アンダーライン
先週の日曜に図書館で≪ルソー≫を借りて来ました。 あの近代思想家のルソーです。 中央公論社の≪世界の名著シリーズ≫の一冊で、≪学問・芸術論≫、≪社会契約論≫、≪エミール≫の三篇が収録されています。 まだ≪学問・芸術論≫しか読んでいませんが、内容はさておき、思想家の文章というのは、哲学者のそれと違って分かり易くていいですな。 どんなに優れた考察であっても、何が言いたいのか読者に伝わらないのでは意味がありませんからね。
いや、今回書きたい事は、ルソーの著作そのものについてではないのです。 テーマはずばり、≪書き込み棒線≫です。 本当は≪アンダーライン≫と言いたいんですが、縦書き文の場合、棒線が右側に来るので、アンダーではおかしくなってしまうんですな。 で、その書き込み棒線ですが、私の借りて来た≪ルソー≫に、びっしりと鉛筆で書き込まれていたのです。
図書館の本に書き込みがあるのは、別に珍しい事ではありません。 私の感覚では、借りた物に書き込みをするという神経そのものが分かりませんが、世の中には他人の迷惑や公衆道徳など、毛ほども意に介さない輩がうじゃうじゃいますから、現実にそういう本があったとしても驚きはしないわけです。 以前、≪年金の計算方法≫という本を手に取ってみた時、前に借りた人間があちこちのページに自分の年金額の計算式を書き込んでいるのを発見し、「馬鹿なジジイだ。 年金を貰う歳になっても、頭の中は三歳児並か?」と呆れた事がありますが、まあ、その場合、書き込んだ理由は分かりますわな。 たまたまその時、手元にメモ紙の類がなかったんでしょう。 しかし、この≪ルソー≫の場合、どういうつもりで書き込んだのかとんと解せぬ書き込み方がしてあったのです。
≪アンダーライン≫という英単語には名詞形の他に動詞形があり、「~を強調する」という意味があるんですが、まあ普通に考えて、強調したい部分だけに線を引くわけですな。 ところが、この≪ルソー≫に書き込まれている棒線は、何行にも亘って続いているのです。 時には1ページ分全部の行に引いてある事もあります。 一部分を強調したくて引いたのではない事は確実。 では、この男(こんな事をするのは、男に決まっています)は、どんな目的があって、棒線を引きまくったのでしょう? しかも、奇妙な事に、棒線は、≪ルソーの思想と作品≫という翻訳者によって書かれた伝記部分に集中しているのです。 伝記は巻頭から50ページほどありますが、その前半が最も書き込みが激しく、後半になると徐々に減り、ルソーの著作部分になると、全く見られなくなります。 ルソーに興味があるのなら、本文にも書き込みがありそうなものですが、なぜ伝記部分だけなのでしょう? 解せんなあ。 解せんぞ。
私は、鉛筆で書き込みがしてある本を借りてしまった場合、極力、消しゴムで消すようにしています。 今回は多くて骨が折れましたが、何とか全部消しました(よく見ると私の前にも誰かが消しゴムを掛けた形跡があり、同志を得たようで勇気付けられました)。 消しながら、この書き込みをした奴がどういうつもりだったのか考えてみたんですが、もしかしたら、この本を借りた証拠を残したかったんじゃないでしょうか? つまり、こんな感じです。
「俺はルソーを借りたんだよ。 あの有名なルソーだぜ。 こんな難しい思想書を借りたんだ。 どうだ、凄いだろう。 おまえら、ルソー読めるか? 俺はちゃんと読んでるんだぜ。 飛ばし読みじゃないぜ。 一行一行全部読んでるんだ。 よし、証拠に線を引いといてやろう。 次に借りる奴は、≪こんな難しい本を読んだ人がいるんだ!≫って驚くに違いないぞ」
うーむ、実にありそうな心理です。 今でこそコンピューター処理になっていますが、この本が図書館に購入された頃は、貸し出しカードに名前を書き込んでいましたから、誰が読んだかカードを見れば分かったわけですが、その時代にこういう子供じみた発想でせっせと書き込みしていた馬鹿がいなかったとは限りません。 いや、いたでしょう、きっと。
ところが、伝記部分に傍線を引きまくっている内に、読む事に疲れて来た。 後半になるとたまにしか引かなくなり、本文に辿り着いた時には、この本にすっかり嫌気が差し、それ以上読まずに返してしまった。 大方そんなところではないでしょうか? 冒頭にも書きましたが、ルソーは別に難しい文章ではなく、新聞が読める程度の読解力で充分読めます。 まして、伝記部分はもっと平易に書かれているので、それこそ小学生でもすらすら読めます。 たぶん、この書き込みをした奴は、そんな事にも気付かなかったのでしょう。 馬鹿すぎて・・・・。 情けないのう、とことん。
ささやかな教訓ですが、とにかく、図書館の本に何かを書きこもうなどと考えてはいけません。 どう転んでも馬鹿としか思われません。 どうしても書きこみをしたいなら、自分で買った本に書けば宜しい。 もっとも、その場合でも、他人から見ればやはり馬鹿としか思われませんが、人に迷惑が掛からないだけましでしょう。
いや、今回書きたい事は、ルソーの著作そのものについてではないのです。 テーマはずばり、≪書き込み棒線≫です。 本当は≪アンダーライン≫と言いたいんですが、縦書き文の場合、棒線が右側に来るので、アンダーではおかしくなってしまうんですな。 で、その書き込み棒線ですが、私の借りて来た≪ルソー≫に、びっしりと鉛筆で書き込まれていたのです。
図書館の本に書き込みがあるのは、別に珍しい事ではありません。 私の感覚では、借りた物に書き込みをするという神経そのものが分かりませんが、世の中には他人の迷惑や公衆道徳など、毛ほども意に介さない輩がうじゃうじゃいますから、現実にそういう本があったとしても驚きはしないわけです。 以前、≪年金の計算方法≫という本を手に取ってみた時、前に借りた人間があちこちのページに自分の年金額の計算式を書き込んでいるのを発見し、「馬鹿なジジイだ。 年金を貰う歳になっても、頭の中は三歳児並か?」と呆れた事がありますが、まあ、その場合、書き込んだ理由は分かりますわな。 たまたまその時、手元にメモ紙の類がなかったんでしょう。 しかし、この≪ルソー≫の場合、どういうつもりで書き込んだのかとんと解せぬ書き込み方がしてあったのです。
≪アンダーライン≫という英単語には名詞形の他に動詞形があり、「~を強調する」という意味があるんですが、まあ普通に考えて、強調したい部分だけに線を引くわけですな。 ところが、この≪ルソー≫に書き込まれている棒線は、何行にも亘って続いているのです。 時には1ページ分全部の行に引いてある事もあります。 一部分を強調したくて引いたのではない事は確実。 では、この男(こんな事をするのは、男に決まっています)は、どんな目的があって、棒線を引きまくったのでしょう? しかも、奇妙な事に、棒線は、≪ルソーの思想と作品≫という翻訳者によって書かれた伝記部分に集中しているのです。 伝記は巻頭から50ページほどありますが、その前半が最も書き込みが激しく、後半になると徐々に減り、ルソーの著作部分になると、全く見られなくなります。 ルソーに興味があるのなら、本文にも書き込みがありそうなものですが、なぜ伝記部分だけなのでしょう? 解せんなあ。 解せんぞ。
私は、鉛筆で書き込みがしてある本を借りてしまった場合、極力、消しゴムで消すようにしています。 今回は多くて骨が折れましたが、何とか全部消しました(よく見ると私の前にも誰かが消しゴムを掛けた形跡があり、同志を得たようで勇気付けられました)。 消しながら、この書き込みをした奴がどういうつもりだったのか考えてみたんですが、もしかしたら、この本を借りた証拠を残したかったんじゃないでしょうか? つまり、こんな感じです。
「俺はルソーを借りたんだよ。 あの有名なルソーだぜ。 こんな難しい思想書を借りたんだ。 どうだ、凄いだろう。 おまえら、ルソー読めるか? 俺はちゃんと読んでるんだぜ。 飛ばし読みじゃないぜ。 一行一行全部読んでるんだ。 よし、証拠に線を引いといてやろう。 次に借りる奴は、≪こんな難しい本を読んだ人がいるんだ!≫って驚くに違いないぞ」
うーむ、実にありそうな心理です。 今でこそコンピューター処理になっていますが、この本が図書館に購入された頃は、貸し出しカードに名前を書き込んでいましたから、誰が読んだかカードを見れば分かったわけですが、その時代にこういう子供じみた発想でせっせと書き込みしていた馬鹿がいなかったとは限りません。 いや、いたでしょう、きっと。
ところが、伝記部分に傍線を引きまくっている内に、読む事に疲れて来た。 後半になるとたまにしか引かなくなり、本文に辿り着いた時には、この本にすっかり嫌気が差し、それ以上読まずに返してしまった。 大方そんなところではないでしょうか? 冒頭にも書きましたが、ルソーは別に難しい文章ではなく、新聞が読める程度の読解力で充分読めます。 まして、伝記部分はもっと平易に書かれているので、それこそ小学生でもすらすら読めます。 たぶん、この書き込みをした奴は、そんな事にも気付かなかったのでしょう。 馬鹿すぎて・・・・。 情けないのう、とことん。
ささやかな教訓ですが、とにかく、図書館の本に何かを書きこもうなどと考えてはいけません。 どう転んでも馬鹿としか思われません。 どうしても書きこみをしたいなら、自分で買った本に書けば宜しい。 もっとも、その場合でも、他人から見ればやはり馬鹿としか思われませんが、人に迷惑が掛からないだけましでしょう。