2016/07/31

カー連読④

  ディクスン・カー作品の感想文、性懲りもなく、四回目です。 とりあえず、感想文のストックを、あるだけ、全部出してしまいます。 現状で、あと、4回分くらいはあるのかな? 三島図書館にある分を読み終えてしまったら、しばらく、中断する予定。

  実を言いますと、父の健康状態の衰えが進み、糞尿の始末をしたり、病院をハシゴしたり、その為に車を買ったりと、引退者とは思えないほどの、多忙な日々を送るようになってしまい、ブログの記事どころではないというのが実情なのです。 そちらの詳しい事情については、このカー連読シリーズが終わってから、また、取り上げます。 たぶん、日記の移植になると思いますけど。




≪皇帝のかぎ煙草入れ≫

創元推理文庫
東京創元社 2012年
ジョン・ディクスン・カー 著
駒月雅子 訳

  ≪帽子収集狂事件≫と、≪ユダの窓≫を、5日間で読み終えてしまったので、6日目に、また、バイクを出して、三島市立図書館へ行き、今度は三冊、借りて来ました。 三島の図書館は、開架の冊数が、さほど多くなくて、カーの作品も、書庫に入っている物が多いようなのですが、今のところ、開架分で間に合っています。 書庫の方にあっても、言えば、すぐに出してくれますし。

  開架にあった本で、有名な作品で、私がまだ読んでいなかったのは、この、≪皇帝のかぎ煙草入れ≫だけでした。 1942年の発表。 探偵役は、フェル博士でも、H.Mでもなくて、ある精神科医なのですが、この作品にしか出て来ないそうです。 コンビニなる警察署長の方は、他の短編にも出てくるらしいですが、この作品では、精神科医の引き立て役になっているだけ。


  身持ちの悪い男と結婚し、3年で離婚した女が、その直後、向かいの家に住んでいた青年と恋仲になり、婚約する。 ところが、別れた前夫が、復縁を迫って、彼女の家に押し入って来た晩に、向かいの家で、婚約者の父親が殺される事件が起こり、彼女に殺人の容疑がかかる。 前夫と一緒にいた事を知られたくなくて、彼女はアリバイを証明できず・・・、という話。

  ちなみに、主要登場人物はイギリス人ですが、舞台は、フランスの別荘地でして、警察署長と予審判事は、地元のフランス人です。 よりによって、イギリス人が向かい合わせに住んでいる二軒の家で事件が起こるというのは、何とも、御都合主義っぽいです。 別に、イギリスが舞台でも、何の問題もない話なんですが、「皇帝のかぎ煙草入れ」の、皇帝というのが、ナポレオンの事なので、それだけの理由で、フランスにしたのかも知れません。

  カーと言えば、密室物か、不可能犯罪物ですが、この作品は、そのどちらとも言えません。 密室では、全然ないですし、不可能でもなく、怪奇風味も、全く感じられません。 カーらしいところと言うと、主人公の女性のキャラが、なんとなく、ムカつく事くらいでしょうか。 悪女の設定でもないのに、ムカつくのは、なぜなんだろう?

  これねえ、一種の叙述トリック物でして、トリックを仕掛けられている対象が、警察や探偵といった作中人物ではなく、読者になっているタイプの話なんですよ。 しかも、推理小説の歴史では、「フェア・アンフェア論争」というのがあるんですが、それを皮肉って、構想された作品だと思うのです、たぶん。

  叙述トリックと言うと、ほとんどが、語り手が犯人になっているパターンですが、この作品は、三人称で書かれていて、誰が犯人かは、最後まで分かりません。 それぞれの場面で、中心になっている人物の心理描写がなされるわけですが、その描写に、読者を騙す罠が仕掛けられているのです。 フェア・アンフェア論争的には、ギリギリでフェアなんですが、そもそも、そのギリギリを狙うのが、この作品の目的でして、その発想自体が、ズルい感じがせんでもなし。

  逆に言うと、フェア・アンフェア論争を皮肉る為だけに作られているので、話に、深みや奥行きが足りないように感じられます。 これを絶賛するのは、自身、推理作家とか、推理小説専門の評論家とか、編集者とか、そういう職種の人達だけではないでしょうか。 一般の読者、とりわけ、フェア・アンフェア論争を知らない人は、罠に引っかかる事もなく、スイスイっと読み過ごしてしまって、何が面白いのか、分からずじまいになるのでは?

  私は、一日かからずに読んでしまいましたが、ページがどんどん進んだ理由は、面白かったからというより、長編にしては、ボリュームが少なくて、元は、短編か中編のアイデアだったものを、肉付けして、長編の尺にしたような感じだったからです。 やはり、叙述トリックのアイデアだけで、長編の枚数を埋めるのは、厳しいのでしょう。



≪赤後家の殺人≫

創元推理文庫
東京創元社 1980年初版
カーター・ディクスン 著
宇野利泰 訳

  1980年の初版ですが、私が借りて来たのは、2000年の、第26版です。 カバーのデザインが新しいのですが、新版扱いになっていないのは、訳者も、活字の大きさも、1980年の初版から変わっていないからでしょう。 2000年以降に初版された作品では、活字のサイズが大きくなって、一ページの行数が減っています。 いや、そんな事は、日本での事情だから、どうでもいいんですがね。

  発表は、1935年。 H.M(ヘンリー・メリベール卿)が探偵役を務める作品としては、22作中、3作目。 ≪黒死荘の殺人≫、≪白い僧院の殺人≫の次が、≪赤後家の殺人≫で、三色揃えたわけですが、それは日本語訳の話でして、「黒死荘」は、元は、「Plague Court」なので、直接的に、「黒」を表してはいません。

  「Plague」は、ペストの事で、ペストを、「黒死病」と言いますから、何か、関係があるのかも知れませんが、調べるのが面倒なので、スルーします。 ちなみに、「赤後家」は、原題では、「Red Widow」ですが、更に元は、フランス語でして、ギロチンの事を表しています。 別に、赤い服を着た後家さんが出て来るわけではありません。


  ロンドンにある、貴族の古い屋敷に、一人で、2時間以上入っていると、必ず死ぬという部屋があり、何十年も封印されていたのが、当代当主の酔狂から、本当に死ぬか試してみる事になる。 屋敷に滞在していた者や、招かれた者が、トランプのカードを引いて、最も強い札を引いた者が、問題の部屋に籠ったところ、本当に死んでしまい、その面子に加わっていた、H.Mが、警視庁のマスターズ警部らと共に、密室の謎を解いて行く話。

  冒頭の雰囲気や、呪われた部屋の設定は、ゾクゾクして、大変宜しいんですが、いざ、人が死に、取り調べや捜査が始まると、急に、つまらなくなります。 フランス革命の時、ギロチンの操作に当たった一族が絡んで来るのですが、フランス革命の経緯を解説する部分は、なんだか、歴史小説と間違えているような、鬱陶しさを感じさせます。 登場人物の一人が話をする形を取っているのですが、こんなに長々とした語りに、つきあってくれる聞き手なんか、いるんですかね?

  また、トリックや、人物相関、動機、因縁などが、複雑過ぎて、理解するだけで、えらい負担です。 それでいて、何度も確認して、全ての関係式を頭に入れたところで、別段、面白いわけでもないんですわ。 最初の犠牲者は、毒物で殺されるのですが、何に毒が仕込まれていたかで、延々と議論が続けられ、毒、毒、毒ばかりで、げんなりして来ます。

  これは、明らかに、失敗作でしょう。 話に奥行きを与える為に、複雑にしようとして、あれこれ捻っている内に、どんどん尾鰭が付いて、畸形的に膨らんでしまったパターンだと思います。 辻褄は合わせてあると思うのですが、それ以前の問題として、面白くないのでは、文字通り、話になりません。

  トリックの謎解きも、能書きが多過ぎて、およそ、パッとしません。 鮮やかさを感じないのです。 こんなに、ガッタンゴットン滞りながら、謎解きを進めるのなら、別に、名探偵でなくても、役が務まるでしょうに。 作者が苦労したのは分かるのですが、残念ながら、苦労が報いられていない出来なのです。



≪一角獣の殺人≫

創元推理文庫
東京創元社 2009年
カーター・ディクスン 著
田中潤司 訳

  元は、国書刊行会、1995年発行の、≪一角獣殺人事件≫で、改題して、創元推理文庫に収録したとの事。 いずれにせよ、そんなに古い翻訳ではないわけだ。 カー作品の翻訳は、戦後間もない頃のものからあるようで、訳者もバラバラ、レベルもバラバラ、原作が論理的な推理小説であるだけに、中には、筋が通らなくなってしまったような滅茶苦茶な訳もあるらしく、発行年があまり古いのは、要注意なのだとか。

  それはともかく、原作の発表は、1935年。 H.M(ヘンリー・メリベール卿)が探偵役を務める作品としては、22作中、4作目。 ≪赤後家の殺人≫の次です。 1作目の、≪黒死荘の殺人≫で語り手を務めた、ケンウッド・ブレイクが再登場し、情報局の同僚、イブリン・チェインと共に、主要登場人物となって動き、彼の一人称で話が語られます。 この作品の次が、≪パンチとジュディ≫で、ブレイクとチェインのコンビは、そちらにも出て来ます。


  「私服の外交官」と呼ばれている、ラムズデン卿が、インドからイギリスへ、「一角獣」を運ぶ途中、フランスの旅客機に乗る事になる。 その件に関して、英国情報局から派遣されたイブリン・チェインとパリで出会ったケン・ブレイクは、車でロアール河畔のホテルへ向かうが、大雨で立ち往生したところへ、H.Mの車が合流し、更に、ラムズデン卿が乗った飛行機が、故障で不時着する。 近くにある、「島の城」に迎え入れられた一行の中に、フランスの怪盗フラマンドと、それを追うパリ警視庁のガスケ警部がいるはずだが、誰がそうなのかは分からないという状況下で、ガスケと名乗っていた男が、一角獣の角で眉間を貫かれたような傷を残して殺され・・・、という話。

  冒頭から、島の城に着くまでは、明らかに、スパイ活劇物の作法で話が展開します。 ただし、全体の4分1にもならないので、話の導入部と考えて、気にせず読み過ごせる分量でして、≪パンチとジュディ≫のような、活劇物と推理物で、話が二つに分かれてしまっている不自然さはないです。 とはいえ、車で追撃だの、川の中にあって、橋で繋がっているだけの城だの、飛行機が不時着だの、道具立てが、派手ですなあ。 こうなると、もう、≪名探偵コナン≫や≪金田一少年の事件簿≫でやった方が、しっくり来そう。

  情報局員、ブレイクとチェインのコンビですが、これは、もしかしたら、クリスティーの≪トミーとタペンス≫あたりに対抗しているんじゃないでしょうか。 第一次世界大戦と、第二次世界大戦の間に、スパイ物が流行った時期があったのは、確実なようです。 そういや、マレーネ・ディートリッヒさんが主演した、≪間諜X27≫という、1931年の映画もありますし。

  だけど、この二人、スパイとしても、探偵としても、全然、駄目でして、あくまで、主役は、H.Mなので、その指示を受けて、活劇部分を受け持っているだけです。 特に、チェインの方は、この作品では、ほとんど、活躍らしい活躍をしません。 どういうキャラにしていいのか決める前に、書き始めてしまって、結局、それらしい役割を与えられないまま、終わってしまったという感じ。 カー作品の女性キャラには、限界というか、ある傾向があり、女性スパイをバンバン活躍させるには、作者が、女性に対して、覚め過ぎてしまっていたのではないかと思います。

  島の城で繰り広げられる事件、誰が怪盗で、誰が警部なのか、殺された男は何者で、凶器は何か、どうやって殺されたかなど、そちらの方は、あまり、いい出来とは言えません。 複雑過ぎるのです。 最後まで読めば、一応、辻褄は合っているのですが、あまりにも、不確定な情報が多過ぎて、「ああ、そうだったのか!」という驚きが味わえないんですな。

  もちろん、読者が推理しながら読むという事は、大変、難しいです。 凶器に至っては、「こんなの、分かるか!」と、呆れてしまうほど、一般的に知られていない代物。 もし、凶器が何かが、謎の中心だったら、アンフェア扱いされてしまうでしょう。 それにしても、眉間に深い孔を穿たれて、大量の血が出ないもんですかねえ。 血溜まりで、犯行現場が分かりそうなものですが。

  こんな風に、ブチブチ貶しているという事は、あまり、面白くないんですよ。 箸にも棒にもかからないほど、つまらないわけではありませんが、平均的な出来と言えるほど、面白くもない。 H.Mの魅力が、うまく引き出されていないのが、一番の不満です。 ガスケ警部の存在も、鬱陶しいだけ。 一つの話に、名探偵役を二人出すと、結局、どちらかにミスを犯させなければならなくなるので、大抵、つまらなくなりますな。



≪夜歩く≫

創元推理文庫
東京創元社 2013年
ジョン・ディクスン・カー 著
和爾桃子 訳

  三島市立図書館には、カー初期の、アンリ・バンコラン物が、創元推理文庫で三冊あり、いずれも、新しい本でした。 フェル博士物や、H.M物の方を先に読みたかったんですが、とりあえず、開架に出ている本から片付けようと思い、纏めて借りて来ました。 この三冊、表紙イラストが、同じ人が担当していて、独特の味がありますが、バンコランというより、ルパンに見えてしまうのは、如何なものか。

  ≪夜歩く≫は、1930年の発表。 元になったのは、その前年に、同人誌に発表した中編、≪グラン・ギニョール≫で、それを、長編に書き直したわけですな。 「Grand Guignol」というのは、パリにあった芝居小屋の事ですが、なぜ、≪夜歩く≫に変えたかというと、≪夜歩く≫の方には、芝居が出て来ないからだと思います。 さりとて、夜歩く場面に、大きな意味があるわけではなく、あまり、内容に相応しいタイトルとは言えません。


  パリにあるナイトクラブの一室で、スポーツマンで有名なサリニー公爵が惨殺される事件が起こるが、公爵の新妻の前夫が、犯罪歴のある精神異常者で、その男に対する警察の護衛下での犯行だった事から、不可能犯罪と見做される。 当夜、ナイトクラブにいた、予審判事のアンリ・バンコランが、事件関係者への聞き込みから、公爵の最近の様子に異常があった事を知り、アメリカ人の友人や、ドイツ人の精神医学者と共に、事件の真相に迫る話。

  元になった、≪グラン・ギニョール≫は、前に読んでいるのですが、その本が、中短編集だったせいで、面倒臭くて、感想を書いておかなかったのが、命取り。 内容をうろ覚えで、細部の比較ができません。 だけど、大まかに比べると、≪グラン・ギニョール≫で、クライマックスになっている芝居の部分がなくなり、犯人がダラダラと自白して行く、締まりのない終わり方になっています。

  それ以外の部分は、基本的に、描写の水増しで、枚数を増やしているのですが、アメリカ人作家の悪い癖が出て、情報価値がない装飾過剰な文章が、延々と続き、全ての行に目を走らせる気がなくなります。 実際、会話部分と、その前後だけ読んでも、ストーリーが分かってしまうから、いかに無駄が多いかが知れようというもの。

  ナイトクラブでの不可能犯罪のトリックは、話の中心ではなく、外枠に、もっと大きなトリックがあって、先にそちらが謎解きされるので、後から説明されると、「なーんだ、そんな事か」と思ってしまいます。 作者が、まだ、推理小説の書き方に慣れていない頃の作品だからかもしれませんが、カーの場合、売れっ子になってからの作品にも、結構、テキトーに作ったと思しき話があるので、別段、理由はないのかも。

  一口で言うと、物語として、あまり、面白くないのです。 探偵役のバンコランに、人格的な特徴がないのも、痛いところ。 カーは、ポー好きなので、デュパン物の続編を書くようなつもりで、バンコランを創作したのかも知れません。 しかし、他人が作ったキャラを活き活きと動かすのが、大変難しいのですよ。 それは、パスティーシュ作品が、みんな失敗しているのを見れば、よく分かります。




≪蝋人形館の殺人≫

創元推理文庫
東京創元社 2012年
ジョン・ディクスン・カー 著
和爾桃子 訳

  三島市立図書館で借りて来た、アンリ・バンコラン物三冊の内の、一冊。 表紙イラストは、森夏美さんで、顔の描き方など、明らかに、漫画・劇画のタッチでして、どうしても、アルセーヌ・ルパンに見えてしまうものの、魅力はあります。 もしかしたら、若い読者の目にとまるように、描き手を選んだのかも知れませんな。

  発表は、1932年で、アンリ・バンコラン物の長編としては、5作中、4作目。 翌1933年には、フェル博士物が始まるので、作者が、バンコランに見切りをつけた作品という事になります。 ちなみに、バンコラン物最終の第5作は、1937年の≪四つの兇器≫で、だいぶ、間が開きます。


  元閣僚令嬢の死体がセーヌ川に浮かび、彼女が最後に目撃された蝋人形館に向かった、予審判事バンコラン一行は、蝋人形に抱かれた形で、令嬢の友人である若い女の死体を発見する。 蝋人形館の隣には、会員制の秘密クラブがあり、恐喝を副業としている、その経営者が事件に絡んでいると目星をつけたバンコランは、友人のアメリカ人、マールに、クラブへの潜入を依頼するが・・・、という話。

  蝋人形館というのは、今でもありますが、この頃のヨーロッパでも、各地にあったようですな。 この話に出てくる蝋人形館は、有名人に似せた人形を並べているわけではなく、伝説や歴史上の恐ろしい場面を再現した人形を展示していて、弥が上にも、怪奇風味が盛り上がろうと言うもの。

  だけど、カーの小説に、超自然現象は出て来ないと分かっているので、怪奇は、雰囲気だけ味わって、さっさと先に進む事になります。 良家の子女のゴシップをネタにした恐喝者が出て来るのは、ホームズ物以来、ミリテリーの伝統のようなもので、カーも、割と安直に利用した感があります。 同じ恐喝でも、後年の、≪殺人者と恐喝者≫のような、捻りはありません。 実際には、恐喝は、リスクが高過ぎて、そうそうは成功しません。 もっとも、そんな事を言い出せば、密室殺人も不可能犯罪も、それ以前に、知能的犯行すらも、実際の発生率は、甚だ低いのですがね。

  カーと言えば、密室物か、不可能犯罪物ですけど、この作品では、どちらからも、少し遠いです。 「どうやったか」よりも、「誰がやったか」の方が、主眼になっているからです。 フーダニット物は、みんなそうですが、作者が、わざと、目晦ましをかけて書いているので、犯人を推理しながら読むのは、非常に難しいです。 この作品でも、御多分に漏れず、意外な人物が犯人なのですが、「こんなの、分からんわ~」という、読者の呆れの声が聞こえて来そうです。

  クライマックスが、マールによる秘密クラブへの潜入場面になっていて、そこは完全に、スパイ活劇の作法で書かれています。 蝋人形館の娘と、俄かコンビを組むのですが、カーは、異性二人によるスパイ活劇が、よほど、好きだったようですなあ。 だけど、全体的に見ると推理物なのに、活劇場面を最大の見せ場にしてしまうと、水と油になるのは、致し方ないところ。 サービス精神が裏目に出た格好です。 

  かくのごとく、「物凄く、面白い」と言うには、大いに憚られる内容なのですが、いい点もあって、ラストの、犯人との賭けの場面は、大変、宜しいです。 こういうのは、他のミステリー作品では、見た事がありません。 倫理的には、かなり問題ですし、青酸カリの事を、「苦痛もない」と書いているのは、明らかに間違いだと思いますが、それを割り引いても、尚、面白いから、大したラストを思いついたものです。

  ちなみに、≪夜歩く≫と比べると、こちらの方が、ずっと、出来が良いです。 ≪夜歩く≫は、≪グラン・ギニョール≫を、過剰描写と薀蓄で水増しした長編だったのに対し、こちらは、最初から、長編として構想されているので、話の流れを阻害する要素がないからです。 ただ、絶賛するような小説ではないですねえ。




≪髑髏城≫

創元推理文庫
東京創元社 2015年
ジョン・ディクスン・カー 著
和爾桃子 訳

  これも、三島市立図書館で借りて来た、アンリ・バンコラン物三冊の内の、一冊。 訳者と、表紙絵は、他の二冊と同じ人達です。 三冊の中では、最も短いにも拘らず、読むのに、一番時間がかかってしまいましたが、それは、私に別の用事が出来て、読書に割く時間が取れなかったからで、小説の内容とは、関係ないこと。 

  発表は、1931年で、アンリ・バンコラン物の長編としては、5作中、3作目。 先に読んだ、≪蝋人形館の殺人≫よりも、前だったんですな。 そうと知っていれば、どうせ、一緒に借りて来たのですから、こちらを先に読んだのですが、文庫の発行年では、≪蝋人形館の殺人≫の方が早かったので、勘違いしてしまったのです。 なぜ、順番通りに発行しないのか、理由が分からん。


  とある富豪に依頼されて、ドイツのライン河の中にある、「髑髏城」で起こった、俳優の殺人事件を調べる事になったバンコランが、かつて、第一次大戦中に、丁々発止の諜報戦を繰り広げたライバルである、ドイツ警察のアルンハイム男爵と、互いに腹を探りあいながら、俳優が17年前に関わった、奇術師の変死事件を手がかりに、謎を解いて行く話。

  「川の中にある城」や、「二つの国の探偵が競い合う」という設定は、後年の、≪一角獣殺人事件≫でも、セットで繰り返されています。 しかし、事件の方は、全く違っていて、人物相関にも、殺害方法にも、似たところは見られません。 他の作品と、ある程度重なっていても、謎やトリックの核心部分が違っていれば、許されるわけだ。 それにつけても、推理小説が、「組み合わせの文学」である事が、よく分かる次第。

  フランスとドイツの、悪魔的な切れ者同士が競い合うわけですが、事件の内容の方も、結構には複雑でして、文庫で260ページ程度の枚数では、どちらも、丁寧に描き込むというわけには行かず、競い合いの方は、割とあっさり、処理されています。 あくまで、バンコランが主役ですから、アルンハイムは、自動的に、そのダシにされてしまうわけで、彼の最終的な謎解きが誤っている事は、その部分を読む前から察知できます。

  では、バンコラン物として、面白いのかというと、そうでもなくて、バンコランは、ほとんど、前面に出て来ずに、最後の最後で、「実は私は、全てを見抜いていたんですよ」と、謎解きするだけなので、言わば、「トンビに油揚げ」のトンビ役を担っているわけで、むしろ、ムカつく存在になってしまっています。 驚きや、鮮やかさが感じられないんですな。 読者に、構成上の手の内を見透かされてしまうようでは、あまり、いいミステリーとは言えません。




  今回は、以上、6冊までです。 4月上旬から、下旬にかけて読んだ本。 一回に借りて来るのが、3冊なので、6冊で、二回分ですが、大抵、返却期限の二週間より早めに読み終わって、すぐに借り換えに行きますから、きっちり、四週間にはなっていません。

  いやはや、呑気に、後文なんて書いている場合じゃないんですよ。 父だけならともかく、母まで、狭心症の疑いが出て来て、明日から、一泊で検査入院と言われてしまって、もう、大変なんですわ。 今借りている本で、三島図書館にあるカー作品は最後なのですが、それすら、読み終われるかどうか。

2016/07/24

カー連読③

  ディクスン・カー作品の感想文、三回目です。 一回に、6作品分も出していると、書き溜めた感想文が、どんどん、捌けて行きますなあ。 書く時には、結構、苦労しているんですがねえ。 特に、あらすじの段落なんか・・・。 あらすじを書かなくていいのなら、もっと、スイスイッと書けるのですが、それだと、本を読んでいない人が、何の話をしているのか、まるで分からなくなってしまいますけんのう。

  いや、あらすじがあってもなくても、読んでいない人には、何の興味も湧かないかな。 といって、カーを読めとは言いませんが。 やっぱり、ちょっと変わった人だよねえ、カーの読者というのは。 変わり者扱いされて、喜んでいるようでは、まともな大人にゃなれませんが。




≪殺人者と恐喝者≫

ヴィンテージ・ミステリ・シリーズ
原書房 2004年
カーター・ディクスン 著
森英俊 訳

  これは、文庫や新書サイズ・シリーズではなく、ハード・カバーの単行本です。 原作は、1941年の発表。 H.Mが探偵役の話としては、22作中、12作目です。 これも、戦争中の発表ですな。 例によって、戦争に触れている箇所はありません。 ヒトラーとムッソリーニの名前が出て来ますが、皮肉で使われているだけで、話の内容とは全く関係なし。


  夫が、不倫相手の女を殺した件で、夫の叔父から恐喝されていると知った妻が、夫に死んでもらいたいと思っていた矢先、屋敷で行なわれた催眠術実験の試験台をやらされる事になり、ゴムのナイフで夫を刺すように命じられ、実行するが、いつのまにか、本物のナイフとすり替わっていて、本当に刺してしまい、その場にいた全員が、「ナイフをすり替えた人間はいない」という証言する中、H.Mが謎解きに乗り出す話。

  梗概とは思えないほど、いろいろ書いてしまいましたが、これだけ書いても、まだ、さわり程度なので、ネタバレにはなっていません。 全体の印象としては、面白いです。 カーの作品には、時折、「本当に同じ作者か?」と訝るほど、読み難いものがありますが、この作品は、そうではない方で、言わば、ノリのいい話です。

  催眠術実験と言っても、学術的なものではなく、元医師が、ホーム・パーティーに招かれて行って、その家の奥さんに催眠術をかけ、旦那を殺す真似事をさせるという、ただの余興なんですが、この、些か不謹慎で軽率な余興が、妙に、読者をワクワクさせるのです。 カーは、こういう人の興味を惹きつける設定を思いつくのが、得意だったんですなあ。 戦時中であっても。

  トリックや謎解きの方は、大した事はなく、特に、トリックの方は、噴飯物と言ったら言い過ぎですが、限りなく、それに近い、ちゃちなものです。 「不可能犯罪」と呼ぶには、あまりにも、しょぼい。 しょぼ過ぎて、誰もこんな手を使うとは思わないから、却って、現実的なのかな? だけど、そんな事が気にならないくらい、読んで楽しい小説になっています。

  カーの作品には、探偵役とは別に、「視点人物」とでも言うべき、中心人物がいるのが普通で、この作品では、H.Mの自伝を口述筆記するライターの青年が、それに当たっています。 で、H.Mが、彼に、自分の幼少時からの、悪戯の武勲を、事細かに、延々と語るのですが、その内容はさておき、そういう、お遊びがふんだんに盛り込まれているところが、この作品を豊かな雰囲気にするのに一役買っています。



≪仮面劇場の殺人≫

原書房 1997年
ジョン・ディクスン・カー 著
田口俊樹 訳

  原書房のハード・カバー単行本。 一段組みで、360ページ。 結構、長いです。 原作の発表年は、1966年。 フェル博士が探偵役の話としては、23作中、22作目。 つまり、この作品の後には、翌年の≪月明かりの闇≫しかなくて、フェル博士的には、もう、末期の仕事という事になるわけだ。


  アメリカからイギリスに渡り、舞台女優として成功したばかりか、貴族と再婚して、莫大な遺産を手に入れた女が、アメリカに戻り、最初の結婚相手だった男が作った劇団と劇場を再生する事になるが、劇団の主として、最初の公演のリハーサルを、ボックス席で観ている最中に、背中を石弓で射られて殺害され、アメリカに戻る船に同乗していたフェル博士が、謎解きに乗り出す話。

  密室物ではなく、強いて分類するなら、「不可能犯罪物」という事になりますが、ボックス席は、舞台側に向けて、オープンになっているわけで、不可能犯罪というには、あまり、それっぽさが感じられません。 どうにでも、やりようがあるような気がしてしまうのです。 提示された謎に、鮮やかさが欠けているとでも言いましょうか。

  事件直後でさえ、そんな有様なのですが、謎が解けて行くと、ますます、しょぼい話になり、犯人が誰か分かっても、「あ、そう。 ありがちだねえ」と、何の驚きも感じません。 ≪月明かりの闇≫も、似たような感じでしたが、60年代になると、もう、カーは、推理物に飽きていたんじゃないかと思います。 そうでなければ、新しいアイデアを思いつかなくなっていたか。

  とにかく、この作品の殺害方法は、あまりにも、貧相。 被害者が、ボックス席から身を乗り出してくれなければ、犯行が行なえないわけですが、そんな、相手任せの危うい計画では、リアリティーも何もあったもんじゃありません。 落ちて行く宝石を見て、一瞬で、盗まれた自分の物だと思いますかね?

  これも、≪月明かりの闇≫と同じ問題点ですが、教養のひけらかしが、この作品でも凄まじいです。 本筋とは無関係な、野球トリビアまで出て来ますが、鬱陶しいだけで、何の面白さも感じません。 作者が自己満足したいが為に書き込んでいるのか、枚数を指定されて、それに合わせる為に、水増しのつもりで入れたのか、いずれにせよ、作品の質を更に落としているとしか思えません。

  単行本には珍しく、巻末に、日本の推理作家による解説がついていて、誉められるところを誉めていますが、この作品を誉めること自体が、かなり危ういです。 「カーが、好き」という人の気持ちは良く分かるのですが、「どの作品も、全て良い」というわけでもありますまいに。



≪黒死荘の殺人≫

世界推理小説大系22 収録
東都書房 1963年
ジョン・ディクスン・カー 著
平井呈一 訳

  沼津の図書館には、カーの本が少なくて、文庫も新書も単行本も、すぐに読み尽くして、とうとう、全集にまで到達してしまったのですが、カーの全集ではなく、推理小説全体の全集なので、私が沼津の図書館で読めるカーは、これが、最後の作品になります。 三島の図書館には、カーの全作品が揃っているようなので、今後は、そちらへ借りに行く事になります。

  ≪黒死荘≫の発表は、1934年で、H.Mが探偵役の話としては、22作品中の第1作。 H.Mが出て来るという事は、ディクスン・カーではなく、カーター・ディクスン名義で書かれた系列なのですが、なぜか、本全集での作者名は、「カー」になっています。 二つ名を使い分けられると、何かと不便が発生するものですなあ。


  ある夜、「黒死荘(プレーグ・コート)」という幽霊屋敷の敷地内にある、石室と呼ばれる離屋で、心霊実験をしていた心霊研究家が殺される。 石室は完全な密室で、凶器は、18世紀初頭に、その屋敷で死んだ死刑執行人の短刀。 その晩、屋敷内にいた者達が容疑者となり、警察に泣きつかれた、陸軍省情報局のヌシ、ヘンリー・メルベール卿が、密室殺人の謎と、犯人の正体を解いて行く話。

  H.M登場の第1作なので、キャラについて、細かい描写がなされています。 役所の中で、「マイクロフト」という渾名があると書いてありますが、私が読んだ、他の作品では、そんな渾名で呼ばれている場面がなく、初期設定だけしたものの、その後、作者が忘れてしまったのではないかと思います。

  全体の半分くらいが、事件の夜の描写で、心霊実験に至る経緯の説明、殺人の発生、容疑者の取り調べで埋められています。 屋敷を舞台にした部分が、とにかく、陰々滅々で、鬱病患者が読んだら、自殺しそうな暗さです。 これは、幽霊屋敷を通り越して、墓の中の雰囲気ですな。 読んでいるだけで、悪霊にとりつかれたような気分になるから、ある意味、凄い文章です。

  後半は、H.Mの推理と、ちょっとした捜査、容疑者を集めた謎解きの順で進みます。 H.Mは、役所の自分の部屋にいながら、報告書を読んだだけで、事件の大体の流れを推理してしまいます。 そこが、シャーロック・ホームズの兄である、マイクロフトと似ているというわけですが、これはおかしな話でして、実際には、報告書だけで分かる事など知れていると思います。 まず、観察者が優れていないと、勘所を掴んだ報告書が作られないからです。 観察がピント外れなら、その報告を元にした推理も、やはり、ピント外れになるはず。

  犯人の正体は、意外という以前に、情報の後出しが多くて、ズルい感じがします。 つまり、H.Mの最後の説明がなされるまで、読者は、犯人の目星をつけようがないのです。 すり替わり物で、これをやられると、「実は、こいつの正体は、こいつだった」という調子で、何でもアリになってしまいます。 極端に言えば、登場人物の誰でも、最後で、犯人にできるわけです。

  因縁話も、捻り過ぎで、説明を読むのが、面倒になってしまいます。 前半の怪奇風味と、合理的謎解きを両立させる為に、捻りに捻ったのだと思いますが、あまりにも、ややこしいので、強引な辻褄合わせに見えてしまうんですな。 どんな名探偵でも、こんなに複雑な人物相関を、他人が作った報告書と、ちょっとした捜査だけで見抜くのは、不可能ではありますまいか?

  私は、この作品を読む前に、横溝正史さんの、≪蝶々殺人事件≫を読んでいたのですが、謎解きが、終わりの方に、ダマになっている点が、よく似ています。 横溝さんは、戦中戦後に掛けて、カーに心酔していたそうで、「なるほど、これを参考にして書けば、あれになるんだな」と、納得させられます。

  この作品の読みどころは、犯人が誰かという事ではなく、密室トリックの方ですな。 物質的トリックとしては、非常によく出来ていて、「あああ、なるほど! それは、盲点だった」と感服つかまつる、鮮やかな仕掛けが施されています。 この手は、今でも、使えるんじゃないでしょうかね? もっとも、わざわざ、密室にする理由がないですけど。



≪帽子収集狂事件≫

創元推理文庫
東京創元社 2011年
ジョン・ディクスン・カー 著
三角和代 訳

  ≪黒死荘殺人事件≫を最後に、沼津市立図書館のカー作品を読み尽くし、いよいよ、三島市立図書館へ遠征しなければならなくなりました。 バイクで、往復一時間。 三島の中心市街を通り抜けなければならないから、信号に捉まってばかりで、時間がかかるんですわ。 でも、自転車で行ったら、往復二時間かかってしまいます。

  有効期限切れになっていた貸し出しカードを、再登録してもらい、最初に借りて来た二冊の内の一冊が、≪帽子収集狂事件≫です。 このタイトル、カー作品を読み始めてから、何度も目にしたのですが、沼津の図書館にはなくて、フラストレーションが溜まっていたもの。 三島の図書館に行ったら、惜し気もなく、開架に並んでいたので、小躍りしてしまいました。 いや、ほんとに、躍ったわけではありませんけど。

  発表は、1933年。 ギデオン・フェル博士が探偵役を務める作品としては、23作中、2作目。 カーが、イギリスに住み始めたのが、1932年だそうですから、時期的にも、ごく初期の頃ですな。 ただし、フェル博士の登場が2作目であるせいか、フェル博士の素性に関する解説は、間接的なものが、僅かに見られる程度です。 この人の本業が何なのか、私は未だに、はっきり認識できていません。


  ロンドンで、帽子が盗まれる事件が相次ぐ中、ロンドン塔の逆賊門の中で、新聞記者の殺害死体が発見される。 被害者の伯父は、アメリカの、エドガー・アラン・ポーの旧宅で発見した、未公表の小説原稿を、最近、盗まれたばかりで、その上、帽子の盗難にも立て続けに遭っていた。 一見、無関係に思える三つの事件を、警視庁のハドリー警部と、フェル博士が、結びつけ、謎を解いて行く話。

  カーと言えば、密室物か、密室の変形物で有名なのですが、この作品は、そのどちらとも無縁で、一応、濃い霧の中で死体が発見されるものの、霧が密室の代わりに使われているわけではありません。 私は、密室物のつもりで読んでいたのですが、現場の状況の詳細な説明がいつまでたっても出て来ないので、よーく、肩透かしを喰ってしまいました。 それならそうと、先に書いてくれれば・・・、というのは、無理か。

  「帽子連続盗難事件」というのが、ホームズ物の≪赤毛組合≫に似たユーモアを感じさせますし、主な現場が、ロンドン塔という、ロンドンに、ほとんど興味がない人でも知っている、超有名なランド・マークであるせいで、設定だけで、ワクワク・ゾクゾクさせてくれるのですが、肝心の事件の方は、そんなに面白いものではないです。

  取り調べの場面が長いのには、参りますなあ。 推理小説で、取り調べ場面に多大な枚数を割いてしまうと、読み物としての面白さが、著しく損なわれてしまうのです。 特に、一つの部屋で、一人一人、関係者が呼ばれて、話を訊かれるというパターンが最悪。 せめて、捜査側が移動して、証言を集めて回るようにすれば、舞台が切り替わるから、変化が出るのですがね。

  更に、ラスト近くに、ドンデン返しがあり、その前に、ほぼ解決していた事件が、ガラリと塗り替えられてしまうのも、物語の構成として、誉められません。 引っ繰り返す為の伏線は、充分に張ってあって、「こりゃ、このままじゃ、終わらないだろう」と、読者に分かるようにしてあるのですが、それでも尚、不自然さを感じてしまうのです。

  そう感じる一番の原因は、倫理的に、おかしな裁定を下しているという事でして、しかも、その理由が、「この家では、悲劇が続き過ぎたから、これ以上は必要ない」というものなのですから、フェル博士の主観丸出しにも、程があろうというもの。 よしんば、博士が許しても、ハドリー警部は警察官なのですから、立場上、許せるはずがありますまい。 ましてや、真犯人のやった事が、そこそこ計画的で、金欲しさも絡んでいたとなれば、情状酌量の余地など、全くないと思うのですがねえ。




≪ユダの窓≫

創元推理文庫
東京創元社 2015年
カーター・ディクスン 著
高沢治 訳

  ≪帽子収集狂事件≫と一緒に、三島市立図書館で借りてきたもの。 貸し出し期間は、2週間で、それだけあれば、3冊くらいは読めると思うのですが、最初だから、ゆとりを見て、2冊にした次第。 だけど、どちらも、カーの作品の中では有名なものだったからか、面白くて、2冊を5日間で読んでしまいました。 で、「次は、一気に、5冊くらい借りて来よう!」とか、調子に乗ると、つまらんのが混じっていて、ページが進まず、えらい目に遭うんだわ。

  私のバイクには、通勤していた頃のまま、荷台を付けてあるから、そちらに縛れば、10冊くらい借りられない事はないです。 ガソリン代を節約するなら、一遍に多く借りて、往復回数を減らした方が、お得。 だけど、そういうのも、何だか、追い立てられているようで、気が進みませんな。 もうちょっと、近ければ、自転車で行くんですけど。 ・・・おっと、これは、感想文でも何でもないな。


  発表は、1938年。 H.M(ヘンリー・メリベール卿)が探偵役を務める作品としては、22作中、7作目。 ≪パンチとジュディ≫が5作目ですから、その後に書かれた事になりますが、それが、俄かには信じられん。 普通、シリーズ物は、後ろに行くに従って、アイデアが涸れて行って、つまらなくなるものですが、7作目で、こんな凄いのが出て来るものですかね?


  ある女性と婚約した青年が、彼女の父親に挨拶する為に、その屋敷を訪ねる。 父親の書斎に案内され、酒を勧められたが、それを飲んだ途端、意識がなくなり、目が覚めた時には、密室状態になった部屋の中で、父親が殺されていた。 殺人犯として裁判にかけられた青年に、H.Mが弁護士につき、法廷で、密室の謎を解いて、青年の無実を証明しようとする話。

  面白いです。 私が今までに読んだカー作品の中で、最も面白いだけでなく、あれこれ、重箱の隅をつつこうとしても、つつきようがないくらい、完成度が高いです。 読書習慣を持つ者が、ごく稀に当たる、「作者の力量に圧倒される感じ」を、味わいました。 もし、この≪ユダの窓≫を、カー作品の最初の一冊として読んだ人がいたら、その人は、一遍に、カーの虜になってしまって、他の作品を貶す気がなくなる事でしょう。

  H.Mは、陸軍情報局に籍を置く役人ですが、医師資格と、弁護士資格も持っている事になっていて、この作品では、その弁護士資格の設定を利用しています。 密室物の謎を、法廷物の形式で解いて行ったら、とてつもない傑作になったというわけです。 密室トリックも、≪黒死荘の殺人≫のそれと同じくらい、よく出来ていますが、もし普通に、捜査物の形式で語って行ったら、こんなに面白くはならなかったと思います。

  半ばを越えた辺りから先は、もう、ページをめくる手が止まりませんな。 他に、重大な用事でもない限り、一気に、最後まで、読まされてしまいます。 裁判の行方だけでも、充分に面白いので、真犯人が誰かに、あまり興味が湧かないと言ったら、「大げさな事を言うな」と思うでしょうが、いや、ちっとも、大袈裟ではないです。

  これねえ。 こんな感想文を読んでいるより、現物を読んだ方がいいですな。 面白さだけなら、アガサ・クリスティーの、≪そして誰もいなくなった≫と比肩できるレベルです。 こーれ、貶す人、いねーだろー。 貶せるところがないもんねー。 凄いな、こりゃ。



  作品の感想ではないですけど、この本、巻末に、「ジョン・ディクスン・カーの魅力」と題した付録が付いています。 司会を含め、5人の人間が座談会をやった記録なんですが、なんでまた、よりによって、作者の最高傑作ではないかと思う作品の巻末に、こんな、しょーもない、興醒めな物をくっつけたのか、編集者の気が知れません。

  面子も面子で、SF作家一名を除いて、名前も知らんような人ばかりですが、誰やねん、こんしらは? 何を偉そうに、上から目線で、カーについて語っているのか。 カーは外国の作家ですから、この面子の中に、作者と懇意だった人間など一人もいないわけで、そんなのは、ただの一読者と同じではないですか。 勝手に、読者を代表するなというのよ。 個人の感想なら、個人の感想として、ブログにでも書けというのよ。 文庫本の巻末という、「公」の場を、私物化しているとしか思えません。




  今回は、以上、5冊までです。 途中で、沼津図書館のカー作品を読み尽くしてしまい、三島図書館の蔵書に切り替えたのですが、気軽に返しに行けない遠さなので、3冊借りると、二週間では読みきれないかと思い、最初は、2冊にしたのです。 その関係で、数が半端になりました。

  1月下旬から、4月上旬にかけて読んだ本。 2月上旬に、≪仮面劇場の殺人≫を読み終えた後、自転車のレストアを優先して、3月下旬まで、図書館に行かなかったので、間がかなり開いています。 一度、読まなくなると、そのまま、離れてしまいがちですが、カー作品に関しては、そうはなりませんでした。

2016/07/17

カー連読②

  米英推理作家、ディクスン・カー作品の感想文を続けます。 「ジョン・ディクスン・カー」、「カーター・ディクスン」と、二つの名前がありますが、同一人物です。 名義が別れている事も、カーの知名度が上がらなかった理由の一つになっているのだとか。 図書館でも、「ジョン・ディクスン・カー」と、「カーター・ディクスン」は、別の所に置かれています。

  つくづく思うに、日本で、カーを知っている人は、少ない事でしょうねえ。 古典推理小説を読みたがる人にしてからが、少ないですし、その中で、更に二つ名を持っている作家となると、もう・・・。 だけど、カーの作品は、ほとんどが、日本語訳されているのだそうです。 少ないけれど、熱心なファンがいるのでしょう。




≪パンチとジュディ≫

ハヤカワ・ミステリ文庫
早川書房 2004年
カーター・ディクスン 著
白須清美 訳

  1938年の発表。 カーですが、カーター・ディクスン名義の作品で、探偵役は、H.M(ヘンリー・メリヴェール卿)です。 H.M物としては、22作中、5作目で、早い方。 ≪THE PUNCH AND JUDY MURDERS≫というのは、アメリカ向けのタイトルで、これは、男女の名前を並べたものですが、主人公とヒロインの事ではなく、イギリスに、そう呼ばれるドタバタ喜劇の人形芝居があるのだそうです。 どつき漫才の人形劇版みたいなものらしいです。

  イギリス向けのタイトルは、≪THE MAGIC LANTERN MURDERS≫で、≪魔法のランタン連続殺人≫とでも訳すべきでしょうか。 魔法のランタンというのは、確かに、作中に、それっぽい物が出て来るのですが、本筋とは関係がなくて、あまり、いいタイトルとは言えません。 長さは、文庫で、354ページ。


  元イギリス情報部員の青年が、元同僚の女性と結婚式を挙げる前日に、陸軍情報部長官であるH.Mに呼び出されて、かつて、ドイツのスパイだった男が、ある国際的情報ブローカーの秘密を売ると申し出て来た事について、元スパイの家を探るように命令される。 身に覚えのない容疑で警察に追われながら、苦労して、その家に忍び込むと、意外な光景に出くわし、その後、ようやく、警察の追跡を振り切って、H.Mの次の指令で、もう一人の元スパイが宿泊しているホテルに忍び込むと、またまた、意外な光景に出くわし、途中で合流した婚約者ともども、丸一晩、キリキリ舞いさせられる話。

  解説によると、タイトルが示しているように、ドタバタ喜劇的な話らしいのですが、笑えるところは、列車の中で、本物の牧師を陥れる場面と、それに関連しているラストだけで、他は、普通に真面目な話です。 この程度では、コミカルと言うのも憚られる。 前半は、スパイ活劇物で、不自然なほどに、次々と危難がふりかかるので、最初から、喜劇のつもりで読めば、そこら辺が、面白いのかも知れませんが、大抵の人は、推理小説のつもりで読むわけで、ピンと来ないんじゃないでしょうか。

  発表が、第二次世界大戦前なので、戦後のスパイ・ブームとは無関係なのですが、あまりにも、スパイ活劇部分が堂に入っているのは、不思議です。 もしかしたら、戦前にも、そういう作品ジャンルがあったのかも知れませんな。 でなければ、こんなに、緊迫感がある描写が、ポンといきなり、書けないでしょう。 ただ、活劇的なハラハラ・ドキドキ感が盛り上がれば盛り上がるほど、推理物としては、本道から外れてしまうのであって、誉められる特徴とは言い難いです。

  ホテルの場面の後、急に、推理物らしくなり、後ろの3分の1が、謎解きに当てられています。 つまり、前3分の2が活劇で、後ろ3分の1が、室内で会話が進む謎解きになっているわけでして、「水と油」という形容が不適当なら、「木に竹を接いだよう」としか言えません。 「小説とは、あらゆる形式から自由な文学だ」と言うなら、こういうのも、アリですが、普通は、単に、「変」だと思いますわな。

  更に、怪奇風味を盛り上げる為に設定されたと思われる、元ドイツ・スパイ達の奇妙な実験と、殺人事件の謎が、ほとんど、無関係なのには、目を白黒させられてしまいます。 すっげーなー、これー。 作者本人が気づかなかったのか、気づいていたけど、「そんな事、どーでもえーわ」と思っていたのか・・・。 カーの作風として、後者の可能性が高いところが、恐ろしい。

  H.Mの友人である警察署長の家の近所に、医師が住んでいるのですが、その夫人が、たまたま、問題の国際的情報ブローカーの娘だったというのは、偶然が過ぎるんじゃないでしょうか? 彼女がそこに住んでいる必然性が、読み取れません。 犯人が誰なのか、読者に目晦ましをかける為に、人物関係を絡め合わせようとして、絡めてはいけないところを絡めてしまった観があります。

  うーむ、カーの作風を一言で言うと、「バラバラ」というのが、一番、適当なのでは? 今のところ、そんな感じです。



≪剣の八≫

ハヤカワ・ミステリ文庫
早川書房 2006年
ジョン・ディクスン・カー 著
加賀山卓朗 訳

  1934年の発表。 ディクスン・カー名義なので、探偵役は、フェル博士。 フェル博士の登場作品としては、23作中、3作目だそうで、かなり、早い方です。 文庫で、337ページ。 タイトルの読み方は、「つるぎのはち」です。 ≪剣の八≫というのは、タロット・カードの札の名前で、話の内容と、ほとんど、関係ありません。 このタイトルに騙されて、えらい深みのある傑作なのではないかと期待してしまったのですが、少なくとも、タイトルのイメージとは、まるで違う話でした。


  グロースターシャーにある、スタンディッシュ大佐の屋敷で、離屋に住んでいたアメリカ人の男が殺され、ハドリー警部に依頼されたフェル博士が出向いて行くが、その屋敷には、他に、犯罪学の権威である主教と、その後を継ぐべく、犯罪学を学んだ息子、人気がある推理作家、地元の警部などが集まる事になり、寄ってたかって、事件を解決して行く話。

  何だか、事件の内容自体には何も触れない梗概になってしまいましたが、なんつーかそのー、事件の方は、全然、大した事はないのです。 謎と言えば、人物の入れ替わりが使われている程度。 他に、鍵の謎があるものの、「犯行に出かけている間に、なくした」などという、御都合主義としか言いようがない扱い方をしてあって、やっつけもいいところです。

  中心になって謎を解くのはフェル博士ですが、他の探偵もどきの連中が、妙に鬱陶しく、そいつらの推理が全て外れると言うのなら、まだしも、部分的に正しかったりするから、何だか、もやもやします。 彼らは、フェル博士の引き立て役として出て来ているのではないわけです。 解説を読んだところ、「探偵がいっぱい」というカテゴリーがある事を初めて知り、単に、それに属するだけだと分かりました。 馬鹿馬鹿しい。 映画の≪名探偵登場≫のように、コメディーなら、まだ分かりますが、シリアスな推理物で、そんな事をやるとは。 一体、何のメリットがあるのか、皆目、分かりません。

  フェル博士は、早々に、犯人が誰か、目星をつけてしまうのですが、それを証明する為に、罠を仕掛けて、犯人に、もう一度、殺人を試みさせるというのは、無茶もいいところ。 後で、やり方がまずかった事を、フェル博士自身に認めさせていますが、こんな危険な事をするのは、名探偵として、失格なのではないでしょうか? そういや、10年後の作品、≪死が二人をわかつまで≫でも、同じような事をやっていますが、反省がないですな、博士も、作者も。

  他に、気になったところというと、主教の息子が、フェル博士の指示を受けて、夜中に、問題人物を尾行する場面だけ、スパイ物風の描写になっていて、何だか、浮いてしまっています。 描写のばらつきは、他にも見られ、主教の息子が、大佐の娘に初めて会う場面など、観察が細か過ぎて、他から浮いており、「この娘は、犯人じゃないな」と、逆に見透かせてしまいます。

  相変わらず、カーの作品は、「バラバラ」という感じがしますねえ。 面白いと思ったのは、ロシア文学を貶す会話が出て来るところで、登場人物達に語らせているものの、これは、カーの本音でしょう。 たぶん、カーには、ロシア文学が、全く理解できなかったと思うのですよ。 それなのに、ロシア文学の方が、英米文学より、遥かに評価が高いから、憤慨してたんじゃないですかね? だけど、ヘミングウェイや、ブロンテ三姉妹が言うならともかく、推理作家のカーが、ロシア文学を扱き下ろしても、あまりにも、掛け離れ過ぎていて、「資格外批判」としか思えません。



≪嘲るものの座≫

ハヤカワ・ポケット・ミステリ・ブックス
江戸川乱歩監修・世界探偵小説全集
早川書房 1955年初版 1995年再版
ジョン・ディクスン・カー 著
早川節夫 訳

  原作は、1942年の発表。 もろ、第二次世界大戦の最中ですが、別に、戦時下の話ではなく、戦争の事についても、全く触れられていません。 フェル博士が探偵役の話としては、23作中、14作目。 ≪THE SEAT OF THE SCONEFUL≫は、イギリス向けタイトルで、アメリカ向けは、≪DEATH TURNS THE TABLE≫。 イギリス向けの方が、内容に相応しく、アメリカ向けの方は、殺人事件が起こる話なら、何にでもあってしまいそうです。

  「ハヤカワ・ポケット・ミステリ・ブックス」というのは、ハヤカワ文庫が出る前に出版されていた、新書サイズのペーパー・バック・シリーズで、この本は、90年代になってから、それを、復刻したもの。 訳も古いままで、「・・してしまった」が、「・・してしまつた」と書いてあったりします。 読み始めて、しばらくすれば、慣れるものの、いくら、復刻版だからと言って、そこまで忠実に再現する必要があるのかどうか・・・。 2段組みで、184ページ。 解説、あとがき、感想、なし。 その点は、良いと思います。


     死刑にするつもりがないのに、被告人に、それを匂わして、死の恐怖を与え、罪への反省を求めるという、絶対的な権威を弄ぶ傾向がある判事が、その娘の婚約者といざこざを起こしていたが、判事の家で、その婚約者が射殺死体となって発見される事件が起こり、判事、娘、婚約者の弁護士などが、容疑者となる中、判事の友人であるフェル博士が、解決に乗り出す話。

  手に汗握るような場面が少ないお陰で、カーの作品としては、全体のテンションのバランスが取れている方だと思います。 カーの作品で、そういう場面が出て来たら、それは、読者サービスのつもりで書き込んでいるのであって、事件の謎の核心とは、まず、関係ないと見做してもいいんじゃないでしょうか。 そういう見方は、皮肉が過ぎるかな。

  謎解きと犯人指名が、二段構えになっていて、最初の謎解きと犯人指名を読むと、あまりにも、唐突、且つ、不自然なので、「えー、そんなの、アリか? いくら、カーでも!」と思うのですが、単なる、ラストの余韻のような形で、第二の謎解きと犯人指名が行なわれると、「そうだろねー」と納得します。

  それにしても、まだ、甘いですなあ。 フェル博士は、警察官ではないので、こういう終わらせ方もできるわけですが、一緒に捜査に当たっていたグレアム警部は、いかに、証拠が足りなくても、このままでは済まさないでしょう。 それなら、犯人が自首するなり、自殺するなり、もっと、すっきりする結末をつけても良かったんじゃないでしょうか。

  気の毒なのは、娘の婚約者でして、明らかに、英米人の、イタリア人に対する偏見が入っていると思うのですが、派手な身なりだけで、ゴロツキと決めつけられて、虫ケラのように殺されてしまうのは、あまりにも、ひどい。 シャーロック・ホームズの頃から、そうですが、イタリア人の評判は、英米では、お世辞にも良くなかったようですな。



≪死の時計≫

ハヤカワ・ポケット・ミステリ・ブックス
江戸川乱歩監修・世界探偵小説全集
早川書房 1955年初版 1995年再版
ジョン・ディクスン・カー 著
喜多孝良 訳

  原作は、1935年の発表。 フェル博士が探偵役の話としては、23作中、5作目。 2段組で、324ページ。 私が読んだ、カー作品の中では、最も長いのではないかと思います。 大抵は、4日間くらいで、読み終わるのですが、これには、丸まる一週間、かかりました。 カーの作品は、中身はさておき、先へ先へと興味を引っ張って行く技だけは、秀でているのですが、これは、例外。 そういや、≪月明かりの闇≫も長かったですが、あれも、例外ですな。 長くなり過ぎると、ストーリーの語り方を見失ってしまうのかも知れません。


  ロンドンの街なかにある、有名な時計職人の家で、置時計の針で人が刺し殺される事件が起こり、たまたま、別の事情で、殺人計画を立てていた下宿人の男が疑われるが、たまたま、天窓から、その下宿人の部屋を覗いていた人物によって、彼が犯人でない事が証言される。 容疑は、時計職人の養女に向かい、彼女に不利な証拠が次々と発見されるものの、たまたま、事件発生直後に、現場にやって来ていたフェル博士は、頑なに、彼女が犯人である事を否定し、ハドリー警部の見解と、真っ向から対立する話。

  「たまたま」が、3回も出て来ますが、梗概だから、この程度に抑えたのであって、実際には、もっと多いです。 ありえないような偶然が重なっていて、フェル博士自身が、「ありえる偶然」と、「ありえない偶然」を見分ける事によって、真犯人の目星をつけるわけですが、作中で、「ありえる偶然」とされているものの中にも、常識的に考えれば、ありえないものが含まれれており、その最たるものが、フェル博士が、たまたま、殺人の直後に、現場にやって来る件りです。 ありえねーだろ、そんな都合のいい偶然。

  別に、事件が起こってから、フェル博士が呼ばれても、全然おかしくないと思うんですがねえ。 そういや、この作品の次に、フェル博士物として書かれる、≪三つの棺≫も、そんな出だしでした。 不自然である事に、作者が気づかないはずはないんですが、もしかしたら、マンネリ化していた探偵の登場の仕方に、変化を付ける為に、わざと、こんな風にしたんでしょうか?

  読むのに一週間もかかったのは、長いのも然る事ながら、ほとんどの場面が、部屋の中に座って、推理を戦わせているだけで、あまりにも動きが少な過ぎて、なかなか、興が乗らなかったのです。 まず、ハドリー警部が、時計職人の養女を犯人と睨んで、謎解きをするのですが、フェル博士が出ているのに、ハドリー警部の推理が正しいわけがなく、読者は、間違っていると分かりきっている推理に、長々と付き合わされる羽目になります。 何とも、馬鹿馬鹿しい事よ・・・。

  密室の変型トリックも出て来ますが、偶然が多く絡む為に、事件の謎が複雑になり過ぎて、トリックが霞んでしまっています。 カーは、トリックそのものよりも、謎の方を重視していたわけですが、枝葉が伸び過ぎて、あまりにもゴチャゴチャして来ると、フェル博士が、全ての謎を解いても、読者は、スッキリ感が、今一つ味わえません。 「たぶん、辻褄は合わせてあるんだろうけど、いちいち、読み直して確認するのも面倒臭いな」で、終わりにしてしまうのです。

  翻訳も悪く、フェル博士やハドリー警部が、老け過ぎ。 元は英語ですから、こんな、ヨボヨボに老いぼれた喋り方はさせていないはずなんですがねえ。 登場人物の自称ですが、フェル博士は、「わし」でもいいですが、ハドリー警部まで、「わし」にされてしまうと、どっちが喋っているのか、混乱してしまって、困ります。 ハドリー警部が、定年間近という設定なので、「定年→老人→わし」と、型に嵌めてしまったのでしょうが、別に、定年間近だって、「私」でいいと思うんですがねえ。 どうせ、原文では、みんな、「I」なんでしょう?

  まだ、問題があります。 「ハヤカワ・ポケット・ミステリ・ブックス」の復刻版で読んだんですが、誤植があまりにも多くて、驚きました。 昔、誤植だらけで出版したのを、そのまま、復刻したんでしょうか? 植字工も植字工なら、編集者も編集者で、どちらも、こんな、いい加減な仕事をしていて、平気でいたのであれば、さっさと転職した方が良かったと思います。



≪修道院殺人事件≫

ハヤカワ・ポケット・ミステリ・ブックス
江戸川乱歩監修・世界探偵小説全集
早川書房 1956年初版 1995年再版
カーター・ディクスン 著
長谷川修二 訳

  原作は、1934年の発表。 H.Mが探偵役の話としては、22作中、2作目です。 2段組で、250ページと、大した長さではないにも拘らず、読むのに、13日間もかかってしまいました。 その間に、庭木の手入れを一週間やっていて、疲労が激しく、夜更かしできなかったという事情もありますが、それにしても、ペーパー・バッグ一冊に、こんなにかかったのは、初めてです。

  サリー州にある、≪白い修道院≫という邸宅の離屋で、映画女優の死体が発見されるが、離屋の周囲に積もった雪には、第一発見者が入って行った足跡しか残っていなかった。 邸宅の主人であり、女優が出演する舞台劇の作者である歴史学者、その弟で、女優に惚れている男、女優をアメリカで売り出した映画監督、女優の宣伝担当者など、周囲の人物に疑いがかかるが、警察は足跡の謎を解く事ができず、たまたま事件に関っていた甥の為に、H.Mが乗り出して来る話。

  事件の中身の方は、密室物の変形でして、トリックと言うよりは、不可能犯罪に見える謎を解くのが眼目です。 もし、ルルーの≪黄色い部屋≫よりも前に発表されていたら、さぞや、世間をあっと驚かせただろうと思うような、面白いアイデアが使われています。 ところが、この本、とにかく、読み難い。 読みにく過ぎて、アイデアの良さが、まるで、活かされていません。 つまらん、つまらん、すぐに眠くなってしまって、一時に、10ページも進まない始末。

  同じ作者なのに、この作品だけ、特別つまらないというのも、おかしな話で、たぶん、訳の悪さが原因だと思います。 カーの作品は、大抵、ストーリーの流れはいいのですが、この訳では、それを阻害するくらい、文章がぶつ切れになっていて、作者が何を語りたいのかを、すぐに見失ってしまいます。 訳者の素性が分からないのですが、推理小説を読んでいないというか、小説そのものをあまり、読んでいない人なのではないでしょうか? 

  これも、訳者の問題ですが、1956年の初版なのに、戦前かと思うような漢字の使い方がされています。 「稍や」って、読めますか? 「やや」なんですがね。 「真逆」が、変な所に出て来るので、何かと思ったら、「まぎゃく」ではなく、「まさか」でした。 これは、当て字ではないの? また、「別棟」と書いて、「はなれ」と読ませていますが、それなら、最初だけでなく、全てに、ふり仮名をふってくれないと、「べつむね」と読んでしまいます。

  H.Mが使う、「乃公」も分からん。 最初だけ、「おれ」と、ふり仮名がふってありますが、これは、訳者が、そう読ませようとしていただけで、正しくは、「だいこう」と読むらしいです。 目下の者に対して、自分を呼ぶ時の言葉なのだとか。 知らんわ、そんなの。 「おれ」と読ませたくて、「俺」という字を使いたくないのなら、ひらがなで、「おれ」と書けばいいと思いますがね。 H.Mは、甥に対しては、「乃公」を使い、他の人間に対しては、「僕」を使っていて、ますます、混乱します。 どうせ、原文は全部、「I」なのですが。

  訳者も訳者ですが、これに、OKを出してしまった、編集者に呆れます。 初版された1956年なら、別に、何も言われなかったかもしれませんが、1995年に再販した時には、あまりの読み難さに、読者から、「なんだ、これは?」と苦情が来たんじゃないでしょうか。 ここまで、ひどいと、初版通りに復刻する意味より、カーの作品の価値を損なっているマイナスの方が大きいと思います。 別に、この訳者の訳が読みたくて、この本を選んだわけじゃないんだから。

  話の内容に戻りますが、捜査の過程で、H.Mが、犯人を確定する為に、罠を仕掛け、それが原因で、また、犠牲者が出ます。 これまでに、フェル博士物で、二作品、同じパターンのものを読みましたが、H.M物でも、やっていたんですな。 カーは、探偵役に、完璧を求めず、敢えて、ミスを犯させる事で、人間臭さを盛り込もうとしていたのかも知れません。 だけど、そのせいで、新たな死者が出るようでは、無能探偵の謗りを免れないのではないでしょうか?




≪メッキの神像≫

ハヤカワ・ポケット・ミステリ・ブックス
江戸川乱歩監修・世界ミステリシリーズ
早川書房 1959年初版 1995年再版
カーター・ディクスン 著
村崎敏郎 訳

  原作は、1942年の発表。 H.Mが探偵役の話としては、22作中、13作目です。 もろ、戦争中ですが、内容に、戦争に触れている箇所は、全くありません。 話が起きたのは、戦間期という設定なのかもしれませんが、それも断ってありません。 推理小説作家にとって、現実の戦争は、死を読者の日常に引き寄せてしまう点、鬱陶しいもので、敢えて、無視していたのかも。 終われば、因縁話のネタが大量に発生するから、役に立つんですがね。

  2段組で、224ページ。 文庫にしたら、どのくらいの長さになるのか分かりませんが、読んだ印象としては、短かく感じられました。 もっとも、これの前に、≪修道院殺人事件≫を読んでいて、読み難い文章に、さんざん、手こずらされたから、普通の文体に戻って、気楽に読み進められただけなのかも知れません。 会話が多かったのも、幸いしたか。


  有名な女優が建てた、中に小劇場もある屋敷を、女優の死後、買い取って住んでいた富豪が、ある晩、自分が所有しているエル・グレコの絵画を、自分で盗み出そうとして、何者かに襲われる事件が起こる。 前以て、その富豪から、盗難の恐れがあると通報されて、屋敷に泊まり込んでいた若い警部が、早速、捜査を始める一方、富豪の知人である、H.Mが乗り出して来て、その屋敷で行なわれる予定だった子供向けのショーで、来られなくなった奇術師の代役を務めつつ、富豪の意図を明らかにし、犯人をあぶり出し、事件全体の謎を解いて行く話。

  面白いです。 単に、読み易いだけでなく、話自体が面白いのです。 この頃になると、H.Mのキャラがしっかり固まって来て、かなり羽目を外させても、問題なく操れるようになっていたんじゃないでしょうか。 雪玉をぶつけられる登場の仕方も凝ってますし、奇術師と間違えられたまま、召し使いの部屋に案内されて行くのも笑えます。

  極めつけは、奇術師の代役を買って出るところで、富豪の娘達を俄かアシスタントに仕立てて、ショーをぶちかますなど、ノリにノリまくっています。 これ、戦時中に、よく、発表できましたねえ。 日本だったら、発禁間違いなしですな。 たぶん、当時の読者は、死と背中合わせの暗い時代に、この作品で、良い息抜きができた事でしょう。

  事件の中身は、一種のすり替わり物ですが、かなり、捻ってあって、読者側で犯人を推理するには、厳しいものがあります。 しかし、推理小説だからと言って、必ず、推理しながら読まなければいけないわけではなく、ただ、ゾクゾクする雰囲気を楽しむという読み方もあるわけで、この作品は、気楽に読み進めるだけで、十二分に堪能できます。

  原題の直訳は、「メッキの男」で、これは、「エル・ドラド伝説」の中に出て来る、太陽神の像の事を指しているのですが、ちょっと、驚くくらい、事件の内容と関係ないです。 どうも、カーは、作品のタイトルを、読者を惑わす道具の一つとして、利用していた感がありますな。 いや、別に、それが、ズルというわけではないですけど。




  今回は、以上、6冊までです。 2015年の11月下旬から、年末までの間に、読んだ分です。 この後、≪グラン・ギニョール≫と、≪エドマンド・ゴドフリー卿殺害事件≫を借りて来て、年越しするのですが、年明け後、自転車のレストアに取りかかったら、読書をするゆとりがなくなってしまい、≪グラン・ギニョール≫は、読み飛ばし、≪エドマンド・ゴドフリー卿殺害事件≫は、読まないまま返却してしまいます。 その二冊は、いつかまた、借りて、読み直すつもりでいます。

  この時点で、すでに、沼津の図書館にあるカー作品の、9割くらいを読んでしまっていて、隣の自治体である、三島の図書館には、もっとあるらしいという情報を仕入れます。 だけど、三島図書館には、もう何年も行っていなくて、貸し出しカードの期限も切れており、なかなか、行く気になりませんでした。

2016/07/10

カー連読①

  カーというのは、ジョン・ディクスン・カー、別名義、カーター・ディクスン氏の事で、アメリカ人だけど、イギリスに移住して、イギリスが舞台の推理小説を書いて、その筋では知らない人がいないというくらい、有名な人。 だけど、映像化作品が、極端に少ないせいで、一般人には、まったくと言っていいほど、知られていません。 

  映像化という点では、活躍時期が重なる、アガサ・クリスティー氏と、対照的な扱われ方ですが、原作のレベルとしては、全く負けていないと思います。 横溝正史さんが、戦時中に読んで、大いに嵌まり、「こんなのを、書きたい!」と思い立って、戦後、金田一耕助シリーズを書き始めたという曰く付き。

  私が知ったきっかけは、そもそも、去年の夏に、ちょっと閑を持て余して、手持ちの横溝作品を読み返していたら、≪本陣殺人事件≫の中に、カーの名が出て来て、「ほとんどの作品が、密室物か、その変形」と紹介されていたのに興味を持ったのですが、調べたら、沼津の図書館に、そこそこの数かあると分かったので、秋になってから、借りて来て、ボツボツ読み始めたという次第。

  だけど、最初の頃は、作風に慣れていないせいか、違和感が強くて、なかなか、カーの世界に入って行けませんでした。 というわけで、感想文は、辛辣な批判の嵐になっています。 カーのファンの方々は、読むと、怒髪天を衝きかねないので、厳に読まないで下さい。 ここから先は、一行も目をやっては行けません。

  こらこら! 読むなと言っているではないか! なぜ、年寄りの忠告を聞かんかなあ。 これだから、最近の若い者は・・・。




≪三つの棺≫ 〔新訳版〕

ハヤカワ・ミステリ文庫
早川書房 2014年
ジョン・ディクスン・カー 著
加賀山卓朗 訳

  ≪三つの棺≫は、カーの代表作の一つで、1935年の発表。 文庫で、386ページ。 1930年代頃になると、長編推理小説には、標準的な長さというのが決まって来るようで、クリスティーの長編も、大体、このくらいの長さです。 冒頭からしばらく、創作形容が多く、読み難いですが、先に進むと、ストーリーを語るのに忙しくなったのか、普通の形容ばかりになり、ぐっと読み易くなります。

  ちなみに、カーは、元はアメリカ人で、その後、イギリスに住んで、イギリスを舞台にした作品を多く書いた作家。 アメリカの文学界では、創作形容を、作家の文学的才能の証明だと思い込んでいる人が多いのですが、イギリスとアメリカの読者、双方に配慮して、こういう書き方をしていたのかも知れません。 私に言わせれば、小説家の創作形容など、論客の屁理屈と、大差ないと思うのですが。


  ロンドンに住むフランス人の、グリモー教授が、酒場で、奇術師を名乗る男から、襲撃の予告を受けた後、自宅の自室で、瀕死の状態で発見され、探偵一味(フェル博士、ハドリー警視、フェル博士の友人・ランポール)が駆けつけた時、今際の言葉を切れ切れに漏らし、その後、息絶えたが、襲撃の直後、教授宅から離れた通りで、教授を撃ったのと同じ拳銃で、奇術師が殺されているのが発見され、教授の自室は完全な密室、奇術師は、至近距離で撃たれているのに、周囲の雪の上には足跡がなく、実質的密室状態と、謎が渦巻く中、フェル博士達が捜査を進め、グリモー教授が、フランス人ではなく、ハンガリー人で、過去に、政治犯として弟二人と共に逮捕され、疫病を擬装して一旦埋葬されて、脱獄した過去があると分かり・・・、という話。

  うーむ、最低の梗概だな。 これだけ、読んだのでは、何が何やら、さっぱり分からん。 だけど、それは、私だけのせいではないです。 トリックの部分と、因縁話の部分が、必然的関係になくて、二つの内容を並行して書いているような、噛み合いの悪いストーリーになっているのです。 どういう事かと言いますと、同じトリックに、別の因縁話をつけても、成立するという事ですな。 「二人の人間に恨みを買っている、一人の人物で、家人が何人かいる」という、およそ、どこにでもありそうな条件さえ満たしていれば、何でも、オッケーです。

  トリックそのものは、作者が、読者に対して仕掛けているもので、一種の叙述トリックです。 ルルーの≪黄色い部屋≫も、そうでしたが、もしかしたら、密室物で、機械式トリックに頼らない話というのは、みんな、叙述トリックなんですかね? これから、しばらく、カーの作品を読みたいと思っている私としては、そうでない事を祈るばかりですが。

  本格推理物として、大変、評価が高いそうですが、その事自体が、推理小説界が、一般の文学とは、遠くに離れてしまった事を、証明していると思います。 一つの話になっていないなんて、小説として、評価外でしょう。 叙述トリックとして、確かに、よく出来ていて、気づいた時に、大抵の読者は、「あっ! そういう事なのか!」と驚くと思いますが、それはそれとして、小説としては、ギスギスに痩せ細っていて、叙述トリック以外の部分に、何の魅力も感じられません。

  これを、「最高傑作!」と褒め称え、これを手本にして、推理小説を書いていたら、そりゃ、おかしな方向へ進みますよ。 「トリック、トリック」で、頭の中が満杯になってしまって、もはや、「人間を描く」なんて事は、どこかへすっ飛んでしまっているんじゃないかと思います。



≪火刑法廷≫ 〔新訳版〕

ハヤカワ・ミステリ文庫
早川書房 2011年
ジョン・ディクスン・カー 著
加賀山卓朗 訳

  密室物の代表的推理作家、ディクスン・カーが、1937年に発表した長編小説です。 文庫で、370ページ。 ≪三つの棺≫より、僅かに短いですが、ほとんど、同じと言っていい長さです。 第二次世界大戦前ですから、まだ、作者はまだ、イギリスに住んでいたはずですが、この作品の舞台は、アメリカのペンシルバニア州にある、資産家の邸宅です。 ペンシルバニア州は、ニューヨーク州の南に隣接している州で、植民地としては、歴史がある方。

  アメリカが舞台でありながら、創作形容は、最小限に抑えられていて、積極的に探さなければ、見つからないくらい少ないです。 つまり、その分、≪三つの棺≫より、読み易いわけで、借りて来た時は、「大体、400ページと考えて、日当たり、100ページ読めば、4日で読み終わるな」と計算していたのが、2日目に、興が乗って、どんどん、ページが進み、3日目の朝には、読み終わってしまいました。 赤川次郎作品並みの、読み易さでした。


  1929年、ニューヨークの出版社に勤める編集者の男が、犯罪裁判物で有名な作家の未発表原稿を預かり、資料として添えられていた19世紀半ばの毒殺魔の女の写真が、自分の妻にそっくりである事に、愕然とさせられる。 その後、彼の別荘がある、ペンシルバニア州クリスペンに赴くと、近所の豪邸に住む友人から、先日病死した、その友人の伯父が、毒殺された疑いがあると聞かされ、証拠を探す為に、墓を暴く手伝いをする事になるが、完全に密封された墓所の棺の中に、遺体はなかった。 更に、その伯父が亡くなる直前に、19世紀半ばの身なりをした女が、毒入りのカップを持って、密室状態の伯父の部屋に入り、また、出て行ったという目撃証言があり、三つの謎が絡み合う話。

  密室トリックを二つ用意し、それに、70年前に処刑された女が、生き続けているという怪奇趣味で味付けした作品。 作品内で進行する時間が短い事もあり、どんどん話が進んで、否が応でも引き込まれ、最後まで、面白く、読まされてしまいます。 カーという人は、密室のアイデアだけでなく、語り方が巧みだから、高い評価を受けているんでしょう。 

  密室のアイデア、二つの内、墓所で遺体が消えた方は、登場人物の一人が嘘をついているというもので、さほど、驚かされません。 もう一つの、伯父の部屋に出現した女の方も、基本部分は、登場人物の一人の嘘が種になっていて、それに、鏡のトリックを重ねていますが、いずれも、驚くほどのアイデアではありません。 鏡は、≪三つの棺≫でも出て来たのですが、作者が好きだったんですかねえ。

  実質的主人公である、編集者の妻が、70年前の毒殺魔にそっくり、という方は、明らかに、無理やり、くっつけたもので、本体部分の犯罪とは、直接、関係していません。 この点は、推理小説ファンでも、気づいていない人が多いのではないかと思いますが、主人公の妻が出て来なくても、この話は成立するのです。 そもそも、後ろの方で、探偵役の作家が出て来なければ、主人公の妻の素性など、誰も知らなかったのですから、利用されたのは、偶然だったんですな。

  探偵役の作家は、非常に変わった人物で、「こんなキャラ設定では、シリーズ化には、耐えられないのでは?」と思うのですが、作者も、その辺は承知の上で出したようで、シリーズ化がありえないようなラストになっています。 だけど、探偵の能力の裏づけとしては、大変、説得力がある経歴を持つキャラでして、一回限りで使い切ってしまうのは、惜しいような気もします。


  総括しますと、「読み物としては、素晴らしく面白いが、細部を見ると、大したアイデアは使われていない」と言ったところでしょうか。 怪奇な雰囲気を味わうのが、目的であれば、一級作品と言えますが、眠る前に読むと、面白過ぎて、朝まで読み続けてしまいかねないので、注意が必要です。



≪死が二人をわかつまで≫

ハヤカワ・ミステリ文庫
早川書房 2005年
ジョン・ディクスン・カー 著
仁賀克雄 訳

  1944年に発表された、ディクスン・カーの長編推理小説。 文庫で、320ページ。 少し短いですな。 これは、イギリスが舞台で、探偵役は、ギデオン・フェル博士と、ハドリー警視のコンビが務めています。 それにしても、44年て、戦争の真っ最中じゃありませんか。 カーはブリストルに住んでいたらしいですが、戦災で家を焼かれたとの事。 アメリカに避難しなかったのは、大西洋を渡るのが、却って危険だったからなのか、イギリスに愛着があったのかは、分かりません。


  第二次世界大戦前、イギリスの田舎町で、町の人達が勧める女友達をふって、よそから移り住んで来た女と婚約した劇作家が、占い師と称して町に滞在している、内務省所属の犯罪学の権威から、婚約相手が札付きの毒殺魔であると教えられるが、その女の手口そのままに、その犯罪学の権威が、青酸を腕に注射して死ぬ事件が起こり、劇作家の婚約者と女友達の双方に疑いがかかる中、町の医師によって、フェル博士が呼ばれ、ハドリー警視の協力の下、犯人を誘き出す為の罠が仕掛けられる話。

  一応、密室物ですが、窓に弾孔があり、それを使った、機械的トリックが用いられるので、密室物としては、ありふれています。 それよりも、話の入り組み方の方が、読ませどころになっています。 後半で、ドンデン返しというのは、よくありますが、この話では、始まって間もないところに仕掛けられいて、呆気に取られてしまいます。 更に、フェル博士が登場した直後、もう一回、引っ繰り返されます。 つくづく、読者を煙に巻くのがうまい作家ですなあ。

  感心しないのは、フェル博士達が仕掛けた罠のせいで、犯人以外に犠牲者が出てしまう事でして、これは、推理小説の探偵としては、重大な過失でしょう。 金田一耕助は、事件に最初から関っているのに、連続殺人を止められない事で、無能探偵呼ばわりされていますが、こちらは、それ以上に問題です。 力が及ばなかったのではなく、明らかに、しくじったのですから。

  そこと、トリックがしょぼいところに目を瞑れば、充分、面白いです。 変な感想ですが、実際に、読んでみれば、分かります。 隠しようがない欠点があるのに、それと、面白さが共存しているのだから、不思議な小説ですなあ。


  作品とは関係ありませんが、巻末に付いている、某作家の文章が、最悪・・・。 解説ではなく、感想で、しかも、この作品の感想ではなく、カーの作品全般に対する感想です。 さんざん貶した後で、「そういうところがいい」という、無茶な誉め方をしているのですが、いいと思うなら、いいところだけ、書けばいいと思うのですがね。

  単なる個人的感想に過ぎず、わざわざ、巻末に載せるような文章とは思えません。 すでに、古典になっている作品の場合、無理に巻末文を付けなくても、本文だけでも、充分でしょうに。 著者について、知識・情報を与えてくれる解説なら歓迎ですが、個人の感想、しかも、貶している感想なんて、胸糞悪いだけです。



≪喉切り隊長≫

ハヤカワ・ミステリ文庫
早川書房 2002年 (初版 1982年)
ジョン・ディクスン・カー 著
島田三蔵 訳

  1955年に発表された、ディクスン・カーの、長編歴史ミステリー。 カーは、第二次大戦後、アメリカに戻るのですが、1950年以降は、主に、歴史ミステリーを書くようになって行ったらしいです。 「歴史ミステリー」というジャンルそのものが、ピンと来ませんが、歴史上の事件に絡めて、推理物の謎やトリックを盛り込んだ小説の事のようですな。 SFの一ジャンルに、「歴史こじつけ」というのがありますが、それの推理小説版だと考えればいいのでしょう。


  ナポレオンが皇帝になった直後、イギリス侵攻に備えて、20万人のフランス軍が終結するブーローニュ地方で、夜な夜な、兵士を刺殺する、「喉切り隊長」が出没し、フランス軍を恐慌に陥れる中、一週間以内に犯人を逮捕するよう、皇帝の命を受けた、警務大臣フーシェが、捕えていたイギリスのスパイ、アラン・ヘッバーンを、命の担保と引き換えに、事件の解決を命じて、現地に送り込むが、事件の背後には、大物の影がちらついていて・・・、という話。

  ナポレオンは当然ですが、フーシェも、実在の人物。 他に、外務大臣タレーランも出て来ますが、ちょっと顔を出すだけです。 主な登場人物である、アラン・ヘッバーン、その妻のマドレーヌ、フーシェの手先のイダ・ド・サンテルム、メルシェ大尉、シュナイダー中尉などは、架空の人物。 もちろん、「喉切り隊長」の事件そのものは、フィクションです。

  元々、子供向けの作品ではないですが、カーの文章は読み易いので、小学校高学年くらいなら、充分読めると思われ、フィクションだと知らずに、歴史上の事件だと思ってしまう恐れはあります。 後で赤っ恥を掻くのは、その子供であり、そこまで考えると、こういうジャンルは、かなり、罪がありますなあ。

  それはさておき、作品の中身ですが、お世辞にも、出来がいいとは言えません。 いわゆる歴史小説とは、全く違っていて、それに似せようという気もないらしく、強いて言えば、大デュマの小説に雰囲気が近いです。 政治あり、陰謀あり、恋あり、アクションありというわけ。 しかし、作品の出来は、とても、大デュマには及ばず、頭に来るくらい、バランスが悪いです。

  なんで、パリから、ブーローニュまでの、馬車の中での会話がこんなに長いのか・・・。 調査する前から、謎解きをしている有様で、この時点で、もう、ミステリーとしては、終わってしまいます。 後は、月並みな恋愛場面の後、これまた、異様に長い、アクション場面が続き、最後は、政治陰謀で締め括られます。 こう書くと、綺麗に並んでいるように見えるかも知れませんが、本来、これらの要素は、適度なバランスを取って、絡み合わせなければいけないものです。 長短不揃いに、ただ並べて、どうする?

  ナポレオン時代が舞台というと、私は、フランスかロシアの小説しか読んだ事がなかったので、イギリス側の立場で書かれている、この作品には、悪く言えば、違和感、良く言えば、新鮮さを感じました。 アメリカ人も出て来ますが、中立というよりは、やはり、イギリス寄りの役割を果たします。 この辺、作者の国籍・経歴が、素直に出ていますなあ。 イギリスは、ナポレオンとの戦いでは、直接、侵攻されていませんし、最終的に勝者になるわけで、それだけで、充分だろうと思うのですが、イギリス好きのアメリカ人であるカーにしてみれば、もっと、勝ち誇らなければ、気が済まないわけだ。

  一番、腹が立つのは、主人公と、シュナイダー中尉の対決を、テキトーにやっつけてある点です。 これだけ、期待させておいて、よく、こういう放り出し方ができるものです。 カーにしてみれば、「ちゃんと、冒頭に、伏線を張っておいただろう?」と言うでしょうが、読者というのは、伏線などより、本筋の方を追って読んでいるわけで、こういう書き方をされると、「してやられた」と、笑ったりせず、「人を馬鹿にしている」と、怒ってしまうのです。



≪読者よ欺かるるなかれ≫

ハヤカワ・ミステリ文庫
早川書房 2002年
カーター・ディクスン 著
宇野利泰 訳

  「カーター・ディクスン」というのは、ジョン・ディクスン・カーの別名でして、書いている人は同一人物です。 なんで、別名を使ったかというと、当時、一作家が一年間に発表できる作品数に制限があって、それを免れる為だったのだとか。 この作品は、1939年の発表。 文庫で、392ページ。 舞台は、イギリスで、探偵役は、ギデオン・フェル博士ではなく、H.M(ヘンリー・メリヴェール卿)です。 作者が違うのだから、探偵も違っていなければ、都合が悪いわけだ。 


  探偵小説も書いている、ある女性作家が、海外旅行先から、読心術師を連れ帰り、地方にある屋敷に知人達を招いて、その能力を披露させたところ、読心術師は、作家の夫が殺される事を予言し、実際に殺人が起こると、「自分が思念力を使って殺した」と告白する。 ありえない犯行に、警察が翻弄される中、屋敷に招かれていた医師の友人である、陸軍情報局総裁で、名探偵としても有名な、H.Mが、捜査に乗り出す話。

  推理小説なので、これ以上は、書けませんな。 超能力が絡んでいるわけですが、SFではなく、推理小説なのだという事が分かっていれば、自ずと、真偽の程は判断できるわけで、「一見、超能力を使ったとしか思えない犯行が、実際には、どんなからくりで、実行されたか」が、読みどころとなります。

  面白いんですが、どうも、作者に、煙に巻かれてしまったような感じがしますねえ。 推理小説は、そもそも、そういうものなのですが、カーの作品の場合、何か、記述に足りないところがあって、「してやられた」と、感服するより、「これは、ズルなのでは?」という、不快感の方が強いのです。

  辻褄が合っていないところもあります。 最初の犠牲者が出た理由は、読心術師の予言とは無関係の、単なる偶然なのですが、もし、その犠牲者が出なければ、その時点で、読心術師はインチキという事になり、彼の超能力を軸にして構成されている、この小説の設定は成立しなくなってしまいます。 自分の能力を否定されかねないような事を、この読心術師がやるとは、到底思えません。

  犯行の舞台になる家が、二軒出て来て、どちらも、同じ作家夫婦が住んでいます。 一方は、地方にある独立した屋敷。 もう一方は、ロンドンにある家で、作家夫婦は二階だけ使っていて、一階と三階には別の家族が住んでいます。 ところが、その二軒の関係について、説明がないので、後者の家が出てくると、「えっ? この家は、最初の屋敷とは違うの?」と、読んでいる方は、混乱してしまいます。

  読み返して、よくよく調べると、新聞記事の引用の部分に、最初に出て来る屋敷が、夫妻の「別邸」であると書いてあるのですが・・・、これ、普通に読んでいて、気づく人、いるのかなあ? 冒頭に出て来る、手紙の説明では、単に、夫妻の「邸」と書いてあって、最初に、そう書いてあったら、普通、そこだけが、夫妻の家だと思う方が、自然なのでは?

  犯人の、本当のターゲットが、終わりの方で、突然、出て来るのも、ズルいですなあ。「このターゲットは、いつから、ここに住んでいたのだ?」と、驚愕してしまいます。 もしかしたら、前の方のどこかに、その説明があるのかもしれませんが、あったとしても、見逃すほど、さらっと書いてあるに違いなく、もう、読み返して探す気力がありませんわ。

  解説に、「動機が全く書いていない」とあるのですが、「全く」というほどではなく、一応、両者の相関関係についての説明は入っています。 しかし、弱いのも事実で、「そういう相関なら、必ず憎んでいるはず」という、読者の常識に丸投げしているようなところがあります。 犯人と、真のターゲットが誰であるかを、読者に気取られない為に、そうしているのでしょうが、あまりにも、淡白過ぎて、書き漏らしのように感じられてしまいます。 もっとも、30分もかけて因縁話を語る、日本の2時間サスペンスに比べたら、こちらの方が、ずっと、マシですが。

  この作品ねえ。 やっぱり、あちこちが、不完全なんですよ。 だから、モヤモヤした読後感になるのです。 読心術師を出して、神秘的な雰囲気を盛り上げた、アイデアはいいと思うんですがねえ。 実際の殺人では、機械的トリックも使われるのですが、そちらは、驚くようなものではありません。

  H.Mは、フェル博士と、外見的にも、性格的にも、ほとんど、変わりがないように見受けられます。 というか、探偵役のキャラについて、詳しく書き込んでいないから、「肥満した巨体の、中高年イギリス人」という、共通した特徴が、ダブってしまうんですな。 カーにとって、大事なのは、トリックや謎の出来だけで、探偵役のキャラなんて、どうでもよかったのかも知れません。



≪月明かりの闇≫

ハヤカワ・ミステリ文庫
早川書房 2004年
ジョン・ディクスン・カー 著
田口俊樹 訳

  1967年の発表。 カーは、77年には、他界してしまいますから、晩年の作と言ってもいいです。 推理小説としては、これが、最後の一作になった模様。 この後のカーは、歴史ミステリーしか書かなくなります。 文庫で、491ページ。 日本語訳の副題に、「フェル博士 最後の事件」とあるだけあって、他の長編より、かなり、長いです。


  1965年、アメリカ大西洋岸、サウスカロライナ州チャールストン近くの、ジェイムズ島にある、地元の名士の邸宅に、主の友人や、娘の友人、娘の求婚者ら、10名ほどが招かれ、滞在している間に、主が殺される事件が起こり、彼の先祖が二人、同じように、頭部を一撃されて殺された事から、怪奇の香りが漂う中、たまたま、招待客の中にいた、フェル博士が、地元の警部と協力して、事件の背後にある、意外な人物相関を解き明かして行く話。

  正直な感想、無駄に長い小説で、うんざりしました。 つまらない言葉遊びを省けば、あと、50ページは短くできたはず。 特に、アシュクロフト警部の名前に関する、下賎なジョークは、聖書の知識のひけらかし以外の何ものでもなく、しつこくて、しつこくて、大いにムカつかされました。 これを、教養の証明だと思っているのなら、とてつもない勘違いです。

  アメリカ映画を見ても、他のアメリカの小説を読んでも、こんなにしつこい言葉遊びをしている場面に出会った事がないですから、この小説を書いた時期のカーだけが、嵌まっていたんでしょうなあ。 警部が激怒して、からかっている連中を殺さなかったのが、意外なくらいです。 せめて、一発、ヤンシー・ビールあたりの横っ面を、ぶっとばさせた方が良かったんじゃないでしょうか。

  トリックは、機械仕掛け的なもので、ありきたり。 というか、ちょっと、恥ずかしくなってしまうような仕掛けでして、名探偵に御出馬願うまでもなく、警察が捜査すれば、バレバレだと思います。 読ませどころは、人物相関が明らかになって行くところですが、それも、最後の謎解きで、集中して語られており、ダマになってしまっている感があります。

  なんで、こんなに、ダラダラと引き伸ばしたのかが、理解できません。 もしかしたら、出版社に、長さを決められて、ちょうどいいボリュームの話が思いつかなかったから、もっと短かった話を、水増ししたのかも。 しかし、この作品を書いた時のカーは、とうの昔に、世界的大家になっていまして、そんな、出版社の事情ごときで、振り回されたとも思えませんなあ。

  この作品は、カーの本格推理小説の最後の作品になるわけですが、なるほど、こうなってしまったら、もう、推理小説は書きたくなくなるかも知れません。




  今回は、以上、6冊までです。 2015年の10月下旬から、11月中旬くらいまでの間に、読んだ分です。 その後も、読み続けて、もう、40冊くらい読んでいるので、すっかり、カーの世界に慣れてしまい、今書いたら、感想の内容が、かなり変わると思うのですが、むしろ、慣れていない頃の感性で書いた感想の方が貴重かも知れぬと思って、そのまま出しました。

  前文でも、御注意申し上げたように、カーのファンの方々に読まれる事を前提に書いていませんから、「このやろ、殺すぞ! 何にも知らんくせに!」とか、目を剥いて怒るのは、やめてください。 というか、「読むな」と断ってあったのだから、もちろん、カーのファンの面々は、ここまで読んでいないわけだ。 読んでいないのなら、怒る事もないか。 要らぬ心配でしたな、わはははは!

2016/07/03

退院はしたものの

  入院していた父ですが、6月28日(火)に、何とか、退院しました。 22日間も病院にいたわけで、父も大変でしたが、毎日、自転車で見舞いに通った私と母や、毎週、車で見舞いに来た、兄と兄嫁も、大変でした。 以下、日記から移植しますが、前回に引き続き、父とは関係ない記述も、一緒に出します。 臨場感の為です。




≪2016/06/26 (日)≫
  前回の散髪から、4ヵ月経ったのですが、私の理髪師が入院しているので、やむなく、母にやってもらいました。 今の電動バリカンは、丸坊主にするなら、技能も経験も要らないので、頼める人がいれば、誰でもいいのです。 朝食の時に頼んだら、部屋を掃除する前にやってしまうというので、大急ぎで準備を整え、6時半から開始。 こんなに早い時間に散髪したのは、初めてです。

  母は、全く初めての経験で、最初はおっかなびっくりでしたが、どんなに強く当てても、絶対に傷がついたりしないと分かってからは、スイスイ進みました。 仕上がりは、初めてにしては、上々。 いくらか、長い髪が残ってしまったところもあったのですが、それは、父にやってもらっても同じでして、後で私が、鋏で整えればいい事です。 


  今日は日曜ですが、もう、急ぐ必要はないので、いつもと同じように、午後に病院へ行きました。 安全の為に、母とは、別々に走ります。 私の方が後から家を出ても、病院に到着するのは、大抵、早いです。

  父は、食堂にいました。 車椅子ではなく、普通の椅子に座っています。 点滴はもうしていないのですが、点滴の台車を、杖代わりにして歩いているとの話。 老眼鏡をかけていて、食堂に備え付けの雑誌をめくっていました。 ざっと見ているだけで、記事を読んでいるわけではないようです。 指をなめて、ページをめくっているので、「病院の雑誌は汚いから、やめな」と言ったのですが、やめません。 習慣が染み着いているんですな。

  ようよう、退屈を持て余す境地に至ったようで、「今日、帰してくれれば、こんな所にいなくて済んだのに」などと言います。 よく言うわ。 ついこないだまで、退院するつもりもなかったくせに。 「兄夫婦が、車二台で迎えに来るから、火曜まで待て」と言っておきました。 しかし、父にしてみれば、タクシー代を払ってでも、今日出てしまった方が、安く上がったかも知れません。 日曜だから、会計の方が困るのですが。

  下剤を、毎朝飲んでいるらしいのですが、便は、一昨日以来、出ていないとの事。 家に戻った後、自然排便が大丈夫なのか、少し心配です。

  まだ、来てから、5分もいないのに、母が、「元気そうだから、もう帰ろう」と言います。 母は、今日、スーパーの特売日で、買い物に寄るのが大事で、心ここにない様子。 私が、「いくら何でも、早すぎる」と言って、もう5分くらい粘り、それから、帰りました。 帰り際に、病室に寄り、そこに置いてあるチェック・シートを見たら、完食率は、昨夜の夕食が7割、今日の朝は9割、昼は5割でした。 しかし、もう、退院が決まっているから、どうでもよいです。

  帰りに、スーパーに寄り、老人用のオムツや、尿漏れシートなどを見ました。 父本人は、オムツは使わないつもりらしいので、参考までに調べただけ。 シートは、ペット用なら、半額くらいですが、尿の量が違うから、吸いきれない恐れがあります。 母が買った、米や、トイレット・ペーパーなどを積んで、先に帰りました。 今日も、暑かったです。 この地獄の見舞い行脚が、明日で終わるのが、とにかく、嬉しいです。

  今日の父の様子では、たぶん、帰って来たら、二階の自分の部屋に上がれると思います。 ひとまず、一階の旧居間で寝起きするようにしても、寝ていたのでは、体力が戻りませんから、結局、階段の上り下りの練習はするわけで、それなら、最初から、自室へ戻ってしまった方が、断然、住み心地がいいはず。 父は、入院前も、階下に下りて来るのは、一日に五回程度でしたから。

  家に戻ってすぐに、病院から電話があり、会計の概算が、65000円だと伝えて来ました。 22日も入院した割には、安いですが、これは、父が後期高齢者で、一割負担だからでしょう。 手術のような、金がかかる治療をしていない事も関係していると思います。 ただし、寝巻きや下着など、アメニティー類は、別勘定で、後で、請求が来るらしいです。

  ちなみに、私の場合、胆石の手術をした時には、15日間で、15万円。 岩手異動で、心臓を悪くして、検査入院した時には、9日間で、8万円くらいでした。 それに比べると、ずっと、安いでしょう?



≪2016/06/27 (月)≫
  天気予報が、明日から雨だと言うので、今日、布団を干しました。 正午前に取り込んでしまって、午後の見舞いに備えます。


  今日は、自転車による、最後の見舞いなので、カメラを持って行って、往路の各所と、病院の全景を撮影して来ました。 病院内は撮影禁止です。 明日はもう、退院ですから、父が帰りに着て来る服を持って行きました。 どうせ、兄の車で帰るから、めかしこむ必要はありません。 上は、ポロシャツ、下は、トレーナーのようなズボン。 他に下着類。

  今日の父は、病室のベッドに寝ていました。 着替えを見せて、これでいいかと訊いたら、良いとの事。 受け答えの感度は、まあまあでしたが、夢を見た直後らしく、「お寺が、61回忌の事について、文句を言って来て、何も書いてない卒塔婆をよこして、『こうなっちまうぞ!』と言った」などとと言ってました。

  61回忌って、誰の法事よ? 子供の頃に死んだ、叔父さん? まあ、どうせ、夢なんですけど。 心配しているようなので、「そんな、何十年もたった法事なんて、気にする事はない。 どうせ、坊主が儲けたくて、いい加減な事を言っているだけなんだから」と言っておきました。

  父は、仏の教えなんて、全く知らないんですが、祖先祭祀と在家仏教がごっちゃになっていて、寺関係の行事には、結構うるさいのです。 だけど、自分が動けなくなってしまったのでは、寺との関係も、見直さざるを得ますまい。 自分が長年続けて来た習慣だからと言って、何でも、子供に引き継がせられるわけではないという事が、最近、ようやく分かって来たようです。

  食事は、相変わらず、完食はしていないようですが、もう、退院が決まっているから、どうでもいいです。 まだ、お粥を食べているとの事。 朝は味噌汁が出ているらしいです。 リハビリは、午前中にやり、午後もやる予定だけれど、さすがに、明日はないのだとか。 そりゃそうですな。

  明日、病院の玄関まで歩けるか訊いたら、「家まではとても歩けない」という答え。 「兄貴が車で迎え来るから、歩くのは、玄関までだ」と言ったら、「なんだ、そういう事か」と納得していました。 「家に杖がある」と母が言うので、「持って来ようか?」と訊いたら、「持って来い」との返事。 なら、持って来ましょう。

  他に話す事もないので、30分くらいいて、帰りました。 やれやれ、これでもう、自転車でここまで来る事はありません。 連日の事で、疲れました・・・。


  母は、また、スーパーへ。 私は、街の方へ回って、銀行の用事を済ませ、その後、清水町の方まで、中古車を見に行きました。 三菱車が安くなっているかと思いきや、それほどでもない様子。 というか、相場がいくらか分からないから、安くなっているのかどうか、判断できないのです。

  初回登録から、13年過ぎているような車なら、30万円を切りますが、乗用軽だと、税金が、12800円になり、馬鹿になりません。 ボンバンなら、13年過ぎていても、6000円。 この差は、何なのだ? 13年過ぎてなくて、尚且つ、2015年より前に初回登録された車なら、乗用軽でも、税金は、7200円。 だけど、年式が新しい車は、車の値段が、50万を超してしまい、税金が少々安くなっても、元が取れません。

  父が、自転車に乗れるくらいまで、回復してくれれば、車なんて買わないで済むんですがねえ。 私ゃもう、契約とか、定期的な支払いとか、そういうのは、うんざりなんですわ。



≪2016/06/28 (火)≫
  父の退院日だと言うのに、朝から雨。 昼頃には、ポツポツ程度に弱まりましたが、それでも、明るい内は、ずっとやみませんでした。


  昼過ぎに、兄が車で迎えに来て、母と私が乗り込み、病院へ。 入院書類と保険証、診察券、他に、母が昔、中尊寺の土産に買って来た木の杖を持って行きました。 病院の玄関前で下ろしてもらい、母と上へ。 父は食堂にいて、服は、もう帰る為の物に着替えていました。 看護師さんに言われて、病室へ戻ります。 杖を渡しましたが、そんな物を使わなくても、かなり、危なげなく歩けるようです。

  病室で、靴下を穿き、靴に履き換えました。 私は、昨日、着替えを入れて持って来た指定袋に、荷物を片っ端から入れました。 髭剃り機、充電器、懐中電灯、眼鏡ケース、雑誌と新聞、カレンダー。 他に、病院側で用意した、蓋付きの青いコップ3つや、歯磨きセット、入れ歯ケースなど、父の名前が書き込まれた物は、全部持って帰ってよいというので、片っ端からブチ込みました。

  驚いた事に、看護師さんが、退院後、家で飲む薬を、ごそっと持って来ました。 そればかりか、一ヵ月後の、7月27日に、血液検査に来るようにとの事。 それまでの薬が、一ヵ月分出たわけです。 先週の土曜日には、薬も通院もないと聞いていたのに、そちらは、不確実な情報だったようですな。 どうも、この病院は、スタッフ間の連絡が宜しくない。

  「会計の者が来るから、病室で待つように」と言われて、後から、やって来た、兄嫁も加わって、五人で、ぼっと待ちました。 10分以上はかかったと思います。 ようやく、会計の人が、清算書を持ってやって来ました。 母が受け取り、「先に会計して来る」というので、保険証と診察券を渡そうとしたのですが、なぜか、「そんなの、要らないだろう」と言い張って、受け取りませんでした。

  母と兄は、会計に下り、兄嫁が荷物を持って、車を取りに行きました。 私が父について、エレベーターへ向かいましたが、支えるまでもなく、自分で歩いていました。 看護師さん達が、ナース・センターの前へ出て、5・6人で送ってくれました。 父は、「うまく喋れない」などと言っていた割には、自分でちゃんと、「お世話になりました」と挨拶していました。 私も、くどいくらい頭を下げて、病室のある階を後にしました。

  1階を通って、玄関から外に出たのは、父は初めてでしょう。 玄関の外のベンチに腰掛けて待っていたら、兄嫁の車が来ました。 軽のトール・ワゴンで、兄の車より背が高く、乗り込み易いので、そちらに父を乗せようという、兄夫婦の配慮なのです。 二台も出してもらって、実に申し訳ない。 父が助手席に、何とか乗り込むと、 兄嫁がベルトをしてやっていました。 私は、左後ろに乗ります。

  いつものコースで、家へ。 兄嫁は、来る時に道に迷ったとの事。 この人は、基本的に、ひっきりなしに喋る性質のようです。 当人が言い訳している通り、運転が荒っぽいのですが、これは、兄の運転の癖の影響ではないでしょうか。 車線変更の強引さが、そっくりです。 「ゆっくり、アクセルが踏めないんです」と言ってましたが、マジで、かなりのショックが来ます。 私の席からは見えませんでしたが、父も笑っていたらしいです。

  2時頃には、家に到着。 雨は、微微たるもの。 私が先に下りて、門扉と玄関を開け、荷物を下ろし、父に杖を渡し、玄関まで歩いてもらいました。 自力で靴を脱ぎ、廊下に上がりました。 段を上がれるという事は、そんなに衰えているわけではない証拠です。 とりあえず、台所の父の椅子に座らせましたが、すぐに母と兄が来て、母が促したので、父は、旧居間の布団に横になりました。

  旧居間のテレビを点けたら、父が、「入院中、一度もテレビを見なかった」と言いましたが、それは知っています。 父は、入院中、一円のお金も持っておらず、私が、「テレビを見るなら、カードを買って来るけど」と、何度か訊くたびに、「見ないから、いい」と答えるので、買わなかったのです。

  父が落ち着いたので、荷物を片付けました。 この時、母が、病院の会計で、診察券を再発行してもらっていた事がわかりました。 だから、一応、持って行けといったのに。 なんで、人の言う事を聞かないのか、気が知れません。 私が診察券を保険証と一緒に出した事にも気づいていなかったようです。

  薬を調べます。 兄嫁が言うには、ピロリ菌を殺す薬が入っているとの事。 兄嫁も飲んだ事があるらしいです。 よく、薬の形や色まで覚えているものです。  それにしても、よく喋る人だ。 兄が、ほとんど喋らない気持ちがよく分かる。 このテンションに対抗していたら、一日で燃え尽きてしまうでしょう。 薬は、朝食後が1錠、眠る前が3錠あります。

  母が兄夫婦にメロンや、菓子を出して、もてなしている間に、私は、裏から出て、兄嫁の車の大きさが、どの程度か見に行きました。 父の容態によっては、車を買わなければならないので、その参考にする為です。 軽ですが、やはり、現行規格は大きい。 母の二台目の車、ライフもそうだったのですが、背が高いと、尚更、大きく感じます。 カーポートの柱が邪魔で、幅の広い車を置けないという、馬鹿なジレンマが、実に恨めしい。

  3時頃には、兄夫婦が帰りました。 父は眠っていました。 22日ぶりに、変わった事をしたので、疲れたのでしょう。 もっとも、病院にいた時には、夜となく昼となく、眠り続けていたようですけど。


  夕飯は、しらす御飯、父は、おかゆ。 ほうれん草、シャウエッセン。 父の誕生日なのですが、特別なものは何もありません。 食後、父に、「歯磨きをするか」と訊いたら、「そこまで、病院の真似をしなくていい」との返事。 旧居間の布団だと、一人で立ち上がるのが難しくて、夜中にトイレに行けないので、やはり、二階の父の部屋に寝た方がいいだろうという事になりました。 私は、最初から、そうした方がいいと言っていたんですがね。

  私が後ろについて、階段を上がってもらいます。 少し、よたつきましが、何とか上がれました。 うちの階段は、元から手すりが付いているから、それに掴っていれば、危険はありません。 まだ、5時15分なので、座椅子をベッドの上に置き、座ってもらいます。 留守中に来た郵便物を説明。 さして重要な物は来ていません。

  母に、入院費の領収書を出してもらったところ、63120円でした。 父は、70歳以下ではないので、高額療養費限度額認定制度は使えません。 この他に、寝巻きや下着のレンタル代が、たぶん、2万円くらいになると思うのですが、それは、レンタル会社から、退院10日後に請求が来て、コンビニか郵便局で払い込むのだそうです。

  7時頃、また、父の部屋に行き、寝巻きに着替えてもらいました。 父が、「オムツは、洗えば、2・3回使えるのではないか?」などと言っていましたが、吸水シートなのに、そんな事ができるわけがありません。 それは、シュンのオムツで、経験済み。 着替えは、一人でできる模様。 座ってパンツをはくなど、器用なものです。 上半身は、長袖の下着だけで眠ると言います。 そちらも、入院前夜のように、腕を通す所を間違えるような事はなく、落ち着いていました。

  寝る前の薬を飲んでもらいます。 全て、錠剤。 ぬるま湯コップ8分目で、少しずつ飲んでいました。 入院中に一度やらかした、誤嚥を恐れているのでしょう。 しかし、夕食のお茶が、そのまま飲めて、ぬるま湯が飲めないはずがないです。 トロミ薬の残りはありますが、父自身も、使うつもりはないようです。

  座椅子を箪笥の上に戻し、布団を敷きましたが、これは、軽いから、父にもできそうです。 今夜から、パンツなので、念の為、シュン用に買って、残っていた、吸い取りシートを出して来たのですが、小さくて、3枚横に並べました。


  退院したこと自体は、良かったと思いますが、家で世話をしなければならない分、私と母の負担は増えたわけで、喜んでばかりはいられません。 父が、入院前の状態に戻ってくれればいいんですがねえ。



≪2016/06/29 (水)≫
  朝は雨が残っていましたが、9時頃には、上がりました。 父に頼まれて、銀行へ。 母が立て替えた入院費や、家に入れる月々のお金を下ろして来ました。 月の3分の2を家で暮らしていなくても、家に入れる金額は変わらないようです。 父と母の間で、そういう取り決めになっているのでしょう。

  母は、些か被害妄想的に、父の入院費を支払わなければならないと思っていたようですが、別に、父は母に扶養されているわけではないのですから、そりゃ、自分の入院費は、自分で払うでしょうよ。 もしかしたら、母は、入院費を払ってやって、父に対する支配欲や権勢欲を満足させたかったのかも知れません。


  今朝の未明に、目が覚めてしまい、本を読んだら、≪悪魔のひじの家≫を読み終わってしまいました。 読む物がなくなったので、午後一で、バイクを出し、三島図書館へ。 いつ降って来るか分からないような雰囲気でした。 三冊返して、カー(カーター・ディクスン)の、≪弓弦城殺人事件≫、≪九人と死で十人だ≫、≪貴婦人として死す≫を借りて来ました。


  父は、トイレは自力で行き、階段の上り下りも、問題なし。 だけど、入院前にしていた、朝飯の仕度や、茶碗洗い、布団の上げ下げは、まだ、やっていません。 とりあえず、夜中のトイレだけ、漏らす前に目覚めて、自分で行ってくれれば、世話がやけなくて済みます。 庭の水撒きも父が入院前にしていた事ですが、今日は雨で、必要なし。

  食べ物は、今朝から、普通の御飯を食べています。 入院中は、病院の食事を貶していたくせに、家の飯を食べても、別に、うまいとも何とも言いません。 張り合いのない事ですが、老人というのは、おしなべて、こういう、無感動なものなのです。 次のハードルは、風呂に一人では入れるかどうかですな。 階段を上れるのだから、浴槽に入る事もできると思うのですがね。



≪2016/06/30 (木)≫
  終日、雨か、雨寸前の状態。 家から出ませんでした。


  父は、家の仕事を一切していない以外は、入院前と同じような生活。 最後に便が出たのが、24日、先週の金曜日で、今日で6日目になります。 便秘体質なら、騒ぐような日数ではないのですが、父は、入院前は、毎日出ていた人なので、当人は、かなり気分が悪いと思います。

  今日は、庭で栽培しているアロエを食べていました。 「これを食べれば、確実に出る」と言っていましたが、一度、胃腸をおかしくしているから、どう転ぶか、心配です。 だけど、「食べるな」と止めるほど、私も、父の胃腸の具合に詳しいわけではないのです。



≪2016/07/01 (金)≫
  久しぶりに、晴れ。 そして、猛暑。

  父は、便通があったとの事。 下剤に頼っていても、出ているという事は、途中で停まっていないという事ですから、喜ぶべき事です。 腹の方は、まあいいとして、頭の方は、会話は通じるものの、またぞろ、夢と現実がごっちゃになっているような事を口にし始めました。 困った事です。

  そう言えば、父が病院で見た夢に出て来た、「お寺が、61回忌の事について、文句を言って来て、何も書いてない卒塔婆をよこして、『こうなっちまうぞ!』と言った」という件ですが、調べてみたら、61回忌などという法要は、存在しない事が分かりました。 普通は、33回忌までで、親が早死にしたとか、特殊なケースだけ、50回忌をやる場合があり、それ以降は、もう、個人の法要はしないのだそうです。

  一体、どーこから、61なんて数字を創りだしたものやら・・・? 「夢なら、何でもアリだろう」と思うでしょうが、問題は、父本人が、夢だと認めてくれない事です。 認知不全、恐るべし・・・。 ちなみに、うちでは、祖父母の法事は、33回忌まで、すでに終わっています。

  ところで、今日は、午前中に、自分でシャワーを浴びたとの事。 風呂場の低い椅子にも腰掛けられたそうで、結構な事です。 浴槽に入らなくても、体だけ洗っていれば、衛生的には充分です。 私も、もう、何十年も、そうしてますから。


  まだ、先の事ですが、7月28日に、入院していた病院へ、血液検査に行かなければならないので、バスで行く場合に備えて、乗り継ぎの停留所を調べて来ました。 一度、市街地まで行って、乗り換えなければ行けないのです。 指定された時間に行くには、バスの便が一本しかない事が分かりました。 厳しいなあ。

  乗り継ぎの合計運賃は、片道450円ですから、私も付き添って行くとしたら、バス代だけで、1800円も消える事になります。 それまでに、父が自転車に乗れるようになってくれればいいんですが、今現在の様子を見る限りでは、自転車に乗るなど、夢のまた夢という感じです。

  自分で、「衰え過ぎた」などと言っているから、妙に腹が立つ。 それが分かってるなら、自主リハビリするなり、自分で布団の上げ下ろしをするなり、努力すればいいのに。 子供が、病気になると優しくしてもらえるからと、仮病を使うのと、同じ心理なのではないでしょうか。




  日記はここまでです。 とりあえず、父の容態についての記事は、今回までにします。


  退院後の父の様子を見ると、入院前と比べて、歩き方が、より、ぎこちなくなり、とても、自転車に乗れるようになるような感じがしません。 私が車を買おうかとも思うのですが、父はもはや、病院以外に、出かける用事がなくて、定期通院しないのであれば、車を買うほどの事でもないような気がせんでもなし。

  一方、母について言えば、車は、ない方が、むしろ、健康に良いです。 自転車に乗れる間は、自転車を使っていた方が、心身ともに、衰えが進むのを防止できます。 だけど、母が、年齢相応に衰えている事は、息の荒さから見ても、明らかでして、「もう、買い物に行けない」と、いつ言い出しても、不思議ではないくらいです。 その時に備えて、車を買っておいた方が、転ばぬ先の杖になるとも思うのです。

  厄介なのは、車の置き場所なんですよ。 カー・ポートがあるんですが、幅が狭くて、車を置くと、人間が通り難くなります。 困った事に、その辺りが、母の園芸コーナーになっていまして、そこに車を置くとなれば、最初はともかく、その内、「邪魔だねえ」と言い出すに決まっているのです。 そういう人なのですよ。

  月極駐車場を借りてしまえば、母は何も言いませんが、月5千円として、年間6万円を払うのは、引退者の私としては、非常に厳しい。 とめようと思えば、家の敷地にとめられるのに、高いお金を出して、月極を借りるのは、理不尽千万ではありませんか。 園芸なんて、他でやりゃあいいんだよ。 カー・ポート以外にも、場所があるんだから。