偶然・神・運命
相変わらず、精神的・肉体的に、苦しい状況に追い込まれると、神に祈る、というか、神に頼む、というか、神を呪う、というか、つまり、何らかの形で、神の存在を心の中に思い浮かべてしまうのですが、それと、セットになって、神が存在するのかしないのかの問題についても、考えてしまいます。
この場合の神は、特定宗教の、特定の神とは関係なく、哲学的な意味での神です。
「宇宙全体から、最小粒子に至るまで、この世に存在する全ての物事に常に目を配っていて、それらに対して、超自然的な力を及ぼす事ができる」
といったところが、私的な神の定義でしょうか。
細かい事ですが、≪造物主≫であるかどうかは、問題ではありません。 その神が、この世を作ったかどうかは、どーでもいー事なのです。 重要なのは、私の頼み事を実現してくれるかどうか、または、公正に世の中を運営してくれるかどうか、という点ですな。
できれば、私の望みを全て叶えてくれる、≪マイ・ゴッド≫が、一番都合がよいのですが、私が私自身認めるような悪事を犯した時にも、それを庇ってくれる神というのは、あまりにも偏っていて、神としての重みに欠ける気がするので、誰もが納得するところで、公正さを基準にした方が良いのかもしれません。
さて、そういう意味での神は、本当に存在するのか? 否が応でも、トマス・アクィナスの世界に入ってしまうわけですが、こちとら、聖書の記述を基準にするわけにはいかないので、事は更に厄介です。
実際の経験として、神に祈って、何かを頼んだ後、それが実現する事がありますが。 それは果たして、本当に、神がそうしてくれたのか、それとも、単なる偶然なのか、はたまた、更に穿った見方をすると、結果を自分で見越している事だけを祈っていたのか、因果関係を判別する事ができません。
二人の人間がいて、利害が相反している場合で、一方が神を信じて、祈っているのに対し、もう一方が、神を全く信じない人間だったとします。 神を信じている方が望む結果になった場合、神のおかげでそうなったように見えますが、実は、偶然の結果に過ぎないのかもしれません。 少なくとも、神を信じていない人間は、その結果を、神の仕業とは認めないでしょう。
同じような勝負が、100回続いて、100回とも、神を信じている側が勝てば、神を信じていない方でも、「神はいる」と思い始めるかもしれませんが、現実には、そんな事は、起こりそうもありません。 そんなにはっきり、神のご利益があるのであれば、世界中の人間が、一人残らず、朝から晩まで、神に祈り続ける生活を選んでいる事でしょう。
この世を動かす原理には、三つの説明が考えられます。
1. 全て、偶然で動いている。
2. 基本的に偶然で動いているが、必要に応じて、神が調整している。
3. 全て、元から決まっている。
現代社会で、政教分離が割とはっきり認識されている社会では、≪1≫の「全て、偶然」が、大体、大まかに、一応の、公的な常識になっているように見受けられます。
なんで、こんな奥歯に物の挟まったような限定をつけるかというと、たとえば、アメリカの法廷では、証言する前に、それぞれが信じる神に宣誓させられるのであって、必ずしも、世界的に、「全て、偶然」が、常識になっているわけではないからです。 もう、神の存在を少しでも念頭に置いてしまった時点で、「全て、偶然」はあり得ないです。
≪2≫の、「基本、偶然。 神が調整」というのは、神を信じている者の、ほぼ全員が取っている立場です。 「全て、神が決めている」というのも考えられますが、それならば、人間が神に祈るのは、無意味という事になりかねません。 神が先に決めた事を、人間が後から変えさせるわけにはいかないのですから。
「基本、偶然」だからこそ、ゆとりというか、あそびというか、そういった不確定な部分が発生し、不確定を、自分に有利な確定にしたいがために、神に祈るわけですな。 神がまだ決めていない部分を、お願いして、自分に有利なように取り計らってもらおうというわけだ。 何だか、贈収賄の臭いがしますが、まあ、人間の腹の底なんて、そんなもんですよ。
≪敬虔な信者≫という表現があり、普通、誉め言葉として使われますが、政治家や役人に賄賂をせっせと贈っている者を、≪敬虔な業者≫と言わないのは、なぜでしょう? やってる事は、まったく同じに見えるのですが。
しかし、≪1≫の、「全て、偶然」と思っている人から見ると、≪2≫の立場の人は、妄想に取り付かれた狂人としか思えないと思います。 神がいる事は証明できないのに対し、「全て、偶然」で、この世に起こる事の全ては、説明できるのであって、それなら、「いるかいないか分からないものを、いると思い込んでいるのは、妄想以外の何ものでもない」というわけです。
≪3≫の、「全て、元から決まっている」は、運命論という奴です。 混同している人も多かろうと思いますが、運命と神は、まったく相反するものでして、全て、運命によって決まっているのなら、神の出る幕はありません。 だって、もう決まっちゃってるんだから、祈ろうが呪おうが、神にはどうにもしようがありませんし、そういう事であれば、神に祈る人などいないわけで、神は、概念段階で、不要になってしまいます。
「神が、運命を決めているんじゃないの?」
違う違う! あなた、そりゃ、どっちも、何となく、宗教っぽいから、漠然と一緒くたにしてしまっているだけで、本来、神と運命は、同時に存在できないんだったら。 そのつど、人間の求めに応じて、神が決めるのであれば、そんなのはもう、運命とは言いません。 神の概念を取るか、運命の概念を取るか、どっちかにして下さい。
残る一つの対比、「全て、偶然」と、運命は、相反するだけでなく、まるで逆の概念です。 一方は、「何も決まっていない」で、もう一方は、「全て決まっている」ですから、どう見ても、逆ですな。 こんな事は、言うまでもないような気もするのですが、こういう事を考えた事が無い人というのは、とことん、この種の論理に弱いので、念の為、書いておきました。
ところが、このニ派に属する人は、思いの外、少ないようで、≪2≫の「基本、偶然。 神が調整」の立場を取る人が、圧倒的に多い。 いや、実際に数を数えてみたわけではありませんが、人類の歴史を振り返ると、それが分かるのです。
歴史上の人物で、宗教と無関係だった人を探すのは、非常に困難ですし、世界遺産だって、文化遺産のほとんどが、宗教関連です。 そもそも、近世以前に於いて、巨大な建造物といったら、宗教の力を動員しなければ、作れなかったものばかり。 高層建築が典型例で、日本で言うなら、五重塔を寺以外にあるのを見つけるのは、ほぼ不可能ではありますまいか。
「基本、偶然。 神が調整」を信じているからこそ、神に祈り、神に救ってもらいたいばかりに、宗教的使命感に燃え、超人的な物を作り出して来たのです。 偶然や運命では、五重塔は出来ません。 その日の食べ物が手に入り、その晩の寝床が確保できれば、それで充分です。
些か、極論じみて来ますが、人類を知的生命体に押し上げたのは、神の概念なのかも知れませんな。 神の存在を想定する事によって、「神に祈れば、願いが叶う」と信じ込み、本能上、必要とされている限度を超えて、欲望を発達させて来たのかも知れません。
「動物と人間の違いは、どこにあるか」という問いが、生物学の世界で、よく発せられますが、道具は、カラスでも使いますし、言葉は、イルカでも使います。 物を作り出すなんて事は、巣作りなら、ほとんどの動物が行います。 ニワシドリなんて、庭まで作りやがる。
だが、動物が神の存在を想定しているというのは、今のところ、証明されていません。 ちなみに、≪死≫の概念はあるらしいとの事。 高等霊長類に手話を教えている研究者が、ゴリラに、「死とは、何か?」と訊ねたら、「知っている」と答えて、地面を指差したのだとか。 そもそも、≪死≫の概念を、ゴリラにどう伝えたのか、そこが分からないので、些か眉唾ですが。
神がいるかいないかは、証明できません。 神がいる証拠は、全て否定できますから、いないと考えるのが、理性的ですが、いない証拠もないので、「いる」と言う人達を説得するのは、非常に難しい。 特に、日頃、神に祈る事で、精神を安定させ、窮地を乗り切っている人達に、「神なんか、いない」という考え方を押し付けるのは、罪とも言うべき所業です。
かくいう私も、神はいないと思いつつも、生きて行く上で、神がいてくれた方がありがたい場面が多いせいで、神の存在を否定しきれないのです。 否定したくない、というべきでしょうか。 他人に、信じろとは言いませんから、いいじゃないですか、信じてたって。
たとえば、翌日に、嫌な仕事をしなければならない。 どうやっていいか分からないし、しくじったら、恥をしこたま掻きそうだ、という場合。 前の晩から憂鬱なわけですよ。 翌日の事で不安が募って、眠る事もできない。 そういう時に、
「ああ、神様、なんで私を、こんな厄介な目に遭わせるんですか? 何も悪い事なんかしてないじゃないですか。 公正を保つのがあなたの仕事なんでしょう? 罰を与えるなら、悪い事をしている人間を探して下さいな。 というわけで、このピンチを回避させて下さいよ。 お願いしますよ」
と、ぐちぐちぐちぐち考えていると、割と安らかに、眠りに落ちる事ができるわけです。 一方、運命を信じる場合、
「いいや、全ては運命だ。 なるようにしかならないのだ。 明日は明日の風が吹く。 どーんと来い!」
と、自分を勇気付けるわけですが、いかんせん、全て決まってしまっているというのは、絶望的です。 本当に、なるようにしかならないわけで、自分を勇気付ける助けにはならないのではないでしょうか。 これは、単なる、判断停止の現実逃避ですな。
残る一つの、「全て、偶然」を信じている人達は、そもそも、そんなつまらん事で悩みません。 生きて行く能力が高く、仕事でも、交友でも、実力で、ぐいぐい未来を切り開いていくタイプなので、「全て、偶然」という仕組みを、積極的に使いこなせるのです。 現代社会で、一番得をしているのは、こういう人達ですな。 現代の産業社会は、宗教とは無縁ですが、近世以前に於ける宗教以上の力を持っています。
自信に満ち溢れ、この世が、「全て、偶然」である事を存分に利用して、経済活動に勤しんでいる人達が、現代社会を引っ張っているわけです。 ただし、こういう人達は、そんなにたくさんはいないのであって、昨今流行りの言い方で言えば、1%に過ぎません。 残りの99%は、「神の調整」に頼るか、運命と諦めるか、そのどちらかに逃げ込まざるを得ないのです。
この場合の神は、特定宗教の、特定の神とは関係なく、哲学的な意味での神です。
「宇宙全体から、最小粒子に至るまで、この世に存在する全ての物事に常に目を配っていて、それらに対して、超自然的な力を及ぼす事ができる」
といったところが、私的な神の定義でしょうか。
細かい事ですが、≪造物主≫であるかどうかは、問題ではありません。 その神が、この世を作ったかどうかは、どーでもいー事なのです。 重要なのは、私の頼み事を実現してくれるかどうか、または、公正に世の中を運営してくれるかどうか、という点ですな。
できれば、私の望みを全て叶えてくれる、≪マイ・ゴッド≫が、一番都合がよいのですが、私が私自身認めるような悪事を犯した時にも、それを庇ってくれる神というのは、あまりにも偏っていて、神としての重みに欠ける気がするので、誰もが納得するところで、公正さを基準にした方が良いのかもしれません。
さて、そういう意味での神は、本当に存在するのか? 否が応でも、トマス・アクィナスの世界に入ってしまうわけですが、こちとら、聖書の記述を基準にするわけにはいかないので、事は更に厄介です。
実際の経験として、神に祈って、何かを頼んだ後、それが実現する事がありますが。 それは果たして、本当に、神がそうしてくれたのか、それとも、単なる偶然なのか、はたまた、更に穿った見方をすると、結果を自分で見越している事だけを祈っていたのか、因果関係を判別する事ができません。
二人の人間がいて、利害が相反している場合で、一方が神を信じて、祈っているのに対し、もう一方が、神を全く信じない人間だったとします。 神を信じている方が望む結果になった場合、神のおかげでそうなったように見えますが、実は、偶然の結果に過ぎないのかもしれません。 少なくとも、神を信じていない人間は、その結果を、神の仕業とは認めないでしょう。
同じような勝負が、100回続いて、100回とも、神を信じている側が勝てば、神を信じていない方でも、「神はいる」と思い始めるかもしれませんが、現実には、そんな事は、起こりそうもありません。 そんなにはっきり、神のご利益があるのであれば、世界中の人間が、一人残らず、朝から晩まで、神に祈り続ける生活を選んでいる事でしょう。
この世を動かす原理には、三つの説明が考えられます。
1. 全て、偶然で動いている。
2. 基本的に偶然で動いているが、必要に応じて、神が調整している。
3. 全て、元から決まっている。
現代社会で、政教分離が割とはっきり認識されている社会では、≪1≫の「全て、偶然」が、大体、大まかに、一応の、公的な常識になっているように見受けられます。
なんで、こんな奥歯に物の挟まったような限定をつけるかというと、たとえば、アメリカの法廷では、証言する前に、それぞれが信じる神に宣誓させられるのであって、必ずしも、世界的に、「全て、偶然」が、常識になっているわけではないからです。 もう、神の存在を少しでも念頭に置いてしまった時点で、「全て、偶然」はあり得ないです。
≪2≫の、「基本、偶然。 神が調整」というのは、神を信じている者の、ほぼ全員が取っている立場です。 「全て、神が決めている」というのも考えられますが、それならば、人間が神に祈るのは、無意味という事になりかねません。 神が先に決めた事を、人間が後から変えさせるわけにはいかないのですから。
「基本、偶然」だからこそ、ゆとりというか、あそびというか、そういった不確定な部分が発生し、不確定を、自分に有利な確定にしたいがために、神に祈るわけですな。 神がまだ決めていない部分を、お願いして、自分に有利なように取り計らってもらおうというわけだ。 何だか、贈収賄の臭いがしますが、まあ、人間の腹の底なんて、そんなもんですよ。
≪敬虔な信者≫という表現があり、普通、誉め言葉として使われますが、政治家や役人に賄賂をせっせと贈っている者を、≪敬虔な業者≫と言わないのは、なぜでしょう? やってる事は、まったく同じに見えるのですが。
しかし、≪1≫の、「全て、偶然」と思っている人から見ると、≪2≫の立場の人は、妄想に取り付かれた狂人としか思えないと思います。 神がいる事は証明できないのに対し、「全て、偶然」で、この世に起こる事の全ては、説明できるのであって、それなら、「いるかいないか分からないものを、いると思い込んでいるのは、妄想以外の何ものでもない」というわけです。
≪3≫の、「全て、元から決まっている」は、運命論という奴です。 混同している人も多かろうと思いますが、運命と神は、まったく相反するものでして、全て、運命によって決まっているのなら、神の出る幕はありません。 だって、もう決まっちゃってるんだから、祈ろうが呪おうが、神にはどうにもしようがありませんし、そういう事であれば、神に祈る人などいないわけで、神は、概念段階で、不要になってしまいます。
「神が、運命を決めているんじゃないの?」
違う違う! あなた、そりゃ、どっちも、何となく、宗教っぽいから、漠然と一緒くたにしてしまっているだけで、本来、神と運命は、同時に存在できないんだったら。 そのつど、人間の求めに応じて、神が決めるのであれば、そんなのはもう、運命とは言いません。 神の概念を取るか、運命の概念を取るか、どっちかにして下さい。
残る一つの対比、「全て、偶然」と、運命は、相反するだけでなく、まるで逆の概念です。 一方は、「何も決まっていない」で、もう一方は、「全て決まっている」ですから、どう見ても、逆ですな。 こんな事は、言うまでもないような気もするのですが、こういう事を考えた事が無い人というのは、とことん、この種の論理に弱いので、念の為、書いておきました。
ところが、このニ派に属する人は、思いの外、少ないようで、≪2≫の「基本、偶然。 神が調整」の立場を取る人が、圧倒的に多い。 いや、実際に数を数えてみたわけではありませんが、人類の歴史を振り返ると、それが分かるのです。
歴史上の人物で、宗教と無関係だった人を探すのは、非常に困難ですし、世界遺産だって、文化遺産のほとんどが、宗教関連です。 そもそも、近世以前に於いて、巨大な建造物といったら、宗教の力を動員しなければ、作れなかったものばかり。 高層建築が典型例で、日本で言うなら、五重塔を寺以外にあるのを見つけるのは、ほぼ不可能ではありますまいか。
「基本、偶然。 神が調整」を信じているからこそ、神に祈り、神に救ってもらいたいばかりに、宗教的使命感に燃え、超人的な物を作り出して来たのです。 偶然や運命では、五重塔は出来ません。 その日の食べ物が手に入り、その晩の寝床が確保できれば、それで充分です。
些か、極論じみて来ますが、人類を知的生命体に押し上げたのは、神の概念なのかも知れませんな。 神の存在を想定する事によって、「神に祈れば、願いが叶う」と信じ込み、本能上、必要とされている限度を超えて、欲望を発達させて来たのかも知れません。
「動物と人間の違いは、どこにあるか」という問いが、生物学の世界で、よく発せられますが、道具は、カラスでも使いますし、言葉は、イルカでも使います。 物を作り出すなんて事は、巣作りなら、ほとんどの動物が行います。 ニワシドリなんて、庭まで作りやがる。
だが、動物が神の存在を想定しているというのは、今のところ、証明されていません。 ちなみに、≪死≫の概念はあるらしいとの事。 高等霊長類に手話を教えている研究者が、ゴリラに、「死とは、何か?」と訊ねたら、「知っている」と答えて、地面を指差したのだとか。 そもそも、≪死≫の概念を、ゴリラにどう伝えたのか、そこが分からないので、些か眉唾ですが。
神がいるかいないかは、証明できません。 神がいる証拠は、全て否定できますから、いないと考えるのが、理性的ですが、いない証拠もないので、「いる」と言う人達を説得するのは、非常に難しい。 特に、日頃、神に祈る事で、精神を安定させ、窮地を乗り切っている人達に、「神なんか、いない」という考え方を押し付けるのは、罪とも言うべき所業です。
かくいう私も、神はいないと思いつつも、生きて行く上で、神がいてくれた方がありがたい場面が多いせいで、神の存在を否定しきれないのです。 否定したくない、というべきでしょうか。 他人に、信じろとは言いませんから、いいじゃないですか、信じてたって。
たとえば、翌日に、嫌な仕事をしなければならない。 どうやっていいか分からないし、しくじったら、恥をしこたま掻きそうだ、という場合。 前の晩から憂鬱なわけですよ。 翌日の事で不安が募って、眠る事もできない。 そういう時に、
「ああ、神様、なんで私を、こんな厄介な目に遭わせるんですか? 何も悪い事なんかしてないじゃないですか。 公正を保つのがあなたの仕事なんでしょう? 罰を与えるなら、悪い事をしている人間を探して下さいな。 というわけで、このピンチを回避させて下さいよ。 お願いしますよ」
と、ぐちぐちぐちぐち考えていると、割と安らかに、眠りに落ちる事ができるわけです。 一方、運命を信じる場合、
「いいや、全ては運命だ。 なるようにしかならないのだ。 明日は明日の風が吹く。 どーんと来い!」
と、自分を勇気付けるわけですが、いかんせん、全て決まってしまっているというのは、絶望的です。 本当に、なるようにしかならないわけで、自分を勇気付ける助けにはならないのではないでしょうか。 これは、単なる、判断停止の現実逃避ですな。
残る一つの、「全て、偶然」を信じている人達は、そもそも、そんなつまらん事で悩みません。 生きて行く能力が高く、仕事でも、交友でも、実力で、ぐいぐい未来を切り開いていくタイプなので、「全て、偶然」という仕組みを、積極的に使いこなせるのです。 現代社会で、一番得をしているのは、こういう人達ですな。 現代の産業社会は、宗教とは無縁ですが、近世以前に於ける宗教以上の力を持っています。
自信に満ち溢れ、この世が、「全て、偶然」である事を存分に利用して、経済活動に勤しんでいる人達が、現代社会を引っ張っているわけです。 ただし、こういう人達は、そんなにたくさんはいないのであって、昨今流行りの言い方で言えば、1%に過ぎません。 残りの99%は、「神の調整」に頼るか、運命と諦めるか、そのどちらかに逃げ込まざるを得ないのです。