
読書感想文です。 依然、高村薫作品。 読む方は、沼津の図書館にはない本を、静岡県内の他の図書館から、相互貸借で取り寄せてもらっています。 届くまでに、10日くらいかかるので、隔靴掻痒のもどかしさがあります。
≪リヴィエラを撃て≫
新潮ミステリー倶楽部 特別書下ろし
株式会社 新潮社
1992年10月20日 発行
1993年 1月20日 5刷
高村薫 著
沼津図書館にあった、ハード・カバーの単行本です。 長編1作を収録。 ほとんどが、二段組み、一部が一段組みで、ページ数は、約544ページ。 上下巻に分けても良かったのに、と思わせる分厚さです。 横になって読んでいると、本が重いのなんのって。 雑誌連載ではなく、書き下ろしだそうです。
1972年の米中国交正常化の際、文革関係の機密文書が、国外に持ち出されたが、イギリス・アメリカの都合で、情報員・外交官らの手を渡って、中国へ戻された。 「リヴィエラ」という名前で呼ばれる東アジア人の男が、北アイルランドで、IRAのメンバーを雇い、機密文書を持ち出した中国からの亡命者を暗殺。 メンバーは、後に殺されたが、その息子もIRAに入り、有能なテロリストになって行く。 CIAの情報員に声をかけられ、その仕事を手伝いつつ、父を死に追いやった「リヴィエラ」が誰なのか、探って行く話。
もろ、スパイ小説。 他に分類のしようがないほど、純粋度が高いです。 長いですが、全ての文字を読む事に拘らないのであれば、話の展開がテンポ良く、ドンパチを繰り広げる見せ場の散らし方も巧みなので、どんどん、ページか進みます。 高村さん、よっぽど多くのスパイ小説を読んだんでしょうねえ。 もちろん、ノリノリで。 そういう体験がなければ、こういう作品は書けますまい。
ところが、困った事に、私は、スパイ小説が苦手でして、今までにも、それが目当てで、手に取った事はありません。 アカザ・クリスティー作品の文庫全集に、スパイ物も含まれていたから、それで、何冊か読んだ程度。 スパイ映画も、ある時期以降、真面目に見なくなりました。 未見作品がテレビ放送されても、リアル・タイムで見るのはもちろん、倍速鑑賞する事を前提に録画する気にもならない、と言えば、どれだけ関心が低いか、伝わるでしょうか。
ある時期というのは、1990年代後半に、インター・ネット社会になり、情報伝達の速度と規模が飛躍的に上がって、世界が狭くなってから、という事です。 それ以前なら、世界のどこかで、スパイの面々が、007ばりの冒険を繰り広げていても、実態を覗い知る事ができませんから、「そういう事も、ありうるか」と、許容できていたのですが、ネット社会になってからは、もう、いけません。 あんな、何十人も死人が出るような暴れ方をしたら、たちまち、世界的ニュースになってしまいますよ。
スパイ物は、小説でも映画でも、20世紀で終わったのであって、今世紀に入ってからも作られているのが、実に不思議。 滑稽・陳腐としか言いようがないほど、リアリティーを欠くジャンルになってしまいました。 何が、「殺しのライセンス」ですか。 そんな、一国の情報部の都合が、外国に通用するわけないでしょ? 話にならぬ。 ただの殺人犯でしょうが。
この作品は、90年代前半に書かれたもので、インター・ネットは、まだないですし、携帯電話すら普及度が低かった時期のものですから、スパイ物批判の対象外という事になりますが、やはり、今の感覚で読むと、リアリティーの欠落を感じますねえ。 ドンパチの場面では、関係者以外の目撃者がいない事になっていたり、政府が情報漏れを抑え込んだりしていますが、たとえ、ネット社会以前であっても、娑婆でバンバン撃ち合いをやって、それを隠すなんて事が不可能なのは、違いがないでしょう。
政府や情報機関の関係者ばかり出て来て、報道関係者が一人も関わって来ないというのが、また著しく、リアリティーを欠く。 銃器のみならず、手榴弾や仕掛け爆弾まで使って、これだけ派手に殺し合いをやっているのに、あのハイエナのごとき報道関係者が嗅ぎつけないわけがありません。 うーむ、実に嘘臭い。 本当に、高村作品なのか?
高村さんの事だから、それを承知で書いたのだと思いますが、他の作品で、リアリティーを担保する為に、あれだけ、様々な専門知識を駆使している作家が、これだけ、リアリティーを欠くスパイ物を書いたという事は、やはり、理屈以前の問題として、スパイ物が好きなんでしょう。 他に考えられません。
リアリティーの欠如に、一切 目を瞑れば、このまま、映画にできそうな話ですが、日本映画では、駄目。 登場人物のほとんどが、ヨーロッパ系だからです。 国際的に有名な俳優を、一人二人 雇えばいいという次元の問題ではないです。 さりとて、日本人主体に翻案してしまうと、ますます、嘘臭い話になってしまいます。 およそ、日本人ほど、スパイが務まらない民族もいない。 物事を論理的に考えられないし、外国語が、まるで駄目だものね。
といって、この小説を原作に、映像化をしたいという、欧米の映画会社は、出て来ないと思います。 途中で、中心人物が変わるのは、小説ならともかく、2時間前後しかない映画としては、致命的な欠陥になってしまいますから。 どうも、全体の構成を決めてから書き始めたのではなく、行き当たりばったりで、ゾクゾクする場面を書き繋いで行った観が強い。 前半の中心人物を途中退場させてしまうのは、舞台が日本に移ると、日本語が全く話せない人物が、縦横無尽に暴れまくるのは、不自然になってしまうからでしょう。
高村作品全般に言える事ですが、命の重さが、人によって、まちまちで、登場人物達の行動の動機に、説得力を欠く場面が、よく出て来ます。 「この人は、何の為に、命がけで戦っているのだろう?」と、違和感を覚えてしまうんですな。 「警察官だから、犯罪は許さない」というのでは、「じゃあ、警察を辞めたら、犯罪を見逃すのか? 自分自身、犯罪に手を出すのか?」と、問い質したくなります。
【黄金を抱いて翔べ】のように、ピカレスクとしても読める話ならば、倫理観を崩すのは、当然の事ですが、この作品の場合、どう読んでも、ピカレスクにはなりますまい。 特に、後半の中心人物である、元警察官の情報部員は、動機が分からない。 何かの為に戦っている。 一体、何の為に?
≪李歐≫
講談社文庫
株式会社 講談社
1999年2月15日 第 1刷発行
2011年7月22日 第22刷発行
高村薫 著
沼津図書館にあった、文庫本です。 長編1作を収録。 約512ページ。 文庫本としては、かなり厚いです。 1992年発表の、【わが手に拳銃を】を下敷きに、1999年に、新たに書き下ろしたものだそうです。 【わが手に拳銃を】も、長編のようですが、残念な事に、沼津図書館にはないのです。 三島図書館にはあるのですが、遠くてねえ・・・。
父と別れた母に連れられて、幼い頃に、東京から大阪へ移った男の子。 近所の町工場に遊びに行っている内に、金属加工に深い興味を持つようになる。 その工場には、韓国朝鮮語や、中国語を話す工員や居候がおり、社長は、拳銃の密造にも手を出そうとしていた。 母が外国人の男と逃げてしまい、男の子は母方の祖父母に引き取られる。 しかし、一時期でも、不穏な環境で育った影響は、成長してから顕われ、バイト先のナイト・クラブで起こった、ヤクザの暗殺事件をきっかけに、殺し屋の中国人美青年と懇意になり、犯罪の世界に片足を入れをながら生きて行く身になる話。
【わが手に拳銃を】を読んでいないので、想像で補うしかないのですが、書き直された、この【李歐】では、拳銃は、テーマではなく、一モチーフとして扱われています。 例によって、驚くほど詳しい描写が為されていますが、読者のほとんどは、その知識が、正しいのか、間違っているのか、判定できないでしょう。 一方、拳銃マニアが読むと、「拳銃を使って、何かをやる」という話ではないので、肩すかしを食うと思います。
では、【李歐】のテーマは何かというと、些か、焦点が定まらないところがあります。 町工場を継いだ経営者として、堅気の生活を送りつつ、刑務所で知り合ったヤクザの親分との交際も続け、外国で投資家・事業家として活躍(暗躍)する殺し屋とは、義兄弟ともいえる契りを交わしている、そういう生き方に、不安を感じるなと言う方が、無理。 しかし、高村さんの好みとして、その不安こそが、人生の本質であり、醍醐味でもあると捉えているのかも知れません。
この小説を読んでいて、終始、不安を覚えつつも、強いリアリティーを感じるのは、主人公に、犯罪へ向かう欲求がある一方で、真面目に生きたいという意志もあり、両者の葛藤が書き込まれているからでしょう。 ただ、リアル過ぎて、物語としては、盛り上がりに欠けるのも事実。 一長一短あり、というところでしょうか。 クライマックスの爆発は、ちと、取って付けたような印象があります。
クライマックス後に出て来る、中国の大農場ですが、一見、ハッピー・エンドのようでいて、その実、胡散臭さを感じさせます。 この発想って、戦前の、「満州へ渡って、王道楽土の建設を・・・」と同じ根でしょう。 農場の経営者は、中国人ですが、満州国だって、皇帝は、満州人だったものね。 農場が造られた大元の動機が、日本人の主人公を、そこに招く為だった、という点が、もう、アウト。 5千本の桜を植えるに至っては、文化侵略としか言いようがありません。
地球上には、未開の処女地などないのであって、先住者の土地を奪うか、不毛の土地に生命エネルギーを吸い取られるか、自然破壊に走るかの、どれかに終わるのが、関の山。 「王道楽土」など、寝言なのだという事を、肝に銘じておかなければ。 そもそも、もっと、根本的な次元の話として、「外国に行きさえすれば、素晴らしい人生が待っている」という発想自体が、逃避だというのよ。 自分が生まれ育った社会でさえ、うまく生きて行けない人間が、勝手の違う外国で、それ以上にうまく生きられるわけがありますまい。
ところで、この小説、韓国朝鮮語や、中国語が多く出て来ますが、私が全く知らないような言い回しが、ほとんどで、日本で学べる外国語講座で扱うような例文とは、かけ離れています。 おそらく、日本語も分かる母語話者に取材して、「こういう世界に住む人間だったら、どういう喋り方をするのか」と訊ねる手法を取ったんじゃないでしょうか。 たとえば、同じ日本語でも、標準的な喋り方と、ヤクザの喋り方では、まるっきり違いますから。
≪冷血 上・下≫
毎日新聞社
上下巻共 2012年11月30日 発行
高村薫 著
沼津図書館にあった、ハード・カバーの単行本です。 上下巻二冊で、長編1作を収録。 二段組みで、上下巻の合計ページ数は、約587ページ。 元は、「サンデー毎日」の、2010年4月18日号から、2011年10月30日号まで、連載されたもの。
携帯電話のサイトで、犯罪仲間を募集した33歳の男と、応募した35歳の男。 車の窃盗、ATM強奪、コンビニ強盗を経て、金持ちの家に窃盗に入る事に決めた。 クリスマスに、ある歯科医一家が、泊まりで遊びに行くという話を聞きつけ、その留守を狙ったが、一日間違えて、まだ家にいた家族と出くわしてしまい、両親と子供二人を殺してしまう。 警察の捜査により、後日、犯人二人は逮捕されたが、一家全員殺害に至った動機がはっきりせず、取り調べが難航する話。
事件の表面的な部分は、2000年12月末に起こった、「世田谷一家殺害事件」をモデルにしていますが、そちらは、未だに未解決でして、この小説では、割と早く犯人が逮捕されますし、取り調べでの動機の解明がテーマになる点、実際の事件とは、まるで違う事件になっています。 高村さんは、世間を騒がす大事件が起こると、決まって、小説の題材に取り入れますが、世相に敏感とも言えるし、些か軽薄とも感じます。 ノンフィクションのリアリティーに興味があるけれど、小説の方が自由度が高いから、小説という形式を選んでいるような観あり。
高村さん独特の、詳細専門知識ですが、この作品では、「半グレの習俗」と、「歯科・口腔外科の医学知識」、「警察の内手続き」の三点でしょうか。
「半グレ」という言葉は、作中に出て来ませんが、この犯人二人を、どこかへ分類するとしたら、半グレとしか言いようがありません。 ただし、グループ性はないです。 普段は普通に働いているが、いざとなれば、犯罪をためらわない。 それでいて、常習的に犯罪ばかりやっているというわけでもない。 何とも、捉えどころがありません。 携帯サイトで募集と聞くと、昨今流行の「闇バイト」そのものと思ってしまいますが、2010年頃には、まだ、「闇バイト」という言葉が一般化していなかったと思います。
大変、細かい所まで調べていて、高村さんがこの作品を書いた時の年齢を考えると、どういう取材をしたのか、想像もつきません。 まるで違う世代の事を、よくも、ここまで、書き込めるものです。 特定カテゴリーの文化習俗を描いた小説としては、【なんとなくクリスタル】に近いものが感じられます。
「歯科・口腔外科の医学知識」は、被害者が歯科医というのは、偶然に近くて、あまり関係なし。 犯人の一人が、子供の頃から歯が悪くて、犯行中はもちろん、逮捕後まで、歯痛に苦しめられ、命に関わるほど重症化してしまうのですが、その様子を、専門用語を使って、詳しく、書いているのです。 歯痛の経験がある人なら、身につまされる描写ですが、だからといって、この犯人に同情する気にはなりません。 歯が痛ければ、殺人が許されるとは、誰も思いません。
「警察内手続き」に関しては、【マークスの山】のような、醜い手柄争いは出て来ず、内部手続きの様子だけが、淡々と描き込まれています。 捜査が始まって以後の視点人物は、合田雄一郎になりますが、とっくから中間管理職で、部下に指示を出す立場におり、主な仕事が、警察内での手続きをこなす事なんですな。 案外、この作品の最大の特徴は、この警察内手続きの描写にあるのではと、思わないでもなし。
この静かな進行には、読んでいて、麻薬的な陶酔感を覚えます。 いや、麻薬的という表現は、まずいか。 どんな人でも経験がある事に譬えると、「点滴的な陶酔感」とでも言いましょうか。 いつまでも読んでいたいような、気持ちの良さがあるのです。 なんで、このような地味な事務的手続きが、読んでいて面白いのか、理由は分かりませんが、そこは、作者の力量というものでしょうか。
動機がはっきりしない事が、取り調べに当たる刑事達を困惑させるのですが、作中にも指摘があるように、二人とも、犯行そのものは認めているのだから、動機なんて、ここまで時間をかけて究明しなくてもいいような気がしますねえ。 こりゃ、理由はどうであっても、最高刑を免れんでしょう。 この二人を、許してしまうようでは、もはや、その社会に、刑法は不要です。
動機は、はっきりとはしませんが、大体のところなら、当たりがつけられています。 被害者四人の内、最初に殺された父親に関しては、いないと思っていた家人が現れたので、突発的な反射で殺してしまった。 次の母親に関しては、犯人側が大金だと思っている金額を、「命と引き換えにできるのなら、このくらいは安いもの」という様子が見て取れたので、殺した。 もう一人の犯人は、両親を殺した相棒だけに罪を負わせたくなかったから、自分が子供の方を引き受けた、というもの。 いずれにせよ、情状酌量の対象にはなりませんが・・・。
自分の命にすら、価値を感じられず、ましてや、他人の命なんて、何の意味もないと思っている時点で、社会の一員として失格でして、そりゃ、そんな考え方でいたら、いつか、殺人もやるでしょうよ。 起こるべくして起こった事件とも言えます。 むしろ、そんな二人に、同じ人間として、対等に接しようとする、合田の方が、つもりが分かりません。 他の作品でも同じですが、合田雄一郎ほど、探偵役として相応しくない刑事も珍しい。 そもそも、推理小説ではないから、探偵役と呼ぶのも変ですけど。
高村さんは、凶悪な事件が起こると、被害者よりも、加害者の方に、強い興味を抱くタイプなんでしょうな。 被害者が極悪非道で、加害者の方に同情したくなる場合は、逆になると思いますが。 つまり、悪人、もしくは、誰もが持っている悪意に惹かれるのでしょう。 善悪バランスがとれていないので、私としては、読み心地が悪いですが、共感する読者も、いるかも知れません。 そういう人は、自分自身が犯罪に引っ張られないように、気をつけた方がいいと思います。
最後に、どうでもいいような事ですが・・・。 犯人達が盗んで使った車の一台に、フル・エアロの、日産・シルビアがあります。 それが、まだ、車種が特定される前、目撃情報の中で、「白いセダン」と呼ばれているのです。 なに、セダン? シルビアが? シルビアは、何代目であっても、セダンはないでしょう。 ハード・トップか、ハッチ・バックか、クーペか。 とにかく、セダンは考えられません。
これは、技術に詳しい高村さんらしからぬ思い違いなのか、それとも、警察に、ノッチ・バック型(3ボックス型)の車を、「セダン」と呼ぶ習慣でもあるのか・・・、その見方は、さすがに、穿ち過ぎか。 もっとも、車型について、まるっきり、知識がないという人も、大勢いますから、大まかな形を知りたいという場合、有効性が全くないわけではありませんが。
≪土の記 上・下≫
株式会社 新潮社
上下巻共 2016年11月25日 発行
高村薫 著
沼津図書館にあった、ハード・カバーの単行本です。 上下巻二冊で、長編1作を収録。 一段組みで、上下巻の合計ページ数は、約493ページ。 元は、「新潮」の、2013年10月号から、2016年8月号まで、連載されたもの。 単行本化に当たり、加筆修正が為されたとの事。
東京の出だが、シャープの社員になり、妻の実家である奈良県の山奥の家へ婿養子に入った男は、退職後、農業をしながら暮らしていた。 妻は、交通事故が原因の植物状態が長く続いた後、他界したばかり。 一人娘は、父親と折り合いが悪く、家を出ており、孫娘も一人がいるが、滅多に顔を見ないまま、もう、高校生になっている。 農業と言っても、家庭菜園と兼業農家の中間くらいの規模でやっている。 妻が死んでから、認知機能が衰えたのか、幻覚や幻聴に迷わされるようになるが、親類や村内の人達と助け合いながら、何とか生きている男の、約一年間の暮らしぶりを追った話。
三人称ですが、終始、主人公の視点で語られ、他の人物の心理は、主人公が、そうではないかと思っている、程度にしか掘り下げられません。 で、その主人公の認知機能が、些か、低下していて、死者の姿が見えたり、その声が聴こえたりするので、夢か現つか判然としない、濃い霧の中を、遊園地によくあるゴンドラに乗って、連れ回されているような、奇妙な感覚に囚われます。
名文と言えば、名文。 いや、名文調と言うべきか。 とはいうものの、型に嵌まったものではなく、独自性は、極めて高いです。 【冷血】とは、また別種の、いつまででも読んでいたいと思わせる、「点滴的陶酔感」に浸らせてくれる文章なのです。 今までに読んだ高村さんの文体とは、全く異質なので、計算して、こういう表現方法を案出したのだと思いますが、読書道、文章道を極めていなければ、こんな器用な事は、到底 できますまい。 文体そのものが、芸術の極致にあるとでも言いましょうか。
高村作品独特の、詳細な専門知識も盛り込まれていて、「農業技術」、とりわけ、「稲の栽培技術」に関して、最も詳しいです。 次に、「山間集落の習俗」。 高村さんご自身は、都会育ちなので、元から知っていたわけではありますまい。 するってーと、これも、取材して調べたんでしょうか? 一体、誰を相手に、どんな取材をすれば、こんなに深い所まで、知る事ができるのか、いくら首を傾げても、傾げ足りません。
高齢男性の一人暮らしを描いている点で、筒井作品の、【敵】と同趣向ですが、こちらの主人公の生活の方が、遥かに豊かな生命力を感じさせてくれます。 主人公本人の生命力ではなく、農村在住で、農作業を日課にしている環境上、周囲を動植物にみっちり囲まれているわけで、その生命力が、物語世界を、活き活きさせているんですな。 引退後、農業をやりたいと思っている人は、一読どころか、百読するくらいの、価値があります。 恐らく、読み始めるなり、主人公の生活世界に引きずり込まれてしまうでしょう。 あまりにも、羨ましくて。
主人公の娘が、父親や母親と距離をおきたがる性格。 学校の成績が良かった事もあり、高校を卒業すると、さっさと都会の大学へ行ってしまって、そちらに住むようになり、実家には戻って来なくなります。 そこまでなら、よくある話ですが、子供がいるのに、離婚して、子供を連れて、アメリカへ行き、向こうで再婚するとなると、ちと極端なキャラという事になります。
「こういう両親から、こういう娘が生まれるものか?」と、違和感を覚えないでもないですが、この娘は、父親の堅実な生き方を際立たせる為に、わざと、正反対の性格付けが施されているものと思われ、作劇上の都合が優先されているわけで、リアリティーを云々するような設定ではないんですな。
それにしても、父親の、文字通り、地に足の着いた生活に比べて、世界を飛び回る娘の生き方の、ただただ、派手で、何とも、つまらない、下らない事よ。 若い読者で、アメリカへ移住などと聞くと、「なんでまた、好き好んで、あんな、少数派差別の厳しい所へ?」と感じる人もいるかもしれませんが、2000年くらいまでは、「英語を勉強して、いつかは、アメリカで暮らしてみたい」というのは、日本でもよく聞かれる、「将来の夢」だったのです。 そういうイメージが色褪せたのは、アメリカ映画がCGの子供騙しばかりになり、人間を描けなくなって、見る日本人が激減してから。
結末ですが、淡々とした報告の形を取りながら、実際に起こった災害に絡めて、劇的な終わり方にしてあります。 何もなければ、主人公の年齢から考えて、あと十年くらいは、田園生活が続いたはずで、「体が動く間、こういう暮らしを続けた」で終わらせる選択もあったと思うのですが、敢えて、災害を持ち出したのは、「ただの田園歳時記ではなく、物語なのだから、それなりの刺戟を盛り込まなければ」という配慮があったのかも知れません。 ただ、この結末がなくても、この作品の価値は変わりません。
最後に、どーでもいーこってすが、高村作品に出て来る、「軽四輪」と呼ばれる車は、「軽トラ」の事のようです。 他の作品でも出て来て、私ゃまた、「軽の四輪駆動車」の事かと思っていたんですが、この作品で、「先代のキャリィ」という言い方が出て来たので、合点が行きました。 軽トラの事を、「軽四輪」と呼ぶ地域があるんですかね?
ますます、どーでもいーこってすが、軽トラの修理代が、12万円? 高いですな。 マフラーが落ちる程 ひどく壊れたのなら、修理するより、もっと程度のいい中古軽トラを買い直した方が、割がいいのでは? 20万円くらい出せば、いくらでも出回っていると思います。 余計なお世話か・・・。
以上、4冊です。 読んだ期間は、2025年の、
≪リヴィエラを撃て≫が、5月8日から、14日。
≪李歐≫が、5月16日から、18日。
≪冷血 上・下≫が、5月19日から、22日。
≪土の記 上・下≫が、5月24から、5月28日。
上下巻二冊でも、感想は、記事一回分になりますから、読書の結果を感想で残す場合、冊数が増えて、読むのが厳しくなります。 もっとも、高村作品の長編は、一冊であっても、充分に長いから、上下二冊と同じくらい、手強いですけど。 それが分かっていても、なぜか、読んでおかないと まずいような気にさせられるのが、不思議。