かける
突然ですが、「かける」という言葉に漢字を当てる時、意味によって使い分けなければならないのが、厄介で困っています。 いや、困っているというほど困ってはいないのですが、「えーと、この場合、どんな字を使えばいいのかな?」と、いちいち、脳内辞書を引かなければならないのが、面倒なんですな。
面倒だから、大概の場合は、「掛ける」でやっつけてしまうわけですが、「水を掛ける」とか、「屋根を掛ける」とか、文字本来の意味と全く違う使い方になって来ると、いかに無神経な私であっても、違和感の増大を否定しきれなくなるわけですな。
そもそも、こんなテーマで記事を書こうと思い立ったきっかけは、日記に何気無く書いた、「卵掛け御飯を食べる」という一文なのですが、よくよく考えてみれば、「卵」を「掛ける」のは、無理があるにも程があるというもの。 一体全体、あんな物、どうやって、「掛ける」のよ?
同じ、「かける」と発音する単語であっても、意味の違いが明確で、専用の漢字が決まっているものはいいのです。 こういうのは、国語辞典でも、見出し語が別に立ててあります。
【賭ける】 賭け事をする。 命を賭ける。
【懸ける】 命を懸ける。 賞金を懸ける。
【駆ける・駈ける】 走る。 馬で走る。
【翔る】 空高く飛ぶ。
【架ける】 橋を架ける。
アクセントまで違っていて、絶対に間違えないものも、問題無し。
【欠ける】 欠ける。
「かく」の可能形も、問題無し。
【書ける】 書く事ができる。
【掻ける】 掻く事ができる。
【描ける】 描く事ができる。
「かく」と、「かける」は、セットになっているようなイメージがありますが、実際に数えてみると、「かく」は、上の三つしか無くて、「かける」の方が、意味の多様性は比較にならないほど多いです。
さて、問題は、それ以外の、「かける」です。 嫌になるほど、多いぞ。
「ハンガーにかける」
「鍋をかける」
「椅子にかける」
「布団をかける」
「梯子をかける」
「水をかける」
「帆をかける」
「火をかける」
「心にかける」
「気にかける」
「2に3をかける」
「鍵をかける」
「電話をかける」
「エンジンをかける」
「眼鏡をかける」
「願をかける」
「罠にかける」
「心配をかける」
「迷惑をかける」
「疑いをかける」
「税金をかける」
「資金をかける」
「時間をかける」
「麻酔をかける」
「小屋をかける」
ううっ、多いとは思っていたけれど、書き出してみると、思っていたより、ずっと多かった。 疲れた・・・。 探せば、もっとあると思いますが、今日はこのくらいで勘弁してやって下さい。
でねー、これを全部、「掛ける」で、片付けていたわけなんですなあ。 改めて考えてみると、恐ろしく乱暴な話。 現代中国語を参考に、本来の意味で漢字を当てると、以下のようになります。
【挂】 「ハンガーにかける」
【坐】 「鍋をかける」
【坐】 「椅子にかける」
【蓋】 「布団をかける」
【架倒】 「梯子をかける」
【撒・溌】「水をかける」
【揚】 「帆をかける」
【放】 「火をかける」
【関】 「心にかける」
【挂】 「気にかける」
【乗】 「2に3をかける」
【上】 「鍵をかける」
【打】 「電話をかける」
【発動】 「エンジンをかける」
【戴上】 「眼鏡をかける」
【許】 「願をかける」
【設】 「罠にかける」
【担】 「心配をかける」
【添】 「迷惑をかける」
【懐疑】 「疑いをかける」
【課】 「税金をかける」
【花】 「資金をかける」
【費】 「時間をかける」
【施】 「麻酔をかける」
【塔】 「小屋をかける」
表現方法の違いもあり、かなり大雑把な引き比べなので、細かい指摘は、ご容赦あれ。 それにしても、文章を書いていて、「かける」が出て来るたびに、これだけ書き分けるのは、大変ですなあ。 わははは!
現代中国語では、「掛」は、「挂」に統合されているので、両者は同じ字と見做してかまいませんが、「ハンガーにかける」や、「バッグを肩にかける」、「壁に絵をかける」など、本来、「かけてつるす」という意味でしか使われず、日本語での「掛ける」の守備範囲が、異様に広がってしまっている事が分かります。
「挂」を除くと、送り仮名だけで、「かける」と読める字が、一つもないのは、ある意味、凄い。 古訓になら、あるのかもしれませんが、今時、古訓なんて知っている人は絶滅していますから、そんなものを頼んでも、詮無い話。 書く方が書いても、読む方が読めんのでは、意味が無いです。
明治の頃なら、現代中国語の漢字を使って、「かける」とルビをふるという手が使えましたが、今や、ルビ打ちの習慣は、漫画にしか残っていませんし、ネット上では、機能的にも打ちようがないので、利用のしようがありません。
結局、漢字の意味を正確に使おうと思ったら、「かける」が出て来た時には、「掛ける」が該当する場合以外は、平仮名で書くしか無いのかも知れませんなあ。 平仮名が増えると、馬鹿っぽくなるのが避けられませんが、当て字と平仮名の馬鹿っぽ度を比べると、平仮名の方が、鼻一つマシなような気がするのです。 少なくとも、誤用ではないわけですから。
あ、断っておきますが、日本語の「かける」一つに対して、中国語の動詞がたくさんあるからといって、「中国語の方が意味が細分化されている」とか、「日本語の方が統合が進んでいる」とか、両者の特徴を云々するのは、見当違いの比較です。 単なる、表現方式の違いに過ぎません。 言語というのは、表現したい事を、表現できればいいのであって、その方法がどんなものであっても、機能に違いは出ないのです。
そうは言うものの、やはり、日本語の、「かける」は、ちょっと、多方面に活躍させすぎのような気がせんでもないですが。
そうそう、「書きかける」とか、「死にかける」といった、動詞の連用形の後につける、「~かける」ですが、あれに到っては、「掛ける」を使うなど、以ての外という事になってしまいますな。 意味的には、その動作を途中までやった状態をさしているわけですが、それが、どうして、「~かける」という言葉で表すようになったのか、考え始めると、夜も寝られません。
面倒だから、大概の場合は、「掛ける」でやっつけてしまうわけですが、「水を掛ける」とか、「屋根を掛ける」とか、文字本来の意味と全く違う使い方になって来ると、いかに無神経な私であっても、違和感の増大を否定しきれなくなるわけですな。
そもそも、こんなテーマで記事を書こうと思い立ったきっかけは、日記に何気無く書いた、「卵掛け御飯を食べる」という一文なのですが、よくよく考えてみれば、「卵」を「掛ける」のは、無理があるにも程があるというもの。 一体全体、あんな物、どうやって、「掛ける」のよ?
同じ、「かける」と発音する単語であっても、意味の違いが明確で、専用の漢字が決まっているものはいいのです。 こういうのは、国語辞典でも、見出し語が別に立ててあります。
【賭ける】 賭け事をする。 命を賭ける。
【懸ける】 命を懸ける。 賞金を懸ける。
【駆ける・駈ける】 走る。 馬で走る。
【翔る】 空高く飛ぶ。
【架ける】 橋を架ける。
アクセントまで違っていて、絶対に間違えないものも、問題無し。
【欠ける】 欠ける。
「かく」の可能形も、問題無し。
【書ける】 書く事ができる。
【掻ける】 掻く事ができる。
【描ける】 描く事ができる。
「かく」と、「かける」は、セットになっているようなイメージがありますが、実際に数えてみると、「かく」は、上の三つしか無くて、「かける」の方が、意味の多様性は比較にならないほど多いです。
さて、問題は、それ以外の、「かける」です。 嫌になるほど、多いぞ。
「ハンガーにかける」
「鍋をかける」
「椅子にかける」
「布団をかける」
「梯子をかける」
「水をかける」
「帆をかける」
「火をかける」
「心にかける」
「気にかける」
「2に3をかける」
「鍵をかける」
「電話をかける」
「エンジンをかける」
「眼鏡をかける」
「願をかける」
「罠にかける」
「心配をかける」
「迷惑をかける」
「疑いをかける」
「税金をかける」
「資金をかける」
「時間をかける」
「麻酔をかける」
「小屋をかける」
ううっ、多いとは思っていたけれど、書き出してみると、思っていたより、ずっと多かった。 疲れた・・・。 探せば、もっとあると思いますが、今日はこのくらいで勘弁してやって下さい。
でねー、これを全部、「掛ける」で、片付けていたわけなんですなあ。 改めて考えてみると、恐ろしく乱暴な話。 現代中国語を参考に、本来の意味で漢字を当てると、以下のようになります。
【挂】 「ハンガーにかける」
【坐】 「鍋をかける」
【坐】 「椅子にかける」
【蓋】 「布団をかける」
【架倒】 「梯子をかける」
【撒・溌】「水をかける」
【揚】 「帆をかける」
【放】 「火をかける」
【関】 「心にかける」
【挂】 「気にかける」
【乗】 「2に3をかける」
【上】 「鍵をかける」
【打】 「電話をかける」
【発動】 「エンジンをかける」
【戴上】 「眼鏡をかける」
【許】 「願をかける」
【設】 「罠にかける」
【担】 「心配をかける」
【添】 「迷惑をかける」
【懐疑】 「疑いをかける」
【課】 「税金をかける」
【花】 「資金をかける」
【費】 「時間をかける」
【施】 「麻酔をかける」
【塔】 「小屋をかける」
表現方法の違いもあり、かなり大雑把な引き比べなので、細かい指摘は、ご容赦あれ。 それにしても、文章を書いていて、「かける」が出て来るたびに、これだけ書き分けるのは、大変ですなあ。 わははは!
現代中国語では、「掛」は、「挂」に統合されているので、両者は同じ字と見做してかまいませんが、「ハンガーにかける」や、「バッグを肩にかける」、「壁に絵をかける」など、本来、「かけてつるす」という意味でしか使われず、日本語での「掛ける」の守備範囲が、異様に広がってしまっている事が分かります。
「挂」を除くと、送り仮名だけで、「かける」と読める字が、一つもないのは、ある意味、凄い。 古訓になら、あるのかもしれませんが、今時、古訓なんて知っている人は絶滅していますから、そんなものを頼んでも、詮無い話。 書く方が書いても、読む方が読めんのでは、意味が無いです。
明治の頃なら、現代中国語の漢字を使って、「かける」とルビをふるという手が使えましたが、今や、ルビ打ちの習慣は、漫画にしか残っていませんし、ネット上では、機能的にも打ちようがないので、利用のしようがありません。
結局、漢字の意味を正確に使おうと思ったら、「かける」が出て来た時には、「掛ける」が該当する場合以外は、平仮名で書くしか無いのかも知れませんなあ。 平仮名が増えると、馬鹿っぽくなるのが避けられませんが、当て字と平仮名の馬鹿っぽ度を比べると、平仮名の方が、鼻一つマシなような気がするのです。 少なくとも、誤用ではないわけですから。
あ、断っておきますが、日本語の「かける」一つに対して、中国語の動詞がたくさんあるからといって、「中国語の方が意味が細分化されている」とか、「日本語の方が統合が進んでいる」とか、両者の特徴を云々するのは、見当違いの比較です。 単なる、表現方式の違いに過ぎません。 言語というのは、表現したい事を、表現できればいいのであって、その方法がどんなものであっても、機能に違いは出ないのです。
そうは言うものの、やはり、日本語の、「かける」は、ちょっと、多方面に活躍させすぎのような気がせんでもないですが。
そうそう、「書きかける」とか、「死にかける」といった、動詞の連用形の後につける、「~かける」ですが、あれに到っては、「掛ける」を使うなど、以ての外という事になってしまいますな。 意味的には、その動作を途中までやった状態をさしているわけですが、それが、どうして、「~かける」という言葉で表すようになったのか、考え始めると、夜も寝られません。