万城目学作品②
二回目にして、もうおしまい。 刊行されている本が少ないから、致し方ないです。 今回は、後ろ二冊がエッセイ集なのですが、かなり辛い感想を書いてあります。 万城目さんの盲目的ファンの方は、読まない方が良いかもしれません。
≪プリンセス・トヨトミ≫
万城目学さんの長編小説第三作。 ≪鹿男あをによし≫でも驚いていたのですが、この作品では、更に作風が進化し、思わず、「うーむ・・・」 と唸らされる完成度の高さを見せています。 人間とは、ほんの数年の間に、こんなに成長するものなのでしょうか。 ≪京都→奈良→大阪≫と進む、近畿大都市シリーズの関連性が無かったら、別人が書いたのではないかと思うほど、それぞれ作風が異なっています。
≪プリンセス・トヨトミ≫という書名ですが、内容を直截的に表すのであれば、≪大阪国≫という名前にした方が的確です。 まさに、大阪国について書かれた小説なのですから。 豊臣家が滅亡した後、その子孫を隠密裏に守って来た大阪の町人達の組織が、明治維新後は、大阪府の成人男子200万人全員が参加する、≪大阪国≫となり、日本国と重なる形で暗然と存在しているというのが基本設定。 現在でも、豊臣家の直系子孫を密かに守り続けていて、それが女子中学生であるため、≪プリンセス・トヨトミ≫というわけ。
この設定を読んだだけでも、この物語が、壮大な空想力の産物である事が分かりますが、ストーリーの展開も実に壮大でして、大阪国の危機に際して、200万人の内、120万人が大阪城に集合するという、とてつもない情景の場面がクライマックスになっています。 もちろん、現実にはありえない事なのですが、話の紡ぎ方が緻密且つ巧妙なために、本当にそんな事が起きているような気にさせられるのです。
群像劇なので、主人公はいません。 主要登場人物は、三群に分かれています。
一つは、日本国の会計検査院の役人。 大阪国は暗黙の合意により日本国からその存在を認められているのですが、毎年5億円の予算を取っているために、会計検査院が調査に入るのです。
一つは、豊臣家の末裔である女子中学生と、その幼馴染である性同一性障害の少年。 および、彼らと悶着を起こす同じ学校の生徒達。
一つは、総理大臣を始めとする、大阪国の指導部の面々。
この三者が入り組んで、≪会計検査院×大阪国≫という対立軸を構成し、非常に分かり易く、話が進んで行きます。 これだけ荒唐無稽な設定であるにも拘らず、実に自然にストーリーが流れていくのは、正に神業的技量。 繰り返しますが、≪鴨ホル≫と同じ人が書いたとは、とても思えません。
≪鴨ホル≫と≪鹿男≫は、全編標準語でしたが、この作品では、セリフの部分が大阪方言になっています。 それが、大変カッコいい。 万城目学さんは大阪の出身なので、本物の大阪方言を自在に使いこなせるわけです。 これが、「大阪出身者でなければ、決して、こういう作品は書けなかっただろう」 と思わせる要素の一つになっています。
あまり誉めすぎるのも癪なので、強いて難を言うならば、「豊臣家というのは、子孫を大切に守ってやるほど、大阪にとって価値がある家系だったのかなあ・・・?」 という気がせんでもなし。 しかし、「豊臣家の子孫を守る」 というのは、大阪国のシンボル的な存在理由に過ぎず、大阪国を維持する真の意義は、「父から息子に伝えられる、≪信用≫の継承なのだ」 と説かれるに至って、「ははあ・・・、深い所まで、よく練ってあるのう」 と、感服します。
大阪府の人も、それ以外の地域の人も、一読の価値あり。 長いですが、どこを切っても面白いので、途中で飽きるような事は、まずないと思います。
≪ザ・万歩計≫
万城目学さんの、初エッセイ集。 小説の方を読み終えたので、ついでに図書館にあったエッセイ集の方も借りてみたんですが・・・・、うーん、まあ、こんなものかなあ・・・、という感じでして、評価以前に、感想が湧いて来ません。
現代に於けるエッセイは、作家に関係なく、みんな同じ問題を抱えていると思うのですが、一冊の本にして出版するほどの価値が無いのではないかと思うのです。 昔は、著名作家のエッセイ集といったら、作品の一部として公認されていたのですが、ネットでブログが登場してからこっち、エッセイは一般人でも書ける最底辺の文学ジャンルになり、価値がガクンと落ちてしまいました。 実際、この本に載っているエッセイを読んでも、ブログ作者達が書く記事と、根本的な違いが感じ取れません。
プロの作家だからといって、年柄年中・四六時中、変わった体験ばかりしているわけではないので、結局は、身近な出来事とか、思い出話とか、旅行記とか、そんな所に落ち着いてしまいます。 そういう内容ならば、一般人でも書けるというのですよ。
もちろん、プロ作家ですから、文章は一般人より巧いですが、それも良し悪しでして、エッセイにはそもそも、≪巧さ≫よりも、≪率直さ≫の方が強く求められる傾向があり、その点、この本のエッセイは、出来過ぎてしまっている感が無きにしもあらず。
全部で31編ありますが、その中で良い物を挙げますと、≪夜明け前≫、≪白い花≫、≪大阪弁について私が知っている二、三の事柄≫、≪技術の時間≫、≪藪の中≫、≪ねねの話≫、≪っち≫、≪Fantastic Factory Ⅱ≫、といったところ。
≪白い花≫と、≪ねねの話≫は、身内の死を扱ったものですが、感情を抑えて淡々と語っていくところは、やはりプロならではと思わせます。 ≪藪の中≫は、作者の子供の頃に見た不思議な鳥の話ですが、鳥そのものよりも、一緒に見たはずの家族の記憶にズレがあるいう点が興味深いです。
≪っち≫は、作者が以前勤めていた会社の話。 静岡県の工場に赴任するのですが、方言を知らずに、言葉の意味を取り違えていたという内容。 確かに、静岡では、「○○達」の事を、「○○っち」と言います。 でも、関東の方でも、「俺っち」とか言いますぜ。 ちなみに、万城目さんは、大阪の人です。
≪大阪弁について私が知っている二、三の事柄≫も言語関係で、標準語のつもりで書いたのに、編集者に修正され、初めて大阪弁だったと気づいた言葉がいくつかあるという話。 たとえば、「声を震わして」は大阪弁で、標準語では、「声を震わせて」になるのだとか・・・・。 え゛っ? 私は静岡県東部の人間ですが、初耳です。 少なくとも私は、両方とも使います。 国語辞典で、「震わす」と、「震わせる」を引くと、活用形が違うだけで、どちらも同じ意味で載っており、方言という説明はありません。
更に、「合わして」と「合わせて」も同じ関係だと書いてありますが、そちらも初耳。 いやいやいや、両方使いますって。 おかしいのは、わざわざ修正を求めた編集者の方でしょう。 自分が今までの人生で、「合わせて」という言い方しかして来なかったものだから、「合わして」を、万城目さんの出身地である大阪の方言と決めつけてしまったんじゃないでしょうか。 いるんだわ、そういう自己中心的な輩が。 特に、東京周辺に夥しく。
言語には、≪幅≫というものが必ずあり、個人により、家族により、町内により、地域により、少しずつ使う言葉が異なります。 方言の違いは、正に、その幅のズレが大きくなって生まれるものです。 そして、標準語は、方言の最小公倍数的に成立するので、一つの方言よりも、語彙を多く含みます。 「合わす」と「合わせる」は、釣りが来るくらい充分に標準語に含まれていると思いますぜ。 大体、聞いたり読んだりした時、意味が通じれば、それはもう、方言とは言えません。
「すごく面白い」を「すごい面白い」と言うのは、確かに大阪弁の出だと思いますが、これも全国区で通用しますから、もはや方言とは言えないでしょう。 意味を取り違える奴がいますかね? 私も、普通に使ってますよ。 お、いかん、言語関係の話だったので、ちょっとムキになってしまいました。 失敬失敬。
≪Fantastic Factory Ⅱ≫は、これも静岡の工場にいた頃の話ですが、変わった癖のある先輩のエピソードで、何とも言えず、可笑しいです。 このエッセイ集の中では、最も記憶に残りそうな一編。
≪ザ・万遊記≫
これも、万城目学さんのエッセイ集なんですが・・・・・、いやはや、ちいっと、参ったな。 一言で言うと、「こてこて」でして、大阪市民ならでは、ついていけない感があります。
≪ザ・万歩計≫の感想で、「いまや、エッセイは、ブログ記事と大差ない」 と書きましたが、この≪ザ・万遊記≫は、≪ザ・万歩計≫より、尚その傾向が強く感じられます。 このレベルの内容なら、特段 文章が巧くない人のブログでも、普通に見る事ができると思います。
特に悪いのが、スポーツ観戦記でして、思わず目が据わるほど、全っ然、面白くありません。 スポーツの試合というのは、自分がそれを見ていなければ、どんなに言葉で解説されても、なかなか興味を抱く所まで行かないものです。 スポーツ専門の雑誌に載せるだけならともかく、エッセイ集に入れるのは無理があるでしょう。 スポーツ観戦記で唯一読み応えがあるのは、フットサルの試合で著者がアキレス腱を切ってしまう一編だけ。
温泉地へ行って、温泉に入る傍ら、その近場でスポーツ観戦するという、奇妙な企画があるのですが、これがまた、非常につまらない。 こんなお寒い企画、誰が考えたんでしょう。 著者は、それを真面目に実行するわけですが、温泉の体験記なら、テレビの旅番組の方が、映像がつく分、遥かに情報量が多いのであって、エッセイでは、相手になりません。
北京五輪は、現地に行き、日本代表が出る7つの試合を見た感想が書かれていますが、5泊6日もかけて、たったそれだけしか見ないというのは、あまりにもしょぼい。 家にいながらテレビで見れば、優にその3倍は見れたでしょう。 北京ついでに長城を見に行って、雷雨に見舞われ、ずぶ濡れになった件りなど、読んでいて、寒くて仕方ありません。
次にまずいのが、≪渡辺篤史の建もの探訪≫に関するシリーズです。 いくら細かく書いても、所詮、テレビ番組の感想に過ぎないわけで、こういうのは、エッセイとは言わないでしょう。 このシリーズ、とある雑誌に、一年間連載されたものだそうですが、その雑誌も雑誌で、一体何を考えて、依頼したのやら。 こういう物を読んで喜ぶのは、番組のスタッフだけだと思います。
至って真面目な提言ですが、万城目さん、エッセイの仕事は暫く断り、小説執筆に専念した方が、先々、良かろうと思います。 あとがきで、著者自身も、「書き散らした」 と表現していますが、正にその通りでして、≪雑文≫としかいいようがないレベルです。 まだ、長編3作しか世に出していない段階で、雑文にかまけていたのでは、作家としての名声を確立する前に、読者によーく軽んじられてしまいます。 せっかくの才能を、こんな事に浪費したのでは、あまりにも勿体無い。
僅かに面白いのは、≪小公女≫のアニメ版への恨みの一編と、井上靖の小説を一気読みした感想を述べた一編。 さすが、構成の腕に覚えがあるだけあって、文学論の鋭さは大したものです。 この本を読んで分かったんですが、万城目さんは、元々、歴史小説家志望だったようで、≪鴨ホル≫的作品の方が、特殊なケースだった模様。 短期間で成長したのではなく、二作目、三作目と、少しずつ、自分の得意な領域に戻して行ったわけですな。
もう一つ、万城目さんが大学卒業後、数年間勤めていたのは、どうやら、長泉町の東レだったようです。 社名は書いてありませんが、静岡県東部で、沼津に近い繊維会社というと、東レくらいですから。 冬でも蚊が生きていて、驚いたそうです。 確かに、私の家の辺りでも、かなり寒くなるまで、蚊は飛んでいます。 ただ、秋冬の蚊は、刺さないので、あまり気にしてはいませんが。
以上、三冊で、とりあえず、万城目学作品の感想は終わり。 最新単行本の、≪偉大なる、しゅららぼん≫は、すでに図書館に入っているのですが、予約がいっぱいで、当面、読めそうにありません。 最初に見た時、8人待ちだったのが、2、3日したら、16人になっていて、思わず、眉間に皺が寄りました。 今さっき調べてみたら、18人。 ううむ、さすが万城目作品と感服すべきか、はたまた、「三冊くらい、購入しろよ」と、図書館に言うべきか。
「人数がいつまで経っても減らないのなら、お前も予約しておけばいいだろう」と思うでしょうが、私の場合、人様を待たせてまで、早く読みたいとは思わないのです。 まあ、一年もすれば、予約数も減るでしょう。
≪プリンセス・トヨトミ≫
万城目学さんの長編小説第三作。 ≪鹿男あをによし≫でも驚いていたのですが、この作品では、更に作風が進化し、思わず、「うーむ・・・」 と唸らされる完成度の高さを見せています。 人間とは、ほんの数年の間に、こんなに成長するものなのでしょうか。 ≪京都→奈良→大阪≫と進む、近畿大都市シリーズの関連性が無かったら、別人が書いたのではないかと思うほど、それぞれ作風が異なっています。
≪プリンセス・トヨトミ≫という書名ですが、内容を直截的に表すのであれば、≪大阪国≫という名前にした方が的確です。 まさに、大阪国について書かれた小説なのですから。 豊臣家が滅亡した後、その子孫を隠密裏に守って来た大阪の町人達の組織が、明治維新後は、大阪府の成人男子200万人全員が参加する、≪大阪国≫となり、日本国と重なる形で暗然と存在しているというのが基本設定。 現在でも、豊臣家の直系子孫を密かに守り続けていて、それが女子中学生であるため、≪プリンセス・トヨトミ≫というわけ。
この設定を読んだだけでも、この物語が、壮大な空想力の産物である事が分かりますが、ストーリーの展開も実に壮大でして、大阪国の危機に際して、200万人の内、120万人が大阪城に集合するという、とてつもない情景の場面がクライマックスになっています。 もちろん、現実にはありえない事なのですが、話の紡ぎ方が緻密且つ巧妙なために、本当にそんな事が起きているような気にさせられるのです。
群像劇なので、主人公はいません。 主要登場人物は、三群に分かれています。
一つは、日本国の会計検査院の役人。 大阪国は暗黙の合意により日本国からその存在を認められているのですが、毎年5億円の予算を取っているために、会計検査院が調査に入るのです。
一つは、豊臣家の末裔である女子中学生と、その幼馴染である性同一性障害の少年。 および、彼らと悶着を起こす同じ学校の生徒達。
一つは、総理大臣を始めとする、大阪国の指導部の面々。
この三者が入り組んで、≪会計検査院×大阪国≫という対立軸を構成し、非常に分かり易く、話が進んで行きます。 これだけ荒唐無稽な設定であるにも拘らず、実に自然にストーリーが流れていくのは、正に神業的技量。 繰り返しますが、≪鴨ホル≫と同じ人が書いたとは、とても思えません。
≪鴨ホル≫と≪鹿男≫は、全編標準語でしたが、この作品では、セリフの部分が大阪方言になっています。 それが、大変カッコいい。 万城目学さんは大阪の出身なので、本物の大阪方言を自在に使いこなせるわけです。 これが、「大阪出身者でなければ、決して、こういう作品は書けなかっただろう」 と思わせる要素の一つになっています。
あまり誉めすぎるのも癪なので、強いて難を言うならば、「豊臣家というのは、子孫を大切に守ってやるほど、大阪にとって価値がある家系だったのかなあ・・・?」 という気がせんでもなし。 しかし、「豊臣家の子孫を守る」 というのは、大阪国のシンボル的な存在理由に過ぎず、大阪国を維持する真の意義は、「父から息子に伝えられる、≪信用≫の継承なのだ」 と説かれるに至って、「ははあ・・・、深い所まで、よく練ってあるのう」 と、感服します。
大阪府の人も、それ以外の地域の人も、一読の価値あり。 長いですが、どこを切っても面白いので、途中で飽きるような事は、まずないと思います。
≪ザ・万歩計≫
万城目学さんの、初エッセイ集。 小説の方を読み終えたので、ついでに図書館にあったエッセイ集の方も借りてみたんですが・・・・、うーん、まあ、こんなものかなあ・・・、という感じでして、評価以前に、感想が湧いて来ません。
現代に於けるエッセイは、作家に関係なく、みんな同じ問題を抱えていると思うのですが、一冊の本にして出版するほどの価値が無いのではないかと思うのです。 昔は、著名作家のエッセイ集といったら、作品の一部として公認されていたのですが、ネットでブログが登場してからこっち、エッセイは一般人でも書ける最底辺の文学ジャンルになり、価値がガクンと落ちてしまいました。 実際、この本に載っているエッセイを読んでも、ブログ作者達が書く記事と、根本的な違いが感じ取れません。
プロの作家だからといって、年柄年中・四六時中、変わった体験ばかりしているわけではないので、結局は、身近な出来事とか、思い出話とか、旅行記とか、そんな所に落ち着いてしまいます。 そういう内容ならば、一般人でも書けるというのですよ。
もちろん、プロ作家ですから、文章は一般人より巧いですが、それも良し悪しでして、エッセイにはそもそも、≪巧さ≫よりも、≪率直さ≫の方が強く求められる傾向があり、その点、この本のエッセイは、出来過ぎてしまっている感が無きにしもあらず。
全部で31編ありますが、その中で良い物を挙げますと、≪夜明け前≫、≪白い花≫、≪大阪弁について私が知っている二、三の事柄≫、≪技術の時間≫、≪藪の中≫、≪ねねの話≫、≪っち≫、≪Fantastic Factory Ⅱ≫、といったところ。
≪白い花≫と、≪ねねの話≫は、身内の死を扱ったものですが、感情を抑えて淡々と語っていくところは、やはりプロならではと思わせます。 ≪藪の中≫は、作者の子供の頃に見た不思議な鳥の話ですが、鳥そのものよりも、一緒に見たはずの家族の記憶にズレがあるいう点が興味深いです。
≪っち≫は、作者が以前勤めていた会社の話。 静岡県の工場に赴任するのですが、方言を知らずに、言葉の意味を取り違えていたという内容。 確かに、静岡では、「○○達」の事を、「○○っち」と言います。 でも、関東の方でも、「俺っち」とか言いますぜ。 ちなみに、万城目さんは、大阪の人です。
≪大阪弁について私が知っている二、三の事柄≫も言語関係で、標準語のつもりで書いたのに、編集者に修正され、初めて大阪弁だったと気づいた言葉がいくつかあるという話。 たとえば、「声を震わして」は大阪弁で、標準語では、「声を震わせて」になるのだとか・・・・。 え゛っ? 私は静岡県東部の人間ですが、初耳です。 少なくとも私は、両方とも使います。 国語辞典で、「震わす」と、「震わせる」を引くと、活用形が違うだけで、どちらも同じ意味で載っており、方言という説明はありません。
更に、「合わして」と「合わせて」も同じ関係だと書いてありますが、そちらも初耳。 いやいやいや、両方使いますって。 おかしいのは、わざわざ修正を求めた編集者の方でしょう。 自分が今までの人生で、「合わせて」という言い方しかして来なかったものだから、「合わして」を、万城目さんの出身地である大阪の方言と決めつけてしまったんじゃないでしょうか。 いるんだわ、そういう自己中心的な輩が。 特に、東京周辺に夥しく。
言語には、≪幅≫というものが必ずあり、個人により、家族により、町内により、地域により、少しずつ使う言葉が異なります。 方言の違いは、正に、その幅のズレが大きくなって生まれるものです。 そして、標準語は、方言の最小公倍数的に成立するので、一つの方言よりも、語彙を多く含みます。 「合わす」と「合わせる」は、釣りが来るくらい充分に標準語に含まれていると思いますぜ。 大体、聞いたり読んだりした時、意味が通じれば、それはもう、方言とは言えません。
「すごく面白い」を「すごい面白い」と言うのは、確かに大阪弁の出だと思いますが、これも全国区で通用しますから、もはや方言とは言えないでしょう。 意味を取り違える奴がいますかね? 私も、普通に使ってますよ。 お、いかん、言語関係の話だったので、ちょっとムキになってしまいました。 失敬失敬。
≪Fantastic Factory Ⅱ≫は、これも静岡の工場にいた頃の話ですが、変わった癖のある先輩のエピソードで、何とも言えず、可笑しいです。 このエッセイ集の中では、最も記憶に残りそうな一編。
≪ザ・万遊記≫
これも、万城目学さんのエッセイ集なんですが・・・・・、いやはや、ちいっと、参ったな。 一言で言うと、「こてこて」でして、大阪市民ならでは、ついていけない感があります。
≪ザ・万歩計≫の感想で、「いまや、エッセイは、ブログ記事と大差ない」 と書きましたが、この≪ザ・万遊記≫は、≪ザ・万歩計≫より、尚その傾向が強く感じられます。 このレベルの内容なら、特段 文章が巧くない人のブログでも、普通に見る事ができると思います。
特に悪いのが、スポーツ観戦記でして、思わず目が据わるほど、全っ然、面白くありません。 スポーツの試合というのは、自分がそれを見ていなければ、どんなに言葉で解説されても、なかなか興味を抱く所まで行かないものです。 スポーツ専門の雑誌に載せるだけならともかく、エッセイ集に入れるのは無理があるでしょう。 スポーツ観戦記で唯一読み応えがあるのは、フットサルの試合で著者がアキレス腱を切ってしまう一編だけ。
温泉地へ行って、温泉に入る傍ら、その近場でスポーツ観戦するという、奇妙な企画があるのですが、これがまた、非常につまらない。 こんなお寒い企画、誰が考えたんでしょう。 著者は、それを真面目に実行するわけですが、温泉の体験記なら、テレビの旅番組の方が、映像がつく分、遥かに情報量が多いのであって、エッセイでは、相手になりません。
北京五輪は、現地に行き、日本代表が出る7つの試合を見た感想が書かれていますが、5泊6日もかけて、たったそれだけしか見ないというのは、あまりにもしょぼい。 家にいながらテレビで見れば、優にその3倍は見れたでしょう。 北京ついでに長城を見に行って、雷雨に見舞われ、ずぶ濡れになった件りなど、読んでいて、寒くて仕方ありません。
次にまずいのが、≪渡辺篤史の建もの探訪≫に関するシリーズです。 いくら細かく書いても、所詮、テレビ番組の感想に過ぎないわけで、こういうのは、エッセイとは言わないでしょう。 このシリーズ、とある雑誌に、一年間連載されたものだそうですが、その雑誌も雑誌で、一体何を考えて、依頼したのやら。 こういう物を読んで喜ぶのは、番組のスタッフだけだと思います。
至って真面目な提言ですが、万城目さん、エッセイの仕事は暫く断り、小説執筆に専念した方が、先々、良かろうと思います。 あとがきで、著者自身も、「書き散らした」 と表現していますが、正にその通りでして、≪雑文≫としかいいようがないレベルです。 まだ、長編3作しか世に出していない段階で、雑文にかまけていたのでは、作家としての名声を確立する前に、読者によーく軽んじられてしまいます。 せっかくの才能を、こんな事に浪費したのでは、あまりにも勿体無い。
僅かに面白いのは、≪小公女≫のアニメ版への恨みの一編と、井上靖の小説を一気読みした感想を述べた一編。 さすが、構成の腕に覚えがあるだけあって、文学論の鋭さは大したものです。 この本を読んで分かったんですが、万城目さんは、元々、歴史小説家志望だったようで、≪鴨ホル≫的作品の方が、特殊なケースだった模様。 短期間で成長したのではなく、二作目、三作目と、少しずつ、自分の得意な領域に戻して行ったわけですな。
もう一つ、万城目さんが大学卒業後、数年間勤めていたのは、どうやら、長泉町の東レだったようです。 社名は書いてありませんが、静岡県東部で、沼津に近い繊維会社というと、東レくらいですから。 冬でも蚊が生きていて、驚いたそうです。 確かに、私の家の辺りでも、かなり寒くなるまで、蚊は飛んでいます。 ただ、秋冬の蚊は、刺さないので、あまり気にしてはいませんが。
以上、三冊で、とりあえず、万城目学作品の感想は終わり。 最新単行本の、≪偉大なる、しゅららぼん≫は、すでに図書館に入っているのですが、予約がいっぱいで、当面、読めそうにありません。 最初に見た時、8人待ちだったのが、2、3日したら、16人になっていて、思わず、眉間に皺が寄りました。 今さっき調べてみたら、18人。 ううむ、さすが万城目作品と感服すべきか、はたまた、「三冊くらい、購入しろよ」と、図書館に言うべきか。
「人数がいつまで経っても減らないのなら、お前も予約しておけばいいだろう」と思うでしょうが、私の場合、人様を待たせてまで、早く読みたいとは思わないのです。 まあ、一年もすれば、予約数も減るでしょう。