2013/06/30

買えなかった本

  長編ロシア文学の読破にも、ちと疲れたので、頭休めに、蔵書の中から、昔懐かしい小松左京さんの本を取り出し、抓み喰い的に読んでいたのですが、そうこうする内、ふと、「若い頃に買えなかった本を、揃えてみようかな」と、思い立ちました。

  何年か前に、アマゾンで、何気なく、「本・小松左京」を検索してみたら、新品はほとんど無いものの、古本がドカドカッと、何十冊か引っ掛かって来ました。 そして、それらみんなに、「1円」とか「40円」と言った捨て値がついていました。 しかし、送料が250円かかり、その上、代引き手数料が加わると、500円を超えて、新刊の文庫と変わらなくなってしまうので、断念して、それっきりになっていたのです。

  その頃と現在で、何が変わったかと言うと、アマゾンの方は変わりませんが、私がクレジット・カードを手に入れて、代引きを使わなくても、ネットで買い物ができるようになった事が変わりました。 つまり、本の値段+送料250円だけで済むわけで、それなら、大半が251円で買えるという事になります。

  もし、古本屋の店頭で買えば、30年近く昔の文庫本など、楽勝で、100円以下だと思いますが、その場合、こちらが欲しい物が手に入るとは限りません。 一方、ネットなら、選びたい放題ですから、251円出しても、高いとは言えないでしょう。

  「1円」や「40円」と言った値段ですが、どうしてこんなに安いのか、常識的に考えれば、首を傾げない方が非常識というもの。 特に、「1円」などは、もはや、値段など無いも同然で、「0円だと支障があるから、とりあえず、1円にしときました」といった趣きが、あまりにも濃厚です。 しかし、儲からない事を業者がやるわけはないので、たぶん、送料の方で利益を出せる仕組みになっているのでしょう。

  私のような、筋金入りのドケチにすら、懐から財布を取り出す気にさせるのですから、こういうシステムを構築したアマゾンは、大したものです。 アメリカ商法、恐るべし。 そういや、アマゾンを、日本の会社だと勘違いしている日本人が、結構いるようですな。 これは、20年くらい前、ソニーをアメリカの会社だと思っているアメリカ人がいたのと同じで、その社会に、いかに深く浸透しているかという証明なんでしょうな。


  で、アマゾンのマーケット・プレイスで探した小松左京さんの本ですが、手始めに、新潮文庫の≪時間エージェント≫を買ってみました。 小松作品の新潮文庫版では、この一冊だけ、持っていなかったのです。 ちなみに、発行順に、全て書き出してみますと、

≪地球になった男≫
≪アダムの裔≫
≪戦争はなかった≫
≪闇の中の子供≫
≪時間エージェント≫
≪夢からの脱走≫
≪物体O≫
≪春の軍隊≫
≪おしゃべりな訪問者≫
≪はみだし生物学≫
≪空から墜ちてきた歴史≫

  となります。 私が中学生の頃は、新潮文庫は、岩波文庫ほど高尚ではないものの、角川文庫や講談社文庫などよりは、格調の高いイメージがありました。 中学生の頃、最初に買った小松作品も新潮文庫でしたが、≪地球になった男≫、≪夢からの脱走≫、≪物体O≫のどれが一冊目だったかは、もはや覚えていません。

  ちなみに、小松左京さんを読む前には、星新一さんを読んでいました。 星作品の文庫を買い尽くし、読み尽くしてしまった後、同じ、SF作家で、しかも、大ブームを巻き起こした、≪日本沈没≫の原作者という事で、小松作品に移ろうとしたところ、星作品には見られない、エロ描写が含まれていて、中学生には刺激が強過ぎて、三冊だけ買ったところで、打ち切ってしまったのです。

  今にして思うと、小松作品のエロ描写は、卑猥度的に見て、全然大した事はなく、むしろ、表現の美しさの方が勝っているくらいなのですが、当時の中学生にとっては、エロ雑誌を買うのと同じくらい、抵抗感があったんですな。 具体的に言うと、レジに持って行くのが恥ずかしいわけです。 これまた、今にして思えば、顔も名前も知らん中学生がどんな本を買うかなんぞ、書店の店員にゃ、何の興味も無い事だったのではないかと思うのですが・・・

  で、しばらくは、その三冊だけだったのが、高校の後半になって、もう、大分、面の皮が厚くなった頃、角川書店による、≪復活の日≫の映画化をきっかけに、第二次・小松左京ブームが訪れ、私もそれに乗っかって、文庫の種類に関わらず、本屋にあった小松作品を買い漁り始めました。 大人になるまでの数年間に、40冊程度は揃えました。

  ちなみに、第二次・小松左京ブームは、1984年の映画、≪さよならジュピター≫の前宣伝で最高潮に達したものの、映画自体の失敗で、ガクンと失速し、1987年の映画、≪首都消失≫の不人気で、トドメを刺され、それっきりになりました。 いやあ、あの頃は、ファンとして、つらい時期だったなあ・・・。

  映画、≪さよならジュピター≫は、小松さん自身が企画し、脚本を書き、総指揮したのですが、映画制作の経験の浅さがもろに出た上に、日本のSFX技術を過信し過ぎた結果、「陳腐」としか言いようがない駄作になってしまいました。 とりわけ、日本人の俳優達が、宇宙SFのスケール感に全くそぐわず、目を背けたくなるようなひどい映像に熱が出る始末。 うーむ、思い出すだけでも、赤面を避けられぬ。

  まだ、企画段階の時に、アメリカの映画会社から、制作の権利を買いたいという話があったのを、「日本映画として作りたいから」と言って、断ったらしいのですが、たぶん、アメリカで作っても、ろくな映画にゃならなかったでしょう。 元の話が、ハードSF過ぎるのであって、手直しくらいでは、どうにもなりゃしません。

  映画を作る場合、まず、ストーリー展開が面白いのが第一、観客の心を躍らせる見せ場を設けるのが第二でして、話のスケールの大きさなんて、それだけでは、何の魅力にもならないのですが、それが分かっていなかった様子。 小松さんが書いた映画批評を読むと、型に嵌まらない、ユニークな視点から映画を分析していて、なかなか面白いのですが、自分の作品だと、感覚が麻痺してしまうのですかね?

  しかも、このしょーもないストーリーですが、わざわざ、日本のSF作家達を集めて、ブレーン・ストーミングして決めたというのですから、いい加減な連中もいたもんです。 誰か一人でも、「この話、SFとしては面白いですが、映画化するとなると、見せ場が作り難いんじゃないでしょうか?」と言ってやる人がいなかったんすかね? 大御所、小松さんの前では、そんな事言えんかったか?

  で、前宣伝だけ、大盛り上げに盛り上げたものの、肝心の映画がスカだったので、それ以後、≪さよならジュピター≫は、SF関係者の間で、禁句となった模様。 しかも、そこでやめときゃ、まだ傷が浅かったものを、小松さんの次の長編小説、≪首都消失≫を映画化したものだから、もういけません。 これが、≪さよならジュピター≫以上につまらないんだわ。 もう、目が点だね。 いや、嘘だと思ったら、レンタルして来て、見てみんさい。 マジでも目が点になるから。 だから、ハードSFは、そのままじゃ、映像作品にならないんだって。 何回言えば、分かってくれるのよ。

  その後、小松さんは、テレビにも、ほとんど顔を出さなくなり、急速に、「過去の人」になって行きます。 日本のSFは、小松さんがリーダーになって発展して来たのですが、この失脚で、日本のSF界全体が、人気沈降し、一般世間から相手にされなくなります。 「SF作家」という肩書きが、職業カテゴリーとして通用しなくなり、筒井康隆さんのような特別な能力を持った人以外、執筆依頼も激減し、喰い繋ぐために、仮想戦記物などという、最低のジャンルに逃げ込んで、日本社会全体に害毒を垂れ流し始めるのですが・・・、まあ、その辺は、本題と関係ないので、深入りしない事にしましょう。

  というか、すでに、≪さよならジュピター≫の辺りから、脱線しまくっておるのう。 いや、あまりにもおぞましい記憶なので、小松さんについて書き始めると、どうしても、そこに触れざるを得ないんですな。 話を新潮文庫の小松作品に戻します。


  新潮文庫で、≪時間エージェント≫だけ、なぜ、買わなかったのかというと、たぶん、近所の本屋に無かったからだと思うのですが、その一方で、私は、この本を立ち読みした記憶があり、真の理由は、もはや闇の中です。 ああ、子供の頃から、日記をつけておけばなあ・・・。

  確か、他の本の解説に、「≪愛の空間≫という短編は、大変なエロだ」といったような事が書かれていて、面の皮が厚くなっていた私は、「そんなにエロなら、読んでみよう」と思い立ち、≪時間エージェント≫の中に収められている事を知って、どこかの本屋で立ち読みしたのです。 その時の感想は、「ああ、こういう話か」という程度だったと思います。 上述した通り、小松さんの書くエロは、大人の感覚で見れば、大騒ぎするようなものではありませんから。

  それはともかく、本屋で発見して、立ち読みまでしておきながら、なぜ、買わなかったのか、それが分からぬ。 いつでも買えるから、後回しにしたのかもしれません。 ところが、文庫というのは、いつでも買えるわけではない事に、間も無く気づきます。 第二次・小松左京ブームが終息した後、小松さんの文庫が、書店の棚から、凄まじい勢いで、消えて行ったのです。

  おぼろげな記憶では、88年頃には、小松作品を一冊も置いていない店が出て来ます。 最悪の形でブームが去ってしまって、売れなくなった事もありますが、小松さんが、小説を書く事に興味を失い、新刊が出なくなった事が、最も大きな理由だったと思われます。 本が書店に置かれなくなれば、その作家はもう、いなくなったも同然です。

  あの、大御所、小松左京さんがですぜ。 信じられます? 私は、信じられませんでした。 高校生くらいの読書人が、小松作品を読まずに、一体、誰の本を読むって言うのよ? SFが受け持っていた年齢層が、読む本がなくなってしまった結果、日本の高校生・大学生、特に男子学生が本を読まなくなり、知識レベルが落ちたというのは、強ち、こじつけ分析とも言えますまい。

  ちなみに、同年齢層の女子学生は、SFの凋落と入れ代わる形で勃興して来た、ライト・ノベルズに嵌まり、推理小説より更に下の、読書人ピラミッドの最低階層を形成して、今に至ります。 しかし・・・、ライト・ノベルズをいくら読んでも、頭の足しにゃならんと思うぞ。 推理小説も、似たり寄ったりだが・・・。

  その後、角川春樹事務所で、ハルキ文庫が設けられ、小松作品が復活しますが、たぶん、私が感じたのと同じ不安に襲われたのでしょう。 いや、誰でも、70年代から、80年代半ばまでの時代を知っている人間なら、その後の、「男子学生が読む本が無くなった」状況に、猛烈な危機感を覚えますって。 仮想戦記なんて、有害クズ小説を、SFと思われたら、たまったもんじゃありません。

  しかし、結局、小松さん以外に、頼る作家がいなかった事が、日本のSF界の限界だったんでしょうか。 いかに、小松作品とはいえ、時代の流れにはついていけないのであって、復刻して売るにも、時間的限度があります。 私が読んでいた頃ですら、書かれた時期と、10年以上の開きがあったのが、今では、30年以上も開いているわけで、インターネットも、ケータイも出て来ない未来小説に、面白さよりも違和感の方を強く覚える人が多いのは、無理も無い事です。


  むむむ、また、脱線している。 アマゾンのマーケット・プレイスで買った、≪時間エージェント≫の話に戻しましょう。

  先週の木曜の夜に注文したんですが、思いの外、到着が遅れ、日曜の午後になって、ようやく届きました。 文庫本は薄いので、メール便で、郵便受けに投函されます。 印鑑を押さなくて済むのはいいのですが、いつ届くか分からないので、こまめに郵便受けを見に行かなければならないのが厄介。 土曜の朝から、何回確認しに行った事か。 エロ本でもないのに、なんで、こんなに気を使わなければならんのか・・・。

  ビニール密封されていましたが、本自体は、そのまま、注文書と一緒に入れてありました。 運送中にビニールが破れた場合を考えると、ちと怖い荷姿ですな。 で、本の本体ですが、思っていたより、くたびれていて、絶句・・・。 普通に、ブック・オフに持って行ったら、「汚れがあるので・・・」と言って、買い取り拒否されそうな状態です。 なるほど、これなら、1円なのも、深く頷ける。

  初版が1975年発行、その12刷で、1980年の品ですから、無理も無いのですが、それにしても、同じ頃に買った私の持ち本は、ずっと綺麗です。 本の状態に対する業者の自己評価では、「良い」だったのですが、これでは、「可」と言うのもためらわれる。 しかし、よく考えてみれば、「良い」でも、「可」でも、値段は同じ、1円なのであって、1円の古本相手に、状態の程度を云々する方が、心得違いなのかもしれません。 読む分には、何の問題も無い事ですし。


  収録されている作品は、

【四次元トイレ】
【辺境の寝床】
【米金闘争】
【なまぬるい国へやって来たスパイ】
【売主婦禁止法】
【時間エージェント】
【愛の空間】

  の、7作品。 この内、上から5作品は、ショートショートですが、知っている人は知っている通り、小松さんのショートショートは、星さんのそれに比べると、かなり落ちます。 落ちが落ちない点が落ちるという意味ですが・・・。 この5作品も、その例に漏れず。

  表題作の、【時間エージェント】は、タイム・パトロール物の、短編連作です。 一編一編が、標準的な短編よりも短いので、スイスイ読めます。 この作品は、角川文庫の≪三本腕の男≫にも収められていて、そちらは、以前に古書店で買って、読んでいたので、今回は読みませんでした。

  思い出がある【愛の空間】は、改めて読み返してみましたが、感想はやはり、「こんなものかなあ・・・」という程度。 確かに、エロはエロだけど、それ以前に、SFですな。

  まあ、中身は、この際、どうでも宜しい。 小松作品の新潮文庫版が、これで全部揃った事に、大きな意義があるのです。 ≪時間エージェント≫を本棚に入れ、≪地球になった男≫から、≪空から墜ちてきた歴史≫まで、11冊、青い背表紙を揃えてみると、得も言われぬ感慨が胸に込み上げて来ます。 ずっと、一冊欠けた状態だったのが、ほぼ、四半世紀ぶりに、全て揃ったか・・・。 ありがとう、アマゾン。 ありがとう、マーケット・プレイス。


  「大人買い」と言うには、金額がささやか過ぎますか。 251円なら、毎週一冊ずつ買っても、一年で、13000円くらいにしかならないので、大した浪費にはならんでしょう。 とりあえず、小松作品で、手に入る物を集めてみるつもりです。 今後、新刊が出る事はないので、中身が重複している本まで、全部買っても、100冊にもなりますまい。

2013/06/23

映画批評⑭

  うーむ、気が滅入る・・・。 連日の雨のせいか、仕事のパターンの変更が近付いていて、その不安があるせいか、原因は定かでありませんが、何もする気になりません。 というわけで、今週も、映画批評でやっつけさせていただきます。

  バイク通勤なので、雨が続くと、マジ、げんなりして来るのですよ。 合羽の乾く暇が無く、また雨に濡れるものだから、防水能力が落ちて、下に来ている上着まで、水がしみ通って、不快だったらありゃしない。 私は、透湿繊維の合羽を使っているのですが、そろそろ、寿命なのかもしれません。 ゴアなら、かなり長持ちするんですが、透湿繊維は、一度大雨を喰らって、突破されると、次からは、ガクンと防水性が落ちて、回復しない傾向があります。

  仕事の内容が変わるのが、また、憂鬱な話で・・・。 ご存知の通り、製造業は、国内工場が軒並み赤字を垂れ流しておるせいで、派遣社員や期間社員をクビにしたり、正社員でも、、他工場へ応援に出したり、2直のところを1直にしたりと、どこも苦しいわけですが、私の勤め先も例外ではなく、人のやりくりの関係で、ライン・タクトの変更が頻繁にあり、そのつど、作業が増えたり減ったり、部品棚の作り直しをしたりせねばならんので、大変なのです。

  ちょっと考えてみれば、タクト変更が、一番、費用がかかるのであって、やればやるほど、赤字が膨らむのですが、上の方が馬鹿なので、そんな計算も出来ない有様。 いや、計算以前に、感覚で分かりそうなもの。 仕事が減ったら、定時前で終わりにして、その分、給料を減らせばいいのですが、なぜやらぬ? 自分達は、どうせ、ラインと関係なく、好きなだけ遊び残業して帰るのだから、いいではないか。 ほんま、アホちゃうか?

  まあ、愚痴はこのくらいにして、映画批評を・・・。



≪グラスハウス2≫ 2006年 アメリカ
  ≪グラスハウス≫の続編みたいな名前ですが、登場人物も制作スタッフも、全く違う映画です。 ≪グラスハウス≫は、ガラスが多用された家で起こるサスペンスでしたが、こちらでは、ガラスの家ではなくなっていて、タイトルを継ぐ理由は、尚の事、希薄。

  両親を事故で亡くした姉弟が、同じく子供を事故で亡くした夫婦の家に、養子として引き取られるが、外出は禁じる、変な物は喰わせる、逆らうと殴るといった、養母の異常さに耐えかねた姉が、弟を連れて、脱出を試みる話。

  パート2で、出演者が総入れ替えされると、大抵、二流映画に落ちるものですが、これは例外。 ガラスの家ではないけれど、十二分に怖いです。 とりわけ、養母の怖さが無類。 目つきからして、狂っているのは明らかで、≪ミザリー≫並みに、背筋を凍らせてくれます。


≪グランド・ホテル≫ 1932年 アメリカ
  ベルリンの高級ホテルで、偶然出逢った泊り客達が見せる群像劇。 有名どころというと、グレタ・ガルボさんが、バレエのプリ・マドンナ役で出ています。

  合併交渉がうまく行かないと、お先真っ暗な繊維会社の社長。 その会社の従業員で、余命幾許も無いと宣告され、全財産を使ってしまおうとする男。 社長に雇われたタイピストの女。 落ち目のバレリーナ。 そのバレリーナから、真珠のネックレスを盗んで、借金を返そうとする自称男爵などが、登場人物。

  誰が中心というわけではありませんが、強いて言うなら、余命幾許もない男と、泥棒男爵の交友が軸になって、話が進んで行きます。 群像劇の教科書と言ってもいいくらい、それぞれのエピソードが、巧みに絡められています。

  1932年で、こういうレベルの高い作品が作られているというのは、驚き。 グレタ・ガルボさんが一応出ているものの、スターに頼らなくても、充分、見応えがある映画です。


≪ゴー・ファースト 潜入捜査官≫ 2008年 フランス
  ≪この愛のために撃て≫で、殺し屋役をやった、ロシュディ・ゼムさんが主演の刑事物。 この人、異様なほどに人相が悪いのですが、刑事と言われれば、刑事に見えてくるから不思議。

  潜入捜査官であるため、張り込みから外されていた男が、現場に出ていた上司や同僚を殺されてしまうが、その後、潜入した麻薬密売組織の中で、その犯人に出会い、復讐心を燃やす話。

  ドンパチもありますが、主な見せ場は、カー・アクションです。 ただし、カー・チェイスではなく、スペインからフランスへ麻薬を運んで走るだけ。 今や、カー・チェイスですら見飽きられているのに、ただ走るだけで面白くなるはずがなく、どーにも、盛り上がらない映画になっています。

  最先端の追跡システムを使い、狙撃チームやヘリまで繰り出す大掛かりな操作網を敷いているのに、なぜ、潜入捜査官が必要なのか、首を傾げたくなるところがあります。 クライマックスで、容疑者達を、あっさり撃ち殺してしまうのも、奇妙。 せっかく張った網の意味が無くなってしまうでしょうに。


≪第十七捕虜収容所≫ 1953年 アメリカ
  ビリー・ワイルダーさんが、監督・脚本・制作。 第二次世界大戦中のドイツの捕虜収容所を舞台にした群像劇ですが、ウィリアム・ホールデンさんが、一応、主演。

  連合軍の軍曹ばかりを集めた収容所の、ある営舎で、脱走計画がバレて、犠牲者が出たのをきっかけに、スパイ狩りが始まるが、捕虜や看守の間を器用に立ち回って、物資を溜め込んでいた男が疑われ、濡れ衣を晴らすために、本当のスパイを密かに捜す話。

  前半、コメディー調で進むのですが、ギャグ担当の二人組がしつこくて、些かうんざりします。 ところが、後半になって、スパイ捜しに軸が移ると、俄然、面白くなって来ます。 コメディー部分は、尺を伸ばすために入れたのだと思いますが、もうちょっと、洒落ていればねえ・・・。

  「全員が軍曹」というのが、味噌でして、階級差が無いので、学校の同級生同士のつきあいのような、気安い雰囲気が醸し出されています。 それが原因で、喧嘩も起こるのですが、喧嘩は、この話には無くてはならないので、実に好都合。

  捕虜収容所物というと、≪大脱走≫が、真っ先に思い浮かびますが、この映画は、その10年前に作られたもの。 たぶん、相当な影響を及ぼしたものと思われます。


≪ヴィヨンの妻 桜桃とタンポポ≫ 2009年 日本
  太宰治原作。 浅野忠信さんが、太宰自身がモデルの、夫役。 松たか子さんが、その妻役。 「ヴィヨン」というのは、フランスの放蕩詩人の名前そうですが、作品の内容とは、ほとんど関係無し。

  人気作家のくせに、素行不良の夫が、さんざんツケを溜めている飲み屋から、金を盗むが、それを弁済するために、その飲み屋で働き出した妻を尻目に、夫は他の女と心中未遂をしでかし、いよいよ夫婦の危機に直面する話。

  ・・・暗いです。 話も暗ければ、映像も暗い。 戦後間もない頃の時代ですが、こうまで暗くする必要があるのか、疑問を感じずにいられません。 極端な事を言うと、映像無しで、真っ黒な画面に音声だけ流しても、イメージ的に大差無い感じ。

  話も古臭くてねえ・・・。 夫婦の危機というのは、普遍的テーマのようでいて、その実、最もつまらん題材でもあり、「そんなに嫌なら、別れなよ」の一言で突き放したくなるところがあります。 これがもし、原作が書かれた当時に映画化されたのなら、それなりに意味はあったのでしょうが、21世紀になって作るような映画でもありますまい。

  セリフのセンスが古くて、貧乏人のくせに、妙に丁寧な言葉を使っており、明らかに不自然です。 原作に従わなくても、手を入れてしまって良かったと思うんですがね。 松たか子さんが、魅力的な事だけが、この映画の救い。


≪刑務所の中≫ 2002年 日本
  崔洋一さん監督、山崎努さん主演の、刑務所物。 刑務所物と言ったら、≪塀の中の懲りない面々≫が有名ですが、こちらは、原作者が別の人です。 当人の受刑経験を元に書いた点では同じ。 ただし、映画の出来は、こちらの方が、かなり上です。

  ミリタリー・マニアで、モデルガンを違法改造して懲役刑を受けた老人が、日高刑務所で過ごした日々を、刑務所内での決まりや、受刑者の生態を細々と紹介しながら、語る話。

  ≪塀の中・・・≫と違って、看守との対立や、暴力沙汰の喧嘩は起きず、劇的な展開は一切無いのですが、刑務所の実態そのものが興味深いために、十二分に面白いです。 主人公が、ポツポツと呟くように、女性的に語るナレーションが、雰囲気を柔らかくしていて、大変好ましい。

  刑務所生活は、食べ物も、娯楽も適度に用意されていて、ホームレスに比べたら、天国のようなものですし、その日暮らしのニートなどと比べても、まだずっと上に見えます。 特に食生活は、健康的、且つ、美味で、大変充実している様子。

  五人同室の雑居房より、懲罰用の独居房の方が、生活環境は落ち着いていているわ、仕事は単純作業で楽だわで、暮らし易いというのは、私もそうではないかと想像していたので、「やっぱりね」と納得した次第。 他人と雑居して、何の得があるのか、そちらの方が分かりません。

  唯一、娑婆より悪いのは、看守の命令は絶対で、しかも、軍隊調の厳しい管理を受ける事ですかね。 作業場で、床に落とした消しゴムを拾うのにも、独居房の中で、トイレを使うのにも、許可がいると言うから、度が過ぎています。


≪ハリウッドランド≫ 2006年 アメリカ
  テレビでスーパーマンを演じて人気スターになり、1959年に自殺したとされる、ジョージ・リーブスの死の真相を探る、探偵サスペンス。 リーブス役が、ベン・アフレックさん。 実質的主役の探偵役が、≪戦場のピアニスト≫の、エイドリアン・ブロディーさん。

  殺人ではないかという疑問を抱いて、捜査を進めていく探偵の話が主軸ですが、ジョージ・リーブスが、スーパーマンに出演し、辞める事になった経緯がもう一本の軸として、回想形式で挟み込まれます。 この構成が、ちと厄介で、ベン・アフレックさんも、エイドリアン・ブロディーさんも、誰もが知っている顔というわけではないので、どの場面が、どちらの話なのか混乱して、ストーリーを追うのに疲れを感じます。

  ラストも、大山鳴動鼠一匹という終わり方で、これまた、どっと疲れが・・・。 そもそも、いくら往年の人気スターとはいえ、もう半世紀も前の人物を取り上げて、死の真相がどうのこうのと言っても、見る方の興味を掻き立てられないでしょう。


≪パッセンジャーズ≫ 2008年 アメリカ
  アン・ハサウェイさん主演。 旅客機の墜落事故の生存者達を集め、話を訊いていたセラピストが、患者の一人と恋仲になる一方、他の患者達が一人ずつ姿を消し始め、事故の真相を隠蔽しようとする航空会社の仕業ではないかと疑うが、実は・・・という話。

  厳密に言えば、ホラーという事になるんでしょうが、見せ所は、サスペンス。 クライマックスが、サプライズになっていますが、ある映画と同じ仕掛けと言うと、全てバレてしまうので、書けません。 同類の映画は、他にも幾つか作られましたが、それらと同様、この映画も、あまりいい出来とは言えませんな。

  アン・ハサウェイさんの顔は、土砂崩れ進行中で、「君は美人だ」というセリフが出て来るにも拘らず、どう見ても、美人に見えないのが、厳しいところ。 中盤、恋愛展開の辺りで、えらく間延びしているのですが、恐らく、監督としては、主人公の美女としての魅力でもたせるつもりだったのでしょう。 目算狂いも甚だしい有様になっています。


≪シンプル・プラン≫ 1998年 アメリカ
  これは、凄い話だな。 異色作が多い、サム・ライミ監督の映画ですが、俗悪なところは全く無くて、ストーリー展開の妙で勝負している、真っ当な内容です。

  兄と、その友人と共に、森の中に入った男が、雪に埋もれた小型飛行機の中から、大量の札束を見つけ、ネコババして、山分けしようという話になるが、三人が三人とも、勝手な行動をとったため、互いに疑心暗鬼に陥り、悲惨な結果を招く話。

  兄は、ちょっと頭が足りず、その友人は、ろくでなし、というだけなら、主人公に共感できるのですが、この主人公も、結構いい加減、且つ、腹の黒い男で、割と早い段階で、三人全員を突き放して見る事ができるようになります。 話がどんどん、まずい方向へエスカレートしていくので、主人公の立場で見ていると、不安メーターの針が振り切ってしまいます。

  もしかしたら、こういうのを、本当のサスペンス映画と言うのかもしれませんな。 見る者の心を揺らしまくって、最後の最後まで、気を抜かせません。 ラストも皮肉で、善悪バランスも取れています。 たぶん、傑作。


≪トイレット≫ 2010年 日本・カナダ
  監督・脚本は日本人。 スタッフは、混合。 出演者は、もたいまさこさん以外は、カナダ人。 舞台は、カナダの町。 全編、英語で、日本語は、「ばーちゃん」くらいしか出て来ません。 もたいまさこさんは、クライマックスで、「モーリー! クール」と言う以外、一言も喋りません。

  三人の子供が、母親の死後、実家に戻って暮らす事になったものの、実家には、母親が日本から連れて来た、英語を全く解しない祖母がおり、始めは戸惑う三人だったが、次第に、祖母と意思疎通ができるようになり、家族として纏まって行く話。

  間に入る母親は一度も出てこないので、もろ日本人面の祖母と、もろカナダ人面の孫達に、血の繋がりがあるとはとても思えないのですが、それはまあいいとして、祖母があまりにも無愛想なため、「この人、居心地が悪いなら、どうして、日本に帰らないのかな?」と、首を傾げてしまいます。 国に関係なく、祖母というのは、孫に対して無愛想なものだと言ってしまえば、それはそうですが・・・。

  家族の絆が次第に深まって行く話なので、大概の人は、「いい映画だ」と感じると思いますが、日本人と外国人とでは、そう感じる程度に差が出ると思われます。 日本人には分かっても、外国人には、「???」なところが、相当あるのではないでしょうか。

  カナダの家に≪ウォシュレット≫が付いていない事で、祖母が不便をしているという設定があるのですが、孫の同僚のインド人青年の口を借りて、ウォシュレットを、「日本の誇るハイテク」と絶賛させているのには、赤面せざるを得ません。 これが、純然たる外国映画なら、問題はありませんが、監督・脚本は日本人なのであって、自分の国の習慣を自慢したいだけなのです。 こういう事を、合作映画でやるもんじゃありません。

  孫の内、次男が、ロボットのプラモデル・オタクというのも、違和感濃厚な設定です。 日本の文化常識が、カナダでも通用すると誤解している可能性あり。 向こうで、オタクと言ったら、普通、パソコンやインターネット系でしょう。 モデラーはいると思いますが、ロボットのプラモは作らないのでは?


≪エレジー≫ 2008年 アメリカ
  恋愛を身体的快楽としか考えていなかった年寄りの大学教授が、30歳も若い女子学生と関係を持ってから、恋愛観が変わりそうになるが、結婚を迫られる事を恐れて別れてしまい、二年後に再会した彼女は、癌を患っていて・・・、という話、

  一見、情感深い恋愛物のように見えますが、私に言わせると、「いい歳こいて、何をやってるんだ、この馬鹿ジジイは?」と、呆れてしまいます。 若い女を引っ掛けるジジイも醜ければ、そんなジジイに引っ掛けられる若い女も、同じくらい醜い。

  前半、ベッド・シーンが何度も出て来ますが、映像そのものよりも、こういう場面を見せ場にしようと考える制作者の感性に、吐き気がします。 どういうつもりなんでしょう? 自分が、若い女と、こういう事がしたいんでしょうかね? 何とも、下司な企画。 恥を知るべし。


≪ダンケルク≫ 1964年 フランス・イタリア
  ジャン・ポール・ベルモンドさん主演の戦争物。 些か分かり難いですが、たぶん、反戦のメッセージを込めるために作ったのだと思います。

  第二次大戦の初頭、ドイツ軍に追い詰められたフランス軍とイギリス軍が屯ろするダンケルクの海岸で、所属部隊からはぐれた兵士が、所在無いままに、自宅から逃げようとしない地元の娘を助けたり、船で脱出しようとしたりしつつ、戦争の理不尽さに打ちのめされて行く話。

  ベルモンドさんというと、アウトロー的なイメージがあるので、こういう真面目な役をやっていると、どこかで、とんでもない事をしでかすのではないかと思ってしまうのですが、この映画では、真面目なまま、最後まで行きます。

  ダンケルクの海岸と、そのちょっと沖合いまでが舞台の全てで、そこから逃げられずに、同じ所を行ったり来たりしている主人公の姿には、シュールな雰囲気が漂います。 まるで、悪夢でも見ているかのよう。

  ドイツ軍の砲撃・爆撃・機銃掃射が、何度も何度も繰り返されるのですが、全て、火薬爆発なので、大変な迫力。 こんなに爆発ばかりさせていたのでは、破片は飛び散らなくても、衝撃波でやられて、俳優やエキストラに、怪我人が出たのではありますまいか。

  エキストラの数が半端ではなく、ちょっとした場面なのに、背景の海岸を、何十人何百人という兵隊達が、ぞろぞろ移動していく様は、圧巻です。 一体、いくら金をかけたんでしょう。 傑作かどうかは別として、大作である事は確か。 ただし、反戦映画としては、主張が弱すぎるような気もします。


≪ピッチ・ブラック≫ 2000年 アメリカ
  ビン・ディーゼルさんが助演。 主演は、知らない女優さん。 宇宙物SF。 舞台は、どこかの恒星系の惑星で、まあ、≪エイリアン2≫と同じような趣向だと思えばいいです。

  航行中の事故で、砂漠の惑星に不時着した宇宙貨客船のパイロットと、生き残った乗客達が、22年に一度起こる日蝕の時だけ地上に出て来る肉食生物の襲撃をかわしつつ、救命艇で脱出を図ろうとする話。

  大きな惑星だというのに、宇宙船が不時着した場所と、22年前に地質調査に来ていた一行の宿営地が、歩いて行ける距離にあるというのは、随分なご都合主義です。 22年間、放置されていた救命艇が、バッテリーを入れ替えただけで、動くというのもねえ・・・。

  ビン・ディーゼルさんは、護送中の囚人の役で、ワルだけと、頼りになる男という設定。 しかし、この人が出ると、何となく、二流映画っぽくなってしまうのは、私の偏見でしょうか。

  闇の中を襲って来る生物は、明らかに、エイリアンとイメージがダブっていますが、あまりにも強過ぎて、怖さを通り過ぎており、ホラーとしては成立していません。 やはり、二流映画か・・・。


≪レア 魔性の肉体≫ 1998年 アメリカ
  ポルノみたいなタイトルですが、この映画、日本では公開されなかったそうで、ビデオ用の邦題のようです。 原題は、≪パルメット≫で、これは、そういう名前の椰子の事だそうですが、サウスカロライナ州の別名でもあるとかで、たぶん、そっちの意味でしょう。

  刑務所から突然、釈放された元記者が、金と美女に釣られて、偽装誘拐の片棒を担ぐ事になるが、誘拐した金持ちの娘が、何者かに殺されてしまい、罠にかけられたと気づくものの、主犯に死体の始末をさせたと思ったら、それもまた罠で、どんどんまずい立場に追い込まれて行く話。

  出演俳優が知名度に欠ける点を除けば、「なぜ、これを公開しなかった?」と驚くほど、よく出来たストーリーです。 サスペンスだなあ、これは。 主人公を騙す役で、色っぽい女が出て来ますが、エロ・シーンはほんのちょっとで、邦題は、完全に的外れです。 いつものこってすが・・・・。

  主人公の男は、元記者とは思えないくらい、軽薄で、自ら墓穴を掘り続けているように見えるのですが、あまりのアホさに呆れて、突き放したくなる前に、話がグイグイ動いて、クライマックスまで、一気に連れて行かれてしまいます。

  後半のサプライズが二段構えになっていて、一発目で、「おっと、危ない。 騙されるところだったぜ」と思って、体勢を立て直そうとしている矢先に、二発目を喰らって、絶句させられます。 見ている方がこの様では、主人公だけをアホ扱いするわけにも行きません。


≪嘆きのテレーズ≫ 1952年 フランス
  原作は、エミール・ゾラの小説。 しかし、映画の方も、もはや古典的名作と化していますな。 原作が書かれたのは、1867年ですが、映画は、1952年現在の話に変えられています。 それでも、今から見ると、古過ぎるくらいに古いですけど。

  両親を早く失い、リヨンで生地屋を営む叔母に引き取られて、その息子と結婚し、不遇な生活を送っていた女が、ある時現れたトラック運転手と恋に落ち、離婚を承知しない夫とパリに旅行に行く事になるが、その列車に、トラック運転手も乗り込んできて、揉めた弾みで、夫を・・・、という話。 後半は、サスペンスになるので、これ以上、書けません。

  原作は読んでいないのですが、映画を見る限りでは、大変、よく出来た話で、名作の殿堂入りするのも、充分に頷けます。 特に、皮肉なラストが、どうにもならない虚しさの余韻を残していて、素晴らしいです。 似たようなラストは、松本清張さんの作品にもありましたが、もちろん、こちらが本家でしょう。

  しかし、話の出来はそれとして、不倫物には、素直に主人公に共感できないところが、どうしてもありますねえ。 こんな亭主、こんな姑では、嫌になるのも当然ですが、それなら、結婚する前に、断ってしまえばよかったのに。 主人公の内向きな性格が招いた境遇であり、不倫以降の悲劇も、起こるべくして起こったという気がします。



   以上、15本まで。 1月24日から、2月1日までに見た分です。 あれ? また、進みが遅くなったかな? うぬぬぬ、結局、全部、紹介するのは無理なのか。 3月以降になれば、ロシア文学を読み始めるので、映画の本数は減るのですがね。

2013/06/16

世界文学

  ドストエフスキーの≪未成年≫ですが、何とかかんとか、貸し出し期間の2週間以内に読み終わって、無事に返す事ができました。 今週の月曜が有休だったので、どこへも行かず、一日読書に集中できたのが、幸いでした。

  長編小説は、一日のノルマを決めて、ぶつ切りに読んでいると、そのつど、話の流れが途切れてしまって、翌日に、ノリを取り戻すのが大変になるのですが、一度、100ページくらい、どーんと進めてしまうと、作品の世界に馴染みが出来て、その後、読み易くなるのです。

  これで、ドストエフスキーの長編は、一通り読んだ事になるわけですが、読んでいて、つくづく思ったのは、ドストエフスキーの小説は、ストーリーを楽しむというより、盛り込まれている思想を読み取る事に価値があるのだという事です。 図書館で借り来て、一回だけ読んで、「これこれ、こういうストーリーだ」と知るだけで済ませるのでは、無意味・・・、というか、せっかくの価値を充分に味わい尽くせないんですな。

  本当に、ドストエフスキーを読み解きたかったら、本は、借りるのではなく、買うべきなのでしょう。 全集のセットでなくても、文庫本でも、全集のバラでも、とにかく、読めるものなら良し。 ちなみに、古本屋へ行くと、全集のバラが、一冊100円くらいで売っている事があります。 全集というのは、揃っていてこそ価値が保てるのであって、バラになってしまった途端、文庫より安くなって、ゴミと大差無くなるんですな。

  ちなみに、文学全集ですが、「家を新築して、書斎を作ったから、本棚の飾りに、文学全集でも買ってみるか」などと、体裁ぶった事を考えている貴兄よ。 たとえ、飾りであっても、いつか読む事がないとも限らないわけですから、どうせ買うなら、読む価値があるものをお薦めします。

  そして、その際、絶対にしてはならない事があります。 「日本文学全集」の類は、決して、決して、買ってはいけません。 出版社がどこだろうと、撰者が誰だろうと、関係なし! 何の価値もありません! 断言します! 何の価値もありません! もう、買う前から、ゴミです! 話にならぬ!

  一方、「世界文学全集」の方なら、出版社、撰者に関係なく、買っておいて、損は無いと思います。 その人の好みによって、面白い本と、そうでない本が混ざるとはいえ、心に響く作品の方が多いはず。 特に、推理小説や、ライトノベルズばかり読んでいるという人は、世界文学全集を買って、波長が合う作家の作品を探し、そこを足がかりに、純文学の世界に分け入って行くというのは、大いに試みてみる価値がある方法だと思います。

  なぜ、日本文学全集が駄目かというと、スカの比率が多過ぎるからです。 我が家には、昔、母が買った集英社の日本文学全集があるのですが、私が片っ端から読んでみた中で、「いやあ、家に日本文学全集があって良かったなあ」と感じたのは、面白かった順に、阿部公房、森鴎外、夏目漱石、芥川龍之介、林芙美子、と、その程度。

  後は、「一応、有名だから」という理由で好都合だったのが、太宰治、小林多喜二、横光利一、三島由紀夫と、それだけ。 残りは、全て、スカでした。 総数で、88冊もあるのですが、読む価値があったのは、たった9冊だけで、79冊が、スカ。 途轍もない、外れ率の高さ! これでは、高い金を出して、全集を買う意味などありません。 有名な作家の本だけ、文庫で買えば、充分です。

  この手の日本文学全集は、決まって、明治以降の作家が対象になりますが、明治から昭和にかけての作家で、作品を読んでおく価値があるというのは、本当に上に挙げた程度の人数しかいないのであって、他は、今現在、すでに忘れられてしまったか、忘れられつつある人達です。 誰も覚えていないのでは、話のネタにも、ブログのテーマにもならんのであって、わざわざ時間を割いて、読む必要などありません。

  この種の日本文学の何が駄目だといって、時間の経過に耐えられない点が、一番まずいです。 古臭いのですよ。 時代背景に、黴が生えているのですよ。 もう、耐えられない陰鬱さなのですよ。 明治から昭和20年までの期間は、日本史上のイメージとしては、暗黒時代でして、映画でも、テレビ・ドラマでも、取り上げられる事が極端に少ないのは、江戸時代とは対照的です。

  「文明開化」などと言い条、華やかな文明性など、微塵も感じられず、独自文化を否定して、滑稽な猿真似に走った惨めな有様が、醜悪で見るに耐えない上に、ただただ、貧乏臭く、後ろ向きで、気が滅入るったら、尋常じゃありません。

  もう、明治の作家なんていうと、決まって、地主の坊ちゃんで、必ず、奉公に来ている娘を手篭めにするのです。 判で押したように、まるで、それが、作法でもあるかのように、臆面も無く。 手篭めというと、ピンと来ない世代も多いか。 強姦ですよ、強姦。 そんな人間のクズどもが、「純文学作家でござい」と、かつて自分が犯した強姦の経緯を小説にして、「人間を描いた」などと、高い評価を受けたりしていたのですから、呆れるやら、恐ろしいやら・・・。 どういう業界やねん? 狂人の巣か?

  ああ、井原西鶴や十返舎一九の、ある明るさは、どこ行ってしまったんですかね?  ほんとに、同じ民族? 明治になって、欧米から、純文学の概念が入って来たものの、日本人は、オツムに論理性が無いので、ストーリーの組み立てが下手だし、ましてや、思想を文学作品に盛り込むなんて高尚な事は、到底、不可能。 その上、そもそも感情の表出が乏しい民族性なので、小説の登場人物も、際立った性格に欠ける人間ばかりで、話が面白くならない。

  だもんで、ドイツ文学の一部の特徴を真似て、主人公がひたすら、個人的な問題に懊悩する、「私小説」に頼って行く事になるのですが、これが、昭和20年までの間、読むだに自殺したくなるほど、暗~い雰囲気の作品を大量に世に撒き散らしてしまう結果になります。 そりゃあ、時代のイメージも暗くなるわなあ。

  戦後になると、反動で、明るい話が出て来ますが、明るいばかりで、内容が無い事に変わりは無く、単に子供っぽい話が増えただけで、今読むと、「私小説」とは別の意味で、赤面してしまいます。 具体的に名を挙げてしまえば、石坂洋次郎なわけですが、いやあ、今じゃ、とても、読めんなあ。 本屋で、表紙の可愛いイラストに吊られて、ライトノベルズを手に取り、1ページだけ読んでしまった時と同じような恥ずかしさがあります。

  一方で、私小説を、「日本文学の伝統」だと勘違いした作家達も生き残り続け、昭和が終わる頃まで、純文学界といえば、こういう、亡霊達の根城と化していたのですが、さすがに、時代の波と寄る年波に抗しかねて、平成になってからは、続々と棺桶行きになり、業火に焼かれて、めでたく、成仏してしまいました。 ああ、清々した。

  ただ、戦後になると、日本だけでなく、欧米でも、後世に名が残るような文学者が出て来なくなります。 ノーベル文学賞は、毎年、誰かが受賞しているわけですが、同国人でもない限り、名前を覚えないでしょう? 美術界同様、文学界でも、主流が無くなってしまったんですな。

  そういや、音楽界も、ここ10年ばかり、世界的に流行する曲の類が、全く聴かれなくなってしまいましたな。 最後が、≪タイタニックのテーマ≫だったかな。 映画界も、世界中で話題になる作品が出なくなったし・・・。 うーむ、芸術の世界は、全分野で、輝きを失いつつあるようですな。 これは、人類文明の後退を示しているのでしょうか。


  話が逸れましたが、かくのごとく、日本文学全集には、わざわざ読まなければならないような作品は、ほとんど含まれていません。 人生は短い。 まして、読書に当てられる時間は、もっと短い。 そんな下らないものを読む暇があったら、世界文学を読みなされ。 幸いな事に、日本は翻訳王国で、有名な海外作品は、大概、日本語で読めるから、言語の壁は無いも同然です。 そうなりゃ、読まない方が損というもの。

  これから、読んでみたいと思っている方々は、そうですな、とりあえず、フランス文学から始めるのが、とっつき易いでしょうか。 「あまりにメジャー過ぎて、今更・・・」と思うかもしれませんが、大デュマの≪モンテ・クリスト伯≫から入るのが、王道だと思います。 絶対、引き込まれるので、「やっぱり、純文学なんて、かったるいわ」と感じないまま、最後まで読み通せるからです。

  そういや、≪モンテ・クリスト伯≫を、少年向けの作品だと思い込んでいる人がいるようですが、そんな勘違い自体が、読んでいない証拠でして、実際には、もろ、大人向けです。 大デュマは、少年向けなんて、一作も書いていませんぜ。 ≪三銃士≫でさえ、原作は、大人向け。 嘘だと思ったら、読んでみなさいな。

  ≪モンテ・クリスト伯≫に少年向けのイメージがあるのは、小中学生向けに装丁された本が多いからだと思いますが、それはつまり、誰が読んでも面白いから、これから読書の世界に踏み込もうとしている少年達に、最高の入門書として薦めようと考える出版関係者が多いからでしょう。

  古いと言えば、イタリア文学の方が古いわけですが、残っているのが、ボッカッチョの≪デカメロン≫と、ダンテの≪神曲≫くらいしか無いですし、古過ぎて、まだ、小説として完成されていないため、どちらも、喰いつき難いです。 ≪神曲≫は、いずれ、読んだ方がいいとは思うものの、最初に読む本ではないですわな。

  英米文学は、日本で出版されている数から言えば、断トツに多いですが、それは、英語の翻訳家の数が多いからであって、特段、中身が優れているからではありません。 しかし、面白い物もあります。 シェークスピアは、そもそも舞台劇の脚本でして、文学作品として読むものではないから、除外するとして、ディケンズやブロンテ三姉妹は、代表作だけでも読んでおいて、損は無いです。

  純文学の範疇から外れますが、海外作品のとっかかかりとしてなら、コナン・ドイルのシャーロック・ホームズ・シリーズは、うってつけですな。 短編が多いのですが、長さが適度なので、飽きる前に読み終わりますし、興が乗れば、同じレベルの作品が何作でもあるのが、また宜しい。 ただし、推理小説の方面へ行ってしまうと、そちらから出て来れなくなるので、アガサ・クリスティーは、後に取っておいた方がいいです。

  アメリカ文学は、ポーの作品と、あと、≪白鯨≫、≪老人と海≫、そんなところを読んでおけば、当座、充分です。 現代に近付けば近づくほど、つまらなくります。 同じ英語作品でも、イギリスとアメリカでは、質感がまるで違います。 前者は、よく言えば、しっとりしていますが、悪く言えば、じめじめしており、後者は、よく言えば、さっぱりしていますが、悪く言えば、カサカサです。 この傾向、個人差を遥かに超えるものあり。


  おっと、各国文学のお薦め作品なんぞ書き出していたら、無際限に長くなってしまいそうですな。 面倒なので、大雑把に説明しますと、ヨーロッパの文学は、連鎖反応的に発展の中心が移動したため、その順を追って行くと、理解し易く、整理し易いです。 ルネサンスが起こったイタリアから始まり、大航海時代に巨万の富を手にしたスペインで醸されて、産業革命以降、フランスで大発展し、イギリスへ飛び火。 その後、ドイツで人間性を追求する深みを与えられ、ロシアで完成する、といった流れです。

  ちなみに、完成させたのは、個人を特定すれば、トルストイでして、作品を特定するなら、≪アンナ・カレーニナ≫です。 これを読む前に、これ以上の小説は読んだ事がなく、これを読んだ後で、これ以上の小説を読んだ事もありません。 スタンダールの≪赤と黒≫あたりで、「小説は完成された」と、多くの読書人が思っておったわけですが、≪アンナ・カレーニナ≫の登場で、「まだ、こんなに発展の余地があったのか!」と、皆々、吃驚した次第。

  完成された後は、どうなったかというと、もう、壊す以外に方向性が残されていなかったわけで、トルストイと同時代に生きたドストエフスキーが、ほとんど、同時進行で壊し始め、≪実存主義≫の旗の下に、流行の最先端を目指す作家達によって、破壊の限りが尽くされます。 美術界同様、一度、完成してしまうと、その後、主流が破壊され、方向性がバラバラになって、結果的に、全体の価値を落としてしまうのは、芸術の宿命か。


  ヨーロッパ以外だと、アラブ世界では、≪千一夜物語≫、中国では、≪三国志≫、≪水滸伝≫、≪西遊記≫、≪紅楼夢≫を読んでおけば充分。 いや、みな、長いですけど・・・。 南米文学は、割と最近、注目された前衛的な内容のものが多いですが、まだ、後世に残れるかどうか分からないので、様子見といったところ。

  日本の作品も、江戸時代以前なら、読む価値があるものがあります。 ≪蜻蛉日記≫、≪源氏物語≫、≪枕草子≫、≪とはずがたり≫、≪日本永代蔵≫、≪世間胸算用≫、≪東海道中膝栗毛≫などは、日本人が読む分には、面白いです。

2013/06/09

映画批評⑬

  ドストエフスキーの≪未成年≫ですが、600ページあるところ、まだ、210ページしか読んでいません。 これは、≪白痴≫以上に、何が言いたいのかよく分からん話ですな。 いや、詳しい感想は、読み終わってからでないと、書けませんけど。

  家で読んでいると、寝てしまうので、会社に持って行って、休み時間に読んでいるのですが、それだと、一日25ページくらいしか進みません。 一週間で、200ページを超えただけでも、奇跡的というべきか。

  そもそも、読んでいて、寝てしまうというのは、つまらん証拠でして、つまらんものを読むのに、長い時間を割くのは、馬鹿馬鹿しいという気がせんでもなし。 しかし、一応、ドストエフスキーですからねえ。 痩せても枯れても腐っても。 文学作品にもブランド価値というものがありまして、「ドストエフスキーの長編を全て読んだ男」の称号には、やはり、魅力があるわけです。

  ちなみに私は、「トルストイの長編を全て読んだ男」の称号をすでに持っています。 トルストイは、長編が少ない上、一番長い、≪戦争と平和≫が、眠気を催す隙が無いくらい面白いので、割と簡単に攻略できるのです。 称号を手に入れてから、かれこれ、20年になりますが、いつか、人に訊かれたら、さりげなく自慢してやろうと、虎視眈々、機会を窺っているものの、未だに、誰にも訊かれていません。

  そりゃそーだよねー。 露文専攻の大学生でもない限り、トルストイの話題なんて、普通、口にしないものねえ。 かなりの読書人同士ですら、そんな会話はしないかも。 あまりに大御所過ぎて、話題にするのが気恥ずかしいという、屈折した抵抗感があるんですな。

  そんな事はさておき、記事を書く時間が無いので、またまた、映画批評です。



≪Re:プレイ≫ 2003年 アメリカ・イギリス
  事故で一度死にかけ、蘇生したものの、過去2年間の記憶を失った男が、妻や兄の婚約者に会うが、思い出せず、同じ事故で死んだ兄の本当の死因を巡り、現在と2年前の意識を行き交いながら、次第に、事故の真相を思い出して行く話。

  現在と2年前の場面が、交互に出て来るのですが、回想ではなく、主人公の意識の時間軸は一本なので、まるで、タイム・スリップ物のSFのような、不思議な感じがします。 しかし、これは、主人公が記憶に障害を負っていて、過去の記憶が、現在の事のように感じられてしまうという設定なので、SFではありません。 むしろ、ホラーに近いか。

  舞台は、ほとんど、主人公の家と病院の中だけで進行します。 2年前に、主人公が同じ病院に入院していた事を証明する為に、心臓の移植待ちで、2年間ずっと、入院し続けている人物を探す場面は、ぞくぞくします。

  雰囲気は面白いですが、サイコ・サスペンスの枠を応用しているだけなので、見終わって、謎が解けると、「なんだ、そういう事か」と、些か白けます。 もうちょっと、知名度の高い出演者だったら、また、印象が違ったかもしれません。


≪ライフ・イズ・ビューティフル≫ 1998年 イタリア
  ロベルト・ベニーニさん、監督・脚本・主演。 この方、≪ダウン・バイ・ロー≫で、陽気なイタリア人を演じていた人ですな。 この映画でも、無茶苦茶に明るいです。 話は暗いのに・・・。

  陽気で前向きな上に、機知に富んだ、ユダヤ系イタリア人の男が、小学校の女教師と恋に落ちて、結婚し、息子も生まれるが、ある日、ナチス・ドイツにより、親子三人で終末収容所に送られてしまい、息子を不安にさせないために、「これは、賞品が貰えるゲームだ」と言い通す話。

  前半と後半に分かれていて、結婚するまでの前半は、完全にコメディーです。 明るく楽しく、緊張感ゼロ。 ところが、後半になると、突然、収容所送りになり、雰囲気が180度、ガラリと暗転します。 これだけ、極端な変わり方をする映画も珍しい。 というか、私は、これ一本しか知りません。

  木に竹を接いだような展開なのですが、これが、極端な落差を生み出して、見る者の心を引き裂んばかりの効果を発揮します。 重労働の先には、死しか待っていない収容所の、絶望的なムードの中で、最後の最後まで明るく振舞う事を忘れない主人公を見ていると、どんなにひねた人間でも、絶句せざるを得ません。


≪抱かれた花嫁≫ 1957年 日本
  有馬稲子さん主演。 いや、実は、必ずしも主演というわけではなくて、群像劇なのですが、他に、今でも名前が知られている人がいないので・・・。 東京の下町の寿司屋を舞台に、母、娘、その兄弟達の結婚を巡って、騒動が起こる話。

  ≪肝っ玉かあさん≫や≪ありがとう≫といった、往年のホーム・ドラマは、この種の映画から、派生して行ったのではありますまいか。 飲食店が舞台になる事、しっかり者の母親がいる事、年頃の娘や息子がいて、結婚が主なテーマになる事など、大変よく似ています。

  娘の結婚が中心になるのですが、結婚を前提にして交際してる男がいるのに、見合いをして、その相手が、婿入り修行のために、寿司屋で働くのを許すという設定が、些か解せません。 ちゃんと、訳を話して、断りゃいいじゃん。 結婚する気も無いのに、その気にさせるなんて、相手に失礼でしょうが。

  それだけではなく、他の女と日光に行ってしまった恋人の男を追いかけるために、この見合い相手に車を出させ、あちこち走り回らせるのですが、自分は勝手にバスで帰ってしまって、礼も言わんわ、謝りもせんわ、一体どういう育てられ方をしたんだ、この娘は?

  結局、この見合い相手は、さんざん寿司屋で働かされた挙句に、諦めて身を引いてしまうのですが、気の毒としか言いようがありません。 娘の恋人の男が、優柔不断で、無愛想な上に、さして顔がいいわけでもなく、動物園付きの動物学者などという、金にならない職業に就いている事を考えると、見合い相手の方が、千倍マシだと思うのですがね。

  一応、ハッピー・エンドという事になっていますが、こんなのをハッピーと言うのなら、あまりにも、人間社会の観察が甘いと言うべきです。 特に、見合い相手から、謂れの無い不愉快な思いをさせられた経験がある人は、この娘に幸せになって欲しいなどとは、小指の先ほども願わないでしょう。


≪あかね空≫ 2006年 日本
  内野聖陽さん主演、中谷美紀さん助演の時代劇。 時代劇と言っても、武士ではなく、町人の話です。 当然、斬り合いなどは出て来ないわけですが、昔から、町人だけの時代劇は、地味と相場が決まっており、期待しないで見たら、案の定、予想通りでした。

  京から江戸に出て来た豆腐職人が、深川の路地裏で店を開き、同じ長屋の桶屋の娘と夫婦になって、やがて、表通りに店を構えられるようになるものの、成長した長男が、商売敵に騙され、店を奪われそうになる話。

  内野さんは、豆腐職人と、賭場の胴元の二役で、全編出ずっぱりですから、主演である事は間違いありませんが、この二人、全くの別人なので、どちらが主人公というわけでもない様子。 こういう、中心人物が一定していない話というのは、何となく落ち着かず、見心地が悪いです。 誰にシンクロして見ればいいのか分からないんですな。

  良心的に見れば、一本通った筋はあるわけですが、見る者に、それを探させてしまうようでは、映画のストーリーとして、失格ではありますまいか。 筋が見通し難いと、何が言いたいのか分からず、テーマの見極めもできなくなってしまいます。 そもそも、テーマが存在するかどうかも、はっきりしません。

  中谷さんは、娘役が初々しいですが、制作時の年齢から見て、地ではなく、演技で、そう見せているのであって、「凄い演技力だなあ」と感服します。 その後、母親役になると、ヒステリックな中年女と化すですが、そちらも、たぶん、純然たる演技。 まるまる一世代の年齢を演じ分けられるのですから、驚き入ります。


≪花のあと≫ 2009年 日本
  北川景子さん主演の時代劇。 藤沢周平さんが原作で、舞台は、毎度お馴染みの海坂藩ですが、この作品では、東北方言が出て来ません。

  幼い頃から、父に剣術を仕込まれた娘が、試合をして、唯一勝てなかった下級武士の青年に思いを寄せるようになるが、その男は、嫁と不倫していた上役の罠にかけられて、切腹してしまい、密かに、その仇を討とうとする話。

  元は、短編小説だそうですが、1時間47分、間延びもせず、うまく膨らませてあります。 過去の因縁などが絡んでおらず、話がシンプルで分かり易いためか、却って、登場人物の心の動きを、きめ細かく描き出す事に成功しています。

  北川さんの殺陣は、「よくぞ、ここまで!」と感嘆するほど、見せてくれます。 当人のセンスや努力はもちろん、殺陣を教えた人も、カット割りを工夫した人も、いい仕事をしましたねえ。 女剣士で、これだけ、カッコいいレベルに達したのは、歴史的ではありますまいか。

  持ち上げてから、突き落とすようで、恐縮ですが、北川さんの顔立ちが、江戸時代っぽくないために、時代の情緒を見せ場にしている映画としては、随分と損をしています。 といって、誰なら良かったかと訊かれると、思いつかないのですが・・・。


≪とんかつ大将≫ 1952年 日本
  川島雄三監督作品。 川島監督というのは、≪幕末太陽傳≫を作った人。 この映画は、その5年前の作ですが、明らかに、その5年の間に、一時代が画されています。 つまり、こちらは、かなり古臭いのです。 川島監督も、元は、ただの監督だったか。

  大阪の政治家の息子でありながら、復員後、東京の貧乏長屋に住み着いて、人助けに精を出している医者が、近所の病院の建て増し計画で、立ち退きを迫られた長屋を守るために、一肌脱ぐ話。

  立ち退きを迫られる長屋の話は、昔の日本映画には、呆れるほど、たくさんありますねえ。 マンネリな設定だとは思わないんでしょうか? 決まって、長屋の住人側が善玉で、立ち退きを迫る方が悪玉ですが、持ち家ならいざ知らず、借りている家に居座り続ける方も、相当な連中だと思いますぜ。

  この主人公は、正義感が強く、思いやりがあり、外科手術の名人で、その上、男前で、女がわらわら寄って来るという、正にヒーロー的存在なのですが、あまりにも、良い面ばかりを集めすぎたせいで、キャラ自体が嘘臭くなっています。

  映画全体も、ありふれた設定を集め過ぎていて、オリジナリティーが感じられません。 「どうすれば、よくなった」という以前の、企画段階の欠陥でしょう。


≪武士の家計簿≫ 2010年 日本
  堺雅人さん主演、仲間由紀恵さん助演。 監督は、森田芳光さんですが、正直な感想、監督名を記すほどの作品ではありません。 割と最近、古書店で発見された、加賀藩士の家計簿を元に、研究書が出版され、それを元にして作られたのが、この映画。

  加賀藩に、代々、算用方として仕官していた一家が、幕末を迎えようとする頃に、家計が逼迫し、積み上がった借金を減らす為に、着物や書画骨董など、金に換えられる家財は、みな売り払い、倹約に努めて、破産の危機を乗り越える話。

  で、ですねー、この梗概の部分だけなら、問題無いんですが、その後も描いてしまっているのが、この映画を失敗作にしています。 家計の建て直しが済んだ後、なんと、幕末から、明治11年まで引っ張って、主人公が世を去るまで語っています。 そんなに要らんっちゅうの!

  幕末の動乱など、この家の家計とは何の関係も無く、明らかに蛇足です。 大村益次郎に至っては、どうして出て来るのか、この映画だけを見ている人には、全く理解できますまい。 歴史上の有名人を、摘み喰いのように、ちょい出しした事で、却って、話が嘘臭くなってしまいました。

  たぶん、原作に忠実に映像化しようとして、過度に引っ張られてしまったのだと思います。 それでなくても、エピソードが少なく、間延びが随所に見られるのに、その上、蛇足部分が、こんなに多いのでは、何を言いたい映画なのか、分からなくなってしまうではありませんか。

  対象にする期間を、家計を立て直すまでに絞り、創作でもいいから、エピソードを増やして、コメディー・タッチの軽く笑える話にすれば、ずっと良くなったのに。 残っていたのは、家計簿であって、小説や随筆ではないのですから、無理に親子の葛藤の話にするのは、それはそれで、問題でしょう。


≪東京キッド≫ 1950年 日本
  美空ひばりさん主演。 13歳だったそうですが、異様に芸達者。 歌は勿論、無茶苦茶うまいです。 美空ひばりさんというのは、デビューが子供の時だったから、歌のうまさが際立って、大うけしたんでしょうなあ。

  母親が病死し、引き取ってくれたホステスも事故死し、流しのギター弾きの部屋に居ついていた、歌のうまい女の子を巡り、金持ちの実父や、懸賞金目当ての占い師などが、奪い合いをする喜劇。

  エノケンさんまで出ていて、基本的には、本格コメディーとして作られています。 歌は、オマケなわけですが、そのオマケのレベルが高いため、見た事が無い人でも、名前だけは知っている、不朽の名作となった次第。

  アパートの中で、アイス・キャンデー屋を始めるために、柱を鋸で切る場面など、使われているギャグは古いですが、雰囲気が終始明るいため、全体的に見れば、今の感覚でも、笑えない事はないです。 


≪豚と軍艦≫ 1961年 日本
  今村昌平さん監督、長門裕之さん、吉村実子さん、ダブル主演。 長門さんは、無数の映画に出演していますが、恐らく、この映画が、代表作という事になるのではないでしょうか。 強い印象が後に残る役柄です。

  横須賀の米軍基地から出る残飯で豚を飼育し、一儲けしようとしているヤクザ一家で、使い走りをしている青年と、彼に足を洗わせて、一緒にドヤ街から脱出したいと思っている娘が、皮肉な運命に翻弄される話。

  変わった設定ですが、なぜ豚か?というと、繁華街を豚の大群が暴走する場面が、クライマックスになっているためです。 他に、理由無し。 たぶん、その場面から先に思いついたんでしょうが、豚は、猪と違って、猛進はしないようで、トコトコ歩いて、妙に可愛いだけ。 迫力は、ほとんどありません。

  ダブル主演とは言うものの、ストーリーは、吉村さんが演じる娘の方が軸になっているようです。 吉村さんというのは、型通りの美形ではないんですが、魅力のある顔立ちをしていますねえ。 この人を見つけて来た人も偉い。

  長門さんのチンピラは、前半あまりにも馬鹿っぽ過ぎて、とても、主人公というキャラではありません。 長門さんは、もちろん、地ではなく、演技で、この馬鹿っぽさを出しているわけで、それが、お見事。 この二人だけでなく、この映画は全体的に、役者さんの演技が凄まじいです。

  今村監督は、喜劇のつもりで作ったそうですが、確かに、そういう部分も見られるものの、シニカル過ぎると、却って笑えないもので、見終わった後に残るのは、やるせなさだけです。 物語としての出来は、決して良くないのに、場面場面が記憶に焼きつきそうな映画。


≪60セカンズ≫ 2000年 アメリカ
  ニコラス・ケイジさん主演。 74年の≪バニシング IN 60≫のリメイクだそうですが、そちらを見たのが遙か昔で、断片的にしか覚えていないために、比較ができません。 74年と00年では、車の盗難対策装備が、様変わりしているので、話の中身も、だいぶ違っていると思うのですが。

  車泥棒を始めた弟がドジを踏んだせいで、弟の命を助ける事と引き換えに、復活さぜるを得なくなった元車泥棒が、仲間を集めて、一晩に50台の車を盗む計画に挑む話 うーん・・・、≪バニシング IN 60≫の方は、こんなベタな話じゃなかったような気がしますねえ。 確かめるために、わざわざ、レンタル屋まで行くつもりはありませんが・・・。

  盗みの手口は、粗雑で不器用。 とても、伝説の車泥棒が指揮しているようには見えません。 「ほーっ!」と驚かされるような、機知に富んだアイデアが無いのです。 こんなやり方では、10人程度のメンバーで、一晩に50台も盗み出すなど、到底無理でしょう。

  むしろ、最後の一台を盗んだ後に起こる、警察とのカー・チェイスの方が、主な見せ場になっています。 しかし、これもねえ・・・。 もう、カー・チェィスは見飽きてしまって、何の興奮も感じません。 たとえば、≪ターミネーター≫シリーズに出て来るような、大掛かりな破壊を伴ったカー・チェイスと比べたら、車だけの追いかけっこが、派手さで負けるのは致し方ありますまい。

  話の方も、かなりお粗末で、弟の命が引き換えになっているにも拘らず、その弟がメンバーに加わっているなど、緊張感に欠けます。 自由に動き回れるなら、逃げた方が早いでしょうに。 また、この弟が、頭悪そうなチンピラで、こんな奴のために、昔の仲間に迷惑かけてまで、犯罪計画を実行するなど、馬鹿馬鹿しいにも程があります。

  アンジェリーナ・ジョリーさんが、ヒロイン役で出て来ますが、この話では、ヒロインの存在自体が蛇足。 全体的に、レベルは低いです。


≪デビルクエスト≫ 2011年 アメリカ
  偶然、続けて見る事になりましたが、≪60セカンズ≫と同じ監督で、主演も、ニコラス・ケイジさんです。 ただし、こちらは、中世ヨーロッパを舞台にした、悪魔物。

  教会の命令に疑問を抱いて、十字軍に見切りをつけた騎士二人が、黒死病が蔓延するヨーロッパに戻るが、脱走兵として捕らえられてしまい、免罪の見返りに、魔女として黒死病を流行らせた疑いがかかっている女を、審問が開かれる修道院まで護送する役を引き受ける話。

  ニコラス・ケイジさんの出演作は、割と外れが少ない方なのですが、これは、≪60セカンズ≫と同様に、スカ。 監督が同じだと、結局、こんなものですか・・・。 単に、「中世騎士が出て来るアクション映画を作りたい」というだけで発想したような、内容の薄さを感じます。 美術や、衣装、メイクなどは、よく出来ていますが、その苦労が、ストーリーによって報われていません。

  大体、剣しか持っていない騎士が、悪魔と戦ったって、面白くなるはずがありません。 悪魔物を作りたかったら、それを退治する善玉は、力を武器にする者では務まらないのです。 頭で戦わせるしかないのです。 それが分からない限り、駄作の山を積み上げるだけですな。


≪マゴリアムおじさんの不思議なおもちゃ屋≫ 2007年 アメリカ
  ダスティン・ホフマンさん、ナタリー・ポートマンさん、ダブル主演。 ナタリー・ポートマンさんというのは、≪レオン≫の女の子、≪スター・ウォーズ≫のアミダラ姫。

  魔法の力で命を与えられたオモチャを売っている店で、243歳の店主が、「引退して、あの世へ行く」と言い出し、若い女支配人が、当惑しながらも、店を引き継いでいく話。

  現代ファンタジーで、子供向け映画なのですが、「信じる力があれば、誰でも魔法が使える」というのがテーマになっていて、子供に、こういう事を信じさせてしまうのは、如何なものかという気がせんでもなし。 しかし、難しい事を考えないのであれば、素直に楽しめる映画です。

  オモチャ達の活発な動きに、CGが多用されています。 CG無くしては、こういう映画は企画できなかったでしょうなあ。 店主がいなくなった後、一度、店が死んでしまうのですが、極彩色だった店内が、黒と灰色の世界になってしまう落差が強烈。 これも、CGならでは。


≪誘う女≫ 1995年 アメリカ
  ニコール・キッドマンさん主演。 テレビに出て有名になる事だけが、人生の価値観になっている女が、地元のケーブル・テレビ会社に就職して、何とか天気予報担当になるものの、次なる飛躍の為には、自分の可能性を否定する夫を殺さなければならないと決断し、不良高校生をたぶらして、殺人計画を進める話。

  よく分からんのは、テレビに出る事だけが生き甲斐なのに、どーしてまた、イタリア料理店の若主人なんかと結婚したのかという事ですな。 結婚しないまま、テレビ業界へ直行していれば、こんな事件は起こらなかったのに。 実話が元らしいですが、実際の事件では、その辺がどうなっていたのか、知りたいところ。

  コミカルな味付けをしてありますが、話の中身自体は陰惨なので、全く笑えず、主人公の異常さばかり目立って、終始、不快感を覚えます。 最終的に善悪バランスはとれていますが、主人公があまりにも愚かで、罰を受ける価値さえないと感じさせるため、すっきりした終わり方にはなっていません。


≪エジプト人≫ 1954年 アメリカ
  ≪カサブランカ≫のマイケル・カーティス監督作品。 古代エジプトが舞台。 大作歴史劇と言いたいところですが、とても、それほどの風格はありません。 そもそも、歴史劇と言うには、歴史との関連が薄過ぎます。

  赤ん坊の時に川に流されたのを、医師に拾われ、長じて、ファラオの侍医になった男が、悪い女に騙されて全財産を失い、国を追われるものの、外国を放浪する内に、エジプトの危機を知り、帰国して、ファラオの交替に関与する話。

  前半は、主人公が女に騙される話なのに、後半になると、反戦を主張する内容になるという、珍妙な構成。 何が言いたくて作った映画なのか、よく分かりません。 そもそも、舞台を古代エジプトにする意味があるのかどうかさえ疑問。

  セットはともかく、衣装や小道具を揃えるのに、相当、お金を使っていると思うのですが、その割には、有名な俳優が一人も出ていないなど、奇妙なところが多いです。


≪タバコ・ロード≫ 1941年 アメリカ
  ジョン・フォード監督作品。 ・・・なんですが、本当に、フォード監督が作ったのか、俄かには信じられないような映画です。 没落したタバコ農場の跡地で暮らす、超貧乏な家族が、借地料を払うために、息子を年増の未亡人と結婚させたり、昔の地主に縋ったり、他人をあてにしまくる話。

  貧乏も貧乏、その日の食べ物も無い、飢え死に寸前の一家なのですが、貧すりゃ貪すを地で行っていて、自分で何とかしようなどとは全く考えず、盗んだり、たかったり、縋ったり、そんな事ばかりしています。

  親も親なら子も子で、息子が、「凶暴な狂人」としか形容できないような、異常キャラ。 年増の女房が買ってくれた車を、たった一日で破壊してしまう様は、見ていて、恐怖さえ覚えます。 こんな人間が、野放しで生きているというのが信じられぬ。

  ≪怒りの葡萄≫の翌年の作ですが、同じ貧しさを描いた映画でも、こちらは、コメディーで、印象は180度違います。 まともな人間がほとんど出て来ず、「狂人のパーティー化」を起こしている点、コメディーとしても失敗しています。 貧しさというのは、憐れむべきではあっても、茶化すものではないんですな。



  以上、15本まで。 今年の、1月13日から、23日までに見たもの。 多少は、間隔が開いて来たか。 ちなみに、映画を見てから、感想を書くまでに、一日以上間を置く事はないので、見た日付=感想を書いた日付と思ってもらって良いです。 さっさと書かないと、細部を忘れてしまうので、必死に書くわけです。

2013/06/02

映画批評⑫

  ドストエフスキーの≪悪霊≫を読み終えた後の事ですが、図書館をぶらついていたら、ロシア文学の書架に作家ごとの全集があり、ドストエフスキー全集もあるのを見つけて、驚愕しました。 なんだ、こんな物があったのか! 図書館に通い始めてから、かれこれ四半世紀になりますが、全く気付きませんでした。 何たる不覚! 今まで、世界文学全集の中でしか、トルストイやドストエフスキーは読めないと思っていたのです。

  で、≪白痴≫があったので、借りて読んだのですが、≪悪霊≫よりも短かい上に、主人公のキャラが、期待していたほど立っておらず、話にも起伏が少なくて、がっかりしました。 一緒に収録されていた、中編の≪賭博者≫の方が、まだ、見せ場が多いくらいです。 ≪白痴≫は、黒澤明監督が映画化しているので、名前を知っていたんですが、有名だから面白いというわけでもない様子。

  まあ、詳しい感想は、いずれ、読書感想文で、纏めて出します。 ≪白痴・賭博者≫は、二冊で、三週間かかり、ちと読書にも食傷したので、暫く、本を借りるのはやめようかと思っていたのですが、返すために、図書館に行ったら、≪未成年≫が目に入り、「これさえ読めば、ドストエフスキーの長編を全部読んだ男になれるぞ」と思ったら、ふらふらと手に取って、ついつい借りてしまいました。

  ああ、何たる無謀! 呆れた身の程知らず! 一冊とはいえ、600ページもあるのに、どうやって、時間をやりくりするつもりなのか・・・。 いや、貸し出し延長して、四週間かけて読めば、いいこってすがね。 別に、早読み競争しているわけじゃないんだから、何の問題もありゃしません。

  こういう枕で話を始めた時には、記事を書けない言い訳に決まっているわけでして、自動的に、映画批評になります。 批評の公開ペースが遅いせいで、見た時期とのズレが、半年近くに広がってしまっていますが、どうせ、私の見る映画は、旧作ばかりなので、さしたる不都合は無し。

  いやねえ、新作を見たいと思う事もあるのですよ。 特に、アメリカのSF大作はね。 このつまらない時代に於いては、未来SFの世界くらいにしか、希望が感じられませんけんのう。 しかし、昨今は、そういう作品がめっきり減ってしまって、寂しい限り。 ≪2012≫とか、≪プロメテウス≫とか、早くテレビ放送してくれんかのう。

  劇場に行くのは、衛生的、視聴環境的に問題外としても、レンタルくらいなら、お金を惜しむつもりはないんですが、「その内、テレビでやるだろう」と思うと、ツタヤの会員カードの作り直しもためらわれる次第。 そもそも、カードに使用期限を設けている理由が分からん。 更新料で儲けようという腹でもありますまい。 更新や作り直しが面倒で、足が遠のく客がいるとは、思わないんでしょうか? かく言う、私がそうですが。



≪聯合艦隊司令長官 山本五十六 太平洋戦争70年目の真実≫ 2011年 日本
  役所広司さん主演。 1939年の日独伊三国同盟締結前から、1943年にブーゲンビルで戦死するまでを描いた、山本五十六の伝記映画。 過去10年以内に作られた太平洋戦争関連の日本映画の中では、≪出口のない海≫と並んで、制作者の頭がまともだと思わせる作品。

  陸軍の恫喝や、海軍の若手将校の突き上げにあいながら、日独伊三国同盟に反対し、最後まで対米戦争を避けようとしていた山本が、開戦の決定により、不本意ながらも、連合艦隊を率いて、アメリカと戦う事になり、予想通り、戦局が暗転して行くのを、運命として受け入れざるを得なくなる話。

  山本が自分の意見をはっきり述べていたのは、対米開戦の前までで、開戦の決定以降は、周りの暴走を止められず、流されるだけになります。 戦争中は、海軍がバラバラにならないように、組織の軸になっていただけで、作戦の指揮には、あまり口を出していなかった様子。

  山本は、開戦前から、早期講和の機会を窺っていたわけですが、講和に持ち込むためには、その前に大勝しなければならず、その大勝が、いつまでたってもできないので、結局、講和できなかったという経緯が描かれますが、なんだか、竹竿で星を取ろうとするような、しょーもなさを感じますな。

  日本映画の歴史物は、みんなそうですが、主人公を美化し過ぎるために、客観的な視点を失ってしまう嫌いがあります。 山本は、あらゆる点で間違いの無い人物で、「戦争に負けたのは、海軍の上官や同僚が、愚か者だったからだ」と言いたいわけですが、そんな事はありますまい。 海軍全体でやった事が愚かなら、その一員であった山本も、愚行の片棒を担いでいた事に変わりはありません。

  この映画のテーマは、山本五十六の伝記に形を借りて、日本人の作る組織の問題点を指摘しようというものではないかと思いますが、山本を主人公にしたために、単なる善玉と悪玉の対立になってしまって、所期の目的から外れているように見受けられます。

  マスコミの問題点も指摘していますが、そちらは、成功しています。 戦中戦前のマスコミというと、報道の自由が無く、軍部の指示通りに報ぜざるを得なかった、というような、弱者のイメージがありますが、実際には、国民を煽り立てて、戦争に向かわせていたのは、マスコミの方なんですな。 この性質は、現代でも、全く変わっていないと思います。

  戦闘場面も多く出て来ますが、CGは、なかなかうまく出来ています。 ただ、戦争アクション映画ではないので、ニュース映画のように、場面は細切れです。 そーゆーところを見る映画じゃないのよ。


≪ギルバート・グレイプ≫ 1993年 アメリカ
  ジョニー・デップさん主演、レオナルド・ディカプリオさん助演の家族物。 精神障害がある弟と、超肥満の母親の世話の為に、田舎町から出られない青年が、人妻の不倫相手にされたり、トレーラー・ハウスの故障で、たまたま町に滞在した女性と仲良くなったりする内、家族に重大な転機が訪れる話。

  ジョニー・デップさんも若いですが、ディカプリオさんは、まだ少年です。 というか、髪型が見慣れたものと違うせいか、出演者の名前を見るまで、この弟が、ディカプリオさんだと気付きませんでした。 本物と見まがくらい、精神障害者になりきっており、大した演技力です。

  「ギルバート・グレイプ」というのは、主人公の名前ですが、原題の直訳は、「何が、ギルバート・グレイプを食べているか」で、少し意訳すると、「誰が、ギルバート・グレイプを喰い物にしているか」といったところでしょうか。 前半は、明らかにお荷物になっている弟の事を言っているように見えるのですが、ラストに至って、そうではなかった事がわかります。

  クライマックスでは、「いくら、母親を笑い者にしたくないからと言って、こんな事しちゃっていいのかな?」と思うくらい、思い切った事を、主人公がやるのですが、当人はともかく、弟や姉妹は、これで良かったんでしょうか。 帰る所がなくなってしまうのは、大変心細い事だと思うのですが。

  前半、精神障害の弟が、やりたい放題やりまくるので、バタバタして、およそ落ち着きません。 演じているのが、ディカプリオさんだから、許されているような所もありますな。 後味の複雑さも含めて、見ていて、楽しくなるような映画ではないので、注意。


≪丹下左膳≫ 1958年 日本
  大友柳太朗、大川橋蔵、美空ひばりなど、当時の大スターが、ごろごろ出て来る時代劇。 この頃の時代劇は、正に黄金期で、とにかく、絢爛豪華。 「なんじゃ、こりゃ!」の華やかさ。 美空ひばりさんが、歌まで歌うから凄い。

  幕府から、日光東照宮の修理を命じられた、柳生但馬守が、百万両のありかが記された「こけ猿の壺」を、江戸の町道場に婿入りさせた弟の源三郎に渡してしまった事に気づき、取り戻そうとするが、その前に壺が盗まれて、丹下左膳の元に渡り、幕府の隠密や、道場乗っ取りを企む師範代一味が入り乱れて、大混戦になる話。

  題名の通り、丹下左膳も出て来ますが、出番の配分からすると、大川橋蔵さんが演じている柳生源三郎の方が、主人公っぽいです。 大友柳太朗さんの丹下左膳は、ちと、ガラが悪過ぎて、好感が持てないのに対し、大川橋蔵さんは、輝くばかりの色気を発散しており、ビジュアルで、差がついてしまっています。

  豪華と言えば、とてつもなく豪華なのですが、いろいろ盛り込み過ぎているせいで、壺の話なのか、道場乗っ取りの話なのか、中心軸が定まっていない憾みがあります。 ちょび安の御落胤に至っては、完全に蛇足。

  こけ猿の壺の話というと、どうしても、1935年の傑作、≪丹下左膳余話 百萬両の壺≫と比べてしまいますが、あちらほど、深い味わいは無いものの、こちらはこちらで、捨て難い魅力があります。 今では、こういう時代劇は、作れないですからねえ。


≪今度は愛妻家≫ 2009年 日本
  豊川悦司さん、薬師丸ひろ子さん、ダブル主演の夫婦物。 仕事もせず、妻を鬱陶しがって、浮気ばかりしている夫が、旅行をきっかけに、妻がいなくなってしまった事で、自分にとって、妻がどういう存在だったかを知る話。

  話のほとんどが、家の中で進行する事や、セリフがやけに多い事など、舞台劇みたいだと思っていたら、本当にそうでした。 場所はともかく、セリフが多すぎるのは、明らかに不自然なのですが、つまり、舞台劇というものが、そもそも不自然なわけですな。 舞台関係者のどれだけが、その事に気づいている事やら・・・。

  中ほどに一回、「ええっ! そうだったの!」と驚く、大きな種明かしがあり、後半にも一回、「ええっ! そういう関係だったの!」と驚く、中くらいの種明かしがあります。 このサプライズをやりたいばかりに、この物語を作ったと言っても過言ではないようなインパクトあり。

  いなくなって初めて、配偶者の存在の大きさに気付くという話ですが、この夫、妻がいなくならなければ、自分が死ぬまで、その事に気付かなかったに違いなく、「果たして、こやつの愛は本物なのか?」と、最後まで眇目で見てしまいます。


≪サイドカーに犬≫ 2007年 日本
  竹内結子さん主演、・・・という事になっていますが、主人公は、子役の松本花奈さんです。 主人公と主演が別の人間になる事があるんですな。 家出した母親の代わりに食事を作りに来た父の愛人に、自転車の乗り方を教わった娘が、母親とは正反対の捌けた性格の愛人に、ちょっとした影響を受ける話。

  現在、30歳の主人公が、自分が小学生だった頃を回想する形で、思い出が語られるのですが、80年代初頭という設定が、明らかに負担になっていて、あちこちに、ボロが出ています。 わざわざ、古い車を探して来ておきながら、道路の端の方には、今の車がしっかり映ってしまっているのは、あまりにも杜撰。 無理に昔の話にせず、回想の枠を取っ払って、今の子供の話にしてしまっても、何の問題もないと思うのですがね。

  正直な感想、この映画、何を言いたいのか、よく分かりません。 「子供の視点から、大人の世界を見上げたものの、結局、よく分からないまま、一夏が過ぎてしまった」という話なのですが、よく分からない事を、よく分からないまま、物語にしているために、大人である観客から見ても、よく分からない話になってしまっているのです。

  松本花奈さんが、今時珍しいくらい、子役臭さを感じさせない人で、ほんとに、普通の小学生の女の子を連れて来たという感じなのですが、この主人公の理解の限界を超える事は、観客にも理解できません。 父の愛人は、結局、自転車の乗り方を教えてくれただけで、主人公の人生観を変えるほどの存在にはなり得なかったんですな。

  「強い人間に従って、おとなしく生きた方がいいか、自分が強い人間になって、他人を従えて生きた方がいいか」という問題が、テーマらしき形で登場しますが、物語全体を貫いているわけではなく、提示されただけで、放り出されています。 何か、深い人間観察をやろうとしたものの、不完全燃焼して終わってしまったという感じです。

  竹内結子さんは、こういう、一癖あるというか、ちょっと柄の悪いキャラを演じるのが好きなんでしょうな。 当人の地の性格が、こういうタイプなのかもしれません。 問題は、観客の方が、こういう性格の女性を好むかどうかでして、女優は人気商売ですから、それは結構、重大な問題になると思います。 主演に拘らないと言うのなら、別に構わないと思うんですが。


≪大鹿村騒動記≫ 2011年 日本
  原田芳雄さん主演作にして、遺作。 鹿肉レストランを営む傍ら、村歌舞伎の練習に余念がない男のもとに、18年前に駆け落ちした、妻と幼馴染の男が戻って来るが、妻は認知症になっており、昔一緒に演じた村歌舞伎の舞台に立たせる事で、記憶を取り戻させようとする話。

  こう書くと、深刻な話に聞こえるかもしれませんが、純然たるコメディーでして、かなり笑えます。 ただ、実際に認知症の家族を世話している方々まで、笑ってくれるかどうかは、分かりません。

  出演者の平均年齢が、60歳を過ぎているのですが、年寄り臭さは微塵も感じさせず、まるで、子供の時の付き合いが、そのまま続いているかのような、活き活きした人間関係が見られます。 この年代を、こんなに前向きに描いた映画というのは、大変珍しい。 ≪北京好日≫などもそうですが、劇をやるというのは、若さの活力源なのでしょうか。

  中心が60代なので、佐藤浩市さんや松たか子さんが、結婚前の若手で登場し、更に一世代若い瑛太さんなどは、もはや、子供的役回りですな。 三世代が入り乱れるので、山村の話でありながら、異様なほどの賑やかさが醸し出されています。

  大鹿村は実在し、村歌舞伎には、300年の伝統があるとの事。 この映画のクライマックスも、歌舞伎の舞台になっていますが、歌舞伎自体は、そんなに面白いものではありません。 普段、脇役ばかりしている、芸達者なベテラン俳優達が、楽しんで映画を作っている、その雰囲気が、好感の源なのでしょう。

  原田芳雄さんは、最後にいい映画を遺しましたねえ。


≪ディスクロージャー≫ 1994年 アメリカ
  マイケル・ダグラスさん主演、デミ・ムーアさん助演の、企業内紛物。 ついでに、セクハラ物でもあり、公開時は、そちらで有名になった映画だとか。

  IT企業の開発部門のトップだった男が、新たに上司として配属されてきた、かつて交際していた女性から、性関係の復活を迫られたのを拒んだところ、セクハラで社内告発されてしまい、やむなく、弁護士を頼んで反撃告訴するが、実はそれが、手の込んだ罠だったという話。

  女の方が男を誘って、断られ、腹いせの嫌がらせとして、セクハラ被害を受けたと言いだすわけですが、ストーカー物同様、どうも、アメリカ映画では、この種の題材を扱う時に、男女の役割を引っくり返したがる傾向があるようです。

  調停が開かれ、事件があった時の様子が克明に語られるのですが、証言の内容が、あまりにも生々しくて、聞いていて、気分が悪くなります。 こういう場面を入れれば、問題作にはなるかもしれませんが、見る者の気分を害する映画は、決して、名作にはなり得ません。

  セクハラ物ならセクハラ物で、最後まで押し通せばいいのに、「実は、企業内での勢力争いが原因だった」という方向へ進むため、テーマが薄まってしまっています。 アメリカ映画らしからぬ、というか、マイケル・ダグラスさん主演の映画らしからぬ、まずい出来のストーリーです。


≪ウィンチェスター銃 '73≫ 1950年 アメリカ
  ジェームズ・スチュワートさん主演の西部劇。 「'73」というと、70年代を連想してしまうので、軽薄な映画かと思ったら、1873年の事でした。 100年昔だわ。

  射撃の名手が、もう一人の射撃の名手で、父親を背中から撃った男を追って、西部を旅して行くが、二人が優勝を争った射撃大会の賞品だったウィンチェスターのライフル銃が、人の手から手に渡って、彼らの行く先々に付き纏う話。

  二人の因縁の話と、ライフルの話を無理やり絡めている感あり。 ライフルを、射撃大会の賞品などではなく、主人公の父の物で、それを奪う為に、父が殺されたというきっかけにすれば、もっと、いい話になったのに。

  終盤に、サプライズあり。 善玉が悪玉を追跡するパターンの話は、よくありますが、このサプライズのおかげで、他とは違った印象の映画になっています。 ただ、50年の映画ですから、ストーリーの進め方に、古臭い違和感があるのは否めません。

  逆に考えると、今のアメリカ映画の完成されたセオリーは、長い年月をかけて積み上げたノウハウの上に成り立っているんですねえ。


≪荒野のガンマン≫ 1961年 アメリカ
  サム・ペキンパー監督の西部劇。 劇場用映画の初監督作品だそうです。 サム・ペキンパー監督は、≪ワイルドバンチ≫を作った人。 といっても、今では、知っている人がいないか・・・。

  元北軍軍曹が、かつて、自分の頭の皮を剥ぎかけた元南軍兵士を探し当て、油断させる為に、銀行強盗の話を持ちかけて、仲間になるものの、ハプニングで、全く関係の無い子供を撃ち殺してしまい、その子を父親と同じ町の墓地に葬りたいと望む母親の護衛について、旅をする話。

  過失とはいえ、自分の子供を殺した男と、恋に落ちる母親というのは、どうにも不自然なキャラです。 雌ライオンじゃないんだから・・・。 そういう男が近くにいたら、まず、息子の仇を取ろうとしませんかね。 主人公に、反省の色がほとんど見られないのも、違和感あり。

  互いに、ほとんど無関係ない、復讐の話と、護衛の話が、同時進行するため、ストーリーが纏まりに欠けます。 ペキンパー監督も、この頃には、まだ、オリジナリティーを発揮できていなかった様子。 しかし、映像の雰囲気や場面展開には、古典的な西部劇から脱却する萌芽が見て取れます。

  原題の直訳は、≪生かしておけない仲間≫。 ひでー、邦題です。 ≪荒野の七人≫が前年に作られているので、便乗したのでしょうが、この映画の主人公は、特段強調されるような、ガンマンではありません。


≪コクリコ坂から≫ 2011年 日本
  スタジオ・ジブリの劇場用アニメ。 宮崎吾朗さん監督。 脚本が宮崎駿さん。 60年代初頭の横浜の、丘の上にある高校と下宿屋を舞台に、文化部の部室が雑居している洋館を、取り壊しから守ろうとする学生達の活動、及び、下宿屋の娘と一年先輩の少年の、出生の謎が絡んだ恋の経緯を描いた話。

  宮崎吾朗さんというと、≪ゲド戦記≫の平凡な出来で、失速スタートを切ってしまった人ですが、この第二作は、見違えるほど、よく出来ています。 脚本のせいかとも思いましたが、ストーリーだけ見ると、結構ありふれた要素で作られており、やはり、監督にセンスが無ければ、この完成度には至らなかったでしょう。

  学生運動が出て来ますが、政治的なものではなく、校内にある歴史的建築物を壊すか守るかという次元の話なので、身構えずに見れます。 学生運動を、保守派が主導しているというのは、何となくユーモラスです。

  ただし、物語の本筋は、学生運動ではなく、恋愛の方。 「互いに思いを寄せていた相手が、実は○○だった」という、過去に無数に使われてきたモチーフですが、ドロドロしたところがないので、割とすんなり受け入れられます。

  SFでもファンタジーでも、アクション物でもないアニメを見ると、「実写で作った方が、いいのでは?」と、必ず思うものですが、この作品には、「アニメで良かった」と思わせる、独特の質感があります。 実写では、CGを多用しても、ここまで描き込めますまい。 嫌味が全く無い主人公のキャラも、アニメならではと感じさせます。

  いい作品だと思うので、重箱の隅をつつくような、不粋な批評は差し控えます。 これを劇場に見に行った人達は、「いいもの、見たなあ」と満足して帰って行った事でしょう、さぞや。


≪ロミオ&ジュリエット≫ 1996年 アメリカ
  レオナルド・ディカプリオさん主演。 ロミオとジュリエットの時代を、現代に置き換え、アメリカの地方都市で対立する、二つの暴力団の息子と娘の話にしたもの。 ストーリーは、そのまんまなので、改めて書くまでもありますまい。

  はっきり言って、スカ。 こんなにひどいシェークスピア物は、古今東西、稀です。 よくもまあ、ここまで、吐き気を催すような映像を撮れたものです。 ほんとに、アメリカ映画か? というか、世界中どの国の映画でも、こんなに汚らしくはないです。 

  もともとのロミオとジュリエットにしてからが、情欲丸出しの獣じみた話なのに、それを汚らしい映像で作ったのでは、救いようがなくなるのも無理はない。

  出演者は、ディカプリオさんは、まあ良いとして、ジュリエット役の娘が、どうにも、美少女に見えぬ。 トム・クルーズさんを女にしたような顔立ちなのですが、男と女では美の基準が違う事を、嫌と言うほど思い知らされます。 神父を罵る時の面構えが、醜いの、醜くないのって・・・。


≪毎日かあさん≫ 2011年 日本
  アニメではなく、実写映画。 主演は小泉今日子さん、助演が永瀬正敏さん。 漫画やアニメの方を見ていないので、映画オンリーの感想になりますが、悪くありません。 原作はギャグ漫画だと思うのですが、この映画は、真面目なテーマを持っています。

  苦労の末、漫画家として成功した妻が、幼い子供二人と、元戦場カメラマンで、現役アル中の夫に振り回されながらも、逞しく生きて行く話。

  子供との絡みは、身近に幼い子がいない者の目から見ると、ただ鬱陶しいだけで、さして面白くないのですが、アル中と戦う夫のエピソードの方が大変興味深く、それだけで充分に見る価値があります。 アル中患者は、世にたくさんいるのに、その克服が、映画のテーマとして取り上げられないのは、不思議な話。 その点、この作品は貴重です。

  小泉今日子さんは、アイドルの頃に比べると、美貌の衰えこそ隠せませんが、性格的には、この役柄にぴったりあっており、酔って帰って来た亭主の尻を蹴飛ばす場面など、実に様になっています。 永瀬さんは、もちろん、巧い。

  決して、ハッピー・エンドとは言えないのですが、見終わった後、解放感で、すーっと力が抜けるような余韻が残ります。 いい映画の証拠。


≪次郎長三国志≫ 2008年 日本
  マキノ雅彦さん監督。 マキノ雅彦さんというのは、津川雅彦さんの監督名。 主演は、中井貴一さん。 清水の次郎長の逸話をいくつか摘み取ったストーリーです。 お蝶と祝言を挙げるところから始まり、次郎長が名を上げ、相撲興行や花会を経て、対立する甲州の一家へ殴り込みをかけ、裏切り者を尾張で討ち果たすまでを描いた話。 森の石松の死などは、入っていません。

  出だしから、中ほどまでは、コミカルかつ、軽妙な展開で、洒落ているのですが、甲州へ向かった辺りから、殺伐として来て、「所詮、ヤクザ物はヤクザ物か・・・」と思わせる、血腥い話になって行きます。 いっそ、前半のテイストをそのまま生かして、コメディーにしてしまえば良かったのに。

  中井貴一さんは、つくづく、いい役者ですねえ。 なかなか、作品に恵まれないけど。 森の石松に温水洋一さん、法印の大五郎に笹野高史さんを起用しているのは、面白いキャスティング。 佐藤浩市さんが、甲州ヤクザの黒駒の勝蔵役で出ていますが、大物なのに、ほんのちょっと顔を出して、それっきりになります。 もしや、続編を予定していたのではありますまいか。


≪おとうと≫ 2009年 日本
  山田洋次さん監督、吉永小百合さん主演、笑福亭鶴瓶さん助演。 もっと昔の映画かと思ったら、まだ3年しか経っていないんですね。

  夫亡き後、夫の実家の薬局を営みながら、姑を養い、娘を育てて来た女に、親戚の中で厄介者扱いされている弟がいて、娘の結婚に突然現れて大酒を飲んで暴れたり、借金を残して姿をくらましたり、いろいろと迷惑をかける話。

  姉を訪ねて来たのに、顔を合わせるのが気まずくて、家の前をうろうろしている様子などは、明らかに寅さんと重なっていますが、寅さんと違うのは、この弟の破綻度が大きい事です。 酒癖は悪い、ギャンブルで借金は作る、不摂生が祟って病気になるなど、ただの駄目人間ではなく、グレが入っているんですな。

  寅さんの場合、ドジや勘違いレベルの小さな問題しか起こさないのに、周囲の人間が、要注意人物扱いするから、問題が大きくなってしまうのですが、この弟の場合、当人に自覚がないとはいえ、犯罪になるような悪事をしており、周囲の人間は、一方的に迷惑を蒙るという、より深刻な厄介者なっています。

  姉と弟の話と、娘の結婚の話の二本の軸があり、題名が、≪おとうと≫の割には、弟に関するエピソードが足りないような気がします。 ただし、棺桶に片足突っ込んだ弟の話より、娘の結婚の話の方が明るい未来を感じさせるので、脇道に逸れていても、さほど、違和感は増大しません。


≪ディア・ドクター≫ 2009年 日本
  西川美和さん監督、笑福亭鶴瓶さん主演。 無医村だった村に、高給で雇われた男が、普通の医師ではやらないような、親身になって患者に寄り添う医療を行なっていたが、ある患者の病気を巡って、都会の病院で医師をしている、その患者の娘と議論になった直後、姿をくらましてしまう話。

  幾分ネタバレになってしまいますが、この主人公は、医師免状の無い、偽医者です。 その事は、勘のいい人なら、始まってすぐに、そうでない人でも、前半の終わりくらいで、分かります。 偽医者だけど、患者の信頼が篤いという、人情物のパターンで、映画では珍しいですが、ドラマでは、よくあります。

  ありふれた設定を、2時間を超える長い尺で映画化したのが、この作品の肝で、わざわざ、そんな事をするというのは、よほど話に自信があるのでしょう。 内容は濃厚です。 山と田んぼしかないような村で、地味に進む話なのに、「いつ、バレるか?」という緊張感があるため、話に引き込まれて、目が離せません。

  監督が、≪ゆれる≫の人ですが、この監督、間合いの取り方が独特で、編集の力量が抜きん出ている事が分かります。 回想シーンがたくさん出て来て、時間軸が頻繁に前後するのに、見る者を混乱させないのは、大した技術。

  いい映画であるだけでなく、欠点が見つからないくらい、完成度が高いです。 「医療と信頼」というテーマの方が印象に残るかもしれませんが、映画ファンなら、むしろ、ストーリー展開の芸術性を堪能すべき作品。



  以上、15本まで。 今年の、1月7日から、13日までに書いた感想。 全然進まん。 暮れと正月に録画した映画が溜まって、強迫観念に追い立てられながら、見まくっていた時期ですなあ。