2018/03/25

靴底補修用ボンドでパンク修理

  これといって、書きたい事もないので、自転車ブログの方に書いた記事を、転載します。





  「こりゃ、一体、何の写真じゃ?」と、お訝りの諸兄よ。 これは、沼津市街地の北の方にある、「岡の宮浅間神社」の、大楠(オオクス)の写真です。 天然記念物の類いと思いますが、詳しい事は知りません。 沼津の名所百選に入っているそうで、母が興味がありそうだったので、「車で連れて行け」と言われる前に、折自で、道順や、駐車場の有無を確認しに行った次第。

   この神社は、私一人でなら、以前に、何度か来ていたのですが、全て、自転車でだったので、駐車場があるかどうか、分からなかったのです。 で、行ってみたら、神社そのものには、駐車場はありませんでした。 その代わり、周囲に、郊外型店舗の駐車場がいくつもあり、短時間なら、それらに停められそうでした。 後ろめたいようなら、ちょっと、何か買えば、問題ないでしょう。

  それはともかく、この帰りに、折自の後輪タイヤの空気が抜け始めました。 少しずつですが、確実に減って行き、とても、家までもちそうにないので、道程の後ろ3分の1くらいは、押して歩きました。 完全に抜けてしまうと、押すにしても、タイヤやホイールを傷めてしまいますが、ある程度、残っていれば、自転車の自重を支えるだけなら、何とかなります。

  抜けるスピードが、割と遅かったから、とりあえず、バルブの虫ゴムを交換して、空気を入れ直して、一晩おきました。 ところが、翌日には、ぺったんこになっていて、「こりゃ、確実に、パンクだ」と判断した次第。 虫ゴムの切れなど、バルブの問題なら、一晩で抜け切ってしまうというのは、早過ぎますから。

  折自は、月に一度しか乗らない事もあり、パンクしたのは、久しぶりです。 前回、タイヤ交換をしてから、初めてのパンクなのでは? だとしたら、2011年の11月以来という事になり、もう、6年も経っています。 「随分、もったなあ!」と感動したいところですが、何と言っても、月に一度しか乗りませんから、胸を熱くし、噎び泣くほどの事でもないか。 

  で、1月16日の午後に、修理に取り掛かったんですが、手持ちのゴム糊が、あまり長いこと使わなかったせいか、変質してしまい、粘着力がなくなっていました。 ブヨブヨするだけで、「少しは、くっつきましょう」という、気概が感じられない。 といって、すでに、午後も遅い時間になっていて、買いに行くのも、面倒だ。 そこで、思い出したのが、↓これです。


  以前、「運動登山に使っている安全スニーカーの靴底に穴が開いてしまったのを、自転車の廃チューブを切って、当てゴムにし、靴底補修ボンドで接着して、塞いだ」という、自転車とは、ほとんど関係のない記事を書きましたが、その時に使った、ボンドです。 ダイソーで、108円で買ってきたもの。 その時の記事で、

≪≪≪
  これ、もしかしたら、ゴム糊の代わりに、パンク修理にも使えるんじゃないでしょうか? もし、イケるとしたら、20ml入りですから、普通のゴム糊チューブ(8ml)より、ずっと割安です。 おっと、これも、頭で考えただけの事なので、保証はしませんけど。
≫≫≫

  と書いていたのを、実行してみようと思ったわけです。 使い方は、ゴム糊とまったく同じ。 チューブの患部を、布鑢でこすり、ボンドを塗って、5分くらい待ち、指に着かない程度に乾いたら、パッチを貼り付けて、ハンマーで叩く、というパターン。 1月半ばの、午後遅い時間ですから、寒さのせいで、乾きが悪く、生乾きで、パッチを貼ってしまい、後で、透明フィルムが剥がし難くて、参りました。

  「こりゃあ、やり直す事になるかな・・・」と恐れつつも、空気を入れたのですが、一晩おいて、触ってみたら、空気は抜けていませんでした。 それでも、「いやいや、そんなにうまく行くはずがない。 その内、抜けるだろう」と、期待せずに放っておきました。

  何と言っても、月に一度しか乗らないので、次に、折自の出番が来たのは、2月9日です。 これといった目的地も決まらないまま、ちょっと走って来ようと思って、後輪タイヤに触れてみたのですが、修理してから、24日経っているのに、まだ、空気は満杯でした。 なかなか、やるな、靴底補修用ボンド。

  で、大事を取って、超近場の、千本松原まで行ったんですが、2時間くらい走って、帰って来ても、空気は抜けませんでした。 別に、乗り心地にも、変化はなし。 着くんですねえ、靴底補修用ボンドでも。 それなら、ゴム糊を買うより、こちらの方が、ずっと割得です。 同じダイソーで、108円でも、量は2倍以上、入っていますから。 もっとも、ゴム糊の方は、単独で売っている事はなく、虫ゴムとか、タイヤ・レバーとか、何かしら、他のものと抱き合わせになっているので、得になるといっても、ケース・バイ・ケースですけど。


  で、↑これが、千本松原に行った時の写真。 後ろに写っているのは、「増誉上人像」ですが、紀行文ではないので、詳しい事は、割愛。 興味がある方は、ご自分で調べるなり、現地に行くなりして下さい。 「贈与税をたくさん払って、誉められた坊さん」ではありません、念の為。




  自転車ブログからの転載は、以上です。

  近況ですが、彼岸の初日に、兄夫婦の襲来が済んだので、これで、8月までは、誰も来ない事になり、ほっとしているところです。 4月は、これといった事がないです。 5月は、松の緑摘みと、車のオイル交換・オイル・フィルター交換があります。 6月は何もなし。 7月には、車検がある。 なんだ、ほっとしたのも束の間で、8月までも、いろいろと面倒な事がありますねえ。

  いつか、面倒な事から完全に解放されて、生きる為の最低限の作業と、好きな事だけやって暮らせる日が来るんですかねえ? 

2018/03/18

読書感想文・蔵出し (36)

  読書感想文です。 今回で、ヴァン・ダインは終わり。 ここのところ、読書感想文の蔵出しは、一回当たり、四作品でしたが、今回は、三作品です。 ヴァン・ダイン関連作品だけで、切り良く終わらせる為です。 伝記の感想が長いので、文量的には、いつもと同じくらいですけど。

  2017年12月19日から、2018年2月11日まで、年を跨いで、ヴァン・ダイン作品を読破したのですが、そもそも、なんで、ヴァン・ダインを読み始めたのか、きっかけを忘れてしまいました。 名前だけは、カーを読み始めた頃から知っていて、「他に読むものがなくなったら、読むか」と思った記憶があるので、それを実行しただけなのかも知れません。   




≪グレイシー・アレン殺人事件≫

創元推理文庫
東京創元社 1961年初版 1993年23版
ヴァン・ダイン 著
井上勇 訳

  三島図書館で借りてきた本。 これも、書庫に入っていたもの。 カバー・イラスト=桶本康文、カバー・デザイン=小倉敏夫の版で、冒頭数ページに、ヨレあり。 水濡れではないのですが、誰かが、よほど、汗か脂がついた指で、読み始めたのではないかと思います。 その後のページは、綺麗なもの。

  1938年の発表。 「一人の推理作家が書ける面白い作品は、6作が限界」と言っていた人の、第11作です。 昔の文庫の文字サイズで、230ページくらい。 150ページしかなかった、≪ウインター殺人事件≫よりは長いですが、前期作品と比べると、半分ちょっとしかありません。

  巻末に、「Y.B.ガーデン」という署名がある、【ファイロ・ヴァンス 印象派的な伝記】という文章が付いています。 小説の中にのみ存在する架空の人物の伝記を書けるのは、どういう人なんでしょう?


     マーカム検事を逆恨みした脱獄囚が、復讐の為にニューヨークへ向かっているという状況下、脱獄囚の馴染みがいる、警察が犯罪の温床と見ているカフェで、厨房の皿洗い係が死体で発見される事件が起こる。 素人探偵ファイロ・ヴァンスは、香水工場で働いている若い女性と出会い、そのカフェに詳しい彼女の助けを得て、謎を解く話。

  香水がモチーフになっていて、謎にも絡んで来ます。 トリックというほどのトリックはないです。 計画的犯行ではなく、行き当たりばったりで、殺人が行なわれ、それを利用しようとした人間が、謎を作ったというパターンですな。 謎の出来は、平均レベルで、決して、ちゃちという事はないです。

  この作品、映画の原作として構想され、先に、ヒロインの配役が決まって、その女優のイメージに合わせて、「グレイシー・アレン」を創造し、小説が書かれたという順序でできたもの。 ちなみに、≪ベンスン殺人事件≫では、ベンスンという男が殺されますが、≪グレイシー・アレン殺人事件≫では、グレイシー・アレンが殺されるわけではありません。 ただ単に、グレイシー・アレンに関連した殺人事件というだけの事。

  最初にヒロインありきで考えた小説ですから、雰囲気的には、ライト・ノベルとまでは言わないものの、赤川次郎さんの作品に似た、少女礼賛主義的なところがあります。 惜しむらく、翻訳のセンスが古過ぎて、工場勤めの女性なのに、山手お嬢様みたいな喋り方になっているのは、アンバランス。 工場勤めの女性が、どんな喋り方をするか、訳者は知らなかったんでしょうなあ。

  この作品、そういう経緯で作られたせいで、読者の評判は、ヴァン・ダイン作品中、最低らしいですが、取り立てて貶すほど、つまらなくはないです。 むしろ、他の作品にはない、展開の面白さが感じられるくらい。 とりわけ、グレイシーがヴァンスを、殺人罪でマーカム検事に告発する件りは、思わず笑ってしまうほど、面白いです。


  巻末の、「ファイロ・ヴァンス 印象派的な伝記」は、30ページ程ありますが、架空の人物の伝記ですから、真面目に読むだけ、時間の無駄という感じがします。 ヴァンスが登場する作品は、長編で12作しかないわけで、名探偵のキャラに耽溺するには、情報が少な過ぎ。 その上、知識・教養をひけらかす、非常に、いけ好かない性格と来れば、そんな人物の伝記に興味を持つ読者が、そうそう、いるとは思えません。 それにしても、「Y.B.ガーデン」て、誰よ? 今までに読んだ、どれかの本の解説に出ているかもしれませんが、調べ直すのも、面倒臭いです。



≪別名S・S・ヴァン・ダイン ファイロ・ヴァンスを創造した男≫

国書刊行会 2011年初版
ジョン・ラフリー 著
清野泉 訳

  沼津市立図書館で借りて来た本。 ヴァン・ダインの作品は、推理小説全集の一冊二作品しか置いていないくせに、伝記はあるわけだ。 どういう基準で、本を購入しているのか分からない。 発行と同年の、2011年に図書館が買っていますが、7年経っているのに、ほぼ、新品状態。 ページに折れ痕が、ほとんど見られないという事は、もしかしたら、私が初めて借りたんでしょうか? そもそも、ヴァン・ダインの作品を読んでいなければ、その伝記を読もうという気になる人もいないわけだから、理屈は通っていますな。

  ヴァン・ダインは、1926年から、1939年の間に、12作の長編推理小説を発表した、アメリカの作家です。 それ以前の職業は、美術評論家で、更にその前は、雑誌の編集者。 そのまた前は、文芸評論家だったようですが、どの職業も、食べて行けるほどの収入は得ておらず、セミ・プロ程度の実力だったようです。 それが、推理小説を書いたら、大当たりして、一気に大金持ちになったものの、浪費が激しくて、金の為に、魂を売りまくり、心身ともに、ボロボロになって、51歳という年齢で死んでしまったとの事。

  「S・S・ヴァン・ダイン」というのは、推理小説を発表するに当たって、それ以前に属していた、知識階級の友人・知人たちから、「大衆に迎合した」事を責められないように用意した、別名です。 本名は、「ウィラード・ハンティントン・ライト」。 だけど、程なくして、正体がバレたそうです。 スタントンという画家の弟がいて、「ライト兄弟」だったわけですが、飛行機のライト兄弟とは、もちろん、全く無関係です。

  ホテルを経営していた両親から、甘やかされたせいで 兄弟共に、子供の頃から、自分たちを、特権を持つ者だと思い込んで育ち、我侭放題。 特に、兄は、その傾向が強く、大人になってからも、そのまんまの性格だったらしいです。 批評家時代には、アメリカの文芸・美術を、ヨーロッパのレベルに引き上げようと、自分が、旧時代的と見做した作家や芸術家を、思いきり扱き下ろして、敵だらけになってしまった模様。

  時代にも翻弄された人で、ニーチェの思想をアメリカに紹介しようとしていたら、第一次世界大戦が始まってしまい、ドイツのスパイではないかという嫌疑を受け、おとなしくしていればいいのに、スパイ狩りを趣味にしている秘書に向かって、スパイのフリなどしてみせたものだから、監督官庁が出動する大ごとに・・・。 友人まで巻き込みかけて、あまりにも無責任な悪ふざけに、かつて、盟友の間柄だった人物が激怒し、絶縁されてしまったとの事。 子供の頃の性格というのは、直らんものですなあ。

  まだ、稼ぎもないような若い頃に、早々と結婚し、娘も出来たのに、カリフォルニアで妻子と暮らしていたのは、ほんの数年で、あとは、遥かに離れたニューヨークで、一人暮らし。 金を稼げないくせに、女遊びは欠かさず続けていたようで、特定の愛人まで作るという、呆れた男。 そもそも、性格的に、妻子なんか持てるような人間ではなかったのだという事が、よーく分かります。

  また、その妻というのが、とっくに愛想をつかされている事を認めようとせず、いつか、夫の収入が安定したら、自分と娘が、ニューヨークに呼び寄せられて、幸せな家族生活を送れると信じ込んでいたというのだから、そちらはそちらで、呆れます。 とことん、男を見る目がないんですなあ。

  評論家時代までの、この人の性格を、一言で言えば、「世の中を、ナメている」というのが、最も適当です。 自信過剰なあまり、他人をみんな、馬鹿だと思っており、現実には、自分が惨めな負け犬になっているのに、それを認めず、「自分が成功しないのは、周りが馬鹿で、自分の価値が分からないからだ」と思っているから、ますます、嫌われるという悪循環に陥っていたわけです。

  で、評論家としての仕事が、どんどん先細りになり、もはや、絶体絶命という境地に至って、とりあえず、収入を得る為に、推理小説を書こうと思い立ちます。 アメリカでは、推理小説が長期低迷状態にあり、そこへ、ヴァン・ダインが、イギリス作品と肩を並べられる推理小説を発表したものだから、嘘のように大受けし、嘘のように大金が転がり込んで来る事になります。 典型的なアメリカン・ドリーム以上に極端な、一発逆転の大成功になったわけですな。 かつて、時代に翻弄された男が、今度は、時代の波に見事に乗ったわけです。

  時代の波は、もう一つ押し寄せてきて、ちょうど、映画業界の勃興期で、ヴァン・ダイン作品は、原作として、すぐに映画化の契約がなされ、それが、印税以上の莫大な収入を齎します。 ところが、それを、とっておけばいいものを、趣味に溺れて、ショー・ドッグの交配やら、珍しい観賞魚の購入やらに、湯水の如く、お金を使ってしまったものだから、常に、金欠で、映画会社に金で吊られて、いいように振り回され、作品の質がどんどん落ちて行きます。

  映画会社というのは、原作の価値なんぞ、屁ほども認めておらず、権利を買い取ったら、こっちのもので、会社側の都合で、話の中身をザクザク変えてしまうのだそうです。 そういう事が罷り通っているというのは聞いた事がありましたが、初期の頃から、そうだったんですな。 ヴァン・ダイン作品は、ほとんどが映画化されたらしいですが、見るに値するようなレベルのものは一本もないようです。

  終わりの二作、≪グレイシー・アレン殺人事件≫と、≪ウインター殺人事件≫は、映画会社との契約が先に存在し、映画会社の脚本部から、原案が提示されて、ヴァン・ダインが肉付けし、それを元に、映画が作られたのだそうです。 小説という形でも発表されていますが、オリジナル作品ではなかったわけだ。 映画の方は、もっと悲惨で、映画会社が欲しがったのは、原作者の名前だけで、映画の中身は、ヴァン・ダインが肉付けした話とは、全然違うものになったのだとか。 もう、やっている事が、メチャクチャですな。

  原作者が、「こういう場面は、映画にした時、見応えがあるだろう」と思って描きこんだ場面は、映画化の際、にべもなく削除されたそうです。 もはや、原作者に対する嫌がらせとしか思えない仕業ですが、無理に良心的に見るなら、映像を撮る側には、予算だの、技術だの、撮影スケジュールだの、俳優の不平不満だの、様々な制約があって、原作通りの場面を撮れない事情があるのかも知れません。


  この人、評論家のままだったら、恐らく、野垂れ死にしていたんじゃないかと思います。 なけなしの金をはたいて、薬物までやっていたというから、しょーもない。 知識人として生きられないのなら、労働するしかありませんが、体が虚弱で、そんな仕事は勤まらなかったらしく、とことん、救いようがありません。

  評論家として失敗したのは、偏に、性格の悪さが禍いしたわけですが、作品の内容から想像していた通り、人種差別主義も嗜んでいたようです。 こういう性格だから、無理もないか。 知識・教養はあったけれど、良識は、かけらもないという、恐ろしくアンバランスな知識人だったんですな。

  とんだ駄目人間なのであって、本来なら、伝記を書いてもらえるような人物ではないのですが、現に、こうやって、伝記が成立しているのは、推理小説の大成功という、嘘みたいな逆転劇があったからこそで、その点を見ると、やはり、普通の人間ではなかったと言わざるを得ません。 同じような経歴の駄目人間はたくさんいると思いますが、そういう人達は、一発逆転したくても、できないでしょう?

  ところで、この人、自伝も書いていて、自分の不遇時代を大幅に脚色して、嘘の経歴を作ってしまった事でも、驚かせてくれます。 ジョン・ラフリー氏が、1992年に、この伝記を発表するまで、ヴァン・ダインの経歴は、自伝を元に調べるしかなくて、嘘が世界中に広まっていたというから、半世紀も世をたばかる事に成功したんですな。

  ヴァン・ダインは、アメリカ本国では、存命中、早くも、過去の人になりかけていて、死後、評価は更に落ち、1960年代には、思い出されもしなくなってしまったらしいです。 ところが、日本では、戦前から、ずっと、大家として扱われ続け、読者が絶えないまま、現在に至っているとの事。 しかし、この伝記を読んだら、少し考えが変わるんじゃないでしょうか。 嘘の自伝に、半世紀以上、騙されて来たと知っただけでも、敬意を払う気がなくなろうというものです。

  そうそう、≪グレイシー・アレン殺人事件≫の巻末に付いていた、【ファイロ・ヴァンス 印象派的な伝記】の著者、「Y.B.ガーデン」とは、ヴァン・ダインの秘書を務めていた女性だそうです。 口述筆記をしたり、アイデアを出したりもしていたそうで、それなら、主人公の伝記くらい書けても、不思議はないですな。



≪ドラゴン殺人事件≫

創元推理文庫
東京創元社 1960年初版 1973年13版
ヴァン・ダイン 著
井上勇 訳

  相互貸借で、浜松市立図書館から取り寄せてもらった本。 三島図書館の創元推理文庫は、90年代に買われた物でしたが、この本は、73年で、20年くらい古いです。 そのせいか、カバーがありません。 最初からなかったとは思えないので、何らかの原因で、捨てられてしまったんでしょうなあ。 「閉架」シールが貼ってあります。 中のページは損傷が少なく、読む分には、問題ありません。 

  1933年の発表。 「一人の推理作家が書ける面白い作品は、6作が限界」と言っていた人の、第7作です。 昔の文庫の文字サイズで、360ページくらい。 前期6作より、一割くらい短いです。 先に読んだ伝記によると、6作書いたら、推理小説はやめて、本業の美術評論家に戻るつもりだったのが、贅沢に慣れた生活をやめられずに、金の為と割り切って、推理小説の執筆を続けたのだそうです。

  徹底的に割り切っていたので、映画会社の要求にも、ホイホイ応じて、少しでも、実入りを多くする事を優先していたのだとか。 割り切りも、そこまで行けば、却って、清々しいですな。 推理小説の方の、他の作家、評論家、読者などが、何と批判しようが、そもそも、推理小説を書く目的が違っていたのだから、話が噛み合わなかったわけだ。


     ニューヨーク郊外にある大邸宅。 龍が棲んでいるという伝説がある、「ドラゴン・プール」に飛び込んだ男が、そのまま、姿を消してしまう。 プールの水を抜いたが、男の遺体は見つからず、プールの底の砂には、龍の足跡のような形が残っていた。 ヒース部長刑事に呼ばれたファイロ・ヴァンスが、屋敷に伝わる龍の伝説を聞き流しつつ、犯人を突き止める話。

  この頃のヴァン・ダインは、自分が嵌まっていた趣味をモチーフにして、小説を書いていたようで、≪ケンネル殺人事件≫に出て来る、犬と中国陶磁の次は、水棲生物だったとの事。 専ら、熱帯魚ですな。 しかし、読んでみると、水棲生物は、殺人者が人間ではない可能性を、少し高める為に、ダシに使われているだけで、オマケみたいな扱いです。

  話の方は、ダラダラと関係者の取り調べが続く、ファイロ・ヴァンス物特有のパターンで、正直な感想、ちっとも面白くありません。 もちろん、ゾクゾク感のかけらもなし。 龍に関する世界各地の伝説を紹介したりしていますが、土台、龍の存在を、推理小説の読者が信じるわけがなく、何の意味もない情報になっています。

  架空の古い屋敷を創造し、舞台を大掛かりにした割には、謎が、あまり、面白くないです。 トリックらしいトリックは、なし。 足跡が残らないように、板をかける程度では、トリックの内に、入れられません。 「納骨堂(安置墓)」とか、「甌穴」とか、疑わしい道具立てが多過ぎて、「どうせ、その中のどれかに、手掛かりがあるのだろう」くらいで、満足してしまい、読者が推理したい気分にならないのです。 それは、ヴァン・ダイン作品全てに共通してますけど。

  ディクスン・カーの作品、≪墓場貸します≫で、プールに飛び込んだ人間が消えてしまうというのがありましたが、それと、よく似ています。 墓が出て来るところも、同じ。 そちらは、1949年の発表なので、たぶん、この作品を下敷きにしているのだと思います。 ≪墓場貸します≫は、カー作品の中では、そんなに出来のいい部類ではなかったですけど、この≪ドラゴン殺人事件≫よりは、ずっと面白かったです。




  以上、三作です。 読んだ期間は、今年、つまり、2018年の、

≪グレイシー・アレン殺人事件≫が、1月28日から、31日にかけて。
≪別名S・S・ヴァン・ダイン≫が、1月31日から、2月6日。
≪ドラゴン殺人事件≫が、2月7日から、11日。


  これで、ヴァン・ダインの長編推理小説12作は、全て読み終えた事になります。 総括すべきところですが、今までの各作品の感想で、書き尽くしているので、総括するほど、感想が残っていません。 これから読むという人には、あまり、薦めません。 結局のところ、ヴァン・ダインは、二流作家でして、ヴァン・ダイン作品は、二流小説だからです。 ≪グリーン家殺人事件≫が、唯一、辛うじて、例外か。

  一生の間に読める本の数は限られているのですから、ヴァン・ダイン作品に割く時間があったら、一流作家の一流作品を読んだ方が、有意義だと思います。 「他に、何も読むものがない」という人になら、先に、伝記、≪別名S・S・ヴァン・ダイン ファイロ・ヴァンスを創造した男≫に目を通す事を条件に、しぶしぶ薦めます。 くれぐれも、経歴を捏造した、「自伝」の方に騙されないように。

  この人、とことん、世の中をナメてたんでしょうねえ。 他人という他人を、一人残らず、馬鹿だと思っていたんだと思います。 子供の頃に染み付いた、根拠のない優越意識が、死ぬまで抜けなかったわけだ。 そんな人間が拵えた、嘘だらけの経歴を真に受けてしまった人達こそ、いい面の皮。

2018/03/11

読書感想文・蔵出し (35)

  読書感想文です。 今回も、ヴァン・ダインだけです。 ちなみに、今現在は、エラリー・クイーンと、ドロシー・L・セイヤーズの作品を、交互に読んでいます。 もう、三島まで足を延ばしたり、相互貸借を頼んだりするのが面倒なので、沼津の図書館にある本だけ、借りている次第。 何の義理があるわけじゃなし、作者ごとに、続けて読む事もあるまいと。  




≪ケンネル殺人事件≫

創元推理文庫
東京創元社 1960年初版 1995年38版
ヴァン・ダイン 著
井上勇 訳

  三島図書館で借りてきた本。 この本も、損傷がひどくてねえ。 裏表紙に、「汚れあり」のシールが貼られていて、中のページの汚れが、また、ひどい。 明らかに、水濡れの痕があり、しかも、それが、全ページに渡っています。 机の上に置いてある時に、飲み物をこぼしたといった、普通に考えらる状況ではなく、一回、完全に、水の中に浸けたとしか思えない。 風呂の中で本を読む大馬鹿者が、稀にいるようですが、図書館の本を風呂の中で読み、しかも、取り落として、浴槽に水没させたのではないでしょうか?

  1931年の発表。 「一人の推理作家が書ける面白い作品は、6作が限界」と言っていた人の、第6作です。 これを最終作品にするつもりで書いたわけで、それを念頭に入れて読むと、なるほど、と思わされるところがないでもなし。 しかし、最終作とは思えないような、顰蹙行為もやらかしています。


  中国陶磁器の蒐集家として知られる男が、自宅の密室で、拳銃自殺としか思えない状況で発見される。 ところが、検死の結果、死因は、背中を挿された事による内出血である事が分かる。 更に、同じ屋敷内で、同じ夜に、被害者の弟が殺され、納戸に押し込まれているのが発見されたばかりか、怪我をした素性不明の犬まで出て来て、捜査陣は、混乱に陥る。 素人探偵ファイロ・ヴァンスが、陶磁器と犬に関する知識を元に、捜査を進めて行く話。

  密室物でもあるわけですが、トリックは機械的なもので、それが、謎の中心というわけではありません。 機械的であっても、トリックがあった方が、推理小説っぽくて良いと思うのですが、この作品に関しては、他にも、謎が、あり過ぎるほどあるので、トリックは、余分とまでは言わぬものの、オマケのような格好になっています。

  「密室」、「自殺と見せかけたようでいて、検死をされれば、すぐに露見する他殺死体」、「もう一つの死体」、「怪我をした、品評会レベルの犬」、「割れた陶磁器の破片」と、これだけ、謎を並べたところは、さすが、これが最終作と決めて、豪華な設定に工夫を凝らした結果だと、思わされるではありませんか。

  アイデアだけで評価するのなら、これは、一級の作品だと思います。 「二級のアイデアを、複数組み合わせただけ」という見方も出来ないではないですが、組み合わせ方が巧みなので、無関係な物を無理やり寄せ集めたという感じはしません。 「合わせ技一本」というわけですな。 犬の所有者の愛人が、事件があった屋敷の隣に住んでいた事が、最後に判明するという流れは、ちと、捜査の方向性が逆回りしているような気がしないでもないですが、それだけなら、瑕というほどではないです。

  他の作品に於けるファイロ・ヴァンスは、事情聴取ばかりやっている印象がありますが、この作品では、犬の所有者をつきとめる為に、本格的な捜査を行ないます。 その過程は、ヴァンスらしくない、堅実なもので、そこだけ、クロフツ作品のような雰囲気になっています。 たぶん、作者が、フレンチ警部シリーズを読んでいたんでしょうねえ。

  とまあ、推理小説としての出来は、かなり良いと思うのですが、重大な問題がありまして・・・。 この作品、ある民族差別用語が、頻出するのです。 呆れるくらい、何度も出て来ます。 刑事達が、その呼称を使い、ヴァンスとマーカム検事は、普通の呼称を使っているところから見て、恐らく、原文でも、何らかの差別呼称が使われていたのでしょう。

  「刑事達に差別意識がある事を表現したかったから、差別呼称を使わせたのだ」というのは、一見、理屈が通っているようですが、それは間違いです。 最後まで読んでも、その刑事達に、何の罰も下るわけではないのですから、作者自身が差別を当たり前の事として認めているも同然で、この話全体が、差別承認作品になってしまいます。

  訳者も訳者で、原作の差別呼称を、「忠実に訳した」のだと思われますが、こと、差別表現に関しては、忠実だろうが何だろうが、使うのは、まずいです。 差別用語というのは、禁止薬物に似た性質があり、自分で使うのもまずいですが、広めるのは、もっと、罪が重いからです。

  訳者にも差別意識があったから、こういう呼称を使ったのだと思いますが、担当編集者が、止めなかったというのが、また、まずい。 有害表現のフィルターにならないのでは、編集者が介在する意味がないではないですか。 更に、38版も重ねて、90年代半ばまで来ているのに、まだ、改めなかったというのだから、呆れて物が言えません。



≪カシノ殺人事件≫

創元推理文庫
東京創元社 1960年初版 1996年30版
ヴァン・ダイン 著
井上勇 訳

  三島図書館で借りてきた本。 本来なら、第7作の≪ドラゴン殺人事件≫を先に読むべきなのですが、三島図書館になかったので、一つ飛ばしました。 ≪ドラゴン≫は、もちろん、沼津図書館にもないので、いずれ、相互貸借で取り寄せてもらって、読むつもりでいます。

  この本は、水没していないようですな。 ≪ケンネル≫に比べると、あまり借りられていないのか、状態は良い方です。 270ページくらいで、前期6作の平均に比べると、4分の3くらいのページ数しかありません。 あとがきや、解説もなし。 退潮期の作品なので、取り立てて申し添える事はないというわけでしょうか。

  1934年の発表。 「一人の推理作家が書ける面白い作品は、6作が限界」と言っていた人の、第8作ですから、食品で言えば、もう、賞味期限が切れた状態なわけですな。 なぜ、嘘つきになってまで、第7作以降を書いたのかというと、ヴァン・ダインという人、ファイロ・ヴァンス同様の、上流社会的な生活をしていて、何かとお金が入り用だったらしく、「書きさえすれば、金になる」という誘惑に勝てなかったようです。 ちょうど、映画産業の勃興期に当たり、シリーズ物の原作は、いくらでも、需要があったんですな。


  「資産家夫人の家で恐ろしい事が起こる」という匿名の手紙が、ヴァンスの元に届いて間もなく、夫人の弟が経営するカジノで、夫人の息子が、水差しの水を飲み、毒物摂取の症状を出して倒れる。 ほぼ時を同じくして、夫人の家で、息子の嫁が毒殺され、続いて、夫人の娘も毒物によって倒れるが、いずれも、ただの水を飲んだだけだった。 犯人が張り巡らせた目晦ましの罠を掻い潜りつつ、ヴァンスが、捜査を進める話。

  「水差しには、水の代わりに、重水が入っていたのではないか?」という設定が出て来て、「そんな一般化していない物質を使うなんて、ズルではないか。 ヴァン・ダインの二十則は、どうなったのだ?」と言いたくなりますが、その点は、クライマックスまで読めば、ズルというわけではないのが分かります。 読者を惑わす為に使っているわけだ。

  それより何より、この話、推理小説の骨格が出来ていません。 読者に対する目晦ましにばかり気が行って、肝心の謎を謎めかす方が、お留守になってしまったのでしょう。 唐突に、犯人が指摘され、唐突に、毒の盛り方が説明されるのは、正に、木に竹を接いだような 展開です。 こらこら、さんざん説明を続けた、重水は、どこへ行ったのじゃ?

  クライマックスが、安っぽい刑事ドラマのような対決場面になっているのも、大いに、いただけません。 間違いなく、当時の映画に影響されたのだと思いますが、小説家が、映像製作者に媚びてしまったら、おしまいです。 大抵、小説家の側で、「どうです? こういう場面なら、映像にし易いでしょ?」と言わんばかりの情景を書き込むと、映像製作者は、「フン」と、鼻で笑って、無視するものです。

  この作品での、ヴァンスの知識・教養のひけらかしは、毒物に関するものに限られていて、普通の会話では、前期の作品ほど、マーカム検事をイラつかせません。 作者が、批判を受け、反省して、衒学趣味を控えた、というのではなく、ネタが尽きてしまったのではないかと思います。



≪ガーデン殺人事件≫

創元推理文庫
東京創元社 1959年初版 1993年35版
ヴァン・ダイン 著
井上勇 訳

  三島図書館で借りてきた本。 同じ、創元推理文庫ですが、他のとは、カバー・イラストが違っていて、真鍋博さんの絵になっています。 一世代前のものなのでしょう。 水濡れの痕がありますが、被害ページは限られており、水没はしていない模様。 古さの割には、程度が良いです。

  1935年の発表。 「一人の推理作家が書ける面白い作品は、6作が限界」と言っていた人の、第9作です。 昔の文庫の文字サイズで、330ページくらい。 巻末に、訳者による、「あとがき」が付いています。 仮名遣いを、創元推理文庫に入れる時に、直しているとの事。 その割には、≪ケンネル殺人事件≫の差別呼称は、直さなかったわけですな。


  素人探偵ファイロ・ヴァンスのもとに、ある高名な化学者の家で、恐ろしい事が起こるという匿名電話がかかる。 その家が入っている高層アパートに、客が集まり、競馬の賭けが行なわれた直後、屋上庭園で、予想を外した男が、拳銃で頭を撃ち抜いた姿で発見される。 他殺と見たヴァンスが、互いに告発しあう容疑者達を相手に、事情聴取を行ない、捜査を進める話。

  「放射能性ナトリウム」という物質が出て来ますが、これは、読者への目晦ましでして、しかも、言及が少なすぎるので、すぐに、本命の謎に関わっていない事が分かります。 ヴァンスに薀蓄を語らせるのが、このシリーズの売りなのですが、もはや、作者の引き出しは空っぽで、科学雑誌で読んだ事を、道に聞いて道に説いている感が、強烈です。

  競馬がモチーフになっているので、競馬に関する書き込みも多いのですが、こんなの、読者は、まともに読めませんわ。 競馬に興味がなければ、単なる耳慣れない単語の羅列に過ぎませんし、競馬に興味がある人でも、知っている馬ではないのですから、面白くも何ともないと思います。 いやあ、作者に、語る薀蓄がなくなって、追い詰められているのが、ヒシヒシと伝わって来ますなあ。

  トリックや謎は、まあまあ普通で、特に出来が悪いという事はないです。 逆に言うと、他の作家も書いているようなレベルでして、印象に残るような話ではありません。 例によって、犯人は指名されますが、司直の手に落ちる事はないです。 このパターン、あまり、繰り返すと、逆に不自然になるのでは? 確かに、正義は行われるわけですが、こういう結末では、マーカム検事の名声が高くなる事はないでしょうに。 

  ヴァン・ダインの、後期6作の評価が低いのは、えらそーに、≪二十則≫なんて書いた人間の割には、内容が普通過ぎるからでしょう。 あとがきにもある通り、決して、レベルが低いわけではないです。 これを、低レベルと言ってしまったら、推理作家の看板を下ろさなければならない作家が、ごちゃまんと出て来てしまいます。



≪誘拐殺人事件≫

創元推理文庫
東京創元社 1961年初版 1993年27版
ヴァン・ダイン 著
井上勇 訳

  三島図書館で借りてきた本。 書庫から出してもらいました。 カバー・イラスト=桶本康文、カバー・デザイン=小倉敏夫の版で、三島図書館のヴァン・ダイン作品の中では、珍しく、水濡れ痕なし。 かなり、程度が良いです。 程度が良いという事は、即ち、あまり、読まれなかったという事ですけど。

  1936年の発表。 「一人の推理作家が書ける面白い作品は、6作が限界」と言っていた人の、第10作です。 昔の文庫の文字サイズで、320ページくらい。 巻末に、作者による、「あとがき」が付いていますが、これは、元は、アメリカ本国で、「カブト虫、ケンネル、ドラゴン」の3作を、一冊の本にして出版した時に、序文代わりに書いた、簡略な自伝らしいです。


  親から受け継いだ遺産を食い潰している男が誘拐され、その兄や、弁護士が、身代金を掻き集めて、取引に臨もうとするが、マーカム検事から捜査を依頼された素人探偵ファイロ・ヴァンスは、誘拐現場になった被害者の部屋を見ただけで、すでに殺されていると予想する。 やがて、第二の誘拐事件が起こり、ヴァンスは、ヒース部長刑事とともに、犯人のアジトへ乗り込んで行く。

  もはや、作者本人が、どんなストーリーを書いているのか、分からなくなっている観があります。 売れるものだから、編集者から、せっつかれて、これといったアイデアもないのに、とりあえず、探偵小説っぽい話を捏ね上げたという印象。 推理小説としての基本要素すら、欠いているように思えるのですが、本当に、これが、≪二十則≫なんて、えらそーなものを発表した人の作品なんですかね?

  トリックは、なし。 謎らしきものはあるようですが、はっきりせず、それを解く過程も、よく分かりません。 別に、飛ばし読みをしたわけではないのに、なぜ、分からないのか、それも分からない。 つまり、書いてないんでしょう。 謎解きこそが、推理小説の肝なのに、それが欠けているのでは、話になりません。

  第一の誘拐の身代金受け渡しでは、意外な人物が金を取りに来るのですが、その説明が不足。 誘拐犯ではないにせよ、金を取りに来たのは間違いないのですから、なぜ、逮捕しないのかが、分かりません。 第二の誘拐で、ヴァンスが犯人のアジトを突き止める方法も、よく分かりません。 なぜ、その謎解きをせぬ? 

  で、犯人からの手紙が手掛かりになって、唐突に、真犯人が指名されるわけですが、その手紙の謎というのも、説明が足りないから、よく分かりません。 分からん、分からん、だらけ。 たぶん、作者も、頭が混乱して、何を書いているのか、分からなくなってしまっていたのでは?

  第一の誘拐の身代金受け渡しは、セントラル・パークの大木で行なわれ、ヴァンスとヴァンが、木の上で張り込むという設定なのですが、この場面が、映画化した時の見せ場として構想されたのは、疑いありません。 第二の誘拐の、アジトでの戦いも、同様。 映画的見せ場を意識して、設けられたものだと思います。 そして、そういう場面は、小説では、恥ずかしいまでに浮いてしまうんですわ。

  実際に、ファイロ・ヴァンス物は、原作が出るのを待ち構えて、映画化されていたらしいので、作者が、そういう配慮をしたくなった気持ちは分からないではないですが、どちらも、非常にステレオ・タイプな見せ場で、独創性は、全く感じられません。 映画的な場面は、映画的な場面でも、よくあるタイプの映画的場面では、観客は見飽きているわけで、面白くも何ともないです。

  ところで、この作品にも、差別表現が出て来ます。 もう、いちいち、こんな事を指摘するのも、うんざりする。 差別意識を拡散した責任は、原作者、翻訳者、編集者、発行者、全てが負うべきでしょう。 良識がないにも程がある。 ヴァン・ダイン作品に関しては、何から何まで、「二流」の匂いがします。


  自伝部分ですが、30ページくらいあって、簡略といっても、そこそこのボリュームがあります。 ヴァン・ダインの紹介をする人は、みな、この文章を参考にしているようです。 ところが、この自伝、作者自身によって、相当には脚色されているそうで、事実とは異なる部分が多いのだとか。 ヴァン・ダインについては、近年になって、他人が書いた伝記があり、そちらを読んでみないと、本当のところは分からないと思われます。




  以上、四作です。 読んだ期間は、今年、つまり、2018年の、

≪ケンネル殺人事件≫が、1月11日から、14日にかけて。
≪カシノ殺人事件≫が、1月15日から、18日。
≪ガーデン殺人事件≫が、1月20日から、22日。
≪誘拐殺人事件≫は、1月23日から、1月27日。

  ≪ケンネル≫で、差別表現が出て来たせいで、ヴァン・ダインのイメージが、どっと悪くなり、そこでやめようかと思ったんですが、「まあ、残りは大した数ではないから」と思い直し、続けました。 その後、他人が書いた、ヴァン・ダインの伝記を読んだのですが、それによると、アフリカ系への差別意識も強かったらしく、げんなり。 そういう考え方の持ち主には、つける薬がない感じがしましたねえ。

2018/03/04

読書感想文・蔵出し (34)

  読書感想文です。 今回は、ヴァン・ダインだけですな。 ヴァン・ダイン作品は、沼津図書館、三島図書館、それに、相互貸借で取り寄せてもらった、浜松図書館と、3館で借り集めたので、順序は、飛んだり戻ったりです。 できれば、発表順に読みたいんですが、そもそも、その作家の作品が、読むに耐える内容なのかどうか分からないので、最初から、三島へ足を延ばすというわけにもいかないのです。




≪ベンスン殺人事件≫

創元推理文庫
東京創元社 2013年初版
S・S・ヴァン・ダイン 著
日暮雅通 訳

  三島図書館で借りてきた本。 去年の前半、ディクスン・カー作品を借りた時には、専ら、バイクで行ったのですが、今はもう、バイクがないので、自転車で行ったところ、距離が遠すぎて、帰り道の途中で、腿が引き攣ってしまいました。 返しに行く時には、車を使う事にします。

  ≪ベンスン殺人事件≫は、1926年の発表で、ヴァン・ダインの長編推理小説としては、第一作です。 この文庫の解説によると、自伝を元にした、一般的に知られているヴァン・ダインの経歴は、かなりの嘘が含まれているようなのですが、この作品を書く以前のヴァン・ダインが、推理小説を書く側ではなく、読む側の人だった事は、疑いないところです。 いきなり、書いて、これだったわけだ。


  証券会社の共同経営者の一人が、自宅の椅子に座ったまま、拳銃で、額を撃ち抜かれて死ぬ事件が起こる。 遺留品から、容疑者がすぐに特定されるが、たまたま、友人の地方検事にくっついて、事件現場の見学をしたファイロ・ヴァンスが、検察・警察の捜査に、駄目出しを連発し、真犯人の逮捕まで導いて行く話。

  ヴァンスは、第一作から、登場しています。 というか、事件の方は、大した事はなくて、ファイロ・ヴァンスというキャラを描きたいばかりに、推理小説を書き始めたのではないかと思えます。 ヴァンスは、この作品で、初めて、素人探偵をやるのであって、元々、探偵であったわけではありません。 では、何者だったのか? 学業を終える頃に、おばの遺産を受け継いで、資産家になり、遊んでいても暮らして行ける身分だったらしいです。 高等遊民みたいなもの?

  この作品では、事件は一つで、殺されるのも一人。 それでいて、文庫にして、365ページくらい、埋めています。 一体、どうやって、尺を持たせているのかというと、容疑者を何人か出して、こいつも怪しい、あついも怪しいと、仮推理を並べているのです。 ヴァンス本人は、お得意の心理学的推察で、最初から犯人が分かっていたようで、振り回されたマーカム検事は、大変、気の毒なのですが、間違っている推理を、わざわざ読まされる読者も、たまったものではありません。

  だけど、≪僧正≫や≪グリーン家≫に比べると、最初から犯人が分かっていたというだけでも、名探偵っぽくて、ヴァンスのキャラに合っているように思えます。 もし、探偵役の性格を先に決めて、それを最大限に活かすストーリーを考えたなら、こういう話になるのは、至って、自然ですな。

  問題は、ヴァンスの性格が、大いに難アリな事でして、マーカム検事のように真面目な堅物が、こういう、人を喰った事ばかりしてい男に対して、我慢し続けているというのが、不自然です。 知能が高いとか、教養が豊かとか、そんな美点が消し飛んでしまうほど、性格が悪い。 はっきり、性格異常者と言ってしまっても、いいかも知れません。

  作者も、それは気にしているようで、「二人は友人で、マーカムは、ヴァンスの性格を良く理解しているから、多少の事は大目に見ているのだ」といった事を、何度も繰り返しているのですが、それは、言い訳以外の何ものでもありますまい。 現実に、ヴァンスのような男がいたら、友人など出来るわけがなく、総スカンになるのは、目に見えています。



≪カナリヤ殺人事件≫

創元推理文庫
東京創元社 1959年初版 1992年62版
ヴァン・ダイン 著
井上勇 訳

  三島図書館で借りてきた本。 2017年の12月30日から、2018年の1月4日にかけて、年を跨いで読みました。 文庫本410ページくらいで、そんなに時間がかかる本ではないのですが、年末年始で、他にやる事があったせいで、足掛け6日間もかかってしまった次第。 ちなみに、昔の文庫なので、今風の、字が大きく、字間も広い文庫にすると、もっと、ページ数が増えると思います。

  ≪カナリヤ殺人事件≫は、1927年の発表で、ヴァン・ダインの長編推理小説としては、第二作です。 訳者の井上勇という人は、ヴァン・ダインの全作品を日本語訳したそうで、創元推理文庫の旧版がそれです。 私が先に読んだ、≪ベンスン殺人事件≫の方は、新版でした。 そちらの解説に、「旧版は、訳文の中に、フランス語やラテン語が混じっていて、独特」とあったのですが、確かにそうでした。 しかし、そのせいで、読むのに時間がかかるというほど、抵抗は大きくありません。


  ブロードウェイで人気を得た元女優が、自分のアパートで絞殺されるが、そこは、密室同然の状態になっていた。 その女と交際のあった男が、5人、捜査線上に浮かぶが、誰にも、一応のアリバイがある。 地方検事マーカムに誘われた、素人探偵ファイロ・ヴァンスが、捜査に加わり、密室トリックの謎を解く一方、容疑者達に、ポーカー・ゲームをさせて、心理分析を施し、犯人を特定する話。

  殺されるのは、二人ですが、二人目は口止めが目的なので、純然たる連続殺人ものとは、趣きが異なります。 ≪僧正≫と≪グリーン家≫を先に読むと、連続殺人がヴァン・ダインの十八番かと思ってしまいますが、最初は、そうではなかったんですな。 基本的には、フーダニットで、密室トリックが、オマケについているという格好。

  密室トリックは、閂外しも、閂かけも、悲鳴の謎も、割と月並みな物で、トリック好きの読者なら、小馬鹿にしてしまうでしょう。 しかし、この密室設定のお陰で、推理小説らしさが増しているのは、疑いないところで、私は、嫌いではありません。 むしろ、やたらと凝りまくって、策士策に溺れ気味の密室物より、リアリティーがあると思います。

  ポーカーを利用した、性格観察は、この小説を読むだけなら、説得力があるのですが、他の事件に応用しようとすると、とてもじゃないが、捜査の定番手法にはなり得ないと思えます。 作者は、重大事件の犯人像として、「真の賭博師的性格」を好んでいるようですが、そういう性格が殺人事件を起こし易いというのなら、それまでの人生で、他にも大勢、殺しているのではありますまいか?

  読んでいて、あちこちに、ツッコミを入れたくなるのは、ヴァン・ダイン作品の特徴のようなものだと、ようよう分かって来ました。 今のところ、4作品、読んだ限りでは、この≪カナリヤ≫が、一番、読み応えがありましたが、その差は、そんなに大きくはなくて、4作全て、ゾクゾク感は、全く覚えませんでした。

  相変わらず、ヴァン・ダインという人が、プロの推理作家のような気がしません。 どちらかというと、書く側ではなく、読む側の人で、「たまたま、器用だったので、書く方にも手を出しただけ」という感じがするのです。 何が足りないんですかね? 探偵の性格が良くない点が、余分なのは、はっきりしているんですが。



≪ウインター殺人事件≫

創元推理文庫
東京創元社 1962年初版 1997年30版
ヴァン・ダイン 著
井上勇 訳

  三島図書館で借りてきた本。 2017年1月5日の、午前9時半頃から読み始め、昼食30分程度を挟んで、午後2時には読み終わりました。 なんで、そんなに早かったかというと、ヴァン・ダインの長編推理小説、12作品の内、この≪ウインター殺人事件≫が、最後の一編なのですが、第二段階の原稿まで仕上げた時点で、作者が急死してしまい、それが、そのまま、発表されたので、ページ数が、文庫にして、150ページくらいしかないのです。 そりゃ、早く読み終わるわけだ。

  著者不明の前書きによると、ヴァン・ダインは作品を書く時に、まず、かなり長い梗概を書き、次に、物語の発展を書いた、第二段階原稿を書き、最後に、登場人物の性格、会話、雰囲気を肉付けして、完成原稿としていたとの事。 ワープロやパソコンがない時代に、そういう事をやるのは、大変だったでしょうなあ。 で、この≪ウインター≫は、その第二段階の原稿なわけです。 話は、ちゃんと、完結しています。


  マーカム検事の口利きで、ニューヨークを離れ、休養半分、探偵仕事半分で、森の中にある豪邸、レクスン荘にやってきたファイロ・ヴァンスが、有名人が集まる屋敷で起こった、殺人事件と、宝石窃盗事件を、地元の警部補と共に捜査し、解決する話。

  随分、簡単な紹介になってしまいましたが、これ以上、付け加えられません。 この作品の特徴は、いつもなら、ヴァンスが捜査を進めて行く上で、議論の相手になるマーカム検事が不在な事です。 記録役のヴァン・ダインが、その代役を一切務めないものだから、ヴァンスは、お得意の知識・教養のひけらかしができず、その分、行数が激減して、話の流れだけで、小説が書かれています。

  事件の内容そのものは、他の作品と大差ないので、ヴァンスのお喋りが、いかに多くの行数を稼ぎ出していたかが分かります。 そして、それが欠けていると、ヴァン・ダインの作品は、本当に、スカスカになってしまうのだという事も分かります。 事件の経緯だけ読んでも、全く面白くない。 ヴァンスのお喋りだって、鼻につくばかりで、別に面白くはないですけど、それでも、他の小説にはない特徴になっているわけで、それすらない、この作品には、読者の興味を引くものが、何も残っていないんですな。


  この本、≪ウインター殺人事件≫の他に、付録として、≪推理小説作法の二十則≫と、≪推理小説論≫という、ヴァン・ダインによる論説文が載っています。 前者は、≪ヴァン・ダインの二十則≫と呼ばれる有名なもので、ネット上でも読めます。 ≪推理小説論≫は、1920~30年代時点での、全般的な、推理小説の分析です。 どちらも、推理作家を目指している人なら、一応、読んでおかないとまずいと思いますが、そうでない、普通の読者は、読んでも、理屈っぽくなるだけで、害の方が大きいように思えます。

  二十則と言っても、その数字に、特に意味があるわけではなく、思いついた事を、ダラタラと書き並べていったら、20くらいになったというだけ。 ヴァン・ダインという人、そんなに分析が得意なわけではなく、単に、几帳面なだけだったのかも知れませんなあ。 アガサ・クリスティーの、≪アクロイド殺し≫を、アンフェアだと批判したエピソードも、両者の作品を読んでみると、小説家としての才能が違い過ぎて、馬鹿馬鹿しくなってしまいます。 もちろん、クリスティーの方が、上。



≪カブト虫殺人事件≫

創元推理文庫
東京創元社 1960年初版 1990年34版
ヴァン・ダイン 著
井上勇 訳

  三島図書館で借りてきた本。 最初の三冊を返し、別の三冊を借りたのですが、開架にはなくて、書庫に入っていたのを出してもらいました。 全て、1990年代に発行された文庫本ですが、今回の三冊は、かなり、くたびれていました。 読む人が多かったんでしょうねえ。 ヴァン・ダイン、そんなに人気があるんですかね? 気が知れませんが。

  1930年の発表。 ヴァン・ダインという人は、「一人の推理作家が書ける面白い作品は、6作が限界」と言って、当初、自身も、6作だけ書くつもりだったらしいのですが、その言明は、後に反古にされ、全部で12作、書く事になります。 この作品は、第5作ですから、まだ、嘘つきになる前に出たわけです。


  素人探偵ファイロ・ヴァンスの知人である、エジプト学者、ブリス博士の私設博物館で、博士の研究の出資者が殺される事件が起こる。 当初、博士の犯行である事を示唆する証拠が幾つも見つかり、マーカム検事や、ヒース部長刑事は、博士逮捕に踏み切ろうとするが、事件の裏にある深い企みに気づいたヴァンスが、それを思い留まらせて、相手の出方を窺う形で、真犯人の尻尾を掴もうとする話。

  タイトルの「カブト虫」というのは、「スカラベ」の意訳で、正確には、「フンコロガシ殺人事件」を訳すべき。 それでは、推理小説らしい緊張感を壊すというのならば、下手に訳さず、「スカラベ殺人事件」とすべきでしょう。 「カブト虫」などと言うと、昆虫好きの人が、間違えて手に取るかも知れず、紛らわしくて、いけません。 ちなみに、スカラベは、それをあしらった宝飾品が、一応、出て来ますが、犯人の遺留品の一つに過ぎず、事件の解決に関わるような重要な要素ではいないです。

  私が今までに読んだ、ヴァン・ダイン作品、6作品の中では、最も、話が凝っています。 トリックが凝っているのではなく、話が凝っているのです。 トリックも使われていますが、単純なもので、それが謎の中心ではなく、読者への目晦ましに使われているだけ。 ヴァンスは、現場を見て、すぐに、犯人が誰か見抜くけれど、ある事情があって、それをなかなか、検事や部長刑事に伝えないという形式です。 ≪僧正≫や、≪グリーン家≫と違って、探偵が犯人を分かっているお陰で、割と安心して読めます。

  犯人は、意外な人物なんですが、その意外さを捻ってあって、この作品の最大の特徴になっています。 私は、こういうパターンの推理小説を、初めて読んだと思うのですが、ヴァン・ダインの発明なのかどうかは、分かりません。 初期の推理小説に詳しい人なら、先例を挙げられるのかも。

  しかし・・・、そういう特徴があるにも拘らず、やはり、ヴァン・ダインの他の作品同様、読んでいて、ゾクゾクする感じがないのです。 面白い推理小説なら、必ず備わっているはずの、あの感覚がないのは、なぜでしょう? 誰が犯人なのか、あまり、気にならないとでもいいましょうか。 何となく、似て非なる推理小説という印象が強いのです。

  例によって、エジプト学に関する、ヴァンスの知識・教養のひけらかしが、大量に書き込まれています。 「これさえなければ・・・」と思う一方で、「これをとったら、ヴァン・ダイン作品の特徴が、ほとんど、なくなってしまう」という気もします。 象形文字による古代エジプト語の手紙が、小道具として出て来ますが、正確かどうかは、眉唾物です。 ヴァン・ダインという人は、とことん、一般的でない知識を羅列して、読者を煙に巻くのが好きだったようです。




  以上、四作です。 読んだ期間は、

≪ベンスン殺人事件≫が、2017年12月27日から、30日にかけて。
≪カナリヤ殺人事件≫が、2017年12月30日から、2018年1月4日。
≪ウインター殺人事件≫が、1月5日。
≪カブト虫殺人事件≫は、1月8日から、11日。

  ちなみに、ヴァン・ダインは、本国アメリカでは、1960年代には、早くも過去の人になり、綺麗に忘れられてしまったらしいのですが、日本では、なぜか、推理小説全盛期の大家という扱いで、出版が続いているのだとか。 素朴な疑問ですが、印税は、誰が受け取っているんですかね?