2016/01/31

錆との戦い② 【酸劇編】

  旧母自のブレーキ・ワイヤーを新しい物に交換してから、他の部分のボロが目立つようになり、「少しでも、マシにならないか」と思って、錆取りを考え始めたのが命取り。 やりたい気持ちはあるものの、あまりにも、錆びている部分が多いせいで、技術的にも、意欲的にも、高い壁にぶつかり、難渋している次第。   とりあえず、1月初めに、やってみた事だけ、公開日記の方から、移植します。 いや、なにせ、壁に当たっているので、「何か、やった」というより、「ほとんど、手付かず」といった方がよい状態なのですが・・・。 とりあえず、今回は、酸での錆落としを試したところまで。




≪2016/01/01 (金)≫
  新年ですが、これといった感慨はなし。 どんどん、無為の陥穽に嵌まって行く、虚脱感があります。

  元日だというのに、というか、元日だからですが、屋外で、あまり、ガチャガチャ動き回るのも、近所迷惑かと思い、ほとんど、自室で寝ていました。 自転車の錆を溶かす為に、100円ショップで、サンポールを買って来ようかと思っていたのですが、元日から、サンポールを買いに行くのは、何となく、相応しくないような気がして、やめました。

  そもそも、自転車の錆をどうするかよりも、それ以外にやる事がないという、そちらの方が問題ですな。



≪2016/01/02 (土)≫
  午後、犬の寺へ墓参。 帰りに、100円ショップに寄り、自転車の錆を溶かす為の、「トイレ・クリーナー」を買って来ました。 サンポールの類似品です。 500ml。 本家のサンポールがいくらなのかは、知らずじまい。 ちなみに、トイレ用の洗剤なら、何でもいいというわけではなく、成分を確認して、酸性の物を選びました。 アルカリ性の物が、結構ありましたよ。 意外ですが、マジックリンも、アルカリ性のようです。


  今日は、買っただけ。 今朝、今年の方針として、「何か、やる事を思いついても、急いで片付けようとしない」というのを思いつき、早速、実行している次第。 勤めていた頃と違い、時間はいくらでもあるのですから。



≪2016/01/03 (日)≫
  昨日買って来た、サンポールの類似品、「トイレ・クリーナー」で、旧母自の錆落としに取りかかりました。 酸なので、皮膚をやられないように、ビニール手袋をし、更にその上に、軍手をしました。 軍手は、ビニ手が破れないように、クッションにする為です。 本来なら、ゴーグルやマスクも装着した方がいいようですが、今日は、そんなに大仕事をする気はなかったので、そこまでしませんでした。

  目標は、メッキ部品。 旧母自の場合、荷台、クランク、前籠ステー、スタンドです。 前輪スポークも亜鉛メッキですが、そちらは、別の処置方法を検討中なので、今日は手を出しませんでした。 ネット情報によると、酸で錆を溶かす場合、ドブ浸けが、最も効果的だとの事。 だけど、そんなに液がないので、チビチビと、ウエスに湿して、錆びている所をこすって行きました。 見る間に、ウエスが、ボロボロになって行きます。 さすが、酸だ。

  酸を使った後、そのままにしておくと、酸化が進んで、また錆びてしまうので、アルカリ性の洗剤をウエスに着けて、同じようにこすり、中和しておきます。 だけど、phは、目に見えるわけではないから、本当に中和できたかどうかは、怪しいところ。 液体なら、リトマス試験紙が使えますが、固体表面のphは、どうやって測るんでしょうねえ? いや、もし、専用の機械があっても、買うつもりはないから、知っても意味はないですけど。 しばらく置いてみて、錆びて来なければ、良しとします。。

  で、錆に対する、酸の効果ですが、確かに、落ちました。 だけど、びっしり錆に覆われている所は、一応、メッキの色は戻っても、手触りはザラザラで、目を近づけると、小さい穴がたくさん開き、鉄の地肌が見えています。 やはり、メッキ面の腐蝕も進んでいたわけだ。

  とりあえず、556を塗っておきましたが、塗った途端に、メッキが剥げている部分が、錆色に戻ってしまったのには、驚きました。 いや、元の錆びた状態よりは黒っぽい、目立たない赤なんですがね。 うーむ、化学反応は、分からん。 もう一度、最初から、やり直して、透明の錆どめ塗料を塗っておいた方がいいかもしれません。


  錆は、指が入らないような狭い所まで入り込んでいるので、ドブ浸けしたくなる人の気持ちは、良く分かります。 おそらく、半日くらい浸けておけば、ほとんどの錆は溶けると思います。 さぞや、気持ちがいい事でしょう。 だけど、ドブ浸けすると、メッキ面の内部の錆まで溶けてしまい、メッキの土台がなくなって、鉄の地肌が丸裸になってしまう恐れがあります。 極力、メッキ面を残すつもりでいる私は、それでは、困るのです。

  前籠ステーにせよ、荷台にせよ、スタンドにせよ、外して、折り畳んだり、分解したりすれば、ドブ浸けできない事はないです。 途中で、表裏を引っ繰り返すとして、水深2センチくらいあれば、足りるでしょうか。 トイレ・クリーナーをあと、2本くらい買って来れば、できそうです。 やりたくて、うずうずしているのですが、その後で、メッキ面が陥没するのを見るのは、怖い。 やはり、やめておいた方が、無難か・・・。


  どうせ、古い自転車ですから、どんなに錆をとっても、新品同様にはなりません。 目立つ赤錆が見えなくなれば、それでいいのです。 完璧を目指そうとするから、こんな風に、ドブ浸けの誘惑と戦わねばならんのですな。




  酸の錆取り体験記は、とりあえず、以上です。 正月三箇日に、こんな事をしていた人間は、あまり、いないのでは? 恐らく、酸に嵌まって、何でもかんでも、錆びた物を片っ端からドブ浸けしてしまう人もいると思うのですが、私の場合、やりたい気持ちと、「面倒だな」と思う気持ちが入り混じる結果となりました。 1月3日から、日にちが経つに連れ、「あまり、使いたくない」という気持ちが勝って行く有様。


  それにしても、メッキ処理というのは、困った代物でして、一度、錆にやられてしまったら、素人では、直しようがありません。 再メッキに出すなんて、検討するのも愚か。 そんな金があったら、部品を新品に買い換えてしまった方が、遥かに安く上がると思います。 いや、自転車ごと買い換えてしまった方が、安いかも知れない。

  どうしてまた、こんなに、メッキ処理が自転車の世界に広まったのでしょう? 自転車は、軒下に置かれる事が多く、半分雨曝しになるのは、想定内のはずなのに、錆びたら元に戻せない処理法を普及させるなど、国賊的行為ではありませんか。 実用車全盛だった時代には、メッキ部品なんか、ほんの僅かだったんですよ。 せいぜい、砲弾形ライトの中と外くらい。 他は、全部、塗装でした。

  それが、荷台やスタンドを、丸棒の溶接で作るようになってから、メッキが出て来るのですが、その時、表面処理を塗装のままにしておいてくれたら、こんなに、錆に苦しめられる事などなかったのです。 メッキの方が、見てくれがいいから、そちらが普及したのでしょうが、ピカピカしているのは最初だけで、半雨曝しにしていると、一年もしない内に、錆びて来ます。

  私の折自は、軒下置きとはいえ、カバーをかけていて、手入れの時には、メッキ部分を、556で拭いているから、錆が目につく所はないです。 しかし、メッキ面の上に、薄く錆が出ている事は、珍しくありません。 拭けば取れるから、「まだ、錆びていない」と思っていたのですが、これは、錆びていないのではなく、メッキの下では、錆が進行していて、メッキ面の微細な孔を通って、錆が浮き出しているのでしょう。 カバーをかけていても、所詮、程度の問題なのかも。

  前回も書きましたが、つくづく、一番安いタイプの、メッキではなく、黒塗りしてある自転車が羨ましい。 メッキより、ずっと、錆びた時の処置が簡単です。 いっそ、旧母自の、荷台とスタンドも、黒で塗ってしまおうか? いや、それはまた、決断を必要とされる事なのですが・・・。 そもそも、旧母自は、私が買った自転車ではないですし。


  話を、酸に戻しますが、錆が落ちるだけでなく、本体の鉄も溶かしてしまうので、「一晩、浸ける」といった使い方は、如何なものかと思います。 たぶん、頑固な汚れを洗剤で落とす時の、「浸け置き洗い」から連想して、「浸けておく時間が長いほど、錆が良く取れる」と思うんでしょうけど、錆びていない所まで溶けてしまうから、様子を観察していないと、部品が痩せてしまう恐れがあります。 特に、ボルト・ナットなどは、隙間が出来て、スカスカになり、締め付け力が足りなくなる危険性あり。

  どうしても、ドブ浸けしたいという場合、液量を、部品を浸せるギリギリに抑えておいた方がいいと思います。 液量が多いと、化学反応が続く間、どんどん、溶けて行ってしまいますから。 酸性液が、値段が安いにも拘らず、錆取りグッズとして売られていないのは、そういう問題点があるからではないかと思います。

  自転車専用の部品なら、仕方ありませんが、ボルト・ナットのような、汎用部品は、錆取りなんかするより、同じサイズの、ステンレス製の物を買って来てしまった方がいいかも知れませんな。 錆を落とした後には、何かしら、防錆処置をしなければなりませんが、ボルト・ナットに錆どめを塗る作業を、チマチマやっていると、つくづく、そう思います。 ステンレスは、大した発明ですわ。

  ネットで調べると、酸に、部品をドブ浸けして、「こんなに、綺麗になりました」というところまでは、紹介している人が多いですが、大抵、その後、どうなったかには、触れていません。 たぶん、防錆処置を怠ったか、遅れたかして、すぐに、錆びたんじゃないかと思うのですよ。 それまで以上に、真っ赤っかに。

  恥ずかしながら、今回初めて気づいた事なんですが、鉄という金属は、表面が地肌のままで使われる事は、まず、ないんですな。 錆どめ&塗装でも、メッキでも、焼入れでも、何かしら、防錆処置をしなければ、あっという間に、錆びてしまうのです。 地肌のままで使うといったら、刃物くらいですかねえ。 それでも、刃の部分以外は、焼入れしますけど。


  旧母自の荷台、左側ステーです。 左は、錆取り前。 右は、錆取り後。 赤茶色の錆は取れたものの、メッキ面は、穴だらけです。

2016/01/24

錆との戦い① 【立志編】

  昨年末から手をつけた、自転車の錆取りが、泥沼化の様相を呈しています。 基本的に閑人だから、やる事を見つけると、飛びついてしまうんですな。 で、未だに、泥に嵌まって動けない状態でして、新たに文章を書くゆとりが出ません。 やむなく、公開日記の方から、日付ごとに、移植します。




≪2015/12/29 (火)≫
  なぜか、冬になると、必ず、そんな衝動に駆られるのですが、自転車の錆を、どうにかしようと思い、ホーム・センターや100円ショップを彷徨して来ました。 まず、運動を兼ねて、徒歩で、近所の店2軒に行き、一度、家に帰って、バイクを出し、今度は、遠くの店2軒に行きました。 結局、方針が決まらず、何も買わずじまいでしたけど。

  自転車というのは、一度、ひどい錆を出してしまうと、落とせないんですわ。 メッキ部品の場合、556で磨いて、メッキ光沢が戻る場合がありますが、それも、軽症の間です。 メッキにせよ、塗装にせよ、完全に表面が破壊されてしまうと、錆を落とす事ができたとしても、保護膜がなくなってしまうので、また、すぐに錆びます。

  いっそ、一番安いタイプの自転車で、メッキではなく、ペンキで黒く塗ってある物なら、錆びた所に布鑢をかけて、黒ペンキを塗り直せばいいので、遥かに簡単。 だけど、うちにある自転車は、みんな、メッキ・タイプなのです。 困ったもんだ。 メッキを削り取り、黒に塗ってしまう事は可能ですが、ハンドルや泥除けステーなど、所々に、ステンレスが使われていまして、せっかく、ステンなのに、上からペンキを塗ってしまうのは、勿体ない話です。

  ちなみに、「メッキを剥がし、シルバーのペンキで塗ったらどうか?」とは、誰もが一度は考える事だと思いますが、たとえ、クリアを吹くところまでやったとしても、メッキと同じ光沢は出ないので、近くで見れば、ペンキを塗ってあるのが、すぐに分かってしまいます。 小さい部品やステーなど、目立たない所ならまだしも、荷台やスタンドは、結構、存在感があるので、ごまかしようがない感じ。

  自転車の場合、錆びたままの状態と、ペンキを塗った状態と、どちらがマシなのか、微妙に評価が分かれます。 錆びていると、みすぼらしいですが、塗ったのがバレバレだと、それはそれで、貧乏臭いと来たもんだ。 何もせずに、「俺は、錆なんて、気にしてないんだよ」という態度で乗っているのが、一番無難かも。 下手に塗ったりすると、土壺に嵌まりそうです。

  ネットで、錆対策について調べていると、「ローバル」という、常温亜鉛メッキ塗料が引っかかって来ます。 塗料と同じように塗れる、防錆剤だとの事。 これに、アルミの粉末を配合した製品があり、それならば、幾分、メッキ風に見えるらしいです。 ところが、近所のホーム・センターで見たら、一番小さい0.7キロ缶が1850円、うすめ液が850円で、合計、2700円・・・。 冷や汗、垂れて来ますな。 そーんなにかけるなら、いっそ、部品を交換してしまった方が、清々します。

  機能上は、錆びていても、問題なく乗れますから、少なからぬお金をかけてまで、やるような事ではないです。 小人閑居して、不善を為す。 収入のない引退者なのに、たかが錆取りの為に、2700円など、とんでもない話。 大体ねえ、カー・ポートの下などという、半分雨曝しの場所に置いておくから、いけないのですよ。 いくら、錆をとっても、またすぐ錆びるに決まっているのであって、イタチごっこではありませんか。

  だけど、諸般の事情があって、そこしか、自転車を置く場所がないのです。 我が家に於いて、自転車置き場は、「出し易い」というのが、最優先で求められる条件でして、物置やサイクル・ハウスに入れるという選択肢は考えられません。 いや、私が高校生の頃までは、物置に入れていたのですが、ある時、物置の場所を、庭の奥の方に移動したところ、出し入れし難くなってしまい、やむなく、軒下に置くようにしたら、それが便利でやめられなくなり、その後、カー・ポートを付けてからは、その下が、定位置になってしまったんですな。


  うーむ、ブレーキ・ワイヤーを新しくしたのが、まずかったかな。 そこだけ、綺麗になってしまったから、他のボッコが目につくようになってしまったのです。 それまでは、別に気にしていなかったのに。 所詮は、乗り手の気分の問題なんですねえ。



≪2015/12/30 (水)≫
  午前中は、自転車の錆取り。 旧母自、母自、父自と、三台まとめてやりました。 動き過ぎて、心臓が痛くなったので、途中で横になったりしましたが・・・。 軽作業であっても、根を詰めるのは、よくないんですなあ。

  まず、コンパウンドで、こすってみました。 塗装部分は、そこそこ綺麗になるものの、錆で塗装が完全に侵されてしまっているところは、地肌の鉄が見えてしまいます。 一応、556を塗り込んでおきましたけど、経験的に見て、すぐにまた、錆びて来ると思います。

  メッキ部分は、薄く黄色味がかった程度の軽症なら、綺麗になりますが、赤茶色の錆がびっしり覆ってしまうほどの重症になると、コンパウンドや556で、いくらこすっても、メッキ面が表れません。 ただ、正常なメッキ面と比べて、錆が盛り上がっているように見える場合、錆の下にメッキ面が残っている可能性はあります。

  ネットで調べると、トイレ用洗剤のサンポールに浸ければ、錆が落ちるらしいです。 しかし、メッキの内側の鉄が錆びて、表面に浮き出しているわけですから、錆を全て溶かしてしまったら、メッキ面も、土台を失って、剥がれてしまうんじゃないでしょうか? そんなに高い液体ではなく、類似品が、100円ショップでも売ってますから、試してみる価値はありますけど。

  旧母自は、私が使っているから、どんなやり方をしてもいいんですが、もっと錆がひどい父自をどうすべきかで、頭を悩ましています。 メッキ部分をペンキで塗り直したりしたら、貧乏臭くなって、父が気の毒です。 父自だけでも、お金をかけて、部品を交換してしまった方がいいかも知れません。

  父自で、ひどく錆びている所は、前籠、前籠ステー、前後泥除けステー、左右クランクですが、この内、前籠は、元々、塗装なので、塗り直しが利きます。 他は、全部新しいのにしても、3000円くらい。 去年の夏、父の部屋にエアコンを買ってやったのですが、エアコンに10万円も出したのに、自転車に3000円出すのを惜しむのは、変な話と思わんでもなし。

  そうそう、ついでに、折自を出して、夕方、少し乗って来ました。 前回乗ったのは、9月21日でして、なんと、3ヵ月も乗らなかった事になります。 ところが、カバーを取ったら、ほとんど錆が出ていなくて、びっくりしました。 カバーというのは、防錆効果が絶大なんですなあ。



≪2015/12/31 (木)≫
  昼前には、雨が降っていて、自室で、読書。 午後は、旧母自で、自転車の錆対策用品を買いに行ったのですが、10キロ以上走り回る大遠征をしたにも拘らず、結局、何も買わずに帰って来ました。 大晦日だというのに、何をやっているのか、私は・・・。

  あまりにも、錆びている箇所が多くて、とても、一時には対応できないというのが、本音です。 旧母自と父自、二台一遍にやろうとしているのも、頭が混乱してしまう原因だと思います。 また、ここまで錆びてしまうと、お金をかけて、錆対策を施すより、自転車を新しく買った方が、確実に、合理的です。 投入する金額の上限を決めて、それ以下で対処するようにすれば、やる気になるかもしれません。 だけど、それもなあ・・・。

  二台に共通している錆箇所に、前輪スポークがあるのですが、錆を取って塗り直すには、一度、スポークを全部外して、ホイールをバラさねばならず、どうせ、組み直すなら、新しいスポークを買った方が、より綺麗に仕上がります。 スポークは、スチールなら、ホイール一つ分で、500円以下だそうです。 何だか、錆を取って塗り直すのが、馬鹿馬鹿しくなる値段でしょう?


  自転車そのものを買い換えるのが嫌で、錆対策に大金を使うのも嫌、というなら、何もしないで、このまま乗り続けるのが一番という事になってしまうのですが、現物を見るたびに、「それにしても、この錆は、少し、どうにかならんのか・・・」と、考え始め、また、堂々巡りしてしまうのです。




  とりあえず、今回は、2015年の分までにします。 この時点では、まだ、一円も使っていません。 ここで、やめておけば、泥沼化せずに済んだのですが、今となっては・・・。

2016/01/17

紙日記の処置

  昨年10月から、「死んだ後、人に見られたら恥ずかしい物の処分」をテーマに、部屋の整理を続けて来たわけですが、最後に残ったのが、ワープロ時代に書いていた日記でした。 ワープロを引退させた時に、パソコンに、電子データの移動ができずに、コピー用紙400枚の表裏、800ページに印刷して、2リング・ファイル、2冊に綴じてあったもの。 電子データ化していないという意味で、便宜的に、「紙日記」と呼ぶ事にします。

  1987年から、2006年までの日記なのですが、これが、「赤裸々な心情の吐露」や、「自作小説の断片」を含む、どえらい恥ずかしい代物でして、いつ死ぬか分からない身としては、そのままで置いておく事は、とてもできません。 こんな物を残して死ぬくらいなら、体長8メートルのイリエワニでも残して死んだ方が、まだ安全というもの。

  「一思いに、シュレッドしてしまえ」というわけに行かないのは、87年から01年までに関しては、私の人生の記録といったら、この紙日記だけだからです。 いやいや、そういや、買い物のレシートも保存してありますが、昔のレシートは、品目が書いてないので、値段だけから、過去を復元するのは、困難至極。 大学ノートにつけている出納帳も、始まるのは、1998年の12月からで、それ以前の記録は、ありません。

  というわけで、過去の一時期の自分を知る事ができる、唯一の手がかりとなっているのが、この紙日記なわけです。 恥ずかしい部分と、純然たる記録部分を分離できればいいのですが、混在の程度が甚だしく、一から書き直した方が早いくらい。 いずれにせよ、とても、そんな大作業はできません。

  ほとほと困りながら、手探りで、対処して行く事になりますが、以下、面倒臭いので、公開日記から、移植します。 この前文とダブる記述が多くなりますが、テキトーに読み飛ばしてください。 かなり、長いですが、それは、読み返した紙日記の内容にまで触れているせいです。




≪2015/11/26 (木)≫
  「死んだ後、人に見られたらまずい物」の、最後の難敵である、紙日記の処分に、困っています。 紙の両面に印刷してあるから、問題がある部分だけ、切り取るというわけにも行きません。

  複合機があるので、問題がある部分に、白紙で覆いをして、コピーすれば、消す事ができますが、問題箇所は、ゆうに100ページを超えて分散していると思われ、何日かかるか、分かったもんじゃありません。 インクや紙も、勿体ないです。 いっそ、全ページを写真に撮って、画像として外部メモリーに保存し、元の紙は、シュレッドしてしまった方が、手っ取り早いかも。 どうせ、滅多に読み返す事はないですから。 しばらく、考えて、方針を決めます。



≪2015/11/27 (金)≫
  紙の日記の写真撮影を、ボチボチ始めたのですが、ページをめくる間も、カメラの電源を入れっ放しなので、バッテリーが切れまくり、充電の為に何度も中断してしまいました。 うーむ、何でもかんでも、一遍には、出来んなあ。

  ちなみに、デジカメのバッテリーを、最後まで使い切る場合、電源を入れっ放しにしておくわけですが、静止画よりも、動画を少し撮影して、それをリピート再生にしておく方が、速く済む事を発見しました。 一旦、使い切らなければ、次の充電量が減ってしまうというのは、ニッケル水素だけかと思っていたんですが、リチウム・イオンでも、古くなって来ると、同じ症状が出るようです。



≪2015/11/30 (月)≫
  目下、最大の懸案である、紙日記の処置ですが、今日、全ページの撮影を終えました。 800ページあるのを、見開きにして、2ページずつ。 画像数にして、400枚ですが、沖縄・北海道旅行で撮って来た写真の数に比べれば、大した枚数ではないです。 パソコンに移して、合計データ量を見たら、290メガくらいで、こちらも、大した量ではなかったです。 限りなく、モノクロに近い写真だから、不思議はないですな。

  最初は、日記の日付を確認しながら、ページをめくっていたんですが、今日になって、最上段に、通し番号がふってあるのに気づき、それからは、確認の手間が省けて、作業が捗りました。 この紙日記を印刷したのは、主に、2004年から2005年にかけての年末年始ですが、当時の私は、結構、マメだったわけだ。 もっとも、400枚もの紙の、しかも、両面に印刷したのですから、間違えないように、通し番号くらいふるのは、当然といえば当然なのですが。

  印刷作業当時の事を知りたくなったのですが、紙日記そのものには、細かい事が書いてなくて、当時やっていた個人サイトの掲示板にアップしていた日記にも、ほとんど記述がなく、そのサイトに書いていたコラムを調べたら、やっと、纏まった量の記録が出て来ました。 しかし、何月何日に何をやったかまでは書いてなくて、もはや、それ以上、詳しい事は調べようがありません。

  「2006年までの記録なのに、印刷作業を、2004年・2005年の年末年始にやったというのは、おかしくないか?」と思うでしょうが、大部分の印刷作業をした後も、ワープロでの日記は続けていて、2006年5月に、ワープロを引退させた時に、2004年以降の、2年半分を追加で、印刷したのです。

  これで、画像という形で、一応の電子化はできたわけですが、それだけだと、「○○が起こったのは、何年何月何日だったか?」を調べるのが、紙の状態よりも、更に面倒になってしまいます。 で、一通り、目を通して、重要事項を抜き出し、索引を作る事にしました。 もちろん、パソコンのテキストで。 そうしておけば、「検索」が利きますから。



≪2015/12/02 (水)≫
  紙の日記を撮影した画像をチェックし、ボケがひどいものは、撮り直しました。 室内での手持ち撮影なので、絞ると、ブレてしまいますし、開くと、見開き2ページ全体にピントを合わせるのは難しいのですが、まあ、大体、読めればいいです。

  日記とはいうものの、実際には、平日は疲れてしまって、ワープロに向かう事はできませんでしたから、書いていたのは、土日と連休だけです。 で、休みの日には、どっぷり、趣味に浸って暮らしていましたから、その時やっていた趣味の事ばかり、びっしり書き込んであります。 1989年から、93年前半までは、小説の断片ばかり。 93年の後半からは、バイクの事ばかり。 その後、水彩画の事ばかり、フィルム・カメラの事ばかり、金魚の事ばかり、亀の事ばかりと続きます。

  2001年に、パソコンを買って、インターネットを始めると、しばらく、その事ばかり書いていますが、同年10月に、個人サイトを立ち上げると、そちらの掲示板に、日記の主力が移り、ワープロの日記は、お座なりになって、文書量が激減します。 最後の、2006年なんて、一年分で、2ページしかありません。 まったく、我ながら、極端な事です。



≪2015/12/03 (木)≫
  懸案の紙日記ですが、紙の方を残すべきか、捨てるべきか、未だに、悩んでいます。 最初の数年を、ざっと読んでみたところ、とても、正気の人間が書いたものとは思えず、自分で、ドン引きしてしまった次第。 なんじゃ、こりゃ? 日付は入っているものの、日記ではなく、まるっきり、創作ノートです。 もしかしたら、最初の内は、ほんとに、創作ノートのつもりで書いていたのかも知れません。

  やっぱ、シュレッドした方が、無難ですかねえ。 こんなのを、人に読まれたら、1ページ目で、たちまち、狂人扱いされてしまいます。 当時の私は、別に、狂っていたわけではありませんが、人に読まれる事を前提に書いていなかったので、心の内が全部、曝け出されてしまっていて、今、読み返すと、素っ裸で、往来を歩いているような恥ずかしさを感じるのです。

  「日記は、長期保存を考えると、紙で残しておいた方がよい」という考え方をしていた頃もありました。 電子データだと、ソフトの規格変更で、パソコンを新調したら、フォルダを移せなくなったとか、読み出せなくなったとか、そういうトラブルがありうるからです。 ウインドウズが、過去20年間、生き延びたからと言って、今後20年間、生き延びられるとは限りません。

  しかし、私の場合、突然死の危険性がある身では、あと、何年生きるか分からず、紙の日記を残すのは、あまりにも、無用心です。 電子データなら、見る側に、積極的に見ようという意志がない限り、見られる心配は少ないですが、紙では、「読んで下さい」と用意してやっているようなもの。 土壇場で処分という場合でも、USBメモリーやSDカードなら、簡単に破壊できますが、400枚近くある紙では、シュレッドするにしても、一日かかってしまいます。

  2004年・2005年の年末年始に行なった印刷作業には、膨大なエネルギーを投じた記憶があるので、その成果をシュレッドしてしまうのは、断腸の思いですが、それをやってしまわない限り、私の心に安息は訪れないような気がするのです。



≪2015/12/04 (金)≫
  紙日記で、ちょっと、昔の事を調べたら、ある記憶違いを正す事ができました。 フルフェイスのヘルメットを買ったのは、1996年だったんですな。 まあ、それはいいとして、紙日記ですが、そんな風に、一度、役に立つ事があると、捨てたくなくなります。 やっぱり、とりあえず、今回は、残す事にしますか。 もーう、方針が全然、定まりませんわ。

  ここへ来て、思うのは、「死んでしまえば、後に何が残っていようが、恥ずかしいもヘチマもないか」という事です。 たとえ、死後、日記を誰かに読まれてしまうにしても、せいぜい、最初の3ページくらいで、それ以上、読みたがる人はいないと思うのです。 他人が書いた日記なんて、興味が湧きますかね? それどころか、読むに耐えないのではないでしょうか。 あれこれ、心配し過ぎているような気がするのです。

  というわけで、紙の方を残す場合に備えて、最初のページの前に、1枚追加し、「どうして、こんな日記を残したか」について、 言い訳文を書く事にしました。 一度、印刷してから、書き直し、更に言い訳を捏ねて、ようやく、完成。 しかし、こんな物を付けておいても、焼け石に水のような気がせんでもなし・・・。



≪2015/12/05 (土)≫
  紙日記の索引作りに、ようやく、とりかかりました。 一日で3年分くらいは進みます。 1987年と1988年は、2年で1ページ分しかなく、中身があるのは、1989年から、2006年までで、17年分ですから、6日間あれば、終わるでしょう。



≪2015/12/06 (日)≫
  紙日記の索引作りの方は、なかなか、やる気になりません。 日記のくせに、旅行の記録が、そっくり漏れていたのには、驚きました。 1990年11月12日に、母と、電車・バスを乗り継いで、愛知県の「香嵐渓」に行っていて、その時に撮った写真が残っているのですが、日記の方には、何も書いてないのです。 当時は、まだ、バイクに乗っていない頃ですから、隣県まで出かけたというのは、相当な遠出なのですが、なぜ、書いておかぬ? 怠慢も甚だしい。



≪2015/12/07 (月)≫
  紙日記の索引作りを進めていますが、1992年から、出て来る本の数が増えて、一日に、3年分はとても進まなくなりました。 92年から、何が変わったかというと、車通勤をやめて、電車・バス通勤にしたのです。 行きと帰りの車内で、読書ができるようになったお陰で、本を読み倒したというわけ。

  ところが、車から電車・バスに切り替えた時の事が、何も書いてありません。 どうも、この頃の私は、工場労働者という仕事を、自分で軽蔑していて、会社絡みの出来事を、日記に残すのを避けていた様子があります。 92年の5月に、「今日は、二本早い列車で帰った」という記述があるから、それ以前である事は確かなんですが・・・。

  車通勤をやめた後も、自分の車(初代ミラ)は、まだもっていて、9月に車検が切れてから、廃車にするのですが、その時の事も、何も書いていません。 6年間所有していた車で、それを手放すのは、大変な事件だったはずなんですが、なぜ、書かぬ? どうなっとるんだ、この日記は? マジで、日記じゃなくて、創作ノートだったんかい?

  相変わらず、小説の断片や、小説の書き方に対する分析などが、大量に挟まっているのですが、93年の9月になると、バイクの免許をとりに、教習所に通うようになり、以後、そちらの記述が急増して、小説関係は、ぐんと減ります。 ほっとする反面、若い頃特有の「理屈っぽい、熱さ」が感じられなくなるのは、ちょっと、寂しいですな。

  つまりその、93年の8月辺りに、自分の人生に対する、ターニング・ポイントがあり、文章で名を成そうという欲望が、完全に折れてしまうのです。 ようやく、社会の厳しさや、自分の能力の限界を悟ったのだとも言えます。 白状してしまえば、私は、小説形式の文章を書いている時、楽しさを全く感じられず、ただただ、苦痛だったのです。 そういう性格的な問題点は、理論武装や、読書経験の積み重ねで克服できるものではないんですな。



≪2015/12/08 (火)≫
  紙日記の索引作りは、全く進みません。 どうも、自分の過去に向き合う事に、苦痛を感じている様子。 私の過去は、どの時期を切り取っても、「素晴らしかった、夢のような日々」というのは、見当たりません。 強いて言えば、幼稚園に入る前の、祖母、両親、兄によって、完全に庇護されていた幼児期が、それに近いでしょうか。 私にとって、他人との接触は、良い事よりも、悪い事の方が、遥かに多かったのです。



≪2015/12/11 (金)≫
  紙日記の索引作り、ようやく、1998年の夏まで来ました。 98年の前半は、カメラ・写真の事ばかり書いてあります。 「ここまで、嵌まるかね?」と、我が事ながら、呆れてしまいます。 会社に勤めている間は、常に、何かしらの趣味に熱中していなければ、過ごしていられなかったようです。 その真の理由は、仕事のストレスから逃れる為だったのかも知れません。 そう思うと、悲惨な勤め人生活だったんですねえ。



≪2015/12/13 (日)≫
  朝から、弱い雨。 家に籠りきりで、紙日記の索引作りを進めていました。 結構やったつもりでいたんですが、98年8月から、99年5月までで、一年分も進みませんでした。 もう、うんざりという感じです。 99年早々に、シュンを買って来て、犬を飼い始めるわけですが、犬は、趣味のカテゴリーではないようで、そんなに、くどくどとは触れていません。



≪2016/01/03 (日)≫
  ようやく、紙日記の索引作りを再開しました。 ほぼ、半月間、ほっておいた事になります。 怠惰にも、程がある。

  1999年の分が終了。 この年は、シュンがうちに来た年で、家族的には、大きな変化があったわけですが、私個人としては、犬を飼い始めても、そんなに生活が変わったわけではなく、何を人生目標にしていいか分からずに、悶々と過ごしていたようです。 1989年の11月から、ワープロの日記とは別に、出納ノートを手書きでつけ始めるのですが、そちらと対照できるお陰で、買った物に関しては、日付や店、値段が、はっきり分かるようになりました。



≪2016/01/10 (日)≫
  穏やかな晴れでしたが、家から一歩も出ませんでした。 自転車の錆取りを進める前に、去年から年越しで引っかかっている、紙日記の索引作りを終わらせてしまおうと思い、そちらに取り組んでいたのです。 今日は、ページ数が多くて、最大の難関と目されていた、2000年と、2001年を片付けました。


  2000年は、いよいよ、趣味が行き詰まり、ジグソー・パズルで、お茶を濁していた年です。 テレビ番組は、WOWWOWの無料アニメというのが放送されていて、それを、よく見ていました。 犬が家族に加わった関係で、両親が、「犬の為」と称して、考え足らずの改築を始め、それが原因で、よく、衝突していました。

  例を挙げると、犬が外に出ないように、アコーディオン門扉を、厚いのにしたら、それが邪魔で、横から自転車が出せなくなってしまったとか、犬の世話をする為に、カー・ポートを付けたら、駐車場が狭くなって、車を入れられなくなってしまったとか。 私に一言、相談すれば、未然に防げたものを、勝手に進めるもんだから、えらい、不便な家になってしまったのです。

  頭に来て、自分で家を買って、一人暮らしをしようと、不動産情報を収集していましたが、値段が高過ぎて、僅かな蓄えでは冒険ができず、結局、具体的な行動は何も取れませんでした。 その後、犬の飼育態勢が安定するに連れ、両親の馬鹿な行動は収束し、親子仲も、元に戻りました。 今になって思えば、早まって家なんか買わないで、応じ合わせでした。


  2001年は、会社に勤め始めて以降、最大のエポックになった年でした。 ゴールデン・ウィークに、パソコンを買い、インター・ネットを始めたのです。 これは、私の人生に大きな変化を齎しました。 それまで、知的活動というと、ワープロ相手に、自分の考えを書き綴る事しかできなかったのが、見ず知らずの他人と会話ができるようになったのですから。

  2001年の10月には、亀飼いのカテゴリーで、自分のホーム・ページを立ち上げました。 最初の頃は、滅茶苦茶、楽しかったのですが、個人サイトは、お客が増えると、どんどん忙しくなって、手が回らなくなる宿命がありまして、その後、力尽きて、萎んでしまいます。 何もかも、今は昔・・・。


  紙日記は、2001年10月以降、文章量が減り始め、2001年は、60ページもあったのが、それ以降は、2002年から、2006年までの5年間を合わせても、50ぺージに過ぎなくなります。 それには、ホーム・ページの掲示板に、公開日記を書き始めたせいで、そちらがメインになり、ワープロ日記の方が、徐々に疎かになって行ったという事情がありました。

  今日一日で、120ページくらい進んだので、残りは、明日の午前中には片付くでしょう。 厄介な索引作りも、だんだん、終わりに近づくと、寂しいものがありますな。



≪2016/01/11 (月)≫
  紙日記の索引作りが終わりました。 去年の12月5日から始めて、途中、庭木の手入れや、年末年始のゴタゴタ、自転車の錆取りなどで、何度も中断しつつ、今日、2016年1月11日の、午後12時30分頃、完成。 撮影も含めると、1ヵ月半近く、取り組んでいた事が終わって、とにかく、嬉しいです。 紙日記を置いたまま、年越ししてしまった、テレビの上の空中台も、久々に、すっきりしました。 感動で、泣きそうです。

  終わり次第、紙日記は、シュレッドするつもりでいたのですが、そんなに急ぐ事もないと思い直し、しばらくは、元の保管場所に入れておく事にしました。 捨てるのは、写真に撮って電子化したデータを、ちゃんと、索引で引ける事が分かってからでも、遅くはないですから。


  今日、読み返した分を、大雑把に、振り返りますと、

2002年 居間と父の部屋に、パソコンを設置。 ハムスターの金太を飼い始める。
2003年 ≪トリック≫を見始める。 会社で、元の職場に戻る。
2004年 金太が死に、銅丸を飼い始める。 両親にデジカメを買い、自分も買い直す。 浜名湖花博に行く。
2005年 ≪富豪刑事≫に嵌まる。 語学辞典を買い漁る。 リコーダーを買い集め始める。
2006年 右肩を脱臼する。 銅丸が死ぬ。 小田原ツーリングに行く。


  2006年は、記述がとりわけ少ないのですが、それは、5月までしか書いていないからでした。 最後の日付は、2006年5月21日。 2004年以降は、写真の生データが残っているので、日記の内容を、写真で確認する事ができるようになり、不思議な気分を味わいました。 確かに私は、日記に書いてある通りの所へ行って、書いてある通りの物を見ていたんですな。


  ワープロを引退させて、紙日記が書かれなくなった後、私の非公開日記は、半年間、空白があり、2007年の1月1日から、パソコンのテキストに書き込む形で再開され、今に至ります。 一方、公開日記は、2001年10月から、ホーム・ページの掲示板に書いていたものが、2006年10月のリニューアル後、「欄外記」という専用欄に移り、2014年4月からは、メインにしているブログの日記記事に受け継がれます。

  公開・非公開を繋ぎ合わせると、途切れなく、書かれているわけですが、膨大な量なので、全部を読み返す事は、とてもできません。 今回、紙日記の分だけでも、1987年から、2006年までの、自分の人生を振り返る事ができたのは、有意義だったと思います。




  公開日記からの移植は、以上です。 12月13日から、1月3日まで空白があるのは、庭木の手入れで、一週間ぎっちり取られてしまい、その後、索引作りを再開する気にならないまま、ダラダラと年越ししてしまったもの。 更に、1月3日から、1月10日まで空白があるのは、自転車の錆取りに手を出したせいで、机に向かう気にならなかったのが原因。 どれだけ、気が進まない作業だったかが、よく分かると思います。

  とにかく、終わって良かった。 紙日記の本体は、今後、一年くらい、しまっておいて、全く読む事がないと分かったら、シュレッドするつもりです。 急激に健康状態が悪くなるような場合は、それ以前でも、破棄します。 突然死した場合は、残ってしまう事になりますが、一応、言い訳文を書いてあるから、まあ、どうにかなるでしょう。 と言いつつ、やはり、不安なのですが・・・。 早く、一年経たんかなあ・・・。

2016/01/10

ダイソーのブレーキ・ワイヤー

  私は、根っからの合理主義者ではなく、未だに、神の存在を完全には否定できていないようなところもあるのですが、表面的には、合理主義者を装って暮らしています。 他人に対して装うだけでなく、自分自身に対しても、不合理な考え方を戒めながら、日々を過ごしているわけです。

  私が買い物の足にしている軽快車、「旧母自」は、母が、2004年8月に買いました。 2010年4月に、母が電動アシスト車に乗り換えたせいで、一旦、引退。 約2年間、放置された後、2012年5月に、私が、シート・ポストを長いのに換えて、サドル・ポジションを出し、買い物用として、復活させました。 メーカーは、日本最後の廉価自転車メーカーだった、「出来鉄工所」で、母がこの自転車を買う2ヵ月前に倒産していました。

  その事は、過去記事の、≪軽快車で運動≫の中で書いたのですが、なぜ、改めて書き直したかというと、旧母自が、すでに、購入されてから、11年と4ヵ月も経っている事を、強調したかったからです。 そのくらいの歳月を経ると、ブレーキ・ワイヤーは、↓こんな風になるわけだ。


  ボロボロ・・・。 今時、こんな状態の自転車に乗ってる人なんて、いないんじゃないの? でも、ブレーキ・ワイヤーとしての機能には支障なくて、ちゃんと、かかります。 で、冒頭の段落に戻るわけですが、私は、合理主義を重んじているので、「機能上、問題なく使える物を、交換する必要はない」と考えて、そのままにして来ました。 別に、換えるお金がないとか、自分ではできないとか、そういう理由で、ボロを我慢してきたわけではないのです。

  思い起こせば、私が、旧母自を復活させた時には、すでに、被覆のプラスチックが皹割れだらけになっていました。 この3年半の間に、荷物に接触したり、走行時の振動に耐えられなかったりで、かけらがポロポロと落ち始め、次第に、被覆の失われた部分が多くなって、錆びたアウターが目立つようになってしまったのです。 さすがに、ここに至って、恥ずかしくなり、「合理主義かぶれも、程々にせい」と、自分に言い渡す事になりました。

  しめしめ、やっと、新しくできるぞ。 ・・・・、あれ? 「しめしめ」は、もう、死語かな? だけど、「しめしめ」と思う事は、世界中のどこでも、誰でも、どんな時代でも、なくなる事はないわけで、現代日本語で、「しめしめ」が使われなくなったという事は、それに代わる言葉が出て来ているはずなのですが、ちょっと、思い当たりません。 まあ、そんな事は、どうでもいいか。


  ダイソーで、ブレーキ・ワイヤーが売っている事は、前々から知っていて、ネット上で、交換体験記も読んだ事がありました。 自分自身、過去に、ブレーキ・ワイヤーの太鼓を外した事は、何度かあったので、「やってしまえば、わけないだろう」と思っていました。 で、12月24日、図書館へ行ったついでに、ダイソーまで足を延ばし、前ブレーキ・ワイヤーを買いました。 108円。 初めて、この商品を見つけて、「いつか、買おう」と思っていた頃には、まだ、105円だったのですがねえ。

  とりあえず、前だけにしたのは、本当に自分で交換できるかどうか、試してみるためです。 長さは、62センチ。 ちなみに、この長さは、アウターの長さを指しています。 プラスチックで覆われている、チューブ状の部分ですな。 ブレーキ・ワイヤーの長さは、各種あって、ホーム・センターに行くと、長さ別に、並んでいたりします。 長過ぎる場合は、切ればいいわけですが、短過ぎると、足すわけには行きません。

  しかし、まだ、この時点では、古いワイヤーを外してなかったので、正確な長さが分かりませんでした。 ダイソーには、前用より、ずっと長い、後ろ用も売っていまして、もし、62センチで足りない場合、後ろ用を買えば、切って合わせられます。 その事に気づいたのは、前用を買った後でした。 だけど、開封しなければ、交換が利きますから、とりあえず、家に帰って、古いワイヤーを外し、長さを測ってみてから、どうするか決める事にしました。

  その日は、買って来ただけで、エネルギーを使い尽くし、終了。 翌12月25日の朝から、交換作業にかかりました。 まずは、古いワイヤーを外します。 10ミリのスパナで、キャリパー横のワイヤー留めナットを緩めるだけですから、全く大した事ではありません。 インナー・ワイヤーの端に被せてあるアルミ・キャップは、プライヤーで軽く挟んで引き抜けば、外せます。 このキャップは、再利用するので、とっておきます。

  キャリパーに付いている、ワイヤー留めボルトとアジャスターから、ワイヤーを抜き取り、ブレーキ・レバーの取り付け部分から、アウター・ワイヤーを外すと、下方向に、ワイヤーを下ろせるので、太鼓部分を、ハンドルの内側へ抜いて、取り外しは完了。 文章で書くと、伝え難いですが、現物でやってみれば、初めての人でも、悩むような構造ではないです。 パンクの修理などより、遥かに簡単。

  外したワイヤーの長さを測ってみたら、まさかの、65.5センチ。 やっちまったか・・・。 予定していた通り、買って来た前用ワイヤーを、後ろ用のに交換してもらいに行こうと思ったのですが、その前に、ふと思いつき、62センチだと、駄目なのかどうか、試してみる事にしました。 買って来た物を開封するわけには行きませんが、古い方のアウターを、3.5センチ切って、着けてみれば、分かるわけだ。

  で、インナーを抜き取った上で、「アウター・ワイヤーは、金属だから」と思って、まず、金鋸で引いてみたんですが、なんとまあ、まるで、刃が立ちません。 どういう材質やねんな? で、ワイヤー・カッターを使ったら、難なく切れました。 筒状になっているから、ワイヤー・カッターで挟むと、潰れてしまうかと恐れていたんですが、そうはならず、断面は、円形を保っていました。 異様に強い。

  試しに当ててみるだけなので、インナーの長さは、元のままです。 インナーをアウターに戻して、自転車に装着。 見てみると、65.5センチを、62センチにしても、外観に大差がありません。 軽快車の場合、ブレーキ・ワイヤーは、ハンドルの前で、弧を描いて、交差しているわけですが、その弧のお陰で、多少の長さの差は、目立たなくなるんですな。 試し乗りして、左右にハンドルを切ってみましたが、別に、突っ張ったり、引っかかったりはしませんでした。

  「おお、これなら、62センチでいいじゃん。 つけちゃえ、つけちゃえ」という事で、買って来た方を開封し、取り付けました。 小さく丸めた状態でパッケージに入っていたせいで、古いのに比べて、カクカクしていますが、乗って、ブレーキをかけてみたところ、機能上は、何の問題もない様子。 よしよし。

  前ブレーキが、うまく行ったのに味を占め、その日の内に、後ろもやってしまおうと思い、午後、ダイソーに行って、後ろ用のワイヤーを買って来ました。 二日連続で、同じ店に行くと、妙に疲れるな。 今将に修理中の自転車で出かけて行かなければならないところが、また、疲れる。 一旦、走れる状態に戻さなければなりませんからして。

  長さは、前が62センチに対し、後ろが150センチで、2倍以上違うのですが、値段は同じ、108円です。 つまり、ワイヤーの材料費の差は無視できる程でしかなく、太鼓を着けたり、アウターにインナーを入れたり、丸めてパッケージに収めたりする手間の方に、お金がかかるという事なんでしょうなあ。

  帰って、早速、交換。 後ろも、ワイヤー端のアルミ・キャップを抜き、ワイヤー留めナットを緩めるだけで抜ける点は、前と同じです。 旧母自の場合、後ろのブレーキ・ワイヤーは、ボトム・ブラケットの下に、1ヵ所、ダウン・チューブの下に、3ヵ所、取り回し用のガイドが設けてありますが、そこは、ただ、通してあるだけなので、抜くだけです。

  古いのを外して、アウターの長さを測ったら、ぴったり、150センチでした。 おお、ありがたい偶然。 あくまで、偶然でして、他の自転車だと、違うかも知れません。 でも、前側のところで書いたように、長くても短くても、3センチ程度の差なら、外観上も、機能上も、問題ないと思います。 当人が気にするかどうかの世界ですな。 他人は、そんなところまで見やしません。

  そこまでは、円滑に進んだのですが、ワイヤー端のアルミ・キャップの、穴を元に戻すところで、手間取りました。 アルミ・キャップは、横腹を潰す事で、固定してあるのですが、一旦外した物を、再利用しようとすると、一度、潰されているせいで、ワイヤーが途中で引っかかって、奥まで入らないのです。

  やむなく、父が持っていたドリル・セットから、同じくらいの太さのを探して来て、それをキャップに挿し込み、金槌で軽く叩いて、元に戻しました。 潰す時に、奥の方ではなく、入り口の方を潰してくれれば、千枚通しで、簡単に戻せるんですがねえ。 今回、着け直した時には、そうしましたけど。 アルミ・キャップは、それだけでも、売っていますが、数本で、100円くらいするので、再利用できるのに、そんな物を買う気にはなりません。

  ネットの、ハウツー・サイトによると、キャップを被せずに、ワイヤー端をハンダで固めておけば、タイヤ交換などで、ブレーキ・ワイヤーを抜かなければならない時に、簡単に外せるとの事。 「なるほどなあ」と思いました。 私も、過去に、タイヤ交換をした時、このキャップを取るのが面倒なばかりに、ブレーキ・ワイヤーを繋いだまま、作業した事があります。 ただし、見てくれは、キャップの方が、いいです。


  以上で、前後とも、交換作業は終わりました。 カクカクしているものの、錆が見えなくなったのは、大変、気分が宜しいです。 このカクカクは、いつか、直るんでしょうかね? まあ、このままでも、いいですけど。 ちなみに、ダイソー製品に限らず、交換用に売っているブレーキ・ワイヤーは、みんな、小さく丸めてあるので、やはり、カクカクになると思います。 組立工場では、ワイヤー類は、真っ直ぐのままか、せいぜい、U字型に一度曲げる程度の荷姿で納入されるので、カクカクになる事はないです。


  ダイソーのブレーキ・ワイヤー。 前用、62センチ。 後ろ用、150センチ。 パッケージ台紙の裏面には、取り付け方法が、図説してあります。 外し方は書いてありませんが、取り付け方から類推する事はできます。

2016/01/03

湯河原・万葉公園

  新年早々ですが、昨年の10月末に行った、2015年最後のバイク・ツーリングの紀行文を出します。 どーせ、新年の抱負なんぞ、ありゃしませんし。 そういや、「新年の抱負」より、「新年の豊富」と書いた方が、縁起が良さそうな気がしますな。 何が豊富なのか、はっきりしませんが、単に、語感で。


  で、本題ですが、10月30日に、月一恒例の、遠出ツーリングに行って来ました。 北、西、南と行ったので、次は、東の番という事で、この時の目的地は、神奈川県・湯河原町の、「万葉公園」でした。 静岡の県内番組で、最近、紹介されたのを見て、ちょうど、東だし、一度、行ってみようと思い立った次第。

  7時過ぎに起床。 9時頃から、準備を始め、着替えました。 夏の服装で行くつもりでいたんですが、寒そうだったので、ブルゾンに変更。 このブルゾンは、通勤に使っていたもので、もう、30年も着ており、よく見ると、ボロボロなのですが、バイク乗りの服装なんて、誰も見ていないから、気にしない事にしています。 弁当は、おにぎりを作るのが面倒臭くて、バター・ロール2個。 水を、ペット・ボトルに8分目くらい、入れました。

  バイクの上の方を、ざっと水拭きしてから、まずは、近所のガソリン・スタンドへ行って、給油。 山を越えるので、用心して、満タンにしておいたわけです。 一度、家に戻り、タイヤを調べたら、少し空気が減っていたので、前後に入れました。 当日朝の整備で、泥縄もいいところですが、まあ、今回は近場だし、急がないから、構いません。 荷物を積み、9時45分頃、出発。



  清水町を通って、函南町に向かい、熱函道路に入りました。 昔は有料でしたが、1997年からは無料です。 熱海の山中にある、「姫の沢公園」で休憩。 正面側から来たのは、久しぶりです。 前に来たのは、祖母の死後、母と、「日金山(ひがねさん)」に登った時だから、ゆうに、30年以上前になります。 その前は、中学の遠足だったかな? 記憶が遠過ぎて、思い出せん・・・。

  すでに、オフ・シーズンでして、来ている人は、数える程度。 みんな、中高年男性の一人客でした。 桜のものと思われる落ち葉が散り積もって、弥が上にも、秋の寂しさを感じさせました。

≪写真1≫
  公園の正面入口は、幅の広い階段の中央に、水が流れる段があり、その一番上に、二体一組の銅像が立っています。 覚えていたのは、この景色だけでした。

≪写真2≫
  階段を登りきった所にある、広場。 おそらく、公園内で、平らな土地は、ここと、駐車場だけで、残りは、全て、山の斜面です。 遠足で来た時には、この付近でうろうろしていましたが、この公園は、「アスレチック・ハイキング・コース」が、メインでして、山の中に入っていかなければ、実態が掴めません。 ちなみに、山を登りきった所に、「日金山(ひがねさん)」というお寺があり、更に、歩くと、「十国峠」という、箱根南の有名な展望スポットに至ります。 

≪写真3≫
  たぶん、ツツジか、サツキだと思いますが、面白い模様に刈り込まれていました。 カルメ焼き?

≪写真4左≫
  幅広階段下の傍らにあった、電話ボックス。 説明板に、「わが国最初の公衆電話室」と書いてありましたが、確かに、1889年(明治22年)に、東京・熱海間に、日本最初の電話回線が引かれたらしいのですが、その時には、室内設置だったそうで、この電話ボックスは、1979年に、明治っぽい形にして、復元した物なのだそうです。 しかし、それなら、「わが国最初の公衆電話室」という説明は、当たっていないのではないかと思います。

≪写真4右上≫
  園内にあった、石のオブジェ。 「平成之大馬鹿門」という名前。 よく、分かりませんが、遠足に来た小中学生は、何となく、喜びそうですな。

≪写真4右下≫
  園内にあった、巨大な鹿威し(ししおどし)。 バケツで水を入れると、作動する仕掛けです。 これも、子供が喜びそうです。 もちろん、本物の竹ではありません。



  10時55分頃、駐車場に戻り、姫の沢公園を後にしました。 ここからは、熱海市街に向けて、下りて行きます。

≪写真1≫
  県道11号線の東部、通称「熱海街道」の、姫の沢公園から、熱海へ下って行く部分。 長い下り坂が続くので、ブレーキの使い過ぎで、よく事故が起きる所です。 「緊急避難所」が、何ヵ所か、設けられています。 「ブレーキが利かなくなったら、登り坂になっている所へ突っ込んで、止めよ」というわけですが、それも、かなり、勇気が要りますねえ。

≪写真2≫
  JR伊東線の、「来宮(きのみや)駅」の前を通り、右折すると、海へ向かって、熱海市街を下って行く道になります。 かなりの傾斜があり、自転車を使うには、不便な街ですな。 熱海は、私が若い頃から、すでに、「かつて、栄えた街」になっていましたが、箱根・大涌谷の噴火以降、熱海へ回る客が、かなり増えたのだそうです。

≪写真3≫
  突き当たりの、「中央町」という交差点で、国道135号線に接続します。 私は、神奈川方面へ向かうので、左折し、海岸線に沿って、135号線を北東方向へ向かいます。 この辺りの景色は、なんとなく、ハワイっぽいですな。 そういう風に、作ったんでしょうけど。

≪写真4≫
  熱海と湯河原の中間付近。 2時間サスペンスなど、ドラマで、東京から、伊豆半島へ、車で来る場面があると、この道路が、よく映されます。 走り易い道路ですが、東海道の基本的なラインからは、大きく離れていて、熱海経由で、東西に移動すると、えらい遠回りになってしまいます。 三島・小田原間を移動する場合、一般道で、一番近いのは、箱根越え。 次が、国道246号線。 熱函道路から、熱海街道を通って、135号線というルートは、湯河原や真鶴に行く場合だけしか使いません。



  県境を越えて、湯河原町に入ると、すぐの所にある、「湯河原温泉入口」という交差点で左折し、神奈川県道75号線で、北西の山の方へ向かいます。 県境の千歳川に沿って、ずっと、温泉街が続いていました。 傾斜はあるものの、ほとんど市街地と言っていい風景の中を、そこそこ走って、「万葉公園」に、到着。 この公園も、南側は、県境になっています。

≪写真1≫
  分かり難い写真ですが、万葉公園の入口を、道の反対側から撮ったところです。 建物は、「湯河原観光会館」で、この中に、駐車場の受け付けや、郷土資料館があります。

≪写真2≫
  駐車場は、屋外に、10台分くらい。 それと、観光会館の一階部分にも、停められるようです。 有料で、二輪車は、1時間50円と書いてあります。 バイクを、玄関前に停めて、受付に行くと、人が出て来て、建物一階の車庫の隅に停めるように、指示されました。 この写真では見えませんが、中央の車の左側です。 料金は後払いで、キーを預ける代わりに、番号札を渡されます。 バイクのナンバーの、大きな数字だけ訊かれたので、答えると、それと、受付時間をノートに書き込んでいるようでした。 案内パンフを貰って、受付は終了。

≪写真3左≫
  屋外駐車場の奥にあった、顔出しパネル。 湯河原には、芸妓さんがいるようですな。 かなり大きな温泉街なので、不思議はないです。 このパネル、やはり、女性向けなんでしょうなあ。  男性向けに、酔客の絵でも添えれば・・・、いや、そんなな、やめた方がいいですな。

≪写真3右≫
  顔出しパネルの横に、「萬葉洞門」という、トンネルがあり、それを潜った先には、滝が流れ落ちています。 しかし、どうも、人工的な感じがします。 本来、岩だけがあったのを、上に水を引いて、落としているんじゃないでしょうかね。

≪写真4≫
  観光会館の中にある、「郷土資料館」。 温泉街だけあって、文学者と縁が深いようで、国木田独歩、夏目漱石、芥川龍之介、与謝野晶子、島崎藤村、谷崎潤一郎について、写真と解説が並んでいました。 他に、「真鶴・湯河原 文学散歩地図」とか、「湯河原 近代文学史要」という年表とか、縄文・弥生土器とか、源頼朝の時代の、復元鎧などが、展示されていました。

  郷土資料館は、どの自治体でも設けていますが、文学関係の展示があるのは、珍しいです。 だけど、これだけ、栄えている町なら、もうちょっと、規模が大きい資料館にしても、宜しいのでは? 



  駐車場に入った時は、この公園に、2時間くらいいるつもりだったのですが、郷土資料館を見た時点で、1時間もあれば充分と気づき、50円を惜しんで、急いで、見て回る事にしました。 園内に入ると、観光客は、かなり来ていました。 ほとんどは、足湯目当ての、おばさん達。

≪写真1左≫
  公園内には、散策路があり、回遊するコースもあるのですが、基本的には、川に沿って、入口から、一番奥にある、「独歩の湯」まで進む事になります。 お世辞にも、広々しているとは言えず、山の中のような雰囲気です。

≪写真1右≫
  川に下りて行く道があり、その下に、あずまやがありました。 ここで、昼食を食べるつもりでいたんですが、行きも帰りも、先客がいて、それは、叶いませんでした。

≪写真2左≫
  「穴太(あのう)衆」の石積み。 加工しない自然石を組み合わせて積んで行く、「野面積み(のづらづみ)」と呼ばれるもの。 別に、この地と特別な縁はないようですが、「日本造園組合連合会・技術技能委員会専門委員」の人を招いて、実技講習会を開いた時に作った物を、そのまま残してあるのだそうです。

≪写真2右≫
  「太子堂」。 1960年に、建築組合員が、聖徳太子を祀って、建てたとの事。 奈良・法隆寺の夢殿を模しているそうで、そう言われてみれば、そう見えます。 とはいえ、別に、この地と聖徳太子に、特別な縁はないようです。

  他に、「熊野神社」、「狸福神社」、「国木田独歩の碑」、「養生園の碑」などが散在し、散策路には、和歌を書いた立て札が何枚も立っていて、この公園を作った人達が、中身のある公園にしようと、苦労した様子が偲ばれます。 だけど、それらだけでは、わざわざ、よそから訪ねて来るほどのボリュームではありません。

≪写真3≫
  これが、万葉公園の最大の売りである、「独歩の湯」です。 足湯なんですが、かなりの敷地を取った広場に、それぞれ、名前がついた泉が、九つも設けられていて、浸かりたい放題。 ただし、ここだけ、有料でして、周囲を生垣で囲ってあります。

≪写真4左≫
  独歩の湯の、チケット売り場。 湯河原町民は、100円。 非町民は、大人300円、小人200円。 足湯が好きな人にとっては、安いと思います。 私は、足湯のみならず、温泉そのものが嫌いなので、にべもなく、スルー。 しかし、それでは、万葉公園に来た意味は、大変、薄くなってしまいますな。

≪写真4右≫
  独歩の湯の外にある、「風呂桶の滝」。 製作意図がよく分かりませんが、豪快な迫力がある事は認めます。


  この後、引き返したのですが、前述したように、あずまやに先客がいたので、座る所がなく、人工の滝の下で、立ったまま、バター・ロール1個を食べるという、喰い詰め学生みたいな、惨めな昼食になりました。 続いて、観光協会の建物の中で、トイレ。 そこまでで、50分くらい経過。

  受付に行って、番号札を渡すと、バイクのキーを返してくれました。 50円払って、領収券を受け取り、バイクに戻ったら、なんと、ハンドル・ロックを忘れたままになっていて、血の気が引きました。 我ながら、迂闊この下ない。 無事でよかった。 約55分くらいの滞在で、万葉公園を後にしました。



  12時20分頃、万葉公園を出発。 受付で貰ったパンフに、周辺の地図が載っていて、すぐ近くに、「不動滝」という名所があるというので、予定外でしたが、そこへ行ってみる事にしました。 この時点で、元来た道を引き返す気はなくなって、箱根経由で帰るつもりになっていて、不動滝は、ちょうど、その方向にあったのです。

≪写真1≫
  県道75号を北西に登って行くと、温泉街が途切れたあたりで、「不動滝」に到着。 ここの駐車場は、無料でした。 ありがたい。 車は、7・8台は停められると思います。 私は、例によって、車の邪魔にならないように、端の方にバイクを停めました。

≪写真2≫
  茶店の横に階段があり、そこを上がって行くので、滝は有料かと思ったら、そうではなく、茶店と滝は、別の様子。 二人の店員が、何かをして働いている横を素通りして、滝へ向かいました。 この写真は、滝への階段を少し上ってから、振り返って、茶店を撮ったもの。

≪写真3≫
  滝は、すぐそこで、茶店から見えるくらいの距離です。 階段の左側には、滝の水が流れる川があります。 階段と川の間には、一定間隔で、赤い柱が立っていましたが、これらは、途中で切られた痕跡があり、たぶん、以前は、燈篭が並んでいたのではないかと思われました。

  肝心の不動滝は、いい写真が撮れなかったのですが、15メートルと、結構な落差がある、大きな滝でした。 山懐に囲まれていて、昼でも暗く、幽玄な雰囲気がある上に、地形が立体的で、面白かったです。

≪写真4≫
  滝の名の由来は、社が左右にいくつかあり、その中の一つが不動明王を祀っているから、「不動滝」と言うのだそうです。 これは、社の内の一つ、「出世大黒尊」。 昼でも点けられている灯りが、また、神秘的な雰囲気を醸し出しています。

  滝の方には、私しかおらず、座れる所もなかったので、写真だけ撮って、すぐに、引き揚げました。



  不動滝を後にして、更に山道を登り、万葉公園でもらったパンフの地図に従って、以前、「土肥城址」に来た時に下った道に、今度は下から入りました。 箱根に、南東方向から登って行きます。

  走り屋のバイクが何台か抜いて行きました。 神奈川のライダーは相変わらず、抜く時に、左手で挨拶して行きます。 20年前と変わらないのは、何となく、シュール。 しばらくしたら、同じバイクが下りて来て、すれ違いました。 どうやら、何度も往復しているようです。

  土肥城址に向かう道の入口がある横長の建物を右に見ると、「大観山」は、もう近くです。 この標高になると、ブルゾンを着ていても、寒かったです。

≪写真1≫
  「箱根ターンパイク」という有料道路の入口に、「MAZDA スカイラウンジ」という、レスト・ハウスがあり、前にも、ここで景色を見ました。 名前が違っていたような気がしたのですが、帰って来てから調べたら、前に来たのは、2009年の8月で、その時は、「TOYO TIRES ビューラウンジ」という名前でした。 この間に、命名権を、マツダが買ったらしいのです。 ちなみに、道路の名前も、「MAZDA ターンパイク箱根」に変わったとの事。 土肥城址に来てから、もう、6年も経ったというのが、驚き。

  そういや、遥かな昔、24歳くらいでしたか、ファミレスでバイトしていた頃に、社員の人の車で、箱根のどこかの駐車場に行き、その車(二代目プレリュードのマニュアル車)を運転させてもらった事があるのですが、もしかしたら、ここの駐車場だったのかも知れません。 ちなみに、その頃、自分自身、マニュアル車(初代ミラ)に乗っていたにも拘らず、人の車だと、クラッチの感覚が全く分からず、エンストばかりで、まるで、動かせませんでした。 微妙に懐かしい。

  レスト・ハウスですが、写真に写っているのは建物の一部分で、実際には、この3倍くらいの大きさがあります。

≪写真2左≫
  建物は、常に全体が使われているわけではない様子。 中は、レストランがメインです。 10月30日は、金曜の平日だったせいか、お客は、ごく僅かでした。 何人かで来て、こういう所で、温かいものを食べると、いい思い出になりそうですな。

≪写真2右≫
  レストランと同じ区画の隅にある、土産物コーナー。 箱根の上得意である、走り屋向けの品があるのが、他の観光地とは、ちと違うところ。

≪写真3左≫
  レストランを通り抜けて、北側に出ると、ターンパイクの上を跨ぐ歩道橋があり、箱根が一望できる眺望スポット、「大観山(だいかんざん)」の頂上へ下りられます。 ここの標高は、1011メートル。

≪写真3右≫
  歩道橋の上から、ターンパイクを見下ろした景色。 小田原まで下りられるのですが、箱根新道なら、無料なので、私は、一度も通った事がありません。

≪写真4≫
  これは、歩道橋の上から撮りました。 箱根の外輪山の中を望んだ景色です。 湖は、芦ノ湖で、遠くの雲の上に、富士山が、ちょこっと頭を見せています。 大涌谷の噴火は、この時には、まだ、立ち入り規制がされていました。 大涌谷は、同じ箱根でも、この位置からだと、右端の高い山の向こう側で、全く見えません。

  風が少しあり、肌寒かったです。 ベンチがあったので、そこに座って、残っていた、もう一つのバター・ロールを食べました。 水は、ほんの少し残しておきました。 その後、ベンチに仰向けになって、空を見ましたが、青さは、あまりありません。 もう、夏ではないのです。

  駐輪場に戻って、1時22分に、出発。 箱根を下って、三島、清水町と通り、2時10分頃、家に到着しました。 走行距離は、88キロ。 目的地が近かった割には、まずまず、よく走った方でしょうか。



  「万葉公園」は、ちと、期待外れでしたが、元々、勝手に期待を膨らませた私が悪いのであって、足湯目当てに行くのであれば、充分楽しめると思います。 駐車場のシステムが、初体験で、面白かったです。 キーを預けるというのは、昔、伊豆の観光地で行なわれていた習慣ですな。 係の人は、忙しい割に、儲けが少ないと思いますけど。

  「不動滝」は、あまり期待していなかった分、意外な立派さで、まずまず、良かったです。 滝と社の組み合わせとしては、今までに見た中でも、出色の口。 幽玄な雰囲気を盛り上げるのに、灯りに浮き出る社が、いい役割を果たしていました。 茶店も、なかなか、いい雰囲気。 江戸時代を感じさせる景勝地は、なかなか、珍しいと思います。

  当初、寄る予定がなかった、「箱根 大観山」も、久しぶりに行けて、良かったです。 6年ぶりか・・・。 つい、こないだのような気がしていたんですがねえ。 今や、私は、どこへ行っても、思い出の沼に足を取られて、ズブズブと沈んで行くような感じです。


  翌月、11月末のバイク・ツーリングは、一応、富士市の「丸火自然公園」という目的地まで決めていたのですが、予定時期が迫って来た頃には、寒くなって、遠出どころではなくなってしまいました。 通勤時代に使っていた、防寒装備がそっくり残っているので、その気になりさえすれば、不可能ではないと思っていたのですが、考えが甘かった。 「寒さを我慢してまで、遠出する必要はない」と悟り、丸火自然公園行きは、来春まで延期する事にしました。

  やはり、ツーリングというのは、楽しさを求めてするものであって、辛いと分かって出かけるのは、馬鹿な話です。 冬の間、バイクに乗るのは、近場だけにします。 実は、近場すら、行きたくないのですが、まったく乗らないと、バッテリーが上がってしまうから、最低でも、二週間に一度は火を入れなければならないのです。