2019/01/27

引退生活③ 【家の中の居場所】

  引退生活に失敗しないようにするには、どうしたらいいか。 「引退生活は、単なる、休日の連続ではない」というところから、意識改革すべきですな。 休日ならば、終われば、次の日には、仕事に出られるわけですが、引退生活では、次の日も休みです。 そのまた、次の日も、次の日も・・・。 「今日一日、凌げば、明日は別の生活に切り替わる」という事がないわけだ。 腰を据えて、かかる必要があります。




  まず、家の中の居場所を確保する。 自分の部屋があれば、基本的に、自分の部屋で、過ごすようにします。 配偶者など、他に、仕事をしていない人が家の中にいる場合、二人で居間に座り込んで、一日中、顔を突き合わせていると、互いに緊張し、窒息感に苦しむようになってしまうので、それを避ける為です。

  「自分の部屋なんか、ない」という人は、へらへら自嘲している場合ではなく、是が非でも、引退前に、確保しておくべきです。 仕事をしている間は、家は、「風呂、飯、寝る」だけの場所で、自分だけの居場所なんてなくても、さして不便を感じないと思いますが、引退後は、それを確保しておかないと、出かけたくもないのに、毎日、出かけて、外で、何時間も過ごさなければならなくなります。

  スーパーの休憩コーナーとか、図書館の閲覧コーナーとか、無料で座っていられる場所に行くと、閑が服を着て出かけて来たような爺さんどもが、所在投げに、ゴロゴロ溜まっていますが、ああいう人達は、文字通り、所在がないのであって、家に居場所がなくて、仕方なく、そういう場所に逃げて来ているのです。

  自分の家があるのに、その中にいられないというのは、惨めですなあ。 しかし、憐れとは思いません。 居場所の確保に真剣に取り組まなかったのは、その人達の自業自得ですから。 大方、仕事をしていた頃には、家に居つかずに、職場にへばりついたり、遊びに行ったりと、外でばかり過ごしていたんでしょう。 私生活を充実させる事を、疎かにしていたツケが回ったのだから、足腰立たなくなるまで、そんな生活を続けるしかないですな。


  アパートや賃貸マンションに、夫婦二人で暮らして、一人がフル就業で、もう一人が、パート就業、もしくは、無職という場合、1LDKくらいで、ちょうどいい広さですが、二人とも無職となると、明らかに、狭くなります。 大抵の場合、ダイニング・キッチンを除く2部屋は、隣り合っているわけで、すぐ隣の部屋では、物音やテレビの音声が聞こえますから、鬱陶しさは、同じ部屋に二人でいるのと、大差ありません。 で、一人は、日中、家から出ざるを得なくなるわけだ。

  2LDK以上なら、離れた部屋を2室確保できるから、二人で、家に居続ける事が可能です。 元子供部屋があって、今現在、その子供は、家を出ているという場合、さっさと片付けてしまって、引退後の自室にすべきですな。 子供の所有物を捨てさえしなければ、文句も言われないと思います。

  ちなみに、集合住宅住まいなのに、「いずれ、子供が帰って来るから、子供部屋は、そのまま取っておかないと・・・」などという考え方は、捨てるべきです。 一度家を出た子供が、帰ってなんぞ来るもんですか。 馬鹿馬鹿しい。 幻想としか言いようがない。 先々、当てになるかならないか怪しい子供に気を使うより、自分の居場所を確保する方が、遥かに大事です。 子供が、里帰りで、短時日、帰って来た時には、居間に寝かせれば、充分でしょう。

  それより何より、今は、中古の一戸建てが安く手に入りますから、引退前に、引っ越してしまっては如何か? 一戸建てなら、大抵、4LDK以上ありますから、二人で住むのなら、空間的に、お釣りが来ます。 独身の子供一人を加えて、三人暮らしでも、窒息感はないと思います。 いや、これは、私の家が、一時期そうだったから、実体験として言うわけですが。 うちは、5LDKで、日中、父母と私が、それぞれ、家の隅の部屋にいて、どの部屋から見ても、隣室はあいていましたから、鬱陶しさを感じる事はありませんでした。

  ずっと、借家住まいだった人達は、「家なんて、とても買えない」と思うでしょうが、場所や、築年数に拘るから、高い物件になってしまうのであって、その条件を外せば、借家の1・2年分の家賃と同じくらいの金額で買える一戸建ては、いくらでも見つかると思いますよ。 特に、今は、空き家の処分に困っている人が多いから、安い物件には事欠かないはず。

  場所なんて、引退後は、通勤するわけではないのですから、どこでもいいではありませんか。 徒歩でも、自転車でも、車でも、とにかく、行ける距離に、スーパーや、病院があれば、それで充分です。 買い物や通院の便を考えると、農村よりも、郊外の古い住宅地を探した方が、適当な物件を見つけられそうです。

  築年数が古くても、水周りなど、どうしても、我慢できない部分だけ、リフォームすれば、問題なく住めます。 水周りだけなら、100万円程度の予算でも、かなり、いろいろと直せると思います。 その他の部分は、DIYで、コツコツ、直していけば宜しい。 どうせ、引退後は、時間がたっぷりあるのですから。

  くれぐれも、「親戚や、昔の同僚に自慢できる、立派な家に住みたい」などと思わないように。 引退後は、そういう人達との付き合いは、限りなく、ゼロに近づいて行きます。 見栄を張る為ではなく、住処を確保する為に、家を買うのだという事を、決して、忘れないように。



  居場所の確保は、大変、重要なのですが、それに関連して、家族との人間関係も、疎かにしない方が良いです。 居場所があっても、家族と口も利けないなんて生活では、やはり、家にいたたまれなくなって、しょっちゅう、外出という羽目になりかねないですから。 「いやあ、女房とは、互いに、空気みたいな関係だから」というのは、よく聞く話ですが、その「互いに」というところが怪しいのであって、実は、女房側は、「早く死んでくれればいいのに」と思っている、というのも、よく聞く話です。

  一日に最低でも、一時間程度は、家族と団欒するのが望ましい。 夕食後に、居間で、家族と一緒にテレビを見る時間を取り、番組がつまらないと思っても、我慢して見る事です。 それをやっていれば、居間に於ける自分の座る場所を失わないで済みます。 「自分の部屋で、自分の見たい番組を見る」と言って、一度、居間の席を失ってしまうと、もう、戻れません。 自分が見たい番組なんて、録画しておいて、夜中か、昼間にでも見れば宜しい。 時間は、いくらでもあるのですから。

  一緒にテレビを見る団欒の際、基本的に、後から加わった人間は、番組選択権を主張しない事が肝要です。 それをやると、先に居間にいた人が、逃げて行ってしまいます。 元々、いがみ合っている関係でもなければ、先にいた人も、その内、団欒の時間だけは、誰でも見られるような番組に合わせてくれると思います。 その際、リアル・タイムで放送している番組に拘らず、ドラマの録画などを見るのもいいです。 2時間サスペンスの再放送などは、誰でも見られますから。

  仲良き事は良き事とはいえ、テレビ団欒の時間を、昼間まで広げるのは、良くないです。 たまたま、自分も見たいと思っていた番組を、家族が見ていたので、お相伴するというのなら、問題ないですが、昼間まで居間に座り込んで、「今度は、あれを見よう」などと言い始めると、相手が、鬱陶しさを覚えてしまいます。

  仕事をしていた間、家で家族とどう接するかなんて、その場の成り行き任せで、真面目に考えた事がなかったという人達に、こういう事を言っても、ピンと来ないと思いますが、実際に、引退生活を始めてみれば、家族との関係をうまく維持するのが、意外に難しいという事が、一ヵ月もしない内に、分かって来ると思います。

  自分の方が、後から、家で過ごす生活を始めた以上、「こちらに合わせようとしない家族の方が悪い」という主張は、通りませんから、関係が悪化する前に、折れ方、譲り方を、研究しておいた方がいいと思います。 一度こじれると、「夫婦だから」、「親子だから」なんて、甘えられる状況は、脆くも崩れ去って、家の中に敵がいる状態になってしまいます。


  そうそう、特に、男性に忠告ですが、引退後、夫婦で話をする機会が増えたからと言って、勤め先で同僚相手にやっていたような、「からかい」は、厳禁です。 とりわけ、「からかい」と「冗談」の区別が付いていない人は、「冗談」すら、言わない方がいいです。 必ず、そういう、ふざけたところから、人間関係は壊れて行きます。 「家族だろうが、夫婦だろうが、からかわれて、楽しい大人などいない」という事は、肝に銘じておくべきですな。

  他者を馬鹿にする事で、相対的優越感に浸り、自我を維持して来たような輩に至っては、もはや、アドバイスもありません。 家族に愛想を尽かされ、一人暮らしになってしまっても、それが、自分の人生なのだと、受け入れるしかないです。 他者をからかう事でしか、人間関係を保てないのですから、からかえる人間がいなくなってしまえば、それまでですな。 それが当たり前だと思っていた、処世観そのものが間違っていたのです。

  こういう人間、秘かに、多いんだわ。 子供の頃から、「からかう側ポジション」が染み付いているから、引退後に、それが原因で、家族との関係がまずい事になっても、態度を改められないんですな。 なーに、同情してやる事はないです。 さんざん、他者をからかい、見下し、笑い者にして来た、人間のクズなんですから、生き地獄に堕ちて行くのを、笑って見ていてやれば、それで宜しい。  


  もっと軽い症状で、ダジャレばかり口にして、女房に嫌がられている亭主というのが、これまた、少なからぬ割合で存在するようですが、まあ、なんというか、しょーもないですなあ。 男性の場合、ある年齢になると、ダジャレばかり思いつくようになる人が多いですが、それを、一日中、聞かされる方は、たまったものではないです。 恐らく、女房のご機嫌を取る為に、おどけているつもりなんでしょうが、呆れられ、嫌がられていたのでは、逆効果ではありませんか。


  趣味の話もしない方がいいですねえ。 人それぞれ、興味が違うんだから、その手の話につきあうのも、限度というものがあります。 もっとも、趣味の話に関しては、引退を待つまでもなく、現役の頃から、家族には話していない人が多いと思いますけど。 家族側にしてみれば、興味がないのに、さんざん、熱く語られて、聞き飽きて、うんざりしているわけだ。 それは、引退後に始めた趣味でも同じ事です。


  そんなに話題がないのなら、犬でも飼ったら? 仲が悪かった夫婦でも、犬を飼い始め、散歩を分担するようになれば、犬そのものや、散歩先で出会う犬仲間の人達の話題で、会話が弾み、仲が良くなります。 これは、そうなった例がいくらでも溢れていますから、確実です。 犬の散歩をしていれば、体力の衰えも防げますから、一石二鳥ですな。

2019/01/20

引退生活② 【働き続けるか否か】

  勤めに出ている間は、「ずっと、休みなら、どれだけ幸福な事だろう」と、毎日のように思っているもの。 特に、冬の寒い朝、目覚ましの音が響き始めた時には、その思いを強くします。 中には、仕事が三度の飯より好きで、毎朝、目覚ましが鳴るより早く跳ね起きて、嬉々として出勤して行く人もいるでしょうが、そうでない人の方が、多数派だと思います。




  ところが、引退すると、いとも容易に、毎日、休みの生活になるわけです。 最初の内は、「どうして、もっと早く、引退しなかったんだろう」と、後悔するくらい幸せなのですが、その内、やる事がなくなってしまい、「引退も、良し悪しだな」と思えて来ます。 で、生活に張りを取り戻そうと、再度、働きに出る人もいるわけですが、それでは、元の木阿弥なのであって、「引退生活に失敗した」と言われても、仕方ありません。


  「働いていた方が、楽しい」というのなら、敢えて、止めはしませんが・・・、本当に、楽しいんですかあ? 無理してませんか? 働かざるを得ない立場に追い込まれていませんか? もし、望んでもいないのに、諸般の都合で、やむなく働いていると言うのなら、諸般の都合の方をどうにか案配して、仕事はやめた方がいいかもしれませんよ。

  とりわけ、家の中に居場所がなくて、配偶者に邪魔物扱いされるのが嫌で、働く必要もないのに、仕事に出ているという方達・・・、わはははは! 馬鹿馬鹿しいにも程がある。 少し工夫して、家の中に居場所を確保する方が、遥かに簡単ではありませんか。 自分の人生なんだから、定年後くらい、自分のしたいようにするべきでしょう。


  どうせ、60歳過ぎてから就ける職業なんて、バイトかパートが関の山で、薄給に決まっており、正社員で勤めていた頃の、半額も貰えない人の方が、大多数でしょう。 それでいて、人間関係の煩わしさは変わらない、いや、それどころか、加齢で仕事の能力が落ちる分、風当たりが強くなり、自分の子供くらいの歳の上司に扱き使われ、正社員からは、「足を引っ張るな」と、年中、嫌味を言われて、針の筵状態。 そういう生き方を、果たして、楽しいと思えるものですかねえ?

  本来、定年後に仕事を続けるというのは、お金の蓄えが少ない人が、やむなく、する事でして、働かなくても、暮らして行ける人が、暇潰しにするような事ではないです。 本人にやる気があっても、能力的に衰え過ぎていて、現役世代の迷惑になる事も多いですから、職場で何かと問題ばかり起こるようなら、働く事そのものを、考え直してみるべきですな。


  人手不足とは言いながら、実際の職場に於いて、高齢者の就業は、決して、歓迎されているわけではない事を、忘れないように。 定年前であっても、50代で、もう、使い物ならない職場というのもあります。 ありますと言うか、そういう職場の方が多いと思います。 例外は、経営者や、営業部門のような、経験や人脈がものを言う職種くらいなのでは?

  ちなみに、一般的に言って、体力を、ほぼ維持できるのは、30代半ばくらいまで。 知力も、40代前半で、もう、ピークを越えて、衰え始めます。 男の厄年が、ちょうど、その頃ですが、強ち、無関係ではなく、判断力が衰えて、失敗が増えれば、そりゃ、良くない事も起きますわな。 「厄落とし」なんていうのもありますが、そもそも、本人の能力の衰えが、厄の原因なのだから、神主に払ってもらったって、落とせるわけがないです。

  仕事にミスがなく、速さも若い世代に負けず、「ベテラン」と呼ばれて、一目置かれる人もいますが、それは、大変、稀。 私は、社員数が多い会社にいて、仕事ぶりを観察できた人が、100人以上はいたと思いますが、その中で、ベテランと呼べるのは、たった2人だけでした。 それ以外の、大抵の普通の人は、歳を取るに連れて、「使えない、邪魔臭い、醜い」年寄り扱いになって行きます。

  中間管理職で、自分では何もせず、仕事が来たら、有能な部下に丸投げして、ごまかしているような人間なら、歳を取って、知力・体力が衰えても、社内人脈と、はったりだけで、乗り切れるかもしれませんが、第一線で働いて、会社の利益を稼ぎ出している、平社員や、係長クラスの人達では、能力の衰えは致命的で、社内身分が低いだけに、過去の業績を評価される事もなく、邪魔物扱いに陥るのを免れません。

  会社は、利益を追求する為の組織でして、その役に立たなくなったら、切られるのも、致し方ないです。 閑職に回されるなんて、マシもマシ、大マシな方でして、普通は、逆に、きつい職場に異動させられ、自分から音を上げて、自主退職するように、追い込まれて行きます。 特に、ブラック企業でなくても、ごく普通の職場で、ごく一般的に、行われている事なんじゃないでしょうか。

  それを、理不尽だと訴えても、実際問題として、若い者と同等の仕事ができないにも拘らず、若い者と同じか、それ以上の給料をくれと言うのは、それこそ、理不尽というものです。 その人の年功が、会社の利益に繋がるわけではないのですから。 会社によっては、高齢社員向けの、比較的楽な仕事を、別に用意しているところもあるようですが、ごく稀なケースなのでは?

  若い頃から勤めている社員ですら、そういう扱いになって行くのですから、60歳過ぎてから再就職した人達が、それ以下の扱いになるのは、理の当然。 最初から、使い捨ての雑巾扱いだと思います。 使う側の立場になってみれば、若い頃から知っている先輩や、世話になった元上司が相手なら、少しは、配慮しようという気になるかも知れませんが、初対面の、赤の他人の年寄りが相手では、あれこれ気を使ってくれと望む方が、無理な相談です。

  最初から使い潰すつもりでいて、とても、できないような量の仕事をやらせ、本人が必死でやっていると、「合間に、これもやって」などと、更に仕事を増やして来る。 「もう手一杯で、合間なんて、全くないです」と訴えると、聞こえよがしに舌打ちをして、「これだから、年寄りは・・・」と、小馬鹿にする。 そんな例は、枚挙に暇がないです。 よくもまあ、恨み・憎しみで、殺人事件が起きないものじゃて・・・。

  つまりその、他人なんて、そういうものなんですな。 この結論は下したくなかったが、私の今までの人生を振り返ると、そう断定せざるを得ません。 ある人物、Aにとって、自分の人生に大きな影響を与えないであろうと思われる人物、Bが、どうなろうが、知った事ではないのです。 死んでくれても、一向に構わないと思っている。

  ましてや、自分の部下として配属されて来た、赤の他人の年寄りを、使い潰すくらい、何とも思っていないのです。 何とも思っていないどころの話ではなく、むしろ、積極的にそうしようと努力している。 一日でも早く使い潰せば、次には、もっと若いのが配属されて来るかも知れないと期待している。 できれば、自分の部下は、全員、自分より年下であるのが望ましい。 気を使わずに、お山の大将になれるから。

  「それは、高齢者側の問題ではなく、使う側の能力が低いのではないか?」と言われれば、正に、その通りなのですが、実際の世の中では、その、人を使う能力の低い上司が、嫌になるくらい、うじゃうじゃといるのです。 そうでない、人間的に出来た上司の方が、圧倒的に少数派。

  どんな人間でも、「~長」の肩書きをつけてやれば、人を使えるというわけではなく、性格的にリーダー気質を持っているとか、人の世話を焼くのが好きとか、謙虚な上に仕事の能力も高くて、部下を助けるゆとりがあるとか、そういったタイプでないと、務まりません。 そんな人間が、ごろごろいるわけがないではありませんか。 かくして、人の上に立ってはいけない人間が、人を使い、ブラック上司になって行くわけだ。


  私は、ちょうど50歳で、仕事をやめたわけですが、もし、定年まで続けていたら、残りの10年で、それまでの社会人生活、30年間に経験した分の、2・3倍、嫌な思いを味わわされたろうと思います。 引退後は、過去の嫌な記憶を思い出して、苦しむ場面が多くなるので、その点を考えると、10年早く引退して、本当に良かったと思っています。

  「働ける間は、働き続けたい」という人が、少なからず存在しますが、働き続けていれば、嫌な記憶を思い出す暇がないですから、悪い事ではないかもしれません。 ただ、働いている間に、パタッと死ぬケースは稀で、大抵は、怪我や病気で引退し、余生は寝たきりになったりします。 そうなると、働いていた期間が長いだけに、蓄積した嫌な記憶が、ドカドカ蘇ってきて、耐え切れなくなるかもしれませんなあ。

2019/01/13

引退生活

  引退生活に入ってから、すでに、4年半が経過しました。 高校卒業後、3年間ひきこもっていた期間をとっくに超えてしまいました。 だけど、歳を取っているせいか、あの頃ほど、歳月が長く感じられません。 ひきこもり時代と、引退生活が違うのは、親に養われているのではなく、自分のお金で暮らしている事でして、後ろめたさがないから、比較にならないほど、気楽です。 ただ、未来が閉塞していて、ちょっとした事で、気分が暗くなってしまう点は、全く変わりません。


  何もせずに暮らしていたと言えば、生まれてから、幼稚園に入る前までも、4年半くらい、そういう生活だったわけですが、覚えている事が少な過ぎて、比較ができません。 私が、どういう子供だったかというと、人見知りする性格で、幼稚園に入園するのを、嫌がったのを覚えています。 実際、幼稚園での楽しい思い出というのは、薩摩芋掘りくらいしか、ありません。 他人との交流が、幼児の頃から、苦手だったんですな。


  それはさておき、引退生活ですが、やはり、勤めている時とは、同じように暮らせません。 私の場合、若い頃から、個人主義者で、その上、私生活に軸足を置いて生きてきたから、割とすんなり、引退生活に順応しましたが、会社人間だった人の場合、大幅な、というより、根本的な、生き方の変更を迫られると思います。

  会社人間の典型というと、中間管理職以上だった人達ですが、この人達が引退した後、最初に気づく変化は、「部下がいない」事です。 あれこれ指図して、何かをやらせる相手がいなくなったわけだ。 組織から離れたんだから、そんなのは、当たり前ですが、その当たり前の事を、なかなか受け入れられない人達がいます。

  なにせ、何十年も、人を使うのが日常化していたせいで、自分でやるのを、屈辱とか、損とか、捉えてしまい、やろうとしない。 で、配偶者や子供にやらせようとしたりするわけですが、そちらは、まだ勤めに出ているから、引退した閑人の指図なんか、聞いちゃくれません。 自分でやらなければ、何もできないのだという事に気づくまでに、大変、時間がかかったり、もっと悪いと、死ぬまで、理解できないケースもあります。

  こういう人達は、「人に指図するのが自分のポジション」と考えていて、指図される側に対して、優越意識を抱き、その事で、「自分は、こいつらより、価値が高い人間だ」と、自分に納得させ、自我を維持しているのだと思います。 ところが、引退すると、その比較対象が失われ、相対的優位を感じられなくなってしまうわけだ。

  勤めていた頃の、部下や後輩に電話をして、相手が休みの日に、どこかへ遊び行こうと誘う人がいますが、そういうのは、誘われる側からすると、大迷惑なんだわ。 貴重な休日の時間を、引退した閑人との付き合いに割こうなんて、誰が望むものですかね。 損得勘定的に考えても、会社をやめた人に気を使っても、何の得にもならないものねえ。

  同じ頃に引退した同僚ならば、事によったら、出て来るかもしれませんが、同僚は同僚であって、部下や後輩とは違います。 顎で使うわけには行かないし、対等な関係の相手ですから、優越感にも浸れません。 元上司や、先輩を呼び出す人が、まず、存在しないのは、自分の方が顎で使われては、たまらないからでしょう。


  何とか、勤めていた頃と同じように、指図できる相手を確保しようとして、最悪の方向に行ってしまう人もいます。 ご近所の人達を部下扱いしようとするのです。 自治会長になりたがる、町内会長になりたがる、組長になりたがる、それも駄目なら、ゴミ奉行でもやりたがる。 とにかく、指図する立場になりたいわけだ。

  これも、迷惑でねえ。 そういうのが一人いるだけでも、住み難いったらありゃしない。 何でもかんでも、自分の意見を通さないと、気が済まない。 近所の人間を、馬鹿で無能だと決め付けていて、「自分が判断してやらなければ、町内が立ち行かない」と信じて疑わない。 こういう輩、他の住人から見ると、鬱陶しいだけ。 百害あって一利ありません。 

  しかし、世の中、そんなに単純ではないのであって、こういう心得違い者がいると、大抵の場合、対抗しようとする者も出て来て、悶着が頻発します。 やがて、出る杭は打たれて、近所中から、総スカンを喰らい、白い目で見られるのが怖くて、家から一歩も出なくなります。 そこから、濡れ落ち葉までは、直滑降です。 自分で自分の首を絞めたんですな。


  そういや、引退してから、近所づきあいを始める者の中には、何とか、自分の優位を確立しようと、変な事を言い出す奴もいます。 ご近所の人に、いきなり、学歴や、職歴を訊くのです。 「どの学校を出たか、どこの会社に勤めて、どんな地位にいたかを、お互いに知り合えば、上下関係が、はっきりするだろう」と思っているのでしょう。

  当然の事ながら、そういうのは、学歴や職歴に自信がある人間がやりたがるわけですが、もし、本人がそれっぽい事を言い出したら、配偶者や子供など、家族の人は、膝詰めで、眦を決して、「ご近所に、上下関係などない! 全ての家が、対等なんだ!」と、口を酸っぱくして、耳にタコが出来るくらい、繰り返してやった方がいいです。 馬の耳の念仏かも知れませんけど・・・。

  そういう人は、他人との関係を、上下関係でしか見ておらず、子供の頃から、学生時代、勤め人時代を通して、何とか、他人を見下す立場になろうと、押し捲ってきたわけですが、その発想自体が、引退後、近所の人達に対しては、全く通用しません。 話になりません。 「私は、○○大学を出て、○○会社に勤め、取締役までやりました」なんて言っても、「はあ、そうですか」で終わりです。

  逆に、そんな自慢話を口にするのは、恥だわ。 人格の低さを見抜かれて、却って、物笑いの種になってしまうわ。 なんで、赤の他人が、そんな個人的な経歴を畏れ入ってくれると思うのか、そちらの方が、不思議。 学校や会社という、狭い世界の中でだけ生きて来たせいで、呆れるくらいに世間知らずなんでしょうな。 60歳過ぎて、世間知らずというのは、他人事ながら、絶望的な感じがしますけど・・・。

  で、経歴自慢が通用しないと分かると、これまた、外に出るのが、嫌になり、家に引きこもって、濡れ落ち葉に直滑降なんだわ。 経歴だけが、その人の、心の拠り所だったんでしょうなあ。 学歴・職歴が高いのも、考えものでして、それだけが自慢で生きているという人は、結構いると思うのですが、そんな事は、人生の質とは、何の関係もないと思いますよ。 何の関係も・・・。

  たとえば、同じ学校を出ていても、その後、尾羽打ち枯らしてしまった人も、いくらだって、いるでしょうに。 「○○大学を出たから、私は偉い」と言う一方で、「同じ○○大学を出たが、あいつは落ちぶれた。 私は落ちぶれていないから、あいつより、偉い」とも言う。 しかし、それでは、「○○大学を出た」という点に関しては、価値がなくなってしまうのでは? 何でもかんでも、材料にして、優越感に浸ればいいってもんじゃないんだわ。


  別に、どうしても、近所づきあいをしなければならないわけではないのですよ。 今の時代、個人主義が広まって、村八分なんて、成立しなくなっていますから、付き合わなければ付き合わないで、大した問題にはなりません。 人に迷惑をかけなければ、それで、充分なのです。 そんな簡単な事すらできず、余計な事をして、自分の居場所をなくしてしまうのは、愚かとしか言いようがありませんなあ。


  そういう人達ばかり見ていると、何だか、人間というのは、つまらない、下らない、愚かしい存在だと思いますねえ。 私が、今、この歳まで生きて来て、大変、残念だと思っているのは、人類の文明とか、様々な文化とか、人間社会とか、個々人の人生とか、そういったものに対して、「素晴らしい」と感じられるものが、ほとんど、なくなってしまった事です。 知れば知るほど、幻滅するというのは、つらいものですなあ。

2019/01/06

木目病

  「木目病」なんて病気はありません。 私が作った言葉です。 「車の内装部品を、次々に木目調部品に交換したくなる」という、心の病を指します。 私自身、一時期、かなり重篤な症状が出ていたのですが、今は、だいぶ、良くなりました。 時間が経つと良くなるという事は、精神的中毒の一種なんですかねえ。




  そもそも、なぜ、木目調部品に換えたくなるのか? 私の場合、「エアコン吹き出し口にキズがついていて、同じ部品が安く手に入らないから、ヤフオクで出回っている木目調部品に換えてしまおう」というものでしたが、それは、あくまで、きっかけに過ぎず、一度、換えたいと思ってからは、「木目調でなければ、換える意味がない」と思うようになりました。

  「自分の乗っている車種の高級グレードに、木目調部品が使われていて、そのグレードに見せかけたいから」というのは、特殊なケースで、普通は、もっと漠然と、「高級な雰囲気か欲しいから」というのが、最大の動機だと思います。 大まかに言って、2000年以前の車は、ダッシュボードやパネルの色が暗くて、気が滅入るところがあり、木目調部品を入れれば、それが、随分と和らぐというのが、第二の理由では?

  ところがだ。 木目調部品の種類が、幾つかある場合、どこまで換えるかが、大きな問題になります。 その前に、ちょっと、参考までに、どのくらいの木目調部品があるのか、例を挙げておきましょう。 セルボ・モード(含クラシック)の場合、私が調べた限り、以下の種類があります。

○ エアコン吹き出し口 中央
○ エアコン吹き出し口 左右
× ハンドル・ホーン・パッド
○ メーター枠
△ オーディオ枠
△ セレクト・レバー・ベース・カバー
× アナログ時計
× パワー・ウインドウ・スイッチ・ベース
× ドア・ベゼル

  ○は、すでに交換したもの。 △は、今後、ヤフオクに出てきたら、買って、交換するかも知れないもの。 ×は、交換したいと思っていないものです。 「パワー・ウインドウ・スイッチ・ベース」や、「ドア・ベゼル」は、頻繁に手が触れる所なので、木目調部品にしても、使っている内に、塗装が剥がれてしまうと思うのですが、そんな所のもあるんですねえ。

  これら、存在する木目調部品を、全て手に入れて、付け換えたという人もいるのですが、その写真を見ても、どうにもこうにも、良いと思えません。 高級感が盛り上がるどころか、バラバラという感じで、逆に、寄せ集めの貧乏臭さが漂う始末。

  高級グレードに、標準装備で木目調部品が使われている車種の場合、内装担当のデザイナーが、バランスを考えて、どの部品を木目調にするか決めているから、あまり、おかしくはなりません。 一方、木目調部品が、オプションで用意されている車種の場合、内装担当デザイナーと、オプション担当デザイナーが違っていて、そもそも、木目調部品を使う事を前提とせずに、デザインされている内装に、無理やり、付ける格好になるから、バランスが崩れるのだと思うのです。

  私自身が、木目病に罹っていたので、木目調部品を増やしたいという人の気持ちは、痛いほど良く分かるのですが、実際、木目調部品フル装備の写真を見て、全く良いと思わないのだから、困ったものです。 何か、違うんですわ。 本来、木目調が合わない所に、木目調部品を付けてしまっている観あり。 増やせば増やすほど、高級感が上がるというわけではないのです。

  恐らく、それをやった人達も、同じように感じていたのでは? 初めは、一点か二点だったのが、他にも木目調部品があると知り、増やしてみたら、何となく、合わない。 「まだ、足りないからだろう」だろうと思って、土壺に嵌まる格好で、もっと増やして行ったら、高級感が出るどころか、どんどん、おかしくなってしまった。 そんなところだったのでは?

  「高級感を出す」という目標は追わない事にして、「ダッシュ・ボードの暗さを和らげる」という目標だけに絞るなら、一点、木目調部品にするだけでも、その効果はあります。 木目調でなくても、少し明るめの色に塗り替えるだけで、だいぶ、違って来ると思います。 元が黒づくめの場合、ほんの一部でも、外し易そうな部品を、グレーで塗れば、パッと明るい雰囲気になるんじゃないでしょうか。

  プラスチック部品に塗装する場合、紙鑢か布鑢をかけないと、塗料が乗らないと言われていますが、私が灰皿の前面板を塗った経験から言いますと、プラサフを吹いてから塗れば、割と普通に塗れます。 普段、触らない部品なら、剥がれて来るような事はなさそうです。  もちろん、内装部品を塗る場合、下塗りも、上塗りも、スプレーを使います。 手塗りじゃ、ボコボコよ。


  塗装の話になったので、ついでに書きますと、元から木目調になっている部品を買わなくても、今、車に付いている部品を外して、木目調に塗装するという手もあります。 塗料やニスなど、塗装用具は必要ですが、新たに部品を買わなくても済むから、安く上がるのは、確実なところ。

  しかし、一旦、そんな事を始めたら、どんな部品でも、木目調に出来るわけで、本当に、キリがなくなります。 一ヵ所うまく出来ると、味を占めてしまい、手段の目的化が起こって、デザインが合う合わないなど無関係に、片っ端から、木目調にして行くわけだ。

  ネットで検索すると、自分で木目調塗装をしたという車の写真を、いくらでも見る事ができますが、病膏肓、丸出しです。 そして、大概、出来がよくないです。 「どう見ても、木目に見えない」なんていうのは、まだマシな方で、模様も色も選択ミスで、高級感どころか、汚物にしか見えないという、ひどいのもありました。

  そういえば、実際の木から、木目を転写したという例も見ましたが、お世辞にも、綺麗な仕上がりとは言えず、本物の模様に拘った手間が、100パーセント、無駄になっただけという感じでした。

  「簡単ですよ。 あなたも気軽にやってみませんか」と書いておきながら、その人がやって見せている作例が、見るに耐えないというのは、どうにもこうにも、参考になりませんなあ。 つまるところ、やり方は簡単だけれど、巧く仕上げるには、相当な場数を踏まなければならない、そういうタイプの技能なんでしょう。


  あと、至って、根本的な問題として、「木目」と言いながら、実は、木目になっていない柄というのが、大変、多いです。 木目というのは、年輪の事で、切り方によって、いろんな形になるわけですが、どう見ても、年輪とは思えない柄があるのです。 というか、その方が多い。 では、何なのかと考えたら、大理石(マーブル)模様か、もしくは、琥珀(アンバー)模様が近いです。

  琥珀は元々、茶色っぽいですが、大理石模様であっても、薄い部分が茶色ならば、大抵の人は、木目模様として、認識します。 これは、概念レベルの勘違いで、不規則な模様で、茶色っぽければ、みんな、木目だと思ってしまうんですな。 年輪なんて、ありゃしないのに。 錯覚というのは、面白いものです。 それならば、最初から、木目を描こうなどと思わず、不規則な模様だけ、つけてやればいいんじゃないでしょうか。


  ところで・・・。 兵器系プラモデルの趣味がある人だと思うのですが、車の内装部品を迷彩に塗ったものを、ヤフオクに出品している人があり、驚いてしまいました。 内装を迷彩にしても、意味がないでしょうに。 そんなの、本物の軍用車両でも、やってませんぜ。 まあ、自分の車なら、何をやっても勝手ですけど、他人に売るとなると、話は変わって来ます。 全く同じ趣味の入札者が現れない限り、売れないと思いますが、それは、宝くじ並みの確率の低さだと思います。


  で、私の場合ですが、今のところ、「エアコン吹き出し口 中央・左・右」と、「メーター枠」の、4点で、とまっています。 前文で書いたように、「もっと、欲しい」という気持ちが薄くなっているのが現状。 しかし、その理由は、「オーディオ枠」と、「セレクト・レバー・ベース・カバー」が、ヤフオクに出て来ないからであって、もし、出て来たら、いとも容易に再発する恐れがあります。

  去年の10月22日に、メーター枠を交換し終わってからこっち、毎日、チェックしているのに、全く出て来ないのだから、出回っている数が、とことん、少ないんでしょうなあ。 セルボ・クラシックのオプションでは、無理もないか。 ところで、毎日、木目調部品をチェックしていると、何ヵ月も、全然売れる気配がない品を、毎日、リスト上のサムネイルで見る事になります。 セルボ・モードも、クラシックも、それだけ、車の数が減って、部品の買い手もなくなっているんでしょうねえ。