2017/05/28

捨てた漫画 ②

  2月半ば捨てた漫画シリーズの、二回目です。 






≪GO★シュート≫
  週刊少年ジャンプで連載されていました。 全6巻。 初版は、1巻が、1980年1月、6巻が、1981年1月になっています。 一年間で、6冊出ているという事は、一回分のページ数が、ギャグ漫画よりも多かったのかも知れません。

  サッカー漫画として始まったのですが、元々、スポ根ではなく、コミカル・パートが多かったのが、更に変質し、次第に、当時の流行だった、ラブコメになって行きました。 私は、サッカーには、全然、興味がない人間でして、そのラブコメ化したところが気に入って、買い集めたのです。 まあ、そういう年頃だったんですな。


≪3年奇面組・ハイスクール奇面組≫
  これは、高校卒業の前後に、買い集めた物。 週刊少年ジャンプで連載。 3年奇面組の方は、全6巻、ハイスクール奇面組は、私が持っているのは、8巻までですが、もっと続いたはずです。 初版は、3年奇面組の1巻が、1981年8月、6巻が、1983年1月。 ハイスクール奇面組は、1巻が、1983年4月、8巻が、1984年12月。 ところが、私が持っている8巻は、19版で、1989年6月に発刊されており、するとつまり、私は、最も長くいた会社に就職した後まで、この作品のコミックスを買っていた事になります。 忘れていたなあ。

  3年奇面組が、卒業で終わった後、まだ、作者に余力があったので、作品名を変え、主な登場人物たちを高校に進学させて、引き続き、連載されたのが、ハイスクール奇面組という形になります。 しかし、この作品が最も面白かったのは、やはり、3年の方で、ハイスクールになると、無理に伸ばしている感じが、段々、濃くなります。

  アニメ化もされたのですが、私は見ていません。


≪残像・2001夜物語≫
  星野之宣さんの漫画。 残像は、ヤングジャンプ・コミックスで、初版は、1982年3月。 2001夜物語は、双葉社のアクション・コミックスで、2巻が、1985年12月、3巻が、1986年10月。 1巻は、欲しいと思った時に、本屋で見つけられなくて、買っていないのですが、それ以前に、立ち読みで、読んだ記憶があります。

  いずれも、宇宙SFでして、レベルは、大変、高いのですが、今となっては、人類が宇宙に進出するという設定そのものが、絵空事っぽくなってしまいました。 地球文明が宇宙に出る事があるとしても、それは、生身の人間ではなく、人工知能や機械でしょう。



≪うる星やつら≫
  週刊少年サンデーで、連載されていました。 全34巻。 初版は、1巻が、1980年4月、34巻が、1987年4月になっています。 ちなみに、第一話がサンデー誌上に掲載されたのは、1978年の39号とあり、たぶん、夏の終わり頃ではないかと思います。 最初の頃は、断続的に掲載されていたようで、そのせいで、コミックス第1巻が出るまで、1年半もかかったのでしょう。

  私が、この漫画の存在を知った時には、すでに、5巻まで出ていましたから、1981年、高校2年の頃ですな。 その頃、いろいろと悩みを抱えて、押し潰されそうになっていた私は、≪うる星やつら≫に耽溺する事で、現実逃避を図っていました。 6巻なんて、小口の色が変わるほど、毎日毎日、何度も何度も、読み返していましたねえ。

  アイデアが枯渇しやすいナンセンス・ギャグ漫画で、9年間も連載が続いたというのが、まず驚きですが、最後まで、ギャグのクオリティーが落ちなかったというのが、もっと驚きです。 もっとも、私が爆笑していたのは、3巻くらいまでで、その後は、「笑う」から、「楽しむ」に、読み方が変わって行きましたけど。

  アニメ化されて、そちらも、5年間くらい放送していました。 そのお陰で、漫画原作を読んでいない人でも、作品世界は知っていたのですが、ギャグ漫画の宿命で、漫画連載とアニメ放送が終わると、凄まじい勢いで忘れられ始め、90年代には、もう、≪うる星やつら≫の話題なんて、一部のオタクを除き、誰の口の端にも上らなくなっていました。

  漫画の方は、文句なしの、名作・傑作ですが、アニメの方は、監督の個人的好みが強過ぎて、お世辞にも、誉められるようなものではなかったです。 思うに、この作品の場合、漫画のファンと、アニメのファンが、あまり、重なっていなかったんじゃないですかねえ。 今となっては、調べようもありませんが。

  完成度が高過ぎて、言わば、頂点を極めてしまい、この作品の後、他の漫画家が、ギャグ漫画を描きにくくなってしまったという面もあります。 アニメに於ける、≪エヴァンゲリオン≫のような役割を果たしてしまったわけです。 それくらい、≪うる星やつら≫には、読者を常に驚かせ、圧倒し、引っ張って行くだけの力があったんですな。


≪めぞん一刻≫
  ≪うる星やつら≫と、ほぼ同時期に、ビッグ・コミック・スピリッツに連載されていました。 全15巻ですが、私の蔵書は、2・8・14巻が欠けていて、12冊しかありません。 初版は、1巻が、1982年5月、15巻が、1987年7月になっています。

  実写映画化や、アニメ化もされていますし、大人向けの話でしたから、作品としては、≪うる星やつら≫より、こちらの方が、多くの人に記憶されていると思います。 だけど、私は、それほど、面白いとは思っていませんでした。 ≪うる星やつら≫と原作者が同じだから、義理で買っていたようなところがありました。

  名作だと認識している方々には申し訳ないのですが、もう、歳月も経っている事だし、思い切って、重箱の隅を突かせてもらいますと、いろいろと、おかしなところがあるのですよ。

  まず、こんな、部屋数の少ない安アパートに、住み込みの管理人なんて置けません。 家賃がいくら取れるか計算してみれば、管理人の給料を賄えないのは、火を見るよりも明らかです。 これがもし、大家の家が、一刻館の隣か、すぐ近所にあり、響子さんが、そちらに住んでいて、何かあった時だけ、やって来るというのなら、まだ分かりますが、住み込みでは、一体、彼女の生活費がどこから出ているのか、首を傾げてしまうではありませんか。

  次に、主な登場人物、つまり、五代、音無、三鷹の三人ですが、それが、三人とも、二股がけをしている事に気づくと、「もしや、倫理観が崩れた人達の話なのでは?」と、嫌~な感じがして来るのです。 特に、主人公の五代が、どういうつもりで、七尾こずえとの交際を続けているのか、気が知れない。 つきまとわれているだけと言うなら、デートに行ったりはしないと思います。 現実に、こういう、人と人の信頼関係を壊しかねない事やっている者が身近にいたら、良識がある人間は、距離を置くはずで、青春漫画の主人公には、全く相応しくないと思います。

  最終的に、五代は、保父になるわけですが、それも、引っかかります。 五代君て、鍵盤楽器の演奏ができるんですかね? 子供と遊ぶのがうまいだけでは、保父にはなれないと思いますけど。 その、「子供と遊ぶのがうまい」という設定も、かなり押し詰まってから出て来るもので、後出しっぽいです。

  とどめに、この作品が若者に与えた悪影響というのが、少なからず、あったと思うのですよ。 「自分も、東京へ出て、安アパートで、一人暮らしをすれば、こういう恋愛を経験できるに違いない」と、どれだけの中高生に錯覚させた事か。 で、やってみたら、孤独で、惨めで、貧乏臭くて、不潔で、ろーくでもない生活なんだわ。 若くて美人の管理人なんて、いるわけないんだわ。

  都会への憧れを誘う作品は、映画、ドラマ、音楽、小説、他の青年漫画と、いくらでもあったわけで、≪めぞん一刻≫だけに罪があるわけではありませんが、≪うる星やつら≫のファンが、こちらも読んでいたという事情があり、中高生に与えた影響は、他の作品より、桁違いに大きかったと思うのです。 もっと早く、大人になっていれば、この作品のフィクション度が、どの程度なのか、判断できたと思うのですが、中高生ではなあ・・・。 お気の毒な事です。

  中には、無理に異性を見つけようとして、いかがわしい世界に嵌まり込み、身を持ち崩してしまった人もいるでしょうが、「≪めぞん一刻≫のせいだ」とは言えないのが、つらいところですな。 漫画に影響されて、人生を過ったなんて、誰も、同情してくれないものね。 ただの恥ですわ。


  なんで、こんなに辛口の批評になるのかというと、完成度が極めて高い、≪うる星やつら≫と並行して読んでいたから、≪めぞん一刻≫の方の粗が目立ってしまったのだと思います。 ちなみに、ここに書いたような感想は、私が、20代半ばくらいまでに考えた事で、その後、すっかり忘れていたのを、思い出しながら、文章にした次第です。 今は、どちらの作品にも、愛憎いずれの感情もありません。

  だから、読み返しもせずに、捨てられたわけです。 ≪めぞん一刻≫の方はともかく、あれほど夢中になった≪うる星やつら≫を、何の感傷もなしに捨てられる日が来ようとは、夢にも思いませんでした。 人の心とは、こんなにも甚だしく、うつろうものなんですなあ。



≪らんま1/2≫
  ≪うる星やつら≫が終わった後、週刊少年サンデーで連載された作品。 初版は、1巻が、1988年4月、4巻が、1988年9月。 えっ? 5ヵ月で、4冊出てるんですか? それは早い。 コミックスは、もっと出ているはずですが、私が買ったのは、4巻までです。 ギャグ漫画というより、アクション主体だったので、それ以上は、ついていけなかったのです。

  水を被ると主人公の性別が変わるという設定なのですが、体の性が変わるだけで、精神は元の性のままなので、性倒錯ものとは少し違っていました。 いやいや、こんな説明は不要で、アニメ化されましたし、割と近年に、実写ドラマにもなったから、知っている人は、むしろ、≪うる星やつら≫より多いかも知れませんな。

  ほとんど、思い入れがないので、いい作品とも悪い作品とも、思っていません。 それでも、4冊買ったのは、やはり、≪うる星やつら≫で、お世話になった、義理だったと思います。


≪るーみっく わーるど≫
  高橋留美子さんの、読みきり作品を収録したもの。 初版は、1巻が、1984年5月、2巻が、1984年8月。 収録作品は、

1 【炎トリッパー】【闇をかけるまなざし】【笑う標的】【忘れて眠れ】
2 【戦国生徒会】【勝手なやつら】【ザ・超女】【黄金の貧乏神】【怪猫・明】【腹はらホール】【笑え!ペルプマン】【われら顔面仲間】

  3巻以降が、出たかどうか、不詳。 初期の作品は、アクが強くて、読者を選ぶものが多いです。 シリアスな話になると、過度に暗くなってしまうのは、高橋留美子さんの特徴で、読後感が良い作品の方が珍しかったです。 私は、暗い話が嫌いでして、このシリーズも、たぶんに、義理で買った口です。 もちろん、明るい話は、面白かったですけど。


≪ダストスパート!!≫
  ≪うる星やつら≫より前だと思うのですが、何かの雑誌で、連載されていたと思われる作品。 出版社は、「スタジオ・シップ」で、「ポケットコミックス 76」とあり、初版は、1980年7月です。 ≪うる星やつら≫の1巻の初版より後ですが、≪うる星やつら≫が売れ始めたので、追いかける格好で、出したのでは?

  エスパー物のギャグ漫画です。 割と、ベタな話ですが、私には、面白かったです。 これも、捨てたわけですが、もしかしたら、高橋留美子さんのコアなファンで、まだ読んだ事がなくて、喉から手が出るほど、欲しいと思っている人がいたかもしれませんなあ。 出回った数が少ないから、今では、なかなか、手に入らないでしょう。


≪サンデー まんがカレッジ≫
  初版は、1982年4月。 当時、サンデーで連載を持っていた漫画家の面々が、漫画の描き方について、アドバイスをするという内容の本です。 こんな本、なんで買ったんだろう? 漫画家になる気なんて、微塵もなかったのに。 たぶん、表紙が、高橋留美子さんの絵だったから、坊主好きなら、袈裟まで欲しいで、とりあえず、買っといたんでしょうなあ。 一通り、目を通しましたが、それっきりでした。




  今回は、ここまでです。 あと、2回、あります。

2017/05/21

捨てた漫画 ①

  今年(2017年)の2月半ば頃に、保存していた漫画のコミックスを、捨てました。 捨てる前に撮った写真を、何回かに分けて、出します。






≪押入れ奥の本棚≫
  私の部屋は、押入れの一角が、クローゼットになっているのですが、その奥に、ゆとりがあるので、もう、30年以上前に、本棚を押し込んで、学生時代から、ひきこもり時代にかけて買った漫画のコミックスを、収めていました。 社会人になってからは、全く読まないまま、歳月が流れました。 引退して閑になったら、読み返すかも知れないと思っていたのですが、いざ引退しても、まるで、そんな気になりませんでした。

  2015年秋の大整理の時に、漫画を並べ替えたりして、少し、異動を加えましたが、それ以降も、相変わらず、読みたくなる事はありませんでした。 私の感性が、すでに、こういう青少年向けの作品に、面白さを感じなくなっているんでしょうなあ。 今後も読みそうにないので、いよいよ、捨てる決心がついたという次第。

  クローゼットの奥というのは、本を保存するのに適した場所ではなく、衣類の埃が、本の天に溜まり、それが水分を吸って、紙に浸み込み、変色して、斑点状の汚れが着いてしまいました。 もっとも、みんな古い漫画なので、状態が良かったとしても、売り物にはならなかったと思いますけど。

  ちなみに、手持ちの本の価値を知る方法というのがありまして、アマゾンの中古本で検索して、最低価格が、1円になっていたら、よほど、状態が良くても、売り物にはならないと思った方がいいです。 漫画の場合、読者の年代が入れ替わると、欲しがる人が激減しますから、10年経ったら、もう二束三文。 20年経ったら、完全にゴミと思った方がいいでしょう。

  ネット・オークションなら、値段がつくかもしれませんが、何かと面倒ですし、後で、苦情など言われると、厄介千万。 そんな手間をかけてまで、僅かのお金が欲しいわけではないです。


  写真右は、空になった押入れ本棚。 この本棚は、もともと、三段だったものを、私が、高校時代に、棚板を一枚自作して、四段に増やしたものです。 作ったのは、下から二段目。 ニスを塗って、色を近づけたのですが、やはり、違いが分りますなあ。 36・7年前の事ですが、その時買って来たニスは、まだ、ビンと中身が残っています。

  ボルト・ナットでとめる、組み立て式なので、解体は簡単です。 もう、こういう本棚を使う事はないですから、埋め立てゴミに出す事にします。

  ところで、この本棚、私自身が買ったものではなく、たぶん、母が買ったのだと思うのですが、私の部屋に来る前は、どこにあったのか、かけらも記憶に残っていません。 建て替える前の家の時に買ったのかなあ。



≪3×3 EYES≫
  「3×3 EYES」の、1~19巻。 初版は、1巻が、1988年10月、19巻が、1994年10月になっています。 私が買い集めたのは、94年12月から、95年3月までの間。 そもそもは、新刊書店で、平積みにしてあった、18巻の表紙絵を見て、気に入り、衝動買いしたのが最初。 それから、3分の2くらいを古本で、3分の1くらいを新刊で買いました。 19巻で終りではなく、まだ続いたはずですが、私が買うのをやめてしまったのです。 新しい巻が出るのを待っている内に、飽きてしまったんですな。

  内容は、アクション・ファンタジーで、中国やチベットを通して見たインド文化をモチーフにしているところに、特徴がありました。 アクションの方は、当時は、猫も杓子もアクション漫画ばかりだったので、まあ、普通だったと思います。 決して、つまらない作品ではなかったのですが、ちょっと、話を引き伸ばし過ぎているようなところがあり、それも、途中で買うのをやめてしまった理由の一つです。 OVAで、アニメ化もされたようですが、そちらは、見ていません。

≪ドラえもん≫
  「ドラえもん」の、1~44巻。 作品の説明は、不要ですな。 初版は、1巻が、1974年8月、44巻が、1993年5月になっています。 1巻を買ったのは、小学生の頃で、20巻くらいまでは、中学生の頃までに揃えていたのですが、その後、中断していたのを、大人になってから、1992・93年に、古本屋で買い集め、44巻まで揃えました。

  子供の頃は、ただ、面白かったから買っていたのですが、大人になってから買い足したのは、ストーリーのパターンを研究するのが目的でした。 当時の日記を読むと、えらく細かく、分類や分析を施しています。 実用的な役には立ちませんでしたけど。

≪ブラック・ジャック≫
  「ブラック・ジャック」の10巻。 これも、作品の説明は、不要と。 これ一冊しかありません。 初版は、1977年1月。 これねえ、中学生の頃、どこかへ旅行に行った時に、駅のキオスクで買ったものだと記憶しています。 ちなみに、私は、「ブラック・ジャック」は、高校生の頃に、立ち読みで、全作読破しています。 自慢にならんか・・・。



≪コブラ≫
  週間少年ジャンプに連載されていた、「コブラ」の、1~4巻。 初版は、1巻が、1979年8月、4巻が、1980年7月になっています。 私が、中3から、高1にかけての年です。 もっと前に買ったような気がしていたのですが、奥付の数字が間違っているはずはないから、私の記憶違いなのでしょう。

  ハード・ボイルド・タッチの、スペース・ヒーロー物。 私の世代で、男性なら、「コブラ」を知らない人なんて、ほとんどいないと思うのですが、さすがに、今となっては、遠い過去の作品ですなあ。 4巻で、買うのをやめてしまったのは、私の趣味が、ギャグ漫画や、ラブコメに傾斜して、アクション物への興味が続かなかったからだと思います。 

≪1・2のアッホ!!≫
  週間少年ジャンプに連載されていた、「1・2のアッホ!!」の、全10巻。 初版は、1巻が、1976年10月、10巻が、1978年11月になっています。 つまり、一年分の連載で、コミックスが、5巻くらい出ていた計算ですな。 私が、小6の時から連載が始まり、週刊誌上でも読んでいましたが、コミックスは、中2の時に、纏めて買いました。 少し遅れて、嵌まったわけですが、嵌まった時には、もう、連載が終わっていました。

  当時のナンセンス・ギャグ漫画の代表格のような作品。 作者の知性や教養を感じさせた点で、それ以前のギャグ漫画とは、確実に一線を画していました。 パロディー・ネタが多かったですが、ギャグなら、何でもアリという感じでしたねえ。 惜しむらく、ギャグ漫画家は、数年で、アイデアが枯渇する運命にありまして、この作品の作者も、その後、ギャグ漫画はやめて、青年誌に移ってしまいました。

≪こち亀≫
  「こち亀」の15巻。 初版は、1980年11月。 これ一冊だけ、買いました。 ちなみに、私は、こち亀の第一話を、週刊誌上、リアル・タイムで読んでいた世代です。 なぜ、一冊だけでやめてしまったのかは、もはや、不明。 アニメの方は、ほとんど見ましたが、今となっては、漫画よりも、アニメの方が、大昔な感じがしますねえ。 漫画は、つい、この間まで、続いていましたから。



≪ストップ!! ひばりくん!≫
  週刊少年ジャンプに連載されていた作品。 全4巻。 コミックスの初版は、1巻が、1982年11月、4巻が、1984年1月になっています。 ちょうど、私が高校生の時に連載されていて、週刊誌上で読んだ作品も多いのですが、嵌ったのは、ひきこもり時代に入ってからで、その頃にはもう、連載は終わっていました。

  江口寿史さんは、絵のタッチが、途中で大変わりした人なのですが、この作品は、過渡期にあたり、時折、ハッとするほど、芸術性の高い絵を見る事ができました。 漫画というより、イラストのレベル。 その後、≪老人Z≫などで、アニメのキャラクター原案を担当しますが、その萌芽がすでに見られます。

  ギャグ漫画でありながら、ファッションなどに、時代の最先端を映しているところがありました。 バブルへ向かう時期だったんですなあ。 この作品の頃の東京は、まだ、日本の文化の発信地として、「みやこ」としての機能を存分に果たしていたわけです。 私のような朴念仁タイプでも、憧れたくらいですから。

  性倒錯を主なモチーフにしていて、当時は、笑えたわけですが、今では、笑うような事ではなくなり、その点でも、この作品の価値は、時代に置いてきぼりを食らってしまったわけです。 ヤクザの家が主な舞台というのも、今では、ちょっと・・・、という感じ。

  実は、アニメ化もされたのですが、そちらは、さんざんな出来で、とても、見られたものではありませんでした。

≪すすめ!! パイレーツ≫
  江口寿史さんが、最初に、週刊少年ジャンプに連載した作品。 全部で、11巻あるのですが、私の蔵書は、8・9・10巻が抜けていて、8冊しかありません。 これは、先に捨てたわけではなく、最初から、買わなかった事が分かっています。 初版は、1巻が、1979年1月、11巻が、1981年7月になっています。

  ひばりくんより、こちらの方が、印象に強く焼きついている人が多いのでは? この漫画の全盛期には、毎週、これだけを楽しみに生きていたという人が多かったと思います。 「千葉パイレーツ」という架空のプロ野球チームを舞台にした、ナンセンス・ギャグ漫画。

  パロディー系のギャグが多かったです。 当時は、プロ野球界の注目度が、今より、一桁高かった時代でして、誰でも知っている事が多かったから、パロディーが可能だったのです。 

≪ひのまる劇場≫
  パイレーツと、ひばりくんの間に入る作品。 全2巻。 初版は、1巻が、1981年10月、2巻が、1982年2月になっています。 出だしは、ドジな私立探偵の話なのですが、途中で、サブ・キャラに主役の座を奪われ、カテゴリー不明の話になって行きます。

  大ウケしたパイレーツの後が、これだったので、「江口さんも、使い潰されてしまったか」と思ったのですが、その後、ひばりくんが始まって、ギャグ・センスが健在だった事が証明されます。

≪エイジ≫
  これは、全一巻。 初版は、1985年7月です。 ジャンプ・コミックスですが、連載されたのが、週刊なのか、月刊なのかは分かりません。 本屋で、たまたま、コミックスを見つけて、買って来たもの。 高校生が主役のボクシング物で、ギャグ漫画ではないです。

  もう、完全に、絵のタッチが変わっています。 薬師丸ひろ子さんをモデルにしたと思われるヒロインや、小泉今日子さんをモデルにしたと思われる少女キャラが登場するのは、当時の雰囲気をよく表しています。

  主人公の性格が粗野で、共感できるところが、ほとんどないのが、最大の欠点でして、買ったには買ったけれど、好きになれない作品でした。 絵はうまいんですがねえ。




  今回は、ここまでです。 あと、2回か、3回分くらいはあると思います。

2017/05/14

後ろ向きな片付け

  父の遺品の片づけが、大体終わった後、余勢を駆って、自分の物の片付けに取りかかり、自室天井裏を空にするなど、結構、多くの物を捨てたのですが、その作業を進めるに連れて、次第に、精神的な苦痛を感じるようになりました。 父の遺品は、作業そのものは大変だったものの、気分的には、遠慮なく、ザクザクと処分できたのですが、自分の物を捨てるとなると、過去の思い出が纏わっているからか、自分でお金を出して買った物だからか、理由ははっきりしませんが、何となく、身を切られるような思いがするのです。

  「では、捨てなければいいではないか」とは、自分でも考えるのですが、私の場合、終活の一環として、取り組んでいるので、先延ばしにするわけにも行きません。 突然死の恐れを宣告されている身では、尚の事。 「余命、何年」とか言われてしまうよりは、気楽ですが、こと片付けに関しては、いつ死ぬか分からないというのは、予定が立てられなくて困ります。

  私が、昨今流行の、「ミニマリスト」の方々と、決定的に違うのは、「余分な物を処分して、身軽になり、物欲に囚われない人生観に転換して、伸び伸びと自由に生きていこう」という前向きな考えではなく、「いつ死ぬか分からないから、後々、迷惑がかからないように、体が動く内に物を減らしておこう」という、追い詰められた草食動物のような気分で、片付けに当たっている点です。

  将来に備えているという点では、私のやっている事も、必ずしも、前向きでないとは言えませんが、気分的には、敗残撤退ムードでして、ノリノリでやれる事ではないです。

  今まであった物がなくなったから、喪失感に苛まれているのかというと、そうでもなくて、捨てた物は、何十年間も、見えない所に押し込んであった物ばかりですから、見えなかったものが、実際に、なくなっただけで、表面的には変化がなく、大きなショックはないです。

  やはり、片付けを進めた先に待っているのが、「死」だというのが、問題なんでしょうなあ。 死ぬ準備が整ってしまうというのが、宜しくない。 むしろ、準備などせずに、いきなり訪れる感じで、死を迎える方が、自然なのかもしれません。 遺品がごちゃまんとあって、片付ける人達に迷惑をかける事になったとしても、生きる活力を損なわない事の方が、重要なのかも。

  いやいや、これは、白黒はっきりつけられるような事ではなく、程度の問題なんでしょうなあ。 私の父のように、何も片付けずに死なれるのは、やはり、迷惑です。 生きる活力を損なわない程度に、ボチボチと、片付けを進める分には、悪いという事はありますまい。 「○○ゴミの日が近いから、捨てられる物は、全て捨ててしまえ」といった、性急な取り組み方が、良くないのです。


  それとは、また、別の問題ですが、私が今捨てつつある、過去の遺物とは、一体、私にとって、何なんでしょう? 私の自我の一部なのか、それとも、ただの残骸なのか。 使わないから、不用品である事は確かですが、もし私の自我の一部になっているのであれば、それを捨てるという事は、自我を少しずつ切り捨てて行く事になります。

  たとえば、小説本。 その作品は、私の自我の形成に関わっていて、その意味では、自我の一部です。 しかし、すでに、吸収は終わっていて、その本そのものは、もはや、用済みになっているとも考えられます。 食品の容器のようなもので、中身を食べてしまえば、器を捨てるのは当たり前というわけだ。

  それを言い出せば、私は、大人になって以降、買って読んだ本より、図書館で借りて読んだ本の方が、圧倒的に多いのですが、それらの本も、自我形成に関わっている点は、買った本と変わりがありません。 そして、それらの本は、元から、私の物ではないのです。 その気になれば、また借りて来る事は可能ですが、とにかく、手元にはない状態が当たり前で、それに不満があるわけではありません。

  持っている本の中には、何度も読み返しているものもあり、そういうのは、もとより、死ぬまで捨てる気はないです。 一方で、「これは、もう、読まないだろう」と、思ってしまうような本もあって、そんなのを、後生大事にとっておいても、意味はないと思うのです。


  ビデオ・テープも、ダンボール箱に、二箱分、残っているのですが、まーあ、もう、見ないでしょう。 内訳としては、3分の2が、アニメ、残りが、黒澤明作品や、ドラマです。 私は、アニメが、もう、全然、見れなくなってしまいまして、最後に見たシリーズが、≪進撃の巨人≫で、それ以降、ほとんど、見ていないです。

  なんで、アニメが見れなくなってしまったのかというと、アニメで表現できる映像の、限界を見切ってしまったからだと思います。 見る価値がある作品と思えなくなったのです。 これは、実写映画でも同じでして、10年くらい前から、アメリカ製のアクション映画を、まるで面白いと感じなくなってしまったのですが、飽きたんでしょうなあ、ああいうキリキリと尖った、殺伐とした映像に。

  また、アニメ製作者が思いつく世界観も見切ってしまった感があります。 作り手が何を考えているか、見当がついてしまうと、その作品世界に入って行くのが、大変、馬鹿馬鹿しい徒労のように思えて来るのです。 これは、やりたくもないのに、子供に付き合って、ゲームをやってる大人の気分に似ています。

  新作はもちろん、昔、録画したアニメを見返したいという気持ちにもなりません。 たとえば、ガンダム・シリーズは、第一作と、Z、ZZ、ウイングスなどが、残っているのですが、BSで再放送をしているのを、たまに目にしても、全く、面白いと感じないのです。 そんな人間が、わざわざ、押入れからビデオ・テープを発掘してまで、見るわけがない。

  黒澤明作品も、わざわざ、見直したいとは思いませんなあ。 いつでも、見れると思うと、却って、見ないものでして、名作映画というのは、たまに、テレビで放送した時に、ちょこっと見て、「ああ、やっぱり、面白いなあ」と思う程度が、ちょうどいいのでしょう。 つい、こないだ、≪用心棒≫をやっていたので、見たんですが、やはり、いいですなあ。 オープニングが何とも言えぬ。 まあ、それはいいとして。

  ビデオ・テープに録画してあったものを、DVDやブルーレイにコピーした人もいると思いますが、大変だったでしょう。 その努力は、賞賛に値すると思います。 私が、そういう作業ができない人間だから、羨ましいとさえ思います。 だけど、せっかく、膨大なエネルギーを費やしてコピーしたものであっても、見る機会は、ほとんどないんじゃありませんか? だって、テレビを点ければ、新しい作品が、次々に放送されているわけですから、どうしても、昔のものを見返さなければならない理由がないですものねえ。

  そういう事情ですから、恐らく、ビデオ・テープや、デッキを、捨ててしまっても、大きな後悔はしないと思うのです。 むしろ、押入れがすいて、清々するに違いない。 しかし、昔の私と、今の私の、考え方・感じ方が違うように、未来の私の、考え方・感じ方が、今と変わって来る事も起こり得るのであって、別に邪魔になっていないのなら、万一の事を考えて、とっておく方が無難、という考え方もあります。

  2015年秋の大整理の時、「死んだ後、人に見られて恥ずかしい物」は、全て、処分しているので、今残っているものは、そういう心配がない物ばかり。 だったら、そのままにしておいてもいいかなあ、とも思うのです。 どーせ、私が死んだら、遺品が多かろうが少なかろうが、片付ける奴(恐らく、兄)は、ブツクサ文句を毒づくに決まっているんだから、そんな奴の為に、苦労してやる事はないわさ。


  なんだか、考えが、堂々巡りして、結論が出ませんな。 駄目だ、こりゃ。 この葛藤は、死ぬまで続くんでしょうか。 つらいなあ、それは・・・。


  それにしても、どうして、現代人というのは、こうと、いろいなものを、買い込み、溜め込むんでしょうねえ。 昔の人は、一般人の場合、個人の持ち物なんて、箪笥一つ分も、持っていなかったのに。 そもそも、使う物しか手に入れないから、使わない物が溜まってしまうなんて事がなかったんでしょう。

2017/05/07

読書感想文・蔵出し (23)

  またまた、読書感想文です。 今現在の事を少し書きますと、4月末頃、いろいろと忙しくて、本を読む余裕がなく、図書館の本は借りていません。 というか、最後に返しに行った時に、貸し出しカードを忘れてしまい、「まあ、毎度、律儀に借りなくてもいいか」と思って、借りずに帰って来て、それっきりになっている次第。

  4月の最終日に、埋め立てゴミを出し、折自で、ポタリングにも行き、5月初めに、庭のプランター数箱に、朝顔の種を蒔いて、ようやく、やる事がなくなり、連休明けに予定している松の手入れまでの間、のんびり暮らしているのが、現状。 引退者で、毎日、休みの癖に、なぜ、連休明けを待つかというと、連休中は、家で静かに過ごしている人達もいるわけで、庭仕事の音が近所迷惑になったら、まずいからです。

  それはいいとして、本ですが、借りていなくても、読みたくなるもので、家にある、昔、母が買った文庫本を読んでいます。 1980年代の推理小説。 結局、気楽に読めるとなると、推理小説になってしまうようです。




≪七人目の陪審員≫

論創海外ミステリ 139
論創社 2015年 初版
フランシス・ディドロ 著
松井百合子 訳

  フランシス・ディドロは、フランスの作家。 ちなみに、男性で、1902年生、1985年没。 この作品は、1958年に刊行され、62年に、ジョルジュ・ロートネル監督によって、≪刑事物語・死の証言≫というタイトルで、映画化されているとの事。 映画の仏題は、原作と同じなのですが、日本未公開なのに、邦題ががついているのは、不思議です。 しかも、小説の内容は、≪刑事物語・死の証言≫という題とはかすりもしないので、ますます、解せません。 よほど大がかりに、翻案したんでしょうか?


  田舎町を流れる川の畔で、身持ちの悪い女が全裸で首を絞めて殺される事件が起こる。 被害者と交際していた札付きの男が逮捕され、町の人々は、当然、死刑にされるべきだと盛り上がるが、たまたま陪審員に選ばれてしまった真犯人が、無実の被告を救うべく、たった一人で、裁判の流れを変えようと、奮闘する話。

  推理小説というわけではなく、犯罪小説と言えば言えますが、むしろ、犯人の心理を描くのが目的なのではないかと思います。 これを、ミステリーの括りに入れてしまうのは、ちと、問題があるのでは? 普通の推理小説が好きな読者は、はっきり、違和感を覚えると思います。

  犯行が行なわれる場面から、犯人が分かっているわけですが、倒叙物のアリバイ崩しとは全く違っていて、探偵役の謎の解き方が読み所になっているわけではありません。 そもそも、探偵役がいませんし。 刑事は出て来ますが、手抜き捜査で、誤認逮捕をするだけの、とんだマヌケです。

  アイデアが変わっている点を認めるのに吝かではないのですが、問題は、小説として、面白いかどうかですな。 読後感は、この下ないくらい、すっきりしません。 どうせ、すっきりしないのなら、もっと、エピソードを継ぎ足して、どんなに苦労しても、町の人が主人公を犯人と認めてくれないところを強調すれば、カフカみたいになって、面白かったかも。

  町の人々が、イメージだけで、犯人を決め付けてしまう様子を描いているという読み方もできますが、それが目的だったと見るには、話の設定が凝り過ぎていますし、主人公の心理を、こんなに深く掘り下げる事もないわけで、やはり、違うと思います。 社会問題を抉りたい場合、小説家は、もっと、直截的に、本題に切り込んで行くはずです。



≪最後の審判の巨匠≫

晶文社ミステリ
晶文社 2005年初版
レオ・ペルッツ 著
垂野創一郎 訳

  レオ・ペルッツという人は、プラハで生まれ育ち、ウィーンに移住して、専ら、戦間期に活躍した、ユダヤ系作家。 推理作家というわけではないようです。 私は、全然知らなくて、図書館で、古典推理小説っぽい本を探していたら、ドイツ作家の棚に、この本があったので、借りてみたというだけの話。

  発表は、1923年。 もし、推理小説であれば、年代的に、古典としての資格は充分にあるのですが、残念ながら、推理小説ではないです。 いや、残念ではないか。 推理小説でなければいけないというわけでもないですから。 一段組み、240ページくらいで、一応、長編ですが、昔の文字サイズの文庫にしたら、150ページくらいになってしまう程度のボリュームでして、ちょっと長めの中編と思っていれば、ちょうどいいです。


  1909年のウィーン、有名な俳優の屋敷に、友人知人が集まって、素人演奏会に興じている席で、座興として、俳優が、次にやる役を披露する事になる。 準備の為に庭の小屋に籠った後、銃声が二発轟き、人々が駆けつけると、俳優が、「最後の審判」という言葉を残して、死ぬ。 俳優の妻の弟や、妻の元恋人の騎兵大尉、医学博士、ロシア軍の技師などが、俳優の死の謎を解こうとする話。

  これだけ読むと、どう見ても、推理小説のようですが、違います。 謎は確かに解けるんですが、推理小説的に解けるのではなく、怪奇小説や、幻想小説的に解けます。 推理小説と思って読んでいた人は、「こんなの、ズルい!」と怒るに違いないのですが、そもそも、作者は、推理小説として発表したわけではないので、怒るのは筋違いなんですな。

  推理小説の構成枠を利用しているのは確かで、たぶん、当時、草創期にあった、長編推理小説を、もじってやろうというつもりもあったんじゃないでしょうか。 謎が解かれる寸前まで、推理小説としか思えないような書き方がされているから、紛らわしいのが、罪と言えば罪です。

  メインの謎ではありませんが、精神医学が、ちょっと絡んでいまして、舞台がウィーンだけに、フロイトの影響が感じられるのは、楽しいです。 第一次世界大戦前のオーストリアは、まだ、巨大な帝国でして、その首都ウィーンは、学問も芸術も、世界の最先端の街だったわけですが、私が、その時代を書いた小説を読んだのは、これが初めてでした。


  訳者本人が、解説を書いているんですが、30ページくらいあって、明らかに、長過ぎです。 小説本体が、240ページしかないのに、30ページも解説をつけられては、たまりません。 内容が詳細過ぎでして、作者の略歴はともかくとして、作者の他の作品まで、細かく紹介しているから、こんなに長くなってしまうのです。

  一人で書いているのに、会話体にしているのも、問題。 それでなくても、解説に、解説者の主観が入るのは感心しないのに、それが、二人分もあるわけで、悪い見本のようになっています。 どういうつもりで、こんな書き方をしたのか、気が知れません。 これだけ、詳細なデータを盛れるのなら、普通に書いても、充分、読み応えがある解説になったと思うのですがね。



≪病的性格≫

中公新書 68
中央公論社 1965年初版 1990年47版
懸田克躬 著

  自分で持っていた本です。 1990年頃に、新刊で買ったものだと思いますが、日記に記載がなくて、何月何日だったかは、分かりません。 一回、読んでいるはずですが、ほとんど、覚えていませんでした。 覚えていないという事は、小説ならば、つまらなかった証拠ですが、新書の場合、面白い・つまらないに関係なく、記憶に残らないものはあります。

  奥付を開いたら、初版が1965年とあるのを見て、「えっ! そんな古い本だったの?」と驚きました。 道理で、昭和20年代の例とかが出てくるわけだ。 買った直後に読んだ時には、あまり、気にならなかったのですが、さすがに、それから、27年も経つと、感じが変わって来ます。 まあ、人間の性格の話だから、古い例でも、有効は有効なんですが。

  病的性格があるからには、病的でない性格もあるわけで、そういう正常者を対象にした性格分類の本と、中身は、ほとんど変わりません。 正常者の各性格が、極端化し、周囲との軋轢が大きくなり、当人も悩み、周囲の人々も迷惑を被るようになると、病的性格の領域に入るのだとか。

  つまり、正常か異常かは、程度の差に過ぎないわけです。 病的性格の例だと思って読んでいると、自分の性格に当て嵌まるところがあり、ドキッとするのですが、それが即、自分も病的性格だという事にはならない点を、何度も認識し直しながら、読み進める必要があります。 当然の事ながら、病的性格の例を他人に当て嵌め、当人の前はもちろん、陰口であっても、軽々しく口にするのは、非常にまずいです。 医師にかかるほどではないレベルの症状も、いくらもあるわけですから。

  性格分類の本には、精神医学の基礎を作った人達の、学派的影響が出るものですが、この本の著者は、シュナイダー学説を中心に、クレッチュマーやフロイトの学説とも突き合せる形で、解説を進めています。 だけど、素人から見ると、学派の主張の違いというのは、なかなか、頭に入りません。 私は、精神医学関係の本を、今までに十数冊くらいは読んでいるはずですが、そんなに深い興味があるわけではないせいか、性格の分類名ですら、ちっとも覚えられません。 それでいて、読んでいて、つまらないという事はないのですがね。



≪精神鑑定の事件史≫

中公新書 1389
中央公論社 1997年
中谷陽二 著

  自分で持っていた、中公新書の、≪病的性格≫を発掘して読み返し、結構、面白かったので、同類の本を図書館で探し、借りて来ました。 精神分析そのものではなく、犯罪事件に於ける精神鑑定について、客観的な診断を下すのが、いかに難しいか、実例を挙げて、説明している本。

  アメリカの、レーガン大統領襲撃事件。 夢遊病者や、多重人格者の犯罪。 明治時代の、ロシア皇太子襲撃事件。 ドイツの大量殺人犯のパラノイア症例。 フランスの哲学者が妻を絞め殺した情動犯罪。 ・・・などが、取り上げられています。 97年時点から見ても、古い症例ばかりですが、これは、実在の患者の個人情報を公開できない制約がある以上、致し方ないようです。

  これらの事件は、全て、精神鑑定で、「責任能力なし」という診断が出て、「無罪だが、病院に収監」という結末になっているのですが、当時の記録を調べると、精神科医の鑑定に予断が入っていて、犯人の演技に、まんまと騙されている例があるとの事。 しかし、大昔の事で、犯人も精神科医も、とおに他界しているので、もはや、正しようがありません。

  犯罪者の精神鑑定を専門に行なうプロが少なく、一般の精神科医が担当すると、一般の患者に対すると同じように、相手の身になって、治療しようとしてしまうせいで、鑑定に予断が入るのだそうです。 治療と鑑定は違うのだという事が、精神科医の常識になっていないようなのです。 面倒な上に、責任を負わされるので、鑑定医をやりたがらない医師が多いと書いてあります。

  たとえば、多重人格は、全くの演技でも、装えるらしいのですが、精神科医には、「多重人格の治療は、まず、患者の主張を信じる事から始めなければならない」という心得があり、その先入意識が、邪魔をするのだとか。 なるほど、最初から信じてしまったのでは、嘘を見破るのは、ますます難しくなりそうですな。

  この本を読むと、精神鑑定なんて、本当に、正確に行えるのかどうか、怪しくなって来ます。 心神喪失、または、心神耗弱を装う犯罪者は、結構いると思うのですが、症状について、入念に下調べをし、充分な期間を取って、周囲の人間に、おかしな様子を見せておいた上で、犯行に及び、鑑定医を騙す事ができれば、無罪になるのは、そんなに難しくないのでは?

  ただし、その後、精神病院に収監されてしまうので、どうやって出るかも、考えておかなければなりませんが。 ちなみに、重罪を犯したのに、精神病院で治療を受けた後、社会復帰した例も、ちゃんとあるそうです。 被害者や、その遺族は、大いに釈然としないのでしょう。 無関係な人間にとっても、普通なら、死刑や無期刑になるはずだった殺人鬼が、そこら辺を、平気な顔して歩いているというのは、怖いですなあ。

  こういう本を読んでいると、犯罪のやり方ばかり考えてしまいますが、言うまでもなく、犯罪などというものは、倫理上の問題を別にしても、まるで割に合わないのであって、やらないに越した事はありません。 そういう事を、自分の頭で判断できない人は、この手の本は、読まない方がいいと思います。




  以上、四作です。 読んだ期間は、今年、つまり、2017年の

≪七人目の陪審員≫が、2月半ばから、下旬。
≪最後の審判の巨匠≫が、2月下旬から、3月初め。
≪病的性格≫が、3月上旬。
≪精神鑑定の事件史≫が、3月上旬。

  長編推理小説に比べると、新書本は、ページの進みが速いです。 同じくらいのページ数でも、半分くらいの期間で読み終えてしまいます。