのだから、防ぐ努力なんかするわけないですわな。 赤ん坊が、高い所を平気で這って歩くのと同じです。 「落ちたら死ぬ」という認識がないから、恐怖心が湧きません。 安全だと信じていれば、それ以上の安全対策は取らないものです。

  浜岡の場合、防潮堤が完成すれば、その時点で、「安全になった」と判断され、運転再開となるわけですが、そんな「安全性」に、どれほどの信頼性があるでしょうか。 つまるところ、「安全性が確保された」という言葉が欲しいだけなのであって、実際に安全になったかどうかなど、どうでもいいと思っているのでしょう。

  「そんな事を言い出したら、原発なんか作れない」とは、某御用学者の言い分と同じですが、皮肉にも、まさにその言葉通りなのでして、絶対の安全性が確保できないのであれば、原発は作るべきではないのです。 それを無視した結果が、今の福島の情況を招いたわけですな。


  だ・け・ど・ね・え・・・・、 残念ながら、日本の原発は無くならないと思うのですよ。 それでなくても、論理的思考のできない民族ですから、合理的な判断を下して、原発を全廃するなんて、できるわけがないです。 この点、ドイツ人と比較すると、面白いですな。 ちなみに、日本人とドイツ人は、「極端思考に走り易い」、「異民族を人間だと思っていない」といった点で似ていますが、それ以外には、何の共通点もありません。 むしろ、ものの考え方には、正反対なところがあります。

  日本人の行動原理は、論理性とは対極にある、至って動物的な、≪恐れ≫の感情に突き動かされている面が大きいです。 ≪むつ≫の事故以降、原子力船には手を出していませんが、その理由は、「原子力船は手に余る」と、論理的に判断を下したからではなく、あの、長年にわたる盥回しに辟易し、同じような情況を再現する事への「恐れ」が、決定的な影響を与えたのだと思うのです。

  今回の福島第一の事故ですが、どれだけの≪恐れ≫を日本人に植えつけるかが、原発に対する意識を変える鍵になると思います。 被害が、地元自治体に限られている間は、他の土地、特に他都道府県民は、「所詮、他人事」という意識を乗り越えられないでしょう。 「頑張れ、ニッポン!」などと言っている事自体、自分の事だとは思っていない証拠です。 実際に、家を追い立てられた福島の人達は、「頑張れ、ニッポン!」なんて、言ってないですよ。 自分が頑張るのに手一杯でね。


  未だに、放射性物質の漏出が止まっておらず、土壌に蓄積される放射性物質の量は、加算されていく一方ですから、最悪の場合、関東と南東北が、居住不能になる可能性もありますが、そうなれば、もう、否も応も無く、原発は全廃になるでしょう。 だけど、たぶん、そこまでは行かないと思うのです。 というか、そこまで行かなければ、方針変更ができないようでは、もうこの島に住む資格が無いでしょう。 まったく、日本列島も、えらいやつらに住み着かれたものだて。 このままでは、虫も棲めなくされてしまうよ。

  そういや、大気中の放射線量は発表されるけど、土壌の蓄積量は、発表しませんな。 IAEAが飯館村で計測した時には、地表面の放射線量の方を測っていましたが、なんで、日本では、地表を測らぬ? 一日たてば消えてなくなって、次の朝から、また溜まり直すというわけではなく、どんどん足されていくわけですから、日が経てば経つほど、放射性物質は増えて行く事になります。

  ちなみに、チェルノブイリでは、爆発した原子炉を、コンクリートで固めてしまったので、10日で放射性物質の漏出は止まりました。 こんなに長期間に渡って漏出が続いているのは、福島第一が世界初という事になります。 前人未到の怪挙ですな。 ギネス・ブックは、こういうのも扱ってるんですかねえ?

2011/05/15

クラゲ状態

 「死ぬのには、相応の理由が要るが、生き続けるのには理由が要らない」

  というのは、私が、約20秒前に思いついた格言ですが、見掛けだけでなく、中身にもそこそこ深いものがあり、真理の一端くらいは突いていると思います。 つまり、人間を始め、生物全般に、元から生きるように設計されているので、理由が無くても、放っておけば、生き続けているというわけですな。

  一方、死ぬ方は、寿命が尽きるにせよ、病死、事故死、自殺にせよ、理由もしくは、原因があります。 生物においては、生が常態で、死は異常事態なわけです。 いや、これは形容矛盾という奴で、死んでしまえば、すでに生物ではないから、生物の異常とは言えませんが・・・。

  昨今、私自身が、なぜ生きているのかという事を、ちょこちょこ考えるのですが、何度検討しても、「死ぬ理由や原因が無いから、ただ漫然と生きている」という結論に至り、暗~い気分になります。 自分で言うのもおこがましいですが、人間、こうなってしまったら、もうおしまいですな。 生きていても、ちっとも楽しくありません。

  もちろん、私とて、希望を抱いて生きていた時期はあるのであって、学生時代には愚かにも、「社会人なれば、ドラマに出て来るような刺激的で楽しい経験ができる」と思っていました。 社会人になって、「そんなのは、作り話に過ぎないか、少なくとも、自分の場合、そんな生き方とは縁が無い」と悟りましたが、若い頃はまだ、「その内、結婚でもすれば・・・」とか、「ライフワークになるような趣味を見つければ・・・」とか、希望は常に存在し、自分自身の未来に対して、暗い展望を持つ事はありませんでした。

  ターニング・ポイントになったのは、やはり、結婚を全面的に諦めてしまってからですかねえ。 人間、というか、やはり、生物全般に言える事ですが、生きる目的には二つあります。 一つは、物を食べて、自分自身の体を維持する事。 もう一つは、生殖して、子孫に自分の遺伝子を伝える事。 生物の中には、生殖が終わると死んでしまう種が多い事を考えると、この二つは並列すべきものではなく、「生殖能力を持つまで、自分の体を維持するために、物を食べる」というふうに、統合できるかもしれません。

  生殖というのは、生物にとって、極めて重大な事なんですなあ。 それを諦めてしまったわけですから、そーりゃ、生きる希望も失おうってもんだわさ。

  ちょっと前まで、≪婚活≫という言葉が流行っていましたが、ある統計によると、男性で40歳を過ぎている場合、婚活しても、成功率は、1%だとか。 話になりませんな。 50%くらいなら、まだ取り組む価値もありますが、1パーなんて、やっている方がパーとしか思えません。 たとえば、手術の成功率が1%と言われて、大金払う患者がいますかね? 家族が出すと言っても、当人が断りますぜ。

  私が子供の頃までは、恋愛結婚の補完システムとして、見合い制度があって、大人になったら、ほとんど全ての人間が結婚していました。 独身のまま歳を取ってしまった人が、近所で変人扱い、いや、それどころか、狂人扱いされるくらいでしたから、どれだけ徹底して、結婚させていたかが分かろうというもの。

  一方、今では、石を投げれば、高齢の独身者に当たる時代です。 近所に住んでいる私の従兄弟世代の中だけでも、三人も独身者がいて、年齢的に、もう結婚は無理なわけですが、何も言われる事はありません。 それどころか、結婚した連中が、みんな家と親を捨てて出て行ってしまうものだから、家に残っている独身の子供がいると、「お宅は、跡取りがいるから、いいですねえ」などと、羨ましがられる始末。

  跡取りと言っても、一生独身では、子孫ができないわけで、せいぜい30年ほど、家の寿命を延ばせるだけなのですが、それでも、まだマシらしく、子供が出て行って、年寄りだけになってしまった家では、家族の消滅が目前に迫っているわけで、「何かあった時に、一緒に住んでいる子供がいるだけでも、安心できる」と思うものらしいです。

  ちなみに、うちの近所を観察していると、老夫婦二人で暮らしていた世帯で、その内の一人が死に、残った方が、子供に引き取られずに、独り暮らしで家を守っている場合、親の面倒を見にちょくちょく実家に顔を出すのは、ほとんどが、娘です。 息子は、全く帰って来ません。 せいぜい、お盆に墓参りに来る程度。 冷たいですなあ、息子どもは。

  大方、「自分は親から独立して、一家を成しているのだから、実家に頻繁に顔を出すのは、親に頼り続けているみたいで、何だか、嫌だ。 それに、世間体も悪いだろう」とか何とか、それらしい葛藤に悩んだ結果、そんな態度を取ってるんでしょうが、馬鹿だねえ。 親の顔を見に来たって、どうしてそれがイコール、頼る事になるんだね。 そんな事言ってたら、親子なんて、何か理由が無ければ会えなくなってしまうではありませんか。 自分と自分の子供が、そういう関係になったら、嬉しいかね?

  世間体? わははははは! 笑止千万。 いいかい、あんたが、実家に顔を出そうが出すまいが、親戚や他人は、あんたを誉めたりしないんだよ。 どっちを選んでも、必ず貶す!(机ドン!)

「あいつは、家を出たっきり、よりつきもしない。 何をやってるか分かったもんじゃない」
「あいつは、年柄年中、親元に入り浸っている。 たぶん、金でも借りに来てるんだろう」

  そんな事ばかっり言っているもんだって。 どうせ、馬鹿にされるのなら、親戚や他人の目なんて、気にするだけ馬鹿馬鹿しいというものではありませんか。

  親子の距離に比べたら、叔父甥、叔母姪の間ですら、果てしなく遠いものです。 況や、他人に於いてをや。 あなたが親を大事にしていれば、その姿を見て育つあなたの子供も、あなたを大切にしてくれます。 「親子というのは、そういうものだ」と、刷り込まれるからです。 親と距離を取っていい事があるとすれば、それは、親が、DV親父とか、暴力団員とか、ろくでなしとか、甲斐性無しとか、ひょーろくだまとか、多重債務者とか、アル中とか、骨董蒐集家とか、片付けられない女とか、そういう人の場合でしょう。

  でねー、実家にちょくちょくやって来る娘ですが、親の最期の面倒を見た人間というのは、立場が強いもので、ほとんどの場合、親の死後、実家の家屋敷を貰い受けます。 もっとも、その娘も結婚して、別の家に住んでいるので、実家に移り住むわけには行かず、最初の内こそ、週に一度、風だけ通しに来たりしていますが、やがて疲れてしまって、土地ごと売ってしまったり、家だけ壊して、月極め駐車場にしたりして、最終的に処分する事になります。 売れば、土地だけでも、2、3千万円にはなるでしょうから、親を看取った見返りとしては、充分ですな。

  それに引き替え、返す返すも、愚かな息子達よ。 薄っぺらい体面のために、親からは恨まれ、姉妹からは憎まれ、他人からは馬鹿にされ、自分の子供からは捨てられて、ゴミのように死んでいくわけだ。 自分は、木の股から生まれて来て、空気を食べて育ったと思ってるんとちゃうんか? 惨めな末路も、自業自得だな。


  いつの間にか、どえりゃあ脱線していますが・・・、あーれ? 一体、何をテーマに書き始めたんだっけ? 昨夜のおかずを思い出せない、あの感覚・・・。 そうそう、私が、生きる理由を見失った事でしたな。 ・・・ちっ、嫌な事を思い出してしまった。 こうやって、自分と立場が異なる人間をボロクソに貶して溜飲を下げているのが、そもそも、やるべき事を無くして、余ったエネルギーのやり場に困っている証拠と言えぬでもなし。

  私の場合、震災で幾分よたっているものの、一応正社員で勤めているので、喰うに困る事はありません。 というか、倹約すれば、今すぐ職を失っても、何とか年金受給まで食い繋げる程度の蓄えがあるので、働かなければならない理由さえ失っているのです。 震災後、会社が休みになり、一ヵ月半もブラブラしていましたし、再開後も、毎日、半日出勤で、給料も激減しているわけですが、独身者なので、痛くも痒くもありません。 家族を養っていれば、頑張って稼ごうという気力も湧いて来ますが、あっても無くてもいいお金を、預金通帳に付け足すために、毎日会社に行くと思うと、億劫で面倒で・・・。


  また、趣味の方が、行き詰ってしまって、二進も三進も身動き取れなくなっているのです。 スポーツ自転車を買う計画は、置き場所が無いのが最大の障害となって、断念に追い込まれました。 前から持っていた折り畳み自転車のシート・ポストを長くして、サドル・ポジションを出して乗れるようにしたので、折自を処分する理由が無くなり、折自置き場が空かないので、スポ自も買えないという、逆玉突き状態に陥ったんですな。

  いや、無理をすれば、階段を担いで上がれるくらい軽いスポ自を買って、自室に置くという手もあるにはあるんですが、「そこまでやるか・・・」と、思い留まらせる理由が、またあるんですよ。 自転車というのは、乗らなければ意味が無いわけですが、乗ったら、せっせと漕がなければならないわけで、遠出したり、山道を登ったりしている自分の姿を、想像するだけで、かったるい。 楽しいんだか、苦しいんだか、判別つきかねるのです。 苦しいのでは、もう、その時点で、趣味とは言えますまいて。

  「苦しければ苦しいほど、達成感があるでしょ」? あー、いらんいらん! そんな感覚、登山に凝っていた頃に、覚え飽きました。 サルがラッキョの皮を剥き終って、「やったな、俺・・・」と感慨に耽っているのと選ぶところなし。 わて、サルだっか?

  よしんば、全力で打ち込める趣味があったとしても、趣味は所詮、趣味に過ぎないわけで、自己満足の域を一歩も出ません。 何らかの形で他人から評価されると、有頂天になって、「もっと極めてやろう」などと張り切るものですが、そもそも、私の場合、他人の意見というのが、いかにいい加減なものであるかを見切ってしまっているので、誉められても、全然嬉しくないのです。 誉める奴というのは、上から目線でなければ、的外れに決まっており、どっちにしても、不愉快千万。 「悪意が無いなら、余計な事を言わないでくれ」とさえ思います。


  つまり、人生という奴は、飯が喰えて、趣味に興じているだけでは、駄目なんですよ。 そんな事では、生き甲斐を感じられないのです。 自分で自分をごまかせない。

  自分を含めて、人間の行為全てに、価値を感じられなくなったのは痛いです。 そればかりか、マイナスの価値すら感じる。 何かやれば、すべて、悪い方向へ進むと思うと、何もできません。 これは、気の持ちようの問題ではなく、実際に人間の活動が、地球環境を着々と破滅へ追いやっているわけですから、自分の気分を明るくするためだけに、ほいほい妥協点を探すわけにも行かないのです。


  うーむ、あれこれ書き綴ってみましたが、解決策の片鱗も見つけられませんのう。 これから先、どれだけ生きるのか分かりませんが、死がこの体を片付けてくれるまで、目標無しに漂い続けるのは、厳しいです。 クラゲの気持ちが、何となく分かる今日この頃。 クラゲが喋れたら、「お前と一緒にするなよ」と言うでしょうけど。

2011/05/08

殺さず増やさず

  ここ一年ほど、人間がサルに見えて仕方ありません。 いや、幻覚が見えるという意味ではなく、人間に、知的生命体としての価値を感じられなくなったのです。 更に言えば、知的生命体の存在を、宇宙に於ける奇跡と思えなくなって来たのです。 自然の秩序を乱す、単なる有害生物なのではないかと思い始めたのです。

  三年くらい前から、動物関連の本を読んで来たのですが、読めば読むほど、人間の活動が、野生生物を圧迫している事が分かって、げんなりしてしまいました。 もはや、保護とか愛護とか、そういうレベルで対応できる問題ではなく、人間の数の増加や、エネルギー使用量の増大そのものに原因があり、自然を残したかったら、人間を減らす以外に方法は無いと確信するに至りました。

  言わずと知れた事ながら、「減らす」と言っても、「今生きている人間を、殺せ」などと過激な事を主張しているわけではないのであって、「これ以上、増やさない事で、結果的に減らす方向へ持っていくべきだ」と言っているのです。 頭の狂った連中に誤解されないように、くどく断っておきますが、「殺す」のには、全面的に反対です。

  人類の人口は、そろそろ、70億の大台に乗るらしいですが、もう充分でしょう。 はっきり、きっぱり言って、多過ぎです。 種の維持という面からも、文明の発展に必要な規模という観点からも、こんなには要りません。 丼判断ですが、全世界で10億人くらいを仮目標にして、少しずつ減らしていくべきだと思います。 いや、無理は言わないとして、30億でも、50億でもいいです。 とにか、減らす方向へと舵を切ってもらいたい。

  呆れ果てるのは、これだけ、環境破壊が重大問題化しているにも拘らず、未だに人口を増やそうと努力している国がある事です。 最も身近な所にも一国あって、≪少子化問題担当相≫などという肩書きを持った閣僚までいますが、どういうつもりで、まだ増やせるなどと考えているのか、全く気が知れません。

  「経済成長を維持するために、人口の増加が必要」という考え方そのものが間違っているのであって、大方、高度経済成長時代の右肩上がりパターンを、永遠普遍の原理とでも信じ込んでいるのでしょう。 政治家のみならず、経済学者でも、そういう事を平気で口にする人がいますが、とんだ思い違いです。 永遠に成長し続けるものなど、全宇宙を探しても、存在しません。

  これは速度と加速度の区別がつかないアホ中学生と同じです。 速度が必要とされているのに、加速度を維持しなければならないと思い込み、目を血走らせ、額に青筋立て、折れるくらい歯を食いしばって、必死に自転車を漕いでいる中学生の姿を思い浮かべてみるといいです。 説明するのも馬鹿馬鹿しい事ながら、一定速度を維持するのは可能ですが、一定加速度を維持し続けるのは、恒星間宇宙船でも不可能です。

  北欧やフランス辺りでも、「少子化対策の努力の甲斐あって、人口増加率が上向いた」などと喜んでおり、また、日本の政治家や学者が、それを手本にするように主張したりしていますが、もう、豆っ頁痛くなって来ます。 だからよー、人間増やして、何かいい事があるのかよ? 破滅へ向かってまっしぐらなのが、分からんかなあ? 

  話を環境問題という高尚なレベルにまで上げなくても、日常感覚的に、ぞっとする事はありませんか? 私は、よく自転車で路上観察に出掛けますが、新興住宅地などに迷い込んだ時、一戸建て住宅がずらりと並んでいて、どこまで行っても、その景色が続くのを見ると、だんだん怖くなって来ます。 それらの家、一軒一軒に、2~4人程度の人間が住んでいて、それら全ての人々が、飯を食い、物を買い、車やら電車やらに乗り、資源とエネルギーをザブザブ使って暮らしているのです。 これだけの人間を生きさせるために、どれだけ、自然に負担を掛けてるかと思うと、頭がくらくらして来ます。

  馬鹿な人間というのは、いつの時代にもいますが、現代において、最も憎むべき馬鹿というのは、子供を三人以上作っている夫婦でしょう。 単純計算して、二人までなら、人口は増えませんが、三人以上作れば、増えて行くのは、よほどのアホでも分かる事。 産婦人科医が減っている問題を取り上げた報道番組などで、そういう子沢山の母親がインタビューされたりすると、言う事が凄い。

「少子化が問題になっているので、たくさん産みたいと思っているんですが、そのためには、安心して産める環境を整えてもらわないと困りますね」

  この馬鹿、少子化問題の解決に自分が貢献していると思って、≪社会の恩人≫にでもなったつもりでいやがるのです。 少子化などより、自然環境の破壊の方が、遥かに重大なのですが、そんなこと考えた事も無いのでしょう。 もう、馬鹿で、馬鹿で・・・。 傍から見れば、他人のガキが増えて、いい事なんて、何もありません。 ただ、喧しく、鬱陶しく、邪魔なだけ。 「子供をたくさん作りました。 誉めて下さい。 えへへへへ」 まったく、馬鹿面が目に浮かぶようだぜ。


  テレビ東京の番組に、≪空から日本を見てみよう≫というのがあり、ヘリコプターで上空から見た景色が延々と映し出されますが、平地ばかりか、山の中にまで、住宅が喰い込んでいるのを見ると、人間の所業のあまりの醜さに、吐き気すら覚えます。 人口に対して、住宅数は余っているというのに、なんで、わざわざ、森林を切り開いてまで、山の中に住もうとするのか? ほんの数十坪の敷地であっても、森林や藪、草地ならば、数えきれないほどの生物を養っているのを知らないんですかね? 宅地にしてしまったら、ゴキブリとシロアリと人間しか棲めません。

  国や自治体の態度も問題で、開発許可さえ出さなければ、そんな事にはならないと思うのですが、一体どういうつもりなんだか。 環境保全なんて、どこか遠くの国の希少生物が住んでいる地域の事だと思ってるんじゃないですか? そんなこた無いですよ。 あなたの家の近所の空き地ですら、無限に近い微生物、膨大な数の虫、数百羽の鳥、数十匹の哺乳類や爬虫類、両生類が棲んでいます。 見えないだけ。 見ようとしないだけ。

  彼らは掛け値無しに、自然そのものです。 環境を維持している、掛け替えの無いパートです。 彼らの生息域が、どんなに広がっても、決して自然を破壊しませんが、人間はそうではありません。 極端な事を言うと、人間が何をしても、ほとんど全ての行為が、自然破壊につながります。 死ぬ事くらいですかね、自然なのは。 それすら、火葬という不自然な処理をして、空気を汚していますが。

  よしんば、人類の文明に特殊な価値があるとしても、人間が山の中に家を建てる事に、何か、文明的にプラスの意味がありますかね? 「マイホームを手に入れて、ささやかな幸せを」? そんなの、平地にある既存の住宅地でもできる事でしょう。 「避暑用に別荘を」? たわけた事を抜かすな。 そんな下らない事のために、自然を破壊したというのか? 恥を知れ。 大体、別荘を手に入れて、お前、幸福を感じたか? 無くても何の問題無い物を欲しがる事自体、何を欲しがっているのか見失っている証拠ではないか。

  そういえば、ゴルフ場も、どうしようもないねえ。 ネット地図を、写真に切り替えて、ゴルフ場を見てみると、自分の背中を、先の尖った熊手で、ざっくり引き裂かれたような痛みを感じます。 あれが、たかが遊びのために作られていると思うと、気が遠くなる。 おそらく、人間の営みの中で、最も自然破壊度が大きい所業でしょう。

  私は、ゴルフというスポーツが、いずれ、全面禁止になると思っていますが、今夢中でやっている人達には、そんな予測は戯言としか思えないでしょうな。 だーから、一度、ネット地図の写真で見てみろって。 どれだけ広い面積の自然をぶち壊しているか分かるから。 そんなにまでしてやるような事なのかね、スポーツというのは? 根本的なところで、間違っているのではないかね?


  こう見てくると、人間というのが、嫌になって来るでしょう? 全く、醜い。 時代劇ヒーローの決めセリフの中に、「この蛆虫どもが!」とか、「町のダニどもが!」といったフレーズが出て来ますが、あれは、蛆虫やダニに失礼というものでしょう。 どちらも、自然破壊のような破滅的悪行はしませんからねえ。 「この人間どもが!」と言われるのが、悪党にとっても、一番屈辱的なのでは?

  もし私が、全知全能の神で、この世の造り主であれば、ノアに箱舟を作らせ、全ての動物を乗せさせた上で、ノア一家には乗らないように言いますが、神ならぬ人の身であれば、そうも行きません。 で、妥協の産物として出て来るのが、「人口を減らせ」という線なのです。

  「死ね」と言われれば、「ふざけんな」と反発するのは、生物として当然ですが、「子供の数を二人以下にしろ」くらいなら、極端な馬鹿を除いて、大抵の人が実行できるでしょう。 その方が、あなた達の為でもあるし、あなた達の子供の為にもなります。 子供がたくさんいたって、食料の取り合いで命の遣り取りをするような世の中になってしまったのでは、元も子も無いではありませんか。


  最後になりましたが、人間が嫌になった事と、人間がサルに見えて来た事に、どんな関係があるか、引っ掛かった人もいる事でしょう。 それは、私が個人的に、サルが嫌いだからです。 大概の動物は好きですが、サルだけは好きになれません。 人間に近いというのが、最大の理由です。 知的生命体の予備軍だという点も、油断なりません。 人類が滅びても、サルがすぐに進化して、次の人間になってしまったのでは、自然破壊は止まりませんからのう。

2011/05/01

しし親戚の虫

  金曜の事ですが、朝から訃報。 うちの本家に当たる家、つまり、私の祖父が出た家ですが、その家のおばさんが亡くなったとの事。 医者から、「手遅れだから、手術をしても無駄」と言われた末期癌で、平日は入院し、週末だけ自宅療養をしていました。 おばさんと書きましたが、私の歳から見て、おばさんなのであり、享年は80歳ですから、客観的に見れば、おばあさんという事になります。

  本家の血筋ではなく、嫁に来た人です。 長男が別の町で事業を始めた時、家族ごとそちらへ引っ越したのですが、やはり、住み慣れた所が良いらしく、年寄り夫婦だけ、本家に戻っていたのです。 数年前に当主だった旦那が死んだ後は、おばさん一人で本家に住んでいました。

  どうも、長男の事業がうまく行っていないらしく、「私が死んだら、たぶん、本家の家屋敷は処分する事になると思う」と、私の父には漏らしていたらしいです。 旦那の代から、事業家肌で、親戚筋では最も羽振りのいい家だったのですが、事業というのは、一度傾き始めると、あっという間に借金が膨らんでしまうんですな。

  噂によると、前の日までは、庭弄りをするほど元気だったのですが、そこへ、本家の懐事情を知らない旦那の弟の一人が金の無心に来て、おばさんは、かなりの剣幕で追い返したとの事。 たぶん、激昂したのがいけなかったんでしょう。 その夜に、血を吐いて倒れ、救急車で運ばれて、帰らぬ人となりました。 

  淡々と書いているのを見れば分かると思いますが、私は、このおばさんとは、会えば挨拶をする程度で、そんなに親しかったわけではありません。 嫌な記憶が無いというだけでも、親戚としてはありがたい人の部類に入れていたという程度。 ただ、このおばさんの旦那には、ある経緯から、腹に据えかねる因縁があり、その人が死んだ時には、清々しました。

  で、今回の一件ですが、病死といえば病死ですが、その義弟が止めを刺したようなものとも言えぬではなし。 分家が本家に無心というのは、ドラマによくあるパターンですが、本当にあるんですねえ。 しっかし、その義弟もいい歳なのであって、金の事でいざこざを起こすなど、何とも情けない話です。

  詳しい事は分からないのですが、その義弟にしてみれば、自分が生まれ育った家ですから、「義姉さんが死んだら、俺に屋敷を任せてくれ」とか何とか言ったのかもしれません。 いや、そういう事を言いそうな人なのですよ、その人が、また。 もっとも、たとえ、それが原因であったとしても、≪未必の故意≫にもならないので、事件性は無いわけですが。 

  ちなみに、おばさんの葬儀は、外国に行っている孫が帰るのを待ち、連休の後半になるとの事。 それまで、遺体はドライアイスでもたせるらしいです。 これもまた、どうかと思うのですよ。 確かに、孫にしてみれば、お祖母さんの葬儀に出たいと思うでしょうが、葬儀には親戚や知人も呼ぶのであって、喪家の都合だけで日程を決められたのでは、迷惑する人もいるでしょう。

  まして、連休中であれば、すでに予定を組んでいる人もいると思われ、場合によっては、予約のキャンセルなどもしなければなりますまい。 死後すぐに、通夜と葬式をやるというなら、「仕方が無い」と諦めもつきますが、「孫が帰るのを待つ」という理由では、何となく、釈然としないのではないでしょうか。 「なんで、その孫一人のために、こちらが連休の予定を変えねばならんのか・・・」と思うと、ムカムカしてきて、夜も眠れないに違いない。

  つくづく、親戚というのは、荷厄介なものだと思うのですよ。 うちの両親などは、「自分の葬式の時に来て貰えないと困るから、日頃から義理を欠かすわけにはいかない」と言うのですが、私に言わせれば、死んだ後の事など、どうせ自分には分からないのだから、どうでもいいのであって、よしんば、霊魂が残って、自分の葬式の様子を見るような事があったとしても、百害あって一利無かった親戚の連中に、迷惑面して参列して欲しいなどとは、小指の爪の先ほども思いません。

  というか、葬式そのものをやって欲しくないです。 私は、あの世の存在を信じていないという点で、ある意味、仏教徒ですが、日本仏教の僧侶を、宗派に関係なく、一人の例外も無しに、仏教徒とは見做していないので、彼らの指図で葬式を挙げられても、困るのです。 迷惑なのです。 ケチな私としては、読経料などという、正真正銘の≪雑費≫に、お金が使われるのが、この上なく口惜しい。

  大体、お経というもの、生きている時に、自らその内容を理解する事で、初めて意義が発生するのであって、死んでから唱えられても、何の御利益もありません。 そもそも、外国語では、一体何を言っているのか、生きている時でさえ分からないではありませんか。 あんなものをありがたがる在家も在家で、仏教に関する知識が足りないにも程がある。 馬鹿でねえの? 馬鹿だから、出家どもに、1500年も騙され続けておるのでしょう。


  話を戻しますが、今日日、結婚式は、海外挙式などを選べば、家族だけでもできますから、親戚に出馬願わなければならないのは、葬式だけです。 もし、葬式も家族だけでやるというのなら、親戚とつきあいを維持しておく必要は、皆無になります。 昨今、≪家族葬≫などという概念も現れて来て、日本社会は、少しずつ、その方向へ進んでいるわけですが、私としては、その歩みの遅さがもどかしいです。 さっさと、「家が分かれたら、もう他人」という、サバサバした風習になりませんかねえ。

  納骨した後で、個々に墓参りをして、線香を上げるというのなら、それは別にいいのですよ。 墓参者側の都合で、日時を決められますから。 ところが、通夜や葬式となると、否が応でも、その日に行かなければならないので、勤めは休まなければならない、予定は変更しなければならないで、少なからぬ迷惑を被る事になります。

  どうしても都合が悪い者は行けないわけですが、通夜にも葬式にも出なければ、口喧しい、おじさん&おばさんから、ネチネチした電話が掛かって来て、しまいにゃ、ボロクソに貶されると来たもんだ。 親戚って、一体何よ? これでは、赤の他人より悪辣ではありませんか。

  また、交通費は自分持ちになりますから、遠くに住んでいると、大変なんだわ。 時間を、良くて丸一日、悪ければ丸二日潰した上に、わざわざ、旅費を自腹切って、香典を出しに行くわけで、これを理不尽と言わずして、何を理不尽と言いましょう?

  また、近くに住んでいるやつらほど、遠くに住んでいる親戚の事を、「不義理だ」とか言って、責めるんだわ。 てめえはいいよ、自分の車でも、タクシーでも来れるから。 新幹線や飛行機でなきゃ来れない人は、香典の何倍も交通費を使うんだぜ? 通夜・葬式、初七日、四十九日、百箇日、一周忌、三回忌・・・・、一体、何回、来なければならんのだ? それだけでは飽き足らず、「年に一度くらいは、墓参りに来い」ぃ? 寝ぼけるな! そっちの方から、墓背負って、出て来い!

  でねー、義理を欠かさずに、親戚の葬式・法事に漏れなく出席していれば、それなりのリターンがあるかというと、あるわけ無いんですよ。 自分の家族の葬式は、多くても、せいぜい二三回でしょう? 親戚の葬式は、一生の内に、30回じゃ利きませんぜ。 うちの父なんて、50回くらい出てるんじゃないですか? 法事も入れれば、200回くらい、喪服を着てると思います。 そのつど、お金が出て行くわけで、どうして、元が取れるものかね? 取れるわけがありません!

  まったくの、世間体と見栄だけでやっているのが、葬式という習慣なのですよ。 とりわけ、親戚の間で、恥を掻きたくないばかりに、必死になっているのです。 葬式を出すために、借金している人とか、破産している人とか、そんな例も、結構多いんじゃないでしょうか。 くくく…くっだらない! 親戚ごときがなんぼのもんじゃい!

  そもそも、「困った時に、頼りにしよう」などという助兵衛根性を、心中密かに温めているから、弱味を衝かれるのです。 どうせ、今時の家族なんて、みんな核家族ですから、家計の余力などほとんど無いのであって、困った時に頼れる親戚なんて、ありゃしませんよ。 つまらん皮算用はやめて、独力で家を維持する事に励むべきですな。