2012/02/26

タクシー


  この世の中に、気が知れないものは多々ありますが、その中でも、一二を争う程に、タクシーに乗る人の気が知れません。

  とりわけ、私用で乗るタクシー、つまり、会社の金ではなく、個人が自腹で乗るという意味ですが、あれは、まったく、気が知れません。 「初乗り、600円」などと、窓にデカデカ書いてあるにも拘わらず、よく、乗り込む気になりますねえ。 初乗りというのは、距離2キロが普通らしいですが、たかだか、2キロ移動するために、600円? お金の価値が分かっていないんじゃないでしょうか?

  お金の価値を考える時、基準として有効なのは、自炊で一食分に掛かる金額です。 病的にケチるのは避けるとしても、300円あれば、何とか腹がいっぱいになる程度の物が食べられるでしょうか。 つまり、タクシーで2キロ走るのに、二食分のお金が消えるわけだ。 もし、あなたが生活に困っていて、餓死寸前に追い込まれているとしましょう。 その600円があれば、二回も食事ができるのですよ。 餓死寸前状態から、3分の2日分も、寿命が延びるのです。 その貴重なお金で、タクシーに乗る気になれますか?

  ああ、勿体無い勿体無い・・・、2キロくらい、自分の足で歩きなさいよ。 すぐそこじゃないですか。 直線なら、見える距離ですぜ。 まあ、実際には、2キロ先に行くためにタクシーに乗る人は、あまりいないと思いますが、それ以上の距離を乗るとなれば、料金は更に高くなるのであって、輪を掛けて気が知れません。 荷物がある場合、歩けというのは酷かも知れませんが、それなら、なぜ、バスに乗らぬ。

  小学生の頃、小金持ちの友人がいました。 ボンボンであるが故に、バスの乗り方を知らず、繁華街から家まで、タクシーで帰った事があったとかで、クラスメイトの間で、伝説の語り草になっていました。 そういう世間知らずの子供ならいざ知らず、大の大人が、バスの乗り方を知らんという事はありますまい。 なぜ、安直に、タクシー乗り場に並ぶかな? うーむ、気が知れん。

  子供の頃、母と他所の街に出掛けて、夜になってから戻って来ると、駅から家まで、タクシーに乗る事がよくありました。 子供を連れているくらいですから、そんなに遅い時間というわけではなく、まだ、バスの便があったと思うのですが、それでも、母は、タクシーを選んでいました。 当時は分からなかったのですが、その後、母の性格を知るに連れ、それが虚栄心から出た行動である事が分かるようになりました。 タクシーを家の前に着けて、下りて来る所を、近所の人に見せて、小金がある事を自慢したかったんですな。 じじじ、実に下らん! 大体、夜中に、往来を観察している人なんか、いないって。

  そんな金があったら、私の小遣いを増やしてくれればよかったのに。 恥を曝すようですが、私は小中学生の頃、小遣いを600円しか貰っていなかったのです。 一日じゃないですよ。 一ヶ月にですよ。 当時のタクシーの運賃は、今より安かったと思いますが、それでも、駅から家まで乗れば、2000円くらいにはなったはずで、バスに比べれば、5倍以上かかったはず。 ああ! バスで帰って、浮いた差額を私にくれれば、どんなに母に感謝した事か。 今となっては、母の下らぬ見栄のために、虚しく消えていったお金の冥福を祈るしかありません。

  というわけで、長じて以降、私は自腹でタクシーに乗った事が、ただの一度もありません。 A地点からB地点へ向かう際、選択肢に入るのは、徒歩、自転車、バイク、車、バス、電車のみであり、タクシーは念頭に浮かばないのです。 探せば、他の交通手段は必ずあるので、料金が高いタクシーは、最初から候補外になってしまうわけです。

  一人でタクシーに乗った事が一度だけありますが、それは中学の頃、祖母が倒れて、病院に運ばれ、「もう、危ないようだから」という事で、家に残っていた私が呼び出された時でした。 私が病院の場所を知らなかったので、親がタクシー会社に電話して、家まで迎えに回してくれたのです。 そういう事情であれば、タクシーは有効だと思いますが、やはり、子供だったからなのであって、もし、大人であれば、地図で病院の場所を調べて、他の方法で行ったでしょう。

  タクシーが有効といえば、電車で知らない街へ行った時に、駅から目的地まで向かうのに、タクシーに乗ってしまえば、道案内も兼ねてくれるので、手っ取り早いです。 だけど、これも、今は昔の考え方でして、インターネットで、全国の地図やバス路線網が調べられる現在では、タクシーが唯一の足とは言い難くなっています。 「下調べなんて、面倒臭い」という人も多いでしょうが、私に言わせれば、お金の方がずっと大切だと思います。 バスで行って、浮いたお金で、何か食べた方が、遥かに有意義というもの。

  用事があるわけでなく、単なる観光旅行で、タクシーを使う人もいますが、もはや、金銭感覚が崩壊しているとしか思えませんな。 旅先の事とて、財布の紐が緩んでいるのでしょうが、お金をドブに捨てているようなものです。 そのお金を稼ぐのに、何時間働いたかを思い起こせば、とても、タクシーには乗れないと思うんですがねえ。

  また、タクシーが、物凄く快適な乗り物だと言うなら、乗りたくなる気持ちも分かるのですが、そうではないと思うのですよ。 何なんでしょうね、あの、居心地の悪さは? 妙に緊張すると言うか、どういう姿勢で乗っていればいいのか分からないと言うか・・・。 運転手は赤の他人なので、緊張するなと言う方が無理ですな。 沈黙が続くと、気まずいし、さりとて、べらべら話しかけられると、鬱陶しいし。

  タクシー運転手は運転が荒いため、他の車から見ると、要注意車両なのですが、恐ろしい事に、その荒さが、乗せている客に対しても発揮される事があります。 特に多いのは、道順に関する諍い。 客が道順を知っている場合、遠回りされれば、当然、指摘するわけですが、これに対して、噛み付いてくる運転手がいます。 しかも、生殺与奪の権を握っているせいか、異様なほどに高飛車と来たもんだ。

  私が高校の頃、母と二人で、東京でアパート住まいをしていた兄の所へ行ったのですが、その時、最寄り駅からアパートまで乗ったタクシーの、若い運転手が怖かった。 前に一度来ていた母が、遠回りを始めた運転手に、「こっちの道じゃないんですけど・・・」と、やんわり指摘したところ、烈火の如く怒り出し、

「そっちは工事しているから、渋滞で時間が掛かるんだよ! 時間でもメーター回るけど、それで、いいの!?」

  はいはい、確かに、その運転手の言う通りだったんでしょう。 地方から出て来た、いかにも田舎者という風体の親子連れに、良かれと思って、心遣いをしているつもりだったのが、逆に、遠回りを指摘されたものだから、可愛さ余って憎さ百倍、ブチ切れずにはいられなかったんでしょうなあ。 だけどねえ、何も、怒鳴りつける必要はないよねえ。 心の底では、客を小馬鹿にして、見下しているから、そういう態度が出て来るんじゃないのかね?

  他所から来た客だと思ったら、時間が掛かっても、最短コースで行ってくれた方が、乗っている方は、不安にならずに済むんですよ。 渋滞はタクシーのせいじゃないから、それでメーターが上がっても、文句を言ったりはしません。 こういう運転手は、自分が他所の街へ行って、客として、タクシーに乗ってみるべきですな。 というか、タクシー会社が新人研修で、そういう事をやらせたらいいと思います。

  乗車拒否というのも、頭に来ます。 これも、もう20年くらい前ですが、家族で、愛知県の岡崎市に行った時、駅から岡崎城まで、タクシーで行こうとしたところ、乗って、走り出して、目的地を告げた途端に、運転手が、「ちっ!」と舌打ちして、急ハンドルでUターンし、元の場所へ戻って、下ろされました。 そして、捨て台詞、

「城は、すぐ、そこだよ」

  いや、それは分かってるよ。 地図も見てるし。 だけどね。 荷物が多いから、歩くのがきついと思って、タクシーに乗ったんだよ。 ・・・と、そんな事は、とても、言える雰囲気ではありませんでした。 あの時の運転手の顔は、ヤクザ・チンピラと変わらなかったね。 近距離では稼ぎにならないと思って、乗車拒否したんでしょうが、そもそも、そのために、初乗り料金が決めてあるんじゃないのかね? ただ、面倒臭かっただけ? いやはや、そんな腹でやっているなら、タクシー運転手なんざ、さっさとやめちまいな。 サービス業ができるような、高等な人間じゃないんだから。

  結局、城まで、大きな荷物を吊る下げて、歩いたわけですが、徒歩だとかなりの距離があり、疲労困憊しました。 岡崎市の名誉のために付け加えておきますと、城から駅に戻る時に拾ったタクシーは、ごく普通に、乗せてくれました。 同じ距離なのにね。 まあ、当然ですわな。 乗車拒否は犯罪だそうですが、それ以前の問題として、タクシーが客を乗せないんじゃ、商売にならんわなあ。


  性格が荒くなるのは、車に乗り続ける職業全般に共通する特徴で、路線バスの運転手、教習所の指導員などを思い浮かべてみれば、誰でも、「ああ、なるほど・・・」と頷くと思います。 客と接触が多ければ多いほど、荒さが増すようで、荷物が相手のトラック運転手や、バスガイドが接客してくれる観光バスの運転手などは、それほど、性格が悪くならないようです。

  タクシー運転手は、客との距離が近く、会話を強いられる場面も多いので、教習所の指導員と並んで、最も劣悪な精神衛生環境に曝されていると言えます。 もし、これから、タクシー運転手になろうという人がいたら、その事は、覚悟しておいた方がいいですな。 自分が、心優しい紳士的な運転手を目指そうと心掛けていても、客の方は十人十色で、みんながみんな、祖母を看取るために病院へ運ばれる中学生のように、扱い易い相手じゃないですから。

  もしかしたら、タクシー運転手が激怒し易いのは、ヤクザ・チンピラや、ふんぞり返った会社重役など、ろくでもない客に苛められている事の、反動かもしれませんな。 強い客には敵わないので、弱い客を苛めて、精神のバランスを保っているわけだ。 江戸の敵を長崎で取られちゃ、まともな客はたまったもんじゃありません。 これから、タクシー運転手になろうという方々、くれぐれも、ある時、客を怒鳴りつけている自分を発見して、戦慄しないように。

  そういえば、街を行くタクシーを見ていると、リア・ウインドウにでかでかと、≪乗務員募集≫の文字が貼ってあるのが常ですが、あれだけ年中、募集ばかり掛けている業種も珍しいのではありますまいか? そんなに、タクシー運転手ばかり増えたら、街がタクシーだらけになってしまいそうですが、そうはならないところを見ると、つまり、それだけ、辞める人も多いという事でしょう。

  「不況になると、タクシーが増える」らしいですが、それは、客側の需要が増えるからではなく、失業者が、年中募集を掛けているタクシー会社に潜り込もうとするからのようです。 なんでも、東京では近年、タクシーが増え過ぎた結果、タクシーばかり数珠繋ぎになって、渋滞が起きている街もあるそうですが、何だか、笑ってしまいますな。 シャーレの中の培養菌を見ているようです。 その内、共倒れして、どっと数が減り、減ると、稼ぎ易くなって、また増えるんでしょう。

  以上、タクシーに関する、多分に個人的恨みつらみが含まれた考察でした。

  オマケ。 昨今、プリウスを使ったタクシーが、地方でも、よく見られるようになりました。 燃費がいいから、長距離を走るタクシーには打って付けのような気がしますが、料金は他のタクシーと変わらないから、客側には、別段、恩恵がありません。

  そればかりか、プリウスは本来、後席の居住性を重視した車ではないので、空気抵抗を減らすために流線型にした屋根が、後席付近で下がっており、背が高い人や、座高が高い人は、頭が天井についてしまうと思います。 乗っていて、頭が天井にちょこちょこ当るのは、ありゃあ、不快なんだわ。 首が縮むような気がするね。 高いお金払って、首を縮めて乗っているというのも、随分と滑稽な光景ではないでしょうか。

2012/02/19

動画再生不良

  先日書いた、勤め先の福利サービス・ポイント、12万円分ですが、手付かずのまま、あっと言う間に、2月も半ばを過ぎてしまいました。 まったく、歳を取ると、時間が経つのが早い。 この調子では、3月末の期限も、瞬く間に肉薄して来る事でしょう。

  旅行の方は、ほぼ、没に決まりました。 正直な欲求として、遠くに行きたいと思わないのですよ。 今年の冬が寒過ぎるせいもあると思いますが、知らない土地へ行って、ガタガタ震えながら、興味も湧かない観光地を見て回っている自分の姿を想像すると、それだけで、背筋が寒くなって来ます。

  それでなくても、この1月から3月は、去年の震災休業の振り替えで、土曜出勤の週が多く、休みが日曜一日しか取れません。 日帰りで、12万円使うなど、どう考えても無茶ですし、数回に分けるとすると、半額補助になってしまうので、12万円分自腹を切る事になり、それも、馬鹿馬鹿しい。 遅番の週ならば、土曜の午前2時頃には家に帰って来ますから、土日をフルに使って、一泊二日も可能ですが、「仕事→旅行→仕事」では、体がもちません。

  また、かつて、旅行好きで、暇と金さえ出来れば、国内旅行に出掛け倒していた母の話によると、「ツアー旅行は、分刻みで引きずり回されるから、非常に疲れる」との事。 私は、今の今まで、ツアー旅行の事を、「業者任せで、連れてって貰うわけだから、楽だろう」と思っていたのですが、とんだ思い違いだったわけですな。 「他人が一緒なので、メンバーに騒がしい人達がいると、旅行の間中、嫌な思いをしっぱなし」などと付け加えられると、もう、没にせざるを得ないというわけです。


  で、パソコン買い換えの方に一縷の望みを託しているわけですが、そちらの計画も、遅々として進みません。 こちらは、完全に半額補助なので、いくらの物を買うにせよ、それなりに自腹も切らなければならないわけで、「すぐにすぐ必要でない物を買うのは、結局、無駄遣いなのではないか?」という疑問に打ち勝てないのです。

  自室パソコンは確かに、動画再生がスムースに進まず、もはや、旧世代機である事は隠しようがないところ。 2年前に買い換えた居間のパソコンだと、テレビよりは画像が粗いものの、動きはちゃんとしているので、原因が、回線速度ではなく、自室パソコンの処理速度である事は明らかです。

  これ、勘違いしていて、会社の同僚で、「俺ん家、光にしてないから、動画なんて、全然動かないよ」とこぼしている人がいましたが、違うんですよ、それは。 動画の再生不良の原因は、回線速度だけではないのでして、パソコンが古いと、画像処理能力が低くて動かんという事の方が多いのです。 試しに、動画再生中に、タスク・バーを右クリックして、タスク・マネージャーを開き、パフォーマンスを見てみなされ。 CPU使用率が、絶望的なくらい、100%の天井にベタ着きしているから。

  「インター・ネットをやるだけなら、中古のパソコンで充分」といったような物言いは、あちこちでよく耳にしますが、その考え方が有効だったのは、ネット動画が普及する前の話でして、今から買うのであれば、2005年以前に販売された品など、とても薦められません。 「動画なんか、見ない」という人であっても、今や、フラッシュが使われているページは、うじゃうじゃありますから、そのたびに、「なかなか、開かんなあ」という、イライラ感に苦しめられる事になります。

  ちなみに、私のパソコンは、2年ほど前から、フラッシュを使ったページを開くと、「問題が発生したため、ウインドウズを閉じます」という表示が出て、勝手に閉じてしまうようになりました。 しかも、その時開いているウインドウだけでなく、タスク・バーにあるウインドウまで、全部閉じるから、頭に来るったらありゃしない。

  大体、普通のページに、フラッシュなんか使いやがるから、いかんのですよ。 メーカー・サイトの製品紹介のページなど、トップにフラッシュを使っている所が、やたら多いですが、たとえ、まともに動いたとしても、フラッシュを見終えるまで、他の操作ができぬ場合が多く、時間は掛かるわ、情報価値は無いわで、鬱陶しいだけ。 製品の紹介ページなんだから、製品紹介だけ載せればいいじゃありませんか。 極端な事を言えば、外観写真と仕様だけでも充分。 なんで、こんな馬鹿な習慣が広まるかな?

  大方、ホーム・ページ作成会社とかに依頼して作ってもらっているのでしょうが、そういう会社は、「素人では作れないようなページを作らなければ、プロの存在意義が無い」とか、余計な自負を抱いていて、必要も無いのに、フラッシュを多用するのでしょう。

  また、依頼したメーカー側の担当者も、土素人なもんだから、フラッシュが動くと、「おお、カッコいいじゃないか!」と感動して、「やっぱり、餅は餅屋だな」などと、ほざいておるに決まっておるのですが、全く以て、自己満足以外の何ものでもなし! 製品を比較検討している顧客は、一時に、何ページも開いているんだよ。 仕様表を見るだけでも、大変なんだよ。 一秒でも惜しいんだよ。 いちいち、フラッシュなんぞに付き合ってられるかってーの。 まず、自分でやってみー!

  おっと、脱線してますな。 で、いろいろ調べた結果、「フラッシュを受け付けない以外に、打つ手無し」という事になり、アドオンの管理で、フラッシュ・プレーヤーを無効にして使っています。 そのおかげで、フラッシュがあるページでも、早く開くようになりましたが、当然の事ながら、フラッシュ部分は「×」になっていて、見れません。

  動画の中には、ウインドウズが閉じずに見れる物もあり、どうしても見たい場合、フラッシュを有効にして試してみるのですが、この切り替えが面倒臭い。 パソコンをリカバリーすれば、直るかも知れませんが、いろいろと面倒な事が起こりそうなので、やる気になりません。 たとえ、フラッシュの問題が解決しても、パソコンの性能が動画再生向けでない事に変わりは無く、もし、本格的に動画を見たいのなら、買い換えてしまった方が利口でしょう。

  実は、パソコン・ショップへ行ったり、ネットでメーカーの製品ページを見たり、あれこれ、調べているのですが、どうやら、動画再生には、CPUのクロック周波数の数値の他に、ビデオ・メモリの容量も深く関わっている様子。 動画を普通に見れる居間のパソコン(emachines EL1352-H22C)のビデオ・メモリ容量は、800メガなのですが、自室パソコン(イイヤマ KDV933RW)のを調べてみたら、あーた、笑っちゃうじゃありませんか。 ただの、8メガでした。 問題外! 比較にならん! たった、100分の1ですぜ。 そりゃ、動画も停まるわなあ。

  自室パソコンを買ったのは、もう9年くらい前なのですが、たぶん、その頃のパソコンは、みんな、その程度だったのではありますまいか。 で、「動画なんて、全然動かないよ」という事になるわけだ。 この9年の間に、ネットの動画化が進み、それに合わせて、パソコンの動画再生機能も充実されて行ったんでしょうなあ。 全然、知らなかったけど…。 つくづく思うに、「ネットしかやらないなら、中古で充分」などという半可通の口車に乗ってはいけません。 もう、時代が変わってるんだって。


  とはいうものの・・・、それはあくまで、一般論。 自分の問題に特定した時、「果たして、パソコンでそんなに動画を見るのか?」と考えると、「どんなもんだか、怪しいもんだ」と思ってしまうのです。 人に薦めるのなら、「見れる動画を、見ないで済ませ」と言うのは無茶な話ですが、自分に限って考えるのなら、私は、あまり、動画向きの人間とは言い難いのです。

  まず、性格がケチなので、有料配信番組を見るような事は、あり得ません。 電話会社やプロバイダーに払っている料金だけでも高過ぎると思っているのに、この上、鐚一文だって出せるものですか。 時間的に考えても、無理がある。 テレビ番組の録画だけでも見切れないというのに、この上、パソコンで動画など見る暇が作れるわけがありません。

  また、テレビなら、ベッドに寝ながらでも見られますが、パソコンは机の上にあるので、見ている間、椅子に座っていなければならず、これは、かなりきついです。 ネットを見る時やパソコン作業をする時には、マウスやキーボードの操作があるから、椅子に座りっ放しになるのも、やむを得ませんが、単に映像を見るだけなら、寝ていた方が楽に決まっています。 なんで、腰痛を堪えて、座ってなきゃならんのよ?

  次に、ユー・チューブなどで見れる、無料動画ですが、自分から探して見に行くような事は、まーず、ありません。 素人が作った動画というのは、そんなに面白くはないんですわ。 見続けていると、気が滅入って来るような、しょぼさがありますな。 「今、話題の動画! アクセス数が○十万件!」などと聞くと、いてもたってもいられず、見に行く人がいるようですが、私には、そういうノリは全く無いです。

  最後に、テレビ番組を一般人が録画してネットで流している、違法動画ですが、アニメ・ファンなので、見たい物がたくさんあるものの、何と言っても、違法なので、見るわけには行きません。 今は、まだ、法規制が緩いですが、いずれ、配信側だけでなく、見ている方も、パソコンを特定されて、警察が訪ねて来るような時代になるでしょう。 そんな先行き危なっかしい事は、始めから習慣にしないに越した事は無いです。

  うーむ、結局のところ、「動画を見たい」という欲求だけでは、パソコンを買い換える動機として、弱いという事ですかねえ。 そして、動画を見ないのなら、今のパソコンでも、何の問題も無いのですよ。 やれやれ、どうしたもんだか・・・。


  パソコン買い換え計画については、目下、進行中なため、まだ書く事があるのですが、長くなってしまったので、今回はここまでにします。

2012/02/12

金ヶ崎町立図書館の本②

前回に引き続き、岩手で読んだ本の感想です。 仕事の方がきつかったので、肉体的にも、精神的にも、かなり参っており、重いものは借りませんでした。 新書とブルー・バックスばかり。



≪宇宙のはてを見る≫
  現実生活が辛かったので、深遠な世界に逃避しようと、こんな本を借りました。 書名の通り、人類が、宇宙の果てをどのように探って来たか、その歴史と現在の概況を詳しく記した内容です。 1988年発行なので、情報が些か古いですが、天文知識としては、今でも問題なく参照できる正確さを持っていると思われます。

  講談社のブルーバックス・シリーズは、科学知識を入門者向けに分かり易く解説したものですが、正直に白状しますと、私の基礎知識が少な過ぎて、はっきり理解できない所も多かったです。 遠く離れた恒星や銀河までの距離を測るのに、視差を利用しているらしいのですが、遠くなればなるほど誤差は大きくなるわけで、果たして、正確な数値が出せるものなのかどうか、疑問が湧かないでもなし。

  この分野、とにかくスケールが大きくて、現実の嫌な事を相対化して忘れるのには打って付けですが、分かっている事が少なくて、どっぷり傾倒するには、少々喰い足りなさを感じます。 読んでいて、わくわくするという所まで行かないのです。



≪世界共和国へ≫
  内容をすっかり忘れてしまったので、沼津の図書館で同じ物を借りて来て、パラ読みしたんですが、思いのほか難しく、数行で要約できるようなものではありませんでした。 よく、こんなの読んだな。

  書名だけ見ると、EUの拡大版のような、具体的な世界共和国の事を書いてあるように思えるのですが、そういう趣きではなく、もっと原理的・思想的な観点から、世界の経済史・政治史を分析し、今後期待されうる、世界共和国の理念を述べたもの。 あー、小難しい! でも、本格的な思想書に比べたら、ずっと平易に書かれています。 ちなみに、著者の肩書きは、文芸評論家にして、思想家。

  すっかり忘れているという事は、興味が湧かなかったという事なんでしょうが、一方で、結構楽しんで読んでいたような記憶もあって、なんで、忘れてしまったのか、自分でも解せません。



≪世界の論争・ビッグバンはあったか≫
  ビッグバンというのは、宇宙は最初、一つの小さな塊で、それが爆発的に膨張して、現在の状態に至ったという理論の事。 今では、すっかり常識化して、宇宙に何の興味も無い人でも知っていると思うのですが、このビッグバン理論が、必ずしも、正しいと決まったわけではないという事を述べた本。

  見ていた人がいるわけではないので、所詮、理論上の想像に過ぎないというわけですな。 ビッグバンの他にも、定常宇宙論という理論があり、そちらでも、現在の宇宙の状態を説明できるのだそうです。 多くの学者が、ああだこうだと、思いつく限りの考え方を発表しているようで、素人にはどれが正しいのか、判断のしようがありません。

  「宇宙全体は膨張しているのに、銀河系内や太陽系内で、星と星の間の距離が開いていないのはなぜか?」について、前々から疑問に思っていたのですが、「星が集中している所では、互いの重力が働いて引き寄せ合っているので、距離が開かない」という説明がなされているそうです。 一応、納得。 しかし、それが、唯一無二の絶対的に正しい解釈とも思えません。 宇宙の構造は、まだまだ分かっていない事の方が、無限大数的に多いのでしょう。



≪擬似科学入門≫
  ≪だます心 だまされる心≫と、一脈通じる所がある本。 こちらは、心理トリックではなく、科学を装って人を騙そうとする、疑似科学の事例を集め、分類と批判を加えたものです。

  超科学、超能力、宇宙人、幸運グッズ、インテリジェント・デザイン、水からの伝言、マイナス・イオン、健康食品、二年目のジンクス、科学用語の悪用、学者の肩書きの悪用、統計の悪用、プラシーボ効果、ホーソン効果、などなど、専門家ならぬ一般人がよく騙される手口を、詳しく分析しています。

  本物の科学は、論証できると同時に、反証もできるようなものでなければいけないのだそうです。 たとえば、「宇宙空間に観測不能なほど小さなティーポットが存在している」というような主張は、論証もできなければ反証もできないので、そもそも、科学研究の対象にならないのだとか。 疑似科学で騙そうとしている方が、「嘘だというなら、反証してみろ」と言う事がよくあるらしいのですが、本来は反証を求める以前に、理論を主張している側が、正しいという事を論証すべきなのだそうです。

  この本を読んでいると、世の中に流布し、多くの人に信じられている科学知識が、実はいい加減なものである事が分かり、なんだか、科学界全体が信用できなくなってきます。 インターネットが普及して以降、ますます、嘘だか本当だか分からない理論が罷り通るようになったのは確実で、人類の未来が大いに心配になります。



≪Jポップとは何か≫
  新書には珍しい、身近な文化を取り上げたもの。 歌謡曲・演歌の時代から、アイドル全盛期を経て、「Jポップ」と呼ばれるカテゴリーが成立し、変遷し、衰えていくまでを、ほぼ編年体で綴っています。 真面目な研究なのですが、学術的な小難しい所は全く無いですし、この分野は誰でも多少は興味があると思うので、一度読んでみる事をお薦めします。 とにかく、面白い。

  私は、レコード時代の方が、販売枚数は多かったと思っていたんですが、実際には、CDが登場してから、次々にミリオン・セラーが出始めたのだそうです。 レコード時代は、プレーヤーやステレオなど、再生装置の値段が高くて、みんながみんな、レコードを買っていたわけではないんですな。 そう言われてみれば、私も、ラジオで流される曲をカセット・テープに録音してはいましたが、レコードは数えるほどしか買いませんでした。

  Jポップの特徴は、日本国内でしか聴かれていない事で、アメリカでは、日本のポップスなど、全く知られていないのだとか。 宇多田ヒカルさんが出て来た時、日本では、「アメリカでも、大人気」のような報道がされていましたが、実際には、そんな事は全然無かったのだそうです。

  日本の曲に使われる英語歌詞が、ネイティブの英語話者から見ると、「歌に使えるような英語になっていない」というのも、やはりそうかという感じ。 ただし、宇多田さんの作る歌詞だけは別なのだとか。 すると、桑田さんの曲に出て来る英語も駄目なのかえ? 他は推して知るべしで、変テコな英語が入った曲を聴いて感動していた若い頃の自分が、恥ずかしくなって来ます。

  昔は、シングルを売るために、3分前後の曲全体が優れていなければいけなかったのが、CMタイアップが盛んになると、耳に残る部分が、15秒あればよくなり、携帯着メロの時代になると、更に短くなって、「サビだけよければ、それで充分」という風に変わって来たのだとか。 道理で、最近の曲はつまらんわけだ。


  以上、5冊。 前回の5冊より感想文が長くなっていますが、これは、あまりにも忘れがひどいため、沼津の図書館へ行って、同じ本を借り直し、パラ読みして、記憶を呼び覚ましたからです。 新書とブルー・バックスは、図書館の定番蔵書なので、金ヶ崎にあったものは、沼津にも全部ありました。

  一番面白かったのは、最後の、≪Jポップとは何か≫です。 著者は新聞記者で、いわゆる業界人でないために、客観的な観察に徹する事ができたんでしょうなあ。 「クール・ジャパン」などという、根も葉も無い妄想に誑かされている人達は、目を覚ますために、是非とも読むべし。

  そうえいば、もう一冊、借りて来た本がありました。 読み物ではなく、地図帳です。



≪平成大合併がわかる日本地図≫
  別に、平成大合併はどうでもいいんですが、沼津への帰還が近づいて来たため、在来線の駅名を調べるために、これが必要だったのです。 都道府県ごとに、見開きの地図が載っていました。 ただ、鉄道専用の地図ではなかったので、漏れている駅もあり、結局、時刻表の方を優先して、メモしましたけど。

2012/02/05

金ヶ崎町立図書館の本①

毎年、1月から3月までは、月に一度、六日稼動の週があるのですが、それに加えて、そろそろ一年も経とうというのに、震災休業の振り替え出勤が未だに続いているため、昼勤の週は全て、土曜出勤になってしまい、ブログの記事を書く余裕がありません。

  こういう時は、読書感想文でお茶を濁すのが常套手段。 という事で、記録を遡ってみたところ、2010年の秋に岩手で読んだ本の感想を、まだ紹介していませんでした。 感想を書いたのは、2011年2月の終わり頃です。 些か古いですが、ご容赦あれ。




≪ジャガイモのきた道≫
  これは、岩手の金ヶ崎町立図書館で借りた本。 11月初め頃に読んだものです。 さすがに四ヶ月も経過すると、内容を思い出せません。 面目ない。 おぼろげな記憶を引きずり出しますと・・・、

  ジャガイモの原産地はアンデス山脈の西側、インカ帝国があった地域で、その一帯では、何十種類ものジャガイモが栽培されているとの事。 世界に広まったのは、その内の僅かの種だとの事。 遺伝的な幅が狭いせいで、病気で全滅する弱点があり、アイルランドでは、ジャガイモのお蔭で人口が激増したのが、ジャガイモの病気のせいで大飢饉となり、アメリカ大陸への移民の波を引き起こしたとの事。 イモのままだと腐ってしまうので、澱粉に変えて保存する方法があったとの事。

  ・・・と、そんなところでしょうか。 読み物としては、面白かったです。




≪言語の興亡≫
  これも、金ヶ崎図書館で借りたのですが、読み始めたら、どこかで読んだような内容。 読み進むに従い、「これは、前に読んだ本だ!」と確信するに至りました。 沼津でも金ヶ崎でも、同じような書名の本を手に取るという事なんでしょうねえ。

  著者は、オーストラリアの言語学者。 フィールド・ワークのプロで、「現代の言語学者の仕事は、滅びつつある言語を記録に残す事である」と、力強く言い切ります。 長い間、オーストラリア先住民の言語を研究して来た人だけに、その主張には説得力があります。 返す刀で、文献相手に言語研究をしている学者に対し、「そんな事はいつでもできる。 滅びかけている言語は、今記録しなければ、永遠に研究できなくなるのだ」と、厳しく批判します。

  ≪祖語≫という、系統関係にある言語の祖先に当たる言語を再構築する研究分野があるのですが、それに対する批判も辛辣で、「そんな事ができるわけがない。 二つの言語に似た単語があったとしても、それが、系統によるのか、伝播によるのか判別できないではないか」と、鋭い所を、ビシバシ突いて来ます。 この本を読むと、一見、真面目なテーマに思える祖語研究が、いかにいい加減なものかがよく分かって、詐欺師に騙されそうになったところを、間一髪で救われたような気分にさせられます。

  他にも、言語全般に対する鋭い洞察がちりばめられています。 私は若い頃に、言語関係の本を片っ端から読み倒しましたが、この著者ほど、言語の本質を深く見抜いている言語学者はいないと思います。 言語に興味があるなら、必読の価値あり。 ただ、言語に特別に興味が無いなら、専門用語も少なくないので、あまり面白くはないでしょう。




≪古代中国の文明観≫
  えーと・・・、この本が金ヶ崎で借りて読んだ最初の本だったような気がします。 つまり、一番記憶が遠いわけでして、どーにも、内容が思い出せません。

  確か、儒教、道教、墨家、それぞれの、環境問題に対する主張を抜き出して、纏めた本だったと思います。 文明観であると同時に、自然観でもあります。 現代の環境問題とは、捉え方の次元が違っていて、些か、牽強付会の趣き、無きにしも非ず。

  書名からは、環境問題の本だとは想像できなかったので、読んでみて、意外な面白さを感じた記憶があります。 しかし、四ヶ月たった今、細部をほとんど思い出せないところを見ると、それほど、含蓄がある内容ではなかったのかもしれません。 あー、やっぱり、本の感想は、読んだらすぐに書いておかなければいけませんなあ。




≪現代ドイツ≫
  現代ドイツの様々な問題について、知識人達の思想・言論を纏めたもの。 主に、東西ドイツ統一後の経過を辿っています。 

  この本、大変知的で、ちょっとした興奮さえ味わわせてくれます。 思わず、同じ著者の別の本も読んでみたくなったほどですが、金ヶ崎図書館には、「ニーチェとその影」という、かなり硬い思想書しかなく、重そうなので、やめておきました。

  統一ドイツが、うまく行っている事ばかりでないのは、割と知られていますが、この本を読むと、その詳細が分かって、理想と現実の落差に、苦い物でも飲まされたような気分になります。 ベルリンの壁を叩き壊していた若者達は、こういう未来を予想していたのかどうか。




≪だます心 だまされる心≫
  これも、岩手で読んだ本。 著者は、工学、医学、経済学など、幅広い分野に精通し、手品も得意という、変わった経歴の学者。 心理学的なアプローチを期待して借りて来たんですが、そういう学門的な内容ではなく、古今東西の、「だまし」の事例を集めて、その種明かしをしただけの本でした。

  スプーン曲げ、だまし絵、こっくりさん、空中浮揚、クレバー・ハンス、ミステリー・サークル、振り込め詐欺など、およそ、騙しに関する事件を片っ端から取り上げています。 それらの事件を知らない人が読めば、充分に面白いと思います。 しかし、ある程度歳を取った人の場合、どこかで聞いた事があるような話ばかりなので、新味を感じられないかもしれません。

  だまされない方法、詐欺を見抜くコツなども書かれていますが、そちらも、誰もが思いつくような基本的な事でして、さほど参考にはなりません。

  とはいえ、著者は、科学者の立場から物事を見る事に徹底しており、オカルト的発想を完全に排除している点、安心して読める本だと言えます。 もし、この真面目さが無かったら、出版社も、新書に入れようとは考えなかったでしょう。


  以上、5冊まで。 会社の寮が、岩手県金ヶ崎町にあり、そこから30分ほど歩いた所に、金ヶ崎町立図書館がありました。 場所は、岩手に行く前に、ネットで地図を調べて、大体の位置を記憶していったもの。 カウンターに掛け合ってみたら、町民でなくても、利用者カードは作れるというので、すぐに作ってもらいました。

  町立図書館なので、そんなに大きくはなく、蔵書の数も沼津市立図書館の半分以下でしたが、建物は新しく、気持ちのいい施設でした。 ただ、いかんせん、私の方が、慣れない他郷暮らしで、精神的にゆとりがなく、読書にも身が入らなかったのは残念な事。 ほぼ毎週通って、二冊くらい借り替えていましたが、夢中になって読むといった本には行き会いませんでした。

  読んですぐに感想を書いておけばよかったんですが、「どうせ、家に帰ったら、パソコンに打ち直すのだから、ノートに書くと二度手間になる」と思って、うっちゃらかしておいたのが、後悔の種。 また、家に帰ってから、すぐに書けばよかったものを、3ヶ月近く後回しにしていたのが命取り。 すっかり内容を忘れてしまい、自分の記憶を相手に悪戦苦闘する羽目になりました。

  ちなみに、写真の背景になっている木目模様は、向こうの寮の部屋で自作したダンボール机の、天板として使っていたベニヤ板です。 ベニヤ板だけ、家から持って行き、ダンボールは、向こうのスーパーマーケットで貰って来て、机を作ったのです。 この板の上では、日記も書けば、食事もし、八面六臂の活躍となりました。 写真の画質が悪いのは、部屋の天井の蛍光灯しか、光源が無かったため。 うーむ、何もかも懐かしい。