2014/12/28

荷造りの年

  例年なら、年末になっても、一年の振り返りなんかしないのですが、今年は、私にとって、確実に、エポックになった年なので、 特例として、ざっと纏めておこうと思います。 まーあ、あちこちへ、よく移動しましたわ。 その一方で、入院までしており、波乱に満ちた一年でした。


  まず、正月は、家にいたのですが、前年から、北海道応援が続いていて、たまたま、向こうで、会社の福利ポイントが、航空券を取るのに使えると分かり、予定変更して、年末年始に帰って来ていただけだったので、1月5日には、また、飛行機に乗って、苫小牧へ向かわねばなりませんでした。 仕事の為に、家を離れるというのは、実に嫌なものです。

  苫小牧は、未来的に良く整備された、大変住み易い街だと思うのですが、それとは別問題で、余すところ、たった二週間の応援期間の為に、また、北海道まで行くのが、何とも、億劫でした。 すでに、前年の内に、5月からの岩手異動を宣告されていたので、「悩ましい一年の幕開け」という思いが基本にあり、それが、ますます、私の気分を暗くさせていました。

  朝、家を出て、バス、東海道本線、新幹線、飛行機、また、バスと乗り継ぎ、午後3時半頃、苫小牧のイオン前に、到着。 早速、食料品の買い物をして、ずっしり重くなった旅行鞄を背負って、寮まで歩いたのですが、あの時、私の心を占領していた、「また、戻って来てしまったなあ。 なんで、ここにいるんだろう?」という、自分の意思と現実が引き裂かれているような感覚は、今でも、はっきり覚えています。

  寮に帰ると、部屋の中は、前年の暮れに出て行った時と寸分変わらぬままでした。 図書館の支所で借りた、フィリップ・K・ディックの、≪スキャナー・ダークリー≫も、置いて行った時のまま、ベッドのヘッド・ボードの物入れに入っていました。 留守にしていたのは、10日間ほどですが、自宅の自室でもないのに、自分の使用権が、何事もなく維持されていたのを確認して、妙にシュールな気分になりました。 これと同じ感覚は、その後、岩手で、もう一回、味わう事になります。

  たった二週間の為に、再度、北海道へ来るのが気が進まなかったのには、もう一つ、理由があります。 職場の方で、すでに、前年の内から、私の後釜になる人が来ていて、仕事も、ほとんどできるようになっていたので、私が、どうしてもいなければいけない理由が、なくなっていたのです。 閑に越した事はないと思うかも知れませんが、人のやった仕事を確認するだけというのは、却って、苦痛なものです。 また、運動量が減ると、寒いんだわ。 終わりの頃なんて、作業上着の下に、ジャンパーを着て、凌いでいましたから。

  たった二週間なので、土日は一回しかなくて、北海道応援、最後の思い出に、登別の水族館、≪マリン・パークニクス≫へ行きました。 苫小牧は、北海道一、雪が少ない街なのですが、登別へ行ったら、駅前からして、一面雪に覆われていて、「ちょっと離れただけで、こんなに違うものか!」と驚きました。 マリン・パークニクスは、駅から徒歩5分という、恐ろしく、交通の便のいい所にあって、内容も、ますまず、満足の行く水族館でした。 アザラシの立体水槽も見れたし。 惜しむらく、カメラの不調で、そのアザラシの写真だけが、ほぼ全滅だったのですが・・・。

  前年に、向こうのリサイクル店で買って、乗り回していた、シティー・サイクルは、持って帰るわけには行かないので、同じ店で、売って来ました。 買った時は、5000円、売った時は、1000円。 つまり、約2ヶ月間、4000円でレンタルしていた事になります。 そんなに悪い取り引きではなかったのではないかと、今では思っています。 ハンドルの取り付け部分のネジが緩み易いという問題点があって、私は、100円ショップで買った六角レンチで、時折り締め直しながら乗っていました。 あの自転車、今は、誰に乗られているのかなあ・・・。 ほんの一年前の事なのに、遥か昔のように感じられます。

  仕事の方ですが、最終日の前日には、もう、後釜の人の仕事を確認する役から解放されて、見ているだけになり、楽は楽ですが、ますます寒くなって、足踏みして、体温を確保する有様でした。 最終日は、完全に、仕事場から離れて、掃除です。 箒でゴミを掃くだけなら、どうという事はないんですが、そこの職場は床にモップをかけなければならず、一日中、それをやらされたのには、参りました。 もっとも、他にやらせる事がないから、やらされただけで、やらなければならないというわけでもなかったので、午後は、テキトーにごまかしてましたけど。

  最終日という事で、夜勤でしたが、定時で帰らせてもらい、まだ暗い内に、寮に着きました。 朝食と洗濯を済ませ、眠らずに、荷造りを開始。 来た時には、ダンボール二箱に、生活用品を入れて、料金会社もちで送りましたが、帰りは、荷物が増えていたので、二箱の内一つを、苫小牧のスーパーで調達した、少し大きめのダンボールに変えました。 それまで、部屋中に散らばっていた荷物を、箱に収めて行く作業をしていると、「こんなにたくさんの物が、どうして、たった二箱に収まるんだろう?」という、不思議な気分にさせられます。 この感覚は、この年、この後、何度も体験する事になります。

  午前中には、荷物を宅配便で送り出し、残りは、自分で持って帰る旅行鞄だけになりました。 クッキング・ヒーターも送ってしまったので、寮の各階に設置されているミニ・キッチンで、うどんを煮て食べました。 雪平鍋一枚だけは、残してあったのです。 午後、眠ろうとしたものの、荷造りの興奮が続いていて眠れず、日記を書いて過ごし、夜になって、ようやく、眠りました。 この応援の時には、ビデオ・デッキと、地デジ・BSチューナーを持って行ったので、テレビの方で不自由する事はなかったのですが、それらも、すでに送り返しており、最後の夜と、翌朝は、寮の部屋に備え付けのテレビを、そのまま見て過ごしました。

  帰りは、旅行鞄だけ引っ張って、イオン前まで歩き、バスで、新千歳空港へ。 飛行機で羽田へ。 後は、京急で品川、新幹線で三島、東海道本線で沼津、バスで家、という、お定まりのパターンで帰りました。 2ヵ月半の応援でしたが、年末年始に一度帰って来ていたので、2010年に岩手応援から帰って来た時のような、猛烈な感動はなかったです。 戻ったのが、1月18日の土曜日の夕方で、荷物の片付けに、次の日曜だけでは足りないと思い、翌週の月火も有休で休んだのですが、その三日間に、具体的に、何をやっていたのか、思い出せません。 日記を見れば、分かるのですが、それとは別問題で、忘れてしまうという事は、特に感動がない日々だった証拠です。


  帰って来たはいいものの、すでに、5月からの岩手異動が決まっていたので、こちらの仕事に復帰しても、気分は暗いままです。 1月22日から、4月19日まで、約3ヵ月、こちらで働いていたわけですが、思い出になるような記憶は、ほとんどありません。 移動を宣告された人間と、残る人間の間で、対立の溝が静かに広がって行きましたが、喧嘩になるほどの事もなかったです。 出る方は、生活の激変に備えて、情報を集めたり、持って行く物の準備をしたりで忙しく、反目どころではなかった感があります。

  こういう局面で、一番腹が立つのは、残る人間が、出る人間に対する引け目を埋めようとして、「いいなあ。 俺も行きたかったなあ。 早く行った方が、絶対に、得だよ」などと言うケースでして、実際、そういう奴がいましたが、自分が出される立場になれば、そんな事は、それこそ、絶対に、考えないはずです。 激励しているどころか、逆に、苛立たせているのですが、なぜ、それが分からんかな? 若者なら、いざ知らず、もう、人生折り返した歳になっているのに、遠隔地へ異動させられて、いい事など、何もあるわけがないじゃありませんか。

  「俺も、その内、行くからよう」と言った人も多かったですが、そういう言い方の方が、まだ、マシだとは思うものの、それでも、甘い。 実際に宣告されなければ、異動のデメリットについて、本気で考えようとはしないものです。 第一陣に選ばれなかったのは、妻子持ちで、静岡や神奈川に自宅がある人がほとんどでしたが、実際に、岩手へ行く事になったら、どうするつもりなんでしょうね? 単身赴任だと、月に一度も帰って来れませんよ。 お金の問題もありますが、それ以上に、移動にかかる、時間の問題が大きいです。 新幹線で、片道5時間ですから、土日だけでは、正味1日しか、家にいられません。 それでは、疲れに帰るようなものです。

  また、歳が行っている人達は、仕事の問題も大きいです。 異動先の職場では、元の職場での人間関係など、リセットされてしまうので、ペーペーからやり直しです。 つまり、新入社員や派遣社員、期間社員と、同じ扱いなのです。 与えられた仕事ができなきゃ、即、居場所が、なくなってしまいます。 どうするつもりなのよ? そういう事を考えれば、とてもじゃないが、出る事になった人間に向かって、気軽に、「俺も、その内行くから」なんて言えないでしょう? 暗い顔をして、「いやあ、大変な事になったなあ」とだけ言っておくのが、無難というものです。

  こちらで、最後に出勤したのが、4月19日だったのですが、実は、その日は、土曜日で、臨時出勤日でした。 岩手異動組は、私しか出ていなかったと思います。 なぜ、出たかというと、冷蔵庫を新品で買ったので、その代金の元を取る為というのが、建前。 本音としては、一日でも多く、こちらで出勤して、異動に対して不満がある事を、アピールしようと思ったのです。 何の効果も期待できない、虚しい抵抗ではありましたが・・・。

  この最後の日の、朝礼の時ですが、顔を揃えているのが、反対直の人間ばかりだったのには、改めて驚きました。 つまり、私が属していた直の人間は、ほとんどが、異動組で、反対直は、ほとんどが、残留組だったのです。 反対直の組長が人選をしたのは、明らかではありませんか。 自分に関係が深い人間だけ、残したのです。 しかしなあ、そういう、人の恨みを買うような事をやっていて、残りの人生を、晴れ晴れ暮らせると思うなよ。 結局、死ぬまで、「あの時、出した連中は、俺の事を恨んでいるだろうなあ」と思いながら、暮らす事になるのだぞ。 恨まないわけがないではないか。 お前の恣意的な選択で、それまでの生活を破壊されてしまったのだから。


  有休を一週間取り、そのまま、五月の連休に突入。 荷造りを進めましたが、この間の経緯は、このブログの、2014年5月・6月の記事に、詳しく書いてあるので、改めて書く事はしません。 実は、その後の事は、全て、詳しく書いた記事があるから、そちらを読んでもらった方がいいのですが、それでは、今年の纏めになりませんから、書き落とした事と、大体の流れだけ、記す事にします。

  荷造りが大体終わってから、暇が出来たので、自室の家具の修理などをしていました。 これから、10年間、岩手に住む予定なのに、自室に手を入れても仕方ないんですが、奇妙なもので、そういう状況に置かれると、今まで放置してきた問題点を、改良しようという気になるのです。 テレビの配置を変えた事で、コード類を通していた、机の穴が不要になり、それを塞いだり、前年の、小松左京・筒井康隆作品買い漁りで、どっと増えた文庫本を収める為に、机の上の本棚に、段を追加したりしていました。

  その後、5月2日の昼前に、引っ越し業者が来て、荷物を持って行きました。 その日の夜9時に、私自身が、バイクで出発。 620キロを、15時間半かけて走破し、3日の昼過ぎに、岩手の寮に辿り着きます。 寮は、2010年に、3ヵ月間応援に行った時、後半に住んだのと同じ場所。 奇しくも、同じ階でしたが、部屋は違っていて、最近リフォームしたらしく、綺麗な壁になっていました。 荷物が、まだ来ないので、一晩は、何もなしで過ごしました。 翌4日、荷物の到着が、予定時刻より、2時間以上遅れて、引っ越し業者と揉めたのですが、その詳しい経緯は、過去の記事を読んで下さい。 


  5月6日から始まった、岩手での仕事は、予想していた通り、ペーペーからやり直しで、20代の人間と同じ作業をあてがわれましたが、5月の間は、訓練期間だったので、フルに作業をする事はなく、割と気楽に過ごしました。 休みの日には、部屋を住み易くする為に、いろいろと、改良を施していました。 材料を買いに、近所のダイソーまで、何回往復したか分かりません。 5月いっぱいかけて、どうにか、理想的な状態にまで持って行く事ができました。

  2010年の応援の時には、北上と金ヶ崎だけしか行かなかったんですが、この時は、水沢へ初めて行き、「いい街だなあ」と思いました。 歴史的遺構が多いし、趣きのある川が流れているし、何より、街の規模が、私の生活感覚に、ちょうどいい大きさだったのです。 折り畳み自転車で、1回、バイクでは、5回くらい、行きましたっけ。 岩手異動で、いい思い出になっているのは、水沢の事だけです。

  6月になると、ライン・タクトが上がり、私は、一人で一工程やる事になったのですが、初日の一時間目から、地獄と化します。 とてもじゃないが、私の体力でできる仕事量ではなかったのです。 昼前あたりから、心臓が痛くなったのですが、「その内、慣れるかもしれない」と思って、我慢して続けていたら、残業に入った後、一時間ほどで、限界に達し、動けなくなりました。 その後、救急車が呼ばれ、病院に運ばれて、そのまま、検査入院する事になります。

  会社から、つきそって来てくれたのが、よく気がつく人で、入院中、大変、お世話になりました。 医師が家に電話したので、母も、沼津から駆けつけましたが、十年ぶりくらいに、一人で新幹線に乗り、生まれて初めて、ビジネス・ホテルに泊まった経験は、刺激的だったようで、今でも、その時の話を、よくします。

  6月の最初の週は、夜勤だったので、初日は6月2日ですが、実際に倒れたのは、6月3日の明け方でした。 それから、9日間入院して、「突然死の恐れがある」という、恐ろしい注意を受けて、退院したのが、6月11日、水曜日の昼頃でした。 母は、前の週の土曜には、もう帰ってしまっていたので、私一人で退院しました。 病院からバスで、水沢駅へ行き、そこから、東北本線で、寮の最寄の六原駅へ。 駅から、寮までは歩きです。 入院中から、退職について、考えてはいたものの、確実に腹が決まったのは、この時です。

  病院から、六原駅までは、バスも電車も、初めての行程だったので、そちらに気を取られていたのですが、六原駅まで来てしまえば、寮までは、勝手知った道でしたから、退職について決意する、心のゆとりが出来たのでしょう。 つい、一時間ほど前に聞かされた、「突然死の恐れ」という言葉が、決定打になりました。 そんな事を考えながら、歩いていたので、駅前で、ポツポツ降っていた雨とか、雲の間から射す日の光のやわらかさとか、周囲の雰囲気とかを、よく覚えています。 前回書いた、1989年2月、専門学校をやめて、就職しようと決意した、あの土曜日の午後と同じように、この時が、私の人生の、ターニング・ポイントになったのです。

  ちなみに、9日ぶりに、寮の部屋に戻ると、パッと見は、倒れる前に、部屋を後にした時と、ほとんど変わっていませんでした。 北海道応援で、年末年始、家に帰り、10日ぶりに、寮に戻った時と同じ、あの感覚ですな。 人はいなくても、部屋は変わらず、存在し続けるわけだ。 しかし、北海道の時には、留守にする準備をした上で、留守にしたのですが、岩手の場合、想定外の入院でしたから、留守中に、ちと、困った事も起きていました。

  この寮では、部屋ごとに、二週間に一回、水周りだけ掃除する業者が入るのですが、私が留守の間に入った、彼らの手によって、せっかく作った、洗面道具入れが壊されていました。 ユニット・バスのトイレのタンクの上に設置してあったのですが、上に持ち上げれば、簡単に取り外せるのに、前に引っ張ったらしく、差し込み部分がもぎ取れて、直しもせず、そのままになっていました。 苦労して、いろいろ工夫しても、他人から見れば、所詮、ゴミと大差ないわけだ。

  他に、部屋の中の様子で変わっていた事というと、倒れた日の出勤前に、水に浸けておいた、炊飯器の中の米が、腐っていました。 蓋を開けるなり、形容し難い異臭が立ち上り、すぐさま、水を切って、捨てました。 冷蔵庫の中の食品は、概ね、無事。 バナナが、変色すらしていなかったのには、驚きました。 卵は、さすがに、怖くて、全部、捨てましたけど。


  私は、趣味など、どーでもいー事に関しては、優柔不断なのですが、人生に関わる事となると、自分でも驚くくらい、決断が早いです。 そして、決断すると、選べるかも知れない他の道を、すぐに、切り捨ててしまいます。 この退職の時にも、課長に遺留され、「ライン以外の仕事をする気はないか」と言われましたが、もう、岩手での生活にうんざりしていましたし、岩手異動を追い出し部屋代わりにして、表立たずにリストラを進めようとする、姑息な会社にも見切りをつけていたので、真面目に検討しませんでした。

  一つの事を決める時に、理由は一つとは限らず、いろいろな事情が複合的に絡み合うものですが、「岩手での生活が辛い」、「仕事はできない」、「いつ死ぬか分からない」、「実家の両親は、年老いている」、と、積極的な理由が4つもあり、更に、「すでに、年金受給まで喰い繋げる蓄えがある」という、消極的な理由まであると、退職しない方が理不尽です。 しがみついていたって、何の得もありません。

  で、退職を決めるや否や、すぐに、撤退計画を立案し、実行に移しました。 これが、私が今までの人生で行なった、荷造りの中で、最も複雑で、最も大規模なものになりました。 岩手へ赴任して来た時には、料金会社持ちで、引っ越し業者が運んでくれたわけですが、帰りは、宅配業者を自腹で頼まなければならず、更に、リサイクル店まで関わって来たからです。 その経緯も、過去記事に、詳しく書いてあります。

  過去の記事とダブるのを承知で、ざっと書きますと、退院した翌日の、6月12日、木曜日に、会社に顔を出して、退職の意思を告げたところ、「少し考えてからにしては?」と言われ、翌13日は有休を貰い、金土日と、三日間休んで、よく考える事になりました。 しかし、私としては、もう、辞める気満々でして、改めて考えるまでもないので、すぐに、撤退計画に着手する事にし、その手始めに、土曜日には、折り畳み自転車を梱包しました。 冷蔵庫が入っていたダンボール箱を改造したのですが、退院直後で、体力が落ちきっていたので、ヒーヒー言いながら、作業しました。 箱を大きくするついでに、分解したワゴン台車と、同じく分解した、高さ90センチのカラー・ボックスも収めて、その日の内に、ヤマト便で、送り出してしまいました。

  あと、大物というと、冷蔵庫、扇風機、パソコン・デスク、二段ハンガーがありましたが、これらは、水沢のオフ・ハウスに頼んで、出張買い取りしてもらいました。 冷蔵庫と二段ハンガーは、一ヵ月しか使わず、扇風機に至っては、未開封でしたから、あまり、感慨はなかったのですが、パソコン・デスクは、2002年に買ったもので、12年間も自宅の居間に置いてあったので、遠い異郷で、売って置いて行く事に、申し訳ない気持ちがありました。 しかし、すでに、母はインター・ネットを全くやらなくなっているので、持ち帰っても、使い道がなかったのです。 12年間ずっと、私が週に一度、掃除していたんですが、外見が綺麗だったせいか、元の値段が、1万円で、12年も経っているのに、1500円もついたのは、奇跡的でした。 すまんな、今まで、よく働いてくれた。 他の家で、意義のある余生を送ってくれ。

  これというのも、姑息なリストラをする会社が悪いわけですが、それは、繰り返しになるから言わないとして、大物荷物の中で、折り畳み自転車を送り返せたのは、幸いでした。 それは、今でも、使ってますから。 大物でも、箱に入っていさえすれば、運んでくれる、ヤマト便には、感謝しなければなりますまい。 しかも、日時指定ができないというだけで、料金は、宅急便よりも安いのです。 折り畳み自転車で味を占めた私は、それ以外の荷物も、全部、ヤマト便で送りました。 枕や、敷きパッドなど、向こうで捨てて来た物も多かったので、赴任して来た時の荷物よりも、送り返した荷物の方が、だいぶ、少なかったです。

  6月23日の朝食を食べた後、荷物を全て纏めて、送り出し、その後、私自身が、バイクで出発しました。 午前11時に、向こうを出て、家に着いたのは、翌24日の朝4時でした。 630キロ、17時間の激闘については、過去の記事を参照の事。 その日の夕方には、荷物が届きました。 とりあえず、テレビとレコーダーだけ使えるようにし、25日・26日と、二日間かけて、全ての荷物を片付けました。 ようやく、元の生活に戻った事になります。 私が、会社を辞めた点だけを除いて。


  これだけで終わってしまえば、今年の記憶は、大変、陰鬱で、惨めなものになったと思うのですが、その後、余っていた会社の福利ポイントを使いきる為に、沖縄と北海道へ旅行に行ったおかげで、印象がガラリと変わります。 その経緯については、過去の記事で、うんざりするほど、細かく書いてあるので、繰り返しません。

  7月に、沖縄へ、9泊10日、 8月に、北海道へ、5泊6日。 すべて、ホテル泊だった上、貸切タクシーに、10回も乗りましたから、私の人生始まって以来の、大豪遊でした。 会社の福利サービスを引き受けている、○△商事の担当者に計画を任せたのが幸いし、自分では思いつかないような所へ行けたのが良かったです。 余っていたポイントは、75万円分で、もし、自分で計画していたら、ツーリングくらいしか思いつきませんから、岩手から帰った直後から、ずーっと旅行して歩いていたとしても、退職日までに、使い切れなかった事でしょう。

  二回の旅行で、合計、8ヵ所のホテルに泊まりましたが、という事は、つまり、合計8回、ホテルを引き払ったわけで、そのつど、荷造りをした事になります。 応援が終わる時と同じで、部屋中に展開していた荷物を、もう使わない物から順に、旅行鞄に入れて行って、最終的に、初めて、その部屋に入った時と同じ状態になると、胸が、きゅっと締め付けられるような、不思議な気分を味わいます。 こういう気持ちになるのは、私だけなんでしょうか。 もう、そのホテルに来る事は二度とない。 もし、来たとしても、同じ部屋に泊まる事は、まず、ありえない、そう思うと、峻烈に、一期一会の儚さを感じてしまうのです。


  旅行から帰った後は、どこへ行くわけでもなく、退職当初、予定していた、アルバイトをする気もなくなって、完全な、貯金取り崩し生活に入りました。 その後、一番、手こずったのが、このブログにアップしていた、沖縄・北海道旅行記の執筆です。 全部で17週間、4ヵ月も書き続けていたわけですが、週に三日くらいは、それに取られていましたから、今思い出しても、げんなりします。 何年か、何十年かして、振り返った時、今年一番の思い出になるのは、退職の嫌な記憶でも、旅行の楽しい記憶でもなく、旅行記に悪戦苦闘した記憶かもしれません。

  旅行記を書き終えた後は、これといって、する事もなく、喰っちゃ寝、喰っちゃ寝、暮らしています。 幸か不幸か、若い頃に、ひきこもっていた経験があるので、毎日毎日、無為に過ごしていても、普通の引退者のように、自己嫌悪に陥るような事がありません。 強いて、やっている事を挙げれば、自転車で運動に行く事と、週に一度、このブログの記事を書く事。 あと、4年前に立ち上げて、しばらく、熱中したものの、その後、ネタ切れを起こし、ずっと放置してあった、自転車ブログを再生すべく、また、記事をアップし始めた事ですかね。 閲覧者は、地を這うくらい、少ないですけど。


  強引に纏めますと、とにかく、今年は、よく荷造りした年でした。 旅行に出る前のも足すと、13回もやった事になります。 もっとも、「これから、出かける」という時の荷造りと、「これで、引き揚げる」という時の荷造りは、気分的に、全然違っているから、同列には語れないのですがね。 感傷的になるのは、後者の方です。 最後に荷造りしたのは、8月31日、北海道旅行の最終日の朝、函館、湯の川温泉の、和風ホテルでしたが、あれから、もう、4ヵ月も経つんですねえ。

  引退者になった以上、私が、荷造りする事は、もう、ないんじゃないかと思います。 するとしても、考えられるのは、野宿ツーリングくらいですが、それも、来年の春になってみて、バイクで出かける気になるかどうか、まだ分かりません。 それに、野宿ツーリングの荷物というのは、普段使っているのとは、違う物がほとんどなので、今年経験した荷造りとは、だいぶ、趣きが異なります。 次に、大掛かりな荷造りをするとしたら、親が死んで、兄が、家を処分すると言い出した時、引っ越す為に、荷物を纏める事になるかもしれません。 しかし、それはまだ、何年か先になるでしょう。

2014/12/21

ケチは、一日にして成らず

  このブログを前から読んでいる方々は、私が、かなりのケチである事を知っていると思いますが、私も、生まれた時からケチだったわけではありません。 子供の頃は、そういう意識は全くありませんでした。 小遣いなんて、貰った端から使ってしまい、一ヵ月の内、無一文の日々が、3分の2以上あるのが普通でした。

  ちなみに、私が子供の頃、貰っていた小遣いは、月に600円でした。 今の物価なら、1500円くらいの価値ではないかと思うのですが、いずれにせよ、知れたもので、漫画の週刊誌を3冊くらい買えば、消えてしまう僅かな金額でした。 両親は共稼ぎで、母は公務員だったので、特別、貧乏というわけではなかったのですが、客観的に見て、世間では、中の下くらいの生活ではなかったかと思います。

  小学生の間は、ずっと、600円で、中学になったら、値上げしてもらえるかと思いきや、何と、ゼロになってしまいました。 月々の小遣いは廃止になり、正月に貰う、お年玉を基本に、足りない分は、必要な時にだけ渡す、という方式に変わったのです。 大きな抵抗をした記憶がないので、その方式でも、不満がなかったのでしょう。

  中学になると、駄菓子屋に行く事もなくなるわけで、30円、50円といった、小さい金額が、毎日のように出て行くパターンから、文庫本や雑誌、プラモデルといった、数百円から、千数百円くらいの額が、月に一度か二度、出て行くというパターンに変わりました。 一番、お金を喰っていたのは、プラモデルで、35分の1の戦車が、1500円くらいしていたと思います。 しかし、カタログを眺めて、何を買うか吟味し始めてから、実際に買い、塗装して、組み立て、本棚に飾って、達成感に浸り終わるまでに、そこそこ日数がかかるので、お金を蕩尽するという感じではなかったです。

  プラモデル作りは、高校2年の時まで続きますが、ある時、兵器物が嫌になり、ピタリとやめてしまいました。 最後に買った、ドイツのⅣ号戦車は、結局、組み立てないまま、捨てました。 最終状態で、35分1が5・6台、48分の1が30台くらいはあったと思いますが、全部、ゴミ袋に押し込んで捨ててしまい、今では、一台も残っていません。 その後、車のデザインに興味を抱くようになり、三台ばかり買って作りましたが、全く面白くなかったので、プラモデルとは、それっきりの縁になりました。

  これを言っては、モデラーの人達の趣味を全否定してしまう事になるのですが、所詮、模型は模型なのであって、本物とは違うのです。 それを実感する典型的な特徴として、「匂い」が挙げられます。 戦車でも車でも、本物は、鉄臭かったり、油臭かったりするのであって、プラモデルのような、プラスチックや接着剤の匂いなんかしません。 それに気づいた時は、ちょっしたショックを受けました。 で、「どうせ、まがい物なら、三次元でも、二次元でも変わらない」と思って、雑誌の世界に乗り換えたのです。

  話を戻します。 高校卒業後、私は、3年間、引きこもっていたので、お金は、ほとんど使いませんでした。 相変わらず、お年玉を貰っていて、たぶん、1万円くらいだったと思いますが、それをチビチビ使って、暮らしていたのです。 引きこもりの間に買っていたというと、ほぼ全て、小松左京さんと、筒井康隆さんの文庫本ですな。 当時、文庫本は、300円程度でしたし、3年間で、70冊くらいですから、お年玉3年分で、充分間に合っていたんですな。

  随分と、セコい生活のように見えると思いますが、私は、この時点では、まだ、ケチにはなっていません。 お金がなかったので、使えなかっただけです。 あれば、もっと使っていたと思います。 ただし、親に、お金をせびってまで、欲しい物もありませんでした。 高校生の頃に、モデラーをやめる経験をしていた事で、趣味の限界について、薄々感づいていたのかも知れません。 少なくとも、「お金がかかる趣味は、長期間、続けられない」という事を、身を以て知っていたのは、間違いありません。 

  3年間のひきこもりの後、当時、普及し始めだった、ワープロが欲しくなり、一大決心をして、働く事にしました。 実は、その前に、親に頼み込んで、安いワープロを買ってもらったのですが、それが、液晶パネルが一行しかない、およそ、実用性のかけらもない代物だったのです。 ちなみに、東芝の≪ルポ≫でした。 ノート・パソコンのような、大画面の液晶パネルを付けたモデルも出ていましたが、まだ、10万円以上して、とても、手が出なかったのです。 液晶パネル一行の、≪ルポ≫ですら、3万円もしたのだから、隔世の感あり。

  「こんなの、使い物にならん!」と、早々に見限ったものの、ひきこもりの身で、親に、「もっと高いのを買ってくれ」とは言えません。 で、自分で働かざるを得なくなったという流れです。 「そんな安直な動機で、ひきこもりから、脱却できるのか?」と思うかもしれませんが、私の場合、できたのです。 それだけ、熱烈に、ワープロが欲しかったのだとも言えます。 必要は、独立の母ですな。

  と言っても、何の伝もないので、新聞の折り込み広告に入っていた求人のチラシを見て、植木屋の見習いになる事にしました。 個人でやっているところだから、いろいろと面倒を見てもらえるだろうと、それなりに打算していたのです。 電話したら、割と簡単に雇ってもらえました。 打算は的中し、確かに、面倒は見てもらえたのですが、仕事があまりにもきつくて、参ってしまいました。 植木屋にもいろいろあって、金持ちの屋敷に専属で入って、呑気に手入れだけしているところもあれば、一般家庭を対象に、半日単位で、ガシャガシャと仕事をして回る、猛烈に忙しいところもあり、私が勤めたのは、後者だったのです。

  休みは、雨の日だけで、雨が降らなければ、連続一ヵ月働き続ける事もあります。 日当制なので、働けばそれだけ、収入になったのですが、体の方がもちません。 植木屋というと、木の枝を切っている姿を想像すると思いますが、それは、一般的なイメージに過ぎず、仕事の半分以上は、穴掘りです。 穴掘りの厳しさは、植木屋の見習いと、兵隊くらいしか知らないのではありますまいか。

  枝を切る方は、神経を使います。 形を整えればいいわけですが、木は一本一本、違う形をしているので、それを一定の型に持って行くのは、至難の業です。 間違えて切ってしまえば、もう、やり直しは利きません。 また、木の切り方というのは、種類によって違い、場所によって違い、季節によっても違うので、それらの組み合わせを、全て頭に入れなければ、本来、手入れなどできないのですが、親方も先輩も、それを、言葉で教えてはくれないのです。

  「見て覚えろ」というわけですが、見習いとは言うものの、何かしら、作業はさせられるわけで、人の仕事を見ている暇など、一秒もありません。 「職人の技は、盗む物だ」とか、利いた風な言葉を口にする人がいますが、自分でやってみれば、そんなカッコいい世界ではない事が分かります。 本に出ている事でもないし、すぐに、途方に暮れますよ。 教えなければ、仕事ができないのだから、まず、教えればいいのに、頑なに、教えないのです。 どういうつもりなんだか、理解に苦しみます。

  後に、ドナルド・キーンさんの本を読んだら、「日本の職人の世界では、3ヵ月で覚えられる事を、10年かけて習う。 彼らが、見習いに仕事を教えないのは、自分の仕事を取られるのを避ける為だ」と書いてあって、そのものズバリではないものの、だいぶ、真理をついていると思いました。 付け加えるならば、自分達が、見て覚えたので、教え方を知らないのだ、という理由も大きいと思います。 そんな合理性のない事をしているから、後継者がいなくなってしまうのですがね。

  私は、自分が経験しているので、「後継者がいない」と嘆いている職人を見ても、何の同情心も湧きません。 自業自得だと思います。 消えるべくして、消えて行くのです。 昨今、庭を造る家が激減していますから、植木屋も、いずれ、消滅するでしょうが、何の感傷も覚えません。 仕事を教えないくせに、「お前は、勉強が足りない」などと、無茶苦茶な事を言って、劣等感ばかり背負い込ませる職種など、絶滅大歓迎だと思います。

  仕事とは別に、鋏を毎晩研がなければならないのが、辛くてねえ。 家の中の流しでは、汚れてしまうので、外の流しで研ぐのですが、寒くなってくると、これがきつくて、参りました。 ゴムの手袋も毎日洗うのですが、あれも、きつかった。 親方はいいんですよ、手袋なんかは、奥さんが洗ってくれるから。 こっちは、家族全員、働いているから、私の手袋は、私が洗うしかありません。 指を一本一本引っ繰り返さなければならないので、手袋だけで、20分はかかるのです。 毎晩ですよ。 今思い出しても、ぞーっとします。 あんな生活は、二度としたくないです。

  話を戻しますが、給料は、そこそこ貰っていました。 20万円以下というのは、梅雨時で、仕事が少ない月だけだったと思います。 車の免許を取るのが就職の条件だったので、初めの頃の給料は、教習所の費用と、中古車の購入代金で消えましたが、4月から働き始めて、10月には、念願のワープロを買う事ができました。 あの時だけは、嬉しかったなあ。 パナソニックの、9インチ・モノクロCRTがついた、据え置き型で、13万円くらいしました。 それは、その後、パソコンに切り換えるまで、15年、使う事になります。

  ワープロの為に就職し、就職の条件として、車を買ったので、車そのものに夢中になるという事はありませんでした。 前述したように、高校時代から、ひきこもり時代にかけて、車のデザインに興味を持ったものの、自分で所有したいという欲望は、あまりなかったのです。 ちなみに、4年落ちのを買った中古車は、初代のダイハツ・ミラで、一番安いグレードでした。 550ccのマニュアル車。 色は、アイボリーに近い白。 その後、6年間持っていましたが、車にかけた、お金というと、ステレオを付けたのと、使いもしないのに、スタッドレス・タイヤを買っただけで、合計、5万円も行かなかったと思います。

  植木屋は、1年3ヵ月で、耐えられなくなって、やめてしまい、その後、派遣会社に登録して、コピー機工場で、半年働きますが、この時も、給料は、毎月20万を超えていました。 バブル時代に差しかかった頃です。 このコピー機工場の仕事は、植木屋より、ずっと良かったです。 体も楽でしたが、何より、教えられた事だけやっていればいいので、気が楽で、毎日、ウキウキしていました。 ところが、いい事は、得てして、長く続きません。 その年の暮れに、「生産量が減った」という理由で、派遣会社ごと、切られてしまいます。

  「ああ、派遣社員というのは、こういうものなのか」と思い、たまたま、その時、胆石の手術で入院したのを口実にして、その派遣会社も辞めてしまいました。 いつまでもいるところではないと思ったのです。 コピー機会社の正社員と比べて、派遣社員が、いかに立場が弱いかを、身を以て体験できたのは、いい勉強になったと、今ならば言えますが、当時は、惨めな気分でしたよ。 何の落ち度もないのに、職場から追い出されてしまったのですからね。

  その頃には、「人生は、お金がなければ、何もできないのだ」という事を痛感していたので、コピー機工場で働きながら、夜、ファミレスで、バイトもしていました。 ファミレスのバイトは、コピー機工場より、もっと楽で、女の子もたくさんおり、雰囲気が明るくて、楽しかったです。 実は、コピー機工場も、9割くらいは、若い女性社員だったんですが、地味な性格の人ばかりで、逆に不気味でした。 職場の雰囲気が性格を作ってしまうんですな。

  で、胆石の手術をして退院したあと、派遣会社は辞めて、アルバイト一本で、3ヵ月暮らし、4月になる直前、ふと思い立って、東京の専門学校へ行こうと決意しました。 私は、まだ、人生を諦めていなかったのです。 努力次第で、輝かしい未来が手に入るのではないかと、夢想していたのです。 その時、植木屋と、派遣社員で稼いだ金が、140万円ありました。 専門学校は、2年制で、1年の授業料が、70万円だったので、使いきってしまう事になりますが、若気の至りで、「未来を買うなら、惜しくはない」と思っていたんですな。

  で、夜、沼津でバイトを続けながら、昼間、東京へ通うという、殺人的日課で、暮らし始めました。 東京に住むとなると、お金が、すぐに足りなくなるから、そうせざるを得なかったのです。 「フレックス・パル」という、新幹線の定期を買った月もありましたが、それは高いので、ほとんどを普通列車の定期で通いました。 片道、3時間、往復、6時間。 それに、バイトと、授業。 よくもまあ、あんな生活を続けていたものです。 

  ところが、年が明けた頃、その専門学校が、駄目な所だと分かりまして・・・。 「就職先がないらしい」という噂が広まり、あちこち聞いてみると、それが本当らしいと思われたので、教師を捉まえて、膝詰めで問い質したら、「就職先はあります」と言われたものの、どうにも、頼りにならない感じが、濃厚に漂っています。 他の生徒は、高校出立てで、世間知らずでしたが、私は、一度、社会に出ているので、その種の胡散臭さには、嗅ぎ覚えがあったのです。 別に、そこが、悪意で運営していたと言うつもりはありませんが、実際問題として、就職ができないのでは、専門学校に通う意味がありません。

  忘れもしない、2月の中頃の、土曜日の午後の事です。 2年目の授業料を払うべきか否か考えていた時、「はっ!」と気づいたのです。 「学校なんかに通っている場合ではない!」という事に。 すでに、23歳になっていて、就職の機会は、どんどん遠退いています。 このままでは、人生を棒に振ってしまうかもしれない。 頼りにならない専門学校なんかを当てにしているより、職安に行くべきなのではないか? バイトは、まだ続けていましたが、そちらで様子を聞くと、好景気で、あちこちで、正社員を募集しているという情報が入って来ていました。 ほんの数分の内に、考え方が変わり、学校はやめて、自力で職を探す事に決めました。

  ちなみに、派遣社員時代から、専門学校時代の1年半の間は、忙し過ぎて、趣味どころではなかったので、通学定期代以外、お金が出て行く事はなく、貯金は、70万円のまま、そっくり、残っていました。 この期間に買ったもので、記憶に残っているというと、カシオの、ソーラーの腕時計くらいですかね。 3000円くらいので、すぐに壊れましたけど。

  で、専門学校は、すっぱり、やめてしまい、バイト先で得た情報を頼りに、地元の自動車工場に勤める事にしました。 一応、職安を通して、面接に行きましたが、試験などはなくて、高校卒業資格さえあれば、誰でも採用するという状況でした。 時は、バブルの真っ最中だったのです。 その日の内に、健康診断が行なわれ、「○日から来て下さい」と言われました。 1989年、つまり、昭和64年にして、平成元年ですが、その年の、3月1日付で就職。 その後、半年間の準社員期間を経て、正社員になり、合計、25年と5ヵ月、勤める事になります。

  今にして思うと、あの、1989年2月の、土曜の午後の決断がなければ、その後の私の人生は、全く変わったものになっていたでしょう。 そもそも、人生が成立したかどうかも怪しいです。 バブルの時代の大波に乗って、比較的大きな会社に潜り込めたから、これまで、生きて来られたのであって、もし、あのまま、専門学校に通っていたら、就職できず、フリーターで、死ぬまで働き続けなければならなくなっていたかもしれません。 あの、土曜の午後は、私の人生の、ターニング・ポイントだったのです。

  いとも容易に就職したものの、たまたま、その会社が、東証一部上場企業だったので、給料とボーナスは、中途採用とは思えないくらい、多かったです。 もっとも、ずっと、ヒラでしたから、会社の中では、少ない方だったのですが。 工場というのは、当人に、その気があって、ライン終了後の残業を嫌がらなければ、一応、誰にでも、出世の機会が回って来るのですが、私がヒラで通した理由は、人を使うのに向かない性格である事を自分で知っていた事と、仕事より私生活の方を重視したかったからです。

  上司から、「上に上がる気はないのか?」と訊かれた事が、二回ありましたが、間髪入れず、「全くないです」と答えました。 むしろ、そんな事になっては、困るのです。 気楽に過ごせると思うから、工場に勤めたのであって、部下を持って、責任を負わされたりした日には、胃に穴が開いてしまいます。 給料さえ、貰っていれば、それで充分だったのです。 私が就職した頃は、「私生活重視」という考え方の人間が少なくて、職場で異端視されていましたが、今の若者は、むしろ、私のような勤め方に、一つの理想モデルを見出すんじゃないでしょうか。 20年以上遅れて、世の中の方が、私に追いついて来た感があります。

  労組の職場委員という役があり、若い社員を中心に、回り持ちで、1年間受け持つのですが、これが、見るからに、面倒臭そうな仕事で、職場で30人ほどを相手に、カンパ金を集金したり、冊子を配ったり、職場討議を開催したり、休日に大会に参加したり、メーデーに出たりと、半端でない迷惑さ。 「そんなものになったら、1年間、ドブに捨ててしまう」と恐れていたのですが、中途採用だったせいか、私のところには回って来ず、25年間、一度もやらずに、逃げ切る事ができました。 今思い出しても、幸運だったとしか言えません。

  給料は、手取りで、初任給が、23万円。 最も少なかった時は、18万円くらい。 最も多かった時は、40万円くらい。 25年間を平均すると、30万円より、ちょっと少ない程度になるのではないかと思います。 ボーナスは、大体、50万円くらい。 フリーターで暮らしている人から見ると、思わず、涎が出るような金額かも知れませんが、私は、生涯、ヒラだったので、これでも、少ない方です。 会社にいる間、ボーナス支給額が、全社平均を上回った事が一度もありませんでしたから。

  「それだけ貰っていて、なんで、ケチになったのか?」と思うでしょうが、それにも、ターニング・ポイントがありました。 就職して、1年経った頃、親元にいつまでもいるのが嫌になり、最初は、会社の寮に入ろうと思ったのですが、そちらは、二人部屋だというので、耐えられそうにないと思って、断念。 で、家を出て、アパート住まいを始めたのです。 家賃の安さだけで選んだので、ひどい所に入ってしまい、ゴキブリやネズミと格闘して、うんざりした事もありますが、それより何より、独り暮らしが、想像していたような楽しいものではない事に気づき、3ヵ月で、家に戻ってしまいました。

  独立計画自体は、失敗だったわけですが、この時、3ヵ月間、一人で生活したお陰で、家計についての考察が深まりました。 一日に、食費がいくら必要で、一ヵ月の家賃・光熱費がいくら必要か、そういう事を計算する機会に恵まれたわけですな。 若い頃は、健康に大した注意を払っていないもので、「食い物なんて、格好だけ、腹に入ればいい」と思っていて、最初は、食費を、月5千円で上げようと目論んでいましたが、いくら、24年前と言っても、その金額では、御飯と、食パンと、袋ラーメンばかりになってしまいます。 で、その生活は、崩壊したわけですが、一度でも、そういう、「最低必要限度」の計算をした事があると、お金の価値に関する考え方が、まるで、違って来るのです。

  人間というのは、着たきり雀でも、ホームレスでも、生きられますが、食べる物がなくなったら、すぐに死んでしまいます。 衣食住の内、図抜けて大切なのは、「食」なわけだ。 で、その、「食」の基本になる、最低限必要な費用を基準にして、いろいろな物の価格を見てみると、あらゆるものが、高く見えて来るのです。 今の物価で、大体、一食当たり、200円くらいあれば、御飯に、レトルト・カレーをかけ、キャベツのサラダと、冷凍食品のミニ・ハンバーグを一つ二つ付けて食べても、収まると思います。 袋ラーメンならば、ウインナー2本に、キャベツやもやしを入れ、卵も付けられる。 200円というのは、そのくらいの価値なのです。

  一食200円なら、一日三食で、600円。 十日で6000円。 一ヵ月で、18000円ですわな。 つまり、2万円あれば、食費に関しては、一ヵ月、暮らせるわけだ。 平均的な地方都市で暮らすとして、家賃5万円のアパートを借りた場合、食費2万円、光熱費2万円、その他、雑費1万円と見ると、月に10万円あれば、そこそこ文化的な生活が成り立ちます。 一年で、120万円。 十年で、1200万円。 親元を離れ、独立して生活する期間が、80年と仮定すると、9600万円あれば、一生分、賄える事になります。 大体、1億円と考えれば、ゆとりも出る。

  これねえ、人によって、二派に分かれると思うのですよ。 一生の間に、一度でも、こういう計算をした事がある人と、ない人です。 自他共に認める、よく言えば、倹約家、悪く言えば、ケチ、気取って言えば、吝嗇家という人達は、必ず、この計算をした経験があると思うのです。 でなきゃあ、お金があるのに、使わないなんて、逆に、不合理な態度に見えるでしょう?

  基本から計算すると、200円というのが、どのくらいの価値なのか分かるから、軽々に使えなくなってしまうんですな。 どんな商品の値段を見ても、「これを買わなければ、何食分、食べられるか?」という、計算をしてしまうのです。 「何食分、食べられるか?」という事は、すなわち、新たな収入がない状態で、「あと、何日間、生きられるか?」という事です。

  現在、学生で、まだ、社会に出ていない人達は、「1億円」などと聞くと、「一生、縁がない」とか、「宝くじでも当たればね」とか、考えてしまうと思いますが、そんな事はないのであって、あなたの親も、1億円くらいは、すでに稼いでいます。 大体でいいですから、給料とボーナスの額を教えてもらって、一年間の手取り収入を計算し、1億を、それで割ってみなさい。 驚くような年数にはならないから。  みんな、そのくらいは稼いでいるのです。 ただし、稼ぐ一方で、今までの生活で使ってもいるから、残っている金額は、遥かに少ないというわけです。

  そんな計算は、一度もした事がないという人達、なかんずく、アルバイトから職歴を始めて、「稼いだ金は、全部使うのが、当たり前」と思っている人達は、是非一度、試してみる事をお勧めします。 時間も手間も、大して、かかりません。 電卓一つあれば、30分くらいで、自分の人生の将来を垣間見る、様々な計算ができると思います。

  あまり若い内に、この計算をしてしまうと、一番お金を喰う、人付き合いができなくなり、友人ゼロで、結婚もできないというコースに入ってしまい兼ねませんが、30年前なら、そんな生き方は、話にならなかったものの、今なら、生涯独身者は、それほど珍しくないので、歳を取ってから、お金がなくて、お先真っ暗になってしまうよりは、ずっとマシという考え方もあります。 若い内から蓄えに励む事が、人生運営の安全策であるのは、間違いありません。

  というか、私は不思議でならないのですが、別段、高給取りでもないのに、金離れのいい人間と、結婚する人の気が知れません。 お金を気前よく使ってしまう人は、当然の事ながら、蓄えが少ないか、何もないか、借金しているかの、いずれかであって、そんな人間と結婚したら、最終的に、ツケを回されるのは、自分なわけですが、そういう危険性について、事前に検討しないんですかね?

  離婚する夫婦の何割かは、お金が原因だと思うのですが、相手が、金遣いが荒いか否かくらい、交際期間中に見ていれば、馬鹿でも分かりそうなものです。 男だったら、車をしょっちゅう買い替えているとか、女だったら、ブランド品を山ほど持っているとか、そんな奴は、要注意どころか、接近禁止ですぜ。 自分の稼ぎを、全部喰い尽くされた挙句、離婚した後まで、慰謝料を毟られるのがオチです。 地獄だね。 別に、極端なケースではなく、日常的に、よく聞く話でして、誰でも、親戚や友人に、一人は、そんな目に遭っている人がいるのではないでしょうか。

  「でも、ケチと結婚するのもねえ・・・」という気持ちも、よく分かります。 お金の問題で、他人に振り回されたくなかったら、結婚しないのが、一番、安全ですな。 昨今、離婚して、シングル・マザーになり、喰えなくなって、売春しているという、アホな女性が多いようですが、後々、子供に顔向けできないような仕事をする前に、なんで、実家を頼らないのか、不思議でなりません。 「親の反対を押し切って、結婚したから」という経緯のある人でも、大丈夫。 大抵の場合、孫付きで帰れば、渋々ながら赦され、内心では、歓迎されます。

  そもそも、最初から、結婚せずに、交際だけして、子供を産んで、実家で育てれば、一番、効率的なのでは? 親に孫の世話を頼めば、仕事にも出られますし、一石二鳥ではありませんか。 配偶者の親と暮らすのは、地獄だけど、自分の親となら、何の抵抗もありますまい。 「子供には、父親が必要だ」なんてのは、まことしやかなだけの、嘘うそ大嘘でして、子供に必要な存在があるとすれば、父親ではなく、「大人の男」なのであって、それは、祖父でも、一向に構わないのです。

  平安時代の貴族が、大体、そんな婚姻形態を取っていましたが、今後、そういうのが増えて来るのではないでしょうか。 「そんなの、何代も続けられないだろう」と思うかもしれませんが、それが、続くんですよ。 嫁入りも、婿入りもないので、性別に関係なく、成長しても、実家に残るわけで、たとえば、娘を軸にして考えると、自分の父親が死んでも、兄か弟がいれば、家から、男手がなくなるという事がありません。 その家を継ぐのは、娘が生む子供で、息子達は、よその家の女との間に子供が出来ても、女の家の方で育てるので、実家を離れる必要がないのです。 この方式が優れているのは、一つの家に住むのが、血縁者だけになるという点でして、嫁姑の血で血を洗う争いなどとは無縁です。


  なんか、取り止めがない上に、最後には、大幅に脱線してしまいましたが、つまりその、私が、ケチになったのには、理由があったという事を、書きたかったのです。 私の人生自体が、成功したとは言い難いので、あまり、人には勧めませんが、多少の参考にはなるんじゃないでしょうか。

2014/12/14

セールス電話

  退職した事とは、関係ないと思うのですが、先日、変な電話が、かかって来ました。 全然知らない会社の名前に、苗字を添えて名乗り、何かと思ったら、「東京23区の不動産情報について・・・」などと言い始めました。 つまり、セールスなのです。 それにしても、こっちは、静岡県ですぜ。 なんで、東京23区の不動産を買うと思うのかね? 自分が何県に電話をかけているのか、分かっていないんじゃないの? こちらは、固定電話ですから、市街局番だけで、分かりそうなものですが、よほど、常識が欠けているのか・・・。

  私の父は、自営業だったので、家で仕事をしていると、セールスの電話が頻繁にかかって来て、それらの相手をする内に、断るのが巧くなりました。 話をはぐらかしながら、相手の要求に応じられない理由を、徐ろに持ち出し、やんわり断ってしまうのです。 傍で聞いていた私は、「なるほど、こういう風に断れば、角が立たないのだな」と、学習して育ちました。

  20歳を過ぎると、私宛てに、得体の知れない会社や団体から、勧誘やセールスの電話がかかって来るようになり、私は、父の技法を真似て、やんわり断っていました。 ところが、何年かすると、どう考えても、同じ人間としか思えない相手から、電話がかかって来ている事に気づきました。 話し方に特徴があるので、すぐに分かります。 そういうパターンが、何件かあったのです。

  今でも、記憶に焼きついているのは、「私も、この電話だけで、事を済ませようという気はないんですよ」というセリフを必ず使う男です。 数年に渡り、4回くらいかけて来たと思いますが、言葉使いだけ丁寧でいて、人を小馬鹿にしたような口調と、同じセリフを使った事で、同一人物と分かりました。 そのつど、名乗る会社名が違っていましたが、どの会社も存在しないのかも知れません。

  この男のセリフは、「電話だけで、セールスをつもりはない。 いずれ、お宅に足を運ぶつもりだ」という、誠意を装っているようにも取れますし、「電話だけで、済むと思うなよ」という、脅迫とも取れます。 私は、げんなりしてしまい、「なんで、あなたは、私のところに、何度も電話をかけてくるんですか? 私は、仕事で疲れてるんですよ。 なんで、私が、見ず知らずの、あなたの相手なんかしなきゃならないんですか?」と、理不尽を訴えたら、それきり、かけて来なくなりました。


  ある時、ふと思ったのは、「もしかしたら、やんわり断っている事で、向こうから、『脈あり』と見做されているのではないだろうか?」という疑いです。 つまりその、ピシャリと断わる人間には、名簿の名前の脇に、「×」をつけて、二度とかけないようにし、やんわり断る人間には、「△」をつけて、しばらく間を置いてから、また、かけているのではないかと・・・。

  それが証拠に、以前かけて来た事を隠さないばかりか、むしろ逆に、「何年前の何月何日に、お電話した○○ですが、覚えていませんか?」などと言って、馴れ馴れしさを装おうとする奴もいます。 まるで、「二度目だから、もう、知り合いだ」とでも言いたいかのように。 この連中、「自分は、詐欺師ではなく、セールスマンだから、法に触れるような事は何もしていない」という自信でもあるのか、平気な顔をして、他人の生活に、ズカズカ土足で踏み入って来るから、始末が悪い。

  もし、「△」をつけられてしまうのだとしたら、「やんわり断る」という手は、完全な逆効果という事になります。 「また、かけて下さい」と言っているようなものだからです。 「やんわり断るのが、大人の対応だ」と思っていたのは、浅はかな思い込みだったのかもしれません。 むしろ、「二度とかけたくない」と思うくらい、嫌な思いをさせてやるのが、こういう連中を追い払う、正しい対応なのではありますまいか。

  で、先日かけて来た奴ですが、何年か前に、「東京のマンションを買わないか」と言って、かけて来た奴と、同一人物と思われました。 もう、5年くらい経っていると思うのですが、自分が静岡県にかけている事に、未だに気づいていないのでしょう。 もう、それだけでも、馬鹿っぽくて、そんな奴の為に、一分でも煩わされるのは、耐えられません。

  日曜の夜にかけて来るという事は、会社の仕事ではないに決まっています。 会社名は名乗っていても、大方、個人のサイド・ビジネスで、不動産会社の下請けセールスでもやっているのでしょう。 それでも、まだ、見方が良心的過ぎで、まるっきり、詐欺師である可能性もあります。 いずれにせよ、日曜の夜に、この種の電話をかける事が、相手に自分の胡散臭さをアピールしてしまう事になるという事に気づかない点が、実に、馬鹿っぽい。

  試しに、「どこで、この電話番号を知ったのか」と訊いてみたら、嫌なところを突かれたのか、「なんで、そんなに、喧嘩腰なんですか」などと、逆ギレして来ました。 ここに至っては、もはや、まともなセールスマンとは、とても思えません。 セールスの最中に、キレていたのでは、仕事になりませんから、本物だったら、絶対にやらない事です。 で、「二度とかけて来るな!」と、怒鳴りつけて、切ってやりました。

  そういや、こいつと似たパターンで、こちらが、断ろうとすると、逆ギレを起こした奴を、過去に、二人ばかり、経験した事があります。 話の途中で、「はあ? 何言ってるんですかあ?」などと、ナメた口調で喋り始めるから、驚くではありませんか。 客を馬鹿にしていて、セールスが務まるか、馬鹿め。 自分が同様の電話をかけられた時に、そんな態度を取る相手の話を、まともに聞く気になるかどうか、今までの人生で、ただの一度だって、考えた事がないのでしょう。 いくら、元から馬鹿とはいえ、馬鹿にも程がある。

  こういう連中、性格的に、セールスマンなんか、全く向かないのですよ。 自尊心を抑えきれなくて、客から、拒絶される状況を、許せないものだから、「拒絶されたら、拒絶し返してやる」という、喧嘩の作法が出てしまうのです。 セールスマンに、セールス電話をかける権利があると言うなら、客には、それを断る権利があるのですが、その基本的な関係を理解しないまま、事に及んでいるから、断られる事が許せないわけだ。 セールスマン以前に、社会人として失格です。 自分の権利は確保し、相手の権利は無視するというのでは、セールスどころか、世間話もできますまい。 人間関係の根本すら理解していない。

  なんで、セールス電話を法律で禁止しないのか、不思議でなりません。 法律で禁じた上で、電話機に、「セールス撃退ボタン」を設け、セールスと判断したら、そのボタンを押して切れば、自動的に、警察のデータ・バンクに連絡が行くと同時に、同じ番号からの電話は、受け付けないようになる機能を付ければいいのです。 着信拒否の設定機能なら、今でもありますが、そんなの、面倒臭いではありませんか。 赤の他人からかかって来る迷惑電話の為に、こっちが、そんな労を払わねばならんのは、理不尽極まりないではありませんか。

  もっとも、振り込め詐欺事件の、異様に低い検挙率を見ると、セールス電話が相手では尚の事、警察に多くは期待できないという気もしますけど・・・。 こういう事は、電話会社にも責任があると思います。 うちの電話なんか、かかって来る電話の半数以上が、セールスか、詐欺ですぜ。 詐欺師からの連絡の便の為に、電話を引いているようなものです。

  そういや、フレッツ光の勧誘の時には、「NTT△日本の関連会社です」と名乗る連中から、十回以上、電話がかかって来て、ほとほと、参りました。 さんざん、そういう電話がかかって来た後で、NTT△日本の社員が、直截、訪問して来たのです。 こちらは、「入ってしまえば、もう、勧誘電話はかかって来ないだろう」と思って、契約してしまいました。 考えてみれば、関連会社は、誰がインター・ネットをやっているかについて、NTT△日本から、個人データを得ていたとしか思えません。 悪質極まりないやり口で、確か、NTT△日本は、その後、監督官庁から、注意を受けたと思います。

  そういう経緯で加入した契約は、大抵、ろくでもないものでして、ADSLを光にしても、大して速くなるわけでもなく、料金ばかり高くなって、月5千円以上を2年に渡って払い続け、大損させられました。 その後、岩手異動を契機に、すっぱり解約して、モバイルに変えましたが、今では、月975円で済んでいます。 速さなんか、大して変わりません。 容量も、動画ばかり見るのでなければ、月2メガで、充分です。 中途解約金を1万円も取られましたが、光に比べると、モバイルは、月々4千円も得なので、ものの3ヵ月で、元を取ってしまった事になります。 とっくに、そうすりゃ良かった。


  話を戻しましょう。 この種の電話をかけて来る奴は、性別に関係なくいますが、女の場合、「いや、そういうのは結構です。 もう、かけて来ないで下さい」と言えば、「はあ、そうですか」で、引き下がる場合が多いです。 自分が後ろめたい事をやっていると分かっているのでしょう。 女の方が、プライドが高いので、相手を怒らせる前に引いて、ダメージを受けないようにしているのではないかと思います。

  他方、男は、しつこい。 たぶん、詐欺そのもの、もしくは、詐欺まがいだと思っていても、「これが、俺の仕事なのだ」と開き直り、「俺の仕事を邪魔する奴の方が悪い」とでも、屁理屈を捏ね固めているのでしょう。 振り込め詐欺の一団が捕まると、メンバーが、ほとんど、男なのは、その表れです。 たとえ、本物のセールスであったとしても、自分で自分の正当性を信じ込んでしまって、赤の他人に電話をかけるという事が、そもそも、異常な行為であり、途轍もない迷惑になる事など、考えもしないのです。


  星新一さんのショートショートに、優しい看守の話がありました。 死刑囚に、優しく接していると、刑が執行された後、似たような人格の死刑囚が送られて来て、それが、何度も繰り返されます。 ある時、優しくするのをやめ、さんざん、ひどい目に遭わせた上で、死刑台に送ってやったら、それで、ようやく、ループが切れたという話。 このラスト、オチというほどのオチではないのですが、妙に印象深いのは、真理を衝いているからだと思います。 誰にでも、優しくすればいいというものではないのですよ。 「人を見て、法を説け」とも言います。 もしかしたら、星さん自身が、訪問セールスや、セールス電話に悩まされて、発想した話かもしれません。

  やんわり断れば、その場は、「うまく、撃退した」という、自己満足に浸れますが、いいのは、当座だけで、何せ、名簿に、「△」がついてますから、しばらくすると、また、かかって来ます。 それは、是も非もなく、避けたいところです。 私一人で暮らしているのなら、電話を解約して、清々するのですが、家の電話なので、そうも行きません。 となると、二度とかけて来る気にさせない為には、怒鳴りつけるのが、一番という事になります。

  良心の呵責を感じる必要はありません。 相手はこちらを、良く言っても、「一方的に利用しようとしている」、悪く言えば、「騙そうとしている」のであって、間違った事をしているのは、向こうだからです。 そういう輩に、丁寧に応対する方が、却って、世の為になりません。 将来を考えれば、相手の為にもなりません。 「こんな仕事は、もうやめよう」という気にさせるのが、むしろ、思いやりというものです。

  ちなみに、電話の場合、相手が一人なので、よほど、ひどい事を言っても、名誉毀損罪は成立しません。

「馬鹿!」
「死ね!」
「キチガイ!」
「人間のクズ!」
「親の名前と住所を言え! どういうつもりで、こんな出来損ないを、世間に出しやがった!」

  と、思いつく限り、最もインパクトがあると思われる言葉を、声を限りに、怒鳴りつけてやればいいのです。 そういう罵言を浴びせる為に、わざと相手を怒らせて、無礼な態度を引き出すという手もあります。 もっとも、他人を怒鳴りつける事に快感を覚えるようになると、普段の生活でも、その癖が出てしまいかねないので、理性で、コントロールする必要はありますが。

  いかに図々しいとはいえ、向こうも、生身の人間ですから、電話をかけるたびに、怒鳴りつけられていれば、恐怖で、鬱病になって、赤の他人に電話をかけようなどと、思わなくなるでしょう。 本来なら、赤の他人が怖いという事は、子供の内に、体験を通して、肝に銘じておかなければならない事なのですがね。

  「怒鳴るのは、どうも・・・」という方は、相手の用向きが分かった時点で、「あー、そういうのは結構です。 もう、かけて来ないで下さい」と、早口で捲し立て、相手が何か言う前に、電話を切ってしまうのが、次善の策です。 その場合、また、かけて来る可能性はありますが、何度も、同じパターンを繰り返せば、その内、「△」が、「×」に変わるでしょう。 セールスマンも詐欺師も、脈がない相手に、いつまでも関わっているほど、閑ではないと思われるからです。

2014/12/07

国際時事2014.12

「引退生活に入れば、時間があり余るから、週に一回のブログ更新なんて、屁でもなくなるに違いない」

  と思っていたのですが、そんな事にはなりませんでした。 沖縄・北海道旅行記を書いている間は、週に三日間を執筆に費やして、ヒーヒー言っていましたし、それが終わったら終わったで、今度は、書きたい事がなくて、まるで、筆が進みません。 仕事をしていた頃は、半日捻出できれば、結構、纏まった量の文章を書けたのですが、今では、一週間あっても、何も書けません。

  前にも書きましたが、私自身が、社会の主流から外れてしまったので、社会問題全般に興味が薄れてしまったんですな。 以前は、国際ニュースなんて、テレビに釘付け、被りつきで見ていたものですが、今では、番組そのものを見ない事も多いです。 自分と関係ない所で、何が起こっていても、「そんなこたーどーでもいーわ」という感じです。

  私が、国際問題に、どれほど、興味を失ったか、ちょっと、書いてみましょうか。


≪エボラ出血熱≫
  小松左京さんの、≪復活の日≫を、小説でも映画でも知っている人なら、致死率が高い感染症が発生するたびに、自分に被害が及ばない事を前提に、「今回は、どこまで広まるかな?」という、背徳的興味を抱くと思いますが、今のところ、人類を滅ぼすまでには、遠く遠く及びそうにないです。 いや、別に、がっかりしているわけではないですがね。

  自称先進国の元首どもが、「支援!支援!」と、我鳴り立てていますが、物資を送るだけならともかく、人まで出すとなると、派遣される者にも命の危険が及ぶわけで、もし、死んでしまったら、誰が責任を取るのか、大いに気になるところです。 各元首諸君、そんなに支援したけりゃ、自分で行ってはどうか? 人道主義精神に溢れているんだろう? ほれほれ、遠慮はいらんから、職を辞して、すぐに、個人の立場で、支援に出かけんさい。 みんな、誉めてくれるぞ。 

  どんなに高尚な行為であっても、命が懸かっているとなったら、話の次元が変わって来ます。 死んだ後、誉められたって、勲章を貰ったって、顕彰碑が立ったって、その人の人生は、それまでよ。 こういうケースでの支援を、「お金の問題」に換算できると思っている人達は、命の価値の絶対性について、考えが、決定的に足りないんじゃないでしょうか。 まさか、あの世だの、来世だのを信じていて、「そっちで、いい思いができればいいだろう」なんて、馬鹿な事を考えているんじゃあるまいね?


≪イスラム国≫
  略称を、「ISIS」とか、「IS」とか、言われていますが、どちらも、ト○タの車の名前にあるねえ。 困ってんだろうな、ト○タのディーラーは。 それでなくても、国内じゃ、車が売れないのに。 もっとも、私はもう、ト○タ関係者じゃないから、どーでもいーこってすが。 待て待て、車を買った人は、もっと困っているかも知れんな。 ツイッターで、「やっぱ、ISは、いいですよ」とか、「うちは、家族で、ISISです」とか、呟いた日には、CIAの監視がつきそうです。

  で、イスラム国ですが、残虐行為ばかり、注目されていますが、短期間に、広範囲に勢力を広げた点の方が、より興味深いです。 歴史に興味がある人なら、後に大きな国を作る勢力というのが、初期に急激な膨張をした例を、いくつも思いつくのではないでしょうか。 もちろん、最初だけ強くて、その後、失速し、消えて行くケースも、無数に例があるので、イスラム国がどうなるかは、まだ分かりません。 ただ、大きくなる資格だけは、クリアしているわけです。

  イスラム国を敵視している諸外国にとっては、むしろ、イスラム国が、残虐行為をしている間は、大きな心配をしなくてもいいとも言えます。 これが、勢いはそのままに、残虐行為をやめて、純粋なイスラム原理主義で、参加者を増やし始めたら、拡大を止めようがなくなります。 イギリスやフランスが引き、アメリカが維持しようとしている、現在の国境線を、完全に無視していますから、どこまで広がるか分かりません。 正に、ムハンマドの時代の再現になりますな。

  イスラム国に参加する若者が、どっと出て来た背景には、欧米的価値観が、まるで、魅力を失ってしまった事実が、大きく重く横たわっていると思います。 具体的に言いますと、ヨーロッパ人やアメリカ人の生活に、憧れを感じる人間が、減ったんですよ。 特に、アメリカ人なんて、ただ、喰い過ぎて、ぶくぶく太っているだけで、そんな人生の、どこに憧れろって言うのよ? 覇権を維持したかったら、まず、一人一人が、痩せるべきですな。 それは、予算削減より、遥かに難しいかも知れませんが。

  アメリカ映画も、つまらなくなったしねえ。 社会自体がつまらないから、そこに生きている人間の人生も、つまらないのは当然で、人間ドラマが、映画のネタにならなくなってしまったんですな。 かつて、世界を熱狂させたSFも、壊滅状態。 未来を全く描けなくなったのは、日本のアニメと同じ症状で、不治の病です。 アベンジャーズ路線で、世界の注目を引き続けられるかどうか、アメリカの映画人自身が、分かりそうなものですがね。 あんなの、子供も見ない。

  環境問題でも、科学技術でも、社会制度でも、人類文明の限界が見えて来てしまったのは、大いに痛いですな。 結局のところ、産業社会は、停滞し、衰退し、人口も減って行って、残った人類は、宗教に縋って、種としての余生を送るようになるんじゃないでしょうか。 そう思うに付け、たとえ、イスラム国が亡ぼされても、次々に、似たような勢力が出て来るような気がするのです。


≪アメリカ、黒人青年射殺事件≫
  つまるところ、アメリカでは、人種問題は、全く解決していないわけですな。 奴隷解放は言うに及ばず、公民権運動も、遥か昔の事なのに、まーだ、これか。 陪審制度が関わっている点も、アメリカへの憧れを失わせます。 そりゃ、白人が多い陪審団に決めさせれば、白人に有利な結論が出るに決まっていますよ。 そんな事は、小学生だって分かる事です。 殺された方は、裁判もできないというのだから、人権無視も甚だしい。

  アメリカ政府も、自分の国がそんな有様なのに、外国に向かって、よく、人権だの、人道だのを語れるものだと思います。 資格がない事くらい、分かりそうなものですが。 世界のリーダー面をして、えらそうな説教をしたかったら、まず、自分の身を正すべきでしょう。 もっとも、人種問題の解決は、お先真っ暗だと思いますがね。 法律を、いくら弄っても、どうなるものでもありません。 「結婚は、必ず、異なる人種と行なわなければならない」という法律を作れば、50年くらいで、解決すると思いますが、そんな法律は、千年経っても作れないでしょう。

  アメリカに移民するとか、留学するとか、今でも、そういう人は多くて、そういう人達のおかげで、アメリカの経済は、成長し続けているわけですが、私に言わせれば、わざわざ進んで、マイノリティーになりに行く人達の気が知れません。 「英語ができるようになれば、アメリカ市民になれる」とかいう次元の問題ではなく、これから、アメリカに行く人間は、一生、マイノリティーのままだっつーのよ。 どこで、撃ち殺されても、裁判も開いてもらえないんだよ。 一体、何に憧れて、行きたがるのかねえ? 


≪ウクライナ紛争≫
  なんで、こんなに、こじれたかと言えば、大元は、時もあろうに、ソチ五輪の真っ最中に、ウクライナの反ロ派が、クーデターを起こして、政権を乗っ取った事にあります。 ロシアの立場になってみれば、世界中の注目を浴びている、正にその時に、思いっきり、顔を潰されたわけで、そんな連中を許せるわけがありません。 まず、この事を頭に入れてから、その後の推移を見てみれば、この問題で、ロシアが、一歩も退こうとしない理由が分かると思います。

  ウクライナの反ロ派にしてみれば、「ソチ五輪の最中だから、今こそ、チャンス!」と思ったんでしょうな。 オリンピックを開催している立場上、ロシアは、軍事行動が取れないだろうと踏んだわけだ。 だけど、オリンピックは、いつまでも続くわけじゃないですよ。 その後の事は、考えなかったんですかね? それでなくても、ロシアのような大国のすぐ隣で、反ロの政権を打ち立てようという発想が、あまりにも、お先真っ暗的だと思いますが。

  また、旧西側諸国が、揃いも揃って、勝手なやつらで、クーデターと承知していながら、それを支持したんですぜ。 話にならんわ。 もし、自分の国でクーデターが起きた時、外国が、それを支持したら、どう思う? 相手の立場でものを考える事ができないのは、帝国主義時代の感覚、そのまんまですな。 アメリカに至っては、支持どころではなく、支援までしていたようですが、どうも、アメリカという国は、世界を常に不穏な状態に置いておきたい願望があるように見えます。

  旧西側諸国は、事を自分達でこじらせておきながら、ロシアに経済制裁をかけた結果、貿易が滞って、自分達まで損をしているのだから、滑稽至極です。 どこで、間違えたのか? 考えるまでもなく、クーデターを支持してしまったところですよ。 「国境線は変えないのが、第二次大戦後のルールだ」とか、一見、深い事を考えているようでいて、「外国のクーデターは支持する」というのでは、安定した国家関係など維持できるわけがないではありませんか。

  その後、ウクライナでは、選挙が行なわれて、「正当な政権として認められた」と言っていますが、クーデター政権が取り仕切った選挙に、正当性があるんですかねえ? どこまで行っても、不当だと思いますけど。 一方、ロシアがクリミア編入の前に行なった住民投票について、旧西側は、「正当性がない」と言っているわけですが、第三者から見ると、両者の違いが分かりません。 人の事をどうこう言えないでしょう。

  イギリスやフランスが、わけ知り顔で、手前勝手な事を言うのは、昔からですが、不思議でならないのは、ドイツの態度ですよ。 ウクライナ問題で、やたらと、首相が出しゃばって来るでしょう? 本来なら、そんな事、できるはずがないんですよ。 ドイツは、ナチスの時に、ウクライナを侵略・占領して、反ソというか、反ロのコサック部隊を使って、ソ連と戦わせているんですぜ。

  もちろん、ナチス・ドイツ軍自身も、ソ連人を殺しまくっています。 なにせ、ヒトラーは、スラブ人を、全員、奴隷にするつもりでいたのですから。 いや、マジマジ。 「ユダヤ人は抹殺、スラブ人は奴隷に」というのが、ヒトラーの基本方針だったのです。 理由は、「人種的に劣っているから」というもの。 実際には、ソ連側の反撃で、ドイツは、ボコボコにやられて、自分達の方が劣っている事を、実証してしまったのですが。

  そういう経緯がありながら、どうして、ウクライナ問題で、ドイツが、ロシアに向かって、ああだこうだと、批判ができるのか、全く以て、信じ難い光景です。 また、侵略するつもりなんですかね? いや、やりかねないですよ。 ドイツ人は、日本人と同じで、今でも、外国人を同じ人間だと思っていないらしいですから。 ただ、ナチスの大失敗に懲りて、大人しくしているだけです。 ここ数年、EU内で、経済が独り勝ち状態になっているせいで、大いに自信を取り戻しているようなので、そろそろ、衣の下の鎧が見えて来るんじゃないでしょうか。

  では、旧西側諸国は、どうすれば良かったのか? ウクライナで、クーデターが起こった後、すぐに、クーデターを非難する声明を出した上で、ロシアと協議し、対応を、一緒に検討すれば良かったのです。 たとえ、クーデター政権が維持されない状況になったとしても、ロシアを交ぜて事を決めていれば、クリミア編入や、ウクライナ政府対親ロ派の内戦のような、極端な事態は、確実に避けられたはずです。 こう言えば、ちっとも、難しい事じゃなかったのが分かる思いますが、旧西側諸国は、そもそもが、ウクライナを自分達の陣営に分捕りたくて仕方がない連中ですから、そんな便法など、思いつきもしなかったんでしょう。 大した叡智であることよ。

  とにかく、外国政府を転覆させようなどという発想は捨てなさい。 そこから、すでに間違えている。 外国で、クーデターが起きたら、必ず、非難声明を出しなさい。 支持や支援など、以ての外です。 逆の立場になってみれば、分かるだろうに。 普段、「国際社会の主要メンバー」と自称している国々が、自国の都合を優先して、国際ルールを、平気で無視しているのだから、話にならぬ。


≪香港民衆占拠≫
  これは、収まりつつあるようです。 指導的立場にあった学生達が、警察に出頭したのには、「ほーお!」と、感心しました。 問題ある行為をしていたという認識はあったわけだ。 死者を一人も出さずに収まったのなら、頂上な話。 中国政府に、「不満がある者が、いるんだぞ」という意思表示をしただけでも、まるっきり、無駄な運動だったわけではないと言えるかもしれません。

  学生達は、直截的には、香港政府を相手にしていたので、中国政府は前面に出る事がありませんでしたが、思うに、中国政府は、「軍隊を出して、弾圧」どころか、「もっとやれ。 できる限り、長引かせろ」と、陰ながら、応援していたのではないでしょうか。 香港が混乱しても、別に、中国本土には、損がないからです。 損がないどころか、得がある。 香港の金融センターとしての機能が麻痺すれば、地理的な関係上、自動的に、上海に中心が移るわけで、勿怪の幸いではありませんか。

  中国政府にしてみれば、別に、香港は、自分達で資金を投入して作った街ではないですから、衰えたって、さほど、惜しくはないわけだ。 香港政府が、学生達の要求を、徹底的に突っぱねたのは、当たり前と言えば当たり前で、いかに、特別行政区といえど、中央政府の決定を、地方政府が勝手に変更するわけには行きませんから、どちらを断るかと考えれば、学生の要求の方に決まっています。 香港政府は、当然の仕事をしただけですが、物分りがいい似非大人的な、甘い顔を一切見せなかったのは、見事だったと思います。

  「民主的な選挙の実現」が目的なのに、民主主義を無視した方法を取ったのは、なんとも、ちぐはぐでした。 「選挙」は民主的ですが、「占拠」は、ただの民衆運動であり、民主主義とは、何の関係もありません。 デモや占拠に参加しているのは、常に、一部の人間に過ぎず、有権者の3分の2どころか、過半数にも、遥かに及ばないのです。 そんな一部の意思で政治が動いてしまうのだとしたら、クーデターと、何の変わりもないではありませんか。

  まして、今回の占拠では、タクシーやバス、旅行業界の関係者など、甚大な迷惑を蒙った人々も、厳然と存在しており、民主主義と無関係であるばかりでなく、民衆運動としても、重大な問題があったと言えます。 被害を蒙った業界は、占拠の首謀者に、損害賠償を請求すべきでしょう。 相手が学生だからと言って、泣き寝入りする必要はありません。 他人に損害を与えたら、どういう風に償わなければならないか、社会のルールを教えてやるのは、大人の務めです。

  少し前に、台湾でも、学生による同様な占拠事件が起こりましたが、香港の学生がそれを模倣したのは疑いないところです。 それだけでも、オリジナリティーに欠けますが、「雨傘革命」などという軽薄な名前をつけたものだから、私としては、よーく白けてしまいました。 そういう命名は、成功裏に終わってからにしてはどうか? 大方、歴史の1ページを作れると思って、舞い上がってしまったのでしょう。 ちょっと考えてみれば、中国政府が、香港だけに、民主的選挙を認めたりしない事くらい、分かりそうなものです。 そんな事したら、本土の方まで、占拠事件だらけになってしまうではありませんか。

  台湾では、学生側に譲歩して、幕が下りたわけですが、悪い前例を作ったものです。 一度成功したからには、今後も、気に喰わない事があれば、また、政府庁舎を占拠しようとするでしょう。 国によらず、学生運動に妥協して、いい事など、何もありません。 そもそも、その学生達にしてからが、首謀者など一部を除き、社会に出たら、まるで反対の主張に転向するのですから。

  話を香港に戻しますが、この件で、一番、呆れたのは、やはり、旧西側の政府やマスコミどもの、驚くべき、下司ぶりですな。 中国政府を牽制する声明は出すわ、ヒステリーのキャスターは送り込むわ、全力で煽ってやがんのよ。 だからよー、自分の国で同じ事が起きた時、外国の政府やマスコミが、煽り立てるような真似をしたら、どう思うね? 嫌だろう? 「放っておいてくれ」と思うだろう? 自分がやられたら、嫌な事を、なぜ、やるんだね?

  イギリス政府も凄いよなあ。 自分達が香港を植民地にしていた頃には、民主的選挙どころか、香港人の自治も認めず、最後の一日まで、総督統治を続けていたくせに、なんで、香港の民主主義について、意見する資格があると思うのか、皆目、分かりません。 返還は、1997年だよ。 つい、こないだですよ。 自分達が何をやっていたのか、もう、忘れたのか? 信じられん。 国家も、老衰すると、痴呆になるのか?


「では、香港が民主的選挙を勝ち取るには、どうすればいいのか?」

  簡単とは言いませんが、誰にも迷惑をかけない、真っ当な方法はあります。 自分が、政治家になるのです。 政治に関わりたいんだから、当人に否やはないでしょう。 香港政府のトップに登りつめるのもいいし、更に上の、中国政府のトップまで登りつめるのもいい。 そうすりゃ、自分の思うように、政治制度を変えられますよ。 一生かかるような遠回りになるかもしれませんが、実際に、そういう人達がいるのですから、不可能ではありません。 中国政府の幹部にしたって、太子党ばかりではないのであって、ペーペーの一党員から、実力でのし上がって来た人が、いくらでもいるのですから。

  どうも、非民主主義社会の住人の中には、「民主主義になりさえすれば、何もかも思い通りなる」と誤解している人が多いようですが、そんな事は、全然ないです。 私なんか、選挙権を得て以来、国政選挙は、一度も欠かさず、投票所に足を運んでいますが、私が投票した候補が当選した事は、一度もありません。 つまり、私の意見が国政に反映された事は、一回もないのです。 かれこれ、30年ですよ。 民主主義というのは、そういうものなんですよ。



  む・・・、気がついたら、随分、長々と書いていますな。 変だな。 国際問題への興味が薄れているのは、確かなんですがね。 閑で、考える時間が長くなっているから、相殺されてしまっているんでしょうか。