2012/06/24

偶然・神・運命

  相変わらず、精神的・肉体的に、苦しい状況に追い込まれると、神に祈る、というか、神に頼む、というか、神を呪う、というか、つまり、何らかの形で、神の存在を心の中に思い浮かべてしまうのですが、それと、セットになって、神が存在するのかしないのかの問題についても、考えてしまいます。

  この場合の神は、特定宗教の、特定の神とは関係なく、哲学的な意味での神です。

「宇宙全体から、最小粒子に至るまで、この世に存在する全ての物事に常に目を配っていて、それらに対して、超自然的な力を及ぼす事ができる」

  といったところが、私的な神の定義でしょうか。

  細かい事ですが、≪造物主≫であるかどうかは、問題ではありません。 その神が、この世を作ったかどうかは、どーでもいー事なのです。 重要なのは、私の頼み事を実現してくれるかどうか、または、公正に世の中を運営してくれるかどうか、という点ですな。

  できれば、私の望みを全て叶えてくれる、≪マイ・ゴッド≫が、一番都合がよいのですが、私が私自身認めるような悪事を犯した時にも、それを庇ってくれる神というのは、あまりにも偏っていて、神としての重みに欠ける気がするので、誰もが納得するところで、公正さを基準にした方が良いのかもしれません。

  さて、そういう意味での神は、本当に存在するのか? 否が応でも、トマス・アクィナスの世界に入ってしまうわけですが、こちとら、聖書の記述を基準にするわけにはいかないので、事は更に厄介です。

  実際の経験として、神に祈って、何かを頼んだ後、それが実現する事がありますが。 それは果たして、本当に、神がそうしてくれたのか、それとも、単なる偶然なのか、はたまた、更に穿った見方をすると、結果を自分で見越している事だけを祈っていたのか、因果関係を判別する事ができません。

  二人の人間がいて、利害が相反している場合で、一方が神を信じて、祈っているのに対し、もう一方が、神を全く信じない人間だったとします。 神を信じている方が望む結果になった場合、神のおかげでそうなったように見えますが、実は、偶然の結果に過ぎないのかもしれません。 少なくとも、神を信じていない人間は、その結果を、神の仕業とは認めないでしょう。

  同じような勝負が、100回続いて、100回とも、神を信じている側が勝てば、神を信じていない方でも、「神はいる」と思い始めるかもしれませんが、現実には、そんな事は、起こりそうもありません。 そんなにはっきり、神のご利益があるのであれば、世界中の人間が、一人残らず、朝から晩まで、神に祈り続ける生活を選んでいる事でしょう。

  この世を動かす原理には、三つの説明が考えられます。

1. 全て、偶然で動いている。
2. 基本的に偶然で動いているが、必要に応じて、神が調整している。
3. 全て、元から決まっている。

  現代社会で、政教分離が割とはっきり認識されている社会では、≪1≫の「全て、偶然」が、大体、大まかに、一応の、公的な常識になっているように見受けられます。

  なんで、こんな奥歯に物の挟まったような限定をつけるかというと、たとえば、アメリカの法廷では、証言する前に、それぞれが信じる神に宣誓させられるのであって、必ずしも、世界的に、「全て、偶然」が、常識になっているわけではないからです。 もう、神の存在を少しでも念頭に置いてしまった時点で、「全て、偶然」はあり得ないです。

  ≪2≫の、「基本、偶然。 神が調整」というのは、神を信じている者の、ほぼ全員が取っている立場です。 「全て、神が決めている」というのも考えられますが、それならば、人間が神に祈るのは、無意味という事になりかねません。 神が先に決めた事を、人間が後から変えさせるわけにはいかないのですから。

  「基本、偶然」だからこそ、ゆとりというか、あそびというか、そういった不確定な部分が発生し、不確定を、自分に有利な確定にしたいがために、神に祈るわけですな。 神がまだ決めていない部分を、お願いして、自分に有利なように取り計らってもらおうというわけだ。 何だか、贈収賄の臭いがしますが、まあ、人間の腹の底なんて、そんなもんですよ。

  ≪敬虔な信者≫という表現があり、普通、誉め言葉として使われますが、政治家や役人に賄賂をせっせと贈っている者を、≪敬虔な業者≫と言わないのは、なぜでしょう? やってる事は、まったく同じに見えるのですが。

  しかし、≪1≫の、「全て、偶然」と思っている人から見ると、≪2≫の立場の人は、妄想に取り付かれた狂人としか思えないと思います。 神がいる事は証明できないのに対し、「全て、偶然」で、この世に起こる事の全ては、説明できるのであって、それなら、「いるかいないか分からないものを、いると思い込んでいるのは、妄想以外の何ものでもない」というわけです。

  ≪3≫の、「全て、元から決まっている」は、運命論という奴です。 混同している人も多かろうと思いますが、運命と神は、まったく相反するものでして、全て、運命によって決まっているのなら、神の出る幕はありません。 だって、もう決まっちゃってるんだから、祈ろうが呪おうが、神にはどうにもしようがありませんし、そういう事であれば、神に祈る人などいないわけで、神は、概念段階で、不要になってしまいます。

「神が、運命を決めているんじゃないの?」 

  違う違う! あなた、そりゃ、どっちも、何となく、宗教っぽいから、漠然と一緒くたにしてしまっているだけで、本来、神と運命は、同時に存在できないんだったら。 そのつど、人間の求めに応じて、神が決めるのであれば、そんなのはもう、運命とは言いません。 神の概念を取るか、運命の概念を取るか、どっちかにして下さい。

  残る一つの対比、「全て、偶然」と、運命は、相反するだけでなく、まるで逆の概念です。  一方は、「何も決まっていない」で、もう一方は、「全て決まっている」ですから、どう見ても、逆ですな。 こんな事は、言うまでもないような気もするのですが、こういう事を考えた事が無い人というのは、とことん、この種の論理に弱いので、念の為、書いておきました。

  ところが、このニ派に属する人は、思いの外、少ないようで、≪2≫の「基本、偶然。 神が調整」の立場を取る人が、圧倒的に多い。 いや、実際に数を数えてみたわけではありませんが、人類の歴史を振り返ると、それが分かるのです。

  歴史上の人物で、宗教と無関係だった人を探すのは、非常に困難ですし、世界遺産だって、文化遺産のほとんどが、宗教関連です。 そもそも、近世以前に於いて、巨大な建造物といったら、宗教の力を動員しなければ、作れなかったものばかり。 高層建築が典型例で、日本で言うなら、五重塔を寺以外にあるのを見つけるのは、ほぼ不可能ではありますまいか。

  「基本、偶然。 神が調整」を信じているからこそ、神に祈り、神に救ってもらいたいばかりに、宗教的使命感に燃え、超人的な物を作り出して来たのです。 偶然や運命では、五重塔は出来ません。 その日の食べ物が手に入り、その晩の寝床が確保できれば、それで充分です。

  些か、極論じみて来ますが、人類を知的生命体に押し上げたのは、神の概念なのかも知れませんな。 神の存在を想定する事によって、「神に祈れば、願いが叶う」と信じ込み、本能上、必要とされている限度を超えて、欲望を発達させて来たのかも知れません。

  「動物と人間の違いは、どこにあるか」という問いが、生物学の世界で、よく発せられますが、道具は、カラスでも使いますし、言葉は、イルカでも使います。 物を作り出すなんて事は、巣作りなら、ほとんどの動物が行います。 ニワシドリなんて、庭まで作りやがる。

  だが、動物が神の存在を想定しているというのは、今のところ、証明されていません。 ちなみに、≪死≫の概念はあるらしいとの事。 高等霊長類に手話を教えている研究者が、ゴリラに、「死とは、何か?」と訊ねたら、「知っている」と答えて、地面を指差したのだとか。 そもそも、≪死≫の概念を、ゴリラにどう伝えたのか、そこが分からないので、些か眉唾ですが。


  神がいるかいないかは、証明できません。 神がいる証拠は、全て否定できますから、いないと考えるのが、理性的ですが、いない証拠もないので、「いる」と言う人達を説得するのは、非常に難しい。 特に、日頃、神に祈る事で、精神を安定させ、窮地を乗り切っている人達に、「神なんか、いない」という考え方を押し付けるのは、罪とも言うべき所業です。

  かくいう私も、神はいないと思いつつも、生きて行く上で、神がいてくれた方がありがたい場面が多いせいで、神の存在を否定しきれないのです。 否定したくない、というべきでしょうか。 他人に、信じろとは言いませんから、いいじゃないですか、信じてたって。

  たとえば、翌日に、嫌な仕事をしなければならない。 どうやっていいか分からないし、しくじったら、恥をしこたま掻きそうだ、という場合。 前の晩から憂鬱なわけですよ。 翌日の事で不安が募って、眠る事もできない。 そういう時に、

「ああ、神様、なんで私を、こんな厄介な目に遭わせるんですか? 何も悪い事なんかしてないじゃないですか。 公正を保つのがあなたの仕事なんでしょう? 罰を与えるなら、悪い事をしている人間を探して下さいな。 というわけで、このピンチを回避させて下さいよ。 お願いしますよ」

  と、ぐちぐちぐちぐち考えていると、割と安らかに、眠りに落ちる事ができるわけです。 一方、運命を信じる場合、

「いいや、全ては運命だ。 なるようにしかならないのだ。 明日は明日の風が吹く。 どーんと来い!」

  と、自分を勇気付けるわけですが、いかんせん、全て決まってしまっているというのは、絶望的です。 本当に、なるようにしかならないわけで、自分を勇気付ける助けにはならないのではないでしょうか。 これは、単なる、判断停止の現実逃避ですな。

  残る一つの、「全て、偶然」を信じている人達は、そもそも、そんなつまらん事で悩みません。 生きて行く能力が高く、仕事でも、交友でも、実力で、ぐいぐい未来を切り開いていくタイプなので、「全て、偶然」という仕組みを、積極的に使いこなせるのです。 現代社会で、一番得をしているのは、こういう人達ですな。 現代の産業社会は、宗教とは無縁ですが、近世以前に於ける宗教以上の力を持っています。

  自信に満ち溢れ、この世が、「全て、偶然」である事を存分に利用して、経済活動に勤しんでいる人達が、現代社会を引っ張っているわけです。 ただし、こういう人達は、そんなにたくさんはいないのであって、昨今流行りの言い方で言えば、1%に過ぎません。 残りの99%は、「神の調整」に頼るか、運命と諦めるか、そのどちらかに逃げ込まざるを得ないのです。

2012/06/17

目と解像度

  ここ一ヵ月ばかり、右目の下に赤い隈が出来て、皮膚がひび割れて白く浮き上がる状態が続いています。 原因は一つしか思い当たりません。 ≪1024×768≫のせいです。


  ≪1024×768≫というのは、パソコンのモニターの解像度の事。 私の使っているモニターは、11年も前の製品なので、解像度は、≪800×600≫と、≪1024×768≫の二種類しか選べません。 今までは、ずっと、≪800×600≫で見ていたのですが、今年の三月末にパソコンを買い替えてから、三ヶ月弱、≪1024×768≫にしていたのです。

  理由は、新しいパソコンで、≪800×600≫にしたら、上下のバーが太くなり過ぎて、画面が異様に小さくなってしまったからです。 ≪Windows 7≫のせいなのか、≪IE8≫のせいなのかは不明。 前のパソコンでも、終りの頃は、≪IE8≫にしていましたが、そんな問題は起こっていなかったから、≪Windows 7≫の方に問題があるのかも知れませんな。


  2001年に、初めてパソコンを買った時、初期設定が、≪800×600≫になっていたので、解像度が変えられる事を知らないまま、「そういうもんなのだろう」と思って使っていたのですが、半年くらい経って、自分のサイトを立ち上げた時、掲示板のお客から、「ページ・デザインが、一部、崩れていますよ」と指摘され、初めて、解像度の概念を知った次第。

  当時は、モニターと言ったら、スクエア・タイプだけでしたが、一般の人達はみんな、≪1024×768≫で見ているらしいと知り、「それなら、そちらに合わせなければ、ホームページのレイアウトが侭ならんなあ」と思って、≪1024×768≫に変える事にしました。

  ≪800×600≫に比べて、字は、小さく細くなり、画像は、小さく緻密になりました。 写真が綺麗に見えるので、その時は、「おお、こちらの方が、断然良いではないか。 もっと早く知っていれば良かった」と思ったものです。

  ところがどっこい、一週間もしない内に、目がチカチカするようになり、二週間もすると、目尻の肉が切れ始めました。 涙が傷口に入って、ヒリヒリ痛いのなんのって。 最初は、何が原因なのか分からず、ホームページの更新や、掲示板のレス書きの負担が大きくなり過ぎて、疲れているのか?」とか思っていたのですが、いつからおかしくなったか、仔細に思い返してみたら、どうも、≪1024×768≫に切り替えた頃が怪しい。

  そこで、試しに、≪800×600≫に戻してみたところ、ほんの三日ほどで、目の痛みが消え、目尻も切れなくなりました。 やはり、原因は解像度だったのです。 それ以降、11年間、ずーっと、≪800×600≫で押し通して来ました。 画像が粗い点は、どーしょもないですが、文字に関しては、大きく太くなるので、見易さが、段違いなのです。


  で、今年三月にパソコンを買い替えた時にも、解像度を≪800×600≫にして、使い始めたのです。 ところが、上述したように、上下のバーが太過ぎて、有効画面が狭くなってしまい、とても、使えたもんじゃありません。 それでなくても、≪800×600≫だと、横幅が入りきらず、右端が切れる事が多いのに、この上、縦まで狭くなったのでは、たまったもんじゃありません。 ルーペで見てるんじゃないんだから。

  確か、≪XP≫では、画面の細かい設定を変える事ができて、上下のバーの太さも、変更可能だったような記憶があるのですが、≪7≫だと、機能が単純化されているのか、その設定画面が、どうしても出て来ないのです。 他にも、≪7≫には、便利なんだか、不便なんだか、評価に困るところが、多々見られます。 設計者が、自分の好みを基準にして作ったのと違うか?

  また、デスクトップのアイコンも、≪XP≫に比べると、やたら大きく、何だか、幼児向けの道具みたいで、馬鹿っぽいです。 アイコンの大きさを選べるのですが、≪小≫にしても、まだ大きいのだから、使い物にならぬ。 前のパソコンで並べていたアイコンを全部並べると、画面の左から右まで、ほとんどを埋め尽くしてしまい、背景画像が、ほんとに背景画像になってしまいます。

  仕方なく、≪1024×768≫にしたのですが、目を痛めるのは避けたいので、拡大率を125%に上げました。 文字と画像の大きさは、≪800×600≫とほぼ同じになります。 デスクトップのアイコンも、必要な物を全部並べて、尚、背景画像に被らないようにレイアウトできました。 よし、これで、何とかなったぞ。


  ・・・と、思ってたんですがねえ・・・。 世の中、思うに任せない。 やはり、目に来てしまったんですなあ。 画像は、さほど、関係していないと思うのですが、文字が、やはり、いけません。 拡大率125%で、大きさは、≪800×600≫と同じにできますが、太さが足りないんですな。 文字が細いと、濃さが出ないので、文字の方から目に入って来る事が無く、目の方で、文字を探しに行かなければなりません。 これが、目の負担になったと思うのです。

  しかし、≪800×600≫にすると、上述した不都合が一気に噴き出すので、おいそれと戻すわけには行きません。 モニターを大きいのに買い換える事も考えましたが、大きいモニターにしても、≪1024×768≫以上である限り、文字の太さは変わらないのであって、根本的な解決は望めないような気がします。 ちなみに、大きいモニターで、≪800×600≫にすると、粗い画面が、更に粗くなり、馬鹿っぽさが、より助長されます。


  ・・・と、弱っていたところ、一つの事件が起きました。 ある日、パソコンを起動したら、ブラウザのデザインが変わっているのです。 勝手に変更されてしまったのかと思って、≪復元≫機能で、前日の設定に戻したのですが、二日くらい経つと、また同じ事が起きました。 「なんじゃ、こりゃ?」と首を傾げること、数分。 はっと、思い当たったのが、≪IE9≫です。 自動アップデートで、≪IE9≫がインストールされたのではありますまいか?

  マイクロソフトのサイトへ行って、調べてみると、なるほど、≪IE9≫と同じデザインです。 そーに違いない。 ≪XP≫の頃には、ユーザーの了解を取らずに、ブラウザが変更されてしまう事などなかったのですが、この点でも、≪7≫は、ちょっと変なOSと言えます。

  使い慣れたブラウザを変えるのが嫌なので、≪IE8≫に戻そうかと思ったのですが、その前に、≪IE9≫の画面を観察していたら、上下のバーを減らすために、いろいろと工夫がされているのが分かって来ました。 下はタスクバーだけ。 上は、バーを一本も出さなくても、今までと同じ機能を操作できそうです。

  メニュー、お気に入り、コマンド、ステータスの各バーは、出そうと思えば出せますが、それらを使わなくても、右上にある、≪家、星、歯車≫のマークをうまく使えば、ホームページ、お気に入り、履歴は出せます。 メールは、スタート・メニューで出せば良し。 ソースは、右クリックで選択すれば、出て来ます。

  ソースは、初期設定のままだと、≪スタイル付要素ソース≫という、赤文字や青文字が入った、書き換えできないものが出て来てしまうのですが、≪歯車≫マークから、≪F12開発者ツール≫というのを開いて、あれこれ弄って行ったら、黒文字だけで、書き換え可能な、≪HTMLソース≫に変更する事ができました。 しかし、同じ事をもう一度やれと言われたら、できません。

  検索のキーワード打ち込み窓は、URLの表示部分で代用できるので、これも、問題無し。 専用の窓でないと、最初は抵抗があるのですが、慣れてしまえば、どうという事はないものですな。 ちなみに、私は、≪bing≫を使っています。


  とまあ、こんなところですかね。 上のバーが無くなれば、≪800×600≫でも、有効画面は充分に取れます。 というわけで、またまた、≪800×600≫の利用者に戻る事になりました。 歴史は繰り返す、か? 歴史というほどの事でもないか。

    ≪800×600≫の最大の欠点は、画面の右端が切れてしまう事ですが、目を守るためだったら、やむを得ません。 何と言っても、目は大事ですから、その健康に他の物は代えられませんな。 目を悪くするくらいなら、パソコンなどやめてしまっても、あながち、損な選択とは言えますまい。

  それにしても、バーの太さや、アイコンの大きさを自由に変えられないのは、不便ですねえ。 ≪7≫には、首を傾げたくなる事ばかりです。

2012/06/10

数独・全候補書き込み法

  日記を遡ると、昨年、つまり、2011年の11月20日が最初だったようです。 何が? いや、私が、初めて、≪数独≫をやった日がです。

  新聞の日曜版にパズル欄があり、そこに毎週、数独の問題が出ているのには、もっと前から気づいていたのですが、ルールが分からなくて、ずっと手をつけませんでした。 クロスワードなら、前から好きで、見つけると必ずやってみるのですが、数独は、問題を見ただけでは、何が何だか、まったく分かりませんからのう。

  基本ルールが書き添えてあったので、その日、初めて、それを読んでみたんですが、依然として、分かるような、分からんような、もやもやした感じ。 そもそも、数字を当て嵌めて行くだけで、面白さを感じられるのかどうか、その段階からして、怪しげでした。 クロスワードは、知識量を試されるので、挑戦のしがいがありますが、純然たるパズルというのは、どうもねえ・・・。

  あー、んー、こういう話を始める前に、数独のルールについて、説明した方がいいですかね? やった事がない人は、全然分からんでしょうから。 とはいうものの、私が説明するとなると、現物を見せるにも、画像が出せませんなあ。 仕方ない。 画像は、「数独」でネット検索してもらえば、いくらでも見られると思うので、そちらで見て貰うとして、一応、言葉だけで、説明しましょう。


  将棋盤と同じような、格子状の升目を使います。 9マス×9マスで、正方形をしています。 その中を、3マス×3マスのブロック9個に分割する形で、太い線が引かれています。 縦に3ブロック、横に3ブロックで、全部で9個というわけ。

  全体のマスの数は、9×9ですから、全部で81個あるわけですが、それはまあ、気にせんでも宜しいです。 気にすべきは、1ブロックのマスの数でして、3×3で、9個あります。 この中に、1から9の数字を入れて行くわけです。 全部で9個あるブロック全てに、9個の数字を入れます。 0や、10以上の数字は使いません。

  1ブロック内の各マスには、必ず、違う数字が入ります。 9マスあって、1から9までの数字を全部入れるのですから、当然そうなるわけです。 それだけなら、パズルにならないのですが、ブロック内だけでなく、全体の枠の中でも、縦列9マス、横列9マスで、1から9までの数字が入るようにします。 同じ列に同じ数字が入ったら、駄目です。

  何だか、急に難しく感じられて、「そんなのやるのは、面倒くさいなあ」と思ったでしょう。 私も、そうだったんですよ。 閑でなかったら、とても、手を出さなかった事でしょう。

  ちなみに、数字の順番は、全く関係ありません。 1の隣が9で、5でも、何の制約も無し。 つまり、別に数字でなくても、他の記号でもできるパズルなのですが、書き易いので、数字を使っているというだけの話です。 算数・数学で使う頭脳は、全く使わないと思うので、数字アレルギーの方でも、恐れる必要はありません。 どちらかというと、やっている事は、論理学に近いような気がします。 

  数独の問題には、初期数字というのが入っていて、それを手がかりに、空マスを埋めていきます。 初期数字の数が少ないと難問で、多いと易しい、という大雑把な傾向はありますが、決定的なものではありません。 それは、自分で途中まで解いて行って、全体のマスの半分くらいが埋まっても、そこから先が、パッタリ進まなくなるケースがある事からも分かります。

  ここまで読んで、興味が湧いた方は、「数独」で検索すれば、≪ニコリ≫という会社のサイトがありますから、そこのお試し問題を、見るだけ見てみて下さい。 一番最初は、簡単に解ける問題を、自分でやってみるに限ります。 一回やるだけで、「ああ、こういうものか」というのが分かりますから。

  「数独 解き方」で、検索すると、解き方を図入りで説明してくれる個人サイトが、どっと引っ掛かりますが、最初からそういう説明を読んでしまうのは、あまり、お勧めではありません。 噛んで含めるように、優しく易しく説明してあっても、ルールそのものを知らない人にとっては、尚、理解の負担が大き過ぎると思われるからです。


  で、私の事ですが、去年の11月20日に、初めて、数独の問題に取り組んでみたわけですが、まーあ、瞬く間に嵌まり込みましたね。 初期数字の並びで、考えるまでもなく、自動的に決定する数字があるのですが、それを1つ書き込むだけで、奇妙な快感を覚えました。 これは、今でも同じでして、決定数字を書き込む時の、あの充実感には、得も言われぬものがあります。 一つ埋まれば、一つ手がかりが増えるわけで、少しずつでも進んでいれば、嫌になってしまうという事はありません。

  たまたま、私が最初にやった問題が、簡単だったのも幸いしました。 新聞のパズル欄と言っても、レベルは毎週違っていて、どうしても解けない問題が、月に一度は出て来ます。 もし、最初にやったのが、そういう難問だったら、「ふざけんな」の一言で鉛筆を起き、二度と数独を顧みなかった事でしょう。


  基本的には、≪消去法≫のゲームだと言えます。 特定のマスに、特定の数字を入れる場合、同じブロック内や同じ縦列・横列の中に、すでに、その数字があれば、入れられません。 入れられない数字を除外し、入れられるものを絞って行って、最後に一つ残すわけです。

  解いて行く時には、マスの隅に、小さい字で、候補数字を書き込んで行きます。 そのマスに入り得る可能性がある数字ですな。 一つでは済まないので、四隅に書き込んでいくのですが、四隅でも足りない事があり、そうなってしまうと、一気に面倒臭くなって、その数字に関しては、候補数字を書くのを端折ったりします。

  新聞に載っているパズルだと、全体の大きさが、9センチ×9センチくらいなので、1マスの面積が、極めて小さい。 候補数字を四隅に書き込んだだけで、マスがいっぱいになってしまって、それ以上、書き込む気にならなくなります。 今にして思うと、そのせいで、解けない問題が続出したわけですが、当時は、気づきようもありませんでした。

  簡単な問題だと、候補数字を書き込む前に、5・6個のマスは埋められるものなのですが、難しくなると、候補数字を、びっしり書き込んでも、1マスも確定数字を入れられない場合があります。 そうなると、もうお手上げ。 解けないパズルほど、忌々しい物は無いのであって、気分が悪くなるので、さっさと新聞を畳んで、「そんなパズルはやらなかった」事にするしかありません。 そんな事が、何回あった事か。

  悔しいので、ネットで、「解き方」を調べるですが、人の言っている事は、なかなか頭に入って来ません。 「こういうケースでは、ここにこれは入らない」と図入りで説明してあるのですが、そもそも、その、「こういうケース」にぴったり当て嵌まるケースが、自分の取り組んでいる問題の中に、見当たらないのだから、参考にしようがありません。

  また、サイトによって、説明の内容が全然違うのも、私の頭を混乱させます。 ≪犬の飼い方≫の本と同じで、定説がねーのよ。 「これが、決定的な法則だ」という触れ込みで説明してあっても、どこが、決定的なのか、ちっとも理解できぬ。 法則というより、特定ケースに於いてのみ有効なパターンと言うべきではないかと思うんですがね。

「特定のマスに、どの数字が入るかではなく、特定の数字を、どのマスに入れられるかに着目すべき」

  というのは、一聞、目から鱗のような物言いですが、これも、よくよく考えてみれば、わざわざ大仰に指摘されるまでもない、当然以前の事のような気がせんでもなし。

  そんなこんなで、半年ばかりの間、30問ほどの数独問題を相手に、勝ったり負けたりして来たわけですが、つい一週間ほど前、やり方を改善したら、勝率が急上昇し、ほぼ確実に勝てるようになりました。 難問とされている問題でも、解けてしまうようになったのです。

  勿体ぶるほどの事でもないので、さっさと書いてしまいますと、まず、盤面を大きくします。 紙に、1マスの大きさが、2センチ×2センチの格子を、サインペンかボールペンで書きます。 全体の大きさは、18センチ×18センチになりますが、A4のコピー用紙に収まりますから、どの家にもあるでしょう。 1マスの面積を大きくするのが目的。

  なぜ、大きくしなければならないかというと、全ての候補数字を書き込むからです。 初期数字を大きな文字で書き写した後、全ての空マスに入り得る、全ての候補数字を、1から9まで、律儀に書き込むのです。 2センチ角の大きさがあれば、最大9文字の候補数字を入れても、尚、中央に、確定数字を書き込む余裕が残ります。

  小さい盤面でやっていると、候補数字が四個を超えると、もう、書き込むのをやめてしまい、「何とかなるだろう」で、確定数字を決めにかかってしまうのですが、それがいけない。 候補数字は、全部書かなければ、実力を発揮できないのです。 

  1マスに入る候補数字の数は、今のところ、最も多くて、6個くらいです。 「6個も候補があったら、そこから、どうやって、絞るねん?」と、絶望的な気分になっている諸兄よ。 安心なされ。 この方法には、その懸念を払拭して余りある利点があるのです。

  全ての候補数字が書き出されているという事は、そこに書いてある数字以外に、そのマスに入る数字は無いという事でして、この下準備をする事で、消去法が、100%有効に使えるのです。 あるマスに確定数字が一個決まったら、同じブロック内と同じ縦列・横列内にある、同じ候補数字は、全て消す事ができます。 ぎっちり書き込んであっても、消す時には、ザクザク消えて行くので、実に小気味良い。

  候補数字を全部入れ終わったら、まず、全体を見渡します。 候補数字が一つしかないマスがあったら、そのマスは、その数字で確定です。 候補数字が複数入っていても、同じブロック内か、同じ縦列・横列内で、そのマスにしか存在しない数字があったら、これまた、確定です。 だって、他のマスに入らないんだから、そのマスしかありえないじゃないですか。


  ある程度、経験がある人なら、これだけやれば、後はどんどん、確定数字を決めて行けると思います。 しかし、これから始めるという人は、基本的な法則も知らないと思うので、ちょっと書いておきましょうか。 私が頼っている法則は、三つくらいです。


≪法則 1≫
  1つのブロック内で、直線並びの2マスか3マスに、同じ候補数字が入っていて、それ以外の列にその候補数字が無い場合、同じ列の他のブロックには、その数字は入りようがないので、それらのマスに入っている、同じ候補数字は、消去できる。

≪法則 2≫
  1つの列の中で、2マスに、それぞれ同じ二つの候補数字が入っている場合、その2つの数字は、必ず、その2マスのどちらかに入るので、その列の他の空マスに入る事はできない。 つまり、他の空マスに、その2つの候補数字があっても、消去できる。

≪法則 3≫
  候補数字が一つだけ残った場合、それが本当に、そのマスの確定数字なのか検証するには、その数字が入っているブロックと、その数字が入っている縦横の列を見て、その数字以外の数字が全部あるか、調べればよい。 確定数字でなくても、≪法則 1≫と≪法則 2≫によって、入る数字が決まっていれば、確定数字と同じに見做してよい。


  うーむ、文章で書くと、書いた本人でも、分かり難いですなあ。 結局、これらの法則も、ある程度、解き方が分かって来ないと、生かせないのか。 あまり、役に立たなくて、申し訳ない。

  ちなみに、この種の法則は、もっと単純なものから、もっと複雑なものまで、いくらもあるのですが、単純なものは、説明されるまでもなく、誰でも直感的に分かりますし、複雑なものは、前述したように、特殊なケースでしか使えないものが多く、何にでも使えるとなると、この三つくらいになってしまうのです。


     数独の難問に苦しめられて来た方は、騙されたと思って、試してみなさいな。 大きな盤面を書いたり、候補数字を全部書き出したりするのは、確かに面倒臭いですが、苦労しただけの果実は、確実に収穫できるから。

  あまりにも、確実に解けてしまうので、面白くないっつやー、面白くないかもしれませんが、解けないよりは、遥かにマシですな。 別に、ズルではありませんし、仮定法や確率法に頼るわけでもないので、公正さの面でも、問題は無いと思います。

  以前、まだ、全候補書き込み法を実践していなかった頃、どうにも解けずに、仮定法で、候補数字の1つを入れてみて、矛盾が出ないか試してみたりしましたが、そのやり方でも、解けるものの、仮定数字を間違えてしまった場合、そこからやり直せるように、もう一枚、盤面を用意しなければならず、大変な手間でした。 それに比べれば、全候補書き込み法は、面倒なのは最初だけなので、ずっと楽です。

  確率法というのは、たとえば、2つのマスに同じ候補数字が入っている場合、それ以外の候補数字の数が少ない方に、その数字を入れてしまい、とりあえず、やってみるというもので、仮定とすら言えぬ、山勘法です。 今だから言えますが、候補数字が多いか少ないかは、そのマスの確定数字を決める上で、関連性がほとんど無く、こんな山勘法は、実用からは、程遠いです。 いや、私も、やってたんですがね。


  大きな盤面を作る場合、お金にゆとりがあるのなら、全空の格子だけ紙に書き、100枚くらい、コピーしておいて、使い捨てにするのが良いと思います。 それが勿体無い場合、片面が白の厚紙に、消えないペンで盤面を書いて、柔らかい鉛筆で数字を書くようにして、使っては消す、使っては消すを繰り返すしかありません。

  100円ショップで、ホワイト・ボードを買って来る事も考えましたが、ホワイト・ボードだと、数字を消すのには便利でも、一緒に盤面の格子まで消えてしまうので、却って、面倒が増す恐れがあると思って、断念しました。

  もしかしたら、ネット上や、PCソフトで、候補数字を全部書き込める、大きな盤面が存在するのかもしれませんが、私は今のところ、発見できていません。 候補数字全部どころか、候補数字を全く書き込めない盤面の方が多いです。 どうやって、解くねん?

  それに、パソコン画面で、数独を長時間やるのは、目への負担が大きいし、腰は痛くなるし、電気も使うしで、あまり好きではないのです。 立ったり、座ったり、寝たり、好きな姿勢で、じっくり楽しみたいものですな。 となると、やはり、紙と鉛筆が一番という事になってしまうのです。

  将棋では、マグネット盤というのがありますが、あれは、数独用には、流用できそうもありません。 いちいち、小さい候補数字を貼り付けたり、剥がしたりするのが、異様に面倒臭そうだから。

2012/06/03

新型うつ

  昨今、≪新型うつ≫という現象が話題になっています。 一応、病気扱いされているので、こう言っては、不謹慎の謗りを免れないかもしれませんが、妙に面白いので、新型うつを取り上げたテレビ番組があると、必ず見てしまいます。 なんで、新型うつは、こんなに私の興味を引くのでしょう?

  以前、「私は30年くらい早く生まれてきた人間だ」といったような事を書いたと思うのですが、それは、全く、その通りでして、私が20歳前後の頃、個人的に問題にしていた事が、最近になって、社会全体で問題になり始め、「ふふふ、今頃、何を言ってるだか・・・」と、経験者目線で見下したくなる事が、非常に多くあります。

  その内の一つが、新型うつの症状です。 ざっと、書き出しますと、

・ 学校や会社に行く時だけ、うつ症状が出る。
・ 私生活での趣味や交際は、活発に行なう。
・ 休職中、職場に迷惑をかけているという認識が無い。
・ 他罰的で、問題の原因を他者のせいにする。
・ 自分がうつ病である事を、平気で公言する。

  といったところらしいです。 いやあ、素晴らしい。 高校時代から21歳までにかけての私の状態を、絵に描いたように、的確に活写しておりますなあ。 もっとも、最後の一つだけは、覚えがないですが、それは、当時、「うつ病」という言葉が、今ほど、一般化しておらず、精神疾患である事を認めるのが、怖かったからでしょう。

  この種の症状を、現況、世間様では、「呆れた話」、「怪しからん怠け者」と、非難囂囂しとるわけですが、なーにを言うてるだーか! 自分だって、腹の底じゃあ、共感している所があるくせこいて、片腹痛ゃーじゃにゃーか!

  では、一つ一つ、検証して行きましょう


≪学校や会社に行く時だけ、うつ症状が出る≫
  当たり前じゃん。 誰だって、学校や会社なんて、行きたくないですよ。 勉強も仕事もやりたくてやってるわけじゃないんですから。 遊んで暮らせるものなら、誰だって、そうしたいのであって、それが本心というものでしょうに。 習慣と惰性で、己が本心を忘れてしまっている人達は、「学校や会社は、やむを得ず行っているのだ」という事を、認識し直した方がいいですな。

  逆に、「学校や会社が楽しくて仕方ない」とか、「家にいてもつまらない」とか言う人の気が知れません。 私生活の運営に失敗してるんじゃないですか? 家族と会話が無いとか、部活に入り浸りとか、趣味がゴルフだけとか、そういう人達が、定年後、凄まじい勢いで、濡れ落ち葉化し、廃人のように朽ち果てていくわけですが、どうして、そちらの方は、社会問題化しないのか、とんと、理由が分かりません。


≪私生活での趣味や交際は、活発に行なう≫
  新型うつ患者が、私生活で、完璧なまでの満足感を得ているのは、疑いの無いところです。 疾患どころか、私生活に限れば、健康そのものなのであって、模範になりこそすれ、非難される謂れはありますまい。 彼らが生きているのが、本当の私生活なのであって、仕事人間の休日の過ごし方など、刑務所の受刑者と、なんら選ぶ所がないくらいです。

  休みの日でも、仕事が気になって、家で書類を書いているとか、誰もいない会社に出掛けていって、守衛に顔パスなのをいい事に、会社の電気を使って、一人で仕事をしているとか、休みなのに、同僚や部下に、仕事の電話をかけるとか、迷惑千万。 どっちがキチガイだか、分かりゃしない。

「休みの日? 寝てるか、パチンコか、そんなもんで、終わっちゃうね」

  それが、おかしいってーのよ。 そんなの、私生活じゃないって。 マジ、病気、マジ。 仕事の方に、比重を置き過ぎているために、本来、私生活に割くべき、時間・体力・精神力を確保できず、趣味を構築できないのです。

  えーおい、そこの人事課のおっさん、ゴルフなんかで、私生活をごまかせると思ったら、大間違いだぜ。 おめーのやってるのは、趣味じゃなくて、仕事の一部だっつーのよ。 自分が日々罵り倒している、新型うつの若手社員に、土下座で弟子入りして、趣味の楽しみ方を教えてもらいな。


≪休職中、職場に迷惑をかけているという認識が無い≫
  そんなの、知った事か。 そんなに迷惑なら、解雇すればいいじゃん。 こっちは、仕事がしたいわけじゃないんだから。 何わけの分からない事、言ってんの? 馬鹿じゃないの? クビにしないで、ブツクサ陰口ばかり叩いている、上司の方がおかしいんだよ。 頭と性格、どちらも悪い。

  遠慮なく、クビにしてくれた方が、新型うつ患者は、家族にも言い訳が立つし、ありがたいんですよ。 自分から、「会社を辞めた」と言うと、家族から非難されますが、クビなら、仕方ないものね。 会社側は、なんで、そういう機微が分からんかなあ? 「嫌な仕事をさせられるくらいなら、クビになった方がマシ」という考え方を、自分達が一度もした事が無いものだから、想像力が追いつかないんでしょう。


≪他罰的で、問題の原因を他者のせいにする≫
  そんなの、みんな同じでしょう? 誰だって、何か問題が起きた時に、「自分せいだ」と認めるより、「他人のせいだ」と思いたがるじゃないですか。 新型うつの部下を持った上司だって、自分のせいでそうなったと、認めたりしないでしょうが。 何もかも全部、新型うつの部下が悪いわけだ。 ほーらほら、同じだよ。 あんただって、他罰的じゃないか。 よく、それで、人を非難できるな。 自家撞着に気づかないほど、ボンクラか?

  この世の中は、糾える縄の如く、様々な事柄が絡まって成り立っているのであって、原因と結果は、鶏と卵のような関係にあります。 自分のせいか他人のせいか、はっきりしない事の方が、はっきり言って、多い。 となれば、人間誰でも、我が身が可愛いのであって、他人のせいにできるものなら、そうしたいと思うのが人情ではありませんか。

  そもそも、新型うつ病患者が、「すべて、私が悪いんです」と認めていたら、そりゃもう、ただの、うつ病なんじゃないですか? つまりねえ、新型うつ病患者というのは、病気じゃないんですよ。 健康なんですよ。 ≪仕事人間≫が、病気じゃないのなら、≪私生活人間≫だって、病気じゃないという事になります。 これからは、≪新型うつ≫などという、病気みたいな呼び方はやめて、≪私生活人間≫と呼ぶべきでしょう。

  ところで、それ以前の問題ですが、≪他罰的≫なんて言葉、昔からあったんですか?  新型うつが話題になってから、初めて耳にしました。 精神医学用語なんですかね? 対になる、≪自罰的≫という言葉もあるんでしょうか? それとも、≪自虐的≫の反対語が、≪他罰的≫なのか? ああ、反対語辞典があればなあ。


≪自分がうつ病である事を、平気で公言する≫
  全然、不思議な事ではありません。 だからー、≪私生活人間≫というカテゴリーが世間一般に認められないから、仕事を休むためには、病名が必要なり、部分的に症状が重なっている、≪うつ病≫に逃げ込んだわけですよ。 ≪ツレがうつになりまして≫などで、近年、うつ病の知名度が上がって来て、後ろめたい病気という意識が薄れたので、気軽に飛びついたのでしょう。

  本当にうつ病だったら、自分でそう認めていても、「公言する」などという、派手派手しい行為には及べないわけですが、そもそも、新型うつは、うつ病とは似て非なるものなので、逆に、公言する事が、ぜひとも必要になってくるわです。 仕事に行かない理由としては、打って付けですから。


  うーむ。 こうして、見てくると、私には、新型うつ患者の気持ちが、手に取るように分かるのですが、テレビで解説している精神科の医師達が、新型うつの正体を、全く分かっていないように見えるのは、実に奇妙です。 「うつ病の変種」と見做している段階で、すでに、間違っています。 ただの、≪私生活人間≫なんだって。 分かって貰えないかなあ?

「では、彼らをどうやって、治療するのか?」

  はあ? 治療お? そんなもん、要りまっかいな。 病気じゃないんだから、治療する必要なんて無いでしょうが。 仕事をさせず、私生活だけを送らせれば、何の問題も起きません。 収入が途絶えて、いずれ、暮らして行けなくなるわけですが、そういう人間なんだから、仕方ないですな。 そこまで、心配してやる事はないです。

  かつて、貴族階級という私生活人間がいて、毎日遊んで暮らしていましたが、彼らを、新型うつとは言わなかったでしょう。 また、彼らの没落を社会全体で救ってやったという話も聞きません。 いいんですよ、放っておけば。 そういうものなんだから。

  職場の迷惑になるというなら、さっさと解雇してしまいなさい。

「もう、怒ったりしないから、出て来いよ」

  なんて言うから、私生活人間は、逆に困ってしまうのです。

「君は、うちの会社には向かないようだから、退職してはどうだ」

  と言ってやれば、ホイホイ乗って来ます。 だって、仕事が嫌で嫌で、たまらないわけですから。 ≪他罰的≫などと言っても、「仕事をしなければ、給料を貰えない」という理屈は分かってますから、退職を勧める会社側を非難はできないでしょう。

  「特定の上司に問題がある」と主張している場合、配置転換させるのが一番です。 もし本当に、その上司に問題があったのなら、引き離してしまえば、解決しますし、新型うつ患者側に問題があるなら、どこへ行っても駄目な自分に気づいて、退職を受け入れ易くなるでしょう。


「何だか、患者側と会社側、どちらの立場で物を言っているのか分からなくなって来たが、おまえは、一体、どっちの味方なんだ?」

  そうですねえ。 客観的に見れば、私は、元新型うつの患者だった事になりますが、今の会社に勤めてからは、仕事が嫌で会社に行かなくなったという事はありません。 「仕事が嫌」なのは変わりませんが、それ以上に、「無職状態が嫌」なので、両者を天秤にかけると、「会社に行かざるを得ない」という結論が導き出されるわけですな。

  別に、仕事を好きになる必要は無いのですよ。 嫌いで当然。

「好きな仕事じゃないと、続かない」

  なんて言うのは、言葉だけの思い込みでして、嫌いな仕事でも、能力的にできるのであれば、続けられます。 まったく、誰が言い出したんだ? 「好きな仕事じゃないと、続かない」なんて。 いかにも、20代後半くらいの連中が口にしそうなセリフですが、10年も働いていない内に、そんな事が分かるか、ボケ。 口にする資格が無い事に、口にする前に気づけよ。

「転職を何度かしたけれど、今は本当に好きな仕事を見つけて、毎日が楽しくて仕方ない」

  そういうのって、羨ましいと思います? アホ臭・・・。 そんなのは、仕事人間の戯言ですよ。 こういう事を言っている輩に限って、私生活が崩壊しているのは、間違いないところです。 一生、仕事して暮らすつもりなのかね? 病気になったら、どうすんのよ? 加齢で能力が落ちてきて、同僚の足を引っ張るようになってからも、そう言い続けられますか?

  でー、何の準備もしないまま、定年を迎えて、いとも容易に、≪粗大生ゴミ≫になっちゃうわけですよ。 私生活を蔑ろにして来た罰だね。 余生は、暗いぜ。 定年後、すぐに死んでしまえば、却って、幸福な人生だったと言うものでしょう。