2010/04/25

クリスタル・セブン

  先日書いた、≪腕時計性胃炎≫の続きですが、さんざん、あれこれと悩んだ挙句、結局、労金ポイントの方はQUOカードを貰い、腕時計は自分で買いました。 まったく、胃が痛くなる前に、さっさとそうしとけば良かったんですよ。

  労金ポイントでギフト・カタログを選んだ場合、貰えるのは、2500円相当の品だったんですが、私が買ったのは、9500円の機械式時計です。 えらい、予算オーバーしたわけですが、葬儀の時にしか出番が無いのだから、電池が切れると交換しなければならないクオーツは駄目。 その点、機械式なら、しまいっ放しにしておいても、出番の前日に出して、ゼンマイを巻けば動き出すから好都合、という事情に勝てず、結局、機械式になったのです。

  値段的には、クオーツなら、2500円も出せば、金属ベルトの日常生活防水で、そこそこデザインがいい物が買えるんですよ。 また、精度も、機械式より断然良し。 なにせ、クオーツの精度は、100円時計でも、100万円のブランド物機械式より上ですからのう。 なので、クオーツにして、出番以外は電池を抜いておくというアイデアもあったんですが、ボタン電池という奴が、外しておきさえすれば、何年も放電しないものなのか、今一つ自信が持てず、いざ電池を入れたら動かなかった、では、却って高くつくのではないかと恐れ、断念したのです。

  機械式というと、自動巻きの≪セイコー5≫シリーズが一番安く、5000円からありますが、セイコー5は、裏蓋がスケルトンで、ステンレス裏蓋より、1.5ミリも厚くなり、腕から浮いたように見えてしまうため、私の好みではありません。 オリエントは、文字盤のデザインがどうも気に入らない。 白地の文字盤に、赤いブランド・マークとか入れられると、紅白になってしまって、葬式にして行けないではありませんか。 外国ブランドには、はっとするような美しい物もありますが、1万円以下だと玩具みたいな両面スケルトンばかりで、問題外。 一方、1万円以上だと、私の予算的に問題外。

  で、結局、シチズンの、≪クリスタル・セブン CVT66-0521≫を買いました。 もともとは、1965年に発売された時計で、当時としては最も薄型、且つ、世界初のクリスタル・ガラス採用で、一世を風靡したらしいのですが、さすがに古すぎる話で、私ですら、そんな事は知りませんでした。 私が買ったのは、3年くらい前にリデザインして復刻されたもの。 ネット上で、昔のクリスタル・セブンも見てみましたが、60年代テイスト全開で、あまりにも古めかしく、とてもじゃないが、身に着ける気になれません。 リデザインの効果は絶大ですな。

  3年前調べた時には、白、黒、青、金黒(ケース・ベルトが金色で、文字盤が黒)と四種類あったんですが、今は白と黒は完売して、青と金黒だけになっていました。 金黒は成金趣味そのまんまなので、残るは青だけ。 青は好きな色なので、構わないといえば構わないんですが、葬式用としては、白の方が相応しかったところです。 「3年前に買っておけばなあ・・・」と地団駄踏んだわけですが、後悔先に立ちません。 その代わりといってはなんですが、3年間売れ残ったためか値段が下がり、13500円だったのが、9500円になっていました。 ケチな私には、大変好都合。

  ネットで、送料・代引き手数料ゼロの店を見つけ、そこに注文したところ、テキパキと、受注確認、在庫確認、発送通知のメールが届き、2日後には、宅配便で無事到着しました。 手慣れてるな、この店。 長さ30センチもあるダンボール箱に入っていましたが、中身は普通サイズの腕時計の箱で、それ以外の部分には、緩衝材として、プチプチ・ビニールとくしゃくしゃにした紙が詰まっていました。 なるほど、腕時計を通販で買うと、こういう荷姿で届くわけだ。

  うーむ、こんな高い腕時計を買ったのは、生まれて初めてじゃのう。 今までに買った腕時計というと、最高で3000円くらいでした。 最低は105円。 高校に入る前に父に買ってもらった時計は、3万円くらいしましたが、買ってもらうのと、自分で買うのでは、感動がだいぶ違います。

  ちなみに、私が父に時計を買った貰ったのは、折しも、デジタル時代が幕を開けた年でして、新し物好きだった私は、シチズンから売り出されたばかりの、ソーラー・デジタルを選んだのですが、3万円もしたその時計は、やたらと分厚く、重く、それでいて、急激なデジタル技術の進歩で、あっという間に時代遅れになり、あまつさえ、ソーラー電池は2年もしない内に充電不能になり、時計自体が死んでしまいました。 まだ、持ってますけどね。

  とうわけで、今回私は初めて、機械式時計を買った事になります。 自動巻きという触れ込みでしたが、説明書を読むと、手巻きもできるとの事。 ただ、ネットで調べたところ、機械式時計は、手巻きをし過ぎると、ゼンマイが切れやすくなるらしいです。 そうと知ったら、手巻きは出来ませんな。 せっかく高いお金出して買ったのに、簡単に壊してたまるもんですか。

  驚いたのは、作動音が小さい事でして、父が持っていた昔の自動巻き時計は、カチカチとかなり大きな音がしていましたが、今回買った時計は、耳をよほど近づけても、作動音が聞こえません。 復刻版とはいうものの、ムーブメントには、最新の機械を使っているんでしょうな。 秒針の動きが細かいのにも、目を見張らされました。 さすが、無停止でスーッというわけではありませんが、3分の1秒くらいの間隔で、チチチチチと動くため、1秒刻みでチッチッと刻んでいくクオーツ時計より、ずっと繊細な感じがします。

  文字盤の色は、ネット上の写真では、明るめの青だったんですが、現物を見ると、紺に近く、だいぶ、イメージが違いました。 大人の時計という感じ。 少し暗すぎて、針の視認性が悪いのですが、普段、仕事で使うわけではないので、別に問題は無し。 むしろ、葬式装備としては、このくらい暗いイメージの方が好都合というものです。 不謹慎といえば、不謹慎な都合の良さですけど。

  曜日と日付が出るようになっています。 葬式用に買った私としては、使う前日に起動して、日時合わせをする事になるので、曜日・日付は、不要なばかりか、むしろ面倒なだけで邪魔なんですが、まあ、私みたいな用途のユーザーは確実に超少数派でしょうから、ついているのは仕方ないですな。 竜頭は二段式で、全部引き出すと時間合わせ、一段引き出すと曜日・日付合わせになります。 面白い事に、左に回すと日付が動き、右に回すと、曜日が動きます。 うーむ、よくできている! ちなみに、時間合わせをぐるぐる回して行っても、日付は変わります。

  説明書によると、午後9時から午前3時までの間は、曜日・日付のみの調整はできないとの事。 なぜというに、曜日・日付は時間をかけてゆっくり切り替わるので、切り替わり中に合わせると、ズレて行ってしまうかららしいです。 すなわち、合理的な日時合わせの順序としては、午後9時から午前3時までの時間帯を避けた上で、先に、時間を合わせます。 この時、日付が押し出されて変わるのを確認して、午前か午後かも合わせます。 時間合わせをする段階では、日付・曜日は、何日を示していても、気にしないで宜しい。 というより、気にしては駄目なのです。 時間と午前・午後を合わせた後で、日付と曜日を合わせます。 この順序を守らず、先に曜日・日付を合わせてしまうと、時間合わせの時に日付が進んでしまう危険性があるんですな。

  ネット上で読んだ経験談では、この日時合わせが自分でできずに、時計店に頼みに来るお客がいるらしいです。 さすがに、その程度では、工賃は取らないようですけど。 だけどねえ、この手順のややこしさは、ユーザーが自分でできるかできないかの微妙な線上にあると思いますよ。 家電製品の説明書を読みこなせないタイプの人は、たぶん、これも駄目でしょう。 「午後9時から午前3時までの調整は不可」というのは理解できても、午前と午後を合わせ間違えて、真昼間に日付・曜日が変わってしまい、お手上げになる人が多いのだとか。 いかにもありえる。

  デジタル時計などと違い、秒針のゼロ合わせはできないようです。 一日あたり、20秒から40秒くらい狂うらしいので、秒合わせなんぞしても無意味という事のよう。 なるほど、確かに、そりゃ、無意味だわ。 私に言わせてみれば、秒針そのものが要らないような気が・・・・、いや、秒を数える場合は必要か。 実生活では、息止めゲームでもせん限り、あまり数えないですけどね。 クオーツの場合、秒針が止まる位置と、文字盤の秒目盛りが合わない製品が多くあるそうですが、機械式は、もっと細かく刻むので、そういう問題は発生しません。

  どうでもいい事ですが、腕時計の箱は、厚紙製でした。 昔、父に買ってもらった3万円のソーラー・デジタルは、プラスチックの箱に入っていましたが、1万円台前半くらいの時計では、紙箱になるんですかねえ。 もっとも、どうせ箱なんて、しまっておくだけですから、紙でも充分といえば充分ですけど。 ところで、この箱、非常によくできていて、紙細工の芸術品という趣きがあります。 バラして、展開図を見てみたいもの。

  買ってから、十日くらいたちましたが、今のところ、ずっと動かし続けています。 日付・曜日をズラしたくないばっかりに。 でも、私の事ですから、その内飽きて、箱に入れて抽斗にしまう事になるでしょう。 ゼンマイのもちですが、腕に着けている限りは動き続けています。 外して、5時間くらい経つと、止まります。 会社に行って帰ってくると、止まっているので、振って起こし、時間を合わせる。 これの繰り返し。 手巻きで巻くと、十回くらい回しただけで、8時間くらいもつようです。 ただし、上述のように、手巻きはお薦めじゃないんですな。 ええい、もどかしい。 でも、自動巻きの時計というのは、こういう物なんでしょう。

  自動巻きの時計を、外した時にも止めないように、振動を与え続ける、≪ワインディング・マシーン≫というのが売っています。 以前は、「わざわざ電気を使って、機械式時計を巻くなんて、本末転倒! 馬鹿馬鹿しいにも程がある!」と思っていましたが、自分で自動巻きの時計をもってみると、あのマシーンを買う人の気持ちが何となく分かるようになります。 でも、やっぱり、馬鹿馬鹿しいので、私は買いませんけど。

  そうそう、機械式の時計は、使い続けていると、脂切れや、汚れ、磨耗で、精度が落ちて来ます。 そのために、定期的な分解掃除が必要になるのですが、私の場合、連続して使い続ける気が無いので、それはやる気がありません。 分解掃除は、素人ではできませんから、時計店を通して、時計職人に頼む事になるのですが、なんと、15000円以上はするらしいです。 9500円で買った時計をメンテするのに、15000円払う奴はいませんわな。 最低でも、3万円以上の製品でないと、分解掃除して、延命する価値は無いという事になりますか。

  まあ、使わなきゃいいんですよ。 葬式用ですから、五年に一度も出番は巡って来ますまい。 あまり、使わなくて、買ってある事を忘れてしまわなければいいんですがね。

2010/04/18

親捨て

  社会の仕組みというのは、自然に変化して行くものですが、それが分かっているのかいないのか、最近、頓に増えて来たのが、「親離れのできない子供」とか、「子離れのできない親」といった批判です。 ただし、この子供というのは、10代以下の、いわゆる子供ではなく、20代ですらなく、30代・40代の独身者を指します。 つまり、「いい年こいて、結婚もせんと、実家にしがみついて、親と一緒に暮らしている、情けない人間」という意味で、そういう関係にある親子を、蔑み、侮り、軽んじて、いい気になっているわけですな。

「人間は、大人になったら、親から独立するのが当たり前」

  この言葉、一見、至極もっともなように聞こえて、古来からの不変律、人類社会の基本的習慣、宇宙の真理のような印象すら与えます。 ところがぎっちょん、宇宙の真理など戯言もいいところ、人類社会の基本的習慣などでも毛頭無く、古来から続いてきたわけでも、まるっきりありません。 たかだか、この5・6年の間に、日本という狭~い社会で、俄かに流行し始めた考え方なのです。

  国によって、民族によって、地域によって、この種の社会習慣は、すべて違っています。 「大人になったら、親から独立するのが当たり前」である所もありますが、そうではない所もたくさんあります。 日本はどうかというと、ほんの5・6年前までは、こんな言葉は全く聞かれず、その前に、親子関係について何の評価もなされない期間が10年ほどあり、更にそれ以前は、「子供は親の面倒を見るのが当たり前」の社会でした。 すっかり打ち忘れていた方々、辛うじて思い出しました? そうなんですよ、今とは正反対の事が常識だったんですよ。

  その頃、テレビの報道番組を見ていたら、日本人男性と結婚したフィリピン人女性がインタビューを受けていました。 夫の実家での両親との同居に耐え切れずに逃げ出し、夫婦の間にできた子供をどうするかが問題になっていたのですが、その女性が、正にこのセリフを口にしていました。

「大人になったら、独立するのが当たり前でしょう? なんで、親と一緒に暮らさなければならないの?」

  つまり、フィリピンの、この女性の暮らしていた社会では、それが当然で、日本の習慣は、異常としか思えなかったわけですな。 しかし、それを聞いていた私は、「いや、日本では、それは通用しないだろう。 この夫にしてみれば、長男が実家を継ぐのは当然で、たとえ独立したいと思っても、周りが許さないのではないか?」と思っていました。 「もし、他に跡継ぎがいないのに、独立を強行すれば、親戚筋から、≪親捨て≫呼ばわりされるのは、避けられないだろう」とも、思いました。

  そうです、他に跡継ぎがいないのに、親元から離れてしまう事は、かつては、≪親捨て≫であり、≪家捨て≫だったのです。 ≪親捨て≫は、人間の情として許されず、≪家捨て≫は、社会の義として許されない行為でした。 「年老いた親を放置して、自分だけ女房・子供と気楽に暮らしている」という目で見られ、軽蔑されていたのです。 長男がさっさと家を出てしまい、弟や妹が親の面倒を押し付けられた場合、勝手な兄の事を、陰で、「人間のクズ」呼ばわりする事も、珍しく無かったと思います。 許されなかったんですよ、そんな事は。

  大昔の話じゃないですよ。 これを読んでいる人達の中で最年少世代の方々、あなた方が生まれた頃は、まだ、そんな時代だったのです。 嘘だと思ったら、お父さんお母さんに訊いてみなさい。 家を継いだ人と、家を出た人、家から出された人では、それぞれ、言い方や言い分に違いがあるかもしれませんが、基本的に、そういう習慣だった事は、誰でも認めると思います。

  この15年ほどで、日本社会の何が変わったかというと、「家を守る」という執着が薄くなった点が最大の変化だと思います。 昔は、どんな家であれ、親から子へ受け継いで、代を重ねて行く事が、使命だと思われていました。 親は子供を生殖本能だけで作っていたわけではなく、家を継がせる為の要員として、必要としたのです。 なぜ、そんなに家に拘ったかというと、「家を守らなければならない」という至上命題さえあれば、子供の内、一人は必ず家に残るので、親としては、年老いても面倒を見て貰える保証になったわけです。 子供を一人家に残せるか否かは、親にしてみれば、死活問題だったと言っても宜しい。

  ところが、その状況が変わって来ます。 年金制度が、貰う方に都合が良い形で作動し始め、老後の資金に困る人が減って来ました。 定年後、子供の収入に頼らなくても、生きて行ける時代になったんですな。 そうなると、親が子供を家に引き止める理由は無くなります。 見合い制度が崩壊し始めるのも、この頃からです。 「是が非でも子供を結婚させ、跡継ぎを確保しなければ、自分の老後が立ち行かなくなる」という危機感が失われたため、ただ面倒なばかりでなく、何かと出費も多い見合いを嫌うようになったのです。 子供がじゃないですよ、親の方がです。 見合い制度というのは、親の世代が維持していたシステムですから、親にやる気が無くなれば、それまでです。

  かくして、親が子供を家に繋ぎ止めていた時代は終わり、家の断絶が当たり前という新時代の幕が開きました。 「親捨て、家捨て、何が悪い!」ってなもんです。 「今時、実家を継ぐなんていったら、結婚相手が見つからないじゃないか」とも言います。 うむ、ごもっとも。 確かにその通りです。 「結婚して、相手の実家に嫁入りする」なんて話を聞くと、「大変だろうけど、頑張ってね」と笑顔で励ましつつ、腹の底では、「こいつ、馬鹿でねーの?」と、顔をしげしげ眺めてしまいます。

  大体、亭主の親なんぞ、全くの赤の他人と変わらないのであって、赤の他人と一つ屋根の下で暮らして、うまく行くわけがありますまい。 だから、血で血を洗う嫁VS姑戦争が、全国規模で勃発していたのであって、「愛があるから大丈夫なの」などと言うのは、ただの歌の文句である以前に、身勝手且つ能天気な亭主族の男がデッチ上げた妄想以外の何物でもなく、同居する赤の他人との確執に、精神に異常を来たすほど苦しめられる嫁や姑が、うじゃらこうじゃらこおったわけですよ。

  そういう悲劇が急激に少なくなったのは、家の存続が至上命題で無くなった時代の福音ですな。 ああ、よかったよかった。 人生の最も幸せな時期である新婚時代を、亭主の親という鬼or悪魔どもに邪魔されず、心行くまで楽しめるようになった事は、何にも増して素晴らしい。 とりわけ何が嬉しいといって、隣の部屋で聞き耳を立てている亭主の親どもを気にせず、思う存分、新婚セックスに没頭できるようになったのが、泣くほど嬉しい。 どんな恥ずかしい事を口にしても、誰も聞いちゃあいやしないと来たもんだ。 むふふふ。

  逆に言うと、昔が、いかにひどい条件で新婚生活をしていたかが分かります。 亭主の親だけじゃない、亭主の兄弟姉妹まで家の中に住んでいて、下手すりゃ、十人近い人間が、壁や襖に耳を押し当てて、「お、やっとるやっとる」とニカついていたわけだ。 ふっざけんなよ、てめーら。

  もっとも、立場を変えて考えれば、否が応でも、その種の音声を聞かされる方も、迷惑っつやー迷惑でしょうなあ。 受験生なんて、どうしてたんでしょうねえ? 徹夜で勉強に励んでいると、家のどこかから、兄夫婦がせっせと別の事に励んでいる音やら声やらが聞こえてくるわけだ。 当の然、勉強なんか手についたもんじゃありません。 んで、不合格で、兄貴から、「来年は、もっと頑張れよ」と・・・。 ふっざんなよ、てめーら。


  なんか、脱線してる? いかんなあ、すぐにテーマを忘れてしまいます。 何とか、元の路線に戻さねば・・・。 作文のハンドルが利かないんですよ、最近。 いや、実は昔からですけど。


  で、今は、そういうケースは、非常に稀になり、同居する場合でも、二世代住宅にして、各世代間の距離を保てるよう配慮するようになりました。 そうしないと、本当に結婚できなくなってしまったんですよ。 現在、40歳以下の女性に訊くとして、結婚したら、夫の親と一緒に夫の実家に住む、つまり、狭い意味での、≪嫁入り≫をしてもいいという人が、どれくらいいますかねえ。 一割以下は当然、5パーセントすら、いるかどうか。 1パーセント以下でも、ちっとも驚きません。

  妻にしてみれば、夫の親に気に入られようとはしても、同居となると話は別でして、結婚した後で夫から持ちかけられても、頑強に抵抗すると思います。 それは当然の事でして、結婚条件違反ですから、夫が、「どうしても同居する」と言い張った場合、離婚に至っても、全然おかしくないと思います。 そういう時代なんですな。 離婚しても、今は女性が就く仕事がいくらもありますから、食いはぐれる事は無いですし、最悪の場合、自分の実家に帰るという道もあります。 亭主の親なんぞという得体の知れぬ化け物と同居するよりは、自分の実家に帰った方が、数億倍マシ。

  かくして、結婚するなら、家を出るのが当たり前という時代になったわけです。 ああ、漸く、元のテーマに戻って来ました。 良かった良かった。 一時はどうなる事かと思った。 で、そうなったはいいんですが、この、結婚して家を出た連中が、変な事を言い出したのですよ。

「人間は、大人になったら、親から独立するのが当たり前だ」

  とね。 まるで、古来からの不変律、人類社会の基本的習慣、宇宙の真理のように、それが人としての本道であって、「大人になっても親元で暮らしている人間は、出来損ないなのだ」と、そこまで言い出したのです。 おいおいおいおい!

  あのなあ、今みたいな世の中になったのは、ほんの最近の話なんだよ。 何言ってんだよ! 馬鹿も休み休み言え! お前の親を見ろ! 長男で実家を継いだ人を親に持っていれば、目の前に実例がいるだろうが! そんじゃ、何か? 家を継いで、親の面倒を見て、お前を育てた、その人は、出来損ないだったのか? お前は、出来損ないに育てられたのか? そりや、自己否定だぞ。 狂っているのか、お前は?

  これねえ、社会学者クラスの人まで、「大人になったら、独立するのが当然」などと言い出していまして、かなり根が深い問題になっています。 何年か前に、≪パラサイト・シングル≫という言葉が流行りまして、それは、学者が指摘した現象なんですが、それとこれとは、また違う問題です。 パラサイト・シングルというのは、単に親元に住んでいるだけでなく、経済的に自立できずに、部分的もしくは全面的に、親の収入で養われている者を指します。 それが問題だというなら、まあ、分からないでもないですよ。 ところが、今、言われているのは、実家を継ぐつもりで親元に残っている人間まで出来損ない扱いする、糞味噌ごっちゃの批判なのです。

  なんで、私が激怒しているかというと、私自身が、そういうつもりで、親と一緒に暮らしているからです。 他人事じゃ無いんですな。 いつか、親は死ぬわけですが、葬式を出すのは誰だ、法事をやるのは誰だ、墓を守るのは誰だ、という事になったら、実家に残っている人間がやるしかないでしょう。 何が悪いのか、全く理解に苦しみます。 それ以前に、親が死ぬ前に、闘病生活にでもなったら、入院費や治療費を誰が出すんですか? 退院して自宅療養する事になったら、誰が面倒見るんですか? 独立して、別の家庭を築いている、ご立派な大人の皆さんが、それをやりますかね? まあ、やらんでしょうな。

  ちなみに、うちの近所では、老夫婦だけで住んでいた家で、どちらか一方が死ぬと、必ず家が取り壊され、決まって月極め駐車場に変わります。 そんな家が、何十軒あることか。 駐車場ばかりで、停める車が足りないほどです。 老夫婦にしてみれば、「自分達が死んだら、子供が帰って来て、家に住んでくれる」と期待していたと思うのですが、そんな事が起こるはずがないのです。 だって、自分の家をもう持ってしまった子供が、実家を継げるわけがないじゃありませんか。 家が二軒あっても、体は一つしか無いですからね。 そこで、一人になった親を自分の家に引き取るか、老人施設に入れるかし、無人になった実家は、維持するにも手間暇&金がかかるので、潰すしかなく、潰した後、有効に使える方法といったら、月極め駐車場にするしかないというわけ。 しかし、それが、誉められるような処置かね?

  だーからねー、「大人になったら、独立するのが当たり前」なんて偉そうな事、言わなきゃいいんですよ。 ろっくでもない。 人それぞれ、家それぞれに事情があるんですから、一緒くたに論じようとするのが、すでに無理があるのです。 逆に、実家で親と暮らしている者から、「人間は、大人になったら、親の面倒を見るのが当たり前」と言われたら、あんた方、立つ瀬が無いでしょうが。

「人間は、大人になったら、親から独立するのが当たり前だよ」
「ふーん。 だけど、お前のやっている事は、≪親捨て≫じゃないのかね?」

  そう言われたら、何て応えるのよ? 「親捨ての何が悪い?」と、開き直るかね? できないよなあ。 その論法で行くと、「人殺しの何が悪い?」、「戦争の何が悪い?」まで、OKになっちゃうものねえ。

  中には、今でも、家を継ぐ事を親や親戚から要求され、渋々嫌々、実家に残り、何かと窮屈な人生を送っている人もいるわけだ。 なぜ、そんな人生に耐えられるかといえば、それが自分に与えられた使命だと思っているからです。 そうする事によって、周囲の期待に応えられると思えばこそです。 それが、あーた、実家を出て行って、好き勝手に暮らしている連中から、「大人になったら、独立するのが当たり前」なんて、言われた日には、頭に来ないでいられましょうか、いいや、いられるわけが無い! どこの無神経だ、そんな暴言吐いている馬鹿は!

「じゃあ、何か? 実家を継いだ俺は、大人じゃないのか? 死ぬまで子供のままだというのか? 家のためだと思って残っているのに、そんな評価をされるのか? じゃあ、出て行ってもいいのか? 親を捨てても、批判される事は無いんだな。 親捨ての方が正しいんだな」

  ええ? この問いに、何と応える? それでもまだ、「独立して当然」と言えるかね?

  また、そんなこと書いている学者に限って、自分は、実家から出ているんですわ。 自分から出たのか、追い出されたのか知りませんが、とにかく、親とは一緒に暮らしていない。 そして、「独立して当然」と主張しているわけです。 誰でも、自分の人生は、真っ当な道を歩んでいるものだと思い込みたいわけで、「自分は独立している。 だから、独立するのが人間の真っ当な道だ」と、超単純に判断してしまったものと思われます。 本当に学者かよ。 主観もいいところだ。

  笑ってしまうのが、この「独立して当然」と考えている連中、自分は親を捨てたくせに、自分の子供は自分の面倒を見てくれるはずだと思っているんですよ。 馬鹿か? そんな事になるわけないだろ。 どういう論理を組み立てれば、そういう虫のいい結論が出るんじゃい? 当然、お前の子供も、お前に倣って、家を出て行くよ。

  お前が病気になったって、一回見舞いに来るのが関の山で、看病なんぞするものかは。 死ねば、葬式もやらん。 病院から電話を貰って、「引き取れませんから、献体にして下さい」で終わりだ。 わはははは! お前は、墓にも入れねーのさ! でも、しょうがないよなあ、それが、独立って事だものなあ。 たかだか墓の掃除であっても、子供の世話になってたんじゃ、独立しているとは言えないものなあ。 よかったなあ、独立派の諸兄諸姉よ。 生前の信条通り、立派な無縁仏になれて。 独立万歳! 親捨て、エクセレント!

  社会にはいろんなパターンがあるんですよ。 「独立が当然」になっている社会もあれば、「家を守るのが当然」になっている社会もあり、一方から他方に移行しつつある社会もあります。 日本社会は今、その移行期の一つの終盤にあると言えるでしょう。 だけど、どのパターンも、決して、≪唯一無二の正しい形≫などではありません。 長期的に見れば、所詮は皆、一時的なものです。

2010/04/11

腕時計性胃炎

  事の起こりは、昨年暮れにあった、叔父の葬儀でした。 礼服は新たに買い、ワイシャツ、ネクタイ、靴下、靴は元からあった物を身に着けたのですが、ふと見ると、腕時計が足りません。 「やはり、して行った方が、何かと便利だろうな」と思い、机の上にいつも置いてある、カシオのデジタル腕時計をして行きました。 かれこれ20年前に買ったもので、ウレタン・ベルトが切れ、電池も切れて、数年間 抽斗の奥に死蔵していたのを、3年前に酔狂半分で復活させた物です。 他に、生きている腕時計というと、100円ショップで買った品が一つと、積立貯金の口座開設プレゼントで貰ったスポーツ・ウオッチだけで、いずれも、葬儀には相応しくないので、カシオのデジタル以外に選びようが無かったのです。

  で、その日一日それを着けていたわけですが、白状しますと、なるべく人前では袖を捲らないようにしていました。 このデジタル、一度ベルトが切れたわけですが、バネ棒を使わず、特殊な整形をしてあるベルトを、本体の溝に差し込むというタイプだったため、交換用のベルトが手に入らず、市販のウレタン・ベルトを買って来て、U字にした針金で本体と繋ぎ、無理やり復活させたのです。 パッと見では、そんな小細工をしてあるとは思えないほど自然に見えるのですが、目が肥えた人が見れば一目瞭然でバレて、「貧乏臭い事してやがるなあ!」と呆れられてしまうのは避けられないところ。 こりゃもう、極力隠すしかありませんわなあ。

  で、その日はそれで凌いで、「ああ、終わった終わった。 これで暫く腕時計をする事もあるまい」と思って、それっきり腕時計の事は打ち忘れていました。 ちなみに、私は普段、腕時計を全くしない生活をしています。 仕事中は、腕時計禁止ですし、通勤中はバイクなので、袖を捲って時計を見る事ができません。 時計なんか見なくても、決まった時間に家を出れば、毎日ほぼ同じ時間に会社に着きますから、何の問題も無いのです。 休みの日は休みの日で、大抵カメラを持って出かけますから、そちらで時間は分かるので、腕時計は必需品ではありません。

  で、すっかり忘れていたわけですが、3週間ばかり前に、労金から、預金ポイントが溜まったという通知が来て、俄かに、「腕時計を手に入れなければ!」と思い立ってしまったのです。 「労金ポイントと腕時計に、何の関係があるねん?」と思うでしょう。 いや、それがあるのですよ。 労金ポイントというのは、50ポイント以上になると、ギフト・カタログを貰えるのです。 ギフト・カタログで貰う物といったら、腕時計に決まっているじゃありませんか。

  いや、決まっているわけではありませんが、私の場合、貧乏性なので、カタログから何か選べるとなると、なるべく複雑な機械や、電気製品を選んでしまう傾向があり、安いカタログだと電気製品は大した物がありませんから、腕時計が最有力候補になるわけです。 というか、他の物が眼中に入らないくらい、腕時計のページに目が釘付けになってしまうのです。 今回の場合、すぐに頭に浮かんだのが、「葬式に着けて行けるような腕時計が欲しいな」という欲望でした。 ちょうど必要だと思っていたところだったので、渡りに舟というわけですな。

  ところがねえ、ギフト・カタログの腕時計というのは、そんなに高い物ではないんですよ。 カタログの内容は、ネット上で確認できるので、予め調べてみたんですが、50ポイントで貰えるカタログに載っている腕時計は、値段にして大体2500円くらいの品なのです。 この値段だと、明らかに、≪安物≫の部類に該当します。 腕時計は100円ショップでも売っているわけですが、それらは非防水なので別格として、日常生活防水以上で一番安いというと、千円クラスからでしょうか。 私の感覚だと、腕時計の価値の上限は、一万円くらいでして、それ以上出すなら、他の物を買います。 つまり、千円から一万円が、私の腕時計の入手可能範囲なわけですな。 その内の、2500円というと、かなり低い方という事になります。

  たぶん、葬式の時にしか使わないので、なるべくなら、オーソドックスなデザインが宜しい。 「葬式に、腕時計で目立ってどうする?」ってなもんです。 つまり、個性ゼロで、誰でもしているような時計がいいわけです。 ところが、ギフト・カタログというのは、そんな無個性な時計なんざ載せちゃいません。 安物を少しでも高そうに見せるために、極力派手なデザインを選んでいるフシがあります。 スポーツ系か、さもなくば、パーティー系ですな。 葬式にスポーツ・ウオッチは論外として、パーティー系は、若干トラディショナルと重なる部分もありますが、やはり、派手なのであって、葬式でもオッケーというのが、なかなかありません。 やはり、カタログで手に入れるのは無理か。

  ここで、一つの裏技を思いつきました。 労金ポイントは、20ポイントで、≪QUOカード 千円分≫が貰えるので、それを2枚貰い、コンビニで、2000円分、何でもいいから買い物をしてしまいます。 その分浮いた2000円で、時計屋か通販で、自分が好きな時計を買うというのはどうでしょう。 おお、うまいやんけ。 それなら、バッチリ、葬式向けの時計が手に入るわい。 ただ、かなり面倒臭い手順になるけれど…。 考えてみれば、2000円くらい、自腹切っても大した出血ではないんですが、なまじ労金ポイントがあるもんだから、それを使わなければいけないという強迫観念に囚われて、こんなややこしい手段を思いつくわけですな。

  そうそう、労金ポイントには、期限がありまして、私の場合、夏までに使わないと、10ポイント失効してしまうのです。 これが強迫観念を呼び覚まさずにいられましょうか。 いいや、いられるわけがない! 自他共に認める吝嗇家である私が、ポイントを失効させたりした日には、おめおめと生き恥を曝すわけに参りません。 ええい、是が非でも、否が応でも、使ってくれるわ!

  で、ネット上で、2000円くらいの時計を調べてみたんですが、いろいろとあるんですな、これが。 カシオのスタンダード系列に、オーソドックスなデザインの物があり、それがなかなかの風格。 三針式で、日付・曜日表示。 1960年代に一般的に見られた、大人の男の腕時計を彷彿とさせ、とても、2000円とは思えない外観です。  おそらく、同じ物を持っているか、同じ物を買おうとした人でなければ、これが2000円とは見破れないでしょう。 シチズンにも、Q&Qブランドあたりに、同様のデザインの品がありますが、見た目の風格はだいぶ安っぽくなります。 さすが、カシオ。 G-SHOCKのような高い時計を主力にするようになっても、安い時計のファンを見捨てず、低価格で高く見える品を揃えてくれています。

  「じゃ、それにすれば?」と思うでしょうが、ここで重大な障碍が立ちはだかりました。 「葬式なんて、滅多に起こらないんだから、クオーツはまずいんじゃねーの?」と言うのです。 つまり、抽斗にしまって、親戚が死ぬのを待ってる間に、時計の方が先に死んでしまうというわけ。 そのつど、電池を入れ替えていたのでは、本体を安く買っても、電池代で高くついてしまいます。 ちなみに、交換は自分でやるにしても、電池代だけで、400円くらいします。 カシオのスタンダード時計の場合、電池寿命は2年なので、10年経つと、電池代が時計本体の値段を超えてしまいます。

  「なら、むしろ、奮発して、自動巻きを買うか」なんて、思ってしまったから、さあ大変。 確かに、自動巻きなら、機械式ですから、電池は要らないわけですが、その代わり、値段が高い。 最も多く出回っているセイコー5でも、最低5000円はします。 5000円なら、そんなに高くはありませんが、あいにく、私は裏蓋スケルトンが嫌いなのです。 ステンレス裏蓋よりも、1.5ミリも厚くなり、腕に着けると、時計が浮き上がっているように見えるのが、たまらなく嫌。 そして、今売られているセイコー5は、みんな裏蓋スケルトンなのです。 つまり、セイコー5は買えないわけですな。 それ以外となると、いきなり値段が跳ね上がって、1万円前後になります。

  うーむ、労金ポイントを消化するのが本来の目的だったのに、もはや、そんな物どこかへすっ飛んでしまって、一万円の時計を見比べて、「どれにするか」と悩んでいる有様。 どこで間違えて、こんな事になってしまったのでしょう。 この時点で、すっかり、≪腕時計欲しい病≫に罹っており、もはや、何かしら腕時計を買わなければ気が済まないという精神状態に陥っています。

  葬式用という条件すら怪しくなって来て、ネット上の腕時計サイトをあちらこちらと見て回り、ああでもないこうでもないと不毛な吟味を続ける毎日。 だけどねえ、いくら悩んだって、決まるわけないんですよ。 もともと、どうしても必要というわけではない上に、欲しいかどうかすらはっきりしてないんですから。 ただ、事の成り行きで、欲しがっているような錯覚に陥っているだけなのです。

  そもそも、葬式に時計なんて、して行かなくたって一向に構わないのです。 今はケータイで時間を見る人の方が多いですから、他人の時計なんざ誰も気にしちゃいません。 よせよせ、やめちまえ。 …と、何度も諦めようと思ったのですが、「いや、どうせ他に欲しい物も無いんだし、道楽だと思って、一万円くらい使ってしまおうか」などと、吝嗇家にあるまじき不心得を起こして、性懲りもなく品定めを続ける毎日。

「長持ちさせるのなら、やはり金属ベルトでなければなるまい」とか、

「革ベルトでも、腐ったら交換すればいいわけだが、動物愛護を考えると、ワニ革はまずいだろう」とか、

「葬式にだけ使うなら、日付・曜日は無い方が、前日に時間だけ合わせれば済むから、都合が良いのではなかろうか」とか、

「クオーツでも、使わない時に電池を抜いておけば、かなり長持ちするのではないか」とか、

「電池を抜くなら、裏蓋を外せなければ困るが、スクリュー式だと特殊な工具が必要になって、却って高くついてしまう。 やはり、機械式の方がいいか」とか、

「葬式用なら、礼服の色に合わせて、白黒デザインの時計がいいんじゃないか」とか、

  まあ、自分でも呆れるくらい、あれこれと、くっだらねー事が頭の中を去来しました。 そればかりか、腕時計の通販サイトで、店長がやっているブログに読み入って、過度の親近感を抱き、「いい時計ですねえ」などと、コメントを打ち出すに至っては、もう自分でも何をやっているのか分かりません。 店長と知り合いになってどうする? わけ分からんわ。


  と、そんな事を一週間も思い悩んでいる内に、突如、激しい腹痛に襲われました。 腸が重苦しく痛み、胃にも下から押し上げられるような痛み。 便通が滞り、腹全体が膨れ上がって、外見的にも尋常な健康状態ではありません。 腸の方は原因不明ですが、胃の方は疑いなく、考え過ぎの悩み過ぎで、胃炎を起こしたのです。 このままで行けば、胃潰瘍の恐れすらあり。 まずいまずい、こんな下らない事で、胃に穴を開けてどうする?

  数日苦しんだ挙句、少しずつ便が出て、腸の方は回復したのですが、胃は良くなったり悪くなったりで、一向に本復しません。 体が弱ってくると、追い討ちをかけるように、つまらない事が気になり始めるもので、「そもそも、葬式用の腕時計を用意しておこうなどと思ったのが罰当たりだったか。 まるで、親戚が死ぬのを待っているみたいではないか」と思うと、気分が落ち込み、落ち込むとますます胃が痛くなります。

  この胃痛を治すには、腕時計問題を解決するしか無いと思うのですが、あまりにも考え過ぎたために、むすぼれが雪達磨式に膨れ上がって、解決の糸口が見つからなくなってまったのです。 悩み始めたきっかけは、労金ポイントなのですから、何でもいいから引き替えてしまって、ポイントを消化してしまえば、すっきり治ると思うんですが、なまじ選択肢がたくさんあるものだから、どれが最良の道と決める事ができません。

  同じ50ポイントで、髭剃り機を貰ってしまう、というのも考えました。 髭剃り機は必ず壊れますから、貰うだけ貰って、しまっておけば、今使っているのが壊れ次第、確実に出番が回って来ます。 いつ使うか分からない葬式用腕時計なんぞより、なんぼか実用的です。 しかし、実用的であるがゆえに、気分が乗らないのです。 髭剃り機には、買い物としてのロマンがありません。 そもそも、髭剃り機にロマンを求めるのがおかしいですが。

  で、どうしていいか決まらんのですわ、いまだに。 前にも書きましたが、私、金が絡むと、判断力や決断力が著しく鈍る欠点があります。 こうして、これを書いている間も、胃が痛くて仕方ありません。 とにかく、今週中には、何とかするつもりでいます。 ほんとに、死んだらつまらんですから。

2010/04/04

続2010年・冬の読書

どうも、ここのところ、内容のある記事を書いていません。 主な理由は、ニュース日照りで、ここで取り上げるような出来事が起こらないからですが、私の方にも原因があって、ここ半年ほど、世の中に対する興味が減退しつつあるのです。 ちょっと、動物方面に入れ込み過ぎて、人間の存在を軽視するようになってしまったんですな。 ただ、私自身、所詮、人間の一人に過ぎませんから、世を儚んで首でも括らない限り、結局、人間への興味に戻って来ざるを得ないでしょう。 現在、態勢の立て直し中。

  というわけで、今回は、読書感想文を。 読書だけは、相変わらず、ボチボチと進行しています。 会社に行っている限り、休み時間があり、休み時間がある限り、読書以外やる事が無いという理由で。




≪世界の名著 トマス・アクィナス 神学大全≫
  トマス・アクィナスは、13世紀のイタリアの神学・哲学者。 ≪神学大全≫は、その代表的な著作です。 13世紀というと、キリスト教圏はまだ暗黒時代だったのですが、イスラム世界で研究が進んでいたアリストテレス哲学が流入して、一条の光明が差し込みます。 トマス氏が、聖書の記述とアリストテレスの神学を、矛盾が起こらないように解釈したのが、この本。

  しかし、本来、全く根が違う二つの世界観を一つにできるはずがないのであって、ほとんどの説明は、屁理屈を捏ね上げたものです。 トマス氏の最大の弱味は、キリスト教神学者として、「聖書は神の言葉であるから、その記述に間違いは無い」という前提から逃れられなかった事です。 間違った前提に拠っていたのでは、どんなに論証が巧みでも、正しい結論には到達しないという典型例になってしまっています。

  当時の神学者の間で、これ以上無いほど高い評価を受ける一方で、「これは、ただのこじつけではないのか?」と、疑念を抱いた人達が、この後、ルネサンスを経て、少しずつ聖書の真実性を崩して行きます。 ヨーロッパの科学は、聖書を否定する事によって、確立されていったんですな。




≪クマの畑をつくりました≫
  ニホンツキノワグマの保護に携わっている人が書いた活動内容の報告。 日本のツキノワグマは、急速に数を減らしていて、九州ではもう絶滅してしまったらしいです。 理由はもちろん、害獣としてバンバン撃ち殺しているから。 全国で毎年2000頭も殺されているというから驚きですが、全部で何頭いるか、学術的調査は一度も行なわれておらず、殺した数から推測して、「大体、一万頭くらいなんじゃないの?」と言われているのだとか。 超いい加減ですな。

  著者は、宮城県在住、本業は郵便局員。 九州のクマが絶滅したと知ってショックを受け、「このままでは、本州・四国のツキノワグマもいなくなってしまう!」という危機感に突き動かされて保護活動を始めたのだそうです。 題名の「クマの畑を作りました」とは、クマが人里の畑を荒らさないように、山裾の休耕地を借りてトウモロコシを作り、そこで満腹させてしまおうという作戦の事。 完璧ではないものの、まずまずの効果を上げているそうです。

  この活動、「野生動物の餌付けだ」と、批判もされているらしいのですが、ここまで減っているとなると、手段を選んでいられないような気もします。 手厚く保護されているパンダは1600頭ですが、棲息範囲は日本の本州四国九州よりずっと狭いです。 それを考えると、ニホンツキノワグマの一万頭という数字は決して多くないにも拘らず、保護するどころか、行政が許可を出して殺し続けているのだから、そのグロテスクな現実には、じっとり脂汗を流さずにはいられません。




≪旭山動物園の奇跡≫
  旭山動物園の改革の経緯を、外部の人間の目から見た本。 類似書がいくつも出ているので、個性を出しづらいところですが、この本の場合、関係者へのインタビュー内容を中心にして、間を編集者の説明で繋ぐという体裁を取っています。 著者名が無いのは、そのため。 開園当時のスタッフの顔ぶれが詳しく紹介されている点は、他の本には無い特色といえるでしょう。 後に絵本作家になった、あべ弘士さんへのインタビューも載っています。




≪世界の名著 ダーウィン 人類の起源≫
  この≪世界の名著シリーズ≫ですが、図書館にある本は表紙に題名が書いてありません。 たぶん、カバーかケースがあって、そちらには書いてあるのでしょうけど、外されてしまっているんですな。 背表紙には著者名だけ書いてありますが、写真に撮りにくいので、中扉の方を撮影しました。

  ダーウィンといえば、≪種の起源≫が有名ですが、この本には、≪人類の起源≫という著作が収められています。 ≪種の起源≫では、進化論に対する拒否反応を警戒して、人類の進化に言及するのを避けたため、進化論がある程度世の中に受け入れられた後、それを補足したのが、この≪人類の起源≫というわけ。 だけど、人類の進化について書いてあるのはほんの少しで、大部分は、鳥や蝶を例に、≪性淘汰≫について書かれています。

  性淘汰というのは、自然淘汰とはちょっと違う現象です。 たとえば、大抵の鳥は、オスの方がメスよりも美しいですが、その理由を、「メスに配偶者として選ばれるために、より美しいオスが残って来たから」と解釈するのが性淘汰です。 自然淘汰では、環境によって適不適が決まりますが、性淘汰でそれを決めるのは、メスの好みなわけです。 まあ、それはいいとして、題名が≪人類の起源≫なのに、どうして半分以上のページを性淘汰に割いているのか、その理由が今一つ理解しにくいです。。

  19世紀頃の生物学は、博物学から完全には分離していなかったためか、事例を多く並べなければ学説に説得力が与えられなかったようで、これでもかというくらい、鳥や蝶の種類が挙げられています。 「百年以上前に、こんな事までわかっていたのか!」と驚く事が一度や二度ではなく、ヨーロッパの博物学の真髄を見た心地がします。

  人間の進化について書かれた部分の中に、「人種や民族の違いによって進化の程度に差がある」というような事が書かれていて、これがいわゆる、「自然淘汰の原理を人間の世界に持ち込み、植民地主義・帝国主義に科学的正当性を与えてしまった」と指摘される元になった説なのでしょう。 この本を読む限り、実際にダーウィンは、そう思っていたようです。 彼から見て、最も進化が進んでいるのは、もちろんイギリス人で、以下、近隣のヨーロッパ諸国人が続き、アジアやアフリカ、アメリカ先住民は、進化レベルが低いという事になっています。

  今となっては、完全な間違いですが、ヒトラーなどは、この説を本気で信じていたわけですし、今でも、人種間・民族間の争いの陰には、この説の信望者が多く蠢いていると思われます。 なまじ、ダーウィンの名声が高かっただけに、その影響力も強かったわけですが、なんとも罪な本を書いてくれたものです。




≪オオカミ 【その行動・生態・神話】≫
  スエーデン出身の動物学者が、ドイツに囲い地を設けて、オオカミの群を飼育し、生態を観察した記録。 囲い地というのは、森の中のかなり広い範囲を柵で囲った場所で、動物園のケージなどとは規模が全く異なり、自然状態に近いオオカミの振る舞いを知る事が出来るのだそうです。

  オオカミというと、猛獣のイメージがありますが、基本的に人間を襲う事はなく、むしろ、人間が近づくとオオカミの方で避けるそうです。 その一方で、著者のように群の一員として認められると、順位争いに加わる事になり、トップを狙う下位のオオカミから挑戦を受ける事があるのだとか。 通りすがりの他人よりも、仲間になった人間の方が襲われやすいというのは、面白いですな。 もっとも、その場合でも、あくまで目的は順位争いですから、致命傷を負って喰われてしまうような事はないようです。

  後半、イタリアに生き残っている野生のオオカミを調査した時の記録が出て来ます。 人間の居住地のすぐそばに住んでいて、夜になると街なかへゴミをあさりに出て来るらしいです。 土地の人達では、オオカミに縁が無い人ほどオオカミを恐れており、羊を連れて山へ行くような人は全然怖がっていないのだとか。 ただ、羊が襲われる事はあるので、嫌ってはいるそうですが。

  西欧のオオカミは、英仏独では絶滅しており、スペインやイタリアでも、数十頭の生息地がちらほら残っている程度、北欧では、それが数頭にまで減りますが、それでも牧畜関係者から、「多すぎる」と言われているのだそうです。 環境保護に熱心に見える国の方が、オオカミには棲み難い地域になっている点は、興味深いですな。 ちなみに、東欧では、まだかなり多く残っており、ロシアになると、一万頭くらいはいるそうです。




≪狼 【その生態と歴史】≫
  日本に於ける犬の研究で有名な、平岩米吉さんの著書。 本来は、イヌ科全般を対象にした長い論文だった中から、犬に関する部分を切り離して、≪犬の行動と心理≫という本にし、その残りの部分が、この本になったのだそうです。 オオカミに関する記述が多いので、こういう題名ですが、イヌとオオカミ以外のイヌ科動物の簡潔な解説も含まれています。 ジャッカルとか、リカオンとか、キツネとか、タヌキとか。

  平岩米吉さんの研究は、動物学と民俗学の両面から行なわれるのが特徴で、この本でも、オオカミに対する日本の過去の記録がうじゃうじゃ出て来ます。 近代以降はもとより、江戸時代以前、古くは平安時代頃まで遡って文献を調べ、オオカミに関する記事を探しており、そういう珍しい知識が得られるのが、この本の最大の価値と言えるでしょう。

  オオカミとイヌの違いを、頭骨の形の違いから見分ける方法を発見したのも、この著者。 頭骨に下顎骨をつけた状態で平らな所に置くと、頭骨の後端が底面に着くか着かないかで分かるのだとか。 肉食性のオオカミと雑食性のイヌとでは、食べている物が違うため、顎の形に違いが出るという、科学的な説明もついている、割と納得し易い説です。

  ニホンオオカミの特徴について、他種のオオカミより頭骨の長さが短いという点を挙げていますが、他のニホンオオカミ本を読むと分かるように、ニホンオオカミという種が存在したかどうかすら、科学的に証明されているとは言い難いので、この点に関しては、鵜呑みには出来ません。

  この本の弱さは、著者がオオカミの研究をしていた時代が、昭和中期以前と古いため、まだ動物学が博物学から脱却していない頃の影響が残っており、科学的な研究姿勢に徹しきれていない点にあります。 ただ、読み物としてなら、現在でも大変面白い本だと言えます。




≪オオカミと生きる≫
  これは、ドイツで、オオカミの群を幾つも囲っている逞しいオッサンの書いた本。 この人、学者でも研究者でもなく、非常に変わった経歴を持っていいます。 子供の頃は、牧畜をやっている家で動物に囲まれて育つのですが、最初の就職先は、なぜか動植物園の園芸係員。 それが、ある時、動物園の方で暴れていた動物を、いとも容易に取り押さえて見せたのをきっかけに、飼育員としてスカウトされ、見る見る猛獣の扱いに才能を発揮するようになります。

  ところが、才能があり過ぎて、猛獣使いレベルまで行ってしまったものだから、動物園の方針と相容れなくなって、退職。 その後、なぜか西ドイツ軍の国境警備隊に入り、部隊のマスコットとしてクマを飼育する傍ら、休暇を利用して世界中の未開地域へ冒険の旅を繰り返します。

  そうこうしている内に、オオカミの飼育に手を染め、そちらにどっぷり嵌り込んでしまいます。 囲い地を幾つも作り、シンリンオオカミやホッキョクオオカミを養って、自分もそれらの群に加わり、オオカミになりきって暮らすようになります。 このなりきりぶりが半端ではなく、群を掛け持ちしながら、エサの肉を取り合ったり、毎夜オオカミ達と一緒に眠ったりします。

  前半は、オオカミの群ごとの社会生態の記述で、繰り返しが多く、あまり興味を引かないのですが、後半、著者の経歴紹介になると、俄然面白くなり、最後まで一気に引っ張って行きます。 オオカミの本と言うより、オオカミになった人間について書かれた本という感じです。


  以上、今回は、一冊ごとの感想が長かったので、7冊まで。 ≪トマス・アクィナス 神学大全≫と、≪ダーウィン 人類の起源≫は、二段組で、それぞれ、546ページと574ページもあり、読み終えるのに、うんざりするほど時間が掛かりました。 本来なら、この程度の感想文では全然足りないんですが、細かく書き始めるとキリがないので、ざっとやっつけた次第。