2015/06/28

読書感想文・蔵出し⑬

  相変わらず、書く事がありません。 「引退者として、どんな生活をしているか」程度の話題なら、書けない事はないですが、映画鑑賞、読書、それらの感想書き、自転車で運動、ポタリングくらいしかやっておらず、同じような話ばかりになってしまうのは、避けたいところ。

  幸い、腰痛は完治して、今現在、体に悪いところはなく、腹が出過ぎないように、食べるのを控え、運動に励まなければならない事以外、不自由はありません。 家の中でする体操やストレッチなどは、外に出てやる運動に比べれば、運動量が遥かに少なくて、雨が降ると、腹がきつくなるのが、如実に分かります。 家の中で、スクワットを20回もやると、「頑張ったなあ」という気になりますが、自転車を漕ぐのに比べたら、大腿筋の活動量は、微々たるものです。 スクワットは、3分もやれば、へとへとになるのに、なぜ、自転車は、何十分漕いでも疲れないのか、不思議と言えば、不思議。

  まあ、そんな話は、さておくとして、読書感想文を蔵出ししましょう。 ディケンズの≪大いなる遺産≫が貸し出し中だったせいで、代わりに借りたのが、≪赤と黒≫でした。 なぜ、スタンダールに行ったかというと、≪大いなる遺産≫があるはずだった、岩波文庫の棚の、すぐ近くにあったからです。 テキトーな理由もあったもんだ。



≪赤と黒≫

岩波文庫 ≪赤と黒 上・下≫
岩波書店 1958年(初版発行)
スタンダール 著
桑原武夫・生島遼一 訳

  有名な作品です。 フランスの近代小説の、代表作として挙げる人も多いのでは。 「スタンダール」というのは、ペンネームで、苗字でも、名前でもないようです。 本名は、「アンリ・ベール」で、1783年に生まれ、1842年に没。 若い頃は、ナポレオン軍に参加していたそうですが、その失脚後、軍を離れ、文学者に転向。 ≪赤と黒≫は、最初の長編小説で、1830年に発表されたとの事。 日本は、江戸時代ですが、その頃に、これだけの心理小説が書かれたというのが、驚きです。

  地方の町で、製材業者の末息子として生まれた美青年が、町長の家に家庭教師として雇われ、夫人と不倫関係になった後、その地方の中心都市であるブザンソンの神学校に入って、持ち前の才知を発揮し、頭角を現すものの、師匠と共に追放される形で、パリに出て行き、今度は、有力貴族の家に秘書として住み込んで、その家の娘と、恋の駆け引きを繰り広げる話。

  舞台になる場所で、四部に分ける事ができます。 まずは、主人公が生まれ育った、架空の町で、ほとんどの場面が、町長の屋敷と別荘で進行します。 次は、ブザンソンで、神学校の中と、そして、国王が訪れた時には、街なかや聖堂が舞台になります。 その次が、パリの侯爵の屋敷で、このパートが、全体の中では、一番長いと思われます。 最後に、また、元の町に戻りますが、ネタバレになってしまうので、これ以上は書けません。

  主人公が恋の相手にするのは、町長夫人と、侯爵の娘で、前者は、10歳年上、後者は、ちょっとだけ、歳下です。 他に、パリの方で、恋の駆け引きに利用する夫人が一人出て来ますが、そちらの方は、大したボリュームではありません。 モテモテの美青年を中心にした恋愛小説ではあるものの、そこはやはり、近代文学でして、≪源氏物語≫のように、取っ換え引っ換え、次から次へ手を出すというわけではなく、町長夫人と、侯爵令嬢の二人が出て来るのは、全く性格が違う二人の女を対比させて、主人公が、最終的にどちらを愛するかを、テーマにしているからです。

  うちには、母の本で、角川文庫版の上巻だけがあり、私は、20年以上前に、それを読んだのですが、それっきりになっていました。 今回、図書館で、岩波文庫の棚を見たら、割と新しい本が、上下巻揃っていたので、借りて来たというわけです。 上巻から読み直しましたが、ごく一部を除いて、ほとんど忘れていて、自分の記憶力に対する自信が、大いにグラつきました。

  ちなみに、覚えていたのは、主人公が、夜陰に乗じて、町長夫人の腕を愛撫する場面と、ブザンソンで聖堂の飾りつけを手伝う場面だけ。 それ以外は、ストーリーまで、綺麗さっぱり忘れていました。 他に、覚えていたのに、なかった文というのがあるのですが、それは、翻訳者の違いなのか、翻訳の元にした版の違いなのか、分かりません。

  ほとんど忘れていながら、こんな事を書くのも、なんですが、前半だけ読んだ時の感想は、「恋愛小説だけど、相当には、面白い」というものでした。 私は、恋愛物は、あまり好きではないのですが、読んで分からないというほど、朴念仁でもないのです。 一応、≪源氏物語≫や、≪紅楼夢≫も、読んでいますし。

  今回、初めて読んだ後半は、パリの侯爵邸での生活から始まり、令嬢との恋の鞘当てが、延々と続いて、少々、飽きが来ます。 ところが、令嬢が難攻不落なので、一度は諦めかけた主人公が、ロンドンで知り合ったロシア貴族から、恋愛指導を受け、貰った恋文のサンプルを丸写しにして、別の夫人にせっせと送り、令嬢の嫉妬心を掻き立てさせる件りになると、その作戦の、あまりの馬鹿馬鹿しさに、大笑いし、急激に、ストーリーへの興味が甦って来るのです。 馬鹿馬鹿しいと言っても、別に、変な設定というわけではなくて、つまりその、恋愛という行為自体が、上っ面の手練手管で向きを変えられるような、軽薄な性質を持っているんですな。

  主人公は、最終的には、「愛」を知るわけですが、その最後の境遇に至る前までは、恋愛を、自尊心の満足の為だけに遂行しています。 それは、誰に対しても、同じです。 この話では、身分の違いから来る、主人公の劣等意識が、もう一つのテーマになっており、主人公は、自尊心の為に、出世を目指し、自尊心の為に、恋愛に引き込まれ、自尊心の為に、様々な窮地に陥ります。 身分が平民であるという以外は、外見も才能も、他人に劣るところが、一点もなかったが故に、こういう人格になってしまったのでしょう。

  この小説、漫然と読んでいると、主人公の目的が分かり難いです。 恋愛を出世の道具と考えているなら、まだ分かり易いんですが、むしろ、出世する上で、障碍になるような相手にばかり近づいていて、どういうつもりなのか、分からなくなってしまうのです。 これはつまり、主人公が、確乎たる意志の元に、長期的目標を持って生きているのではなく、その時々の感情に流されてしまう、弱い人間なのだという事を表しているんでしょうな。

  ちなみに、≪赤と黒≫の「赤」は、主人公が、共和主義者である事を表し、「黒」は、僧侶である事を表しているのだそうです。 しかし、一方で、主人公は、ナポレオンの熱心な崇拝者でして、共和主義者と言われても、ちょっと、釈然としない感じもします。 この時代のフランスでは、王党派以外は、みんな、共和主義者だったんですかね?



≪パルムの僧院≫

岩波文庫 ≪パルムの僧院 上・下≫
岩波書店 1952年(初版発行)
スタンダール 著
生島遼一 訳

  スタンダールの長編小説で、≪赤と黒≫の次に有名ですが、代表作と言うと、≪赤と黒≫の方が紹介されますから、知らない人も多いと思います。 発表は、1839年で、≪赤と黒≫から、9年しか経っていません。 スタンダールの著作は、前期には、伝記や旅行記が多く、作家人生の後半になって、小説を書き始めたので、小説だけ拾うと、後ろの方に、固まっているんですな。

  イタリア貴族の次男として生まれた美青年が、ナポレオンに心酔し、帝政の復活後、わざわざ、フランスまで出かけて行って、ナポレオン軍にくっついて、「ワーテルローの戦い」を経験するが、その間に、彼を嫌っている兄の策謀で、スパイ容疑がかけられて、実家に帰れなくなってしまい、彼に好意を寄せていた叔母の助けで、彼女が住んでいるパルム公国に身を寄せるものの、生来の身持ちの悪さから、女絡みの殺人事件を起こしたり、パルム宮廷の権力闘争に巻き込まれて、城砦刑務所の高い塔に幽閉されたり、さんざんな目に遭いつつも、刑務所長である将軍の娘への想いに目覚めてからは、その恋を全うしようとする話。

  こういう書き方をすると、誤解を招くかな? はっきり言って、この主人公、尊敬に値するような人格ではありません。 一言で言うと、「色惚け」。 逮捕されるまでは、「一度も恋をした事がない」と言いながら、女遊びに現を抜かし、正に、身を持ち崩すとしか言いようがない、放蕩ぶりを見せます。 神学校に通い、叔母のコネで、パルムの副司教にまでなりますが、およそ、信仰心など、かけらも見当たらず、信者を集めて説教するのも、女に近づくのが目的とあっては、呆れる外はありません。

  この青年の人格について、もう一言足すなら、「軽薄」。 ナポレオンに憧れて、やしやし、戦争に出かけていくのですが、そもそも、彼はイタリア人なのですから、フランス軍に近づいたからと言って、入隊させてもらえるわけがなく、兵隊の真似事をするだけ。 それ以前に、軍籍がなければ、戦争に参加できないという事すら知らなかった模様。 この子供丸出しな行為が、後々、降りかかってくる苦難の原因になるのですが、当人は、そうとは思っておらず、全てを兄のせいにしているのだから、勝手なものです。

  叔母や、その愛人である、パルム公国首相の伯爵、それに、元使用人達などが、彼を逮捕させない為に、必死で努力しているのに、当人は、どこ吹く風で、女の尻を追いかけて、わざわざ、危ない場所へ乗り込んでいきます。 綿密な計画を立ててもらい、間一髪のところで逃げ出した刑務所に、自分から戻って行ったりもするのですが、ここまで来ると、少々、オツムが足りないとしか思えません。

  先に、≪赤と黒≫を読んでいる人の場合、同じく、美青年で、神学生である事から、両作品の主人公を、似たようなキャラだと見做してしまうと思うのですが、注意して読めば、こちらの主人公が、頭の良い人間としては描かれていない事が分かるはず。 その点で、≪赤と黒≫の主人公とは、全く違っているのです。 考えてみれば、身分も違うのであって、こちらは、「たまたま、顔が良かった、貴族の馬鹿息子」だと思えば、すんなり、納得できます。 現代人の読者ならば、≪赤と黒≫の主人公には共感できても、こちらは、活劇の主人公としてしか見れないと思います。

  主人公のキャラが感心しないだけなら、まだいいんですが、小説全体も、お世辞にも、出来がいいとは言えません。 口述筆記で書いたらしいのですが、そのせいか、物語の流れと、描写の分量の配分が悪く、ほんの数分の事に、何ページもかけたり、何日も経っているのに、一文で済ませてしまったり、気まぐれと言うか、全体の構成に配慮していないと言うか、稚拙に感じられる所が、大変、多い。 特に、ラストは、パタパタ、片付けている感じで、「ああ、この人、これ以上、続けるのに、飽きたんだな」と思わせます。

  主人公が、我が子を誘拐するエピソードは、描こうと思えば、もう一冊本ができるくらいの内容が考えられると思うのですが、そんな気力がなかったのか、ものの、5ページほどで、片付けてしまっています。 「一応、考えたから、アイデアだけでも書いておこう」と思ったんでしょうかね? だけど、読者としては、そんな、中途半端なサービスをされても、本来書かれるべき文章量で書いてないのだから、ありがたがるどころの話ではなく、むしろ、フラストレーションが溜まります。

  この物語のラスト、どうすれば良くなったかと考えるに、主人公に、しつこく接近されて、聖母への誓いとの間で板挟みになったクレリアが自殺し、失意のどん底に落ちた主人公を支えようと、叔母が駆けつけて来るものの、まず、叔母に捨てられたモスカ伯爵が、抜け殻のようになって事故死し、続いて、主人公も病み衰えて世を去り、最後に、残された叔母が、パルム大公から、再度、求婚されて、人生を悲観し、懐かしいコモ湖畔で、入水自殺して終わり、というのはどうでしょう? 元のラストより、遥かに、マシだと思いますけど。

  同じ作者だからと言って、≪赤と黒≫のような、繊細かつ濃厚な心理描写を期待していると、とんだ肩透かしを喰らいますから、要注意。 心理描写がないではないですが、あちこち、ダマになって、点在しているだけです。 地の文のほとんどは、ちょっと軽薄な歴史家が書いた、俗受けを狙った、歴史読本みたいな文章で、宮廷政治の内幕や、社交界の様子が、くどくどと書き連ねられています。 ワーテルローの戦いと、城砦刑務所の塔から脱獄する前後だけ、面白いのですが、それは、その部分が、活劇調になっているからでしょう。


  なんでも、この作品、バルザックが激賞しているそうで、その影響を受けて、「文豪バルザックが誉めているんだから、傑作なんだ」という誉め方をしている評者が多いのですが・・・、ふふふ、まあまあ、待ちなさいな。 バルザックの意見なんぞ、一切、気にする必要はないです。 批評は、自分の感性にのみ、忠実であれば宜しい。 さあ、あの、≪赤と黒≫と比べて、どっちが面白いと思います? 私は、比較にならんと思いますよ。 こりゃ、「スカ」と言ってしまっても、言い過ぎにはならないと思います。



  以上、二作品です。 前回より、更に少ないですが、スタンダールと組んで出せるような本の感想が見当たらないので、致し方ありません。 ≪赤と黒≫は、2月25日から、3月8日までかかり、≪パルムの僧院≫は、3月8日から、3月22日までかかりました。 それぞれ、感想は、読んだ後すぐに書いています。 もう、だいぶ、月日が経ってしまいましたなあ。


  ところで、まず、いないとは思うものの、小・中学生で、このブログを読んでいる人がいたら、学校で読書感想文を書かされていると思いますが、私のような書き方を、そのまま流用しちゃ、駄目ですよ。 読む本が指定されている場合は、作者・作品の紹介や、あらすじは、必要ありません。 それどころか、あらすじを書いたりすると、教師から、「これは、感想文ではなく、あらすじだ」などと、低次元なツッコミを入れられます。 ものぐさな教師は、あらすじが書かれていると見ただけで、その先を読むのをやめるくらいですから。

  読む本が指定されていない場合は、むしろ、作者・作品の情報や、あらすじを書いた方がいいです。 教師が、その本を読んでいない場合、自然に、そういう情報を知りたがるからです。 ただし、どちらも、長くなり過ぎないように。 私が、あらすじを紹介する時、一文の中に無理やり押し込んでいるのは、長くなるのを避ける為です。 長くなり過ぎるよりは、短過ぎて、大雑把な事しか伝わらない方が、マシ。 所詮、あらすじで、その作品の全てが分かるわけではないですから、大体、どんな話か伝われば、それで、充分なのです。

  感想の本体は、その本を読んで感じた事なら、どんな下らない事でも宜しい。 読み難い本だったら、自分が、その本を読むのに、どれだけの時間と労力を費やしたか、その割に、得られた事が、いかに少なかったかという恨み節を、延々と書き連ねるだけでも、成立します。 感想文というのは、作者に負けてしまうと、非常に書き難くなるので、常に、上から目線で、「読んでやったぞ」という姿勢で臨むのがコツです。 どうせ、学校で書く感想文なんて、作者の目に触れる事はないから、一切遠慮せずに、思うさま扱き下ろしたれ。

  逆に、べた誉めするというのも、いい手です。 アイデアの独創性を誉める。 テーマの高尚さを誉める。 モチーフの特徴的な点を誉める。 ストーリー構成の巧みさを誉める。 主人公の性格が際立っている事を誉める。 善玉悪玉がいる話なら、善玉の人間性を絶賛し、悪玉の悪辣ぶりに感嘆する。 読み易ければ、「万人に受け入れられる」と言って誉め、読み難ければ、「奥深い」と言って誉める。 何から何まで、全て、誉める。 句読点の入れ方まで誉める。 イラストも誉める。 本の装丁も誉める。 紙の質感も誉める。 作者やイラストレーターはもちろん、編集者に対しても、敬意と愛情を抱いてる事を、吐露する。 そこまでやれば、教師も圧倒されて、「いい本に出会えて、良かったですね」としか言えまいて。

  学校での読書感想文というのは、「読解能力をつけさせる」というより、もっと基礎的なレベルで、「読書の習慣をつけさせ、あわよくば、文章も書けるようにさせよう」というのが目的なので、感想の内容自体は、どーでもいいんです。 本の内容と、まるで関係ない事でも、他人が2・3枚で済ませているところを、5枚・10枚と書き倒して、提出すれば、まず、文句は言われないでしょう。 むしろ、いろいろな事を考えていると思われて、一目置かれるはずです。

  重視すべきなのは、感想文自体の面白さですな。 文章というのは、畢竟、「読んでもらって、ナンボ」でして、読書感想文だからと言って、読み手の楽しみに配慮する必要がないという事はありません。 誉めるにせよ、貶すにせよ、元の本を読みたくなるような感想文がベストですが、それは、かなりの冊数を読みこなさないと難しいので、せめて、感想文だけでも、読んで面白くなるような文章にしなければなりません。 基準は、自分の感覚で充分です。 つまり、自分で、自分が書いた感想文を読み返して、面白いと思えたら、それで、合格。 読み返すのが嫌になるくらい、つまらなかったら、書き直した方がいいです。

2015/06/21

読書感想文・蔵出し⑫

  これと言って、書く事がないので、例によって、映画か本の感想になるのですが、本の感想の方が、溜まって来ましたから、今回は、そちらにします。 もっとも、そんな事を言い出せば、映画の感想は、桁違いに多く溜まっているのですが、あまりにも多いので、今更慌てても仕方がないという、奇妙な開き直りを覚える、今日この頃なのです。

  考えてみると、物語を伝える媒体として、映像作品の効率性は、小説の比ではありませんな。 読めば、2週間くらいかかる長編小説の内容を、ものの2時間前後で、ほぼ、表現できるのですから。 感想が溜まる速度が違ってくるわけだわ。



≪クリスマス・キャロル≫

新潮文庫
新潮社 2011年
チャールズ・ディケンズ 著
村岡花子 訳

  有名な話。 チャールズ・ディケンズも、有名。 イギリスの近代小説を代表する作家です。 ≪クリスマス・キャロル≫の発表は、1843年ですから、日本はまだ、江戸時代ですな。 「carol」というのは、「祝いの歌」の事。 しかし、別に、歌がテーマというわけではないので、この題名に、深い意味はないです。 何度も映画化されているので、そちらで見ている人も多いと思います。 この文庫本、割と、大きな活字で、180ページくらいですから、長編というよりは、中編です。

  使用人を一人だけ使って、小さな商会を経営する、極度にケチで、血も涙もなく、家族も友人もなく、周囲の者全てから嫌われている老人が、クリスマス・イブの深夜に現れた、かつての共同経営者の幽霊に、因業の報いについて諭された上に、その後、順次やって来た、三人のクリスマスの化身に連れられて、自分の、過去・現在・未来の様子を見せられ、衝撃を受ける話。

  あまりにも有名なので、ネタバレを気にする必要はないかもしれませんが、小説も映画も知らない人は、この主人公が、最終的にどうなるかについて、興味が湧くと思うので、書かない事にします。 こういうラストよりも、真逆の結末に向かった方が、近代小説らしくなったと思うのですが、そもそも、この話、クリスマスに合わせて発表され、人々の心を、普段より、ちょっと豊かにするのが目的で書かれたものらしく、文学というより、小説の作法で書かれた、「おはなし」と捉えた方が、いいのかも知れません。

  ディケンズは、作家キャリアの前半では、教訓話を多く書いているのですが、宗教的倫理観を拠り所にしているので、どうしても、キリスト教の価値観に引っ張られます。 そういうところが、同時代の他の作家に比べると、古臭く感じられ、重ねて、ディケンズが、この時代のイギリスを代表する作家になっているが故に、「英文学は、仏独露に比べて、落ちる」という評価になってしまうのです。

  しかし、ディケンズは、宗教の影響を全く感じさせない作品も書いていて、そちらの方は、同時代の他の作家の作品と比べて、特別、優れているとは言いませんが、特別、劣るわけでもないです。 たまたま、ディケンズで、最も有名な作品が、≪クリスマス・キャロル≫なので、「英文学=ディケンズ=≪クリスマス・キャロル≫=宗教的=古臭い」という図式が出来てしまうんですな。

  ただ、彼の作品の中で、≪クリスマス・キャロル≫が、最も歓迎されたという事実を見ると、イギリスの読書階層が、「人間性の奥底に分け入った、深い小説」よりも、「分かり易い、おはなし」を好んだのは、明らかで、その後の英文学も、分かり易い方向へ、どんどん流れて行きます。 悪く言えば、表層的な物語でして、何度も映画化されているのも、映像にし易い場面が多いからだと思われます。


  この訳本の訳者は、NHKの朝ドラになった、≪花子とアン≫の主人公の、村岡花子さんです。 ≪赤毛のアン≫だけ、訳したわけじゃなかったんですな。 訳文は、大変、読み易いのですが、もともと、読み易く書かれたものですから、原文がいいのか、訳がいいのかは分かりません。 原文が悪いと、訳者が良くても、良い訳文にはなりませんし、訳者が悪いと、原文がどんなに良くても、やはり、悪い訳文にしかなりませんから、どちらも、良かったんでしょうな。



≪荒涼館≫

ちくま文庫 ≪荒涼館 1・2・3・4≫
筑摩書房 1989年
チャールズ・ディケンズ 著
青木雄造・小池滋 訳

  450ページ前後の分厚い文庫が、4冊分にもなる、長編小説です。 ディケンズの作品としては、ほとんど知られていません。 私が、読む気になったのは、筒井康隆さんの≪耽読者の家≫に出て来たり、≪漂流≫で取り上げられたりしていたから。 筒井さんは、大江健三郎さんから薦められたとの事。 ちくま文庫での出版は、それよりずっと前の事ですが、その後、絶版になっていたのを、≪漂流≫で取り上げられてから、重版したようです。 そういう事情で、今現在、新品が買えます。 だけど、分厚い本が四冊ですから、安くはないですよ。 買う前に、図書館で、どんな内容か確認してみる事をお勧めします。

  1840年代頃のイギリスで、伯母に育てられ、その後、施設で暮らしていたところを、ジャーンディスという貴族に、彼が後見人を務める少女エイダの話し相手として引き取られた娘エスタが、ジャーンディス家の者を長年苦しめている遺言訴訟や、自分の出生の秘密、別の貴族に嫁いでいた母親との関係、ロンドンで知り合った女友達との関係、自分に想いを寄せる医師との関係など、様々な事件に見舞われる話。

  こういう梗概を書いてしまうと、エスタが主人公のようですが、確かに、そうではあるものの、話は、「エスタの物語」という名がついた、エスタによる一人称で書かれた章と、作者による三人称で書かれた章が、交互に出てくる形になっていて、エスタが知らない事も、作者目線で描かれます。 主な登場人物だけでも、10人以上出て来て、それぞれ、心理描写が施されていますから、群像劇でもあります。

  筒井さんが、べた誉めしていますが、確かに、面白いです。 かなりの長編なのに、読んでいても、ほとんど、苦痛を感じません。 「エスタの物語」の章が、手記のような文体なので、そこへ入ると、抵抗なく、スイスイ先へ進むという事情もあるのですが、それを割り引いても、読み易い作品です。 これに似た感覚は、≪モンテ・クリスト伯≫でも、味わいました。 実は、最も似た雰囲気があるのは、ウィルキー・コリンズの、≪白衣の女≫なのですが、コリンズは、ディケンズに面倒を見てもらった人なので、影響を与えたのは、ディケンズの方という事になります。

  物語全体の統一感という点では、少し、緩い感じがします。 シャーロット・ブロンテの、≪ジェーン・エア≫が、5年くらい早く、発表されているんですが、そちらと比べると、緩さは、歴然。 後期のディケンズは、ストーリー構成を計算し、伏線を張りながら、物語を書き進めるようになったと言われていますが、習い性というのは、そう簡単には、直らないものらしいですな。 ただし、伏線を張ったまま、後で回収せずに放り出したようなところは、見受けられません。

  ディケンズは、社会経験が豊富で、様々な人間を観察して来たせいか、特徴的な性格の人物を描くのが、実に巧みです。 ジャーンディス氏にたかって暮らしている、スキムポール氏は、その代表格。 金銭感覚を持ち合わせず、払う気もないのに、物を買ってしまう人で、最初は、呆れつつも、「こういう人も、いるのかなあ」と思って、読んでいるんですが、後ろの方へ行くと、バケット警部が、スキムポール氏の本性を言い当てる場面が出て来て、「え! やっぱり、そうだったのか!」と驚かされる事になります。 巧いなあ、この語り口。 そういや、≪白衣の女≫にも、非常に変わった性格の人物が出て来ましたが、ありゃ、ディケンズの影響だったんですなあ、きっと。

  ジャーンディス氏の後見を受けている、もう一人の人物で、リチャードと言う少年が出て来ますが、これも、特徴的ですわ。 根拠もなく楽観的な考え方をする癖があり、飽きっぽさから、職業選択で三度も失敗した挙句、先祖の遺産を当てにして、何十年も決着が付かない裁判に首を突っ込むわけですが、出て来て、喋り出すなり、「ああ、こいつは、ろくな目に遭わないわ」と、すぐに分かります。 いるいる、こういうガキ。 過剰な自信家で、「自分は、どんな事でもできる」と信じ込んでいたのが、いざ、社会に出ると、何一つ満足にできず、どんどん、楽な方向へ流れてしまう奴。

  リチャードと、スキムポール氏は、出て来た時から、ろくでもねー未来が待っているに違いないと予想され、それだけでも、先を読みたくなる動機に不足はないのですが、裁判がどうなるか、中盤で起こる、弁護士殺人事件はどうなるかと、興味が途切れる事がありません。 とにかく、全67章の内、第63章までは、「これは、傑作に違いない」と思うこと、疑いなしです。


  ところがねえ、第64章で、急転直下、変な話になってしまうのですよ。 ネタバレを避けたいので、詳しくは書きませんが、エスタの結婚相手の事で、何とも納得のしようがない、奇妙な展開が用意されているのです。 ちなみに、「荒涼館」というのは、ジャーンディス氏の、領地にある屋敷の名前なんですが、作品名になっている割には、荒涼館での場面が少なく、ロンドンの屋敷の方が、出番が多いくらいです。 そこも変だなと思いながら読んで行くと、第64章で、オチがあって、「あっ、この為に、この作品名にしたのか!」と、分かるわけです。

  だけどねえ、このオチは、子供騙しも甚だしいですよ。 だって、結婚相手が誰であるかという事は、女性側・男性側に関係なく、大大大問題ですよ。 それを、こんな風に、オチにしてしまったのでは、噴飯も、ここに極まる。 こういう話にしたいのなら、エスタが、ジャーンディス氏から、手紙を受け取った後、報恩の意志と恋愛感情の間で、思い悩む心理が描かれなければ、おかしいでしょうに。 最も伏線が必要な所に、伏線を張っていないのです。 これは、救いようがない、手落ちだわ。 破綻と言ってもいい。


  更に、難を挙げますと、エスタの性格に問題があると思います。 この人、そんなに人柄がいいわけではないですよ。 だって、本当に性格がいい人間は、こんな、「私は、世界一の幸せ者」みたいな、いやらしい手記を書かんでしょうに。 しかも、「欲がなく、礼儀正しく、思いやり深く、我慢強く、家政を切り盛りする才能がある」、自分が、そういう人間である事を、謙遜で表面を覆い隠しつつ、遠回しに、自慢しているのです。 何ともまあ、いやらしい女だね。 実際には、ジャーンディス氏の手紙に、何の抵抗もなく返事をしたところを見れば、財産や社会的地位に興味津々なのは、明々白々。

  ガッピー君という、弁護士事務所の書記が出て来て、かなり早い段階で、エスタに求婚するのですが、エスタは、全く相手にせず、その場で断ります。 ガッピー君から、「考え直してくれたなら、いつでも言ってくれ」と言われていたのを、その後、疫病を患って、自分の容色が落ちてしまった後で、わざわざ、自分の方から、ガッピー君の所へ出かけて行って、求婚の申し出を、完全に白紙に戻させます。 この行動、「どうだ、私の顔は変わってしまったのだから、お前のような、色目当ての下司野郎は、求婚を取り下げる以外ないだろう」と、決め付けているとしか思えず、憎悪剥き出し。

  憎悪と言うより、最初から、ガッピー君の事を嫌悪しているのですが、その理由が分かりません。 推測するに、根底に、差別意識があるんじゃないでしょうか。 この女、「自分は貴族社会の人間だ」と思っているものだから、弁護士の書記ごとき実務労働者が、求婚して来るなど、身分違いも甚だしいと思っているように見受けられます。

  ちなみに、ガッピー君の方は、確かに、エスタの顔が変わってしまった事に驚き、求婚を取り下げるのですが、この場面、エスタの一人称で書かれているので、エスタの偏見が入っているわけで、全てを文面通りには受け取る事はできません。 この女の性格なら、自分に不都合な事は、書かずに済ませてしまうでしょうし、気に喰わない相手の欠陥を増幅して書く事も、平気でやると思います。

  最後の方で、弁護士として独立の目処が立ったガッピー君は、母親と友人を連れて、もう一度、求婚しに来ますが、これを、ジャーンディス氏とエスタは、笑い者にして断り、足蹴同然に追い返します。 ここも、エスタの一人称なので、自分に都合のいい書き方をしていると思われ、ガッピー君や、その母親の人格を扱き下ろしているような描写は、一文字たりとも信用できません。

  客観的に見て、ガッピー君のやった事は、別に無礼でも何でもない、結婚後の生活の事まで良く考えた、真っ当な求婚だったと思うのですが、その母親にまで、大恥をかかせる、ジャーンディス氏と、エスタというのは、一体、どういう人間なんですかね? これねえ、読者によって、見方が異なると思うのですよ。 過去に、求婚して、その場で断られた事がある人は、最初の、ガッピー君の求婚場面で、もう、エスタの事を、人格者とは思えなくなると思います。

  そういう経験がない人は、逆に、ガッピー君の方を、無様な道化だと思うでしょう。 だけどねえ、真剣に検討もせずに、その場で断ると言うのは、「お前と結婚なんぞ、想像するだに、虫唾が走る」と言っているのと同じなんですぜ。 まあ、自分がやられてみれば、分かります。 逆に言うと、その経験がない読者は、何度読んでも、この小説の問題点が、理解できないという事になります。 エスタの事を、当人が書いている通りに、一点の瑕もない善人だと思ってしまうわけです。

  そういや、エスタの母親が、結構、重大な役回りを担っているのですが、この人が、どんなにひどい目に遭っても、読んでいる方は、何とも思いません。 あの娘にして、この母ありですな。 ディケンズも、自分で書いていて、感情移入のしようがなかったのか、終わりの方では、テキトーに片付けてしまっています。 ちなみに、この作品で、末路が可哀想だと思うのは、掃除少年のジョーだけですな。


  問題は、これが、実話ではなく、作家による創作だという点です。 ディケンズは、どういうつもりで、主人公を、こんな性格にしたんでしょう? ディケンズの前期の小説は、主人公より、脇役の方が性格がよく描けているそうですが、この点でも、習い性が、後期まで抜けなかったんでしょうか。 穿って見れば、エスタの心理描写を、わざわざ、一人称の手記にして、他と区別している点から考えて、「こういう女って、どう思うよ?」と、読者に問いかけているのかも知れません。 だけど、それなら、ハッピー・エンドにはしないでしょう。

  つまりその、一口で言うと、「変な話」という読後感になってしまうのですよ。 大江さんや、筒井さんが、エスタの人格はともかく、エスタの結婚相手のオチの所で、引っかからなかったのは、不可思議千万。 常識的に考えれば、こういう話は、釈然としませんわなあ。 だからこそ、ディケンズの代表作として挙げられないのではないでしょうか? 発想を逆転させて、この作品を、最大限、楽しむには、第63章で読むのをやめ、続きを自分で考えるというのが、案外、いい方法なのかも知れません。



≪オリヴァー・ツイスト≫

ちくま文庫 ≪オリヴァー・ツイスト 上・下≫
筑摩書房 1990年
チャールズ・ディケンズ 著
小池滋 訳

  だから、「オリヴァー」なんて書かなくても、「オリバー」でいいというのよ。 どうせ、日本語人には、「オリバー」としか、発音できないし、「オリバー」としか聞こえないんだから。 カタカナ語で、「ヴ」と書いていれば、英文を覚える時に、復元しやすいと思っているのだとしたら、それも間違いでして、英単語を覚える時には、全く別の脳細胞で覚え直しています。 そもそも、カタカナ語では、書く方は、「バ行」と「ヴァ行」を気にしても、読む方には、気にしないから、書き分けてあっても、区別して覚えません。 文字数が増えるだけ、無駄です。

  それでも、どーしても、是が非でも、「バ行」と「v」を区別したいというのなら、「vァ・vィ・vゥ・vェ・vォ」とでも、書けばいいのです。 「ヴ」などという、理屈的に発音のしようがない文字を使うよりは、一億倍マシです。 前にも書きましたが、母音は、元々、有声音だから、その上更に、有声音化記号の、「゜」を追加したって、何の意味もないのよ。 大体、母音文字を、子音用に使うという発想が、ガサツ極まりないです。 言語学も音声学も、てんで、知らない証拠。 一体、どこの馬鹿が、「ヴ」なんて、書き始めたんだか。 ほんとに、馬鹿だ。

  それはさておき、「オリバー・ツイスト」という言葉は、何かの学問の専門用語、もしくは、ダンスの種類のように聞こえますが、その実、単なる、人の名前です。 しかも、子供の名前で、最も育った時でも、12歳。 救貧院で生まれて、その直後、母親が死んでしまったので、名前は、施設側でつけたのですが、その時、苗字まで、一緒につけたんですな。 まあ、確かに、苗字がないと、いろいろと困りますが。

  地方の町の救貧院で生まれ、9歳まで育てられた少年が、葬儀屋に雇われるが、ろくでなしの先輩から、死んだ母親を侮辱された事で、激情して家出し、徒歩で、ロンドンまで辿り着くものの、いきなり、犯罪組織に誘い込まれてしまい、仲間のスリと間違えられて、逮捕されたり、強盗に忍び込まされた家で、銃で撃たれたり、さんざんな目に遭いながらも、その後、善良な人達と出会った事で、悪党の世界から救い出され、自分の出自も知る事になる話。

  とまあ、オリバーを軸にしてみれば、そういう話になるんですが、オリバーが主人公なのは、物語の前半だけでして、後半は、それ以外の登場人物達の、群像劇のようになります。 善玉・悪玉、それぞれ、7・8人が出て来ますが、どちらかと言えば、悪玉の方の人格描写に、多くの紙数が当てられています。 作者は、社会の暗部の方に、より興味が強かったんでしょうな。 特に、スリ・泥棒の親玉である、狡猾なフェイギン老人と、粗暴な強盗、サイクスは、キャラが立っています。

  善玉の方は、ほとんどが、上流階級の人間で、爵位が出て来ないので、貴族ではないのかもしれませんが、とにかく、財産があり、いい暮らしをしている人達です。 この人達が、根っからの善人なのか、喰うに困らないから、人を助けるゆとりがあるだけなのかは、分かりません。 ディケンズが活躍した時代というのは、産業が発展し、身分社会が崩れて行く、「貴族の時代」から、「金持ちの時代」への移行期だったわけですが、いずれにせよ、社会の中心にいるのは、上流階級なのであって、この作品が、善玉を全員、そちら側の人間で埋めているのは、今の感覚で見ると、些か、偏っているように見えます。

  「氏より育ち」を完全に否定している点も、この作品の大きな特徴で、善良な人間は、善良な親から生まれ、悪党は、悪党の親から生まれる。 少なくとも、片親が、ろくでなしであるという事になっています。 そして、大まかに言って、貧乏人は悪党で、金持ちは善人という、構図になっているんですな。 ディケンズの作品は、近代小説に分類されているわけですが、どうも、こういうところが、古臭く感じられます。

  ピカレスク(悪漢小説)の流れを汲んでいると言われれば、なるほどと思うのですが、この作品が発表された、1837~39年という時代は、まだ、そんな時期だったんですかねえ。 いやいや、スタンダールの、≪赤と黒≫は、1830年発表ですが、それと比べても、遥かに旧態依然という感じがします。 風刺小説の趣きも強く、ディケンズという人が、人間個人よりも、社会全体の方に興味を持っていたのは、疑いないところ。

  人物造形だけでなく、話も結構いい加減でして、オリバーの出自が明らかになって行く過程は、ありえない偶然が重なっており、もはや、小説というより、お伽話に近いです。 ただ、話の流れが良いので、その不自然さに気づかないまま、最後まで読んでしまう読者もいるかもしれません。 物語の語り方は、大変、巧いのです。

  「善には善の報いがあり、悪には悪の報いがある」というテーマを、この作品ほど、極端に描いている小説も珍しい。 ≪クリスマス・キャロル≫も、そうですが、ディケンズの考えでは、人間には、基準なる正しい生き方があり、それを人々に教える為に、小説を書いていたのではないかと思われる節があります。 唯一の救いは、≪クリスマス・キャロル≫と違って、キリスト教的な宗教臭が、ほとんどしないところでしょうか。 もし、これで、「全ては、信仰心のおかげ」なんて書き方がしてあったら、もはや、近代小説とは言えません。

  随分、ケチばかりつけましたが、あまり深く考えずに、一時、物語の世界に浸ってみたいというのであれば、十二分に、面白い小説だと思います。 文庫本二冊で、合計、760ページくらいですが、会話が多いので、割と、スイスイ進みます。 前半は、オリバーが、どこまでひどい目に遭うのか心配で、ハラハラしますが、後半になると、そういう心配は遠のいて、クライマックスへ向う、話の盛り上がりで、一気に読み通してしまいます。

  ああ、そうだ。 スイスイ進むとは言いましたが、ちょっと、創作形容が多過ぎる点が、抵抗になりますかねえ。 どうも、英米文学では、創作形容が多ければ多いほど、作者の創造力が高いと見做される傾向があるようですが、そういう独特な習慣が、世界レベルで見た時に、英米文学の評価を落とす方向に働いてしまっているのではないかと思います。 問題は、その事に、英語人が気づいていない点だよな。 創作形容を、「気が利いている」と思ってるんですぜ。 ≪面白南極料理人≫じゃないんだから。



  以上、三冊です。 いつもの蔵出しより少ないですが、≪荒涼館≫と、≪オリヴァー・ツイスト≫は、一作分が長いですし、ちょうど、ディケンズの作品だけで纏まるので、ここまでにしておきました。 この後、≪大いなる遺産≫を読むつもりでいたんですが、たまたま、図書館の本が貸し出し中で、読む事ができず、他の作者の本を読んでいたら、それっきり、ディケンズから離れてしまったという次第。

  読んだ順序としては、今年の1月29日に、≪荒涼館1・2≫を読み、その後、≪クリスマス・キャロル≫を挟んで、≪荒涼館3・4≫を読み、最後の、≪オリヴァー・ツイスト≫を読み終えたのが、2月23日でした。 長編が二作入っているから、結構、かかっています。 ≪クリスマス・キャロル≫は、一晩で、読めますけど。

  ディケンズの小説は、読み易いんですが、読み易いだけでは、読む気にならないのであって、近代小説なら、もうちょっと、中身が欲しいところです。 それは、ディケンズだけでなく、英米文学全体に言える事。 だけど、英米文学は、文学としては、トップ・クラスとは言えないものの、その分かり易さ故に、映像作品の原作には適しており、映画化されている数で、他国文学を圧倒しているのは、否定のしようがない事実です。


  そうそう、映画で思い出しました。 その後、2月28日に、1968年のイギリス映画、≪オリバー!≫を見て、感想を書いたので、オマケに、それも出しておきます。 見たのは録画ですから、放送したのは、もっと前かも知れません。  内容が、部分的に、小説の感想と重複していますが、これは、元々、別のブログに出すつもりだったから。 今更、書き直すのも面倒臭いので、御容赦ください。



≪オリバー!≫ 1968年 イギリス
  ≪ディケンズ≫の、最初の長編小説、≪オリバー・ツイスト≫が、原作です。 先に、劇場用ミュージカルになっていたのを、映画化したようです。 地方の町の救貧院で生まれ、9歳まで育てられた少年が、葬儀屋に雇われるが、ろくでなしの先輩から、死んだ母親を侮辱された事で、激情して家出し、ロンドンまで辿り着くものの、いきなり、犯罪組織に誘い込まれてしまい、仲間のスリと間違えられて、逮捕されたり、強盗に鍵開け係として利用されたり、さんざんな目に遭いながらも、善良な人達と出会った事で、悪党の世界から救い出され、自分の出自も知る事になる話。

  BSプレミアムで見たんですが、たまたま、その直前に、原作の方を読んだばかりだったので、両者の違いが良く分かりました。 映画の方は、2時間26分もあり、インター・ミッションが入るほど長いにも拘らず、ミュージカル場面に時間を喰われているせいで、原作のエピソードを、3分の2くらいしか取り上げられず、後半は、登場人物を減らし、ストーリーを単純化して、大幅に端折っています。 一応、筋が通るようにはしてありますが、原作のファンが見たら、顔を顰められても仕方がないほど、大きな変更ですな。

  主人公の名前が題名になっているのに、後半になると、主人公の存在感が薄くなってしまう点は、原作と同じ。 いや、原作では、ほとんど、出番がなくなってしまいますから、一応、クライマックスまで顔を出している、映画の方が、まだ、マシというべきでしょうか。 つまりそのー、映画化したから悪くなったという以前に、原作の方も、あまり、出来のいい小説ではないのです。 たまたま、助けてくれた人が、親の知り合いだったなんて、偶然の度が過ぎています。 初期のディケンズは、近代文学と言うより、「お話」や、「物語」のつもりで、小説を書いていたんですな。

  原作の方では、スリ・泥棒の親玉、フェイギンは、狡猾で強欲な、妖怪じみた悪党という設定ですが、映画では、「こんな稼業をしていて、いいんだろうか?」と、思い悩むキャラに変更されています。 これは、原作が書かれた頃(1837~1839年)と、1968年で、ユダヤ人に対する意識が変わった事が、最大の理由です。 原作では、差別意識が剥き出しで、「フェイギン」という名前ではなく、「ユダヤ人」という呼び方で通されているくらいで、とても、そのままでは、映画にできなかったんでしょう。

  しかし、善人と悪人の対立が、原作のテーマですから、悪の側の代表格フェイギンに、中途半端に反省させてしまったのでは、テーマが引き立たなくなってしまいます。 テーマを変えてしまうくらいなら、原作など求めず、オリジナルの映画にしてしまった方が良かったんじゃないでしょうか。

  わざわざ、ミュージカルにした意味も、よく分かりません。 ウキウキ楽しい話でもなければ、美しい悲劇でもなく、言わば、勧善懲悪物で、およそ、ミュージカルに向く話ではないのですがね。 オリバー役は、マーク・レスターですが、ただ出てるだけ。 演技と言えるような、高等な事はしてません。

2015/06/14

恐怖の視聴者

  日記を出しているブログの方へ書いた文章で、少し、纏まった量になったものがあるので、こちらへ転載します。





≪2015年2月12日(木)≫

【所さんの世田谷ベース】
  ここ、10回くらい、見ています。 所さんが、自分の趣味を、そのまんま、見せている番組。 もう、かなり長く続いていますが、ネタ切れを起こさず、いつ見ても、「最近、始まったのかな」と思わせる新鮮さがあるのは、見事と言うか、不思議と言うか・・・。この番組のいいところは、視聴率を取ってやろうとかいう、あざとさがない事ですな。 ネタを揃える為に、結構、神経を使っていると思うんですが、それを視聴者に気取らせない、「ゆとり」が感じられるのです。

  趣味の方向が重なっている方面、つまり、バイクとか、車とか、機械いじり系の話の時は、私も、少しは分かります。 戦車も分かる。 シャーマンが好きというのは、アメ車好きと重なるんですかね? KV1もいいと言ってましたが、何となく、好みの傾向が分かりますな。 モデル・ガンは、全く分からないわけではないですが、ちょっと遠いかなあという感じ。 歌は、残念ながら、分かりません。 だけど、所さんは、本業、シンガー・ソング・ライターで、ずっと、曲を出し続けているわけですから、ファンもいて、ちゃんと、ペイしてるんでしょうなあ。

  ここから、ちょっと、穿った見方になりますが・・・。 所さん本人は、仕事も趣味も、これ以上ないくらいに満喫して、誰が見ても、幸福な人生を送っているように見えますが、その周囲に集まっている人達は、どうなんでしょうね? この番組には、視聴者から、いろいろな物が送られて来て、それを紹介するのが、不定期の一コーナーになっているのですが、所さんを楽しませようと、異様なほどに凝った物を作って来る人が多い。

  そういう人達は、全身全霊を注いで、それを作っているに違いないのですが、もし、何年も、そんな生活を続けていると言うのなら、少し冷静になって、自分の人生について、考え直した方がいいと思います。 それでは、あなた方の人生は、所さんの人生のオマケみたいではないですか。 いや、番組のオマケと言うべきでしょうか。

  確かに、夢中でやった事は、後々、いい思い出になるかも知れませんが、番組は、いつかは終るわけで、その後の虚しさも大きいと思いますよ。 見ていて、こんな風に感じてしまうというのは、つまり、明らかに、度を越している場合があるからです。 作るのに、何万円もかけて、送るのに、何千円も使って、ものの数分、紹介されて終りでは、費用・手間対効果が、あまりにも低い。 あくまで、洒落の範囲で収まるものでないと、その人の生活が心配になってしまうのです。

  所さんは、趣味に大金を投じられるだけ、稼いでいるから、問題ないですが、物を送って来るのは、一般人でしょう? 中には、凝った物を作るために、有り金全部、使ってしまっている人もいるんじゃないでしょうか? 物を送らない人でも、所さんの趣味を羨んで、真似をするような事は、やめた方がいいです。 あんな、博物館が作れるほどの趣味なんて、一般人の収入で、真似られるわけがない。 先に待っているのは、惨めな破産です。

「どうして、破産したの?」
「いや、世田谷ベースみたいな事したくて・・・」

  洒落にならん。

  視聴者サイドが、この番組を楽しむ為に必要な感覚は、「洒落」だと思うのですよ。 所さんが、趣味に、「拘り」を持っているからと言って、視聴者の方まで、拘ってしまっては、作る側と見る側の、垣根を越えてしまう事になります。 昔、ラジオの深夜放送を聴いていた頃、ハガキ投稿で、その垣根を越えたがるリスナーが、うじゃうじゃいましたが、そういう人達の事を、今思い返すと、人間として、まるで、評価できません。 当人達も、いい思い出になっている人より、若気の至りで、恥ずかしいと思っている人の方が、多いんじゃないでしょうか。




≪2015年6月4日(木)≫

【所さんの世田谷ベース #199】
  今年の2月12日の記事で、≪所さんの世田谷ベース≫について取り上げ、「物を送って来る視聴者の中に、度を越して、凝った物を作る人がいて、手間的・資金的に、洒落にならないだろう」という事を書いたんですが、今週の世田谷ベースを見たら、またまた、そういう、凝りまくりの視聴者の作品が紹介されていました。

  見ていて、「おや!」と思ったのは、所さんが、それらの作品を、さんざん、誉めちぎった後で、

「いやあ、もう、ほんとにこういうの、参考になります。 ありがとうございます。 なんかこう、送ってもらった品物もありがたいんだけど、こう、なんつーんだろね。 考え方とかさ、手間とかさ・・、あのう、それが世田谷ベースの方向を向いちゃってる悲しさとかさ、そういうのを感じますよ。 特に雨だと・・・、ええ」

  と、何か、お礼とは違う事を言いたそうな様子を見せたと思ったら、少し改まった顔になり、

「もうちょっと、自分を見つめ直して、地に足をしっかりと着けて、自分を見直して、あの・・、間違った道だったら、戻りましょう、みんな」

  と、付け加えて、コーナーを締め括っていた事です。 私が見た回の中では、所さんが、直截、こういう忠告を口にしたのは初めてですが、今までにも、「さすがに、ここまで凝った作品を送って来なくてもいいのになあ」と言いたげな様子は、ちょこちょこ見せていたので、やっぱり、所さん本人も、こういう視聴者の事を、心配していたんだと思います。

  だって、ほんとに、破産でもされたら、洒落にならないものねえ。 「何もかも失ってしまいました」なんてハガキが送られて来た日には、所さんや番組に責任はないにしても、寝覚めが悪くて仕方ないでしょう。 その人の人生全体を狂わせてしまう可能性もあります。 贈り物作りに没頭して、家庭を顧みず、別居だ、離婚だ、子供がグレただ、なんて事になったら、どうすりゃいいのよ? ホームレス姿で、世田谷ベースに訪ねて来られたりしたら、お茶の一杯で追い返すわけにも行きますまい。


  番組側としては、このコーナー、結構、時間を潰せて、ありがたいと思っていると思うのですが、「洒落というものは、程度の問題なのだ」という事が分からない人達に喰いつかれてしまうと、どうしていいか、困ってしまうと思うのですよ。 作品の出来が良ければ、誉めるのは、素直な反応ですが、誉めれば誉めるほど、より、お金と手間がかかった物を作って来るので、エスカレートする一方です。 さりとて、やめさせる為に、紹介を控えたりしたら、その人が投じた、お金と手間を無駄にしてしまう事になり、それも、心情的に、できかねる。

  結局のところ、穏便に済ませる為には、その人達が、飽きるか、疲れるかして、自発的にやめるのを待つしかないという事になります。 だけど、番組内での紹介が続いてる限り、自分からやめようとはしないかもしれませんねえ。 自分は期待されていると思って、その期待に応え続けようとするでしょう。

  テレビやラジオの番組に参加したがる一般人というのは、全く、野心がないというのは稀で、心のどこかに、「いつか、認めてもらって、有名になれるかもしれない」という願望があると思うのです。 番組側は、その気になれば、その夢を叶えてやれるのかもしれませんが、そういう事をし始めたら、一人では済みますまい。 「俺も!俺も!」と、押し寄せて来るのは、火を見るよりも明らかです。 それはそれで、洒落にならない。

  マジな話、あまりにも、お金や手間がかかった物を作って来る人に対しては、番組の方から接触して、経済状況や、仕事の様子などを、確認しておいた方がいいと思います。 もう、やっているのかも知れませんが、電話やメールだと、「いやあ、大丈夫ですよ」で、ごまかしてしまう人もいると思いますから、家まで訪ねて行くくらいでないと、本当のところは分かりますまい。 ボロボロのアパートの一室に籠って、せっせと、凝った物を作っていたりしたら、羽交い絞めにしてでも、やめさせなければ・・・。


  あと、これは、番組的に、結構、重要な事ではないかと思うのですが・・・。 送ってもらっている本人である所さんは、「なんだか、申し訳ない」と思いながらも、そこそこ楽しんでいると思うのですが、番組を見ているだけの視聴者は、凝った贈り物を見ても、全然、面白くないのです。 正直言って、全く、笑えないんですわ。 「やり過ぎなんじゃないの?」と思うだけ。 録画で見ている時には、その部分だけ、早送りしてしまうくらいです。

  所さん本人が凝った物を作るのは、凄いと思うし、面白いし、笑えるのですが、それを一般人がやると、視聴者は、別に、その人に興味があるわけではないので、凝っていれば凝っているほど、白けてしまうんですな。 その点、「変なオモチャを見つけました」と、安い品を買って、送って来る人の方が、気楽に笑えるので、ずっと洒落た印象があります。

  所さんだけを喜ばせようとせずに、何か送りたいのなら、他の視聴者も、一緒に笑える物を送ったら、いいんじゃないですかね? その辺を基準にすれば、凝った物を作る方向へ流れてしまうのを、防げるんじゃないかと思います。 「下心などない。 純粋に、所さんに贈り物をしたいのだ」と言うのなら、「番組では紹介しないで下さい」と一筆添えては、如何か? いやあ、それも、変な話ですよねえ。 番組が介在していなければ、視聴者と所さんは、赤の他人に過ぎないのですから。




  以上、二本です。 二本とも、木曜日の日付になっているのは、≪世田谷ベース≫の放送が、火曜日の夜11時からなので、水曜日に感想を書き、木曜日にアップするという、同じパターンになったから。 さすがに、これだけで終わりと言うのも、素っ気ないから、少し、補足しておきましょうか。

  読み返してみると、言わんとしている事は同じで、典型的な焼き直し文ですな。 二本とも、すでに、結論をつけてあるので、この上更に、同じような事を、繰り返しはしません。 こんな文章を目にする事があったとしても、所さんが番組内で、やんわり注意しても、結局、凝った物を作って送って来る人達は、やめようとはしないでしょう。 当人達も言っているように、それが、生き甲斐になっているらしいですから。



  その後、≪世田谷ベース≫だけでなく、≪SNAKE MOTORS≫も三本見たのですが、凝った物を送って来る人とは別に、お金的に、もっと、まずい状況になっている人達がいるのではないかと思うようになりました。 所さんは、車の改造も大好きで、古いアメ車などを買って来て、エンジンから、足回りから、内装まで、総取っ換えして、自分好みの車を作ってしまうのですが、もしや、それを真似ている視聴者が存在するのではないかという、恐ろしい疑惑が湧き起こって来たのです。

  いいや、これだけ、知名度の高い番組なのですから、そういう視聴者が、いないわけがないです。 ゲストが毎回変わる、≪おぎやはぎの愛車遍歴≫ですら、視聴者に、「旧車が欲しいなあ」と思わせる力が、充分にありますが、≪世田谷ベース≫の場合、所さんの比類ないカリスマ性が加わるので、影響力の強さは、遥かに上を行くでしょう。 所さんや、≪世田谷ベース≫に近づきたいばかりに、特段、興味もないのに、古いアメ車を買って、結果的に、えらい目に遭っている人が、結構な数に上るのではありますまいか?

  アメ車に限らず、古い車は、みんな、そうですが、まず、まともに走りません。 三日使うと、どこか壊れて、三ヵ月、修理工場入りなんてのが、ごく普通のパターンです。 実用品として使うのは、ナンセンスと考えておいた方がいいですな。 時間の点もさる事ながら、ただで修理はしてくれないわけで、お金の出て行くペースが、新車とは比較になりません。 交換部品がなくて、代用品を手作りしなければならないなんてケースもあり、一回の修理にかかる金額が、何十万円の桁になる事も、珍しくないと思います。

  旧車のレストアや、大幅な改造というのは、裕福な人間だけに許された趣味であって、一般人が真似できる事じゃないんですよ。 所さんに影響された視聴者の場合、「とにかく、古いアメ車を手に入れなければ、始まらない」という一心で、状態も分からないような物を買ってしまうと思うのですが、走れるようにしてもらおうと、修理工場へ持って行くと、「この車に、お金をかけるのは、やめた方がいい」と、ニコリともせずに、言い渡されてしまうと思います。 工場側は、車の状態と同時に、お客の経済状態も見ていて、代金を払えそうにない相手には、愛想笑い一つ見せないものです。

  お金の取りっぱぐれが起こりえない、上得意の所さんだから、元がガラクタ同然でも、走れるところまで、直してくれるし、スカイラインに、クラウンのエンジンを載せるような、無理無理な注文でも聞いてくれるのです。 貯金を全部はたいて、それでも足りずに、消費者金融で借りて来ているようなお客に、同じ態度で接するわけがないでしょうが。 そんなのを相手にしていたら、取引上、危なっかしいだけでなく、お客の為にもなりません。 車を弄りたがる人間は、決まって、一回の改造では済みませんし、一台でも済みませんから、結局、先に待っているのは、破産という事になるからです。

  ≪世田谷ベース≫では、「自慢のアメ車や、古い日本車を、所さんに見てもらいたい人は、集まって」という企画もやっていますが、それは別に、一般視聴者を相手に、「買って、持って来い」と言っているのではなく、元々、アメ車趣味や旧車趣味がある人に、同好会的なノリで、声をかけているのだと考えるべきでしょう。 だけど、番組に嵌まってしまって、その辺の判断ができなくなっている視聴者は、たくさん、いそうですなあ。 剣呑剣呑・・・。 日本車の旧車なら、動きさえすれば、まだ、使いようがありますが、アメ車はねえ・・・。

  今じゃ、ネットで簡単に情報が手に入るから、古いアメ車について調べれば、一週間くらい根を詰めるだけでも、そこそこ、いっぱしの趣味人に見えるくらいの知識が頭に入ります。 また、ネットでも、中古車が買えますから、あとは、お金の問題だけという事になります。 「車さえ手に入れば、所さん本人に会えるぞ」と思うと、それは、やはり、買ってしまうでしょう。 で、現物が来た後で、あまりの厄介さに頭を抱えてしまうわけだ。

  アメ車は、大きいですから、月極駐車場になんか、置けないですよ。 無理に置いても、隣の車との間が狭くなり過ぎて、ドアが開かないです。 当然、隣の車のドアも開きませんから、迷惑千万。 その事を知っている駐車場経営者なら、アメ車と知った時点で断ると思いますし、知らなかった経営者でも、隣の車の持ち主から苦情が来て、「悪いけど、契約解消して」と言って来ると思います。

  資産家とか、素封家とか、創業社長とか、農家とか、芸能人とか、裕福で、家の敷地にゆとりがある人でないと、所有すらできんのですわ。 「アメ車なら、ボロボロでもいい。 むしろ、ボロボロの方が、カッコいい」とかいう、感覚的なノリだけで、買えるような代物ではないのです。 日常的な足に使うつもりでいるのなら、思い違いも、そこに極まる。 ほとんどの店で、駐車場に停められないですぜ。 その点は、所さんが番組で乗っている様子を見ても、走るだけで帰って来るか、停められる店にしか行かないから、分かると思います。

  アメ車を楽しむには、まず、駐車場の確保からしなければならないわけで、「借金すれば、どうにかなる」なんてレベルの経済状態の人達は、全員、不適格と断言して良いと思います。 そういう人達は、気分が悪いと思いますが、しょうがないんですよ。 人間社会というのは、そういう仕組みなんだから。 アメリカとカナダを除き、一般人に、古いアメ車趣味を許してくれるような社会は、世界中探してもないでしょう。 キューバですら、個人で趣味として持っている人は少ないのでは?

  ≪世田谷ベース≫は、趣味の番組ですから、同じ趣味を持った視聴者にサービスするのは、別におかしな事ではないですし、「こういう趣味があるんだよ」と、視聴者に知らせて、同好の士を増やすのも、問題ないと思います。 だけど、お金がない人にまで、真似ろとは言っていないので、視聴者側で、それを斟酌しなければなりません。 ≪なんでも鑑定団≫あたりを見ていれば、自分の経済状態に不釣合いな趣味を持ってしまった人が、悲惨な末路へ追い込まれて行くのは、大変、良くある事であり、厳に警戒しなければならない事だと分かると思います。


  車の趣味は、ほんと、危ないんですよ。 事故とか違反とかを別にして、お金の事だけで見ても、若い頃から車が趣味で、2年とおかず、乗り換えて、定年過ぎたら、貯金がゼロで、ローンが、ン百万なんて、傍から見ると、愚かとしか思えない人が、世の中に、どれだけいる事か。 しまいにゃ、住む所がなくなって、ソアラの車中で、内縁の妻と一緒に死んでたなんて事件も、昔ありましたな。 悲惨ではあるけれど、自業自得なので、気の毒とは思いません。

  他の趣味とは、出て行く金額の桁が違うのです。 手取り年収が、400万円以下の人では、可処分所得を、年200万円確保したとしても、車の趣味だけで、ほとんど、出て行ってしまうでしょう。 バブルの頃は、乗っている車で男を選ぶという、馬鹿女が頻出しましたが、結婚した後で、それだけの稼ぎもないのに、車をしょっちゅう買い換える亭主に、思う様、戦慄させられた事でしょう。 老後を、どうするつもりだったのか、改めて、膝詰めで詰問してみたらどうですかね? たぶん、何も考えていなかったのだと思いますが。

  そういや、私がまだ、20代半ばの頃。 会社の先輩で、そんな人がいたなあ。 もう、40代後半くらいの人でした。 妻子持ちで、ずっと、戸建ての借家に住んでいるらしいのですが、その理由が、「車で不自由したくないから」だと言っていました。 その人に言わせると、「持ち家に住んでいるのは、家のローンで手一杯で、ろくな車が買えない、憐れな連中」なのだそうです。

  「なるほど、そういう考え方もあるのか」と、アハ体験をしたわけですが、共感は、全くできませんでした。 その人の年齢を考えると、今はもう、完全に退職していると思いますが、たぶん、高級車や、スポーツ・カーの乗り継ぎで、ローンこそあれ、貯金なんかなかったでしょうから、引退というわけにも行かず、年金受給まで、何かしら仕事をし続けているんじゃないでしょうか。


  話を戻します。 「それなら、番組で、そう注意しろ」と思うかもしれませんが、そこが、趣味の番組の難しいところでして、視聴者の、趣味への欲望を、ある程度、利用しないと、こういう番組自体が成り立たないんですな。 視聴者への影響が強過ぎれば、破産者を出すし、弱過ぎれば、番組が終わってしまうしで、ジレンマになっているのです。 たとえば、所さんが、「お金が、あまりない人は、ここから先は、真似しないように」と言ったら、それに該当する人は、除け者にされたような気分になって、白けてしまうでしょう? 番組そのものを見る事をやめてしまうかもしれません。 番組的に、それは、まずいと考えると思うんですわ。

  で、結局、視聴者側として、必要になって来るのは、「常識的判断力」という事になるのです。 何も、古いアメ車を買わなくたって、公式グッズの購入くらいでも、充分、番組に近づけると思いますよ。 それ以上を望んでも、作る側と見る側の境を越える事はできないのだから、詮ない事ではありませんか。 「こういう凄い趣味を楽しんでいる人がいるんだなあ」と、知らない世界を垣間見る事に楽しみを見出せばいいのです。 それこそが、「洒落」というもの。 とにかく、破産は、洒落にならんわ。

2015/06/07

ない

  以前、「はず(筈)」とか、「わけ(訳)」とか、それまで、漢字を使って書いていたのを、その漢字の本来の意味ではない、当て字だから、使うのをやめて、不本意ながらも、ひらがなで書くようにした、という記事を、いくつか書きましたが、今回も、その類いです。 今回のは、助動詞系だから、かなりの大物。

  いや、助動詞系である上に、否定詞なので、大物中の大物と言うべきでしょうか。 それは、「ない」です。 「ない」を、「無い」と書くのを、やめようという、日本語表記の根幹に関わるような壮大な試みなのですが、言うまでもなく、私個人に限った話なので、他の方々は、別に、つきあう必要はありません。


  実は、もう、切り換えてから、随分経っています。 このブログの記事で言うと、2014年、8月31日の、≪さよなら、石垣島≫までは、「無い」を使っていましたが、次の、9月7日の≪宮古島周遊≫からは、「ない」に換えました。 用言なので、「なかろう・なかった・なく・なければ」といった活用形と、「なし」という名詞形も含みます。 とにかく、「無」を「な」と訓読みする場合、すべて、漢字を使わず、ひらがなに換えたわけです。

  一方、音読みの方は、そのままで、「無」を使っています。 元々、そちらが正しいのだから、換える理由がありませんわなあ。 発音が、「む」であっても、「ぶ」であっても、関係なし。 私が、よく使う、「無」が付く漢字熟語と言うと、


【二文字】
無縁、無限、無罪、無視、無事、無性、無償、無情、無常、無上、無人、無心、無尽、無数、無駄、無体、無断、無知、無茶、無敵、無難、無念、無能、無比、無法、無謀、無名、無用、無欲、無理、無料、無力、無類、無礼、無論

【三文字】
無意味、無教養、無気力、無関心、無邪気、無尽蔵、無責任、無頓着、無分別

【四文字】
怪力無双、国士無双、広大無辺、厚顔無恥、などなど。

【無が後に来るもの】
有無、皆無、虚無、絶無


  といったところ。 二文字のは、思っていたより、「ぶ」と読むものが少なかったです。 「無粋」は、「不粋」と書く方が多いから、外しておきました。 三文字には、他に、「感無量」などもありますが、「感が無量」で、主語と述語がくっついているだけなので、入れませんでした。 だけど、「無量」だけだと、使わないんですよねえ。 四文字は、探せば、他にも、いくらでも出て来そうですが、面倒なので、調べません。 「無」が後に来るものは、このくらいしかないんですが、それには、「無」の本来の意味に関係して来る、理由があります。


  逆の意味に当たる、「ある」に関しては、私の場合、若い頃から、ひらがなで通していて、「有る」と書く事はなかったです。 私だけでなく、読書階層の人間なら、「有る」という漢字の当て方は、自然に避けていると思います。 だって、そんな書き方している本なんて、ないものね。

  「有る」で、よく目にすると言ったら、街なかにある看板の、「駐車場、有ります」くらいのもの。 「P 有り」というのも多い。 ああいうのは、「月極め駐車場」の、「極」と同じように、見る者の注意を引く為に、わざと、一般的でない漢字を使っているんでしょうなあ。 ところが、読書慣れしていない人は、そういうのを見て、使っていいものだと思い込み、「ある」を「有る」と書いたりするわけだ。

  読書の習慣がない人は、本来、文章を書く習慣もないものですが、仕事で、やむをえず、文章を書かなければならない場合があり、社内文書などでは、そういう、奇怪な文字使いの文章が、間々、出回ります。 律儀な性格だと、「ある」を、全て、「有る」で書くので、「○○が有るのは、××の期間で有れば、△△で有り、☆☆では有りません」などという、思わず、殺意を抱きたくなるような文になります。

  なんで、「ある」を、「有る」と書くと、まずいのかというと、漢字の本来の意味が違うからです。 そもそも、「有」に「ある」という訓を当てたのが間違いで、「有」には、「ある」という意味はありません。 では、「有」は何なのかというと、「~を持っている」という意味の他動詞なのです。 英語の、「have」と同じと言った方が、分かり易いでしょうか。

  「有力」は、「have power」、「有望」は、「have hope」。 大雑把に言えば、そうなります。 一方、「ある」は、英語では、be動詞に当たり、「have」とは、使い方が全然違います。 そもそも、「ある」は自動詞ですから、目的語を取れないのであって、「有」を「ある」と読むなら、「有力」なんて並びの熟語は、ありえない事になります。 「力をある」なんて、言わないでしょう? 「力を持っている」、もしくは、「力を有(ゆう)している」ですわなあ。

  「駐車場、有ります」や、「P 有り」は、漢文の文法に沿って書くなら、「有駐車場」や、「有P」が正しく、日本語の意味に沿って書くなら、「駐車場、あります」や、「P あり」が正しいです。 ただし、上述したように、人目を引く為に、わざと、「有」を使っている可能性があるので、「こんな書き方は、間違っている!」と、目くじら立てるつもりはありません。

  ところで、「有」が、「~を持っている」という意味なら、漢字には、「ある」という意味の文字がないのかと言うと、ある事はあります。 「~がある」という意味では、「在」がそうです。 「国破山河在(くに、やぶれて、さんが、あり)」の「在」ですな。 だけど、「在」は、そういう用法では、漢文では滅多に出て来ず、中国語では、全く出て来ません。 漢文や中国語では、そもそも、対象物を主語にした、「~がある」という言い方をせず、行為者を主語にして、「~を持っている」という表現をするのです。 その点は、英語と同じ。

  もう一つ、英語のbe動詞の意味、「~である」に相当する漢字は、「是」という字が使われます。 「I am a Japanese」は、「我是日本人」になるわけです。 英語のbe動詞は、時制や時態といった、「相」を表すパーツとしても使われますが、「是」は、「~である」専用で、漢文・中国語の「相」は、他の方法で表します。 そちらの話は、今回のテーマと関係ないので、割愛。


  「有」が、「ある」ではない事は、読書階層を中心に、結構、多くの人が気づいているのですが、理由を正確に知っているわけではなく、本や新聞を読んでいると、そういう書き方がされていないから、自分もそうしているというレベルの話。 子供や、非読書階層の人から、なぜ、「ある」を「有る」と書いてはいけないのか、説明を求められても、ほとんどの人が、答えられないと思います。 ただ、「習慣的に、そういう書き方はしないんだよ」で、ごまかすだけ。 説得力に欠けること、夥しいですが、それでも、間違ったまま、「有」を使っていないだけ、マシと見るべきでしょうか。


  一方、「無」の方には、遥かに複雑な事情があります。 「ない」と読む部分、全てを、「無い」と書く人は、珍しいですが、読書階層であっても、どこまで、「無い」を使うか、定まっていないのです。 私が、去年の夏以前に、指標にしていたのは、


【1】 助動詞の「ない」は、「ない」と書く。
【2】 形容詞の「ない」は、「無い」と書く。
【3】 名詞の「なし」は、「無し」と書く。


  という、割とシンプルな法則でした。 【1】の助動詞というのは、用言の否定に使われる「ない」で、動詞、形容詞、形容動詞、助動詞に付いた時、それぞれ、「食べない」、「美しくない」、「静かでない」、「~ではない」と、ひらがなで書くという事です。 【2】は、「ない」が、形容詞として、単独で使われ、主語の名詞を否定する場合、「効果が無い」や、「~する事は無い」と、漢字で書くという事。

  【1】の法則は、例外なく、守っていましたが、【2】と【3】に関しては、厳密に実行していたわけではなく、「何となく、くどいな」と思って、漢字を使わず、ひらがなで書く事もありました。 なんだか、境界線が曖昧になる事があり、そのつど、もやもやしていたのです。

  中国語では、用言の否定は、「不」を使い、「無」は、全く、出番がありません。 「有」の否定の時だけ、「没」をつけて、「没有(メイヨウ)」としますが、これは、「~を持っていない」という意味の他に、動詞の前に付いて、「その動作が、まだ、行なわれていない」という、完了相の否定として使われます。 前者の意味は、「無」と同じですが、口語では、「没有」の代わりに、「無(ウー)」と言っても、全く通じません。

  漢文になると、否定詞の種類が、いくつもありますが、漢文では、韻を揃える為に、口語では使わない文字を持って来たりするので、法則性を見出すのが難しいです。 特に、漢詩は、韻が命のようなところがあり、韻を合わせる為に、頻繁に使われる否定詞は、種類を、複数、キープしているんですな。

  細かい事はさておき、基本的には、用言の否定は、「不」だと思っていいです。 ところが、日本語には、「不」の訓読みがありません。 「不い」と書いて、「ない」と読めれば、用言の否定に使えるのですが、そんな読み方をしてくれる人は、まず、いないでしょう。 「無」は、最初の方で挙げた、音読みの熟語を見てもらえば分かりますが、全て、名詞を否定しています。 「無視」や、「無比」などは、一見、動詞を否定しているようですが、実際には、「視る事」、「比べる事」という、名詞を否定しているわけです。

  私が、「無い」を、用言の否定に使うのは、明らかに間違いだと知っていたのに、名詞の否定になら使ってもいいだろうと思っていたのは、そういう事情があったのです。 今にして思うと、「無」という漢字の意味について、深く考えた事がなかったんですな。 それが、去年の夏頃に、「はっ!」と気づいたわけです。

「待てよ・・・、『無』は、『有』の反対の意味なのだから、『有』を、『ある』の意味で使えないのなら、『無』も、『ない』の意味で使えないのでないか?」

  ・・・と。 これには、青くなりました。 「有無」という熟語があるように、「有」と「無」は、反対の意味を表すセットなわけですが、という事は、つまり、「有」が、「~を持っている」なら、その反対の「無」は、「~を持っていない」という意味になります。 つまり、「無」を、「ない」と読むこと自体が、間違いだったわけだ。 これには、たまげた。 こんな明々白々な事に、今まで気づかなかった事に、一番驚いた。

  「無」は、名詞を否定できますが、それは、名詞が目的語の場合でして、日本語の、独立して使われる「ない」は、形容詞だから、主語に付く事はできても、目的語を取る事ができません。 「無」と「ない」では、全然、用法が違っていたのです。 これというのも、大昔、漢文を読むのに、レ点や返り点で、無理やり日本語風に並べ替えて、読んでいたのが原因なのですが、何とも、紛らわしい事をしてくれたものです。


  気づいてしまったが最後、もう、それまでの書き方はできません。 「無かろう、無かった、無く、無い、無ければ」の活用は、全滅。 名詞形の、「無し」も駄目。 とにかく、「無」を「な」と読むケースは、全部、間違いだと分かり、一つ残らず、ひらがなに切り換えました。 ただし、過去の記事まで遡って直すのは、どえらい手間になってしまうので、断念しました。 冗談じゃない。 そんな事を始めた日には、「置換」を使っても、まるまる、半年くらいかかってしまいますわ。


  これねえ、「自分は、もともと、『ない』は、ひらがなで書いている」という人もいると思うんですよ。 たとえば、新聞や雑誌では、助動詞と形容詞の「ない」は、全て、ひらがなで書いているところが多いです。 だけど、名詞の「無し」に関しては、ノー・マークで、「用無し」とか、「音沙汰無し」とか、書いてしまっている人が、大変、多いです。

  これも、「ない」を「無い」と書くのが、なぜ、間違っているのか、理由が分からないまま、ただ、習慣的に、「ない」と書いて来たから、同じように、習慣的に、「無し」と書いて来たのを、おかしいと思わなかったんでしょうなあ。 いや、おかしいんですよ。 「無い」が駄目なら、当然、「無し」も駄目でしょうに。 

  この事に気づいて以降、他人の書いた文章に、「無い」とか、「無し」と書いてあるのを見ても、違和感を覚えるようになってしまったのですが、まあ、習慣上は、間違いとはされていないから、人様のやる事にまで口出しはしない事にします。 国語辞典にも、「ない」の、漢字かなまじり表記は、「無い」と出ているし・・・。


  いやあ、こんな風に、今まで何気なく使っていた漢字が、用法の間違いに気づいて、使えなくなるケースは、まだまだ、ありそうですねえ。 実に、面倒臭い。 知らぬが仏なのかも知れませんなあ。