問題の発生と解決
この世の中で起こる出来事というのは、突き詰めると、≪問題の発生≫と≪問題の解決≫の二局面に分ける事が出来ると思います。 たとえば、殺人事件の場合、殺人が起こるのが問題の発生で、犯人が捕まって罰を下されるのが問題の解決という事になります。 更に細かく見ると、犯人の心の中に動機が生まれるのが問題の発生、犯行が行なわれるのが問題の解決。 警察の立場から見れば、犯行の報告が入るのが問題の発生、犯人を逮捕して送検するのが問題の解決というように、いくつもの≪発生と解決≫が組み合わさって、出来事が構成されているわけです。
この二つの局面は必ずセットになっていて、発生した問題は、どんなに大きな事であろうが、どんなに複雑に錯綜していようが、どんなに長い時間がかかろうが、必ず解決します。 場合によっては、解決までに何百年・何千年もかかる事もありますが、解決しないという事はないわけです。
なぜ、発生には解決が必ず付随するかというと、その問題に関わる人間、もしくは意思を持った生物が、問題を解決しようとするからです。 もし、意思を持った者が関わらなければ、解決はされません。 逆に言うと、解決されないような出来事は、問題と見做されないのです。 たとえば、月の裏側に小さな隕石が衝突して、新しいクレーターが出来たとします。 そこには、人間はもちろん、意思を持った生物は一切存在しません。 当然、「地面に穴が開いてしまったから、埋めて平らに均そう」などと考える者はいないわけで、解決が行なわれません。 そして解決が行なわれなくても、何ら支障が無いような出来事は、そもそも問題ですらないわけです。
いささか観念的な書き出しで恐縮ですが、なぜ、こんな事を言い出したかというと、最近、「問題は解決されない方が面白い、という見方が出来ないだろうか」といろいろと考えを捏ね繰り回しているからです。 発生した問題は解決されるのが当然なのは重々承知の上ですが、実は、問題は、解決される事より、解決されない状態の方が面白いのではないかと思い始めたのです。 ひねくれていると言われてしまえばそれまでですが、人生を楽しんで生きる為には、いろんな考え方を試してみる事も必要かと思うのです。
発生した問題は、いつか必ず解決されてしまうわけですから、殊更に、「是が非でも、否が応でも、石に齧り付いてでも、解決しなければならない!」と力む必要はありません。 問題には解決へ向かう復元力がもともと備わっていると考えるべきでしょう。 むしろ問題が存在する状態の方が貴重なわけです。
たとえば、テレビや新聞で、殺人事件や立て篭もり事件などが報道されると、全国の注目が一斉に集まりますが、住んでいる地域がまるで違う全然無関係の人達まで、何故あんなに大騒ぎするのかといえば、それは事件の発生そのものを待望しているからとしか思えません。 そして、事件が続いている間は、興奮状態で過ごし、事件が解決してしまうと、サーッと冷めて、スパッと忘れてしまいます。 ほうれ、見た事か。 問題の解決よりも、問題そのものの方に興味を惹き付けられているのです。
人生を生きていると、実に様々な問題が次から次へと押し寄せてきて、ともすれば、「なんで、私はこんなに不幸なんだろう」と世を儚んでしまう事も稀ではありません。 中には、とても乗り切れないと思って、自ら命を絶ってしまったり、そこまで行かずとも、学校や職場から逃げ出してしまったりする人がたくさんいます。 でもね、落ち着いて観察してみれば、問題が起こっている時よりも、起こっていない時の方が、圧倒的に長いはずなんですよ。 そんなに年柄年中・四六時中、問題ばかり起こっているはずがないのです。 「ああ、困った困った、どうしよう」などと悩みながらも、普通に飯食って、風呂入って、暖かい布団で眠っているわけです。
この世には、生物的寿命を待たずして死んでしまう人がたくさんいます。 病気も含めれば、八割方の人が、「まだ生きられるのに・・・」と思いながら死んでいるんじゃないでしょうか? となれば、人生半ばの死というものは、そんなに珍しい事ではない事になります。 むしろ、天寿を全うするよりも遥かにありふれていると言えます。 最悪の問題であるはずの死ですら、ありふれた事なのですから、それ以外の問題など、大した事ではないのではありますまいか? 大した事でないばかりでなく、むしろ、問題が起こっている状態は貴重なのですから、その状況を楽しむべきではありますまいか?
これねえ、実際に重大な問題を抱えて困っている他人に向かって言ったら、そりゃ、怒らせてしまいます。 でも、自分自身の心の中で、困った事が起きた時に、心を落ち着ける用途に限れば、大変有効な考え方だと思うのですよ。 問題が起こるというのは、人生にアクセントが付くという点で、悪い事ではないのです。 もっとも、問題を作るのが目的で、自分で問題を作り出すのは、他人に迷惑を掛ける恐れが高いので、感心しませんが。
この考え方、様々な出来事に応用できます。 胸糞悪いニュースを聞いた時とか、学校や職場で、もめ事が起きた時とか、「なんでこんな悪い事が起こるんだ」と思うと、ただただ不愉快なだけですが、「おっ、また問題が起きたぞ! これこそ人生の醍醐味!」と思えば、始終気分よく暮らせます。 問題は、起きれば起きるほど面白く、問題が大きければ大きいほど、長引けば長引くほど楽しめるという寸法。
大体、人類の歴史を振り返っても、書いてある事は、問題の経緯ばかりです。 問題が起こらなかった時期の事など、ほとんど記してなくて、千年前の人々の日常生活など、絵画や文学から推定する以外にないという貧弱さ。 人間というのは、何も起こらない日々など、記録するに値しないと思っているわけですな。 古今東西問わず。
さて、ここまで、快調に理論を展開してきましたが、常識ある方はお気づきのように、この考え方は、非常に危ういものを含んでいます。 現在、戦争だの温暖化だの、地球規模の重大な問題が存在するわけですが、それも楽しめとは言えんでしょう? みんながみんな、「問題様大歓迎! やったれやったれ、とことんやれ!」なんて考えて行動し始めたら、一気に破滅まで突き進んでしまいます。 この考え方は、あくまで個人的に、外的要因で起こった問題を受け止める時に、心の支えとして利用するのに留めなくてはなりません。
この二つの局面は必ずセットになっていて、発生した問題は、どんなに大きな事であろうが、どんなに複雑に錯綜していようが、どんなに長い時間がかかろうが、必ず解決します。 場合によっては、解決までに何百年・何千年もかかる事もありますが、解決しないという事はないわけです。
なぜ、発生には解決が必ず付随するかというと、その問題に関わる人間、もしくは意思を持った生物が、問題を解決しようとするからです。 もし、意思を持った者が関わらなければ、解決はされません。 逆に言うと、解決されないような出来事は、問題と見做されないのです。 たとえば、月の裏側に小さな隕石が衝突して、新しいクレーターが出来たとします。 そこには、人間はもちろん、意思を持った生物は一切存在しません。 当然、「地面に穴が開いてしまったから、埋めて平らに均そう」などと考える者はいないわけで、解決が行なわれません。 そして解決が行なわれなくても、何ら支障が無いような出来事は、そもそも問題ですらないわけです。
いささか観念的な書き出しで恐縮ですが、なぜ、こんな事を言い出したかというと、最近、「問題は解決されない方が面白い、という見方が出来ないだろうか」といろいろと考えを捏ね繰り回しているからです。 発生した問題は解決されるのが当然なのは重々承知の上ですが、実は、問題は、解決される事より、解決されない状態の方が面白いのではないかと思い始めたのです。 ひねくれていると言われてしまえばそれまでですが、人生を楽しんで生きる為には、いろんな考え方を試してみる事も必要かと思うのです。
発生した問題は、いつか必ず解決されてしまうわけですから、殊更に、「是が非でも、否が応でも、石に齧り付いてでも、解決しなければならない!」と力む必要はありません。 問題には解決へ向かう復元力がもともと備わっていると考えるべきでしょう。 むしろ問題が存在する状態の方が貴重なわけです。
たとえば、テレビや新聞で、殺人事件や立て篭もり事件などが報道されると、全国の注目が一斉に集まりますが、住んでいる地域がまるで違う全然無関係の人達まで、何故あんなに大騒ぎするのかといえば、それは事件の発生そのものを待望しているからとしか思えません。 そして、事件が続いている間は、興奮状態で過ごし、事件が解決してしまうと、サーッと冷めて、スパッと忘れてしまいます。 ほうれ、見た事か。 問題の解決よりも、問題そのものの方に興味を惹き付けられているのです。
人生を生きていると、実に様々な問題が次から次へと押し寄せてきて、ともすれば、「なんで、私はこんなに不幸なんだろう」と世を儚んでしまう事も稀ではありません。 中には、とても乗り切れないと思って、自ら命を絶ってしまったり、そこまで行かずとも、学校や職場から逃げ出してしまったりする人がたくさんいます。 でもね、落ち着いて観察してみれば、問題が起こっている時よりも、起こっていない時の方が、圧倒的に長いはずなんですよ。 そんなに年柄年中・四六時中、問題ばかり起こっているはずがないのです。 「ああ、困った困った、どうしよう」などと悩みながらも、普通に飯食って、風呂入って、暖かい布団で眠っているわけです。
この世には、生物的寿命を待たずして死んでしまう人がたくさんいます。 病気も含めれば、八割方の人が、「まだ生きられるのに・・・」と思いながら死んでいるんじゃないでしょうか? となれば、人生半ばの死というものは、そんなに珍しい事ではない事になります。 むしろ、天寿を全うするよりも遥かにありふれていると言えます。 最悪の問題であるはずの死ですら、ありふれた事なのですから、それ以外の問題など、大した事ではないのではありますまいか? 大した事でないばかりでなく、むしろ、問題が起こっている状態は貴重なのですから、その状況を楽しむべきではありますまいか?
これねえ、実際に重大な問題を抱えて困っている他人に向かって言ったら、そりゃ、怒らせてしまいます。 でも、自分自身の心の中で、困った事が起きた時に、心を落ち着ける用途に限れば、大変有効な考え方だと思うのですよ。 問題が起こるというのは、人生にアクセントが付くという点で、悪い事ではないのです。 もっとも、問題を作るのが目的で、自分で問題を作り出すのは、他人に迷惑を掛ける恐れが高いので、感心しませんが。
この考え方、様々な出来事に応用できます。 胸糞悪いニュースを聞いた時とか、学校や職場で、もめ事が起きた時とか、「なんでこんな悪い事が起こるんだ」と思うと、ただただ不愉快なだけですが、「おっ、また問題が起きたぞ! これこそ人生の醍醐味!」と思えば、始終気分よく暮らせます。 問題は、起きれば起きるほど面白く、問題が大きければ大きいほど、長引けば長引くほど楽しめるという寸法。
大体、人類の歴史を振り返っても、書いてある事は、問題の経緯ばかりです。 問題が起こらなかった時期の事など、ほとんど記してなくて、千年前の人々の日常生活など、絵画や文学から推定する以外にないという貧弱さ。 人間というのは、何も起こらない日々など、記録するに値しないと思っているわけですな。 古今東西問わず。
さて、ここまで、快調に理論を展開してきましたが、常識ある方はお気づきのように、この考え方は、非常に危ういものを含んでいます。 現在、戦争だの温暖化だの、地球規模の重大な問題が存在するわけですが、それも楽しめとは言えんでしょう? みんながみんな、「問題様大歓迎! やったれやったれ、とことんやれ!」なんて考えて行動し始めたら、一気に破滅まで突き進んでしまいます。 この考え方は、あくまで個人的に、外的要因で起こった問題を受け止める時に、心の支えとして利用するのに留めなくてはなりません。