2014/06/29

大撤退

  6月23日、月曜日の昼前から、翌24日、火曜日の未明にかけて、バイクで走り通し、どうにかこうにか、沼津に帰って来ました。 行った時以上に、時間はかかるわ、眠気に悩まされるわで、生きて辿り着いたのが、奇跡のようです。 もしかしたら、本当は、途中で事故って、死んでいて、霊魂だけが戻って来たのと違うか? 未だに、そんな気分です。


  6月22日の日曜日は、向こうで丸一日過ごす最後の日だったので、嫌でも、どこかへ出かけなければ、思い出形成上、宜しくありません。 当初、遠野へ行ってみるつもりでいたのですが、地図を見ると、かなり遠い上に、何を見ていいのか、目的物が定まりません。 「物語の郷」という事は分かっていますが、物語は、目で見えませんからのう。 「河童の郷」という事も分かっていますが、河童も、まず見れないでしょう。 で、結局、遠野は断念し、すぐに行ける距離にある、平泉に、もう一度、行ってみる事にしました。

  もう一度、と言っても、その前に行ったのは、つい一昨日の6月20日、金曜日の事です。 ようやく届いたクラッチ・レバーを交換した後、ようやく届いた≪高額療養費限度額認定証≫を持って、水沢の南にある病院へ入院費用を払いに行ったついでに、平泉に足を延ばしたのです。 着いた時、すでに、午後3時を過ぎていたので、≪中尊寺≫、≪無量光院跡≫、≪高館義経堂≫の三ヵ所だけ見て、時間切れになりました。 ≪毛越寺≫は、門前まで行ったものの、すでに駐車場が閉まっていて、バイクの置き場所が無く、泣く泣く断念。 「とりあえず、中尊寺の金色堂が見れたからいいか」くらいに思って、引き上げて来ました。

  しかし、帰ってから、ネットで調べたところ、もっと、いろいろな所を見れた事が分かり、地団駄踏みました。 平泉は、小さな街なので、見所が集中していたんですな。 「これは、帰るまでに、もう一度行かなければならんな」と思ったものの、土曜は、リサイクル店が冷蔵庫やパソコン・デスクを取りに来るから出かけられませんし、日曜は、遠野へ行くつもりでしたし、月曜には、もう帰ってしまいます。 で、「帰りに、寄り道して行こうか」などと、無謀の上に無謀を重ねるような事を考えていました。

  ところが、遠野行きが、断念キャンセルになったため、日曜が空いて、再び、平泉に行く機会が出来たという次第。 で、日曜は、朝から出かけて、≪達谷の窟≫、≪毛越寺≫、≪観自在院跡≫、≪柳之御所跡≫、≪伽羅之御所跡≫と、一昨日、見逃した所を、全て、見て来ました。 ≪伽羅之御所跡≫は、住宅地に説明板が一枚建っているだけでしたが、それ以外は、みな、≪中尊寺≫に優るとも劣らず、見応えがあるところでした。

  平泉ではありませんが、≪達谷の窟≫から、少し足を延ばし、一関市の≪厳美渓≫も、見て来ました。 ここも、見事な景観。 その後、北上川を挟んで、反対方向にある、≪猊鼻渓≫と≪幽玄洞≫にも行ったのですが、こちらは、お金がかかりそうだったので、入口まで行って、引き返して来ました。 なーに、ケチな人間には、よくある事です。

  最後に、水沢に戻って、≪高野長英記念館≫を見て、有終の美を飾りました。 やはり、近在出身の、一番の有名人の記念館は、押さえておかねば。 入館料200円でしたが、ボリュームはかなりあって、見終わるのに、30分くらいかかりました。 興味がある人なら、足を運ぶ価値はあると思います。

  「よし、これで、もう、岩手に思い残す事は無くなったぞ」と、満足して、寮に戻りました。 最終日の過ごし方としては、まずまずだったと思います。 しかし、まだ、荷造りが終わっていないので、寛ぐわけには行きません。 風呂・食事・就寝などの関係で、ギリギリまで使わなければならない物があり、全てを、前以て片付けてしまう事はできなかったのです。

  夕食後、ネットの更新を終えてから、パソコン・セットと、テレビ・セットを元箱に梱包したのですが、パソコンとプリンターの二箱を、一つの荷物にするのに、予想外に手間取り、焦りに焦りました。 PPバンドで縛っただけでは、崩れてしまうのです。 ちなみに、PPバンドというのは、ダンボール箱の外にかけて、強度を増す、プラスチック素材の平らな紐の事です。 100円ショップで、20メートルのが、留め具15個付きで売っていたので、それを買って来ました。

  やむなく、ラップで全体を巻き、その上から、PPバンドで縛ったら、何とか、持ち上げても崩れない程度になりました。 やれやれ、一時はどうなる事かと思った。  やり方が分かったので、モニター、テレビ、レコーダーの組の方は、すんなり、纏められました。 経験の力というのは、凄いものですな。 しかし、これらの作業が終わったのは、夜11時過ぎ。 行きの時と同様、また、寝不足で出発する事になりそうな予感がします。


  23日の月曜日は、起きてすぐに、掛け布団からカバーを外し、掛け布団を、椅子を収めるために作ったダンボール箱の中に押し込みました。 箱型の椅子なので、座面を外せば、中の空間に布団を押し込めるという寸法。 半分くらいしか収まらないのですが、それでも、膨らんで来るのを抑えるのには充分です。

  掛け布団は、この手で送れたのですが、敷きパッドと枕は、入れる所が無くて、捨てて来ざるを得ませんでした。 どちらも、4月に買ったばかりで、勿体無い事この上ないのですが、送るとなると、買った値段の2倍くらいかかってしまうので、泣いて馬謖を斬った次第。 他に、プラスチックのラックや籠など、100円ショップで買った嵩張る品を、かなりの数、新品同様で捨てて来ました。

  鍋は梱包してしまったので、朝食は、カップ・ラーメンと、最後に残した、ゆで卵でした。


  午前9時半頃、クロネコが集荷に来たので、荷物をヤマト便で送りだしました。 全部で、6点ありましたが、全て、160サイズ以下、30キロ以下だった上に、複数口割引が適用され、5832円でした。 この一週間前に、折り畳み自転車を入れた冷蔵庫の元箱と、140サイズのダンボール箱2個を、先行して送ってあるので、全部で9点送った事になりますが、全てヤマト便で、合計、11664円でした。 宅急便で送るより、遥かに安いです。 この事を、どれだけの人が知っているのやら。

  クロネコのサイトを見ると、ヤマト便は、宅急便より大きなサイズの荷物が対象のように書いてあるのですが、実際には、160サイズ以下でも送れますし、時間指定ができないというだけで、大抵は、宅急便よりも、安くなります。 単身で引越しをする場合、引越し業者に頼むと、たぶん、10倍くらい、お金がかかります。  ダンボールで梱包できるサイズの荷物だけに纏められるなら、ヤマト便を使った方が、遥かに、お得ですな。 もっとも、私はもう、そんな事をする機会は、一生無いような気がしますけど。

  ついでに書いておきますと、送り返さずに、リサイクル店に売ったのは、冷蔵庫、扇風機、パソコン・デスク、2段ハンガーの4点です。 21日の土曜日に、水沢のオフハウスに、出張買取に来てもらって、冷蔵庫5000円、扇風機400円、パソコン・デスク1500円、2段ハンガー200円で、買い取ってもらいました。 静岡県民らしく、値段の交渉はせず、全て、向こうの言い値。 持って帰っても、使い道も置き場所も無い物ばかりなので、買い取ってもらえなければ、捨てて行くしかないわけで、値段は、いくらでもよかったのです。 パソコン・デスクは、買ってから、12年も経っていますが、1500円もついたのは、逆に信じられない話。


  話を戻します。 10時には、出発する準備が整ったものの、部屋の最終チェックやら、ゴミ捨てやらしていて、実際に退寮したのは、11時になりました。 退寮届けは、もう出してあったので、受付では、鍵を返しただけでした。 短期間しかいなかったので、寮務員の態度も、あっさりしたものです。 退職してしまったわけですから、もう二度と会う事はありません。


  出発前に、家に電話。 あとはもう、ひたすら、家を目指すだけです。 バイクですが、クラッチ・レバーは、新品になっているので、操作上の不安はありません。 少し、エンジン音がうるさいのは、たぶん、オイルが減っているからでしょうが、帰りのためだけに、オイルを一缶買うわけにはいかないので、家まで我慢してもらいます。 後ろの足元で、キュルキュル言っているのは、たぶん、チェーンのグリスが足りないのでしょうが、グリスのスプレーは荷物の中に入れて送ってしまいました。 帰りのためだけに、グリスを一本買うわけにはいかないので、家まで我慢してもらいます。 あとは、これといって、問題無し。

  一般道で東北の内陸を南下する場合、国道4号一本で、東京まで行ってくれるので、栃木県に入るまでは、迷う心配はありません。 「一度走った道なので、二度目は、早く感じるかな?」と思いきや、行きと帰りでは、見える景色が違うせいか、早く感じるどころか、長い長い! しかも、カンカン照りで、暑い暑い! とどめに、寝不足が祟って、眠い眠い! 下りて座り込み、眠気が覚めるのを待った回数が、行きの4倍くらい、ありました。

  岩手県は、1時間で出ましたが、宮城県の突破に、3時間近くかかり、福島県を抜けたのは、6時半頃。 ここまでで、距離が300キロで、大体、全行程の半分です。 コンビニでコロッケ・パンを買って食べ、家に電話したら、母が出ました。 「今、白河」と告げると、「まだ、そっちの方?」という返事。 こちとら、突貫走破で、日が落ちない内に、半分も来たのですから、速い方だと思っていたのですが 、母は、つい先日、私の入院中に、新幹線で行き来したばかりなので、時間の感覚が違っているのです。 頭来るな、もう。

  この直後に給油しました。 セルフではなかったので、満タンにしてもらいました。 私のバイクは、満タンにすると、370キロくらい走るので、家まで充分もつ計算になります。 つまり、この旅の給油は、これが、最初で最後というわけ。 こういう時だけ、「バイクで良かった」と感じます。 バイクのメリットは、渋滞の時に、脇をすりぬけられるというのもありますが、通勤路ならともかく、遠くの慣れていない道では、やめておいた方が無難。 どこから、何が出てくるかわかりません。

  それはさておき、そこから先が、また長い。 那須野って、こんなに時間かかったっけか? 暗くなり、寒くなって来ると、気分が落ち込み始めます。 寒さは、合羽を着て凌ぎましたが、滅入った気分は、どうにもしようがありません。 カーナビで現在地を確認して、宇都宮バイパスに入る交差点を、間違えずに曲がれて、ほっとしたのも束の間、このパイパスが、単調な道で、死ぬほど、眠いんだわ。 行きも、この道で眠くなって、怖い思いをしましたが、帰りは、交通量が多い時間帯だったので、更に怖かったです。

  庄和IC交差点で、4号から、16号に入りましたが、16号は、昼来ても、夜来ても、何時に来ても、いつも長いのであって、もう、げんなりです。 どうして、こんなに、信号が多いかな。 連続で突破できるのは、二つが限界で、三つ目の信号は、必ず、赤になります。 ある意味、大変、律儀だ。 西大宮のコンビニで、おにぎりを買いましたが、そこの駐車場が、なぜか、糞尿の臭いが立ち込めていて、とても、物を食べられるような場所ではありませんでした。 駐車場で糞尿を垂れ流すというのは、ある意味、コンビニ強盗より、始末が悪いのでは?

  少し走って、歩道の自販機でココアを買い、おにぎりを食べましたが、別に、腹が膨れたからと言って、頭がはっきりするわけでもなければ、疲れが取れるわけでもなく、路肩の縁石の上に座り込んだまま、絶望的な気分に落ち込みました。 4分の3は来たとはいえ、先は遠い・・・。 まだ、これから、246号に入らなければ、知った道にならないのですよ。

  行きに間違えて入り、260円取られた八王子バイパスを注意深く避け、何とか、厚木で129号に入る事に成功。 南下して、246号に入りましたが、この時点で、行きよりも、1時間近く遅くなっており、「246号より、箱根を越えた方が、早かろう」と思ってしまったのが命取り! 平塚まで、129号で下り、そこから、1号に入って、小田原から箱根新道で箱根に登ったものの、高度が上がるに従い、ガスが出て来て、やがて、典型的な濃霧となり、視界が10メートル以下になってしまいました。 しかも、山の中なのに、トラック銀座と化していて、対向車線をトラックが、バンバンやってくるものだから、生きた心地がしません。

  三島に下りた時には、本当に、生き返った気分でした。 ここまで来れば、もう、不安要素はありません。 24日、火曜日の、午前4時に、家に到着。 正に、命からがらという言葉がぴったり来る、恐ろしい旅路でした。 行きは、15時間半、620キロでしたが、帰りは、17時間、630キロでした。 こんなにズレが出るのは、奇怪な事です。 まあ、もう、二度と走らないルートですから、済んだ事は忘れる事にします。


  24日は、寝て過ごし、25日と26日は、届いた荷物の片付けで、忙殺されました。 ようやく、収まるべき物が収まるべき所に収まり、普通の生活が送れるようになった状態です。 先に送った折自は、箱が少々ひしゃげたものの、本体は無事でした。 電気製品も、壊れた物は、一つも無し。 ヤマト便には、感謝しなければなりますまい。


  というわけで、何とか、生きて、家に戻る事に成功しました。 ・・・・。

  ・・・成功・・・、成功ねえ・・・。 そもそも、岩手に行ったのが、失敗だったのであって、無事に帰ったからといって、喜ぶのは、後生が良過ぎますな。 もう、昨年の11月に、北海道の応援先で、岩手異動を宣告された時点で、退職の腹を決め、北海道から帰って来た後、すぐに会社を辞めてしまえばよかったんですよ。 岩手で、10年も独り暮らしなんて、土台、できるわけがなかったのです。 若い頃じゃあるまいし。 そんな事、ちょっと想像してみれば、分かったはずなんですがねえ。

  総合的に見て、この岩手異動は、大失敗でした。 進退の時期を誤ったとしか言いようがありません。 私の人生の、最大の汚点として、嫌な記憶の筆頭に刻まれ、長く長く残る事でしょう。

2014/06/22

退職

  6月2日、夜勤の仕事中に、心臓の痛みで身動き取れなくなり、救急車で病院に運ばれて、入院する事、八日半。 ようやく、6月11日に退院した私は、すっかり、こちらで働き続ける意思を失い、翌12日に、会社に出ると、上司に、「退職したい」と告げました。 私が復帰意欲満々で、退院翌日から働きに来たと思っていたらしい上司は、不意を突かれたようで、「とにかく、金土日と休んで、もう一度考えるように」と言って、私を半日で帰宅させました。

  一応、「よく考えて見ます」と言って、引き上げて来たものの、医師の口から、「突然死」という言葉を聞いてからというもの、もう、私の心の中に、こちらで働き続けるという選択肢は無くなっていたので、考え直すまでもありません。 こちらにいても、何の得も無いのですよ。 「仕事を続けるか否かを、損得で判断できるのか?」と思う人もいるでしょうが、損得の問題なのです。 私の年齢で、私の健康状態で、私の家庭事情だとね。


  そもそも、今回の異動にしてからが、私の意思ではなく、会社の上の方が、勝手に決めて、勝手に人選して、勝手に送り出したのであり、出された人間の、99パーセント以上は、不満たらたら・・・、いや、憤懣やる方ないという心境で、いやいや、やって来たのです。 誰が、50歳近くになってから、600キロ以上離れた土地へ、自ら進んで移り住みたいなんて思うものかね。 これから人生の本番が始まる、20代の青年なら、いざ知らず。

  これが、静岡の工場が完全に閉鎖されて、全員が東北へ異動せざるを得ないというのなら、恨みっこ無しだったわけですが、今回は、単に工場を縮小するだけで、300人だけ出して、あとの3000人は、今まで通りの仕事を続けられるというのですから、不公平極まりない篩い分けだったのです。 異動を告げられた時、「なんで、俺が?」とは、誰もが思った事。 他人なら良いというわけではありませんが、自分でも良くないわけで、確乎たる理由もなしに選び出されて、その後の人生を狂わされたのでは、たまったものではありません。 こんなの、特攻隊と、どこが違う?

  最初は、「受け入れる工場側のニーズに合わせる」と言っていたのが、いざ、異動する人間が決まってみたら、50歳前後の年寄りが、異様に多い。 体力勝負の仕事なのに、年寄りを欲しがる工場など、古今東西、聞いた事がないのであって、この人選が、受け入れ側の都合でないのは明らかでした。 何が、ニーズだ。 笑わせるな。

  次に出て来たのが、「人事課が決めた」という噂ですが、これも、まるで信用できませんでした。 なぜなら、人事課というのは、現場で誰がどんな仕事をしているかなど、全然知らないからです。 ラインを動かすには、適材適所が肝要ですが、そういう事は、リストだけを見て、判断できるものではありません。 たとえば、交替制で同じ仕事をやっている人間を、両方、出してしまったら、そこの工程をやる者がいなくなってしまいます。 誰が、どの工程と、どの工程をできるかという情報は、現場だけが把握しているのであって、工場に足を踏み入れた事さえない、人事課ごときに分かる事ではありません。 数千人規模の工場では、尚の事。

  次に出て来た説が、「部長が決めた」というもの。 これは、たまたま、私がいた部署の部長が、鼻摘み者だったため、誹謗中傷の勢いを借りて流布した、純然たる揣摩憶測でした。 違う!違う! あんな、半分ボケたような部長が、そんな細かい人選なんて、できるものかね。 あんなのに決めさせた日にはし、残った工場が、ぐっちゃぐちゃになってしまうよ。

  で、最もありそうな人選の仕方というのが、上の方から、枝別れさせて行って、残す部下に、残す部下を選ばせたというパターン。 つまり、部長の下に、課長が二人いるとしたら、「こいつを残す」と決めた方に、「お前の判断で、残す係長を選べ」と命じます。 あとは、同じパターンを下へ下ろしていくだけ。 課長は、残すと決めた係長に、「お前の判断で、残す組長を選べ」と命じ、係長は、残すと決めた組長に、「お前の判断で、残す班長を選べ」と命じていくのです。 もちろん、各段階で、残す人間には、緘口令が敷かれ、出す人間には、何も知らされません。 私の会社の場合、組長まで話が下りて来れば、現場の事情が判断できるので、最終的に、どの工程員を残すか選んだのは、組長ではないかと思われます。

  で、組長が、何を基準に選んだかといえば、まず、自分の直の人間が優先されるのは、自然な欲求というもの。 あとで、この方式で人選した事が露見した場合、「同じ直なのに、俺を出しやがった」などと、恨みを買ったらまずいですから。 しかし、反対直であっても、出される人間は、恨む事は恨みますよ。 そういう事まで、考えていないんですかね?

  この事の証明として、私がいた組では、残る組長の直の人間ばかり残って、私がいた方の直は、数えるほどしか残れませんでした。 こんな有様でも、まだ、「人事が決めた」とか、「部長が決めた」とか、戯言を抜かすかね? 組長が決めた以外に、起こりえない結果ではありませんか。 火を見るよりも明らか。 大火災だよ。

  そもそも、自分が残りたいがために、他人を追い出すなんて、人間として、大大大問題でしょうが。 上司から、人選を命じられたら、「私には、他人の人生を左右するような判断はできませんから、他の人に命じてください。 それでも、どうしても選べと言うのなら、まず、私が出ます」と言えばいいじゃないですか。 カッコ良過ぎる? 馬鹿抜かせ。 そんなもの、良過ぎて、誰が損をするものか。 あんたの判断で、追い出されたら、そいつらは、確実に、大損をするんだぜ。 恨まれる方が、怖いと思わないのか?

  「人選の基準が分からない」という点には、出される事になった人間の、ほとんどすべてが、疑念を抱き、面談の場で訴えましたが、その質問の答えは、結局ありませんでした。 面談と言っても、ただ、意見を聞くふりをしただけで、何もする気がなかったのです。 とんでもない、やり方だ。 ここいらから、「事業再編のための異動とは、単なる建前であって、実質、リストラなのではないか?」「東北の工場を、追い出し部屋に使うつもりなのではないか?」と囁かれ始めました。

  ちなみに、私は、まだ、応援先の北海道にいる間に、その事に気づき、1月の半ばに静岡に帰ると、すぐに同僚に、その考えを伝えました。 しかし、最初の内は、「そんな事ないよ~。 うちの会社のグループは、リストラしないのが、自慢なんだから」と、本気にされませんでした。 ところが、2月、3月と経つ内に、異動組の、50歳前後の人間で、リストラ疑惑を信じない者は、ほぼいなくなりました。 実際に赴任する日が近づいて来るに連れ、移住を強制される事が、いかに大きな負担であるかが、分かって来たのでしょう。


  で、実際に、こちらに来たら、やらされた仕事は、20代の人間と同じもの。 私もそうでしたが、最初から病気がある者を除いて、ほとんど全ての年寄りが、ラインに入れられ、一工程やらされました。 しかも、扱いは、まったくの、ぺーぺーですよ。 工場の仕事というのは、実力の世界でして、工程を任された以上、一人でできなければ、一人前と見做されません。 「あのジジイ、使えねー」と見られてしまったが最後、自分の息子ほども若い人間に、小馬鹿にされる事になります。 年功なんぞ、何の役にも立ちません。

  静岡の工場でも、事情は同じですが、長年勤めた職場なら、人間関係が出来ているので、そんなにひどい扱いにはなりません。 また、慣れた仕事なら、体力が衰えても、どうにかなるものなのです。 一応、一工程できていれば、ヒラであっても、年齢相応の敬意を払ってもらえます。 それが、こちらでは、全く無いのです。 周りは知らない人間ばかり。 年代が違うので、会話も皆無。 仕事はきついわ、人には馴染まないわ、私生活も楽しい事が見つからないわでは、よほど、神経の図太い人間でも、参ってしまいます。 せいぜい半年程度で終わる応援とは、全然、気分が違います。 10年も帰れないと思うと、鬱病になってしまいます。


  私の場合、それらの心労が溜まっていた所へ、いきなり仕事がきつくなったものだから、ドーンと心臓に来てしまったんですな。 私の前に、辞めたのが一人。 私が二人目ですが、私の後にも、二人くらい、辞めると言っているそうです。 無理も無い。 全然、不思議だと思いません。 皮肉を言えば、今回の異動の真の目的はリストラだったわけですから、私達、辞める事になった人間は、模範社員という事になりますな。 「そんなの、会社の思う壺じゃないか。 もうちょっと頑張れよ」と思うかもしれませんが、思う壺も魔神の壺もないのであって、死ぬよりマシでしょう。 心臓がやられなくたって、鬱病で、首を括る事になってしまいかねません。

  辞めた辞めた! 辞めると決めてしまえば、あとは、知ったこっちゃありません。 リストラでも、追い出し部屋でも、何でも、御随意に展開しとくんなまし。 所詮、同僚と友人は、似て非なるもの。 会社を辞めてしまえば、音信不通になるのが普通であって、心配される事も、心配してやる事も、もう無いでしょう。 なーに、もつ人はもつし、辞める人は辞めるものですよ。 自殺よりは、ずっと良い選択だ。


  仕事ができなかったというのが、直截の理由ですが、私の場合、老親が二人だけで住んでいるという、実家の方の事情もあり、こちらに残りたいという気持ちが、全く湧いて来ないんですな。 私がこちらで頑張っても、私はもちろんの事、両親も、兄貴も、兄貴の嫁さんも、誰一人、得をする人間がいません。 みんな、損をするのです。 歯を食いしばって頑張っても、誰からも誉められない、誰からも感謝されない、むしろ逆に、恨まれるだけ、というのでは、検討の余地が無いではありませんか。


  というわけで、揺ぎ無い退職の意思を抱いていた私は、金土日と、三日間、悩む事も無く、土曜には、折り畳み自転車を荷造りして、実家に送ってしまいました。 日曜には、引っ越して来る時に使ったダンボールに、生活雑貨を詰めて、二箱、発送。 もう、後戻りはできません。 翌週、つまり、今週ですが、月曜日に出勤して、退職の決意を伝えたところ、上司も、それ以上、くどい慰留はせず、退職届の用紙を用意してくれました。

  この上司、リストラの話を聞いているのかどうか分かりませんが、私の退職が決定すると、親身になって、いろいろと世話をしてくれました。 元は、小田原の人だそうで、単身赴任で、こちらに来て、5年ほど経つとの事。 小田原と沼津は、間に箱根を挟んでいるだけで、土地柄や考え方が近いせいか、話が通じ易かったです。 結局、私は、最後の最後まで、岩手の地元の人には、馴染めませんでした。 元々、別の土地の人間で、長く、こちらに住んでいる人に言わせると、「気さくで、いい人が多い」との事でしたが、私個人の感想としては、その真逆の人ばかり、印象に残っています。 時間が経たないと、受け入れてくれないのかもしれませんな。


  水曜に、こちらでの退職手続きが終わり、会社へ行く必要は無くなったのですが、入院費用が一定の額を超えてしまったせいで、≪高額療養費限度額適用認定証≫が必要になり、それが届いたのが、金曜日。 他に、退院後、バイクで出かけた先で、不様にも立ちゴケし、クラッチ・レバーがいかれてしまって、アマゾンに注文した交換部品が届いたのが、これも、金曜日。 更に、持って帰っても使い道も置き場所もない、冷蔵庫やパソコン・デスクを、オフハウスの出張買取で、持って行って貰ったのが、土曜日。 日曜は、寮務員が、無能ジジイなので、退寮手続きをしたくない、といった事情で、未だに、岩手から出られずにいます。 たぶん、月曜日の6月23日には、帰途に着けると思います。 帰りもバイクなので、心臓に爆弾を抱えている身としては、無謀な気もせんではないですが、まあ、今度は、急ぐ旅ではないので、20時間くらいかけて、ゆっくり帰る事にします。


  実家に帰ったら、有休消化期間があるので、8月の末までは、ぶらぶらし、9月になったら、バイトでも探して、その後は、気楽に暮らそうと思います。 バイトにゃ、残業も、土曜出勤も、QCも、職場委員も、面倒な事は、なーにも無いですけんのう。 あー、辞めて、清々した。 失業の不安なんかより、こちらにい続ける事の不安の方が、桁違いに大きいので、解放感しか感じません。

2014/06/15

心臓が・・・

  更新間隔が開きましたが、実は、入院していました。 仕事中に、心臓が痛くなり、救急車で病院に運ばれたという、洒落にならない経緯で・・・。 


  5月まで部分的に練習していた仕事を、6月に入って、一工程分を一人でやり始めたのですが、あまりの忙しさに、息つく暇も無い有様! それでも、必死にやっていれば、いつかは慣れると思って、頑張っていたのですが、昼頃から胸が痛くなり、徐々に痛みが増す様子。 それでも、歯を食い縛って続けていたのですが、胸の筋肉痛にしては、休み時間に休んでいても、痛みが和らぎません。 何とか、残業まで持ち込んだものの、一時間くらいやったら、もう限界で、人を呼び、「心臓が・・・、心臓が痛いです・・・」と言って、そのまま、休憩所に連れて行かれ、立てない状態になりました。 周囲も騒然。

  長椅子に横になっていても、痛みが消えず、息もできません。 これはたまらん。 そこへ、「救急車、呼ぶ?」と言ってくれた人がいたので、「お願いします。 こんな所で死にたくない!」と叫びました。 6月2日(月)は、夜勤週だったので、救急車で運ばれたのは、6月3日(火)の朝という事になります。 行った先は、水沢市にある総合病院でした。

  心電図や、エコー、CTなどをとり、いろいろ検査されている内に、徐々に落ち着いて、運び込まれてから2時間ほどで、ほぼ、無痛になりました。 あ゛~、助かった。 しかし、心臓に繋がっている血管が詰まっている可能性があるというので、そのまま、カテーテル検査に回されました。 すごい手際の良さで、どんどん話が進む・・・。 会社から付き添って来た人を同意人にして、署名してもらい、一気に、ゴー。

  裸にされて、陰毛を部分的に剃られた後、尿道にチューブを通されたのですが、違和感を遥かに通り越して、拷問的な痛みを経験しました。 検査室に運ばれて、右脚の付け根の所に、局所麻酔。 そこの血管から管を通し、心臓まで伸ばして、中を調べている様子ですが、切り口は麻酔されているし、血管の中には神経が無いので、痛くも痒くもありません。

  結果、「心臓は綺麗なもの。 ただ、少し動きが悪い部分がある」との事。 カテーテル検査自体は、どうという事はなかったのですが、その後が厄介で、入院する部屋へ運ばれたものの、傷口が閉じるまで、右足は固定で、寝返り不可。 2時間で、寝返りができるようになり、4時間で、ベッドを起こして、体を曲げられるようになり、6時間で、自力で体を起こせるようになるのですが、尿道にチューブが入っているので、どうせ、ベッドから下りられません。 翌朝、ようやく、チューブが抜かれましたが、点滴と心電図モニターがついていて、トイレに立つのに、不便で仕方ありませんでした。 点滴が外れたのが、木曜日。 心電図モニターは、翌週の月曜日まで着けていました。

  付き添ってくれた会社の人が、異様なほどに気が利く人で、いろいろと世話してくれて、大変、助かりました。 医師から実家に電話が行き、火曜日の内に、母が新幹線でやって来ましたが、母だけでは、見知らぬ土地で、どうにもしようがなかったでしょう。 母のホテルの手配までしてくれたのだから、凄い処理能力。 母は、火曜日から土曜までいて、帰りました。 当初の私の退院予定が、土曜日だったからですが、実際には、まだ検査があるという事で、土曜日には退院できず、それから、月曜、火曜、水曜と、退院予定が延びて、今日までかかったという流れです。

  後半、特に、土曜日からは、退屈で仕方ありませんでした。 寝てるか、テレビを見ているか、食事をしているか、そのくらいしかやる事が無いのです。 ほぼ健康体であるため、病院食がうまく感じられなかったのが、きつかった。 普段、自炊している食事よりは、よっぽどバラエティーに富んでいたのですが、味が薄いし、カロリーか低いので、「喰った~」という感じがしないのです。 テレビは、テレビ・カードを買って、ちびちび見るのですが、見たいドラマが、消灯時間前後に分布していて、同室の老人達が早々と眠っているのに、私だけテレビを点けているわけにも行かず、全部見れずに消す事がしばしば。 しかも、老人というのは、鼾が凄いんだわ。 夜中に、誰かのナース・コールで目覚めてしまったりすると、後は、鼾合戦の渦中に放り込まれた感じで、もう眠れません。

  最後に、検査らしい事をやったのは、月曜日の心臓エコーでしたが、これは、若い医師に経験を積ませるための練習台にされたようで、これといって、新しい発見は無かった模様。 火曜日は、ただ待つだけで、一日潰れました。 今朝になって、主治医に呼ばれ、説明を受けた所によると、「不整脈が出ているが、そのパターンに、突然死を起こす人と似たものがある。 100人に1人か2人は、そういうパターンの人がいるので、心配するほどの事はないが、もし、突然死の多い血筋だと、遺伝的に受け継いでいる可能性がある」との事でした。

  私の母方の叔父が、心筋梗塞で死んだのですが、独居死で、死後何日も経ってから発見されたので、突然死だったのかどうか、判断がつきません。  それは私が、早い段階で、主治医に話しておいた事です。 そちらの可能性について、不整脈の専門医に相談して、いろいろ検討していたため、入院が長引いたのだそうです。 「で、分からないので、退院という事で・・・」という説明でした。

  「基本的に心配ない」という雰囲気の話し方だったので、あまり、深く考えずに、退院して来てしまいましたが、後で、つらつら思うに、つまり、心臓の痛みの原因は分からずじまいで、「突然死の血筋である可能性がある」という、笑えない結論ではありませんか。 もし、突然死の血筋だという事がはっきりしていたら、何かしら、予防方法があるんでしょうか?

  それにしても、突然死の可能性があるなどと言われると、おちおち、仕事もできませんな。 いや、仕事だけでなく、眠っている間に来る事もあるらしいですから、日常生活も危なっかしい。 しかも、実家を遠く離れて、独り暮らしと来たもんだ。 今回も、母から、「とにかく、遠過ぎる」と言われましたが、私も、それを痛感しました。 やはり、無理な生活はやめて、退職し、実家に戻った方がいいのかもしれません。

2014/06/01

13時以降

  岩手異動の赴任日を、一日早くした事で、良かった事と悪かった事があり、「バイクで岩手まで自走していくのに、予想外に時間がかかって、もし、一日遅くしていたら、引っ越し荷物の受け取りに間に合わなくなるかもしれなかった」というのが、良かった事だと、前回書きました。 今回は、悪かった事の方を書きます。 この両者は、密接に関連しており、皮肉な結果を生み出す事になりました。


  到着の翌日は、朝、5時に起きました。 無数の夢を見ましたが、全く覚えていません。 3年半前に2ヶ月住んでいた寮で、部屋番こそ違え、全く同じ造りの部屋で目覚めるのは、実にシュールな気分でした。 5時45分頃、バターロール2個で朝食。 家を出たのが、もう一昨日の事とは、とても思えず、昨日一日が、どこかへ消えてしまったように感じられました。

  引っ越し荷物が届くのは、午後1時なので、それまでは、何もやる事がありません。 とりあえず、近所のスーパーへ行き、5キロの無洗米を、1880円で買いました。 他に、トイレット・ペーパー、ティッシュ(詰め替え用)など、嵩張るものを買っておきました。 疲れた・・・。 ここで、11時15分。

  11時50分に、バターロール2個で昼食。 バターロールばっかりですが、理由は単純でして、一番安いんですよ。 ポータブル・カーナビのワンセグ放送は、朝から、ちょこちょこと見ていたんですが、ここに至ってバッテリー切れとなり、昼のニュースは見れませんでした。 天気予報をチラッと見たら、翌日にかけて、雨との事。 でも、どうせ、引っ越し荷物の片付けで忙殺されるに決まっており、出かける予定はありませんから、問題無し。

  午後1時10分前に、寮のエントランスに下りて、トラックを待ちましたが、1時までに来るかどうか分からないので、寮務員室に詰めていた、年の頃、60歳前後の寮務員に、「引っ越しのトラックが来たら、内線電話で呼び出してくれませんか」と言ったら、「俺、そんな事、知らねえ」などと、礼儀も糞もない返事が来ました。 初対面ですぜ。 いい歳扱いて、赤の他人と話す言葉も知らないとは、世間知らずにも程がある。 「どの業者かも知らねえ」 「○○通運です」 「1時と言ったんなら、1時に来るだろ」 正に、≪けんもほろろ≫の用例に使えそうな物言い。 こいつ、どういう親に育てられたんだ? とは言うものの、着いて早々に喧嘩するのもどうかと思い、それ以上何も言わず引き下がりました。 しかし、そんな無礼を働かれて、そのまま済むはずがなかったのだ、と気づくのは、もっと後の事です。

  元の勤め先での知り合いが来たので、入口の所で、立ち話をしました。 彼は、その日の朝方、到着したらしいのですが、その直後に、予定より、6時間も早く、引越し荷物が来てしまって、昼過ぎまで、片付けで疲れきったとの話。 なるほど、早過ぎるのも、問題だな。 それでも、彼の場合、ギリギリ、自分の到着の方が早くて、運が良かったのであって、もし逆だったら、荷物を部屋まで運んで貰えず、ロビーに置いて行かれて、もっと疲れる羽目に陥った事でしょう。 こういう例を聞くと、嫌な予感が、弥が上にも盛り上がりまくるではありませんか。

  案の定、1時を過ぎても、トラックは来ず、1時半になっても、来ませんでした。 そーれ、見た事か! いつまでも、エントランスで待っていても、所在無いので、さきほど話した知り合いが、「引越し屋が、部屋まで訪ねて来た」という話を参考に、部屋に戻って待つ事にしました。 テレビもラジオも、何も無いので、ベッドに横になり、ごろごろして、過ごします。 ところが、3時になっても、まだ来ない! これは、たまげた! 2時間も遅れて、何の連絡も無いとは、私の常識では、許容限度を超えるどころではなく、「ありえへん」話です。 どんなに要不急の約束であっても、2時間以上遅れて、許す人間がいるんですかね? 佐々木小次郎でなくても、鞘を投げ捨てますぜ。

  いい加減、痺れを切らし、最寄りの電話ボックスまで、電話しに行きました。 もう、この時点で、ぶち切れ気味だったのですが、向こうが、調べもせずに、「まもなく着きます」などと、蕎麦屋の出前の言い訳のような言い方をしたため、本当にぶち切れて、「まもなくじゃない! 何時に来るか、訊いてるんだ! こっちは、身動き取れないじゃないか!」と怒鳴りつけてやりました。 その直後、10円玉が切れて、電話が切れてしまったので、もう一枚入れて、かけ直したら、今度は繋がりません。 こんな馬鹿どもに、貴重な10円玉を使うのは、勿体無いと思い、打ち切って、電話ボックスを出ました。

  戻る途中、引っ越しのトラックが入ってくるのを見ましたが、すでに、私の堪忍袋の緒は切れており、後の祭りです。 寮務員室で、先程の口の利き方を知らない寮務員が、引っ越し業者から私へかかって来た電話を受けていたのですが、そいつが、何も言わず 私の方へ受話器を突き出したのを見て、またブチ切れました。 相手が礼儀知らずだという事は分かっていますから、もう、敬語なんか使う必要はありません。 「誰から電話だ!?」「●通から」「はあっ!?」 なんだ、●通って? 「○○通運」 それなら、そうと言え! 自分でしか分かっていない略語を、他人に向かって使うな、馬鹿が!

  私がかけた二度目の電話が通じなかったのは、向こうから寮にかけていたから、話し中で出なかったわけですが、その時は、そんな事まで、頭が回りません。 「ふざけやがって! もう、3時だぞ! おまえら、一体なんなんだ! からかってんのか!」と、寮務員のジジイを怒鳴りつけました。 こういう馬鹿は、怒鳴り倒して、震え上がらせてやらなければ、他人の怖さが分からないのです。 大方、これまでの人生、気心の知れた周囲の人間だけを相手に、なあなあで暮らして来て、他人と知人の区別がついていないのでしょう。 情けない・・・、一体、何をして、何十年も過ごし潰して来たのか? 三歳児並みの折衝能力しか持ち合わせていないのです。

  そうこうしている内に、引っ越し業者が入って来ました。 そちらにも、「何時だと思ってるんだ! 2時間以上、過ぎてるんだぞ!」と怒鳴りつけます。 向こうは恐縮しきっていました。 しかし、その件については、やり過ぎ、言い過ぎとは、全く思いません。 この手の輩は、怒る人間がいないから、それでもいいと思い込んでいるのです。 どぎつく言われて、初めて、自分達が問題行動をしている事に気付くのです。 滑稽な事に、寮務員のジジイまで、私と一緒になって、怒っていました。 尻馬に乗っているというより、自分も責める側に回って、私の怒りの矛先をかわそうというのでしょう。 こんな馬鹿は、どうでもいい。 しかし、怒ってばかりでは、事が進まないので、とにかく、荷物を部屋に運ばせました。

  4往復くらいで、運び込み完了。 エレベーターがあるから、大した手間ではありません。 こんな、いい加減な連中の顔は、0.1秒でも余分に見ていたくないので、私も手伝って、さっさと終わらせ、さっさと追っ払いました。 もう二度と、その会社には頼みません。 2時間遅れを、当たり前だと思っている業者に、どんなに、どうでもいい用件だって、任せられるものですか。

  予定が2時間以上遅れたので、ぐずぐずしていられません。 早く片付けなければ。 とにかく、台所用品を出さなければ、まともな食事が食べられませんし、寝具も展開しなければ、寝られません。 それより何より、テレビが先か。 パソコンの方も、ホームにしているブログを、5月4日には更新再開すると予告してあったので、夜までには、設置しなければなりません。 くそう、2時間のロスが、死ぬほど、痛い!


  で、開梱を進めていたら、突如、ドアがノックされ、ぎくりとしました。 引っ越して来たばかりの私の部屋を訪ねて来るのは、一体、誰やねん? 開けてみると、引っ越し業者の事務責任者と名乗る男が立っていました。 もちろん、初対面。 謝りに来たのかと思ったら、さにあらず。 「沼津の方からの情報では、『13時以降』という事になっていまして・・・」などと言い出しました。 そんな事が、言い訳になると思って、やって来たらしいです。 ガキの屁理屈か? 間髪入れず、言い返します。 「以降って言うなら、来年だって、以降だよ。 当然、13時が目安だろうが。 2時間も遅れていいと思うのかい?」

  そもそも、「○時以降」というのは、「○時以前に来られては、困る」という、客側の都合に合わせた選択肢であって、業者側に、遅れた言い訳にされたのでは、たまったものではありません。 時間指定の意味を、根本的に履き違えていると見た。 ちなみに、私が沼津で、送り出しの時に貰った書類には、その「以降」すらついておらず、「13時」とだけ刷ってありました。 どこで、「以降」がくっついた?

  更に畳みかけ、「遅れる時は、連絡するという、社内の決め事は無いんですか?」と訊くと、「2時15分頃、寮に電話したら、寮務員さんから、『待っているみたいだから、早く来た方がいい』と言われました」などとという、とんでもない証言が飛び出した。 あの、無能ジジイが! 電話が来たのに、私に連絡をしなかったのです。 内線電話をかけるのが面倒なばかりに! それが、私の激怒の原因になったという引け目があるものだから、先ほど、私と一緒になって、引っ越し業者の作業員に向かって怒って見せていたのです。 なるほど、世間知らずな馬鹿の考えそうな事だ。 あまりにも卑怯な発想で、ついぞ思いつかなかった。 しかし、そうであっても、2時15分では、すでに、1時間15分も遅れた時点なのであって、連絡が遅すぎます。 駄目だろ、こいつら。


  引っ越し業者の男は、テキトーにあしらって、帰らせ、開梱と片づけに、本格的に取り掛かりました。 搬入が2時間遅れたせいで、開梱も遅れに遅れ、パソコンを使えるようになったのが、午後6時。 テレビが見れるようになったのが、8時。 布団を出せたのが、10時。 3日ぶりに風呂に入れたのが、11時。 袋ラーメンを煮れるようになったのが、11時半でした。 なんてこったい。 それでも、まだ、冷蔵庫は手付かずです。  ホーム・ブログを更新して、深夜1時に眠りました。 前々日、前日に引き続き、長い一日でした。


  結局、引っ越し荷物が2時間遅れたわけですから、私自身が一日遅く家を出たとしても、充分、間に合ったわけですな。 というわけで、これが、一日早く出たおかげで、悪かった事の、理由です。