2021/04/25

EN125-2Aでプチ・ツーリング ⑱

  週に一度、「スズキ(大長江集団) EN125-2A・鋭爽」で出かけている、プチ・ツーリングの記録の、18回目です。 今回分から、全て、今年、つまり、2021年に行った所になりますが、これまで通り、行った先ごとに、月日だけでなく、年も入れておきます。 歳月が経ってから、読み返した時、月日しか書いてないと、何年の事か分からず、わざわざ確認するのが面倒になる事があるので。





【大仁・廣瀬神社①】

  静岡県に出されていた、「感染拡大緊急警報」ですが、「不要不急の外出自粛要請」だけが、先に解除されたので、2021年2月10日から、バイクでのプチ・ツーリングを再開しました。 最初に行ったのは、伊豆の国市・大仁にある、「廣瀬神社」です。

≪写真1≫
  伊豆長岡から行く場合、大門橋を渡って、道なりに右へ曲がり、狩野川の土手を走って行くと、信号の先で、跨道・跨線高架橋を渡って間もない所で、左側、つまり、北側に、鎮守の森が見えます。 道路のすぐ横から、境内になります。 今は、国道136号線が幹線道路になっていますが、かつては、下田街道が、この神社の横を通っていたとの事。

  向かって右側の狛犬の後ろに、黒っぽい社標が立っていて、「縣社 廣瀬神社」と彫ってあります。 「縣社」というのがあるんですねえ。 よく見る、「村社」とは、だいぶ、格が違うわけだ。

≪写真2左≫
  ちょうど、梅が咲いていました。 別に、天神というわけではないです。

≪写真2右≫
  石燈篭。 随分、立派な台座の上に乗っています。 台座は、石造りで、隙間がないところを見ると、明治以降の作だと思います。

≪写真3左≫
  かつて、下田街道に敷かれていたとの事。 石に歴史あり。 しかし、一度、どこかへ移動されたら、もう、誰も分からなくなってしまうでしょうな。 

≪写真3右≫
  境内の川に架かる石橋。 結界の境として置かれている、ダミーの橋は、よく見ますが、この神社では、本当に川が流れています。

  こういう石橋ですが、一見、頑丈そうでいて、実は結構、危うい構造で、ギリギリもっているケースも多いので、そっと静かに渡るのがお勧めです。 間違っても、橋の上で、ぴょんぴょん飛び跳ねたりしないように。

≪写真4≫
  社殿。 大きくて、立派なもの。 さすが、縣社というべきか。 惜しむらく、社殿の前の広場が、ゲート・ボール場になっていて、高齢者が20人くらい、ゲームに興じており、社殿には、近づけませんでした。




【大仁・廣瀬神社②】

≪写真1≫
  社殿を側面から見ました。 拝殿と本殿が、廊下で繋がれている形式。 本殿の横手から、背後にかけて、石柵で囲われていますが、これは、大きな神社でないと、見られないものです。 本殿に近づけないようにしてあるのだと思います

≪写真2左≫
  手水舎。 社格に相応しい、立派なもの。 漱盤も、大きな自然石を穿ってあるようです。 ゲート・ボールの面々がいなければ、もっと近くで観察したのですが。

≪写真2右≫
  社務所の裏手に置いてあった、軽トラ。 三菱の4代目ミニキャブです。 1984年から、1991年まで、生産・販売されていた型。 懐かしい。 元は白だったのを、茶色っぽい色に塗られていたのが、経年で剥がれて、斑になっています。 ナンバーがないところを見ると、境内の中だけで、運搬に使われているのかもしれません。

≪写真3左≫
  相撲の土俵。 これは、本格的に造られている。 子供相撲ではなく、大人用かもしれません。

≪写真3右≫
  「伊豆の国市指定文化財 廣瀬神社の杜」の解説板。 神社の説明も書いてあります。 三嶋大社が、元は、下田にあったのが、一旦ここへ移り、その後、現在の場所に移ったのだそうです。 ここは、田方一の大社だとの事。 田方とは、田方郡の事で、伊豆半島北部の群名です。 大仁は、以前、田方郡大仁町でした。

≪写真4≫
  北東隅にある、裏口。 こちらにも、鳥居があります。 左下に見えているのが、下田街道だと思うのですが、意外な程に、交通量が多い道で、この写真を撮る為に、道路を渡ろうとして、えらい手間取りました。

≪写真5≫
  南側の大鳥居の前に停めた、EN125-2A・鋭爽。  どうも、2020年の12月頃から、ハンドリングが不安定になり始め、交差点の小さなRで曲がる時に、怖さを感じるようになりました。 その後、どうやら、ステム・ベアリングのヘタリが原因らしいと分かったのですが、この頃には、まだ、はっきりしておらず、騙し騙し、乗っていました。




【大仁・御門塞神社】

  2021年2月18日に、バイクで、伊豆の国市、大仁にある、「御門塞神社」へ行って来ました。 以前行った、「白山神社」のすぐ近くです。

≪写真1≫
  境内は、道端にあります。 かつては、街道筋だったのでしょう。 塀や柵はなく、鳥居もなくて、社殿だけ、大きいのが建っています。 道路脇社殿としては、私が今まで見た中で、最も大きいです。

 巨木あり。 樹種の解説板は立っていませんでした。

≪写真2左≫
  社殿を横から。 正殿が、拝殿の中に入っている形式。 立派な社殿ですな。

≪写真2右≫
  「塞神社」の額。 つまり、「サイノカミ」なんでしょう。 それなら、道路脇にあっても、不思議ではないですが、普通は、道祖神の石像がある程度なので、このサイズの社殿に祀られているのは、珍しいと思います。 鈴は、まずまず、平均的な大きさ。

≪写真3左≫
  境内にあった、別社。 何の神様を祀っているのか、分かりませんでした。 神棚用の、鯉の形をした陶器製・榊立てが、屋外で使われていました。 まったく、神社というのは、何でもアリですな。

≪写真3右≫
  神社の隣の家の窓。 カーテンの隙間から、猫が、こちらを見ていました。 「YKK AP」のCMみたいです。 手を振りましたが、反応はありませんでした。

≪写真4≫
  神社の向かい側にあった、「御門防災センター」。 公会堂ではないの?

≪写真5≫
  防災センターの敷地にあった、観音像と、石碑。 石碑の方は、「狩野川台風殉難死者 慰霊碑」とあります。 狩野川台風は、1958年(昭和33年)9月26日に、主に伊豆半島を襲った台風。 私はまだ、生まれていませんでした。

  家ごと流された人達が、屋根に乗って、狩野川を沼津の方まで来たが、橋から縄を垂らしていたものの、それを掴む事ができず、結局、助けられなかったとか、流されて来た死体が田んぼに溜まっているのを片付けようとしたら、皮がズルズル剥けたといった、悲惨な話は、伝承で聞いています。




【函南・宝蔵稲荷神社】

  2021年2月24日、バイクで出かけました。 函南町の「白山神社」を目指したのですが、敢えなく、ロスト。 付近をぐるぐる回りましたが、どーしても、見つかりません。 やむなく、断念。

≪写真1≫
  手ぶらで帰るのも癪に障るので、住宅地をゆっくり回ったら、小さい神社を見つけました。 鎮守の森が、立派。 冬枯れの木の枝に、風情を感じます。 参道があるのですが、畑の横にバイクを停めてしまったので、畑の中の何も栽培していない所を通って、近づきました。

≪写真2≫
  真新しい鳥居。 「宝蔵稲荷神社」と書いてあります。 家に戻ってから、調べ直したら、「山神社」として、地図に出ていました。 名前が違い過ぎる感じがしますが、どういう事情で、こうなっているんでしょう? ちなみに、近くに、「宝蔵台」という住宅地があり、「宝蔵」は、地名なのかもしれません。

≪写真3≫
  社殿。 入口が妻面にある事を除けば、普通の家ですな。 昭和の中期頃まで、こういう板壁の家は、多くありました。 今となっては、貴重ですが、塗装が利かないので、綺麗な状態で保存するのは、難しいです。 屋根は、波板トタン。 私の家も、建て直す前は、そうでした。 雨が降ると、屋根がパンパン鳴って、すぐに分かりました。

≪写真4左≫
  社殿の前にあった、漱盤、というか、流し。 蛇口は付いていますが、ハンドルが外されていて、普段は使えないようになっています。

≪写真4右≫
  バイクの写真を撮り忘れたので、家に帰ってから、走行距離の記録用に撮影している、メーターの写真を出します。 この日の走行距離は、27キロでした。 プチ・ツーリングでは、30キロ前後になる事が多いです。

  トリップ・メーターは、合わせていません。 燃料計が、別に付いているから、距離数を目安にする必要がないんですな。




【函南畑毛・白山神社①】

  2021年3月1日に、バイクで、函南畑毛の、「白山神社」に行って来ました。 その前の週に行こうとして、辿りつかなかった所。 地図を調べ直し、曲がる交差点の目印を覚えていったら、何とか、着きました。 読み方は、たぶん、「かんなみ・はたけ・はくさん・じんじゃ」。 「しろやま」ではないと思います。

≪写真1≫
  小山の上にあり、境内の周囲を、ぐるりと道が巡っています。 この写真は、南側の正面から撮ったもの。

≪写真2≫
  社殿。 木造白壁で、屋根は、銅版葺き。 正面から見ると、シンプルです。

≪写真3左≫
  社殿を側面から。 拝殿と本殿が一体ですが、本殿の方が、屋根が高くなっています。

≪写真3右≫
  社殿の前横にあった建物。 社務所ではなく、人寄せ用の建物ではないかと思います。

≪写真4左≫
  手水舎。 漱盤は石ですが、背面にブロック塀があり、そこに、普通の蛇口が付いています。 ハンドルもあるので、使えるのでしょう。

≪写真4右≫
  手水舎のブロック塀の裏側には、流しが二つ設けられていました。 水回りを一ヵ所に纏められる点、合理的な配置ですな。 こういう形式を、他で見た事がありませんが、神社の様式は、何でもアリなので、面白いとは思っても、非常識だとは思いません。

≪写真5左≫
  石燈籠の台座。 石燈籠そのものは、撤去されていますが、一番上の、宝珠だけ、載せてあります。 これは、右側ですが、左側も同じようになっていました。

≪写真5右≫
  境内別社。 長屋式ですな。 この向かい側にも、独立した、境内別社がありましたが、特に、変わった特徴もないので、写真は出しません。

  右端の石燈籠に注目。 火袋だけ、石が新しいです。 つまり、古い火袋が壊れてしまったので、そこだけ、新しい部品を作って、取り替えたんですな。 火袋は壊れ易いようなので、新しいのを寄進して、境内を石燈籠の残骸だらけにするより、火袋だけ作り直した方がいいと思っていたのですが、この神社で、初めて、実例を見ました。




【函南畑毛・白山神社②】

≪写真1左≫
  境内にあった、巨木。 複数の幹が縒り集まって、太い幹になっています。 そういえば、鳥居の傍らに、「白山神社叢林」という解説板がありましたが、字が所々消えていて、読めませんでした。

≪写真1右上≫
  隣の畑で咲いていた、水仙。 それにしても、うちの水仙は、なぜ、咲かないのだろう?

≪写真1右下≫
  左側の茶色い建物は、トイレです。 その横に、柱サボテンが育っていました。 サボテンとしては、かなりの大木。

≪写真2≫
  畑の端から見た景色。 どちらの方角か分かりません。 山を切り開いて造成した住宅地が見えます。

≪写真3左上≫
  畑の中にあった、石碑。 「南無妙法蓮華経 御堂関白系新田氏址 日目上人日道上人誕生地」と、彫ってあります。 新田氏の土地であった事と、日蓮宗の高僧が、この辺で生まれたという事のようです。

≪写真3左下≫
  梅が咲いていました。 そういう季節だったわけだ。 行く道、寒緋桜も、あちこちで咲いていましたが、バイクを停めてまで、撮影はしませんでした。

≪写真3右≫
  神社正面の、孟宗の竹林前に停めた、EN125-2A・鋭爽。 ハンドリングの不安定が解消して以降、快調に走っています。 ステム・ベアリングが、異常なのと、正常なのとでは、曲がる時の恐怖感が、あるか、ないかで、驚く程、違いがはっきり出ます。 これは、気のせいなどではなく、明らかに、機械の不具合の問題なのです。




  今回は、ここまで。

  【大仁・廣瀬神社】と、【大仁・御門塞神社】の間に、家での停め方を、サイド・スタンド立てから、センター・スタンド立てに変更のですが、それを境に、ステム・ベアリングの引っ掛かりがなくなり、交差点など、小さなRを曲がる時の、ハンドリングの不安定さが解消しました。 機械に自然治癒力などあるわけがありませんが、実際、直ってしまったのだから、不思議としか言いようがないです。

  センター・スタンド立てに変更した経緯については、「EN125-2Aでプチ・ツーリング」シリーズが一段落したら、「EN125-2A補修」シリーズで、紹介します。

2021/04/18

EN125-2Aでプチ・ツーリング ⑰

  週に一度、「スズキ(大長江集団) EN125-2A・鋭爽」で出かけている、プチ・ツーリングの記録の、17回目です。 今回で、ようやく、2020年から、2021年へ跨ぎます。 このシリーズの一旦休止も見えて来ました。 あと、2回で、現在に追いつく予定です。 いや、別に、めでたい事ではないですけど。





【口野・琴平神社】

  2020年12月29日に、バイクで、口野へ行って来ました。 地図で見つけた神社を見に。 プチ・ツーリングは、これが、2020年の最後となりました。

≪写真1左≫
  口野で最も大きな平地の奥の方にある、「琴平神社」。 鳥居と漱盤だけ、平地にありました。 横に空き地があったので、バイクを停めましたが、もしかしたら、個人の所有地かも知れません。 幸い、すぐに引き揚げたからか、何も言われませんでしたけど。

≪写真1右≫
  漱盤。 角材で蓋をしてあります。 蛇口なし。 薄いですが、前面に彫ってある文字は、右から、「奉納」。 この漱盤ですが、母の話では、母が給食調理師をやっていた頃、同僚だった人の家が、この近所にあり、その人の父親が奉納したものなのだそうです。 この写真を撮った時点では、その話を聞いていなかったのですが、たまたま、漱盤を撮影する習慣があって、良かったです。

≪写真2左≫
  境内へは、この崖の階段を登って行きます。 このコンクリートを打った崖面ですが、そんなに古い物とは思えません。 せいぜい、40年くらいでは? それ以前は、どうなっていたのか分かりませんが、やはり、この崖を登る階段があったんでしょうなあ。 何せ、境内は、崖の上にあるのですから。

≪写真2右≫
  崖の上の参道。 雑草や木の枝が繁茂して、凄い有様になっていました。 もう、何年も手入れしていないのではないかと思えます。 植物を手で除けなから進みましたが、被っているヘルメットに当らないようにするのが、大変でした。

≪写真3≫
  社殿。 おお! ショッキングだ! 完全に倒壊しているではありませんか。 こりゃ、台風が原因でしょうな。 風が当たりそうな所だし。 ここまで壊れてしまうと、ちょっとやそっとの信心では、復元できませんな。

  私は、ヘルメットから靴まで、全身、黒ずくめの姿でしたから、怪しい事この上なく、長居すると、社殿を壊した犯人と疑われる恐れがあると思い、早々に引き揚げました。

≪写真4≫
  崖の上から、海側を見た景色。 口野の平地は、全体の半分くらいが、ここに写っています。 小学校の校庭が写っていますが、すでに、統廃合されて、ここの学校は、使われてません。 校舎は変わっていますが、母が約半世紀前に働いていた学校です。 私も、3歳くらいの時に連れて行かれ、図書室の絵本を読んだ事があります。 階段を下りるのか怖くて、泣いた記憶あり。

≪写真5左≫
  EN125-2A・鋭爽を上から見下ろした様子。 ネイキッドのバイクは、上から見ると、みな、同じようなものですな。

≪写真5右≫
  崖の階段の途中から、谷になっている土地を見た景色。 空き地の上に、水色の屋根が見えると思いますが、それが、次の目的地である、「潮汐稲荷神社」です。 この撮影時点では、そこにあるとは気づいておらず、こんなに近いとは思わなかったので、バイクで移動してしまいましたが、歩いても行ける距離でした。




【口野・潮汐稲荷神社】

  琴平神社を後にし、第二目的地へ向けて出発したのですが、バイクを移動させる必要もないくらい、すぐ近くにありました。

  空き地にバイクを停め、「潮汐稲荷神社」を訪れました。 この名前、珍しくて、面白いですが、解説板はありませんでした。 元は漁村ですから、潮汐が生活に大きな関係をもっていたとは思うのですが。

≪写真1≫
  石の鳥居。 ここにも、「疫病終息祈願」の幟旗があります。

≪写真2≫
  境内と社殿。 決して、広い境内ではありませんが、庭園的な整備がなされています。

≪写真3≫
  社殿は、珍しく、石造りです。 明治以降の建築なのは明らか。 石蔵を造る技術を流用したのだと思います。 屋根は、拝殿が、瓦葺きで、本殿は、波板トタン葺き。 本殿も瓦葺きにすれば、より価値が高くなりそうですが、勿の論、よそ者が、どうこう言う事ではないです。

≪写真4左≫
  漱盤1。 鳥居に近い方。 古そうです。 何が彫ってあるかも、もはや、分かりません。

≪写真4右≫
  漱盤2。 社殿に近い方。 こちらの方が、幾分、新しく見えます。 どちらも、蛇口はなく、実際に、手や口を漱ぐ事はできません。

  上の石碑ですが、一番背が高い物には、「日輪當午石経塔」と彫ってあります。 最初、日時計のようなものかと思ったのですが、調べてみたら、「日輪當午禅師」という人がいたらしいです。 「石経」は、そのままの意味で、石に刻んだ経の事。

  実は、私が行った時に、境内の手入れをしている人が一人いたのですが、距離が取れたので、そそくさと写真だけ撮って、退散して来ました。 年末ですから、「神社の手入れに来ている人がいても、おかしくないな」と予想していましたが、実際に、その通りだったわけだ。 それにしても、すぐそこなのに、琴平神社の方は、倒壊したまま、放ったらかしなのは、不思議です。




【伊豆長岡・花坂・聖神社①】

  2021年1月6日に、バイクで、伊豆の国市・長岡の、花坂という地区にある、「聖神社」へ行って来ました。 読み方、不明。 「ひじり・じんじゃ」ですかね?

≪写真1≫
  花坂地区には、すんなり入れましたが、その後、ロストし、ミカン畑の中へ入ってしまいました。 神社は、集落内にあるはずなので、完全に間違えています。 この写真は、道を間違えた記念に撮影したもの。 山の向こうは、たぶん、口野辺りだと思います。

≪写真2左≫
  間違え記念に撮った、もう一枚。 こういう狭い道では、バイクの方向転換に、神経を使います。 崖から落ちたら、洒落にならない大ごと。 坂でなければ、バイクを下りて、押したり引いたりした方がいいかも知れません。

  坂だと、登り方向には押しようがないので、却って、危険。 そういう場合は、バイクに跨って、両足を地面についたまま、エンジンをかけた状態で、いつでも前ブレーキをかけられるように注意しつつ、クラッチを慎重に操作して、バイクを前後進しながら、少しずつ角度を変えて、方向転換するしかありません。

  くれぐれも、足をステップに上げて、乗った状態で、小回りターンなど試みないように。 慣れない場所で、慣れない事をすると、失敗する確率が、ポーンと跳ね上がります。 コケるだけでも、人機共に、大ダメージですが、崖下に落ちでもした日には、レッカー車でも呼ばなければ、どうにもならなくなります。

≪写真2右≫
  道を、分岐点まで引き返し、別の道を登っていったら、神社に着きました。 道さえ間違えなければ、すぐに分かる所にありました。

≪写真3左≫
  参道の石畳と石段、石燈篭は、新しい物。 狛犬と、社殿は、時代がついています。

≪写真3右≫
  狛犬。 昭和十二年とあります。 1937年です。 戦後の唐獅子タイプとは、まだ距離があるものの、だいぶ、近づいている感じがします。 歯が、犬歯ばかりですな。 鬼か、鮫みたいだ。

≪写真4≫
  社殿。 屋根は銅版葺き。 蔀戸風の壁板。 彫刻はないですが、村社クラスとして、立派な建築です。 バランスが良くて、美しい。




【伊豆長岡・花坂・聖神社②】

≪写真1≫
  聖神社の前から、伊豆長岡方向を見た景色。 結構、山の上に上がって来ているわけだ。 家から、こういう景色が見える場所というのは、羨ましいですな。

≪写真2左≫
  本殿。 本殿の建築も見事ですが、風雨から守る為に追加したと思われる側面の壁が、波板で、荘厳な雰囲気を、ぶち壊しています。 だけどねえ。 しょうがないんですよ。 これがないと、すぐに、ボロボロになってしまいますから。 いっそ、全部、茶色系の透明板にしてしまった方が、色の合いが良くなるかも知れません。

≪写真2右≫
  境内にあった、石の祠と燈籠。 これは、よそから移してきたものなんじゃないでしょうか。 石で、屋根のカーブを作るのは、大変でしょうねえ。

≪写真3左≫
  漱盤。 というか、流しですな。 ちゃんと、蛇口がついていて、手が洗えます。 周囲と色が合っているせいか、雰囲気に馴染んでいます。

≪写真3右≫
  境内横の斜面で咲いていた、水仙。 一部、日の光が当たって、神々しく輝いていました。 神社だけに。

≪写真4≫
  鳥居前に停めた、EN125-2A・鋭爽。 バイクを、最もメカニカルに見せるのは、やはり、メーター周りですな。 ネイキッド・バイクの場合、特に、二連メーターの存在感が際立ちます。 下手に、異形デジタル・メーターに交換したりすると、最も魅力がある部分を失ってしまう恐れがあります。




【伊豆長岡・日枝神社】

  2021年1月13日に、バイクで、伊豆長岡の、「日枝神社」と、「宗徳寺」に行って来ました。

≪写真1≫
  伊豆長岡の、長岡温泉側の、源氏山とは反対側の山の麓にあります。 幹線道路から、信号交差点で山側に曲がると、突き当りが、日枝神社なので、交差点さえ間違えなければ、迷う事はありません。

  正面。 しかし、実は、この手前に、もう一つ、大きな鳥居があります。 写っている鳥居に、白い部分がありますが、補修した跡でしょうか。

≪写真2≫
  神社の入り口のすぐ隣にある、お堂。 地図には、「千手観音」とあります。 閉まっているので、中は分かりませんでした。 屋根はトタン葺きで、細工が、大変、凝っています。

≪写真3左≫
  石段。 そんなに段数はなく、下から、奥の建物まで、見通せる程度の高さです。 踊り場があるので、上がるのは、尚更、楽。

≪写真3右≫
  踊り場の敷地内にある、手水舎。 屋根は、銅版葺きで、立派。 漱盤の前面には、左から「奉納」。 もちろん、蛇口あり。 しかし、屋根に比べると、漱盤が、小さいですな。 これはこれで、面白いですが。

≪写真4左≫
  境内にあった、別の社。 「荒神社」とあります。 火の神の事でしょうか。 温泉街で、宿泊施設や飲食店がたくさんありますから、火の神様を特に祀ってあっても、不思議はないです。

≪写真4右≫
  社殿。 鉄筋コンクリート。 配色が、面白いです。 鉄コンにしたがるのは、木造だと、腐食が早いからだと思います。 一度、白蟻に喰われ始めると、処置なし。 まーた、寄付を集めて建て替えなければならないので、「いっそ、鉄コンに」となるわけだ。 信心や、風情などと言っていられない事情は、分かる話です。 祀られている側が、木造と鉄コンと、どちらを喜ぶかは、神のみぞ知る。

  後ろの方が、両翼、突き出しています。 本殿がどこにあるのか、確かめて来ませんでしたが、翼の後ろに、更に建物があるんでしょうか。

≪写真5左≫
  境内にあった、稲荷。 社殿は、石かコンクリートの祠。 小さいながらも、狛狐が置いてあったから、間違いなく、稲荷です。

≪写真5右≫
  漱盤、小。 たぶん、先代。 こういう神社アイテムですが、引退させても、捨てられないのは、寄進者がいるからです。 寄進者本人が他界していても、その子孫が、まだ、氏子にいれば、捨てるわけには行きません。 寄進者の家で、引き取ればいいと思うんですがね。




【伊豆長岡・宗徳寺】

  地図で見た時、日枝神社の近くに、湖沼池があったので、そちらへ回ってみたら、大きなお寺がありました。 長岡山・宗徳寺との事。

≪写真1≫
  この山門は、迫力が凄い。 否が応でも、目をひきつけられます。 藁葺きだからか、形が独特だからか、弥生時代から建っている趣き、あり。 二階は、かつて、鐘が吊られていたと思うのですが、今は、鉤だけが残っています。

≪写真2≫
  本堂と、境内。 広々しています。 飛鳥寺が、こんな雰囲気だったような・・・。

≪写真3左≫
  石燈篭と、解説板。 徳川11代将軍・家斉追善の為に、諸大名が上野・寛永寺に供えた石燈篭を、昭和32年(1957年)に、この寺の檀徒が入手したとの事。

≪写真3中≫
  沙羅双樹の木が植えてありました。 よく分からない写真で恐縮ですが、まだ、小さい上に、冬の事で、葉っぱが一枚もないので、特徴も何も分かりません。

≪写真3下≫
  伊豆長岡町長の名で立てられた解説板によると、保存樹木指定されている、楠(クスノキ)。 大木ですが、樹齢が書いてないのは、残念。 伊豆長岡町は、現在では、他と合併して、伊豆の国市になっています。

≪写真4≫
  本堂を横から。 立派な建物ですが、そんなに古くはないかも。 まだ、しっかりしている感じがするので。 裏手は、墓地になっています。

≪写真5左≫
  境内にあった、石鉢。 神社の漱盤に相当しますが、お寺では、必ず、置いてあるわけではないです。 蛇口あり。 排水も、しっかり整備されています。

≪写真5中≫
  お寺の横手に、湖沼池、あり。 これが、地図に載っていたわけだ。 たぶん、溜め池です。 細長いのが、二つ、ありました。

≪写真5右≫
  溜め池のそばに停めた、EN125-2A・鋭爽。  路面が濡れているのは、山の陰になっていて、前日の雨が乾いていないから。 こういう所を走ると、フェンダーの裏側が汚れます。 まあ、よほど、ベチャベチャにならない限り、わざわざ、拭いたりしませんけど。

  ところで、バイクを清掃するのに、ホースで水をジャブジャブかける人がいますが、錆を増やしたくないなら、やめた方がいいです。 泥汚れは、濡れ雑巾で拭きとって、油のついたウエスで拭き上げておけば、充分。 そもそも、泥だらけになってしまうような所は、走らないようにしなければ。 もちろん、オフロード車は別ですが。

  通勤や、長距離ツーリングで、やむなく、雨の中を走った場合は、まだ濡れている内に、雑巾で、汚れごと水気を拭いてしまうのが、一番、楽なやり方でしょうか。




【大仁・白山神社】

  2021年1月19日に、バイクで、伊豆の国市・大仁にある、「白山神社」へ行って来ました。 例によって、地図で見つけた所。

≪写真1左≫
  小さい写真で恐縮ですが、社殿は、鉄筋コンクリートなので、神社的趣きは薄いです。 右にある物置のような建物は、もしかしたら、神輿や屋台などが入っているのでしょうか?

≪写真1右≫
  神社に隣接している、というか、一体化している感じですが、「多福遊園地」。 といっても、あずまやとベンチがあるだけの児童公園です。

≪写真2左≫
  解説板。 「徳本念佛碑」と、「唯念の碑について」。 内容は、割愛。 どちらの碑も、どこにあるか、確認して来ませんでした。 神社ですが、仏教の色彩が濃いです。

≪写真2右≫
  社殿の前にあった、石燈籠。 笠が欠けているのは、珍しい。 普通は、火袋が、欠けるものですが。 火袋の下の、中台(受け鉢)や、一番下の、基礎(地輪)もなくて、パッと見では、石燈篭だと気づかないほどです。

≪写真3左≫
  社殿の前にあった、「庚子塔」。 その左側の細長い石は、たぶん、男根崇拝かと。

≪写真3右≫
  社殿を裏から見た様子。 拝殿の背後に、本殿がくっついてる様式。 壁の色が、ピンクというのは、変わっています。

≪写真4左≫
  境内の横手にある、古い墓地。 昔の土葬時代の石塔を集めてあるようで、現役の墓石は一つもありません。 この写真では分かり難いですが、右の方に観音像があり、その前にだけ、線香入れと花筒があって、香花が供えられていました。 仏教が勝っておるのう。

≪写真4右≫
  入り口の方で咲いていた、水仙。 背後から、光を通していて、神々しかったです。 神社だけに。

≪写真5≫
  境内の木は、枝打ちされているものが多かったですが、何本かは、大きく育っていました。 大きい方は、樹齢200年は、楽に経っている感じ。 大変、気持ちが良い枝ぶりです


  家に帰ったら、静岡県に、「感染拡大緊急警報」が発令されていて、プチ・ツーリングは、これで、一旦、休止になりました。 残念。 去年の緊急事態宣言の時には、キャブレーターを空にし、バッテリーを外して、眠らせましたが、今回は、週に一度、近所を一回りして、凌いでいます。




  今回は、ここまで。

  「感染拡大緊急警報」の内、「不要不急の外出自粛要請」だけは、早く解除されたので、プチ・ツーリングを休止したのは、二週間だけでした。 その二週間も、バッテリーを死なさない為に、乗ってはいました。 目的地がなくて、給油とか、周遊とか、ただ走らせていただけなので、写真は撮りませんでした。 給油中の写真なんて、撮っておけば、記念になりそうですが、スタンドの店員に、「駄目駄目ぇ! 撮影禁止だよぉ!」とか言われると、嫌な思い出になってしまうから、やっていません。

2021/04/11

EN125-2Aでプチ・ツーリング ⑯

  週に一度、「スズキ(大長江集団) EN125-2A・鋭爽」で出かけている、プチ・ツーリングの記録の、16回目です。 今回は、2020年の12月に出かけた所です。 しかし、まだ、2020年の分は、終わりません。





【西椎路・山神社古墳】

  2020年12月4日に バイクで、沼津市の西の方、西椎路にある、山神社に行って来ました。 沼津市のホーム・ページで知った所で、古墳が、2基ある事で有名らしいです。 

≪写真1≫
  根方街道で、近くの交差点まで行き、そこから、住宅地の坂を上がって行ったら、着きました。 道路が広くなっていますが、車を停めるには、ちと、不安な場所ですな。 短時間なら、たぶん、文句は言われないと思いますけど。

  それにしても、この場所。 知らない人は、神社とも、古墳とも思わないで、スルーして行くでしょうねえ。

≪写真2≫
  境内、草ボウボウ・・・。 うーむ、山の中も含めて、これだけ、草ボウボウな神社は、初めて見ました。 なんなんだ、この逞しい草は。 

≪写真3左≫
  円墳が、二つ並んでいて、それぞれ、上に、社殿が載っています。 人間が入れる大きさではなく、祠サイズですが、切妻の屋根が付いています。 それぞれに、賽銭箱あり。 いずれも、造りは、手が込んでいます。 境内の荒れ方と比べると、信心があるのかないのか、よく分かりませんな。 もっとも、かく言う私も、信心がないので、別に、その点を批判する気はないです。 これはこれで、面白いと思います。

  古墳に関する解説板は、ありませんでした。

≪写真3右≫
  漱盤。 新しくて、綺麗です。 蛇口は、普通の水道のもの。 前面には、「漱」の一文字が浮き彫りになっています。

≪写真4左≫
  鎮守の森の木。 かなりの高木があります。 恐らく、整備前は、鬱蒼と茂って、小山のようになっていたんじゃないでしょうか。

≪写真4右≫
  道路の端に停めた、EN125-2A・鋭爽。 周囲は住宅地でしたが、バイクが見える範囲しか動かなかったので、ハンドル・ロックはしませんでした。

  この時、エンジン音が渋くなっていると、はっきり感じたので、この後、オイル交換する事になります。




【西浦・久連神社①】

  2020年12月10日に、バイクで、西浦の久連(くづら)という所にある、「久連神社」に行って来ました。 随分昔に、セローで、神社巡りをしていた時期があったのですが、もしかしたら、その時に、一度来ているかもしれません。 自信がないですが。

≪写真1≫
  海岸線を通る幹線道路の、海側に小山があり、その上に、境内があります。 入口の所が少し凹んでいて、バイクや自転車なら、そこに停められます。 車の場合、横手に、駐車場がありましたが、参拝者用かどうかは分かりません。

≪写真2≫
  麓の鳥居。 鳥居の前に狛犬(獅子)があるのは、割と珍しいのでは?

≪写真3左≫
  鳥居と向き合う位置に置かれた、漱盤。 水道の蛇口あり。 ハンドルも付いています。 前面には、「洗心」と彫ってあります。 手を洗うのは簡単だけれど、心を洗うのは難しいですな。 ああ、そうか、なるほど、「心洗」と、逆に読まれないように、文字の高さを変えてあるわけだ。 細かい配慮だこと。

≪写真3右≫
  沼津市教育委員会による、「市指定天念記念物 久連神社社叢」の解説板。 モッコク、ウバメガシ、ヤマモモ、タイミンタチバナ、ネジキなど、暖地性の植物が自然に生えているとの事。

≪写真4左≫
  石段。 石の磨耗が見られないので、割と近年に、造り直したのだと思います。 それでも、何十年かは経ていると思いますが。 手すりは低く、登る人用につけられたもの。

≪写真4右≫
  社殿。 村社クラスとしては、大きいです。 軒の赤い色が、目を引きつけます。 屋根は、銅版葺き。

≪写真5左≫
  社殿前の漱盤。 というか、これは、日本庭園の、蹲(つくばい)ですな。 ここにも、水道の蛇口が付いています。 抜かりがないな、ここの氏子衆は。

≪写真5右≫
  「久連神社造営之記」の石碑。 本文は、達筆過ぎて、読めませんでした。 この種の石碑ですが、石碑本体の文字は、どんなものでも構いませんが、横に、活字体で書いた解説板を立ててもらいたいです。 読みたくないんじゃなくて、読めないんですわ。




【西浦・久連神社②】

≪写真1≫
  久連神社境内の裏手から、北の方角を見た景色。 鎮守の森の枝葉の間から、駿河湾を隔てて、富士山が見えます。 贅沢な景色ですなあ。 基本的に、雨が降らないので、富士山頂でも雪が降らず、真っ黒です。

≪写真2左≫
  本殿を後ろから見ています。 拝殿と本殿が、短い通路で繋がれている様式。 基礎の石積みは、伊豆石(凝灰岩)だと思いますが、表面の剥落が起こっています。

≪写真2右≫
  拝殿の濡れ縁ですが、なぜか、白い塗料で塗られていました。 何の意味があるのか、不明。 防虫? それにしても、なぜ、白?

≪写真3左≫
  麓に下りて来ました。 入口の左右にある石に、獅子の浮き彫りが施されていました。 彫りが深くて、美しいです。 下半分に被っている黒い影は、私のバイク、EN125-2A・鋭爽の、ハンドル周り。

≪写真3右≫
  久連の集落の中にある、鳥居。 地図に鳥居マークが載っていて、別の神社かと思っていたのですが、行ってみたら、久連神社の鳥居でした。 かつては、ここを通る参道があったのでしょう。 海岸沿いの道路が出来て、寸断されたのだと思います。 

≪写真4≫
  少し東へ戻った所で撮った、駿河湾の景色。 おにぎり型の島は、淡島。 右手の高い山は、鷲頭山。 遠くに富士山。 富士山の下に、牛伏山が見えます。 左手の緑は、たぶん、長井崎半島だと思います。




【口野・金櫻神社①】

  2020年12月17日に、バイクで、静浦の口野にある、「金櫻神社」へ行って来ました。

≪写真1左≫
  まずは、幹線道路側から。 ここに鳥居があるという事は、前から知っていました。 訪ねた事がなかっただけ。 道路脇に、少し奥へ広がった所があり、車も停められない事はないです。 ただ、参拝、もしくは、見学している間に、駐車違反を取られる恐れが、ゼロではないです。

≪写真1右≫
  階段を登って、境内に上がります。 私は登りませんでしたが、かつて登った事がある母の話では、若い頃でも、大変だったとの事。 ちなみに、母はかつて、給食の調理師をやっていて、この近くにある、静浦東小学校で働いていた事があるのです。 その時、時間が出来た日があり、ここへ来てみたとの事でした。 私が、幼児の頃ですから、もう、50年以上前の事です。

≪写真2左≫
  私は、幹線道路側からは登らず、バイクで、住宅地になっている山を登り、神社の裏手に回ろうとしました。 ところが、ロストして、ミカン畑をどんどん奥へ行ってしまいました。 この写真は、諦めて、引き返したところ。 このまま、山を越えると、伊豆長岡の方へ出るはずですが、車やバイクで走れる道が繋がっているかどうかは、分かりません。

≪写真2右≫
  引き返して、途中にあった分岐を進んだら、神社の裏手に出ました。 こちらにも、車を停められる場所があります。 何台かは、楽に置けます。 境内の裏口にも、鳥居あり。

≪写真3≫
  正面から見た、社殿。 境内は、かなり広いです。 海の守り神で、母の話では、静岡市や旧清水市の方からも、漁師が、祭りにやって来ていたとの事。 解説板に、昭和35年(1960年)に、金櫻山の山頂から、この地へ移されたとあります。

≪写真4左≫
  裏口の方にあった、石燈籠。 飾りがついており、凝っています。

≪写真4右≫
  表口の方にあった、石燈篭。 六角形のは、お寺によくあるタイプですな。 もっとも、江戸時代以前は、寺も神社もセットでしたけど。

≪写真5左≫
  漱盤。 すっきりした、近代的な造形ですな。 文字は、右から、「奉納」。 文字の間に、桜の花弁形の中に、「金」という文字が入った、マークがあります。 こういうところも、近代的。 逆に、最近作ったものなら、神社アイテムから、こういう近代的デザインは排除してしまうと思います。 惜しむらく、蛇口がありません。

≪写真5右≫
  狛犬。 妙に、もこもこした獅子ですな。 「昭和十三年」とあります。 1938年です。 つまり、この狛犬も、金櫻山の山頂から、移されて来たわけだ。




【口野・金櫻神社②】

≪写真1≫
  境内の、入口側鳥居の前から、海方面を見下ろした景色。 プチ絶景哉。 大変、気持ちが良い。 すぐ下の、半島状に突き出した部分は、口野の漁港になっているのではないとか思います。 高い山は、沼津アルプスの最高峰、鷲頭山(わしずさん)。 標高392メートル。

≪写真2左≫
  社殿の、名額と、鈴。 社殿全体について言える事ですが、遠くからも祭礼に来る神社だけあって、村社クラスよりも、おしなべて、立派な造りです。

≪写真2右≫
  「疫病終息祈願」の幟旗。 もちろん、新型肺炎の事を指しているのでしょう。 口野の神社では、他でも立てられていました。

≪写真3左≫
  社殿裏手に散り敷かれた、イチョウの葉。

≪写真3右≫
  葉を振るい落とした、イチョウの木。 イチョウは、寺にも、神社にも、よく似合います。

≪写真4左≫
  社殿の裏手に置いてあったも移動式トイレ。 神社らしくありませんが、近くに、公園はないし、民家も遠いし、大勢が集まる祭礼の時には、役に立つのでしょう。 境内の周辺で出されてしまうよりは、ずっと、マシ。

≪写真4右≫
  裏手の広場に停めた、EN125-2A・鋭爽。 オイル・フィルター交換後、オイル漏れが起こったのですが、この時点ではまだ、修理されていなくて、僅かに滲み出しています。 まあ、そんなに長距離でなければ、大丈夫。 オイル交換後、エンジンやミッションの調子は、ずっと、よくなりました。




【口野・弁財天宮】

  2020年の12月23日に、バイクで、口野へ行って来ました。 地図で見つけた神社を見に。

≪写真上≫
  海の近くにある、「弁財天宮」。 バイクを停める所がなくて、やむなく、道路脇に停めました。 別に、道路が膨らんでいるわけではないので、車だと、たぶん、アウト。 短時間なら、何とかなるかも。

  赤い鳥居を見て、稲荷かと思ったのですが、家に帰ってから調べ直したら、弁財天宮でした。

≪写真中左≫
  社殿。 瓦屋根は、立派。 前面壁の、板とサッシは、氏子側の都合が、もろ出しですな。 神様も、サッシの方が、隙間風が入らなくていいかも。 もっとも、神様というのは、年中、神社にいるわけではないです。

≪写真中右≫
  正面から見ると、シンプルな建物のようですが、裏へ回ると、本殿が拝殿の後ろに飛び出していて、幾分、複雑になっています。 側面と背面の壁は、トタン波板張り。 本殿の屋根は、確認して来ませんでしたが、たぶん、トタンの平板ではないかと思います。

≪写真下≫
  裏手は、海に面しています。 鎮守の森の隙間から、内浦湾が見えます。 ちなみに、口野は、静浦です。 高い山は、沼津アルプスの、鷲頭山(わしずさん)、392メートル。




【口野・天神宮】

  弁財天宮の後、口野の山の方へ入り、「天神宮」へ行きました。 住宅地や蜜柑畑を見下ろす、少し高い所にあります。

≪写真1≫
  道路の反対側に、空き地あり。 しかし、個人の所有地だと思うので、車を停めていいものかどうか、分かりません。

  大きな石燈篭には、「天満宮」と彫ってありました。 「天神宮」と、同じ意味なんですかね?

  「常夜燈」という文字もありました。 なぜ、境内ではなく、この場所に、常夜燈があるのかというと、ここから、海が見えるので、たぶん、近世まで、燈台として使われていたんじゃないでしょうか。 蝋燭の灯くらいでは、海の漁船から見えたかどうか、疑問ですが。

≪写真2左≫
  入口から、鳥居を見た様子。 鳥居の額には、「天神宮」とあります。

≪写真2右≫
  社殿。 本殿が拝殿の中に納まっている形式。

≪写真3左≫
  社殿の隣にある、小さな社殿。 たぶん、稲荷。

≪写真3右≫
  狛犬。 昭和14年(1939年)とあります。 まだまだ、戦後の唐獅子には、遠い観あり。 手彫りだと、造形の複雑さに、限界があるようです。

≪写真4左≫
  漱盤。 蛇口があり、ハンドルもついています。 村社としては、結構、広い境内があり、このくらいの規模だと、手水舎があってもおかしくないですが、神社全体の雰囲気を見るに、今現在の氏子衆の信心度合いは、手水舎を新たに造るほど、深くはないようです。

≪写真4右≫
  燈籠、もしくは、石碑が載っていたと思われる、土台。 石で組んであります。 いい仕事ですねえ。 隙間が、ほとんど、ありません。

≪写真5左≫
  社殿の隣に、基礎の跡がありました。 かつては、他の社殿が建っていたんでしょうな。 イチョウの落ち葉で、地面が覆われていました。 冬ですなあ。

≪写真5右≫
  大きな石燈篭の傍らに停めた、EN125-2A・鋭爽。 オイル・フィルター・カバーのOリングを交換した後、初めて、出かけたのですが、オイルの漏れはありませんでした。 これで、しばらく、整備なしで乗れそうです。

  こうして見ると、このバイクには、明らかに、楕円メッキ・ミラーの方が似合いますな。 標準では、楕円黒ミラーですけど。

≪写真6≫
  神社の前からの眺め。 やはり、鷲頭山は、目立ちます。 山の下に見えている集落は、江浦(えのうら)。 ここからだと、富士山は見えないようです。




  今回は、ここまで。

  大体、4ヵ月くらい前まで来ました。 続けて何回か、口野へ行っているのですが、狩野川放水路の河口から、口野の方へ右折するたびに、ハンドルリングが不安定になる事に気づき、「おっかしいなあ。 道路のせいかなあ」と、首を捻り始めます。 確かに、その部分の路面は、口野方面へ下がって行くので、膨らんだようになっていて、理屈上は、遠心力が働き、タイヤのグリップが悪くなるのですが、以前には、そんな事を感じた事がなく、突然、不安定になるのは、奇妙な話です。

  「不安定になる」というと、大雑把過ぎて、伝わり難いですが、もっと直截的に表現すると、「怖さ」を感じるのです。 バイクがふらつくような、どこへ進んでしまうか分からないような。 実は、それは、ステム・ベアリングがヘタって来ると、出る症状なのですが、交換してから、まだ、一年ちょっとしか経っていないので、そちらを疑うようになるまで、何週間かかかりました。

2021/04/04

EN125-2Aでプチ・ツーリング ⑮

  週に一度、「スズキ(大長江集団) EN125-2A・鋭爽」で出かけている、プチ・ツーリングの記録の、15回目です。 今回は、全て、2020年の11月に出かけた所です。





【足高廃神社①】

  2020年11月4日に、バイクで、愛鷹山麓の足高地区にある、神社へ行って来ました。 明らかに山の中ですが、地図で神社マークを見つけたので、どんな所かと思って。

≪写真1≫
  沼津市立病院の前の道を、ずーっと北へ上がって行くと、新東名を跨いだ、更に上に、「ナントー」という会社があり、道が突き当たりになっています。 そこを右に曲がって、道なりに進むと、この場所に出ます。 左側には、ゴルフ場があり、右側は、そのゴルフ場と関係があるらしい別荘地になっています。

  別荘地と言っても、本宅として住んでいる人が多そうな雰囲気。 かなりの山奥ですが、車があれば、最寄のスーパーまで、20分くらいで行けるんじゃないでしょうか。 問題は、車に乗れない年齢になってからですな。

≪写真2≫
  別荘地の西側を通り、更に北へ向かいます。 杉・檜の人工林。 人工林には、人工の美があるものだな。

≪写真3≫
  右カーブがある所で、停車。 山芋掘りを禁止してあるという事は、山芋が採れるわけですな。 私は、全然、興味がありませんが。 この先は、登り坂になり、更に上に、別荘地があります。 去年、「休場遺跡」に来た時に、ロストして、上がって行った経験あり。

  カーブの路肩にバイクを停めたりして、通行の邪魔になるかと思ったのですが、ここにいる間、一台の車も通りませんでした。

≪写真4≫
  これが、カーブ手前の道路脇にあった、目的地の神社。 壊れた鳥居が立っていました。 奥に、社殿があるのかと思って探しましたが、周囲は笹薮で、どこにも、繋がっている道がありませんでした。 かつては、右側の空間に、社殿があったんでしょうか。 基礎の痕跡すら、見分けられませんでした。




【足高廃神社②】

≪写真1≫
  鳥居の南側に、道路から上がる石段のようなものがありました。 という事は、石段から上がって、鳥居を潜り、社殿に至るとすれば、やはり、鳥居の北側の空間に社殿があったんでしょう。

  朽ちるに任せてあるという事は、別荘地の人達は、祀る気はないようですな。 元からの住民がいない、寄せ集め集落では、無理もないか。 そもそもは、誰が祀ったんでしょう? 祭神も分からないし。 ちなみに、山にあるからといって、山神社とは限りません。

≪写真2≫
  近いので、休場遺跡(やすみばいせき)にも、寄ってみました。 11ヵ月ぶりですが、別段、変化なし。 もう、一年近く経ったというのが、感覚的にピンと来ません。

≪写真3≫
  休場遺跡の前から、北西を見た景色。 気持ちの良い晴れです。 下の方は、茶畑ですが、放棄されたのか、伸び放題になっています。 茶の木も、結構、背が高くなるようです。

≪写真4≫
  道路脇に停めた、EN125-2A・鋭爽。 休場遺跡から先は、北へ行くにも、東へ行くにも、道路が砕石舗装になるので、それ以上、進みませんでした。 バイクにキズをつけてまで、行ってみようとは思いません。 この後、真っ直ぐ、南へ下り、旧東海道まで出て、帰りました。




【井出丸山古墳①】

  2020年11月10日に、バイクで、沼津市の西の方、井出地区にある、「井出丸山古墳」へ行って来ました。 愛鷹山の麓です。 根方街道を西進し、西井出の信号交差点直前の道を北東方向に曲がり、住宅地を抜ける急坂を登って、「八幡口跨線橋」で、新幹線の上を跨ぎ、道なりに進んだら、そこで、ロストしました。 家にあった地図が古くて、新しくできた道路が載っていなかったのが原因。

≪写真1≫
  とりあえず、バイクは、車が来ない道に停めました。 以前は、この道が、東名を跨ぐ、「丸山橋」に繋がっていたのかもしれませんが、今は、もっと広い道路が出来ていて、この道は、農地の中を通るだけになっています。

  ここにバイクを停めて、15分くらい、離れていましたが、予想通り、誰も来なかったようで、無事でした。 人がいないというのは、最も安心できる防犯要素ですな。

≪写真2≫
  問題は、この場所です。 左右に通っているのが、地図に載っていない、新しく出来た道路。 右の方のカーブ・ミラーが立っている道を上がっていくと、バイクを停めた場所を通過した後、また、左右に通っている道路に合流するだけです。 左の方の、コンクリート・ブロック垣の所にも、道があり、草が両脇から生い茂って、バイクや車では入る気になれませんが、ここが、怪しいのではないかと見当をつけました。 というか、ここしか、どこかへ繋がっていそうな道がなかったので、徒歩で、ここへ入って行きました。

≪写真3≫
  途中、東名のガードがありました。 古墳の位置は、東名の北側ではない事が分かっているので、ここは、潜りません。

≪写真4≫
  竹藪の中の、こんな道を進んで行きます。 写真は、明るく写っていますが、実際には、もっと薄暗くて、気味悪さ全開でした。 道は、落ち葉に埋もれて、舗装がどうなっているのかも、はっきり分かりませんでした。




【井出丸山古墳②】

≪写真1≫
  そろそろ、引き返そうかと思った頃に、少し開けた場所に出ました。 ありましたよ、綺麗な円墳が。 いやあ、それにしても、こんな凄い道だとは思わなかったなあ。

≪写真2≫
  中には、入れません。 沼津市教育委員会の解説板によると、6世紀後半、古墳時代の造営だとの事。 平成四年(1992年)に発掘したとありますから、その時、整備したんでしょう。

≪写真3左≫
  6畳くらいの、プレハブの小屋あり。 まさか、以前は、見学料を取っていたとか? そういう規模の遺跡ではないですが。 考えられるのは、ここが私有地で、地主さんが、暇潰しに、遺跡のガイドでもやっていたんじゃないでしょうか。 その為の小屋なのではないかと。

≪写真3右≫
  古墳を挟んで、小屋と反対側に置いてあった、犬小屋。 犬まで飼っていたのか。 毎日、昼食後、犬の散歩がてら、ここまで来て、数時間潰し、日が傾くと帰って行く、という、地主さんの姿が想像されますが、あくまで、私の想像に過ぎません。

≪写真4≫
  敷地の隅、竹藪に埋もれかけていた、軽トラの残骸。 運転席は、後ろ板を除いて、ほぼ、なくなっています。 鉄というのは、ここまで、腐ってしまうものか・・・。

  リア・エンドの特徴から、スバルの4代目サンバー・トラックのようです。 1982年から、1990年まで、生産・販売されていた型。 リヤ・コンが、縦長になっているのが特徴で、私が、10代後半、車に興味を持ち始めた頃に走っていたので、よく覚えています。 つまり、私自身も、この車が朽ち果てるほど長い時間を生きて来たという事ですな。 ハラハラと、涙下る。 この車の復元が不可能なように、80年代も戻りはしない。

  帰りは、新しく出来た方の道で、根方街道まで、戻りました。 その道の存在を知っていれば、信号交差点で、普通に曲がれば良かったわけで、遥かに簡単でした。




【桃里 鈴木和太郎の像】

  2020年11月19日に、バイクで、沼津市の西の方、桃里という所へ行って来ました。 道は、旧東海道。 第一目的地は、地図で見つけた、記念碑です。

≪写真1≫
  ありました。 記念碑というので、石碑を想像していたのですが、そうではなく、「鈴木和太郎」という人物の胸像でした。 駐車場などはありませんが、空き地があるので、短時間なら、何とかなるのでは? バイクは、どこにでも置けます。 だから、バイクと車では、行ける所が、まるで変わって来ると言うのです。

≪写真2≫
  台座正面に埋め込まれた、石板。 日本経済新聞の一面のようです。 当然、新聞関係の人かと思ったのですが・・・。

≪写真3左≫
  側面に埋め込まれた解説石板を読むと、元は農家で、その後、「鈴和観光」という会社を興した人物だとの事。 なるほど。 昭和57年(1982年)に亡くなったとあります。

≪写真3右≫
  材質が分かりません。 石で彫って、それに、白く着色してあるようにも見えます。 白というと、石膏を思い浮かべる人もいると思いますが、石膏像を屋外に設置する事はありません。 雨風に耐えられないからです。

≪写真4≫
  サザンカの花が咲いていました。 結構な大きさで、華やかです。




【桃里 稲荷神社】

  「鈴木和太郎の像」から、少し東へ引き返し、最初の丁字路を海の方へ向かい、踏切を渡って、最初の丁字路を東へ曲がったら、海側の奥まった所に、稲荷神社がありました。 そんなややこしい道順を、行き当たりばったりで、辿れるわけもなく、ここも、地図で、神社マークを見つけてきたもの。

≪写真1≫
  この駐車場の奥に、神社があるんですが、ここまで来ても、分かりませんなあ。

≪写真2≫
  近づくと、ありました。 何も書いてありませんが、この配色は、どう見ても、稲荷でしょう。 工場と工場の間に挟まれています。

≪写真3≫
  挟まれている割には、境内は広いです。 結構、大きな木もあります。

≪写真4左≫
  社殿と燈籠。 狛狐があれば、稲荷である事がはっきりするんですが・・・。

≪写真4右≫
  漱盤というより、水道と流し。 ハンドルがついていて、たぶん、水が出ると思います。 排水溝も設備してあります。 手水関係は、神社アイテムの中では、お金がかかる方ですな。

≪写真5左≫
  駐車場から、北を見た景色。 雲がなければ、富士山が見えるはずです。 北側を空けてあるのは、神様に、富士山を見せる為なんでしょうか? もっとも、社殿の正面は、東向きなんですが。

≪写真5右≫
  駐車場の隅に停めた、EN125-2A・鋭爽。 この時は、平地だけだったので、負担は少なかったと思います。 とはいえ、だんだん、エンジンの音が悪くなって来た感あり。 やはり、オイル交換しなければ、駄目か。




【中沢田 大六天神社】

  2020年11月26日、バイクで出て、まず、清水町徳倉のスタンドで給油。 その後、沼津市街地の北の方、中沢田にある、「大六天神社」に行って来ました。

≪写真1≫
  住宅街の中に、忽然と現れます。 境内は、ないも同然。 道理で、今まで、この道を通っていても、気づかなかったわけだ。 屋根は、神社らしく、銅版葺き。

≪写真2左≫
  名額。 中央に、「大六天」。 右に、「宝永山」。 左に、「持最寺」と書いてあります。

≪写真2右≫
  社殿の前にあった、石碑。 「南無妙法蓮華経 宝永山 持最寺」と彫ってあります。 つまり、お寺が、この神社を管理していたわけですな。 江戸時代までは、それが普通でしたが。 今でも、そうかどうかは、不明。

≪写真3≫
  漱盤だけ置かれていました。 排水は、すぐ前側に、道路の側溝があるからいいとして、水道がないのでは、漱ぎようがありませんな 。 手水関係は、お金がかかるのですよ。 全面に彫られている文字は、「奉納」。

  おや、後ろに、エアコンの室外機がありますね。 すると、この社殿、人が集まる事があるんでしょうか。 意外だ。 「エアコンより、漱盤に水道を引いた方がいいのでは?」などと、部外者の分際で、余計な事は言いませんが。

≪写真4≫
  社殿の北側。 アルミ・サッシに、網戸、雨戸の戸袋、カーテン。 まるで、普通のお宅のようです。 もしかしたら、管理者が住み込んでいるんですかね? それにしては、台所とか、トイレとか、見当りませんが。




  今回は、ここまで。

  前回と今回は、ちょうど、2020年の、10月分、11月分と、月ごとになりましたが、それは、偶然でして、とりあえず、在庫を全て出し終えるまでは、出かけた先、4回分のペースで、進めます。 月に、5回出かける事もあるので、組み写真マックス10枚になると、アップするのが、きつくなるからです。

  近況ですが、ガス屋が警報機の交換に来たのは、万全の準備をして、何とか乗り切ったし、彼岸に兄夫婦も来なかったし、これから、4月末までは何もする事がないので、多少は、気楽に暮らせると思って、脱力しているところ。

  ≪木目病≫の頃に欲しいと思っていた、車の内装の木目部品が、今頃、ヤフオクに出て来たのですが、すでに、欲望が薄くなってしまっており、どうしても、買う気になれません。 どうせ、木目部品に換えたって、廃車にしたら、全く無駄な出費になってしまうからなあ。