2014/09/28

辺戸岬へ歩く

  沖縄旅行記の八日目です。 7月29日(火)ですな。 ○△商事が策定した、この日の予定は、「フリー・タイム」。 しかし、幸喜のホテルから行ける観光地は、本部半島に集中しており、そこは、前日に回ってしまったので、もはや、近場に見る所はありません。 恐らく、○△商事の担当者としては、旅行に出てから、一週間になる日なので、体を休ませる傍ら、ホテルの宿泊費だけで一日過ごさせ、予算を節約しようという計算だったのでしょう。

  しかし、生来の貧乏性で、自他共に認める吝嗇家である私です。 せっかく、高い飛行機代を払って沖縄に来ているのに、ホテルに籠って一日過ごすなどという、勿体ない事ができるわけがないのであって、結局、どこかへ出かけなければ、済むはずがなかったのです。 そして、「自由に動いて良い」となった時、私は、必ず、強行軍をやらかすのです。 ゆとりある計画なんて、未だ嘗て、立てた事がありません。 心臓に爆弾を抱えているというのに、困ったもんだ。


≪ホテルの朝≫
  「ホテルの朝」は、もういいというのに! なんで、毎回、そこから書き始めるかというと、日記を元にしているからなんですな。 日記には、その日に起こった出来事を、細大漏らさず、書いてあるので、どうしても、朝から始まってしまうという次第。 困ったもんだ。 すでに、沖縄旅行から帰って、二ヵ月近くが経過していて、頭の中の記憶があやふやになっているので、ますます、日記の記述に頼る事になり、その呪縛に強く絡め取られているのだと見ました。 処置なし・・・。

  夜中の3時頃から、目覚めたり、また眠ったりを繰り返していましたが、6時を過ぎたので、本格的に起き出しました。 このホテルに、すでに二泊したので、さすがに、この日は掃除に入ってもらおうと思い、荷物を片付けました。 外出に持って行く物以外は、旅行鞄に戻し、その旅行鞄は、入口横のクローゼットに入れました。 掃除に入る人は、そんな所、簡単に開けられるので、隠しても意味はないのですが、少しでも、防犯意識があるという意思表示をしておいた方がいいだろうという、気休めです。

  外出の仕度をした上で、6時55分頃、一階の食堂へ下りました。 もちろん、バイキング。 バスの時間があるので、少し少な目に取って、急いで食べました。 7時15分くらいには、食べ終わって、外へ。 国道58号線を渡るため、押しボタン信号の横断歩道へ。 押しボタンを押すと、すぐに、信号が変わり、車が停まりました。 静岡県では、信号が変わるまでに、数分待たされますが、沖縄県では、さっさと青にして、さっさと渡らせてしまう方式のようです。 そういや、北海道の苫小牧でも、その方式でした。 沖縄や北海道の人達が、静岡に来たら、押しボタン信号が、いつまで経っても変わらないので、さぞや、イライラする事でしょう。


≪犬≫
  幸喜のバス停に向かいます。 バスを待っている間に、首輪を着けていない、一匹の小型犬が近づいて来て、私の周囲をうろつき始めました。 バス停のすぐ下に来て、一緒にバスを待っているようなそぶりを見せ、とても可愛らしい。 野良犬にしては、毛並みが綺麗なので、近所の家で放し飼いにされているのか、さもなければ、海水浴客が連れて来て、海で遊ばせている内に、はぐれてしまったのかも知れません。 飼ってくれる人間を探しているようにも見えましたが、こちらは、観光客なので、連れて行くわけには行きません。 胸が痛むのを堪えて、無視していたら、海側の茂みの方へ行ってしまいました。 その後、どうなった事やら。




≪幸喜から名護へ≫
  バスは、少し遅れて、やって来ました。 しかし、まあ、来てくれれば、文句はありません。 名護までは、前日、タクシーで通った道です。 「名護十字路」バス停を過ぎて、終点の、「名護バスターミナル」まで行ってしまいましたが、考えてみたら、そこから先の、「辺土名」へ向かうバスは、結局、「名護十字路」を通るので、そこで下りて、待っていれば、いくらか安かったのです。 知らないというのは、悲しいこってすな。 幸喜から、名護バスターミナルまで、20分くらい。 8時頃には着きました。

  記録を取っておくのを忘れてしまったのですが、幸喜から、名護バスターミナルまで、確か、420円だったと思います。 500円玉を両替した記憶があるので、500円以上でなかったのは、間違いないです。 バスは、領収書もレシートも出ないのが、不便ですな。 インテリジェント運賃箱なのだから、レシートくらい出してくれても、いいと思うのですがね。 100円ショップだって、レシートは、くれるというのに。

  名護のバス・ターミナルは、かなり、広々していて、行き先ごとにバス停が違う、普通の方式でした。 私は、この方が、安心できます。 ここのトイレで、小用。 朝食を食べた後、すぐに出かけると、必ず、尿意や便意に襲われるようになったのは、この旅行に出てからです。 食べて、すぐ寝るのは、よくないと言いますが、食べて、すぐ動くのも、負けず劣らず、よくないのかも知れません。 運動すると、腸や膀胱が刺激されてしまうんでしょうなあ。

名護バスターミナル



≪名護から辺土名へ≫
  8時30分に、辺土名行きのバスが入って来て、出発。 ここで、ちょっと、はっきりさせておきますと、この日の私の目的地は、沖縄本島の北端にある、≪辺戸岬≫です。 本島北部の北西海岸沿いの道、国道58号線を、路線バスを乗り継いで行こうという計画。 来る前に、ネットで調べて、バス路線が繋がっている事は、確認済みでした。 問題は、時間ですな。 最悪でも、夕食の締め切り時間までに帰って来れないとまずいので、あまり、ゆとりはありません。 地図で見ると分りますが、同じ北部でも、幸喜から、辺戸岬までは、相当な距離があります。 本島の全長の、5分の2くらいはあると思います。 北部が、いかに大きいかが分かろうというもの。

  乗り換えポイントは、「名護バスターミナル」と、「辺土名バスターミナル」です。 非常に、紛らわしいのですが、「辺戸岬」の「辺戸」は、「へど」と読むのに対し、「辺土名」は、「へんとな」と読みます。 辺戸岬の近くには、「辺戸」という集落があり、辺土名と辺戸は、全く別の場所です。 よく見ると、一方は、「土」、もう一方は、「戸」で、字も違う。 しかし、この両者を混同して、自分がどこに向かっているのか、どこにいるのか、混乱を来たしてしまう旅行者は、少なからずいるんじゃないでしょうか。

  最初、バスの一番後ろの席に座ったのですが、この車体、大昔の観光バスを流用しているらしく、側面の窓のみならず、後ろの窓まで、年季が入って、汚れがこびりつき、写真が撮れません。 これでは、勿体ないと思い、信号待ちで停車するタイミングを見計らって、一番前の席に移りました。 幸い、名護から、辺土名まで、私一人しか乗っていなかったので、そういう事をしても、人の迷惑にはなりませんでした。 さすがに、フロント・ウインドウは、綺麗に磨いてありました。

名護から辺土名へ向かう道


  名護から、辺土名までは、1時間くらい、乗ったと思います。 9時半頃、辺土名の街に入りましたが、そこで、運転手さんが、「どこまで行くの? 北の方?」と訊いて来たので、「辺戸岬」と答えたら、辺土名バスターミナルよりも手前のバス停で、下りるように言われました。 そこのバス停名を見て来なかったのですが、すぐ近くに、「国頭村営バス乗り場」があり、そこから、村営バスで、辺戸岬へ向かうようなのです。 ここまでの料金は、1050円で、終点まで乗っても変わりません。 「国頭村」は、「くにがみそん」と読みます。 本島の北の端を占める自治体で、辺土名も辺戸岬も、その中に含まれます。


≪辺戸岬への徒歩行≫
  村営バスの待合所があり、そこへ行って、時刻表を見たら、一日に、3本しかなく、次の便は、なんと、12:00になっています。 この時点で、まだ、9時半ですぜ。 「変だな・・・。 確か、ネットで調べた時には、もっと本数があったような気がしたんだが・・・。 村営バス以外に、バス会社の路線バスがあるんじゃないのか?」と、疑ってしまったのが、運の尽き・・・。 「2時間半も、待ってられん。 とりあえず、歩いて先へ進み、途中のバス停で、バスを拾う事にしよう」と、一見、妥協案として筋が通ったような事を思いついてしまったばっかりに、この後、地獄を見る羽目になりました。

  いや、実は、歩きたかったという気持ちも、あるにはあったんですがね。 元気だったのは、最初の内だけ。 強烈な日差しに照りつけられながら、一時間も歩くと、目に見えて、弱って来ました。 しかも、行けども行けども、バス停らしいバス停がありません。 それらしい場所があっても、バス停名が出ていないし、時刻表も貼ってないのです。 見たところ、随分前に、撤去されたという感じ。 最初の一つ二つは、そこのバス停が廃止されたのだと思っていましたが、どこまで行っても、そんなのばかりだと、バスが通っているのかどうかすらも、疑わしくなって来ます。 もしや、とっくに廃線になっているのでは? だけど、辺土名には、乗り場があったしなあ・・・。 わけ分からん。

  歩くこと、2時間。 辺土名から、10キロも来てしまいました。 辺土名から辺戸岬までは、20キロなので、もう半分歩いてしまった事になります。 こうなると、また、強行軍好きの悪い癖が出て、「半分歩けたのだから、いっそ、このまま、辺戸岬まで歩いてしまえ」などと、後先考えぬ思い付きが出て来るのです。 この時点で、脚は棒になり、靴底は磨り減って、穴が開き、足の裏には、血膨れまで出来ていたのですが、一度決めると、やり抜かなければ、負けたような気がして、やめられないのです。 病気だね、これは。

海の景色は抜群(上)/果てしなく続く道(下)


  快晴というわけではなく、雲もあったのですが、歩いた全行程の、9割くらいは、直射日光を浴びていました。 顔や首筋、腕が、日焼けしてヒリヒリして来ます。 帽子を、風に飛ばされないように、後ろ向きに被っていたら、額に、アジャスターの穴の跡が、くっきり焼けて、残ってしまいました。 唯一の慰めは、乗り物に乗っていないので、写真だけは、鮮明なのが撮れた事くらい。 左側は、海。 砂浜がある所と、低い崖になっている所があります。 右側は、やんばるの山林で、ポツンポツンと集落があります。 所々、トンネルあり。

  その後、どこかで、国頭村営バスに追い抜かれました。 たぶん、それが、12:00発の便だったんでしょう。 そこに至るまで、バス停らしいバス停は見つけられず、「どうやったら、あのバスに乗れたのだろう?」と、首を傾げっぱなしでした。 この時点で、私はまだ、村営バスの他に、バス会社の路線バスがあるのではないかと思っていました。 海岸線沿いの道ではなく、内陸に道があって、そちらを通っているのではないかと・・・。 しかし、そんな路線は存在せず、そもそも、内陸の道もなかったのです。 ネットで調べた時、何かを間違えていたんですな。

  やがて、辺戸岬前の最後の集落に差しかかりました。 「宜名真(ぎなま)」という所。 「茅打ちバンタ」の案内標識あり。 「かやうちばんた」と読みます。 高い断崖の事で、上から、束ねた茅を落とすと、途中でバラバラになるから、そんな名前がついたのだそうです。 その事は、母が、39年前に買ったガイド・ブックに出ていたので知っていました。 宜名真の集落から、そこへ登って行く道があるのですが、宜名真に差しかかる前に、「もしや、あそこが、茅打ちバンタでは?」と思って、遠くから、断崖の写真を撮っておいて、正解でした。 断崖は、上から見ても、なかなか、凄さが分かりませんからのう。


≪戻る道≫
  集落の山側の坂を登って行きます。 脚も足も、へろへろになっている状態で、坂を登るのは、きついっすねー・・・。 また、茅打ちバンタに登るまでの道が、「戻る道」という名前がついて、ガイド・ブックに、わざわざ載っているくらいで、昔は、難所だった所。 宜名真の集落には、平地が少ないので、茅打ちバンタの先にある、「辺戸上原」という高地まで、畑を作りに行っていたらしいのですが、その道が凄く狭くて、向こうから人が来ると、すれ違えずに、片方がバックするしかなかったので、「戻る道」という名前がついたのだとか。

戻る道


  ただし、今では、道幅が広げられているので、それほど、険しいわけではありません。 この拡幅工事、1913年に行なわれたのですが、地元の小学校の校長が言い出して、役所に掛け合ったものの、相手にされず、村人だけで始めたら、ようやく、役所の支援が得られ、完成したのだとか。 「なぜ、校長が音頭を?」というと、村の家々が貧しくて、子供が学校に来ないので、「貧しいのは、畑に行く道が狭いからだ」と考え、まずそこから手をつけたという事情だったようです。

  観光資源としてみると、「戻る道」は、そのまま残しておいた方が、面白かったとも思えますが、それは、海側に、新しい道が出来ている今だから言える事で、1913年から、1983年まで、70年間も、この拡幅された「戻る道」が、宜名間集落から辺戸上原へ向かう唯一の道だった事を考えれば、この工事の果たした意味の重さが分かろうというもの。 70年は長いで。


≪茅打ちバンタ≫
  坂を登りきると、茅打ちバンタの上に出ました。 展望所がありましたが、建物は、休憩所のあずまやがあるだけです。 予想していた通り、上からでは、崖そのものが見えるわけではないので、あまり、面白くはありませんでした。 鉄コンで、ちょっと頑丈な建物を造り、崖から突き出した部分を設けて、床下にガラスでも嵌めれば、高さ・怖さが、よく分かると思うのですがね。 逆に、怖過ぎるかな?

  崖自体は見えませんが、その下の海は、よく見えます。 珊瑚礁が、はっきり見えて、「グレート・バリア・リーフ」の航空写真を、ミニマムにしたような景色が拝めます。 こういう眺めは、他では、ちょっと、見られないのかもしれませんが、テレビで、世界各地の絶景ばかり見慣れてしまっていると、あまり、感動を覚えないのは、困った事です。

茅打ちバンタの崖(上)/上から見下ろした珊瑚礁(下)


  それよりも、戻る道にせよ、茅打ちバンタにせよ、39年前のガイド・ブックに載っている名所へ、実際に来ていると思うと、そちらの方で、じわじわした感動が湧いて来るものですな。 退職して、沖縄旅行に来れて、本当に良かったなあ。 よくぞ、変わらずに、私が来るのを待っていてくれた。 いや・・・、別に、私を待っていたわけではないか。


≪辺戸上原≫
  ガイド・ブックによると、茅打ちバンタから北側の高地を、「辺戸上原」という模様。 更に先に進みます。 ここまで来れば、辺戸岬は、「すぐそこ」のはずですが、徒歩の私には、油断ならぬ距離がありました。 距離だけでなく、アップ・ダウンまであったのは、きつかった。 一度、「もうすぐだ」と思ってしまってから、まだ先があると、心理的なダメージが大きいです。

  途中、小学校あり。 その名も、「北国小学校」。 沖縄なのに、「北国」とは、峻烈な違和感がありますが、確かに、本島の北の端なのですから、北国と言っても、虚偽でも、誇張でもありません。 卒業式や入学式では、「北国の春」を歌うんでしょうか? んーなこたーないか。 ちなみに、「きたぐに」ではなく、「きたくに」と読むらしいです。

  少し行くと、≪大石林山≫という観光施設の入口前を通りました。 大きな岩山と、その周辺に広がる天然林の奇観を見せる、自然公園です。 たまたま偶然ですが、旅行に出る前に、テレビで、そこを取り上げた番組を見ていて、面白そうだとは思ったのですが、入場料が820円と、そこそこするのもさる事ながら、時間的に、見て回るゆとりがなかろうと思い、行く前から、入らない事に決めていました。 で、素通り。


≪辺戸岬≫
  国道58号線を横切り、また、しばらく歩くと、ようやく、辺戸岬に到着しました。 距離にして20キロ、時間にして4時間、歩き詰めに歩いたせいで、もう、へろへろです。 いくら、強行軍好きとはいえ、これ以上は歩けないので、帰りは是が非でも、バスに乗らなければなりません。 で、岬に着くなり、真っ先に探したのが、バス停。 しかし、無情な事に、ここでも、それらしい物は見当たりません。 おかしい! 確かに、国頭村営バスは通っているのに、なぜ、バス停がないのか?

  ここまで来る途中、「辺戸岬こうようパーラー」という案内看板を、どこがで見ていて、辺戸岬に店があるようなので、そこで聞けば分かるかと、期待していたんですが、着いてみると、確かに、その名の建物はあったものの、シャッターが閉まっていました。 平日だから、休み? 観光客は、結構いたんですがねえ。

  自動販売機だけはあったので、とりあえず、脱水状態を脱しようと、500ccペットボトルのコーラを買いましたが、一気飲みしてしまい、ペットボトルで買った意味がなくなってしまいました。 それどころか、500飲んでも、まだ足りない。 ちなみに、ホテルから持って来た、500ccペットボトルの水は、とっくに飲み干してしまっていました。

  バス停と水分補給は、さておいて、辺戸岬を見ます。 断崖絶壁、打ち寄せる白波、カルスト地形、北の彼方に与論島の島影・・・、とにかく、ダイナミック! 確かに、見に来る価値はありました。 徒歩でなければ、尚良かった・・・。 石碑やモニュメントが、いくつも立っていますが、一つ二つならともかく、それ以上あると、ちと、くどい。 むしろ、せっかくの雄大な自然風景を損なってしまっている観あり。

辺戸岬


カルスト地形


  しばらく、休みたいところですが、帰りのバスが心配で、おちおち座ってもいられません。 マップ看板があったので、それを見てみると、バス停が載っていました。 岬から南へ行くと、「辺戸」集落があり、そこにバス停のマークが描いてあります。 とりあえず、帰りのバスの時間を確認しなければならないので、そちらへ向かったのですが、地図を、しっかり見ていなかったせいで、道を間違えて、まるで違う所へ出てしまいました。 集落の家並みだと思って目指していたのが、近付いてみると、墓地で、びっくり! 沖縄のお墓は、大きいから、墓地を遠くから見ると、村に見えるんですな。

  そこまで、かなりの距離、急坂を下って来たので、「また、戻るのか・・・」と思うと、げんなり・・・。 ちなみに、そこからは、「ヤンバルクイナ展望台」が見えました。 ヤンバルクイナが見えるのではなく、ヤンバルクイナの形をした展望台なのです。 下調べをした限りでは、辺戸岬周辺では、かなり有名なスポットだとの事。 海を見下ろす小高い山の上にあり、見るからに、見晴らしが良さそうですが、この時の、私の脚の状態では、とても、そこまで登って行けそうになかったので、諦めました。

辺戸岬から南を見る(上)/ヤンバルクイナ展望台(下)


  急坂を登って、辺戸岬の方へ戻り、国道58号線に出て、左折。 辺戸村の方へ歩いて行くと、やがて、バス停にぶつかりました。 喜んだのも束の間、ここにも、バスの時刻表はなくて、お祭り用の臨時時刻表だけが貼ってありました。 途方に暮れるとは、この事です。 ホテルに帰れない恐れが現実味を帯びて来ました。 最悪、タクシーを呼ばなければならないのか? いくらかかるんだ? 顔色、真っ青だな・・・。


≪辺戸共同売店≫
  藁にも縋る気持ちで、辺戸村へ入り、案内看板に従って、「辺戸共同売店」という所を目指します。 村は傾斜地にあり、平らな道がありません。 この上、更に、坂を登らねばならんとは、もう、修験者だね。 共同売店は、鉄コンの平屋の建物でした。 建てられてから、かなり、風雪を経ている外観。 食品雑貨店という感じですかね。 冷房なし、扉は全開、扇風機活躍中。 店番は、お婆さんが一人。 新聞を読んでいました。

  何も買わずに、質問するのも悪いので、メロン味のカップ入り氷菓を買いました。 86円。 バス停の場所を訊くと、「朝は、この店の前にも来るが、午後は分からないから、国道の方のバス停で待った方が良い」との事。 時刻表がないか訊いたら、店の出入口のガラス戸に、紙が貼ってありました。 次の便は、16:09で、それが最終です。 この時、まだ、午後2時半頃だったので、一時間半ばかり待つ事になりますが、とりあえず、辺土名までは帰れる事が確実になったので、ほっと、一安心しました。 それはいいとして、どこで待つかが問題だな。

  買った氷菓を、店の外で食べ始めたんですが、日差しが強くて、とても、立っていられません。 軒下に入ったら、店番のお婆さんが、「隣の事務所の方が涼しい」と勧めてくれました。 建物は一つなんですが、店の隣に、「辺戸区事務所」という、町内会の集会所のようなものがあるのです。 中に、テーブルとパイプ椅子が、会議室風の配置で、並べてありました。 こちらも、扉は開放してありましたが、窓が閉まっていたので、風が通りません。 誰もいないのをいい事に、窓を開けて、涼みました。 水道と流しがあったので、おしぼりタオルを濡らして、顔を拭き、頭の載せて、クール・ダウンします。 一円の区費も払っていない、純然たるよそ者なのに、こんなに寛いでしまって、いいのだろうか?

  氷菓一つでは足りず、また、店に行って、もう一つ、同じ物を買い、食べました。 それでも、まだ、喉が渇くので、自動販売機で、缶入りの500ccコーラを一本。 さすがに、これは、全部飲めず、辺戸岬で買った空のペットボトルに移して、残しましたが、それも、帰りのバスで、全部飲んでしまいました。 辺土名から、辺戸岬まで、行きのバス代を節約できたかと思っていたんですが、徒歩行で脱水した分、コーラと氷菓で、452円も使ってしまったので、疲れただけで、ほとんど得になりませんでした。 策士、策に溺れる・・・、いや、それほどの事でもないか。

  これから、バスを乗り継いで、辺戸岬へ行こうと考えている、お若い方々よ。 辺土名で、国頭村営バスが来るまで、どんなに時間が開いていようと、決して、「歩いて行こう」などと考えてはいかん。 疲労困憊して、体を壊すのが落ちじゃ。 時間があったら、辺土名の街の中でも、散策していればいいのじゃ。 海岸線を延々と歩くより、そちらの方が、どれだけ有意義が知れん。 ≪ローカル路線バス乗り継ぎの旅≫で、蛭子さんも言っていたではないか。 「バスの旅なんだから、歩くなんて、禁止してもいいくらいだよ」と。 正に、その通りなのじゃ。

  そういえば、私が、店にいる間に、村人と思われる、年配の男性がやって来て、店番のお婆さんと二人で、土地の言葉で話をしました。 さすが、ネイティブ同士、私には全く理解できなかったのが、実に面白かったです。 やはり、その土地の言葉を聞かないと、遠くまで旅行に来た甲斐がありません。 店番のお婆さんは、私と喋る時には、日本語の標準語でしたから、この方達は、かなり高度なバイリンガルなんですな。

  事務所で、3時まで粘った後、開けた窓を閉め、テーブルの上を拭いて、旧状回復し、外へ出ました。 氷菓のカップや、コーラの空き缶は、捨てる所がないので、ナップ・ザックに入れて、持って帰りました。 そういや、沖縄の旅では、自動販売機があっても、缶を捨てるゴミ箱は、一つも見かけませんでした。 自動販売機の周囲の美観を考えれば、その方がいいわけですが、観光客の場合、結局、ホテルで、部屋に置いて行く事になり、どこかで、気が咎める行為をする事になるわけですな。

辺戸共同売店と事務所(上)/義本王の墓(下)



≪義本王の墓≫
  国道58号線に戻り、バス停の近くの山側にある、「義本王の墓」へ向かいました。 これは、辺戸岬のマップで見て、知り、バス停に向かう途上、入口を確認していたんですが、バス停の確認を優先して、素通りしていた所。 時間があるのなら、寄らぬ手はなし。 山の中へ、階段と石段を登って行きます。 ハブに咬まれては敵わんので、藪は慎重に避けました。 石垣島の貸切タクシーの運転手さんに、最初に注意してもらったのが、こういう場面で生きて来ます。 ものの、5分ほどで、到着。 石垣で囲まれた中に、ヒンプンを持つ、家型の石造の墓がありました。 亀甲墓とは違い、石の屋根が載っています。

  「義本王」は「ぎほんおう」と読み、沖縄最初の王統である、舜天王朝の第三代の王で、即位したのは、1249年。 第一尚氏王朝の成立より、ずっと前で、まだ、琉球王国ではなかったから、「沖縄の王」としか言いようがないわけですな。 飢饉・天災・疫病の責任を取って、次期王統の開祖である、英祖に譲位したのだそうです。 なぜ、こんなに北の方に墓があるのかに関しては、追放されたという説があるのだとか。 墓は、近年に修復されているのが明らかで、ちと、綺麗過ぎでした。 実際の建築年も、よく分かりません。 


≪蔡温松並木≫
  58号へ戻り、今度は、海側の、林の中へ。 この一体は、森林公園のようになっていて、遊歩道が整備されています。 並木という感じではありませんが、大きな松がたくさんあります。 「蔡温(さいおん)」というのは、琉球王国の宰相で、薩摩の侵略の後、荒廃した国土を立て直す事業の一環として、ここに松並木を作ったのだそうです。 松とはいうものの、全て、リュウキュウマツでして、クロマツとも、アカマツとも、見た目の感じが、だいぶ違います。 幹は、それほど太くならないようですが、自然に、松らしい枝ぶりになるようで、姿のいい樹種です。

  森の中を進んで行くと、辺戸集落の一部を通り、また、森へ入って行くという、不思議な地理。 そこいらで、バスの時間が近づいて来たので、引き返しました。 ヤンバルクイナ展望台に行けなかったのは残念ですが、まずまず、見るべき程の物は見たというところでしょうか。 バスに乗って帰れるだけ、ありがたいと思わなければなりますまい。


≪国頭村営バス≫
  バスは、5分くらい遅れて、道の向こうに、姿を表しました。 しかし、真っ直ぐに、こちらへは来ずに、辺戸の集落へ入って行きました。 共同売店の前で停まり、公民館の前で停まり、ようやく、道に戻って、バス停へ向かって来ました。 どうやら、バス停以外の場所も、乗客がいないか確認しながら、走っている模様。

  マイクロバスで、乗客は私一人でした。 走り出すと、辺戸岬の方へも下りて行きました。 上述したように、バス停はないのですが、それとは関係なしに、乗る人がいないか、見に行くわけです。 いやあ、しかし、そういうシステムだとは、観光客には、とても見抜けませんなあ。 やはり、バス停らしいものを置いておいた方が、いいと思うんですが・・・。

  分かった分かった。 つまり、なんだ。 辺戸岬に、路線バスで来るなんて観光客は、滅多にいないわけだ。 みんな、レンタカーや、観光バスで来るわけですな。 そういや、前日に乗った貸切タクシーの運転手さんも、「辺戸岬の方には、数年に一度くらいしか行きませんよ」と言っていました。 この村営バスは、観光客用ではなく、地元の人向けで、車を持っていない人の足として、運営されているのでしょう。

  あ~、バスは楽だな~。 しかも、このマイクロバス、車体が新しくて、窓も汚れておらず、外がよく見えるのです。 こんないいバスなら、行きも乗って来れば、外の写真だって、うまく撮れたものを。 何も、4時間20キロも歩くこたーなかったんだよ、馬鹿だね、あたしゃ。 靴に穴を開け、靴下にも穴を開け、足の裏に血膨れを拵えただけ、損したわけです。 右足の人差し指は、爪が内出血して、黒くなり、その後、二ヶ月も治りませんでした。

  ラジオで、琉球民謡の番組をやっていましたが、これが、いいんだわ。 特に、女性の謡い手の声が、実に美しい。 天上の音色とは、これの事か。 私は、日本の民謡を聞くと、脳味噌をスプーンで掻き回されているような、言語道断的不快感を覚えるのですが、なんで、琉球民謡は、こんなに美しく聞こえるのか、理由が分かりません。 他に、演歌、オペラ歌手の発声、女性グループ・アイドルの合唱なども、想像するだけで虫唾が走るのですが、同じ、女性の声なのに、なぜ、琉球民謡だけ綺麗に聞こえるのか、全く分からない。

  見ていると、村営バスは、各集落ごとに、中の方へ入って行って、公民館前など、決まった場所へ行き、乗る人がいないか確認している様子。 停まった時に、運転手さんに、国道沿いのバス停について訊いてみたところ、「バス停で待っていれば、もちろん停まるが、バス停でなくても、手を挙げれば、停まる」との事。 な・ん・だ・・・、そ・う・だ・ったん・で・す・か・・・。 でも、往路に於ける私の場合、後ろから抜かれたわけで、バスが近づいている事自体に気づかなかったから、手を挙げる事もできなかったわけです。 抜かれた後、後ろから、手を振って追いかければ、停まってくれたんでしょうけど、そもそも、そのシステムを知らんのだから、話になりませんなわあ。

  40分ほどで、「辺土名バスターミナル」に着きました。 運転手さんの話では、そこで待っていれば、名護行きのバスが来るとの事。 村営バスの料金は、辺戸から、ここまで、500円でした。 


≪辺土名から名護へ≫
  ここで、すでに、午後5時。 でも、西にある沖縄なので、まだまだ、カンカンに明るいです。 路線バスは、すぐに来ましたが、出発は、5:15だというので、少し待ちました。 このターミナル、待合所があるだけで、バス会社の事務所のようなものはありません。 ただの、街なかの空き地という感じ。 所在ないので、辺土名の街を、少し歩いてみましたが、商店街があり、まずまず大きな街でした。 国頭村の中心地である様子。

  5時15分に出発。 朝通った道を、戻るだけです。 乗客は、しばらくの間、私一人だけで、途中から、一人二人乗って来ましたが、地元の人達らしく、すぐに下りて行きました。 50分くらい走って、「名護十字路」で、下車。 事前に、運転手さんに、「幸喜に行きたいんですが、名護十字路で乗り換えればいいんですね?」と確認しておいたので、ここで間違いなし。 料金は、名護バスターミナルまで行かなかったので、朝より50円安い、1000円でした。 下りる時、運転手さんが、「バス停の場所は分かりますか?」と言って、先にある交差点を左に曲がるような手振りをしました。 それを教えてもらって、応じ合わせ。 危なく、迷うところでした。 同じ、「名護十字路」でも、路線によって、バス停の場所が違っていたんですな。


≪名護から幸喜へ≫
  幸喜へ向かうバスは、すぐに来ました。 女性運転手で、たまたまですが、前々日に、那覇空港から、幸喜まで乗ったバスと同じ人でした。 こちらのバスは、結構、混んでいました。 20分で到着。 朝は、420円でしたが、帰りは、名護バスターミナルから乗らなかったので、30円安くなって、390円。 うーむ、微々たるものか。 ホテルに着いたのが、6時半くらいでした。 徒歩で辺戸岬付近を彷徨している時は、絶望的な気分だった事を思うと、この時刻に帰って来れたのは、奇跡のようです。 無事に帰り着けて、本当に良かった。 家から遥かに離れた、遠い旅先で、強行軍など、決して、するものではありませんな。 もう、若くないんだし。 心臓も悪いんだし。

  ホテルの部屋に戻ると、ちゃんと、掃除されて、タオル、寝巻きも、新しい物に換えられていました。 隠しておいた旅行鞄も、異常なし。 よしよし。 


≪ホテルの夜≫
  このホテルは、夕食もバイキングでしたから、これといった事もありません。 炎天下を歩いて、大汗を掻いたので、洗濯は、シャツと下着だけでなく、ズボンも洗いました。 ズボンを手だけで洗うのは、やはり、厳しい。 絞るのは、もっと厳しい。 絞りきれず、部屋の中に干していたら、雫が垂れて来て、慌てて、ユニット・バスへ戻すという、一幕もありました。 不様な事よ。

  このホテル、三泊した事になりますが、同じく、三泊した、石垣島のホテルと比べて、あまり、印象が強くありません。 たぶん、私が、ホテル慣れして来て、細部の観察を怠るようになってしまったからでしょう。 宮古島のホテルは、逆の意味で、印象が強過ぎて、その後だったから、ここでは、これといった不満を感じなかったのかも知れません。 つまり、悪くはなかったわけだ。



≪八日目、まとめ≫
  ある意味、この日が、一番、記憶に残る一日でした。 4時間20キロの徒歩行は、あまりにもきつい。 下調べがいい加減だった事が、大いに悔やまれます。 また、現地で、臨機応変な対応が取れなかった事も、大きな反省点です。 路線バスの旅に慣れていない弱点がもろに出て、「一日に、3本しかない」という事が、どれだけ怖い事か、認識していなかったんですな。 村営バスの他に、路線バスがあるかどうか、横着せずに、辺土名の人に訊いてみれば、歩いたりせずに済んだんですがねえ。

  この日に使った交通費は、3360円。 飲食代が、452円。 合計、3812円。 貸切タクシーよりは、桁違いに安いですが、私の感覚では、結構な出費です。 せめて、スクーターでもあれば、千円以下で、同じルートを回って来れたんですが・・・。 旅先というのは、ままならないものです。

  辺戸岬は、景勝地としては、一級品だと思いますが、鉄道もなし、路線バスもなし、村営バスは、一日三度来る、というのは、勿体ない限り。 道路は、いいんですがね。 しかし、他の観光地から離れ過ぎているので、ここだけを見に、一日使うという観光客は、少ないんでしょうなあ。

2014/09/21

本部半島を巡る

  沖縄旅行記の七日目です。 7月28日(月)の予定は、○△商事の日程表では、「北部観光」となっていました。 「北部」というと、イメージ的に、北端の「やんばる地域」が含まれるような気がするのですが、どうも、沖縄旅行に於いては、「北部観光 ≒ 本部半島観光」になっているようで、この日、貸切タクシーで回ったのは、本部半島オンリーでした。 「本部」は、「ほんぶ」ではなく、「もとぶ」と読みます。


≪ホテルの朝≫
  5時頃、目覚めました。 外が明るいようなので、カーテンを開けたら、明るかったのは、向かいのホテルの灯りで、空はまだ暗いのでした。 静岡では、7月下旬で朝5時というと、とっくに明るいのですが、沖縄は、ずっと西にあるので、日の出が遅いわけですな。 この、時刻と明るさのズレは、案外、軽視できず、静岡にいるつもりで、早々と起きてしまうと、なかなか、暗くならないので、夕方まで、エネルギーが持たなくなる事があります。

  洗濯物を乾かす為に、エアコンを夜半から、除湿にして点けっ放しにしていたのですが、朝になったら、寒くなってしまい、一旦切って、ポットで湯を沸かし、部屋にあった緑茶のティー・パックで、お茶を入れました。 お茶受けに、前日の夕方買ったビスケットを食べましたが、お茶を飲むと、今度は暑くなって来て、またエアコンの除湿を入れました。 家の自室では、扇風機とクール・スカーフで、夏を乗り切っているので、エアコンで室温調節するのは、苦手なのです。

  8時から、朝食。 ここの泊り客は、のんびりしているのか、この時も、私が一番乗りでした。 どうも、私は、バイキングが大好きらしく、いつも、取り過ぎて、満腹してしまいます。 朝っぱらから、腹がパンパンになるほど喰って、なんとする? 喰い意地が張っているというより、貧乏性で、取る権利があるのに、取らないで済ますという事ができないのです。

  次第に、客が増えて来ると、ゲホゲホ咳をしながら、洟まで啜っている奴が入って来て、ぞーっと戦慄しました。 大方、前日に、海で遊び過ぎた上に、夜通し、エアコンをかけて寝て、まんまと風邪を引き込んだ、国士無双の愚か者なのでしょう。 大枚はたいて、沖縄まで遊びに来ているのに、風邪を引いてちゃ、楽しむどころではあるまいに。 なぜ、注意せんかなあ。

  こういう奴が恐ろしいのは、自分だけ風邪を引いたのが悔しくて、他の人間にうつそうとする事です。 バイキング会場に、素のままでやって来ているのが、その証拠。 すぐ向かいに、コンビニがあるのですから、マスクでも買ってくればいいものを、そもそも、「うつしてやれ」と思っているのですから、そんな配慮など、するわけがありません。 観察していると、よく分かりますが、ゲホゲホやっている奴ほど、よく喋ります。 とことん、うつしたいんですなあ。 まだ、四日もあるのに、うつされたは敵わんので、さっさと食べて、さっさと撤退しました。

  ロビーの隅のケージの中にいる、ケヅメリクガメの「のんちゃん」は、前日には、眠っていましたが、この朝は起きていました。 腹が減っているのか、水槽のガラスに前足をかけて、覗き込む人間に、頻りに自己の存在をアピールします。 水棲の亀は、「エサくれダンス」というのを踊りますが、リクガメも、似たような事をするんですな。


  この日は、部屋の掃除をパスしようと思っていたのですが、入口脇の戸棚の中に、ドア・ノブにかける札が入っていて、一面に「起こさないで下さい」、もう一面に「掃除をお願いします」と書いてあります。 たぶん、「起こさないで下さい」の側を表にして掛けておけば、掃除をパスできるのだと思いましたが、この札を見たのは、初めてだったので、自信がありません。 それで、フロントに電話して訊いてみたところ、札は、どうでもいいらしく、フロントから清掃係に伝えておくとの事。 ふむ、それか確実ってもんですな。

  悪い癖で、ここでも、「手のかからない、好ましい客」を演じようとして、フロントに何かを頼むのを、遠慮する気持ちが出たのですが、それは、完全な思い違いであって、そもそも、向こうは、好意で客の相手をしているわけではなく、仕事でやっているのですから、ホテルのシステムに関する質問のような、向こうの職務内に当然入るような事なら、訊ねるのをためらう必要など、全くないのです。 むしろ、訊かれずに、勝手な思い込みで、勝手な事をやられて、後で、クレームなんぞ持ち込まれる方が、よっぽど迷惑なんですな。

  逆に、ホテルの従業員が、礼儀正しく接客しているのに対して、まるで、召し使いでも雇ったような気分になっているのか、ふんぞり返って、ぞんざいな口を利いている客がいますが、あんなのは、とんでもない態度なのであって、思い違いも甚だしいです。 相手が敬語を使ってきたら、敬語で返すのが当たり前。 「命令」など、言語道断! 「要求」ですら、図々しいのであって、「依頼」が基本、何か不満がある時でも、「要請」が限界でしょう。

  「金を払っているのだから、客の方が偉い」などというのは、100%、下司の発想です。 客とホテルは、お金とサービスの取引をしているだけであって、どちらが偉いなどという事はありません。 「下手に出ると、なめられる」などと考える事自体が、人間の小ささを証明しています。 自分がホテルに勤めた場合の事を考えてみれば、従業員が客の事を、どう思っているかは、容易に想像がつくでしょうに。 「お客様は神様です」という言葉がありますが、あれは、あくまで、店側(ホテル側)の心得であって、客の方に言っているのではない。 自分の事を神だと思っていたら、精神異常者の誇大妄想そのものではありませんか。


≪貸切タクシー≫
  この日の、貸切タクシーの契約時間は、午前9時から、午後3時までの、6時間です。 8時40分頃、フロントから電話があり、タクシーから外線がかかって来たので、繋ぐとの事。 タクシーの運転手さんが出て、「これから行きますが、いいですか?」と言うので、「分かりました」と答えて、急いで下に下りました。

  フロントにキーを預けて、外に出ると、すでに、タクシーが来ていました。 たぶん、ホテルに着いてから、携帯で電話したんでしょうな。 石垣島と宮古島では、タクシー会社の所属タクシーでしたが、ここでは、個人タクシーでした。 運転手さんは、今までで、最高齢で、60代半ばくらいの人。 本島での、三日間のタクシー観光は、この方が担当するとの事。

  まだ、時間前でしたが、すぐに出発。 そりゃそうか。 自分の方から、呼び出したんだものね。 石垣島では後席、宮古島では助手席、本島では、また、後席に座りました。 宮古島の運転手さんが、変わっていたんですな。 話をするなら、助手席の方が都合がいいわけですが、助手席に乗ると、シート・ベルトが必要になるので、下りるたびに外さねばならず、ちと、面倒です。 その点、後席は、楽。 この日は、また、同じホテルに戻って来るので、荷物は、ナップ・ザックと、ウエスト・バッグだけでした。

  幸喜から北上し、本部半島へ向かいます。 車は、トヨタのタクシー専用車である、≪コンフォート≫でしたが、個人タクシーであるせいか、高級グレードで、アーム・レストのスイッチ・ベースが、木目調になっていました。 貸切タクシーの運転手さん、三人目にして、初めて、私の個人的情報を訊いて来たので、心臓を悪くして、退職し、余った福利ポイントで、旅行に来る事になった経緯を話しました。 ついでに、コンフォートを作っていた事を話すと、そこから、タクシー用車両の話になり、本部半島に至るまでの40分ほどの間、ずっと、その話が続きました。

  タクシー仲間に、新車のコンフォートで走行中、タイヤのハブ・ナットが外れた人がいて、その原因を、「機械で締めているから、締め付け具合が分からないのだろう」と推測していましたが、それは、運転手さんの思い違いでして、確かに機械で締めてはいるものの、締め付けトルクを調整する機能がついているので、タイヤ取付工程を過ぎた時点で、締め付けが弱いとか、緩んでいるという事は、まず、ありません。 ただ、その後、手直しで、タイヤを外す事があった場合、再取り付けは、手締めになるので、その際に、トルク不足が発生する事はありえます。 しかし、「人間の方が信用できない」とは、一概に言えず、まあ、ケース・バイ・ケースですな。

  タクシー専用車両は、日産の、≪クルー≫の方が、先に出たのですが、後出しが好きなトヨタが、クルーの問題点を全てカバーした、コンフォートを出し、みんな、コンフォートに切り替わってしまったのだとか。 ただし、登り坂に関しては、クルーの方が力があり、コンフォートは、クラッチが滑っているように感じるのだそうです。 最初、乗り換えた時、「クラッチを壊したか」と思って、交換費用の高さを想像して、真っ青になったけれど、仲間に訊いたら、「コンフォートは、そんな感じだよ」というので、安心したのだとか。

  タクシー専用車への注文として、グローブ・ボックスの蓋に、錠が欲しいと言っていました。 観光客を乗せる時、案内のために、車を離れる事があるのですが、いちいち、ドアをロックするのでは、手間がかかる。 売り上げ金を保管するのに、グローブ・ボックスに錠があれば、便利だ、との話。 普通の車でも、グローブ・ボックスをロックできれば、車上狙いは、減るでしょうな。 窓ガラスさえ割れば、後は、取り放題と思うから、狙われるわけでして。

  ハイブリッド車をタクシーに使っている人もいるが、この運転手さんは、まだ、懐疑的だとの事。 電気自動車に至っては、問題外で、バッテリーが切れた時、充電するのに、何十分もかかるようでは、とても、お客を乗せる仕事には使えないと言っていました。 確かに、観光客は、時間で動いているわけですから、そんなにゃ、待っちゃいられませんわな。

  他に、レンタカーばかり増えると、困るとも言っていました。 沖縄は、特に、レンタカーが多くて、石垣島の運転手さんも、「まーた、『わ』ナンバーだよ」と、見かけるごとに、ぶつくさ言ってましたが、それは、本島でも同じ状況である様子。 レンタカーが増えれば、タクシーに乗る人が減るわけで、切実な問題になっているとの事。 また、「レンタカーばかりになってしまったら、個人で車を買う人が減って、自動車会社の売り上げも落ちるだろう」と言っていました。

  ある時、自動車会社の重役を、貸切で乗せる事になり、その事について、話してみたところ、「ムッ」とされ、翌日からの契約をキャンセルされてしまったのだとか。 その重役、ユーザーの意見を聞ける貴重な機会を、自から捨てたわけで、いかにも、「社内大名」化している連中の反応だと思いましたっけ。 無能な人間ほど、耳に心地よい言葉しか聞かないものです。

  一方、世界中を飛び回っている、中国人の企業経営者を乗せた時には、考え方のスケールが大きくて、感心したのだとか。 日本に留学していた経験がある人で、日本語ぺらぺらだったそうです。 両者を比較して、「日本企業は、大丈夫なのかね?」と言っていましたが、それはもう、比較するのだけ酷というもので、片や、グローバル時代の事業家、片や、ガラパゴス企業のサラリーマン重役では、勝負になりません。 能力的には、100対1くらいの差があるんじゃないでしょうか。


≪古宇利大橋≫
  本部半島の東側に、≪古宇利島(こうりじま)≫があり、そこへ渡る橋が、≪古宇利大橋≫です。 本部半島の本土から直截、架かっているのではなくて、まず、短い橋で、≪屋我知島(やがじしま)≫に渡り、そこから、古宇利大橋で、古宇利島へ渡る形になります。 地図を見ると、屋我地島へは、橋が二本架かっているのですが、そのどちらを渡ったのかは、分かりません。 なにせ、タクシー車両の話が、ずっと続いていたもので・・・。

  古宇利大橋は、宮古島の、≪来間大橋≫、≪池間大橋≫と同様、離島へ架かる長い橋として、観光スポットになっているのですが、運転手さんの話では、元々は、島に渡る実用の為に作った橋で、観光用ではなかったとの事。 それが、観光タクシーの運転手さん達が、「この景色は、凄い」と思って、お客を案内している内に、口コミで、評判が広まって、いつのまにか、ガイド・ブックや観光パンフに載るようになったらしいです。

  橋の上は、片側一車線の、計二車線で、幅の広い歩道が、西側に付いています。 他に車が来なかったので、橋の中程で停車し、歩道の上で、運転手さんが、私を入れて、写真を撮ってくれました。 その後、古宇利島に渡り、ぐるっと一周して、橋の袂に戻りました。 途中、≪古宇利オーシャン・タワー≫という、展望台の前を通りましたが、入場料が、800円するというので、パス。 「展望台にしては、値段が高すぎるのではないか?」と思っていたのですが、帰って来てから調べたら、ただの展望台ではなく、「貝の博物館」など、他の施設もあったようです。 いや、何があったとしても、パスしたとは思いますが。

  橋の袂に、≪古宇利ビーチ≫という砂浜があり、そこで下りて、記念撮影。 この運転手さんは、写真を撮るのが好きで、どこへ行っても、気軽に撮ってくれました。 自分でも、「写真は、うまいですよ」と言っていましたが、確かに、帰って来てから、写真を見返すと、運転手さんが撮ってくれたものには、失敗がありません。 私が自分で撮った、風景オンリーの写真は、早く撮ろうと気が焦るせいか、オート・フォーカスが作動する前にシャッター・ボタンを押してしまい、ブレているものが、結構あるというのに。

  宮古島で、来間大橋と池間大橋を見ているので、長い橋そのものには、大きな感動はなかったのですが、やはり、美しい景色は、美しいですな。 緑と青のグラデーションを見せる海は、沖縄中、どこへ行っても、無敵の観光資源といえます。 海に入って、泳いでいる観光客、多し。 しかし、運転手さんが言うには、島と島の間の海は、潮流が激しいので、危険極まりないとの事。 「地元の人間がついていれば、あんな遊び方は絶対にさせないのに」と、言っていました。 知らないというのは、怖いものですな。

古宇利大橋 (向こうは、屋我地島)



≪今帰仁城≫
  本部半島の本土に戻って、本島北部最大の城跡、≪今帰仁城≫へ。 「今帰仁」は「なきじん」と読みます。 問題は、「城」をどう読むかで、沖縄では、「城」と書いて、「ぐすく」と読むのが普通ですが、地名とくっついた時には、どう読んでいいのか・・・。 「なぎじんじょう」なのか、「なきじんぐすく」なのか、漢字でだけ書いてあると、判断しかねます。 ≪首里城≫は、「しゅりじょう」と言いますが、それは、「しゅり」が音読みだからで、「今帰仁」は、湯桶読みであり、一体、どうしたもんだか。

  今帰仁城は、沖縄本島が、北山・中山・南山の三勢力に分かれていた時代、14世紀初頭から15世紀初頭にかけて、北山王朝の中心地だった所です。 中山王朝に滅ぼされた後は、王府から、「監守」という、地方総督が派遣されていましたが、薩摩の侵攻で、城が焼かれてしまい、以降、地元の民衆の霊場として、維持されて来たとの事。 1972年に、国の史跡に指定。 2000年に、≪琉球王国のグスク及び関連遺産群≫として、世界遺産になりました。

  私が、今帰仁城の存在を知ったのは、たぶん、中学生の頃、家にあった百科事典に、崩れかけた石垣の写真が載っていて、日本の城に見られる、専ら、天守閣や櫓の台座になっている石垣と違い、長く伸びる「城壁」を成している姿に、「これは、凄い・・・」と思ったのが最初だったと思います。 以来、三十数年、まさか、実際に、この場に来られるとは、思いもしませんでした。 感無量。 だけど、その間に、石垣は、修復が進んだようで、昔、写真で見た姿と比べると、立派にはなったものの、廃墟の趣きは、だいぶ、失われていました。

  運転手さんが、案内の為に、中まで付いて来てくれました。 門の辺りは、カンヒザクラの名所になっているそうですが、真夏の事とて、もちろん、葉桜。 この門、「平郎門」と言うそうですが、入口開口部の天井部分に、一枚石を置いて、そこから上の石垣を支えています。 こういう形式は、沖縄の他の城にはないそうで、「源為朝一派が流れて来て、技術を持ち込んだのではないか」という説の根拠になっているのだとか。

  でも、為朝というと、平安時代でしょう? 日本じゃ、まだ、石垣を使った城はなかったんじゃないですかね? さりとて、中国の技術的影響と考えると、アーチを使っていないのは、解せないところです。 やはり、沖縄独自の物じゃないかと思うんですが・・・。 ちなみに、今帰仁付近は、美人が多い事でも有名で、「色白が多いのは、北から、為朝一派が流れて来たからだ」という説があるそうです。 しかし、色白はともかく、日本からの渡来者がいたから、美人が多いというのは、かなり、無理があるような気が・・・。 そもそも、日本の方に、美人が珍しいですけんのう。

  為朝は、「初代琉球王の父」という伝説もあるそうです。 なんでもかんでも、為朝に結び付けたがるのは、静岡県東部で、ありとあらゆる物を、源頼朝に結び付けてしまっているのと、よく似ています。 挙兵して破れた頼朝が、身を隠したと伝えられる洞窟が、一体、どれだけある事やら。 沼津近辺の洞窟は、大小問わず、全て、「頼朝の穴」と呼ばれているくらいです。 全ての穴に隠れるには、頼朝が、千人くらいいないと足らんでしょうなあ。 伝説なんて、そんなものです。

  それはさておき、今帰仁城は、見事な史跡です。 ≪万里の長城≫を思わせる、地形に沿って蛇行した城壁が、何とも言えぬ。 廃墟もいいですが、世界遺産の観光地として、世界中から人を呼ぶとなったら、往時の姿を復元しようという方針も、理解できなくはありません。 マヤのピラミッドなども、密林に埋もれたままだったら、あんなに有名にならなかったでしょう。 今帰仁城は、まだ、整備中のようなので、いずれ、もっと綺麗になるんじゃないでしょうか。

今帰仁城


  一番高い所からは、海まで眺められて、素晴らしい、見晴らしです。 「火之神の祠」という御嶽あり。 注意書きの板があって、「線香やうちかび類は各自お持ち帰りください」と書いてあります。 運転手さんに、「うちかび」について訊いたら、紙で作った、お金の模造品で、使者があの世で使うために、焼いて天へ送るのだとの事。 中国の「紙銭」と同じですな。

  この城、入り口から頂上まで、結構、階段を登るのですが、私が、心臓を悪くして会社を辞めたと話してあったので、運転手さんが、気を使って、「大丈夫?」と、何回か訊いて来ました。 自分より一回り以上も年上の人に、体の心配をされると、申し訳ないような、奇妙な気分です。 まあ、体力を振り絞るような動き方をしなければ、大丈夫だとは思うのですがね。 それでも、一度、苦しい思いをしていると、怖い事は怖いです。 倒れる前と同じようには、動けませんな。


≪今帰仁村歴史文化センター≫
  今帰仁城は、無料ではなく、400円取られます。 私は、○△商事から送られて来たクーポンがあったので、自腹は切らずに済みました。 城を見て来た後、運転手さんが、「歴史や文化に、興味ありますか?」と訊くので、「あります」と答えたら、「じゃあ、あそこも見て来たらいいですよ」と、≪今帰仁村歴史文化センター≫を指し示されました。 「すわ、自腹か?」と思いきや、城のチケットに、そちらの入場料も含まれている事に気づきました。 いやあ、運転手さん、教えてくれて良かった。 うっかり、入る権利がある所を、パスしてしまうところでした。 自他共に認める吝嗇家として、そんな不名誉は許されません。

  で、入ってみると、名前の通り、今帰仁城の歴史と、この地域の民俗・民具を紹介した展示内容でした。 なにせ、一国の首都だった所なので、歴史は面白いのですが、写真を撮って来ていないところを見ると、たぶん、一階の歴史展示室は、撮影禁止だったのではないかと思います。 地下一階に、民俗資料展示室が二部屋あり、そこは、部屋全体の写真だけ撮って来ています。 あと、戦争関連の特別展示室があったような気がしますが、写真がないという事は、そこもやはり、撮影禁止だったのかも知れません。

  日記を見ると、ここの展示に関する記録が、ほんのちょっとしか書いてないのですが、理由を推測するに、石垣島の、≪八重山博物館≫で、同種の民俗関係展示を見ていて、イメージがダブってしまったからだと思います。 地元の人が見れば、八重山と本島北部では、明らかな文化の違いがあるのだと思いますが、よそ者の目には、みんな同じに見えてしまうのです。

  また、民俗資料というのは、雑然としているので、よほど工夫して、系統立った解説をしないと、閲覧者の興味を引けません。 説明文が少な過ぎると、ただの民具の陳列になってしまいますし、多過ぎると、時間のゆとりがない観光客には、読んでもらえません。 適度な長さの記述で、読む順序が、はっきり分かるような解説パネルを用意すれば、いい印象を残すと思います。 

  見る側の事情もあります。 資料館は、どこもそうですが、見て来た展示内容を詳しく伝えるとなると、膨大な文章量、膨大な枚数の写真になってしまうので、どうしても、敬遠してしまいます。 撮影禁止が、むしろ、ありがたいと思う時もあります。 「個別資料は撮影禁止だが、部屋の全景なら、撮っても構わない」という事にしてくれると、実にありがたい。 大体、どんな物があったかが、伝わればいいのですから。

  私が、ここの展示で記憶に残っているのは、戦争中に落とされた、戦闘機の落下タンクを改造して作った、カヌーだけです。 出て来た後、その事を、運転手さんに話したら、なんと、運転手さんも、子供の頃、同じ物に乗って、遊んでいたとの事。 そのままでは転覆してしまうので、底に、石などの、錘を入れるのだそうです。 バラストですな。 うーむ、そういった事は、経験者でなければ、分かりませんなあ。

落下タンクのカヌー



≪ソーキそば≫
  今帰仁城は、本部半島北部の中程にあるのですが、そこから、北部西端にある、≪美ら海水族館≫方面へ向かいます。 まだ、11時半でしたが、水族館に入ってしまうと、出て来るまでに時間がかかるので、先に昼食を取る事になりました。 先手を打って、「予算は千円以下です」と言ったら、「ソーキそばがいいのでは」という話になり、そばなら、安くてうまいに違いないと思って、その店へ連れて行ってもらいました。

  店は、水族館のすぐ近くでした。 運転手さんは、健康上の理由から、弁当持ちだと言うので、車の中で食べ、私一人だけで、店へ。 ふだん、外食など、一切しない私ですが、飲食店に一人で入って、注文するくらいの事はできます。 注文するものが決まっていれば、尚更、気楽。 メニューを見ると、ソーキそばは、650円で、ケチな私には、大変ありがたい値段でした。

  この店、基本的な造りは、伝統琉球建築で、中だけ、テーブルと椅子の食堂形式にしてありました。 カウンターもありましたが、そこには、扇風機、冷水機、ポット、CDラジカセなどが、隙間なく置かれていて、椅子もないので、自動的に、客は、テーブル席に座る事になります。 扇風機が置いてある事からも分かる通り、エアコンはなし。 窓と入り口の扉は、全開です。 しかし、私は、扇風機の風が、正面から当たる席に座ったので、暑さは、さほどではありませんでした。

  注文したのが、11時35分、ソーキそばが出て来たのが、37分。 速っ! さすが、メイン・メニューというべきか。 予め、運転手さんに教えてもらったところでは、「ソーキ」というのは、豚の肋骨の事で、肋骨が付いた肉が載っているから、「ソーキそば」。 何も載っていなければ、「沖縄そば」と呼ぶとの事。 具によって名前が変わるだけで、そばとスープは、同じものなのだそうです。 味は、八重山そばと、区別がつきませんが、麺は、ちょっと違っていて、八重山そばは、断面が丸いのに対し、沖縄そばは、少し平たいです。 ただし、きしめんほどの幅はありません。

  で、初めて食べた、ソーキですが、骨込みで、5センチ四方、厚さ1センチくらいのが、2枚載っていました。 肉は柔らかくて、おいしかったですが、骨は、もちろん、食べられないわけで、ちと、手こずりました。 箸で骨を挟み、歯で肉をもぎ取る形になるのですが、箸と骨は相性が悪く、よく滑る。 面倒なので、指で骨を抓んでしまいました。 沖縄のそば屋さんは、お上品に気取って食べるような雰囲気ではない点、土地のマナーを知らない者にも、ありがたいです。 この骨、知らずに、ガチッと噛んでしまうと、歯を傷める恐れあり。 予め、骨付きである事を、聞いておいてよかったです。

ソーキそば


  食べている間に、ざーっと雨が降って来ました。 タクシーは、すぐ隣の駐車場にいるのですが、そこまで歩く間に、ズブ濡れになりそうな降りだったので、しばらく、軒下で待ちました。 そういや、まだ、店に入る前でしたが、前の道を、観光水牛車が通っていました。 この旅で、水牛を見たのは、ここで、6頭目です。 何気に、遭遇率が高い。 水牛車観光をやっているという事は、この辺にも、古い家並みがあるんでしょうかね。 雨がやんだので、タクシーへ。 


≪沖縄美ら海水族館≫
  すぐ近くの、≪美ら海水族館≫へ。 「美ら海」は、「ちゅらうみ」と読みます。 ここは、1975年の≪沖縄海洋博覧会≫の会場跡地に出来たもので、≪海洋博公園≫という大枠の中に、水族館が入っているという形です。 しかし、そんな過去よりも、現在の水族館の方が、有名ですな。 もう、海洋博を知っている世代も、随分減った事ですし。 普通にテレビを見ている人なら、動物番組やバラエティー番組で、一度は、この水族館の映像を見ているはずです。

  巨大な立体駐車場がありますが、私が行った時には、ほぼ、満車でした。 「わ」ナンバーのレンタカーが、ぎっしり。 そこ以外にも、いくつも駐車場があるそうで、どれだけの人が押し寄せているのか分かりません。 月曜日だったんですが、子供は夏休みだからいいとして、大人は、勤めをどうしてるんですかね? みんな、有休? 随分、寛容な会社が多いものですな。

  敷地が広大なので、駐車場から水族館まで、少し歩く事になります。 運転手さんが、チケット売り場までついて来てくれて、途中、何枚か写真も撮ってくれました。 雨が、時折降ってくるので、タクシーのトランクに入っていた傘を貸してくれました。 さすが、プロだけあって、備えは万全ですな。 水族館の見学時間を、1時間半取ってあったので、「見る間は、傘が邪魔になるだろう」と言って、持って帰ってくれたのも、至れり尽くせり。

美ら海水族館


  ここの入場料は、大人、1850円。 自治体運営でない水族館は、押し並べて、高いですが、その中では、中の上といった値段でしょうか。 私は、○△商事から送られて来た、クーポンがあったので、一円も払いませんでしたが、家族連れで来た衆等は、中で、飯でも喰った日には、万札飛びますな。 ところで、旅行社を通して予約するクーポンですが、持って来る客が少ないのか、所によっては、受付係が、どう処理していいか分からず、上司に訊きに行ったりして、時間がかかる事があります。 ここでも、ちょっと、それっぽい対応でした。

  で、この水族館ですが、1850円払う価値があるかというと、それは、確実にあります。 ただし、その評価は、一般的な水族館としてではなく、「ジンベエザメを、大水槽で見られる水族館」としてのものです。 大水槽以外は、別に、高レベルというわけではなくて、≪鳥羽水族館≫などと比べると、かなーり、「ふつー」です。 「高いけど、それだけの価値はある」という所と、「金返せ!」という所がある中では、ギリギリで、前者という感じ。 ジンベエザメ、様様ですな。

  と言いますか、あーまりにも、人が多過ぎて、大水槽以外の水槽は、一つたりとも、まともに見れなかったのです。 芋を洗うと言ったら、芋に失礼。 よくもまあ、こんなに人間ばかり集まったものです。 まーた、クソガキどもが、水槽のガラスにへばりついて、離れないんだわ。 どうせ、見た端から、忘れてしまうくせに。 一分以上、前にいたら、電気ショックが流れるようにしたらいいと思います。

人だらけ


  水族館のサイトでは、混雑する時間帯を断ってあるようですが、「夕方なら、空く」と言われても、そんな時間に来れるのは、地元在住者でなければ、近くのホテルに泊まっている人だけです。 料金を取って、中に入れておいて、「人が多過ぎて、見れない」って、見せてナンボの観光施設として、如何なもんなんですかね? むしろ、「昼間は、大水槽以外、まともに見れません。 混雑が嫌な方は、無駄足になりますから、来ないで下さい」と書いておいた方が、正直で宜しいです。 実際、そうなんですから。 人いきれで、空気はよどんでいるわ、喧しいわ、汗臭いわ、香水臭いわと、劣悪・極悪な環境で、人の頭だけ見て帰って来るのでは、何しに行ったのか分からん。

  こんな思いをしたのは、2001年に行った、≪名古屋港水族館≫以来です。 「人気があるのは、いい事だ」などと、笑っている場合ではないのであって、工夫次第では、混雑を避けられるのに、なぜ、建物の設計前に、そういう研究をしないかなあ? なまじ、順路を辿る方式にしてしまうから、人が滞ってしまうのです。 一見、客の流れがいいように見えて、実際には、全く逆なのです。 展示室をバラバラにして、見る順番を自由にしてしまえば、客は、空いた所から見ようとするから、自然に、分散して行きます。

  私が、水族館の評価に、敵意を感じる程に点が辛いのは、入館料が高い割に、展示の充実度が低かったり、一人客を差別したり、不快な思いをさせられる事が多いからです。 バブル時代、都市部の水族館が、デート・スポットとして持て囃されましたが、それが、水族館の運営者を、よーく、増長させてしまったんですな。 何とも、馬鹿げた話で、デートできる所ならどこでもいい、性欲エンジン駆動の下司どもに媚び諂い、魚介に興味がある人間に敷居を高くしていたのでは、水族館の存在意義そのものが疑われるというもの。 金が欲しいだけなら、水族館経営などやめて、銀行でも始めれば宜しかろう。

  一般論的怒りはさておき、ここの大水槽は、確かに凄い。 大水槽の前には、オペラハウス並みの大空間があり、人が多くても、見るのに不自由はありません。 ジンベエザメは、三頭いて、内、一頭がオス。 サメは、ぺニスが2本あると聞いた事があったのですが、本当に、2本ありました。 外に露出しているんですな。 他に、マンタもいて、混泳していますが、さしもの巨大なマンタも、ジンベエザメの大きさの前には、風呂敷くらいにしか見えません。 マンタはマンタで、別の水槽で見せれば、もっと、感動するかも知れませんな。

大水槽のジンベエザメ


  外へ出ると、「オキちゃん劇場」、「イルカラグーン」、「ウミガメ館」、「マナティー館」などが、広大な敷地に分散しています。  ちょっと分かり難いですが、これらの施設は、水族館ではなく、海洋博公園の所属で、無料だとの事。 しかし、水族館から出て来た流れで、そちらに回った客は、その事に、全く気づかないでしょうな。 私も、帰って来て、ネットで調べるまで、知りませんでした。

  「オキちゃん劇場」というのは、イルカ・ショーをやる所。 「オキちゃん」というイルカもいました。 1975年の海洋博の時にも、「オキちゃん」というイルカがいましたが、まさか、39年も前の個体が、現役でショーに出ているとも思えないので、名前を受け継いでいるのでしょう。

  ここのショーは、異なる種類のイルカが、一つのプールで、同時に演技をするのが特徴です。 演目自体は、オーソドックスなもの。 琉球民謡に合わせたダンスは、オリジナルですが、踊っているというのか、回っているというのか、微妙な感じ。 観客席が大きいので、後ろの方にいると、投げた物を取って来るといった、細かい演目は、見づらいです。 ジャンプは見事。 余談ながら、水族館によっては、ジャンプもできないレベルで、客にショーを見せているところもあります。

オキちゃん劇場 (遠景に伊江島)


  最後に、オキゴンドウという大型のイルカが、低くジャンプした後、腹から水面に落ち、プールの前に集めた子供達に、ザブンと水しぶきをかけるというコーナーがありました。 アナウンスがあった時点で、嫌な予感がしたのですが、案の定、クソガキどもが集まるのに時間がかかり、そのコーナーだけで、7・8分費やしてしまいました。 「危険なので、肩車はしないでください」と言っているのに、肩車をしているバカ親がいて、どんどん時間が過ぎる。

  ショー全体の長さが、20分しかないのに、子供とその親以外、全然面白くない、こういうコーナーを入れるのは、問題ありです。 ここだけでなく、他の水族館のショーでも、誕生日の子供にイルカやアシカが、プレゼントを渡すといった、一部の客だけを対象にした演目を入れている所は多いですが、他の客は、その間、アホ面をして待っていなければならないわけで、あんな理不尽な事はありません。 というわけで、気分を害して、その場を後にしたのですが、帰って来てから、そのショーが、無料だったと分かり、憤懣が消えました。 無料では、客に、文句を言う資格はありませんからのう。

  ウミガメ館には、水族館で割とよく見る、アカウミガメ、アオウミガメ、タイマイの他に、ヒメウミガメと、クロウミガメがいました。 クロウミガメというのは、初めて聞いた。 ただ、アオウミガメと種の違いが判然としていないのだとか。 成体だけでなく、ウミガメの子供もいました。 孵化したばかりのも可愛いですが、甲長20センチくらいになったものは、成体と相似形で、色柄も近いので、なんだか、精巧に出来た模型のようで、面白いです。

  マナティー館。 沖縄の海獣と言えば、ジュゴンなので、てっきりぽっきり、ジュゴンだとばかり思って、見に行ったんですが、感想は、「なんだか、マナティー、そっくりだな・・・」。 それもそのはず、マナティーそのものだったんですな。 ちゃんと、館名表示を見ろっつーの。 サイトの解説では、親子三頭いるとの事ですが、私が見たのは、成体二頭だけ。 うち、一頭は、眠っているようで、微動だにしませんでした。


≪ネオパークオキナワ≫
  水族館から、タクシーに戻ったのが、午後1時30分。 契約は、3時までなので、まだ、時間があります。 運転手さんが、もう一ヵ所、どこかへ寄れると言って、「パイナップルと、鳥、どっちがいいですか」と訊いて来たので、迷わず、「鳥です」と答えたら、≪ネオパークオキナワ≫という所へ連れて行かれました。 鳥を中心に、かなりの種類の動物を集めた、テーマ・パークです。 その場で決まったので、もちろん、クーポンの用意はありません。 自腹、660円。 痛い・・・、身を切られるようだ。

  私も、抜けているといえば抜けていて、時間が余っているのなら、太平洋岸の、辺野古の方を見に連れて行ってもらえばよかったのです。 水族館を見た直後に、動物園に行って、どうする? 沖縄本島は、幅が狭いので、本部半島の付け根の、名護市街地まで来てしまえば、同じ名護市内ですから、辺野古まで足を延ばすのは、わけはありません。 前の晩に、もっとよく、地図を見ていたらなあ。 どんな交通機関を使うにせよ、下調べは、大切ですな。

  とはいうものの、このネオパーク、思ったよりも、ずっと、中身が充実していて、結果オーライの所でした。 動物好きであれば、恐らく、美ら海水族館より、こちらの方が、満足度は高いと思われます。 山林の中に、「フラミンゴの湖」、「アマゾンのジャングル」、「オセアニアの乾燥林」などのゾーンが作られていて、それらの地域独自の動物が、環境展示されています。 動物園のような、個別のケージは部分的で、極力、自然状態に近い形で飼っている感じ。

  鳥類、哺乳類、爬虫類、魚類まで、ざっと見て、100種類くらいはいるんじゃないでしょうか。 これだけいて、660円なら、リーズナブルと言えます。 目についた大きな動物だけ、ざっと並べますと、フラミンゴ、カンムリヅル、ショウジョウトキ、ヒクイドリ、エミュー、ダチョウ、シチメンチョウ、シロクジャク、オオサイチョウ、オニオオハシ、ワラビー、リャマ、カピバラ、ヤマアラシ、ペッカリー、アルダブラゾウガメ、マレーハコガメ、ピラルク・・・。 まあ、とにかく、種類は、たくさんいるわけです。

  ペッカリーという、イノシシの近縁種が、10頭くらい、いました。 これが、とてつもなく、可愛らしい。 ミニブタをペットにしている人は、結構いますが、ペッカリーを見たら、もう二度と、ミニブタを愛せないでしょう。 イノシシとカピバラを足して二で割って、サイズを小型犬くらいにした感じ。 南米原産だとの事。 10年くらい前、まだ健在だった、伊豆天城の≪イノシシ村≫の中に、≪イノシシ博物館≫というのがあり、そこの解説で、ペッカリーの存在は知っていたんですが、現物が、こんなに可愛らしいとは、思いもしませんでした。

ペッカリー


  ところで、このネオパークには、かの有名な、「ヤンバルクイナ」がいました。 運転手さんも、それを見せたかった様子。 「国際種保存研究センター」という建物があり、十数種類の動物が、個室式の屋内ケージで飼育されているのですが、その一番奥まった所に、ヤンバルクイナの部屋がありました。 ドキドキしながら覗いてみると、フキのような植物の葉の陰に・・・、いたいた、ほんとにいるよ、ヤンバルクイナだよ、初めて見たよ、というか、一生見れるとは思ってなかったよ、長生きはするもんだね、退職して沖縄旅行に来れてよかったなあ。

  惜しむらく、葉陰の暗い所にいるものだから、撮る写真が、全部、ブレます。 4回撮り直して、4回とも、ブレブレ。 カメラのブレ防止機構が簡易式だから、これ以上の写真は無理と思い、諦めました。 珍しい物を見て、興奮していたので、気付きませんでしたが、もしかしたら、撮影禁止だったのかも知れません。 もし、そうだったら、ご容赦。 フラッシュは常時不作動にしてあるから、ヤンバルクイナに、害はなかったと思いますが。

ヤンバクイナ


  実は、国際種保存研究センターの建物は、入園料とは別に、300円取るのですが、ヤンバルクイナが見られたのだから、文句はありません。 思い起こせば、ヤンバルクイナが発見されて、ヤンバルテナガコガネと共に、一世を風靡してから、もう、30年以上、経つんですねえ。 私も歳を取るはずです。 何だか、中途半端に懐かしい。


≪アグー豚≫
  2時50分に、ネオパークを出て、ホテルへ向かいます。 途中の交差点で、信号待ちで停まった時、隣のトラックの荷台に、黒い毛並みの豚が、4頭ばかり載っているのを見つけました。 タクシーの運転手さんが言うには、たぶん、アグー豚だとの事。 沖縄の固有種の豚で、食用。 しかし、毛並みはツヤツヤと美しく、馬や黒毛和牛のような、厳かな存在感がありました。 おいしい肉らしいですが、さもあらんという感じ。 たまたま偶然ですが、現物を見られて、幸運でした。


≪ホテルの夜≫
  午後3時ちょい過ぎに、ホテルに戻りました。 翌日の、7月29日(火)は、日程表では、フリー・タイムなのですが、「まだ、どこへ行くか決めていない」と言ったら、運転手さんから、「電話してくれれば、案内しますよ」との提案。 「いくらですか?」と訊いたら、「○万円」と言われ、絶句しました。 福利ポイントの消化だから、乗れるのであって、自腹じゃ、問題外ですな。 やはり、貸切タクシーというのは、贅沢な観光手段なのだと、痛感しました。 タクシーが駄目とはっきりした以上、旅行に出る前から温めていた計画である、「路線バスで、辺戸岬行き」を実行に移すしかありません。

  フロントに行って、キーを出してもらいましたが、一日毎に、外出から帰って来た時に渡すと言われていた食券を、朝食券しかくれませんでした。 相手は、初めて見る、若い女性の係員です。 「あのう、夕食券は?」と訊いたら、何か調べ始め、そうしている間に、昨日、チェック・インした時に応対した、別の女性係員が、「失礼しました」と言いながら、夕食券をよこしました。 リゾート・ホテルの場合、普通に予約すると、夕食はつかないケースが多いらしいので、私も、そうだと思われたのでしょう。 だから、チェック・インの時に、三泊分、纏めて渡してくれれば良かったのに。

  タクシーを下りる時、運転手さんに、「夕方になったら、浜へ涼みに行くといいですよ」と言われたので、荷物を部屋に置いてから、もう一度、外出しました。 面倒臭いので、キーは、ポケットに入れたままです。 まず、向かいのホテルの一階にあるコンビニへ行き、その夜の分のビスケットと、翌日、たぶん、乗るであろう、辺戸岬行きのバスの中でなめる、飴を買いました。 沖縄らしく、「まーさっさー・シークァーサー・キャンディー」という品。 小袋ごとに、沖縄語の単語が、日本語訳つきで載っているというもの。 「まーさっさー」というのは、「おいしい」という意味らしいです。

  向かいのホテルの横から、浜を見下ろせる場所に出ました。 綺麗な砂浜ですが、下りて行くほどは、興が乗りません。 それに、靴ではねえ・・・。 ふと、「島ぞうり」が欲しくなりましたが、買うとなると、安いのでも、500円はする事を思い出し、瞬間的に諦めました。 もし、100円ショップがあれば、置いてあるような気もするんですが。

  幸喜のバス停まで歩いて、翌日の朝の名護行きのバスの時間を調べます。 7時26分というのがありますが、朝食は、7時からですから、それでは、あまりにも、忙しないです。 フロントに理由を話して、10分くらい早く食べさせてもらおうかとも思いましたが、そういう、特別扱いをお願いするのは、大いに気が引けるところ。 ふと見ると、次の便に、7時41分というのがあり、15分しか空いてません。 どうせ、名護で乗り換えるのですから、それで行っても、間に合いそうです。 なんだ、そうだったのか。 フロントに変な話を持ちかけなくて良かった。

  後は、事もなし。 バイキングを食べて、洗濯して、シャワーを浴びて、日記を書いて、寝ました。 ホテルに戻って来るのが、早いと、夕方から夜にかけて、のんびり過ごせます。 時間の無駄といえば、無駄なんですが、生身の人間ですから、少しはゆとりも必要ですな。



≪七日目、まとめ≫
  この日の圧巻は、やはり、今帰仁城でした。 石造の遺跡には、他と比較できないロマンがあります。 それを、長い年月、残して来た、土地の人々も偉いです。 石だからこそ、残す気になるんでしょうなあ。 それを積んだ人の苦労を考えると、簡単には壊せませんものねえ。

  次が、ソーキそば。 うまいんだなあ、沖縄系のそばは。 本気で攻勢をかければ、日本のラーメン屋を、軒並み、商売替えさせる事もできるような気がします。 嘘だと思ったら、最寄の沖縄料理店へ行って、食べてみなさいって。 本場のは、それ以上に、うまいわけだから。

  美ら海水族館は、大水槽のジンベエザメのみ、グッド。 他はどうにも・・・。 とにかく、ああ、人が多くては、評価のしようがありません。 ネオパークは、全く、事前情報なしで入ったわけですが、十二分に見応えがありました。 ヤンバルクイナよ、永遠なれ。 ペッカリー、沼津近辺の動物園におらんかなあ。

  それらはさておき、今回の記事も、長引きましたなあ。 実は、書くのに、三日もかかっています。 たった一日の出来事を書き記すのに、三日かかるとは、非効率極まりない。 手抜きの限りを尽くせば、逆に、三日間の出来事を、一日で書く事もできるわけですが、それをやると、ただの、「コメント付き日程表」になってしまうから、そうもいかぬ。

2014/09/14

さよなら、宮古島

  沖縄旅行記の六日目です。 ようやく、半分を過ぎたか。 これを書いている時点で、沖縄旅行は、すでに、一ヵ月半も昔の事になっており、細かい記憶は、どんどん薄れつつあります。 日記があるから、欠けた部分を補って、復元できるのです。 旅行中、苦労して書いておいて良かったと思う一方で、「どうせ、旅行記に書き直す事になるのなら、日記の方は、箇条書きでも良かったかな」とも思います。

  ちなみに、写真も、日記を補足する上で、とても役に立ちます。 日記というのは、乗り物の待ち時間や、就寝前など、暇が出来た時に、過去数時間の事を思い出しながら書くので、時刻は曖昧になりがちです。 その点、デジカメは、撮影時刻が記録されるから、写真さえ撮っておけば、何時何分に何をしていたという事が、容易につきとめられるわけですな。 旅行に出かける前には、カメラの時計を、正確に合わせておかねば。

  ちなみに、沖縄旅行に持って行ったのは、2012年の夏に買った、≪FUJI FINEPIX JX550≫です。 SDカードは、512MBのと、2GBの二枚で、先に、512MBの方を使ったのですが、途中で、満杯になってしまい、2GBのに入れ替えました。 最初から、2GBのを入れておけば、入れ替える必要はなかったのですが、リスク分散も念頭にあったので、そうした次第。 カメラの紛失とか、水没でオシャカとか、不慮の事故が起きた場合、撮影済みのメモリー・カードを別にしておけば、そちらだけは助かるという仕組みです。

  カメラは、常に、シャツの胸ポケットに入れ、すぐに出せるようにしていました。 その為に、≪JX550≫を買ったと言っても、過言ではない。 私は普段、もう一台、高倍率ズーム機の≪PENTAX X70≫というのも使っているのですが、そちらは、大き過ぎて、旅行にゃ、とても、持って行けません。 そういや、他の旅行客を見ていると、デジタル一眼に、望遠ズームをつけている、オッサン、ジーサン達を、非常によく見かけますが、撮影旅行に来ているのならともかく、観光が主目的であれば、あんなデカいカメラは、行動の制約になるだけです。

  家族で旅行に来ているのに、父親が写真趣味で、撮影スポットにへばりついてしまうので、なかなか、先へ進めず、他の家族が大迷惑、というのは、よく見る光景です。 集団行動している事について、配慮が足りず、自分の趣味を優先するというのは、精神年齢が、子供のままの証拠。 そんなに、芸術写真をものにしたかったら、一人で来なさいよ。 そも、芸術写真にしてからが、観光旅行のついでに撮れるような簡単な物ではないです。

  逆に、滅多に来れない遠出の旅行なのに、スマホで済ませるというのも、いかがなものかと。 たとえば、家族で来ていて、「記念写真は、お父さんがデジカメで撮ってくれるから、お母さんは、スマホで補足」というなら分かりますが、スマホだけっつーのはねー・・・。 スマホやケータイ・カメラの最大の問題点は、カメラ・モードに切り替えるのに、時間がかかる事でして、デジカメのように、電源ボタンで起動させれば、あとはシャッター・ボタンを押すだけ、というわけには行きません。

  景勝地の撮影スポットで、一番腹が立つのは、スマホのカメラ・モードを呼び出すのに手間取っている馬鹿で、たった一枚の写真を撮るのに、1分以上かかる場合もあり、順番を待っているこちらは、「束~頁むから、景勝地で、スマホ撮影すんの、やめてくれ~」と思うのです。 何が不様と言って、自分の所有物なのに、使い方が分からずに四苦八苦している奴ほど、惨めなものはない。 猿か? そもそも、おまいら、デジカメ、買えんのか? 今じゃ、5倍ズーム機が、8000円もせんぞ。


  はっ! 何を長々と、カメラ話なんぞ書いているのか! それでなくて、遅れに遅れている旅行記が、まるで進まないではないか!


  で、沖縄旅行の六日目、7月27日(日)です。 この日は、宮古島から、沖縄本島へ移動する日。 と言っても、飛行機の時間は、午後1時25分ですから、午前中は、丸々空いている事になります。 ○△商事の日程表では、「出発まで、フリー。 各自空港へ」となっていて、この記述には、結構、考えさせられました。 街から遠く離れたリゾート・ホテルにいるわけで、「フリー」と言われても、徒歩では行ける所が限られています。

  空港への足は、ホテルの送迎バスがあるから、自腹を切らなくても済むのですが、厄介なのは、ホテルを出る時間でして、11時までにチェック・アウトしなければならないのに対し、バスの時間は、11時40分で、ホテルの狭いロビーで、40分も待たなければなりません。 どうも、このホテル、送迎バスでも、シャトル・バスでも、時間の調整が、うまく行きませんな。 所詮、隣のホテルのオマケだからでしょうか? 隣のホテルに泊まっていれば、全て、ピタピタとうまい具合に進むのだとしたら、腹立たしい事です。 まあ、その分、こちらのホテルの方が、宿泊代は、安いんでしょうけど。

  で、宮古島に到着した初日の夜に考えたのが、「すぐ隣に、≪ドイツ村≫があるのだから、27日の午前中にそこを見る事にして、26日の貸切タクシーでは、それ以外の所を回ってもらおう」という算段でした。 ところが、貸切タクシーの運転手さんは、私が何も言わなくても、ドイツ村には行きませんでした。 出発前に、私が、「史跡と景勝地が見たい」と言ったので、ドイツ村はそのどちらでもないわけで、自動的に避けてくれたという事が、考えられる一つの理由。 もう一つは、ホテルのすぐ隣にありますから、「わざわざ、タクシーで寄らなくても、歩いて行くだろう」と判断してくれたのでしょう。


≪ホテルの朝≫
  5時50分頃、目覚めました。 前の晩、8時には眠ってしまったので、断続的ながら、9時間以上眠った事になり、ホテルでの睡眠としては、充分と言えます。 なぜ、この夜、たっぷり眠れたか考えるに、たぶん、翌日が、フリー・タイムと移動日で、他人に気を使わずに動けると思って、緊張が解けたのでしょう。 緊張し過ぎても眠れないし、弛緩し過ぎても眠れないし、人間の精神状態というのは、厄介なものです。

ドイツ村博愛館から昇る朝日


  このホテルは、長期滞在者向けなので、宿泊中、ホテル側の掃除は入りません。 タオルやシーツなど、アメニティー類は、各階のエレベーターの前にある箱に、自分で入れに行き、替えが必要なら、フロントから貰ってくるというシステムです。 私の場合、たった二泊で、しかも、ツインの部屋を一人で使っていたので、タオル類は充分にあり、わざわざ替えを貰いに行くまでもありませんでした。

  使ったタオルは、浴室や洗面室に置きっ放しだと、不潔な感じがするので、この朝、洗面が済むなり、箱へ入れに行きました。 その後、着替えて、寝巻きも入れに行ったのですが、ここで、ちょっと考えました。 「寝巻きを入れたとなると、シーツも入れなければならないような気がするが、それでは、あまりにも、多くなり過ぎないか? 箱が満杯になってしまうぞ」と・・・。 しかし、悩み始めたのも束の間、「下らん! どうせ、今日でチェック・アウトするんだから、そのままにしておけばいいではないか」と思い直しました。

  どうも、こういう所に泊まると、手のかからない、模範的な客を演じようとして、余計な事ばかり思いつきます。 掃除係は、片付けるのが仕事なのだから、客の方は、過度にちらかしたり、汚したりしなければ、それで、充分なのです。 部屋を出る時に、トイレット・ペーパーの先を三角に折ってやる必要など、更になし。 感心・感謝されるどころか、「変な客」と、逆に馬鹿にされてしまいます。

  下らない話を、もう一つ。 クローゼットの扉が、金属製で、屏風式に開くのですが、片側が、ガタガタして、動きが悪い。 背伸びして、見てみたら、上側の突起が、レールから外れていました。 ここで、また、悩みます。 最初に部屋に入った時には、すんなり開閉していたのだから、外したのは、私という事になります。 という事は、このままにしておいたら、器物破損という事になり、後で、家に電話が来て、損害賠償請求されるのではありますまいか? それは、面倒臭い。

  で、あれやこれや弄って、構造を観察した末、突起がレールに入る位置を発見し、何とか、元に戻しました。 しかし、よく考えてみると、理不尽な話です。 私が、乱暴に扱って壊したというならともかく、普通に使っていたのに外れてしまったのですから、元から外れ易くなっていたに違いありません。 なんで、私が、こんな所で、クローゼットの修理をせねばならんのよ? しかも、更に腹が立つ事に、直った瞬間、少なからぬ達成感を覚えてしまったのです。 あああ、宮古島まで、何しに来ているのだね、私は・・・。

  朝食のために、隣のホテルへ。 この朝は、シャトル・バスに乗りました。 理由の第一は、汗を掻きたくなかったから。 ≪ドイツ村≫の観光は、そんなに時間がかかりそうではなかったので、時間のゆとりは充分にあり、シャトル・バスの始発時刻、7時55分まで待っても、問題なかったというのが、第二の理由。

  朝食は、また、バイキング専門レストランです。 ここへ来てから、四食すべて、バイキング。 後から考えると、一回くらい、他のレストランへ行っても良かったのですが、とにかく、面倒臭い事を避けたかったんですな。 まったく、食事というのは、菓子パン一個で済む時もあれば、数千円の予算を使い、コース料理を食べなければならない時もあり、一筋縄では行きません。

  コース料理は、贅沢で高級なものと見られていますが、温かい料理が冷めず、冷たいデザートが融けないというだけメリットしかなく、食べる順番に自由が利かないという点で、デメリットの方が多いと思います。 すなわち、客の意思より、店の意思が優先するわけですが、世の金持ち達が、大枚はたいて、自ら、そんな弱い立場に身を置きたがるのは、滑稽の窮みですな。

  何を食べたかは、四回とも、詳しくは覚えていません。 このレストランは、バイキング専門店だったので、普通の、ホテルの食堂で用意されるバイキングよりは、品数が豊富でした。 しかし、沖縄に関しては、どこも、そんなに大きな差はなかったように思えます。 好きなものしか取らないので、そもそも、まずい物に当たる確率は少ないのですが、その事を別にしても、沖縄料理には、外れがありませんでした。 素材の味に頼らず、調理でうまくする系統の料理だからでしょうな。


≪うえのドイツ文化村≫
  レストランを出て、すぐ隣の、ドイツ村へ。 正式名称は、≪うえのドイツ文化村≫で、「うえの」というのは、平成の大合併で、宮古島市が出来る前の、この地区の自治体の名前です。 ちなみに、合併前に存在していたのは、平良市、伊良部町、上野村、城辺町、下地町。 上野村だけ、村ですが、確かに、この辺には、大きな街がありません。 だからこそ、リゾート施設が出来たとも言えます。

  なぜ、宮古島に、ドイツ村があるかというと、1873年に、ドイツの商船が、近くで座礁し、それを上野村の村人が助けたのがきっかけで、ドイツとの交流が始まり、1996年に、この施設が作られたのだそうです。 長崎のハウステンボスほどではありませんが、一応、歴史的経緯があるわけで、商業主義オンリーで、テキトーにデッチ上げられたテーマ・パークよりは、正統な感じがします。

  このパターンをなぞるなら、石垣島は、≪唐人墓≫の近辺に、≪ふさき中国文化村≫を作る権利を留保する事になるわけですが、あちらの場合、歴史的事件の内容が悲惨なので、テーマ・パークにゃ向かないかもしれませんな。 そういや、私が住んでいる沼津市の戸田地区(旧戸田村)は、幕末に駿河湾で沈んだロシアのディアナ号乗組員を受け入れて、洋式帆船を建造したりしていますから、≪へだロシア文化村≫を作る権利があるわけだ。 しかし、戸田は、土地が狭いから、厳しいかな。 ディアナ号の乗組員を救助したのは、富士市の宮島村なので、富士市も、≪みやじまロシア文化村≫を作る権利があり、そちらに取られてしまうかも知れませんな。

  冗談はさておき、ドイツ村を見るに当たって、疑問に思うのは、やはり、「わざわざ、宮古島に来たのに、なぜ、ドイツ文化に親しまなければならないのか?」という事ですな。 宮古島の文化が、ドイツの影響で、変化し、ドイツ料理が定着しているとかいうなら、また、話は別ですが、それほど深い関わりではない様子。 その辺は、長崎や、横浜、神戸、函館といった、外国との交易港になっていた所と、大きく事情が異なる点です。

  前日の夕食の時に、近道をする為に、ドイツ村の敷地内を、すでに通っていたのですが、この時は、正式に訪ねたので、一度道路に出て、正門から入り直す事にしました。 書き忘れていましたが、この道路には、「ナンヨウスギ」の並木があります。 この木、見上げるような高さで、二等辺三角形の樹形を持つのですが、濃い緑色の葉がフサフサと、柔らかそうな見た目で、一種、現実離れした存在感があります。 てっきり、沖縄に昔からある木かと思ったんですが、タクシーの運転手さんに訊いたら、割と最近になって、植えられ始めたのだとか。 帰ってから調べたら、オーストラリア原産でした。

ナンヨウスギの樹形(左)/ フサフサの葉(右)


  ドイツ村は、入園だけなら、無料なので、門には誰もいません。 門の上には、

WILLKOMMEN !
うえのドイツ文化村
Ueno German Culture Village

  と、書いてあります。 なぜか、一番下は、英語。 ちなみに、ドイツ語では、ドイツの事を、「Deutschland(ドイチュラント)」と言います。 ついでながら、フランス語では、ドイツの事を、「Allemagne(ラルマン)」と言います。 頭が、キリキリして来ますな。 日本が、いつまで経っても、「ジャパン」とか、「ヤーパン」とか、「ハポン」とか言われるのも、致し方ないか。

  テーマ・パークに分類されていますが、遊園地的な施設は皆無で、「資料館がある、公園」とでも言った方が、正確にイメージできると思います。 園内は、そこそこの面積がありますが、「レジャー・シートを敷いて、お弁当を食べる」といった行為は、些か、ためらわれる程度の広さ。 すでに、9時15分くらいになっていましたが、園内には、誰もいませんでした。 凄い! 私の貸切だ!

  まずは、園内運河の端の部分を利用した、ケヅメリクガメのケージに寄りました。 リクガメですから、もちろん、この部分には、水はありません。 前日の夕食の後、ここを通って、ケージがある事を知ったんですが、その時は、亀の姿がありませんでした。 「夜は、取り込むのかな?」と思っていたのですが、朝行っても、やはり、いません。 名前は、「のこちゃん」と書いてありましたが、どこに行ったんだろう? 推定年齢、35~45歳。 うーむ、さぞや立派な、ケヅメリクガメだと思われるのですが。

  次に、「シュレーダー首相 来島記念碑」へ。 2000年の沖縄サミットに参加した時、ここへ寄ったのだそうです。 沖縄サミットというと、ついこないだのような気がしますが、もう、14年も経つんですなあ。 ちなみに、シュレーダー氏は、2004年に他界しています。 当時のサミット参加者で、今でも現役で、トップの地位にあるのは、ロシアのプーチン氏だけ。

  メイン施設である、「博愛記念館」へ。 ドイツのマルクスブルグ城を模した建物で、遠くから見ると、ヨーロッパの城そのもの。 でも、近くに寄ると、石垣も石積みの壁も、セメントに鏝で模様をつけた、「似せ物」である事が分かります。 たぶん、建物の本体は、鉄筋コンクリートなのでしょう。 しかし、これは、無理もない事で、本当に石積みの城を作ったら、いくらかかるか、分かったもんじゃありません。

シュレーダー首相来島記念碑と博愛記念館(左)

博愛記念館の、鏝で作った石垣模様(右)


  それはいいとして、私にとって問題だったは、この博愛記念館が、有料だという事実です。 しかも、750円! 宮古そばが食べられる値段ではありませんか。 これは、払えんわ。 という事で、パス。 ドイツ村のサイトによると、中には、展望室や、マルクスブルグ城の「騎士の間」、「婦人の間」、「礼拝堂」、「台所」を再現した部屋、それに、「ドイツ商船救助物語」の展示などがあるそうです。 せめて、200円くらいなら、入ったんですがね。

  城の周りをぐるりと回った後、「キンダーハウス」へ。 この中には、グリム童話に関する資料や、ドイツの玩具の他に、目玉として、「ベルリンの壁」の本物が、二枚、展示してあるとの事。 ここも有料で、210円。 高くはないですし、玩具とベルリンの壁はともかく、グリム童話には、幾分、興味があります。 しかし、朝食後に、ぐいぐい歩いたせいで、腹が重くなり、体もだるくなって、資料を見て回る気力が出ず、結局、パスしました。 入口から覗くと、衝立の向こうに、ベルリンの壁の上の部分が飛び出していたので、外から写真だけ撮って来ました。

キンダーハウス(上)/ ベルリンの壁の上端(下)


  「ンナト浜」へ。 「ソナト」の間違いかと思ったんですが、ドイツ村のサイトでも、「ンナト」になっており、正しいようです。 アフリカ言語以外にも、「ン」で始まる単語が存在したのか。 小さな砂浜ですが、ここが、遭難者を救助した現場らしいです。 地元の子供達の遊び場になっていると事。 入園無料だから、そういう事が可能なわけですな。 この近所の子供達は、幸せだ。 もっとも、私が見た限りでは、ここまで、徒歩で遊びに来られる範囲内に、一般の住宅は見当たりませんでしたが・・・。 

  近くに、「ドイツ商船遭難の地碑」があります。 手すりが付いた、台座の上に、四角柱の石碑が載っていて、何だか、お墓みたいに見えます。 碑文の字を書いたのは、戦前・戦中の首相、近衛文麿。 しかし、碑が建てられたのは、1936年なので、1940年の「日独伊三国同盟」とは、直截の関係はない様子。

  「博愛橋」という、古色のある、ヨーロッパ風の橋がありました。 しかし、建設年を見たら、「平成5年」でした。 一見、アーチ橋のように見えますが、こんなに長くて平たいアーチで、強度がもつわけがないので、たぶん、本体は鉄骨橋なのでしょう。 そこを渡ると、「パレス館」という、ドイツ村の中で、最も、しっかりした造りの建物があります。 現在、休館中との事で、入れませんでした。 何に使われていたのかも不明。

  パレス館の前から海に突き出た、突堤あり。 その中程の場所から、西の方を見ると、海の中に、「ハート岩」があります。 ここの、ハートも、池間島のと同じで、海食された穴の部分が、ハート形に見えるというもの。 しかし、私が行った時には、下3分の1が海中に没していて、ハート形として見るには、大変な困難を感じました。 周囲の岩場には、打ち上げられた珊瑚の破片が、ごろごろしています。

  これで、ドイツ村の観光はおしまい。 東の方には、「シースカイ博愛」という名の、「半潜水式水中観光船」の乗り場があるらしいのですが、乗船料2000円で、とてもじゃないが、払えないので、最初から、見に行きませんでした。 パレス館から、そのまま、西側の門を出て、道なりに歩いて行ったら、私が泊まっているホテルの敷地に出ました。 なんだ、こんな近道があったのか! 最初から知っていれば、隣のホテルまで、5分くらいで歩けたものを・・・。 もう二度と通らないという時に知って、どうする?


≪宮古空港へ≫
  ホテルの部屋に戻ったのが、10時15分。 送迎バスは、11時40分の前が、10時35分で、急げば、それに間に合いそうです。 別に、早く、空港に着いても、飛行機の時間は変わらないのですが、私は、こういう状況を、「絶好のチャンス」と思い込んでしまう癖があり、バタバタと、荷物を纏め、フロントへ行って、チェック・アウトしました。 10時30分頃、送迎バスがやって来ました。 一昨日、空港から乗って来たのと同じ、マイクロ・バスです。 10人くらい乗って、出発。 約20分で、宮古空港に到着しました。

  もし、11時までホテルで粘って、ギリギリにチェック・アウトしていたら、ホテルのロビーで40分待つ事になったわけで、それを避けられたのはいいのですが、一本早いバスに乗った結果、予定より、1時間も早く、空港に着いてしまい、飛行機の時間まで、2時間半も待つ事になりました。 ホテルの狭いロビーよりは、広い空港の方が、環境は良いわけですが、それにしても、2時間半は長い。

  まず、三日ぶりに、家に電話。 さすがに、公衆電話がない空港はありません。 家の方は、別に心配していなかった様子でした。 そりゃそうです。 子供じゃないんですから。 次に、3階の「送迎デッキ」に上がりました。 屋上というわけではありませんが、屋外で、自然公園に置いてあるような、ごっつい木製の、椅子と一体になった机が、四つばかり、置いてあります。 その内の一つに陣取って、日記を書きました。 屋外だから、かなりの暑さですが、日陰にいれば、汗がダラダラ流れてくるというような事はありません。 沖縄の夏は、日差しこそ強けれ、気温は、30℃を超える事はなく、猛暑酷暑の本州より、むしろ、涼しいのだそうです。

  この送迎デッキ、滑走路側だけでなく、表側にも回る事ができましたが、飛行機を見るには、充分であるものの、遥か遠くまで眺望が利くという高さではありません。 それでも、ちょっと高い所から見ると、宮古島が、いかに平坦な島であるかが、よく分かりました。 ほんと、山がないんですよ。 暑さより、飛行機のエンジン音のうるささの方に、ダメージを受けつつ、それでも、送迎デッキの机で、1時間くらい、日記を書いていました。

宮古空港の送迎デッキ(上)/ 平坦な宮古島(下)


  この沖縄旅行でも、その後行った、北海道旅行でも、私以外に、紙のノートに日記を書いている人間を、一人も見かけませんでした。 ノート・パソコンを開いている人はいましたが、画面を見ているだけで、キーを叩いていてはいません。 スマホ組は、ほとんど、ゲームですな。 昨今は、スマホでもケータイでも、文字を打ち込んでいる光景を見かけなくなりました。 ケータイ・メールも、所詮、ブームに過ぎなかったのか。 紙でも、電子機器でも構わないのですが、せっかく、旅行に来ていて、飛行機の待ち時間という、ちょうどよい暇があるのに、なぜ、日記を書かぬ? 書いておかなければ、みんな忘れてしまうのですぞ。 たった一行の記録が、どれだけ貴重か分かるのは、10年後、20年後です。


≪宮古から、那覇へ≫
  航空会社は、全日空です。 12時頃、搭乗手続きして、保安検査場を通り、待合場に入りました。 昼食は抜き。 売店を見ていたら、≪ミニ・リアル・シーサー≫という、ペアのシーサーが、270円で売っていて、安かったので、買いました。 実は、どうしても、シーサーが欲しいというわけではなかったのですが、この後、本島へ行ってから、路線バスに乗る予定なので、一万円札を崩しておきたかったのです。 ≪ミニ・リアル・シーサー≫自体は、ネットでも手に入るくらいですから、恐らく、本島でも売っていたでしょう。

  背丈は、3.5センチくらい。 色は、なるべく、赤瓦のイメージに近いのをと思って、オレンジにしました。 そこそこ、ユーモラスな顔をしています。 屋根に載せるシーサーというのは、元々、瓦職人が、余った材料を使い、手作りする物なので、芸術家が作る、真に迫った唐獅子風よりは、少しユーモラスな顔の方が、より、リアルなわけですな。 そういう理由で、商品名が、≪ミニ・リアル・シーサー≫になっているのではないかと思われます。

  普通、出発時刻の15分前には、搭乗ゲートが開くのですが、この時は、10分前を過ぎ、1時27分頃になって、ようやく、一般客の搭乗が始まりました。 他人と競わない主義の私としては珍しく、2番目くらいで、ゲートを通りました。 機体は、≪B737-500≫。 初めて、乗ります。 左右3席ずつの6席が、22列で、計132席。 私の席は、「16F」で、主翼のすぐ後ろの、右の窓側でした。 この時も、隣の席は空席。 運がいいですが、あまり、こんな事ばかり続くと、「誰かの陰謀に嵌まっているのでは?」と思えて来ます。

  CAは、三人くらいいましたかね。 一人は、教育中のように見えました。 機内にモニターはなく、緊急時の注意は、CAの実演。 ドリンクは希望者だけ。 飴が配られたので、一つ貰いました。 マスカット味で、袋に、「ANA」と記してありました。 持って帰りたいところですが、食べ物だと、記念品にするわけにも行かないので、結局、なめてしまいました。

  この機体、天井の方に、空間が大きく取ってあって、≪B777≫や、≪B767≫より小さい機体なのに、圧迫感は少なかったです。 内装のデザインが角っぽいだけでなく、飛び方も硬くて、主翼が、ほとんど撓まずに、しっかりと空気を捉えて、上昇していきます。 飛行時間、50分。 外は、雲と海だけで、島は全く見えませんでした。 というか、宮古島から、本島までの飛行コース上には、そもそも、島がないんですな。  あっという間に、本島上空へ。 やはり、本島は大きくて、田畑がたくさん見えます。 着陸前は、だいぶ揺れました。 低空の気流が、乱れていたんでしょうな。 それでも、主翼は、撓みませんでしたが。

≪B737-500≫の主翼



≪那覇空港から、本島北部へ≫
  那覇空港は、大きな空港でした。 羽田よりは小さく、新千歳よりは大きいといったランクでしょうか。 他の便に乗り換える客が、かなりいて、人の流れについていく手が通用しませんでしたが、天井に付いている、「到着」の案内標識を辿っていけば、何とか、外には出られるものです。 こういう時、荷物を機内持ち込みしていると、外へ出る事だけ考えればいいので、気楽です。

那覇空港の、「めんそーれ」


  ターミナルの建物を出て、すぐ前が、路線バスの停留所になっていました。 二ヵ所しかなく、そこに、いろいろな方面行きのバスが停まります。 石垣島のバス・ターミナルと似たような方式。 しかし、こちらの方が、行き先のバリエーションは多そうです。 空港を出ただけで、那覇が、半端でない都会である事が、雰囲気で分かり、恐怖感が盛り上がってきました。 単に、そこを通過するだけの者にとって、都会ほど始末に負えない所はありません。

  来る前に、ネットで調べたところでは、午後3時のバスに乗る予定だったんですが、停留所の時刻表を見たら、2時30分のがありました。 まだ、2時22分なので、充分に間に合います。 ネットで調べた時にも、同じ時刻表だったはずですが、飛行機の到着予定時刻が、2時15分だから、2時30分のバスでは、間に合わないと判断して、その次の便をメモったのかも知れません。

  で、そのバス停で、待っていたんですが、2時30分になっても、バスが来ません。 これだよ! バスは、渋滞加減によって、遅れがあるから怖いのです。 必ず、そこに来るという確信があれば、動ぜずに待つんですが、初めての街であり、確信どころか、自分の判断など、小指の爪の先ほども信用できない有様。 先に、他に行く便が来たので、≪ローカル路線バス乗り継ぎの旅≫を参考に、運転手さんに訊いてみたところ、場所はそのバス停で、間違いないとの返事でした。

  しかし、来ないのです。 私の後ろで待っていた、欧米系の青年は、何も言わずに待っていますが、日本のバスが、結構いい加減である事を知っている私は、不安メーターの針が、レッド・ゾーンにヒクヒク達し、いても立ってもいられず、そこを離れて、空港ターミナルの中に引き返しました。 新千歳では、空港ターミナルの中に、バス会社の案内所があったので、那覇空港にもあるのではないかと考えたのです。 さんざん、歩き回った末、それらしきカウンターを見つけたものの、 それは、観光バスの案内所で、「路線バスなんか知らんわ」的オーラが漂っています。

  そこで訊くにしても、一度、バス停の様子を見てみようと思い、建物の中から、外を覗いたら・・・、あらやだ! バスが来ているじゃありませんか! 「120番路線 名護行き」、 間違いありません! なんと、9分も遅れて、到着したのです。 もし、この時、バス停を確認していなければ、一本、乗り逃すところでした。 大慌てで、外に出て、バスに乗り込みます。 先程まで、私の後ろで待っていた、欧米系の青年は、すでに中にいて、落ち着いて座っていました。 信じよ、されば救われる・・・、か。

  2時39分に出発。 私は、一番後ろの席に陣取りました。 座席は、常に八割方、埋まっていました。 観光客が半分、地元客が半分。 那覇空港から、本島北部の、「幸喜(こうき)」というバス停まで、約2時間10分、窓から差し込む、強い日差しに照りつけられながら、のど飴を舐め舐め、乗り切りました。 のど飴は、八重山での船旅用に、家から持って来たものですが、まだ余っていたので、バスの酔い止めにしたもの。

  とにかく、那覇は大きい。 高層ビルが林立しており、これは、文句なしの大都会です。 しかも、本州の大都市と違って、「今、将に、成長中」という躍動感があります。 植物に詳しくない人でも、枯れ木と、生きた木を見分けるのが容易なように、生きている都市と、死んだ都市の区別も、一目で分かるものなんですな。 ≪那覇市役所≫のデザインたるや、まるで、SFです。 また、どこまで走っても、街が途切れません。 那覇から、国道58号線を、北東へ上って行ったんですが、浦添、宜野湾を通過し、普天間基地が山側に見えてくるまで、市街地が、ずーーーっと続いていました。 どんだけ、人口が集中しているのか・・・。

那覇市役所


  一旦、基地が見え始めると、今度は、ずーーーっと、基地です。 こんな広大な敷地を、一体、何に使っているのか・・・。 恩納村の辺りから、基地が見えなくなり、今度は、右が山、左が海で、ずーーーっと、リゾート地。 リゾート・ホテルが、一定間隔で、駅のように点在しています。 極端な言い方をすると、私は、那覇空港から幸喜まで、「市街地」、「基地」、「リゾート地」だけを見ていた事になります。

米軍基地


  余談ながら、 一番後ろの席に座ったお陰で、側面窓に比べて、汚れが少ない、後ろの窓から、外の景色を撮影する事ができました。 たとえ、側面窓が綺麗だったとしても、横を撮ったのでは、街路樹が流れて、ろくな写真にならないので、バスに乗っている時に、外の写真を撮りたかったら、最前席か、最後席に限ります。

  幸喜に到着したのは、4時52分でした。 もう夕方です。 バス代、1760円。 これは、事前に調べておいた通りの金額でした。 今のバスの運賃箱は、インテリジェントで、投入した金額が、モニターに表示されます。 逆に考えると、この機械がなかった頃の、バスの運転手さんは、お客がいくら入れたか、一瞬で見て取られなければならなかったわけで、超能力的判断力を必要とされたという事になりますな。

  ちなみに、お札は、硬貨とは別の投入口に入れるのですが、そこが、両替機能と兼用になっていて、機械がどうやって、両替と支払いを区別しているのか、理解できませんでした。 整理券を読み取って、運賃より、投入したお札の金額多かったら、自動的に両替するとか? 整理券は、運転手さんが確認しているんじゃないの? さっばり、分かりません。 こういう事は、一度や二度乗ったくらいでは、分からず、バスで通学・通勤している人だけが、見抜けるのかも知れません。


≪幸喜のホテル≫
  この日から、三泊する事になるホテルは、パンフによると、「バス停から、徒歩1分」との事でしたが、実際には、競歩でも、3分はかかる距離でした。 まあ、大した違いではないか。 道路を挟んで、ホテルが向かい合っており、私が泊まるのは、山側の方。 向かいの海側のホテルの一階に、コンビニが入っていて、リゾート・ホテルとしては、買い物の便がよさそうです。 夜、口寂しいので、まず、このコンビニに入り、「ブルボン・プチ 黒ココア」を買いました。 飲み物ではなく、ビスケットです。 80円。

  で、私が泊まるホテルですが、宮古島で泊まった、マンションにしか見えないホテルよりは、リゾート・ホテルっぽいものの、何となく、外観が貧相です。 「やっぱ、予算の制約があるのかのう・・・」と、思いながら、見上げましたっけ。 でも、入ってみると、思ったよりも、ずっと、ホテルらしいホテルでした。 大変、失礼しました。

  そこそこ広いロビー。 ロビーの面積の割には、大きい売店。 フロントには、係が3人。 やはり、このくらい、いてくれなくてはねえ。 部屋のキーに、夕食券・朝食券、それと、売店の一割引券を貰いました。 一割引券は、レストランのドリンクにも使えると説明されましたが、私は酒を飲まないので、用なしです。 朝食券と夕食券は、一日分ずつ、外出から帰って来た時に渡すとの事。 なぜなのかは、分かりません。 紛失する人がいるんでしょうか?

  ロビー隅のエレベーター脇に、大型水槽があり、ケヅメリクガメが飼われていました。 宮古島のドイツ村で、「のこちゃん」に会い損ねた後だったので、「はっ!」としました。 しかし、こちらのは、ずっと若くて、水槽に入る程度に小さく、せいぜい、5・6歳といったところ。 名前は、「のんちゃん」。 うーむ、イメージがダブるな。 まさか、親子じゃあるまいな。

  6階の部屋へ。 6階ともなると、エレベーターが必要不可欠ですが、ここのエレベーターは、冷房が入っておらず、乗る度に、ムンムンしました。 部屋は、ツイン。 ユニット・バスは、狭い方でした。 特に、洗面シンクが小さくて、顔を洗うと、足元に水が落ちて来るくらい。 これでは、洗濯など、とてもできません。 しかし、その代わりというわけでもないでしょうが、キッチンがついており、そちらのシンクは大きかったので、そこで、洗濯できました。

  最もありがたかったのは、部屋の壁に、二ヵ所、フックが付いていた事です。 これがあれば、洗濯紐が張れるのです。 そういや、折り畳み式の、物干し台もありました。 高さ、50センチくらい。 たぶん、海で泳いだ客が、水着を干す為のものでしょう。 私は、トランクスや、お絞りタオルを干していましたが。 決して、広い部屋ではないものの、こういう設備が整っているのは、リゾート・ホテル運営の経験値が高い証拠ではないでしょうか。 部屋の豪華さなどは、10分もすれば慣れて、飽きてしまうのであって、後は、短時日とはいえ、「住む」わけですから、より住み易くする方が、客の受けはいいと思います。

  食事は、朝も夕も、バイキング・オンリー。 あー、気楽で、いーわー。 初日の夕食は、7時から開場のところ、6時55分くらいに行ったら、一番乗りできました。 バイキング・オンリーだけあって、出す方も、バイキング慣れしているのか、品数は多かったです。 宮古島のバイキング専門レストランに、優るとも劣らない。 取り過ぎて、食べ過ぎ、せっかく、デザートにアイスがあったのに、食べられませんでした。 このホテルでは、6回、バイキングを食べた事になりますが、全て同じパターンで、アイスに辿り着く前に満腹し、無念の涙を飲みました。 それだけ、料理がうまかったわけです。

  部屋に戻ると、ちょうど、夕日が沈むところでした。 もう、8時近いですが、西に来ているので、このくらいが、日没時間なのです。 窓から、海と、海に突き出した、小さな半島が見えて、そこへ、日が落ちて行きます。 目の前のホテルが邪魔かと思いきや、そこの灯りが、結構綺麗で、絵になる夜景を作り出していました。 もしかしたら、そのホテルから見えるであろう、海だけの景色より、こちらの方が、美しかったかも知れません。

ホテルの窓からの夕景(上)/ 向かいのホテル(下)


  国道58号線は、夜中になっても、交通量が多くて、車の音が絶えず、眠りは浅かったです。


≪六日目、まとめ≫
  ドイツ村を除けば、ほとんど移動だったので、気は楽でした。 飛行機も含めて、公共交通機関というのは、乗り方さえ分かってしまえば、向こう任せで運んでもらえるわけで、車やバイクを自分で運転するのに比べたら、遥かに呑気な旅になります。 ただ、頭を使わないせいか、あまり、面白くはないですな。  

  旅も後半に入りました。 行く前は、「沖縄旅行は、本島がメイン」と、漠然と思っていたのですが、先に、八重山・宮古を見てしまうと、そちらの方が、より沖縄的純度が高いような気がして、「本島の方は、あまり、期待できないかもなあ」などと、考えていました。 結局は、それも、思い違いに終わるわけですが。

2014/09/07

宮古島周遊

  沖縄旅行記の五日目です。 その前に、これを書いている時点の事を書いておきますと、北海道旅行から帰って来て、ちょうど一週間経った日です。 沖縄の旅行記に手こずって、さんざんな目に遭った、というか、今現在も遭っているわけですが、その反省を活かし、この一週間で、先に北海道旅行記の方を、書き進めていました。 そのせいで、頭の中が混乱気味ですが、沖縄旅行記の途中で、先に北海道旅行記の方を出してしまうと、読んでくれる方々にまで、混乱を及ぼす恐れがあるので、ここはやはり、頭をスイッチして、沖縄旅行記を先に完成させる事にします。


≪ホテルの朝≫
  持って行った目覚まし時計で、6時に目覚めたのですが、まだ早過ぎると思い、6時半にセットし直して、二度寝したものの、結局、眠れず、6時15分には、起きてしまいました。 カーテンを開けると、ホテルの隣にある≪ドイツ村≫の、お城の背後から、朝日が昇るところでした。 景色は、文句なしですな。 実に、リゾート・ホテルらしい。

  髭剃り・洗面して、6時45分に、朝食に出かけました。 隣のホテルにあるレストランまで、歩いて行きます。 前回書いたように、シャトル・バスは、7時55分始発なので、7時の開店に合わせるためには、歩くしかないわけです。 ドイツ村の入口前を通るのですが、こんなに朝早いのに、もう開いていました。 中を覗くと、誰も歩いていません。 どうも、この施設は、普通の観光地とは、ちと違う原理で運営されているようですな。 ちなみに、入園だけなら、無料です。

  隣のホテルに着き、前の夜と同じ、バイキング専門のレストランへ。 「シャトル・バスより、一時間も早く、開店時間きっちりに来たのだから、すいているだろう」と思っていたら、すでに、芋を洗うような混雑となっていました。 なぜなのか、考えるに、シャトル・バスに乗らなければならないのは、他のホテルに泊まっている客だけで、この、レストランがあるホテルに泊まっている客は、一階に下りてくるだけで、レストランに入れるのです。 そして、「混まない内に、早く行って、食べてしまおう」というのは、誰もが考える事。 かくして、かくの如き、生き馬の目を抜くような、バイキング会場の光景が生まれるわけですな。 迂闊にも、そこまで、想像が及びませんでした。

  恐らく、無数の埃が漂っているであろうと思われる、喧騒甚だしい空間で、手早く、食事。 何を食べたかは思い出せません。 バイキングだと、自分の好きな物しか取りませんから、まずいという物はなかったです。 バイキングの料理に、肉類が少ないのは、予算の関係でしょうか。 これは、どこへ行っても同じで、あっても、ベーコン、ハム、ソーセージくらいでした。 面白いもので、ハムやベーコンがあると、私も他の人も、必ず、2枚ずつ取ります。 腹の内では、もっと欲しいと思っていても、4枚だと多過ぎるし、3枚だと、半端な感じがして、結局、2枚になってしまうのです。 1枚というのは、最も取り難い。 人から、「セコい」と思われるからというより、公衆の秩序を乱す大罪のように感じられるのです。 下らねー話ですが。

  帰りも、歩き。 律儀に道路の歩道を歩いて行くと、8分かかるので、「どうせ、同じ、リゾート施設の敷地なのだから、ショート・カットできないものか?」と思うんですが、もし、近道がなかったら、また、引き返す事になり、却って、時間がかかってしまいます。 腹が膨れた後で、動きが鈍くなっており、少しでも早く、ホテルに戻りたいと思っていた私には、そんな冒険ができませんでした。 人間、飲み食いした後に運動すると、汗を掻くものらしく、ホテルの部屋に帰った時には、じっとりと、下着シャツが濡れていました。 しかし、朝から洗濯するわけにも行かず、そのまま、乾くのを待つしかありません。


≪貸切タクシー≫
  この日は、宮古島を、貸切タクシーで回ります。 前の日の午後に着いたばかりで、空港とホテル以外、どこも見ていないので、全て、運転手さんに任せられるのが、却って、気楽。 9時からの契約なので、8時45分頃、下に下りて、ホテルの入口外で待っていると、2分ほどで、タクシーが来ました。 まだ、10分前でしたが、私の方が先に待っていたのを見て、恐縮したようで、すぐに、乗せてくれました。

  運転手さんは、年齢は、60歳前後。 もちろん、私より年上ですが、一見して、腰の低そうな人で、「今日一日、頑張りますから、宜しくお願いします」と、丁寧に挨拶され、こちらも、丁寧に挨拶し返しました。 丁寧なのはいいんですが、ちょっと嫌な予感もしました。 丁寧には丁寧で返さねばならないわけで、この日の契約は、7時間もあるので、疲れてしまう恐れがあります。

  走り出す前に、車内に掲示してある、運転者の名札を指して、「私の苗字、何と読むか、分りますか?」と訊かれました。 つまり、沖縄県民以外だと、普通、正しく読めないわけですな。 ところが、全くの偶然ですが、私が、30年前に読んだ沖縄関係の本の著者が、同じ苗字だったので、その通りに読むと、「なんで、読めるんですか!」と感激し、握手を求めて来ました。 「大工と鬼六」か。 人様の苗字を正しく読んで、喜ばれたのは、この時が初めてです。 読み間違えて、不興を買った事なら、幾度となくありますが。

  「どういう所へ行きたいか?」と、訊かれたので、間髪入れず、「史跡か、景色のいい所」と答えました。 石垣島の運転手さんと話した経験から、貸切タクシーの利用客には、いろいなタイプがいて、さすがに、パチンコ屋や風俗店に行けという客はいないものの、別料金が発生する観光施設ばかり行きたがる者もいるようなので、早めに、こちらの趣味と意向を伝えておこうと思ったのです。 これは、図に当たり、運転手さんは、すぐに私を、「歴史好き・文化好き」のカテゴリーに分類してくれました。


≪御嶽≫
  で、最初に行ったのが、ホテルのすぐ近くにある、御嶽です。 八重山では、「おん」と言っていましたが、宮古島では、本島と同じように、「うたき」と言うそうです。 前にも書きましたが、沖縄の神社ですな。 別に、観光名所でも何でもない、土地の御嶽だったのですが、ここで、御嶽に関する、基礎知識を説明してくれました。 記紀神話のような、名前がついた神を祀っているわけではない事。 鳥居は、明治以降に付けたものである事。 神聖な場所であり、子供でも、御嶽の敷地に入ったら、悪さはしないといった事。 また、敷地内では、虫や鳥などの殺生もしないのだそうです。

  日本の、土着信仰の神社と重なるところもありますが、日本の場合、神社の神聖度は、世代や個人によって異なり、殺生戒は、寺ではともかく、神社では聞いた事がありませんし、賽銭泥棒や賽銭箱ごと泥棒なども、よく起こる事を考えると、御嶽の方が、より深く信じられているように思えます。 御嶽に祀られている神と、あの、各家の大きな墓に祀られている祖先崇拝の関係がどうなっているのか、疑問はつきないのですが、あまり、突っ込んだ事を訊いて、運転手さんの機嫌を損ねるのも憚られ、そのくらいでやめておきました。

  こういう事は、沖縄の宗教について書かれた、民俗学の本を読めば、ある程度、分かるわけですが、私が知りたいのは、そういう学問的なレベルの事ではなく、現代の、その土地に、普通に暮らしている、普通の人達の宗教観でして、これは、人によっても、だいぶ、ズレがあるに違いなく、一人の人から説明を受けただけでは、全体像が見えないのも無理からぬ事なのかも知れません。


≪来間大橋≫
  宮古島の南西沖に浮かんでいる小島が、来間島です。 「くりまじま」と読みます。 宮古島から、来間島へ架かっている橋が、来間大橋。 全長1690メートルで、1995年に出来た時には、「日本最長の農道橋にして、沖縄県最長の橋」だったそうですが、今は、農道でなくなってしまい、2005年には、本島に出来た≪古宇利大橋≫に、長さでも抜かれてしまったのだとか。 しかし、そういうランク付けと、この橋の価値は、あまり関係がないですな。 途轍もなく綺麗な海に架かった、途轍もなく長い橋である事に変わりはありません。

  まず、来間大橋を渡って、来間島に入り、島を一周しました。 しかし、来間島そのものに関しては、写真を撮っていない上に、記憶まで残っていません。 その日の内に書いた日記にも、一切触れられていないので、よほど、記憶に残り難い所だったのでしょう。 一日に、見て回った所が多いと、しばしば、こういう事が起こります。 脳の一時記憶の容量をオーバーしてしまうんでしょうねえ。

  大橋側に戻って、展望台に上がりました。 クモの巣が張っていて、クモが何匹もいるのですが、それが、異様に大きい。 色柄的、雰囲気的に、ジョロウグモに似ていますが、大きさは、5倍くらいあります。 運転手さんに、その事を言うと、「そう?」と笑うだけで、これといった説明はなし。 帰ってから、調べたら、ジョロウグモと同属の、オオジョロウグモという種類だとの事。 なるほど、分かり易い名前だ。

  運転手さんは、若い頃に、14年間、大阪に住んでいたとの事なので、本州のジョロウグモも見ているはずなのですが、なぜ、反応が薄かったかを考えるに・・・、元々、小さな物を見慣れている人間が、大きな物を見ると、ビックリして、印象に残るのに対し、元々、大きな物を見慣れている人間が、小さな物を見ても、あまり驚きがないので、気に留めなかったのかもしれません。

  この展望台は、橋から少し離れていて、必ずしも、橋を見るために作られた物ではないように感じられました。 そういや、結構、年季が入った建造物だったので、もしかしたら、橋が出来る1995年より前に、もうあったのかもしれません。 橋も見えますが、海の方が、圧倒的に綺麗です。


≪前浜ビーチ≫
  また、橋を渡り、宮古島側へ戻りました。 橋の西側の前浜ビーチに出ます。 エメラルド・グリーンとコバルト・ブルーの海に、ゴミ一つ落ちていない白い砂浜、左手に来間大橋の優美な曲線と、まるで、CMのような景色です。 運転手さんに勧められるまま、裸足になり、砂の上を歩きました。 海の中にも、少し入ってみましたが、裸足で、海水に浸かったのは、何十年ぶりでしょうか。 こういう体験自体が、私にとっては、この上なく、シュールです。

前浜ビーチから、来間大橋と来間島


  海の家のような店があり、その前を通ったのですが、そこで飼われているダックスフントが、私の足元に寄って来て、なかなか離れませんでした。 家で犬を飼っているせいか、いつの間にか、犬に好かれる体質になっていた模様。 「嫌われるよりはいい」と言えないのが、犬の困ったところでして、好きな人間には、前脚を上げて、飛びついて来るので、ズボンを汚されてしまう事が、しばしばあります。 ここでは、警戒していたので、そういう事はありませんでしたが。

  海に入った後、砂の上を歩いたので、足に砂がついてしまったのですが、運転手さんが、車のトランクから、「しまぞうり」というのを出して来て、「これを履いていればいい」と渡してくれました。 漢字で書けば、「島草履」なんでしょうが、どう見ても、ビーチ・サンダルです。 沖縄で通用している、異名なんでしょうか? 新品ではなく、運転手さんが使っている物だとの事。 「私は、水虫はありませんから」と言い添えていましたが、客の方に水虫がある場合は、どうするんでしょう? 私は、違いますがね。 もっとも、これだけ、日差しが強い土地だと、白癬菌が附着したとしても、すぐに死んでしまいそうですな。

  車に乗り、すぐ隣にある、≪東急リゾート≫へ。 別に用はありませんが、運転手さんが、「庭が綺麗なので、入ってみましょう」と言って、どんどん入って行ったのです。 確かに、庭も建物も、綺麗に整備されたリゾートでした。 比較すると、私が泊まっているホテルが、どうにも、見劣りします。 運転手さんも、私が泊まっているホテルが、レストランがある隣のホテルの、オマケなのだという事を、知っているようでした。


≪漲水御嶽≫
  北の方へ上がって、平良市街地に入ります。 平良は、「ひらら」と読みます。 宮古島で最も大きな街。 ちょっと、ややこしいのですが、現在、宮古島は、島全体が「宮古島市」なので、厳密に言うと、「平良市街地」という言い方はおかしいのです。 しかし、「宮古島市街地」と言うと、島のどこの事を指しているのか、分からなくなってしまうので、やむなく、平良市街地と書いた次第。 ちなみに、平成の大合併以前は、平良市だったそうです。 実際、大きな街なので、市街地としか、表現のしようがありません。

  漲水御嶽は、「ハリミズウタキ」と読むそうです。 ここは、宮古島で、最も有名な御嶽で、神話が残っており、名前のついた神を祀っています。 市街地の、ちょっと入り組んだ所にあるので、自力で行った人は、なかなか、見つけられないかもしれません。 大きさは、普通の御嶽より、むしろ小さいくらいなので、尚の事です。 拝殿の屋根は、凝った形ですが、建物の本体は鉄筋コンクリートのように見えました。 そんなに古い物ではないのでしょう。

  私達が行った時、ちょうど、拝殿におばあさん達が集まり、持ち寄った供え物を準備しているところでした。 まるで、ガイド・ブックの写真か、文化人類学の資料映像でも見ているような光景。 運転手さんに、「写真は、撮ってもいいんですか?」と訊いたら、ちょっと考えてから、「大丈夫です」と言われたので、撮って来ましたが、その、ちょっとの間が気にかかるので、出すのはやめておきます。 竹富島では、「御嶽で、写真撮影はできません」という注意書きを見たような気がします。 場所によって、許容範囲に違いがある様子。

  そういや、私が持っている昔の本には、「御嶽は、男子禁制である」と書かれていました。 今は、そういう事はないようですが、本来なら、罰当たりものの行為をやらかしているわけですな。 ちなみに、沖縄は、伝統的に女系社会で、一族の中で、おばあさんが、一番偉いらしいです。 日本では、おばあさんは、社会的にも、家庭内でも、弱者であって、庇護すべき対象ではありますが、尊敬はされていません。 日本的な感覚のまま、沖縄へ行くと、おばあさんに対する態度を誤る恐れがあります。 同じ大事にするのでも、哀れんでするのと、尊んでするのとでは、大違い。 表面的には分かり難いですが、おばあさんの側は、相手がどちらのつもりなのか、分かると思います。

  漲水御嶽の、すぐ近くに、≪宮古神社≫という、日本式の神社がありましたが、そっちは、本当に日本式だというので、わざわざ、見るまでもないと思い、パスしました。 罰が当たる? いやあ、「さわらぬ神に祟りなし」は、こういう場合でも、有効だと思いますよ。 んな事言い出しゃ、近くまで行ったけど、寄らなかった神社なんて、これまでの人生で、何万ヵ所あったか知れません。 


≪仲宗根豊見親の墓≫
  海岸線の道路に出て、少し北に行くと、≪仲宗根豊見親の墓≫、≪アトンマ墓≫、≪知利真良豊見親の墓≫が同じ所にあります。 「仲宗根豊見親」は、「なかそね、とぅゆみゃ」、「知利真良豊見親」は、「ちりまら とぅゆみゃ」と読みます。 発音できない? 私もできません。 たぶん、本来の宮古語での発音は、仮名文字では、書き表せないのだと思います。 この二人は、親子で、「豊見親」というのは、古代宮古島の、首長の称号らしいです。 「アトンマ」というのは、後妻の事で、誰か分からないけれど、一族の後妻を葬ってある墓なので、そういう名前で呼ばれている模様。

  いずれも、西暦1500年前後に生きた人達。 仲宗根豊見親は、八重山の、≪オヤケアカハチの乱≫の時に、琉球王府側について、派兵しており、勝利した後、八重山諸島を勢力下に置いた人物です。 宮古島の方が、石垣島より、面積は小さいのですが、政治的・軍事的な力は、勝っていたようですな。 位置的に、琉球王府がある本島に近かった事や、ほぼ全島が平地で、農産物の生産力が大きかった事が、背景にあるのではないかと思います。

  海に向かって作られた、石造りの、大きな墓です。 墓が作られたのは、墓の主が生きた時代より、かなり後で、18世紀中頃だったのだとか。 ≪仲宗根豊見親の墓≫は、前面が段々になっており、マヤのピラミッドを彷彿とさせます。 写真では、何回も見た事がありますが、現物は、やはり、迫力が違います。 これを見るために、宮古島へ来たと言っても、過言ではない。 逆に言うと、宮古島まで来て、ここを見ずに帰る連中の気が知れない。

仲宗根豊見親の墓



≪人頭税石≫
  仲宗根豊見親の墓から、更に北に行くと、道路脇に、この石が立っています。 「にんとうぜいせき」と読みます。 私は、現地に行って、説明板を読むまで、「じんとうぜいいし」だとばかり思っていたのですが、だいぶ違ってましたな。 薩摩が琉球を侵略し、支配を始めた後、薩摩の要求に応えるために、琉球王府が、宮古・八重山地域に、重税を課すのですが、子供が成長して、背丈が、この石の高さになったら、課税が始まったのだそうです。 高さは、143センチ。 昔の人は、体格が小さかったとはいえ、143では、まだ、子供ですな。 この、ただ過酷なだけの悪税のせいで、どれだけの人間が死んだか分からないらしいです。 廃止されたのが、1903年(明治36年)だというから、驚き。


≪大和井≫
  少し内陸に入った所にあります。 「ヤマトガー」と読みます。 石垣で周囲を囲ってある、大きな井戸。 「ガー」は、宮古語で井戸の事。 「ヤマト」は、作ったのが日本人だったからとか、薩摩藩の役人専用だったからとか、諸説あって、分からないそうです。 いずれにせよ、上流階級専用の井戸で、庶民は、近くにある別の井戸を使っていたのだとか。

  1720年に作られたと推測されているとの事。 石積み自体も見事ですが、この状態で保存しているというのが、また、感服します。 石造文化は、いいなあ。 歳月が、経てば経つほど、味が出ます。 周囲は、森になっていて、ガジュマルの気根が無数に垂れ下がり、市街地なのに、ここだけ、熱帯密林のような趣きです。

人頭税石(左)/ 大和井(右)



≪砂山ビーチ≫
  平良の市街地から離れ、宮古島の北西部へ。 ≪砂山ビーチ≫は、名前は知らなくても、景色を見れば、大抵の人が、「ああ、ここの事か」と分かるくらい、よく知られている所です。 かくいう私も、行って初めて、「ああ、ここの事か!」と思いました。 運転手さんは、駐車場までで、そこからは、私一人で歩きました。

  まず、砂山に登り、峠を越えて、下って行った所が、ビーチになっているとの事。 島草履を履いていましたが、地面が砂になった所から、裸足になり、島草履は手に持って、歩いて行きました。 日差しが厳しいので、暑くて、砂山を登るのは、かなり、きつかったです。 砂山と言っても、道があり、両脇は、背が低い植物の群落になっているので、照り返しは、そんなにありません。

  峠を越え、下って行くと、そんなに広くはないものの、数十人が遊ぶには充分と思われる、白い砂浜がありました。 左右は、岩で囲まれていますが、左側の岩に海食で出来た大穴が開いて、向こうの海が見えており、その辺りの景色が、「どこかで見た事がある」と思わせるのです。 実際に、ここで撮影された写真や映像を、過去に見ているんでしょうな。

  んまー、海の水が綺麗だわ! ゴミがあるとかないとか、そんな次元の話ではないのであって、「飲めるんじゃないの?」と思うくらい、透き通っています。 いや、海水である事は分かっていますから、本当に飲んだりはしませんがね。 ここの海を見てしまうと、本州のどこの海水浴場でも、「水質には自信がある」とは言えなくなると思います。 比べる方が、酷か。

砂山ビーチ


  惜しむらく、海食洞の天井部分に、落石防止の金網が張ってあるのが、自然の造形美を損なっています。 また、洞窟の一つを利用して、ドリンクを売っている店があり、これまた、自然ではないわけですが、この店が貸し出しているパラソル・セットが砂浜に並んでいる景色も、写真で見た事があり、すでに、景観の一部になってしまっていると、言えないでもなし。 評価の難しいところですな。


≪宮古馬≫
  北上して、宮古島の最北端の岬へ向かいます。 その途中、牧場があり、≪宮古馬≫がいました。 宮古島の固有種の馬。 小柄で、ロバくらいの大きさしかありません。 5・6頭、いましたかね。 人懐っこくて、車を停めて、運転手さんが近付いていくと、わらわらと寄って来ました。 草をやると、手から食べています。 私も、馬の体に触ってみましたが、硬く締まった感触でした。 以前、柵から出てしまっていた馬を、運転手さんが、連れ戻した事もあるのだとか。

宮古馬



≪西平安名崎≫
  「にし へんなざき」と読みます。 位置は、島の北端なんですが、なぜ、西なのか? 沖縄の言葉では、方角を表す単語が、日本語とズレていて、北の事を「にし」と言うので、そうなっているのかな? と、思っていたのですが、ネットで調べると、そんな単純な話ではなく、場所が北西端なのだから、意味的には、西でもいいのであって、西の事は、「いり」と言うので、「いりへんなざき」というのが正しいとか、いや、いそもそも、宮古語では、「へんなざき」などとは言わず、「びゃうなざき」と言うとか、もう、何がなにやら、分かりません。

  どうも、沖縄の地名・人名には、仮名で書き表される「公称」と、実際の発音の、二つがあるようで、よそ者は、公称の方で我慢して、実際の発音に首を突っ込まない方が、混乱を避けるのには都合が良さそうです。 一つ一つ、調べていたら、たった一日分の紀行を書くのに、一週間かかってしまいそうです。

  展望台があり、宮古島の北にある≪池間島≫と、池間島との間に架かる、≪池間大橋≫が見えます。 西平安名崎は、元々は、宮古島の北端だったのですが、池間大橋が架かった事により、池間島と地続きになって、地図で見ると、池間島が、宮古島の北端のように見えます。 そのせいか、西平安名崎は、あまり、印象が残ってません。 風力発電の、巨大な風車が、数基ありました。 運転手さんが、その辺りの海で釣れる魚について、説明してくれたのですが、私は、釣りに興味がないので、頭に入りませんでした。 申し訳ない。


≪池間島 ハート岩≫
  ここも、来間島同様、島に渡って、一周回りました。 2012年の、NHKの連続テレビ小説、≪純と愛≫で有名になった、≪ハート岩≫というのがあり、新観光名所になっていました。 運転手さんは、宮古島の事について、熟知しているつもりだったのが、このドラマの放送後、「ハート岩」という言葉を初めて聞いて、「え! そんなの、どこにあるの?」と慌てたのだとか。 で、一時は、観光客が押し寄せたものの、今は、少し下火になって来たのだそうです。

  ハート岩と言っても、岩がハート形なのではなく、岩に出来た海食の穴が、ハート形なのです。 ≪ナニコレ珍百景≫で、一時、流行った、各地のハート形と比べると、まあまあ、上出来なハートと言えます。 もっとも、私は、≪純と愛≫を見ていなかったので、ナニコレ的な感動しか得られなかったのですが・・・。

  この島を出る前に、とあるカフェに入りました。 運転手さんが、熱心に勧めるので、「ははーん、ここが、運転手さんの、馴染みの店なのだな」と察知して、素直に従った次第。 今にして思うと、走り出す前に、「福利ポイントの消化で、旅行に来ているので、なるべく、自腹を切りたくない」と言ってしまえば、こういう所へ寄らなくても済んだと思うのですが、この頃には、まだ、貸切タクシー利用のコツが飲みこめていなかったんですな。

  何とも、手造り感溢れる店構えで、雑然とした雰囲気。 メニューと睨めっこした末に、500円のグァバ・ジュースを頼みましたが、味はおいしかったものの、氷が多くて、ジュースの正味量が少なかったのには、ショックを受けました。 吝嗇家には厳しい現実だな。 ゆとりがあれば、氷が融けるのを待ってから飲むという手があったんですが、あいにく、時間契約の貸切タクシーなので、のんびりとしていられません。 グラスに残った氷を見る私の恨めしい眼差しに、誰か気づいた人がいたでしょうか・・・。 ただし、氷が多いのは、この店だけではなかった事が、後日、本島で判明します。


≪池間大橋≫
  来間大橋よりも早く、1992年に、宮古島で最初に出来た、離島との間を結ぶ橋。 全長、1425メートル。 尚、宮古島では、≪伊良部島≫との間を結ぶ、≪伊良部大橋≫を建設中で、そちらは、全長、3540メートル。 2015年、完成予定だそうです。 なんで、こんなに長い橋を、何本も架けられるかといえば、遠浅なので、橋脚が立て易いからでしょうな、やはり。 橋脚間のスパンが長くならなければ、特殊な構造は不要ですから、少ない予算でも、長い橋が架けられます。

  宮古島側の、橋の袂に、車を停められる所があり、そこで、運転手さんに、記念写真を撮ってもらいました。 ちなみに、石垣島の運転手さんは、一枚も撮ってくれませんでした。 人によって、撮るのが好きな人と、そうでない人がいるんですな。 私としては、ナルシシストではないので、自分の写真は、別に要らないんですが、撮って貰ったという事自体が記念になるので、喜んで、カメラを渡します。 どうせ、メモリーにはゆとりがありますし、毎晩ホテルで充電するから、バッテリーの心配もありません。

池間大橋と池間島



≪宮古やきそば≫
  午後1時過ぎ、平良市街地に戻り、遅い昼飯です。 運転手さんが、「宮古のやきそばは、ケチャップ味で、変わっている」というので、それを食べてみたくなり、店選びを任せました。 ところが、時間が遅かったせいで、一軒目は、「やきそばは、もう出来ない」との事。 材料を使い切ってしまったのでしょう。 二軒目は、混んでいて、座る席がなくて、断念。 三度目の正直で、ようやく、座れる店に入れました。

  私は、やきそば。 運転手さんは、野菜炒めを頼みました。 他の客もいたので、20分くらい待ちました。 ファースト・フードではないから、致し方なし。 やがて、宮古やきそばが出て来ましたが、なるほど、ケチャップで炒められていて、見た目は、ナポリタンのようです。 具に、キャベツ、ピーマン、ニンジンが入っています。 味は、ケチャップ味なので、ナポリタンに近いですが、麺が、宮古そばですから、スパゲティーとは、歯ざわりが、かなり違います。 うまい、うまい。 味噌汁付きで、600円という安さも、ありがたいです。

宮古やきそば


  運転手さんの野菜炒めを見ると、野菜炒めだけでなく、御飯と味噌汁が付いていました。 運転手さんの話によると、宮古島の店では、「○○セット」とか、「○○定食」とか書いてなくても、御飯と味噌汁は、付いてくるのだそうです。 味噌汁を別に頼んだりすると、大きなお椀で、ドンと出て来る上、メイン料理にも味噌汁が付くので、味噌汁だらけになってしまうのだとか。


≪かたあきの里≫
  昼食の後、島の東の方へ、向かいました。 ≪宮古島市 熱帯植物園≫があり、「見たいですか?」と訊かれたので、「いや、別に・・・」と答えたら、「じゃ、よしましょう」という事で、パスになりました。 その代わりと言ってはなんですが、すぐ近くにある、≪かたあきの里≫という所へ寄りました。 古民家を模して新築した家が、集落風に、7軒集まっていて、家ごと借りて、宿泊できるという施設です。 この内の一軒に上がらせてもらい、運転手さんから伝統建築の説明を受けました。

  いろいろ聞いたのですが、専門用語が含まれていた部分は、みんな忘れてしまいました。 覚えているのは、「この建物は新築したから、トイレが中にあるが、昔は、家の外にあった」という件りだけです。 その点は、昔の日本と同じですな。 ここの建物は、真新しくて、まだ、出来たばかりという感じでした。 運転手さんの話では、これらの家は、立派過ぎで、庶民は、もっと粗末な家に住んでいたとの事。

  これは、移動中に聞いた話ですが、運転手さんが子供の頃には、ほとんどの家が伝統建築で、台風に弱かったので、大型台風が近付くと、親戚の鉄筋コンクリートの家に避難したのだとか。 子供達が集まって、大勢で遊べるので、楽しかったと言っていました。 地震国でありながら、日本の伝統建築が、地震に全然強くないのと同様に、台風銀座に位置していても、沖縄の伝統建築が、台風に強いわけではないんですな。


≪夢来人跡≫
  暴力団との交際の件で引退したカリスマ芸人の冠番組が、宮古島で運営していた民宿があったらしいのですが、その跡が近くにあるという事で、横を通りました。 野中の一軒家という感じ。 宿泊者の心を癒す事が目的だったので、動物を飼ったりしていたとの事。 今は、閉鎖されていますが、番組が打ち切りになった後も、見たいという客が、結構いたらしいです。 私は、番組自体を見ていなかったので、ピンと来ませんでした。 宮古島の東の方は、ほとんど農地のようです。


≪吉野海岸≫
  旧城辺(ぐすくべ)町の北側にある海岸です。 崖の上から、海辺に下って行く坂の途中に、湧き水を溜めたプールがあり、家族連れで賑わっていました。 子供が、長時間、入っていられるという事は、そんなに冷たくないんでしょうな。 崖の下へ下りていくと、海岸に、巨大な岩が、ゴロゴロしていました。 海岸沿いの崖の上にゴルフ場あり。 この辺りからは、≪東平安名崎≫が、よく見えます。

北側から、東平安名崎



≪東平安名崎≫
  よそ者の手には余るので、名前の件については、もう触れない事にします。 島の南東端の岬で、尻尾のように細くなって、太平洋へ突き出しています。 駐車場までタクシーで行き、そこからは、灯台がある岬の突端まで、私一人で歩きました。 島草履は、長距離を歩くのには、不向きだと、痛感。

  途中、≪マムヤの墓≫という、巨石があります。 墓石にしては、異様に大きい。 説明板を読むと、昔、マムヤという絶世の美女がいて、妻子ある男と恋に落ちたが、男が、妻の方を選んだため、マムヤは断崖から身を投げたとの事。 なるほど、納得。 別に、この石の下に、亡骸が埋まっているわけではないわけだ。 マムヤの母親は、悲嘆にくれて、「再び、この村に美人が生まれないように」と祈ったというのですが、その後に生まれた、村の娘達は、いい迷惑ですな。 ブスなら、必ず、幸せになれるわけでもあるまいに。

  岬の突端に到着。 真っ白で、スマートな灯台があります。 輪切りにした時の断面が、円ではなく、多角形なのですが、外壁が平面で構成されているため、すらっとして見えるのかもしれません。 基本的には晴れていたのですが、雲が多くて、明るさが足りず、海の色は今一つでした。 この岬は、突端で見るより、ずっと手前から見た方が、景観がよろしいようですな。 ガイド・ブックや、観光パンフの写真も、そうなっていますし。

マムヤの墓(上)/ 東平安名崎灯台(下)


  タクシーに戻り、島の南岸に回ります。 ≪保良川ビーチ≫の横に、≪宮古島海宝館≫という土産物を売る店があります。 ここは、○△商事の日程表に名前が出ていたので、来る前にネットで調べたんですが、サイトに辿り着けず、やっているのかいないのか、分からずじまいでした。 で、現地へ行ったら、なんと、やっていたんですな。 奇妙な感動あり。 しかし、何も買う予定がなかったので、入りませんでした。


≪ムイガー断崖≫
  ここは、東平安名岬と、私が泊まっているホテルの中間地点にあります。 運転手さんが、是非見せたいというので、ついて行きました。 藪に覆われた階段を、草を掻き分け掻き分け登って行ったら、やがて、断崖の上に出ました。 東平安名岬へ続く、海岸線のダイナミックな景観が、一目で見渡せます。 明らかに、穴場スポットで、ここの存在を知らなければ、素通りしてしまうでしょうし、絶景が見られる事が分かっていなければ、藪を掻き分けてまで、階段を登るつもりにならないでしょう。 こういう所へ来れるのは、貸切タクシーならではの醍醐味です。

東平安名崎へ至る、宮古島の南海岸


  これで、貸切タクシーによる、宮古島周遊は、終了し、そのまま南岸の道路を走って、午後4時前には、ホテルに送ってもらいました。 篤く、お礼を言って別れます。 「今度来る時には、彼女と一緒に」と言われましたが、「いやあ、それは、もう、手遅れでしょう」と、笑っておきました。


≪ホテルの夜≫
  いや、もう、随分、長くなってしまったので、夜の事は、細々とは書きません。 夕食の様子も、チゲ・スープをトレイの上に零してしまった事を除けば、前夜と同じです。 他には、隣のホテルへ向かう時、≪ドイツ村≫の敷地を横切る形で、ちょっと、近道をしたのと、帰りは、もっと近道しようとして、≪ドイツ村≫の中で迷い、結局、同じ道に出てしまったという、そんな事件しかありませんでした。

  この日も、家に電話はできずじまい。 貸切タクシーに乗っている間に、公衆電話がある所に寄ってもらう事もできたのですが、運転手さんは、コースと時間を計算しながら走っているわけで、つまらん雑音を入れてはいけないと思い、控えた次第。 なーに、一晩連絡しないで済ましてしまったのだから、それが、二晩になっても、大差ありますまい。



≪五日目、まとめ≫
  宮古島の運転手さんがありがたかったのは、細かい行き先を指定しなかったにも拘らず、私が見たいと思っていた史跡を、全て回ってくれた事です。 宮古島の海岸線を、ほぼ一周できたのも、私好みのコースでした。 7時間というのは、貸切タクシーとしては、大変な長さなのですが、別料金が必要になる観光施設に一つも入らなかったにも拘らず、ちゃんと、時間を調整して、余らないようしてくれたのは、さすが、プロだと、感服しました。

  腰が低いのに、気さくな人で、朝感じた、「丁寧過ぎて 疲れてしまうのでは?」という心配は、全くの杞憂に終わりました。 この後、本島に行ってから、そちらの運転手さんに、「宮古島の人は、郷土愛が強い」と聞いたのですが、思い返すと、確かに、宮古島の運転手さんは、自分の島に、並々ならぬ、愛着と誇りを抱いているようでした。 そういう気にさせるだけの、魅力がある島なのだと思います。