辺戸岬へ歩く
沖縄旅行記の八日目です。 7月29日(火)ですな。 ○△商事が策定した、この日の予定は、「フリー・タイム」。 しかし、幸喜のホテルから行ける観光地は、本部半島に集中しており、そこは、前日に回ってしまったので、もはや、近場に見る所はありません。 恐らく、○△商事の担当者としては、旅行に出てから、一週間になる日なので、体を休ませる傍ら、ホテルの宿泊費だけで一日過ごさせ、予算を節約しようという計算だったのでしょう。
しかし、生来の貧乏性で、自他共に認める吝嗇家である私です。 せっかく、高い飛行機代を払って沖縄に来ているのに、ホテルに籠って一日過ごすなどという、勿体ない事ができるわけがないのであって、結局、どこかへ出かけなければ、済むはずがなかったのです。 そして、「自由に動いて良い」となった時、私は、必ず、強行軍をやらかすのです。 ゆとりある計画なんて、未だ嘗て、立てた事がありません。 心臓に爆弾を抱えているというのに、困ったもんだ。
≪ホテルの朝≫
「ホテルの朝」は、もういいというのに! なんで、毎回、そこから書き始めるかというと、日記を元にしているからなんですな。 日記には、その日に起こった出来事を、細大漏らさず、書いてあるので、どうしても、朝から始まってしまうという次第。 困ったもんだ。 すでに、沖縄旅行から帰って、二ヵ月近くが経過していて、頭の中の記憶があやふやになっているので、ますます、日記の記述に頼る事になり、その呪縛に強く絡め取られているのだと見ました。 処置なし・・・。
夜中の3時頃から、目覚めたり、また眠ったりを繰り返していましたが、6時を過ぎたので、本格的に起き出しました。 このホテルに、すでに二泊したので、さすがに、この日は掃除に入ってもらおうと思い、荷物を片付けました。 外出に持って行く物以外は、旅行鞄に戻し、その旅行鞄は、入口横のクローゼットに入れました。 掃除に入る人は、そんな所、簡単に開けられるので、隠しても意味はないのですが、少しでも、防犯意識があるという意思表示をしておいた方がいいだろうという、気休めです。
外出の仕度をした上で、6時55分頃、一階の食堂へ下りました。 もちろん、バイキング。 バスの時間があるので、少し少な目に取って、急いで食べました。 7時15分くらいには、食べ終わって、外へ。 国道58号線を渡るため、押しボタン信号の横断歩道へ。 押しボタンを押すと、すぐに、信号が変わり、車が停まりました。 静岡県では、信号が変わるまでに、数分待たされますが、沖縄県では、さっさと青にして、さっさと渡らせてしまう方式のようです。 そういや、北海道の苫小牧でも、その方式でした。 沖縄や北海道の人達が、静岡に来たら、押しボタン信号が、いつまで経っても変わらないので、さぞや、イライラする事でしょう。
≪犬≫
幸喜のバス停に向かいます。 バスを待っている間に、首輪を着けていない、一匹の小型犬が近づいて来て、私の周囲をうろつき始めました。 バス停のすぐ下に来て、一緒にバスを待っているようなそぶりを見せ、とても可愛らしい。 野良犬にしては、毛並みが綺麗なので、近所の家で放し飼いにされているのか、さもなければ、海水浴客が連れて来て、海で遊ばせている内に、はぐれてしまったのかも知れません。 飼ってくれる人間を探しているようにも見えましたが、こちらは、観光客なので、連れて行くわけには行きません。 胸が痛むのを堪えて、無視していたら、海側の茂みの方へ行ってしまいました。 その後、どうなった事やら。
犬
≪幸喜から名護へ≫
バスは、少し遅れて、やって来ました。 しかし、まあ、来てくれれば、文句はありません。 名護までは、前日、タクシーで通った道です。 「名護十字路」バス停を過ぎて、終点の、「名護バスターミナル」まで行ってしまいましたが、考えてみたら、そこから先の、「辺土名」へ向かうバスは、結局、「名護十字路」を通るので、そこで下りて、待っていれば、いくらか安かったのです。 知らないというのは、悲しいこってすな。 幸喜から、名護バスターミナルまで、20分くらい。 8時頃には着きました。
記録を取っておくのを忘れてしまったのですが、幸喜から、名護バスターミナルまで、確か、420円だったと思います。 500円玉を両替した記憶があるので、500円以上でなかったのは、間違いないです。 バスは、領収書もレシートも出ないのが、不便ですな。 インテリジェント運賃箱なのだから、レシートくらい出してくれても、いいと思うのですがね。 100円ショップだって、レシートは、くれるというのに。
名護のバス・ターミナルは、かなり、広々していて、行き先ごとにバス停が違う、普通の方式でした。 私は、この方が、安心できます。 ここのトイレで、小用。 朝食を食べた後、すぐに出かけると、必ず、尿意や便意に襲われるようになったのは、この旅行に出てからです。 食べて、すぐ寝るのは、よくないと言いますが、食べて、すぐ動くのも、負けず劣らず、よくないのかも知れません。 運動すると、腸や膀胱が刺激されてしまうんでしょうなあ。
名護バスターミナル
≪名護から辺土名へ≫
8時30分に、辺土名行きのバスが入って来て、出発。 ここで、ちょっと、はっきりさせておきますと、この日の私の目的地は、沖縄本島の北端にある、≪辺戸岬≫です。 本島北部の北西海岸沿いの道、国道58号線を、路線バスを乗り継いで行こうという計画。 来る前に、ネットで調べて、バス路線が繋がっている事は、確認済みでした。 問題は、時間ですな。 最悪でも、夕食の締め切り時間までに帰って来れないとまずいので、あまり、ゆとりはありません。 地図で見ると分りますが、同じ北部でも、幸喜から、辺戸岬までは、相当な距離があります。 本島の全長の、5分の2くらいはあると思います。 北部が、いかに大きいかが分かろうというもの。
乗り換えポイントは、「名護バスターミナル」と、「辺土名バスターミナル」です。 非常に、紛らわしいのですが、「辺戸岬」の「辺戸」は、「へど」と読むのに対し、「辺土名」は、「へんとな」と読みます。 辺戸岬の近くには、「辺戸」という集落があり、辺土名と辺戸は、全く別の場所です。 よく見ると、一方は、「土」、もう一方は、「戸」で、字も違う。 しかし、この両者を混同して、自分がどこに向かっているのか、どこにいるのか、混乱を来たしてしまう旅行者は、少なからずいるんじゃないでしょうか。
最初、バスの一番後ろの席に座ったのですが、この車体、大昔の観光バスを流用しているらしく、側面の窓のみならず、後ろの窓まで、年季が入って、汚れがこびりつき、写真が撮れません。 これでは、勿体ないと思い、信号待ちで停車するタイミングを見計らって、一番前の席に移りました。 幸い、名護から、辺土名まで、私一人しか乗っていなかったので、そういう事をしても、人の迷惑にはなりませんでした。 さすがに、フロント・ウインドウは、綺麗に磨いてありました。
名護から辺土名へ向かう道
名護から、辺土名までは、1時間くらい、乗ったと思います。 9時半頃、辺土名の街に入りましたが、そこで、運転手さんが、「どこまで行くの? 北の方?」と訊いて来たので、「辺戸岬」と答えたら、辺土名バスターミナルよりも手前のバス停で、下りるように言われました。 そこのバス停名を見て来なかったのですが、すぐ近くに、「国頭村営バス乗り場」があり、そこから、村営バスで、辺戸岬へ向かうようなのです。 ここまでの料金は、1050円で、終点まで乗っても変わりません。 「国頭村」は、「くにがみそん」と読みます。 本島の北の端を占める自治体で、辺土名も辺戸岬も、その中に含まれます。
≪辺戸岬への徒歩行≫
村営バスの待合所があり、そこへ行って、時刻表を見たら、一日に、3本しかなく、次の便は、なんと、12:00になっています。 この時点で、まだ、9時半ですぜ。 「変だな・・・。 確か、ネットで調べた時には、もっと本数があったような気がしたんだが・・・。 村営バス以外に、バス会社の路線バスがあるんじゃないのか?」と、疑ってしまったのが、運の尽き・・・。 「2時間半も、待ってられん。 とりあえず、歩いて先へ進み、途中のバス停で、バスを拾う事にしよう」と、一見、妥協案として筋が通ったような事を思いついてしまったばっかりに、この後、地獄を見る羽目になりました。
いや、実は、歩きたかったという気持ちも、あるにはあったんですがね。 元気だったのは、最初の内だけ。 強烈な日差しに照りつけられながら、一時間も歩くと、目に見えて、弱って来ました。 しかも、行けども行けども、バス停らしいバス停がありません。 それらしい場所があっても、バス停名が出ていないし、時刻表も貼ってないのです。 見たところ、随分前に、撤去されたという感じ。 最初の一つ二つは、そこのバス停が廃止されたのだと思っていましたが、どこまで行っても、そんなのばかりだと、バスが通っているのかどうかすらも、疑わしくなって来ます。 もしや、とっくに廃線になっているのでは? だけど、辺土名には、乗り場があったしなあ・・・。 わけ分からん。
歩くこと、2時間。 辺土名から、10キロも来てしまいました。 辺土名から辺戸岬までは、20キロなので、もう半分歩いてしまった事になります。 こうなると、また、強行軍好きの悪い癖が出て、「半分歩けたのだから、いっそ、このまま、辺戸岬まで歩いてしまえ」などと、後先考えぬ思い付きが出て来るのです。 この時点で、脚は棒になり、靴底は磨り減って、穴が開き、足の裏には、血膨れまで出来ていたのですが、一度決めると、やり抜かなければ、負けたような気がして、やめられないのです。 病気だね、これは。
海の景色は抜群(上)/果てしなく続く道(下)
快晴というわけではなく、雲もあったのですが、歩いた全行程の、9割くらいは、直射日光を浴びていました。 顔や首筋、腕が、日焼けしてヒリヒリして来ます。 帽子を、風に飛ばされないように、後ろ向きに被っていたら、額に、アジャスターの穴の跡が、くっきり焼けて、残ってしまいました。 唯一の慰めは、乗り物に乗っていないので、写真だけは、鮮明なのが撮れた事くらい。 左側は、海。 砂浜がある所と、低い崖になっている所があります。 右側は、やんばるの山林で、ポツンポツンと集落があります。 所々、トンネルあり。
その後、どこかで、国頭村営バスに追い抜かれました。 たぶん、それが、12:00発の便だったんでしょう。 そこに至るまで、バス停らしいバス停は見つけられず、「どうやったら、あのバスに乗れたのだろう?」と、首を傾げっぱなしでした。 この時点で、私はまだ、村営バスの他に、バス会社の路線バスがあるのではないかと思っていました。 海岸線沿いの道ではなく、内陸に道があって、そちらを通っているのではないかと・・・。 しかし、そんな路線は存在せず、そもそも、内陸の道もなかったのです。 ネットで調べた時、何かを間違えていたんですな。
やがて、辺戸岬前の最後の集落に差しかかりました。 「宜名真(ぎなま)」という所。 「茅打ちバンタ」の案内標識あり。 「かやうちばんた」と読みます。 高い断崖の事で、上から、束ねた茅を落とすと、途中でバラバラになるから、そんな名前がついたのだそうです。 その事は、母が、39年前に買ったガイド・ブックに出ていたので知っていました。 宜名真の集落から、そこへ登って行く道があるのですが、宜名真に差しかかる前に、「もしや、あそこが、茅打ちバンタでは?」と思って、遠くから、断崖の写真を撮っておいて、正解でした。 断崖は、上から見ても、なかなか、凄さが分かりませんからのう。
≪戻る道≫
集落の山側の坂を登って行きます。 脚も足も、へろへろになっている状態で、坂を登るのは、きついっすねー・・・。 また、茅打ちバンタに登るまでの道が、「戻る道」という名前がついて、ガイド・ブックに、わざわざ載っているくらいで、昔は、難所だった所。 宜名真の集落には、平地が少ないので、茅打ちバンタの先にある、「辺戸上原」という高地まで、畑を作りに行っていたらしいのですが、その道が凄く狭くて、向こうから人が来ると、すれ違えずに、片方がバックするしかなかったので、「戻る道」という名前がついたのだとか。
戻る道
ただし、今では、道幅が広げられているので、それほど、険しいわけではありません。 この拡幅工事、1913年に行なわれたのですが、地元の小学校の校長が言い出して、役所に掛け合ったものの、相手にされず、村人だけで始めたら、ようやく、役所の支援が得られ、完成したのだとか。 「なぜ、校長が音頭を?」というと、村の家々が貧しくて、子供が学校に来ないので、「貧しいのは、畑に行く道が狭いからだ」と考え、まずそこから手をつけたという事情だったようです。
観光資源としてみると、「戻る道」は、そのまま残しておいた方が、面白かったとも思えますが、それは、海側に、新しい道が出来ている今だから言える事で、1913年から、1983年まで、70年間も、この拡幅された「戻る道」が、宜名間集落から辺戸上原へ向かう唯一の道だった事を考えれば、この工事の果たした意味の重さが分かろうというもの。 70年は長いで。
≪茅打ちバンタ≫
坂を登りきると、茅打ちバンタの上に出ました。 展望所がありましたが、建物は、休憩所のあずまやがあるだけです。 予想していた通り、上からでは、崖そのものが見えるわけではないので、あまり、面白くはありませんでした。 鉄コンで、ちょっと頑丈な建物を造り、崖から突き出した部分を設けて、床下にガラスでも嵌めれば、高さ・怖さが、よく分かると思うのですがね。 逆に、怖過ぎるかな?
崖自体は見えませんが、その下の海は、よく見えます。 珊瑚礁が、はっきり見えて、「グレート・バリア・リーフ」の航空写真を、ミニマムにしたような景色が拝めます。 こういう眺めは、他では、ちょっと、見られないのかもしれませんが、テレビで、世界各地の絶景ばかり見慣れてしまっていると、あまり、感動を覚えないのは、困った事です。
茅打ちバンタの崖(上)/上から見下ろした珊瑚礁(下)
それよりも、戻る道にせよ、茅打ちバンタにせよ、39年前のガイド・ブックに載っている名所へ、実際に来ていると思うと、そちらの方で、じわじわした感動が湧いて来るものですな。 退職して、沖縄旅行に来れて、本当に良かったなあ。 よくぞ、変わらずに、私が来るのを待っていてくれた。 いや・・・、別に、私を待っていたわけではないか。
≪辺戸上原≫
ガイド・ブックによると、茅打ちバンタから北側の高地を、「辺戸上原」という模様。 更に先に進みます。 ここまで来れば、辺戸岬は、「すぐそこ」のはずですが、徒歩の私には、油断ならぬ距離がありました。 距離だけでなく、アップ・ダウンまであったのは、きつかった。 一度、「もうすぐだ」と思ってしまってから、まだ先があると、心理的なダメージが大きいです。
途中、小学校あり。 その名も、「北国小学校」。 沖縄なのに、「北国」とは、峻烈な違和感がありますが、確かに、本島の北の端なのですから、北国と言っても、虚偽でも、誇張でもありません。 卒業式や入学式では、「北国の春」を歌うんでしょうか? んーなこたーないか。 ちなみに、「きたぐに」ではなく、「きたくに」と読むらしいです。
少し行くと、≪大石林山≫という観光施設の入口前を通りました。 大きな岩山と、その周辺に広がる天然林の奇観を見せる、自然公園です。 たまたま偶然ですが、旅行に出る前に、テレビで、そこを取り上げた番組を見ていて、面白そうだとは思ったのですが、入場料が820円と、そこそこするのもさる事ながら、時間的に、見て回るゆとりがなかろうと思い、行く前から、入らない事に決めていました。 で、素通り。
≪辺戸岬≫
国道58号線を横切り、また、しばらく歩くと、ようやく、辺戸岬に到着しました。 距離にして20キロ、時間にして4時間、歩き詰めに歩いたせいで、もう、へろへろです。 いくら、強行軍好きとはいえ、これ以上は歩けないので、帰りは是が非でも、バスに乗らなければなりません。 で、岬に着くなり、真っ先に探したのが、バス停。 しかし、無情な事に、ここでも、それらしい物は見当たりません。 おかしい! 確かに、国頭村営バスは通っているのに、なぜ、バス停がないのか?
ここまで来る途中、「辺戸岬こうようパーラー」という案内看板を、どこがで見ていて、辺戸岬に店があるようなので、そこで聞けば分かるかと、期待していたんですが、着いてみると、確かに、その名の建物はあったものの、シャッターが閉まっていました。 平日だから、休み? 観光客は、結構いたんですがねえ。
自動販売機だけはあったので、とりあえず、脱水状態を脱しようと、500ccペットボトルのコーラを買いましたが、一気飲みしてしまい、ペットボトルで買った意味がなくなってしまいました。 それどころか、500飲んでも、まだ足りない。 ちなみに、ホテルから持って来た、500ccペットボトルの水は、とっくに飲み干してしまっていました。
バス停と水分補給は、さておいて、辺戸岬を見ます。 断崖絶壁、打ち寄せる白波、カルスト地形、北の彼方に与論島の島影・・・、とにかく、ダイナミック! 確かに、見に来る価値はありました。 徒歩でなければ、尚良かった・・・。 石碑やモニュメントが、いくつも立っていますが、一つ二つならともかく、それ以上あると、ちと、くどい。 むしろ、せっかくの雄大な自然風景を損なってしまっている観あり。
辺戸岬
カルスト地形
しばらく、休みたいところですが、帰りのバスが心配で、おちおち座ってもいられません。 マップ看板があったので、それを見てみると、バス停が載っていました。 岬から南へ行くと、「辺戸」集落があり、そこにバス停のマークが描いてあります。 とりあえず、帰りのバスの時間を確認しなければならないので、そちらへ向かったのですが、地図を、しっかり見ていなかったせいで、道を間違えて、まるで違う所へ出てしまいました。 集落の家並みだと思って目指していたのが、近付いてみると、墓地で、びっくり! 沖縄のお墓は、大きいから、墓地を遠くから見ると、村に見えるんですな。
そこまで、かなりの距離、急坂を下って来たので、「また、戻るのか・・・」と思うと、げんなり・・・。 ちなみに、そこからは、「ヤンバルクイナ展望台」が見えました。 ヤンバルクイナが見えるのではなく、ヤンバルクイナの形をした展望台なのです。 下調べをした限りでは、辺戸岬周辺では、かなり有名なスポットだとの事。 海を見下ろす小高い山の上にあり、見るからに、見晴らしが良さそうですが、この時の、私の脚の状態では、とても、そこまで登って行けそうになかったので、諦めました。
辺戸岬から南を見る(上)/ヤンバルクイナ展望台(下)
急坂を登って、辺戸岬の方へ戻り、国道58号線に出て、左折。 辺戸村の方へ歩いて行くと、やがて、バス停にぶつかりました。 喜んだのも束の間、ここにも、バスの時刻表はなくて、お祭り用の臨時時刻表だけが貼ってありました。 途方に暮れるとは、この事です。 ホテルに帰れない恐れが現実味を帯びて来ました。 最悪、タクシーを呼ばなければならないのか? いくらかかるんだ? 顔色、真っ青だな・・・。
≪辺戸共同売店≫
藁にも縋る気持ちで、辺戸村へ入り、案内看板に従って、「辺戸共同売店」という所を目指します。 村は傾斜地にあり、平らな道がありません。 この上、更に、坂を登らねばならんとは、もう、修験者だね。 共同売店は、鉄コンの平屋の建物でした。 建てられてから、かなり、風雪を経ている外観。 食品雑貨店という感じですかね。 冷房なし、扉は全開、扇風機活躍中。 店番は、お婆さんが一人。 新聞を読んでいました。
何も買わずに、質問するのも悪いので、メロン味のカップ入り氷菓を買いました。 86円。 バス停の場所を訊くと、「朝は、この店の前にも来るが、午後は分からないから、国道の方のバス停で待った方が良い」との事。 時刻表がないか訊いたら、店の出入口のガラス戸に、紙が貼ってありました。 次の便は、16:09で、それが最終です。 この時、まだ、午後2時半頃だったので、一時間半ばかり待つ事になりますが、とりあえず、辺土名までは帰れる事が確実になったので、ほっと、一安心しました。 それはいいとして、どこで待つかが問題だな。
買った氷菓を、店の外で食べ始めたんですが、日差しが強くて、とても、立っていられません。 軒下に入ったら、店番のお婆さんが、「隣の事務所の方が涼しい」と勧めてくれました。 建物は一つなんですが、店の隣に、「辺戸区事務所」という、町内会の集会所のようなものがあるのです。 中に、テーブルとパイプ椅子が、会議室風の配置で、並べてありました。 こちらも、扉は開放してありましたが、窓が閉まっていたので、風が通りません。 誰もいないのをいい事に、窓を開けて、涼みました。 水道と流しがあったので、おしぼりタオルを濡らして、顔を拭き、頭の載せて、クール・ダウンします。 一円の区費も払っていない、純然たるよそ者なのに、こんなに寛いでしまって、いいのだろうか?
氷菓一つでは足りず、また、店に行って、もう一つ、同じ物を買い、食べました。 それでも、まだ、喉が渇くので、自動販売機で、缶入りの500ccコーラを一本。 さすがに、これは、全部飲めず、辺戸岬で買った空のペットボトルに移して、残しましたが、それも、帰りのバスで、全部飲んでしまいました。 辺土名から、辺戸岬まで、行きのバス代を節約できたかと思っていたんですが、徒歩行で脱水した分、コーラと氷菓で、452円も使ってしまったので、疲れただけで、ほとんど得になりませんでした。 策士、策に溺れる・・・、いや、それほどの事でもないか。
これから、バスを乗り継いで、辺戸岬へ行こうと考えている、お若い方々よ。 辺土名で、国頭村営バスが来るまで、どんなに時間が開いていようと、決して、「歩いて行こう」などと考えてはいかん。 疲労困憊して、体を壊すのが落ちじゃ。 時間があったら、辺土名の街の中でも、散策していればいいのじゃ。 海岸線を延々と歩くより、そちらの方が、どれだけ有意義が知れん。 ≪ローカル路線バス乗り継ぎの旅≫で、蛭子さんも言っていたではないか。 「バスの旅なんだから、歩くなんて、禁止してもいいくらいだよ」と。 正に、その通りなのじゃ。
そういえば、私が、店にいる間に、村人と思われる、年配の男性がやって来て、店番のお婆さんと二人で、土地の言葉で話をしました。 さすが、ネイティブ同士、私には全く理解できなかったのが、実に面白かったです。 やはり、その土地の言葉を聞かないと、遠くまで旅行に来た甲斐がありません。 店番のお婆さんは、私と喋る時には、日本語の標準語でしたから、この方達は、かなり高度なバイリンガルなんですな。
事務所で、3時まで粘った後、開けた窓を閉め、テーブルの上を拭いて、旧状回復し、外へ出ました。 氷菓のカップや、コーラの空き缶は、捨てる所がないので、ナップ・ザックに入れて、持って帰りました。 そういや、沖縄の旅では、自動販売機があっても、缶を捨てるゴミ箱は、一つも見かけませんでした。 自動販売機の周囲の美観を考えれば、その方がいいわけですが、観光客の場合、結局、ホテルで、部屋に置いて行く事になり、どこかで、気が咎める行為をする事になるわけですな。
辺戸共同売店と事務所(上)/義本王の墓(下)
≪義本王の墓≫
国道58号線に戻り、バス停の近くの山側にある、「義本王の墓」へ向かいました。 これは、辺戸岬のマップで見て、知り、バス停に向かう途上、入口を確認していたんですが、バス停の確認を優先して、素通りしていた所。 時間があるのなら、寄らぬ手はなし。 山の中へ、階段と石段を登って行きます。 ハブに咬まれては敵わんので、藪は慎重に避けました。 石垣島の貸切タクシーの運転手さんに、最初に注意してもらったのが、こういう場面で生きて来ます。 ものの、5分ほどで、到着。 石垣で囲まれた中に、ヒンプンを持つ、家型の石造の墓がありました。 亀甲墓とは違い、石の屋根が載っています。
「義本王」は「ぎほんおう」と読み、沖縄最初の王統である、舜天王朝の第三代の王で、即位したのは、1249年。 第一尚氏王朝の成立より、ずっと前で、まだ、琉球王国ではなかったから、「沖縄の王」としか言いようがないわけですな。 飢饉・天災・疫病の責任を取って、次期王統の開祖である、英祖に譲位したのだそうです。 なぜ、こんなに北の方に墓があるのかに関しては、追放されたという説があるのだとか。 墓は、近年に修復されているのが明らかで、ちと、綺麗過ぎでした。 実際の建築年も、よく分かりません。
≪蔡温松並木≫
58号へ戻り、今度は、海側の、林の中へ。 この一体は、森林公園のようになっていて、遊歩道が整備されています。 並木という感じではありませんが、大きな松がたくさんあります。 「蔡温(さいおん)」というのは、琉球王国の宰相で、薩摩の侵略の後、荒廃した国土を立て直す事業の一環として、ここに松並木を作ったのだそうです。 松とはいうものの、全て、リュウキュウマツでして、クロマツとも、アカマツとも、見た目の感じが、だいぶ違います。 幹は、それほど太くならないようですが、自然に、松らしい枝ぶりになるようで、姿のいい樹種です。
森の中を進んで行くと、辺戸集落の一部を通り、また、森へ入って行くという、不思議な地理。 そこいらで、バスの時間が近づいて来たので、引き返しました。 ヤンバルクイナ展望台に行けなかったのは残念ですが、まずまず、見るべき程の物は見たというところでしょうか。 バスに乗って帰れるだけ、ありがたいと思わなければなりますまい。
≪国頭村営バス≫
バスは、5分くらい遅れて、道の向こうに、姿を表しました。 しかし、真っ直ぐに、こちらへは来ずに、辺戸の集落へ入って行きました。 共同売店の前で停まり、公民館の前で停まり、ようやく、道に戻って、バス停へ向かって来ました。 どうやら、バス停以外の場所も、乗客がいないか確認しながら、走っている模様。
マイクロバスで、乗客は私一人でした。 走り出すと、辺戸岬の方へも下りて行きました。 上述したように、バス停はないのですが、それとは関係なしに、乗る人がいないか、見に行くわけです。 いやあ、しかし、そういうシステムだとは、観光客には、とても見抜けませんなあ。 やはり、バス停らしいものを置いておいた方が、いいと思うんですが・・・。
分かった分かった。 つまり、なんだ。 辺戸岬に、路線バスで来るなんて観光客は、滅多にいないわけだ。 みんな、レンタカーや、観光バスで来るわけですな。 そういや、前日に乗った貸切タクシーの運転手さんも、「辺戸岬の方には、数年に一度くらいしか行きませんよ」と言っていました。 この村営バスは、観光客用ではなく、地元の人向けで、車を持っていない人の足として、運営されているのでしょう。
あ~、バスは楽だな~。 しかも、このマイクロバス、車体が新しくて、窓も汚れておらず、外がよく見えるのです。 こんないいバスなら、行きも乗って来れば、外の写真だって、うまく撮れたものを。 何も、4時間20キロも歩くこたーなかったんだよ、馬鹿だね、あたしゃ。 靴に穴を開け、靴下にも穴を開け、足の裏に血膨れを拵えただけ、損したわけです。 右足の人差し指は、爪が内出血して、黒くなり、その後、二ヶ月も治りませんでした。
ラジオで、琉球民謡の番組をやっていましたが、これが、いいんだわ。 特に、女性の謡い手の声が、実に美しい。 天上の音色とは、これの事か。 私は、日本の民謡を聞くと、脳味噌をスプーンで掻き回されているような、言語道断的不快感を覚えるのですが、なんで、琉球民謡は、こんなに美しく聞こえるのか、理由が分かりません。 他に、演歌、オペラ歌手の発声、女性グループ・アイドルの合唱なども、想像するだけで虫唾が走るのですが、同じ、女性の声なのに、なぜ、琉球民謡だけ綺麗に聞こえるのか、全く分からない。
見ていると、村営バスは、各集落ごとに、中の方へ入って行って、公民館前など、決まった場所へ行き、乗る人がいないか確認している様子。 停まった時に、運転手さんに、国道沿いのバス停について訊いてみたところ、「バス停で待っていれば、もちろん停まるが、バス停でなくても、手を挙げれば、停まる」との事。 な・ん・だ・・・、そ・う・だ・ったん・で・す・か・・・。 でも、往路に於ける私の場合、後ろから抜かれたわけで、バスが近づいている事自体に気づかなかったから、手を挙げる事もできなかったわけです。 抜かれた後、後ろから、手を振って追いかければ、停まってくれたんでしょうけど、そもそも、そのシステムを知らんのだから、話になりませんなわあ。
40分ほどで、「辺土名バスターミナル」に着きました。 運転手さんの話では、そこで待っていれば、名護行きのバスが来るとの事。 村営バスの料金は、辺戸から、ここまで、500円でした。
≪辺土名から名護へ≫
ここで、すでに、午後5時。 でも、西にある沖縄なので、まだまだ、カンカンに明るいです。 路線バスは、すぐに来ましたが、出発は、5:15だというので、少し待ちました。 このターミナル、待合所があるだけで、バス会社の事務所のようなものはありません。 ただの、街なかの空き地という感じ。 所在ないので、辺土名の街を、少し歩いてみましたが、商店街があり、まずまず大きな街でした。 国頭村の中心地である様子。
5時15分に出発。 朝通った道を、戻るだけです。 乗客は、しばらくの間、私一人だけで、途中から、一人二人乗って来ましたが、地元の人達らしく、すぐに下りて行きました。 50分くらい走って、「名護十字路」で、下車。 事前に、運転手さんに、「幸喜に行きたいんですが、名護十字路で乗り換えればいいんですね?」と確認しておいたので、ここで間違いなし。 料金は、名護バスターミナルまで行かなかったので、朝より50円安い、1000円でした。 下りる時、運転手さんが、「バス停の場所は分かりますか?」と言って、先にある交差点を左に曲がるような手振りをしました。 それを教えてもらって、応じ合わせ。 危なく、迷うところでした。 同じ、「名護十字路」でも、路線によって、バス停の場所が違っていたんですな。
≪名護から幸喜へ≫
幸喜へ向かうバスは、すぐに来ました。 女性運転手で、たまたまですが、前々日に、那覇空港から、幸喜まで乗ったバスと同じ人でした。 こちらのバスは、結構、混んでいました。 20分で到着。 朝は、420円でしたが、帰りは、名護バスターミナルから乗らなかったので、30円安くなって、390円。 うーむ、微々たるものか。 ホテルに着いたのが、6時半くらいでした。 徒歩で辺戸岬付近を彷徨している時は、絶望的な気分だった事を思うと、この時刻に帰って来れたのは、奇跡のようです。 無事に帰り着けて、本当に良かった。 家から遥かに離れた、遠い旅先で、強行軍など、決して、するものではありませんな。 もう、若くないんだし。 心臓も悪いんだし。
ホテルの部屋に戻ると、ちゃんと、掃除されて、タオル、寝巻きも、新しい物に換えられていました。 隠しておいた旅行鞄も、異常なし。 よしよし。
≪ホテルの夜≫
このホテルは、夕食もバイキングでしたから、これといった事もありません。 炎天下を歩いて、大汗を掻いたので、洗濯は、シャツと下着だけでなく、ズボンも洗いました。 ズボンを手だけで洗うのは、やはり、厳しい。 絞るのは、もっと厳しい。 絞りきれず、部屋の中に干していたら、雫が垂れて来て、慌てて、ユニット・バスへ戻すという、一幕もありました。 不様な事よ。
このホテル、三泊した事になりますが、同じく、三泊した、石垣島のホテルと比べて、あまり、印象が強くありません。 たぶん、私が、ホテル慣れして来て、細部の観察を怠るようになってしまったからでしょう。 宮古島のホテルは、逆の意味で、印象が強過ぎて、その後だったから、ここでは、これといった不満を感じなかったのかも知れません。 つまり、悪くはなかったわけだ。
≪八日目、まとめ≫
ある意味、この日が、一番、記憶に残る一日でした。 4時間20キロの徒歩行は、あまりにもきつい。 下調べがいい加減だった事が、大いに悔やまれます。 また、現地で、臨機応変な対応が取れなかった事も、大きな反省点です。 路線バスの旅に慣れていない弱点がもろに出て、「一日に、3本しかない」という事が、どれだけ怖い事か、認識していなかったんですな。 村営バスの他に、路線バスがあるかどうか、横着せずに、辺土名の人に訊いてみれば、歩いたりせずに済んだんですがねえ。
この日に使った交通費は、3360円。 飲食代が、452円。 合計、3812円。 貸切タクシーよりは、桁違いに安いですが、私の感覚では、結構な出費です。 せめて、スクーターでもあれば、千円以下で、同じルートを回って来れたんですが・・・。 旅先というのは、ままならないものです。
辺戸岬は、景勝地としては、一級品だと思いますが、鉄道もなし、路線バスもなし、村営バスは、一日三度来る、というのは、勿体ない限り。 道路は、いいんですがね。 しかし、他の観光地から離れ過ぎているので、ここだけを見に、一日使うという観光客は、少ないんでしょうなあ。
しかし、生来の貧乏性で、自他共に認める吝嗇家である私です。 せっかく、高い飛行機代を払って沖縄に来ているのに、ホテルに籠って一日過ごすなどという、勿体ない事ができるわけがないのであって、結局、どこかへ出かけなければ、済むはずがなかったのです。 そして、「自由に動いて良い」となった時、私は、必ず、強行軍をやらかすのです。 ゆとりある計画なんて、未だ嘗て、立てた事がありません。 心臓に爆弾を抱えているというのに、困ったもんだ。
≪ホテルの朝≫
「ホテルの朝」は、もういいというのに! なんで、毎回、そこから書き始めるかというと、日記を元にしているからなんですな。 日記には、その日に起こった出来事を、細大漏らさず、書いてあるので、どうしても、朝から始まってしまうという次第。 困ったもんだ。 すでに、沖縄旅行から帰って、二ヵ月近くが経過していて、頭の中の記憶があやふやになっているので、ますます、日記の記述に頼る事になり、その呪縛に強く絡め取られているのだと見ました。 処置なし・・・。
夜中の3時頃から、目覚めたり、また眠ったりを繰り返していましたが、6時を過ぎたので、本格的に起き出しました。 このホテルに、すでに二泊したので、さすがに、この日は掃除に入ってもらおうと思い、荷物を片付けました。 外出に持って行く物以外は、旅行鞄に戻し、その旅行鞄は、入口横のクローゼットに入れました。 掃除に入る人は、そんな所、簡単に開けられるので、隠しても意味はないのですが、少しでも、防犯意識があるという意思表示をしておいた方がいいだろうという、気休めです。
外出の仕度をした上で、6時55分頃、一階の食堂へ下りました。 もちろん、バイキング。 バスの時間があるので、少し少な目に取って、急いで食べました。 7時15分くらいには、食べ終わって、外へ。 国道58号線を渡るため、押しボタン信号の横断歩道へ。 押しボタンを押すと、すぐに、信号が変わり、車が停まりました。 静岡県では、信号が変わるまでに、数分待たされますが、沖縄県では、さっさと青にして、さっさと渡らせてしまう方式のようです。 そういや、北海道の苫小牧でも、その方式でした。 沖縄や北海道の人達が、静岡に来たら、押しボタン信号が、いつまで経っても変わらないので、さぞや、イライラする事でしょう。
≪犬≫
幸喜のバス停に向かいます。 バスを待っている間に、首輪を着けていない、一匹の小型犬が近づいて来て、私の周囲をうろつき始めました。 バス停のすぐ下に来て、一緒にバスを待っているようなそぶりを見せ、とても可愛らしい。 野良犬にしては、毛並みが綺麗なので、近所の家で放し飼いにされているのか、さもなければ、海水浴客が連れて来て、海で遊ばせている内に、はぐれてしまったのかも知れません。 飼ってくれる人間を探しているようにも見えましたが、こちらは、観光客なので、連れて行くわけには行きません。 胸が痛むのを堪えて、無視していたら、海側の茂みの方へ行ってしまいました。 その後、どうなった事やら。
≪幸喜から名護へ≫
バスは、少し遅れて、やって来ました。 しかし、まあ、来てくれれば、文句はありません。 名護までは、前日、タクシーで通った道です。 「名護十字路」バス停を過ぎて、終点の、「名護バスターミナル」まで行ってしまいましたが、考えてみたら、そこから先の、「辺土名」へ向かうバスは、結局、「名護十字路」を通るので、そこで下りて、待っていれば、いくらか安かったのです。 知らないというのは、悲しいこってすな。 幸喜から、名護バスターミナルまで、20分くらい。 8時頃には着きました。
記録を取っておくのを忘れてしまったのですが、幸喜から、名護バスターミナルまで、確か、420円だったと思います。 500円玉を両替した記憶があるので、500円以上でなかったのは、間違いないです。 バスは、領収書もレシートも出ないのが、不便ですな。 インテリジェント運賃箱なのだから、レシートくらい出してくれても、いいと思うのですがね。 100円ショップだって、レシートは、くれるというのに。
名護のバス・ターミナルは、かなり、広々していて、行き先ごとにバス停が違う、普通の方式でした。 私は、この方が、安心できます。 ここのトイレで、小用。 朝食を食べた後、すぐに出かけると、必ず、尿意や便意に襲われるようになったのは、この旅行に出てからです。 食べて、すぐ寝るのは、よくないと言いますが、食べて、すぐ動くのも、負けず劣らず、よくないのかも知れません。 運動すると、腸や膀胱が刺激されてしまうんでしょうなあ。
≪名護から辺土名へ≫
8時30分に、辺土名行きのバスが入って来て、出発。 ここで、ちょっと、はっきりさせておきますと、この日の私の目的地は、沖縄本島の北端にある、≪辺戸岬≫です。 本島北部の北西海岸沿いの道、国道58号線を、路線バスを乗り継いで行こうという計画。 来る前に、ネットで調べて、バス路線が繋がっている事は、確認済みでした。 問題は、時間ですな。 最悪でも、夕食の締め切り時間までに帰って来れないとまずいので、あまり、ゆとりはありません。 地図で見ると分りますが、同じ北部でも、幸喜から、辺戸岬までは、相当な距離があります。 本島の全長の、5分の2くらいはあると思います。 北部が、いかに大きいかが分かろうというもの。
乗り換えポイントは、「名護バスターミナル」と、「辺土名バスターミナル」です。 非常に、紛らわしいのですが、「辺戸岬」の「辺戸」は、「へど」と読むのに対し、「辺土名」は、「へんとな」と読みます。 辺戸岬の近くには、「辺戸」という集落があり、辺土名と辺戸は、全く別の場所です。 よく見ると、一方は、「土」、もう一方は、「戸」で、字も違う。 しかし、この両者を混同して、自分がどこに向かっているのか、どこにいるのか、混乱を来たしてしまう旅行者は、少なからずいるんじゃないでしょうか。
最初、バスの一番後ろの席に座ったのですが、この車体、大昔の観光バスを流用しているらしく、側面の窓のみならず、後ろの窓まで、年季が入って、汚れがこびりつき、写真が撮れません。 これでは、勿体ないと思い、信号待ちで停車するタイミングを見計らって、一番前の席に移りました。 幸い、名護から、辺土名まで、私一人しか乗っていなかったので、そういう事をしても、人の迷惑にはなりませんでした。 さすがに、フロント・ウインドウは、綺麗に磨いてありました。
名護から、辺土名までは、1時間くらい、乗ったと思います。 9時半頃、辺土名の街に入りましたが、そこで、運転手さんが、「どこまで行くの? 北の方?」と訊いて来たので、「辺戸岬」と答えたら、辺土名バスターミナルよりも手前のバス停で、下りるように言われました。 そこのバス停名を見て来なかったのですが、すぐ近くに、「国頭村営バス乗り場」があり、そこから、村営バスで、辺戸岬へ向かうようなのです。 ここまでの料金は、1050円で、終点まで乗っても変わりません。 「国頭村」は、「くにがみそん」と読みます。 本島の北の端を占める自治体で、辺土名も辺戸岬も、その中に含まれます。
≪辺戸岬への徒歩行≫
村営バスの待合所があり、そこへ行って、時刻表を見たら、一日に、3本しかなく、次の便は、なんと、12:00になっています。 この時点で、まだ、9時半ですぜ。 「変だな・・・。 確か、ネットで調べた時には、もっと本数があったような気がしたんだが・・・。 村営バス以外に、バス会社の路線バスがあるんじゃないのか?」と、疑ってしまったのが、運の尽き・・・。 「2時間半も、待ってられん。 とりあえず、歩いて先へ進み、途中のバス停で、バスを拾う事にしよう」と、一見、妥協案として筋が通ったような事を思いついてしまったばっかりに、この後、地獄を見る羽目になりました。
いや、実は、歩きたかったという気持ちも、あるにはあったんですがね。 元気だったのは、最初の内だけ。 強烈な日差しに照りつけられながら、一時間も歩くと、目に見えて、弱って来ました。 しかも、行けども行けども、バス停らしいバス停がありません。 それらしい場所があっても、バス停名が出ていないし、時刻表も貼ってないのです。 見たところ、随分前に、撤去されたという感じ。 最初の一つ二つは、そこのバス停が廃止されたのだと思っていましたが、どこまで行っても、そんなのばかりだと、バスが通っているのかどうかすらも、疑わしくなって来ます。 もしや、とっくに廃線になっているのでは? だけど、辺土名には、乗り場があったしなあ・・・。 わけ分からん。
歩くこと、2時間。 辺土名から、10キロも来てしまいました。 辺土名から辺戸岬までは、20キロなので、もう半分歩いてしまった事になります。 こうなると、また、強行軍好きの悪い癖が出て、「半分歩けたのだから、いっそ、このまま、辺戸岬まで歩いてしまえ」などと、後先考えぬ思い付きが出て来るのです。 この時点で、脚は棒になり、靴底は磨り減って、穴が開き、足の裏には、血膨れまで出来ていたのですが、一度決めると、やり抜かなければ、負けたような気がして、やめられないのです。 病気だね、これは。
快晴というわけではなく、雲もあったのですが、歩いた全行程の、9割くらいは、直射日光を浴びていました。 顔や首筋、腕が、日焼けしてヒリヒリして来ます。 帽子を、風に飛ばされないように、後ろ向きに被っていたら、額に、アジャスターの穴の跡が、くっきり焼けて、残ってしまいました。 唯一の慰めは、乗り物に乗っていないので、写真だけは、鮮明なのが撮れた事くらい。 左側は、海。 砂浜がある所と、低い崖になっている所があります。 右側は、やんばるの山林で、ポツンポツンと集落があります。 所々、トンネルあり。
その後、どこかで、国頭村営バスに追い抜かれました。 たぶん、それが、12:00発の便だったんでしょう。 そこに至るまで、バス停らしいバス停は見つけられず、「どうやったら、あのバスに乗れたのだろう?」と、首を傾げっぱなしでした。 この時点で、私はまだ、村営バスの他に、バス会社の路線バスがあるのではないかと思っていました。 海岸線沿いの道ではなく、内陸に道があって、そちらを通っているのではないかと・・・。 しかし、そんな路線は存在せず、そもそも、内陸の道もなかったのです。 ネットで調べた時、何かを間違えていたんですな。
やがて、辺戸岬前の最後の集落に差しかかりました。 「宜名真(ぎなま)」という所。 「茅打ちバンタ」の案内標識あり。 「かやうちばんた」と読みます。 高い断崖の事で、上から、束ねた茅を落とすと、途中でバラバラになるから、そんな名前がついたのだそうです。 その事は、母が、39年前に買ったガイド・ブックに出ていたので知っていました。 宜名真の集落から、そこへ登って行く道があるのですが、宜名真に差しかかる前に、「もしや、あそこが、茅打ちバンタでは?」と思って、遠くから、断崖の写真を撮っておいて、正解でした。 断崖は、上から見ても、なかなか、凄さが分かりませんからのう。
≪戻る道≫
集落の山側の坂を登って行きます。 脚も足も、へろへろになっている状態で、坂を登るのは、きついっすねー・・・。 また、茅打ちバンタに登るまでの道が、「戻る道」という名前がついて、ガイド・ブックに、わざわざ載っているくらいで、昔は、難所だった所。 宜名真の集落には、平地が少ないので、茅打ちバンタの先にある、「辺戸上原」という高地まで、畑を作りに行っていたらしいのですが、その道が凄く狭くて、向こうから人が来ると、すれ違えずに、片方がバックするしかなかったので、「戻る道」という名前がついたのだとか。
ただし、今では、道幅が広げられているので、それほど、険しいわけではありません。 この拡幅工事、1913年に行なわれたのですが、地元の小学校の校長が言い出して、役所に掛け合ったものの、相手にされず、村人だけで始めたら、ようやく、役所の支援が得られ、完成したのだとか。 「なぜ、校長が音頭を?」というと、村の家々が貧しくて、子供が学校に来ないので、「貧しいのは、畑に行く道が狭いからだ」と考え、まずそこから手をつけたという事情だったようです。
観光資源としてみると、「戻る道」は、そのまま残しておいた方が、面白かったとも思えますが、それは、海側に、新しい道が出来ている今だから言える事で、1913年から、1983年まで、70年間も、この拡幅された「戻る道」が、宜名間集落から辺戸上原へ向かう唯一の道だった事を考えれば、この工事の果たした意味の重さが分かろうというもの。 70年は長いで。
≪茅打ちバンタ≫
坂を登りきると、茅打ちバンタの上に出ました。 展望所がありましたが、建物は、休憩所のあずまやがあるだけです。 予想していた通り、上からでは、崖そのものが見えるわけではないので、あまり、面白くはありませんでした。 鉄コンで、ちょっと頑丈な建物を造り、崖から突き出した部分を設けて、床下にガラスでも嵌めれば、高さ・怖さが、よく分かると思うのですがね。 逆に、怖過ぎるかな?
崖自体は見えませんが、その下の海は、よく見えます。 珊瑚礁が、はっきり見えて、「グレート・バリア・リーフ」の航空写真を、ミニマムにしたような景色が拝めます。 こういう眺めは、他では、ちょっと、見られないのかもしれませんが、テレビで、世界各地の絶景ばかり見慣れてしまっていると、あまり、感動を覚えないのは、困った事です。
それよりも、戻る道にせよ、茅打ちバンタにせよ、39年前のガイド・ブックに載っている名所へ、実際に来ていると思うと、そちらの方で、じわじわした感動が湧いて来るものですな。 退職して、沖縄旅行に来れて、本当に良かったなあ。 よくぞ、変わらずに、私が来るのを待っていてくれた。 いや・・・、別に、私を待っていたわけではないか。
≪辺戸上原≫
ガイド・ブックによると、茅打ちバンタから北側の高地を、「辺戸上原」という模様。 更に先に進みます。 ここまで来れば、辺戸岬は、「すぐそこ」のはずですが、徒歩の私には、油断ならぬ距離がありました。 距離だけでなく、アップ・ダウンまであったのは、きつかった。 一度、「もうすぐだ」と思ってしまってから、まだ先があると、心理的なダメージが大きいです。
途中、小学校あり。 その名も、「北国小学校」。 沖縄なのに、「北国」とは、峻烈な違和感がありますが、確かに、本島の北の端なのですから、北国と言っても、虚偽でも、誇張でもありません。 卒業式や入学式では、「北国の春」を歌うんでしょうか? んーなこたーないか。 ちなみに、「きたぐに」ではなく、「きたくに」と読むらしいです。
少し行くと、≪大石林山≫という観光施設の入口前を通りました。 大きな岩山と、その周辺に広がる天然林の奇観を見せる、自然公園です。 たまたま偶然ですが、旅行に出る前に、テレビで、そこを取り上げた番組を見ていて、面白そうだとは思ったのですが、入場料が820円と、そこそこするのもさる事ながら、時間的に、見て回るゆとりがなかろうと思い、行く前から、入らない事に決めていました。 で、素通り。
≪辺戸岬≫
国道58号線を横切り、また、しばらく歩くと、ようやく、辺戸岬に到着しました。 距離にして20キロ、時間にして4時間、歩き詰めに歩いたせいで、もう、へろへろです。 いくら、強行軍好きとはいえ、これ以上は歩けないので、帰りは是が非でも、バスに乗らなければなりません。 で、岬に着くなり、真っ先に探したのが、バス停。 しかし、無情な事に、ここでも、それらしい物は見当たりません。 おかしい! 確かに、国頭村営バスは通っているのに、なぜ、バス停がないのか?
ここまで来る途中、「辺戸岬こうようパーラー」という案内看板を、どこがで見ていて、辺戸岬に店があるようなので、そこで聞けば分かるかと、期待していたんですが、着いてみると、確かに、その名の建物はあったものの、シャッターが閉まっていました。 平日だから、休み? 観光客は、結構いたんですがねえ。
自動販売機だけはあったので、とりあえず、脱水状態を脱しようと、500ccペットボトルのコーラを買いましたが、一気飲みしてしまい、ペットボトルで買った意味がなくなってしまいました。 それどころか、500飲んでも、まだ足りない。 ちなみに、ホテルから持って来た、500ccペットボトルの水は、とっくに飲み干してしまっていました。
バス停と水分補給は、さておいて、辺戸岬を見ます。 断崖絶壁、打ち寄せる白波、カルスト地形、北の彼方に与論島の島影・・・、とにかく、ダイナミック! 確かに、見に来る価値はありました。 徒歩でなければ、尚良かった・・・。 石碑やモニュメントが、いくつも立っていますが、一つ二つならともかく、それ以上あると、ちと、くどい。 むしろ、せっかくの雄大な自然風景を損なってしまっている観あり。
しばらく、休みたいところですが、帰りのバスが心配で、おちおち座ってもいられません。 マップ看板があったので、それを見てみると、バス停が載っていました。 岬から南へ行くと、「辺戸」集落があり、そこにバス停のマークが描いてあります。 とりあえず、帰りのバスの時間を確認しなければならないので、そちらへ向かったのですが、地図を、しっかり見ていなかったせいで、道を間違えて、まるで違う所へ出てしまいました。 集落の家並みだと思って目指していたのが、近付いてみると、墓地で、びっくり! 沖縄のお墓は、大きいから、墓地を遠くから見ると、村に見えるんですな。
そこまで、かなりの距離、急坂を下って来たので、「また、戻るのか・・・」と思うと、げんなり・・・。 ちなみに、そこからは、「ヤンバルクイナ展望台」が見えました。 ヤンバルクイナが見えるのではなく、ヤンバルクイナの形をした展望台なのです。 下調べをした限りでは、辺戸岬周辺では、かなり有名なスポットだとの事。 海を見下ろす小高い山の上にあり、見るからに、見晴らしが良さそうですが、この時の、私の脚の状態では、とても、そこまで登って行けそうになかったので、諦めました。
急坂を登って、辺戸岬の方へ戻り、国道58号線に出て、左折。 辺戸村の方へ歩いて行くと、やがて、バス停にぶつかりました。 喜んだのも束の間、ここにも、バスの時刻表はなくて、お祭り用の臨時時刻表だけが貼ってありました。 途方に暮れるとは、この事です。 ホテルに帰れない恐れが現実味を帯びて来ました。 最悪、タクシーを呼ばなければならないのか? いくらかかるんだ? 顔色、真っ青だな・・・。
≪辺戸共同売店≫
藁にも縋る気持ちで、辺戸村へ入り、案内看板に従って、「辺戸共同売店」という所を目指します。 村は傾斜地にあり、平らな道がありません。 この上、更に、坂を登らねばならんとは、もう、修験者だね。 共同売店は、鉄コンの平屋の建物でした。 建てられてから、かなり、風雪を経ている外観。 食品雑貨店という感じですかね。 冷房なし、扉は全開、扇風機活躍中。 店番は、お婆さんが一人。 新聞を読んでいました。
何も買わずに、質問するのも悪いので、メロン味のカップ入り氷菓を買いました。 86円。 バス停の場所を訊くと、「朝は、この店の前にも来るが、午後は分からないから、国道の方のバス停で待った方が良い」との事。 時刻表がないか訊いたら、店の出入口のガラス戸に、紙が貼ってありました。 次の便は、16:09で、それが最終です。 この時、まだ、午後2時半頃だったので、一時間半ばかり待つ事になりますが、とりあえず、辺土名までは帰れる事が確実になったので、ほっと、一安心しました。 それはいいとして、どこで待つかが問題だな。
買った氷菓を、店の外で食べ始めたんですが、日差しが強くて、とても、立っていられません。 軒下に入ったら、店番のお婆さんが、「隣の事務所の方が涼しい」と勧めてくれました。 建物は一つなんですが、店の隣に、「辺戸区事務所」という、町内会の集会所のようなものがあるのです。 中に、テーブルとパイプ椅子が、会議室風の配置で、並べてありました。 こちらも、扉は開放してありましたが、窓が閉まっていたので、風が通りません。 誰もいないのをいい事に、窓を開けて、涼みました。 水道と流しがあったので、おしぼりタオルを濡らして、顔を拭き、頭の載せて、クール・ダウンします。 一円の区費も払っていない、純然たるよそ者なのに、こんなに寛いでしまって、いいのだろうか?
氷菓一つでは足りず、また、店に行って、もう一つ、同じ物を買い、食べました。 それでも、まだ、喉が渇くので、自動販売機で、缶入りの500ccコーラを一本。 さすがに、これは、全部飲めず、辺戸岬で買った空のペットボトルに移して、残しましたが、それも、帰りのバスで、全部飲んでしまいました。 辺土名から、辺戸岬まで、行きのバス代を節約できたかと思っていたんですが、徒歩行で脱水した分、コーラと氷菓で、452円も使ってしまったので、疲れただけで、ほとんど得になりませんでした。 策士、策に溺れる・・・、いや、それほどの事でもないか。
これから、バスを乗り継いで、辺戸岬へ行こうと考えている、お若い方々よ。 辺土名で、国頭村営バスが来るまで、どんなに時間が開いていようと、決して、「歩いて行こう」などと考えてはいかん。 疲労困憊して、体を壊すのが落ちじゃ。 時間があったら、辺土名の街の中でも、散策していればいいのじゃ。 海岸線を延々と歩くより、そちらの方が、どれだけ有意義が知れん。 ≪ローカル路線バス乗り継ぎの旅≫で、蛭子さんも言っていたではないか。 「バスの旅なんだから、歩くなんて、禁止してもいいくらいだよ」と。 正に、その通りなのじゃ。
そういえば、私が、店にいる間に、村人と思われる、年配の男性がやって来て、店番のお婆さんと二人で、土地の言葉で話をしました。 さすが、ネイティブ同士、私には全く理解できなかったのが、実に面白かったです。 やはり、その土地の言葉を聞かないと、遠くまで旅行に来た甲斐がありません。 店番のお婆さんは、私と喋る時には、日本語の標準語でしたから、この方達は、かなり高度なバイリンガルなんですな。
事務所で、3時まで粘った後、開けた窓を閉め、テーブルの上を拭いて、旧状回復し、外へ出ました。 氷菓のカップや、コーラの空き缶は、捨てる所がないので、ナップ・ザックに入れて、持って帰りました。 そういや、沖縄の旅では、自動販売機があっても、缶を捨てるゴミ箱は、一つも見かけませんでした。 自動販売機の周囲の美観を考えれば、その方がいいわけですが、観光客の場合、結局、ホテルで、部屋に置いて行く事になり、どこかで、気が咎める行為をする事になるわけですな。
≪義本王の墓≫
国道58号線に戻り、バス停の近くの山側にある、「義本王の墓」へ向かいました。 これは、辺戸岬のマップで見て、知り、バス停に向かう途上、入口を確認していたんですが、バス停の確認を優先して、素通りしていた所。 時間があるのなら、寄らぬ手はなし。 山の中へ、階段と石段を登って行きます。 ハブに咬まれては敵わんので、藪は慎重に避けました。 石垣島の貸切タクシーの運転手さんに、最初に注意してもらったのが、こういう場面で生きて来ます。 ものの、5分ほどで、到着。 石垣で囲まれた中に、ヒンプンを持つ、家型の石造の墓がありました。 亀甲墓とは違い、石の屋根が載っています。
「義本王」は「ぎほんおう」と読み、沖縄最初の王統である、舜天王朝の第三代の王で、即位したのは、1249年。 第一尚氏王朝の成立より、ずっと前で、まだ、琉球王国ではなかったから、「沖縄の王」としか言いようがないわけですな。 飢饉・天災・疫病の責任を取って、次期王統の開祖である、英祖に譲位したのだそうです。 なぜ、こんなに北の方に墓があるのかに関しては、追放されたという説があるのだとか。 墓は、近年に修復されているのが明らかで、ちと、綺麗過ぎでした。 実際の建築年も、よく分かりません。
≪蔡温松並木≫
58号へ戻り、今度は、海側の、林の中へ。 この一体は、森林公園のようになっていて、遊歩道が整備されています。 並木という感じではありませんが、大きな松がたくさんあります。 「蔡温(さいおん)」というのは、琉球王国の宰相で、薩摩の侵略の後、荒廃した国土を立て直す事業の一環として、ここに松並木を作ったのだそうです。 松とはいうものの、全て、リュウキュウマツでして、クロマツとも、アカマツとも、見た目の感じが、だいぶ違います。 幹は、それほど太くならないようですが、自然に、松らしい枝ぶりになるようで、姿のいい樹種です。
森の中を進んで行くと、辺戸集落の一部を通り、また、森へ入って行くという、不思議な地理。 そこいらで、バスの時間が近づいて来たので、引き返しました。 ヤンバルクイナ展望台に行けなかったのは残念ですが、まずまず、見るべき程の物は見たというところでしょうか。 バスに乗って帰れるだけ、ありがたいと思わなければなりますまい。
≪国頭村営バス≫
バスは、5分くらい遅れて、道の向こうに、姿を表しました。 しかし、真っ直ぐに、こちらへは来ずに、辺戸の集落へ入って行きました。 共同売店の前で停まり、公民館の前で停まり、ようやく、道に戻って、バス停へ向かって来ました。 どうやら、バス停以外の場所も、乗客がいないか確認しながら、走っている模様。
マイクロバスで、乗客は私一人でした。 走り出すと、辺戸岬の方へも下りて行きました。 上述したように、バス停はないのですが、それとは関係なしに、乗る人がいないか、見に行くわけです。 いやあ、しかし、そういうシステムだとは、観光客には、とても見抜けませんなあ。 やはり、バス停らしいものを置いておいた方が、いいと思うんですが・・・。
分かった分かった。 つまり、なんだ。 辺戸岬に、路線バスで来るなんて観光客は、滅多にいないわけだ。 みんな、レンタカーや、観光バスで来るわけですな。 そういや、前日に乗った貸切タクシーの運転手さんも、「辺戸岬の方には、数年に一度くらいしか行きませんよ」と言っていました。 この村営バスは、観光客用ではなく、地元の人向けで、車を持っていない人の足として、運営されているのでしょう。
あ~、バスは楽だな~。 しかも、このマイクロバス、車体が新しくて、窓も汚れておらず、外がよく見えるのです。 こんないいバスなら、行きも乗って来れば、外の写真だって、うまく撮れたものを。 何も、4時間20キロも歩くこたーなかったんだよ、馬鹿だね、あたしゃ。 靴に穴を開け、靴下にも穴を開け、足の裏に血膨れを拵えただけ、損したわけです。 右足の人差し指は、爪が内出血して、黒くなり、その後、二ヶ月も治りませんでした。
ラジオで、琉球民謡の番組をやっていましたが、これが、いいんだわ。 特に、女性の謡い手の声が、実に美しい。 天上の音色とは、これの事か。 私は、日本の民謡を聞くと、脳味噌をスプーンで掻き回されているような、言語道断的不快感を覚えるのですが、なんで、琉球民謡は、こんなに美しく聞こえるのか、理由が分かりません。 他に、演歌、オペラ歌手の発声、女性グループ・アイドルの合唱なども、想像するだけで虫唾が走るのですが、同じ、女性の声なのに、なぜ、琉球民謡だけ綺麗に聞こえるのか、全く分からない。
見ていると、村営バスは、各集落ごとに、中の方へ入って行って、公民館前など、決まった場所へ行き、乗る人がいないか確認している様子。 停まった時に、運転手さんに、国道沿いのバス停について訊いてみたところ、「バス停で待っていれば、もちろん停まるが、バス停でなくても、手を挙げれば、停まる」との事。 な・ん・だ・・・、そ・う・だ・ったん・で・す・か・・・。 でも、往路に於ける私の場合、後ろから抜かれたわけで、バスが近づいている事自体に気づかなかったから、手を挙げる事もできなかったわけです。 抜かれた後、後ろから、手を振って追いかければ、停まってくれたんでしょうけど、そもそも、そのシステムを知らんのだから、話になりませんなわあ。
40分ほどで、「辺土名バスターミナル」に着きました。 運転手さんの話では、そこで待っていれば、名護行きのバスが来るとの事。 村営バスの料金は、辺戸から、ここまで、500円でした。
≪辺土名から名護へ≫
ここで、すでに、午後5時。 でも、西にある沖縄なので、まだまだ、カンカンに明るいです。 路線バスは、すぐに来ましたが、出発は、5:15だというので、少し待ちました。 このターミナル、待合所があるだけで、バス会社の事務所のようなものはありません。 ただの、街なかの空き地という感じ。 所在ないので、辺土名の街を、少し歩いてみましたが、商店街があり、まずまず大きな街でした。 国頭村の中心地である様子。
5時15分に出発。 朝通った道を、戻るだけです。 乗客は、しばらくの間、私一人だけで、途中から、一人二人乗って来ましたが、地元の人達らしく、すぐに下りて行きました。 50分くらい走って、「名護十字路」で、下車。 事前に、運転手さんに、「幸喜に行きたいんですが、名護十字路で乗り換えればいいんですね?」と確認しておいたので、ここで間違いなし。 料金は、名護バスターミナルまで行かなかったので、朝より50円安い、1000円でした。 下りる時、運転手さんが、「バス停の場所は分かりますか?」と言って、先にある交差点を左に曲がるような手振りをしました。 それを教えてもらって、応じ合わせ。 危なく、迷うところでした。 同じ、「名護十字路」でも、路線によって、バス停の場所が違っていたんですな。
≪名護から幸喜へ≫
幸喜へ向かうバスは、すぐに来ました。 女性運転手で、たまたまですが、前々日に、那覇空港から、幸喜まで乗ったバスと同じ人でした。 こちらのバスは、結構、混んでいました。 20分で到着。 朝は、420円でしたが、帰りは、名護バスターミナルから乗らなかったので、30円安くなって、390円。 うーむ、微々たるものか。 ホテルに着いたのが、6時半くらいでした。 徒歩で辺戸岬付近を彷徨している時は、絶望的な気分だった事を思うと、この時刻に帰って来れたのは、奇跡のようです。 無事に帰り着けて、本当に良かった。 家から遥かに離れた、遠い旅先で、強行軍など、決して、するものではありませんな。 もう、若くないんだし。 心臓も悪いんだし。
ホテルの部屋に戻ると、ちゃんと、掃除されて、タオル、寝巻きも、新しい物に換えられていました。 隠しておいた旅行鞄も、異常なし。 よしよし。
≪ホテルの夜≫
このホテルは、夕食もバイキングでしたから、これといった事もありません。 炎天下を歩いて、大汗を掻いたので、洗濯は、シャツと下着だけでなく、ズボンも洗いました。 ズボンを手だけで洗うのは、やはり、厳しい。 絞るのは、もっと厳しい。 絞りきれず、部屋の中に干していたら、雫が垂れて来て、慌てて、ユニット・バスへ戻すという、一幕もありました。 不様な事よ。
このホテル、三泊した事になりますが、同じく、三泊した、石垣島のホテルと比べて、あまり、印象が強くありません。 たぶん、私が、ホテル慣れして来て、細部の観察を怠るようになってしまったからでしょう。 宮古島のホテルは、逆の意味で、印象が強過ぎて、その後だったから、ここでは、これといった不満を感じなかったのかも知れません。 つまり、悪くはなかったわけだ。
≪八日目、まとめ≫
ある意味、この日が、一番、記憶に残る一日でした。 4時間20キロの徒歩行は、あまりにもきつい。 下調べがいい加減だった事が、大いに悔やまれます。 また、現地で、臨機応変な対応が取れなかった事も、大きな反省点です。 路線バスの旅に慣れていない弱点がもろに出て、「一日に、3本しかない」という事が、どれだけ怖い事か、認識していなかったんですな。 村営バスの他に、路線バスがあるかどうか、横着せずに、辺土名の人に訊いてみれば、歩いたりせずに済んだんですがねえ。
この日に使った交通費は、3360円。 飲食代が、452円。 合計、3812円。 貸切タクシーよりは、桁違いに安いですが、私の感覚では、結構な出費です。 せめて、スクーターでもあれば、千円以下で、同じルートを回って来れたんですが・・・。 旅先というのは、ままならないものです。
辺戸岬は、景勝地としては、一級品だと思いますが、鉄道もなし、路線バスもなし、村営バスは、一日三度来る、というのは、勿体ない限り。 道路は、いいんですがね。 しかし、他の観光地から離れ過ぎているので、ここだけを見に、一日使うという観光客は、少ないんでしょうなあ。