2007/08/26

濫読筒井作品 ⑧

  図書館に予約を入れていた、≪巨船ベラス・レトラス≫が手に入りました。 長編という話でしたが、実際には中編程度の長さで、二日で読み終わりました。 うーむ、書くのは大変だと思いますが、読むのはあっという間ですな。 というわけで、今回は他の二冊の感想も含めて、少し長くなります。

≪悪と異端者≫ 95年
  発行は95年ですが、収録されている文章は89年から93年にかけて書かれた物。 小説ではなく、短い評論や随筆を集めたものです。 文学賞の選考委員をした時の書評も含まれています。 題名がギラギラとしているので、毒舌を期待してしまいますが、至って真面目な文章ばかりで、さほど面白くはありません。

  私はこの本を、恐らく、発行された直後頃に読んでいると思うんですが、内容をすっかり忘れていて、また借りて来てしまいました。 前にも書いたように、筒井さんの作品は、小説が面白すぎる為に、随筆や評論などは、どうしても一段落ちます。 書評に至っては、対象になっている作品を読んでいなければ理解できないので、もうお手上げです。

  これは筒井さんの書評に限りませんが、自分の好きな作家が誉めている作品だからといって、読んでみて面白いかというと、そうでない事の方が多いから、警戒が必要ですな。 得てして、人から勧められた本というのは、爆睡を誘うほどつまらない事が多いのは、誰でも経験があるのではないでしょうか。 ただ、現在、文学少年・文学青年をやっていて、勉強中だというのであれば、とにかく片っ端から読んでみるのは悪くないと思います。 つまらん作品はつまらん作品で、なぜつまらないのかという研究資料になりますから。


≪夢の木坂分岐点≫ 87年
  これも、十年位前に一度借りてきたんですが、半分くらい読んだところで、返却期限が来てしまい、それっきりになっていたもの。 確か、落ちぶれて食べ物も買えなくなった主人公が、同じ長屋に住む侏儒レスラーから赤飯を貰って貪り食う所まで読んだ記憶があります。 実験臭さがぷんぷんしている作品でした。 今回は最後まで読みましたが、「やはり、これは実験小説だなあ」と再認識しました。

  分かった風なふりをするのは癪なので正直に書きますが、この小説、ストーリーを追って読んでいると、すぐに何が何だか分からなくなります。 現実の世界と夢の世界が入り乱れ、更に夢の世界が幾通りもあるので、どれが本筋なのかはさっばり分かりません。 主人公を含む登場人物達の名前が変化していくのと共に、主人公の境遇もガラリと変わるんですが、何の前触れもなしにスイッチされるので、「今度は誰だ!」と仰天させられます。 いわゆる、「メモを取りながら読む」べき小説で、図式に書き出してみれば、もっとすっきり理解できると思うんですが、借りてきている本では、さすがにそこまで時間は割けません。

  常識的な小説ばかり読んで来た人がこの作品を読むと、頭がキリキリとねじ上げられ、途中で放り出したくなると思います。 その点、≪虚人たち≫に近いと言えますが、こちらは、「ああ、夢の話なんだな」と思えば、グジャグジャした世界に何となく納得できるので、≪虚人たち≫よりは、分かり易いかもしれません。

  筒井さんの小説でよく取り上げられる、巨大な日本家屋が、この作品の中でも頻繁に出てきます。 おそらく、筒井さん自身が、巨大な日本家屋の中を彷徨する夢をよく見るんでしょうな。 私はそういう夢を見ないのですが、これは世代の違いでしょうか。 ちなみに私は、生まれてこの方、日本家屋に住んでいるので、日本家屋に懐かしさを感じるという事はあまりありません。 むしろ、薄汚さ、暗ぼったさ、粗末さといった、マイナスのイメージが強いです。 おそらく、筒井さんの書く巨大日本家屋に対して抱く印象は、読者の世代によって、個人の経験によって、全く違うのでしょう。

  もしかしたら、この小説、「メモを取りながら」読むよりも、「夢を見るように」読んだ方が正解なのかもしれません。 たとえ、ストーリーの構成がはっきり分かった所で、さして重大な意味は無いと思われるからです。 夢というのは、本来こういう取り止めがないものですから、取り止めないままに受け取っても、問題ないでしょう。 もし、夢のように読む事が許されるのなら、この小説は大変面白いといえます。


≪巨船ベラス・レトラス≫ 07年
  筒井康隆さんの最新刊。 といっても、発行は今年の三月だそうで、出ていた事を私が知らなかっただけでした。 書下ろしではなく、05年から06年にかけて、雑誌に連載された物のようです。

  この作品、まぎれもなく小説なんですが、ストーリー主体ではなく、作者の主張を登場人物たちに代弁させるのが目的で書かれた小説です。 実験的な所もありますが、筒井さんが昔やっていた実験小説に比べるとおとなしいもので、普通の小説のように読んでも、さほど差し障りはありません。 終りの方が、ちょっと尻切れとんぼのような感じがしますが、実験小説だと思えば、それも問題にならないでしょう 

  内容は、昨今、混迷及び衰退著しい、文学界・出版界の事情を皮肉ったもの。 しかし、批判というほど痛烈なものではありません。 筒井さんの作品で≪毒≫が足りないというのは、ちょっと意外ですが、作者自身が、業界の中にいるので、特定の同業者や出版社を書きたい放題に扱き下ろすわけにも行かないのではないかと思われます。

  問題は面白いかどうかですが、業界話なので、文学や出版に興味がない人には楽しめないと思います。 しかも、取材や下調べなど、入念な準備をして書き始めた小説ではなく、作者の頭に入っている範囲内の情報で書き飛ばしている為、≪業界の裏事情≫というほど詳細を究めてはいません。 とはいえ、筒井さんがノって書いている文章ですから、面白くないという事は無いです。 いやあ、我ながら、苦しい批評ですな。 つまり、べた誉めするほど面白くは無く、貶すほどつまらなくもないのです。

  最大の収穫は、前半に出てくる、七尾霊兆という詩の大家が書いた前衛詩ですな。 これは面白いです。 面白過ぎて、爆笑なしに通過する事は何人にも不可能でしょう。 この詩を読む為だけでも、この小説を繙く価値はあります。 そして、この詩の面白さを100%堪能する為には、全編を読んで七尾氏の人と為りを知る必要があるのです。 うーむ、ふだん、言葉の力など大した事は無いと思っている私ですが、こういう詩を目にすると、認識を改めざるを得ませんな。 恐るべし、は行音・・・・・。


  あと、感想ではありませんが、作中に現在の文芸出版業界の新人の扱いに対する観察が出ていたので、それに関して少々。 数年前に、日本国内で最も有名な文学賞を、十代の女性が受賞するという出来事がありましたが、やはり、あれは、≪話題性≫が欲しかった出版業界側の都合で求められた事のようですな。 それ以降、若年の新人ばかり珍重される傾向が続いています。 ≪ケータイ小説≫などという、何の意味があるのかよく分からない代物まで登場しましたが、あれも、同じ都合で捻り出されたものでしょう。

  どの文学賞でも審査員は著名な作家達が務めるわけですが、賞の主催者である出版業界側から、「文芸市場を活性化して、読者の裾野を広げる為には、世間にインパクトを与える必要がある。 作品の質もさる事ながら、話題性がある人物に賞を出せないか」と要請されれば、審査員達も文芸市場から収入を得ている人達ですから、断れません。 そこで、少女作家だの、ケータイ作家だのが登場する事になったわけです。 これは、小説家を目指して何十年も努力してきた人達にとっては由々しき傾向で、「作品の出来よりも、作者にまつわる話題性の方が重視されるのでは、努力・研鑽など全く意味がなくなってしまうではないか!」と激怒するのは無理からぬ事。

  一方、出版業界側にしてみれば、作品の質より話題性の方が金になるとなれば、そちらを優先するのは、営利組織として当然の事です。 金が入らなければ、会社が潰れてしまうわけですから。 実際に少女作家の○○賞受賞は大変な話題になり、作品は前例ない数が売れたわけで、出版業界としては、≪話題性作戦≫は、久々に当てた大金星となったわけです。

  立場的には、出版社あっての作家ですから、出版業界側が、「今後も、話題性重視で行く」と決めれば、作家側は従うしかないわけですが、この方針、事によったら、文芸市場を破滅させてしまう危険性も孕んでいます。 現在の所、話題性重視といっても、質の方もそんなに悪いわけではなく、平均以上の水準を保っていますが、「話題性、話題性」と傾斜していけば、いずれ作品の質が劣化して行くのは目に見えています。 いくら話題性があっても、つまらない小説に金を払う読者などいないわけで、「なんだ、また少女小説家か。 今度は小学生? 人をなめるのも大概にしろよ」とて、小説全体が見限られてしまう恐れがあります。

  小説家を目指して努力している方々には身の毛もよだつ話だと思いますが、「顔が良くないとデビューできない」というのも、否定し難い事実のようです。 ≪巨船ベラス・レトラス≫の中にも、美少女の新人作家が、雑誌に写真が公表された途端に、引っ張り凧の売れっ子になるくだりが出てきますが、外見の良さも、≪話題性≫の重大な要素になっているという事でしょう。 ○本○張さんや、○上○さしさんなどは、現代だったら、どんなに優れた作品を書こうがデビューできなかった可能性あり。 しかし、そんな下らない理由で、実力満々の人達が世に出られなかったとしたら、それは業界全体の損失としか言いようがありますまい。

  思うに、≪話題性≫というのは、出版業界の最後の切り札だったのかもしれませんな。 切ってしまえば、もう後は無いのです。 現状を見ると、話題性が無い新人が世に出る余地はどんどん無くなっているわけですが、大急ぎで舵を切り直さないと、先に待っているのは業界全体の沈没だけではないかと思います。 とどのつまり、小説なんぞ無ければ無いで別段生活に支障は無いわけで、このまま行けば、日本に於いて小説という芸術ジャンルがそっくり消えてしまう事もありえます。

  オマケ。 ≪ケータイ小説≫の珍妙さについて、ちょっと補足しましょう。 「ケータイで小説を読む」というなら、技術革新の結果、新しい読書スタイルが生まれたわけですから、社会現象の一つとして評価できます。 ところが、≪ケータイ小説≫というのは、「ケータイで書いた小説」の事でして、それは作家個人の執筆様式に過ぎず、作品の質とは何の関係もありません。 「ケータイで小説が書ける」というのは、単なる≪特技≫であり、しかも、何ら注目するに当たらない、つまらない特技です。 「ビール瓶の栓を歯で抜く」とか、「蝋燭の火を鼻息で吹き消す」というのと、同レベル。 いや、基本的に根気さえあれば誰にでも真似が出来る事なので、それ以下ですな。 まあ、普通、キーボードが打てる人間なら、ケータイで小説を打ち込もうなんて迂遠な事は考えませんわなあ。 そんな事ですら、話題性になるのだから、程度の低さが分かろうというものです。

2007/08/19

濫読筒井作品 ⑦

  夏季連休は9日間あったのですが、前半4日間、毎日路上観察に出かけていたら、この猛暑で熱中症を貰ってしまい、後半の行動に制約が掛かる仕儀と相成りました。 やむなく、「読書でもするか・・・」という事で、図書館に行き、本を借りて来ました。 全部、筒井康隆さんの本です。 前にも書いたように、私は根っからの筒井ファンというわけではないのですが、もはや、読書で確実に楽しみたいと思ったら、筒井さんの本を読む以外、選択肢がないんですな。 最新刊の、≪巨船ベラス・レトラス≫があればよかったんですが、あいにく貸し出し中。 いつ戻ってくるか分かりませんが、一応、予約を入れておきました。 で、今までに、まだ読んでいなかった本を落穂拾いして来ました。


≪旅のラゴス≫ 86年
  実はこの本、前からある事を知っていたんですが、題名だけ見て、作者の旅行記だと思い込み、手を出さないでいたのです。 小説なら小説と背表紙に書いてくれればいいのに・・・・いや、それは理不尽な要望か。

  人類が移住した先の惑星で、数千年の間に衰退した文明を、保存されていた書物から得た知識で復元しようとする話。 と書くと、アメリカのSF映画のようなストーリーを連想するでしょうが、さにあらず。 主人公が、はるか遠い大陸にある書物の保存施設まで赴き、そこで何年もかけて本を読み、学んだ内容を伝える為に再び自分の故郷に帰るという長旅の描写が中心で、紀行小説とでも言うべき形式になっています。 これ、何かに似ていると思ったら、≪西遊記≫ですな。

  旅の部分も面白いのですが、やはり知的好奇心を最も刺激されるのは、故郷で知識を伝えるくだりです。 ≪虚航船団≫の第二章と通じるような文明概論になっていて、読んでいてワクワクします。 そういえば、書かれた時期は、ほぼ一致していますな。 たぶん、この時期の作者は、この種の考えで頭が満杯だったのでしょう。

  書物の保存施設で勉強を始める部分で、≪思想・哲学書から読み始めたが、まったく分からず、一度放り出して、歴史や科学史から入り直した≫という一文には、深く頷かずにはいられません。 実際に古人の名著を渉猟しようとすると、どうにも歯が立たない分野というのはあるものです。 分かる所から徐々に攻めて行くと、最終的には、分からなかった所まで分かるようになります。 知の仕組みは、何だか、ジグソー・パズルに似ていますな。


≪朝のガスパール≫ 92年
  16年前に朝日新聞に、新聞小説として連載されたもの。 読者の投書やパソコン通信の意見を取り入れながら話を進めるという企画で、当時は結構騒がれました。 私は連載当時に何回分か読んでいて、 その時あまり良い印象がなかった為に、単行本化されてからも、「なんだ、≪朝のガスパール≫か」という感じで敬遠してきたのですが、今回は腹を括って読んでみる事にしました。

  悪い印象があったのは、新聞小説のブツ切りが読みにくかったのと、パソコン通信の意見が過激且つ低劣で、不愉快になってしまったからですが、この度、通して読んでみた所、読まず嫌いであった事が分かりました。 この頃の筒井さんは、様々な実験小説を盛んに世に問うていたわけですが、事によったら、その中で確実に成功したといったら、この≪朝のガスパール≫だけなんじゃないでしょうか? 

  異星での戦闘場面から始まるので宇宙SFかと思いきや、それがPCゲームの中の話だったり、ゲームに嵌まっているのが企業の重役達だったり、その重役の妻達が株で儲けてパーティーに明け暮れていたりと、いくつもの交わらぬ世界が平行して物語が進みます。 この複雑さがとっつき難い印象を与えるんですが、よくよく読んでみれば、それほど複雑怪奇というわけではなく、物語の本筋は、サラリーマン小説のカテゴリーに属するもので、至っておとなしいものです。 筒井さんの短編に、≪ウイークエンド・シャッフル≫というのがありますが、あの世界を拡大した物が基本部分で、宇宙SFやゲーム・その他は、尾鰭だと思えば、構成がすっきり理解できます。

  問題は、やはり、パソコン通信の意見です。 所々に、楽屋落ちのような形で、読者の投書やパソコン通信の意見が紹介されるのですが、読者の投書の方は常識を弁えているのに対し、パソコン通信の書き込みの方は、罵詈雑言が荒れ狂っており、読んでいて胸が悪くなります。 ネット時代になってからも、公共掲示板などでは、人間のクズどもが勝手放題に他人を扱き下ろしていますが、パソコン通信の頃から、ろくでもない人間はうじゃうじゃいたんですねえ。 手紙と違って、気軽に書けるから、何を書いても許されると思ってるんでしょうな。 この部分、今回読み直しても、やはり気分が悪くなり、人間の理性の限界を見たような気になりました。

  ただ、この不愉快な部分も含めて、「読者の意見を取り入れながら、物語を進行させる」という実験は、見事に成功しています。 パソ通のキチガイどもに、これだけ不愉快な思いをさせられながらも、最後まで実験の方針を貫いているのはさすがです。 物語そのものの面白さより、実験の面白さの方が上回っているという点で、この実験は成功していると思うのです。 同じ実験小説でも、≪残像に口紅を≫とは次元が違う成果が得られたと見るべきでしょう。 こういう実験なら、またやって欲しいと思いますが、話に乗って来る新聞があったとしても、≪朝のガスパール≫を読んでいる読者の方が萎縮してしまって、優等生的な意見しか寄せて来ないかもしれませんな。


≪細菌人間≫ 00年
  この本は、1960年代に書かれた少年向けSFの内、単行本や文庫に未収録だった作品を集めて、2000年に発行された物です。 少年サンデーに掲載された物が二本ありますが、その頃の漫画誌は、小説も載せていたんですね。

  いずれも、アイデア、構成ともにしっかりしていて、読み始めると終わりまで一気に走り抜けてしまいます。 ただ、あくまで少年向けであり、作家としての勝負作品ではないので、筒井さんらしさはほとんどありません。 他のSF作家の作品集だといっても、分からないんじゃないかと思います。 もっとも、筒井さんの作品だからこそ、こういう形で纏め直して出版できるわけですが。


≪パプリカ アニメ版≫
  これは、小説ではないんですが、DVDを借りてきたので、ついでに感想を書いておきます。

  一言で言って、こりゃ良くないですな。 確か、去年の封切り前に、ベネチア映画祭に出品して、観客の受けは良かったものの、賞は取れなかったというニュースを読みましたが、いくらヨーロッパの映画人に変わり者が多いといっても、これに賞は出せないでしょう。

  原作は決してつまらない話ではなく、読み応えたっぷりの本格長編SFです。 しかし、それはあくまで小説の話。 アニメにすると聞いた時、「パプリカは、アニメのヒロインとしては、地味すぎるのではなかろうか?」と危惧したとおり、掴み所が無い不完全燃焼なヒロインになっていました。 物語は、原作より簡素化されていましたが、一番ゴチャゴチャした部分だけ抜き出してあるので、原作を読んでいない見手は、とうてい話の設定が呑み込めないと思います。

  ネット上の批評を見ると、アニメ・ファン達が涙ぐましい努力で必死の分析を試みていますが、このアニメだけ見て、≪パプリカ≫の世界を理解するのは不可能です。 しかし、アニメ・ファンの読書能力では、あの長い小説を読みきれないと思いますから、結局、「分からん話」で突き放されてしまう事でしょう。 原作を読んでいる者だけが、部分的に楽しめるというアニメなのです。

  このアニメを見ていると、今敏監督がいまひとつ乗り気でないのが、そこかしこに見て取れます。 パプリカがアニメ・ヒロイン向けでない為に、感情移入が出来ずじまいだったのではありますまいか? 時間は90分ですが、120分くらいまでゆとりを持って、パプリカが夢探偵をするエピソードを増やせば、もっと親しみ易いヒロインになったと思います。

  アニメ・ファンとして細かい事を言わせてもらえば、キャラクター・デザインも微妙。 デッサンは極上レベルにうまいのですが、些か写実的過ぎて、却って弊害が出ています。 パプリカが妖精になって飛ぶ場面がありますが、羽根が可愛らしいのに対し、体つきが大人の女そのもので、どうにもアンバランスなのです。 あくまで微妙な所で、おかしいと言われなければ気にしない人も多いと思いますが、もうちょっとデフォルメしてしまっても良かったんじゃないでしょうか。

  貶してばかりいますが、オープニングやパプリカが空を落下するシーン、それにエンディングの音楽などは大変宜しいです。 この音楽は、麻薬並の魅力がありますな。

2007/08/12

神社の神様

  歳を取って来ると・・・・というか、人によっては若いうちから・・・・いやいや、子供の頃からそうである人もいると思いますが、神に祈りたくなる事がよくあります。 自分の力ではどうにもならない窮地に陥った時、思わず、「神様、助けて下さい!」という言葉が頭の中に浮かんでくるのです。

  しかし、そういう時に念頭に浮かべる≪神様≫は、非常に漠然としたものです。 ≪神≫のイメージは、これまた人によって全然違うと思いますが、私の場合、基本的にその辺にいる日本人であるところへ加え、幼稚園がプロテスタントの教会だったので、神様というと、神社の神様と、キリスト教の神様の二つが思い浮かびます。 ただ、この両者をはっきり区別しているわけではありません。

  他に、「南無阿弥陀仏」や「南無妙法蓮華経」を口にする事もあります。 どれを信じているのか自分でもよく分かりません。 どれも信じておらず、「苦しい時の神(仏)頼み」だけしているというのが実情でしょうか。 というわけで、個人的な宗教観について書こうと思うのですが、一遍に全部書くのは大変なので、今回は神道だけを取り上げようと思います。


  神道は多神教なので、神様はたくさんいるわけですが、その中のいずかを特に信仰しているという事はありません。 うちの近所の神社に祀られているのは≪木花之開耶姫≫だそうですが、そんな事を知ったのは、大人になって随分経ってからの事です。 子供の頃に出来上がったイメージというのは強烈なもので、今でも、その神社の神様に、「神様」以外の名前があるという気はしません。 そもそも、私が神社の神様をイメージする時、出てくる姿は、神社の≪建物≫であって、人間の似姿ではありません。 ≪神様=神社≫なのです。

  ちなみに私は、≪さわらぬ神に祟り無し≫という諺を知ってからこっち、よその神社でお参りをした事は一度もありません。 神社の境内は、よそ者でも無許可では入れるありがたい休憩所なので、よく立ち寄りますが、よその神社では、拍手も打ちませんし、賽銭も入れません。 伊勢神宮にも行きましたが、見るだけで帰って来ました。 観光で神社に行くと、必ずお参りする人も多いと思いますが、やめた方がいいです。 多神教の神話に於いては、神様同士は仲が悪い事の方が多いですから、他の神に対する嫉妬から祟られる恐れがあります。 おそろしやおそろしや・・・・。 もっとも、形だけのお参りで、本気で信じてないのなら、話は別ですが。

  うちは三代続いている家なので、神棚があります。 正月には、しめ縄を換え、灯明を上げ、供え物をします。 でも、私が神棚を拝む事はまずありません。 私の父も、仏壇に手を合わせている姿は見ますが、神棚に拍手を打っている姿は一度も見た事がありません。 神棚の小さな社には、≪天照大神≫の札が収められていますが、これまた、具体的なイメージが湧かず、そこが神道最高位の女神様に繋がっている端末であるという気は全くしません。 神棚と神社では格が違うのは明らかで、それが証拠に、家の解体現場に行くと、何の遠慮も無く神棚が壊されているのをよく見ます。 神棚は壊しても構わないものなんですな。

  それに対し、神社となると、ちょっとした祠のような物でも、壊すとなると大掛かりな祭事が必要になります。 逆に言うと、壊せないものは作らない方がいいとも言えます。 ミニ神社である祠は個人の裁量で作る事が可能ですが、作ったが最後、壊せません。 江戸後期に、稲荷信仰がブームになった時、自宅の敷地内に稲荷祠を作る家が膨大な数に上りましたが、今でもそれがそのまま残っているのを見ると、痛々しささえ感じます。 今や、お稲荷さんを信じている人がそんなにいるとは思えませんが、邪魔だと思っても壊せないんですな。 ちなみに、もし稲荷祠が家にあるという人達が、すべてお稲荷さんを篤く信仰しているとして、彼らが政党を作った場合、衆参両院で第一党になる事は間違いありません。 それほど、稲荷祠の数は膨大なものです。


  話を戻しましょう。 神社の神様ですが、私の感覚では、それほど大きな力を持っているような感じがしません。 世界平和を祈るとか、人類文明の発展を願うとか、そんな大きな事柄を、近所の神社に期待する人はあまりいないんじゃないでしょうか? せいぜい、家内安全とか、商売繁盛とか、無病息災とか、そんなところでしょう。 「神社の神様に出来る事は、その程度だろう」とみんな思ってるんですな。 これは、もっと大きな神社でも同じ事で、たとえ伊勢神宮まで行ったとしても、祈りの対象はせいぜい日本の国内止まり。 世界の事を祈る人もいるでしょうが、心のどこかで、お門違いを感じているはずです。 神道の土着性は否定し難いところです。

  そういえば、宇宙ロケットを打ち上げる際に、種子島宇宙センターの近くにある神社に関係者が参っているそうですが、ああいう事をしているのは日本だけだと思います。 宗教を基本的に否定しているソ連や中国はもちろんそんな事はしませんし、ロシア、アメリカ、欧州でも、公の機関が関わる事ですから、特定宗教の施設に祈願に行くという事はしていないと思います。 日本人は、打ち上げ関係者が神社に参っているニュースを見ても、何とも思いませんが、本来、近代科学は神の否定から始まっているので、科学技術の最先端である宇宙ロケットの打ち上げに神頼みをしている光景は、奇怪と言えば奇怪です。 大体、神社の神様では、宇宙は管轄外でしょうが。 参られても苦笑いしかできませんぜ。

  奇妙といえば、最近になって耳にするようになった神道関係の奇妙な説があります。 「日本では、死んだらみんな神になる」という奴です。 首相の某神社参拝が国際問題になった頃に言われ始め、「外国人には分からないだろうが、日本人は死んだらみんな神になるのだから、神社に祀られるのは当然の事だ」という論調で、頻繁に使われていました。 政治家や自称識者達が、まことしやかに、「そんな事、日本では常識」といった口調で言っていたので、「そんなものなのか」と納得してしまった人も多いと思いますが、そんな説は、嘘うそ大鷽なのであって、日本には、「死んだら神になる」なんて習慣は存在しません。 「死んだら、みんな仏になる」なら分かりますが、神にはならないでしょうが! なりませんよ! 勝手に伝統を捏造するなっつーの!

  死んだ後、最寄の神社に行って、神主さんに向かって、「うちの父が亡くなりましたから、神社に祀って下さい」なんて言いますか? 「いやあ、当神社では、そういう事は受け付けておりません」と丁重且つ薄ら笑いを添えて追い返されるのがオチです。 そもそも、日本では、神道は葬儀に関わらないのが普通です。 家が神道しかやっていないという人の場合も、お墓は仏教風に作ります。 神道の墓の事を、≪奥都城(おくつき)≫と言いますが、現物を見た事がある人はほとんどいないんじゃないでしょうか。 私は、火葬場附属の共同墓地で一つだけ見た事がありますが、≪○○家奥都城≫と彫ってあるだけで、他は、墓石、カロート、花立て、線香置きに至るまで、仏教の墓と全く同じでした。 神道に墓の様式の規定が無いので、仏教に倣うしかないのです。

  江戸時代の中頃までは、仏教が伝播していない地域で、墓を神社の境内に作る風習が若干あったらしいですが、この実例を探すのは結構骨だと思います。 また、そういう地域でも、単に他に場所が無いから神社に葬ったに過ぎず、死者が神になると考えていたわけではありませんでした。 もし、死者が神になるのだとすれば、各家庭の神棚に祀られるのは、何よりもまず先祖の神でなければならないはずですが、先祖を神として祀っている家庭など聞いた事がありません。

  自分の身の周りの現実を観察し、自分の頭で判断すれば、「死んだら、みんな神になる」などという習慣が存在しない事はすぐに分かるはずなんですが、なにせ自分で考えるのが嫌いな民族性なので、右倣えで疑いもせずに信じてしまったんですな。 なんでこんな珍説が登場したかというと、恐らく、「死んだら、みんな仏になる」という仏教の説を土台にして、「仏も神も似たようなもの」と日本人らしく適当に混同し、「死んだら、みんな神になる」を捏ね上げてしまったのでしょう。 中には、死んで神になった人間の例として、≪東照大権現・徳川家康≫を持ち出す輩もいましたが、明らかに特殊な例であり、日本の一般的風習とはいえません。 明治以降の政治家・軍人・戦死者の神格化に至っては、政府が軍国主義の政策として誘導したものであって、これまた日本の風習とは言えません。

  今でも、各地の神社に行くと、境内に、異様に巨大な≪忠魂碑≫などが建っていますが、私の目から見ると、神社の神様を土足で足蹴にしているようにしか見えません。 神社は人の霊を祀る場所ではないですし、ましてや、人を神として祀るなど、不遜もいいところです。 ああいう事を思いついた奴らというのは、やはり、神を信じてないから、神罰を怖いと思わなかったんでしょうねえ。


  私は、写真を撮るのが趣味なので、ついでにあちこちの神社を見て回っているんですが、神社の維持管理の状態は、地域によってバラバラです。 観光客が来るほどの大きな神社では、整備が行き届いていますが、氏子が出し合った資金で細々と管理されているような小さな神社は、押し並べて、衰退、崩壊の方向に向かっているように見えます。 無くなりこそしませんが、荒れる一方なのです。 まず、社殿が壊れる。 だから直すんですが、宮大工を頼むと金が掛かるので、トタン波板で直す。 建て替える時は、腐り難いように、鉄筋コンクリートで造る。 入口や窓にはアルミ・サッシを入れる。 氏子当人達は、「立派になった」などと言っていますが、鉄コンの社殿なんざ、歴史も伝統もあったもんじゃありません。 ただの箱ですがな。 そういう私の家の近所の神社も、とうの昔から鉄コンなんですが・・・・。

  「日本人は古来、鎮守の森を守り育ててきた」なんて、真っ赤な大嘘ですぜ。 ざっくざっく切り倒して更地にし、建売住宅建てて分譲しまくってます。 あの行為には、「神社なんて、社殿と参道が残ってりゃ充分だ」という本音が形となって顕れていますな。 つい最近、「木が大きくなりすぎて鬱陶しい」とて、鎮守の森の木を一本残らず丸坊主に刈ってしまった神社を見ましたが、ああなるともはや、神を侮辱するのが目的としか思えません。 いっそ、解体して、全部分譲してしまった方が、さばさばするんじゃないかと思います。 それと、神社の境内を児童公園にするのも、どうかと思いますねえ。 神社で子供が遊ぶ事自体は全く問題ないと思いますが、森を切り開いて遊具を設置したり、野球場を作ってしまったりするのは、やり過ぎでしょう。 もはや、神社とはいえませんな。 子供はそんなもの無くたって、自分で遊びを見つけます。 誰が、ああいう余計な事を思いつくのかねえ?

  これだけ不遜な事をしていながら、神の祟りだけは怖いらしいのは、奇妙な心理ですな。 鳥居や灯篭、狛犬などを新しく作った時、古い物を処分せず、境内の隅にゴロゴロ転がしておくのは、下手に壊して祟られたら嫌だからでしょう。 一体、信じているのか信じていないのか、どっちなんだね? いや、ことこの問題に関しては、私も分からないんですがね。 神社の神様を全く信じていないわけではないんですよ。 でも、身命を投げ打っておすがりするほど信じてはいないんですよ。


  ちょっと、オマケですが、もう15年位前、私の家の隣の賃貸マンションに、夜中まで騒音を立てる住人がいました。 普通の3LDKくらいの部屋を、マルチ商法の事務所に使っていて、勧誘してきた会員の教育セミナーを夜中まで行なうという、メチャクチャな奴らでした。 昔ながらの住宅地で、店一軒無いようなところに、毎夜10人から20人の会員達が集まって来て、車を道路に違法駐車し、部屋の窓を開け放って、深夜までがやがやと騒音を立てるのです。 あまりひどいので、近所中ノイローゼになりつつありました。 大家が意気地の無いド素人で、強い注意が出来ず、半年近くもそんな状態が続きました。 警察に通報する人も出てきましたが、とことんふてぶてしい奴らで、全く効果なし。 私もほとほとうんざりして、「こうなりゃ、神頼みしかないな」と腹を決め、紙に、「○○というマンションの○号室に、近所を騒がしている住人がいます。 どうか追い出して下さい」と書き、500円玉を包んで、近所の神社の賽銭箱に入れて見ました。

  それから一ヶ月くらいでしたかねえ、そいつらが出て行ったのは。 あまり覿面に効果が顕れたので、ちょっと怖かったくらいです。 実際には、私が書いた文面を読んだのは、社務所の管理人だったと思いますが、その人もびっくりしたことでしょう。 普通、神様には、自分が良くなる事を願うもので、他人に祟る事を願う奴はいませんからね。 ただ、あまりにも効いたので、「これはもう、一生分のお願いを使ってしまったな」と思って、それ以降はその種の事はしていません。 やはり、神社の神様には、家内安全、無病息災など、当たり障りの無い事を祈るくらいがちょうどよいと思います。

2007/08/05

論理と野蛮人

  8月4日に、教育テレビで≪土曜かきこみTVスペシャル~戦争と平和を考えよう。 太平洋戦争のことをどう思う?≫という番組をやっていました。 内容は題名そのままで、戦争と平和に関する中学生数十人の意見を拾ったもの。 まとめてあるわけではなく、バラバラのまま並べていました。 ふだん、こういう番組は見ないんですが、チャンネルを泳がしていたら、ちょこっと見てしまったので、仕方なく、後ろ3分の2ほどを見ました。

  で、感想ですが、「こりゃ駄目だな」と思いましたよ。 いや、何かを期待していたわけではないので、がっかりしたわけではありませんが、「やはり、野蛮人は野蛮人だ」と再認識させられた次第です。 情けなくも興味深いのが、この中学生達が、マスコミや学校教育の影響をモロに受け、他人の受け売りばかり口にしていた点です。 平和派は、平和主義教師から刷り込まれた事をそのまま喋っていますし、戦争派は、ここ数年巷に溢れている、キチガイ戦争論本を忠実にパクっています。 どちらも、その枠から出られないんですな。 それでいて、多くの中学生が、子供の立場から大人批判を繰り広げていましたが、てめえらが大人の意見をパクってたんじゃ、目糞鼻糞だわな。

  なぜ、自分の頭で考えないのか? それはたぶん、能力的に考えられないからでしょう。 物事を考えるには、材料と、それを組み立てる論理が必要ですが、材料の方はともかく、日本人には論理性が決定的に欠けています。 その甚だしさは、「苦手」などという程度の問題ではなく、「全く分からん」という次元の話です。

  ≪論理を理解できるか否か≫というのがどういう事かというと、最も単純なものでは、≪犬が西向きゃ、尾は東≫が分かるかどうかという事です。 単純過ぎて馬鹿馬鹿しいと思うかもしれませんが、日本人同士がやっている≪議論もどき≫を聞いていると、この基本中の基本すら弁えていない輩がうようよいて、仰天且つ失笑してしまいます。 明らかに相手側の言っている事に理があっても、それを認めないんですな。 「相手が正しいと分かっていても、認めたくないから認めない」という場合もありますが、「相手が言っている事が正しいか正しくないか分からないが、とにかく自分の意見と違うから認めない」という、より幼稚な動機の方が多いです。

  ≪論理≫とは、議論を行なう上での基本ルールであり、論理を無視した議論などは、もはや議論とは言えず、単なる言い争いでしかないのですが、日本人のほとんどすべてが、論理の意味すら知らないので(≪論理≫と≪理論≫の区別がつかない、地獄行きの低レベルも珍しくない)、そんな最低限の事にも気付かないのです。 一般人だけでなく、自称識者達も同じ事。 テレビの討論番組を見ても、日本人同士の議論は、議論の態を成していません。 ただ言い合っているだけの、口喧嘩ですな。 また司会も議論のルールなんぞとんと分かっていないので、一見論戦を捌いているかのように見えて、実はただ適当に発言の順番を割り振っているだけです。 民族全体に及ぶ欠陥だから、出演者はもちろん、スタッフも視聴者も誰一人おかしな事をやっている事に気付きません。

  本来、≪議論≫とは、「互いの意見の違いを埋める為に、妥協点を探す」、もしくは、「公の場でそれぞれが意見を言い合い、聴衆の支持が多かったものを結論にする」といった、意思統一を目的として行なわれる社会的手段なのですが、日本人の行なう≪議論もどき≫は、相手を言い負かす事が目的であって、結論など最初から求めていません。 そもそも、日本人は議論で物事を決めたりしないのです。 前にも書きましたが、≪和の心≫という奴で、自分より偉い者・強い者に服従する習性がある為に、下位者が上位者の意見に無条件に従うというのが、日本人の物事の決め方なのです。 学校でも職場でも、身の周りの人間関係を見てみれば、その例をいくらでも発見できると思います。 正しいか間違っているかなど関係なし。 とにかく、上位者が決めた事が最終決定となるのです。

  議論の必要が無かった為に、議論の習慣ができず、議論の基本ルールである論理の概念も発達しなかった。 その結果、こういう、論理を理解できない民族が出来上がったんですな。 いやいや、こういう言い方をすると、論理を理解できないのも発達の結果の一形態と取られそうですから、誤解されないように付け加えておきますが、日本人に限らず、野蛮民族はみんな同じように、論理を理解できません。 ≪長老≫、もしくは、≪勇者≫の言う事が絶対的で、下位者はそれに従います。 民族の内部ではそれで纏まりますが、他民族など、上位下位の序列が通用しない相手と接触すると、どうしていいかわからず、「従うよりは従わせろ」と本能むき出しになり、口より先に手が出ます。 私が日本人を野蛮人だと何度も書いているのは、別に理由も無く罵っているわけではなく、野蛮人としての特徴を保持しているからです。

  ちなみに、≪野蛮≫と≪未開≫は必ずしも一致しません。 未開であっても、論理を理解できる民族は存在します。 彼らは温厚で、他民族との折衝に於いては、まず話し合いをします。 侵略などは、悪い事だと思っているので、最初から考えもしません。 動物と人間の区別も付かず、「弱肉強食」などと抜かして、隙あらば外国を攻めようとする日本人とはイメージが正反対ですな。 即ち、日本人は、「未開ではないが、野蛮である」というわけです。 だけど、こういう細かな分類を理解するのも、野蛮人には荷が重いでしょう。 未開で尚且つ野蛮であれば、開化とともに野蛮性が消えていく期待も出来ますが、野蛮性を残したまま先進国になってしまったのは、悲劇としかいいようがありません。 治らんでよ、マジで。

  論理が分からないと、単に議論が出来ないばかりでなく、自分の頭で考えを組み立てて行く事が出来ません。 日本人に思想家・哲学者がいないのは、そのせいです。 宗教哲学も、神道はベタなアニミズムで、哲学どころか、教義さえありません。 外来宗教も、論理が読み取れないので、まともに理解している者は、ほんの一握りです。 1500年も仏教やってるのに、教義を知らないんだから、凄いよね。 それでいて、外国人に「宗教は何ですか?」と訊かれると、「仏教です」とよどみ無く答えるから、またまた凄い。 「仏教とはどんな宗教ですか?」と訊かれて、ようやく、自分が仏教の教義を何も知らない事に気付くわけですが、そんな経験をせず、知らぬが仏で一生を終える人の方が圧倒的に多いでしょう。

  以前、≪戦争適性ゼロ≫という文で、「日本人は合理的判断ができないので、近代戦争には向かない」と書きましたが、それ以前に、侵略戦争がいい事か悪い事かも判断できないのですから、もうどうしようもないですな。 この欠陥、戦争や外交だけでなく、ありとあらゆる分野で発揮されますから、始末が悪いです。 同じ事を何度も繰り返す、足し算的な努力を続ければいい状況を除き、合理的判断力を要求される重要な場面では、すべて悪い方向に働きます。 世界史を見ると、論理を理解できない野蛮人は、かなり先進化しても、結局は文明国に亡ぼされるか、吸収されるか、もしくは、民族性の根本的変化を余儀なくされます。 日本人も例外ではないでしょう。 論理が理解できない為に、論理が理解できない事を、論理的に理解できないわけで、自力では対策の施しようがないです。


  オマケ。 日本人がネット上でやっている≪議論もどき≫ですが、まず近づかないのが第一。 そんな事やっているのは馬鹿ばかりだと、きっぱり断定して構いません。 馬鹿というより、クズというべきか。 とにかく、近づくと脳味噌の腐敗菌がうつるので、距離を置くに如かずです。 やむなく難癖をふっかけられた場合、無視すると、馬鹿はすぐ付け上がって勝ち誇るので、世直しをするつもりで全力で叩き潰してやりましょう。 方法は簡単です。 相手のいう事を、すべて否定してやれば宜しい。 なにせ、論理が分からないので、屁理屈ばかり並べてきますから、こちらも遠慮する事は無い、屁理屈をドシドシ繰り出して、全部引っ繰り返してやるのです。

  相手は、自分の事をいっぱしの論客だと自惚れていますから、「自分の言う事には、説得力がある」と信じて込んでいます。 それを全部否定してやると、目立ってうろたえます。 不様で面白いですよ。 そんなやり取りを続けていると、相手は痺れを切らして、「この点だけは認めてもらえますよね」などと、部分的に合意を求めてくるので、それも否定します。 とにかく、全部否定しまくって、最後に、「あなたの言っている事は、全て間違っています。 それに、どこかで聞いたような話ばかりですが、何か、ネタ本でも書き写しているのですか?」と図星を指してやりましょう。 そうすると、「これ以上話しても無駄なようですね。 これは、私の最後の書きこみです」などと、利いた風な捨て台詞を残して逃げて行きますから、そのままにせず、「あなたのような間違いだらけの考え方では、誰と話しても無駄だと思いますよ。 自室に篭って壁に独り言でも呟いていた方が世の為になるでしょう」とでも、とどめをさしてやれば、もう二度と来ないし、他人の怖さを思い知って、ネット上で論戦をしようなどと考えなくなるでしょう。 めでたし、めでたし。