2007/03/25

アンダーライン

  先週の日曜に図書館で≪ルソー≫を借りて来ました。 あの近代思想家のルソーです。 中央公論社の≪世界の名著シリーズ≫の一冊で、≪学問・芸術論≫、≪社会契約論≫、≪エミール≫の三篇が収録されています。 まだ≪学問・芸術論≫しか読んでいませんが、内容はさておき、思想家の文章というのは、哲学者のそれと違って分かり易くていいですな。 どんなに優れた考察であっても、何が言いたいのか読者に伝わらないのでは意味がありませんからね。

  いや、今回書きたい事は、ルソーの著作そのものについてではないのです。 テーマはずばり、≪書き込み棒線≫です。 本当は≪アンダーライン≫と言いたいんですが、縦書き文の場合、棒線が右側に来るので、アンダーではおかしくなってしまうんですな。 で、その書き込み棒線ですが、私の借りて来た≪ルソー≫に、びっしりと鉛筆で書き込まれていたのです。

  図書館の本に書き込みがあるのは、別に珍しい事ではありません。 私の感覚では、借りた物に書き込みをするという神経そのものが分かりませんが、世の中には他人の迷惑や公衆道徳など、毛ほども意に介さない輩がうじゃうじゃいますから、現実にそういう本があったとしても驚きはしないわけです。 以前、≪年金の計算方法≫という本を手に取ってみた時、前に借りた人間があちこちのページに自分の年金額の計算式を書き込んでいるのを発見し、「馬鹿なジジイだ。 年金を貰う歳になっても、頭の中は三歳児並か?」と呆れた事がありますが、まあ、その場合、書き込んだ理由は分かりますわな。 たまたまその時、手元にメモ紙の類がなかったんでしょう。 しかし、この≪ルソー≫の場合、どういうつもりで書き込んだのかとんと解せぬ書き込み方がしてあったのです。 

  ≪アンダーライン≫という英単語には名詞形の他に動詞形があり、「~を強調する」という意味があるんですが、まあ普通に考えて、強調したい部分だけに線を引くわけですな。 ところが、この≪ルソー≫に書き込まれている棒線は、何行にも亘って続いているのです。 時には1ページ分全部の行に引いてある事もあります。 一部分を強調したくて引いたのではない事は確実。 では、この男(こんな事をするのは、男に決まっています)は、どんな目的があって、棒線を引きまくったのでしょう? しかも、奇妙な事に、棒線は、≪ルソーの思想と作品≫という翻訳者によって書かれた伝記部分に集中しているのです。 伝記は巻頭から50ページほどありますが、その前半が最も書き込みが激しく、後半になると徐々に減り、ルソーの著作部分になると、全く見られなくなります。 ルソーに興味があるのなら、本文にも書き込みがありそうなものですが、なぜ伝記部分だけなのでしょう? 解せんなあ。 解せんぞ。

  私は、鉛筆で書き込みがしてある本を借りてしまった場合、極力、消しゴムで消すようにしています。 今回は多くて骨が折れましたが、何とか全部消しました(よく見ると私の前にも誰かが消しゴムを掛けた形跡があり、同志を得たようで勇気付けられました)。 消しながら、この書き込みをした奴がどういうつもりだったのか考えてみたんですが、もしかしたら、この本を借りた証拠を残したかったんじゃないでしょうか? つまり、こんな感じです。

「俺はルソーを借りたんだよ。 あの有名なルソーだぜ。 こんな難しい思想書を借りたんだ。 どうだ、凄いだろう。 おまえら、ルソー読めるか? 俺はちゃんと読んでるんだぜ。 飛ばし読みじゃないぜ。 一行一行全部読んでるんだ。 よし、証拠に線を引いといてやろう。 次に借りる奴は、≪こんな難しい本を読んだ人がいるんだ!≫って驚くに違いないぞ」

  うーむ、実にありそうな心理です。 今でこそコンピューター処理になっていますが、この本が図書館に購入された頃は、貸し出しカードに名前を書き込んでいましたから、誰が読んだかカードを見れば分かったわけですが、その時代にこういう子供じみた発想でせっせと書き込みしていた馬鹿がいなかったとは限りません。 いや、いたでしょう、きっと。

  ところが、伝記部分に傍線を引きまくっている内に、読む事に疲れて来た。 後半になるとたまにしか引かなくなり、本文に辿り着いた時には、この本にすっかり嫌気が差し、それ以上読まずに返してしまった。 大方そんなところではないでしょうか? 冒頭にも書きましたが、ルソーは別に難しい文章ではなく、新聞が読める程度の読解力で充分読めます。 まして、伝記部分はもっと平易に書かれているので、それこそ小学生でもすらすら読めます。 たぶん、この書き込みをした奴は、そんな事にも気付かなかったのでしょう。 馬鹿すぎて・・・・。 情けないのう、とことん。

  ささやかな教訓ですが、とにかく、図書館の本に何かを書きこもうなどと考えてはいけません。 どう転んでも馬鹿としか思われません。 どうしても書きこみをしたいなら、自分で買った本に書けば宜しい。 もっとも、その場合でも、他人から見ればやはり馬鹿としか思われませんが、人に迷惑が掛からないだけましでしょう。

2007/03/18

お国料理

  ≪ぐるナイ・ゴチ≫を欠かさず見ているんですが、お店によって番組の最後に、「通常営業ではリーズナブルなメニューもあります」というテロップが出る事があります。 あれは、高級店と思われたい反面、値段が高い店と思われたくないんでしょうな。 実際問題として、一品5000円もするような店に入れる人はそうそういないと思います。 中華料理では、フカヒレやアワビなど高級食材を使った料理を頼まなければそんなに高くなりませんが、フランス料理やイタリア料理の場合、日本で営業している専門店の大半は、ぼったくっているようです。 特にフランス料理は明治以来、伝統的に高価で、安い店というのはあまり聞きません。 

  フォアグラやトリュフを使わなければそんなに高くなるはずがないんですが、日本国内で普通に手に入る食材で作った料理でも、仰天するような値段が付けられています。 一番驚くのはフランス人らしく、「ただの料理にこんな値段は馬鹿げている!」と呆れ返るらしいです。 では、安くすれば大繁盛するかというと、そうでないから困るんですな。 フランス料理を食べに行くお客というのは、パーッと散財してリッチな気分を味わうのが最大の目的なので、安い店には来ないというのです。 高級を装えば装うほどお客が来るのだから、値段がどんどん高くなるという次第。 見事な悪循環です。

  中華料理やイタリア料理に比べて、フランス料理のメニューというと代表的な品目をぱっと思いつきませんが、庶民感覚から遠くて、家庭料理に入って来ていないからでしょう。 フランス料理の事を特定の品目ではなく調理方法と捉えれば、身近にあるいろんな食材に応用できると思うんですが、惜しいことです。

  そういえば、フランス料理の事を「フレンチ」と呼ぶ人が多いですが、ちょっと考えれば気づく事、「フレンチ」は英語です。 フランス語では、「キュイズィーヌ・フランセーズ」ですから、強いて略すなら「フランセーズ」とすべきでしょう。
  中華料理は、中国語では、「中国菜・中菜・中餐」などと言います。 「料理」という単語はありますが、「整える・処理する」という意味しかありません。 ちなみに、「飯店」というのはホテルの事で、レストランは、「菜館・餐庁」と言います。 これは日本で勘違いされている中国語の典型例になってますな。
  イタリア料理をイタリア語で何というのか、和伊辞典を持っていないから分かりません。 残念。 その内、入手する予定。


  そうそう、日本政府が、外国で営業している日本料理店の認証制度を作ろうとしていたのを諦めたそうです。 過大な光熱水費で渦中の人になっている農水相が提案した事なので、「ヤバい・・・」と思って引っ込めたのかもしれませんが、もともと無茶苦茶な計画だったので、ポシャって幸いでした。 外国の事を批判する前に、まず自分の国の事を省みるべきです。 そんな厳密な事を言い出したら、日本国内の外国料理店のほとんどは、看板を外さなければならなくなります。 ラーメン屋なんてどうなるのよ? 外国料理を勝手にアレンジしている点では、日本が一番度が過ぎているんじゃないですかね?

  この件に絡んで、新聞記事に「世界中に広まった日本料理が・・・」といった表現が目立ちましたが、「え? いつの間にどんな日本料理が世界中に広まったの?」と驚いてしまいました。 そもそも、日本料理とはいいますが、特徴的な調理法があるわけではなく、世界各地にある土着料理の域を出ません。 寿司や天ぷらのような特定品目の店が、外国の大都市に点在して、主にその地に住んでいる日本人を常連客として営業していますが、その程度のレベルでは、世界に広まったとはいえないでしょう。 日本料理店に限らず、世界の大都市には大抵の民族の料理店があるものです。 健康ブームで、豆腐が世界的に着目されているのは事実ですが、ちょっと考えれば気づく事、豆腐は中国食材です。 誉められたからといって、借り物を自分の物だと思い込むのは、非常に愚かしいですな。

2007/03/11

ロボットアニメの落日

  これはひどい・・・・。

  いやその、某テレビ局の深夜アニメ枠で放送している≪コードギアス・反逆のルルーシュ≫というロボットアニメの事です。 もうそろそろ終わりが近いと思うんですが、今までずっと見ないで来たのを、先日あるイラストレーターの個人サイトを覗いていたら、「結構面白い」と書いてあったので、「ほう。 じゃあ、試しに見てみるか」と思って、先週一度見て見たのです。 感想は×。 しかし一話だけで判断するのもまずいと思い、今週も見てみました。 その感想は、××。 こーりゃ、お話にならんでしょうが、あーた。

  詳しい人はご存知と思いますが、伝統的に日本のアニメの中心的なジャンルだった巨大ロボット物は、≪エヴァンゲリオン≫の後、かれこれ10年も迷走を続けています。 ≪エヴァ≫があまりにも印象強い作品だった為に、他のアニメ監督達が軒並み感覚を狂わされてしまい、どんな話を作っていいのか分からなくなってしまったんですな。 ≪エヴァ≫のパクリ系か、≪ガンダム≫の焼き直し系、さもなければ、開き直った子供向けの三種に整理されてしまい、他のオリジナルタイプが全く出て来なくなりました。 しかも、絵やストーリーの品質は年を追うごとに落ちる一方です。 SFアニメのファンとしては、涙なくしては見られぬ有様。

  それでも、SF設定がちゃんと敷いてあれば、まだ見られるのです。 たとえば、昨年(2006年)の夏に放送した≪ゼーガ・ペイン≫ですが、ロボットがCGで戦闘場面には何の魅力も感じられなかったものの、SF設定の方はしっかりしていました。 シリーズ構成の配分がもうちょっと巧ければもっと面白くなったと思いますが、まあ最近のロボットアニメとしては上出来の口に入るでしょう。 キャラターデザインも巧かったし、全体的に見て悪い印象は残っていません。

  それに比べると、同じサンライズの作品でも、≪コードギアス≫は、何かしら批評を加えるのをためらわれるくらいレベルが低いです。 この感覚は何といいましょうか、著名な演劇評論家が、幼稚園のお遊戯会に招待されて、≪桃太郎≫の批評をさせられるような情けなさと通じるものがあります。 あまりにも馬鹿臭くて、真面目に貶す気にもならないのです。

  それでも貶さないと、このひどさは伝わらないから貶しますが、この話を考えた奴は、頭の中が小学校高学年程度のレベルで止まっていると思います。 いや、最初から子供向けに作ったというなら、それでも一向に構いませんが、作品の世界設定を見るに、ガンダムやエヴァと同様、学生以上を対象にしていると思われるから、話の稚拙さが殊更に際立ってしまって、この上なくグロテスクなのです。

  物語を大雑把に説明しますと、世界の三分の一を支配している≪ブリタニア≫という国から、占領下にある≪日本≫を独立させるレジスタンスの話なんですが、この設定を聞いただけで、熱が出てきます。 実は私、このアニメの放送が始まる前に、一応テレビ局のサイトを覗いて梗概だけ読んでいるんですが、その時点で嫌な予感に襲われ、「こんなの見てもしょうがないな」と思って、無視してきたのです。 その予感は正しかったんですな。 見なきゃ良かった。 つくづく他人の薦めなんぞに惑わされるもんじゃないです。

  ≪ブリタニア≫というのは、名前から見て分かるように、明らかにイギリスの事ですが、他に≪中華連邦≫、≪EU≫などという名前が出てきて、現在の国際社会を摘み食い的にもじっているのが分かります。 それでいて、支配者ブリタニア人は、18世紀頃の王室・貴族なのです。 なんじゃ、こりゃ? 未来というより、異次元世界のつもりなのかもしれませんが、それにしても、この組合せは異様です。 恐らく、この話の原案を考えた人物は、猛烈なヨーロッパ・コンプレックスの持ち主で、しかもヨーロッパの代表というと、イギリスしか思いつかないのでしょう。 日本をヨーロッパ文明に侵略された国だと考えているから、この種の発想が出て来るのだと思います。

  実際には、日本を侵略した外国は、有史以来、モンゴルだけなんですが、漠然とした歴史知識しか持っていないから、こんなねじくれ曲がった思い違いが生まれて来るのです。 このアニメ、イギリス人が見たら、まず吹き出し、次にムカムカしてくるでしょうな。 日本を侵略など一度もした事がないばかりか、明治の近代化ではなにくれとなく世話をしてやり、その上、第二次世界大戦では日本に戦争を仕掛けられた側なのに、侵略者のイメージで扱われてしまっているのですから。 現実問題として、このアニメを見た日本の子供はみんな、「イギリスは日本を侵略した過去がある」と思い込む恐れがありますから、イギリス大使館は、正式に抗議をした方が良いです。 「まあ、創作の世界だから・・・」などと甘く見ていると、誤解がどんどん増幅します。 一旦、国際問題になれば、アニメの監督達も、無神経な作品を作らないように気をつけるようになるでしょう。

  世界設定も不気味ですが、絵がまた、ど下手。 まともに描いてあるのは頭と顔だけで、首から下はデッサン狂いが甚だしく、手足を長く見せたいばかりに針金人形と化しており、もはや人間の形態になっていません。 少女漫画的と言えば言えますが、それでも70年代の感覚ですな。 このキャラクター原案は、≪カードキャプター・さくら≫と同じグループがやっているんですが、よくもまあここまで腕が落ちたなと呆れ返ります。 サンライズもサンライズで、こんなキャラデで、ロボットアニメを作ろうという神経が分かりません。 そういえば、≪ガンダム・シード≫の二シリーズも、首から下がひょろひょろでしたが、 大丈夫か、サンライズ? どうしてまた、こんな≪描けない奴ら≫にキャラデを任せるのか、とんと理解できません。 他にうまい人はいくらでもいるでしょうに。

  更に情けないのがメカデザインで、まるっきり、子供向けロボット・ヒーロー物のそれなのです。 話はきな臭い戦争物なのに、動いているのは子供のオモチャ。 一体誰がそんな物を面白いと思うのよ? また、動かし方も全く芸が無く、その上雑です。 昔と違って、製作者達に巨大ロボットを動かしたいという欲望が欠けているから、アニメの動きに迫力が現れてこないんですな。 

  思うんですが、こんな話しか思いつかないというなら、無理にロボットアニメを作る必要はないんじゃないですかね? どうせ、深夜放送で大した人数は見ていないんですから、作っても作らなくても同じでしょう。 また、このアニメの製作に関わった人達に聞いてみたいんですが、あんたら、本当にこんな低レベルの作品を作りたくてアニメの世界に入ったの? 違うでしょう? もっとゾクゾクするようなリアルで迫力があるアニメが作りたかったんじゃないの? こりゃちょっと、ひどすぎるで。 自分で分かるでしょうが。

2007/03/04

働いていてこそ

  星新一さんのショートショートに、≪明日は休日≫という作品がありました。 題名がうろ覚えですが、たぶんそんなだったと思います。 オートメーションやロボットの普及が進み、人間は誰一人働かなくてもよくなった時代なんですが、人々はそれでも毎日会社へ行き、自分のデスクに向かうのです。 椅子にスイッチがついていて、一日座っていると出勤した事になります。 別に何の仕事もないのですが、ただその椅子に座る為だけに会社に来るんですな。 なぜそんな事をするのかというと、週末に休日を楽しむ為なのです。 毎日何もやる事がなくてブラブラしていると面白くもなんともなく、精神的におかしくなってしまうので、それを防ぐ為に出勤する日と休日をわざわざ作って人生の楽しみを確保しているというわけ。

  私がその作品を読んだのは中学生の時で、その時はあまりピンと来ませんでした。 「そんなものかなあ。 毎日休みでも退屈なんてしないと思うけどなあ」と感じた記憶があります。 しかし、実際に社会に出て働き始めてからは、この作品を思い出す事が非常に多いです。 確かに人間は働き続けていないと、精神衛生に宜しくありません。 「世間体上、家で遊んでばかりいると肩身が狭い」という事は別にしても、やはり、≪やらなければいけない事≫を持っていた方が日々がキチンキチンと過ぎて行きます。

  私はひきこもっていた時期もあるのですが、あれは嫌なものでした。 ひきこもりという人種の哀しさは、自分の状況をこの下なく惨めだと分かっていながら、外の世界が怖くて出て行く事が出来ないという、≪行き場の無さ≫にあります。 「自分の部屋だけが居場所」なのではなく、自分の部屋なのに、そこがいてはいけない場所になっているのが問題なんですな。 その点、フリーターや学生は行く所があるだけまだましな生活をしていると言えます。 もう随分昔の事なので、ひきこもり時代に懐旧の情を覚える事はありますが、もしこれから同じ事をするとなったら、御免被ります。 

  私の両親は二人とももう仕事を辞めて年金生活に入っていますが、年を追う毎に生活が崩れていくのがありありと観察できて、唖然としてしまいます。

  母はやる事がないので、ケーブルテレビのチャンネル数をば増やして、日がな一日コタツに寝転んで、映画やドラマばかり見ています。 その間菓子を食べ続けるので、ぶくぶく太り、現役時代と同一人物とは思えないような体形になってしまいました。 一応、家事はやっていますが、前と変わりないのは料理くらいのもので、以前は近所一番の綺麗好きだった人が、いまや廊下の隅が埃だらけでも気にもしなくなりました。 どうしょもないねえ。

  父はもっとやる事がなくて、自分の衣類の洗濯の他は、犬の散歩しか日課がありません。 庭木の手入れはやりますが、それは季節によるので、毎日というわけではないです。 そうそう暇潰しに鋏を入れられては、木の方がたまりませんからな。 若い頃から健康には気をつけていた人なので、今でもこれといって悪い所はありませんが、やはりやる事がない人というのは、傍から見ると廃人のように見えてしまいます。

  うちの隣に以前住んでいた夫婦の話なんですが、会社勤めをしていた旦那さんが定年退職し、ずっと家にいるようになりました。 その頃は、廃棄物処理法が緩かった時代で、庭でゴミを燃やす人がかなりいたんですが、隣のおじさんが退職したと聞いて私は嫌な予感に襲われました。 やる事がなくなった亭主は往々にして、ゴミ焼きをしたがるものだからです。 そして、この予感は的中。 2ヵ月ばかり経った頃、本当に庭でゴミを燃やし始めました。 奥さんに、「燃やせる物があったら、どんどん持って来て」と言っているのが聞こえて来ます。 隣家としては、そうそう煙に燻されたのではたまったものではありません。 しかし、ありがたい事に、このゴミ焼きはそんなに長く続きませんでした。 一軒の家で燃やすゴミなどそうそう大量に出るものではなく、毎日の日課にするのは土台無理だったのです。 早く気付いてくれてよかった。

  ところが、このおじさん、とことんやる事がなくて絶望したのか、程なく病気になって寝込んでしまい、夫婦二人だけでは生活が出来なくなって、奥さんの出身地へ引っ越していきました。 そして、おじさんは、転地が裏目に出たのか、その年の内に亡くなりました。 退職してから半年もたたずに世を去ったわけです。 何て勿体ない老後でしょう。 やる事がなくなるというのは恐ろしい事なんですねえ。 このおじさんに限らず、定年退職した途端にあの世からお迎えが来るというケースは割と多いようです。 張り詰めていた気がふっと抜けて、生物として生命力を維持できなくなるのかもしれませんな。

  「早く定年を迎えて、悠々自適で暮らしたい」と思っている人は無数にいると思いますが、現実にそういう状況になっている人達を観察すれば、悠々自適などという生活が実は存在しないのだという事が分かると思います。 よほど趣味の世界が充実している人でも、時間を持て余さないというわけには行かないでしょう。 そうそう、ゴルフだの車だのギャンブルだの、お金が掛かる趣味は、仕事を辞めたら実質的に出来なくなるので、働いている内に他の趣味にシフトしておく方が賢明です。 図書館で本を借りて読書なども、割と続きません。 歳を取って来ると、目が弱ってしまうんですな。 働いている間は、「趣味ならば、どんなに時間を費やしても飽きる事などない」と漠然と思っていますが、実際にやってみれば、やれる範囲の事はすぐにやりつくしてしまう事に気付くと思います。

  傍から見ても、遊んでいる人間というのは、決して尊敬を受けられるような存在ではありません。 一日ほんの数時間でも働いている人の方が、偉く見えます。 江戸時代の大店のご隠居みたいな扱いを、現代でも受けられると思ったら大間違い。 現代人は、働いている内が花なんですな。