2019/03/31

引退生活⑫ 【車について】

  引退生活の心得の、12回目です。 今回で、確実におしまい。 よかったよかった。 一時は、終わらせる目途が立たずに、どうなる事かと思った。 今回は、オマケのようなものです。




  専ら、地方在住者の場合に限られますが、引退後、車をどうするかが、結構大きな問題になります。 通勤に車を使っていた人が多いと思うのですが、引退後は、どうしたらいいのか? 通勤の用がなくなるのだから、即、処分してもいいわけで、車の運転が好きでない人や、事故の恐怖に怯えながら、やむなく、通勤に使っていたという人達は、そうしたくて、うずうずしているかも知れませんが、まあ、少し考えてからにしようじゃありませんか。


  家族が、全員、健康ならば、車がなくても、どうにかなります。 買い物は、自転車で間に合いますし、日帰りの小旅行も、自転車で充分です。 泊まりの旅行をしたい時には、公共交通機関を使えば宜しい。 冠婚葬祭は、車がないと、些か不便ですが、親戚に乗せてくれる人がいるのなら、頼むという手がありますし、年中、葬式や法事があるわけではないのですから、その時だけ、タクシーを頼んでも、車の維持費よりは、ずっと、安く上がるでしょう。 ちなみに、引退後、結婚式に出席するような事は、年齢的に、まず、ないです。

  先に引退した配偶者が、車を持っているなら、どちらか一台を処分するのは、容易にできると思います。 その際、車の大きさに違いがあれば、必ず、大きい方を処分し、小さい方を残すべきです。 小さい方が、軽ならば、もう、軽を残すに決定です。 これは、維持費の問題でして、四の五のゴネて、自分の大きな車を残したがるようなら、離婚も辞さずという覚悟で、説得する必要があります。

  車は、オモチャではないのであって、実用性が第一。 乗用の軽があれば、全ての用事を賄えます。 そこのところを、合理的に判断できないようでは、行く行く、老後破産に陥っても、致し方ありますまい。 実際、年間維持費が、5万円も違ってくるとなると、二人暮らしなら、二ヵ月分くらいの食費に相当するわけで、大きな車をもちたがる虚栄心など、顧慮するに値しません。 馬鹿馬鹿しい。

  そもそも、引退者の癖扱いて、車でカッコをつけようなどという考え方が、とんだ勘違いでして、さもしいにも程があろうと言うもの。 誰も、引退者が、どんな車に乗っているかなんて、気にしとらんわ。 逆に、そんな事を気にする奴がいたら、この下ないほど、つまらない俗物・下司野郎なのですから、そんなのが何をほざこうが、気にかける事はないです。

  夫婦二人とも、大きい車に乗っているという場合、二台とも処分してしまって、その売却代金で間に合う価格の中古軽を買うという手もあります。 「新生活だから」などと、張り切って、新車を買わないように。 大きい車を処分した代金では足りずに、何十万も足さなければならないようなら、大きい車を乗り続けているのと、出費に変わりがありません。 

  引退後に車を買う場合、年齢に関係なく、もう、最後の一台だと思って、よくよく考えて、選ぶべきです。 ワン・ボックスや、トール・ワゴン、ハイト・ワゴンは、車内空間が広いから、一見、便利そうですが、歳を取ると、高いシートに這い上がれなくなる事を考えると、あまり、薦められません。 結局、アルトや、ミラ・イースといった、ノーマル車高の車が、一番使い易いのでは?

  今でも、ボン・バンと言われる、軽貨物車が売っていて、税金が安い分、維持費も安いのですが、どんな状況を想定しても、二人以上乗らないと分かっているのならともかく、もしかしたら、後席に人を乗せる可能性があるというのなら、乗用にしておいた方が、無難。 ボン・バンでは、後席の足下が狭過ぎて、人を乗せるのは、無理があります。

  逆に、他人を乗せたくないと言うのなら、敢えて、ボン・バンにするという考え方もあります。 葬式・法事などで、親戚から、「乗せてくれ」と言われた時に、「いやあ、うちのは、二人しか乗れないから」と、言い訳が利くからです。 「後ろの席があるじゃないか」と、強引に乗って来る図々しい輩もいるかもしれませんが、一度乗れば、あまりの狭さに、二度と乗せてくれとは言ってこないでしょう。

  ちなみに、昨今のボン・バンは、5ドアなので、昔の3ドアに比べると、使い勝手が良いです。 後席が前よりにある事に変わりはないですが、後ろドアを開ければ、後席にも、荷物が積めますから。 3ドアのボン・バンは、後席に物を積もうと思ったら、前席の背凭れを倒さなければならず、大変、不便でした。


  「維持費の問題よりも、認知機能の低下で、事故を起こす事の方が気になる」という人もいるでしょう。 自分の限界を知っている方なわけで、尊敬に値すると思います。 しかし、警戒が過ぎて、あまり早々と、免許を返したりしない方がいいです。 車はやめても、免許は維持しておいた方が宜しい。 更新費用なんて、知れたものです。 後々、また乗らなければならなくなった時に、再取得なんて、とても、できませんから。

  どうしても、車が必要になるのが、病院の送迎でして、親でも、配偶者でも、家族に、その必要がある人が出て来るようになると、車なしでは、とてもとても・・・。 患者本人が、バスに乗れれば、まだいいのですが、一人で歩けないほど衰えていると、バス停までも行けません。 そのつど、タクシーを使っていたのでは、札に羽根が生えて飛んで行く思いぞします。

  で、結局、車を復活させざるを得なくなってしまうんですわ。 うちが、正にそれで、2012年の12月に、父の車を処分して以降、車のない生活をしていたのですが、2016年6月に、父が倒れてから、通院のタクシー代が嵩むのに耐えかねて、やむなく、私が、車を買いました。 19年落ちの中古軽で、本体8万円、車検を取り、諸経費込みで、16万円。 更に、任意保険やら補修やらで、総計20万円くらいかかりましたが、その後、父が他界し、あれやこれやで出番が多く、あっさり、元を取ってしまいました。 もし、タクシーを使っていたら、20万円くらい、すぐに消えていたと思います。

  それにつけても、惜しいと思うのは、 母の2台目の車だった、4代目ライフが、2009年まで、うちにあったのを、母が車をやめる時に、処分してしまった事です。 その時、父のコロナ・プレミオを処分して、ライフを残しておけば、新しく買う必要はなかったのに・・・。 父が、自分の車を残す事に拘ったばかりに、数十万、無駄な出費をしてしまいました。 もっとも、4代目ライフは、トール・ワゴンなので、シートが高く、父や母は、乗り下りし難かったと思いますけど。

  とにかく、まだ、認知機能の低下について、自覚がなく、家族からも、指摘された事がないという場合、免許は返さない方がいいです。 自分の車を処分しても、配偶者が車を続けているのなら、定期的に、運転させてもらって、勘が鈍らないようにしていれば、いずれ、必ず、役に立つ時が来ます。


  夫婦二人ではなく、子供が同居している場合、子供が通勤に車を使っているのだとしたら、その車は、家族の車としては、当てにならないので、もう一台、もっていてもいいと思います。 子供の勤めが休みの日にばかり、車を使う用事があるわけではないですから。 子供が通勤に使っていないのなら、借りればいいわけで、その一台で充分です。


  運転に関する事ですが、現役時代、ずっと、車で通勤していた人であっても、初心に返るつもりで、一から、自分の運転を見直した方がいいと思います。 通勤の場合、走る道は決まっていて、どんな事が起こるかも、大体、分かっているわけですが、他の道を走るようになると、その経験のほとんどが通用しません。 もはや、急ぐ必要はないのですから、とことん、法規を守る運転に切り替えた方がいいです。

  運転に自信がある人こそ、引退後は、運転方法を、リセットした方が宜しい。 人の命を奪うほど大きな事故を起こす人には、二種類あります。 一種類は、「普段から、小さな事故をたくさん起こしている人」。 もう一種類は、「小さな事故を起こした事がない人」です。 前者は、間抜け、後者は、抜け目のない人で、一見、真逆のようですが、自分の運転を疑った事がない自信家であるという点では共通しています。

  一方、大きな事故を起こさない人というのは、「小さな事故を、ごく少数回、起こしている人」です。 そのつど、反省し、おっかなびっくり運転しているから、大事故だけは避けられるという理屈です。 大きな事故を起こすか起こさないかの分かれ目は、自分の運転に対して、反省がない人と、反省がある人の違いと言ってもいいです。

  あまり、ビクビクしているのも、迷惑といえば迷惑ですが、遠くに黄色信号を見たら、思い切りアクセルを踏み込むとか、前の車の前方に車間があれば、追い抜いて、そこに入らなければ気が済まないといった、兇人タイプの運転者よりは、遥かに、マシです。 兇人タイプの運転者は、自信に満ち満ちており、自分を疑う事をしません。 逆に言えば、自分を疑う事を忘れなければ、兇人にならなくて済むわけだ。


  更に、歳をとり、認知機能の低下を自覚したり、家族から指摘されたりし始めたら、まだ、判断力が残っている内に、自分から、車をやめるべきです。 大事故を起こしてからでは、手遅れですから。 そういう事例は、枚挙に暇がなく、昨今、ニュース・ネタに事欠かない有様。 あれを見ていれば、「まっずいな~」と思うでしょう。 そう思えない人が、なんだかんだと屁理屈捏ねて、車に乗り続け、大事故を起こすわけです。 そうなる前に、車を処分して、免許を返してしまえば、少なくとも、加害者にはならないで済みます。


  もう一つ。 車を維持するにしても、若い頃とは目的が違うのですから、遠出は、やめた方がいいです。 高速道路なんて、以ての外。 「車があれば、どこでもいける」なんてーのは、20歳前後の若造の考え方でして、引退者が真似するような事ではありません。 自分が歳を取ったという自覚がないから、高速に入って、逆走とか、やらかすんですわ。 車は、遠出に使わなくても、街乗りだけでも、充分に、利用価値があります。


  もう一つ。 「引退後は、キャンピング・カーを買って、日本一周旅行を・・・」。 あ、あ、あ、それだけはやめてくれ。 最悪だ。 そういう事は、誰でも思いつくんですよ。 だけど、理性のある人なら、検討した結果、思い留まるんです。 お金がかかるとか、留守宅が心配とか、いろいろと問題があるから。

  それだけしか、やる事がなくなってしまうのも怖い。 一周では飽き足らず、二周目、三周目に出かける人もいるようですが、お遍路かいな。 一体、いつ、やめるのよ? 破産するまで、周り続けるんですか? 大方、キャンピング・カーにお金を投じ過ぎて、元を取ろうと思って、なかなか、やめられないのでしょうが、旅行自体が金食い虫なのですから、何十回周ったって、元なんかとれるわけがないです。 本末転倒も甚だしい。

  「キャンピング・カーで、日本一周」を実行している人達ですが、引退生活について、細部まで良く考える事をしなかったんでしょうなあ。 それは、引退後の生き方ではなく、単なる、ごまかしです。 どういう生活をするか考えるのが面倒臭いから、「なーに、キャンピング・カーで・・・」と、半年か、一年程度の期間分、引退生活を先送りしたわけだ。

  そんな放浪生活、いつまでも続けられるわけがないじゃありませんか。 本当の引退生活を始める前に、破産ですよ。 配偶者や子供に、どれだけ、迷惑をかけるか分かりません。 真面目に考えなきゃ、いつまでたっても、まともな引退者になれませんよ。 たとえ、仕事をしていなくても、生活は、遊びじゃないんだから。

2019/03/24

引退生活⑪ 【暇潰し「ボランティア活動/買い物」】

  引退生活の心得の、11回目です。 このシリーズ、主に、これから、引退生活を迎える人達や、すでに引退生活に入っているけれど、どうやって、日々を過ごしていいか分からないという、迷える子羊達向けに書いているのですが、そもそも、用意のいい人は、自分で、いろいろと想定して、準備しているでしょうし、そうでない人は、人の忠告なんか聞く耳もたずに生きて来た人が大半でしょうから、こんな事を書いても、あまり意味がないという気がしないでもなし。




  引退後、「やってもやらなくてもいいけれど、暇潰しにやる事」の続き。


【ボランティア活動】
  これをやろうと思っている人は、ようけ、おるでしょうなあ。 一度始めたら、「やらなくてはならない事」になって、おいそれとは足を抜けなくなると思います。 手を出す前、首を突っ込む前に、よく考えた方がいいです。

  大変、よくあるのが、小学生の通学時間に、横断歩道で、立ち番をするという、アレです。 あれねえ、根っから、子供好きの人なら、問題ないんですが、そうではないのに、単に、世間体の為とか、小学生の子供がいる若い奥さん方に感謝されたいとか、そういう、不純な動機でやろうとすると、まずい事になる場合があります。

  たとえば、よその子供が、目の前で車にはねられそうになった時、自分の身を犠牲にしても、助ける気があるかどうかですな。 助けられたのに、助けようとしなかった場合、当然の事ながら、批難されます。 「何の為に立っているんだ!」と罵られます。 公然と、役立たず呼ばわりされます。 その覚悟があって、やっているんですかね?

  不純な動機ではなく、義務感でやっているという人もいると思いますが、そういうタイプの人は、「奉行化」し易いです。 その横断歩道の支配者になってしまい、渡ろうとする人間を、自分の思った通りに動かさないと、気が済まなくなるんですな。 小学生は、言う事を聞くかもしれませんが、大人にまで、「停まって、停まって!」、「なんで、入って来るんだよー!」などと、えらそうに指図し始めると、もはや、喧嘩にならない保証はないです。

  そういえば、道路工事の整理係にも、そういうタイプがいますねえ。 交通を捌く全権限が自分に与えられていると思って、その場に、君臨してるの。 工事をしている業者には、全く頭が上がらない分、車や、歩行者、自転車に八つ当たりしているのだと思いますが、性格、悪いですなあ。 そんな人生には、何の価値もない。 むしろ、マイナス価値ぞある。

  話を戻しますが、子供の見守りは、別に、公に認められた仕事というわけではないですから、その「義務」は、自分で勝手に作り出したものであって、他人には通用しません。 本当に、義務だと思い込んでいる人は、試しに、しばらく、休んでみてはいかがか? 誰も、呼びに来たりしないと思いますよ。

  男性引退者の場合、「小学生の子供がいる若い奥さん方に感謝されたい」という、スケベー根性で、子供の見守りをやっている人は、結構いると思いますが、悪い事は言わないから、そーゆーのは、よしなさい。 いつまで経っても、仲良くなれなければ、不愉快なだけですし、仲良くなったらなったで、歳が離れているといっても、人妻ですから、悶着の元です。 亭主が怒鳴り込んできたら、どう対応するのよ?

  侘しい寂しい引退生活に耐え切れず、他人から優しくされたくて、優しいイメージがある、若い奥さん方に近づこうというのなら、そもそも、的外れです。 今現在、40代半ば以下の年齢の女性は、それより上の世代の女性と、育った社会環境に違いがありまして、「女性=優しい」という観念がありません。 子供の頃から、そういう考え方で、育てられていないのです。

  もちろん、彼女らには、他人に優しくする義務などないのであって、自分の人生とプラス方向の関わりがある相手にしか、愛想を見せません。 男性は、昔からそうですが、女性も、そうなったわけです。 そういう変化を見抜けずに、優しい反応を期待して、近づいて、馴れ馴れしくしたりすると、変質者扱いされるのがオチです。 世代が違う人間には、近づかないのが、無難ですな。


  どうも、脱線しておりますな。 ボランティアの話に戻しましょう。 身近なボランティアというと、子供の見守り以外に、公園の清掃活動があります。 運動にもなるから、もし、家の近くに、そういう所があれば、加わるのは、悪い事ではないと思います。 車やバイクで通勤してまで、やる事ではありませんけど。 また、家にやる事があるのに、ボランティア活動を優先させるような事は、感心しません。 一度始めると、義務感が芽生えてしまうのは、子供の見守りと同じでして、いつでもやめられる事を、常に肝に銘じておく必要があります。

  「人の役に立ちたいんだ!」という、熱い思いを抑えられない人ほど、要注意でして、「もしかしたら、これは、他人から望まれていないのでは?」、「逆に迷惑になっているのでは?」と、常に、自分を省みる必要があります。 「やってやってるんだから、感謝しろ」などという考え方は、言語道断でして、そんなつもりでいるのなら、即、やめた方がいいです。 ボランティアの意味が、全く分かっていない。


  災害ボランティアというのもありますが、近くならともかく、遠い場合、交通費や宿泊代で、家計が圧迫されるようなら、やめた方がいいです。 これも、義侠心的な義務感に捉われ易そうですなあ。 ボランティアは、義務とは、対極にある概念なんですが・・・。 「感謝してもらえるのが、心地よくて」という動機の人も多いと思いますが、そういう考え方は、いとも容易に、「援けてやるから、感謝しろ」に、切り替わりそうです。

  「駆けつけた距離が、遠ければ遠いほど、偉い」と思っているとか、「汗みずくでやっているのに、お茶の一杯も出ないのか」と感じた事があるとか、そういうタイプの人は、やめた方がいいです。 逆に、迷惑です。 家がグジャグジャになっている被災者が、お茶を出せないのは、当たり前。 飲みたきゃ、自分で持ってきな。 「何かと引き換えでなければ、骨折り損だ」と考えるタイプには、ボランティア活動そのものが向きません。


  引退者になると、自分の価値がなくなったように感じられて、その価値を取り戻す為に、ボランティア活動をダシにしようとする人が、大変、多い。 そういう考え方は、言動・行動の端々に表れて、すぐに、見透かされてしまいます。 「自分の評価を上げる為にやって、何が悪い」という開き直りもできますが、素直にそう白状する人は、まず、いないでしょう。 自分の為にやっているのに、人の為にやっているフリをしているのが、大変、醜いのです。

  「あ、人から誉められたくて、やっているな」と、自分で気づいたら、もう、やめた方がいいです。 やる前から、そう思っていたら、そもそも、始めないのが、賢明。 「やってやったから、金をよこせ」と言ったら、詐欺か恐喝ですが、それと、「やってやったから、感謝しろ」というのは、方向性は全く同じで、程度の差があるに過ぎません。



【買い物】
  以前、他の項目で、「お金を、極力、使うな」と書いたはずですが、基本的には、それが正しいとして、買い物をした方がいい場合もあります。 買い物には、「ハレ」の気分を作り出す効果があり、気が滅入っている時に、何かを買えば、パッと気分転換ができるのです。 それは、現役時代でも同じですが、引退すると、社会的身分が不安定になるとか、やる事がないとか、気が滅入る要因が増えるので、鬱病になりたくなかったら、リセットする方法を、心得ておかなければなりません。

  買い物の対象は、食料品や、生活必需品でも効果がありますが、趣味の品なら、もっと、効果が高いです。 100円ショップで売っている小さな置物を蒐集する趣味があれば、大変、理想的。 週に、1個買っても、年間、5200円+税にしかなりません。 それで、鬱病を避けられるなら、安いものじゃて。

  蒐集趣味があると、物が増えてしまいますが、物が小さければ、死んだ後、遺族が処分するにしても、割と始末がいいです。 値段が安ければ、捨てるのに、ためらいが少ないですし。 ちなみに、私が、父の遺品で、最も始末に困ったのは、植木と盆栽でした。 生き物は、いけませんわ。

  100円ショップでなくても、アマゾンで、欲しいカテゴリーの品を、安い順に並べると、送料無料で、恐ろしく安いものが出ている事が多いです。 海外発送の工具なんか、嘘のように安い。 届くまでに、2週間くらいかかるのが、また、宜しい。 誰でも、経験があると思いますが、注文した品が届くまでは、ウキウキした気分が続くからです。 届いた途端に、それが冷める。 なーんでもかんでも、早く届けばいいってもんじゃないんだわ。

  一方、あまり薦めないのは、普通の通販でして、テレビ通販でも、カタログ通販でも、結構、値段が高い。 そんなのを、毎週買っていたら、破産してしまいます。 単に、気分を明るくする為だけなら、値段が高い必要は、全くありません。 とにかく、欲しい物があって、それが買えれば、用は足りるのです。 いかに巧く、自分を騙して、明るい気分に持って行くかが、鍵ですな。




  とりあえず、「やってもやらなくてもいいけれど、暇潰しにやる事」は、こんなところでしょうか。 引退後の心得は、まだ、他にもあると思うのですが、もし、一週間以内に、何か思いついたら、次回は、それを書きます。 思いつかなかったら、このシリーズは、これでおしまいという事になります。

2019/03/17

引退生活⑩ 【暇潰し「読書/インターネット」】

  引退生活の心得の、10回目です。 とうとう、二桁の大台に乗ったか。 大台って、なんなんでしょうね? 大台ケ原とは関係ないんでしょうなあ。 もはや、前文にも、書く事がなくなって、投げやりになりつつありますな。




  引退後、「やってもやらなくてもいいけれど、暇潰しにやる事」の続き。


【読書】
  「読書は、暇潰しではなく、趣味なのではないか」と思う人もいると思いますが、読書家ならば、読書そのものを、趣味とは考えていないと思います。 読書家が、「趣味は何ですか?」と訊かれて、「読書です」と答える場合、それは、本当の趣味を知られるのが嫌であるとか、説明が面倒臭くて、テキトーにはぐらかしたいとか、そういう腹があるもの。

  読書というのは、本来、何かをする時に、その知識を得る為の手段です。 読書そのものが趣味である場合、読む本は、ほぼ、小説に限られて来ます。 そして、小説ばかり読んでいたら、それは、単なる暇潰しであろうというわけですな。 些か、強弁か・・・。 引退後は、何かの知識を得ようなどと、前向きな目的意識は薄くなってしまいがちで、「読んでも読まなくてもいいけど、暇潰しに、何か読むか」という方向に流れて行くものです。

  所詮、暇潰しですから、読書の習慣がない人達は、無理に読む事はないです。 頭は痛くなるわ、目は悪くなるわで、いい事なし。 もっとも、私が、そんな心配をする必要もなく、そもそも、読書習慣がない人は、引退後に、読書しようなんて、思いもしないでしょう。 学生時代に、読書習慣があった人が、働いている間、時間が取れなくて、読んでいなかったのが、引退後、また読み始めるというケースがあるかもしれませんが、そういう場合、読む本は、買わずに、図書館から借りて来た方がいいです。

  瑣末な事のようですが、本というのは、買って読んでいると、大変、お金がかかるものでして、今では、500円以下の文庫なんて、珍しいですし、単行本になれば、1200円以下というのは、これまた、珍しいと思います。 値段が高い割に、一冊、3日もあれば、読み終わってしまいますから、ゲームなどと比べると、コスト・パフォーマンスが、非常に悪い。

  だから、読書家は、基本的に、図書館で借りて読み、気に入ったものだけ、買うという事をやっています。 買い読みオンリーだと、出費が大きいだけでなく、家に、どんどん、本が溜まって、いずれ、床が抜けてしまいます。 これは、冗談ではなく、本当に、そういう事例があります。 私も若い頃、父から、「家が壊れるから、本を買い過ぎるな」と、真面目に言われて、それを守って生きて来ました。

  以前、新聞の投書欄で読んだのですが、「引退した夫が、読書を、引退後の趣味にする事に決めた。 ところが、新刊の本ばかり買って来て、次々に読む。 生活費がカツカツなのに、出費が大きくて、ほとほと困っている」という妻の嘆きが訴えられていました。 なるほど、それは、困った亭主だ。 なぜ、新刊書を買う事に拘るのか? それは、話題になっている本を、本棚に並べて、家族や、訪ねて来る人達に、自慢したいからでしょう。 「自分は、読書家で、教養溢れる知性的な人間である」、「世の中の流れに敏感で、ベスト・セラー本は、粗方、読んでいる」と。

  馬鹿な事を・・・。 たぶん、働いていた間、読書を停止していて、引退後に復活させたのだと思いますが、何十年も、読書から離れていたから、読書家が、世間で、どういう地位を占めているかが分からないのでしょう。 自慢する為に、本を読んでいる人間なんて、ごくごく僅かです。 読書家である事すら、他人に話さない人が多いです。

  家の本棚に、好きな作家の本だけ並んでいれば、普通の読書家だと思われますが、作者・著者がバラバラで、ベスト・セラー本ばかり、不揃いに並んでいたら、「何たる、俗物・・・」と、鼻を抓まれるのが、オチなのでは? そういう人と、話をしたくないなあ。 自慢どころか、逆に、馬鹿にされてしまうでしょう。 読書というのは、知識・教養を得るのが目的であっても、暇潰しが目的であっても、自分自身の為にするものであって、他人に自慢するものではないです。


  特殊な例はさておき、普通の読書家の人ですが、読書しない人に比べて、暇潰しの手段が、一つ多いわけで、その点、引退生活に、有利と言えば、有利です。 常に、何かしら借りて来ておいて、やる事がなくなったら、その本を読めばいいわけですから。 図書館に行き来するのも、いい暇潰しになります。 テレビ漬けになってしまっている人達に比べて、読書に逃げられるのは、大変な幸福だと思います。

  そういえば、図書館で、ラウンジや閲覧室に腰を据えて、本を読んでいる人達がいますが、あれは、似非読書家っぽいですねえ。 雑誌くらいなら、その場で、ちょっと目を通す事もありますが、本の場合、借りて、持ち帰って、家で読むのが普通です。 周囲に他人がいる所では、落ち着かないではありませんか。

  たぶん、自分が、読書家である事を、自慢したいんでしょう。 わざわざ、図書館まで足を運んで、そんなパフォーマンスを演じているとは、ほんとに、閑なんでしょうなあ。 「真・閑人」と呼ぶべきか。 だけど、本当の読書家は、自分が本を読んでいる事を、自慢なんかしませんよ。 むしろ、読書を、自分の人生に、うまく役立てられず、単なる暇潰しで読み続けている事を、恥じているくらいです。

  ちなみに、図書館のラウンジで、新聞を読んでいる人達は、読書家でないばかりか、似非読書家ですらなく、ただ、家に居場所がないだけの人達です。 夏は冷房、冬は暖房が利いているから、居心地がいいわけだ。 だけど、そんな所にしか居場所がないというのは、惨めな生活だと思いますぜ。 毎日、図書館に通うよりも、家の中の居場所を確保する方に、工夫を凝らした方が、いいんじゃないでしょうか。


  ところで、読書で暇潰しをする場合、目を悪くしないように、気をつけた方が良いです。 視力が資本ですから。 具体的な対処法としては、適度な照度を確保するとか、長時間、読み過ぎないようにするとか。 目の体操も、有効なのでは? やっているだけで、偽薬効果的に、視力の低下を防げるような気がします。 私もやっていますよ。 小学校で教わった事で、今も役に立っているのは、目の体操だけです。



【インターネット】
  今現在、これを読んでいる人は、ネットをやっているわけでして、釈迦に説法。 一方、これから始める人は、読めないのだから、そういう人達に向けて書くのは、おかしいのですが、もし、身近に、引退者がいて、閑を持て余しているようなら、インターネットを薦める材料にでもしてください。

  ネットは、暇潰しとしては、強いですなあ。 私も、一日に、2時間くらいは、やってますし。 もっとも、盛んにやっていた頃と比べると、3分の1以下くらいの時間になっています。 もう、18年にもなるので、新しく人づきあいを始めようという意思もなくなり、書き込み先は、2ヵ所だけ。 自分では、ブログを幾つか持っていて、その維持をしているだけ。 このブログも、その一つです。

  ブログの維持は、別に、「やらなければならない事」ではないのですが、一度始めて、定期更新を続けていると、擬似的に、「やらなければならない事」に近づいて来ます。 いつやめても、問題はないのですが、なかなか、やめる気にならないと・・・。 閲覧者が、一人でもいると、尚更、やめのるのが、ためらわれます。

  たとえ、擬似的であっても、「やらなければならない事」があると、生活にリズムが出来て、精神力を維持するのに寄与します。 これは、結構、大きな事でして、引退後、他人との接触が減り、世捨て人みたいな、荒んだ気持ちになりがちなのを、救ってくれます。 だけど、何度も繰り返しているように、人づきあいは、両刃の剣なので、則を越えないように、常に注意していなければなりません。


  とにかく、接続料金以外に、出費が発生するようなつきあいは、最初から避けておかねば。 オフ会なんて、以ての外で、そもそも、そういう事を言い出す人とは、距離を置いた方がいいです。 私が、未だに交流している人は、お二方とも、「近くに来た時には、お会いしましょう」といった事は、絶対に言い出さない人達で、だから、長く続いているのです。 ネット交流の相手は、現実世界の友人とは、似て非なるものでして、「会えば、もっと楽しくなる」というわけではありません。

  かつて華やかだった、個人サイトの掲示板が、雨後の筍の如く、膨大な数にまで増えた後、急激に崩壊して行った様は、カタストロフそのものでしたが、原因はいろいろと考えられるものの、大きな割合を占めていたと思われるのが、オフ会でして、ネット上で話をしている間は、勝手に想像を逞しくして、相手を、美女やイケメンだと思っていたのが、現物を見たら、ギョッとするような外見で、「あっ!」と驚き、アハ体験こそしたものの、一気に興味がなくなって、それっきりになったという例が、どれだけ多かった事か。

  そんなの、一生、会わなければ、なんでもない事なんですけどねえ。 頭が空っぽとか、品性下劣とか、危険思想の持ち主とか、そういう方面の問題があるならともかく、外見なんて、ネット交流に、全く関係ないのでは? どうして、それが、分からないのか、不思議です。 自分の本質を見て欲しい? いやあ、外見を曝すよりも、気の利いたコメントでも工夫していた方が、本質を見てもらえる事になると思いますよ。


  接続料金の問題ですが、もし、現役時代に、光でやっていたという方で、引退後、月に、4・5千円も払い続けるのは、懐的に厳しいという場合、モバイル端末に、SIMカードを入れるタイプにすれば、月々、千円以下になります。 ギガが少ないという制約はありますが、4・5千円と、千円以下では、差額があまりにも大きいので、一考の価値ありだと思います。 毎月、使えるお金が、3・4千円増えると思えば、どれだけ、リッチな気分になれるか、想像できようというもの。

  ちなみに、SIMカードなので、スマホに入れれば、データ通信のみのスマホとしても使えます。 私は、やってませんけど。 引退後、普段は、携帯・スマホを使わないけれど、旅行に行く時などには、あった方が便利という人なら、そのつど、SIMカードを入れ替えるのも、面倒とは思わないんじゃないでしょうか。

  ギガを使い尽くすと、通信速度が、ガクンと落ちますが、ネットができなくなるというわけではないです。 買い物とか、ヤフオクの入札とか、別に、問題なく、できます。 スピード・ダウンは、動画ばかり見ている人は別として、そうでなければ、さほど、大きな障碍ではないので、モバイルの方が、ずっと、得だと思います。

  もっとも、私は別に、引退後の為に、モバイルにしたわけではなく、岩手異動の時に、固定回線が使えなくなるから、それまでのフレッツ光を解約し、切り替えたのです。 ところが、岩手には、2ヵ月いただけで、勤めをやめて、引退してしまったので、結果オーライで、そのまま、モバイルを続けている次第。 フレッツは、ADSLと、光で、合計13年もやっていましたが、とっくの昔に、モバイルにすれば良かったと、未だに後悔しています。 ざっと計算しても、50万円は損したはず。




  こんなところですかねえ。 インターネットに関しては、以前、「趣味」の項目で書いた、ヤフオクでコレクションの他に、ネット通販で散財してしまう落とし穴がありますが、それは、また、別の項目で触れようと思っています。

  つまり、このシリーズ、今回もまた、終わらせられなかったわけですな。 もう、いいです。 気にしない事にしました。 どんなに長引いたとしても、いつかは終わるでしょう。

2019/03/10

引退生活⑨ 【暇潰し「昼寝/小旅行」】

  引退生活の心得の、9回目です。 さて、今回で終わるでしょうか。 自信がありません。 他のシリーズも溜まっているので、そちらにしてしまった方が、移植するだけだから、簡単なんですが、その為には、このシリーズを終わらせなければなりません。 全力を尽くします。 まあ、ドラマなんかで、医者や刑事が、「全力を尽くします」と言ったらそれは、自信がない時ですけど・・・。




  引退後、「やってもやらなくてもいいけれど、暇潰しにやる事」の続きです。


【昼寝】
  昼寝と聞くと、「ナメとんのか、雄鶏ゃ! そんな事、他人からレクチャーされんでも、誰でもできるわい!」と思うでしょうが、いや、別に、昼寝の仕方について語ろうというわけではないのですよ。 「昼寝は、程々にしておいた方がいい」と言いたいのです。 その理由は、一つだけ。 昼寝に精を出すと、夜、眠れなくなってしまうからです。

  うちの母が、正に、そうなんですが、昼間は、居間にいて、テレビの録画ばかり見ています。 韓ドラ、2時間サスペンス、旅番組で、95パーセントくらいを占め、たまに、1時間物の日本のドラマや、教養番組が挟まります。 しかし、正確に言うと、見ているのは、各番組の、ほんの一部過ぎず、ほとんどの時間は、居眠りしています。 まー、歳が歳だから、しょーがないといえば、しょーがないんですが。

  で、昼間、たっぷり眠ってしまっているせいで、夜が眠れないんですわ。 母の寝室のテレビでも、外付HDDに録画できるので、一晩中、テレビを点けっ放しで、寝たり覚めたりを繰り返している様子。 犬の睡眠が、ちょうど、そんなパターンでしたが、人間でも、犬みたいになれるんですなあ。 逆に考えると、犬でも、昼間ずっと、何かしら仕事をし続けていれば、夜は、何時間も続けて眠るようになるのかも知れません。

  ブツ切りで眠っても、続けて眠っても、睡眠時間が足りていれば、倒れてしまうような事はないですが、健康的とは言いかねます。 うちの母は、引退後、背丈が、5センチくらい、縮んでしまったのですが、もしかしたら、昼間、座椅子で眠っているのが、原因なのではないでしょうか。 本来、横になってする事を、座ってしているのですから、背骨に負担がかかってもおかしくありません。

  私も、昼寝はしますが、昼食後、せいぜい、1時間くらいです。 頭がすっきりすれば、すぐに起き出して、運動登山や買い物などに出かけます。 そのおかげで、夜は、10時頃から、朝6時頃まで、普通に眠れています。 「歳をとると、眠りが浅くなる」とは、よく言われる事ですが、歳のせいだけとは、言いかねます。 昼間から、ブツ切りで眠っているから、そうなるのであって、昼間、眠らない時間を確保しておけば、夜、ちゃんと、眠れるはずです。 


【小旅行】
  先だって、他の項目で、「旅行は、金がかかるから、控えるべし」と書きましたが、日帰りや、半日帰りの小旅行なら、さほどの出費にはならないから、お勧めです。 といっても、毎日なんて、とても無理。 週に一回でも、多過ぎる。 月に一度くらいが、いいペースでしょうか。 なぜかというと、一定の範囲内しか行けないので、ポンポン出かけていると、行き先がなくなってしまうからです。

  日帰りの場合、家を中心に、車なら、半径50キロくらい。 自転車なら、10キロくらい。 徒歩なら、5キロくらい。 そんなところが、行ける限界だと思いますが、週に一回のペースでは、すぐに、行ける所は行き尽くしてしまいます。 同じ所に、何度も行ってもなあ・・・。 私は、引退後も、2年間、バイクを維持していたのですが、夏場だけ、月に一度のツーリングでも、行き先を決められなくなって、四苦八苦していました。

  同じ日帰りでも、車で、高速道路を使えば、もっと、行動半径が広がりますが、それでは、出費が大きくなるのであって、もはや、小旅行とは言い難い。 お金を使わないのが、最低条件とすべきでしょう。 車のガソリン代も、馬鹿にできませんし。 昼飯だって、飲食店に入るなんて、とんでもない。 弁当、持って行きなさいよ。 どうせ、閑なんだから、握り飯くらい、用意できるでしょ。

  小旅行は、毎日の運動とは、また違って、気分転換する上で、大きな効果があります。 引退後、人づきあいが激減すると、気が滅入る事が多くなるので、時々、リフレッシュする必要が出てきます。 それには、初めての場所に行くのが、最も効果的なんですな。 別に、遠くである必要はないです。 初めての場所なら、どこであっても、同じ効果が期待できます。

  神社巡りなんてーのは、一番、オーソドックスなところで、地図を見れば、神社は、かなり小さな所でも出ていますから、一つ一つ、潰して行けば宜しい。 別に、誰かと競争しているとか、全神社制覇を目論んでいるとか、そういうわけではないのですから、「同じ方角だから、5・6ヵ所、回ろう」などと欲を張らず、一度に一ヵ所にしておくのが良いです。 なぜというに、早々と行き尽くすと、興味が失せてしまうからです。

  お寺は、人が住んでいますから、ちと、敷居が高いです。 墓地から入れば、さりげなく境内を抜けて、ごく自然に山門から出るという手も使えないではないですが、もし、誰何された場合、何と応えるか、言い訳を用意しておいた方がいいです。 不法侵入で訴えられるような事はないと思いますが、さりとて、歓迎されるわけでもありません。 基本的に、住職や、その家族は、檀家以外の人をもてなす理由はないです。 観光寺院なら、その限りではないですが、その場合、拝観料を取っているはずです。

  特に、宗教施設や景勝地でなくても、目的地があるだけで、小旅行は成り立ちます。 たとえば、駅巡りとか、市町村役場巡り、郵便局巡り、極端な事を言えば、交番巡り、老人憩いの家巡りなどでも、とにかく、目的地に到着しさえすれば、達成感は味わえます。 スーパー巡り、ホーム・センター巡り、ショッピング・モール巡りというのも、アリなわけですが、お店の場合、「来たついでだから」などと言って、不必要な物を買わないように。

  財布を持って行かない方がいいかも知れませんねえ。 「何かあったら、困るから」と用心するのもいいですが、持っていると、使ってしまいたくなるから、害の方が大きい。 自分の住所氏名を書いたカードを持ち歩くようにしていれば、出先で、倒れてしまったような場合でも、通りがかった人が、何とか、してくれるでしょう。

  出先で死んでしまったら、死んでしまったで、その時はその時ですな。 いいんですよ、どうせ、引退者だから、いつ、どこで、死んだって。 死の絶対性は、こんな時に、心強い味方です。 そういう場合に備えて、身なりを整えておくという人もいますが、いいんじゃないですか、靴下に穴が開いているとか、肌着が変色しているとか、その程度の事は。 なんてったって、死者なんだから、大目に見てもらえるでしょう。


  深く考えずに、「交番巡り」などと書いてしまいましたが、勿論、交番を訪ねて行けという意味ではありません。 「ああ、ここにあるのか」と分かれば、それで充分。 近づかずに、引き上げるべきでしょう。 引退すると、自由になる反面、身分が不安定になるので、人から怪しまれるような事は、進んで避けるのが肝要です。

  あと、細かい事ですが、どうせ、毎日が休みなのですから、観光地や商業施設など、人が大勢集まって来る所には、平日に行くようにして、土日・祝日は避けた方がいいです。 なぜというに、学生時代や、勤め人時代の知り合いが来ていて、「おう! 久しぶり! 今、何やってんの?」といった邂逅が発生し易い。 それを避ける為です。

  引退後、昔の知りあいに出会っても、ろくな事はないです。 ほんと、ろーくなこたーない! 挨拶くらいで、別れられればいいのですが、そうならず、近況を根掘り葉掘り訊かれ、挙句の果ては、「今度、一緒に飲もう」てな話になって、連絡先を半強制的に訊き出されるという、とんでもない展開になります。 住所を知られたが最後、「近くまで来たから」なんて、白々しい嘘をついて、家まで訪ねて来ますよ。

  中には、自分の方から出会いを求めて、わざと、人出が多い所に出かけて行く人もいるようですが、ほとほと、気が知れぬ。 現役時代に未練たらたらで、引退者としての自覚が出来ていないのでしょう。 喝ッ! 目を覚ませ! おのれは、もはや、勤め人ではないのじゃ! 昔の知りあいなんぞ、迷惑なだけと悟るべし!

  実際、老いらくのつきあいほど、始末が悪いものはない。 お金がないのに、閑ばかりあるものだから、しょっちゅう、一緒に出かけて行って、飯を食ったり、飲みに行ったり、料金が発生する所へ遊びに行ったり・・・。 そんな生活をしていたら、瞬く間に、破産してしまいますよ。 こういうケースを想像すれば、「老後破産」というのが、どこか遠くの他人事ではなく、容易に、自分にも起こり得る事だと分かるんじゃないでしょうか。

  「人づきあいこそが、人生だ」と思っている人もいるでしょうが、お金のゆとりがないんじゃ、そんな事も言ってられないでしょうが。 その歳で、破産したいのかい? 「友達と遊びに行き過ぎて、破産しました」なんて言ったって、生活保護なんか、もらえないよ~。 アホか。 「遊ぶ元気があるなら、働いて下さい」と、追い返されるのがオチです。




  あああ、また、長くなってしまったので、今回は、ここまでにします。 また、終わらせられなかったか。 一敗地に塗れる・・・。 天は我を見放した・・・。 それほどの事でもないか・・・。

2019/03/03

引退生活⑧ 【暇潰し「ゲーム/運動」】

  引退生活の心得の、8回目です。 今回こそは、終わりにしたい。 不退転の決意で、石に齧りついても、終わらせたい。 そう思っています。




  引退後、「やってもやらなくてもいいけれど、暇潰しにやる事」の続きです。 前回は、テレビについて書きました。 似たようなカテゴリーから、やっつけましょうか。


【ゲーム】
  もちろん、テレビ・ゲームの事です。 もはや、ゲームと言ったら、テレビ・ゲームに決まっており、「テレビ・ゲーム」という言葉は、死語になっているというのは、承知していますが、テレビ・ゲームそのものも、もはや、話題になるほどメジャーな娯楽ではなくなってしまっており、一周回って、言葉の意味が曖昧になっている恐れがあるので、念の為に、テレビ・ゲームの事である事を断った次第。 くどいか。

  私は、やっていませんが、現役時代から、ずっと、ゲームをやっているという人なら、それを暇潰しに利用しない手はないです。 ただし、やり過ぎると、いろいろと弊害が出てくるのは、学生時代や現役時代と、変わりありません。 なまじ、閑だから、時間的抑制が利かない。 テレビ同様、一日、何時間と決めてしまうべきでしょう。

  現役時代と違うのは、ゲーム中毒になって、仕事をしなくなり、破産してしまう、その恐れがないという事でしょうか。 だって、そもそも、引退者は、働いていないんだものね。 また、ゲームそのものの値段で、破産するような事はないと思います。 まあ、元々が、暇潰し用に開発されたようなアイテムだから、暇潰しには、最も適しているんでしょうなあ。

  ゲームは、おそらく、認知機能を維持するのにも、貢献すると思います。 ボケてたら、ゲームどころじゃないものねえ。 もしかすると、物心ついた時から、ゲームをやっている世代が、高齢者になる時代には、認知症という病気は、なくなっているかも知れませんなあ。

  いい事ばかりのようですが、注意点もあります。 やりすぎて、目を悪くしてしまわないように。 視力が低下すると、ゲームそのものもできなくなりますし、生活全般に支障が出て、要介護状態になるのが、早まってしまいます。 その為にも、一日当たりの時間制限が必要になるのです。



【運動】
  これは、健康の維持に関わって来ますから、「やらなければならない事」に入れてもいのですが、あまり、一生懸命になると、逆に、体を壊してしまう恐れもあるので、暇潰し程度に続けるのが良いと思います。

  最も基本的なのは、体操。 これは、家の中でもできるから、天気に関係なく、続けられます。 メニューは、何でも宜しい。 ラジオ体操でも、ヨガでも、太極拳でも、お好きなのをどうぞ。 自分の体で弱い部分を鍛えるだけでもいいです。 何もやらないというのが、最悪なのであって、「一日に、前後屈を、一回だけやる」というような、超ズボラでも、何もしないよりは、千倍、健康に良いと思います。 大いに、マジで。


  次は、散歩。 これも、引退後の運動としては、定番中の定番です。 何も、早朝に拘る必要はないのであって、一日のどの時間帯でも、都合のいい時に、近所を一時間くらい、歩いてくれば宜しい。 「え! 一時間も?」と、やる前から、うんざりするには及びません。 現役時代は、散歩なんかした事がないから、一時間と聞くと、長く感じられるのであって、実際に、散歩に出てみれば、一時間なんて、すぐに過ぎてしまいます。 だから、暇潰しには、とても、有効なのです。

  自転車でポタリングするのも、いいです。 そちらは、一時間あれば、かなりの半径を回れるでしょう。 自転車ブームを経ているお陰で、高齢者が、平日に、自転車でうろうろしていても、胡散臭い目で見られる事がなくなったのは、勿怪の幸いですな。 自転車は、何でもいいと思います。 家に使っていないのがあるなら、軽快車だろうが、折自だろうが、スポ自だろうが。 自分専用に買うなら、折自が良いと思います。 万が一、飽きてしまっても、しまうのに苦労しないから。

  散歩でも、ポタリングでも、交通事故には、気をつける必要があります。 歩行者・自転車なら、事故を起こさないというわけではなく、はねられたり、他の事故を誘引したりして、深刻な結果になる事もありますから。 とりあえず、道路交通法の、自転車・歩行者の条文を頭に入れておくべきですかねえ。 あと、加害者になってしまった時に、困らないように、自転車の保険に入っておくのもいいです。 歩行時の事故にも、対処できます。


  家の近くに、手頃な高さの山がある場合、運動登山も、お勧めです。 仕事をやめると、運動不足で、腹が出て来ますが、登山を、毎日、もしくは、一日おきでもやっていれば、自然と、引っ込んで来ます。 これは、私の実体験で証明済み。 ただし、前にも書いたように、「山の会」には、近づかない方がいいです。 他人との接触は、挨拶程度で十分。 親しくならなければ、誘って来ませんし、たとえ、誘われても、「いや、運動で来ているだけですから」と断れば、声を掛けられなくなります。

  一度、そういう会に加わってしまうと、必ず、「今度、みんなで、旅行に・・・」が出てきます。 もう、決まっています。 例外なし。 お金の問題もありますし、たとえ、そちらにゆとりがある人でも、引退後に出来た知り合いが、若い頃の友人とは、似て非なるにも甚だしい別物だという事を知って、精神的ショックを受けてしまう危険性があり、それが怖いです。 陰で、新入りの悪口を言いこましている奴とか、親しくなってから、詐欺を仕掛けてくる奴とか、とんでもないのが混じっていますから。

  私も、こんな事は書きたくないのですが、実際に、そういうのがいるから、書かざるを得ないのです。 優越意識が病的に強くて、本人的には全く悪気なしに、「他人というのは、顎で使っていいものだ」と思い込んでいる人間もいます。 子供の世界ですら、そういう奴は珍しくない。 まして、歳を取れば、尚の事、いないと思う方がおかしいです。 「みんな、いい人」だったら、警察、要りませんよ。

  そうそう。 平地でも、山でも、歩くのではなく、走る人というのがいますが、やめた方かいいです。 若い人間なら、いざ知らず、60歳過ぎた体が、走る事に耐えられるとは思えません。 極端な考え方ばかりする人というのは、必ずいて、「歩くのが健康に良いのなら、走れば、もっと健康に良いだろう」と、方向性はのそのままに、程度を極端化してしまうのですが、歩くのと、走るのとでは、体にかかる負担が違います。

  体というのは、適度に使えば、鍛えられますが、使い過ぎれば、壊れます。 わざわざ、努力して、壊していて、どうする? 走っていると、一番に壊れるのが、膝でしょう。 次が、股関節。 続いて、踝。 筋肉をどんなに鍛えても、関節がイカれたら、歩けなくなってしまいますよ。

  それで、要介護になったら、迷惑だよなー、家族は。 「だから、走るのはやめろって言ったのに・・・」と、恨めしそ~な顔で見るばかりでなく、腹の底では、「いっそ、走っている途中で、心臓が停まって、ポックリ行ってくれれば良かったのに・・・」と思っているでしょうねえ。 もっとも、極端な考え方をする人間というのは、自分が思いついた事は、絶対、正しいと信じ込んでいるから、体を壊す前に、周囲がやめろと言っても、全く、聞く耳持たないでしょうけど。


  運動は、他に、水泳や、ジム通いなどもありますが、お金がかかる事は、あまり、お勧めできません。 老後破産の落とし穴は、どこに待っているか分からないです。 一度始めてしまうと、つきあいが出来て、お金がなくなっても、やめられなくなるケースが多い。 消費者金融で借りて、プール通い・ジム通いを続けているという人もいると思いますが、問題外ですな。


  運動の纏めですが、何もしないよりは、ほんのちょっとでもやる方が、ずっと、良いです。 散歩なら、一時間が無理なら、30分でも、10分でも、極端な事を言えば、家から外に出て、1ブロックだけ歩いて、引き返して来るのでも、全く出ないよりは、マシ。 うーむ、やはり、運動は、「やらなければならない事」に入れるべきだろうか・・・。

  うちの、父や母を観察した経験から言う事ですが、ひとたび、運動をやらなくなると、んっま、とことん、何もやらないんだわ。 父なんか、犬が衰えて、犬の散歩に行かなくなったら、部屋に籠りっきり。 私が見かねて、「一緒に散歩に行こう」と言うと、「いいよ。 お前一人で行って来い」と抜かす始末。 私が一人で行って、どうするんだ。

  父は、一度入院してから、私の言う事をきくようになり、二人で、5・6回散歩に行きましたが、その内、家の中の階段で転んで、頭に怪我をし、外科への通院で、散歩どころではなくなりました。 で、その後、二度目の入院になって、それきり、生きて、外を歩く事はなくなりました。 自分の意思で、運動をしなくなったら、もう、終わりなのかもしれませんなあ。 母も、そうなりつつありますが・・・。

  運動を意識しなくても、買い物や、病院通いなど、ただ、出かけるだけでも、気分がリセットされて、少し、前向きな気持ちになれます。 引退後は、「ハレ」の場に出る事が激減し、鬱々と過ごす事が多くなるので、気分のリセットは、とても、重要になります。




  あー、疲れた。 まーた、長くなってしまったので、次回に続きます。 なーにが、不退転の決意だよ。 大袈裟な言葉を使いやがって、聞いて呆れる。 このシリーズ、永久に終わらないんじゃないだろうか? いや、次回こそは、終わらせます。 私の可能性に賭けて下さい。