2007/04/30

ネット交友法度

  奇妙な事に、連休に入ると、更新意欲が減退します。 時間はたっぷりあるのに、文章を書く気がなくなるのはなぜでせう?

  つくづく思うんですが、ネット活動を楽しむ為に最も重要な事は、≪野心を捨てる事≫ですなあ。 たとえば、自分のサイト・ブログを繁盛させたいとか、他人に自分の意見を認めさせたいとか、そういうギトギトした欲望を満たそうとしない事です。 今の世の中、「石を投げれば、利己主義者に当る」、「犬も歩けば、ナルシストに当る」という状況ですから、他人が自分の事を持て囃してくれるなどと望む方が間違っているのです。 誰も彼も、他人から持て囃されたいと思っていても、その逆は微塵も望んでいません。

  人気サイトというのがあるにはありますが、そういう所は有用なコンテンツを持っているから利用者が来るわけです。 利益という蜜を与えてくれるから、蜂が寄って来るわけですな。 そして、ついでに掲示板に書き込んでいくと。 しかし、そういう有用コンテンツを作れる人はごくごく少数です。 同じような趣旨のコンテンツであれば、最も濃密に作られているサイトに利用者が集中するので、そこだけが老舗化し、他のサイトはかすんでしまいます。 「二番煎じになるな」と思ったら、最初から作らない方が無難でしょう。

  人気ブログというのもありますが、こちらはもっと下品な理由で繁盛しています。 アクセスログを見ていると分かるんですが、ブログを覗きに来る客というのは、単語検索で来る場合が非常に多いです。 自分が知りたい事、興味がある事を検索し、引っ掛かった所にアクセスするわけですな。 ≪炎上≫などという奇怪な現象が起こるのもそのせいです。 知り合いが読みに来ているのであれば、そんなに多くのコメントが集中するわけがないのであって、暴力的な書き込みをしてくる連中は全部、検索で来た真っ赤な他人どもです。 炎上事件が伝えられるたびに、この世の中にいかに下劣な人間が多いかを痛感し、ほとほと嫌になってしまいます。 下司ばっかり・・・。

  このように、サイトでもブログでも、何か特別な才能があるか、さもなくば下司どもの興味を引くような下司な文章を書くかしなければ、繁盛させる事は不可能です。 前者は才能なくば出来ませんし、後者は低劣すぎて、する気になりません。 つまりね、≪善良な一般人≫が、ネット上で他人の注目を浴びる事は、そもそも不可能なのですよ。 試してみるのを止めはしませんが、最終的には嫌な記憶が残るだけですぜ。

  私はかれこれ6年くらいネット活動してますが、最初の頃知り合った人で音信が続いているのは、一人しかいません。 今交友している人達はすべて半年以内に知り合った方々です。 私は性格がいい方ではありませんが、誰から見ても温厚かつ朗らかという人でも、事情はほとんど変わらないようです。 結構うまが合う相手でも、半年もするとやりとりが途切れ始め、やがて全く関わらなくなってしまいます。 「お久しぶりです」といって、数年ぶりに書き込んで来る人がいても、それ一度きりとか、せいぜい二回も書き込んでくれば、それでまた離れていきます。 人間の交際というのは、そういう儚いものなんですな。

  それでも、「せっかくインターネットをやっているのだから、何らかの交際がしたい」という場合、≪広く浅く≫を心掛けるのが良いと思います。 具体的に言うと、

≪自分のサイト・ブログは作らない≫
  更新の負担に押し潰されたり、お客が来てくれない事にイライラしなくて済むように、元を断ってしまうわけです。 交際は、よそへの書き込みだけで行ないます。

≪絶対に相手を貶さない≫
  貶すくらいなら、最初から書きこまなければいいのです。 「誉めてばかりだと本音の話が出来ない」と思うかもしれませんが、本音の話などする必要はありません。 いや、してはいけないのです。 本音の話をしていると、必ず意見の違いがありますから、衝突し、喧嘩別れの原因になります。

≪論争をしない≫
  これは、随分前にも書きました。 政治・思想・宗教・歴史などに関する論争はもちろんご法度。 ごく日常的な話題でも、「意見が違うと思ったら、その事については何も書かない」という原則を貫きます。 こちらが相手を誉めているにも拘らず、相手が反発して来るようなケースが稀にありますが、それは論争を仕掛けられているわけですから、危険人物と見做し、そこへはもう行かないのが良いでしょう。

≪他の客と話さない≫
  会話は必ず、そのサイト・ブログの主人とだけ行ない、他の客と話さないようにします。 主人が嫌がるのが最大の理由です。 自分の所で、他人同士が話をしていると、ムカっとするのは人情というもの。 喧嘩も困るが、仲良くされるのも不愉快なものです。 主人と他の客の会話の内容にも関わらないようにします。 「その件ですが、実は・・・」などと口を挟むと、無視されたり、窘められたり、ろくな事がありません。 昔は、個人サイトの掲示板で、他人同士が会話をするようになると、「サロン化した」などといって、掲示板が成熟したと見做されましたが、それは完全に過去の価値観です。 いまや、サロン化は人間関係に亀裂を生じさせる原因でしかありません。

≪定期的に訪ねるのは避ける≫
  「一週間に一度書きこむ」といったパターンを決めてしまうと、相手側は「こいつは機械的に巡回している」と見て、不快感を抱きます。 わざと崩した方が宜しい。 もう一つまずいのは、毎日とか、一日に何回もという頻繁型です。 絶対に嫌がられます。 レスを書くにはエネルギーと時間が必要なので、立て続けに書きこまれると、主人は参ってしまうのです。


  基本的に、「ネット交友は時間がたつと必ず破綻する」と覚悟しておくべきでしょう。 しかし、だからといって、あちこちに書き棄てのような書き込みをしていたのでは、炎上ブログにたかる下司どもと選ぶ所がなくなってしまいます。 破綻が避けられない事を念頭に置いた上で、なるべく長持ちさせる事を目標にすべきですな。 その為には、相手側に利益を与え続ける事が重要です。 もし利益を与えられなくなったら、その時が交友を打ち切る時なわけです。

2007/04/22

SFアニメ三本

  先週末、ツタヤでまた半額キャンペーンをやっていたので、アニメ映画を三本ばかり借りて来ました。





≪スチーム・ボーイ≫
  ハッと目が覚めるような作品。 ただし、あまりにもつまらないので、何度も居眠りしかけては、ハッと目が覚めるという意味です。 超駄作。 恐らく、莫大な資金を投じ、膨大な時間を費やし、大量の人間を動員して作った作品なのでしょうが、元の話がスカなばかりに、一切合財すべての努力が無駄になっています。

  19世紀後半、ロンドン博覧会がアメリカのある財団によって各種新型兵器のデモンストレーションの場にされてしまうという話。 こう書くと、真っ当な話のように聞こえますが、とーんでもない! グチャグチャなのです。 まず、戦闘が見せ場なのに、対立の構図が出来ていません。 実の親子が理念の相違を巡って争っているので、真剣な憎悪が感じられず、「大勢の死人を出した上に、街をメチャメチャに破壊してまでやるほどの事なのか?」と、見ていて馬鹿馬鹿しくなってきます。 もう、この設定のいい加減さで、この作品が駄作にしかなりえないのは決まったも同然です。 強いてテーマを探すなら、兵器産業批判が込められていますが、こんなテキトーなストーリーで批判など展開されても、真面目に取る気になる人はいないでしょう。

  大友克洋さんは、つくづくアニメの才能が無いですなあ。 この人、アニメの表現技術に強烈な興味を抱いていて、新作毎にいろいろと新しい試みに手を出すんですが、そのほとんどが空振りしています。 元の話が面白くなければ、どんな技法を使っても無意味なのだという事に、いつまでたっても気付かないのです。 これ、劇場に見に行った人は、「金返せ!」「時間返せ!」と、はらわた煮えくり返った事でしょう。 こんな物でお金を取ろうなんざ、縁日の≪大板血≫より性質が悪いですぜ。


≪アップル・シード≫
  士郎正宗原作の2004年の劇場用アニメ。 基本的にCGアニメなんですが、人間の動きを体につけたセンサーで読み込んでキャラクターに移す、≪モーション・キャプチャー≫という技術を使った事で話題になりました。 他にも、CGの立体的な絵を手描きアニメ風に処理する技術も使われています。

  総合的な感想は、グッド。 ケチをつけるところが無いので、減点法なら100点です。 新技術を売り物にした作品には、ストーリーがいい加減な物が多いですが、これは例外的にしっかりした物語になっています。 一級のSFといっていいでしょう。 基本のSFアイデアは、≪ブレード・ランナー≫に似ています。 人間と人間を元に作られたバイオロイドの、社会内に於ける関係がテーマ。 結構複雑な構成の話なので、ストーリーだけでも充分楽しめます。

  しかしやはり、この作品の特徴は、手描きアニメ風CGと、その動きですな。 全く違和感が無いというと嘘になりますが、ぎこちなさの類は気にならず、むしろ、良い方向に違和感があります。 これ以前の作品では、こういう絵は全く見られませんでしたから、画期的といっていいですな。 ≪ファイナル・ファンタジー≫のCGアニメを見た方は、CG独特の不快な違和感を多少なりとも抱いたと思いますが、それがこの作品には無いのです。 時に、見惚れるくらい美しいさえと感じました。

  実写やアニメのSFを見慣れていて、ガン・アクション物にも抵抗が無い人にはお薦めの作品です。 おそらく、完成度の高さに、「はーっ・・・・」と、感心すると思います。 いや、ほんと。


≪イノセンス≫
  ≪攻殻機動隊≫の劇場版第二作。 ≪攻殻機動隊≫のアニメには、劇場版二作とテレビ・シリーズ二本がありますが、監督が異なっていて、劇場版は押井守監督、テレビ・シリーズは神山健治監督が作っています。 双方高い評価を得ているんですが、それぞれの監督の強い個性のせいで、少々ややこしい事が起きています。 同じ原作を元にしていて、登場人物を共有していながら、世界設定がズレているのです。 この≪イノセンス≫は、間違いなく劇場版第一作≪ゴースト・イン・ザ・シェル≫の続編ですが、テレビ・シリーズの方とは世界設定上・ストーリー上の関連がありません。 押井監督は押井監督で自分の好きなものを作り、神山監督は神山監督で自分の好む世界を作ってしまったわけですな。

  世界設定の違いで顕著なのは、劇場版では国名がぼかされている事です。 見手は、「近未来の北東アジアのどこか」という情報しか与えられません。 第一作・第二作ともにそうなっている所を見ると、故意にぼかしてあるのでしょう。 街並の様子は、どう見ても香港としか思えませんが、登場人物には日本人の名前が多く、強いて推測するなら、≪香港型中国文化の浸透が進んだ未来の日本≫という感じです。 テレビ・シリーズの方は白けるくらい日本そのまんまなので、押井監督が香港風街並に拘った事は非常に面白いです。

  細部の描き込みが第一作より更に緻密になっていて、思わず見入ってしまいます。 手描き部分もCG部分も、素晴らしいの一語に尽きます。 手描きアニメとしては技術の極北に到達したといっても過言ではありません。 誉めすぎか? いや、OKでしょう。 特にチャプター≪祝祭≫の辺りは出色。 主人公と犬の生活部分の描写も素晴らしい。 残酷な場面も多いですが、手慣れた監督らしく、適度に抑えられています。

  話の方は、社会を揺るがす大事件が起こるというわけではなく、刑事物の一エピソードに過ぎない地味な話です。 しかし、起承転結はしっかりしていますし、クライマックスの盛り上げ方も巧く、ストーリーの出来は申し分ありません。 もっとも、「血湧き肉踊り、物凄く面白い!」というほどではないので、期待のしすぎにご注意。 実は後半、セリフに格言・箴言の類が頻発するようになり、些か不自然になるんですが、まあ欠点とは言えないでしょう。 昨今の井の中の蛙的な若者には、このくらいの教養を見せ付けてやって、世界が広いのだという事を教えてやった方がよいです。

  総合評価で、100点。 「この作品に100点を付けられないのでは、批評なぞやめた方がいい」というくらい、堂々とした満点です。

2007/04/15

腕時計復活始末

  ここ数ヶ月、撮影の為に出かける事が多くなり、時計が無い事を不便に感じるようになりました。 休日の午後1時頃に家を出て、自転車でぶらぶら走り、「ああ、疲れたなあ。 そろそろ帰ろうか」と思って引き上げてくると、大体、夕飯前には家に着くんですが、帰って来るのが早すぎる場合もあり、そんな時には、「正確に時間が分かれば、もうちょっと効率よく動き回れるんだがなあ」と感じていたのです。

  なんで、時計が無いかというと、持っていた腕時計の電池が一年以上前に切れて、それっきりになっていたからです。 カメラにも時計機能が付いているんですが、どうも時計回路だけが壊れてしまったらしく、何度合わせてもすぐに狂うので、見なくなってしまいました。 ちなみに私は携帯電話は持っていません。

  腕時計は、10年くらい前に親戚のおじさんが亡くなった折、香典返しで貰ったギフトカタログの中から選んで手に入れたものです。 ギフトカタログというと、使っても使わなくてもいいような物ばかり選んでしまいがちですが、その時は、ちょっとお世話になったおじさんだったので、記念になるような物にしようと思い、腕時計を選んだ次第。 一応、≪オペル・ヴィータ≫のブランド・ウォッチなんですが、まあ、買えば3000円くらいの品物です。 使うのは遠出する時だけ。 今までにこれを着けて行った所というと、名古屋港水族館、浜松旅行、浜名湖花博、小田原ツーリングなどがあります。

  今までに2回電池を入れ替えたんですが、どうも自分で入れ替えた電池というのはもちが悪いようで、一年か二年くらいで切れてしまいます。 年に数回しか使わないので、電池の入れ替えが面倒で放置していたんですが、他に、革のベルトが一部ほつれてしまい、腕に付けるとぼろぼろ剥がれてきて鬱陶しいので、敬遠していたという事情もありました。

  さて、今回、腕時計を復活するにあたり、三つの選択肢を考えました。

1. オペル時計の電池を入れ替え、ベルトを付け替えて復活させる。
2. 百円ショップで安い腕時計を買う。
3. ネットショッピングで自動巻きの機械式時計を買う。

  ≪1≫は、芸が無いですが、最も堅実な道。 電池が400円しますが、ベルトは百円ショップで売っているので、費用は総計500円です。
  ≪2≫は、最も安く上がります。 本体が百円の上に、交換電池が2個百円で手に入るので、先々までお得。 ただし、百円ショップの腕時計にはいいデザインの物がありません。 Gショックもどきが大半で、大きすぎるのです。 また、ベルトがプラスチックだと切れ易いにも拘らず、プラベルトの交換品は百円ショップでは売っていないというジレンマがあります。
  ≪3≫は、電池代が今後一切掛かりませんが、本体が最も安い品でも、5000円くらいします。 実は、機械式時計のユーザーになる事にちょっと魅力を覚え、ネットで2・3時間調べてみたんですが、値段が高いだけでなく、重く、分厚くなってしまう事が分かりました。 オペル時計が厚さ6ミリなのに比べ、11ミリもあるというのですから、倍近いです。 ううむ、やはり昔の技術で作られた物には、昔なりの不便さがありますな。

  で、結局、最も無難な所で、≪1≫にする事にしました。 全く芸が無い。 今日、百円ショップへ行って、同じ幅、同じ色のベルトを買い、その次にホームセンターで交換電池を買い、家に帰って15分程度で取り替えて、あっさり腕時計が復活しました。 安いベルトですが、時計のデザインにピッタリ合ったのは助かりました。 どうせまたほつれてくると思いますが、百円ですから気軽に取り替えられます。 めでたしめでたし。

  そうそう、どうも、あまり知られていないようですが、腕時計用のボタン電池は、今ではホームセンターで売っています。 時計屋さんやホームセンターの時計コーナーで≪電池交換≫を頼むと1000円か2000円くらい取られますが、自分で換えれば電池代だけで済みます。 時計の裏蓋には、必ず一ヶ所隙間が作ってあるので、そこにマイナスの精密ドライバーを入れて、ぐいっと捻れば、簡単に蓋を外せます。 電池は嵌め込んであるだけなので、すぐに取れます。 そしたら、その電池を持ってホームセンターに行き、同じ記号ナンバーの電池を買って来て、入れ換えればいいわけです。 裏蓋は、合わせてパチンと押し込めばOK。 前述したように、幾分もちが悪いですが、元が安いですから、損はしないと思います。 ただし、防水タイプの場合、特殊な工具がないと裏蓋が取れませんから、これは出来ません。

2007/04/08

偉人とは

  4月7日土曜の夜の事ですが、TBSとフジテレビの二局で、それぞれ別個に、同じような企画の特別番組をやってました。 テーマは、≪歴史上の偉人≫。 一方は日本史のみなのに対し、もう一方は世界史全体を対象にしていましたが、日本の番組ですから、やはり日本の人物が多くなり、結果的にほぼ同じような顔ぶれが取り上げられていました。 いくら特番とはいえ、同じ時間帯に同じような番組をぶつけるとは、何となくお粗末ですな。 まあ、どちらも正味15分くらいしか見なかったので、あんまり文句を並べるのも図々しいですが。

  この種の番組は時折思い出したように作られますが、いつも感じるのは、「この人、本当に偉人なのか?」という疑念です。 ≪歴史上の有名人=偉人≫という事にしてしまっているようですが、この等式はもちろん間違いです。 大雑把過ぎ、というより、偉人とは正反対の人物が選に入る場合もありますから、完全な的外れというべきでしょう。 「歴史に名を残すくらいだから、当然、偉人なんだ」とは言えません。 極悪人でも名前は残ります。 ヒトラーは好例。

  偉人とは≪偉い人≫の事ですが、≪偉い人≫には自ずから定義が立てられます。 まず、何かしら人より優れた能力を持っている事。 次に、その能力を使って、世の中の役に立つような業績を残している事。 この二点をクリアしなければいけません。 人より優れた能力を持っている人はうじゃうじゃいますが、自分の利益の為だけに使っていたのでは、決して偉人とは言われません。 また、世の中の為になる業績を残していても、それが能力に因らず、偶然の成り行きでそうなったという場合、やはり偉人というのはおかしいと思います。 単に、その一件に関与していただけですな。

  ここで重要な事がもう一つあります。 ≪世の中の為になる業績≫の中身です。 本当に為になったのか、見究めが必要になるのです。 たとえば、≪明治維新≫ですが、ほとんどの日本人は、明治維新を偉業だと思い込んでいます。 故に、明治維新を成し遂げた維新志士や明治の元勲達に、例外無く偉人の称号を与えています。 しかし、その後の歴史を見てみれば、≪明治維新=偉業≫の等式は成り立たないのは明らかです。 明治維新によって作られた大日本帝国がどんな末路を辿ったかは、誰でも知っている事です。 侵略戦争を起こして滅亡してしまうような野蛮な国を作った連中が、偉人でありうるはずがありません。

  そもそも、明治政府の中心になった人物達は、幕末の攘夷主義者であり、攘夷主義とは、「外国人を皆殺しにせよ」という野蛮極まりない思想です。 明治維新のおかげで開国に成功したと思われていますが、それはとんでもない誤解で、開国しようと努力していたのは幕府の方です。 それを力ずくで止めようとしていた薩長土肥が、政権を取った途端に開国派に鞍替えしたのです。 もうむちゃくちゃ。 しかも、幕府が立てていた近代化メニューをパクって、一通りの近代化に成功すると、本来の自分達の目的である≪外国人皆殺し≫に着手し、身の程知らずの侵略戦争に乗り出します。 結果は不様な滅亡。 その間、たったの80年。 どう考えても、偉人が作った国とは言えないでしょう。

  業績が誤解されているというケースもあります。 たとえば、福沢諭吉ですが、ほとんどの日本人が、≪日本を代表する思想家≫だと思い込んでいます。 しかし、実際には、福沢が自分の頭で考えた思想というものは存在しません。 福沢は、欧米の近代思想を日本に紹介しただけです。 「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」は有名な言葉ですが、幕末の頃にヨーロッパで普通に聞かれた平等思想を受け売りしたに過ぎず、何ら特別な思想というわけではありません。 ちなみに、福沢当人は、娘の結婚相手の家柄に拘るような、当時日本のごく一般的な差別主義者だったらしいです。 強いて評価するなら、慶応大学を創立したので、≪教育家≫となら呼べますが、その程度の人物なら他にいくらでもいます。

  また、福沢が征韓論批判をした事を指して、反戦論者として肯定評価する学者もいますが、福沢は、「朝鮮は劣等な国で、征服する価値も無い」と言ったのであって、差別主義者でこそあれ、反戦思想など小指の先ほども持っていませんでした。 しかも、「朝鮮は劣等・・・」云々の言葉も、およそいい加減な知識に基づいて発しており、後年、朝鮮からの留学生に接した時には、その知性・教養の高さに驚嘆・感服したという記録が残っています。 つまり、最初は何も知らずに罵っていたわけで、そのあまりの軽薄さには、呆れてしまいます。 更に、朝鮮にも維新を起こさせようと目論んで、反政府組織に武器援助をするなど、今で言えば国際テロリストとしか思えないような行為もしています。 到底、偉人などという代物ではないのですが、実態を知らない人が多いので、文句無しの偉人と大誤解され、最高額紙幣の肖像にまで刷り込まれているわけです。

  豊臣秀吉に関しては、歴史ドラマでよく取り上げられるので、知識が広まり、「天下取りまではヒーロー。 晩年はキチガイジジイ」という評価がほぼ一般化しました。 現在、秀吉を偉人というと、人格を疑われる雰囲気があり、まずまず正確な評価がなされていると思います。 しかし、織田信長については、今でも≪日本史最大の偉人≫と考えている人が多いです。

  確かに、信長は他の戦国大名とは違っていましたが、スケールが大きかったというより、単なる≪新し物好き≫だったと見るべきでしょう。 天下統一の道筋をつけたと言いますが、信長存命中に手に入れた領土は、現在の東海三県と近畿北部だけです。 もともと京都に近い所に領地があった事が有利に働いたのは明らかで、他の大名より特別に強かったというわけではありません。 信長の関わった戦いで有名というと、桶狭間での今川討ちと、長篠での武田討ちくらいのもので、他は兵力差でゆとりがあった楽な戦いばかり。 名将などとはとても言えません。 まして途半ばで部下に殺されしまうなど、組織経営が出来ていない証拠で、むしろ無能をさらけ出していると言えるでしょう。

  その他、西洋かぶれ、キリスト教ミーハー、仏教徒虐殺など、マイナス・イメージを膨らませる要素はいくらでもありますが、信長に最も欠けているのは、統治者としての資質だと思います。 彼には、統一した天下をどう統治していくかに関して、ビジョンがありませんでした。 どんな国を作りたかったのかについては、一言さえも残していません。 ただただ、お山の大将になりたかっただけのようです。 もし信長が生き残って、天下統一を成し遂げたとしても、秀吉同様、キチガイジジイ化するのがオチだったんじゃないでしょうか。

  そもそも、人殺しの能力が高いというのは、ちっとも偉くはありません。 武将というのは、ただ強いだけでは、世の中の為に業績を残したとはいえないのであって、その後どうしたかが重要なのです。 源義経は、ヒーローとは言えても、偉人というのには違和感があるでしょう? その点、江戸時代260年の安寧の礎を築いた徳川家康は、完全に偉人の条件を満たしていますが、なぜか、あまり人気がありません。 晩年になってから活躍するので、年寄りのイメージがつきまとっているんでしょうか?

  政治家や武将を偉人と呼ぶのには、注意が必要です。 世界史では、アレキサンダーやチンギス・ハーンなどが最もいい例ですが、彼らがが征服戦争をしなくても、他の民族はちっとも困らなかった、むしろ征服戦争のおかげで被害だけ受けた事を考えると、むしろ極悪人と言った方がいいんじゃないでしょうか? まあ、きりがないので、政治家・武将の話はこのくらいにしておきましょう。


  画家や小説家、作曲家なども偉人の内に入れられています。 これは、スポーツ選手なども同じ事で、娯楽を提供する事は確かに世の中の為になります。 これらの人々は、マイナス評価になるような事はあまりしないので、偉人として取り上げやすいと思います。 芸術家には、人格的に欠陥があった人が少なくないですが、それをもって、芸術家として失格とは言いません。 むしろ、変人の方が優れた作品を残すという傾向があります。 ただ、社会に対する影響力が限られていますから、評価が小粒になるのは致し方ないところです。

  最後に、最も偉人らしいカテゴリーとして、科学者が挙げられます。 人類が他の動物と違う点は、ひとえに科学技術を発展させる能力の有無にあるので、科学の解明に貢献した人物が高い評価を得るのは当然の事ですな。 政治や戦争などは、誰がやろうが、やろうがやるまいが、何らかの形で自ずと経過していくものですが、科学技術の解明は、誰かがやらなければ先に進みません。 人類が人類である事にお墨付きを与えてくれる科学者達には、感謝しなければなりますまい。 ただ、芸術家同様、人格的には破綻した人が多いです。 ≪専門馬鹿≫などという言葉もあります。 そのくらい頭脳を特化しないと、科学の解明はできないという事なのでしょう。

  一方、私が全く偉人だと思っていないのは、宗教家です。 教祖・宗祖の類。 民衆の騙されやすい特性につけこんで、利用しているだけですな。 どんなに大宗教に膨らんだとしても、教祖の胡散臭さは消えません。 詐欺師でこそあれ、偉人などとは金輪際呼べません。 もっとも、当人達も、自分の事を≪人≫と言ってないので、偉人と呼ばれなくても、一向に気にしないと思いますが。

2007/04/01

敵は本能にあり

  なぜ世界から戦争が無くならないかについて、ちょっと根本原因を探ってみましょう。 ただし、この種の文章は、極端な意見に影響を受け易い人が読むと、誤解を与える危険性が非常に高いので、「自分はまだ若い」と思っている人は、読まないで下さい。

  平和を構築・維持する努力が多くの人々によって、真剣に且つ絶え間なく続けられているにも拘らず、なぜか世界から戦争が消える気配は一向に感じられません。 今でも毎年少なくとも数万の人々が戦争によって死亡し、その数倍の人々が人生をめちゃめちゃにさせられています。 これだけ多くの被害を出す行為なのに、なぜやめられないのでしょう?

  「戦争は好戦的な君主や独裁者が起こすもので、それらを倒せば戦争はなくなる」と思っている人は多いと思いますが、現実をよく見てみれば、そんな事は全くありません。 たとえば、アメリカですが、世界で最も進んだ民主主義国であるにも拘らず、戦争ばかり起こしています。 時の大統領が悪いせいではありません。 その大統領を選んだのは国民ですから、国民が戦争を起こしているわけです。

  アメリカだけを悪し様に言うのは不公平ですな。 戦前の日本でもドイツでも、戦争を起こした国では、国民の圧倒的多数が、その戦争を支持していました。 異論を唱えれば迫害されるからという理由で支持した者もいましたが、本心から、「やれ!やれ! ぶっ殺せ!」と血をたぎらせて応援していた者が大多数だったからこそ、反戦運動が力を持てなかったのだといえます。 戦争は、国の指導者だけでは起こせません。 国民の支持があって初めて実行に移せるのです。

  さて、人間はなぜ、戦争を支持するのでしょう? 考えられる答えは一つ。 ≪戦争が好きだから≫です。 本能的に他人が死ぬ事を願っているのです。 「そんな事はない! 何を言い出すんだ、お前は!」と頭に血が登った方は極めて正常。 それを承知の上で話を進めます。

  日常生活に於いて、恨みや憎しみがある相手を、「死ねばいい」と思う気持ちは誰にでもあると思いますが、別段恨み憎しみがなくても、自分に利益を齎さない人間であれば、「死んでも構わない」と思っているのではないでしょうか。 ニュースで殺人事件が報道されると、「ああ、殺された人はかわいそうに・・・」と思いますが、それは、自分が同じように被害者の立場になったら困るから言っているだけで、どこまで本気で同情しているかは大変疑わしいです。 それが証拠に、悲惨なニュースを聞いた直後に、バラエティー番組を見てゲタゲタ笑っているではありませんか。 つまりね、腹の底では、「他人なんざ、いくら死んでも構やしない」と思っているわけですよ。

  話を戦争に戻します。 外国同士が戦っている戦争の場合、何の良心の呵責も感じず、「好きにしろ」、「いくらでも殺しあえ」と思っている者がほとんどですが、人間には、自分の人生と関わりのない他人の死を喜ぶ本能があるのだと考えれば、この態度はすんなり納得できます。 実際問題として、一人の人間が一生の内に関わる他人の数は、数百人からせいぜい数千人ですから、それ以外の60億人余の人類は、自分にとって別にいなくても困らない存在だと考えたとしても不思議はありません。

  人間は蜂や蟻と同様、社会集団を作る動物ですが、その集団は、あくまで生きていく上で必要な範囲に限られます。 たとえば、蜂であっても、他の群の存続についてあれこれ気を配ったりはしません。 むしろ、他の群は生存競争のライバルであって、いない方が都合がいいのです。 人間が外国や異民族に対して取る態度と同じですな。 もっとも、蜂には他の群を襲うという本能はありませんが、それは、全体の個体数が自然界の法則により一定に保たれていて、争う必要が無いからでしょう。 天候不順などで食料が足りない年には、直接戦わないまでも、食料の取り合いによる生き残り競争が行なわれていると思われます。

  ここまでは、人間の本能について述べました。 いたいけな子供がテレビの戦争アニメを見て兵器に憧れる事に眉を顰めたり、温厚なお年寄りが時代劇の斬り合いを見て溜飲を下げる事に不可解さを感じたりする人は多いと思いますが、他人の死を望むのは人間の本能だと思えば、それらは何の不思議もない事と言えます。 しかし、それはあくまで本能の話。 人間は本能だけで生きているわけではありません。 たとえば、性欲は人間の本能ですが、誰でも普通は抑えて生活しています。 他人の死を望む本能も同じ事。 当然、抑えられるはずです。

  人類全体という大きな集団ではなく、国や民族程度の小さな集団内でなら、構成員同士の何らかの合意により、紛争を抑えるシステムが作られ、実際にそれが機能します。 たとえば、日本国内でも、戦国時代には各地域ごとにブロック化して戦争を繰り返していましたか、江戸幕府が成立すると、パタリと治まりました。 幕藩体制というシステムが出来て、戦争を起こさないという合意が成立したわけですな。 同じような例は、世界中にいくらでも見られます。 現代では、EUの統合がいい例です。 原理的には、この合意の枠をどんどん大きくしていけば、戦争は無くせるはずです。

  現実がなかなかその方向に進まないのは、「是が非でも戦争は避けなければならない」と考える者より、「妥協するよりは戦争をした方が良い」と考える者の方が多いからでしょう。 本能と理性がぶつかり合っていて、まだ本能を抑えきれない段階なんですな。 また、戦争が起こると得をする者も、軍人や兵器産業界などに非常に多く存在し、戦争根絶の大きな障碍になっています。 軍人や政治家は、よく≪大義≫を掲げて戦争を起こしたがりますが、大義など表向きの化けの皮に過ぎず、その中身は、他人の死を望む本能です。 もう、殺したくて殺したくてしょうがないのよ。 本能丸出しではガキと思われるので、意味も分からんくせに言葉で飾りをつけて目くらましを掛けるわけです。 また、あっさり騙されて、「やれ!やれ! ぶっ殺せ!」になってしまう愚か者が多いんですわ。

  「いつか戦争はなくなるのか?」と聞かれると、正直な所、返答に窮します。 強烈な本能を抑えるには、強力な理性が必要ですが、民衆の理性の向上には、どうしても限界があります。 みんながみんな知性的な人間にはなれないでしょう。 民衆が欲するのは、むしろ本能の開放の方です。 現在のアメリカを見れば分かるように、民主主義国家が力を持っている間は、理性が優位に立つ事は難しいと思われます。